昔の民族派学生運動の仲間が結集しました。三島事件から41年。その前ですから、45年ぶりに会う人もいます。
「楯の会」、日学同(日本学生同盟)、全国学協、生学連(生長の家学生部)…などで活躍した人たちです。今も、各分野で活躍しています。テレビ局に入った人、政治家になった人、作家になった人、事業を起こした人。…と、様々です。全国から元「活動家」たちが「東北の小京都」角館に集結したのです。
10月9日(日)、角館で、「阿部勉大兄十三回忌法要」が行われました。阿部氏は、「楯の会」一期生です。その前は日学同でした。三島事件後は、一水会創設に係わった人です。その阿部氏が亡くなって丸12年です。
私は東京発午前9時50分の秋田新幹線に乗りました。東京からも多くの人が乗ってました。角館には1時20分着。3時間半です。2時から龍厳寺に行きました。
そこで墓前に参拝し、お寺で法要です。秋田市に住む、伊藤邦典氏(元「楯の会」)や角館の人たちが中心になってお世話をしてくれました。
このお寺にも何回か私は来ています。ご住職さん、そして札幌から田中清元和尚も駆け付けてくれました。ご住職さんが田中さんのことを「老師」と呼んでました。60ちょっとなのに、すでに「老師」か。
田中さんは学生時代からの阿部氏の友人で、亡くなる直前に札幌に来てもらい講演会をしてもらいました。
そうだ。その時のテープが流れました。法要の後の、「偲ぶ会」の時に。場所を移して行われた「偲ぶ会」で、札幌での阿部氏の肉声が流れます。それから、参列者の挨拶がありました。
阿部勉氏は子供の頃、お父さんを亡くし、教師だったお母さんに育てられました。そのお母さんも、阿部氏が亡くなって3年後に亡くなりました。今、角館には、お兄さんが住んでおります。71才です。
この日も、弟の思い出を語ってくれました。正直言って、三島事件の時は、よく分からなかったといいます。又、弟が死んだ時も、全国から右翼の人がドッと駆け付けるし、一体どんな生活をしてたんだ、と驚いたそうです。肉親としてはそう思うでしょう。
「やっと最近になって弟のことを理解できました。偉いことをやったんだと思いました」と語ってくれました。
「楯の会」では三島さんの信頼も厚かったし、東京でも、右翼運動では「阿部勉あり」と言われた。凄い男だったと思います。
でも秋田の角館の人たちから見たら違うのです。「あの神童と呼ばれた男が…」「末は博士から大臣かと思っていたのに…」と考えるのです。「郷土の誇り」だったのです。
それが、変な運動に入り、変な人たちと一緒になって。それに警察だって訪ねてきます。「悪いことをやってんじゃないか」とも思ってしまいます。
肉親にとっては大変だったでしょう。でも、山平重樹氏の『最後の浪人 阿部勉伝』(ジェィズ・恵文社)が出たり、いろんな人が取り上げて書いたり、それを聞いたりで、阿部勉氏のことも、段々と分かってきたようです。
前に、連合赤軍兵士の植垣康博さんのお兄さんの話をここで書きました。「よど号」の柴田さんの葬儀の後、植垣さんと一緒に訪ねたのです。そのお兄さんとも似てました。私の家の兄貴とも似てます。森田必勝さんのお兄さんとも似ています。活動家の弟をもった兄貴の戸惑い、苦悩、責任…などを感じました。
龍厳寺のご住職さんは阿部氏のことを「郷土の誇り」「ヒーローでした」と言ってました。又、同級生もそう言います。当時、阿部氏に家庭教師をしてもらった中学生(元)も、思い出を語ってました。時は1960年代後半。早稲田に入り、学生運動をやっていた阿部氏が夏休みに郷里に帰り、東京の話をしてくれたそうです。東京の騒ぎは、まるで、外国のように思えたそうです。
それに、阿部氏は、小学校、中学校、高校…と、成績はトップ。神童と言われました。野球部でも活躍し、文字通り「ヒーロー」でした。
そして、早稲田の法学部に入ります。「郷土の誇り」です。三島由紀夫の「楯の会」に入り、週刊誌のグラビアにも出る。郷土の英雄です。
ところが70年の三島事件。それ以来、郷里の人々の目は変わった。どう見たらいいか、どう考えたらいいか、分からなかったのでしょう。
又、阿部氏も、「三島さんに置いて行かれた」という気持ちが強く、落ち込みます。酒に浸る日々も多くなります。山平氏の『最後の浪人 阿部勉伝』のサブタイトルは「酒抱きてけふも墜ちなん」です。酒に浸る日々です。もの凄い才能を持った男なのに、勿体ないし、残念だと思いました。
「月刊タイムス」で私は「三島由紀夫と野村秋介の軌跡」を連載しています。今第74回目です。随分、長く続いてます。今月号(11月号)は、阿部勉氏のことを書きました。タイトルは、こうです。
〈三島が最も信頼した阿部勉
=三島・森田の死を今も乗り越えられない元「楯の会」会員の煩悶=〉
ここでも書きましたが、学生時代から、同じ東北人だということで、分かり合えるとこがありました。何かホッとするんですね。爽やかな青年でした。
彼は日学同から「楯の会」に入ります。私は、生学連から全国学協に。しかし、活動家としては無能だったために、全国学協からパージされ、郷里の仙台に戻ります。
そして、1970年の春、縁があって、産経新聞に入社。久しぶりに上京し、アパートを探さなくちゃと思って、何故か、渋谷をブラついていたんです。
その時、バッタリと阿部勉氏と会ったんです。あの出会いがその後の私の運命を決めました。あの出会いがなければ、一水会もなかったでしょう。
これからアパートを探すんだ、と言ったら、「じゃ、それまで、家にいたら」と言ってくれたんです。それで、その日から居候しました。高田馬場で、六畳二間で、同じ「楯の会」の福田俊作氏と住んでました。そこに3人で住むことになり、私は、そこから産経に通いました。
ところが半年後に三島事件です。そこは「楯の会」の溜まり場ですから、マスコミは押し寄せる、警察は来るで大変でした。私も慌てて、落合にアパートを借りて、引っ越しました。
その後、阿部氏を中心に、昔の運動仲間が集まり、「一水会」を作ります。名前は阿部氏が付けました。その後阿部氏が借りたアパートを一水会の事務局にしました。
だから、本当は一水会を作ったのは阿部氏なのです。私はただ「先輩だから」と阿部氏が立ててくれたんです。
三島事件の前、6ヶ月、同居してたのでよく分かりますが、阿部氏はとても真面目で、勤勉です。いつも正座して、吉田松陰の本などを読んでました。学生を集めて、「七規七則」などを講義してました。
又、近所の子供や、スナックのお姉ちゃん相手に習字を教えていました。飄々として、ジョージ秋山の「はぐれ雲」のようなとこがありましたが、アパートの中では、勉強ばかりしてました。
私が産経を辞めてから、『青年群像』の編集をやってた頃、阿部氏が、その頃の日記を載せてくれました。
そこには、休みの日の記述として、「鈴木さんはヤクザ映画を見に行く。僕は勉強」という箇所があって、はっきりと覚えています。
産経に入って、随分と本を読んでたつもりですが、阿部氏の目からはまだまだ甘いと思えたのでしょう。映画に行ったり、遊びに行ったりする私だけが印象に残ったのでしょう。
その日記も探して、どこかに発表したいですね。
そうだ。偲ぶ会には、元「週刊SPA!」の河井さんも来てくれました。今は他の新聞社に移って秋田市勤務です。この河井氏のおかげで私は「夕刻のコペルニクス」の連載を続けられました。
あの連載は単行本3冊、文庫本2冊にまとまってます。私の本では最も売れたものです。今でも、「夕コペを読んでました」という人によく会います。うーん、あれしかないのか、とも思う。
そうだ。河井さんと、その当時を思い出してトークをしてもいいな。秋田市で。誰も集まらなくてもいいや。2人だけでやって、それをこのHPに載せてもいい。そうだ。司会は伊藤邦典氏に頼もう。
阿部氏の「偲ぶ会」でも邦典氏の話をしました。私が最も早くからの知り合いです。阿部氏とは大学生からですが、邦典氏とは私が小学校2年の時からです。
私は父親が税務署だったので、福島、秋田を転々としてました。小学校2、3年の時、秋田市にいて、近くに伊藤邦典氏一家がおりました。邦典氏のお父さんは国鉄に勤めていましたが、「生長の家」の地方講師でもありました。
その先生が、私の母親の病気を治してくれたのです。それ以来、母は「生長の家」に入り、その影響で私も、生長の家学生道場に入り、やがて、右派の学生運動に入ることになります。だから、全ての原点は秋田です。
そのあと、邦典氏も、学生道場に入ります。「楯の会」の持丸氏がよく遊びに来ていて、「あの目の輝いてる学生がいい。楯の会にくれ」と言いました。
「いいよ。あげる」と言って、邦典氏は「楯の会」に。神奈川大学で、古賀、小賀氏を「楯の会」に誘います。その2人が、70年の三島事件の時に、市ヶ谷に行きました。
だから、三島事件の遠因も秋田にあります。そんな話を「偲ぶ会」でしました。秋田の他、横手、湯沢に私はいましたが、秋田での生活が、私の少年時代を作ったのです。この頃だけを思い出して、詳しく書いてみたいですね。
その前に、元「SPA!」の河井さんとも話をしなくっちゃ。邦典氏とも、ちゃんと思い出して話をしなくっちゃ。
そうだ。邦典氏のお嫁さんも、法要、偲ぶ会に来てました。受付をしてました。このお嫁さんも昔は生学連の活動家だったんです。
生学連の集まりの時、「夏休みに秋田の親類の所へ行く」と言ってました。それで邦典氏を呼んで、「こいつは秋田だから、一緒に帰れば」と言いました。
この頃から、その場の思いつきで、いい加減なことを言ってたようですね、この人は。私です。生学連の書記長でした。
それで、無理矢理2人を一緒に帰らせたんですな。夜汽車で。そしたら、愛が生まれ、結婚したんですわ。だから、私が結婚をお世話したんです。
「邦典を楯の会にほしい」と言った持丸博氏は「楯の会」初代学生長でした。その持丸氏を生学連の合宿に誘ったら、来てくれました。東京家政学院の活発な女の子がいたので、「この子、学内で活発に運動してるんだよ」と芳子さんを紹介したんです。
そしたら、この2人も恋に落ちて、結婚してしまいました。奥さんは松浦芳子さんで、今は杉並区議として大活躍をしています。本も出してます。
だから、多くの人々を結びつけ、活躍の場を提供してたんですな。この人は。本人はずっと沈みっぱなしですけど…。
でも、今年の夏は挑戦しましたからね。イルカと泳いできたし。だからもう今年は終わりです、と思ったんですが、まだまだ忙しい。少しのんびりしたいですね。当分、本も出ないでしょうし。
①元気な頃の阿部勉氏です。カッコよかったですね。よく和服も着てました。キマってました。ところで右の人は誰でしょうか。見たような気もしますが、分かりません。でも、これは何かのパーティでしょうね。そこに、セーターじゃ、失礼ですよね。
⑪10月10日(月)、代官山。「山羊に聞く?」。金子遊監督の映画を見たあとで、トークをしました。白井基夫さん(週刊金曜日)、白井聡さん(多摩美術大講師)。白井聡さんはレーニンの本を何冊も出してます。椎野レーニンさんに会わせようと思ったのに、この日は欠席。残念でした。
⑫祈祷師びびこさん。ラジオで活躍しています。皆、心で思ってることをズバズバと当てられました。驚きました。白井基夫さんが「女装写真」を見せたら、ズバリ。「こんなのは女装と言わないわよ! 仮装よ!」。凄い、と思いました。