つれづれ日本史





第121回 武士の作法

 「士農工商」が近世の身分制度であるというのは小学生位なら誰でも知っているが、授業ではもう一歩突っ込んだ説明が欲しい。武士は封建社会の頂点に立っていたことから、その歩き方まで厳格に決められていた。例えば、角を曲がる場合、直角に曲がり、路上は水たまりがあっても決してそれを避けて歩いてはならず、真っ直ぐ歩くべきとされた。そして雨が途中で降ってきても、走ってはならず悠々と歩かなければならなかったのである。

 武士は大小の二本を腰にさしていた分、右側に体重をかけながら歩いていたが、明治の廃刀令が出された直後、右側に体重をかけるそれまでの癖のある歩き方でなかなか真っ直ぐ歩けなかったというウソみたいな話がある。

 又、武士の特権として「切捨御免」が取り上げられるが、無礼を働いた者に切り損ねて逃げられてしまった場合、逆に武士の方が、家禄没収などの処分を受けたので、実際にはこの特権はほとんど行使されることがなかった。



第120回 熊さん・八っつあんのウンコ

 落語に登場する熊さん、八つあん。彼らは長屋の住人で、魚屋や日雇い人夫、大工、職人、行商など職業は実に雑多であった。税が安かった分、町政への参加は出来ず、自分のうんこさえ、地主や家持ちのものであった。うんこは、当時の農業の大切な有機肥料としてお金で取り引きされたていたが、授業では「次の身分のうち−商人・武士・町人、最も高価なうんこをしていたのはどれか」と毎年、発問をしている。

 大体、生徒は商人か、武士をあげるのだが、答は町人。一番、貧しい階層のように思うのだが、実は「宵越しの金は持たねえ」という江戸っ子の気風で、多少高くても「初物」には目がなかった。つまり、明日の仕入れの代金だけを残してあとはすっぱり食い物に金を使い、結構いいものを食べていたのである。商人は本来食費に金を使わず、大半の武士は貧乏であった。

 人間が1日に出す糞尿は平均すると約1.2リットル。100万人の1年間の糞尿は43万8千Kリットル。平安時代以来、肥料の主役は刈敷と呼ばれるものであったが、これは春先に若草や若芽を刈り取ってきて田畑にすきこんで使った。1反あたり、200〜300貫も使い、近世初頭の新田開発で刈敷は全国的に不足しがちであった。そこで、下肥(人糞尿)が脚光を浴びることになり、初めのうちは江戸近郊の農民が野菜と交換して入手していたが、次第に現金で買い取っていったのである。



第119回 火罪・磔・敲

 火罪では、一人の行刑に薪二百把、茅七百把用いられたが、罪人が死んだ頃を見計らって茅を4・5把ずつ手に持ち火をつけて左右から一方は鼻、一方は陰嚢を焼いてとどめをさした。これを「とどめ焚」と呼んだ。焚骸をそのままにして三日二夜晒しておくことは獄門と同じであった。

 又、磔では、非人が左右に分かれ囚人の眼前で槍先を交え(見せ槍)、「アリャリャ」と声をかけて見せ槍を引き、直ちに科人の左脇腹から肩先に槍の穂先を一尺余り突き出し、一つひねって槍を抜いた。これは血が槍の柄に伝わらぬ為の工夫であった。以後、左右から20〜30本突き、非人達は突く毎に藁で血を拭った。磔では大量の血と共に臓腑から食べ物までほとばしりどのような剛胆な者であっても顔色を変えない者はいなかった。最後に咽喉に左右から「止めの槍」を突いて終わった。晒はこのままで三日二夜行われた。

 敲では、打たれる時に大きな声を上げて泣き叫ぶと打役は自然に軽く打つようになり、黙っている者程、強く打つ気味があるので、囚人の間では打たれる時、大声を上げて泣くにしかずと言われていたという。



第118回 首斬り浅右衛門

 罪人の首斬りを専門にしていた山田家は、元々将軍家の「御試御用」を本業とし、首斬りは奉行所から依頼された副業であった。実子でも腕のないものは退けられ養子を数多く迎え入れた。名人と言われた5代目吉睦、7代目吉利等は共に養子であった。最後の吉亮はわずか12才で斬首を行い、斬首刑は明治14年まで存続した。又、山田家は首斬りの報酬として罪人の胆をもらい受けその膏を小さな貝殻に分け売薬として市販する権利を有していた。

 代々の浅右衛門が実際に首斬りに使った刀が現在、回向院に保管されているが、その刀は刃こぼれ一つない見事なものであるという。では実際にどのようにして首を斬り落としたのだろうか?

 面紙を貼られた囚人が処刑場に引き据えられる。この処刑場のことを「土壇場」といい、囚人が座る筵の前には「血溜り」と呼ばれる穴がある。浅右衛門が斬ったのは、頭蓋骨と第一頸椎との間にある後頭頂部突起(長さ5mm)であった。それは首を伸ばし顎を突き出す格好にすれば突起が頭の後ろに突き出て皮膚の上からでもはっきり分かるからであった。 実際には 囚人が頭を下げると、非人は囚人の顔に手をあて両手で首を押し上げる。この手を引くのを合図に首打役は首を打ち落とした。「大人しく首を差し出す者より悲憤している者の方が斬りやすい」という証言はこの間の事情を念頭に置けば分かりやすいだろう。又、首打役が女性の囚人の斬首を嫌がった理由も、男性よりも膏が多く突起物の位置が分かりづらかったことによる。

 斬り降ろされた瞬間、囚人を押さえていた非人は囚人の足を後ろに引き上げた。これは囚人の上体が前に倒れ首の付け根から大量の血が血溜りに流れ込むようにするためであった。約1升5合の血が出尽くすと非人は血溜りから首を拾い上げ、桶の水で血を洗って検死役の方に左側の頬を向け差し出し、胴に首を抱かせた状態で俵に詰め込まれて本所回向院の千住の寮に埋められた。

 山田家では死罪が行われる日には刑死者の数だけ仏壇に蝋燭を灯す習わしがあった。刑場で首が落ちる毎に仏壇の蝋燭が片端から1本ずつ消えてゆき、最後の1本が消えるとやがて浅右衛門達一行が帰って来たと言われる。



第117回 牢内の私刑

 囚人が入牢するのは大抵日暮れで、昼中はほとんどなかった。入牢すると先ず「新入りのシャクリ」と称して娑婆でしたことを尋ねられ、次いで「命の蔓を持ってきたか」と問われる。相場は大体10両。これを差し出さなければ様々な折檻を受け場合によっては殺されてしまうことも度々あった(牢内での死は普通病死と届け出られた)。囚人達は銭を衣服や帯の縫い目に入れるか、銀の小粒を紙に包んで腹中に飲み込み用便後に取り出した。

 私刑には様々なものがあった。例えば、囚人を裸にして牢内に漬けてある糠味噌に水を入れ、それを囚人の体に塗りつけ夜中衣服を着せずに放置しておく。又、「汁留」と言い、汁その他塩物を一切食べさせない、反対に濃い塩水を沢山飲ませる等々。岡っ引きが入牢すると「ごちそう責」が待っていた。これは、囚人達の糞尿をお椀に盛り、一口箸でほおばると後ろに立っている囚人がキメ板で背中を叩き喉があいて汚物をごくりと飲んでしまうという残酷な私刑であった。



第116回 江戸の警察力

 現在の警察に相当するのが、与力・同心と呼ばれるであった。その数わずか300人。現在、都内の警察官が35000人であることを考えれば、人口の比率からいっても、江戸幕府のそれがいかに少なかったのかが分かる。では当時の捜査能力はどの程度であったのだろう。

 ある時、江戸中に「馬がものを言った」という噂が立った。当時の人口は約100万人。300人の与力・同心が徹底してその噂の出元を探っていって、何と3ヶ月後には、最初に言い出した犯人を突き止めた。この間、調書をとった総人数は35万人。それにしても、その捜査能力は、現代の警察をはるかにしのいでいた。実は与力・同心の手先として、情報収集に活躍したのが目明かし(岡っ引き)達であった。目明かしは正規の幕府の役人ではなく、あくまでも与力・同心の私的な配下で、彼らから小遣いをもらう程度であった(元罪人を使うケースもあり、彼らは強請やたかりで小銭を稼いでいた)が、下の情報に詳しくその世界には隅々まで通じていたのである。後に「高野長英」の所でも触れるが、幕府の警察力は相当なものであったのである。



第115回 直江兼続の御触書

 授業に「慶安の御触書」を持ち込んで、古文書の読解を兼ねながら当時の為政者の農民観を見ていくことも出来るが、ここでは、慶安の御触書が出された頃、米沢藩の家老直江兼続が出した領内の農民への戒めをプリントにして紹介することにしている。それは慶安の御触書以上により内容が具体的だからである。

 正月・・15日までに藩のための仕事や自分の仕事に必要なAを十分に用意せよ。15日過ぎたら、そりで畑に肥料を入れよ。夜なべには馬のくつや草鞋をつくれ。大茶を飲み、あちこちを訪ね歩いて人の噂話をするような女房は、たとえ子供がいても離縁してしまえ。

 三月・・鍬の先を修理し、柄も整えよ。すぐにBをつくれ。三月末には種籾を苗代にまけ。

 四月・・男は朝暗いうちから日が暮れるまで、鍬が田へのめり込むほど、深く耕せ。日が暮れて男が帰ってきたら、女房は湯をくんで足を洗ってやり、Cの出来た男の足をなでさすってやれ。男はきっと疲れを忘れることだろう。

 八月・・貧乏な武士は、早くもDを寄こせと言って来るかも知れない。そんことも考えて、米を袋に入れておき、渡してやれ。くれぐれも「Eたらしい」等と馬鹿にしてはいけない。

 百姓がよく働き、農作物を作り出せば、人々は皆、飢えに苦しむこともなく、貧乏になる者もない。その時、仏や神の御心にもかない、全てが安楽に往生できる。

 答え    A(縄)     B(苗代)     C(あかぎれ)   D(年貢)    E(貧乏)



第114回 名主の権力・年貢の納め時

 関東では名主、関西では庄屋、肝いり等と呼ばれていたが、その仕事は実に広範囲にわたっていた。郡代や代官からの文書の伝達や年貢納入(当時は村単位で行われた)、非行少年の取り調や説諭、果ては夫婦喧嘩の仲裁に至るまで。当時、名主の権限は「鉄砲にまで勝つ」とさえ言われていた。

 授業では、コミック「カムイ伝」から、「ますどり」の部分を綴じ込んだものを利用しているが、この部分は、刈り入れから脱穀(扱き箸が描かれ大いに参考となる。後の千歯扱の出現の意味が分かる)、年貢の納入までが克明に描かれている。特に、納入段階で枡に山盛りにされた米を棒で叩いて土に落とすシーンに怒りの声を発する生徒が多い。口米といって、これらは年貢役人の収入として予め見込まれていたものだが、生徒が、こうした不合理さに怒りの感情をぶつけてくればしめたもの。それが封建社会の大きな矛盾に気づくきっかけになるからである。以下、年貢を納入できなかった農民を描いた「つぶれ」、一家で他国に逃げる「欠落」と見ていくと、当時の農民が置かれていた状況のイメージを具体的に理解できるようである。



第113回 参勤交代

 江戸時代の4月のある日、日本列島を上空から眺めると、奥州街道では津軽藩をはじめ、16もの大名もの大名行列が行き交っていた。東海道は肥後の細川藩や土佐の山内藩等、72の行列が通行していた。4月には91家の外様大名が、6月には83家の譜代大名が往来していた。まさに、参勤交代は日本列島内の民族大移動であった。

 加前田藩には、参勤に赴いた藩士の数多くの遺書が遺されており、それは命がけの旅であったことが窺われる。地元の津軽藩を例にとりもう少し日程をみてみよう(出来るだけ所在地の大名をケースにとって説明すれば生徒にはなじみ深いものとなるだろう)。

 津軽藩の場合、碇ヶ関から秋田領へ入り山形を経て奥州道中に出る道が普通とられた。3月中旬に弘前を出発し、4月初旬に江戸に着く180里、2週間の日程であった。その規模は、幕府の法定によると、馬上10騎、中間人足140位であった。片道の費用を推定してみると、大体、1里11両とし計、1980両かかったことになる。仮に1両=5万円とすると9900万円、往復だと1億9800間円にものぼる。さらに江戸での生活費が片道分と同額か、その倍かかったとされるから、実に多大な出費であったことが分かる。

 それでは、津軽藩の場合、1日あたり、何qのスピードであったか? 180里=720q÷14日=約52q。1日の移動距離とすればかなりの距離を歩いたことになるが、ともかく、江戸までの日数を短縮し、旅費の節約を図る必要があった。特に、江戸から遠かった藩の場合はそれが顕著であった。「人の悪いは鍋島・薩摩、暮六つ泊まりの七つ発ち」という諺があるが、暮六つとは午後六時で、かなり暗くなってから行列の一行は宿場の本陣に泊まり、出発は七つ、つまり、朝の4時というまだ真っ暗闇の中であった。(ついでに、日本では古来から左側通行であったが、これは、右側通行だと、武士が腰に差している刀の鞘がぶつかる危険があったからである)。

 逆に、江戸にやって来た大名とその家臣が落とす金が、江戸の繁栄を支えていたことは言うまでもない。又、有名な話だが、例えば津軽と薩摩の侍が話し言葉で会話しようにも、それぞれの訛がひどくて双方とも、何を言ってるか皆目分からず、はじめのうちは筆談で意見を交換しあった。しかし、次第に江戸住まいが長くなった侍同士の間で、共通語らしきものが生まれていった。その元になったのが、江戸の山の手言葉であり、維新後の近代日本が採用していった話言葉でもあった。

クイズ

@参勤交代の行列を横切ると、普通はその場で斬られても仕方がないこととされていたが、あ る職業の人だけは横切っても良いという決まりがあった。それは何か?

 答 産婆

A宇治で採れた一番茶を将軍に献上する「お茶壺道中」の時、沿道の農民達はどうしただろうか?

 答 家の中に隠れた−童謡「ずいずいずっころばし」の歌詞を辿っていくと、「茶壺に追われてどっぴんしゃん」という歌詞がある。「どっぴんしゃん」とは「戸をぴしゃっと閉める」ことを意味した。時間に余裕があれば、テープを教室で聞かせたいところ。

B江戸にしても、(地元)弘前にしても、城下町の四方(街道の入り口)に寺院が置かれていたのはなぜか?

 答 寺院が街道の入り口にあるのは、街道からの敵の攻撃に備える為であった。特に寺院には墓石がありいざという場合は、墓石を積み上げて防御用の壁とした(城下町の概略図をプリントンに掲載する必要がある)。



第112回 東福門院和子の衣装狂い

 東福門院和子は秀忠の娘であったが、時の後水尾天皇の正室として輿入れをした。二人の間には後の明正天皇が生まれたが、紫衣事件で、後水尾天皇が34才で譲位すると、和子も髪を落とし政治の第一線から身を退いた。時に23才の若さであった。後水尾天皇は、その後、上皇としてその有り余った精力を俗にいう「女狂い」で発散させ、死ぬまで40人もの子女をもうけた。

 では和子の場合はどうか。72才で他界する長い人生で、彼女は一体何に喜びや楽しみを見いだしたのだろうか。それは「衣装狂い」であった。死を迎えた72才の後半の半年間だけで、340点もの衣装の注文をしていた。現在のお金に換算すれば、総額1億5千万円にもなる。その大半の注文先が、京都の「雁金屋」であった。その雁金屋の次男坊こそが、あの尾形光琳であった。光琳は若い頃、好色一代男さながらの女性遍歴をした一生遊べる遺産をたった10年で使い果たしてしまった。装飾性の強い光琳派と呼ばれる画風は、実は実家での衣装デザインを担当したことから生み出されていったのである。



第111回 馬鹿殿 前田利常

 参勤交代第一号は加賀百万石の前田家であった。関ヶ原の戦いの直前、利家の正室お松が人質として江戸に下ったのが初めであった。外様大名は大身が多く、その分、幕府から改易されぬよう常に汲々としていた。加賀三代目藩主前田利常は、江戸城中では、鼻毛は伸ばし放題、口からは涎をたらりと流し、老中と廊下ですれ違う時は、わざと袴をだらしなく穿き性器まで見せていたという。又、軍備をおろそかにしている印象を強めるため、城下では「謡曲」や「工芸」を奨励。これが現在の金沢市の伝統工芸や京都風文化の始まりであった。因みに、一大名の生涯での最高国替え記録は松平直矩の7回であった。


第110回 隆慶一郎「影武者 徳川家康」を読む

 授業でどう使おうかと迷いながらも、文句なしに読んで「面白い」と思える小説が多数あるが、ここに紹介する隆慶一郎著『影武者徳川家康』はその代表的な一冊である。実証主義に基づく現代の歴史学では、どうしても確かな歴史的事実だけを重んじ過ぎる結果、事実と事実との間に生きた歴史上の人物達の生き生きとした躍動感を描き出されない嫌いがある。司馬遼太郎氏が死去して以来、真っ先に飛びついたのがこの作品で、以後、私は隆氏の全作品に没入していった・・・。

 隆氏は「歴史家に負けぬ小説を書くこと」「歴史に刻まれることなく死んでいた者への鎮魂」を目標に、虚構によって歴史的な事実を再構成してゆく方法をとる。虚構と言ってもそれは徹底した史料批判と最新の歴史学・民俗学の成果を取り入れた堅固な仮説といっていい。確固たる学説の上に物語りの面白さを加味した結果、読んで面白いと読者をうならせたばかりか、他の人にも一読を勧めさせてしまう魅力を本書は持っている。早速、概要を紹介しよう。

 慶長五年関ヶ原で徳川家康は忍者に暗殺された。徳川陣営は苦肉の策として影武者世良田二郎三郎を家康に仕立てた。二郎三郎は一向一揆で信長を撃った「いくさ人」で家康の兵法や思考法まで身につけていた。彼の夢は江戸・大坂の和平を実現し駿府を中心に自由な公界を築くことにあったが、生きていた島左近や風魔衆を味方につけ、政権の委譲を迫る秀忠と裏柳生との壮絶な権力闘争が開始されていった。一見、荒唐無稽な伝奇小説のように見えるが、家康影武者説には史料的根拠がある(実は家康自身の出自が、身分ある武士ではなく、牢内の雑用を職業としていた非人に近かった−「史疑徳川家康事跡」)。

 又、全国を放浪して渡り歩いた山人、海人、芸人、行商人などの「道々の輩」「公界の者」(自由人。彼らは一向一揆の中核をなし、天皇や神仏に帰属し全国を自由に往来する特権を持ち、近世以降、差別され歴史の片隅へ追いやられた)達を作品の中心に据え、(主人公の二郎三郎や風魔はその出身者に設定されている)、彼らが自由と人間の尊厳を守るための戦いを繰り広げたことを壮大なスケールで見事に描ききった。関ヶ原から大坂夏の陣までの15年間の多くの謎−家康の子供への愛情の変化や女性への嗜好の変化、家康がわずか2年で征夷大将軍を秀忠に譲ったのはなぜか、駿府に引っ込んだ家康と江戸の秀忠の対立=二重文書の謎、家康が終始豊臣家と和解しようと努めたこと等に一つの解答を与え、全く新しい家康像や歴史像を提示してくれた。果たして今後、この小説を越える歴史家の叙述はあるのだろうか。



第109回 関ヶ原の戦いU

B毛利も島津も共に西軍に属していたが、戦後処分は全く対照的であった。毛利は輝元が西軍の総大将に擁立されたが、分家の吉川広家は御家安泰を図り、事前に本領安堵の起請文を家康から受け取っていた。合戦当日も、吉川広家は、南宮山の下り口を固め、毛利・長束・長宗我部計3万の下山をおさえ、家康との約束を守った。しかし、毛利輝元が大坂城を出た途端に、家康は輝元を殺せという命を下した。

 実は、先の起請文には家康の署名はされていなかったのである。毛利はペテンにかけられた。広家は、自分に対する恩賞の30万石に引き替えて、輝元の助命を行い、何とか、120万石から38万石の減封処分でおさめた。毛利の家臣の多くは、知行を貰わなくとも殿のお側近くに仕えたいと長州を目指した。数多くの家臣に対して石高は最盛期の約4分の1。これではいっそのこと、藩を幕府に献上しようという所まで何度も陥った。

 以後、この時の徳川に対する怨みは260年間も続く。毎年、長州では正月の初め、全家臣が主君に年賀の挨拶をする儀式が行われたが、家老の一人が主君の前に歩み寄り、「殿、準備が出来ておりますぞ」と言うと主君は「まだ早い」と答えたという。準備とは倒幕のことを指した。時として、歴史は怨みで動くこともある。


C島津はどうであったろう。合戦の最中は三成の攻撃要請を退け、一戦もしなかった。気がつけば、周囲は東軍ばかり。この時、島津は、信じられないことに家康の本陣を中央突破し、座禅陣(ステガマリ)という陣形を保ちながら多くの死者を出しながら本国に辿り着いた。400人いた兵は、帰国時、たった80人に減っていた。しかも、島津は東軍を迎え撃つべく、国境及び国内に要塞をつくり一藩あげて臨戦態勢で望んだ。こうした、島津の強靱さを脳裏に焼きつけられた家康は、減封どころか、まるまる本領を安堵せざるを得なかった。
左「島津義弘」

 家康は「我が遺体を西向きに葬れ」とう遺言を遺して死んでいったが、遺体は遺言通り、久能山に西向きに埋葬された。家康は死の直前まで、薩摩の東上を警戒していた。この頃、築城された姫路城、大坂城(家光の時、再建)、名古屋城などを想起してみると、それらは薩摩の東上に備える戦略配置であったことが分かる。後に、歴史は、家康の危惧した通りに展開したいったのである。



第108回 関ヶ原の戦いT

@豊臣の家臣団を引き連れて、会津の上杉攻めに向かった家康に、ついに石田三成の挙兵の報せが入った。家康は諸将を集めて、諸将にその去就を任せる発言をした直後、床几から立ち上がって「我らは秀頼殿に弓を引くにはあらず。敵は治部少輔でござれば、大坂に遺してきた妻子には未練はござらぬ」と最初に言ったのが福島正則。続いて次々と、家康に荷担する旨の発言が相次いだ。実は前日に家康と正則の話し合いが秘かについていたのだが。

 と、そうこうしているうちに、山内一豊がすっくと立ち上がり、「西上する軍のために、わしは掛川の城と領地を今この場で家康殿に献上致しまする」と言った。諸将もこれに続けて同様の申し出を行ったが、この時のこの一言で、一豊は戦後、土佐一国を恩賞としてもらった。江戸時代を通して他の家中から「して、山内殿はどのような戦功を立てられたのか」と聞かれるのが土佐藩士達は一番厭だったと言われる。


A授業では、関ヶ原の東西両軍の布陣図を板書し、次のような発問から始める。「明治の初期に政府に招かれたドイツの天才陸軍参謀メッケルは、西軍の圧倒的な勝利を信じて疑わなかった。西軍8万、東軍7万。数の上でも布陣の上でも有利だった筈の西軍が負けたのはなぜか?」

 実は、西軍の3分の2は家康と既に内通し傍観していた。当日、石田三成は前日からの腹痛と戦いながら、各陣を回って出陣の要請をしたが、それらはほとんど言を左右にして最後まで動かなかった。一番有名なのは、「毛利の昼弁当」で、数回の攻撃要請にもついに桃配山を下りようとしなかった。これは大まかに言えば、三成と家康の信用度の差といってもいい。 
右「石田三成」

 三成は佐和山19万石、家康は220万石の大身である。戦後の恩賞を約束する場合、何と言ってもその発行人の信用がものをいった。あわせて、三成は正義感が強く、人を寄せつけない偏狭な所があった面も否めない。逆に、よくあそこまで西軍を召集し得たとも言える。

 それでは、三成には他に勝機がなかったのだろうか。実はあった。大垣城に4万の将兵とじっとしていれば、勝てたかも知れない。というのは、あと数日待っていれば、西軍一の猛将立花宗茂率いる15000人と合流できた。もしかすると秀頼の来援も望めたかも知れなかった。なぜ、三成は城を出て関ヶ原に布陣したのか。それは家康が、「大垣城を攻めないで、佐和山城を攻め一気に京都へ進撃する」というデマを流させ、三成がそれをまともに信じたからであった。諜報戦術は戦国の常識であった。



第107回 家康あれこれ

@家康の吝嗇さを物語る話は多い。蓄財は彼の喜びでもあった。家康は毎日のように、金や銀を一区切り毎に紙で包みその表に家康自身が年月日を書き入れていたという。「このわ しが金銀を多く集めておけば、下々には金銀が少なくなり、自然、金銀を大切にするよう になるだろう」とは家康の言葉。家康の思考は、農民のそれのように積み重ねを重視する堅実そのものであった。

A家康は決して遊女と接しようとはしなかった。生水は飲まず、薬を自分で煎じ調合していたことは余りにも有名である。スポーツは健康にいいと鷹狩りを頻繁に行っていたが、こうした健康に非常に気を使ったのは、秀吉との年の差(家康が6才若かった)が、天下取りの最 期の段階で大きくものをいうことを知っていたからかも知れない。大坂夏の陣の翌年、家康は鯛の天ぷらの食べ過ぎで死んだと喧伝されているが、実際にはそれ以前より胃癌を煩っており、鯛の天ぷらは胃腸障害を助長したにすぎない。時に72才であった。



第106回 三河武士団

 家康を支えた三河武士団は、功利集団ではなく忠誠集団であった。家康が今川の人質であった10年間、彼らは今川の大半の合戦で先陣を命ぜられ酷使されたが、それでも耐え抜き、兵糧や銭を蓄えひたすら家康が戻ってくることを待った。又、信長が駿河・富士見物をした際、家康の家来数千人が大井川の上流で人垣を作り、信長以下全員を人夫達の肩に担いで渡ったこともあった。この時、家康は1500軒もの小屋を解体して行く先々で小屋を作らせた。尾張侍が「三河の犬ども」と蔑むと家康は「三河犬の牙の固さを誉めてくれたつもりだろう」と家来達を諫めたとも言われる。

 三河侍は合戦の時でも名乗りをあげる者が少なく「己一人を誇らず手柄は全て殿のもの」という意識が強く、敵将を倒しても首をあげることをせずその場で「切り捨て」てしまう場合が多かった。こうした東国の質朴な風土で育った家康自身は、先覚的な事業は少しも遺さずその施策の大半は、信長・秀吉の模倣であった。



第105回 徳川家康

 幼少の頃、今川氏に10年間人質生活を過ごしていたことは有名な話であるが、後年、成長してからも指の爪をかむ癖は、あの関ヶ原の戦いでも続けられていた。人質時代の鬱屈した思いが幼児性を残し家康のこの癖となったと思われる。

 桶狭間の戦い以後、三河に戻り領国の経営に腐心していた頃、三方が原の戦いで上洛を目指していた武田信玄の軍に決定的な敗北を喫したことがある。戦っても、破れるとは分かっていても、「城の前を悠々と通過しようとした武田軍を一戦もせずに見過ごしては、以後、国内の豪族達に嘲けられるわ」と背後から追撃したのだが、所詮、武田軍の敵ではなかった。家康は追いすがる敵の攻撃から命からがらようやく城に立ち返ったが、城に着いて馬から下りたとき、鞍の上には家康の糞があったという。

 面白いのはその後の行動である。家康は城門を全て開け、城内の至る所に篝火を焚いた。武田軍は、何か策があるに違いないと警戒し、返って城への攻撃を控えた。又、家康は、領内から絵師を召して、床几に座り敗戦で失意のどん底にある自分の姿を描かせ、終生、その絵を眺めて自戒としたという。家康にはなぜか、戦での敗走の経験が多かったが「勝ってばかりいて一度も負けたことがないという人間はどこかよろしくない」とは家康の言葉。後に、武田氏が滅んだ後、その軍法の消滅を惜しみ大量の武田浪人を召し抱え、その軍法や軍装を徳川四天王の一人井伊直政に真似させた。後の「井伊の赤備え」は「武田の赤備え」から生まれたのである。井伊軍は徳川軍の中でも譜代大名最強の軍団といわれ、その居城彦根も、朝廷のある都に最も近い所に置かれた(幕末の井伊直弼は俗に「井伊の赤鬼」とも呼ばれていた)。

 本能寺の変の時、家康は信長の招待で堺に逗留していた。事変を聞き、家康は僅かな近従達と伊賀越えをしてようやく国に帰還することが出来たが、この時同行していた京都の商人が茶屋四郎次郎であった。道行く先々で彼は銀を惜しげもなくばらまき、村人に道案内や食糧の調達を行わせた。後に茶屋は、幕府の許可を得た朱印船貿易商として財をなしている。家康は帰国後、直ちに陣触れを行い都を目指したが、既に山崎の戦いが終わって4日後のことであった。



第104回 豊臣家臣団の分裂

 秀吉の死後、豊臣の家臣団は文吏派と武断派の2つに分裂し、北政所の指示も預かり(家康は高台院の元に足繁く通っていた)武断派の武将は家康側につき、家康はこれを先鋒に用いて関ヶ原の戦いで勝利することが出来た。実は福島正則・加藤清正を中心とする武断派と、石田三成を筆頭とする文吏派は、前者が尾張系、後者が近江系と言い換えても良い。

 福島正則も加藤清正も、幼少の頃、秀吉の正妻ネネ(北政所)に可愛がられ、ネネ自らがつくった握り飯をいっぱい食べてひとかどの大名に取り立てられた。武断派にはその他、黒田長政・浅野幸長・池田輝政などがいるが、彼らは合戦場で力を発揮する武人達であった。それに対して、近江系は、秀吉が近江長浜20万石の大名に取り立てられた際に、大量に採用された官僚を指し、三成を筆頭に、増田長盛・長束正家など、経理に明るい(近江商人の言葉があるように)行政官僚であり、淀君の下に結集していた。特に、朝鮮出兵では、石田三成は加藤清正をはじめとした武将達の中傷を秀吉にしたといわれるが、それはこうした派閥の抗争が背景としてあったからである。三成が初めて秀吉に見いだされた有名な「お茶の話」は、後の官僚としての優れた事務的能力を伝える逸話である。ちなみに、三成の発掘された人骨は、どちらかといえば女性的であり、頭骨は異常に大きかったと言われている。
右「加藤清正」


第103回 鉄の結束狩野派

 狩野派は元祖の正信が関東から京都へ上ったことから始まった。二代目元信が血統第一主義の組織固めを行い、一門は家長とその子を鉄の結束で盛り立てることを誓いその興隆を図ったと言われる。以後、家長が絵の中でも最も重要な場所を担当し嫡子がそれに続くことが伝統とされ、同派では、天性で描く質画ではなく学んで覚える学画を家風とし、徹底した模写教育が基本とされた。

 秀吉の死去で、天下の趨勢が定まらなかった当時、狩野派はその生き残りを賭けて三面作戦を展開し、家康には孝信(当時10才だった天才探幽を伴い、秀忠へのくい込みに成功した)を、豊臣には、秀吉の小姓で永徳の養子ともなった山楽を、そして朝廷にも然るべき人材を送り込んだとも言われる。哀れをとどめたのは山楽で、豊臣家滅亡後、落人として諸国を流浪したが、狩野派は救済の手だてを一切講じようとしなかった。明らかに彼は狩野派の「捨て石」だったのである。



第102回 「松林図屏風」と長谷川等伯

 「松林図屏風」は長谷川等伯が息子久藏の死後、まもなく描いた「慟哭の絵」であった。等伯は石川県七尾市の生まれ。32〜33の時、妻子と共に京へ出、50才まで堺に通い絵の勉強をしていたと言われる。彼は芸術的な創造が求められていなかった当時、狩野派の単なる模写を否定し、利休とも懇意となり奥行きのない狩野派の画風に対して挑戦状をたたきつけた。それが御所対ノ屋の襖絵であった。

 それまで御所を初め主要な障壁画を独占していた狩野派の総帥永徳は慌てて大納言家に働きかけ、対ノ屋の襖絵を等伯から奪い返した。しかし、程なく永徳は死去。とすると今度は、秀吉の亡児鶴松の為の智積院の襖絵を等伯・久藏親子に奪われた。息子久藏は、画才の上で父等伯を凌ぐと言われた逸材であった。それは現在、智積院に残る「桜図」の瑞々しさを見れば分かる。所が狩野派には「へた右京」しかおらず、明らかに狩野派に代わって長谷川派時代が到来するものと見られていた。しかし、今度は久藏が急死する。前後の関係から考えて、久藏は狩野派によって殺された可能性が高く、冒頭に記したように「松林図屏風」は、等伯が新時代を共に担うはずだった最愛の息子への鎮魂歌として描いた絵であったのである(ちなみに、等伯は久藏の七回忌に縦10m、横6mもある巨大な涅槃図を描いている)。



第101回 豊臣家の家庭教育

 秀吉の実子秀頼(幼名お拾い)が生まれた時、秀吉は59才の高齢であった。この誕生が秀吉の甥で当時関白であった秀次や、秀吉の親戚筋にあたる金吾(後の小早川秀秋)の運命を変えていくことになる。

 秀次は、秀頼が生まれたことから何れ自分が関白の地位を奪われることに不安や恐れを抱いた。彼は異常なまでに学芸趣味を発揮し、足利学校や金沢文庫から多くの本を京都に集めていたが、それは民衆の人気取りの何ものでもなかった。夜な夜な、町に出ては辻斬りをし、10代〜60代の側室を30人も抱えていたが、ついに秀吉の怒りにあい、高野山で切腹を命じられた。その直後、京都の三条川河原では、秀次の側室とその子供達は全員、秀次の首に拝礼を強いられ次々と首をはねられて殺されていった。この頃、秀吉の脳裏には秀頼の無事な成長しかなかった。若い頃の明るく軽敏で磊落な秀吉の姿はもうそこにはない。我が子に対する溺愛が冷静な判断を曇らせたばかりではなく常軌を逸した行為をもとらせていった。

 後に、関ヶ原の戦いで、家康に天下をプレゼントした小早川秀秋は、ネネの父方にあたる杉原氏の五男坊であった。将来の豊臣氏の柱石として期待され秀吉の養子に迎えられたが、関ヶ原の戦いでは、東西両軍から誘われ去就を決めかねていた。業を煮やした家康側からの発砲に驚き、西軍に攻撃をかけ、結果的に関ヶ原の勝利を家康にもたらした。面白いのは、戦後、自分が果たした巨大な役割を理解できずに、家康から叱られることばかりを恐れ、びくびくしながら家康の本陣に出向いた。家康から「本日の働きお見事、向後、遺恨はない」と手を握られ感謝されると、土民のように転びながら拝礼をして退ったといわれる。彼はその後、安芸50数万石の大名になったが、翌年発狂し死んでいる。

 このように見てくると秀吉の縁に連なる者では、秀吉の弟大和大納言秀長を除けば、大半の者が凡庸であった。そうした意味では、子弟教育の性能を豊臣家は家風として持ち合わせていなかったばかりではなく、杉本苑子氏のように一族に流れる暗く残忍な血に注目する見方もある。秀吉そのものが、粗放な面を持ち、儒教や文化にまるで関心がなかった。ある時、祐筆が「醍醐寺」の「醍」という文字を忘れて困っているのを見て、「何の、大と書いておけば良いではないか」と言ったという話が残っている。
  上「小早川秀秋」


第100回 人狩りと朝鮮征伐史観

 この戦争は、別名「焼き物戦争」ともいわれる。各大名は、李朝工房の奴隷達数万人を連行してきた。周知のように島津焼(白焼きは贈答用、黒焼きは庶民向け)、萩焼、有田焼などは、この時に連行されてきた朝鮮人達によって生み出された。

 又、戦争の背後に奴隷商人達が暗躍し、多数の朝鮮人が西国大名の農業労働力として売り飛ばされた。中には、ヨーロッパへ転売され、「アントニア=コレア」という名を子々孫々受け継いでいる人がいるという。明らかにこの戦争は「人狩り」の一面を持ち、出陣したある武将の手紙の中には、朝鮮の人々を日本の留守宅へ土産に送り、家族も又それを楽しみにしていた事実が記されているものもあった。その他、兵粮米の略奪、日本語の強制、鼻削ぎ等、後の日帝時代の植民地支配を彷彿させるような行為が至る所で見られた。朝鮮では戦後、急速な人口減によって家の存続が危ぶまれ「兄妹結婚」等が各地で行われたという。

 近世中期以降、様々な立場の人々によって朝鮮出兵を肯定する「朝鮮征伐史観」ともいうべき論が展開された。例えば、それは山鹿素行の「武家事紀」から始まり、本居宣長は、秀吉は皇国の光を輝かしたものとして高く評価した。林子平は「海国兵談」の中で、三韓征伐と朝鮮征伐は、神武以来の武徳であるとし、本多利明も、蝦夷・樺太・カムチャツカの領有を主張する立場から、朝鮮出兵を強く肯定した。幕末の吉田松陰は、ロシアとの交易で失った分を朝鮮や満州の入手で補うべきであるとして秀吉の朝鮮征伐が頓挫したことを非常に無念がった。こうしてみると古学・国学・国防論・尊王攘夷論など立場の相違を越えて、朝鮮征伐を一様に肯定した点は重要であろう。そして、これらは明治10年の征韓論そのものをも合理づけることになるのである。




第99回 文禄・慶長の役

 朝鮮出兵は、秀吉が信長が生存中に既にその構想をもらしていたが、実際には、秀吉は天下に向けて惣撫事令(平和令)を出し、大名の勝手な領土拡張の為の合戦を禁止した。これは、戦国時代100年間の間に培われた全国的な高度な武装化(武士身分の大量創出)に歯止めをかけることを意味したが、そのはけ口を求めることが国内の平和のためにも絶対必要であった。当時の日本の戦力は、同時期のヨーロッパにあれば極めて短期間に全ヨーロッパを征服することが出来た程のものであった。いわば、沸騰する薬缶にむりやり蓋をしようとしたもので、それが朝鮮への出兵となったのである。

 文禄の役では、日本軍はたった20日でソウルに達する猛進撃を行った。この当時、朝鮮側で鉄砲を知らなかったという。しかし、朝鮮義民軍(国家の軍隊ではなかった)、明の援軍、李舜臣の亀甲船などで、日本は各地で孤立するようになった。朝鮮側からの呼びかけで朝鮮に下った日本人は、「降倭」と呼ばれその中から、鉄砲の製造法が朝鮮に伝えられ、ますます、日本側は劣勢におかれ苦しい状況が続いた。朝鮮に上陸した伊達政宗が本国に書き送った手紙の中に「いっそのこと坊主になって山で生活したい」と記されている程の状況であった。日本側は食糧も不足し、寒さの備えも不十分であったことから、凍傷で次々と倒れていった。

 慶長の役の時は、厭戦気分の中、開戦10ヶ月で日本側は37%もの人間が姿を消した。出兵の際に、石田三成は加藤清正を中傷したこと等から、秀吉死後、豊臣の家臣団は文吏派と武断派に分かれ対立を深め家康に取り込まれることになる。ついでに言えば、出陣中の加藤清正の「虎退治」は、秀吉の老化を防ぐために虎の肝を入手するためであった。秀吉は50才で、既に寝小便を漏らしていた。若年の時からの働き過ぎによるものであった。



第98回 お目見え前日の秀吉と家康

 大阪城で並み居る大名の前で、家康が秀吉と対面するという前日。秀吉は弁当と酒を持って家康の宿所を訪れた。秀吉は「毒味」と称して自ら立て続けに飲み、家康に杯を差し出した。秀吉のその歓談の中で、「頼みがござる。今、自分の被官となっている大名達も昔の同僚軽輩でさらさらこの身を主君と敬う心がござらぬ。明日、諸大名がおる場所で、できるだけ御慇懃にお礼儀下さらぬか。そうすれば、明日よりそれがしを天下人と尊崇するようになりましょう。」と言い終わると家康の背中を大きく叩いた。

 翌日の大阪城での対面はが打ち合わせ通りにいったのはいうまでもないが、家康はさらに「これから殿下に軍旅のご苦労をおかけするのは家臣として心痛し。願わくば、殿下の陣羽織を下され。それがしが殿下に代わり、反抗いたす大名共を成敗して御覧に入れます。」と言ったという。秀吉も秀吉なら家康も家康である。秀吉の健在のうちは、家康は「律儀な家康」で押し通した(死後、態度は一変するが)。

 秀吉は、一代の成り上がり者で、譜代の家臣が一人もいなかった。家康は譜代の強力な家臣団に支えられた大々名である。恐らく、こうした状況が当時の大阪城内にはあったと思われる。城内で諸大名達は、実に行儀が悪く、至る所で小便をしていたとも言われる。



第97回 小田原攻め

 小田原攻めは、4ヶ月にもわたる大包囲戦であった。秀吉は陸上・海上あわせて24万もの大軍で包囲したのだが、実はこの規模は当時のヨーロッパのどの都市よりも大きいものだった。この対陣中、幾つか面白い話がある。ある日、秀吉は小田原城を見下ろせる丘に家康を誘いだし、袴をたくし上げ放尿を始めた。家康も乞われるままに放尿を始めたが、秀吉から「関八州進ぜよう」という唐突な話に思わず「喜んでお受けいたします」と答えてしまった。これが、家康の関東入りとなるのだが、このことから俗に「関東の連れション」という言葉が生まれたと言われる。

 又、領地の安堵を求めて、東北の各戦国大名達もこぞって秀吉が滞在している小田原に伺候したが、伊達政宗は、再々の上洛の命に服さなかったことから、白装束に身を包み十字架を背負いながら秀吉に対面した。この奇行に感心した秀吉は政宗の領地を安堵した。

 僅か数日の違いで、自分の領地を奪われたのが南部であった。家臣の大浦為信(後の津軽為信)に2週間違いで秀吉との対面に遅れ、以後、津軽と南部は犬猿の仲になっていった(津軽側が南部側を非難する言葉は「南部の人殺し」、南部側が津軽側を非難する言葉は「津軽の手長」であった。「人殺し」も「手長」(泥棒)も、両地域の米の生産量の差による言葉である)。



第96回 秀吉と家康

 秀吉が織田信雄と徳川家康の同盟軍と戦った小牧長久手の戦いは、秀吉にしては珍しい負け戦であった。面白いのは、その負け戦を、秀吉が外交政策で、信雄と家康の離反を図り少なくとも結果的に対等の勝負に持ち込んだ点である。

 しかし、実際には、秀吉は家康には頭が上がらず、既に嫁いでいた自分の妹旭姫を無理矢理離縁させ、家康に強引に押しつけた。彼女は当時41才という、当時としてはかなり高齢であった。さらに面白いのは、律儀な家康は、旭姫との初夜のときだけ我慢してして床入りをしたという。秀吉はそれでも足りないと思ったか、家康の上洛を条件に、何と自分の母まで家康に人質として差し出している。これではどっちが天下人であるのか分からない。当時の秀吉と家康の立場を物語る格好の逸話であろう。



第95回 秀吉の天下獲り

 秀吉に関する逸話は多い。尾張中村の百姓から天下を取ったこと自体、下剋上の時代とは言え、衆目を驚嘆させるに十分な出来事であった。

 「前野家文書」によれば、秀吉は、当時生駒家の娘の下に通っていた信長に色話を聞かせることで信長に直接仕えることになったという。それ以前、継父との折り合いが悪く、針を売りながら諸国を放浪していたらしいがその生活は悲惨を極めたと思われる。

 秀吉は信長からは「サル」の他に「はげネズミ」と呼ばれていたが、「木綿の藤吉郎」とも呼ばれていたらしい。木綿のように人を大きく包み込む暖かさや、人情の機微をつかむことのうまさをさしたものだろう。後に名乗る「羽柴」とは織田家の家老「丹羽長秀」と「柴田勝家」の二人の名前を一字ずつをもらったものであったことは余りにも有名である。「人たらし」の天才と言ってもいい。秀吉が信長の考えを先取りし常人以上の熱意で奉公したのは、以前のような惨めな境遇に陥るかも知れないという不安からだった。

 秀吉の「鳴かせてみよう」を示す話も多いが、授業では清洲城の石垣の修理、墨俣川の一夜城(木材を上流から流し下流で組み立てた。蜂須賀小六以下の配下を利用)、納戸方の時の山の木の数え方など、要点を踏まえて説明すれば、生徒は呆気にとられながらも真剣に聞いている。こちらがのりにのって話をしている時は、明らかに生徒の目つきも変わってくる。

 俗にいう「中国の大返し」。信長の死を相手に隠したまま毛利と講和を結び、備中高松から姫路城までの110qを秀吉の軍団はたった3日間で走破した。普通、完全武装の軍団は1日の移動能力が20kmと言われるが、この信じられないスピードで、臨戦準備の整わない光秀を山崎の戦いで破った。ではどうしてこんなに早く移動できたのだろうか?

 秀吉以下主だった者達は、鉄砲隊の護衛をつけながら鎧もかなぐり捨て裸同然の格好で走りに走った。鎧や兜は、体格の立派な特殊部隊の者が着込んで走った。さらに先発隊を派遣して沿道の村々から、松明を燃やし、水や握り飯、気付け薬などを要所要所に配置させた。これでは、まるで、フルマラソンの給水。姫路城に入った秀吉は、全軍に、城内にあった金・銀・米を全て支給して志気の高揚を図った。この時、秀吉は将校クラスには80億円相当の金銀を、又兵隊達には8万5千石の米を支給したと言われている。さらに近畿周辺の侍達に「信長公はまだ生きている」という嘘の情報を流し協力を依頼したことは言うまでもない。



第94回 光秀の謀反

 明智光秀の謀反に関しては、最近では豊臣秀吉説、徳川家康説、朝廷側の陰謀説、堺の豪商共謀説など数多くの異説がある。説は説として、生徒が混乱に陥らぬように光秀が謀反へと追い込まれていった背景をおさえて展開した方がいいだろう。授業では、光秀の目から信長を見る視点で描かれた遠藤周作著『反逆』(上下講談社文庫)をプリントにして使っているが、和本の「絵本太閤記」を持ち込んで、信長の命を受けた森覧丸によって額を扇子で打たれるシーンを生徒に見せながら展開している(面白いことに、ページをめくる毎に光秀の額の傷が大きく描かれている)。

 信長は自分の中に目に見えぬ大きな力があると思いこみ自分を神格化していった。光秀はその姿に終始圧倒された。神格化を示すためのデモンストレーションとして行われたのが、天正九年に行われた天覧の馬揃であった。さらに信長は総見寺に石を置き、自分の誕生日に参詣人にその石を拝ませたといわれている。周知のように光秀は元々足利義昭の家臣として、信長の援助を要請に織田家を訪れたのがきっかけで信長に召し抱えられた人物であった。美濃土岐氏に連なる名門の出身で、古典的な教養を武器に対朝廷工作等の政治折衝で、織田軍の中で頭角を顕わした。どちらかといえば、室町将軍家を再興し、朝廷・寺社といった旧体制の維持を構想として持っていた。

 所が、旧体制を次々と打倒していった信長に、光秀は次第についていけなくなった。比叡山延暦寺の焼打ちや長篠の戦いでの手段を選ばぬ虐殺を光秀は、信長に反対したといわれるが、その都度、信長の怒りを買い痛めつけられている。この頃、光秀は疲れていた。四国攻めの司令官の地位を追われ、なおかつ、中国攻めをしている秀吉の下についてその応援を命じられる。明らかな降格であった。その際、丹波と近江の所領を没収され、まだ未征服の出雲・岩見に移封された。信長の冷たい仕打ちを思うとき、光秀は、自分も佐久間信盛同様に用なき者と思っているのではという思いにとらわれていった。中国攻めへの出陣の直前に控え、光秀は御神籤をひいたが、三度引いて三度共「凶」であった。

 愛宕山での連歌会で光秀が歌った「時は今 雨が下しる五月かな」は、天下を取るのはこの時しかないと解釈されているが、逆境に追いつめられた光秀が、僅かな供回りしか連れてきていない本能寺を襲ったのは、天下取りの明らかな野心からであった。前掲書では「上さまの・・あのお顔に・・怯えの影をみたい」と光秀の心中を表現している。時に光秀、53才であった。



第93回 織田信長

 その先進性と徹底性で、古い中世の世界を力で破壊し近世への幕開けを行った織田信長。幼少からその奇行で「うつけ」と言われた信長だが、27才の時の桶狭間の戦いほど、運に恵まれた戦いはなかった。今川義元の首をあげ一躍近隣にその名を高からしめたが、今川軍2万5千に対して織田軍2千。このまま、まともにぶつかっては信長の勝利はあり得ない。そこで、信長は、囮の部隊を差し向け、今川軍のうち2万人をおびき出すことに成功。残りは5千。戦いが行われたのは6月の初めでむっとするような暑い日であった。暑さを逃れるために木陰の多い田楽狭間に今川本隊は移動。この動きをゲリラを使っていち早くつかんだ信長は、農民に姿を変えた細作達に、酒や餅を持って行かせ、その地への引き留めを図り、雷雨という運にも恵まれ、ついに義元の首をあげた。

 信長の面白さは、こうした急襲を決して以後使わなかったことである。雨といえば、長篠の戦いでも、進発後、4日目に開戦しているが(現在の暦で7月9日)、火縄銃の破壊力を最大限に発揮させるために梅雨の時期を避けたとも解釈できる。そうした意味では、信長は天候をも作戦の中に組み込む合理性を身につけていたのである。ちなみに、長篠の戦いでは出来るだけ狭い設楽ケ原に武田軍を誘導しその殲滅を図っている。

 合理性といえばその他、石山攻めの時に九鬼義隆に命じて建造した世界初の鋼鉄軍艦(1隻に5000人、計6隻)、足利義昭を奉じて入洛後、副将軍等の名誉職には目もくれず堺を直轄にしたことなど(堺は鉄砲の最大の生産地であった)、枚挙に遑がない。黒人を初めて見て、風呂場で洗ってみたという話は余りにも有名である。領国経営で見れば、関所を撤廃し各地で城割を行い、それまでの年貢を保証する代わりに地侍を城下に集住させ、土地は村役人に任せ、いわば家臣のサラリーマン化を押し進めた。又、織田軍の軍律は「一銭切り」(一銭でも庶民から盗み取った者は打ち首)という厳しいものであったことが知られている。

 ルイス=フロイスは、信長を次のように書き残している。

「背が高く痩せていて髭が少ない。高い声を出す人で武技を好み振る舞いは乱暴である。正義を尊び決断が早い。戦上手ではあるが、部下の言うことはほとんど聞かない。各地の大名に対してもこれを軽蔑し、肩の上から話しかけるような口の聞き方をしている。神や仏などはほとんど信じていなし、占いに頼ることもない。一応、法華宗ということになっているが、宇宙の造主・霊魂の不滅などはあり得ないし、死後には何も残らないのだとはっきり言いきっている。」

 ある意味で信長会社は急成長した猛烈会社で、役に立たなければ譜代の家老であっても退けられた。授業では、一区切りついたところで、海援隊「俺は信長」のテープを聴かせ歌詞の(  )埋めを行わせる。ハイテンポで軽快なこの曲は、信長のまとめとしては最適であろう。



第92回 網野善彦「日本の歴史をよみなおす」を読むU

Dケガレは、人間や自然の均衡のとれた状態に欠損が生じたり均衡が崩れたりした時、それによって人間社会内部に起こる畏れや不安の感情であった。人間の死穢や産穢ばかりではなく 牛・馬・犬の同様の穢れも対象とされた。

 例えば、清水坂の非人は死者の葬送に携わり、死者と共に葬られる物品を収入としてとる権 利を認められていた。その他、処刑(罪のキヨメ)や犯罪人の住宅を破却する罪のキヨメ等 も担当していた。非人は、見寄のない人、捨て子、身体障害者、癩病患者、乞食等からなる が、上記のケガレを清める職能を持ち、神人や寄人という神仏の直属民と職能的には同格であった。検非違使庁は、こうした非人達を統括し天皇の外出や賀茂祭りの際の京の町の掃除を担当させていた。14Cまでの非人を、江戸時代の被差別部落と同じようにとらえることは誤りであり、当時の彼らは、神仏の奴婢として聖別された畏敬される一面を持っていたのである。

 河原者は非人と一線を画し、祇園社に属し「裏無」といわれる履き物をつくって貢納する人々であった。他に、牛馬の葬送や解体、皮の処理などケガレのキヨメを担当し、井戸掘りや大石や樹木を動かし庭造りにも深く関わっていた。当時の人々は自然に大きな変更を加えることにケガレの感情を持ち、それを清めてくれる人々を必要とした。

 このように非人や河原者を「身分外の身分」ととらえることは出来ず、特定の職能を持つ職能民ととらえるべきである。

E「放免」は罪を犯し放免された後、検非違使の下で罪人の逮捕や、住宅の破却、断罪を行った。河原者も放免も「・・丸」という童名を名乗り髪型も童姿であった。牛飼・馬飼・鵜飼 達もその髪型は一般と異なりポニーテールや蓬髪であった。

 又、天皇の輿を担いだ八瀬童子達も、その名前は「・・丸」であったが、こうした名前は、鷹や犬などの動物、鎧、兜、武 器、楽器、船にもつけられた。これらは、共に「聖俗の境界にあるもの」として観念されていた。そういえば、子供そのものが前記の特質をそなえる存在で、当時、子供の言うことは 神の意思を体現していると考えられていた。

F13C後半頃から、「天狗草子」の中でこうした非人達を「穢れ多し」と明らかな差別用語を用い、悪人として排除しようとする動きが見られ始めた反面、穢れに携わる人も、仏の力で救われる、非人も女性も救済されるという考え方が現れる。後者の立場を代表するものが 「一遍上人絵伝」である。

 13C後半を境にして、ケガレに対する観念は「畏怖」から「嫌悪」へ大きく変わっていったと考えられる。鎌倉新仏教は、こうした悪人・非人・女性・穢れの 問題に正面から取り組もうとした宗教であった。16・17C、徹底した世俗権力の弾圧によって前記の人々は完全に差別の世界へ押しやられてしまう。「聖」なるものから「賤」への差別という変化には、社会と自然との関係の大転換=「文明化」という大きな問題が横たわっていたのである。

G土倉や借上に多くの女性がなっているのは、女性の無縁性や女性そのものが聖なるものに結びつく特質を持つ存在であったことを示唆している。西日本の遊女に東日本の傀儡、天皇や神に直属する女性職能民は8Cの「日本霊異記」にまで遡ることが出来る。魚売りの商人は例外なしに女性であり各地を遍歴する女性の商人達は想像以上に多かったと思われる。

 日本の家族は、純粋な父系、母系の何れでもない、双方的な親族組織をなしていたが、薬子の変以後、後宮の女性が公然と政治に介入することは出来なくなった。荘園や公領の検注帳はほとんど男性で占められていった。次第に女性の性そのものを穢れたものととらえ受戒からも排 除されていった。律宗は、尼寺を多数作り女性達に仏の前で自ら戒を守ることを誓約する形で僧になる途を開いた。又、一遍は教団に女性を積極的に迎え入れていった。家父長制が建前であった江戸時代では女性は表の世界には現れなかった。遊女達もその傾城街を「地獄辻子」「加世辻子」(加世とは女陰を指した)と呼ばれていた。



第91回 網野善彦「日本の歴史をよみなおす」を読むT

 この書は、『無縁・公界・楽−中世の自由と平和』(平凡社)を発表以来、従来、歴史学が取り上げてこなかったアジールの問題や各地を遍歴した職人・商人や芸能民、山民・漁民・神人や供御人等の非農業民の活動の実態を取り上げ、それらが天皇の権威と深く結びついた(例えば、諸国を自由に往来できた)聖なるものから次第に差別の観念で賤民に落としめられていった過程を追求し、それまでの、農民・水田中心の史観に大きな問題提起を投げかけ続けてきた著者が、その成果を分かりやすく著したものである。今、読み直してみても随所に新しい発見があふれ読みながら深い知的感動を覚える1冊である。ここで、以下その主な内容を備忘録風にまとめておく。

@片仮名は口頭の世界と密着した文字で書に成り得なかったのに対し、平仮名は最初から読み かつ書く文字として普及してきた。鎌倉時代の法然、親鸞、日蓮、一遍、蓮如は本気で庶民への布教を考えたのか平仮名の書状を多数書いている。所が、和讃のような口頭で誦唱されたようなものは片仮名であった。

 又、領主から村に来た年貢の割付状と百書同士の売買証文などの関係をみると、書体の変化は明らかに領主側から、それもかなり速いスピードで起こっていることがわかる。特に、明治の変化は劇的で、それまでの御家流がガラッと変わったのは廃藩置県の前後であった。日本では、律令国家から「国家の文書主義」が始まったが、明治になると日常の世界では相変わらず平仮名であったのに、法律や軍隊の分野で途端に片仮名が増えてきた。

A日本で銭に対する需要のピークは二度あった。最初は13C後半〜14C、二度目は戦国時代から 江戸時代にかけての時期。日本社会の均質化は、この銭と文字の普及にあった。「市」は聖なる空間として観念され、その場で一旦神のものにされた上で交換が行われた。「虹が立つと必ずそこに市を立てなければならない」という慣習は室町時代にもあり、かつて藤原道長の邸宅に虹が立ちそこに市が立てられたこともあった。「市」は聖なる神につながる社会であり(無縁)、河原や川の中州、浜、山と平地との境界であった坂などに立った。

 神に捧げられる初穂は中世では「上分」と呼ばれるようになるが、当時の金融行為は神のものの貸与と考えられ、神仏に対するお礼として利息をつけて返すという形で金融が行われていた。交易や金融はこのように神仏の世界と関わることによって初めて可能となり、商人や金融業者は神や仏の直属民(神人・寄人・供御人)という立場で姿を現した。

B手工業と交易が分離していなかった中世では、職人と商人は兼ねていた。鉄の燈炉や鍋・釜を作る鋳物師、曲物を作る檜物師やその他の芸能民は、何れかの神仏か天皇に直属し、その代わり全国を自由に遍歴し販売する特権を認められていた。彼らの遍歴する場は、津・沖・泊・浜・坂等であった。又、神人や供御人は実際は御家人クラスと同等の身分であり、在家役や免田畑、交通税等は免除されていた。

C律令国家は9Cの終わり頃から財政難になり、官庁に属していた手工業者は独自の集団を形成せざるを得なかった。雅楽寮・内教坊に属していた歌女・伎女、後宮の女官達から遊女(女性の職能集団)は生まれたと考えられる。諸国の国衙や大宰府では遊女を組織していた。



第90回 青い目で見た戦国時代の日本V

問. 次の文は宣教師が本国に書き送ったものであるが、文中の赤字A〜Eはそれぞれ一体何のことか答よ。

 日本人の国民は色が白く、立派な体つきをしている。
男の頭ははげている。毛抜きで絶えず毛を抜くのであるが、とても痛いので涙を流している。頭の後ろに一束だけ髪の毛を残し、それを結わえて大切にしている。

 食べ物は余りたくさん食べない。普通の人は、米と野菜を食べるが海岸に住む人は魚を食べる。人々は互いに家に招待しあうのが普通になっている。酒を飲むことについては大げさな儀式をする。食べるときは、
二本の小さな棒を用い、食物に手をつけることは汚らしいとされている。冬でも夏でも、我慢できるだけ熱いお湯を飲む。

 家は良くできている。清潔で、
厚い藁のムシロをしき、たいそう大きな綿の入ったキモノをその上に被い、木の枕をしてその上に寝るのである。家は火事にかかることが多い。貴族は夜の大部分を話や酒宴に用い余り眠らない。ムシロの上に座り高い椅子は用いない。家は清潔にするためにいつも素足で歩いたり、又、足の半ばまである一種の靴を履いて歩いたりする。

 答 A. 丁髷   B. 箸   C. お茶   D. 畳   E. 布団

 丁髷はよほど特異に見えたらしく、幕末の頃日本にやってきた外国人は、「日本人は頭の上にピストルを乗せて歩いている」と日記に書いている。又、布団の中にこの頃、綿を入れていた分かるが、これは身分的には高位の人々が使用していた。一般庶民は藁を入れた布団をその後も長く用いていた。私も小学生の頃、近くの農家の家に泊まったことがあるが、藁入りの布団で、その堅さを今でも思い出す。



第89回 青い目で見た戦国時代の日本U

C「仏僧達は寺院の中に武士の子を沢山置いて読み書きを教える傍ら彼らと共に罪を犯している。一般の人々はそれが習慣になっているのでそれを好まないにしても別に不思議にも思っていない」

 「男色」の風習は特に「仏僧」と「戦国武将」の間に広がっていた。共に禁欲的な生活を強いられたことに共通点がある。特に、武将の場合は枚挙にいとまがない程一般化していた。武田信玄(衆道の相手に対するラブレターが残っている)、織田信長(森覧丸)、徳川家康(井伊直政)、徳川家光等々。幼少の頃から小姓として共に成長してきた家臣とは特別な感情が芽生えていたことがその背景にあった。

Dヨーロッパでは夫婦において財産は共有である。日本では、各々が自分の分け前を所有しており、時には妻が夫に高利で貸しつける。
ヨーロッパでは娘や処女を隔離することは、甚だ大問題であり厳重である。日本では娘達は両親と相談することなく、一日でも又幾日でも一人で行きたいところに行く。
ヨーロッパでは妻は夫の許可なしに家から外出しない。日本の女性は夫に知らさず自由に行きたいところに行く。

 「鎌倉遺文」によれば、田畑・屋敷地の譲り状や売券の差出人や宛名を見ると、女性が相当の比率で現れてくる。又、土倉や借上に名を連ね、各地を遍歴する女性の商人達も多かった。それは女性の性そのものが、聖なるものに結びつく特質を持つ存在であったことを示している。又、中世では、若い女性が2〜3人で何ヶ月もお金を持たずに物詣の旅が出来(専門の宿もあった)、綿摘みや稲刈りに遠くまで出かけた女性達も数多く見られた。式目には「女捕り」とか「辻捕り」という女性の拉致・誘拐・暴行に関する規定があるが、「法師については斟酌すべし」とあるように余り罪は重くなかったらしい。逆に一人で供も連れずに歩いている女性を女捕ることは「天下公許」のことであった。

E我らにおいては人を殺すことはそれを行う権限や司法権を有する人以外には許されない。日本で各々自らの家で人を殺すことが出来る。
我らにおいては誰かが他人を殺しても、正当であったり自らの防衛のためであれば、生命は助かる。日本では、人を殺せばそのために死なねばならない。もしその人が姿を現さなければ、別人がその人に代わって殺される。

 前半は、「家」内部の主人の刑罰権を指す。後半の部分は、血縁意識や自力救済の考え方が強かった中世では個人と個人の争いは、必ず集団同士の戦いに発展していった。戦国大名達が喧嘩両成敗を制定し私闘を禁じたのは、こうした集団同士の戦いが、領国全体の弱化につながったからであるが、そうした無限の戦いを形の上で決着させる方法として考え出されたものが「解死人」であった。解死人は犯人でなくともよく、その処分は引き渡された集団に委ねられ、両集団の衡平感覚が保たれた。



第88回 青い目で見た戦国時代の日本T

 日本にやって来た多くの宣教師達の目に、当時の日本及び日本人はどのように映っていたのだろうか。こうした視点は、本国への報告という過大な表現を差し引いても、なおかつ、異文化圏の人間の目で当時の日本の姿を客観的に活写しているという点で、その資料的な価値は計り知れない。その中から、授業でプリントにしている箇条を幾つか紹介してしてみよう。

@「仲間同士である陰謀をたくらんだり、同盟を結んだりするような場合、どちらも手の指を刺して取った数滴の血を酒の中に混ぜ、その血の入った酒を共に飲むことが往々ある」

 これは、中世以来の「一味神水」、やくざの世界での杯の交換、果ては「同じ釜の飯を喰う」という現代の感覚にまで生きている習慣である。一揆の時につくられた「一揆契状」 (傘連判状)を燃やしてその灰を神社の水に混ぜて参加者全員が廻し飲み、「運命共同体」の 契りを結ぶ。この連判状を「燃やす」行為は、空中にその煙となって舞い上がることに注目し、自分たちの願いを神に聞き届けてもらう呪術的な目的を見いだす研究もある。

A「日本では盛んに堕胎を行う。ある者は貧困から、他の者は多くの子供を持つのを嫌がるためになどの理由からである。こうしてこのことは、何人もとがめないほど一般の事柄になっていた。生まれた子供の喉に足を乗せて圧し殺すのもあれば、ある種の草の薬を飲んで堕胎 する者もあった。堺の町は大きく、人口が多かったから朝方岸辺や堀端へ行くと、その中に投げ込まれたこの種の子供を見ることがあった。生まれてすぐに捨ててしまう子供に対して、母親が幾分かの人間らしさを示そうとすれば、その子供を岸辺に置き、やがて満潮と共 に死んでしまうようにするか、あるいは、いつも犬が食いに来る堀の中に子供を投げ込むかする。」

 間引きや堕胎は、生産力が低く多くの人口を養えない絶対的な貧困から行われた習慣であった。堕胎が多かったのは未婚の母が多かったせいで、現実に対する一つの対処の仕方であった。又、こうした習慣が一般的だったのは、子供は7才までは聖的な存在(神に近く人間ではない)という意識が一般的であったことにもよる。しかし、江戸時代260年間の全人口が約3000万人を維持し続けたことの事実に気づかせたい。毎年、ここでは、映画「楢山節考」を例に取り上げ、「姥捨て」の伝説に触れている。

B「日本では産まれた子供に産着を着せるが、その場合、両手はいつも自由になっている。ヨーロッパの場合は、長い間、襁褓で包んでいるので手は拘束されている。ヨーロッパでは4才の子供でも自分で食事をすることが出来ないのに、日本の子供は早くから箸を使うことを 覚え、3才になれば一人で食事をする。又、ヨーロッパでは鞭を用いて子供に懲罰を加えが、日本では言葉で戒め、6〜7才の子供に対しても70才の人に対するかのように真面目に話を聞かせる。」

 古代ローマ以来、子供の健全な成長を考え、両腕を真っ直ぐに両足の側面につかせ包帯でぐ るぐる巻きにし、部屋の釘に引っかけていた。まるで蓑虫そのもので、古代ローマでは骨の 曲がった子供が多かったらしいが、実はこうした育児法にも大きな原因があった。さらによ ちよち歩きできるようになると、正しい歩き方を子供に覚え込ませるために、手足に紐をつ けて親が「いっちに、いっちに」と歩行の訓練をさせたともいわれる。「トッポジージョ」 じゃあるまいし、まるで、マリオネットの原型?。毎回、ここまで説明すれば「ウッソー」という生徒の声がわき起こるが、歴史的事実だから何とも仕方がない。



第87回 火縄銃

 授業では複製の火縄銃を持ち込んで展開しているが、生徒達のショックは相当なもので、一応の説明を終え火縄銃を回覧する段になると、女子生徒などは、怖がって中々手にしようとしない。

 種子島時堯がポルトガル人から購入した火縄銃は2挺。島内の鍛冶職人金兵衛にその模造を命じたが、どうしても銃身を塞ぐ工夫が見いだされずに悩んだ。金兵衛は自分の娘をポルトガル人に差し出しようやくその仕組みを理解した。それもその筈。実はこの時初めて日本人は「ネジ」と「ナット」の技術を会得したのだ。

 それから鉄砲の一斉射撃で有名な長篠の戦いまで僅か30年(関ヶ原の戦いの時点では、両軍とも鉄砲の比率が全軍の40%を占めていた)。その普及は非常に早かった。実は信長の考案した一斉射撃(これを可能にしたのは、火薬と弾丸をワンセットにした「早合」の使用にあった)も本家ヨーロッパよりも300年も早かったのだが、それにしてもこれだけのスピードで普及したのは、鉄砲の鍛冶職人の大半が刀の鍛冶職人からの転業であったからなのである。

 火縄銃は、後のライフル銃等とは異なり(南北戦争の後半から登場)、銃身の内部に螺旋状の溝が刻まれておらず、その分、射程距離50〜100mと短く殺傷力も弱かった。当時、鉄砲で撃たれた場合は、馬糞を湯に溶いだものを傷口に注ぐか、鉛の弾丸が腹中に止まらぬよう、戦の前には食べないで腹を空っぽにすることが行われた。「腹が減っては戦が出来ない」とはいうが、こうした場合はそうも言っていられなかったのである。



第86回 ザビエルと大ウソ教

 イグナチウス=ロヨラによってイエズス会がつくられてから15年目にして、ザビエルは鹿児島に上陸した。実は彼は来日の前にマカオで布教していたのだが、「アンジロウ」という日本人青年を知り、その誠実で勤勉な人柄に触れ、日本への布教を決意したと言われている。天皇からの布教許可を得るべく、都に上ったが、そのみすぼらしい姿に沿道の人々は石を投げつけ、布教の交渉もうまくいかなかった。

 そこで、ザビエルは一端戻り、多くの土産物を持って再度上洛。今度は念願の許可を得ること成功した。その後、ザビエルは3年間、日本で布教し帰国したが(遺体はインドのゴアにある)、本国への書簡の中で「今まで発見された人民の中で最も優秀で異教徒の間には日本人に勝る者は発見できない」と絶賛する一方、日本人の質問好きな側面を取り上げ、「宇宙の現象について知っていると良い。なぜなら日本人は天体の運行や月食を熱心に聞くからである。」と書き残している。

 こうした日本人の質問好きは、幕末のペリーの日記にも触れられており、日本人が旺盛な好奇心の持ち主であったことが浮かび上がってくる。しかし、キリスト教は当初、「大ウソ教」と呼ばれていた。これは仏教側からの中傷で、キリスト教の神「デウス」を「ダイウス」、「ダイウソ」、そして「大ウソ教」と呼び変えていったからである。当初、日本人にはなかなか一神教の考え方が理解出来ず、宣教師の方からも「神」を「天照大御神」に置き換えて説明するなど、日本の風土にあった布教を行っていった。本来、原初的な神道(無宗教)の日本で一神教のキリスト教が本当に理解され得るのかという根本的な問題はあるにせよ、日本人はキリスト教の内容を理解出来ずに、十字架も案山子とか病気や呪いの道具に用いていたのである。



第85回 クイズ 戦国時代U

Dこの当時、武士が戦闘の時に背中に背負っている旗差物はだんだん大きな物になっていった。戦うのに邪魔になったと思われるが、なぜ、こんな物を持っていたのだろうか?

 答 目立つ旗差物を背中につけ自分の働きを味方に認めてもらう為−名のある武士は論功行賞で恩賞に預かるため、自分の手柄をまとめた軍忠状を提出しなければならなかった。その際、必ず証人を必要としたので、出来るだけ目立つ恰好をする必要があった。授業ではここで主な武将の「旗印」も併せてクイズ風に紹介している(信長の永楽銭をあしらったもの、石田三成の大一大吉大万、秀吉の金成り瓢箪等。そのうち、旗印も是非複製をつくってみたいと思っているのだが)。

Eこの当時、手・足・首等を車につないで同時に引っ張る「車裂き」の刑罰があった。一体、人間の体のどの部分から切れたのだろうか?

 答 手・足・首が同時に切断された−この他、極刑としては「鋸挽き」という刑罰があった。首だけ出して、木で出来た歯の大きい鋸で、通行人に少しずつ首に鋸をあてて挽かせるもので、苦痛が長いという点では極刑に相当する。織田信長を狙撃した杉谷善住坊がこの刑罰を受けている。戦国法はこのように武断的で残酷な刑罰が多かった。

  首は、敵を組み伏せ、鎧通しで押して切った。首の髷を紐代わりにして腰にぶら下げたという(重さは約5〜6s)。首実検の前に必ず首は洗って化粧を施され、白粉・お歯黒までされた。なお、後に朝鮮出兵で日本兵が行った「鼻削ぎ」は上唇から鼻を切断してきた。これは男女の区別をつけるためでもあった。

Fここは戦場。激しかった1日の戦いも終わって日が暮れてきた。戦いが一時中断されて陣幕が下ろされる。この時、陣中にぶら下げた物は何か?

ア。 洗濯物   イ。 昆布    ウ。 てるてる坊主    エ。 勝ち栗    オ。 風鈴

 答 オ − 風の動きから敵の夜襲を警戒するため。



第84回 クイズ 戦国時代T

@この当時、戦国大名達は合戦の前に色々と縁起を担いだ。どのようなことをしただろうか?

 答 出陣の前に勝ち栗や昆布を食べた。その他、特定の日や方角を避けた。

A当時の合戦では、雑兵は自炊をしていた。どのようなものを普段食べていただろうか?

 答 乾燥した米に水をかけ、腰に巻いていた芋がらを味噌で焚きしめたものを細かくして落とし一緒に煮て食べた。鍋は自分の兜を逆さにして用いた。なお、燃料用の薪は各自で持参したが、足りないときは馬糞を乾燥させたものを使った。

Bこの当時、雑兵達には米が支給された。一合戦に10日分位あればよいとされていたのに、実際には3〜4日分しか支給しなかった。それは、10日分全部渡してしまえば、彼らはある方法でその米を使ってしまうからだが、その方法とは何か?

答 酒にして飲んでしまうから。

C合戦となると雑兵達に槍が与えられた。これから敵につっこんで行くが、この時、雑兵達は槍をどうやって使ったのだろうか?

ア.一列横隊で突っ込んだ。   イ. 一列横隊だが、槍を上下に降りながら突っ込む。    ウ.一列縦隊で次々と突っ込んだ。

 答 イ。 上から相手の兜(頭)を叩くため−陣の最前列に配置された長槍は長さ6.3mもあった。当時の合戦の武器の中心は鉄砲と槍。特に槍は南北朝の頃から使用された。刀は白兵戦になると歩行者天国のような、人が密集した所で斬り合うので、突くか(中腰のままでしゃにむに下から突き上げた)、叩くかの何れかの使い方が主なものであった。だから、鎌倉時代の頃の刀と比べると、反りが少なくなている。普通は2・3人も斬れば、刃こぼれをしてしまうので雑兵は砥石を腰にぶら下げて持っていた。秀吉の子飼の武将加藤清正でさえ、初陣での斬り合いは意識がかすみ何が何だか分からなかったと述懐している。



第83回 戦国時代のポイント

@各地に大名が割拠する戦国時代は、簡単にいえば軍と外交を持つ独立国家(大名領国)が併存していた時代ともいえる。もっと具体的に言えば、国内の荘園毎よって長さの単位や枡の大きさがそれぞれ領国によって異なっていたばかりではなく、年貢・公事等の収取内容も雑多であった。後に秀吉によって行われた太閤検地が、丈量を統一して全国同一の基準で面積を測定出来たのは、実に天下統一を成し遂げたからに他ならない。

Aいち早く家臣団を城下町に集住させたのは織田信長であった。彼は、家臣達のそれまでの収入を保証する代わりに城下町へ移り住まわせ、「城割り」と称して国人や地侍達の城や館を破壊した。今で言うサラリーマン化の始まりであった。又、彼ほど、能力次第によってあらゆる階層から家臣に引き上げた例はない。百姓出身の秀吉、伊賀の忍者出身ともいわれる滝川一益、妻子を引き連れての浪人明智光秀などがそれである。
 
B戦国大名はそれぞれに領国経営に力を注いだ。武田信玄が釜無川に築いた「信玄堤」は、その一部が現在でも残っており確認できる。又、信玄は、川中島の情報をいち早く知るために、川中島から甲府まで無数の狼煙台を築き、最速2時間でそれを知ることが出来た。又、この時代、各大名によって領国内の金山・銀山の開発が積極的に行われたが、金銀とも日本で最も多く採掘されたのがこの時代であった。特に銀は、同時期の全世界の産出量の三分の一を占め、しかもそれが50年間の長期にわたった。金・銀は合戦毎に軍資金や恩賞として使われたが、秀吉は常時1億円相当の金塊を持ち歩き家臣にその場で金を与えたといわれている。



第82回 斎藤道三

 美濃の蝮斎藤道三の場合はどうであろう。道三は元々、妙覚寺で法蓮坊と名乗っていた。荏胡麻を扱う奈良屋の主人におさまり、永楽一文銭の穴を通して油を下の受け壺に落とす至芸を見せながら辻売りをし、多くの富を得た。次いで諸国を歩き回り最も盗みやすい国を見いだす。それが美濃国であった。

 松波庄九郎、奈良屋庄九郎、山崎屋庄九郎・・・その名を変えること実に13回。ついには美濃国守土岐頼芸を追放し美濃国を手に入れる。その領国経営は、門閥性の打破や専売制の無視などまさに中世的権威の打倒であった。しかし、道三は自分の子義龍に殺されてしまう(実は義龍は道三の子ではなく追放した頼芸と、頼芸の愛妾深芳野との子であった)。道三の天下取りの野心は、二人の男に受け継がれていく。一人は、娘帰蝶の婿となった信長と、帰蝶を産んだ母の実家・明智方の光秀であった。道三と信長は生涯にたった一度だけ会見しているが、信長の率いる進んだ軍装と、全く無駄のない挙措を見た道三は、会見後、「やがて自分の子らは将来、信長の馬の轡を取ることになるだろう」と周りの者にもらしたという。又、道三は死ぬ直前に、「美濃一国を婿の信長に譲る」という遺書を残していた。



第81回 謙信と信玄

 応仁の乱後、各地に現地にしっかり根を下ろした戦国大名が現れ、天下を睨みながらそれぞれ領国経営を行っていった。授業では個性溢れる戦国大名の一人一人を詳細に論じてみたいところだが、進度の関係から、思い切って信長以前は、北条早雲、上杉謙信、武田信玄、斎藤道三にスポットをあてて、そのキャラクターを簡潔に紹介している。例えば、北条早雲。この人物は何をするにも遅かった。結婚が50才、堀越公方を倒し小田原に本拠を構えたのが64才、そして88才まで長生きした。

 謙信と信玄は比較して説明し川中島の戦いで一気に盛り上げる。今更ながら説明を要しないほどに有名な故事ばかりだが、お節介を承知で先ず二人の事歴を振り返ってみよう。

 謙信は兄為景を破り越後守護代の地位につく。どちらかといえば天才型の武将で、実利よりは正義の戦いを繰り返した。関東管領の上杉家を継ぎ、26年中、14回も関東に出撃し、生涯70回近くの合戦を行っている。軍神「毘沙門天」に帰依し、毘沙門堂で一心勝利を祈願した。だから、旗印も「毘」。生涯独身を通した。彼は実際には身長が150pしかなく、愛刀の「兼光」を9p縮めて使っていたともいわれる。

 一方の武田信玄は父信虎を国外に追放し甲斐国守護の地位についた。孫子の「風林火山」を旗印に、合戦を行うにもリハーサルにリハーサルを重ねる秀才タイプで、策略家でもあった。ついに上洛を決意し、それに立ち向かってきた家康を三方が原で問題とせずに軽く一蹴。しかし、陣中、胃ガンで死んだ。命拾いしたのは織田信長であった。

 両者の対決は川中島の戦いが有名である。特に4回目は最も激戦となった。この時は、両軍とも、自分の領国を正面に見据える位置に陣を構え、お互いに相手が動くのをじっと待った。山本勘助(山勘の由来の人物だが、実在ではない)が提案したといわれるキツツキ戦法を取った武田軍は秘かに軍を二分し、謙信が籠もる妻女山の背後を突こうとしたが、事前にその動きをとらえた謙信は全軍に命じて信玄の本陣への攻撃を行った。床几に腰を下ろしたままの信玄が、馬上から刀を振り下ろしてくる謙信。一騎打ちの場面が何といってもクライマックスだが、授業では「川中島合戦図屏風」を取り出して臨場感を出す。定説では、この場面は後の創作ともいわれるが、混戦の中では実際にあり得た場面であったかも知れない。後に秀吉がいった言葉がこの合戦の勝敗を明らかにしている。「午前6:00〜9:00までは謙信、9:00〜12:00までは信玄の勝利」であると。謙信と信玄。両雄が隣国同士であったことが、共に上洛への時期を遅くさせ、信長の天下取りを可能にしたのである。ついでに言えば、信長は信玄・謙信には非常に気を使い、信玄には自分の娘を、又、謙信には「洛中洛外図屏風」を贈っている。



第80回 勝俣鎮夫「一揆」を読むU

D百姓一揆によく見られる蓑笠、乞食、非人姿は、社会的に定められていた姿形を変えることによって、異形−アウトローになり(非日常的)、厳しい身分規定を破棄することを示した行為であった。又、上記の姿形は自らを「鬼」「神」に変身させる行為でもあった。百姓一揆で、米俵や荷俵を担ぐ行為は、稲の精霊に対する農民の信仰とつながるものである。

E「逃散」は「山林に入る」「山野に入る」「山に上がる」「山に登る」と表現されていったが、中世農民の屋敷地や垣内の生垣には氏神の花とされた卯の花が多く用いられ、屋敷の門は門木を立て注連がはられていた。「柴」や「篠」は神の依代としての性格が込められていた。寺社領荘園では年貢滞納・逃散百姓に住居への立ち入りを禁ずるために住居を検封しその田畑に神木を立てる処罰方法がかなり一般的であった。「篠」をかけた場所は「山林不入地に号し」と言われ一種の聖地=アジールと認識された。

F当時の土民の側の意識では、自分たちは土一揆を結んで徳政を要求するのだからその要求は 認められて然るべしであるという主観的意識が存在した。守護をはじめ荘園領主、地侍の一揆まで、在地での徳政は広範囲で行われていた。実は「私徳政や在地徳政の海の中に公武徳政の島が浮かんでいた」のである。

G当時の売買は「仮の姿」であり、売主は、売却した土地を優先的に買い戻す先買権や売却した土地に対する処分干与権を持ち続けた。「地発」は本主が取り戻すことによって仮死状態の土地を息づかせ生命を甦らせ本来の姿に戻すことをいう。それは復活、再生、一新ともいうべき行為で、徳政要求はこうした地発の観念や慣行を前提として行われた。

 幕末の「世直し一揆」は質地の返還や貸借の破棄を求め、「世均し」=平等を目標とした点で、徳政一揆と大きな相違はなかった。



第79回 勝俣鎮夫「一揆」を読むT

 前記「衆議」の所でも参考としたが、同書は、「一揆」に関する習俗や形態・変遷を中世から近世にかけて論述した名著である。平易な文章でありながら、一揆を支える当時の観念や行動形態を詳細に展開し、その成果は必ず授業の奥行きを深めてくれるものと思う。以下、その主な内容を箇条書風に紹介しておこう。

@一揆とは「ある目的を達成するためにつくられその目的のためにのみ機能する非日常的集団である」とし、それに参加する個々の人々が現実を越えた存在となることを目的とした作法や儀式を必要とした。それが「一味同心」「一味神水」であった。

A「一味神水」は農民特有のものでなく、幕府評定の一味にも中世寺院の一味にも、又、国人 一揆にもこのような作法が前提とされた。神水は「寄辺の水」ともいわれ神霊が宿ると考え られ、作成された二通のうちの一通の起請文を焼きその灰を神水に入れ全員で飲んだ。この儀式を通して「神と人」「人と人」との間を「一味同心」とすることが出来たが、一揆の神懸かり性や狂気性はこのことと関連する。

B一揆結成の際には金属音が重要な働きをしていた。「金打」といい、音声で誓約する場合、身の回りの金属器具を打ち鳴らした。武士は刀、僧侶は鉦、女性は鏡、寺院の鐘や神社の鰐口等々。元々、金属を鳴らす行為は、神を呼び出し、誓約の際にその神を保証人として立ち合わせる目的があった(銅鐸の音が弥生人にどのようにものとして聞こえたか想像して頂きたい)。一味神水の元々の形は、金属器を打ち鳴らしながら、誓言を述べ神水を飲んでいた(起請文を焼く行為は後に作り出されたものである)。授業で、そのうち寺の鐘のテープを効果音として使ってみたい。

C寺院の決議は、箇条書きの表現であった「事書」にまとめられた。「事書」は、通常の法の 適用を一切拒絶する意味があった。一族全員で「列参強訴」は、無理と一般的に考えられた 要求を行う手段で、一味同心の決定や行動は正義であり特殊な力を持つと考えられていたことに由る。同様に年貢の減免や代官の罷免を求めた惣百姓が全員署名した「百姓申状」は、要求自体の正当性の主張に容易に転化し得た。「郷質」の法習慣も、郷村メンバーの一体感を前提として初めて成立するものである。



第78回 「御伽草子」の世界

 「御伽草子」には「一寸法師」「ものぐさ太郎」「浦島太郎」等が収められた庶民の夢を託した短編小説であると教科書には記載されている。「皆な、一度はこの話は聞いたことがあるだろう」と、軽く流すことも出来るが、それだけでは勿体ない。というのは、「御伽草子」も昔話も、「グリム童話」同様、原典の記述と、小さい頃絵本で覚えているものとは決定的に違うのである。生徒にとってなじみのある分野だけに、ここでは原典の筋書きを紹介し、その相違に気づかせたい所である。なお、現在市販されている昔話の絵本を引っぱり出してページをめくりながら説明しても良い(私は切手の「日本昔話シリーズ」を拡大カラーコピーしたものを使っているが)。ここで大変参考になるのが、槇佐和子著『日本昔話と古代医術』(東京書籍)という本である。これは昔話の中に現代人が忘れ忘れ去ってしまった古代医術の驚くべき知識や効能が秘められていることを解明したユニークな昔話論である。

「一寸法師」

 江戸時代の絵双紙では、次のように描かれている。ある夫婦には、40才になってもなかなか子供に恵まれなかった。夫婦は住吉大明神にお祈りし翌年にようやく一人の男の子が授かった。所が、それは一寸くらいの小さな子。驚いた夫婦は「これはきっと化け物の仲間に違いない。いっそのことどこかにやってしまおう」とひそひそ相談した。これを聞いた一寸法師は「どこかにやられてはたまらない。」と考え、「私を都に修行に行かせて下さい。」と自分から申し出、都へと向かった。何とか、宰相の家に仕えることが出来た一寸法師は、宰相の姫が欲しくて仕方がなかった。そこで、ある時、姫が眠っている間に打ちまき用の米を口に塗りつけ、「姫が大事な米をこっそり食べてしまいました。」と宰相に告げ口をした。怒った宰相は、一寸法師に姫を与え家を追い出してしまった。

 鳥羽の港からある島に着いた二人を待ち受けていたのは、大きな鬼だった。一寸法師は鬼にひょいとつまみ上げられて口の中に入れられてしまったが、持っていた針の刀でお腹のあちこちに斬りつけた。痛みで鬼は一寸法師を吐き出し退散してしまったが、そこに置き去りにされた打ち出の小槌を直ちに自分に向けて「大きくなあれ、大きくなあれ」と唱え普通の立派な若者になった。都に上り、姫説と結婚し(実は二人とも由緒正しい血筋であった)爺・媼を屋敷に招き寄せ幸せに暮らしたという・・・。こうしてみると一寸法師は、結構ずる賢く描かれているのだが、体が小さかった弱点を克服するにはそれぐらいのずるさがなければ人並み以上にやっていけないということなのかも知れない。前掲書によれば、「打ちまき用の米」を一寸法師が保管していたのは、陰陽道や祭祀に関わる仕事をしていたこと。又、一寸法師で童子でないのは針灸師の多くが僧形であるのと関連し、針を持って家を出たことは、針の技術で身を立てようと決心したことを意味すると考える。又、化け物と嘆く親を恨まず、自らの手で道を切り開き出世して親に孝養を尽くすストーりーの展開には儒教精神の影響を読みとることも出来る。

「桃太郎」

 川に洗濯にいったお婆さん。上流からどんぶらこどんぶらこと大きな桃が流れてきたので、拾い上げて家に持っていき二つに割ってみたら、そこから桃太郎が生まれた・・・。実は原典には、これ以外に、桃を食べて若返った老夫婦の間に桃太郎が生まれたというもう一つのパターンがあった。桃は木偏に「兆」。「兆」は非常に数が多いことを意味し、多産のシンボルでもあった。古代中国では、バレンタインデーではないが、女性が男性に桃を贈ることは「私はあなたの子供を産みたい」という意味であった(ここで、「間違っても桃を贈るなよ」と軽く冗談をいつも飛ばす)。古来、桃はツツガ虫病、脚気、ニキビ、ノイローゼ、熱病などに効く万病薬であった。そうした意味では、鬼退治する桃太郎の話は、薬効の全てと呪術効能の全てを象徴する桃太郎が、人の心身の悪しきものを退治する話として読みとることも出来る。



第77回 室町文化−集団のコミュニケーション

 水を用いないで石や苔、木だけで自然を表現した枯山水(これは一種の箱庭で、何でも小さくするのを得意とした日本人の特性)、床の間を飾る水墨画、和風住宅の原型書院造(僧侶が書見する部屋)、闘茶からスタートした侘び茶、仏前への供花から芸術的に高められた立花、その他、豆腐、饅頭、納豆、羊羹等、東山文化の大半は、臨済宗寺院の中から生まれた点に特徴がある。

 さらに北山文化をも含めて考えると、地方にまで流行した連歌や能楽、狂言、盆踊り等に見られる共通点は、共に集団で楽しむもの、それらを見、演ずることによって多くの人々の間のコミュニケーションを図るためのものであった点にある。このような横のつながりを求めたのは、南北朝の動乱、土一揆、応仁の乱等、変動の激しかった時代相が背景としてあったからである。人々はこうして一ヶ所に長い時間集い興じた。それは、さらに畳の部屋を準備し、夜型の生活(照明用の菜種油の増産)、一日三食(醤油・砂糖などの調味料の使用や豆腐・羊羹・饅頭という間食の出現)等の生活の変化をもたらしていった。



第76回 銀閣と義政

 慈照寺銀閣の造営には、諸国に「御山荘要脚段銭」をかけて徴収した。段銭だから一段あたりいくらという形で全国から取り立てようとしたのだが、これは普通、天皇の即位の大礼とか、皇居の造営、伊勢神宮の建て替えなどのような時徴収するもので、自分の別荘造営にこの手を使ったのは義政が初めてであった。この他、有名寺院の木石などもどんどん徴発した。等持院の松、鹿苑寺の石、東寺の蓮、長谷寺の檜等々。

 寺社、公家、百姓などの間に少なからず不満の種をまく結果となったらしい。西来堂の額の名前は横川景三(「東求」に決定)、その字は何度も集箴という僧侶に書き直させた。襖絵は狩野正信が担当したが、何を書かせるか、画風はどんな風に、と義政は楽しそうに気を揉み、凝りに凝るのが嬉しくてたまらなかった。なお、完成した銀閣では、月見の会や茶会、立花の会などが催されたのは言うまでもない。



第75回 室町時代の産業

 この時代の農業の特色は新田開発ではなく米の早稲・中稲・晩稲等の品種改良に見られる集約的な経営による田畑の生産力自体の増大にあった。関東では二毛作、又、畿内では二毛作から三毛作まで行われようになった。畑作では苧と藍等の手工業の原料生産が広がった。苧(カラムシ)は麻の原料だが、人の爪で繊維をばらし唾をつけてヨリをかけ糸にしていくという気の遠くなるような作業を必要とした。そしてその作業は大半女性の仕事であったが、この頃、朝鮮から伝来した木綿の約10倍もの労働を要したと言われる。

 木綿の伝来は、当時の日本に大きな影響を与えたといわれるが、麻に変わって衣料の主原料に躍り出、その保温性、吸湿性等から日本人の寿命を一気に引き上げた。又、染色しやすいということから、色とりどりの衣服の登場を促し、特に藍はこの木綿の染色に使われその生産を促進した。阿波の藍、越後の苧等、各地に特産品が生まれて来たことは、「京へ筑紫に板東さ」という方言の誕生とも決して無縁ではない。

 又、応仁の乱後、六斎市と呼ばれた定期市が各地に立ったが、市そのものがある種の「清められた空間」であった。その空間は物の、それまでの所有関係を一切断ち切る「無縁」の空間ともいうべきもので、盗品や人妻であっても、売買の交換とされたのである。「支払う」とは「祓う」に由来する言葉であったことを説明の中に挿入すれば、当時の売買が「清め」の性格も持っていたことが頷ける。こうした市で売られる商品には値が決められておらず、なるべく高い値で売るのが商人の芸であり、逆に出来るだけ値切るのが買う側の芸でもあった。ついでに言えば、古代の「売る」というのは、永代売りではなく一年を限って売ることを指した。それが次第に十年十作や二十年二十作と期間が延長していったが、元金を持っていけばいつでも返してもらえた背景には、こうした売買の習慣があったからである。そして、この室町時代になって、ようやく永代売りの形が広がってきたことに注意しよう。それは生産力の高まりに呼応して私的所有権が発達してきたことを物語る。

 又、当時、都で高利貸しを営んでいた土倉の大半はその本所が延暦寺であった。それぞれの土倉は個別に山門に帰属し役銭を納めることになっていた。当時の土倉は「山門気風の土倉」とか「山法師の土倉」とも呼ばれ、実際に法体の者が多かったともいう。彼らの資金を出資してくれたのが延暦寺をはじめとする寺社や、公家などであった。

 さらに、室町時代の物の流れは「地方から中央へ」から「地方から地方へ」に大きく変化していたと言われる。それは海上を突っ切って物を大量に運ぶ船の質的な変化があったからである。それまでは「刳り船」といって櫓を使った船であったものが、この時代には竜骨を用いた「構造船」という大型帆船に変わっているのである。

 それを可能にしたのは船を建造するときの道具の改良であった。「刳り船」の段階では、楔を打ち込んで木材を切断していた。つまり、当時、粘りがあって割れやすい杉や檜を材料としていたものが、この時代に大鋸が登場し木材の縦挽きが可能となり竜骨の建造をはるかに容易にしたのである。従ってこの段階では粘りの少ない欅が用いられた。例えば、津軽十三湊から反対側の表日本を含む日本各地の焼き物が出土するのは、こうした大船の出現や技術上の改良があったからなのである。



第74回 クイズ 応仁の乱と公家

@応仁の乱で生活の基盤を失ってしまった公家達はその後どのように暮らしをたてていったのだろうか?

答え−アルバイトや地方の大名を頼って下向した−当代の最高の知識人一条兼良(二条良基の曾孫にあたる)でさえ、日野富子に「源氏物語」の講義をした話は有名である。

 兼良は、異常なまでに菅原道真を敵視していた。自分の方が官位が高く、知識の範囲も当然道真よりも広いので自分の方がはるかに道真よりも優れているというのである。そして決して天神の掛け軸の下にいることさえ嫌っていたという。それは知識人特有の対抗意識ともいえる。又、三条西実隆は、「源氏物語五十四帖」の筆写で計90〜120万円の収入を得ているが、原稿用紙2600枚を要したことから原稿用紙1枚あたり462円の収入という計算になる。

 当時の公家の零落ぶりは朝廷でも例外ではなかった。後土御門天皇が崩御した際、葬式の費用がなく、死後、40日後にようやく泉湧寺に葬られた。次の後柏原天皇の場合 は、天皇即位の費用がなく、何と22年後にようやく即位できたのである。


上・一条兼良「公事根源」宮中の儀式について記したもの。


第73回 応仁の乱

 足利義政は6代義教の子供で、幼い時から、父のように将軍権力を振り回さないように育てられたことからその性格は無気力・無感動・無関心・無責任というものであった。興味があることと言えば、庭造りのみ。将軍職を弟の義視に譲りほっとしたのも束の間、正室日野富子との間に義尚が生まれてしまったことから、応仁の乱は発生した。加えて、各守護大名家も家督相続は嫡子単独相続に代わっており、家臣団や有力守護大名の後援、将軍家の許可を絶対必要としたので、将軍継嗣問題と守護大名家内の家督相続問題が複雑に絡みあい、乱は長期化した。

 この当時、飢饉が重なり、賀茂川は82000人もの死体で埋め尽くされたともいわれるが、気象学的にもこの時期(1440〜60)は黒点の消滅時期に当たり地球全体が小氷河期になっていたことが確かめられている。乱はその後10年間もだらだら続いたが、後半は、日明貿易をめぐる大内氏対細川氏の経済戦争という性格に大きく変わっていった。又、この乱で寺社の多くが放火や略奪の対象となったのは周知のように足軽の横行に原因があった。彼らは戦のある時だけ軍に雇われ(1日60文位)たが、戦がない時は上の暴行を働いたのである。一条兼良が「樵談治要」の中で「足軽は超過したる悪党なり」とその禁止を説いたのはこの頃である。

 幕府や朝廷を財政面で支えていたのは日野富子であった。富子は、米相場に手を出し、敵に米を売ったり、関所を設置したり利殖に励み、最高で七万貫(一貫は銭1000枚)も保有したといわれている。



第72回 嘉吉の徳政一揆

 嘉吉の乱で6代将軍義教が暗殺された直後、この徳政一揆が起こされた。それは、将軍の代替わりを契機に、全ての状態に戻るという復古の観念の下に起こったものだが、幕府から徳政令の公布を引き出すために、一揆側は巧妙な方法を用いた。彼らは京の諸口を封鎖し東寺などの寺社に籠もり、放火することをちらつかせながら徳政を要求し、ついにそれを実現させた。正長の徳政一揆よりも大規模ではるかに組織的な行動であった。

クイズ

@ある時、もうすぐ徳政令が出されるらしいぞという噂話を聞いた宿屋の主人。これをきっかけに大儲けしてやろうと宿に泊まった旅人から次々とめぼしいものを借りて歩いた。そのうち、徳政の報せが入ったので、旅人達に「さて、この徳政と申しますのは”お借りしました と言ったものは全て借り主のものになる”というありがたいお触れでございます。従って、先日お借りしたものは皆、この私のものになりました」と言い渡した。旅人達は皆びっくりしてしまったが、その中のある一人の発言で宿の主人を逆に言い負かしてしまったという。では、その旅人は何と主人に言ったのだろうか?

答 私達は宿をあなたから借りましたので、徳政令によって今日から宿は私達のものになりました。出ていって下さい。



第71回 中世の琉球

 この頃の琉球は東アジアの中継貿易で大いに繁栄していたが、15C半ばに、中山朝の尚巴志によってようやく領域的な統一を果たしている。そうした意味では、琉球は本土の歴史に比べ10C以上も遅れていた。その最大の原因は鉄資源に恵まれず、14Cまでは石器・土器の時代であったと言っていい。当時、鉄器は全て輸入品であった。鍋・釜等は主として中国から買い、刀剣は主として日本から買った。鉄器を買ったおかげで遠洋用の船をつくることが出来、貿易の利も知ることが出来た。日本から仕入れて中国へ売る商品のうち、最も重要なものは鉄器、それも日本刀であったという。

 当時、琉球は中国と朝貢関係を結び、その結果莫大な利益を得ていたが、江戸時代の初めに島津氏により征服される一方、中国との朝貢関係は継続されていた。中国の使節が琉球にやってきた時は、島津の侍達は物陰に隠れ、琉球王国が相変わらず存続していたかのようにみせかけたともいわれる。江戸時代を通して琉球は島津氏にとって金の卵であった。中国との交易で得た財産はそっくりそのまま持ち去られ、又、島津氏は琉球を通して公然と密貿易をしていたからである。




第70回 中世の蝦夷地

 当時、一ヶ所で日本最多の銅銭が出土したことで知られる函館志海苔遺跡。「え、函館の周辺が一番だって」という生徒の驚きの声。出土した3つの大壺にあった銅銭の合計数は約37万4千枚(ちなみに第二位は長野県の15万枚で志海苔が圧倒的であることがわかる)。当時の東アジアの基軸通貨であった永楽通宝は1枚もなかったが、洪武通宝12枚。大半は北宋銭で、合計94種類、中には安南銭まで混じっていた。さらに中国や朝鮮系の焼き物も数多く出土している。
「では、この大量の銭を土中に埋めたのは誰でいつ頃のことか?」

 当時、和人は函館周辺に「十二館」という軍事施設を構えて居住していたが、15Cの半ばに起きたコシャマインの乱の時、志海苔館は陥落。恐らくその時に埋めたものともいわれている。それにしても、これだけ多くの銅銭がここあったということは、蝦夷地を基点とした広範囲な交易の存在を考えなければ成り立たない。当時、安東氏が本拠としていた十三湊から蝦夷産の鮭や昆布が畿内に運ばれ、十三湊は殷賑を極めていた。鮭や昆布は、畿内から博多、さらには中国にまで輸出されていた(昆布1本で米3〜4合に相当)。後に、安東氏は南部氏との争いに敗れ蝦夷地に逃れ、その家臣蠣崎氏がコシャマインの乱を鎮圧した後の松前氏になってゆく。

 江戸時代の松前氏によるアイヌの収奪は、言語に絶する程のもので、米が取れなかった松前氏は、家臣に俸禄の変わりに特定地域のアイヌとの独占的交易権を与えたことにはじまり(場所請負制)、それを商人が代行していった辺りから、アイヌは対等の取引相手ではなく完全な奴隷のような状態に置かれた。こうした中で、松前氏は、「蝦夷錦」といわれた(清朝役人が着用した高価な)絹織物を手に入れ、藩財政を大いに潤ませていくことになる。
   上「宋銭」


第69回 絵本で見る惣」

 「南北朝時代、機内を中心につくられた地縁的農民の自治組織」。これが惣についての授業プリントでのまとめであるが、余りにもまとめ過ぎられてそのイメージが具体的に浮かんでこない。もっと、惣の構成員である農民の側から、惣の内容が分かる教材はないだろうかと思っていた時に手にしたのが、「歴史を旅する絵本」シリーズの『戦国時代の村の生活』(勝俣鎮夫著岩波書店)という絵本であった。

 絵本の舞台となったのは、和泉国入山田村。九条政基が、武士に奪われそうになった荘園を守るために現地に下った時に書いた「政基公旅引付」を底本に、1年間の惣の生活を、様々な農民の共同作業や祭り、子供達の遊びや守護の軍勢の襲撃等を、子供の目から描いている。ページを括る毎に、淡い色彩の絵が展開され思わず、その時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。

 田植えの時の早乙女のあでやかさ、雨乞いの時の、滝壺に大きな鹿の頭を投げ込む儀式、7月の風流踊りの華やかさ、一味神水の儀式の厳粛さ、家の周囲を笹で囲い山の中に逃げ込む逃散、中でも飢饉の年の様子を描いた部分は、当時の農民の生きるためのぎりぎりの戦いが描かれており大変印象深い。農民は食べ物を求めて山へワラビの根や山芋を掘りに行ったのだがもうあちこち掘ってなかなか取れなかった。村で管理していた種籾の米が盗まれ、その容疑者を盟神探湯で犯人と断定した(この時代、まだ行われていたことに驚く)。又、村で川に晒していたワラビ粉が時々盗まれたので、ある女性が盗む所を見つけ、怒った村人は皆で、その家に押しかけその母親と兄を殺してしまった(自検断)。残された姉弟は一晩中泣きながら親類の家を回っていたが、村の決まりで誰も引き取ってやろうという家はなかった・・・。

・・。紙芝居の手法で生徒に見せながら、学習事項を確認してもいいし、逆に導入の部分で使用してもいい。本書は絵と適切な解説が歴史的なイメージを喚起させる素晴らしい教材である。

クイズ

@村掟の中には、共有地の林の木を勝手に切った者に対して、何を使って切ったかでその罰金 の額に差を設けていた。左群と右群をそれぞれ結びつけよ

まさかり     二百文
鎌        五百文
鉈        三百文

 実物についての知識が稀薄な最近の生徒は、まさかり、鎌、鉈の絵を果たして書けるのかどうか、時には生徒に指名して板書させることも必要であろう。



第68回 天皇になろうとした男−足利義満

 
「足利義満は天皇になろうとしていた」という説は、様々な状況から定説化しているようだが、もう一度、その当時の状況を整理してみよう。井沢元彦氏の同名の著書(小学館)を代表としてここでは思い切って授業の中で紹介する。もちろん、教科書の基本事項を学習してから後のことになるが。

 先ず、当時緒御所を取り囲むように「花の御所」と「相国寺」があった。相国寺には(現在は焼失してないが)御所をはるかに見下ろすことが出来た七重の塔があり、相国寺の境内を流れていた水を皇居では引いていた(こうした建造物の配置は、江戸時代の御所に対する二条城と知恩院の関係に似てる)。又、金閣は単なる山荘ではなく、当時の宮殿・政庁で、空中廊下とも呼ぶべき高い回廊でそれぞれ結ばれていた。

 足利義満は当時の後円融天皇とは、それぞれの母親が姉妹であったことから従兄弟にあたる。問題は義満と後円融天皇の正室厳子との間に男女関係が成立していたのではないかという問題がある。厳子が出産のため(生まれたのは後の後小松天皇)実家にしばらく帰っていたが、出産後その帰参が遅れたことから、後円融天皇は、こともあろうに厳子に峰打ちの折檻を与えた。現役の天皇がこのような行為をするのは史上例がない。実は義満は後円融天皇の愛妾にも手を出しており、後小松天皇はもしかすると義満の実子である可能性が高い。後に、後小松天皇は、金閣で20日間もの接待を受けているが、これも上の説を考えれば理解されよう。

 又、義満は自分の次男義嗣をことのほか愛し、何と宮中でその元服式をあげさせた。それは義嗣を皇太子とし、後小松天皇に譲位させれば、彼自身は天皇の父=上皇となるという筋書きの、明らかな皇位簒奪計画の一環であった。義満の死は、その宮中での元服式の僅か6日後であった。朝廷から太上天皇の追号を義満は受けたが、義満に愛されなかった長男の義持はそれを辞退しているが、現に金閣には「鹿苑院太上天皇」という位牌がある。となると、義満は野望実現の直前に死んだことになるのだが、その突然の死は余りにもタイムリーであったので、簒奪されかかった朝廷側からの毒殺ではなかったかと いう説も浮かんでくる。その計画の中心は二条満基。実行犯は世阿弥。

 世阿弥は12才の時に、その美貌が義満の目に留まり、以後、義満の絶大な寵愛と保護を受け、猿楽能を大成していったことで知られるが、それ以前は、二条良基の下で教育を受けていた。しかも、世阿弥は遠く楠氏の子孫であることを考えれば、納得がいく。さらに、義満死後、父の政策を否定した義持が金閣を全て破壊しようとした時、朝廷ではそれを寺として残そうとしたことも傍証となろう。井沢氏お得意の「怨霊鎮魂説」でいえば、義満の霊の鎮魂をするために金閣は寺として残されたことになるのだが・・・。



第67回 室町幕府

 建武式目第一条が、「鎌倉元の如く柳営(幕府)たるべきか否かの事」であることを示し、それが当時の最大の課題であることに気づかせる。「室町幕府はどこに置かれたか?」と聞くと、意外に生徒の反応は鈍い。室町が京都の地名であることに気がつかない生徒が多いのだが、「なぜ、鎌倉ではなく室町なのか」と質問を重ね、「この時、南朝はどうだったのか」とたたみ込む。さらに「鎌倉に幕府を置けば京都はどうなるのか?」と仮定の質問をし、「南朝をおさえるために京都に幕府を構えざるを得なかった」という結論を導いてゆく。実は歴代の将軍が公家化していった理由もここにある。

 又、幕府の組織は「鎌倉幕府の模倣」と概括されるが、もう一つの特色「守護大名の連合政権」については、南北朝の動乱で数多くの守護を味方にするために、尊氏が気前よくどんどん所領を与えたことに触れておく。特に具体的には「半済令」の公布が、その契機になっているのだが。



第66回 クイズ 鎌倉の人骨

@昭和28年の夏、鎌倉で910体もの人骨が発見された。これは新田義貞の鎌倉攻略の時のものだという。その人骨はほとんどが青壮年で、刀傷・刺し傷の跡が見られた。ところが、その他に得体の知れない損傷の跡が数多くあった。何によるものだろうか?

 答 犬に咬まれた跡−鎌倉で犬が多かったのは、北条高時の闘犬好きにも由来する。戦後、死者は野ざらしのままに放置されたことからこうしたことが起こった。なお、高時は一門の者870名と共に東勝寺で自刃している。

 又、材木座遺跡に埋葬された人骨の中に、刀の刃先を頭骨の表面に斜めに立て少しずつ削り進めた時に出来る浅い傷(掻創)を持つものが多かった。成人男性53.8%、成人女性で56.6%、幼若年者54.6%に認められたが、それらは悪質な病気を治療するために戦死者の頭や顔の皮膚を薬用として使った跡であろうと考えられている。




第65回 南朝のインテリ−北畠親房

 「神皇正統記」といえば、北畠親房が、南朝の正統性を説き後村上天皇に献上した史書である。「大日本は神国也」で始まるこの書は、常陸国小田城で執筆され完成した。近隣の結城氏をはじめ東国武士の南朝への結集もその執筆の動機だが、彼は、東国の武士達が南朝への参加の条件として頻りに官位や官職を欲しがることに苦り切っていたのが実状であった。官位や官職は家系によるもので、天皇一人の判断によることを諄々と説きながら、南朝への結集を図らなければならなかった心中はかなり複雑なものだったに違いない。

 そうしたことから、「神皇正統記」の執筆の傍ら、宮中の官位・官職の由来をまとめた「職原抄」も並行して書かれた。戦の連続のただ中で、この2著を記した親房は確かに当代きっての博識であった。因みに後醍醐の死後、彼は急ぎ海路で伊勢から吉野に入ったが、伊勢で彼を出迎えたのは伊勢神道を創始した度会家行であった。家行自身、南朝のために色々働いているが、親房は家行の神道に強くひかれ敬愛してやまなかったともいわれている。


左「神皇正統記」




第64回 悪党 楠木正成

 時代の転換期には数多くの人物が登場し活躍する。いつもの講談調で、教卓を指示棒で叩きながら軽快に次々と人物論を展開するというのもいいが、たまには授業に変化をつけたいところ。たまたま入手した戦前の「楠正成の紙芝居」。値段は少々高かったが、一生の宝と考え思い切って購入し授業の導入やまとめで使う。当時の紙芝居やさんのようにはいかないが、それでもいつにもまして話の抑揚や強弱に変化をつけ(前の晩のリハーサルは入念に行う)、何とか自分が少年時代の時に得た感動を今の生徒にも伝えたいと熱演すること約10分・・・・。

 楠正成は、戦前の国史や修身では忠臣の代表的人物として取り扱われ、戦後は「散所民の長」、最近では河内の「悪党」という説が定説化しつつあるが、彼は河内・和泉両国にあった幾つかの荘園に勢力を伸ばしていた土豪であった。後に見られる彼の広域な情報収集力や、機動性と機知に富んだ戦術等は、摂津・河内と大和を直結する奈良街道の要衝に勢力を構え、農民をはじめ、交通・運輸の民、商工の民、隷属民等、葛城山系の山伏、修験者達等、実に多種多様な身分の者から軍を構成していたことから生み出されたものである。

 尊氏が大挙して瀬戸内海を東上して来た時、彼は後醍醐に「今は新田義貞を捨てるか、一旦京都を退き尊氏の軍を入れてから四方より攻め込むかの何れかしか勝利の道はない」と献言したが拒否され(この時の正成は自分の死を覚悟したに違いないが、一体どういう気持ちだったろうか)、勝てる戦ではないと知りつつ湊川で6時間もの激戦の末、「七生報国」の言葉を残し死んでいった。湊川神社には、この地を訪れた(?)水戸黄門が記した「嗚呼忠臣楠公之墓」という石碑があるが、「義」よりも「利」で動いた武士が大半だった時代、正成は確かに忠臣であった。光圀が主導した水戸史観によって彼は強烈な正義の座に据えられてゆくのである。




第63回 建武の新政の混乱

 建武の新政府が僅か3年で瓦解した最大の原因が、恩賞問題であったことは夙に知られている。「武家に薄く、公家に厚かった」と大半の教科書に記されているが、その実態は私達の想像をはるかに超えるものであった。新田次郎著『新田義貞』(上下新潮文庫)では、次のように紹介されている。

 恩賞方で決定したものがしょっちゅう内奏によってひっくり返され、たまたま、酒宴に列席いた遊女が「私も人と生まれた以上、たとえ一坪でもいいから自分の土地が欲しい」といったのを千種忠顕が聞き天皇に内奏した。その結果、何の功績もない遊女に百貫文の領地が与えられたという噂が流れた。女官や下働きまで、領地を持たぬ者はいなくなったと取りざたされた。又、北条氏に仕える前の所領は安堵されるが、北条時代に貰ったり買ったり交換した所領は全て没収。北条時代に地頭や代官であった者は有無をいわさず追放等々。以後、恩賞方では十分対応できず、吉田定房の意見で記録所、雑訴決断所、武者所,窪所等を設けた。

 授業では、この部分を新政府の瓦解の所でプリントで紹介しているが、新政府の混乱ぶりが恩賞(所領)問題に発していた事情が具体的に描かれており生徒には非常に分かりやすい。当時の新政府は、「綸旨」「雑訴決断所」「太政官符」等、ありとあらゆる種類の文書が出されていた。それは「文書の陳列場」とも呼ぶに相応しい状況を示していたが、当時の混乱を収拾できなかった建武新政府の苦悩を物語っている何よりの証左であろう。



第62回 異常性格−足利将軍家

 足利氏の菩提寺京都等持院には歴代将軍の木造が安置されている。幕末、尊王攘夷派の浪人によって尊氏・義満3代の木造の首が京都の三条大橋に晒された事件が起こったが、それは等持院の木造から抜き去られたものである。じっと目を凝らして歴代将軍の木像に対面していくと、なぜか、ガラス玉が填め込まれている目に病的な異常さが感じられて仕方がない。事実、足利氏には異常性格者が多かった。

 足利氏には源義家の置文が代々伝えられてあったが、それには「私は7代後に生まれ変わり天下をとるだろう」というものであった。7代目にあたる家時は自分の代になっても天下をとれず、「自分の命を縮める代わりに、私より3代後には天下をとらせたまえ」と切腹して死んでしまった。それから丁度3代目に当たっていたのが尊氏であった。

 尊氏は鎌倉で起こった中先代の乱をきっかけに東下し、乱鎮圧後も京都には戻ろうとしなかった。後醍醐から尊氏討伐を命じられた新田義貞が鎌倉の直前にまで進出してきても尊氏は東勝寺に籠もったままなかなか出陣しようとせず、弟の足利直義が、機転を利かせて偽の倫旨を示しようやく尊氏の決断を促し出陣させた。又、後醍醐が吉野で崩去したとの報せを受けた尊氏は、多くの家臣のいる前で、「今の自分がこうしてあるのは皆、御上のおかげ」と号泣したともいわれる。後に、直義と戦い自分が敗れたにも関わらず、直義の使者にまるで自分が勝者のように振る舞ったという。

 現代の医学からいえば尊氏は「躁鬱質」の人間であった。服部敏郎氏は『英雄たちの病状診断』の中で、「発揚情性型精神病質人型」ではないかと推断しているが、それは以下のような性格行動に特色を持つものであった。

 「人格は朗らかな、親切で活動的。常に楽天的で均衡がとれている。しかし、深刻性、徹底性を欠き、無批判、無分別、自信家で決断が軽率で甚だ頼りないのが常である」この性格は、躁鬱病にも移行するといわれ、こうしてみると尊氏の歯切れの悪さや性格の弱さを併せ持った行動が理解されよう。

 それでは6代将軍義教の場合はどうであろう。周知の通り、籤で将軍となったことが、彼の劣等感を刺激し、彼を必要以上に将軍権力の行使に駆り立てた。義教が参内した時、東坊城益長がなに気なく笑ったことから(決して義教を笑った訳ではなかったが)、所領没収・籠居。京都市中で義教の噂話をしていた商人は死罪。宮中で自由恋愛が横行していると聞くと男は死罪、女は尼に。実に些細なことで武家、 公家、合わせて70数名も処分された。当時、伏見宮貞成の日記には「万人恐怖す」と記されていた。異常なまでに神経質でこの種の気質はクレッチマーの気質類型では「筋肉質」=てんかん型に相当する。そういえば、義教に対抗して永享の乱を起こし憤死した足利持氏も、義教同様非常に短気であった。さらに、鎌倉、室町、江戸幕府の執権・将軍の平均死亡年齢を見れば、北条氏46.0才、室町将軍42.0才、江戸将軍49.6才と室町幕府が最も短命であったことも、性格異常(放逸な生活)という点と何らかの関係があるのかも知れない。



第61回 後醍醐天皇

 後醍醐が天皇になったのは31才の時で、その任期は約10年と決められていた。しかも文保の和談の結果、自分の子供ではなく兄の皇子を皇太子にしなければならず、宋学に傾倒していた後醍醐からすれば、「大義名分論」からいって、こうした状況は「本来あるべき姿」といえるものでは決してなかった。全ての面で異例であった後醍醐天皇が目指したのは、当時中国で行われていた「皇帝専制」にあったという説がある。

 倒幕のため、無礼講と称して薄着の女人を侍らせての酒宴、現役の天皇でありながら密教の法服をまとい自ら幕府調伏を祈祷したのも異例であれば、新政に数多くの律僧・密教僧(真言立川流の文観など)・悪党・非人等の勢力を取り入れたのも異例であった。後に光明天皇を擁立した足利尊氏に譲位を迫られ、偽の三種の神器を手渡して吉野に逃れ一天両帝の時代を迎えるが、後醍醐は右手に宝剣、左手に法華経を持ち、立ちながら北の京都を睨みながら(北面)死んでいった。通常、天皇は南面して葬られるのだが、最期の最期まで異例であった。なお、後醍醐は18人の側室に36人の子を産ませたが、最大の愛妾は阿野廉子で、皇子護良親王を見捨て尊氏にその身柄を預けたのは廉子のさしがねでもあった。それは後醍醐の最大の失敗であったかも知れない。



第60回 鎌倉文化X 道元

 道元は比叡山での修行後、栄西の建仁寺に入り明全に6年間、臨済禅を学んだが、ついには師の明全共々入宋しついには帰国後、曹洞禅を開いた。どうも道元が師の明全をも説得し強引に入宋に持ちこんだらしい。道元も又、激しいばかりの求道心の強い若者であったらしい。鎌倉仏教学習後、ビデオ「NHK特集永平寺大法戦」を毎年視聴させている。永平寺での若い雲水の入門から数ヶ月間の修行生活を追ったものだが、毎日の洗顔から掃除・食事・坐禅・トイレや就寝の作法までわかりやすく紹介されている。道元は日常生活の一挙手一投足にまで厳しい「形」の修行を求めた。

 特に冒頭の入門をめぐる先輩雲水の厳しさは、現代の生徒達には是非見せたいところ。まとめのプリントには井上ひさし『道元の冒険』(新潮文庫)を活用しているが、駄洒落まで飛び出す軽妙な文体で難解な禅宗がぐっと身近にとらえることが出来る。



第59回 鎌倉文化W 遅咲きの藤原定家

 定家の父藤原俊成は九条兼実の歌の師範であったがその関係で彼も、九条家に仕え、兼実の実子良経や兼実の弟慈円や、西行等との交流もあった。定家自身、源実朝の歌の添削指導をも行っていた。後鳥羽上皇と歌会の席で対立し定家は宮廷で詩を詠めない状態になったことがあり、公卿に連なったのは実に50才の時という遅咲きであった。彼の日記「明月記」には、官位へのこだわりや他人への悪口に溢れ、非常に激しやすい性格であったことが窺われる。なお、小倉百人一首は元々小倉色紙(一度使用した紙の背)に書かれ、カルタになったのは江戸時代からである。


第58回 鎌倉文化V 後白河法皇と「源頼朝像」

 「源頼朝像」「平重盛像」「後白河法皇像」「藤原光能像」「平業房」等は現在、神護寺にある。真言宗の寺院でもあったこの神護寺は、後白河法皇がよく訪れた。実はこれらの似絵は後白河法皇が命じて描かせたという説がある。源平の棟梁を部屋の襖に飾り、自らに近持させる形にした狙いは、法皇が理想とする国家の姿そのもでもあった。頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめた後白河法皇の権謀術数は、鎌倉幕府の誕生を阻止できずに終わった。せめて、絵画という、現実を離れた世界で自分の願いを達成しようとしたのかも知れない。

 米倉 夫氏の『源頼朝像−沈黙の肖像画』(平凡社)が公刊されて以来、最近、肖像画の人物像の大幅な見直しがされつつある。従来の「足利尊氏像」は高師直、「平重盛像」が足利尊氏、「武田信玄像」が畠山義続、そして問題の「源頼朝像」は足利直義だというのである。本書は歴史上の肖像の総入れ替えといってもいい大胆な仮説で一躍センセーションを巻き起こした。「源頼朝像」の絹地が大きいことや冠の形から製作年代を定説の12C末よりずっと後とする指摘は以前からあったが、氏は抑制の利いた文体で綿密な考証、明快な論理を駆使しその真相に迫っていく。まるで、ミステリーの世界に引き込まれるような魅力を本書は持っている。是非、一読を勧める。







第57回 鎌倉文化U 日本刀

 日本刀は世界的に優れた名品であった。鉄を溶かす際に当時は木炭が使用されたが、木炭は1200度の温度しか得られず(ちなみに鉄の溶解には1800度必要であった)、溶解が不完全であったので様々な工夫が加えられた。先ず、原料の砂鉄粉と石英粉と木炭粉を交互に重ねて蹈鞴を使う溶鉱炉に入れ三昼夜の間熱し、カスを取って固め銑鉄をつくる。次にそれを叩いて細かくしもう一度石英粉と木炭粉を重ね込んで蹈鞴で溶かすと、炭素が多く含まれた玉鋼が出来る。

 そしてこれに柔軟性を加えるためにもう一度木炭の中で半溶解に熱して叩き(鍛え)、火花という形で炭素を放出させる。これをそのままでは刃物としては弱いので、その表面を一層硬度の高い鋼鉄層でまくり、よく熱して打ち固め刀身の主体部を作り上げる。そして、全体に粘土を塗って刃の所だけ粘土を落とし火の中で焼く。そして焼けたものを生温い水につける。すると刃の所だけ非常に硬質の刃物となり、粘土に包まれた刀身全体は柔軟性のある柔らかさを持つ。こうして固さと柔らかさという二つの相反する性質を持つ日本刀が出来るのである。明治になって、欧米人は日本刀を持ち帰って似たようなものをつくろうとしたが、ついに同じものをつくることは出来なかった。僅かにドイツ人がゾリンゲンの剃刀として、研いで使えるようにしたぐらいであった。

 元寇の際に元軍は名長さ1m幅15cmもある青龍刀(鋳物)を用いたが、御家人達が使用した日本刀は武器としては格段に優れていた(後の日明貿易での輸出品は銅と日本刀であった)。



第56回 鎌倉文化T 湛慶プロダクション

鎌倉時代の文化。特に写実的な彫刻と似絵に代表される絵画は共にリアリテイーの追求という点で共通している。このリアリテイーは、文化の担い手である武士そのものの、「自分で耕した土地は自分のものであるという精神」に根ざしている。

 三十三間堂の1001体の十一面千手観世音菩薩。元々は後白河上皇の命を受け平清盛が創建したものだが、80年後焼失。1001体のうち無事運び出されたのは僅か156体であった。その再建が運慶の子湛慶に命じられた。時に湛慶67才。湛慶は82才で没するまで京都の七条に住みその完成に全精力を注いだ。

 1001体の千手観音は皆顔の表情が異なり、その中に故人や自分の顔そっくりの観音を発見できるとよく言われる。千手観音の一体一体は湛慶を中心としたプロダクションの分業と協業で作成された。何と1体の制作期間はたった7日間。菩薩像の雛形を作り、それを元に寄木造りで完成させた。その中で運慶の署名があるのは3体。因みに東大寺南大門にある金剛力士像は70日間で完成した。寄木造りが、いかに仏像の大量生産と大型化を可能にしたのかわかる。



第55回 人糞尿と武士の館

 鎌倉時代の辺りから、刈敷や草木灰という従来からの肥料の他に、厩肥(人糞尿)が使われ始めた。人糞尿は、稲の分けつを促し、米の生産力を2〜3倍に急増させた。この変化によって名主層は直接の耕作から解放され武芸に専念できた。そうした意味では鎌倉幕府は糞尿政権であった。

 当時の武士の館として、「一遍上人絵伝」はよく利用されるが、それと館周辺の景観図を併せてプリントにした方がより空間的に把握できる。堀に囲まれた館、周辺に広がる門田などの直営田、氏寺、氏社、馬を調練する馬場など確認出来るが、館の内部は地頭の権力(刑罰権を含む)が最も貫徹された空間でもあり、その館を基点として周辺の作人と呼ばれた独立農民達に時にはむき出しの暴力を用いながら支配権を拡大していった。「紀伊国阿弖川荘民の訴状」にある「オレラガ(お前らが)コノムギマカヌモノナラバ、メコトモヲオイコメ、ミミヲキリ、ハナヲキリ、カミヲキリテ、アマニナシテ、ナワホタシヲウチテ」という光景は、この間の様子を如実に示している。

 なお、この訴状はカタカナ書きで、地頭の横暴を領家に訴えたものとして有名だが、その一方で、領家への材木納入が遅れ気味になっていることの理由として地頭の横暴に触れている点で、当時の農民層のしたたかさも読みとれるのである。授業では、これを実寸大に拡大印刷して全員に配り、読みとりをしながら農民の逞しさにも気づかせたい。
上「一遍上人絵伝」

 なお、館内部の主人の権力(イエ支配権)の具体例としては、「妻敵討ち」の風習をあげることが出来よう。これは、平安時代末頃から行われた習慣で「夫が自宅の内部で、自分の妻と姦夫が密通している場合はその場で2人共討ち果たさなければならず、館内部での成敗は当時罪に問われることがなかった。逆に一歩でも姦夫に逃げられ路上で討ち果たした場合は罪に問われる」というもので、いかに館内部に主人の人格的な支配権があったのかがわかる(なお、式目では第三十四条「他人の妻を密懐する罪科の事」で、強姦和姦を問わず所領半分を没収をした上で、出仕を無期限停止。所領のない者は遠流。女も同罪とされた)。



第54回 永仁の徳政令

 現在、私達が「永仁の徳政令」の全文を知ることが出来るのは、南北朝時代の訴状に証文として副えられたものが、東寺百合文書の一通として偶然に伝来したことに由る。徳政とは元々、裁判と所領の興行の2つの復古を指したが、結果的に言えば全ての貸借関係を帳消しにする法的措置のことをいう。今から思えば経済界の混乱は相当なものだったと想像されるが、これは決して鎌倉幕府の強権によってのみ行えたものでなかった点が重要である。現在の感覚で言えば、売買というのは金銭を媒介として所有権が完全に移ることを言うが、当時はそうではなかった。売買はあくまでも仮の姿で、天皇や将軍の代替わり、天変地異等の何らかのきっかけさえあれば、元の持ち主に無償で戻されるという慣習や認識が広範に存在していた。それでは永仁の徳政令の場合はどのような経過で出されたのであろうか。

 笠松宏至氏の『徳政令』(岩波新書)によれば、氏は折口信夫氏の「商返し」の説を援用し、「徳政とはあるべき所へ戻す復古政治=戻り現象である」とし、弘安年間の公武東西の権力による徳政の地均し(安達泰盛執政期の訴訟制度の拡充、やや遅れて始められた亀山院政期の公家訴訟制度の改革)が行われ多くの人々の予想・期待の上に鳴り物入りでこの徳政令が登場し、永仁5年2月19日に現れた彗星の出現を直接の契機として発布され(発布当時、彗星はまだ消えていなかった)、一般には幕府が企図していた御家人のものを御家人へという意図とは別個に「天下一同の徳政」として実際に多くの土地が人々によって取り戻されていった(100年前の昔のものまで元に戻せる意識されていた)のである。



第53回 悪党

 元寇と共に、当時の幕府の最大の問題は悪党の横行であった。悪党とは、武力で荘園領主に抵抗する新興武士団と概括されるが、簡潔に言えば「関東農場主よりも遅れて開墾した連中で幕府が保護しなかった武士」とも言い得ようか。しかし、詳細に見ると悪党と呼ばれた集団には、天災、飢饉、政治、社会的変動で本来の生業、住所を離れざるを得なかった者が中心となった場合と、寺社などの荘園領主の所領や権益を武力で奪い取っていこうとする御家人・非御家人等、れっきとした侍が中心となったものの2つ類型があった。彼らは、乱暴、海賊、寄取、強盗、山賊、追い剥ぎ等を行い、烏帽子を着けず、女性用の六方笠を被り、山伏や非人等の着衣であった赤茶色の柿帷を身につけた「異類異形」の集団でもあった。これらは、上記の分類では特に前者に該当する。所が、鎌倉末期の頃になると、五十騎、百騎と乗り列ね、金銀を散りばめた弓矢や兵具を携え、照り輝くばかりの鎧・腹巻きに身を包んだ集団として史料(峯相記)に登場してくるのである。恐らく上記の分類の後者が、前者をも吸収して勢力を拡大したものと思われる。

 彼らの登場が畿内であったのは、荘園領主の圧力が強く、又、貨幣経済が発達していたという地域的な背景によるが、彼らの反社会的な行動は明らかに幕府に対する不満の表現であった。荘園領主側からの鎮圧依頼を受けた幕府は現地の御家人にその鎮圧を命じたが、積極的に鎮圧に乗り出した御家人は少なかったばかりか、悪党の交名(リスト)の中には御家人の名前が幾つもあったのである。

 当時の幕府は得宗とその家臣である御内人が全権を握り、御内人そのものが借上を兼ね、あるいは荘園の代官に借上を利用し、御家人に金を貸しつけ多くの所領を獲得していった。没落した御家人の一部は悪党として失った利権を取り戻そうと当時の社会秩序に反する行動をとっていった。各地の悪党の横行と元寇。この二大問題に直面した幕府は、ますます専制化していく。全国の守護の大半を独占していったのはこうした背景もあった。彼らは、後に後醍醐の倒幕に参加し最終的には各守護大名の下に吸収されていく。



第52回 元寇

 文永の役の時、圧倒的な大軍で侵攻を受けた対馬では、防衛の矢面に立った御家人達は軽く粉砕され、一般の島民達も山中に逃げ隠れた。泣き叫ぶ子供の声が聞こえると元軍に捕まるので、親は泣く子供に刀を突き刺し口を封じていった。現在各地で歌われている「泣けば山からモコ(蒙古のこと)くるじゃ」という歌は、こうした歴史的事実を背景として生まれたものである。又、「むごい」も蒙古を指す「ムクリ」から来た言葉であると言われている。

 元々、元が極東のはずれにある日本の服属を求めたのは、当時、日本が南宋との貿易で大量の金を輸出し、その金が南宋の財政を支えていたという事情がある。南宋を滅亡させるには、先ず、その資金源を断つ必要があった。元は、同時期、樺太へも侵攻している。さらに二度の戦役での失敗にも懲りず、元は八回もの遠征計画を練っていたともいわれる。

 彼らは毎年、11月頃に遠征を開始した。ユーラシアの大河川が凍り尽き、部隊の移動が容易であったということと、食糧とするモンゴルの羊が丸々と肥え太る時期が重なっていたからである。考えてみれば、食糧が黙って部隊の後を歩いてきてくれるわけだから、その機動力は抜群であった。モンゴル兵は、羊の、脂肪で丸くなった尻尾を切り取り食糧とし、その部分に泥を塗りつけていたともいう。現在、ポーランドで、クリスマスの時期になると人間の耳や鼻の形のクッキーを焼くのは、当時、モンゴル兵がポーランド人の耳や鼻を切り取った名残でもある。

 文永の役の時、太陽暦では11月26日〜27日にあたり、古来喧伝されてきた神風の到来は考えられない。ちょっとした暴風で船体が破損したのは大量の軍船の建造を命じられた高麗民衆の手抜き工事で、船体自体が弱かったことによる。又、博多に上陸した元軍は町を焼き払いながら、多数の子供達を捕らえていた事実は、古来の戦争目的の中に、人狩り(労働力)という側面があったことを如実に示す事実である。

 なお、元寇をきっかけに、武家が東国・九州に、公家・寺社が畿内にそれぞれ、一円領(直轄地)を形成していった点は重要であろう。特に武家の場合は、元寇に対する兵粮米確保のためという現実的な必要があったが、それは和与による下地中分の奨励や、畿内周辺の荘園との交換という方法で実現したものであった。そして、こうした領域的な所領を組織的に支配するために個々の在地領主や公家、寺社毎に法が制定され裁判制度が整備されていったのである。



第51回 クイズ 式目の世界U

Cこの頃、AとBは幕府の裁判所で争ったが、なかなか決着がつかなかった。そこで裁判所は2人にそれぞれ「わたしは決してウソをついていない」という起請文を書かせた上で、神社に 7日間のおこもりをさせ、その間にある異常なことが起こった方を負けとした。そのある事 情とはどのようなことか?

答 鼻血・カラスの尿をかけられる・ネズミに囓られる−信じられないことだが、この部分は実は追加法の中にある。道理によって理非をはっきりさせようとする人知を越えた世界が、このような神判裁判の考え方であろう。古墳時代の盟神探湯による正邪の判定等もこうした考え方に基づいている。中世ヨーロッパでも、この神判裁判は広く行われ、殺人の容疑者を死者の棺桶の前に立たせ、真犯人であれば死者は体から血を噴き出すと信じられていた(棺桶裁判)、乾燥したパンを一気に飲み下すことが出来れば無実、水の中に体を投げ込み浮かべば魔女、浮かばなければ魔女でない魔女裁判(水は清浄であるから穢れたものを受けつけないと考えた)、決闘だって、正しいものに神は加護を与えるからとする法慣習に基づく。面白いのは、男女で決闘する場合、男性は首と右腕を出して女性と戦わねばならなかった(まさに「男はつらいよ」)のである。

D鎌倉〜室町時代にかけ、「盗み」の罪は幕府や朝廷が銭で換算して弁償させようとしていた 反面、一般には殺人の罪と同じ位に重く考えられていた。室町時代の末に日本にやってきた宣教師は「ごく僅かな額でも盗めば、日本では殺される」と書き残している。なぜだろう か?

答 物は単なる物ではなく、所有者の魂が入っていると考え、物を盗むということは結果的に所有者の魂までも奪うことになるから。ここでは所有者と物の関係に触れ、その独自の考え方に気づかせたい。例えば、「公事方御定書」で「十両以上の盗みで死罪」という有名な条文を紹介すれば、上の説はより具体的に理解されるだろう。又、この関係を開発領主(人)と開墾地(土地)に当てはめて考えると、後に出てくる「徳政令」が実現可能だった背景が理解されるように思う。開発領主の汗が染み込んだ土地は売買の形で他人の手に渡ってもそれは仮の状態であり、元々の所有者の土地への権利(本主権)は、底流のように連続しており、何らかのきっかけさえあれば、元の持ち主が無償でその土地を取り戻すことが出来たのである。折口信夫はこれを「商い返し」と呼びその法慣習に注目したが、それを「徳政令」に結びつけ以上のような説を展開したのは笠松宏至氏であった。

 余談になるが、式目にはどのような部分に新しい法理が持ち込まれ、どのような範囲に在地での慣習が取り入れられたのか、残念ながら現在の研究はその解明にまで至っていない。式目第三十四条の後半に次のような条文がある。「道路の辻において女を襲い捕らえた者は、御家人なら百日の出仕停止、郎従以下の身分の者は、頼朝時代の先例にならって、片方の頭髪を剃り落とす刑に処する。ただし、法師の罪は、その時に当たって斟酌せよ。」

 現代の常識からすれば、行きずりの女性を路上に襲うレイプは、普通の密通よりも一段の重刑が科されて然るべきであろう。しかし、上記のように式目では至って軽い刑罰になっている。僧侶に対しては、禁欲生活に同情したものか、刑量さえ定めていないのである。これは、室町時代の史料である「御伽草子」に「男も連れず、輿にも乗らぬ辻どりと称して天下の御許しである。」と記されているように、公道上を無防備で通行する女性に対する一種のフリーセックス的観念の反映であろうと考えられている。



第50回 クイズ 式目の世界T


@この時代、自宅の前に死体が転がっているのをある人物が発見したとする。その死体に全く見覚えがない発見者は、幕府の役所に届け出た。さて、幕府は直ちに犯人の捜査・逮捕に乗り出したか?

答 犯人の指定・証拠の提出などの訴えの提起がなければ乗り出さなかった。大犯三ヶ条を除き、あくまでも幕府は一般の事件には無関心であった。ここでも当事者主義の原則が貫徹している。この頃、「獄前の死人、訴えなければ検断なし」という法諺があるがまさにこうした状況を言い当てている。

Aこの頃、Aという人物はある土地を20年以上にわたって実際に支配していた。所が、その土地の権利書をも持っていたBが、幕府にその土地の返却を求めた。式目ではA・Bどちらの勝訴となっただろうか

答 A 武家の法律ではあくまでも実質的な事実を重視していた。この規定を「知行年紀法」といい、武家社会の代表的な道理の1つであった。

Bこの頃の「悪口」にはどのようなものがあるだろうか?

答 「悪口は闘殺の基である。だから重い悪口は流罪に、軽いものは拘禁刑に処する。裁判叔の場で悪口を吐けば、その訴訟は負訴、係争地は相手方のものとする。」と式目の中で規定されているが、気の荒い武士が思わず言葉として吐いたことによって喧嘩が絶えなかった事情から挿入された箇条である。余談になるが、血族意識や自力救済の観念が濃厚であった当時、個人と個人の闘争は一族と一族との争いに度々発展し、幕府法廷への訴訟以上に、(幕府の禁止令にも関わらず)「故戦防戦」と言われた実力行使によって問題解決が図られた。

  解答は「母開」(ハハマキ)。小さい頃、喧嘩した際、「お前の母ちゃん、でべそ」と言った記憶はないだろうか。そのルーツはこの「母開」で、「お前は自分の母親を犯したろう」というのが本来の意味であった。これは中国の「他的」をはじめ、ロシア、アメリカ等、世界共通の悪口であった。他に相手を「乞食非人」「若党」「甲乙人」「凡下」等の身分的蔑称で呼び処罰されたケースが確認されている。



第49回 御成敗式目U

 当時の裁判は当事者主義の原則に貫かれ、双方から提出された証文や証言によって立証された事実の上に立って判決を下すことを特色とした。訴人は訴状を問注所・引付奉行人に提出後、訴状を問注所からの問状と共に直接論人に送り届け、それに対して論人は陳情を引付奉行人を経て陳状と問状を共に直接訴人に送り届けなければならなかった(身体的な危険が伴った)。これを三度繰り返す。この文書での応酬を「訴陳に番う」といい、次いで引付に両者出頭し口頭弁論で対決をする。そして引付会議で原案が作成され、評定会議で判決が下された。この間、証拠の類は全て原告・被告の当事者が提出しなければならず、判決内容も、訴状の範囲内に限定されていた(又、裁決の際に過去の判例はほとんど参考とされず、それは次の室町幕府を待たなければならなかった)。

 実は、上に述べた裁判の方法は、幕府の裁判制度が完成した弘安年間のもので、中世裁判の一般的な姿では決してなかった。元々、権力者に愁訴・嘆願することを意味した「訴える」行為は、口頭で行われるのが普通で(訴状という体裁をとる方が異例であった)、裁判者が一方的に主観的な判断を下す形態が一般的であった。式目51条の「問状の御教書を帯び、狼藉を致すこと」という条文があるが、論人に陳状の提出を求めるための「問状の御教書」を発給するとそれを手にした訴人の実力行使が各地で頻発したことが窺える。単なる事務的文書である「問状の御教書」に無知であった訴人達は、幕府の堂々たる御教書を交付され即勝訴の判決と錯覚し現地に向かい、又、それをそのまま受け入れてしまう論人も数多くいた。彼らをして「訴陳に番い」、事実に基づいた裁判に慣らしむることは、中々容易なことではなかったのである。
右「御成敗式目」



第48回 御成敗式目T

 武家の最初の法律御成敗式目は、承久の乱後、西国に設置された地頭と領家との争いが幕府に持ち込まれその件数が激増したことから、それらを現実的に処理するために設けられた。51という条数は憲法十七条の3倍、さらに条文の配列等は特に律令を参考に行われたと考えられている。式目そのものは、諸国の守護・地頭に広く流布したが、750ヶ条にも及ぶ追加法は、必要に応じて公布され、そのほとんどは御家人に通知されなかった。

 又、式目及び追加法は、訴訟の一方が御家人である場合に適用されたが、鎌倉全時代を通して時代が下れば下るほど、荘園領主などの公家や寺社側が幕府の法律を逆に裁判の証拠として提出ケースが目立つようになっていった。地頭の荘園侵略が頻繁になっていく時期の幕府の裁許状を集計すると、領家対地頭の場合、必ずしも地頭にのみ有利な判決は出されていなかった点が重要である(両者の示談である「和与」が奨励され裁判の速決主義が顕著となっていった)。そうした意味では、さらなる所領の拡大を目指す地頭(御家人)から見れば、当時の幕府は地頭の欲求を十分保護する権力ではなかった。幕府は地頭と他の権門との間の紛争を調停する公権力であったのである。それは、鎌倉幕府もその他の権門(寺社・公家など)同様、荘園公領制の上に成り立っていた権門であったからに他ならない。



第47回 源氏三代の死

 源頼朝の死自体、その前後の「吾妻鏡」の記事がなく、落馬後わずか17日で死去したことからその死については謎の部分が多い。2代将軍頼家の場合はどうであろうか。頼家は北条氏よりは乳母であった比企氏(妻も比企氏の娘)にかなり親近感を抱いていた。

 乳母制度というのは上級の武士の場合、実の母が息子を養育するのではなく、有力な部将の奥方にその養育を委ねるもので、本人が成長するにつれ、乳母の一族が政治の実権を握ることが度々あった。こうした中で、比企氏の勢力が強まるのを恐れた北条氏は、頼家が大病に苦しんでいた最中に、時期将軍を弟の実朝に決定する一方で比企一族を滅ぼしてしまった。

 3代将軍実朝の暗殺については、北条義時説、三浦義村説等あるが、最近では北条・三浦共謀説まで出され真相は今もはっきりしない。少し整理してみよう。
北条義時説の矛盾は、実朝の乳母が政子の妹(北条氏)であることを考えれば殺すはずがないという点にある。又、義時は式の直前に「心神御不例」となり、急遽代役を立て現場から立ち去っており、実朝暗殺の動きを何らかの形で知っていながらなぜそれを実朝に伝えなかったのかという大きな疑問が残される。
 又、三浦義村説の矛盾は事件後、北条が三浦を攻める動きを全く見せなかったことや利用価値のある公暁(公暁の乳母は三浦氏)を殺した理由が説明できない点である。そこで登場してきたのが北条・三浦共謀説である。

 結論から言えば、実朝は独裁政治を目指し、朝廷寄りの政治を行ったので関東御家人に暗殺されたのである。実朝は政所の定員をそれまでの4人から9人に増やし後鳥羽上皇の側近を数多く進出させた。義時の代役として式に参加し殺された源仲章は、後鳥羽上皇の側近で政所ではNO2の地位にいた。政所は事件翌月に炎上している。実朝は「出て去なば主なき宿となりぬ共、軒端の梅よ春を忘るな」という歌を出発する間際に残している。又、その直後、側近の者に自分の髪を一筋抜いて「これを生涯の思い出にせよ」といって与えたといわれる。実朝の朝廷への忠誠ぶりは「山はさけ海はあせなむ世なりぬとも 君にふた心わがあらめやも」という歌を後鳥羽上皇に贈ったことでもはっきりしている。一方、後鳥羽上皇側から見れば、こうした実朝の動きは、幕府を自己の権門につなぎ止めておく上で願ってもないものであった。

 都の文化に憧れ、次第に後鳥羽上皇に接近してゆく実朝は、関東の地主団で構成されていた鎌倉幕府からみれば、極めて危険な存在になっていったのである。そういえば、頼朝も、大姫の入内工作等、都への接近を図っていた。独裁政治を押し進めようとする頼朝・頼家・実朝は次第に御家人からかけ離れた存在となっていゆき、御家人によって次々と殺害されていったとも考えられる。以後、将軍家は摂家将軍、親王将軍と移り変わってゆくが、そのどれもが幼少の時に鎌倉に迎えられ、成人してから都に送り返されるというパターンを繰り返していった。
 左「源実朝」


第46回 義経伝説

 義経は衣川で殺されたのではなく、八戸、三厩、蝦夷地を経、中国に渡ってジンギスカンになったというのは、今では誰もが事実ではないことを知っている。新井白石の「読史余論」の中でも、この説は紹介され、蝦夷地では義経のことを「オキクルミ」と呼び米作りを伝えた神としてアイヌから尊崇を受けていたことを記している。元々、この説を最初に言ったのは、水戸藩への仕官を望んでいた沢田源内という武士で、虚構の史書「金史別本」なるものを作りだしたことによる(真っ赤な偽書であることが水戸藩にばれ沢田は仕官直前に逃走している。)

 しかし、この義経伝説が広く分布し「判官贔屓」という日本人的な心性の生み出したことは、史実を離れての独立した研究の対象ともなろう。ただ、授業では「史実でない伝説」だって時には触れる必要があるように思う。なぜなら歴史的な思考力と想像力とは無縁ではないはずだから。毎年、ここでは高木彬光著『成吉思汗の秘密』(角川文庫)を使用している。その論点を幾つか紹介してみよう。

@義経の首は初夏の頃、43日もかけて鎌倉に送られ(1日12q)、鎌倉で首実検された時、ほとんど腐乱し判別がつかなかった。生徒はここでぎょっとなる。
A泰衡が衣川の義経の館を襲撃したのが夏草が繁殖する6月である。(逃げ場のない冬の季節の方が義経を殺すのに確実であるのに)
B義経=ジンギスカンの状況証拠

A.ジンギスカンは九本の白旗を本陣に立てていた。又、部下の失敗や違反は九回目で処罰しており、九郎義経との関連が考えられる。
B.ジンギスカンは死ぬときに「故山にかえりたし」と言ったと伝えられる。
C.ジンギスカンは元々、小男で、高い兜や上げ底の靴を穿き大きく見せようとしていた。夏場はわずかな人数で湖畔に避暑に出かけており、小男であることを出来るだけ隠そうとしていたふしがある。。
D.「元朝秘史」編纂の際に、関係者に開国の史料を一切見せなかった。
E.清の乾隆帝は自筆で「清は義経の末裔なり」と書き残している。

 そして、この推理の最大のトリックは、成吉思汗という名前に隠されていた。これ以上は下手な紹介は全く不必要。是非、本書を手にしてそのトリックを確かめていただきたい。
右「義経と一の谷の戦い」


第45回 源平の抗争

 「源平盛衰記」の中で、斎藤実盛という老将が源氏と平氏の違いを次のように述べている。源氏は「親討たるれば親討たれよ、子討たれば子討たれよ。死ぬれば乗りこえ戦ふ候・・・所が、平氏は「親が死ねば供養すると言って田舎に帰り、農作の時期が来ると百姓をやらにゃあいかんと言って戦場を放棄してしまう」。

 平氏が余りにもあっけなく源氏に破れてしまった背景には、以上のような男性的な源氏に対して女性的な平氏という、武士の気質の大きな違いがあった。さらに、この相違は、東と西の違いでもあった。都から遠く離れた板東では、武士1人当たりの所領規模が大きいのに対し、都の公家や寺社という荘園領主の力が強かった西国では所領規模も小さかった。

 又、源氏は1人当たり5〜10頭の馬を引き連れていたのに対し、平氏は1人当たり1頭がせいぜい。因みに食事も源氏が実質的で強飯を食べていたので角張った「ごつい」顔立ちが多かったのに対し、平氏は貴族的で姫飯を食べていたので「うりざね」型の者が多かった。又、利根川などの大河川が多く流水量が豊富であった東国が豊作であったのに対し、大河川が少なく流水量が少なかった西国はこの頃養和の大飢饉で不作で、兵粮米の確保に苦労していた。板東では昔から「雨年に豊作なし。干ばつに凶作なし」という諺があった。平氏は滅ぶべくして滅んでいったのである。



第44回 院政期の文化−金色堂の秘密

 金色堂には奥州藤原三代の他、藤原泰衡の首も葬られている。金色堂は、源頼朝によって泰衡七回忌にあわせて大修理を施された。金色堂をすっぽり囲む形で鞘堂がつくられ、この修理には奥州藤原四代の怨霊が鎌倉に危害を及ぼすことを阻止する狙いがあった。

 又、現在はないが、金色堂の正面には金輪閣が建立されていたが、その本尊である一字金輪仏(別名、紗那王)は源義経の霊を弔うものであった。つまり、奥州藤原四代の怨霊と源義経の怨霊を真向かいにつきあわせることによって、その怨霊の力を相殺させ鎌倉の平安を祈ったとも考えられる。幸いにも、通常切手の中に「金色堂」と「一字金輪仏」があり、共に拡大カラコピーで提示しながら授業を展開している。



第43回 東と西の政権

 日本史上、面白いことに西に本拠を構えた政権は経済基盤を銭に置くのに対し、東の政権は米(土地)に置くという大きな違いが見られる。西の平氏政権、室町幕府、東の鎌倉幕府と江戸幕府。この違いは、経済発展の度合いの違いといってしまえばそれまでだが、東の家父長的な縦型の社会と西の母系性的な横型の社会、身体的な特徴では、東の長頭に対して西の短頭、農業では東の畑・馬に対して西の水田・牛、住居では東の茅葺きに対し西の瓦葺き、その他、東の竈に対して西の囲炉裏、東の長子相続に対して西の末子相続、東の本家・分家に対して西の年齢階級若宿組)等、枚挙にいとまがない。そういえば、納豆は関東の食品で関西で目にすることはめったにない。江戸時代の顕著な例でいうと、上方の銀遣いに対して江戸の金遣い。 

 丁度、こうした文化や社会の境界線が、日本を分断しているフォッサマグナと一致している点が面白い。フォッサマグナの上に日本の屋根といわれる大山脈が連なっていることを考えれば、山脈が当時から人々の様々な交流を拒否してきた事実を思うべきかも知れない。



第42回 平清盛

 清盛は12才の元服と共にいきなり従五位下・左兵衛佐に任じられ、上流貴族の子弟のような扱いを受けた。実は清盛は白河法皇の落胤であった。母は祇園女御の妹。彼女は後白河法皇に寵愛され、懐妊後忠盛に嫁ぎ清盛を生んだが程なく没した為、姉の女御が清盛を養子にしたという説がある。

 清盛が若い頃、比叡山の僧兵が比叡山王の御輿を担ぎ都に強訴してきたことがあった。当時、強訴といえば、北嶺といわれた比叡山延暦寺と共に、南都といわれた興福寺が著名だが、前者が王城鎮護の寺、後者が藤原氏の氏寺という宗教的権威を振りかざし自らの主張を訴えた。公家達は仏罰を恐れ(興福寺の場合は、一切の宗教的な保護を止め、藤原氏から本人を追放する「放氏」をちらつかせた)、ただ一人として武力で全面対決をした者はいなかった。所が、清盛は物おじせずに敢然と日吉山王の御輿に矢を射かけ見事に撃退したという話が残っている。

 彼は合理的で果断な行動力を持っていた。それまで大規模な土木工事には必ずといって良いほど行われた人身御供をやめ、大輪田の泊の工事で人の代わりに石を海中に沈め工事の無事を祈った話もよく知られているが、海運を盛んにし日宋貿易で立国しようとした点で日本最初の重商主義の政治家であった。しかし、商品経済がほとんどないに等しかった当時、人々は清盛の感覚についてゆくどころか理解さえ出来ずにいたかも知れない。清盛は平治の乱後の後白河上皇方と二条天皇方との対立時代を「アナタコナタシ」て乗り切り、鹿ケ谷事件後、武力で後白河法皇を幽閉し国政の実権を握り、最初の武家政権を樹立したが、それはわずか400日間しかもたなかった。

 授業では和本の「平家物語」を持ち込んで「冒頭の部分はどういう文章?」と質問するところから始める。その全盛は、平家納経の色紙や本物の砂金や金箔片でアピールしているが、そのうち、清盛が孫の安徳天皇に献上した「太平御覧」を入手し授業で使いたいと思っているのだが・・・。



第41回 悪左府頼長

 古来、「悪」というのは現代の、狡猾であるという意味ではなく、「特に際だって知力・武芸面で優れている」場合に使われた。「悪源太義平」「悪七兵衛景清」等の例がある。保元の乱の際に、崇徳上皇側についた藤原頼長は、まさに博覧強記、通勤途上の輿の中でも常に読書をしていたという。その切れ味の鋭い頭脳を指して彼のことを「悪左府」と呼んでいた。

 しかし、夜戦を主張した源為義の意見を上皇・天皇の戦いに相応しくないと知識人特有の形式主義から拒否し、まごまごしている間に、逆に天皇側から夜襲を受け敗北の大きな原因をつくってしまった。敵の来襲に恐れをなし逃げようとした頼長だが、よほど慌てていたとみえ、馬に跨ったはずなのに目の前にあるはずの馬の首がなく仰天して落馬してしまった。何のことはない、馬に反対に乗ってしまったという。






第40回 保元の乱の原因

 専制君主であった白河法皇は、その私生活においても奔放を極めた。60才を過ぎた頃、40才の祇園女御を寵愛したばかりか、その連れ子の璋子をも異常なまでに可愛がり、璋子を自分の孫の鳥羽天皇に与えたが、その後も、璋子のもとに白河法皇は足繁く通っていたという。程なく鳥羽天皇と璋子(待賢門院)との間に生まれたのが、後の崇徳上皇であったが、実際に崇徳上皇は白河上皇と璋子との子供であった。

 小さい頃から、崇徳上皇は「叔父子」と呼ばれ、鳥羽上皇から冷遇されていた。鳥羽上皇が美福門院との間になした近衛天皇が急死すると、崇徳上皇は次の皇位は自分の息子重仁親王をこそと考えたが、その期待は裏切られ弟の後白河に皇位は譲られた。保元の乱はこの兄弟の対立によって引き起こされるのであるが、その淵源は白河法皇にあったのである。
 右「崇徳上皇


第39回 クイズ 当時の合戦

@武士がかぶった甲にはその頂点に丸い大きな穴がついている。何のための穴であったか?

 答 穴は八幡座と呼ばれ、合戦の最中に頭の蒸れを防止するためのもの−実際には烏帽子の上に兜をかぶったのであり、烏帽子の先端をこの八幡座から出していた。時代が下るほど、穴は大きくなったが当時の武士は頭の頂上を河童のように剃っており、これが次第に大きくなって江戸時代の月代となった。江戸時代、登城日であっても、「月代を剃っております」といえば遅刻が許されたともいわれている。丁髷を初めて目にした幕末の欧米人は、「日本人はピストルのようなものを頭に載せている」と日記に書いている。

A当時の戦は、自分の出自を声高に主張してからの一騎打ちであった。なぜ、このような名乗りが必要であったのか?

 答 衆人環視の中で名乗りをあげることによって自らの先祖の霊を招き寄せることと、自分に相応しい相手を捜し求めるためであった。実際に戦いに入る前に、双方から代表者が前に出て、敵将の悪口を言い合う詞戦(ことばたたかい)が行われた。これは詞の持つ呪力に対する信仰から発したものであったが、いかに相手が卑劣であるのかを理屈をつけて述べ自軍の戦意を高揚させた。そして、鏑矢の応酬から合戦は始められた。

Bこの頃の刀から反り身が大きくなっていったのはなぜか?

 答 武士が馬に乗って戦いをするようになったから。直刀だと上から下の敵に振り下ろすと自分の足を切ってしまうから



第38回 衆議一決

 「衆議一決」とは、平安末期頃からの僧兵達の「衆議」に由来する言葉である。元々、中世寺院の集会は、僧の和合集団である「僧伽」に由来する。図のように衆議は当時、全員覆面姿で顔を隠し、円形になって討議する。そして決議は自由討論に基づく多数決で決せられた。なぜ多数決なのか。それは多数の意志が全体の意志であるという観念にあり、一味同心=一揆の決定には神慮が宿り特殊な力が付与されると考えた(だから、「非をもって理とする」強訴が行われた)。議決は具体的には、ある案件に関して投票用紙の賛成・反対の側に一人ずつ毛筆で1本の短線を引いていった。これを「合点」という。あるいは、延暦寺のように全衆徒による衆議では、案件毎に、賛成であれば「尤も」、反対であれば「此状謂なし」と音声で決議する場合もあった。

 では、こうした覆面・円形にはどのような意味があったのだろうか。先ずは、発言者の顔や声色を隠し誰であるのかを特定できないようにした。又、円形はどこからみても上下の関係がなく平等な党議の場を保証した。それは多数決で物事を決めるというのは集団の平等(一揆)が先ず保証されていなければならないからである。室町時代からの傘連判状や一味神水という形や作法はこうした寺院の衆議を出発点とし、在地領主(国人)や農民の間に波及していった。




第37回 院政のはじまり

 院政のはじまりは、170年ぶりに藤原氏を外戚に持たない後三条天皇の出現に求められるが、本格的には白河上皇から開始された。後三条天皇は、皇位を弟の輔仁親王にという遺言を残したが、白河天皇は自分の息子善仁親王に嗣がせるために34才の時に譲位し、以後43年間にわたって院政を行った。これがその後の院政のスタイルを決定づけ、若い年齢の上皇、幼い年齢の天皇というパターンが繰り替えされた。譲位年齢は白河の34才、鳥羽上皇の27才、後白河上皇の32才、後鳥羽上皇の19才。院政の期間がそれぞれ43年、27年、34年、23年とほとんど、院政期間の方が長かった。これを譲位を受けた天皇の即位年齢でみると、堀河天皇の8才、近衛天皇の3才、六条天皇の2才、安徳天皇の3才であった。

 天皇のままでなくあえて上皇として政治の実権を行使したのは、律令制の天皇の制約から自由になるためであった。それは、最大の荘園領主になるためでもあった(天皇のままでは最大の荘園領主にはなれない。なぜなら天皇は律令制の頂点におり、律令制はあくまでも公地公民を原則としていたから)。又、こうした変化は当時の絵画の世界にも反映され、それまで類型的に描かれていた天皇の肖像(似絵)に、それぞれの個性が画面に全面的に表現されるようになった点が注目される。

 院政とは、ベールの中に覆われていた天皇が、上皇として生身の人間として権力を行使した専制君主制であったのである。



第36回 前九年・後三年の役

 安倍氏は奥六郡の主で、古くから物部氏とのつながりも深い。前九年の役は、陸奥守源頼義がその任期終了前に、陸奥への勢力伸張をもくろんで強引に引き起こした乱であった。地理の不案内、冬の寒さ等によって頼義は苦戦を強いられ、出羽の清原氏の助勢を得て、厨川の安倍氏の堀に萱草を敷きつめ火攻めによってようやく安倍氏を打倒することが出来た。実際にはこの鎮圧に12年かかったが、鎌倉時代頃から、9年と誤記されるようになっていた。因みに、この時陸奥に逃れた安倍氏の末裔が鎌倉時代から正史に姿を現す安東氏である。

 後の藤原清衡は安倍氏の娘と、藤原秀郷の子孫亘理経清との間に生まれた。前九年の役で、父の経清は敵将源頼義に捕らえられ、頼義から「わが家来にならぬか」と誘われたが、安倍貞任との関係から(義理の兄弟)、にべもなく断った。怒った頼義は、かつての経清の家臣に命じて、石にぶつけてわざと刃こぼれにした刀で鋸引きで処刑した。安倍氏の娘は、後に清原氏の戦利品として清原武貞に嫁がされ、家衡を産んだ。後に、一族の内紛から、清衡と家衡は、長兄実衡を倒したが、その後、兄弟の間で再び争いが生じた。狡猾な家衡は、兄の清衡の外出中に館を襲い、清衡の奥方と2人の子供を人質に取り、清衡の見ている前で、館に火をかけ共 に殺してしまう。清衡は源義家の加勢を得て、兵糧攻めで家衡を倒しながら、併せて朝廷工作をし源義家の陸奥への勢力伸張策を未然に阻止し(役後、義家は陸陸奥守を解任されている)、奥州藤原氏の土台を築いた。
 右「藤原清衡」


第35回 平将門の乱

 一族の所領争いから、板東の独立を目指した反乱へと発展した将門の乱は、当時の都の貴族達には脅威だった。後に、源頼朝が伊豆で挙兵した報を受けた九条兼実はその日記「玉葉」の中で「将門の再来か」と記している程である。
海音寺潮五郎氏の『平将門』(上中下新潮文庫)では、従兄弟の貞盛(後の伊勢平氏の祖)が世渡りがうまく抜け目のない人間であるのに対し、対照的に将門は正直で正義感が強く純朴な人間として描かれている。授業の中で人物を語る場合、人物の歴史的な役割をおさえることはもちろんであるが、生徒を授業にぐいぐい引っ張り込むためにはある程度の人物への感情移入が必要であろう。そうした意味では教師が何よりも歴史的な人物に対する鮮明なイメージを持つことが重要であると思う。

 将門の強大な勢力を支えていたのは、広大な牧場(御厨)で飼われていた馬と、大量の鉄であった。当時の製鉄遺跡が、将門が本拠にしていた岩井(現在、茨城県)周辺で多数発見されている。それらは、ふいごを用いず谷間から吹き上げる強風を利用し、関東地方の植生であるコナラ・ミズナラ等からの木炭を原料とする東国独自のものであった。又、この頃の合戦では、双方共、一般の公民(伴類)が動員されたことから勝った側が敵の根拠地一帯に火をつけて回る焦土戦術がとられた(合戦が武士の専門行為となる中世では、戦後の恩賞からこうした戦法は普通とられなかった)。さらに当時の軍隊は、比較的少数の騎兵を中心とした従類と多数の歩兵からなる伴類で構成されていた。当時、将門のような私営田領主の館の内部には、鍛冶屋や鋳物師所、作物所、糸所、織物所等の手工業の工房が付属し、これらの館は館内部に舎宅を構えていた従類や、私宅と耕地を持つ伴類等の生産を維持する上で欠かせない機能を果たしていたと考えられる。

 乱後、間もなく書かれた「将門記」によれば、将門の首は都へ運ばれ晒されたが、3ヶ月後、突如、空中に舞い上がり、板東を目指して飛んでいったと記されており、関東各地にある将門の首塚や将門を祭る神田明神の隆盛ぶりを考えると、現在でも関東の人々の将門への人気が抜群であることがわかる。
 毎年、授業では「将門の演説」(NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」から採録)を聞かせ、板東の独立を目指した乱の性格を強調している。


第34回 「馬盗人の話」(「今昔語」から

 今昔物語の中で描かれている武士といえば、真っ先に「芋粥」(利仁将軍と五位侍)の話が頭に浮かぶが、都に出仕した武士の活躍の中にも武士の生き様が具体的に描かれているものも少なくない。

 例えば、「馬盗人」の話。話の主人公は源頼信と息子の頼義。雨の降る夜、屋敷の厩から馬を盗む盗人を目撃した頼信は、息子に黙って盗人の後を馬に乗って追いかけた。屋敷の異変に気づいた頼義は、きっと馬盗人を父が追いかけていると思い、すぐその後を追った。頼信は頼義が必ず弓を携えて自分の後をついてきているものと信じ、馬盗人の背中をようやく目にすると、「頼義、射よ、あれや」と言い終わらぬうちに弓音がし、馬盗人は射殺された。二人は盗まれた馬をひいて屋敷に帰り、一言も言わずにそれぞれの寝所で眠った。翌朝、頼信はその馬を何も言わず頼義に褒美として与えたという。言葉を媒介とせずに親子の間の絶対的な信頼関係や機敏な動作等が描かれているこの説話から、武士の日常生活を律する厳しい心構えやピーンと張りつめた緊張関係を伺い知ることが出来る。


第33回 武士のメンタリテイー

 武士が主従関係を結ぶ際、通常は一族の氏名を書き連ねた名簿を主人に奉呈する形を取るが、武士の説明の場合、開墾地主という言い方以外に、そのメンタリテイーに着目しやくざとの関連で説明した方がより本質をついているように思う。

先ず、やくざの特質を何人かの生徒に聞いてみる。「顔を大事にする」「かっこつける」「シマ(縄張りのこと)を大切にする」等々。

 親分と子分は実に相互契約的な要素を持ち、親分は子分のために、又、子分は親分のために尽くす。身内の者が恥をかかされた場合、親分がオトシマエをつけてやらなければ、子分は親分のもとを去ってしまう。又、武士はいかに美しく行動するか、特にその死に様の美しさに関心を持った。さらに「シマ」とは漢字を当てると「死守」となり、武士の一所懸命にそのまま該当する。惣領を中心としてまとまっていた地域の中小武士団は、頼りがいのある親分を求め、下から主従関係のピラミッドをつくっていった。そして、最終的には清和源氏や桓武平氏に集約されていった。これらは共に広域暴力団。中央政府が嵯峨天皇の時から死刑の制度を廃止し事の善悪をはっきりさせなかったことに比べて「殺生」をその生業としていた武士が台頭してくるのは世の道理であった。
 左「後三年合戦絵巻」


第32回 寄進地系荘園

 地方で先祖代々の土地を営々と開発してきた開発領主達は、田堵、名主を経て、都の貴族や寺社に土地を寄進し、自らはその荘園の荘官(下司・公文・預所)となり、国司の干渉や同様の開発領主との争いから自己の土地に対する私有権を守ろうとした。こうした行為は専門的には「職権留保付所領寄進」といわれるが、荘官になったからといって決してその地位は安泰なものではなかった。例えば、年貢や公事の未納等の理由から、領家から簡単にその荘官の地位は交替させられたのである。

 開墾地主達=名主(武士)の最大の願いである一所懸命を実現する方法は、以上のような所領寄進の他に、地域毎に、主従関係(親分・子分関係)を結び、自力で実現する方法があった。授業では鎌倉幕府の成立の意義をここで一気に触れておく方が効果的であるとも考えられる。私は、教室に和紙に印刷した「地頭補任状」(初期の、頼朝の花押のあるもの)を何十枚と持ち込み、少々荒っぽいが書いては投げ書いては投げして(もちろん書いたふりをして)幕府をつくりあげたエネルギー(関東地主団の本領安堵の期待)に迫っている。 
右「荘園寄進状」


第31回 不入の権−アジール

 不輸・不入権が一般化するのは12Cの院政時代であった。不入権は不輸権の獲得によって、検田使の立ち入りを拒否する権利から発展したもので、通常、国家の警察権の介入を拒否する権利と説明されるが、具体的には、殺害・放火といった犯罪や・貸借関係・人間関係を一切無にさせる特殊な空間(アジール)を指した。
 鎌倉時代でも国内の警察権(大犯三箇条)を持っていた守護でさえ、守護使不入の権利を獲得した本所一円地に犯人が逃げ込んだ場合、その荘園の境界で犯人の引渡を請求するに止まった。その空間はある種の治外法権ともいえるが、こうした空間は、不入権を得た荘園だけではなく、山林、寺院の墓地、神社の境内、橋、辻(市がよく立った)、道路、浦浜、堺などの自治都市、鎌倉や京都にあった縁切り寺等無数にあった。

 こうした空間や場では上の特質以外に、諸国を遍歴する商人(この頃、職人と未分離)や芸能集団達の自由通行権が保証されていた。江戸幕府の成立以降、次第に国家の統制のもと、その空間は次第に狭められていき、漂泊する人々も特定の場所への定住を余儀なくされていったが、その中には、明らかにエタ・非人・遊女などのように差別の対象とされていった人々も数多くいた。


第30回 道長の死因

 栄華を極めた道長も、晩年には娘に先立たれ、64才で亡くなった。最後は、自分の手の指と阿弥陀仏の指を紐で結び、往生への願いを抱きながら数多くの僧侶の読経の中往生した。道長の病歴は、糖尿病・網膜症・心臓神経症・背中の腫れ物などであったが、後一条天皇の摂政となった51才の頃、頻りに水を飲む「飲水病」であった。飲水病とは現在の糖尿病である。糖尿病は精神の高揚をもたらす。三女威子の入内に際し歌った「この世をば」という歌は、道長が53才の時のものであるが、糖尿病の不安定な気分に起因するものかも知れず、こうした気分がさらに道長の権力欲にも影響したとも考えられる。

 又、晩年の道長が書いた日記や公文書の文字が大きく、所々で行が乱れているのは網膜症によるものであったが、道長のこうした病歴は、当時の貴族の食事に大きな原因があったと思われる。

 主食は米で、強飯・姫飯に湯や水をかけて食べ、副食は魚(ほとんどが鮨・鱠)野菜は茄子や豆が中心で、海草も干物や塩漬けのものであった。調味料も普通は塩と味噌だけというもの。当時の貴族の日記には何を食べたのかとか、おいしかったとかいう記述は全く見られず、食生活は至って淡泊で栄養に著しい偏りがあったことは事実である。そういえば、「糖尿病学会」の記念切手には「紫式部日記絵巻」の中の道長の顔が採用されているが以上の理由を考えれば納得出来る。食事だけで考えても、蛋白質をふんだんに摂った地方の武士達にとってかわられた事情が理解されよう。 
左の切手は、「糖尿病学会の記念切手に描かれた道長」


第29回 六条御息所

 この時代、怨霊といえば早良親王や菅原道真は代表的なものだが、源氏物語に出てくる六条御息所の生霊も授業では王朝文化を語る場合には欠かせない話題である。六条御息所は前東宮妃で光源氏と出会ったのは24才の時。光源氏より7才年上であった。元々、気位が高く「いとものをあまりなるまで思ししめたる御心ざま」と記されているように、何事も度を過ごす程、つきつめて考える性格であった。光源氏とはもう5年も関係が続いていたが、正妻葵の上が懐妊して以来、光源氏の足はだんだん六条御息所から遠のいていった。そんな時、葵の上と六条御息所は御禊の行列見物の時に車争いを演じたことがあり、後からやってきた葵の上の従者達によって六条御息所の車は散々、狼藉を受けついには隅の方に押しやられてしまった。御息所にとってはこの上ない屈辱だった。以後、御息所の生霊は出産間近の葵の上にとりつくのであった。 

 急に産気づいた葵の上はいつもよりひどい物の怪に悩まされ苦しみ抜いたが、高僧達の必死の祈祷によってようやく物の怪は飛び去ったと思われた。「源氏の君に申し上げたいことがあります。」と葵の上が言うので、源氏は帳台の中に入っていって妊婦の手をとってしみじみ慰めてやると「こんな所に来ようなど思ってもいないのに、人の魂は悲しみに耐えかねると体を離れるって本当にありますのね。」という声や表情は葵の上ではなく、すっかり六条御息所のものとなっていた。葵の上は無事に男子を産むが、程なく他界してしまう。遠く離れた六条御息所の髪や着物には、祈祷の時に用いられた芥子の匂いが染みつき、初めて自分の生霊が葵の上にとりつき苦しめていたことを悟り、娘共々、出家して伊勢に下向してしまうのである。

 話はここで終わらない。この後も六条御息所はずっと源氏の愛する女達をのろい続け死後も死霊となって彼女たちを苦しめるのである。後に源氏の正妻となる女三の宮は、その死霊のため尼にされ、最も愛された紫上は殺されてしまうのである。
左「北斎が描いた六条御息所」


第28回 当時の出産

 当時の貴族の出産は座産(現在のラマーズ法)であった。産屋は普通、日常の住居から別の所に移され、室内は白い調度に整えられた。絵巻によると、介添人の手にしているのは竹べらで、これで赤ん坊のへその緒を切ったらしい。産み落とされた直後の赤ん坊に忍び寄っているのは餓鬼。乳児の死亡率の高さを反映している。

 室外では夫が心配気に弓の弦を鳴らし(鳴弦)、安産を祈っている。その他、出産には妊婦にとりついた霊を一時的に移す「よりまし」、散米などの数々の呪術的な行為が行われた。



第27回 クイズ 平安時代の貴族の生活

@平安時代の家屋は今のように雨戸やガラス戸もなく、広く開放的なものであった。男女が床 を共にしている時にのぞきや邪魔をどうやって防いだか?

 答 お互いのプライバシーを守る約束が出来ていた−因みに几帳で囲まれた面を几帳面という。やってきた男性は几帳の出っ張りに冠を掛けその所在がわかるようにしていた。

A平安時代の10〜12C、京都で使われていた車は全て牛に引かせていた。政府が度々馬を飼うことをすすめたが、一向に馬が利用されなかったのはなぜか?

 答 当時の馬は小さく力がなかったから−江戸時代の元服の規定の中に、身長132p以上というのがあるが、これは当時の馬の身長に関連がある。

B弁当を持っていく習慣は江戸時代からである。では平安時代、宮廷に出勤して仕事をしてい た貴族はお昼ご飯をどうしたのだろうか?

 答 当時は二食だったので必要なかった−三食を最初に始めたのは応仁の乱の頃の足軽達から。糒の上に味噌を乗せ水をかけて食べていた。

C平安時代には印刷術は発達していなかったしもちろん本屋もなかった。「源氏物語」は書か れた当時から世評が高かったが、人々はどのようにして「源氏物語」を読むことが出来たの だろうか?

 答 原本を筆写しながら回し読みしていた−本は当時から貴重品で成人式や結婚式のお祝いにも贈られた。ここでは、幕末の勝海舟が青年時代に「ズーフハルマ」を持ち主の家に通って持ち主が夜眠っている間に筆写したことに触れながら(普通なら1部だけで精一杯のところだが、海舟は2部筆写した)、「書くこと」が一番の勉強法であったことを毎年生徒に繰り返し説いている。

D 次の各女房言葉はどのような意味か

A.オミオツケ(おかずのこと) B.オイタ(かまぼこ) C.オカベ(豆腐)
D.ハバカリ(オマル)

E当時の貴族は何かと迷信に振り回されていた。貴族はそれぞれ自分の一年分の暦を陰陽師に作ってもらい、それに基づいて生活していた。ある女房から暦作りを依頼された陰陽師は余 り「早くつくってたもれ」という催促を受けたために何の気なしに「箱すべからず」という 一文を暦に書き入れてしまった。それから数日後、その暦を信じた女房は、苦しみ抜いた末 についに気絶してしまった。一体、「箱すべからず」とは何のことだったのだろうか?

 答 排泄してはいけない(箱とはオマルのこと)

F戦後、労働法などによって女子の生理休暇が認められるようになった。所が、平安時代には、既に生理休暇が公然と認められていた。その頃は、それほど労務管理が発達していたの だろうか?

 答 その期間の女性は穢れていると考えたから−別棟の小屋で一切の家事をさせず。「手なし」と言われていた。血に対するタブー。現在の放射能汚染と考えれば、物忌の意味が分かりやすいかも知れない。

G当時、ある人が左の人差し指をネズミに咬まれてしまった。一体、どのような手当をしたのだろうか?

 答(ネズミに強い)猫の糞尿を塗った。

Hなぞなぞは、平安〜室町時代の宮廷の遊技として盛んに行われた。次のなぞなぞに答えよ

A.破れ蚊帳とはなんぞ。 答 蛙−破れた蚊帳には「蚊が入る」→「蚊入る」→「蛙」
B.母に二度会いたれど父には一度も会わないもの。 答 唇−この問題は国語学上の有
  名なものだが、当時、「母」を「ファファ」、「父」を「シシ」と発音していたことがわかる。

I平安〜室町にかけて、庶民の実生活を描いた絵巻物を見ると、女性が高足駄を履いて町を歩いているのが目立つ。なぜだろうか?
 答 排泄しやすいようにするため−18Cの頃のパリでは、上の階のアパートの窓から糞尿が垂れ流しされた。「水に気をつけて」(ガルデロー)と叫んで捨てられたのだが、これは共同トイレが極端に少なかったことによる。ナイトメンと呼ばれた清掃人がそれらを 夜間に桶に集め穴を掘って埋めたのだが、とてもそれだけでは処理しきれなかった。そこで、男女で路上を歩くときは、窓側に近い方が男性、道路側が女性としていたが、それでも糞害にあう女性も少なくなかった。そこで、少なくとも足下の糞を踏みつけないように考案されたのがハイヒールであった。日本の高足駄とハイヒールはこうして生まれたのだ。



第26回 平安時代の貴族の生活


 華やかな宮廷絵巻をくりひろげた平安時代の貴族の生活。その実際はどうであっ 樋口たのだろう。先ず、思い浮かぶのは「十二単」という当時の女官の衣装。これは単にきらびやかさを誇るものではなく防寒具そのものであった。日本はほぼ600年ごとに寒冷期を迎えたがちょうどその時期に当たったのがこの平安時代であった。記録によれば、何と最高26枚も重ね着していたというからさぞかし動きずらかったに違いない。因みにその場合、厚さが20pにもなったというからラブシーンには不向きであった。

 当時の貴族の平均寿命は驚くほど短い。男性は32才、女性は27才で、その死亡の原因も肺結核、脚気(最近、増えているらしい)、皮膚病の順であった。大半が当時の食料事情によるものであった。この時代は男性・女性を問わずまん丸い顔つきであったが、実は米の食べ過ぎによる栄養失調の一歩手前、むくみであった。米は毎日決まった量を食べていたのにビタミンを大量に提供してくれる新鮮な野菜や肉はほとんど口にしなかった(仏教の影響も大きい)。さらに彼らは特別の事情がない限りほとんど入浴しなかった。当時、風邪をひいていたときなどはあえてニンニクを食べていたというから以前にも増して入浴しなくなる冬の季節などは、部屋の片隅においていたオマルからの悪臭も手伝ってさぞかしいい(?)匂いの中で生活していたと思われる。ついでに付け加えれば、あの紫式部の鼻の穴は、灯心からの油煙で真っ黒にすすけていたと思われる。

 当時の女官達の化粧はどのように行われてたのだろうか。貴族達の住んでいた家屋は寝殿造りと呼ばれる天井が高く、薄暗いものであったから出来るだけ顔をくっきり見せる必要があった。顔はできるだけ白粉を塗りたくり、髪と歯はそれとは対照的に出来るだけ黒くすることが求められた。髪を出来るだけ長くする為に小さい頃おつむを剃っていた。記録によれば何と5メートルもの髪の持ち主が実在していた。眠るときなどは枕元に乱れ箱という箱の中に髪をとぐろを巻く状態で入れていたというから凄まじい。又、白粉に使われたのが当時は水銀や鉛であった。天然痘の跡=痘痕を消すためにもその毒性の白粉をこれでもかこれでもかというくらいに塗りたくらねばならなかった。こうした化粧は当時、男性の間でも行われた。この時代の貴族はおしなべて、フィーリングセンスをどれほど身につけれるかに没頭していた。そして迷信にも・・・。



第25回 清少納言と紫式部

 国風文化を代表する二大女流文学者。清少納言と紫式部。「をかし」の「枕草子」に対して「もののあはれ」の源氏物語。「をかし」がカラッとしているのに「ものあはれ」はどうみてもウェットな感覚。紫式部は清少納言のことを「さかしだち、真名(漢字)書き散らして」とか「年の割に厚化粧して見苦しい」等、あらん限りの言葉で清少納言を罵倒していた。
 これは、それぞれが仕えていた定子と彰子が共に一条天皇の中宮となっていたことに起因する。定子は道隆の娘、彰子は道長の娘。つまり主人同士が一人の天皇をめぐってライバル関係にあり、定子が一条が幼少の頃から中宮となり、最初に懐妊したことなどから、遅れて入内した彰子に仕えた紫式部は前記のように異常なまでの闘争心を清少納言に抱いたのである。


左「清少納言」・右「紫式部」





第24回 御堂関白藤原道長

 藤原道長は藤原兼家の三男坊であったが、兄弟の中でも若い頃から剛胆な部分を持ち合わせていたといわれる。花山天皇の時、雨の晩に雑談の中で三兄弟の肝試しをやることになり、道長だけが、大極殿の柱の一部を切り取ってきた話は有名である。。上の二人の兄弟を差し置いて氏の長者になれたのは、悪疫により関白・左大臣以下十六名もの公家が急死するという幸運も手伝ったが、姉栓子の引き立てによりライバルであった甥伊周に勝ったことが大きかった。 

 摂関政治は外祖父が孫の面倒を見る形で行われたが、これは当時の婿取婚という結婚形態に基づく。男性が女性の家に婿として入り込む形の結婚をいうが、毎年、妻の母が夫の衣服をプレゼントするなどの慣行があり、何かと妻の実家の家柄や財力が夫の官界での出世を大きく左右した。道長は、2人の妻を得ていたが、1人は左大臣源雅信の娘倫子、もう1人は源高明の娘明子。共に賜姓源氏の娘を妻にしているのは、その貴種性と財力を狙ったものである。

 道長は彰子を初め4人の娘に恵まれ、次々に中宮に入れたが、問題は天皇との間に男子を生むことが出来るかどうかにかかっていた。男子であれば、次期天皇になる可能性があるが、その確率は115(男)対110(女子)であった。男子に恵まれずに、あるいは全く子供に恵まれないケースも考えられ、そうした意味では、摂関政治は実に「偶然の上に成り立っていた政権」であった。宮中に入れた娘が天皇の寵愛を受けることが出来るように、藤原氏は娘に当時最高の家庭教師とも言うべき女官をつけ教養を高めることに苦心した。彰子の紫式部、定子の清少納言などはその代表的な例である。

 又、道長の、外孫の即位に至る執念には凄まじいものがあったと言われる。彰子を強引に一条天皇の中宮とし、生まれた二人の孫を天皇に立てると彰子の同母妹をそれぞれに入内させた。その結果、威子が後一条天皇の中宮となったことで「一家に三后」という未曾有なことを成し遂げている。なお、道長は俗に「御堂関白」(御堂とは法成寺のこと)ともいわれるが、左大臣・内覧(摂政・関白に準ずるもの)・摂政にはなったことがあるが、関白になったことはなかった。


第23回 菅原道真

 藤原基経死後、宇多天皇に重用され右大臣にまで登りつめた菅原道真は26才の時に「方略試」という試験にパスした。これは、上級官吏への登用試験でこの試験は230年間中わずか65名の合格者という最難関試験であった。この時、道真は26才。まさに文章道の超エリート。試験の内容は「氏族を明らかにせよ」と「地震について述べよ」の二問。今風に言えば、小論文というところか。

 藤原時平の奸計により、大宰権帥に左遷となった道真は当時57才。2年後にその地で病死した。道真の左遷と共に、4人の息子達も遠国に流罪とされ一家は離散したが、流罪後、わずか2年足らずのうちに、京都の道真の家では、木を取られたり、宅地の一部を貸したりした上に、薬も思うように買えず神祭りに使う昆布にさえ不自由するほどでった。彼の九州への旅も「路次の国々食馬を給するなかれ」という太政官の命令で、徒歩で食糧を持参して行かなければならなかった(一説にはこの命令で馬でいけないので、牛に乗っていったということになった。北野天満宮には、大きな牛の像が置かれている)。配流先は廃屋同然で、床は朽ち竈にはボウフラまでわき食事にも困る有様で、一緒に連れて来ていた一番幼い息子を翌年失っている。道真一家の零落が現代の目から見ても余りにも急であったのは、禄(米)を換金しておけるほど貨幣経済が発達していなかったことによるものと思われる。

 又、道真の失脚には、常に道真の後塵を拝していた三善清行が絡んでいた。道真は、清行の師の推薦文を「清行は馬鹿で鈍くさい所が抜群である」と書き直し嘲ったことがある。道真自身、純粋で生真面目な面があり常に政界では孤立していた。道真が右大臣になった翌年、清行は「身分をわきまえて辞めたらどうか」と嫌味たっぷりに道真に書き送っているが、左遷の辞令の文章と清行の手紙の内容は余りにも酷似し過ぎているのである。



第22回 空海と最澄

 弘仁貞観文化はそのほとんどに空海の名前が出てくる。当時、朝廷が渇望していた密教を本格的に日本に持ち帰った空海であったことを思えば当たり前と言えば当たり前だが(最澄はそのごく一部しか持ち帰らなかった)、密教関係の著作や、絵画、仏像、仏具等を取り払っても空海の事跡は広範囲にまたがっている。讃岐満濃池の修理をはじめ、書での「風信帖」、漢詩集の「性霊集」、庶民のための「 芸種智院」等、俗説では「いろは歌」も彼の創作であるともいわれる。まさに空海は天才であった。

 空海は日本にいるときから中国語や密教を独習しており、中国に渡っても空海は恵果によって密教の両部を授けられたが、恵果は密教そのものの思想をいちいち教えたわけではなくて、空海が日本で独学をしてきたものを追認しただけであったといわれる。

 一方、最澄は法華経を中心とした天台宗の確立に忙殺された。彼は密教・禅宗・浄土教をも併せて持ち帰り、自らが真言という密教に完全に転身する気は毛頭なかった。国家が正規に採用した天台宗の中に「紗那業」という密教科を入れたため、責任上、自分自身が学ぶ必要があった。出来れば資格だけ欲しかったので、書物の借用や弟子の泰範を空海に差し遣わせた。所が、密教そのものは、人間は宇宙の原理である大日如来に合一できるならばたちどころに仏になりうるという教えで、文字によって知ることは出来ず、それは「越三摩耶」として甚だ嫌われていた。最澄には悪意などなかったが、空海からは「世渡りの便宜として密教を身につけようとしている」と思ったに違いない。以後、2人の関係は急速に冷却していった。

 授業では、2人の肖像の色紙を黒板に張りつけ、上記の関係を説明しているが、映画「空海」から「真言」の部分をテープに録音し生徒に聞かせて臨場感を出している。







第21回 永遠都市平安京

 建設途中の長岡京をわずか10年で捨て、新都にさらに遷都したのは、桓武天皇が長岡京造営に絡んで憤死した実弟早良親王の怨霊から逃れるためであったことは有名な話である。

 元々、この地が都に選ばれたのは「四神相応」「風水」の考え方から都に適していると判断されたことによる。「風水」の考えでは、大地のエネルギー=「気」は都の東西南北にある四神が交差する「龍穴」から噴き出すという。「龍穴」に相当したのが、現在の千本丸太町交差点。当時はそこに大極殿があった。「気」はそこから一気に千本通り(当時の朱雀大路)を南下し都の表玄関である羅城門を目指した。遷都当初の頃、平安京には東寺と西寺しかなかったが、両寺は、「気」が都から出て行かないように羅城門と共に防ぐ役割を与えられていた。又、現在の神泉苑は、龍の水飲み場である龍水口に相当し、幾度となくここで雨乞いの儀式が行われた。このように桓武天皇は、平安京を「気」の充満する、大自然のパワーに抱かれた永遠の都にしようと考えた。

 平安京への人口集中は遷都後、僅か50年の短期間に行われ(約10万人、当時の長安は100万人)、生活基盤の弱さもあって、日照りや洪水、疫病の流行毎に多数の病人死者を出した。特に、鴨川は平安京造営の以前は都の真ん中を流れていたのを、遷都の時に都の外側に流れを変え高野川と合流させたたことからしょっちゅう氾濫した。清水寺の周辺はそうしたことから昔から死体の投げ捨て場、焼却場であった。早良親王や菅原道真・「源氏物語」の六条御息所の生霊など、数多くの怨霊が都を席巻したのもこうした都市環境が深く関連している。

 ちなみに、右京のおかれた地域(特に太秦や化野)はかつては大和湖といわれた巨大な湖があった所で、早くから寂れていった。又、桓武天皇の決断で、蝦夷征伐と平安京造営の二大事業は途中で共に中止されたことから、平安京の都市整備は大幅に遅れることになった。黒沢明監督の映画「羅生門」(芥川龍之介の「羅生門」と「藪の中」を合体させた作品)は荒れ果てた平安京や羅城門のイメージを彷彿させてくれる。


第20回 蝦夷征伐

 稲作が伝来して以来、大和に生まれた政権は、「稲作を知らない野蛮な民」という意味で、関東・東北に居住する人的呼称として「蝦夷」を用いた。鎮守府から多賀城から移した胆沢城内には多くの火打ち石が発見されていることから、その城内には米の試験田があったことが推測される。蝦夷征伐は単に武力討伐ではなく、米作りを広めさせながらの武装開拓であった点が重要である。又、大規模な征伐が行われた背景には単なる領土の拡大ばかりでなく、当時、ほぼ同時に行われていた平安京造営問題が絡んでいた。つまり、朝廷は蝦夷の脅威を強調することによって、平安京移転に対する民衆の不満を解消させようとしていたとも考えられる。


第19回 遣唐使

 遣唐使船の建造は安芸の国で大半が行われた(杉を使用)。船体はマストを固定し釘ではなく鎹を用いた。帆は竹の皮を編んだ「網代帆」。船室は4〜5に区画され隣の部屋に行くのにいったん甲板に出てからという不便なものであったが、「隔室」はヨーロッパよりも2Cも早かった。全長20m、幅が7mで一隻に120人から140人程乗船した。大使に任命されたのは藤原氏の中でも傍系に属す人々であった。

 遣唐使は全部で15回、総船数は40隻に及んだが、その中で遭難した船は12隻。約三分の一という高い遭難率であったが、それは、見栄で大きな船を造りすぎたのが最大の理由であった。だから遭難する際、船体は真っ二つに折れたといわれる。更に、季節風や海流の知識がほとんどなかったことにもよる(これらの知識を最大限に活用した場合は東シナ海は最短10日で走破できた)。又、以前の航海の失敗を全く参考にしなかったことも大きな理由であった。さらに船首が方舟で波を乗り切れなかったことも大きかった。遭難は往路よりも中国から日本への帰路が圧倒的で(目標が小さいから)、マレーやベトナムによく漂着した。

 授業では、ビデオ「マンガ日本史」から「鑑真の渡来」を視聴させ、当時の航海の実態を探ると共に、鑑真招聘に生涯をかけた栄叡と普照の苦労にも触れる。マンガとはいえ、この作品は同シリーズの中でも感動的な作品である。



第18回 大仏造立・大仏公害

 大仏建立に投入された労働者の延べ人数は、2603538人。当時の推定総人口が全国で約600万人とすると実に約半数が携わった計算になる。全ての資材を米に換算すると60万石=約30億円の大工事であった。但し、「万葉集」には大仏に関する歌が一首も載っていない。後に藤原仲麻呂の専権に対して反乱を計画し獄中で死んだ橘奈良麻呂の政府転覆計画は、こうした大仏造立に対する一般庶民の怨嗟を背景ともしていた。

 大仏の表面にはその荘厳さを増すために金を塗ったが、実際には金と水銀との化合物である金アガルガムを表面に塗りつけて熱を加えた。そうすると水銀だけが蒸発して後に金のみが残る。しかし、この時水銀の有毒ガスが大量に発生し、作業に従事していた工人の中には水銀中毒に犯されていた者もいたと考えられる。5年間の作業期間中には近くの川に水銀系の廃棄物が流され水俣病的な水銀中毒が生じていた可能性がある。とすれば、日本の最初の公害は足尾鉱山鉱毒事件ではなく大仏公害であったかも知れない。



第17回 長屋王邸の生活

 相次ぐ木簡の出土により長屋王は「長屋親王」と呼ばれ、その邸宅の敷地は6万平方m(甲子園球場の1.5倍)もあり、敷地内に小路が全くないことから長屋王邸は平城京建設の初めからその一等地に建設が予定されていたと推測される。廷内には犬や鶴を飼い、酪や蘇というヨーグルトを食していた。又、「氷室」と書かれた木簡から、オンザロックでお酒を飲んでいたことが想像される。奈良時代の高級貴族の生活用具は、テーブルや椅子、ベッド、皮製のバンドというハイカラなものであった。

 又、木簡によれば「吉備内親王」「安倍大刀自」「石川夫人」等の妻妾やその子供達、又、長屋王の姉妹や弟や叔父、従兄弟までが廷内で生活を共にしていた。さらに、廷内の事務、警備、庭園、衣食、医薬、生産等、多数の仕事に多くの人々が従事していた。中でも手本の作成、書写、校正、表装等の写経関係の人々も多数いたことが判明した。『唐大和上東征伝』によれば、鑑真が来日を決意したのは長屋王が仏法を崇敬し1000枚の袈裟を唐の僧に施したことがきっかけになっているが、実際に長屋王は崇仏心が篤かった人物であることをこれらの木簡は改めて証明したことになる。

 天平文化の授業では、正倉院に残るガラス製カットグラスに赤いワイン入れ「うーん、うまい」と言いながら飲んで見せ(勿論、ワインは赤色のジュース)、「酪」や「蘇」を生徒にちぎって食べさせ、「天平の香」と銘打った「白檀」「ジャスミン」の香を焚きながら、「これが光明子の衣服にしみ込んでいた匂いだ」等と言いながら展開している。



第16回 聖武天皇と光明皇后

 聖武天皇の母は藤原不比等の娘宮子。光明子は宮子の妹にあたる。つまり二人は甥と叔母の間柄。しかも、聖武天皇は小さい頃から藤原氏の家で育てられたことから藤原氏には頭があがらなかった。聖武天皇と光明子の筆跡を比べると、聖武天皇がどちらかと言えば、線が細く女性的であったのに対し、光明子は逆に男性的で骨太な書を残している(「楽毅論」)。後に疫病の流行で頼みとする藤原四兄弟の病死、藤原広嗣の乱などで、聖武天皇はその繊細な神経をずたずたに切り刻まれていった。

 杉本苑子著『穢土荘厳』(上下文春文庫)では、四兄弟の中で一番最後に天然痘で死んでいった宇合を看取った聖武天皇の心中を次のように記されている。

「聖武天皇も光明皇后も天皇であり皇后である以上に、藤原一族の一員であった。四兄弟の力の笠に庇われ、同時に、公的な立場からその権力を擁護しつつ、持ちつ持たれつの繁栄を皇室と藤原氏の双方が享受してきたこれまでではなかったか。雨を防ぎ風を防いでくれていた笠−大盤石と信じていた力が、突如吹き飛んだ。(一体この先、どうしたらよいのか。どうなってゆく政情か?)
 鈍重寡黙な外見とはうらはらに、気が小さく、四季の移り変わりや鳥、虫けらなど儚い生物の生き死にさえ思いがけず繊細な反応を示す聖武帝である。不安にかられ、一時的にせよ人心地をなくしたとしても怪しむには当たらなかった。
 表情や態度、言葉の端々に滅多に喜怒を現さない点、夫にまさるとも劣らぬ無口な光明皇后すらが、宇合の死には取り乱した。肩をふるわせてむせび上げ、瘡だらけな兄の手を握りしめて、見かねた侍女達が引き離そうとしても、いっかな遺骸の脇から動こうとしなかったのである。まして一門の動転ぶりは目もあてられぬほどだった。政局は変わる・・・。」
                              (下文春文庫P54〜P55)

 聖武天皇が、平城京を出て5年間もの間、恭仁・難波・紫香楽と都を転々としたのは、長屋王の怨霊をひたすら恐れたためと考えた方が分かりやすい。



第15回 藤原氏の策謀−安積親王の暗殺


 聖武と光明子との間に初め基皇子が誕生したが僅か1才で夭折。その年、聖武は他に犬養広刀自との間に安積皇子をなしたが、藤原氏の廟堂における地位を脅かす存在になるであろうと疎まれ17才で死去したが、その死は藤原氏の暗殺によるものであると考えられている。基皇子の死後、10年目に誕生した阿部内親王(後の孝謙天皇)は、その誕生と共に皇太子になった。藤原氏の期待がいかに大きかったかわかる。


第14回 和同開珎

 平成9年富本銭の発見で、日本最初の貨幣の座から心ならずも滑り落ちた和同開珎。但し、富本銭は魔よけや招福の為の厭勝銭の一種であったのに対し、和同開珎は明らかに貨幣として流通することを目的として発行された。教科書では武蔵国で、和銅が発見され献上されたことから、政府が和同開珎を鋳造したと記されているが、実は和同開珎は平城京の造営費用の不足を補うために鋳造されたもので、事実は逆でその材料である和銅の採掘が各国に命じられたのである。モデルは唐の開元通宝。最初に発行されたのは銀銭(それ以前に無文銀銭が発行されていた)。一文は労働者一日の労賃として政府は流通を図ったが、多くは呪術用として用いられた。

 例えば、旅の安全を祈願したものか道路の溝からまとまって出土したり子供の成長と出世を祈ったものか、胞衣壺の中に筆や墨と一緒に入れたもの等。中には仏像の手の中に埋め込まれたものもある。なお、和同開珎は青森県からは銅製三枚、秋田県から銀製が一枚、シルクロードからは数枚出土している。


第13回 高低差の平城京

 天子が北に住み南に南面するのは中国の思想。平城京は長安の四分の一の大きさで人口は10万以下。朱雀大路は幅70m(四車線の三倍)で小路でも6〜8mあった。道路の両側には必ず排水用の溝があり石材が少なかったので道路は舗装されなかった。
 最近、復元された朱雀門を正面に朱雀大路をワイド版で写真でおさめたものを教室に持ち込みその大路の広さを実感させる。庶民の目には、朱雀大路がどのように見えたことだろう。

 実は天皇着座の大極殿は地表から3mの高さにあり、朝堂院の南門と一般庶民の居住地域とは7〜8mの高低差があったという。庶民から常に見上げる高さに当時の政府があったのである。
現在、奈良県内には、図のように岩見・薩摩・出雲・土佐等の旧国名の地名が数多くあるが、それは都の造営の為に各地から徴発されてきた人々がそのまま移住した結果なのである。彼らは都まで兵士の護衛つきで食料は自弁であった。都に着いてからの食料は一日米八合、雨が降って仕事が中止になるとそれは半減された。苦しい労働で逃亡が後を絶たなかったが、中には監視役の衛士までも逃亡した。又、諸国から集められた人々を苦しめたのは各地の話し言葉で、微妙なアクセントの違いは現在の私達の想像をはるかに越えたものであった。



第12回 高松塚古墳(白鳳文化)

 白鳳文化では、「高松塚古墳」をとりあげその謎に迫り当時の人々の怨霊感にも触れてみたいところである。授業では、豊田有恒著「祟りの墓」(『持統四年の諜者』所収角川文庫)の一部を抜粋してプリントに挿入している。以下、その内容を箇条書きで紹介してみよう。

 発見当初の状況はどうであったか。

@被葬者は推定40才位。頭蓋骨はなかったが大臼歯だけが発見されている。
A太刀の鞘だけ発見され刀身がなかった。
B四神の図のうち北方をつかさどる玄武の頭部に削り取られた跡がある。古墳のある辺りは天武陵、持統陵、欽明陵などがあり、平城京の朱雀大路、藤原京の大路の延長上にある。
C天蓋の下の辺りに描かれていた人物像が人為的に消されていた。
D石室の内部は荒らされておらず鏡などの金属製品に手をつけた跡が見られない。

上記の状況から以下の事柄が推測される。

@頭骨は何者かに運び去られた。
A被葬者が武人であり武装解除の狙いがあった。
B神が司る北方−平城京のある方角に祟りを及ばなくさせるため。
C後になってその人物に対する評価に変化が生じた。

 氏は以上の諸点からその被葬者を天武天皇の子高市皇子であると推測する。長屋王の変後、怨霊の祟りを恐れた藤原氏は、長屋王の父高市皇子の墓を暴き怨霊の退散を行った。長屋王は知識人の常として怨霊としての迫力に欠けるが、父の高市皇子は壬申の乱の時、若干18才で父天武天皇の軍勢を率いて近江軍を壊滅させた武人で、子孫断絶の悲運を知ればどのような報復に出るか予測できないと考え、古墳の石室を破壊する一群の者を派遣させた・・・。

 実際の被葬者が確定できない今、こうした推理小説的な手法の作品は授業では効果的であると思う。元々、この古墳が発見された当初、石室の内部は湿度90%以上、室温15°C前後と、環境が一定していたことが、壁画の保存状況に幸いした。現在その環境を維持するために、古墳の周囲には巨大な維持装置が設置されている。又、平成4年、奈良国立文化財研究所飛鳥資料館と東海大学情報技術センターによって、壁画に描かれた16人の群像のうち、1枚の同じ型紙から12人が描かれた可能性が強いことが確かめられた。又、東壁の青龍と西壁の白虎の胴体部分も同一の型紙から描かれたと考えられている。

 又、ここで描かれた16人の顔立ちは、面長で大顔。平坦で立体感に乏しく目は切れ長で一重瞼。鼻翼は小づくりで幅が狭いという特色を持つが、それらは渡来系のものであった。百済や高句麗が滅んだ7C後半、日本には夥しい渡来人がやって着た。そういえば、この古墳が作られた場所は渡来系氏族の倭漢氏が本拠とした飛鳥檜隈で、絵師も渡来系の黄文連本実であった。
なお、同古墳の石室は実際には大人がようやく入れるくらいの大きさしかない。私も、修学旅行の下見の折りに「奈良歴史教室」(近鉄奈良駅ビル4・5階)で、その実寸複製を目にし意外な感を持ったものである。歴史的遺物の実際の大きさを生徒達に実感させる必要があるように思う。私は、たまたまその実寸複製をカメラに収めて写真で確かめさせているが、当教室では館内の写真撮影が自由であり、他に「東大寺大仏左手」(その横に私が立ち大きさを比較させる)、「興福寺仏頭」(破損している左側を見れる)、「新薬師寺の十二神像」(仏像の後ろ姿に注目)等参考になる。




第11回 「下級役人の生活」


 同じ役人でも、位が五位と六位とでは給料その他で大きな較差があった。蔭位の制(祖父や親の位に応じてその子孫が相応の位につき官職を得る制度)も五位以上の者に限られていたし、六位以下の者は、給料と言っても2月と8月だけ支払われる季禄しかなかった。従って、彼らは余暇を見つけてはせっせと自分の口分田を耕したり、写経などのアルバイトに精を出していた。朝廷でもそうした事情を考慮してか、6月と9月にそれぞれ15日ずつの遊休(田暇)を与えた。「政府から支給される食べ物が質量共に悪いので鳥目になって字が書けない・・・だから、毎日海草や油や酒を増給して欲しい。」という下級役人の要求書が、現在、東大寺正倉院に残されている。彼らの生活の様が直に伝わってくるようで興味深い。ついでに言えば、当時の役人は約400人に1人の割合であったが、現在は27人に1人の割合であることもつけ加えておこう。

 授業では、律令のまとめとして、複製の木簡を教室に持ち込んで、グループ毎の発表会をやらせているが、図にあるように、字の練習を一生懸命やったと思われるもの、役所に給料の前借りを申し込んだもの、欠勤届や勤務評定に使われたものや、出世のために論語の一節を書き込んで勉強したもの等、当時の下級役人の生活の実態を具体的につかませることが必要であると思う。こうした下級役人達は、木簡に書いては何度もその表面を削って使っていたので、削る小刀は必須アイテムであった。

 役人の勤務時間は、五位以上では正午まで、六位以下では日没までであったが、共に夜明けまでには宮城の正門である朱雀門に集まらなければならなかった(現在の4時半頃)。宮城の門が太鼓の合図と共に開かれるのは午前3時。夜空にはまだ星が瞬く時間帯であった。授業ではその時の光景を図版でパッと見せる。都の南端に住んでいた下級役人達はは馬にも乗れず、毎日2〜4キロの距離を歩いて出勤した。写経等のアルバイトの時間を差し引くと彼らの平均睡眠時間は6時間程。又、役人の勤務評定は4〜6年毎に一回で、一年間の出勤が140日以上の者を対象とした。



第10回 「律令制度」


日本が律令の中で採り入れなかったものは、都市を囲む羅城(日本では中国と違って異民族の侵入がなかったから)、宦官(去勢の習慣自体がなかった)、科挙の3つであった。特に科挙を採り入れなかったことが儒学一辺倒の「思想の固定化」という弊害から逃れその後の日本の近代化を可能にした。

「史料」を丹念に読んでいくと実に面白いことに気がつくことがある。例えば、どの「資料集」にも載っている養老五年の「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」。「葛飾郡」ってどこかで聞いたことがあるぞ。そうだ、あの「フーテンの寅さん」の葛飾郡だ。そのつもりで戸籍の名前を追っていくと「刀良」(トラ)「刀良売」(トラメ)「真刀良売」(マトラメ)あるはあるは、これじゃまるで寅さんのオンパレードではないか。まさか、山田洋二監督は、この戸籍を参考にして「寅さん」を考えたわけではないよね。
所で、この頃は結婚しても女性は夫婦別姓であった。更に古代人の名前にはよく動物の名前がある。馬子・入鹿を筆頭に、赤鳩・熊鷲・小鳥・真鳥、熊・小熊・押熊・兎・猿・羊、犬養・馬養・猪養・鯨・黒鯛・鯖麻呂・烏賊津等々。それらは、動物の生命力や特殊な能力を自分のものにしたいという願いが込められていたと考えられる。
 又、刑罰の中に改名させられるというのがある。例えば、宇佐八幡宮神託事件で和気清麻呂は別部 麻呂と改名させられ流罪となったが、姉の法均尼も別部狭虫女と改名させられている。こうした事例から古代人は名前そのものに本人の生命が宿ると考えていたと思われる。又、平安時代になるが、貴族の娘達は、その名を男性から問われても決して相手に教えなかった。名を相手に知られることは、自分の魂までも相手に奪われると考えたらしい。系図では女性の名前はほとんど「女」としか記されていないのである。又、当時の求愛には、和歌を相手に送りその返事をもらってから男性が女性の家に訪れるというややこしい手続きが必要であった。現在みたいに、簡単に携帯電話の番号を簡単に教えるということは決してなかったのである。


第9回 「大化の改新周辺」

「歴史は勝者によって書かれる」とは古来から言い古されてきた言葉だが確かにそれは真理である。大化改新によって蘇我本宗家は倒されたが、それは、中大兄皇子側のクーデターであって、本来、蘇我氏の目指そうとした路線と中大兄皇子側のそれとは中央集権という点で大差がなかった。大帝国唐の出現と唐による高句麗遠征。これが当時の外圧であった。確かに入鹿は中国風の皇帝を目指していたかも知れない。又、入鹿は皇極天皇と男女の関係にあったのではという説もあるが、蘇我氏は元来百済系の豪族で、大王家と姻戚関係を結びながら、自分の領内で班田収授法の先駆的な経営を行い、仏教をいち早く採り入れるなど先進的な側面を持っていた(仏教の導入によって最大の神主であった天皇の地位を相対的に低下させる狙いがあったかも知れない)。確かに彼らの屋敷があった甘橿丘は、当時の宮室が置かれていた板蓋宮を見下ろせる位置にあった。しかし、山背大兄王の殺害事件から、逆に蘇我本宗家に対する反発勢力の結集を促すことになりついにその滅亡を招いた。
授業では、戦前の「国定教科書」を持ち出し改新の前後の記述を読み「蘇我氏が本当に悪人であったのか」という問題提起を行ってから展開してもいいだろう。

@ 中大兄王と間人皇女は両親を同じくする兄妹であったであったが周知のように二人は男女関係で結ばれていた。異母(父)兄弟間の恋愛は大目に見られていたていた当時にあっても、両親を同じくする二人の関係には批判があった。中大兄皇子が天智天皇になったのは、改新から実に18年後、間人皇女が死んでからのことであった。

A 大海人皇子は天智天皇の娘4人を妃にしていた。又、大友皇子の妃十市皇女は大海人皇子と額田王との間に生まれた娘であった。

B「藤原京の大きさはまだ決まっていない」というのが研究の現状である。それは坊や条の中央にあって街区を分割する街路である坊間路や条間路が次々に(合計30ヶ所)発見されているからだが、現在のデータから京域が左右対称の平面長方形と仮定して復元してみる と、藤原京は南北十八条、東西二十坊という巨大なものであったと推測される。これを「大藤原京」と呼んでいるが、それは大和三山をすっぽり包み込む壮大な規模にも達し、後に遷都される平城京よりも大きかった。では、なぜ藤原京から平城京への遷都が行われたのだろうか?
「宮が手狭になった」という説は上記の発掘調査から先ず否定される。その他、難波津からの水運の距離が遠く不便であったからという説、都市汚染が進んだからという説、天皇は北の高いところから南面するという原則からいえば、東南が高く西北に低くなっている藤原京の地形は都としてはふさわしくなかったという説等、これも今のところ定説がない。
  実は天武・持統天皇の時、長らく中国との国交は途絶えておりその期間中に藤原京は建設された。その後、国交を再会し政府は中国の最新情報に接した。それによれば唐の長安城は太極宮と大明宮の2つの中枢施設を持っていたのに対し、藤原宮には中央に1ヶ所しかなかった。まつりごとや儀式の内容に応じて2ヶ所の使節を使い分けるのが中国の最新の都の構造であり藤原宮では古すぎる。律令国家の完成を急ぐ政府は直ちに中国風の都の造営を決意したのではという仮説が最も説得力があるように思える。蛇足になるが藤原京跡からはラクダの歯が発見されている。

C 鎌足の墓とされている阿武山古墳の遺品と36枚のX写真を再調査してみると、鎌足は御幸に  同行して落馬して脚の骨を骨折し、死を早めたのではないかと思われる。額田王に手を振 った大海人皇子を諫めようとしてという説もある。又、この古墳の被葬者の頭髪に毒物で あるヒ素が含まれていたことが分かっている。鎌足が不老長寿の薬として飲んでいた「仙 薬」の中にヒ素が含まれていた可能性がある。


第8回 「反騎馬民族征服説」「聖徳太子」

江上波夫氏によって唱えられた騎馬民族征服説は、改めてここで紹介するまでもない程、広く巷間に流布した説である。それによれば、4C前半、第10代崇神天皇の時(実在の最初の天皇)朝鮮から北九州に上陸し、第15代応神天皇の時、北九州から大坂へ上陸し既存の勢力を倒し騎馬民族の王朝を建設いたという。その論拠として、5Cを境にして古墳規模が一挙に2倍になること、又、中期古墳の副葬品が前期の鏡・玉等呪術的なものから、武具や馬具などの武人的なものに大きく変化している点などをあげ、そこに支配者のあり方の大きな変化(政権の変動)を読みとるのである。

 授業では、上記の概要に簡単に触れ、佐原真氏の『騎馬民族は来なかった』(NHKブックス)を参考にして以下の点で、反論を加えている。時間の関係で余り細部にわたっては展開できないが毎年必ず触れることにしている。と言うのはこの説が学会で問題外とされている割には、世間的に認知されているという奇妙な問題点を内包しているだけに避けては通れない問題だからである。

 畜産的要素(国家的儀式での犠牲・宦官・内臓食・血の飲食・家畜の去勢)は日本に近づくにつれて稀薄になる。例えば、日本では去勢を知らずに馬をずっと管理してきた。シーズンになると牡馬を思いっきり走らせる方法しかとらなかった。去勢は遊牧民族特有の風習で、家畜の管理には絶対欠かせない技術であった。考えてみれば中国の宦官の制度は、家畜のそれを人間にあてはめたもので、後に触れるように、律令制を取り入れた際、宦官の制度を取り入れなかったのは、日本には元々遊牧民の伝統がなかったからとも言える。逆に、ヨーロッパでのカストラードと呼ばれる去勢歌手(2オクターヴ自由に歌える)の存在は、ヨーロッパそのものが遊牧民族の伝統の上に築かれたものであったからなのである。

 そもそも、家畜の上に成り立った社会(西洋)とそうでない社会(東洋)の違いは、砂漠と森林、一神教と多神教、小麦と米の生産量の違い(小麦は播種量の5〜6倍、米は20〜30倍の生産性を持つ)等、数多くの比較で説明が出来るが、家畜(動物)の肉や動力に大きく依存せざるを得なかった西洋では、家畜(動物)を徹底して搾取してきた歴史を持っており、家畜(動物)は人間のためにのみ存在すると考えられてきた。それに対して、日本をはじめとした東洋では、集約的な農業で十分で元来家畜の肉や動力に依存しなくともやってこれたという大きな違いがある。西洋では、人間の代わりに動物を、動物の代わりに機械をという発想の延長線上に産業革命が起きたのに対し、東洋では、人間の代わりに動物をという発想は元来生まれず、機械化=産業革命自体が遅れた。明治時代に西洋人が驚嘆した「人力車」はそうした日本(東洋)でしか生まれ得なかった産物であった。

 話を戻そう。佐原氏は騎馬民族征服説に対する反論として前掲書で次の点を挙げる。 
騎馬民族が5C中頃に倭にやってきたとされるが、既に応神・仁徳天皇陵はそれ以前からあり、さらに神話が似ているといっても、何も支配者が入ってきたことを意味せず、畜産的要素自体も日本では稀薄なのである。

 江上説が社会的に受け入れられた背景には、その発表が終戦直後であったことを考えれば、戦前から徹底されてきた皇国史観からの解放という歴史的な側面があったことに留意すべきだろう。
 

「聖徳太子」

 
聖徳太子は、教科書では、卑弥呼に次いで確固たる歴史的な人物して取り上げられているが、その割には、はっきりしないことが多い。授業では、旧一万円札の太子の肖像を拡大コピーして段ボールに貼るつけたものを黒板に固定することから始める。「聖徳太子はどこで生まれたの?」「馬屋で生まれました。」「他に歴史上の人物で厩で生まれた人知ってる?」「うーん、キリスト。」「そう。だけど、これは単なる偶然なのかな?」(生徒は一瞬考え込む)「実は厩戸皇子という命名は、キリスト教(ネストリウス派)の影響から後に書記編纂の際に潤色されたものなんだよ。」「え−、ウッソー」

 以下、太子の政治を一通り説明した後、それらが全て太子一人の力で出来なかったことを確認していく。特に蘇我馬子との関係は微妙で、太子の父用明天皇は馬子の甥、母の穴穂部間人皇女は姪にそれぞれあたる。太子の妻刀自古郎女は馬子の娘というように、太子そのものが蘇我氏一族に連なる者であった。そうした状況から考えれば、大王を頂点とした中央集権国家を目指した太子にとって、蘇我馬子の存在は実に大きな障壁であったに違いない。

 太子の事跡であると確認されるのは、推古天皇の摂政であったことと、憲法十七条を作りあげたこと、遣隋使の派遣の3点である。法隆寺の建造は「斑鳩に宮室を築いた」としか記されておらず、冠位十二階は、その主体がはっきりせず、もしかすると馬子が授ける立場にあったかも知れない。遣隋使の派遣は、当時、その国書の中に見える「タリシヒコ」(天皇のイミナ)が太子を指し太子が天皇の地位についていた可能性が高かったことに触れる。

 法隆寺と共に太子の建造によるとされている四天王寺は隋からの使節を迎え入れた迎賓館で、飛鳥とは川で結ばれていた。さらに隋との国交は、百済一辺倒の蘇我氏の外交に対抗する策で(蘇我氏そのものが百済系)、太子の所領は、隋との交通路確保のため、瀬戸内海に集中していた点にも触れておく。晩年、太子は、斑鳩に引きこもり深く仏教に帰依したとされるが、それは飛鳥の蘇我馬子との距離を置く必要があったからかも知れない。その後、太子は 48才で母、皇后、自身と相次いで没した。そこに、太子の自殺の可能性を見いだす説もある。

@憲法十七条の「以和為貴」を太子は何と呼んでいたか
 答「イーホー、ウェイ、クイ」と日本訛で読んだ。中国語は当時の国際語で太子はぺらぺら中国語を話せた。漢文に返り点を打つようになるのは、平仮名が発明された平安時代か   ら。

A釘が一本も使われていない法隆寺が、長持ちしたのはなぜか
 答 ヒバ材(復元力が大きい)を利用したことと、貫の工法(予め弛みを用意し力を分散さ   せた)にその秘密がある−法隆寺の大修理をした際、本柱の歪曲したヒバ材を放置していたところ、自然に真っ直ぐになったといわれている。現在でも、風の強い日は五重塔   の九輪は30cmほど左右にゆらゆら揺れている。九輪の所についている三本の釜は「風除   け」の意味があるといわれている。日本の建築は、三十三間堂や城郭の石垣の放物線に見られるように、決して自然の力に逆らわず、それを分散させる点に特色があった。


第7回 「前方後円墳の世紀」


年間の授業の中でも動物に関する話は余り出てこない。しかし、古墳時代は埴輪や古墳の関連で数多くの動物が登場する。ここでは、意識的にその中からいくつか取り上げ動物の関わり合いを触れてみる。
 
例えば鶏。鶏は死の世界から生の世界へと甦えさせる力を持つものと考えられ、その骨も縄文・弥生の遺跡から余り出ず、古墳時代の遺跡から多く出土している。鶏が日の出と共に新たな世界への時を告げる働きをしているのは、今も昔も変わらない。鶏とは、家屋の周りで飼われていたことからつけられた名前であったが、古語ではその鳴き声から「カケロ」「カケ」とも呼ばれた。又、牛は古墳時代の後期頃から耕作用としてぼつぼつ現れてくることが確認されている。

馬はどうであろう。馬は旧石器時代の中・後期から飼われていたが、最初の騎馬民族スキタイは鐙や鞍をつけずに乗馬したことから、恐らく脚はO脚だったに違いないと思われる。その後、漢民族が鐙を発明し最初は左側だけにつけた。古墳時代以降、日本では牡馬を乗馬としてきた。「所で、乗馬する場合、かつては左右のどちらから跨ったのだろう?」と生徒に聞くと、何となく「左側からと」答える生徒が多い。実は答は右側からで刀の差している位置を考えれば納得がいく。そして明治以後は、刀はサーベルを腰につるだけなので、左側からに変わっていったのである。

前方後円墳の原型は弥生時代後期から西日本で広く見られた墳丘墓であるが、前方後円墳は墳丘墓のそれまでの地域的な特色を一挙に切断した。前方後円墳は、統一性・画一性を持ち、中央と地方との同盟のシンボルであった。奈良県のコナベ古墳と、500km離れた群馬県の大田天神山古墳は全く形や大きさが全く同じであることは何よりもその証拠といえる。それでは実際にこの古墳の上でどのようなことが行われたのだろうか。
 

後円部に王の遺骸を埋葬し夜間に祭りを司り新たな王に首長霊が受け継がれる。くびれの部分にさしかかった時、鶏が鋭く鳴き朝を告げる。前方部に達した王は、朝日を浴びながら王位の継承を宣言する。前方後円墳は次第に前方部の幅が広くなりくびれ部が太くなることが確かめられているが、鶏の埴輪はその部分に最も多く設置された。

では、巨大古墳の建造には一体どれだけの人力と資材が必要であったのであろうか。大林組の試算では、仁徳天皇陵は現代工法では24億円、古代工法では796億円(15年8ヶ月・1日2000人動員)要したとされる。又、前方後円墳の形は、蒲生君平以来、様々な説が唱えられてきたが、戦いに使う盾を地に伏せた形、つまり不戦=平和のシンボルであったという説がある。戦うとは「楯交う」に由来する言葉である。。巨大古墳が集中する河内の沿岸部(百舌古墳群)に入港してくる外国の使節達が、葺く石で覆われ太陽の光に輝く巨大な古墳を目にしていたはずであり、それは外国に対する強烈なアピールを目的としていたと考えることが出来るのである。。

古墳時代の人々の衣装や風俗については、現在多くの埴輪からその様子を想像することが出来る。男は上体に袖の短い着物を着て、下に太いズボン風の袴をつけ膝のあたりを紐で結び、豪族はそこに鈴をつけていたとも言われる。女は上衣を着て、下はスカート風の裳をつけていた。この時代の豪族達は、後の時代の支配者像からは信じられない程、おしゃれであった。黄金製のイヤリング、首飾り、腕輪、太刀、果ては馬の轡に至るまで、自らの権力を視覚に訴える必要があったのである。
所で、この時代特有の形である「勾玉」はどのような意味があるのだろうか。
古代の人々は、人間の魂は体の穴から外へ逃げると考えた。逆にその穴から外からありとあらゆる害悪をなすものが侵入してくるとも考えたのである。目、鼻、口の周辺は呪術的な色であった赤の染料を塗りつけた。実は、耳につけた「勾玉」もそうした呪術的な形で、それは「釣り針」の形を意識したもの。体内の魂が外に出ていくのを防ぐには、耳の所で引っかける「釣り針」が必要であったのである。


第6回 「高句麗好太王の碑・国生み神話」


 好太王碑文に関する論争も多いが、授業ではなぜ当時の大和政権が朝鮮に鉄を獲得しにいったのかという問題に触れざるを得ない。実は鉄の生産量と社会全体の活気は比例していた。鉄は、鍬や鎌などの農具や工具、武器などに用いられたが、特に土を掘り起こす鍬先に鉄を使用したことが生産力を大幅に増大させたのである。これは、世界史の分野でも使えるが、土を深く掘り起こし空気中の酸素を大量に土中に入れることで、作物の成長を飛躍的に増大させることが出来た。古墳時代であっても、鉄は貴重品で、一般の農民は豪族から毎日、こうした鉄製農具を借りだして使っていたのである。日本と朝鮮の歴史がその後大きく異なっていったのは、鉄を溶かすための燃料である木の復活力の相違にあった。日本はモンスーン地帯で雨が多い分、復活力が大きかったのに対し、雨の少ない朝鮮では木の伐採後、禿げ山のままであったのである。
 
 授業では大和政権の組織についての説明後、子供に買ってあげた「神話の絵本」や和本の『古事記』や平安時代の『古語拾遺』等を教室に持ち込んで、古事記の世界から神々の物語をとりあげその神話について話している。ほんの15〜20分位でいい。教科書を離れて、古代人の国産みのイメージに触れてみることも必要であろう。以下、授業での話の概略を述べてみよう(決して原文通りでない点を付記しておく)。

 その昔、天上の世界に、伊佐那岐命と伊佐那美命の夫婦の神がいた。ある日、天上の世界を二人は散歩していたが、雲の切れ目から下界の様子が目にとび込んできた。それは大海原だけの世界で島はどこにもなかった。二人は何を思ったか、突然島をつくろうと考え、天の沼矛を天上の世界からするすると大海原に伸ばし海水に円を描く形で沼矛を引き上げると、その先に塩がかたまり、たらりたらりと塩が海原に落ちていった。そして出来たのが、オノゴロ島であった(オノゴロ島がどこなのかは不明)。そして、二人はその島に降り立ち新生活を始めた。子供をつくるにもどうすればいいか分からず、伊佐那岐が伊佐那美にお前の体はどうなっているかと聞くと、(ここは一回しか言わないからよ〜く注意して聞くんだよ)「成り成りて成り合わざる所一所あり」と答えた。

 すると、伊佐那岐は「我が身は成り成りて成り余れる所一所あり。余分な所と未完の部分を合わせればいいのでは」と考え、天の御柱の所でその神聖な行為をすることになった。先に、伊佐那美が「阿那邇夜志愛 袁登古袁(何といい男よ)」と声をかけると、伊佐那祇も「阿那邇夜志愛 袁登売袁(何といい女よ)」と応え二人は交わり、第一子をなした。所がその子は顔が歪み見るからに虚弱体質の子であったので、ポイっと川に流してしまった(これが何と後に恵比寿様になる。ここでは、恵比寿の人相を板書する)。二人は真剣に悩んだ。どうして、こんな子が産まれてきたのだろうか。何か間違いであったのか。そして、ようやく次のことに気がついた。「そうか、これはきっと、女の方から声をかけたのがいけなかったのだ」と(ここでは反省ザルのまねをしながら言う)。

 そこで、手順を変えてやってみると、出来るわ出来るわ、次々と子供が産まれた(最初は島の始まり淡路島)。が、最後に産み落としたのが火の神であったので、伊佐那美命は、全身大やけどであの世(黄泉の国)に行ってしまった。残されたのは、数多くの子供達と伊佐那岐命。伊佐那岐命は妻のいない寂しさや育児や家事のことですっかり疲れてしまった。思い出すのはあの美しく優しかった伊佐那美命のことばかり。そして、ついに「黄泉の国に行って妻を連れ戻そう」と決意し黄泉の国へ向かった(子供達はどこかに預けたのかなと心配してしまうが)。

 黄泉の国のへ入り口は大きな洞穴であった。懐中電灯で照らしながら、妻の名を呼び続け、ようやく亡き妻に会った。「今すぐ、わしと一緒に帰ろう。」「それでは、一緒に帰りますが、黄泉の国を出るまでは絶対に後ろを振り返ってはいけません。」と言って、伊佐名美命は夫の後ろについて長い道のりを出口に向かって歩いていった。出口がようやく近づいた頃、伊佐那岐命は、妻との約束を忘れた訳ではなかったが、ふと好奇心から後ろの妻の姿を見てしまった。妻の姿は先ほどの時とは違い、死後かなり日数を経ていたので、肉はそげ落ち、骨の至る所から蛇が顔を突き出すという見るからに恐ろしい姿に変わっていた。「よくも約束を破ってこの醜い姿を見たな。許さぬ。」と、飛びつかんばかりに迫ってきた。驚いた伊佐那岐命は、かつての愛する妻とはいえ、ライダーキックを一発見舞い、その隙に一目散に逃げた。それでも女鬼が追いかけてくるので、伊佐那岐命は、髪の桂の葉を投げた。

 すると、それは葡萄の大木になり女鬼の追撃を一端食い止めた。しかし、まだ追いかけてくるので今度は、櫛の歯を投げるとタケノコに変わり、それに女鬼達が食らいついてる隙に、ようやく黄泉の国の出口に出て、すぐに出口を大きな石で塞ぎ、両手でそれを押しつけた。中からは、それを押し返すように踏ん張っている伊佐那美命。彼女は怨みを込めながら「よくもこんな醜い顔を見てくれたわね。私はお前の人草を1日に1000人殺してやるわ」と。それに対して、伊佐那岐命も負けてはいなかった。「お前が1日に1000人殺すのであれば、私は1日に1500人つくってやるわい。」と言い返した。一体どうやって男の神様が子供をつくるのかって心配のなるが、そこは神話の世界、伊佐那岐命は、早速、子づくりをしてみせる。

 彼は、きたないものを見てしまったということで、川にどぶんと飛び込み体中にしみついた汚れを取り除いた(みそぎと呼ばれる風習。現在ならさしずめ、朝シャン?)。水で左目をこすってペッとはじいて生まれたのが、天上界の女王天照大御神。右目をこすって生まれたのが、月読命。鼻を手でかんで生まれたのが、あの非行少年須佐之男命であった。後に、話は姉の天照大御神と弟の須佐之男命の兄弟対決とつづくのだが、お後がよろしいようで。では話の続きは次回のお楽しみに(終わりを告げるチャイムの音)。

 次の時間、生徒はその気になって教室で待っているが、こちらはすっかり前の授業のことを忘れてしまい「今日は大化改新について話すぞ」なんてことがよくある。後は、ご想像の通りで、生徒の怨みまがしい視線に一向気づかずに「今日は何だか生徒ののりが悪いなあ。どこか疲れているのかな」等と思いながら、一生懸命、大化改新について話しているのだ。
時間に余裕があれば、須佐之男命、大国主命の話等にも是非触れてみたいところである。神武の東征神話は後の邪馬台国や騎馬民族征服説との関連で扱ってもよい。


 第5回 「邪馬台国」

 邪馬台国については、その所在についても大きく九州説・畿内説に分かれ、最近、黒塚古墳から三角縁神獣鏡の大量発掘がみられたが、銅鏡そのものが後に触れるように所在の決定的な決め手になり得ないのが現状である。

 その所在については、距離を重視する近畿説(京大)と方位を重視する九州説(東大)に大別されるが、近畿説では、中国人が考えていた倭国の位置が、現在のそれを180度転回したものと考え、「魏志倭人伝」の「南」の文字を「東」に読み替えることを主張する。さらに榎一雄氏によって、伊都国を中心とした放射線式読み方が提唱されるなど新説が後を絶たない。
 
 女人が政治の頂点にあるという組織は東アジアでは稀で倭人社会の特色と言われているが、統治者が顔を周囲に見せないのは実はササン朝ペルシアの王(覆面)の例もある。又、「魏志倭人伝」に記される、入れ墨や貫頭衣・女官は明らかに南方の風習だが、実は「魏志倭人伝」は中国側のそれと句読点の打ち方に100ヶ所の異同もあるのである。授業では、これらの論点を一々取り上げてはますます混乱するので、出来るだけそれらを整理して話す必要がある。私は、古田武彦氏の『邪馬台国はなかった』(角川文庫)を根底にして、授業を展開している。以下のその論点を列挙しておく。

@邪馬台国は邪馬壹国が正しい。壹を臺(天子そのもの)に書き間違える。

A「乍」〜「アルイワ」と読むのではなく「タチマチ」と読む。

B「水行十日陸行一月」〜帯方郡から邪馬壹国への全行程を表したもの。

C当時の一里は75〜90mに相当する。

D鏡〜卑弥呼が魏の皇帝からもらったとされる100枚の銅鏡が何の鏡のことなのか学会の評価は大きく分かれている。「三角縁神獣鏡」は近畿に集中し中国から一枚も出土していないので問題外。それは、この鏡が弥生の遺跡から一切出ず古墳の遺跡からのみ出土しているからである。「漢式鏡」は弥生の遺跡や中国・朝鮮から大量に出土することから注目すべきである。実は168枚のうち149枚が福岡県糸島・博多湾から出土している。

E矛〜「矛」は「魏志倭人伝」でも触れられているが、博多湾に集中して出土している。  

 授業では「卑弥呼は魏からもらった鏡を一体どのように使ったのであろうか?」という問いかけを発することにしている。生徒は一様にきょとんとしているが、「卑弥呼は普段は滅多に姿を現すことがなかったが、連合国の重要問題ではその姿や声を周囲に示す必要があったんだけど」とヒントを与えると、「皆なに持たせて、卑弥呼を照らした。」という答がはねかえってくる。「それじゃ、卑弥呼はまぶしくて話もできなかったんじゃないか」と言うと教室中は爆笑のうず。「そうじゃなくて、卑弥呼を見上げている周囲の人々に鏡で光をあてたんだよ」と言うと妙に納得した顔で聞いている。鏡のこうした呪術的な使用法に注目し、卑弥呼は初期道教の影響を強く受けており、太陽を祭る卑弥呼が死んだ年に日食が起き、霊力が衰えた卑弥呼は殺されたのではないかという説もあるという話で、その日の授業は終わっている。


 第4回 「縄文人の生活」

 縄文末期から縄文人は次第に定着していったと考えられていたが、それは原始的な農耕で食料が安定して供給されたからではなく、様々な道具をつくりすぎ移動に支障をきたようになったからだという説もある。本県の場合でも、亀ケ岡式土器でも末期になるにつれ、祭祀に使われたであろう精製土器が次第に種類が少なくなっていくに対して、日常生活用の粗製土器が大量につくられていることを考えれば、あながち、無視できない説ではないかと思われる。

 抜歯や土偶、屈葬という縄文時代特有の風習や遺物を1つずつ取り上げて丁寧に説明していく方法ももちろんある。しかし、授業では、ある縄文人を主人公にして、その誕生から死までのサイクルの中で、それぞれの風習や遺物を説明する方が、生徒には理解しやすいと思う。以下、説明のポイントを文章化してみよう。

 縄文人の平均寿命は30才(幼児を含めると20才前後)。ということは男女とも12〜13才で結婚する必要があった(こうした早婚が乳幼児及び母親の死亡率を高め、全体に平均寿命を押し下げた)。平均身長は155〜160cm。誕生後、その子の無事な成長を願い、特に東日本では胎児の胎盤を住居の玄関前に土器の中に入れて埋め、山から下りてきたサルに食べさせたのではないかと考えられている。

 縄文人の食用カレンダーを用い、1年間の中でどのようなものを食べてきたのか確認させる。1年間を通して最も多く食べていたのはその貯蔵方法とも関連するが、ドングリやしい、くりといった木の実であった(ドングリはナラ、カシ、シイの堅果の総称である)。実は土器の発明は、こうした木の実の灰汁抜き(中毒を防ぐ)の必要からであったと考えられている。その上で、木の実を石皿を使ってすりつぶし、粉にしたものに水を混ぜ石の板で焼いて食べる方法もあった。簡単に言えば縄文クッキーであった。現在、話題の縄文人の「糞石」の分析結果では、縄文人の方が現代人よりもビタミンCを除き全栄養素が多いとされている。偏食せずに何でも食べたということがわかる。

 又、冬には、猪と鹿が主な獲物であったらしいが、実はこの二つは用途が大きく異なっていたらしい。猪が子供の頃から住居の床下で女性の母乳で大切に育てられた犠牲獣であったのに対し、鹿は初めから食用でその角は薬に(鹿茸という)、皮は後に刀の柄や甲の綴じ合わせに用いられた(ついでにここでは、鹿角を持ち出し牡鹿の鳴き声を聞かせてみる)。

 又、縄文人の顔は概して彫りが深く、眉間の隆起が大きく口は受け口で、上の歯と下の歯が垂直に交わる「毛抜き式」であった。これは共に堅いものを食べていたので下顎が発達した為である。又、皮のなめしに歯を使っていたことから歯の摩耗が激しく全体にすり減っていた(最近はかなり近代的な生活に変わってきているらしいが、かつてイヌイットの女性の主な仕事は皮を「噛む」ことであったという。イヌイットはビタミンCの補給のため動物の肉を生で食べるのを基本としていたので、調理という女性の仕事は存在しなかった)。

 又、抜歯は高齢者に多く成人、結婚、再婚、服忌等の通過儀礼であったが、門歯系は村内、犬歯系は村外の者にそれぞれ行われた。さらに現代人にまで伝わる「しゃがむ」姿勢は縄文人から行われていた。縄文人骨のかかとの蹲踞面の発達がそれを裏づける。
 現代人では、片岡鶴太郎・郷ヒロミ・高田みずえ・浅丘ルリ子・薬師丸ヒロ子等が縄文人的な顔立ちをしているといわれる(年々、生徒との年齢の差が広がってくるので、出来るだけ若いタレントの顔を例としてあげる必要がある。私は自分の息子から最新の流行顔の情報を入手している)。ここでは典型的な縄文人と弥生人の顔を拡大コピーして黒板に貼って比較させ、弥生人は全体に平板で一重瞼が多かった点などを浮き立たせてみせる。ちなみに、耳垢が湿っぽいのは縄文人、乾燥しているのが弥生人である。

@この頃、動物や魚の肉は何日も、時には何ヶ月も保存しなければならなかったが、どうやっ て保存したのだろうか?

 答 薫製にして保存した−住居内の天井にぶら下げ下の炉で燻った。あるいは、土に穴を二つ掘り、一方に火、一方に肉を釣り下げて薫製にした。

Aこの頃、既に一本の巨木を切りくぼみをつけた長さ10mもある丸木船がつくられている。満 足な道具がなかった当時、どうやって巨木を切り倒しくぼみをつけたのだろうか?

 
答 木の表面を焼いてもろくしてから石斧で削った。

Bこの頃、石鏃を棒に結びつけるには縄や紐では不十分であった。どうやって結びつけたのだ ろうか?

 
答 アスファルトでくっつけた−石鏃の根本にアスファルトが付着しており、このことが確認されている。地元三内丸山遺跡からは、秋田産のアスファルトの塊が出土している。

Cなぜ昔の遺物は土中に埋まるのか?

 答 洪水や火山灰等の他、土中のミミズの働きによるー温帯地域では1haに200tの土を吐き出す。これを1年間に換算すれば1〜5mmずつ土が盛り上がることになる。ミミズのこうした堆積作用は決して無視できないのである。


 第3回  「三内丸山遺跡」

 それまでの縄文時代の通説を大きく覆した三内丸山遺跡。地元であるだけに現地に足を運んで実際に目にした生徒も多い。授業では、一般的な縄文時代の学習後、ビデオを使いながらプリントでその概要を紹介している。なお、ビデオは、各遺物を2〜3分ずつ静止画で撮影したものを用い、再生しながら解説をつけて授業を展開している。先ず、三内丸山遺跡の全体像を簡単に紹介してみよう。

 三内丸山遺跡は、江戸時代から知られていた有名な遺跡で、縄文時代前期〜中期(約5500年前〜4000年前)、平安時代、中世〜近世にわたる複合遺跡である。特に中期に集落の規模が最大となり現在までに発掘された竪穴住居480(全体では約1000と推測されてている)から、少なくとも500人もの人間が1500年間にわたって定住していたと考えられている。遺跡の中でもさらに人々を驚かしたものが多数があるが、先ず大型住居の存在があげられる。

 長軸10m以上のものが約20軒発見され(最大のものは長軸30m)、その内部はほぼ中央に炉があり6本柱の住居で、集会場や共同作業場、冬期間の共同住宅等に用いられたと考えられる。こうした大型住居は降雪地帯に集中してみられ東北から北陸地方に次第に南下していった。又、遺跡の北西部には、この遺跡を一躍有名にした直径90cmもの6本の木柱(クリ材)穴が発見された。現在、その場所に巨大な建物が復元されているが、クリ材の底と土の周囲を焼き、2.2mの柱穴を掘り埋め戻した後に周囲の土を突き固めていた。集落の末端に位置していることから物見櫓や燈台の可能性がある。さらに、柱間の長さが全て4.2mとなっており、それが縄文時代の長さの単位の基準であったことがわかった。

 小児用の墓は、谷を取り囲むように分布し住居群から近いところにあった。全部で700基。埋設土器の中からは人骨は発見されていないが、なぜかこぶし大の小石を入れているものが多い。大人の墓(土溝墓)は、遺跡の東部から数百mにわたって外縁部に伸び、中央の通路を挟み、頭の部分を外側にして東西に整然と並列していた。又、遺跡の中央と北西部には「盛り土」と呼ばれる巨大なゴミ捨て場があった。これは1000年間にわたってつくられ、竪穴住居や大きな柱穴をつくった時の残土や排土と一緒に生活用具の土器や石器を捨て最終的には小山のように盛り上がっている。しかし、この中からは、焼け土や完形の土器も多数出土していることから、それは単なるゴミ捨て場ではなく、何らかの祭祀の場であったと考えられている。又、最近、遺跡の外縁部からは、環状列石や住居群跡、土抗墓群等が多数発見され、三内丸山は、周囲に幾つもの衛星集落を伴った「縄文都市」ともいうべき広がりと構造を持っていたと考えられている。遺跡を含む丘陵全域の面積は40万平方m、調査が行われいる元野球場建設予定地は、わずか5万平方mに過ぎない。

以下、ビデオで紹介している各遺物の説明もあわせて掲載しておく。

@漆〜日本最古・最北の漆製品。古来、漆は中国からの伝来と考えられてきたが、この発見から縄文時代から腕に利用されいたた可能性 が浮かんできた。漆は1本の木からスプーンの何分の一位しか採取できず、牛乳瓶1本分の漆は約300本の木が必要であった。水分蒸発のために高温多湿な環境を必要と、漆製品の生産には、高度で微妙な技術を要し、専門技能者の存在も十分考えられる。
  
Aクリの木〜当時はありふれる程、繁殖していた。現在はこれ程の直径を持ったクリ材はなかなかない。クリの木が小さくなったのは明治以降。水に沈むほど硬く腐りにくいので線路の枕木に利用されてきた。
 
B黒曜石〜天然のガラス(石匙)。本県では木造町出来島出土のものがあるが、東北産はガラス質が不均質で気泡が多く北海道産に比べ劣る。これは北海道産で製作された。 

Cヒョウタン〜陽当たり等の管理が必要で元々はアフリカ原産。世界最古の栽培植物の一つで、5500年前、世界最北の栽培と考えられる(泥炭層から7個発見)。

D蔓製の組み紐〜10本の蔓を用いてつくり、土器の取っ手や衣服の装飾等に利用した。

E火起こし棒〜前期のもの。今までは縄文後期の発見しかなかった。「道具をつくるための道具を用いるかどうか」が人類と霊長類との違い。先端部は角型になっていることから(それまでは丸型)、火起こし棒の原型でなかったかと考えられている。

F櫂〜前期の丸木船用のもので、全長150cm、最大幅20cm。縦溝は水をとらえる効率を上げるめ。

G鯛の骨〜体調1mのもの。この他、鯨・イルカ・マグロ・ブリ・ボラ・マダイ・ヒラメ・イワシ・サメ等の骨が出土。漁法の発達が窺われる。骨はバラバラにならないで出土していることから三枚に下ろして調理していたことが分かる。

H骨格器〜泥炭層から300点程の骨格器が出土。貝塚のそれはカルシウムが付着し形しかわからないが、無酸素状態の泥炭層からは使っていたそのままの状態で出土。穴開けに使ったドリルや湾曲した針等は国内初。この研究だけで一生を捧げる価値があり、「骨格考古学は三内丸山から始まる」と、この研究だけで一生を捧げる価値があるとも言われている。 


I?状耳飾り〜簡単に言えば大型耳飾り。国内で2例目。中国で最古の?は揚子江下流の河姆渡遺跡(7000年の前・世界で最古の出納栽培地)。?が伝来したなら稲の伝来の可能性がある。

J石鏃のアスファルト〜石鏃・銛の固定(中期)、土器の補修(後期)、漆塗りの下地(晩期)等に用いられた。本県に最も近いのが秋田県昭和町。土器に詰められ各地に運ばれた。ノアの箱舟にも防水用として使われた。

K骨刀(鯨骨)〜非実用的な道具を「第二の道具」といい、祭りの道具として使われた。アイヌで行われいた「鯨送り」と相似した儀式が行われていたと考えられる。

L最大の板状土偶〜土偶は全部で400点出土。これは長さ32cmの国内最大のもので、表面に黒漆が塗られ頭部には穴が3つあり、壁に掛けられていた可能性がある。頭部は土器投げ捨て場に胴体は90m離れた住居跡から出土した。 

M鹿角ハンマー〜鹿や猪の骨は少ない(採りつくした可能性がある)。兎やモモンガが多い。

N翡翠製品・原石〜緑は特別な色で「新芽の色」=死からの再生を意味した。翡翠は秋田県や岩手県産よりも新潟県糸魚川産の方が多かった。
 
O最古の漆器〜漆を塗って乾くまで1ヶ月。上塗りには加熱して粘りを出さないといけないが、その加減が難しい。又、採取して数年で木は枯れるので切り戻し等、木の管理が必要であった。

以下、その他の授業用メモをそのまま列挙しておく。

@現在、4万箱の遺物が発見されたが実際にはその数十倍の遺物が地下に眠っている。
A高床式の住居は縄文時代から既にあった。
Bクリの巨木は雪の上を運び足場を組んで建設した。
C古代中国の基本的な長さ=35cm=公共の建物で採用され、一般住居には用いられなかった。
Dゴボウの根を食べるのは日本人だけ。豆は地味の回復
E三内丸山の人口を支えた食糧の一つにヒエが考えられる。ヒエは人間の管理が必要(土をほ じくり返す)。
F子供の墓は居住域に近く、大人と子供の死生観が違う。
G土偶の数が三内丸山から700、東北全体では3400。消費だけではない生産が行われいた。遮 光器型土偶は神戸からも出土しており作り方の伝播があった。
H屈葬は胎児の状態に戻す。
Iクリの巨木は3°ずつ内側に傾いている。
J厚さが3〜5o木の椀が出土。高度な加工技術があった。 K盛土〜ゴミの廃棄場。1000年間で4m。完全な土器も捨てられている。土器をわざと壊すのは自分の誇示。土器は毎年作りかえるもので祭りの際に完形のモノを一斉に廃棄した。Lニワトコ〜酒造りに使われた。非常に狭い範囲に密集。
M周囲に衛星集落を伴う一大拠点。北方縄文世界の中心。円筒土器文化が終わってもある種の 文化圏を形成し、秋田・宮古・盛岡辺りが南限。このラインで弥生・古墳文化の全面的な北 上を阻んだと考えられる。


 
第2回  「人類の二大タブー」

 野生のサルの集団は一頭のボスザルと多数の雌ザルからなるが、ボスザルが他の若い雄ザルとの争いに敗れると、新しくボスとなった雄ザルは、前のボスザルとの間に生まれた子ザルを殺して食べてしまう。観察例では圧倒的に牡の小ザルが対象とされた(雌の小ザルは後に子供を産むとが出来るからと考えられている)。その時、肉だけ食べて飽きてくるのか、時折草を交えて食べまるでそれは食事を楽しんでいるかのようであるという。又、子ザル殺しは数ヶ月の間にわずかずつ行われるのであり、ある日突然、片っ端から虐殺をするわけではない。
 そして、自分の子供を目の前で殺された母ザル達は、一様に発情し新しいボスザルを受け入れて新しいボスザルの子供を産み、完全な子孫の交替が行われるのである。普通、子殺しで母ザルが発情するのは、乳房を吸う赤ん坊がいなくなることで、その発情抑制ホルモンの分泌が止まり発情が再開されると考えられている。しかし、自分の小ザルが殺されている時母ザル達は一体どんな気持ちや感情になっているのだろうか?是非一度、彼女達に聞いてみたいものだが・・。
人類の二大タブーは、人肉食と近親相姦であるとされるが、少なくとも人肉食は人類が登場して以来古いものだったのである。五十万年前の北京原人には既にこのことが確かめられている。

 農耕の起源は数万年前の西アジア。それも寒さに強い小麦からであった。今から1万年前に地球全体が温暖となり(日本では縄文海進の時期)、北米の氷河が大量に大西洋に流れ出て、その後、一時的に寒冷な状態に戻ってしまった。このことがそれまでの狩猟・採集の生活を不可能とし農耕の起源をなしたと考えられている。初めの段階では、野生の植物を試験的に栽培してみたのか同地域からは実に数多くの植物の種子が発見されている。

 縄文末期から縄文人は次第に定着していったと考えられていたが、それは原始的な農耕で食料が安定して供給されたからではなく、様々な道具をつくりすぎ移動に支障をきたようになったからだという説もある。本県の場合でも、亀ケ岡式土器でも末期になるにつれ、祭祀に使われたであろう精製土器が次第に種類が少なくなっていくに対して、日常生活用の粗製土器が大量につくられていることを考えれば、あながち、無視できない説ではないかと思われる。


 第1回  「森林と人類」

 
人類の祖先は森林の中で生活していた。それは、気温が平均化し、食料が豊富で、外敵から身を守るのに好都合だったからだが、ある日、環境の変化(アフリカでの造山運動で山脈の東側では乾燥化し森林が消滅)に伴い木から落ちたサルは草原に出て行かざるを得なかった。まさに「猿も木から落ちる」とはこのこと。その後、人類は次第に二足歩行に移行しながら特に視覚機能を発達させていった・・。
 
 この変化をたった1枚の写真で示す絶好の教材がある。清涼飲料の広告写真で新聞に掲載されたものだが、授業ではこれを示し、400万年の中でどういう変化が見られたのか質問する。「パンツをはくようになった」「毛が薄くなった」(頭髪が薄くなるのは進化の証)に次いでようやく「二足歩行」という解答が出される。ここまでくればしめたもの。四つ足の場合、重心が前足と後ろ足の二カ所になるの対し、二足の方は重心が一直線になり重い脳を支えることを可能にした。ちなみに、サルと人間では指の器用さにも大きな相違があった。それは親指と人差し指でものをつまむ動作で、これは人間だけができる動作であった。脳の容量の増大がさらに言語や知能の発達を促していったことは言うまでもない。






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