立憲デモクラシーの会

SAVE CONSTITUTIONAL DEMOCRACY JAPAN 2014

活動・発言の記録

「もつれた糸を引きちぎる暴走」

                                                                                            石川健治

集団的自衛権を、あたかも個別的自衛権の自然な延長線上にあるかのように説明するのは、フェアではない。国連憲章51条の起草過程で、米側がねじ込んできた定式であり、その実体は攻守同盟である。「同盟」は明確に「敵」の存在を前提にしているという点で、急迫不正の侵害に対する個別的自衛権とは、そもそも論理構造が異なっている。安倍内閣は、このタイミングで、公式に北東アジアを「敵・味方」に二分しようとしているのである。

 これは、憲法9条が想定する国際関係観からの大転換であり、ひとたび渡れば引き返せないルビコン川を渡るにひとしい選択である。それなのに、防衛力不足を米軍によって補充すること自体を否定はしなかったというだけの「砂川判決」を論拠にして正当化を試みたり、「限定容認」のレトリックを用いたりして、事柄の重大性を糊塗しようとした。これだけ大きな選択をするのであれば、きちんと手続きを踏むのは当然だ。

 それにもかかわらず、現政権は、手続きそのものを破壊する。当初は憲法改正手続き(憲法96条)を改正して、憲法改正の発議要件のハードルを下げようとし、それが難しいとみれば、政府解釈の変更という便法に走り、安倍首相の個人人気に頼って力押しする。そうした政府の姿勢は、憲法が前提とする立憲デモクラシーのあり方に反している。

 近代的な意味での立憲主義は、集権化された国家権力を前提にしており、本来は力で国民を圧倒できるはずの統治権力が、自ら進んで自分を縛ることによって成り立っている。そのことにより、個人の権利は保障され、国家間の約束も成立する。さらに、統治権力を分割して、特定の権力に「民意」を独占させないようにするとともに、それぞれを絡み合わせることで、権力の暴走にブレーキがかかるようにする。これが立憲デモクラシーの考え方だ。

 しかし、現在の政府は、もつれた糸を引きちぎり、暴走してはいないか。特に、政府の憲法解釈という、政府が自らに課した義務づけから自由になろうと、内閣法制局の長官を「お友達」に代えてしまったこと。これは、安倍政権の信頼性を大きく傷つける、取り返しのつかない失策であった。こういう政権の姿勢が、たとえば、特定秘密保護法制定のおりには、それがどこまでも拡大解釈され、ものが言えない社会になるのではないか、という大きな不信感をうんだ。集団的自衛権の行使容認にも、同様の不安が広がっている。

 それらは、安倍政権が内外に示した反立憲的な姿勢によって自ら招いた事態であり、もはや、このタイミングでルビコン川を渡る資格は、この政府にはないのではないか。観念的な安全保障論議を力押しして、デモクラシーの形を破壊してしまったのでは、もはや取り返しがつかない。

(朝日新聞、2014年5月16日朝刊)

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「私が決める政治」のあやうさ:立憲デモクラシーのために

主催: 立憲デモクラシーの会・法政大学現代法研究所

日時: 4月25日(金) 午後6時~8時

会場:法政大学 富士見キャンパス 58年館3階834教室

総合司会 齋藤純一(政治学・早稲田大学)

開会挨拶 奥平康弘(憲法学)

第1部 基調講演

「立憲デモクラシーは『人類普遍の原理』か?」

愛敬浩二(憲法学・名古屋大学)

改憲派の方々は立憲デモクラシー(立憲民主主義あるいはconstitutional democracy)という考え方を「人類普遍の原理」とは多分考えていらっしゃらないのだと思うのです。ですから今日は改めて、この問題をきちんと考えてみたいので、少々挑発的な論題にしてみました。

ところで、憲法97条をお読みになったことがあるでしょうか。昔から有名な9条や、最近話題の96条と比べると、あまりポピュラーな条文ではないかもしれません。97条は次のように定めています。

「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」。

一読すると、基本的人権の本質に関する規定のようですので、「国民の権利及び義務」を定めた第3章にありそうな条文なのですが、憲法の最高峰規制を定めた第10章に入っているのです。このことの意義を強調なさったのが芦部信喜先生です。なぜ97条が第10章、「最高法規」の章にあるのか。芦部先生の説明はこうです。最高法規の冒頭にある97条でまず、基本的人権が永久不可侵であることを宣言し、それがその一つの前の条文である96条、「96条の会」によって話題になった硬性憲法を保障する規定です。通常の法律よりも改正を難しくすることによって、通常の立法による基本的人権の侵害を防ぐ。97条は、96条のこの考え方の実質的根拠になっているわけですし、さらに98条が定める憲法の形式的な最高法規性、ここでは国法体系上、憲法というのは法律、命令などに対して上位にあるということが書かれています。この形式的最高法規性、この実質的な根拠を明らかにした規定であるという形で、芦部信喜先生はこの97条が「最高法規」の章にあることを重視しておりました。

自民党の「日本国憲法改正草案」(以下、「改憲草案」という)は問題がありすぎで、検討し始めると2時間では足りないくらいなのですが、97条については削除してしまっています。ところが、自民党の「改憲草案Q&A」は、なぜ97条を削除したのかを一切説明していません。戦後日本を代表する憲法学者である芦部先生が、憲法の最高法規性の実質的根拠として特に重視したこの規定を、何ら説明もなく削除しているのです。このあたりに、自民党改憲派の立憲主義観というのが示されていると思います。

礒崎陽輔さんという方は、多分自民党の改憲に関わる中心的な方だと思うのですが、2年前の5月、ツイッター上で「立憲主義なんか知りません」という話をしてちょっと話題になりました。せっかくなので引用してみましょう。

「時々、憲法改正草案に対して、「立憲主義」を理解していないという意味不明の批判を頂きます。この言葉は、Wikipediaにも載っていますが、学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか」(2012年5月28日のツィート)。

当時の『週刊金曜日』でコメントしたのですが、立憲主義を知っているか知らないかは本人が不勉強かどうかの問題でどうでもいいことです。しかし、問題は、「立憲主義を理解していないという、意味不明の批判をいただきます」という部分です。この点こそ、問題にすべきだったと思っています。

もっと問題なのは、ジャーナリストの斎藤貴男さんの論文で知ったのですが、97条の削除論に関して、礒崎さんはこんなことを言っているそうなのです。「日本の憲法に西洋の歴史を書かんでもいいだろうと。市民革命の話なんて書く必要はない」。外国の話だから、97条は関係ないというのが、自民党の改憲策動の中心にいる礒崎議員の考え方だそうです。

ついでといっては何ですが、国会の衆議院予算委員会で、岩手選出の畑浩治さんという生活の党の方が質問したのです。「愛国心教育、愛国心教育と言うけれども、被災地を見ると十分日本人は協力する能力があるじゃないか」みたいなことの流れで、愛国心教育に対してちょっと批判的なコメントをした。その延長線上で、「首相の憲法観をお聞きしたい」と言ったら、安倍首相は、こう答えたのですね。

「憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、今まさに憲法というのは、日本という国の形、そして理想と未来を語るものではないか、このように思います」」(2014年2月3日衆議院予算員会での答弁)。

安倍さんによれば、今日の日本は絶対王政ではないので、立憲デモクラシーというものを語ることはおかしいということなんですね。安倍さんは立憲主義を知らないだけではなく、立憲主義に対して敵対的ですらあると理解する必要があるのだと思います。ですので、立憲デモクラシーがなぜ大切なのか。それが本当に人類の普遍原理として受け止めるべきものなのかということは、改めて考えておく必要があるのではないかと思います。

そこで次に、「立憲デモクラシーが何か」という問題を考えてみましょう。英語でいったら「constitutional democracy」とか「liberal democracy」の意味だと思うのですが、日本では従来、「立憲民主主義」とか「立憲民主政」と訳していたと思います。この概念は確かに、多義的です。私も若い頃、勉強していたのですが、中世ヨーロッパにおける立憲主義という観念がありますので、確かに多義的ではあるのですが、いずれにしろその核心は権力の制約にあります。「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」と定めるフランス人権宣言16条が引用されるのもそのためです。ある社会に憲法が存在するというためには、権利の保障と権力の分立が必要だという考え方です。

一口に「権利の制約」といっても、それでも多義性は残ります。例えば戦前、美濃部達吉が立憲主義を論じたとき、彼の念頭にあったのは、議会・立法による行政権の統制という問題でした。しかし、第二次世界大戦後、とりわけ、東欧の体制変革以降、グローバルなレベルで、ある種の共通理解があるように思われます。樋口先生の文章を借用すれば、「人権価値の擁護を眼目とし、硬性憲法による立法権への拘束を裁判的方法によって確保する」という共通の方向性です。すなわち、民衆の支配、多数者支配としての民主主義によって正当化される政治権力であっても、法的制度的に制限されなければならないという考え方、これこそが多分、立憲デモクラシーに関しての現在の共通了解だと思います。その特徴として硬性憲法と裁判的方法による人権保障が、各国で導入されているわけです。

ある比較法学者によると近年、81以上の国々が代表機関いわゆる議会から司法部へと権力を移譲するためのさまざまな形での憲法改革を行っているそうです。当否はいろいろあるかもしれませんけれども、国会主権や議会主権の伝統が根強かったイギリスやフランスでさえ、裁判所による法律からの人権保障の制度化が進んでいます(イギリスの1998年人権法、フランスの2008年憲法改正)。自民党「改憲草案」の驚くべき特徴は、裁判的手法による人権保障の強化ということに関してほとんど関心がないというところ――世界的傾向からみると、文字通り、「逆行」なわけですけれども――、そういう特徴があると思います。

したがって、「立憲デモクラシーは国民主権を採用した国家には用無しと」いう安倍首相の理解とか、「市民革命のない国には立憲デモクラシーは無縁だ」という礒崎議員の考え方は、立憲デモクラシーに関する共通了解からみて、おかしな議論であることになります。彼らの考え方を英語やフランス語、あるいはドイツ語で世界に発信したら、違和感を持って迎えられるのではないかと私は推測しています。

次に考えたいのは、なぜ立憲デモクラシーという制度あるいは考え方を受け入れるべきなのかという問題です。私はそそっかしいので、改憲派の方とのパネル討論に参加することもあるのですが、そのような場合、私の最初の発言は次の通りです。「私は憲法を論じるにあたって、次のことを自明の前提とさせていただきます。私たちの社会はスターリン体制下のソ連やフセイン政権下のイラクや、あるいは金さん一族が支配している北朝鮮とは、政治原理が根本的に異なっているということです」と。ここでの「自明の前提」というのが、立憲デモクラシーのことだと私は理解しています。

ここで、立憲デモクラシーに関する長谷部恭男先生の定義を示しておきましょう。「立憲主義は、多様な価値観を抱く人々が、それでも協同して、社会生活の便益とコストを公正に分かち合って生きるために必要な、基本的枠組みを定める理念である」。長谷部先生の定義を参考にすると、どういう社会が立憲主義を必要とするのかがわかります。第一に、価値観を異にする諸個人がいるということ、第二に、それにも関わらず、彼らが共に生きることに利益を感じて、共に生きる覚悟をしていること、です。この二つの条件のある社会においては、立憲デモクラシーはきわめて適合的な政治体制であり政治理念であると私も理解しています。私なりの言葉で現すならば、「利害・価値観を異にする諸個人が共生するために、便益とコストの公正な分配、および公正の観念の再構築のためにデモクラシーが必要である一方、諸個人の多様な利害・価値観が圧殺されないようにするため、デモクラシーによる決定に服さない領分(sphere)を観念・設定する必要がある」ということになります。

では次に、改憲派の安倍さんがどのような考え方なのかをみてみましょう。保阪正康さんの論文で知ったのですが、第一次安倍内閣ができる際の自民党総裁選での発言だそうです。谷垣禎一さんが「一握りの日本の軍国主義者が行った罪過は、中国人民だけではなく、日本人民もまた犠牲者であった」という周恩来の言葉――これは明らかに、国交回復のための日本側に対するリップサービスですから、それを引用すること自体、私は不見識だと思うのですが――、その言葉を谷垣さんが引用したところ、安倍さんは、「日本国民を二つの層に分けると言うことは中国側の理解かもしれないが、日本側はみんながそれで理解していない。やや階級史観的ではないか」と反論したそうです。

安倍さんのこの発言は、いわゆる靖国史観を守るために、その場の思い付きを述べただけなのかもしれませんが、安倍さんは自著『美しい国へ』の中でも、国賠訴訟で原告が勝訴すると、マスコミは「国に勝った」というが、その賠償費用は国民の税金から支払われる以上、「国家と国民は対立関係にあるのではなく、相関関係にある」というべきだと主張しています。法律論としてこんな議論をすることにどんな意味があるのかは私にはよく分からないのですが、ともあれ明らかなことは、国家と個人が対立する、あるいは治者と被治者の間に利害関係の不一致がある。こういう考え方が多分相当にお嫌いなのだということは伝わってきます。

立憲主義の考え方を端的に示したといわれる、二つのテキストを引用しておきましょう。

◎フランス人権宣言2条「あらゆる政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である」。

◎アメリカ独立宣言(1776年)「われらは、次の事柄を自明の真理であると信ずる。すべての人は平等に造られ、造物主によって一定の奪うことのできない権利を与えられ、その中には生命、自由、および幸福の追求が含まれる」。

例えばフランス人権宣言は抵抗権を認めていますから、治者と被治者の対立を前提にしています。このフランス人権宣言であれ、アメリカ独立宣言であれ、立憲主義の考え方を示したといわれるテキストは、安倍さんからすればそれは確かに受け入れがたいものだと思いますけど、ここ重要だと思うのですね。安倍さんたちが受け入れがたいのは日本国憲法ではなくて、アメリカ独立革命やフランス革命以来の、近代憲法そのものだということです。すなわち、「安倍改憲」のもとで問われているのは、立憲デモクラシーそのものだということです。

ところで、アメリカ独立宣言は「自明の真理」と言いますが、「すべての人は平等に作られ」というのは決して、「自明の真理」ではないですよね。だってアメリカ合衆国憲法は奴隷制を温存していましたし、奴隷制が廃止されるのは南北戦争後の憲法改正によってですから。公立学校での人種別学が連邦最高裁で違憲違法とされるのは1954年ですので、憲法制定から150年以上たってはじめて、アメリカ国民の間での生来的な平等が一応、実現したわけです――実際は、まだまだ実現していないと思うのですけど。

ここで私が強調したいのは、決して「自明の真理」でないものを「自明の真理」と言い切ることで、社会を少しでもその理念に近づけるような制度設計であるとか、政治理念を作っていくというのが、フランス人権宣言であり、アメリカ独立宣言だと思うのです。逆にいえば、安倍さんが望むような社会、安倍さんのユートピアということで、「アベトピア」と呼ぶことにすれば、アベトピアにおいて、この考え方を受け入れちゃったら、アベトピアは崩壊してしまいます。国家と個人の対立も認めていますし、個人間の利害対立も認めていますし。けれども、それらの事柄を認めるのが、立憲デモクラシーの真髄だと私は理解しています。

ところで、諸個人が多様な利害を持っている、それにも関わらず共通の法のもとで生きる便益を受けるためにわざわざ政治社会を作り、政府を設立するという考え方を理論的に明確に示したのが社会契約論だと思うのです。日本国憲法には、この社会契約論の考え方の痕跡がちゃんと前文にあるのです。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という文章にある「国民の厳粛な信託」という箇所です。国の権力はあくまでも国民が託したものですから、政府が国民の人権をきちんと保障しない場合、国民は信頼を撤回できるはずですよね。信託なわけですから。そのことが憲法前文第一段には書いてあります。ところが自民党の「改憲草案」からは、「信託」なんていう概念は跡形もなくなっています。

「改憲草案」前文の1、3、5段のみ引用します。

①日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。

③日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

⑤日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

これはすごい条文ですね。第1段を読んでみましょう。「国民主権」や「三権分立」という聞きなれた用語が出てくる前に、日本国の特徴が決められてしまいます。「長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」という部分です。ここでもう国家の定義は終わっているので、そういう国家がたまたま国民主権のもとで、行政、立法、司法の三権分立を受け入れているという文章ですよね。

次に第3段を見てみましょう。「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに」とあります。基本的人権の尊重はあくまでも「付録」なんですね。基本的人権も少しは尊重するけれど、中心的なのは「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守る」ことだという文章ですから。

もっともひどいのが、第5段です。そこでは、憲法制定の目的が諸個人の人権の保障というフランス人権宣言、アメリカ独立宣言以来の立憲デモクラシーの本流の考え方ではなく、「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承する」ことになっています。ということは、しつこいようですが、自民党の「改憲草案」が、単なる日本国憲法の否定ではなくて、いわゆる立憲デモクラシーという考え方それ自体を、これはヨーロッパを中心にして長い年月をかけて、紆余曲折がありながら発展してきた政治原理、政治制度なわけですが、これを否定しようとしているのが明らかだと思うのです。

ジェレミー・ウォルドロンという法哲学者がいます。『Liberal Rights』という、私が昔読んで大変感銘を受けた書物のなかで、こういうことを言っていますので読ませていただきます。

「現代リベラリズムの基底にあるのは、全ての社会組織は構成員全員に理解可能な形での正当化を必要とするという考え方である。一切の帰属を持たない孤立した個人など想定しがたいとしても、自らの来歴を成すさまざまな社会関係から距離を置き、反省をし、これを批判する能力を各人が持つことは好ましいし、政治理論はこの可能性を掘り崩すべきではない」。

「社会契約なんか本当に存在するのか?」とよく批判されますし、「安倍改憲」の重要人物である礒崎議員は、「市民革命なんか外国の話ではないか」と言うのですが、ウォルドロンによれば、これらの議論はあまりに皮相なものだということになります。利害価値観を異にする諸個人が現実に存在する以上、一切の帰属を持たない孤立した個人が存在しえるか否かは関係なく、「そういう個人を前提にして政治秩序を考える」というのが立憲デモクラシー、リベラル・デモクラシーだからです。

この考え方の魅力は、そういう政治秩序ないしは政治理念のもとで生きている人間は、自らの来歴をなすさまざまな社会関係からいったん距離を置き、例えば日本国民であること、男性であること、そういうさまざまな属性からいったん距離をおく努力をし、そのことを反省し、また自分のことを批判する能力を持つ必要があるわけです。利害・価値観を異にする他者と、それにも関わらずともに生きる覚悟をした以上、自らを反省する能力が構成員の間になければ、そんな政治秩序はもたない。リベラル・デモクラシーとか、立憲デモクラシーを「甘っちょろい政治秩序だ」みたいに言う人もいますが、そんな理解は根本的に間違っていて、これは構成員に覚悟がなければ、守れないものだし、作っていくのは難しいけれども、それでも、生みだして作り続けていく価値のある政治理念であり政治制度だと私は考えています。

ウォルドロンも、「このような能力を各人が持つことは好ましいし、政治ではこの可能性を掘り崩すべきではない」と言っています。安倍さんたちは多分、ウォルドロンのこの考え方は嫌いでしょう。そもそも反省すること自体、あまりお好きじゃない方々だという印象がありますので(笑)。とはいえ、私の考えでは、立憲デモクラシーという構想の偉大さと魅力は、固有の利害・価値観を持ちながらも、自らを相対化し、反省する能力と覚悟のある人々がともに生きようとする時に、最も適合的な政治制度・政治理念であることです。ですから、今問われているのは、単に日本国憲法の条文を改正するかしないかという憲法改正問題ではなくて、近代以来作られてきた、まさに立憲デモクラシーそのものだということを、私としては、ぜひお話ししたいと思いました。ご清聴、有難うございました。

「民意による政治の意義と限界-なぜ立憲主義とデモクラシーが結び付くのか?」

山口二郎(政治学・法政大学)

私は憲法学者の理念的な話と対照的に、少し現実の今の日本の政治状況を見ながら解釈改憲、集団的自衛権の問題点、それに対してどう闘うかということをお話ししたいと思います。

民主政治の定義、これは先ほどの愛敬さんのお話にもありましたけれども、本来的には国民自身が国民を統治する――リンカーンの定義によれば、人民によって、人民のために統治をする――これが民主政治の基本的な理念です。ところが「人民によって人民のために」というのは言うほどに簡単な話ではありません。人民の意思とは何か、これをどうやって表現するか、あるいは定義するか。これは本当に民主政治の歴史とともに、長い難問であります。一応現代の民主政治においては、選挙と代表制という仕組みで人民の意思を表現する、あるいは把握するという建前になっております。それから当然人民にはいろいろな考えがありますから、意見が割れた場合には、多数決によって最終的には一つの結論に到達するというルールがあります。それ自体は民主主義を構成する重要な原理であり、私は別にけしからんというつもりはありません。ただし選挙と多数決があれば、それで民主主義が成り立つのか。選挙・多数決というのは民主主義にとっての十分条件かといえば、そうではないと言わなければなりません。つまり選挙と多数決以外に民主主義、民主政治を構成する原理はほかにもあるということが、今日の私の話の一つのポイントであります。

多数意思が万能かといえばそんなことはありません。多数意思が間違った事例というのは1930年代のドイツをはじめとして山ほどあるわけです。先ほど愛敬さんも安倍さんの発言を紹介していましたけれども、私に言わせれば、国王ではなく国民が権力を持つ時代だからこそ憲法による縛りが必要なわけです。しかも為政者が標榜する民意というのは、多くの場合、フィクション、擬制です。つまり選挙で表れた民意にすぎません。しかし選挙の時にはどの政党、どの候補者を勝たすかという意思表示ぐらいしか分からないのであり、その背景に人々がどのような政策を選ぶかということについては、やっぱり政治家が勝手に「これが民意だ」と言う余地がとても広いわけです。

最近の日本を見ておりますと、為政者が人民をなめているとしか思えないことがたくさんあります。今日のシンポジウムのテーマで「『私が決める政治』のあやうさ」というのは、実は私が考えたのですが、大阪の橋下市長、そして国政の安倍総理、彼らは非常に似ていると私は思います。つまり選挙に勝ったのだから自分が民意を体現している。自分が進めている政策・方針が国民の意思であるという自己正当化で、バシバシといろんな政策を進めていく。しかも議論をなるべく省略して多数決でさっさと決めていくことがむしろ民意を実現するという観点で、民主主義的であると言わんばかりのおごりや開き直りが大阪、さらには国政レベルで広がっています。これはとんでもない詐欺です。

そもそも為政者は選挙の時に任期中の自分の行動をすべて予告して、それについて選挙民・市民から委託あるいは負託を受けているのかというと、そんなことはありません。そこに第一の欺瞞があります。自民党は2012年の12月の選挙や去年の夏の参議院選挙で「憲法改正します」と、ちゃんと国民に声高に訴えたか。そんなことはありません。アベノミクスと言っていただけです。こういう開き直りを許しますと、民主主義というのはきわめて矮小化というか、貧相なものにされてしまいます。つまり民主主義は「決める人を決める手続き」に矮小化されてしまうわけです。そして決める人を決めてしまえば、国民は、あとは出番なし。あとは決める人が決める。それが民主主義だ。これが安倍流、橋下流のデモクラシーの定義ということになります。

やはり安倍政権の憲法議論は、ひと言で言えば野蛮だと思います。つまり近代を否定するわけですから近代の前の暗黒時代、あるいは野蛮人の時代に日本をまるごと連れ戻したいと思っていると私は感じています。案の定というか、安保法制懇の座長代理の北岡伸一さんが今週の月曜日の東京新聞で非常に正直に本音をしゃべっています。本当にびっくりしました。憲法は最高規範ではなく、上に道徳律や自然法がある。憲法だけでは何もできず、重要なのは具体的な行政法である。その意味で憲法学は不要だとの議論もある。今日おいでになっている憲法学者はあとでこれにしっかり反論していただきたいと思うのですが、これはちょっと神がかりですよね。つまり憲法の上位規範に自然法とか道徳がある。でも道徳とは何か。北岡さんが「これが道徳だ」と言ったものが憲法より上の規範になるのですか。これはもうほとんど神託というか、神様の権威を騙ったご託宣のレベルですよね。そんな話で日本国の重要な政府の行動を動かしてよいのかと。とんでもない話だと思います。でもそこに安倍政権の本音があると思うのです。つまり、先ほど愛敬さんが紹介した自民党改憲案の野蛮さというのは北岡さんにとってはどうでもいいわけですよ。彼は、そこはどうでもいいと思って安倍政権の手伝いをしているわけです。「憲法が最高規範ではない」と言っているのだから、あれは政治家の作文みたいなもの。青年の主張コンクール。自民党の右翼政治家がその青年の主張をやって、それはそれでいいのだと。これが北岡さんたちの発想だと私は思います。

もう一つ、野蛮なだけではありません。現実主義を気取る国際政治学者や評論家、あるいは元外交官の皆さんは途方もない空想世界に遊んでいるとしか思えない。それが安保法制懇の特徴であります。北岡さんは、同じ東京新聞のインタビューで、安全保障は常に最悪を想定しておかなければならないと言っています。本当に最悪を想定しているのですか。私にはとてもそうは思えない。つまりどこか遠くの公海上で外国の船が戦闘状態に陥った時に日本が一方の国に加勢する。ようするに戦争状態に入るということですね。ということは相手方の国にとって日本は敵国になるわけですから、もう何の遠慮もなく日本を攻撃できる。そうすると日本海側にある原発なんていうのは、もう「撃ってください」と言わんばかりのロケーションですよね。そこにミサイルが飛んでくる。日本は一体どうなるか。そういう最悪の状態を彼らは本当に考えているのか。彼らが考えている武力行使というのは、なんか悪いやつを一緒に叩きのめすみたいな、自分のとこには火の粉は飛んでこないみたいな。そういう非常に空理空論の前提で、机上の空論をしているとしか思えないわけです。

今、進んでいる安倍政治の特徴、これは国家の私物化と憲法の玩具化です。憲法がおもちゃになっているというのはさっき言った通りです。最高規範じゃないと思っているから、ああいう野蛮な作文コンクールの対象にするわけです。そして安倍政治においては本来専門的中立的な機関として政治をチェックする。あるいはとりわけ多数派の暴走をチェックするために置かれていたような内閣法制局あるいは公共放送、そういったものを一つの 党派色で塗りたくる。さらには成長戦略という話で特定の企業のあられもない私的利益を国全体の政策目標として掲げて、「残業代ゼロ」みたいなことも言い出す。まさに政策を決める機関全体を私物化することが進んでいるわけです。その中で憲法はもう玩具ですから、さっき言ったように集団的自衛権は客観的な必要性があって導入するというよりも、それ自体が目標だということになります。

私はこういう安倍首相や取り巻きの若手の政治家を見ていますと、石原吉郎という詩人が書いたシベリア抑留時代の体験記を思い出します。その抑留中、抑留されていた日本人の捕虜たちは隊列を組んで歩かされるわけですけれども、後ろに銃を構えた警備兵がついて、ちょっとでも列を離れると逃亡とみなして撃っていいというルールになっていた。石原は、実戦の経験が少ないことに強い劣等感を持っている17,8歳の少年兵に後ろに回られるくらい嫌なものはない。彼らはきっかけさえあれば、ほとんど犬を撃つ程度の衝動で発砲すると書いています。まさに安倍及びその取り巻きの恐るべき子どもたちというのは、実戦経験がないことに劣等感を持っている少年兵そのものだと思います。

しかし、政治の現状はそれほど悲観したものではないわけでありまして、例えば4月7日の朝日新聞の世論調査を見れば、国民の大多数は集団的自衛権の行使には反対、憲法九条は変えないほうがいい、そして武器輸出の拡大には反対という常識をまだ保っています。つまり今、民意とそれから政党の配置の間に大きなずれがあるということです。自民党が右に寄って、途方もない憲法案を作った。さらにその右に維新の会やみんなの党という補完政党が自民党の改憲を手伝おうという形で連立のパートナーの座を狙っているという状況です。公明党がどうなるか今、分からない。国民の常識はだいたい真ん中辺でさっき言ったように憲法を守ったほうがいい、集団的自衛権はおかしいと思っているわけです。

問題はこの中間の領域が政治の世界で空白だ、国民の常識を受け止めるちゃんとした野党がないという問題です。今、必要なことは対抗勢力を立ち上げることです。対抗勢力というのはもちろん国会議事堂の中できちんと安倍自民党政権に対抗する政治家の皆さんのかたまりを作ることも必要なのですが、私たち自身が対抗勢力になるということです。これが今必要なのです。安倍政権、今とても順風満帆のように見えるのですが、党内で集権化が進み、野党が不在で、世論調査の支持率は50%を超えている。でも支持率を下げれば政治は変わるわけです。今必要なことは幅広い連帯・連携を作ることです。一つは責任野党なんていうまやかしは信じちゃだめです。それはもう維新の会とみんなの党の今の動きを見ればあれがいかにいかがわしいかということは皆さんもうよく分かると思います

国民の常識を受け止める政治勢力を作るということですが、そこで私は立憲主義というプラットフォームはやはり有効だと思います。というのは、例えば九条の解釈で自衛隊違憲だという方も大勢いらっしゃると思うし、いや、戦後の日本が歴代の自民党政権のもとで専守防衛、海外派兵しないという安全保障政策を持ってきたことが平和主義なのだという解釈の人もいるでしょう。でもそれが今、手を組む必要がある。最大の敵は野蛮な自民党改憲案であり、海外で戦争をしたいという今の安倍政権の改憲路線。これと対決をするために、海外派兵をしないという多数派を結集していく必要があるということです。そういう幅広い結集のために、これから私どももいろいろと言葉を出してプラットフォームを作っていきたいと思いますので、ぜひとも市民の皆さんもご関心を続けていただいて、いろんな場で発言をしていただきたいとお願いして、私の話を終わりといたします。ありがとうございました。

第2部 シンポジウム「解釈改憲をどうとらえるか」

シンポジウム司会 阪口正二郎(憲法学・一橋大学)

「日中抗争時代へ」

毛里和子(中国政治・早稲田大学)

皆さん、こんばんは。私は中国政治を専門にしております。日中関係についての私の考え方、どういうふうに日本の安全保障と日中関係の緊張との関係を捉えたらいいかということについての考え方をお話しいたしたいと思います。

まずホットな情報をお知らせします。この4月18日に生まれた「立憲デモクラシーの会」についてかなり詳細に新華社が報道いたしました。新華社の報道というのは政治性が強いですし、また見ていて不愉快になるものもあるのですが、この立憲デモクラシーの会の立ち上げニュースについては、奥平先生、山口先生の議論も含めて、きわめて客観的に落ち着いた報道をしております。好感がもてる記事です【20140418新華社ネット】。

では今の日中関係をどう考えるかについてお話しましょう。大変残念ながら、解釈改憲にせよ、日米同盟の軍事的強化にせよ、日中関係をめぐって好ましい状況についてお話しすることはできません。むしろ日本の安全保障も、日中関係も非常に危険な状況に入っております。ですから、問題は、この状況をどうやって変えていくか、どうやって克服するかという方法の問題になると思います。解釈改憲、それから日本の軍事力強化というような、正道ではない道に入った場合にアジアは悲劇的状況になるということだけは確かであります。

2012年の日中関係を見ますといくつかの大きな変化があって、私の考え方によれば長期かつトータルな日中対抗の関係に入りつつあります。そういう意味では「新冷戦的な状況」に近づいてきている、危険な段階に入ったと言えましょう。問題はこういう状況がなぜ生じたか、です。理由の第一、東アジアにおける軍事力、経済力、政治力を含めたパワーのシフトが深刻に起こりました。つまり中国の台頭、中国の急激な巨大化です。これが第一ですね。それからもう一つトータルな対抗関係というのは、例えば日中関係は三つのレベルの対立、イシューがありますが、そのうちの第一のイシュー、例えば歴史問題あるいは価値をめぐる対立、それから第二のレベルがパワーをめぐる対立、それから第三のレベルが領土とか領海とか、非常に具体的な利益をめぐる対立です。この三つのレベルの対立があると想定して、今日の日本と中国の関係は三つのレベルでの抗争すべてを含んだ、トータルで錯綜した対抗関係になりつつあると思います。三つのイシューは切り離せません。歴史問題は歴史問題で切り離すこと、あるいは領土問題と歴史問題は関係ないでしょう、というので切り離す。こうしないとどの問題、どのイシューも解決できないのですが、中国の政権も日本の政権もむしろ対抗関係をトータルなものにしようと一生懸命競争しているとさえ言えます。まさに解決とは逆の道を突き進んでいるわけです。

それからトータルな対抗関係を説明する第三の状況は、安倍首相の考えていることがきわめて原理的ですね。非常に原理的な、戦後の日本の行き方についてのある種のリベンジ、復讐をするという傾向が強いという意味で原理主義的だと思うのです。自分は権力を取った、今まで「平和主義」優位のなかでおとなしくしていたけれどもう我慢できないという、強烈な報復心が政権のエネルギーになっていると思います。他方、中国の場合も、別の意味で原理主義的です。西側、西洋から支配されてきた――日本を含む――150年間の歴史ですね。それに対するリベンジ。もう一つは戦後の冷戦環境が中国に非常にマイナスだった、冷戦環境で払ったコストを返してほしいというのが最近の傾向として出てきています。そういう意味では中国も原理的リベンジ路線だと言えます。

両方がこういうふうに言い出すと事態は硬直します。おまけに領土問題は「固有の領土」というフィクションのもとで紛争が現実化していくという状況にあります。以上が、2012年以来の日中関係が長期のかつトータルな抗争の段階に入りつつあるということの説明です。

パワーシフトを一番表現する物質的力は経済力、GDPです。各国GDPの世界におけるシェアを1990年と2020年(予測値)で較べてみましょう。激変です。IMFのデータで中国を見てみますと、90年の段階では世界のGDPの2%だった。それが2020年の予測で15%となっています。おそらくこれでも過小に見た数字だと思います。多分このころ中国と米国のGDPはほぼ拮抗するでしょう。少なくとも額面上のGDPでは。世界経済の大混乱が起きない限り、この2020年予測数字はかなりうちわに見た数字でしょう。ですから私たちは今までにない東アジア、今までにない世界に直面しているわけです【下図参照、日本経済新聞2014年4月15日】。

また中国の国防費を朝日新聞で見ますと、この4年間二桁成長とめざましく増えています。2003年から2014年の10年間で、国予算レベルで国防費は2000億元から8000億元と4倍になっています。本来は日本の状況も触れないといけないのですが、とりあえず中国のデータだけ示しておきます。

次はもう少し中身の問題で、中国の考え方、対外戦略が2000年代に入ってからかなり変わった、変わった中国を我々は相手にし始めたということです。中国の変化を十分踏まえて、心して中国に対する必要があります。顕著なのは、国家利益という考え方が公然と前面に出てきました。1980年代に中国で「国家利益」なんてことを言ったら大変な目にあった、そういう時代だったのですが、90年代に入ってからはもう「国家利益第一」というのが、どの学者も、あるいはどの国民も言い出しました。それからもう一つは最近のインタヴューで閻学通(えんがくつう)という国際政治学者――彼は清華大学大学国際関係学院の院長で、中国でもconservativeな現実主義者ですが――によれば、中国の今の二国間関係は4種類あると言うわけです。第一の種類は友好と協力の関係。これはロシアとの関係です。第二の関係は普通の善隣関係。これは独、仏、あるいはヨーロッパと中国との関係です。第三はアメリカとの関係で新たな大国関係。これは戦略的には対抗する部分と連携する部分がある関係です。第四の関係が問題です。閻学通は対抗の関係が第四パターンで、日中関係がそうだ、と述べました。私はびっくりしました。彼は、日本を中国にとってほぼ唯一の対抗の相手として考えているのです【20140411朝日新聞・閻学通インタヴュー】。彼の考えが中国外交の全部を代表しているわけではありませんけれども、昨今の中国外交を見ているとそうした傾向が主流なのかも知れない、とすら思います。

それから次に中国外交の特徴を整理しておきましょう。第一に非常にプラグマティックなこと、第二に、日本にない外交の術(すべ)を彼らは持っている。外交はパワーだと彼らは認識しています。外交は芸術だと認識しています。そういう意味では、わが日本が外交に不得手なことは、見ていて本当に残念です。それから第三が主権、利益至上主義な点です。それから第四に――これはあまり大きな声で言わないほうがいいのですけれども――、私の中国外交と軍事についてのケーススタディなどで振り返って考えてみますと、中国は外交的な、政治的な目的を達成するために軍事的な手段を使います。軍事的な手段を使うのは、日本軍は軍事的な占領の目的のためにやったけれども、現代中国は政治的な目標を達成するために、非常に限定的に軍事的手段を使う。1979年に中国がベトナムを「制裁」した限定戦争が端的な例です。このあたりは日本の、特に日本の国民に軍事力に対するアレルギーというものがあることを考えると、相当に違う「文化」だと思います。これは「いい、悪い」ではなく、違いの問題として十分に認識しておく必要があるでしょう。もっとも、私は現代中国が「好戦的」だと言っているのではありません。冷戦期に朝鮮戦争を除いて中国は米国との対決を慎重に回避しました。決して「好戦的」ではありませんでした。

次の問題は、これからの安全保障の問題です。いま日本はどうすべきかということについて、日本国の国民の感情、あるいは憲法の行方も含めて、重大な分岐点に立っていると言えましょう。非常に大事な時期、揺れ動く時期です。この大事な時期を我々は十分に注意して過ごさなければなりません。

なお、日本の安倍首相が進めようとしている憲法改正、解釈改憲などに対する中国の見方をちょっとだけ紹介しておきます。改憲論とか日本政府に対する中国の見方は非常に画一的で、「日本はとにかく悪い、悪い、悪い」という場合が多いのですが、この論文【李文・呉限「日本修憲進程加速原因解析」『日本学刊』2013年第5期】はもう少し丁寧に、客観的に日本を分析しています。なぜ安倍政権が改憲を急ぐのか、その理由や背景も分析しています。

憲法改正に動かす四つの状況、言いかえれば「要素」でしょうか、を説明しています。一つは経済状況の好悪が国民レベルの改憲論議に大きく影響している、と言います。つまり経済が悪くなれば国民は排外的なナショナリズムに走る傾向になる、としています。第二番目に「1955年体制」の崩壊、それから政党政治の崩壊です。第三は日本の政治文化に遠因がある、と指摘しています。つまり、自由平等などの要素が薄弱で、脆弱だ、というのです。権威主義体制をとり、権利や自由の面で問題を抱えている中国にあまり言われたくない、というのが正直な気持ちですが、自由・平等の観念の未成熟、脆弱さについての中国の研究者の指摘を全面的に否定することはできないのです。最後に、日本における民主主義価値観――今日のテーマである立憲デモクラシーでもいいのでもいいのですが――の全面的な制度化は第二次大戦後に始まる、しかし日本の近代化は跛行的であり、民主主義価値観の全面制度化という事業をまだ終わっていないというのが、この論文のご託宣なわけです。この限りでは、かなり説得力のある分析になっています。

最後に日本の中国研究者が日中関係を非常に憂えています。憂え方というのはいろいろあるのですけども、あまりにひどいので何とかしなくちゃいけないということで、私を含めて比較的古い世代の、志を同じくする研究者がまず集まって、「新しい日中関係を考える研究者の会」を作りました。去年の10月スタートですが、この3月に「現代日中関係の源流-再検証1970年代」という国際シンポジウムをやりまして、中国の研究者も全面的に協力して下さいました。メディアの反応もいいし、研究者の間でも評判がいいのですが、これからどういうことを我々はやっていこうかと考えているところです。いま、270名近くの研究者が加わって下さっています。「お互いに排他的で乱暴なナショナリズムを乗り越えよう、卒業しよう」を合言葉にしています。これにもう一つ、本日のテーマである「立憲デモクラシーを東アジアで実現しよう」という課題も加えた方がいいのかもしれませんね。私のお話はこれで終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

青井未帆(憲法学・学習院大学)

集団的自衛権を行使できるように方針変更することを憲法解釈の変更、すなわち「解釈改憲」という方法でとってはいけない、その理由についてお話し申し上げたいと思っております。まず解釈改憲という手法をとってはいけない理由について、立憲主義と民主主義という観点から、これらの概念についての私の理解をまずお示しして、お話ししたいと思います。

私たちの政治を二層構造で考えようというのが、「立憲デモクラシー」の一つの知恵なのだろうと考えております。下の層では社会契約等の概念を使って、長いスパンで考えて、「どうやったら人権が確保されるのか」ということを考えます。ここでの「国民」という概念は過去・現在・未来まで含めた「国民」で、統治の構造(フレームワーク)を作ることで人権を守ることを主眼としています。

上の層は、現実の、もう少し短いスパンで物事を考える層で、現実の政治はもっぱら、この層で行われています。

なぜこういうふうに分けるかといえば、日々の政治というのは非常に振幅が激しいから、短いスパンだけでは十分に人権が守られないと考えられているからです。ついこの間の例でいうと、小泉政権の郵政解散とか、民主党政権が自民党から政権をとったという時の国民の期待の盛り上がりと、それらの期待が持続しなかったというところにも、振幅の振れを見いだせるでしょう。このように、基盤となっている下の層と、その上の層に、時間の流れの違いがある。この二つの層というものに注目しながら考えていきたいと思っております。

このように、目的が違う二つの層で政治を考えるのですから、中・長期的な政治における物事の決め方と、短期的な政治における物事の決め方は違って当然です。

国の統治の仕組みとかフレームワークに関わること、守るべき人権の中身に関わることというのは熟慮が必要です。熟慮の上で国民的な決定を経てたうえで行うというのが、日本国憲法九六条の考えている決め方です。これは将来の国民も含めて、人々の生まれながらの権利、人権がどうやって守られるのか、そういう観点から決めなくてはいけない。

集団的自衛権の行使容認というのは、今申し上げた下の層、中・長期的な物事の決め方の問題です。結果として憲法九条の規範をなくすということに等しいわけですので、下の層の部分、基底的なところに関する大転換であるといえるわけです。ですから短期の計画のお話というわけではない。

この点、安倍政権でのこの問題の扱いが、短期的スパンのお話で、フレームワークに関わる変更ではなくて、小さな政策の転換というような扱いを受けているのではないかという気がしてならないのです。北岡さんがいうような政治のありようが、どこの先の時点まで見ているのかというと、そんな長い先のことを見ていないんじゃないか。そういう意味で、本籍と考えるべき層が違うのではないかというのが私の理解です。

そこで中・長期的な国家のあり方に関わる九条、これがどういうものかということにお話を移していきたいのですが、「憲法が国家を縛る」という意味の立憲主義から引き出される一つの意味といたしましては、国民の自由は無限定だけれども、国家のなしうることは限界がある。権力は分割されて、それが暴走してしまうことを妨げる、防ぐということがありますけれども、権力が正当に行動しうる範囲が事前に決められている。これが非常に重要だと思います。

その点から考えてみますと、憲法九条は別に自衛隊に権限を与えている条項ではない。与えていない点が重要です。無である、権限を配分しないということを謳った条文ですので、にも関わらず、なぜ自衛隊が合憲であるのか、今ここの段階で政府はだいぶ無理をしている解釈をとっている。九条に書かれていない「自衛権」というような概念を持っていて、「主権国家である以上は自衛権を持っていて、その行使のために必要最小限度の実力は持ちうる」と長年にわたって言ってきたわけです。

これは政府の憲法解釈であったとともに、これが国会の場で相当の部分が示されたというのが一つ大きいポイントだと思うのです。国会と内閣の共同作業のような形で憲法の解釈を示してきている。ということですから、九条がそもそも持っていないと――私は持っていないと言っている条文だと私自身は考えておりますけれども――、持っていない、あるいは必要最小限度の実力であって、自衛のためのものなのだ、そういう限定付きなものしか出てこないというはずです。

この点においてちょっと関連することとして、高村副総裁が「集団的自衛権は砂川事件判決で排除されていない」ということを出しているのですけれども、あれはそもそも考え方として間違っているはずで、「無い」と言っている条文なわけですから、「排除していない」と正当化できるものではない。「打ち出の小槌」みたいに何でも権限が出てくるというような解釈をすること自体、政治をそもそも法で縛るとは、政府のなしうることが限定されているという考え方なのですから、おかしい。まるで国家には最初から何でもできる権力があるのだという想定に立っているようでありますけれども、そうでない。分割してそれぞれの所掌事務を決めている。そういう範囲において国家は正当に行動しうるのだという考え方と大きく違っています。今、申し上げた分割するというのは権力分立ですけれども、先ほどの二つの層の話でいえば、基層部分で統治のフレームワークを作るというお話しです。

ここからいたしますと、当然のことながら集団的自衛権という言葉についても国際法での常識がそのまま通用することはありません。国際法優位ではなく、憲法優位に立つことは、高村氏を含め政権の先生方も、当然、主権国家体制を妥当としているはずですから、肯いてくださることでしょう。自衛・防衛のための実力と、自衛・防衛のための措置がギリギリ許容されるのでありますから、これを「自由に海外へ展開させる」ということは、本来事の性質上正当化できるものではない。自衛隊とは原理的な制約がないほかの軍隊と違うものとして政府は正当化したわけです。自衛のためにという範囲の中でしか正当に行動できないはずです。

そうすると完全なる他衛という意味での集団的自衛権というのは、自衛隊違憲論者に立つ場合は当然ですけども、自衛隊の政府解釈合憲論に立つ場合でも出てこないということになる。解釈の想定外であり、「枠」を超える。

今申し上げた「枠」を超える憲法解釈というのは、九条のもとでは不可能ということです。仮にこれを九条のもとで持つことができるというと、九条の持っている規範の力を無にするに等しいわけですから、形骸化するに等しい。それには憲法改正が必要というべきです。根本的な安保政策の大転換ということについて、熟議の上で今の国民だけではなく、将来の国民も含めて、中・長期的な観点から考えなくてはいけないお話しである。熟議の上に国民的な決定がなされるべき事柄である。私たちの議論というプロセスがとばされてしまう。憲法改正条項があるのに、です。憲法軽視も甚だしい。

これに関連して最近では「必要最小限度のうちに少しなら入る」という議論が出ているのですが、「ちょっとならいい」というようなお話ではないわけであります。理屈として「できるかできないか」の問題なのです。ここで私、最近よく言っているのが、「小さく産んで大きく育てる」戦法だということです。限定的であれ理屈の問題をクリアしてしまったらあとは大きく育てていくということが可能になるわけです。

限定論の持ついかがわしさ、これは理屈の問題である以上は看過し得ないところです。実際のところ、理屈からすると石破さんが正しいわけでありまして、地球の裏側にも行ける。ここを止めるということは理屈の問題からは出てこなくなる。無理を通せば道理が引っ込むというところであります。これまで長きにわたって「無理だ、無理だ」ということは国会で何回も言われてきたことである。そういう意味で確定性の高いルールである。これを手続やプロセスを無視して、憲法を軽視して、私たちの議論を経ずに押し通すというのは政治のやり方として間違っている。政治権力の使い方として間違っていると言わざるを得ない。

そういうように、政治が、自分たちがやりたいことを強引に実現しようとしています。為政者の従わなくてはならない法というのは、為政者にとって「目の上のたんこぶ」といいますか、手足を縛るものですので、政治がやりたいことをやる時には邪魔なものでありますけれども、そういう時代だからこそ、危機が強調される時代だからこそ、法による権力の縛りは重要であり、縛られているという為政者の感覚が重要です。法のもつ意味や重要性を指摘していく必要があると、絶対にあると考えております。

おそらくこのあとお話をさせていただく時間があまりないかもしれないので、今のお話の関係で安保法制懇のことに触れておきます。私的諮問機関というものを通じて、憲法改正という大きなきっかけを作る。そのやり方はどうなのか。

これはつい最近の決算委員会で、風間直樹議員がそもそも安保法制懇は法的基盤がないじゃないかということを質問されていて、「内閣法四条をよく見てごらんなさい。内閣法四条によると、内閣の重要施策に関する基本的な方針について閣議が決める。いま問題になっているのはそういう施策には当たらないだろう」というようなことを国会で質問されているのです。私の言葉で使うと、これは下の部分のことで基層の部分であるという指摘と理解しています。

上のほうの短期的な政治における重要施策であればともかく、下のほうについては日本国憲法に従うならば、九六条があるわけですから、九六条によらないということが何を意味するのかというと、国民の議論を経ないという問題を抱えています。集団的自衛権というのは簡単にいえば戦争をする国、海外で武力行使をする国ということですので、一番必要なのは国民の間で覚悟をする、納得をする、あるいは別の言い方――とてもいやな言い方ですけども――、そういう政治的リスクに配慮するというようなこと。こここそが重要なわけでして、政治のやり方として、これはどう考えても正当化されないと私は考えております。ありがとうございました。

大竹弘二(政治学・南山大学)

私は今回の問題を考えるための手掛かりとして、思想史研究者としての立場から幾つかの視点を提起してみたいと思います。

まず第一点目として、先ほどから話題となっている解釈改憲について述べさせていただきます。これは、法の解釈や運用が法そのものを超えてしまい、それによって法秩序が形骸化してしまうという問題に関わってきます。普通に理解されているところでは、法を解釈したり運用したりする行為は、法を制定する行為よりも重要性が低いと思われています。まず法が制定され、そのうえでその法の解釈と運用が行われるわけですから、法の制定のほうがより重要であるというのは一見当たり前のように思えます。

しかし、法はひとたび制定されてしまえば、あとはそこにあるだけで自動的に効力を持ち続けるというものではありません。むしろ法は日々の解釈と運用を通じてはじめて効力を持つのです。極端な言い方をすれば、法は解釈され運用されるそのたびごとに絶えず新たに制定し直されているのです。このことは、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンやフランスの哲学者ジャック・デリダといった人たちによって繰り返し強調されています。法を適用する行為は、法の制定という最初の行為に劣らず、あるいはそれにもまして重要な行為であるとすら言えるのです。

法の解釈や運用というものの重要性にとりわけ注目した思想家として、20世紀ドイツのカール・シュミットという法学者がいます。憲法学や政治学を学んだ方々であれば当然ご存知でしょうが、非常に優れた学者でありながらナチスに加担した悪名高い人物でもあります。さしあたりここで私が取り上げたいのは、1930年代のシュミットが取り組んだ行政執行権の理論です。つまり、法を適用する権力の問題です。シュミットがこの時期に行政執行権の問題に取り組んだ背景としては、1929年に始まる世界大恐慌を挙げることができます。大恐慌の勃発とともに、ドイツは他のどの国にもましてひどい経済的・社会的混乱に見舞われます。しかしこのような国内の混乱を収拾しようにも、いちいち議会によって法律が作られるのを待っていたら、迅速で的確な対処はなかなかできません。そこで、立法の手続きを経るのではなく、むしろ執行権に幅広い裁量の余地を認めて、法律を柔軟に解釈・運用してもらったほうが、効率よく問題を解決できるはずだという考えが出てきます。そうしてシュミットは立法府が制定する法律を、行政府が下す措置によって置き換えようとすらするのです。

シュミットのこうした考えは、同時代のドイツの政治状況を反映したものにほかなりません。実際、大恐慌のさなかの30年代初めに成立したブリューニング内閣においては、まさにそのような行政権の肥大化とも言える事態が起こったのです。この内閣は少数与党としての不利を補うため、議会での立法を事実上放棄し、悪名高いヴァイマル憲法第48条の大統領緊急命令権を濫用して政策を進めようとしました。それによって行政府による措置が、法律に取って代わるほどの役割を果たすようになりました。本来は単に法律の適用を行っているはずの行政権力が当の法律そのものを超えてしまい、法の支配を骨抜きにしてしまうわけです。こうして法治国家と議会主義の破壊へと道が開かれたわけですが、30年代のシュミットは行政権力のこの極端な拡張を擁護し、まさにナチス体制をこうした論理によって正当化しようとしました。法治国家はいびつなまでに肥大化した行政国家の犠牲にされてしまうのです。

歴史上しばしば見られるのは、秩序の危機のさいには、あるいは――実際にはそうでなくても――秩序の危機ということを名目にして、法の支配が掘り崩されるという事態です。緊急事態に対処するには、法律の制定や改正という形式的な手続きに従うよりも、法律を運用する執行権力に自由な行動の余地を認めたほうが好都合だと考えられるからです。しかし事柄の迅速な処理を優先するあまり、法を過度に柔軟に運用することを認めるならば、法的安定性は危機にさらされます。法の条文をそのままにしながら、その解釈がそのつどの現実に合わせて自由に変えられるならば、法は単なる政治的リアリズムの道具になってしまうでしょう。解釈改憲というのが法の支配の根幹に触れる問題であるというのは、法がこのように有名無実化される危険と紙一重だからなのです。

ただしこのような指摘をしたからといって、いま行われようとしている解釈改憲はかつてのナチスの所業と同じだなどという単純なことを言いたいわけではありません。第二点目として私が指摘したいのは、今回の件は単に安倍政権だけの問題ではなく、誰が首相であろうが、どの党が政権に就いていようが起こりえたような、今日における統治のあり方の転換という大きな流れのなかで見るべきではないかということです。私が念頭に置いているのは、政治と経済、あるいは政治と技術やテクノロジーとの関係です。つまり、今日の国家は、憲法や法律のような法規範に基づくというよりは、経済やテクノロジーの論理によってますます左右されるようになっている。今日ではもっぱら、憲法や法律に体現される国民の自己決定ではなく、経済的もしくは技術的問題に迅速に対処するというだけの目的合理性が、政治の根本的な原理になっているのではないでしょうか。統治は法の支配から解き離たれ、単なる経済的・技術的問題の処理へと切り詰められつつあるようにも見えます。

例えば、これは法律ではありませんが、「武器輸出三原則」の緩和ということが近ごろ話題になりました。緩和の理由として挙げられたのが、国際的な武器の共同開発の進展ということです。武器開発の国際協力はどんどん進んでいるのだから、もし日本が従来の三原則を守り続けていると、武器の開発コストもかさみ、技術革新からも取り残される、と。一方では、戦後日本の平和国家としての国是があり、そのもとで三原則が定められたわけですが、しかし他方では、それとはまったく無関係に動いていくテクノロジーの進歩の論理、あるいは経済の論理があるわけで、政治のほうもそれを無視することはできなくなってしまっている。もしかしたら、同じく最近問題になった原発輸出の再開に関しても、これと同じことが言えるかもしれません。ビジネスや技術を媒介とした国際的な結びつきの深まりに国家の政策決定が引きずられるということが起きている。

いまや国と国との結びつきは、立憲主義や民主主義のような近代の政治理念によってではなく、単なる技術的・経済的な利便性のみによって維持されるような時代になりつつあるのかもしれません。日本とアメリカの同盟関係についても同じです。両国は価値観を共有する国などと言われながらも、実際には現政権の周辺の人々からとりわけ歴史問題に関わる無思慮な発言が続いたことで、いまや日本が本当に人権や民主主義といった戦後の普遍的価値を尊重している国なのかという点に疑念の目を向けられつつある。にもかかわらずアメリカが集団的自衛権やTPPによる日本との同盟強化に期待を示しているとしたら、それは、日本の人権感覚や民主主義の成熟度については疑問があるが、軍事的・経済的に役に立つからという理由でしかありません。もし日本が統治の効率性を優先して、立憲主義や民主主義の原則を削り続けるならば、今後日本はアメリカから本当にその程度の国として扱われてしまうことになりかねません。しかし、このように法や政治理念に対して効率的なガバナビリティを優先させるというのは、日米関係に限らず、今日の世界の政治一般の傾向なのかもしれない。

今日においては、法や理念に従って統治が行われるのではなく、経済的、技術的、さらには軍事的な合理性に即して統治が行われるようになりつつある。そして憲法や法律というものは、この新たな統治の合理性に役立たせるための都合のいい道具として制定されたり、恣意的に解釈されたりする。そのような政治のテクノロジー化ということが起りつつあるのではないかということを私は考えています。ですから、こうした事態に対して、立憲主義や民主主義はどのように対処すべきなのか、もしそれに抵抗すべきであるとすれば、どういう点で、どの程度抵抗すべきなのか、こういったことを考えていかなければならない。たとえ首相が変わったとしても今後同じような問題は再三にわたって現れるでしょう。その場限りの政権批判を繰り返すだけに終わらないためにも、現在の状況を根本的なところからとらえ直す必要があると思います。

私はいま「立憲主義」と「民主主義」ということを言いましたが、第三点目として私が注意を喚起したいのは、この二つの理念の複雑な関係についてです。この会は「立憲デモクラシー」ということを掲げていますが、歴史的に見ると立憲主義と民主主義は必ずしも両立するものではなかった。民主主義がなくても立憲主義が存在することはありえます。歴史的に見れば、この両者の関係は多くの問題を含んでいるのであって、政治思想史的にいまだに完全に解決されたとは言えない難問を孕んでいるのです。

例えば、安倍首相の国会答弁、「憲法解釈に責任を持っているのは内閣法制局長官ではなく、国民の負託を受けたこの私だ」という発言は再三やり玉に挙げられました。これは確かにナイーブな発言ではあるのですが、しかしある意味では、そこには一種の民主主義的なセンスのようなものが現れていると言えないこともないわけです。つまり、専門家による法解釈の独占に対して人々がしばしば抱くルサンチマンの反映という意味においてです。ここで暗に問われているのは、司法テクノクラシーの民主主義的な正統性の問題にほかなりません。

もっと学問的なレベルで言うと、民主主義と立憲主義、あるいは民主主義と法治国家の対立というのは、戦後のドイツにおいては憲法裁判所をめぐる法哲学的な論争のなかでしばしば問題になりました。ご存じのとおり憲法裁判所とは、議会で作った法律が憲法に適合しているかどうかを審査する司法の専門家集団で、いわゆる「憲法の番人」などとも言われます。最近の日本でも、維新の会などが憲法裁判所の設置を主張しているということで、先日の東京中日新聞でも日本で憲法裁判所は可能かどうかについて大きく紙面を割いて扱われていました。その場合、憲法裁判所は、その時々の政権による恣意的な憲法解釈を防ぐ防波堤になることが期待されているようです。

しかしドイツにおいても、憲法裁判所という制度がつねに自明の存在として受け入れられてきたわけではありません。近代民主主義の原則に照らしたとき、憲法裁判所の存在は決して疑問の余地がないわけではないのです。つまり、少数の司法専門家である憲法裁判所の判事が、国民の民主的な選挙によって選ばれた議会が作る法律の是非を判断するというのは、民主主義の観点から見てどの程度正当化されるのか。立法府による判断と憲法裁判所による判断のどちらにより高次の正統性があるのか。ここでは司法と立法との間に正統性をめぐる競合関係が生まれてしまうということが、エルンスト=ヴォルクガンク・ベッケンフェルデやインゲボルク・マウスといったどちらかというと左派系の法哲学者たちによって指摘されてきたわけです。

こうしたことを考えると、安倍首相のような行政府の長が「自分が憲法解釈に責任を持つ」などと主張するのが危ういことは言うまでもありませんが、憲法裁判所のような司法機関にそうした「憲法の番人」の役割を託したところで、問題が完全に解決されるわけではありません。内閣法制局であれ、憲法裁判所であれ、「憲法の番人」としての法律の専門家集団が民主主義と齟齬をきたすことはないのか。彼らの下す決定はどのような仕方で民主的な正統性を獲得できるのか。こうした点についてはなお問題が残るわけです。

ですから、単に立憲主義を守れ、あるいは法治国家を守れと言うだけでは、おそらく十分ではありません。それだけではおそらく、民主主義が専門家支配に対するルサンチマン交じりの反発、あるいは場合によっては過激なポピュリズムのような歪んだかたちで噴出するのを防ぐことはできないでしょう。そのような素朴な情念の発露に民主主義を名乗らせてはなりません。したがって重要なのは、立憲主義あるいは法治国家を守る一方で、「政治的なもの」としての民主主義をも救い出すことです。ときには齟齬をきたすこともあるこの二つの原理を同時に守っていくことが必要なのです。

カントの『純粋理性批判』の有名な言葉を借りれば、こう言うことができるのではないかと思います。「民主主義なき立憲主義は空虚であり、立憲主義なき民主主義は盲目である」、と。つまり、単なる立憲主義だけでは杓子定規な法形式主義に陥りかねない。他方で、立憲主義を欠いた民主主義は世論や民意なるものを盾にとった政治の暴走につながりかねない。立憲主義と民主主義は必ずしも一致するものではありません。しかし近代の「民主的立憲国家」においては、それらはしばしば対立しつつも互いに手を取り合っていくべき二つの核心的な理念にほかなりません。それらはいずれも、私たちが守り続けなければならない近代政治の最重要の遺産であるということを強調しておきたいと思います。

閉会挨拶

樋口陽一(憲法学)

今年は2014年、来年は2015年です。戦後70年です。ヨーロッパでは1995年、戦後50年の節目に当たって、ロシアを含めた戦勝4カ国が再統一を果たしたドイツを招いて、戦後50年の和解と発展のプロセスを記念する大変感動的な行事が行われました。

さてアジアではどうでしょうか。来年は戦後70年。政府というよりも私たち日本国民が、英米仏露中、第二次大戦全体としての戦勝5カ国とどのように対面するのでしょうか。どこかに集まるという意味ではなくて、国民の立ち位置として、どのような構えを私たち自身がするのでしょうか。もちろん、政府を通して何をさせるか、あるいは、何をさせないかということです。来年になれば8月15日という日がいやおうなしにやってきます。残念ながら現在の政権ですと、何かをさせる、我々の意思を外に表わさせるというよりも、何か余計なことをさせないということを、どのようにこれから私たちが取り組んでいくのかということです。

しかし、もっと深いところでは、私たち自身がどういう構えで戦後70年に向き合うのか。皆さん、私たち、今日集まったこの方々はもちろんですけれども、この問題を、どうか皆さん、それぞれにお持ち帰りいただいて、こういう問題の立て方そのものを、皆さんの周りの1人、2人、3人、4人に広げていただきたい。これは私だけではなくて、今日の会合を主催いたしました一同の願いです。

杉田敦(政治学・法政大学)

私のほうからは二つだけ申し上げたいと思います。

いま一番我々が警戒しなくてはいけないのは、論理とか整合性を無視するような風潮が出てきていることです。これにきちんと対抗していかなければいけない。解釈改憲を推進しておられる方々は、ついこの間までは、条文を変えなければいわゆる集団的自衛権の行使は全くできないとおっしゃって、だからこそ改憲が必要なんだとしていました。それが、今度は条文を変えなくても何でもできますという話にしているわけで、全く論理的な整合性がないわけです。つまり、まさに舌の根も乾かないうちに、という表現さえも浮かぶような、そうした豹変ぶりです。こういうことを許していくと、論理なんかはどうでもいいというシニシズム、冷笑的な態度が世の中に浸透してしまいます。そして、私たちが大切にしてきたいろいろなものの基礎が、全部失われてしまうのではないかと私は思います。

このこととの関係でもう一点申し上げますと、今、特に推進派の方々がおっしゃっているのは、いわゆる安全保障の問題と憲法の問題と、どちらをとるのかということです。安全保障の問題が、東アジアであまりにも重要になっている。先ほどのシンポで、中国の軍拡のことも議論になっていましたけれども、中国等の変化もあって、安全保障の問題がせり出しているので、憲法の問題などは無視していい、というのです。憲法なんていうのはしょせん道具にすぎない、というふうなことをおっしゃっている方もいるようです。しかし私たちにとっては、もちろん一方で安全保障は大切ですが、同時に憲法も大切であるわけで、しかも両者は関連し合っているわけで、この二つを両立させることが政治の使命なのです。

それなのに、安全保障上の必要ということが言われると、これまでの論理が全部吹き飛ばされてしまうといったことを許せば、あとは彼らの考えるような安全保障の必然性ということによって、全てが、まるで津波に流されるように、どこかに流されていってしまうことになるのではないか。安全保障上の必要性という表現に似ているのが、先ほどの話の中にもありました、経済的な必然性です。今、TPP論議の中で、とにかく市場の自由化が絶対的なのだという議論が出ています。こういうことによっても、従来のさまざまな議論や政策的努力が全部吹き飛ばされてしまう。安全保障とか経済というのは、もちろん人びとにとって大いに関心がある問題ですので、それが出てくると浮き足立つのはいたしかたないのですが、だからといって、議論や手続きをないがしろにするとどうなるか。法の支配そのものが失われ、それは結局のところ、私たちの生活の安定性そのものを脅かすことになるでしょう。今、そういう危険性を肌で感じています。

しかし、本日お忙しい中、これだけたくさんの方にお集まりいただいて、大変心強く思っています。ものをきちんと考えようとする人びとがまだまだ多いということで、勇気づけられています。私どもの会も発足したばかりでいろいろ行き届かない点も多いのですが、ぜひ今後とも一緒に考えていきたいと思っております。本日はどうもありがとうございました。