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2005-11-26

[]崔真碩・講義

和光大学J301。


崔真碩(ちぇ・じんそく)。

和光では、杉本ゼミに在籍。

卒業後、韓国大学院に進み、韓国文学研究

現在は帰国し、東京大学大学院博士課程に在籍。

非常勤の講師として津田塾で教壇にも立つ。


講義の内容をざっと言うと、

民族文学(抵抗文学反共文学<政治的>)から

新世代文学(個人の内面、例えば不倫<脱政治的>)を経て、

個から歴史を紡ぐ、つまり政治的なものと脱政治的なものを繋ぐ、韓国文学の今について、

キム・ヨンスの『ニューヨーク製菓店』という短編を軸に、読み解いていく。


日本にいて、韓国文学韓国という国を考える時、

その歴史と共に、近代化のズレを把握しないと、なかなかうまくいかない。

日本が、明治大正昭和と100年ちょっとで、行ってきた近代化を

韓国は、朝鮮戦争後、半世紀にも満たない速さで行おうとしている。

また、韓国はついこの間まで、1992年に金泳三政権誕生するまで軍事政権だったし、

今でも兵役があり、38度線という緊迫した国境も存在する。

歴史との距離感日本とは大きく違う。


70年生れのキム・ヨンスは、学生運動そしてその失敗を経験している。

「新世代作家」と評され登壇し、

初期の頃は主にニヒリズムが込められた「ポストモダニズム」小説に傾倒し、

村上春樹のように、物語を断片化していく(90年代)。

しかし、2002年の自伝的小説で『ニューヨーク製菓店』を収録した

『私がまだ子供だったとき』で、物語回帰していく。


講義は、「明り」という表現をキーワードに、

ニューヨーク製菓店』を読み進めていく。


ニューヨーク製菓店はつぶれる。

「明り」は消される。

しかし、ただ見えるものだけが全部ではない。

心に残る「明り」=過去は、なお残り続ける。


キム・ヨンスは、個の内面に基づいて歴史を露にしていくのだ。

そしてその表現も、生活の中の風景から、政治的・歴史的なものをささやかに描き出す。

例えば「キレパシ」=「切れハシ」という表現。

カステラの切れハシを指すのですが、パン屋の主人公おやつとして食べていたが、

やがて飽きて、犬の餌になり、ついには犬も飽きて食べなくなってしまう。

パン屋の主人公からしたら、カステラがどんなに高級でも、

切れハシは切れハシでしかなく、いらない物。

周りの友達からすると切れハシもやはりカステラであり、贅沢な物。

このカステラの切れハシこそ、韓国の急激な近代化の歴史の歪みを見事に表す。


駆け足になりましたが、ざっとこんな講義が行われました。

津田塾では一年かけた講読の授業があるらしい。

ちなみに下記が津田塾のHPに掲載されている崔真碩の講義目録の抜粋。

受けたくなること請合い。

講義では、朝鮮近代文学韓国現代文学在日朝鮮人文学を読む。

前期は、「植民地状況のリアリティー」を主題にして、

李光洙(1892〜1950)や李箱(1910〜1937)そして金史良(1914〜?)を中心に

植民地朝鮮文学を読む予定である。

植民地朝鮮文学を通じて、朝鮮近代文学の成立と展開について、

また植民地における「近代」について考えたい。

後期は、「戦場の記憶」を主題にして、解放後の韓国現代文学の中から

黄晢暎(1943〜)や新世代作家キム・ヨンス(1970〜)の作品を取り上げる。

韓国現代文学を通じて、戦後の北東アジアにおける冷戦構造を決定づけ、

いまだ現代韓国人の生を規定している朝鮮戦争について考えたい。

また後期は、「在日朝鮮人とは誰か」を主題にして、

金時鐘(1929〜)や李良枝(1955〜1992)の作品を中心に

在日朝鮮人文学を読む予定である。在日朝鮮人文学を通じて、

在日朝鮮人歴史今日置かれている状況、

そして在日朝鮮人アイデンティティーについて考えたい。

講義では、一つひとつの作品をじっくりと味わいながら

読み進めてゆくことを目指している。

朝鮮文学を通じて、脱冷戦後グローバル化やますます泥沼化してゆく熱戦の中で、

それを殺すようにして操作され失われてゆく、

私たちの歴史記憶、そして政治を再生することができればと思う。

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