◆平和願い わが子に「憲」
戦後の平和憲法を、誕生したわが子同様に大切に思う証しに、「憲」の字を子どもの名前に付けた親は多かった。憲法施行を二日後に控えた一九四七年五月一日。浜松市中区で産声を上げた山口文憲(ふみのり)さん(67)の父親も、その一人だった。文憲さんは集団的自衛権の行使をめぐり解釈改憲にさらされる憲法の今を危ぶんでいる。
文憲さんは「読ませる技術」などの著書がある東京在住の作家。静岡大名誉教授を務め、二〇〇一年に八十九歳で亡くなった父親の文太郎さんは戦時中、浜松高等工業学校(静岡大工学部の前身)に化学の教員として東京から赴任した。戦争に召集はされなかったが、教え子をたくさん戦場に送り出したことを、ずっと悔やんだ。
一九四六年十一月三日。平和憲法の公布にあたり、昭和天皇は、新憲法を国民と正しく運用し、自由と平和を愛する文化国家の建設に努める−との趣旨の勅語を述べている。文太郎さんは文憲さんの「文」は、この「文化国家」からとったと文憲さんに明かした。
文憲さんが浜松北高を卒業した六六年は「憲」がつく同級生が七人、その前年も七人いた。「戦後を担うわが子に願いを込めた」と文憲さん。
戦中は「勝子」「勝利」が多かった。現実は勝ち戦どころか戦禍にまみれた。文太郎さんが出張先の東京から浜松に戻ると空襲が始まり、駅前の防空壕(ごう)に駆け込むと「いっぱいだ」と追い出された経験がある。直後、爆弾が直撃し、壕の全員が即死。文憲さんは「身内が戦死した家がたくさんあった。だから戦争体験を直接受け継いできた七十代以上は『戦争まっぴら』の思いが強い」と話す。
文憲さんが生まれた四七年、皇居前広場で開かれた憲法の施行式典で、「天皇陛下、万歳」と叫ぶ国民が、昭和天皇とともに平和憲法を歓迎した。子どもたちに、戦争で身内を亡くした悲しみを言い伝えた世代だ。
文憲さんは、平和憲法をもっとも歓迎し、平和を言い伝えているのは天皇家ではないかと思っている。「陛下は『私はどうなってもいい。国民を助けてほしい』とマッカーサーに頭を下げた。つまらない軍国主義者の口車に乗せられ、二千年続く天皇家が絶えるところだった」と話す。
集団的自衛権の行使容認を急ぐ現政権には、こう言いたいという。
「陛下が命懸けでくださった九条を変え、ほかの国と同じ戦争ができる『普通の国』にするのでしょうか。『九条を持つ日本は特別な国だ』と、むしろ『普通の国』を見下すべきです」
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