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3年ぶりで思い出した2011年夏のリンチの血の味

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えげつないコメントが来ていますね。

ひさしぶりで2011年夏の「リンチの血の味」を思い出しました。

いやはや、この人たちは3年間なにをしてきたのでしょう。まったく成長していませんね。

どんなに詳細なデータを出しても振り向きもしないで、自分が気に入らないことだけ騒ぐ。

こちらが言ってもいないことも、歪曲して勝手にキレる。

もっとも3年前はこんなもんじゃなかった。「被曝」地でがんばっていますと書いただけで、「早くやめろ」「東電の犬」「東日本は既に終わっている」とまで言われましたからね(苦笑)。

大分減ったと思っていたのですが、「低線量で突然死」ですか・・・。そういうことを言う人に限って「移住の手伝いをしろ」なんて言い出すんですが。

「突然死」の死因はなんなんです?ソースはなんです。

そのテの情報は、ことごとく「○○という話だが政府・東電が秘匿している」という正体不明情報か、「○○だという」ネット伝聞か、「○○の可能性がある」という妄想です。

じゃあ逆に聞きたいもんです。40万人ガンになるっていうバズビーの予言はあたりましたかね?福島の野菜を食べた人は、武田邦彦が言うように死にましたかね?

「測定の結果安全ですという事にしたいので、その結果ありきの行動になる」ですか。現地が測ってもダメ、ただしなぜかこんなに高線量が出たとなると妄信するんですな、こういうタイプに限って。

かといって、政府機関が測ったのは信じられない、なにか情報隠ぺいしているだろうとケチをつけます。

ならばもう自分で測りに来なさいよ、と言いたいわけですが、そのテの人は反原発集会とやらで福島に行くことがあっても、測定などという地味なことはやりたがらないときています。

だから、せめて医者の低線量被曝脅威論者くらいは検診して回ったらいかがでしょうか、と書いただけで「不幸にも被害にあった方へ刃を向けるのはやめて下さい」とキレる。

あるいは自分たち内部のリスク情報だけしか勉強していないので、私が書いたようなことを読むと(読んじゃいないと思いますが)、どこかケチをつける箇所を探し出すのに必死です。

そして「ほらこのとおり。測定の基礎を知ってから、なんか言ってほしいよ」と揚げ足取りをして勝った気になっている。やれやれ、この論法なら百戦百勝ですよ(笑)。

これでは議論になるわけはありません。思えば、こんなことばかりだったのが、2011年夏でした。

2011年3月11日から4日間、私たちの地域は大停電になっていました。

かろうじて生き残ったラジオだけで、東北の惨状と、福島事故があったことを知りましたが、実はそのときには既に私たちの頭上を放射能雲が音もなく、目にも見えず通過していたのです。

それからのことは、多くの福島、茨城の農民たちの血を吐くような経験とまったく同じです。

市場に農産物を出しても突き返され、茨城と付くだけで見られるあの蔑んだような視線が突き刺さるようでした。

大量の牛乳は土に流され、卵は割られ、野菜はトラクターで踏みつぶされました。 何人かの農家が自殺しました。

行政は無力であり、無作為の上に無作為を重ねていきました。まるで、今だけ頭を出さなければ無事であるかのように。

私は、この土地に起きた事実を知るために農業者グループで放射能測定運動を始めました。その時の、村のなんとも言えない圧迫感を思い出します。

・・・余計なことをするな。変な数字が出たら村内に迷惑がかかるぞ。

この中で測定会をやることがどれだけ勇気が必要だったか。現地の測定なんか信じられないと言う人間には永遠にわからないでしょう。

このような村の空気とは別に、街では放射能パニックが起きていました。

これは当初は民主党政権の情報の出し方の失敗によるものでしたが、後には人為的で悪意に満ちたものに変わっていきます。

ある大学教授はテレビで、「福島の野菜を食べたら死ぬ」とまで言い、別の学者は「放射能で死ぬようなものを出荷する農家は作為のテロリストだ」と叫ぶのです。

そしてその煽動に乗った実に多くの消費者が、福島、茨城と名がつくだけで、手に触れただけで「放射能が染る」とまで忌避しました。

まるで「ピカの毒が染る」と被爆者を家から追い出した「はだしのゲン」の親戚のようです。

2011年夏、「被曝地」に生きて生産しようとするだけで、私達東日本の農民はパブリック・エネミー扱いされていたわけです。

私の唯一の武器であるこのブログにも、読むに堪えないコメントが大量に執拗に書き込まれるようになりました。

私がただ冷静になってほしい、風評に踊らされないでくれと書いただけて、「原子力村の犬」「東電からいくらもらった」とまで言われる始末です。

そうです、私たちは言論という名を借りたリンチにあっていたのです。

そしてそのような街の人々は、自らを「脱原発派市民」と名乗り、楽しげにサンバホイッスルを吹き鳴らしながら徒党を組んで首相官邸周辺を躍り狂っていました。

脱原発を言うなら、もっとも多大な被害を受けて苦しんでいるいる「被曝地」の人々、なかでも生活と生産共に破壊された農業者、漁業者たちと向き合わないでどうする、と思いました。

ところが彼らの一部は自らははるかに離れた安全地帯にいながら、「東日本は終わった」「お待たせしました。福島で奇形が出ました」「40万人がガンになる」と、むしろ嬉しげに叫ぶのです。

あたかも私たち「被爆地」の人間が、ガンや奇形を待つ実験動物であるかのようにです。

私は今でも、これらの言説を吐いた人間たちを許していません。たぶん一生許さないでしょう。

放射性瓦礫でもない陸前高田の松板を大文字焼きで焼くという善意の運動に、まさに「ピカが移る」とばかりに反対し、果ては震災被災地の瓦礫を「実力阻止する」と叫ぶ過激派も出る有り様です。

沖縄まで逃げた「自主避難者」の一部は、東北からの南国沖縄の子供たちへの雪の贈り物にすら唾しました。

あるいは、内部被曝が怖いと、計測限界値5ベクレルですらダメだと言い出しました。

そのような一部「消費者の声」に媚びるように、国の100ベクレル基準値引き下げはなんの役にもたたず、むしろ大手量販は勝手に自主基準値を50ベクレルに切り下げ、有機農業関係流通にいたってはさらに20ベクレルにまで落とす競争を始める始末です。

自然放射能を含みゼロなどということはありえないにもかかわらず、ゼロベクレルでないと承知しないと言うのです。

そして内部被曝は1ベクレルでもガンになると触れ回りました。

チェりノブイリ事故の後のベラルーシですら13年かけてやった基準値引き下げを、わずか1年間でやれと私たちに言う、その神経が私には理解できませんでした。

ある脱原発派を名乗る人間は私に向って、「あんたらが農業を止めるのがいちばんの復興支援だ」とまで言い放ちました。

言うまでもなく、このような人ばかりではないのはよく知っているつもりです。

多くの脱原発を支持する良識的な人たちが福島に心を寄せて、地道な支援を続けているのは十分承知しています。

しかし総体としてみれば、「声の大きい少数派」が運動を牛耳っているように私には見えました。

そういえば、その頃から、脱原発運動に左翼政党と過激派が公然と姿を現すようになります。

私は、それ以来、私自身も原子力を人一倍呪いつつも、この人たちとは一緒になにかできることはないと思うようになっていました。

私たちをリンチにかけたような人間たちとなにか一緒にできるはずがありませんからね。

この人たちがやっているのは、脱原発に姿を借りた「被曝地」差別運動、あるいは単なる反政府運動にすぎません。

その中で、ひとりの農業者としていままでやってきたあたりまえの営為である「耕やす」ということが、科学的にも最善の放射性物質対策だと分かってきました。

土は放射性物質を吸着し、封じ込める力を持っているのです。

そんなことは当時誰も言っていなかったし、N先生などのごく一部の研究者が実際の福島の田畑を計測する中で唱え始めていたことです。

耕すことが、農業者にとっての放射能との最大の戦いになるということがわかってから、私は必要以上に恐怖するのを止めました。

そうなんだ、特別のことをするのではなく、今までやってきたことをしっかりと見つめて、変えるべき点は変えていくこと、それがこの最悪の時期に大事なんだと気がつきました。

それ以来、私は、一般の脱原発の流行の論説を検証し、納得がいくまで自分で考えてみようと思うようになりました。

今私は私なりの原子力からの離脱への方途を探っています。

あ、そうそうもう私は自分を「脱原発派」と称するのは止めました。あのような人たちと一緒にされるだけで苦痛ですから。

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コメント

しかしキクマコのような体制派の科学者がニセ科学を批判するときも事程左様に「嬉しげ」なわけで。

投稿: kiya2015 | 2014年5月27日 (火) 10時12分


トンデモを放っておくとお前みたいなのが増えるからな。あれが「嬉しげ」に見えるとはおめでたいことで。

投稿: | 2014年5月27日 (火) 12時27分

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