A幼稚園S先生。年長ばら組の担任。
ふつう程度にやんちゃな5歳だった僕は、休み時間が終わってもジャングルジムから降りないでいた。先生に反抗するとか、A幼稚園の指導方針に異を唱えるためではない。ただ、もうちょっとそこにいたかっただけだ。
次の時間が、積木だったかお遊戯だったか、もちろん覚えていない。いっしょにジャングルジムのてっぺんにいたのが誰だったかも覚えていない。実は、先生の顔すら覚えていないのだ。記憶の中のS先生は、手塚治虫が描く美人にそっくりなのだけれど。パーマをかけていて、いつも口をちょっと開けてやんちゃな息子の心配をしている、あの上品な顔に。
その時、S先生が僕にしたことは、強烈に覚えている。
僕たちが教室に遅ればせながら戻ると、彼女は、一直線に僕に近づいてきた。
教室のいちばんうしろ、入ってすぐのところだ。みんなからは見えない。そこでの一瞬のできごとだった。
はっきりしない態度でもぞもぞしていた僕の前にひざまずくと、突然僕を上から全身で包み込んだ。必然的に彼女の胸に、僕の夏みかんくらいのアタマが押しつけられることになる。
ぎゅっと。
そして、S先生は、言った。
「ゆうやちゃん。おまちがいさんよ」
彼女の声が聞こえているあいだ、僕を包み込む力が少し強くなった。同時に、胸のあたりが大きく動いた。
こんな鮮烈な出来事なのに、記憶しているのは、先生の匂いだけなのだ。今まで経験したことのない、とてつもなくいい匂いだったことだけを覚えている。その時、確信的に思った。
「こういういい匂いをいつも、かいでいる。それが人生の意味なのだ」と。
実際は、若く熱心な先生が、なんとか子供たちを躾けようとして考え出した、教育技術にすぎない。“優しさを持ってきちんと叱る“を実践しただけだろう。
けれど、若い真摯な女性の先生の教育的行為は、5歳の男性に、なにか決定的なものを残した。
「それが、いい匂いかどうか」
あのできごと以来、これが、僕の、人生におけるいちばん重要な価値基準になった。
ような気がしないわけではない。
クリエーティブ・ディレクションは、9割論理的なできごとである。なぜなら、この仕事にはすべて目的があるから。
けれど、いちばんだいじなこと、ヒトを本当にムーヴさせるのは、ロジカル・ファクターではない。論理力は、そこには冷酷なほど関与しない。9割ロジックで詰め切ったことが、最期、伝わる段になると逆に9割非論理的に世の中に到達するのである。それ故、うまく伝わっていればいるほど、ほとんどフェロモン的に受容され、ロジックはほとんど認識されず背後に隠れる。考えてみれば、幸福感のようなものを人の中に着床させるのは、絶対的にフェロモンであって、ロジックではない。肉体的に深く深く、忘れがたき状態でヒトの内部に定着させるのは。
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