・「頭が良い」という言葉をアップデートしよう - ぐるりみち。
自慢ではないが、頭がかなりいい。
昔、美容師をやってる親戚に「いやー、頭のかたちいいねー」と言われたこともあるし、スムースでなだらかな丘陵を多めの毛髪が覆ってる。
特に自慢にもならないし、スキンヘッドでもないので褒められることもないがいいのだそうだ、多分。
でもメールは送りません。
社会と学歴偏重
リンク先記事で id:ornith さんいうところの「頭がいい」という大カテゴリの中の小カテゴリは
■頭部のかたち
■知識
■知恵(回転、機転)
■適応力(コミュ力)
と言うことらしいが、ちょっと座りが悪い。
のでグジュグジュにただれたアホの脳細胞をリミットいっぱい使ってみる。
最初は小学生、中学生です。彼らに「頭がいい人」とはどういう人?と訊きますと、「勉強のできる人」という単純明快な回答が返ってきます。じゃ「勉強のできる人」ってどういう人?と訊き返すと、「試験の成績がいい人」と、言葉を代えたこれまた明快そのものの即答です。
つまり、彼らにとって、学校で教えられたことをしっかりと覚え学んで、それを試験に反映させている人が対象のようです。
このことを「脳の働き」という観点から見みますと、暗記という記憶力、理解力及びその応用という分野に関連していると言えます。では次に高校生に同様な質問しますと、この「勉強のできる人」に加え、「計算が速い人」とか「偏差値の高い人」といった大学受験を背景にした具体的な回答が増えるとともに、「物知り・博学な人」といった知識量に言及するものが入ってきます。
それでもまだ、脳の記憶力が主役を占めていることになります。
非常に明確ですね。
小中高生のころは「勉強」や「成績」という評価軸上で生活を行うので「頭がいい=成績がいい」
ところが大学生になると成績だけではないそれ以外の知性の軸が出てくる。
とはいえ面白いのは学歴社会と言われている日本の就職活動では、小中高生並みの
「頭がいい=成績がいい=学歴がある」
という頭のよさがそれなりに未だに通用するのだから、いやはや。
立志伝を読めば「学校に行く金もなく働きながら勉強をしそして社会で成功を収める」なんて話が転がってる。
義務教育でなかったころは「学校で学んだ/学んでない」という軸があって、少なくとも学校で勉強したのであれば読み書きは出来るだろう、と雇われる。
しかしこれはその勉強の質を問うていたわけではないから、学校で学んでなくても立身出世は努力により叶った。
ところが「戦後復興を果たすべき資本主義日本の社会システムを補完する若き労働者」を育成するための義務教育によって、誰しもが「学校に行くのが当たり前」になると今度は、義務教育の先にある大学と言うのが閾値になる。
義務教育は当たり前なのだから別けるべき指標にならない。
なので、そこから大学に行っている/いないで別ける。
しかし実際的に働き手として高卒/大卒で切り分け、前者が労働者として不十分か否かと言われれば必ずしもそうでないことも多い。
「教育」は個人の知性を育むため、ではなくて社会においての若い労働者の確保の下準備、の意味があったわけですが。
日本は高度経済成長により個人が経済的に豊かになり余裕が生まれ、若者が社会へ出るのが遅れても社会システムが維持できるようになった。
そして大学へ行く学生がふえることになる。
すると、今度は企業が大学のレベルでレベリングを始めた。
いい会社に入るためにいい大学に、いい大学に入るためいい高校に。
……いい高校に入るためにいい幼稚園に(一貫教育エスカレーター式)。
いわゆる「学歴偏重主義」ですね。
学生なんてどれも似たようなもの。
就職にあたり、面接でちょっと喋ってその学生が応用が効くのか、技能習得は早いのか、コミュ力はどうか、ライティングはどうだ、なんてさっぱりわからない。
だから「学歴」を見る。
学歴経歴を元にあるていどの「こんなもんだろう」は見当がつく。
東大出身、とあれば人格的に問題がある可能性もあるが、少なくとも計算や論理思考、知識はそれなりにあるだろう。
高卒?え?……えー、と何で判断しろと??
知識はツール
ところが今さら「個性ガ―」「自頭力ガー」「頭のよさとはなんだ?!」なんて言われても、それを評価しない社会システムを前の世代が作ったんだから仕方がない。
学歴重視だから勉強して社会に出たのに今さら「ビジネス脳使えよ」「お前コミュ力低いな」などと教えられてないことをさんざ言われ、「アドラー」だの「ドラッカー」だのなんだの読みあさって、少しでも自分の
「あいつ学歴はあるし勉強だけは出来るんだろうけど、仕事は…」
という評価しか受けない今を脱却して、それなりの人以上になりたいって願望は解らなくはないけれど(ところで、はてなはライフハック・自己啓発ってジャンルを作って隔離してくれないだろうかね。スパムまがいばかりで毎日ウザいんだけど)そんなもの読んで今さら変われるかも、と希望を持ってるのが実に悲しいし、本読む程度で変われるならもっと社会は上手く回ってる。
得るべき人間としての成長は本に書いてあるものじゃあない。
これら社会人の皆さんがおしなべて言及している内容を整理してみますと、記憶力、計算力、理解力、コミュニケーション力、忍耐/継続力、判断/決断力、チャレンジ/実行力、発想/創造力、先見/洞察力、思考/問題解決力、統率/人間力などにまとめられます。
そのうち小・中学生の回答は、前半最初のほうの項目をあげているだけですが、社会人の回答は、それ以外の項目に対する指摘が多いということです。
id:ornithさんのいうところの「頭がいい」カテゴリの「知識が豊富」と言うのはあまり頭がいいと感じないんですよ。
物知りなことだけで「頭がいい」という評価は生まれなくって、「知識が豊富」であってそれをツールとしてうまく使いこなすからこそ「頭がいい」と感じるのですよ。
単に山のように知識を知っている、というのは「頭はいい」けれど頭以外がよくない。
……極端に言えば「レインマン」のダスティン・ホフマンが演じたサヴァン症候群の男ですね。
彼は単に「頭がいい」というよりも機能として極端すぎて、もうひとつの便利ワード「天才」になっちゃうので、この記事からは溢れるけれど。
Rain Man Official Trailer - YouTube
ウチにしろしょーーーーーーもないことはいっぱいい知ってますけどね。
でも頭はよくない無駄の塊。
知識がツールとして役立つなら「頭がいい」が、役立たないならただの無駄知識。
知識はしょせんツールですから。
その軸でいえば人間よりもコンピューターの方がよほど「頭がいい」
「教養」にしろ「知識」にしろそれらのデータはデータ。
それを生かすことができなきゃあ宝の持ち腐れ。
ダスティン・ホフマンは博覧強記のサヴァン症候群だけど、それを生かす弟トム・クルーズがいたからこそ発揮できたのだし。
クリエイティブシンキング
知識でも知恵でも教養でもコミュ力でもない「頭のよさ」
それって想像・発想力でしょう。
(だからって別に「ゼロから創造する力」じゃあない)
これが根本にある。
ひとつ知識があったとする。さらにもう一つ。
その二つの知識はバラバラのもので、それを何かしらの「想像・発想」で結びつける、気付く。
あるいはもともとひとつだと思われている概念や事象。
それをわけ、整理して考えて捉えるという「想像・発想・空想」。
プライオリティをつける、無駄をそぐ、論理的に思考し判断を行う。
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物事を分解し整理して考える。
解体と再構築。
確かにオタク周辺語りで齟齬があったり*1FreeEXとか始めちゃったけれども根本の発想力は常人を上回ってる。
複合力
「頭のいいと言うのは単なる幻想」って考えも解らなくはないけれど。
「頭がよいとは○○である」
これがなかなか言明しづらいのは、こういう「論理的思考」「知識や教養」「応用力」「立ち回り・頭の回転」「発想・想像力」といったそれぞれのステータスを幾つも「多く持っている人」のことを指すのであって、それらにも人により偏りがある。
「知識だけがある」「コミュニケーションに長けてる」「立ち回りだけが上手い」という単機能なひとはあまり「頭がいい」とは思わない。
どれもゼロか百ではない。
格闘技での「強さ」がパンチ力だけでも、キック力だけでもないように。
運も実力のウチと言われたり、ルールによっても異なるように。
頭の回転が良く、目がよく、パンチ力もあって膂力もあり、柔軟性があって、スタミナもある。
そして年をとればすぐに筋力が落ちるようにその「強さ」は恒久的なものでもない。
「強さ」ってひとつでは成立しない。
誰しもそれぞれの能力ステータスをそれなりに持っているのだけれど、その中でも幾つかに関して特に優れて能力を発揮して、その時代、そのパラダイムの中でその優秀さ見せるからこそ、それを見て誰かが「頭がいい」と言うワードを発動させることになるんじゃないかな、と思うし、だとすればそれは虚構でもバズワードでもテンプレートでもなく、ただ明確に定義はしづらいけれどそれなりのステータスを満たす状態を指す語ではないのかしらね*2。
「○○である」とは言いづらそうではあるけどね。
でもバカだからしーらない。