≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋、要約≫
Roentgenium:園田義明氏の著作『園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より、参考とする部分を抜粋し要約とする(今回は細かな部分は「中略」の表記を省く)。
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〔園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 第1章 皇太子ご成婚と二人のクリスチャン より一部抜粋、要約 P.14-P.40〕
■「テニスコートの恋」の真実
1957(昭和32)年、軽井沢のテニスコートにキューピットが舞い降りた。その舞台をつくった3人の人物がいる。昭和天皇(迪宮裕仁 1901-1989)、カトリックに近い聖公会信徒であり、長く慶應義塾塾長を務めた小泉信三(1888-1966)、そして、死の直後にカトリックの洗礼を受けることになる吉田 茂(1878-1967)〔※『持丸長者 戦後復興篇』より【図1・系図1-1】『私物国家』より【系図2-1・図5・系図10-1・10-2・14-1】〕元首相である。
小泉も吉田もクリスチャン人脈の中にいた。結論から言うなら、カトリック家系の美智子妃(正田美智子 1934-)誕生は、昭和天皇の同意の下、この2人が仕掛けた政略結婚だった。軽井沢での「運命の出会い」は決して偶然ではなく、この時既に正田美智子に候補が絞られていたのだ。そのことを知っていたのは昭和天皇と吉田 茂と小泉信三。それに、女子学習院の同窓会組織である「常盤(ときわ)会」周辺の一部だけだった。
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《皇室とカトリック年表》
1944(昭和19)年12月 「代表的財界人」が駐日ローマ法王庁使節パウロ・マレラ Cardinal Paolo Marella(1895-1984)大司教に接触
1945(昭和20)年8月6日 広島に原子爆弾投下
8月9日 長崎に原子爆弾投下
1946(昭和21)年5月22日 第1次吉田内閣発足
1947(昭和22)年1月31日 パウロ・マレラ大司教、昭和天皇に謁見(えっけん)
1949(昭和24)年2月 パウロ・マレラ大司教、昭和天皇に謁見
7月30日 駐日ローマ法王庁使節フルステンベルグ Maximilien de Furstenberg(1904-1988)大司教、昭和天皇に謁見
1951(昭和26)年4月16日 ダグラス・マッカーサー Douglas MacArthur(1880-1964、フリーメーソン)帰国
1953(昭和28)年7月6日 皇太子継宮明仁親王(1933-、今上天皇)、ローマ教皇ピオ12世 Pius PP. XII(Maria Giuseppe Giovanni Eugenio Pacelli 1876-1958、ローマ教皇在位:1939~1958)に謁見
10月4日 吉田 茂、小泉信三宛書簡
1954(昭和29)年10月20日 吉田 茂、ローマ教皇ピオ12世に謁見
1957(昭和32)年5月3日 吉田 茂、三谷隆信(1892-1985)侍従長宛書簡
5月12日 吉田 茂、三谷隆信侍従長宛書簡
8月19日 皇太子、美智子軽井沢での「運命の日」
1958(昭和33)年11月27日 皇太子婚約決定の皇室会議
1959(昭和34)年4月10日 皇太子結婚の儀
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■皇室二代のバチカン外交
1952(昭和27)年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効〔※関連資料(1・2)〕から僅か一年、戦後初の皇族の外遊が行われることになる。選ばれた皇族は、当時の皇太子継宮明仁親王(1933-、今上天皇)だった。1953年3月30日の横浜港。出発を前に、米国船プレジデント・ウィルソン号上で、皇太子は国民へのメッセージを発する。
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天皇陛下のご名代として、英国女王陛下の戴冠式に参列する為に、私は今旅立つところであります。私はこの重大な使命を果たして皆さんの期待にそいたいと思います。
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50万人の人波に送られて横浜を出港した皇太子は、ホノルルを経てサンフランシスコに到着、トロントからニューヨークに入り、ここでジョン・D・ロックフェラー3世 John Davison Rockefeller Ⅲ(1906-1978)や、家庭教師を務めたヴァイニング夫人 Elizabeth Janet Gray Vining(1902-1999)と会っている〔※関連資料(1・2)〕。そして英国へ出航、以後フランス、スペイン、ドイツなどを歴訪、最後に米国に戻り、この時にフィラデルフィアのヴァイニング邸を訪れて3日間宿泊した。
約6カ月に亘(わた)る外遊で訪れた国は計14カ国。同年10月に帰国する。この14カ国の中にはバチカンも含まれていた。皇太子は7月6日に第260代ローマ教皇ピオ12世 Pius PP. XII(Maria Giuseppe Giovanni Eugenio Pacelli 1876-1958、ローマ教皇在位:1939~1958)に謁見(えっけん)している。三谷隆信(1892-1985)によれば、この時皇太子はピオ12世の自室に招き入れられ、後に第262代ローマ教皇パウロ6世となるジョバンニ・モンティニ Paulus PP. VI(Giovanni Battista Montini 1897-1978、ローマ教皇在位:1963~1978)の部屋にも招かれている。
戦後皇室外交の幕開けを担ったのは、現在の天皇陛下が19歳の時だった。この時、首席随員として選ばれたのは三谷隆信、カトリック信徒のヨハネ・パウロ松井 明(1908-1994、原子力委員会委員1971~1976)首相秘書官、吉川重国(きっかわ しげくに 1903-1996)式部官、黒木従達(1917-1984)東宮侍従長、戸田康英(とだ やすひで 1911-1977)東宮侍従、佐藤 久(-)東宮侍医長などであった。この中で三谷と黒木は、新渡戸稲造(にとべ いなぞう 1862-1933)〔※関連資料(1・2・3・4)〕と内村鑑三(1861-1930)に直接、間接に繋(つな)がるクリスチャン人脈に当る。
皇室外交のそもそもの原点は、父・昭和天皇が皇太子(迪宮裕仁親王)時代に行った、1921(大正10)年3月から9月の欧州外遊である。この出発の時、奇(く)しくも、昭和天皇もまた19歳だった。「わが国未曾有(みぞう)」の皇太子欧州外遊は、今日では想像も出来ないほどの大事件となった。それまで、天皇や皇太子が外国を訪問した前例が無かったからだ。
しかも、大正天皇(明宮嘉仁 1879-1926)は酷く健康を害しており、外遊中に崩御する可能性もあった。更に、1920年に始まる「宮中某重大事件」も追い打ちを掛ける。この事件では、皇太子妃として久邇宮良子(くにのみやながこ 1903-2000)が内定したことに対し、長州閥の元老・山縣有朋(やまがた ありとも 1838-1922)らが、良子の母系に色盲遺伝があるとして反対したため紛糾。背景には、原 敬(はら たかし 1856-1921)〔※関連資料(1)〕をも巻き込んで薩長の思惑が複雑に絡み合っていた。
この皇太子欧州外遊が実現した最大の功労者は、ダビデ・ハラの洗礼名を持つ原 敬首相、山縣有朋(長州)、松方正義(1835-1924)〔※『持丸長者 幕末・ 維新篇』より【系図3―松方正義の閨閥】〕(薩摩)、西園寺公望(さいおんじ きんもち 1849-1940)〔※関連資料(1・2・3重要・4一視点として・5)〕、そして、吉田の岳父(がくふ)・牧野伸顕(まきの のぶあき 1861-1949)(薩摩)の尽力もあった。
1921年3月3日、皇太子時代の昭和天皇を乗せた英ヴィッカース社製の戦艦「香取」が供奉(ぐぶ)艦「鹿島」と共に横浜港から英国に向けて出航した。訪問先は英国、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアの欧州5カ国の他にバチカンも含まれていた。実は、この時の皇太子も、第258代ローマ教皇ベネディクト15世 Benedictus PP. XV(Giacomo Della Chiesa 1854-1922、ローマ教皇在位:1914~1922)に謁見している。
供奉員も記しておこう。供奉長は外交界の重鎮である珍田捨巳(ちんだ すてみ 1857-1929)、他に奈良武次(なら たけじ 1868-1962)東宮武官長、入江為守(いりえ ためもり 1868-1936)東宮侍従長、竹下 勇(竹下勇次郎 1870-1946)海軍中将、三浦謹之助(1864-1950)侍医、八田善之進(はった ぜんのしん 1882-1964)侍医、西園寺八郎(1881-1946、旧長州藩主・毛利元徳の八男)式部官、戸田氏秀(とだ うじひで 1882-1924)東宮主事、亀井茲常(かめい これつね 1884-1942)東宮侍従、及川古志郎(おいかわ こしろう 1883-1958)海軍中佐、二荒芳徳(ふたら よしのり 1886-1967)宮内書記官、浜田豊城(はまだ とよき -)海軍少佐、そして、歴史の中に埋もれたままになっている澤田節蔵(さわだ せつぞう 1884-1976)と山本信次郎(1877-1942、山本 正の父)海軍少将を加えた14名である〔※関連資料(1)〕。
この中で明らかにクリスチャンだったのが珍田(プロテスタント・メソジスト派)、山本(カトリック)、澤田(プロテスタント・クエーカー派)の3名で、当時を代表するクリスチャン・エリートが勢揃いしていた。
皇太子一行を乗せた船は香港、シンガポール、コロンボ(現・スリランカ)、スエズ、ポートサイド、マルタ島を経て、4月30日に英国海軍の戦略拠点であるジブラルタルに上陸する。
当時、駐英大使館員だった吉田 茂は、英国での日程打ち合わせと皇太子の洋服を作る為に、ロンドン第一の洋服屋マックヴィッカー最古参の裁断師を伴って、ジブラルタルに到着していた。ここで吉田は、20歳になったばかりの昭和天皇に初めて拝謁することになる。
戦後の皇室外交の幕開けでも、吉田は当然、積極的に関与している。外務省調査局長兼任で2年間首相秘書官を務めていたヨハネ・パウロ松井 明(1908-1994、原子力委員会委員1971~1976)を随員に起用し、旅程など関係事務の総括を行うよう指示したのも吉田である。つまり吉田は、2人の皇太子による2つの皇室外交に関わった唯一の人物だったのだ。
国民に信託された政治家であると共に「臣茂(しん・しげる)」を名乗る吉田は、それまでも事細かに皇室と関わってきた。『昭和天皇独白録』(寺崎英成, マリコ・テラサキ・ミラー 共著『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』文藝春秋 1991年刊行、文庫版は『昭和天皇独白録』文藝春秋 1995年刊行)を記した寺崎英成(てらさき ひでなり 1900-1951)の宮内省御用掛就任を推挙し、自由自在に動かしていたのは吉田であり、寺崎もその都度、吉田からの指示を仰いでいた。
しかも、吉田は皇太子継宮明仁親王(1933-、今上天皇)がローマ教皇ピオ12世に謁見してから1年3カ月後の1954(昭和29)年10月20日にはバチカンにいた。吉田もローマ教皇ピオ12世に謁見していたのだ。吉田の謁見は、教皇の大患のお見舞いを述べることから始まったが、その後に皇太子訪問の際の厚遇を謝した。教皇もまた日本皇室の近況を尋ね、その御清福を祈ると述べた。
この時、吉田はピオ12世に対して、巣鴨には当時まだ700名の戦犯が拘禁されていること、そういう戦犯をこれ以上拘禁しておくと、戦争の記憶を長引かせるだけでむしろ有害であることから、速やかなる解決を要望するつもりであると述べ、ピオ12世も同感の意を表された上に、協力を約束する。
しかし、何よりも重要なのは吉田と昭和天皇の関係である。
■皇太子妃を巡る暗闘があった
もう一度、先の年表を見ていただきたい。10日に一度くらいの割合で昭和天皇に会っていた吉田 茂が、この皇太子外遊の年に小泉信三(1888-1966)に手紙を書き送っている。吉田と小泉は1942(昭和17)年からの知り合いで、信頼出来る友人同士にして互いのブレーン役を務めていた。小泉は皇太子外遊に部分的に同行し、一足先に帰国していたのだ。
この手紙は1953年10月4日に、吉田によって書かれている。外遊での皇太子の態度が感泣するほど立派だったと書きながら、それも皇太子の教育掛を務めた小泉らの指導のお蔭としている。注目すべきはその次で、皇太子の結婚問題に関する小泉の手紙を松平信子夫人に転送しつつ、熟慮を促したとある。
この前年、朝日新聞が1952年7月29日の朝刊に「御意思、十分に尊重 まず北白川、久邇家の順に選考」という四段の囲み記事を掲載し、皇太子妃を巡る報道合戦の口火を切った。ここに「悲劇の宮家」北白川宮家の名前が挙がっていたことを覚えておいてほしい。明治天皇(祐宮睦仁 1852-1912)〔※関連資料(1・2)〕の叔父、輪王寺宮公現法親王(りんのうじのみやくげんほうしんのう=東武天皇=北白川宮能久親王 1847-1895)に始まる北白川宮家の受難については、第3章で述べる。
さて、宮内庁次長の瓜生順良(うりゅう のぶよし ?-1957)が、記者会見でお妃問題に対して初めて公式に言及したのは1955年(昭和30)年9月である。この時、瓜生は「新憲法で決められた結婚の自由を尊重し、出来るだけ広い範囲から選ぶ方針である」と述べている。1972年発行の『毎日新聞百年史』にも「宮内庁が皇太子妃の本格的選考に入ったのは(昭和)30年頃からである」と書かれている。
しかし、こうした通説が誤りだったことを『吉田 茂書翰(しょかん)』(中央公論社 1994年刊行、加えて『吉田 茂書翰 追補』吉田茂国際基金 2011年刊行)が見事に証明している。
女子学習院の同窓会組織である「常盤(ときわ)会」会長で東宮御教育参与を務めていた松平信子(1886-1969)が、皇太子妃は旧皇族または華族から選ぶべきだと主張、愛国団体を動かしての御婚儀反対工作を行うまでしながら、正田美智子(1934-)との結婚に反対していた。
不思議なことに、この吉田の手紙は、天皇皇后両陛下の軽井沢テニスコートでの「初めての出会い」があった1957年8月19日より4年も前に書かれている。つまり、4年前の時点で既に小泉と松平の対立があったことを明確に示している。
旧皇族や華族以外からも皇太子妃の候補を挙げるという路線が決まっていたのだろうか。いやむしろ、この手紙が書かれた1953年10月4日の時点で、皇太子妃候補が或る程度絞られていたと考えるべきだろう。
吉田 茂と小泉信三と松平信子の3名は、間違いなくこの対立を知っていた。吉田からすると、「何故か松平信子に情報が漏れていた」といった感じだったのかも知れない。10日に一度くらいの割合で吉田に会っていた昭和天皇も、当然、知っていたであろう。
何とも不思議な『吉田 茂書翰』はまだ続く。(中略)北白川宮家側に常盤会会長の松平信子や娘の秩父宮妃勢津子(松平節子 1909-1995)がいたことが、この手紙から明らかになる。
吉田自らがこれだけ慌しく動いているところを見ると、恐らく吉田が北白川宮家を訪問した5月2日前後には、皇太子妃が正田美智子に絞られていたと推測される。そして、この3カ月後に、現在の天皇皇后両陛下は軽井沢で「出会う」ことになる。
結局、それは偶然でも運命でもなく、予(あらかじ)め吉田や小泉は、皇太子妃最有力候補として正田美智子に絞り込み、「テニスコートの恋」のシナリオが綿密に描かれていたのだ。新聞各紙の中で『吉田 茂書翰』にある小泉信三宛手紙の不思議に気付いて、内容まで紹介していたのは読売新聞だけである。それ(読売)にしても、軽井沢での「運命の日」以前であることの重要性については何一つ言及していない。
三谷隆信宛の手紙に到っては、内容まで紹介した記事は全く無い。数多い研究者も含めて、吉田 茂が皇太子妃選びにまで関与していたことをこれまで見過ごしてきたのだ。
こうしてシナリオ通りに事が進んでいく中で、もはや北白川宮家側が入り込む余地は無かった。それでも「悲劇の宮家」返上を目指す北白川宮家の情念は凄まじかった。小泉側に牧野伸顕(まきの のぶあき 1861-1949)の娘婿の吉田がいることに気付いた北白川宮家側は、巻き返しを狙って牧野伸顕の長男・牧野伸通(1889-1941)の夫人で、常盤会の重鎮でもあった牧野純子(1900-1990)を巻き込む。
昭和天皇が父のように慕った牧野伸顕の家を2つに引き裂きながら、北白川宮家から皇太子妃を誕生させようと最後の最後まで粘りに粘る。しかし、吉田や小泉らが描いた見事なまでのシナリオに屈する。(中略)
さて、政略結婚に向けたドラマの幕開きとして選ばれたこの軽井沢に別荘第1号を建て、「避暑地・軽井沢の祖」と言われているのは誰だろう。それは、小泉が塾長を務めた慶應義塾の創設者・福澤諭吉(1835-1901)〔※『持丸長者 幕末・維新篇』より【系図4―福沢諭吉の閨閥】〕の27年間に亘(わた)る友人であったアレキサンダー・クロフト・ショー Alexandar Croft Shaw(1846-1902)である。旧軽井沢の一角には軽井沢最古のキリスト教教会として復元された「日本聖公会ショー記念礼拝堂」が、カラマツ林に囲まれてひっそりと佇(たたず)んでいる。
■軽井沢での一日を再現する
(中略)そして、皇室会議は全員一致で可決する。この決定を受け、直後に正田美智子の記者会見が行われた。その翌日、11月28日の朝に届けられた朝日新聞に一大スクープ写真が掲載される。軽井沢親善テニストーナメントで皇太子ペアが1本取られて皇太子が苦笑いしている様子が写されていた。
この写真は、濱尾 実(はまお みのる 1925-2006)の隣で観戦していた人物が撮影したものだ。そして、この人物は皇室会議にも出席していたはずである。何故なら、最高裁判所長官は皇室会議の構成員だからだ。現在の天皇皇后両陛下の「初めての出会い」の決定的瞬間を撮影したのは、当時の最高裁長官にして、皇太子の憲法の御進講係も務めていた田中耕太郎(1890-1974、―MRA)であった。この田中も新渡戸稲造の門下生である。
濱尾は、皇太子ペアと美智子ペアの対戦は全くの偶然だったと回想しているが、これまで見てきたように、予(あらかじ)め緻密なシナリオが用意されていた。濱尾さえも知らされていなかった、或いは、濱尾は全て知りながらも「偶然」と言い通したのであろう。
しかも、田中も濱尾も敬虔なカトリックだった。実は濱尾家こそが、吉田 茂をカトリックへと導いたのだ。
■東宮侍従、セバスチャン濱尾 実
濱尾 実(はまお みのる 1925-2006)は1948(昭和23)年に東京大学工学部応用化学科を卒業。東洋化学を経て、1951年1月から1971年4月までの20年間を東宮侍従として仕えた。退官後は美智子妃も卒業された聖心女子学院の教諭や長野県岡谷市の聖母幼稚園園長を務めるなどしながら、教育評論家として講演や執筆活動に活躍。テレビの皇室関連番組にも出演している。2006(平成18)年10月に死去。追悼ミサは千代田区麹町(こうじまち)の聖イグナチオ教会で行われている。
濱尾の侍従就任の背景には、濱尾家と皇室の深い縁があった。濱尾 実の母方の祖父は濱尾 新(はまお あらた 1849-1925)、父方の祖父は加藤弘之(1836-1916)、何れも東大総長を務めたことがある。濱尾 新は東郷平八郎(1848-1934)総裁の下で昭和天皇の御学問副総裁と東宮大夫も務めていた。父は推理作家の濱尾四郎(1896-1935)。しかし、実が10歳の時に脳出血で死亡し、母は朝香宮妃千賀子(あさかのみやひちかこ 藤堂千賀子 1921-1952)のお付きをしながら女手一つで家族を支えた。
こうしたことから、濱尾は東宮侍従にと声を掛けられることになるが、気にしたのは自身の信仰の問題であった。声が掛かった時既に敬虔なカトリック信徒になっていたからだ。
濱尾の母は第2次世界大戦 WWⅡ(1939~1945)中に軍国主義下での冷遇に屈せず、心の糧を求めて洗礼を受けたと言う。この母に連れられて下北沢の教会に通っているうちに、神父の人柄に惹かれ、実も自ら願い出て洗礼を受ける。洗礼を受けたのは1946(昭和21)年のクリスマス。大学2年の時だった。洗礼名はセバスチャンである。
濱尾によれば、宮内庁は「クリスチャンでも構わない」と言ってきたようだ。また、「宮内庁と言うと、神道を思い浮べる人が多いでしょうが、宗教的には大変寛容なところがあり、私以前にも、カトリック信者がお仕えしていた前例があります」と書いている。その前例として、昭和天皇の御学問所の先生の名前を挙げている。昭和天皇のバチカン訪問にも随行した海軍少将・山本信次郎(1877-1942、山本 正の父)である。
■枢機卿、ステファノ濱尾文郎
濱尾 実は、著書『皇太子さま雅子さまへのメッセージ』(新潮社 1993年刊行)の中で、「弟はその後、バチカンに渡って11年間勉強し、向こうにいる間に司祭になりました。(中略)私の家内も信者で、子供は息子が1人、娘が4人いますが、三番目の娘はシスターになって、調布市内にあるカルメル会という修道院で神様にお仕えしています」と書いている。
濱尾 実が洗礼を受けたのは1946年のクリスマス、この時、実弟の濱尾文郎(はまお ふみお 1930-2007)も一緒に洗礼を受けていた。洗礼名はステファノと言う。文郎はこの時16歳。終戦後の混乱の中、一時は共産主義とキリスト教の間を揺れ動いたが、「困っている人を助けたかった。それにはキリスト教の教えのほうが現実的と思えた」と、兄と共に洗礼を受けたのである。
GHQ発給の旅券で海を渡ってローマに留学、ウルバノ大学 Pontificia Università Urbaniana(1627年創立)とグレゴリアン大学 Pontificia Università Gregoriana(1551年創立)に学んだ濱尾文郎は、帰国後東京教区補佐司教を経て、横浜教区教区長、日本カトリック司教協議会会長を務める。
そして、1998(平成10)年に、東アジアの司教として初めてバチカンの閣僚級ポストである移住・移動者司牧評議会議長に就任(2006年3月定年により退任)、同時に大司教となる。更に、2003年10月には、ペトロ土井辰雄(1892-1970、1960年任命)、パウロ田口芳五郎(たぐち よしごろう 1902-1978、1973年任命)、ヨゼフ里脇浅次郎(さとわき あさじろう 1904-1996、1979年任命)、ペドロ白柳誠一(1928-2009、1994年任命)に次いで、日本人として5人目の枢機卿(すうききょう)に任命されている。
枢機卿とはカトリック教会で法王に次ぐ地位の聖職者で、法王を選出する資格を持っている。2005年4月に死去したヨハネ・パウロ2世 Ioannes Paulus PP. II(Karol Józef Wojtyła 1920-2005、ローマ教皇在位:1978~2005)の後継者を決めるローマ教皇選出会議「コンクラーヴェ Conclave」には、80歳未満の枢機卿115人が参加しているが、この中に白柳と濱尾の日本人2名も含まれていた。濱尾文郎は、よど号(JAL351便)ハイジャック事件(1970年)の際、乗客として巻き込まれたこともある〔※関連資料(1)〕。そして、2007(平成19)年11月死去。
この濱尾文郎から洗礼を受けたのが、吉田 茂だったのだ。
■ヨゼフ・トマス・モア吉田 茂
吉田 茂の妻・雪子(牧野雪子 1861-1949)〔※関連資料(1・2・3)〕は、西郷隆盛(1828-1877)〔※関連資料(1・2)〕と共に薩摩の両雄として知られる大久保利通(おおくぼ としみち 1830-1878)の次男として生まれ、牧野家の養子になっていた牧野伸顕の長女である。この雪子が熱心なカトリック信徒であった。牧野雪子が吉田の戸籍に妻として入籍したのは1909(明治42)年3月10日。(中略)
吉田は1931(昭和6)年に駐イタリア大使を命じられる。このイタリア時代に、雪子は「黙想の家」における祈りの集会にしばしば出席しながら聖心侍女修道会と親交を結んだ。雪子は日本にカトリックの教育機関が少ないことを語りながら、聖心侍女の来日を提言する。1934年11月に日本の地に降り立った4人の聖心侍女の援助の為に奔走(ほんそう)したのは雪子である。雪子の願いは今日の清泉女子大学(1938年創立・1950年大学設置)や長野清泉女学院(清泉寮学院として1935年創立)などの創設となって実を結んでいる。
しかし、真珠湾攻撃(1941年12月8日)〔※≪堤 未果 著『ルポ 貧困大国』『アメリカから<自由>が消える』 より一部抜粋、要約(11)≫本文及び添付資料を参照〕の2カ月前の1941年10月7日、雪子は乳癌(喉頭癌の説もあり)の為、53歳の若さで亡くなる。葬儀ミサは東京カテドラル聖マリア会堂で執り行われた。ミサでは吉田が、周囲を憚(はばか)ることなくボロボロと涙を零(こぼ)していたと言う。
ミサが終わると、父・牧野伸顕がジョゼフ・グリュー Joseph Clark Grew(1880-1965)〔※John Pierpont Morgan(1837-1913)の従兄弟。『赤い楯』より【系図9】及び関連資料(1・2・3)〕駐日米国大使とその夫人アリスに歩み寄り、丁重に謝意を表した。アリス・グリュー Alice de Vermandois Perry Grew(1883-1959)〔※母はリリー・キャボット・ペリー Lilla Cabot Perry(1848-1933)。奴隷貿易・麻薬貿易業者キャボット Cabot Corporation 一族の出身。関連資料(1・2)〕にとって雪子は一番親しい日本人だった〔※一考察として関連資料(1)〕。
ガソリン規制の為に個人用乗用車が使えなかった当時、アリスは週に2、3回、吉田とその娘・和子(1915-1996)の為に米国大使館の車をさし回していた。米国の車を利用することに批判もあったが、吉田は全く気にしなかった。アリスは友人として雪子に出来ることは全てした。最後の何週間かは、グリュー夫妻が持ってきたスープで何とか生きているに近い状態だったと言う。
日米衝突の危機が目前に迫る中、グルー夫妻と牧野・吉田一家の関係は外交的節度を超えていた。(中略)
吉田が回想録『回想十年〈第1巻~第4巻〉』(新潮社 1957年刊行)〔※≪吉田祐二 著『日銀―円の王権』 より一部抜粋、要約(11)≫を参照〕を書き終えたのは、序文によれば昭和32年春とある。この年、吉田は79歳を迎えた。カトリックになることを考え始めた頃なのかも知れない。吉田の三女・和子は「亡くなった母も私もカトリックでしたから、父も最後には洗礼を受けると約束していました」と書いている。
約束通り、吉田は死の直後にステファノ濱尾文郎から洗礼を受けた。洗礼名はヨゼフ・トマス・モア。吉田の葬儀は故人の信仰に従った文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂での内葬と、千代田区北の丸公園の日本武道館で行われた戦後初の国葬とに分けられた。(中略)
吉田は東京カテドラル聖マリア大聖堂の建設にも大きく関わっていた。雪子の葬儀ミサが営まれた東京カテドラル聖マリア会堂は戦災で焼失し、その再建の為に募金後援会が組織され、吉田はその会長を引き受けた。副会長には、田中耕太郎(1890-1974、―MRA)の代父の下でカトリックに改宗した堀江薫雄(ほりえ しげお 1903-2000、横浜正金銀行→東京銀行→東京三菱UFJ)、それに「財界総理」こと石坂泰三(いしざか たいぞう 1886-1975、―MRA)が就いた。石坂もまた、新渡戸稲造の門下生である。
これがきっかけと思われるが、堀江はローマ教皇から二等勲章セント・グレゴリー、吉田もまた未信者としては最高の勲章をローマ教皇から一緒に授けられた。この時、吉田は「これで私も天国へ行けるだろうね」と語ったと言う。
副会長の石坂の妻の名も雪子(織田雪子 -)と言い、カトリック信徒としてマリアの洗礼名を受けていた。そして、石坂自身も、最期の病床で意識不明になる直前にカトリックの洗礼を受けたのである。
昭和天皇在位中の1964年4月、この吉田と石坂と小泉信三(1888-1966)と、新渡戸の愛弟子・田島道治(たじま みちじ 1885-1968)の4名が初代宮内庁参与に就任している。宮内庁参与とは、皇室の重要事項について天皇皇后両陛下に助言する役目を負う。日本のクリスチャン人脈の権化とも言える4名が揃って就任したことが、全てを物語っている。
(2頁へ続く)
Roentgenium:園田義明氏の著作『園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より、参考とする部分を抜粋し要約とする(今回は細かな部分は「中略」の表記を省く)。
◆ ◆ ◆
〔園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 第1章 皇太子ご成婚と二人のクリスチャン より一部抜粋、要約 P.14-P.40〕
■「テニスコートの恋」の真実
1957(昭和32)年、軽井沢のテニスコートにキューピットが舞い降りた。その舞台をつくった3人の人物がいる。昭和天皇(迪宮裕仁 1901-1989)、カトリックに近い聖公会信徒であり、長く慶應義塾塾長を務めた小泉信三(1888-1966)、そして、死の直後にカトリックの洗礼を受けることになる吉田 茂(1878-1967)〔※『持丸長者 戦後復興篇』より【図1・系図1-1】『私物国家』より【系図2-1・図5・系図10-1・10-2・14-1】〕元首相である。
小泉も吉田もクリスチャン人脈の中にいた。結論から言うなら、カトリック家系の美智子妃(正田美智子 1934-)誕生は、昭和天皇の同意の下、この2人が仕掛けた政略結婚だった。軽井沢での「運命の出会い」は決して偶然ではなく、この時既に正田美智子に候補が絞られていたのだ。そのことを知っていたのは昭和天皇と吉田 茂と小泉信三。それに、女子学習院の同窓会組織である「常盤(ときわ)会」周辺の一部だけだった。
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《皇室とカトリック年表》
1944(昭和19)年12月 「代表的財界人」が駐日ローマ法王庁使節パウロ・マレラ Cardinal Paolo Marella(1895-1984)大司教に接触
1945(昭和20)年8月6日 広島に原子爆弾投下
8月9日 長崎に原子爆弾投下
1946(昭和21)年5月22日 第1次吉田内閣発足
1947(昭和22)年1月31日 パウロ・マレラ大司教、昭和天皇に謁見(えっけん)
1949(昭和24)年2月 パウロ・マレラ大司教、昭和天皇に謁見
7月30日 駐日ローマ法王庁使節フルステンベルグ Maximilien de Furstenberg(1904-1988)大司教、昭和天皇に謁見
1951(昭和26)年4月16日 ダグラス・マッカーサー Douglas MacArthur(1880-1964、フリーメーソン)帰国
1953(昭和28)年7月6日 皇太子継宮明仁親王(1933-、今上天皇)、ローマ教皇ピオ12世 Pius PP. XII(Maria Giuseppe Giovanni Eugenio Pacelli 1876-1958、ローマ教皇在位:1939~1958)に謁見
10月4日 吉田 茂、小泉信三宛書簡
1954(昭和29)年10月20日 吉田 茂、ローマ教皇ピオ12世に謁見
1957(昭和32)年5月3日 吉田 茂、三谷隆信(1892-1985)侍従長宛書簡
5月12日 吉田 茂、三谷隆信侍従長宛書簡
8月19日 皇太子、美智子軽井沢での「運命の日」
1958(昭和33)年11月27日 皇太子婚約決定の皇室会議
1959(昭和34)年4月10日 皇太子結婚の儀
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■皇室二代のバチカン外交
1952(昭和27)年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効〔※関連資料(1・2)〕から僅か一年、戦後初の皇族の外遊が行われることになる。選ばれた皇族は、当時の皇太子継宮明仁親王(1933-、今上天皇)だった。1953年3月30日の横浜港。出発を前に、米国船プレジデント・ウィルソン号上で、皇太子は国民へのメッセージを発する。
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天皇陛下のご名代として、英国女王陛下の戴冠式に参列する為に、私は今旅立つところであります。私はこの重大な使命を果たして皆さんの期待にそいたいと思います。
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50万人の人波に送られて横浜を出港した皇太子は、ホノルルを経てサンフランシスコに到着、トロントからニューヨークに入り、ここでジョン・D・ロックフェラー3世 John Davison Rockefeller Ⅲ(1906-1978)や、家庭教師を務めたヴァイニング夫人 Elizabeth Janet Gray Vining(1902-1999)と会っている〔※関連資料(1・2)〕。そして英国へ出航、以後フランス、スペイン、ドイツなどを歴訪、最後に米国に戻り、この時にフィラデルフィアのヴァイニング邸を訪れて3日間宿泊した。
約6カ月に亘(わた)る外遊で訪れた国は計14カ国。同年10月に帰国する。この14カ国の中にはバチカンも含まれていた。皇太子は7月6日に第260代ローマ教皇ピオ12世 Pius PP. XII(Maria Giuseppe Giovanni Eugenio Pacelli 1876-1958、ローマ教皇在位:1939~1958)に謁見(えっけん)している。三谷隆信(1892-1985)によれば、この時皇太子はピオ12世の自室に招き入れられ、後に第262代ローマ教皇パウロ6世となるジョバンニ・モンティニ Paulus PP. VI(Giovanni Battista Montini 1897-1978、ローマ教皇在位:1963~1978)の部屋にも招かれている。
戦後皇室外交の幕開けを担ったのは、現在の天皇陛下が19歳の時だった。この時、首席随員として選ばれたのは三谷隆信、カトリック信徒のヨハネ・パウロ松井 明(1908-1994、原子力委員会委員1971~1976)首相秘書官、吉川重国(きっかわ しげくに 1903-1996)式部官、黒木従達(1917-1984)東宮侍従長、戸田康英(とだ やすひで 1911-1977)東宮侍従、佐藤 久(-)東宮侍医長などであった。この中で三谷と黒木は、新渡戸稲造(にとべ いなぞう 1862-1933)〔※関連資料(1・2・3・4)〕と内村鑑三(1861-1930)に直接、間接に繋(つな)がるクリスチャン人脈に当る。
皇室外交のそもそもの原点は、父・昭和天皇が皇太子(迪宮裕仁親王)時代に行った、1921(大正10)年3月から9月の欧州外遊である。この出発の時、奇(く)しくも、昭和天皇もまた19歳だった。「わが国未曾有(みぞう)」の皇太子欧州外遊は、今日では想像も出来ないほどの大事件となった。それまで、天皇や皇太子が外国を訪問した前例が無かったからだ。
しかも、大正天皇(明宮嘉仁 1879-1926)は酷く健康を害しており、外遊中に崩御する可能性もあった。更に、1920年に始まる「宮中某重大事件」も追い打ちを掛ける。この事件では、皇太子妃として久邇宮良子(くにのみやながこ 1903-2000)が内定したことに対し、長州閥の元老・山縣有朋(やまがた ありとも 1838-1922)らが、良子の母系に色盲遺伝があるとして反対したため紛糾。背景には、原 敬(はら たかし 1856-1921)〔※関連資料(1)〕をも巻き込んで薩長の思惑が複雑に絡み合っていた。
この皇太子欧州外遊が実現した最大の功労者は、ダビデ・ハラの洗礼名を持つ原 敬首相、山縣有朋(長州)、松方正義(1835-1924)〔※『持丸長者 幕末・ 維新篇』より【系図3―松方正義の閨閥】〕(薩摩)、西園寺公望(さいおんじ きんもち 1849-1940)〔※関連資料(1・2・3重要・4一視点として・5)〕、そして、吉田の岳父(がくふ)・牧野伸顕(まきの のぶあき 1861-1949)(薩摩)の尽力もあった。
1921年3月3日、皇太子時代の昭和天皇を乗せた英ヴィッカース社製の戦艦「香取」が供奉(ぐぶ)艦「鹿島」と共に横浜港から英国に向けて出航した。訪問先は英国、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアの欧州5カ国の他にバチカンも含まれていた。実は、この時の皇太子も、第258代ローマ教皇ベネディクト15世 Benedictus PP. XV(Giacomo Della Chiesa 1854-1922、ローマ教皇在位:1914~1922)に謁見している。
供奉員も記しておこう。供奉長は外交界の重鎮である珍田捨巳(ちんだ すてみ 1857-1929)、他に奈良武次(なら たけじ 1868-1962)東宮武官長、入江為守(いりえ ためもり 1868-1936)東宮侍従長、竹下 勇(竹下勇次郎 1870-1946)海軍中将、三浦謹之助(1864-1950)侍医、八田善之進(はった ぜんのしん 1882-1964)侍医、西園寺八郎(1881-1946、旧長州藩主・毛利元徳の八男)式部官、戸田氏秀(とだ うじひで 1882-1924)東宮主事、亀井茲常(かめい これつね 1884-1942)東宮侍従、及川古志郎(おいかわ こしろう 1883-1958)海軍中佐、二荒芳徳(ふたら よしのり 1886-1967)宮内書記官、浜田豊城(はまだ とよき -)海軍少佐、そして、歴史の中に埋もれたままになっている澤田節蔵(さわだ せつぞう 1884-1976)と山本信次郎(1877-1942、山本 正の父)海軍少将を加えた14名である〔※関連資料(1)〕。
この中で明らかにクリスチャンだったのが珍田(プロテスタント・メソジスト派)、山本(カトリック)、澤田(プロテスタント・クエーカー派)の3名で、当時を代表するクリスチャン・エリートが勢揃いしていた。
皇太子一行を乗せた船は香港、シンガポール、コロンボ(現・スリランカ)、スエズ、ポートサイド、マルタ島を経て、4月30日に英国海軍の戦略拠点であるジブラルタルに上陸する。
当時、駐英大使館員だった吉田 茂は、英国での日程打ち合わせと皇太子の洋服を作る為に、ロンドン第一の洋服屋マックヴィッカー最古参の裁断師を伴って、ジブラルタルに到着していた。ここで吉田は、20歳になったばかりの昭和天皇に初めて拝謁することになる。
戦後の皇室外交の幕開けでも、吉田は当然、積極的に関与している。外務省調査局長兼任で2年間首相秘書官を務めていたヨハネ・パウロ松井 明(1908-1994、原子力委員会委員1971~1976)を随員に起用し、旅程など関係事務の総括を行うよう指示したのも吉田である。つまり吉田は、2人の皇太子による2つの皇室外交に関わった唯一の人物だったのだ。
国民に信託された政治家であると共に「臣茂(しん・しげる)」を名乗る吉田は、それまでも事細かに皇室と関わってきた。『昭和天皇独白録』(寺崎英成, マリコ・テラサキ・ミラー 共著『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』文藝春秋 1991年刊行、文庫版は『昭和天皇独白録』文藝春秋 1995年刊行)を記した寺崎英成(てらさき ひでなり 1900-1951)の宮内省御用掛就任を推挙し、自由自在に動かしていたのは吉田であり、寺崎もその都度、吉田からの指示を仰いでいた。
しかも、吉田は皇太子継宮明仁親王(1933-、今上天皇)がローマ教皇ピオ12世に謁見してから1年3カ月後の1954(昭和29)年10月20日にはバチカンにいた。吉田もローマ教皇ピオ12世に謁見していたのだ。吉田の謁見は、教皇の大患のお見舞いを述べることから始まったが、その後に皇太子訪問の際の厚遇を謝した。教皇もまた日本皇室の近況を尋ね、その御清福を祈ると述べた。
この時、吉田はピオ12世に対して、巣鴨には当時まだ700名の戦犯が拘禁されていること、そういう戦犯をこれ以上拘禁しておくと、戦争の記憶を長引かせるだけでむしろ有害であることから、速やかなる解決を要望するつもりであると述べ、ピオ12世も同感の意を表された上に、協力を約束する。
しかし、何よりも重要なのは吉田と昭和天皇の関係である。
■皇太子妃を巡る暗闘があった
もう一度、先の年表を見ていただきたい。10日に一度くらいの割合で昭和天皇に会っていた吉田 茂が、この皇太子外遊の年に小泉信三(1888-1966)に手紙を書き送っている。吉田と小泉は1942(昭和17)年からの知り合いで、信頼出来る友人同士にして互いのブレーン役を務めていた。小泉は皇太子外遊に部分的に同行し、一足先に帰国していたのだ。
この手紙は1953年10月4日に、吉田によって書かれている。外遊での皇太子の態度が感泣するほど立派だったと書きながら、それも皇太子の教育掛を務めた小泉らの指導のお蔭としている。注目すべきはその次で、皇太子の結婚問題に関する小泉の手紙を松平信子夫人に転送しつつ、熟慮を促したとある。
この前年、朝日新聞が1952年7月29日の朝刊に「御意思、十分に尊重 まず北白川、久邇家の順に選考」という四段の囲み記事を掲載し、皇太子妃を巡る報道合戦の口火を切った。ここに「悲劇の宮家」北白川宮家の名前が挙がっていたことを覚えておいてほしい。明治天皇(祐宮睦仁 1852-1912)〔※関連資料(1・2)〕の叔父、輪王寺宮公現法親王(りんのうじのみやくげんほうしんのう=東武天皇=北白川宮能久親王 1847-1895)に始まる北白川宮家の受難については、第3章で述べる。
さて、宮内庁次長の瓜生順良(うりゅう のぶよし ?-1957)が、記者会見でお妃問題に対して初めて公式に言及したのは1955年(昭和30)年9月である。この時、瓜生は「新憲法で決められた結婚の自由を尊重し、出来るだけ広い範囲から選ぶ方針である」と述べている。1972年発行の『毎日新聞百年史』にも「宮内庁が皇太子妃の本格的選考に入ったのは(昭和)30年頃からである」と書かれている。
しかし、こうした通説が誤りだったことを『吉田 茂書翰(しょかん)』(中央公論社 1994年刊行、加えて『吉田 茂書翰 追補』吉田茂国際基金 2011年刊行)が見事に証明している。
女子学習院の同窓会組織である「常盤(ときわ)会」会長で東宮御教育参与を務めていた松平信子(1886-1969)が、皇太子妃は旧皇族または華族から選ぶべきだと主張、愛国団体を動かしての御婚儀反対工作を行うまでしながら、正田美智子(1934-)との結婚に反対していた。
不思議なことに、この吉田の手紙は、天皇皇后両陛下の軽井沢テニスコートでの「初めての出会い」があった1957年8月19日より4年も前に書かれている。つまり、4年前の時点で既に小泉と松平の対立があったことを明確に示している。
旧皇族や華族以外からも皇太子妃の候補を挙げるという路線が決まっていたのだろうか。いやむしろ、この手紙が書かれた1953年10月4日の時点で、皇太子妃候補が或る程度絞られていたと考えるべきだろう。
吉田 茂と小泉信三と松平信子の3名は、間違いなくこの対立を知っていた。吉田からすると、「何故か松平信子に情報が漏れていた」といった感じだったのかも知れない。10日に一度くらいの割合で吉田に会っていた昭和天皇も、当然、知っていたであろう。
何とも不思議な『吉田 茂書翰』はまだ続く。(中略)北白川宮家側に常盤会会長の松平信子や娘の秩父宮妃勢津子(松平節子 1909-1995)がいたことが、この手紙から明らかになる。
吉田自らがこれだけ慌しく動いているところを見ると、恐らく吉田が北白川宮家を訪問した5月2日前後には、皇太子妃が正田美智子に絞られていたと推測される。そして、この3カ月後に、現在の天皇皇后両陛下は軽井沢で「出会う」ことになる。
結局、それは偶然でも運命でもなく、予(あらかじ)め吉田や小泉は、皇太子妃最有力候補として正田美智子に絞り込み、「テニスコートの恋」のシナリオが綿密に描かれていたのだ。新聞各紙の中で『吉田 茂書翰』にある小泉信三宛手紙の不思議に気付いて、内容まで紹介していたのは読売新聞だけである。それ(読売)にしても、軽井沢での「運命の日」以前であることの重要性については何一つ言及していない。
三谷隆信宛の手紙に到っては、内容まで紹介した記事は全く無い。数多い研究者も含めて、吉田 茂が皇太子妃選びにまで関与していたことをこれまで見過ごしてきたのだ。
こうしてシナリオ通りに事が進んでいく中で、もはや北白川宮家側が入り込む余地は無かった。それでも「悲劇の宮家」返上を目指す北白川宮家の情念は凄まじかった。小泉側に牧野伸顕(まきの のぶあき 1861-1949)の娘婿の吉田がいることに気付いた北白川宮家側は、巻き返しを狙って牧野伸顕の長男・牧野伸通(1889-1941)の夫人で、常盤会の重鎮でもあった牧野純子(1900-1990)を巻き込む。
昭和天皇が父のように慕った牧野伸顕の家を2つに引き裂きながら、北白川宮家から皇太子妃を誕生させようと最後の最後まで粘りに粘る。しかし、吉田や小泉らが描いた見事なまでのシナリオに屈する。(中略)
さて、政略結婚に向けたドラマの幕開きとして選ばれたこの軽井沢に別荘第1号を建て、「避暑地・軽井沢の祖」と言われているのは誰だろう。それは、小泉が塾長を務めた慶應義塾の創設者・福澤諭吉(1835-1901)〔※『持丸長者 幕末・維新篇』より【系図4―福沢諭吉の閨閥】〕の27年間に亘(わた)る友人であったアレキサンダー・クロフト・ショー Alexandar Croft Shaw(1846-1902)である。旧軽井沢の一角には軽井沢最古のキリスト教教会として復元された「日本聖公会ショー記念礼拝堂」が、カラマツ林に囲まれてひっそりと佇(たたず)んでいる。
■軽井沢での一日を再現する
(中略)そして、皇室会議は全員一致で可決する。この決定を受け、直後に正田美智子の記者会見が行われた。その翌日、11月28日の朝に届けられた朝日新聞に一大スクープ写真が掲載される。軽井沢親善テニストーナメントで皇太子ペアが1本取られて皇太子が苦笑いしている様子が写されていた。
この写真は、濱尾 実(はまお みのる 1925-2006)の隣で観戦していた人物が撮影したものだ。そして、この人物は皇室会議にも出席していたはずである。何故なら、最高裁判所長官は皇室会議の構成員だからだ。現在の天皇皇后両陛下の「初めての出会い」の決定的瞬間を撮影したのは、当時の最高裁長官にして、皇太子の憲法の御進講係も務めていた田中耕太郎(1890-1974、―MRA)であった。この田中も新渡戸稲造の門下生である。
濱尾は、皇太子ペアと美智子ペアの対戦は全くの偶然だったと回想しているが、これまで見てきたように、予(あらかじ)め緻密なシナリオが用意されていた。濱尾さえも知らされていなかった、或いは、濱尾は全て知りながらも「偶然」と言い通したのであろう。
しかも、田中も濱尾も敬虔なカトリックだった。実は濱尾家こそが、吉田 茂をカトリックへと導いたのだ。
■東宮侍従、セバスチャン濱尾 実
濱尾 実(はまお みのる 1925-2006)は1948(昭和23)年に東京大学工学部応用化学科を卒業。東洋化学を経て、1951年1月から1971年4月までの20年間を東宮侍従として仕えた。退官後は美智子妃も卒業された聖心女子学院の教諭や長野県岡谷市の聖母幼稚園園長を務めるなどしながら、教育評論家として講演や執筆活動に活躍。テレビの皇室関連番組にも出演している。2006(平成18)年10月に死去。追悼ミサは千代田区麹町(こうじまち)の聖イグナチオ教会で行われている。
濱尾の侍従就任の背景には、濱尾家と皇室の深い縁があった。濱尾 実の母方の祖父は濱尾 新(はまお あらた 1849-1925)、父方の祖父は加藤弘之(1836-1916)、何れも東大総長を務めたことがある。濱尾 新は東郷平八郎(1848-1934)総裁の下で昭和天皇の御学問副総裁と東宮大夫も務めていた。父は推理作家の濱尾四郎(1896-1935)。しかし、実が10歳の時に脳出血で死亡し、母は朝香宮妃千賀子(あさかのみやひちかこ 藤堂千賀子 1921-1952)のお付きをしながら女手一つで家族を支えた。
こうしたことから、濱尾は東宮侍従にと声を掛けられることになるが、気にしたのは自身の信仰の問題であった。声が掛かった時既に敬虔なカトリック信徒になっていたからだ。
濱尾の母は第2次世界大戦 WWⅡ(1939~1945)中に軍国主義下での冷遇に屈せず、心の糧を求めて洗礼を受けたと言う。この母に連れられて下北沢の教会に通っているうちに、神父の人柄に惹かれ、実も自ら願い出て洗礼を受ける。洗礼を受けたのは1946(昭和21)年のクリスマス。大学2年の時だった。洗礼名はセバスチャンである。
濱尾によれば、宮内庁は「クリスチャンでも構わない」と言ってきたようだ。また、「宮内庁と言うと、神道を思い浮べる人が多いでしょうが、宗教的には大変寛容なところがあり、私以前にも、カトリック信者がお仕えしていた前例があります」と書いている。その前例として、昭和天皇の御学問所の先生の名前を挙げている。昭和天皇のバチカン訪問にも随行した海軍少将・山本信次郎(1877-1942、山本 正の父)である。
■枢機卿、ステファノ濱尾文郎
濱尾 実は、著書『皇太子さま雅子さまへのメッセージ』(新潮社 1993年刊行)の中で、「弟はその後、バチカンに渡って11年間勉強し、向こうにいる間に司祭になりました。(中略)私の家内も信者で、子供は息子が1人、娘が4人いますが、三番目の娘はシスターになって、調布市内にあるカルメル会という修道院で神様にお仕えしています」と書いている。
濱尾 実が洗礼を受けたのは1946年のクリスマス、この時、実弟の濱尾文郎(はまお ふみお 1930-2007)も一緒に洗礼を受けていた。洗礼名はステファノと言う。文郎はこの時16歳。終戦後の混乱の中、一時は共産主義とキリスト教の間を揺れ動いたが、「困っている人を助けたかった。それにはキリスト教の教えのほうが現実的と思えた」と、兄と共に洗礼を受けたのである。
GHQ発給の旅券で海を渡ってローマに留学、ウルバノ大学 Pontificia Università Urbaniana(1627年創立)とグレゴリアン大学 Pontificia Università Gregoriana(1551年創立)に学んだ濱尾文郎は、帰国後東京教区補佐司教を経て、横浜教区教区長、日本カトリック司教協議会会長を務める。
そして、1998(平成10)年に、東アジアの司教として初めてバチカンの閣僚級ポストである移住・移動者司牧評議会議長に就任(2006年3月定年により退任)、同時に大司教となる。更に、2003年10月には、ペトロ土井辰雄(1892-1970、1960年任命)、パウロ田口芳五郎(たぐち よしごろう 1902-1978、1973年任命)、ヨゼフ里脇浅次郎(さとわき あさじろう 1904-1996、1979年任命)、ペドロ白柳誠一(1928-2009、1994年任命)に次いで、日本人として5人目の枢機卿(すうききょう)に任命されている。
枢機卿とはカトリック教会で法王に次ぐ地位の聖職者で、法王を選出する資格を持っている。2005年4月に死去したヨハネ・パウロ2世 Ioannes Paulus PP. II(Karol Józef Wojtyła 1920-2005、ローマ教皇在位:1978~2005)の後継者を決めるローマ教皇選出会議「コンクラーヴェ Conclave」には、80歳未満の枢機卿115人が参加しているが、この中に白柳と濱尾の日本人2名も含まれていた。濱尾文郎は、よど号(JAL351便)ハイジャック事件(1970年)の際、乗客として巻き込まれたこともある〔※関連資料(1)〕。そして、2007(平成19)年11月死去。
この濱尾文郎から洗礼を受けたのが、吉田 茂だったのだ。
■ヨゼフ・トマス・モア吉田 茂
吉田 茂の妻・雪子(牧野雪子 1861-1949)〔※関連資料(1・2・3)〕は、西郷隆盛(1828-1877)〔※関連資料(1・2)〕と共に薩摩の両雄として知られる大久保利通(おおくぼ としみち 1830-1878)の次男として生まれ、牧野家の養子になっていた牧野伸顕の長女である。この雪子が熱心なカトリック信徒であった。牧野雪子が吉田の戸籍に妻として入籍したのは1909(明治42)年3月10日。(中略)
吉田は1931(昭和6)年に駐イタリア大使を命じられる。このイタリア時代に、雪子は「黙想の家」における祈りの集会にしばしば出席しながら聖心侍女修道会と親交を結んだ。雪子は日本にカトリックの教育機関が少ないことを語りながら、聖心侍女の来日を提言する。1934年11月に日本の地に降り立った4人の聖心侍女の援助の為に奔走(ほんそう)したのは雪子である。雪子の願いは今日の清泉女子大学(1938年創立・1950年大学設置)や長野清泉女学院(清泉寮学院として1935年創立)などの創設となって実を結んでいる。
しかし、真珠湾攻撃(1941年12月8日)〔※≪堤 未果 著『ルポ 貧困大国』『アメリカから<自由>が消える』 より一部抜粋、要約(11)≫本文及び添付資料を参照〕の2カ月前の1941年10月7日、雪子は乳癌(喉頭癌の説もあり)の為、53歳の若さで亡くなる。葬儀ミサは東京カテドラル聖マリア会堂で執り行われた。ミサでは吉田が、周囲を憚(はばか)ることなくボロボロと涙を零(こぼ)していたと言う。
ミサが終わると、父・牧野伸顕がジョゼフ・グリュー Joseph Clark Grew(1880-1965)〔※John Pierpont Morgan(1837-1913)の従兄弟。『赤い楯』より【系図9】及び関連資料(1・2・3)〕駐日米国大使とその夫人アリスに歩み寄り、丁重に謝意を表した。アリス・グリュー Alice de Vermandois Perry Grew(1883-1959)〔※母はリリー・キャボット・ペリー Lilla Cabot Perry(1848-1933)。奴隷貿易・麻薬貿易業者キャボット Cabot Corporation 一族の出身。関連資料(1・2)〕にとって雪子は一番親しい日本人だった〔※一考察として関連資料(1)〕。
ガソリン規制の為に個人用乗用車が使えなかった当時、アリスは週に2、3回、吉田とその娘・和子(1915-1996)の為に米国大使館の車をさし回していた。米国の車を利用することに批判もあったが、吉田は全く気にしなかった。アリスは友人として雪子に出来ることは全てした。最後の何週間かは、グリュー夫妻が持ってきたスープで何とか生きているに近い状態だったと言う。
日米衝突の危機が目前に迫る中、グルー夫妻と牧野・吉田一家の関係は外交的節度を超えていた。(中略)
吉田が回想録『回想十年〈第1巻~第4巻〉』(新潮社 1957年刊行)〔※≪吉田祐二 著『日銀―円の王権』 より一部抜粋、要約(11)≫を参照〕を書き終えたのは、序文によれば昭和32年春とある。この年、吉田は79歳を迎えた。カトリックになることを考え始めた頃なのかも知れない。吉田の三女・和子は「亡くなった母も私もカトリックでしたから、父も最後には洗礼を受けると約束していました」と書いている。
約束通り、吉田は死の直後にステファノ濱尾文郎から洗礼を受けた。洗礼名はヨゼフ・トマス・モア。吉田の葬儀は故人の信仰に従った文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂での内葬と、千代田区北の丸公園の日本武道館で行われた戦後初の国葬とに分けられた。(中略)
吉田は東京カテドラル聖マリア大聖堂の建設にも大きく関わっていた。雪子の葬儀ミサが営まれた東京カテドラル聖マリア会堂は戦災で焼失し、その再建の為に募金後援会が組織され、吉田はその会長を引き受けた。副会長には、田中耕太郎(1890-1974、―MRA)の代父の下でカトリックに改宗した堀江薫雄(ほりえ しげお 1903-2000、横浜正金銀行→東京銀行→東京三菱UFJ)、それに「財界総理」こと石坂泰三(いしざか たいぞう 1886-1975、―MRA)が就いた。石坂もまた、新渡戸稲造の門下生である。
これがきっかけと思われるが、堀江はローマ教皇から二等勲章セント・グレゴリー、吉田もまた未信者としては最高の勲章をローマ教皇から一緒に授けられた。この時、吉田は「これで私も天国へ行けるだろうね」と語ったと言う。
副会長の石坂の妻の名も雪子(織田雪子 -)と言い、カトリック信徒としてマリアの洗礼名を受けていた。そして、石坂自身も、最期の病床で意識不明になる直前にカトリックの洗礼を受けたのである。
昭和天皇在位中の1964年4月、この吉田と石坂と小泉信三(1888-1966)と、新渡戸の愛弟子・田島道治(たじま みちじ 1885-1968)の4名が初代宮内庁参与に就任している。宮内庁参与とは、皇室の重要事項について天皇皇后両陛下に助言する役目を負う。日本のクリスチャン人脈の権化とも言える4名が揃って就任したことが、全てを物語っている。
(2頁へ続く)
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