蝉しぐれのいわゆる読書感想文を書いてみる。普段本など読まない僕だが、これは課題なのだ。1年の時の再履。下書きのつもりでここに書くことにした。
とっくに提出期限は切れていて、期限には厳しい先生なので受け取ってもらえるか大いに不安なのが、やれるだけのことはしてみようと思う。
人事を尽くして天命を待てだ。ふむ、大いに意味を履き違えている。
蝉しぐれ。日本の時代小説中のナンバーワンとの呼び声も高い藤沢周作の普及の名作である。そんな日本文学の宝ともいえる作品を前にしてもこんな感想しか残せない自分はなんなんだろうと思ったが、それも又よしとしてもらいたい。
まず、僕は名前こそ聞いたことがある気がするが、この物語はまったく知らなかった。むろん、僕が文学に関心がなく、無知だからとしか言いようがないのだが。
今までも本を読むという習慣がなく、本を読むときにゼロから読み始めるのがいいのかどうか知る由もなかったが、その方がいいのではないかとは感じていた。物語として、先を知っているのは試合結果の分かっているスポーツ観戦するのと同じくらいつまらないものだろう。しかし、今回は読んだ後にこの読書感想文(いわゆるそれと認識してるので、小学生っぽい言い方だがそう呼ぶことにする)を書かねばならないことがわかっていたので、予備知識を得る事にした。インターネットを利用して、他人の読書感想文を読み漁ったのである。
その理由は、一般にどの部分に読者が感銘を受け、どこに着目すべきかどうか知っときたかったからだ。一般の人がどの場所でどのように感じたかを理解してれば、そこについて自分はどう思うか、こうではないのか、なんという思考を巡らせれば、容易にそれなりの文章がかける。ここが重要とわかれば細かいところに着目しながら書ける。そう思った。一般的でいい。先入観から自分独自の感想がつぶされてしまう可能性があることは承知していた。それでも、自分の感性、自分で感じ取れるものだけで書ける自信がなかったのだ。
おそらく僕の感想もそういう形になってしまうのだと思う。
これはいい事か悪い事かは僕には判断しかねるが、少なくとも純粋に文学を楽しむことを捨ててしまっている。概して、読書感想文を書けと事前に知らせる事はこういう危険をはらんでいるものと思う。よく小学校では読書感想文などの宿題が出ると聞くのだが、教員はこのことを理解しているのだろうか。そんな事を思いながら本を開いたのだが、名作の前にそんな邪念は無となった。純粋に楽しみ、次のページへと急む自分がいた。
このことは物語り自体の感想とは関係ないので、ここで読み終えた今の判断をしておこうと思う。結論としては、、よくわからない。程度の問題だろうと思う。ただ僕は後悔していない。
確かにあらましはある程度把握していたが、どれもそれほど詳しく書かれているわけじゃなし、後半部分はほぼ知らなかったので、先が見えない楽しさを阻害するほどではなかったと思う。他者の感想部分を重点的に見回っていたのあるかもしれない。とはいえ、あくまで主観である。主人公の父が死罪になるのは、予め知っていたので、そのつもりで読み進めていった分、流れが読みやすかったのだが、もしかしたら状況が分からない不安とそれを知ったときの衝撃を楽しみ損ねているのかもしれない。他にももっと損ねている部分があるのかもしれない。
ただ、これから僕が書こうとしている感想文は読まない方がいいとは思う。さすがに。
それでも、時代も違うこの話をこれほど流れを理解して読めたのは、僕の中では意外なほどだった。過去の数少ない経験では、流れをつかみきれず、ピンと来ないまま読み進めていまいち楽しめない事が多かったのだ。僕の知識のバックグランドが異様に狭いというのもあるかもしれない。ただ読みやすかったのは蝉しぐれだからと言われれば、比較できる他のものが少ない僕には何も言えないのだが。
江戸がどういう時代か、刀を振りかざすのはどういうことかを解説していた感想文もあったのだが、その事を理解していたことは大きいように思う。それがなければ、主人公が当時藩の頭首に刀を抜いたシーンで身の毛が逆立つ思いをしなかったかもしれないのだ。多く本を読んでる者にはそれが理解できても、まだ未熟な者には予備知識を入れないと分からないことも多い。話を読み解く力や時代背景の知識は一長一短に身につくものではないが、浅くとも手っ取り早く知るには、他者の感想文を読んでおくのも一つの手であると思う。
これをよしとするのか。こういう判断は多くの比較検証により真偽の結論がでるのだと思う。比較できるほどの対象がない僕では判断しきれない。楽しむ要素が変わってくる節もある。個人の好みといえばそうかもしれない。ぜひ、他人の意見が聞きたいところだ。
物語をざっと降りかえりながら、個々に感想を入れて行こう思う。全体的にパッとしない無粋な書き方だとは思うが、振り返りその余韻と回想に浸りたい気分なので勘弁していただきたい。実はさっき読み終えたばかりなのだ。
時は江戸。主人公は名を文四郎と言う。歳は十五である。
全体を通じて感じる事だが、僕らの十五とはわけが違う。ふむ、僕らと言うと御幣があるやも知れんので、僕としておこうか。物語のメインは十五から十九にかけて展開される。つまりは僕らと同年代の主人公が歩む道筋であるけど、その心持は僕よりはるか上だ。時代が違うので当然と言えば当然である。十五で元服する時代。文四郎も十九で結婚している。当初そのことをままごとみたいと、本人も感じたところで安心と言うか十九であることを感じさせたのだが、やはり親のすねをかじり、ぬるい生活をしている僕にはできない覚悟と強さがある。
実のところ、節々で、僕でもそうするだけの強さはある、だなんて文四郎に対する嫉妬心からか思っていたのだけど、実際できないだろうな。なんせ、本を開いてるだけで泣きまくってるくらいだから。
文四郎に期待するものや担わせるものの大きさが違う。やはり社会が人を大人にしていくのだろう。人は生まれたときから社会で生きるように生まれてくる。赤ちゃんの頃から、母の目を見ている。そして、敏感に世間の目を感じるようになる。
なのに、「今の若者は子供過ぎる」なんて他人事のようにニュースゲストが呑気にほざいている現代社会はいかがなもんか。若者の僕からすればそれは楽で歓迎してしまうもんだが、僕らはあなた方の作る社会に準じて生きてるんだぜ?親や教師に押し付けてる場合じゃないよ、あんた。
物語の前半は人物関係や構成のバックグランドに当てられている。どの物語もそうだと思うが。
親友との関係もあるが、文四郎と敵対関係にある人物をはっきりさせてるところが、僕の読解力でも素直に読めた要因の一つでだろうと思う。そして、何より大事で話の軸となる隣家の娘、ふくとの出来事になる。
僕には予備知識として、ふくの淡い恋愛話と聞いていたが、前半部分そんな感じはあまり感じなかった。確かにお互い好意を寄せていたのは伝わってくるが、それほど目を見張るものでもなかったし、実際恋愛と呼べるものではないと思う。これは終始自身も語る文四郎の感覚と同じで、ふくはこのときまだ十二。文四郎自身、恋愛対象ではなく子供として捉えていたはず。文四郎が自身を偽って、そう思うことで無意識に心を直視しないようにしていたとも考えられるが、いや、話が進むにつれてその要素が濃くなっていくが、少なくともこのときは8割方、正直なところだったのだと思う。何より僕がその感覚になるだろう事をぬぐえない。
時代が違うので、文四郎の感覚よりそれは大きい。12と言えば子供も子供だ。小学生である。僕の中では中学生といえど、ガキっというイメージがある。実際のところ女性はそうではないのかも知れないが、僕の中学生っぷりがあまりにガキんちょだったので、どうしてもそんな感覚が先行する。ふくは15で身ごもる。そもそもそれがピンとこない。現代人なら誰もがそうだろうと思う。
僕は権力争いに巻き込まれ、いやおう無しに振り回されても強く生きる生き様のような要素ばかりを感じていたのだが、これがどんなに恋愛要素が濃かったのかを思い知ったのは、最後の最後。四十になった文四郎とふくとの最後の再会のときである。僕は相変わらずこういうところには疎い。むろん、お互いが意識し合い、結ばれる事を望んでいた事はわかっていたが、あくまで話の一環と言うか、むしろ、どうにもならない境遇に目を向ける事のほうが多く、そっちの方面で人物に激しく感情移入したのは最後だけだ。これほど強い思いだとは分からなかった。
身分を優先する時代。更に気持ちに素直でない彼らたちだし、お互い諦めがついているので、最後にお互い微笑で一言二言言って終わるものと思ったのだ。まさかね。あんな・・。
長くなる予感なので分けた。これで受け取ってもらえなかったら泣ける。