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ラムネ 天気は朝から曇りがちで、海沿いの道に出る頃には水平線から立ち上がった黒雲が今にも雨を降らせそうにしていた。気象庁の予報によれば台風が近づいているらしい。遊泳禁止の旗の出た砂浜にはまるで人気がなく、海の家まで葦簾を立てかけて休業している。ロープで仕切られた駐車スペースで車をとめて下りていくと、監視をしていたライフセイバーが拡声器で怒鳴った。波が荒いから遊泳禁止、と言っているのだろうが、音が割れて何が何やら意味不明の鳴き声になっている。無視して浜へ向かったら、慌てて飛んで来て同じことを繰り返した。 「別に泳ぐわけじゃありません。歩くだけだし降り出したらすぐ戻るから」 そう言って壱子は行こうとしたのだが、ライフセイバーは納得しなかった。天気は悪いが波は荒いと言うほどでもなく、どうせ監視されているのだから三十分やそこら歩くくらいかまわないだろうと思うのだが、万が一ということもあるからと譲らない。融通の利かなさに困るというよりあきれて、壱子は弘文の方を見やった。 弘文は金色のばさばさの髪をしたライフセイバーと壱子を見比べて、やや困ったように顔をしかめた。 「なんか、危ないみたいだけど。でも、行くんだろ?」 やけに深刻な顔で、弘文は言った。また要らないことを考えているのだろうと思って、壱子もほんのわずか眉を動かす。行かせたくないなら行くなと言えばいいのに、弘文はけして言わない。 「だめですって、引き波に攫われたら死ぬんだし、おとなしく帰ってくださいよ」 壱子たちとそう歳の変わらないライフセイバーは、とうもろこしの穂のような髪を触りながら迷惑そうに言う。壱子たちに何かあったら彼の責任と言うことになるのだろう。壱子は危険を承知していて自分の責任において入るのに、彼が攻められるのは確かに理不尽な話ではある。 だが、壱子は譲る気はなかった。この海を歩くために今日はきたのだ。今日でなければ意味がない、歩くのでなければ意味がない。 「わかった、じゃああなたがついて来てよ」 壱子が出した妥協案に、ライフセイバーはきょとんと目を開いた。弘文はいつものどこかあきらめたような表情で、何を考えているのかよくわからない。 「危ないほうに近づきすぎたら止めて。従うから。行こう弘文」 ライフセイバーは浜に入り口に立ちはだかっていたのだが、入り口とはいえそれは人間が仮にロープで仕切ったものでしかなく、壱子がロープをまたいで入る邪魔にはならなかった。金髪のライフセイバーはあっけにとられたようにぽかんとしている 入り込ませたくないなら、壱子の腕を捕まえていなければ意味がないのに、あの男はなぜあんなところに立っていたのだろう。 同じように一瞬呆けたようにしていたものの、壱子に慣れている弘文がすぐに立ち直り、ライフセイバーの横をすり抜けて浜に出てきた。それを確かめて、壱子は砂を踏んで歩き始める。サンダルをつっかけた足の指の間に、乾いているのにしっとり冷たい砂が入り込む。海はにごった薄緑で、沖でも波打ち際でも白い泡が細かく砕けている。 「あ、ちょっと、だめだってば!」 慌てたライフセイバーが声をあげて追いかけ始めたときにはもう、砂の上に二十ほどの足跡がついていた。二十が二人分で四十。乾いた砂は足を抜いた後からすぐに崩れて穴を埋めようとするが、それでもはっきりと、くぼみは残る。 海の色は空より明るく、台風の前だというにはいささか不思議なほどだった。風はつよく、水の匂いがした。潮の香りというよりも、雨が降り出す前のほこりっぽい空気の匂いだった。あの空気も薄緑色をしている。 「これ、ラムネかな」 不意に言われて振り返ると、弘文はしゃがみこんで砂の中から何かを摘み上げていた。いつもはいている色あせたジーンズは裾がもうすりきれているので、細かい砂にまみれると洗濯のときに大変そうだ。 弘文が拾ったのは楕円形のガラス片だった。海を漂って流れ着いたらしい。薄緑色で厚さは三ミリ程度か、漂流中に研磨されたために角が取れて丸みを帯び、すりガラス状に曇っていた。弘文の言うとおり、夏祭りに売っているラムネ瓶のかけらが長い間に磨かれてたどり着いたように見えた。 「ふつう海水浴場ってこういうの掃除しちゃうからないんだけどな」 一人ごちて、手のひらにそれを載せたまま立ち上がる。ジーンズの尻ポケットにしまって、何事もなかったように歩きだした。 小さい意味のない拾いものが、弘文は好きだ。 「だから、だめなんだってば! あのねあんたら」 走ってきて前に回りこんだライフセイバーが肩を怒らせて言いかけるのを聞かずに、壱子はきびすを返した。半歩後ろを並んで歩いていた弘文も、少し目を開いただけで続いて方向転換をした。 「気が済んだ。帰る」 「はあ?」 ひらりと後方に手だけを振って、壱子は砂浜を戻り始めた。指の間をさらさらと、冷たい砂が流れていく。こんな砂ならいつの間にか埋もれていても不思議はない。 海の薄緑はラムネ瓶の色によく似ていた。液体の中に封じ込められた二酸化炭素が、砂浜に白くはじけていた。 のど元にはビー玉が、ひとつ。 Written by 和泉悠高('01.07.26 〜 '01.07.29) |