二十五日の土曜日に、大阪で満州の方の話しを聞く機会があった。期せずしてその日、産経新聞で、「父たちの満州、『建国』から80年」の連載が始まっていた。
数年前、中共がウイグルに対して強圧的弾圧を開始し、三千人以上のウイグル人を殺戮した時、(その責任者が、この度アメリカに行って大統領と会いニコニコしていた習近平)、 東京で、その中共の武力支配に対する抗議集会が開かれた。 その集会に集まった中共に弾圧されている各民族は、もちろん、ウイグルを筆頭に、チベットそしてモンゴルであるが、そこに満州も加わっていた。 満州、マンチュリアンの参加を知ったとき、驚きまた新鮮な思いがすると共に、それが、戦後の日本の歴史教育の欠落に由来する驚きであることを感じた。 何故なら、戦後日本では、満州を満州として教えず、中華人民共和国(中共)の東北部として教え、そこを日本が侵略したとしか教えないからだ。 戦後日本では、日本は満州をすばらしい農業と工業の盛んな豊かな大地にした、満州国が建設されてから、満州では鍵をかけずに家を空けても安全になった、とは教えない。 従って、我々が再び、満州を自覚することは、中共を知ると共に、日本の歴史を回復することでもある。 その意味で、産経新聞の「父たちの満州」連載は、封印された歴史の扉を開く大変有意義な企画だ。
そもそも、万里の長城は何の為に築かれたのか。 これを正確に教えられないのが我が国の戦後教育である。 現在、児童生徒には、万里の長城は北の騎馬民族が南に侵入してくるのを防ぐために造られたと教えられている。 しかし、これでは、万里の長城が、北の満州族によって建てられた王朝である清朝によって強化され補強されたことを説明できない。 万里の長城は、南のイナゴのような支那人が、満州族の故地である満州に北上して雪崩れ込んでこないように築かれたのだ。 つまり、北が南に侵入するのを防ぐのではなく、南が北に侵入するのを防ぐのが、万里の長城だ。我が国で教えているのとは、反対だ。
(ちなみに、今のアセアン諸国では、中共の問題を「南下問題」と呼ぶ。つまり、支那人が、金と不道徳を持って南に降りてきて地域に利権の根を張ってゆくゆゆしき事態のことをアセアンでは南下問題といっている) これが分かれば、中共のウイグル弾圧反対の東京集会に、満州族が参加していたことも分かる。 即ち、チベットやウイグルやモンゴルが支那ではないように、満州も支那ではない。 そして、チベットやウイグルに中共が武力侵攻してそこを奪ったように、満州も中共に奪われた。 満州は、中共の東北部ではなく満州である。 満州を侵略したのは、日本ではなく、中共である。 土曜日に話しをしてくれた満州の方は、日本に住んでおられる。印象に残ったことを記しておきたい。 我が家は、奉天に住んでいました。 私の祖母が、一番嫌ったのが支那人でした。その次に嫌ったのが朝鮮人でした。 私も、中華料理は嫌いで、何時も自分で満州の料理を造って食べています。 中共の支配によって、満州語を語る人が少なくなりました。このままでは、もうすぐ、満州語がなくなってしまいます。
現在、満州やモンゴルの歴史研究の第一人者は、和歌山県出身で京都大学に学んだ宮脇淳子氏だと思うが、先日、彼女と話しをすると、日本の大学で、この分野の講座を設けるところがなく、大学で教鞭を執る機会がないということだった。
しかし、振り返れば、古代からの我が国と大陸との交流として、学校では、ただ遣隋使や遣唐使を教えるだけであるが、 その北の満州や渤海との交流こそ、古く根深いものがあり、日本人のフロンティアの心を揺さぶってきたのではないか。 源義経が、樺太から沿海州に渡りジンギスカンになったというような伝説が今に伝わること自体、その方面への日本の夢・あこがれを前提にしているのだと思う。 そして、この伝統を基にして、昭和七年からの満州国建設があり、そこが一挙に秩序が保たれた豊かな大地に変貌していくことになる。 昭和十一年二月二十六日の2・26事件直前に、日本特派員を命ぜられたル・モンド誌記者のロベルト・ギランは、ヨーロッパからシベリア鉄道を経て満州に入り日本へ来た。 彼は、シベリアと満州の国境の街、満州里に入ったとき、文明の世界に戻ったと感じる。何故なら、そこには秩序があり、ル・モンドもワシントンポストもニューヨークタイムズも読めたからである。 また、ナチスドイツがポーランドに侵攻し、全ヨーロッパを席巻した時、ヨーロッパのユダヤ人の多くが目指したところは、シベリア鉄道を経て満州に入ることだった。 昭和十七年に、七歳の時、両親に連れられてシベリアから満州に入り、日本海を渡って敦賀に上陸し神戸に来た婦人に、二年前エルサレムで会った。彼女は、満州に入ってからの両親の安堵と神戸で日本人から示された親切の数々を涙をにじませて語ってくれた。 つまり、満州国は、当時、ユーラシア大陸で、最も秩序が保たれた地域であり文明の行き渡る地域であったのだ。
満州国建設とその発展の歴史を見直すことは、我が国が、世界に誇る歴史の回復だと思う。 アメリカの大統領、ルーズベルトが、満州への野望を逞しゅうして日本との戦争に入りたいという欲望に駆られた狂人(フーバー大統領回顧録)ではなく、 我が国が大東亜戦争に負けなければ、中華人民共和国は誕生せず、満州国は肥沃な「王道楽土」となり、東アジアの全ての人民の幸せを確保する「大東亜共栄圏」を牽引していただろう。 以上、満州国建設に夢を抱いた、「父たちの満州」に触発されて。
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