2014-05-27

レイシストは殺してもいい」という空気について

先週、舞の海氏が排外主義発言をしたというニュースが流れた。

"昭和天皇万歳”集会で――舞の海氏が排外発言

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140522-00010000-kinyobi-soci

結論から言うとこれはほとんどデマで、週刊金曜日記者が発言を切り貼りして「舞の海排外主義者」という文脈をでっち上げたというのが真相だった。

はてブを見る限り週刊金曜日に釣られて吹き上がったあと、反省の弁を述べている人が多い。そっと消さずに反省を述べられる時点で、大人だと思うが、未だにデマだと気づいてなさそうな人も多い。誰か教えてあげた方がいい。

http://b.hatena.ne.jp/entry/zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140522-00010000-kinyobi-soci

今回の件で気になるのが「レイシスト死んでよし」みたいな空気だ。いや、死んでよしは言いすぎか。だが「レイシストはバカでクズから何を言ってもいいだろう」みたいな空気は感じる。

ちょっとここからはかなりデリケートなことを書く。特に次の段落デリケートなので、注意して読んでいただければ。怒る方もいるだろうし、きちんと意図が伝わらない人も大勢いるかもしれないが、とりあえず書いてみる。

何が気になるのかというと、これって彼らが嫌ってるネトウヨ論理展開が似ているかなのだ。「三国人はバカでクズから何を言ってもいいだろう」と「レイシストはバカでクズから何を言ってもいいだろう」は、思想信条自体に優劣はあるかもしれないが、論理展開のレベルで合わせ鏡のように見える。

もちろん、民族差別することと、民族差別糾弾することが等しいとは言わない。「思想信条自体に優劣はあるかもしれないが」とはそういう意味だ。上記の議論はこれは前提としているとご理解いただきたい。ここは大事なので念を押して言うが、民族差別することと、民族差別糾弾することが等しいとは言っていない。あくまで論理展開が似ているということだ。

論理展開が似ている」どういうことか。それは「相手を悪魔化し、糾弾する」ということだ。「三国人orレイシスト悪魔」というレッテルを貼り、きちんと思考や体温を持った人間として扱わないということだ。糾弾する相手にも相手なりの言い分があって、そこに至るまでの知識や考えの蓄積があるはずなのに、「相手はバカだから言い分を聞く必要はない」「偏った知識ばかり入れてるだろうからバックボーン知る必要はない」と、そこで対話の門戸を閉じてしまうということだ。

もちろん我々は全ての人間と正面切って対話をすることはできない。発言・行動・交友関係の上澄みだけを見て「こいつはこういう人間」とラベリングするのは、誰でも日常的にやっていることだ。だが、それを意識してやっているのか、無意識のうちにやっているのか、それは自覚したほうがいいんじゃないかなと、ブコメに並ぶ攻撃や揶揄を見て思った。「人間でないもの」に対して我々人間は、無自覚にどこまでも残酷になってしまうからだ。

再三の繰り返しになるが、この文章は、民族差別がいいと言ってるわけでも、レイシスト糾弾するなといっているわけでも、ない。「自分が誰にどういうラベルを貼る人間なのか」を自覚し、「ラベルを貼ってはいものの、このラベルは便宜的なもので、本当は相手はもっと複雑な精神世界を持った人間なのだ」と自分に言い続けること。それが「怪物と戦う者」が「自らも怪物にならないため」に、結構大事ことなんじゃないかな。それが言いたいことなのだが、ちょっと複雑なので伝わるかは自信がない(匿名ダイアリーで書いたのはそういう理由による)。

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