はじめに
大正十五年十二月二十五日、 大正天皇崩御遊ばされるや、 今上陛下には直ちに践昨遊ばされて元号を 「昭和」 と改
められ、 第百二十四代の皇位を践ませ給うた。
従って、 ムヵ年は、 今上陛下践詐より六十年に当る年ではあるが、 また、 延元元年よりは六百五十年に当る年でもあ
る。 延元元年は五月二十五日大楠公湊川で戦死、 十一一月には後醍醐天皇吉野に遷幸遊ばされて吉野時代 (南朝・ 北朝
と称するのは誤り。 吉野時代と称するのが正しい。) を迎へ ることになるのであるが、 歴史は吉野時代五十六年の後、
応仁、 文明の乱など足利下起上の時代を経て戦国争乱の時代ヘ と突入する。
すなはち、 今年は、 今上陛下践昨六十年の奉祝の年ではあるが、 吉野時代の始まつた延元元年よりは六百五十年に
当る年なのでもある。 われわれは深く厳しく国史を回顧し、 以て、 今日に如何に処すべきかを痛切に考へ 、 これを明
確にせねばならないであらう。
足利氏は新田氏と同族で賜姓源氏でぁる舞關H)。 清和天皇の第六皇子貞純親王の長子六孫王経基が源姓を賜はり清
和源氏の祖となった。 その長男が源満仲。 そして、 この満仲の長男が、 前九年、 後三年の役などで名高い摂津源氏の
祖の源頼光で、 その子孫に棚退治や宇治の平等院の扇の芝で有名な源三位頼政がある。 次男は大和源氏の祖の 縄一 縄~〟。
三男は河内源氏の祖の頼信で、 その子孫に八幡太郎義家、 鎮西八郎為朝、 牛若丸 (源義経)、 征夷大将軍源頼朝、 そ
四
これと並行に執権北條氏の系図を記すと (縣図)、 時政、 義時、 泰時、 時氏 (これは早世)、 最明寺入道時頼、 相模
太郎時宗、 貞時、 そして最後が執権北條高時である。
今日では、 子供の名前は、 父や祖父が命名し、 一生その名を使用するものであり、 文字の吉凶を選び、 祖先の名の
~字を用ひろなどして、 その子の将来を祝福するのが普通で、 それ以外に、 格別な観念を伴ってはゐないであらう。
しかし古昔に於いては、 重要な価値、 重大なる観念を有して居り、 生みの親のみが親ではなく、 今日でも名附けの
親といふが、 武士の間ではこれを討帽識織といひ、 離減暇に際して幼名を廃し、 成人としての命名を行った。 その時、
烏帽子を冠せる人が自分の名前の 一 字を与へるのが慣習であって、 名を与へた人を識階許糖、 与へられた子供を識幅
ヂヂ (児) といひ、 与へられた名を烏帽子名と言って、 この二人の間には親子としての厳格、 厳重なる倫理、 道徳が
成立したのであった。 文覚上人 (遠藤武者盛遠) は十三歳で元服したが、 そのことを 『源平盛衰記』 叶は
遠藤左近将監盛光が 一 男 ''''''' =十三に成りける年、 一門に遠藤三郎滝口遠光と云ふ者、 呼び寄せて元服せ さ せ
て、 烏帽子子とす。 父盛光が脚を取り、 烏帽子親、 遠光が揃を取りて、 朧朧と名を付け ....... ..遠藤武者盛遠とぞ
云ひける。
と記し、 義経が“縄,縄縄繍越の瞼を踏破の際、 道案内をした十八歳の男子 (熊王) に命名する時のことを 『平家物語』 九は
また、 水一円光園 (国) の元服に関しては 『桃源造事』 一 に
(寛永) 十三年丙子七月六日、 家光公の仰せによ っ て、 西山ハム (光園のこと。 幼名は千繧丸と称して ゐ た)、
江戸の御城にて御一九服、 御名乗りの字御拝領ありて、 徳川左衛門督光国 (光は家獅の光) と御名乗構脇候。 此の
時御歳九。
と記されてゐる。
以上、 引用数例にとどめたが、 烏帽子師といひ、 烏帽子刊といひ、 それは、 その文字の示すが如く、 親に仕へる子
としての道徳で以て結ばれ、 更にその殆んどは主従の関係で以ても結ばれてゐたのであつ七。
足利氏と北条氏との関係
以上のことを踏まへ て、 足利氏と北條氏とがどの様な関係にあつたかを眺めると、 足利氏は系図に記した如く、 頼
義から義氏まで 「義」 の字が続き、 義氏から高氏まで丶 一応、 「氏」 の字が続いてゐるが、 これは祖先の名 の 一 字
(片名) を受け継いで来たものであらう。
また、 北條は執権、 足利はその家臣であって、 両者は代々、 主従の関係で結ばれて来てゐるのであるが、 さうした
主従関係以外に 〈縣図)、 顧時は謝氏に、 時柳は柳氏に、 師宗は家師に、 郎時は朗氏に (この貞氏と、 その次男の高氏
の命名に関しては、 先に 『異本伯耆巻』 を引いてこれを記した)、 そして潮時は、 師義、 静氏、 師国の三兄弟にと、
それぞれ、 北条氏は先祖代々、 その名の 一 字を足利氏に与へて密接な親子の関係が続いてゐたのであっ攫。
しかも、 それのみならず (蝋細同)、 時政 (北條) の娘は義兼 (足利) に嫁いで義氏が生まれ、 その義氏には泰時の
(北條) 時政働 ・・・・・・・・・・ ・・泰時衡野晴氏胸
娘が嫁いで泰氏が生まれ、 更に泰氏には時氏の娘が嫁いで頼氏が生まれてゐるのであって、 北條氏と足利氏の関係
は、 単なる主従の関係のみにとどまらず、 親子として、 肉親として、 百年以上の緊密なる血縁で結ばれて来たのであ
って、 足利氏は先祖代々、 北條氏の格別なる信頼と恩愛を、 最も深く、 最も厚く受けて来てゐたのであった。 それを
裏切り、 重代の恵離を仇で返へしたのが足利高氏であった。
系図口の高氏の下に (尊氏) と記したが、 これは衆知の如く、 北條高時から与へ られた 「高」 を丶 建武中興に際
して後醍(職天皇から 「尊」 の字を賜はって尊氏と改めたのであった。 しかし、 その後、 天皇に掘き、 逆賊となっ
てそれは没収された。 当時は騒乱甚だしく、 そのことは 一 般には周知徹底されなかったが、 准后として吉野朝廷
で最も重きをなした北畠親房が、 一貫して 「高氏」 と記してゐることは、 朝廷では 「尊」 の字を没収し、 その使
用を認められなかったことを反映してゐると言ひ得るであらう。 事の道理からも当然のことながら、 当時の有力
な記録に照しても 「尊氏」 と記すことは誤りであらう。 更に言ふならば、 彼は 「尊」 の字を賜はったとき 「高」
の字は放棄したのであり、 そして更に 「尊」 の字も没収されたのであるから、 彼の名前には発地周のみが残り、 記
すべき文字は喪失してしまったと言はなければならない。 従っ て該当する文字がなく、 繍TAKA氏〟 とでも記
七
ては最も不利な立場にあっ た。 が、 一 日一、 勅命を奉じた宗広は寡兵を以て十万余騎の大軍を敵とし、 鎌倉幕府百五十
年の木瞳に対して敢然と義軍を挙げたのであった。
これら全国に服起した勤皇義軍の将兵たちは、 勅命を奉じては利害打算を敢闘し、 微力、 寡兵を以て、 日夜悪戦苦
闘を続けてゐた。 その最中、 同じく勅命を副きながら、 足利高氏は何を考へ、 何を企らんでゐたのであったらうか。
彼は、 最初、 後醍醐天皇攻撃の北条軍に加はっ て笠置攻略に参加した。 ついで、 船上山に向ひ、 後醍醐天皇攻撃の
大将となって出撃した。 のであったが、 高氏は戦闘らしい戦闘は 一 度も行なってゐなく、 己れの出血を避け、 犠牲を
出すことを拒否してゐた。 何が故に高氏はその様な態度をと ったのであつ渡らうか。
足利の野心と怨念
孔子は、 色彩に於い て、 音楽に於い て、 また、 人物に関して、 或は人心を魅惑 し、 或は好倭邪智にして真鱈弁じ難
いものは、 やがて世道人心に混乱を生じ、 国家を転雪に導き、 人倫の破壊に及ぶでぁらうCとを恐れ丶 そ の 正邪曲
直、 理非の弁別を明確にせねばならぬことを説いた。 論語の陽賞篇に
紅紫不以為喪服。
と言ってゐるのはこれである。 揚雄はこれを踏まへて 『法言』 (吾子) に 「蒼蠅紅紫」 と言った。 紅と紫は間色で、
正色の朱に似てゐることから、 ものごとの紛らは しいこ と に喩 へ、 肝細なる者が純正なる者に似て弁じ難いことを指
一。
摘し、 割幡 (あをばへ) は白色と黒色との間色で、 明瞭でないことから黒白、 善悪の弁じ難いことに喩へ、 人傳陶が
ようと陰謀術策をこととする抜滑な小人俗物を指す言葉にな った。
足利に属して、 その家臣、 部将とな った者、 その殆んどが嬌慢、 叛逆の徒輩であった中に、 細川頼之と今川了俊の
二人は文武兼備、 終始、 足利に尽した人物であったが、 その晩年は嫉視忌憚、 語構嫌疑うち続き、 落鹿不遇の身をか
こ った。 細川頼之はその不遇を詩に託して 『海南行』 を作り
満室蒼”“縄離掃難去 起尋禅楊臥清風 ~
と詠じた。 頼之は、 足利にとっては最も重要な人物の 一 人であったが、 それが端紺(も 「満室の蒼蝿、 掃へども去り
難し」 と、 足利には好倭邪智、 校猪なる悪臣、 逆臣が数限りなく満ち溢れ、 正常を期することは不可能であると洩ら
したのであった。 字数、 僅か七字の此の 一 句に、 足利の内実、 如何に醜穢不潔なるものであるかをうかがひ知ること
が出来るのである。 ー
いま 一 人の今川了俊、 これも晩年不遇でその最期を知ることは出来ないが、 かっては高氏の最も有力なる腹心の部
将であった。 この了俊が、 足利の家に伝はる、 先祖の源義家の國雄 (遺言状) を 「我等なども拝見申したり」 とし
て、 これをその著 『雛太平記』 に記した。
その置文は
われ
我、 七代の孫に、 誰が訳、 生れかはって天下を取らしむべ し。
といふものであって、 「七代目の子孫のとき、 俺が生れ代って、 必ず天下を取らしてやらう。」 日本の国の支配者にし
てやらうといふ遺言状であった。 ところが、 その七代目の子孫に当る足利家時は天下を取ることが出来ず、
我が命をつづめて、 三代の制にて天下を取らしめ給へ。
「私の命を縮めて三代の子孫の中で天下を取らして頂きたい。」 と八幡宮に顧をかけて割腹自殺をした。
今川了後はこれを見せて貰ひ、 それを著書に書き残したのであ った。 が、 それによっ て、 足利の家には凶悪不出口な
る野心、 恐るべ き怨念の血の流れてゐることを知ることが出来るのであるが、 この家時から三代目に当るのが、 高氏
であった。 高氏にして、 もし天下を取ることが出来なければ、 足利の棟梁として、 家時と同様に割腹して子孫に怨念
を伝へねばならないであらう。 さなくば、 北條氏を倒して天下を取らねばならない。 高氏はこの二者択一 に迫られて
ゐた。 その時、 正中の変が起り、 続いて元弘の変が起った。 天下の形勢、 未だ判然とはしないが、 野心成就の機運が
睡し出されて来っ つあると秘かに感じと ったに違ひあるまい。 もはや高氏には、 北條へ の殉節もなければ、 勤皇の義
軍挙兵もあらう筈はない。 存するものは天下掌握の野心であり、 考へるところはその為の手段、 工作のみであったで
あらう。 されば、 高氏は、 北條方の攻社軍に参加したものの、 終始、 換手傍観、 ただ天下の成り行きを眺めてゐただ
けであった。
やがて、 北條氏の命運危殆に瀕し、 ちはや風前の船淵なるを見てとった高氏は、 これを裏切り、 寝返って、 始めて
勤皇の義軍に加はった。 加はったとは言ふものの、 戦闘に関しては極めて消極的で、 兵力の出血消耗を避けて、 ただ
ひたすらこれを温存し、 北條氏滅亡後の足利政権の樹立に備へ てゐた。 北條氏滅亡の際、 大波羅探題 (北方) の北條
仲時、 京都での戦敗れ、 伊吹出量、 近江国の番場で自害したが、 その時、 これに殉じた将卒は四百三十二人。 執権の
北條高時は鎌倉東勝寺で自決したが、 これに殉じた者八百七十余人、 同時に鎌倉の各地に於いて自害して殉じ た郎
一 一
一二
等、 家臣は六千余人の多数にのぼった。 い)っ れも北條氏に殉じたのであった。 しかるに高氏は、 累代非常なる恩籠を
”繍”ー ったにもかかはらず、 その滅亡を望み、 これを裏切って弓を引いたのであった。 のみならず、 大楠公、 新田義貞、
名和長年らが悪戦苦闘の最中、 すでに、 全国の有力なる諸大名に書状を発して利を以てこれを誘ひ、 天下掌握の工作
を着々とめぐらしてゐたのであった。 すなわち、 建武中興成れるの日に、 すでに高氏は足利政権樹立の根を広く深く
全国におろしてゐたのであった。
高氏が発した書状は、 ただ、 利を以て人を誘ふところの、 実行不可能なる空文に過ぎず、 政権掌握の為の欺満行為
でしかなかった。
しかるに 『太平記』 記すところの
古より今に至るまで、 人の望む所は名と利の二つ也。
を挙げ、 また
武家四海の権を執る世の中に、 又、 成れかしと思ふ人のみ多かりけり〟
を挙げて、 建武中興の失敗の 一 に、 論功[打賞の不公平を掲げるものが多いが、 しかし、 論功行賞以前に、 すでに高氏
は、 利欲、 権勢、 名利、 名聞で以て多数の武士を誘惑し、 火に油を注ぐが如くにして中異の業を混乱せしめ、 これを
破綻に導いてゐたのであった。 のみならず、 彼は事もあらうに
君と君との御争ひになして合戦を致さばや。
きは 一 点だに存せずと言はなければならないであらう。
この吉野時代を経て義満の時代に入ると、 明徳の乱、 応永の乱が起り、 続いて永享の乱、 嘉吉の乱と、 戦乱暴動は
相び継いで応仁の乱、 文明の乱となり、 明応の乱を経て戦国争乱の時代に突入するのである
高氏より義昭までの足利十五代。 その二百三十年は、 親子兄弟血で血を洗ひ、 権勢、 権力の座をめぐって主従相ひ
争ふ、 下麺上、 内乱暴動のうち続く醜悪なる時代であった。 その間、 足利はそれを蜩に見、 副伽享楽逸楽のみを事と
して、 国を思はず世を思はず、 重税を課しては花の御所を営み、 金閣を造り、 異国脇には土下坐して金銭を乞うて銀
閣を建て、 ただ遊楽にのみ耽ったのであった。
その最後の第十五代足利義昭は、 衰微した足利の挽回を図って織田信長に頼り、 信長老父と仰いで尊敬したが、 思
俗なる義昭は、 信長の勢威、 日に盛んなるを朧み、 清疑の果は東の雄上杉、 武田と結び、 西の抗は毛利と結んで信長
の接離を企てるに至った。 怒った信長は義昭を追放、 天正元年七月、 足利は亡び去った。 この足利十五代、 二百三十
八年、 それはただ私利私欲を貪り、 道義、 人倫を破壊して我が国の歴史を傷つけた汚濁の時代でしかなかった。
七生滅賊
七生まで、 ロハ、 同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ。
の言葉に対して
我れもかやうに思ふなり。 いざさらば同じく生を替えて、 此の本懐を達せん。
と答へ、 互ひに刺し違へて亡くなった。 七度同じ人間に生まれ替はって朝敵を滅ぼさずにはおかない。 天皇陛下をお
護り申し上げるのだ。 といふ最後の量=葉に対して、 足利に伝はる置文は
七代の孫に、 吾が身、 生まれかはって、 天下を取らしむべ し〝
といふものであって、 内掘育、 全く逆である。 大楠公の方は陛下を護り、 国措護持に 一 家一族滅亡した。 足利の方は私
利私欲、 権勢欲の為に、 我が国を無悪なる棚ばかき乱して滅び去ってい った。
明治八年四月四日、 明治天白玉は水一戸徳川邸に行幸遊ばされ、 御製を詠ませ給うた。
花ぐはし 桜もあれど このやどの
伴伴のこころを われはとひけり
花見に来たのではない。 水戸光囲以来、 代々の忠節に感謝の気持をもって来たのである。 と仰せられた。 そして明治
三十三年、 天皇は光囲に、 人臣として最高の位である正 一 位を贈らせ給ふた。 その勅書に
湖縄】是レ勤王ノ信首・一 シテ、 実ニ復古ノ指南タリ。
と、 明治維新の指導者はこの人 (水戸光聞) であると記されたのである。 何故であるか。
元禄五年八月、 光園は大楠公の墓碑 「嗚呼忠臣楠子之墓」 を建てた。 それよりして大楠公を尊び仰ぐ気風が盛んに
なり、 幕末に至って勤皇の志士は七生滅賊を誓ひ、 一 命を賭して王事に尽し明治維新を成就したのであつた。 「ム「楠
公」 と呼ばれた真木和泉守は 『楠子論』 を著して
されば三百年の末になりて、 湊川戦死の跡に、 水戸黄門光囲卿、 嗚呼忠臣の碑を建てられしが、 天下の人、 かり
そめにも義理をわかち知るもの、 墓前に拝伏して其の高義を感じ、 涙をそそがぬものなし。
一五
と詠み、 また、
湊川 御識の文字は 知らぬ子も
膝折りふせて 淵剛といふめり
と、 大楠公に限りなき尊敬の念を寄せた。
楠公の忠節に対する感激と畏敬は、 外国人にもこれを語らせた。 「青葉茂れる桜井の里」 の駅趾に英文 の碑が あ
る。 これを記すは妻応元年、 英国公使として来日したパークス (出典~越 のヨ離島 出離~体観)。 その文は次の通りである。
Har鞭 S- Parkes
British Minister t。 Japan,
Masatsura
at this sp。t, bef。re the battーe 。f the
Kusuncki Masashige.
Minat。gawa, A・D・ ー336,
A tribute by a f。reigner
t。 the ー。yaーty 。f
“the faithfuー retainer”
Wh。 parted fr。m his s。n
N。vember ー876
記すところは 「延元元年 (一 一二三六)、 湊川に出陣する前に、 此の地に於いてその子正行と訣別したり」 とあり、 「一
外国人より捧げたる讃辞」 として 「一 八七六年十一 月 駐日英国公使 ハリー ' エス ・ パークス」 とその名を書き記
して、 楠公を尊敬する者であることを示した。
いま ~人は米国の学者グリフィス博士 (言一一~”ョ 働一一離。” の『離離縄離) である。 グリフィスは明治三年十二月に来日、 福
井縄-〟 (福井県) で教鞭をとり、 更に南校、 開成校 (後の東京帝大) に移り、 化学科の創設に力をつくし、 化学を初め
て我が国の学生に難義した人であった。 このグリフィス博士の著書に -劇出働 貴】管ワ〇)の 國富応見ぬ~) 『皇国』 があ
り、 その中に (原文省略) 「私は日本の学生及び友人達に向って、 日本の歴史の中で誰が最も偉いかと、 屋々、 尋ね
たことがあったが、 誰に聞いても、 何階尋ねても、 答は常に定まって大楠公であると答へ た。 日本人が楠公を目標と
してゐる気持は、 実に 一 種の宗教である。」 と記して居り、 パークス、 グリフィスの二人は、 欧米流に 富めゝの出離の【
m 射口の口迄〇穴掘とは書かず、 日本の言ひ方で 射口の口之〇穴』 皇の惨め出離の付 と記してゐるのであるが、 大楠公が、 幕
末維新より明治にかけて、 どれ程、 尊敬崇拝を受けてゐたか丶 これをうかがひ知ることが出来るであらう。
また、 高村光雲は大楠公の銅像を作り、 陛下を永遠に守護し奉る楠公の精神を明確に表はさんが為に、 有識者はこ
れを宮城二重橋前に建立した。
~ このたびの大東亜戦争、 戦局調なる棚、 われわれの友人、 先〝繍】"〟繍は 「非理法権天」 菊水の旗を離かせて戦場に赴き、
回天魚雷に、 神風特攻隊に、 若き命を護国の鬼と化して逝った。 名附けて帥く 「千早隊」 「金剛隊」 「菊水隊」 「変
離隊」、 すべ て大楠公を仰ぎ、 大楠公忠死の精神に帰したのであった。
をはりに
戦前に於いては、 国民すべ てが大楠公を日本歴史上、 最高の忠臣として敬仰、 高氏を逆賊の最たるものとしてこれ
を指弾した。 しかる に、 戦後は、 占領政策、 左濃川』革命思想で以て、 わが国の歴史は、 過去に於いて過ちを犯した罪悪
の歴史であり、 節系おお謝)は人類最高の、 唯 一 絶対の原理であるかの如くに鼓吹妻信させられて、 正邪の判断も、 順逆
の別もこれを失ひ、 変節、 曲学横行して、 高氏を浮塵軽率に、 しかも、 無理にこれ達磨美しょうとする傾向がある
が、 それは、 戦後四十年、 乱臣賊子を賞揚する不純なる乱世、 濁世がうち続いてゐるものであると言はなければなら
~ 0
L
今上陛下践酢六十年を迎へ るに当り、 想ふは六百五十年前、 建武、 延元の昔である。 六百五十年前、 後醍〝縄離天皇先
頭に立たせられて、 諸皇子をも犠牲にせられ、 破邪顕正、 苦難の道を馳僻歩まれて道義の如何に重きかを国民に示し
給)った。 殉忠死節の忠臣達は、 天皇の叡慮に副ひ奉るべく、 一切の利圭=打算を放闘して 一 身一家を嚥みず、 身を挺し
て困難に馳せ参じた。 建武、 延元、 純忠の歴史は、 道義の 一点に於いて微動だ にもせざる、 悲しくら離はしき君臣情
題の結晶であった。 今日、 国歩艱難なる秘、 建武、 延元の忠臣辛苦のあとに深く思ひを致し、 國離『〝離護持の苦難の道を
今日に継承して、 皇国の道義を明らかにせねばならないであらう。
(本文は正漢字)
参考文献ー平泉澄博士 「足利高氏名分論」 (『建武』 第三巻第 一 号)。 その他は本文中に記し社ので省略する。