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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:90」を破折する 連載130回

妄説:90 学会では、模刻本尊を総本山に納めたのは、「日達上人と僧俗和合を守りたい」という宗門側の願い出があったため、と説明していますが、本当ですか。

 これは全くのウソです。
 事実は創価学会が日達上人より叱責(しっせき)されて、総本山に納めたのです。
 この学会側の説明は、「昭和五十二年路線」の折、学会を信徒団体として善導すべく御苦心された日達上人の慈悲を、仇(あだ)で返す不知恩の姿そのものです。
 昭和五十三年九月二日の連絡協議会の記録に、学会が模刻した八体の内、七体の板本尊の処置について御指南を求めたのに対し、日達上人は「そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ」と叱責されたと記されています。
 そして、学会は九月二十八日に「七体の模刻本尊」を総本山に納めたというのが真実の経緯です。
 何ゆえに、勝手に本尊を模刻した大謗法の者に、宗門が願い出て納めてもらわなければならないのか、盗っ人たけだけしいとはこのことです。

破折:
1. 〝盗人猛々しい〟とは日顕のこと

 宗門が「盗っ人たけだけしい」と学会を誹謗するのは、盗人が露顕を恐れ、他者を泥棒と決めつける手口である。
 日顕が〝猊座〟を盗んだ悪業に対し、非難を浴びせた僧侶はすべて放逐され、盗人を〝法主〟と崇め奉った坊主のみが宗門に残った。「盗っ人の門弟」となった宗門の輩が、何程の者か。
               ◇
 阿部信雄の本物の日号は「日慈」である。阿部は勝手に日達法主から相承を受けたと言い出し、さらに勝手に日号を日慈から「日顕」と変えた。盗人猛々しいとはこのことだ。
 宗門の歴史で日号を自分で変えた僧侶はあとにも先にも日顕だけだ。ニセ猊座にふさわしいニセ日号だ。〝父親が日開だから親子で「開顕」か〟と、いまだに笑い話のネタにされている。
(『改革通信』NO.40 2005年12月22日)

 宗門・日顕宗の長は、聞くも忌まわしい〝相承泥棒〟である。法水写瓶に〝汚泥〟を詰めた張本人であることは分かっていても、宗門に籍を置いた者は口にすることができない。〝泥棒〟の手下となったことに引け目を感じているから、せめて学会をも盗人と呼ばなければ、〝間尺に合わない〟とでも言うのであろう。

 小乗大乗分別抄(五二一㌻)にいわく、
「此等の人師は世間の盗人にはあらねども仏法の盗人なるべし、此等をよくよく尋ね明むべし」

(これらの人師は世間の盗人ではないが、仏法上の盗人である。これらをよく問いただし、明らかにすべきである)

〝世間の盗人〟は現世の司直に裁かれ、「仏法の盗人」は大御本尊の御照覧のもとに、閻魔王庁での裁きが待っている。

 松野殿御返事(一三八九㌻)にいわく、
「法華経には行者を怨む者は阿鼻地獄の人と定む」

 宗門の輩は、地涌の菩薩・学会を怨嫉すればするほど、奈落へと堕ち行く定めにある。

2.坊主に〝赤誠〟は届かず
(1)御本尊七体を大石寺に納める――〝宗門の了解を得なかった〟との印象付け

 御本尊を謹刻する件は、学会は事前に細井管長(日達法主)に申し入れを行ない、了承されていた。
 その細井管長は後年、承認を与えたことを失念していたか、あるいは宗務院(責任者:日顕)より細井管長への報告が杜撰であったため、管長が〝新たな御本尊下付の申し出〟と誤解していたか(「妄説:85」(その二)および「妄説:87」参照)、いずれにしても宗門側に起因する問題が生じた。
 だが学会の側では細井管長のメンツを汚さぬよう、〝事前承認を得ていた〟と聖教新聞紙上で主張することを差し控えたのである。山崎正友が反学会活動家僧を煽っていた状況下、法主が体面を失えば、退座に直結する騒ぎにもなったはずである。
 よって細井管長が謹刻を「追認」する形となった。反学会活動家僧らを鎮めるため、同時に細井管長の体面を守るためにも、学会が過ちを認める形を取らざるを得なかったのである。それでも活動家僧らは承服しなかった。
               ◇
 八体の板御本尊の「模刻」という〝大事件〟は、反学会活動家僧の口から口を経て、たちまちのうちに全国に広がった。もはや〝政治的決着〟などで収まる状況ではなくなった。現状を追認する政治的決着では、細井管長が反学会活動家僧らから突き上げられ、批判の対象とされてしまう。創価学会側も〝実は事前承認だった〟と言えない立場である以上、燎原の火の如く広がるデマに反論する術はなかった。
 山崎はさらに〝もう一手〟を打ってきた。創価学会本部三階安置の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊以外の七体を、創価学会側から本山に納めさせるという〝調停案〟である。
 この〝調停案〟には、細井管長の娘婿である東京国立・大宣寺の住職・菅野慈雲も一枚噛んでいた。先述したように、七体の板御本尊は大宣寺を経て、大石寺奉安殿に移された。これにより、七体の板御本尊を創価学会が勝手に「模刻」したかのような状況が作られてしまったのである。
(『暁闇』北林芳典著 報恩社 2002年12月)

 不本意にも七体の板御本尊を大石寺に納めたことは、「学会で行なった御本尊謹刻は、宗門の了解を得ていなかった」と、否応なく内外に印象付けることとなった。

(2)〝謗法の烙印〟となる「不用意に」の加筆

 昭和五十三年十一月七日、池田会長以下創価学会員二千名が、大石寺大客殿において、細井管長以下六百余名の僧侶に対し直接頭を下げる「お詫び登山」を行なった。
 その当日に辻副会長が読み上げる原稿にあった「ご謹刻申し上げた御本尊」との文言に、細井管長は「不用意に」との一言を加筆し、「不用意にご謹刻申し上げた御本尊」としたのである。前夜になって、宗門側の強い要請があり、学会はそれを呑むしかなかった。
               ◇
 辻 宗門側の言い分は、これを入れてくれないと、騒いでいる反学会の活動家僧侶が納得しない。彼らが納得しない限り、学会がこの「十一・七」でいくら僧俗和合のための方針を徹底しても事態の収拾にはならない、というものだった。まことに不本意ながら、僧俗和合実現のためにやむをえず、ああした表現になったのです。
(発言者:辻参議会議長『聖教新聞』1993年9月15日)

 やむなく挿入された「不用意に」の文言が、学会に「謗法の烙印」を押した。〝法主の尊厳〟のためにと学会が守ったその当人から、「不用意に」の一言が書き加えられ貶められるとは、誰が信じられよう。
 今、振り返ってみれば、考えられない話である。創価学会には一点の誤りも無い。それが何ゆえ、こうまで徹底して理不尽な仕打ちを受けねばならなかったか。
 一面、学会に信仰者の〝赤誠〟を見るようであるが、他面では、あまりに〝無防備〟であり〝愚直〟に過ぎた。
 学会に落ち度があるとしたら、〝宗門は聖職者〟との思い込みが強過ぎたことにある。だが、坊主に赤誠は届かない。

3.僧俗和合のため泥をかぶった学会

 八矢 底意地(そこいじ)の悪い光久は、日達上人が謹刻した御本尊について、〝どこか金庫にでもしまっておけ、人目に触れさせるな!〟と立腹(りっぷく)して、学会がどう処置していいか困ったなんて言ってるわね。
 原田 これもまったくのデタラメです。活動家僧侶(後の正信会)が謹刻問題で騒(さわ)ぎ出した際、学会としては、あくまでも日達上人をお守りする立場から、昭和五十三年九月二日の目通りの席で、御本尊の扱いで指南を求めたわけです。
 秋谷 そう。その時、日達上人は「すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構です」と言われたんだ。私もその場にいて、この耳で聞いている。その日達上人のおっしゃった通り、翌日の聖教新聞に報道されています。
 森田 ところが今度は、それを材料にした活動家僧侶が、「また猊下は学会にだまされ、利用された」と騒ぎ出し、収拾(しゅうしゅう)がつかなくなった。日達上人に対して、活動家僧侶はものすごい剣幕で詰め寄っていた。
 佐藤 結論として学会は、その目通りの後、本部常住の板御本尊以外の七体の板御本尊を本山に納めることになりました。これについても光久は、〝大宣寺が学会に泣きつかれた〟などと、とぼけたことを言っていますが。
 原田 あべこべだ。学会が大宣寺に泣きつかれたんですよ(笑い)。菅野慈雲が「猊下は活動家僧侶との板挟(ばさ)みで、学会を守るために苦しんでいる。猊下の立場を考えて、板御本尊については、本山に納めてくれないか。そうしてくれれば、問題はすべて収まるから」と言ってきたんです。
 森田 とにかく当時の宗内は、山崎正友の暗躍と活動家僧侶の暴走で揺れに揺れていた。学会としては、こうした宗内の混乱を収拾することが最優先課題と判断した。だからこそ、日達上人を守るために、学会本部常住の御本尊以外の七体の板御本尊を大石寺に納めたわけです。
 秋谷 その通りです。本来なら、いくら菅野に泣きつかれようが、それに応じる必要など一切なかった問題です。それもこれも、すべては日達上人を守り、僧俗和合をしていこうとの思いから、あえて学会が泥をかぶり、譲歩(じょうほ)もし、耐え忍んだのです。
 原田 そうです。だから、御本尊を納めた直後、学会としても日達上人に申し上げた。「こちらは御指南を守って言わないのに、活動家僧侶がまだいろいろ言っています。これではまったく困ります」とね。それに対して日達上人は、「わかった。それでは院達(宗門・宗務院からの通達)を出します」と言われ、それで例の「一切論議を禁止する」という昭和五十三年十月三日付の院達が出されたんです。
 佐藤 しかし教学部副部長の水島など、こうした経緯をネジ曲げて、〝昭和五十三年十一月の幹部会で、辻副会長(当時)が、「不用意に御謹刻申し上げた」と謝罪したから、論議を禁止した〟などと言っている。
 八矢 まったくどこまでひねくれているのかしら。「悪世の中の比丘(びく)は邪智(じゃち)にして心諂曲(てんごく)」(御書二二四ページ)の通りだわ。
 森田 だいたい、あの「不用意に御謹刻申し上げた」の表現は、代表幹部会の前日、突然、宗門側の強い要請があって挿入(そうにゅう)させられたことじゃないですか。陰では全部、あの〝極悪ペテン師〟山崎正友の策略だったんです。
 秋谷 宗門側の言い分は、〝これを入れてくれないと、騒いでいる活動家僧侶が納得しない〟〝彼らが納得しない限り、学会がいくら僧俗和合を徹底しても事態は収拾しない〟というものでした。つまり、事態収拾のためにということで話し合った結果、入れた文言(もんごん)だったのです。そうした経緯を承知(しょうち)のうえで、日顕たちはその文言だけを取り出し、〝あの時謝(あやま)ったじゃないか〟〝あれは偽(いつわ)りの反省だったのか〟と言ってくる。無慚無愧(むざんむき)とはこのことで、信義も何も通じないところです、日顕宗は。
 赤沢 まったく嘆(なげ)かわしい限りです。あの人たちには、この件で感情的に騒げば騒ぐほど、日達上人に疵(きず)がつくことが、まだわからないらしい。
 秋谷 大聖人は「ほろぶべき事を知りながら申さぬは諛臣(ゆしん)とて・へつらへる者・不知恩の人なり」(同一四一二ページ)と仰せです。
 光久にしても、藤本にしても、あるいは菅野にしても、本来、日達上人の弟子として、先師に違背(いはい)し宗門を破滅に追いやる日顕に対し、命懸(いのちが)けで諫暁(かんぎょう=いさめただす意)すべき立場にある。
 原田 それを見て見ぬふりをするどころか、媚(こ)び諂(へつら)ってお先棒(さきぼう)を担(かつ)いでいるのだから、話にならない。この三人は〝腰抜けトリオ〟として、日達上人の遺弟たちからも陰で笑われているらしい(笑い)。
 森田 笑われて当然ですよ。大客殿をはじめ、大化城、六壷、総坊前の桜と、大石寺から日達上人の事跡が次から次へと取り払われているというのに、彼らはただボーッと指をくわえて眺(なが)めているだけなんだから(笑い)。
(『聖教新聞』1997年10月18日)
                           (了)
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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:89」を破折する 連載129回

妄説:89 昭和五十三年十月三日付の「院達」(宗務院からの通達)に「今後は創価学会の板御本尊に関しては、一切論議を禁止する」とありますが、今になって模刻問題を持ち出すのは御先師日達上人に背(そむ)くことではありませんか。

「昭和五十二年路線」は、昭和五十三年六月十九日に宗門から学会に宛(あ)てて送付された「教義逸脱」に対する質問書を受けて、六月三十日付聖教新聞に掲載された「教学上の基本問題について」を、会員に周知徹底する約束と、同年十一月七日の総本山における「創立四十八周年記念幹部会」での謝罪をもって、日達上人は学会の反省懺悔と受けとめ、問題を収束(しゅうそく)されたのです。
 当時、日達上人は宗内僧侶に対して
「只今の回答では、まだ満足しない人があるだろうけれども、大体この線で了解を願いたいと思います。そして今後、改めて進んで行こうと思います。又それが三年先、五年先にどう変わっても、それは我々の責任ではないんだから、皆の考えに於いてどう取っても結構だけれども、最近の問題はこの辺で納めて貰(もら)いたいと思います」(大日蓮 390-45頁)
と仰せられています。
 しかし、正信会と称する一部の僧侶が日達上人の方針に従わずに「模刻問題」を取り上げる動きがあったため、宗務院から昭和五十三年十月三日に「一切の論議を禁止する」旨(むね)の「院達(いんたつ)」が出されたのです。
 ところが、現在、創価学会が謗法路線を鮮明にしているのですから、先の日達上人の「三年先、五年先にどう変わっても云云」のお言葉どおり、宗門として学会の無反省体質を指摘し「本尊模刻問題」が学会の体質そのものであることを指摘するのは当然です。

破折:
1.学会に「本尊模刻」は存在しない

 学会に「本尊模刻」なるものは、当初より存在しない。それは板御本尊への「御謹刻」を、言葉の響きから生じる悪印象を意図とする「模刻」と読み替えた、宗門の謀略が凝縮された語である。
「模刻」の語は、本来は書蹟を保存する行為を指すのであり、悪い意味では無い。だが、そこには〝偽物〟が混じり込むことがある。
 例えば〝模刻切手〟が存在するが、これは本来「参考品」として発行されるものである。だが、中には「模造」「変造」「偽造」等、騙す意図をもって作成され流通するものがある。
 要するに「模刻」の語には、隠れて不正を行なう行為を暗示させる効果がある。だが、御本尊を荘厳し奉る「御謹刻」に、どのような不正が働くのであろうか。
 古来より大聖人の御真筆を真似た贋物(にせもの)が作成され、今日に幾多も伝わるが、それらが作成された意図は美術品・骨董品と同じく〝対価〟にある。しかし宗門の歴代上人書写の御本尊に、それ(対価)を求めようとも無理である。

2.板御本尊に御謹刻すれば功徳が増えるか

 紙墨の御本尊と、板に御謹刻した御本尊との、功徳の差はあるか。大御本尊は板御本尊、個人が授与されるのは紙墨の御本尊である。それゆえ板御本尊のほうが、功徳があるとするか、否である。
 戸田会長は「各家庭の御本尊は大御本尊の血肉をわけた分身であり、功徳に変わりがありません」(『戸田城聖全集』第二巻 質問会編)と講じている。
 御本尊の相貌こそ「正意」であり、〝板〟と〝紙〟との勝劣を論ずるまでも無い。御本尊の材質にこだわる宗門こそは、〝御本尊の正意を下す輩〟と言わねばならない。

「原田 もともと紙幅の御本尊を板御本尊に彫刻することは、宗内では昔から行われていることです。昔は〝御形木三年〟といって、そのあとは信者でも、板御本尊にするのが当たり前だったんです」(『聖教新聞』1997年10月16日)

 かつては信心の過程において、御本尊を大切にしようとの純真な一念が生じ、板への御謹刻が行なわれてきた。そこに謗法の要素がどこにあろうか。

「谷川 先日ある僧侶から聞いたことですが、当時大方の宗門僧侶の間には、学会の御本尊謹刻が教義上の『謗法』だという感覚など、全くなかったというんです。それが騒ぎになったのは、坊主には、寺は板御本尊で会館は紙幅御本尊だから〝寺の方が会館より上〟という愚かな上下意識があり、その〝差別〟が崩されて、信徒が来なくなり御供養が減ることが怖(こわ)かった。これが実は本音だったというのです」(『聖教新聞』1993年9月15日)

 宗門から〝問題〟とされた理由が、仏法の論議には無いことは分かっていた。それが「御供養」というあまりに世俗的な要因にあったとは。実に分かりやすい、坊主の性(さが)である。

3.「日達上人違背の大罪人」=日顕

 先師・日達法主の誡めを破って「模刻問題」を取り上げた日顕は「日達上人違背の大罪人」であり、その行為は「日達上人の御意に背く謗法」である。それは日顕自らが言明したことである。
              ◇
 私の言、即ち日達上人のさまざまな御指南も拝し、あらゆる情況も考慮して、そのうえから、〝今日、正法を護持し、広宣流布していくうえにおいては、この模刻御本尊について論ずべきではない〟と考え、4月6日の代替奉告法要の砌(みぎり)にこのことをはっきりと申しました。それを皆さんにも、守っていただきたいのであります。
 いまだに創価学会が御本尊を偽作したということを言っている人がおります。また、いろいろな出版物等にも書いておるようです。しかも正宗の僧侶が、袈裟・衣をまとっておる者がそれを書いているのであります。
 このことに関しては、日達上人御自ら昨年の寺族同心会の時に
「学会は正宗の御本尊を、模刻はしたけれども偽作はしていません」(当誌 98号・38ページ)と、はっきりおおせになっているではありませんか。それをどうしてあなた方が、そのお言葉に背いて「偽作だ」と言わなければならないのですか。まさに日達上人違背の大罪人でありまするし、私の心にも背くものであります。
 総じて〝“触れるな〟といわれたものに触れることは、謗法と断じます。
(「全国教師指導会の砌」昭和五十五年七月)

 なかでも御本尊模刻の件は、二年前の五十三年十月、すべての経緯を見きわめられたうえで御本尊に関する一切の大権を所持される御法主のお立場から、日達上人が処置を完了し、今後このことについてとかくの論議は無用と決断済みであります。今もって蒸し返して謗法論議をすることは逆に日達上人の御意に背く謗法といわなくてはなりません。
(「宗内檀徒の皆さんへ」昭和五十五年十一月三日)

「私の心にも背く」とあるのは、学会破門前、すなわち悩乱する以前の日顕である。その後、謗法となった日顕は、かつての自分より「日達上人違背の大罪人」と断じられている。これだけは〝千三つ〟(大嘘つき)の日顕の言葉でも、わずか三つのうちの真実である。

4.御本尊を「謀略の道具」に

 秋谷 御本尊謹刻のことは、十数年前、日達上人が〝今後一切言ってはならない〟と院達を出され、厳しく戒められたことです。それを持ち出すことは、先師に対する大変な反逆になる。
 斉藤 その通りです。後で申し上げますが、そもそも御本尊謹刻は、日顕や藤本も言っていたように、仏法上また日達上人の御指南に照らして、謗法でも何でもないことなのです。
 辻 当然だよ。日達上人の書写された御本尊を謹刻しても、日達上人の御本尊に決まってる。日寛上人の御本尊を御形木御本尊にしても、日寛上人の御本尊に決まってるじゃないか。その御本尊を謗法だとか、功徳がないとかいう日顕たちこそ大謗法だよ。
 高橋 その謹刻のことを利用して謀略で騒いだのが、山崎正友や正信会ですね。
 辻 そうです。だから日顕たちは、正信会の猿マネをしていることになる(笑い)。
 谷川 そもそも日達上人が禁止されたことを破ったのは日顕でした。日顕は、今回の問題が起きた直後の平成三年一月六日の本山での会合で、この謹刻問題を学会攻撃のために使っていいという指示を出しています。それも、僧侶の話によると、新年の樽酒を開けてホロ酔い気分で号令したというんです。
 辻 とんでもない男だ。日顕は最初から御本尊を謀略の道具にしようとしていたということだね。
 原田 ええ。「大白法」では、謹刻は日達上人の許可を得ていなかった等と、まず経過をごまかしています。そして〝学会は日達上人のお心を踏みにじり、再び大謗法を犯した〟などと臆面(おくめん)もなく書いています。
 秋谷 全く笑止千万だ。日達上人の心を踏みにじって、御本尊謹刻のことをまだ言っているのが日顕たちではないか。
 辻 その通り。これ自体、大謗法だよ。
(発言者:秋谷会長、辻参議会議長、原田副会長、斉藤教学部長、高橋婦人部書記長、谷川青年部長『聖教新聞』1993年9月15日)

5.日達上人の指南を破った日顕

 秋谷 だいたい、この件については日達上人がわざわざ院達まで出され、「一切論議を禁止する」(昭和五十三年十月三日付)と厳命されていた事柄です。いったい日顕は、どこまで先師・日達上人に逆らって、いちいち弓を引けば気がすむのか。
 八矢 藤本にしろ、光久にしろ、あれだけ日達上人に世話になっておきながら、日顕にお世辞をつかって、日達上人の指南を破るとは何ごとですか。弟子として、いや人間としても最低ですよ。
 佐藤 信徒には「師弟の筋目」などと偉そうに言っておきながら、自分たちはいとも簡単に師匠の戒(いまし)めを破る。どうせ日顕に脅(おど)されて仕方なくやったんだろうが、彼らの名は師匠を売った〝忘恩の徒〟〝裏切り者〟として永遠に残るだけだ。
 秋谷 しょせん、あの連中は、自分の保身のことだけしか頭にない〝小心者〟だ(笑い)。やはり一番の極悪(ごくあく)の中の極悪は日顕だ。
 森田 そうですね。そもそも日達上人の院達を最初に破ったのが日顕だ。今回の問題が起きた直後に、この謹刻の件を学会攻撃のために使っていいという指示を出している。
 八矢 〝自語相違〟もいいところね。かつて「論議する者こそ謗法であります」(昭和五十五年四月六日、御代替奉告法要)と言っていたのは、だれだったかしら。
 原田 まったくだ。日顕は、その後も、「総じて〝触れるな〟といわれたものに触れることは、謗法と断じます」(同七月四日、全国教師指導会)、「今もって蒸し返して謗法論議をすることは逆に日達上人の御意に背(そむ)く謗法」(同十一月、「宗内檀徒の皆さんへ」)とも言っていた。
 秋谷 ところが、それが平成三年になると、例えば十一月の解散勧告書には「御本尊の模刻という前代未聞(みもん)の大謗法」、破門通告書には「勝手に模刻するという大罪」などと言っている。かつて自分で〝論議するな〟〝触れるな〟と言っておきながら、それを破門理由にしたということは重大な問題だ。
 森田 何のことはない。登座直後の日顕の指南からすると、日顕こそ大謗法を犯したことになる(笑い)。
 佐藤 日顕の〝自語相違〟〝二枚舌〟はシアトル事件裁判でも立証済みです。それこそ裁判になったってコロコロ主張を変えてくるんだから、〝裁判所公認の大ウソつき〟山崎正友といい勝負だ(笑い)。
 秋谷 そもそも、この問題の〝火種(ひだね)〟をつくったのが、ほかならぬ山崎正友だ。前回の宗門問題の時に、何とか学会攻撃の材料にしようと、裏で若手僧侶を焚(た)きつけ、無理やり「問題」にして日達上人を突き上げさせたのだ。
 森田 登座した直後の日顕は、そうした山崎の策謀(さくぼう)を知っていて、「あんたはウソつきだ!」といって山崎を退け、自分の血脈相承を否定した正信会についても擯斥(ひんせき)処分にしている。
 原田 ところが、今や日顕は、その山崎に「あの時はウソつきと言って悪かった。勘弁(かんべん)してください」と頭を下げ、かつて山崎や正信会がやっていたことを、そのまま〝猿マネ〟している(笑い)。
 秋谷 まるで山崎が法主で、日顕が檀徒か家来みたいな関係だね(笑い)。主客転倒もいいところで、自分のやっていることのおかしさが分からないほど、錯乱している。「頭(こうべ)阿梨樹(ありじゅ)の枝のごとくに・われたれども悪業ふかくして・しらざるなり」(御書九二四ページ)と仰せ通りの、まさに「頭破七分」の姿だ。
(『聖教新聞』1997年10月16日)
                           (了)

日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:88」を破折する 連載128回

妄説:88 「正信会裁判」の証人尋問で藤本総監は、本尊模刻について「これは謗法ではない」と証言されたそうですが、本当ですか。

 この質問に答える前に当時の状況を説明しておきましょう。
 日達上人の後董(ごとう)を受けられた日顕上人は、創価学会に対して大慈悲のうえから、教義逸脱(いつだつ)、謗法路線の過(あやま)ちを再び犯さないという条件のもとで一応許されましたが、自称正信会と称する一部の僧侶たちが、これを不服とし、創価学会の謗法を糾(ただ)すためといって、学会を攻撃し、ついには唯授一人の血脈を否定したため、日顕上人は正信会の僧侶たちを厳正に処分しました。
 これに対して正信会は日顕上人を裁判に訴えたのです。その裁判で、証人に立った藤本総監は八体の御本尊模刻について「これは謗法ではない」という証言をされましたが、続けて「手続き的に間違いを犯したということである」と証言しています。
 これは、当時の状況からみて、最大限に学会をかばった証言でした。
 なぜならば、同日の証言で、藤本総監は
「(御本尊を)無断で書写すれば謗法になります」
とも、
「(御本尊の複写は)御法主が御許可になればよろしいと思います」
と述べて、あくまでも御本尊に関しては、御法主上人の許可が絶対に必要であるという精神で一貫しているからです。
 また、相手(正信会側)の弁護士の
「一体のほか、七体の本尊の模刻は事前に猊下の承認を得たのですか」(取意)
との尋問に対しては、藤本総監は
「七体については知らなかった」
とはっきり証言されています。
 学会側は宗門が「八体の本尊の模刻をすべて認めていた」といっていますが、これは卑劣な責任転嫁(てんか)であり、まやかしの論にすぎません。

破折:
1.学会の板御本尊を礼拝した日達法主は謗法であるか

 藤本は「七体については知らなかった」と証言したが、当時の細井管長(日達法主)が了承していたことは、赤澤朝陽の社長が証言している。
               ◇
(前略)四十九年の秋ごろでした。仕事のことで、大奥の対面所で日達上人とのお目通りがありました。本来の用件が終わって、猊下はいったんお帰りになろうとしたんですが、思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤沢で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。私が「そうです」と答えますと、猊下は「他のもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げると、「うん。池田会長から聞いているよ。あと五、六体やらせてもらいたいと言ってたな」と言われて、部屋を出ていかれたんです。
(『聖教新聞』1993年9月30日)

 藤本が「七体については知らなかった」とあるが、宗門は学会の御本尊謹刻を知らないどころか、四体の板御本尊について末寺住職や本山の役僧が入仏法要を営んでいる。各々御供養をもらって帰ったはずであるから、知らないはずは無い。 
 藤本は、「自分は法要に行っていないから、知らない」と言いたかったのであろう。

① 関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊は、昭和五十年十月二十日、大阪・蓮華寺住職の久保川法章以下十一名が出席し、「開眼法要」が営まれた。そのことは、翌二十一日の『聖教新聞』に報じられている。

②・③ 本部三階師弟会館安置の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊と「賞与御本尊」の板御本尊の入仏法要は、昭和五十年十月二十三日、総監・早瀬の導師によっておこなわれている。このことは翌二十四日付の『聖教新聞』に報じられている。

④ 創価文化会館内・広宣会館の板御本尊については、昭和五十年十一月十七日、学会本部師弟会館において総監・早瀬の導師で「牧口初代会長三十二回御逮夜法要」がおこなわれた際、総監・早瀬が、広宣会館の板御本尊の入仏法要をおこなっている。

 創価学会本部にある三体については、細井管長自らが礼拝していた。昭和五十二年十一月九日、学会創立四十七周年慶祝法要のために創価学会本部を訪れた細井管長他六名が、師弟会館安置の板御本尊、「賞与御本尊」の板御本尊、広宣会館の板御本尊の前で、読経唱題をおこなっている。このことは、翌十日付の『聖教新聞』で報じられた。
(『暁闇』〈著者:北林芳典 報恩社 2002年12月〉より)

 日達法主が学会により御謹刻された板御本尊を礼拝したと言うことは、謗法でも何でもなかったわけである。謗法の〝ニセ本尊〟であったら、法主が拝むわけが無かろう。

2.御本尊を荘厳する行為(御謹刻)を宗門が誹謗
 
 斉藤 日達上人が、学会本部をはじめ、他の御本尊の謹刻のことも、明確に承知されていたことは明らかですね。
 赤沢 そうです。本部師弟会館の御本尊の御謹刻の依頼を受けて、取り掛かったころですから、私もよく覚えています。
 高橋 日達上人もご存じで、了解されていたことを〝謗法〟呼ばわりする日顕こそ、先師否定の大謗法じゃないですか。
 秋谷 御謹刻は日達上人の了解を得たうえで始まりましたが、本部師弟会館の学会常住の御本尊のとき、再度、連絡会議にもかけている。四十九年の九月二日です。そのときは、総監代務者の日顕自身が宗門側の責任者として出ていて、日達上人に取り次いだのです。そのときも、はっきりと了解をいただいている。それを、ごまかしているんです、日顕は。
 辻 五十年一月一日に池田先生中心に学会本部で入仏式を行い、当時の聖教新聞にも大きく掲載されました。一月二日に初登山し、お目通りした折にも、先生は日達上人に明確に報告されているし、日達上人自身、その報告があったことを周囲に言われている。
 秋谷 日顕宗は、学会に対する平成三年の解散勧告書では、御本尊謹刻のことを「前代未聞の大謗法」などと言っていたが、謗法でも何でもないことは明らかです。これを解散勧告の理由にしたということは重大な問題だ。これ自体が先師日達上人に対する大反逆だからです。
(発言者:秋谷会長、辻参議会議長、斉藤教学部長、高橋婦人部書記長、赤沢猛さん〈赤澤朝陽社長〉『聖教新聞』1993年9月30日)

3.存在しなかった御謹刻の「手続き」

 藤本は「手続き的に間違いを犯した」と言うが、従来、定められた手続きは存在しなかったのであり、必然的に「間違い」も存在しなかったのである。
               ◇
 佐藤 赤沢さんの証言で、池田先生と日達上人の間で、話があったことは明白です。そのうえで確認しておきたいのですが、実際に謹刻する際の手続きはどうなっているのですか? というのも、光久は〝なぜ内事部に報告しない〟〝口約束だけで仕事をするなんて怠慢(たいまん)だ〟と難クセをつけているのですが(笑い)。
 赤沢 いや、当時は、そんないちいち内事部に書類を提出したり、報告するようなことはありませんでした。通常、信徒の皆さんから依頼を受けた時にも、末寺の住職に身元の確認をするぐらいのものでしたから。本山から報告を要求されるようになったのは、日顕の代になってから、とくに内事部に御本尊を取り扱う第三課ができてからのことです。
 森田 だいたい連絡会議等で、そんな話は一度も出なかったですよね。もしそんな手続きや方式があるなら、意地悪しないできちんと教えてくれればいいんだ。それこそ本山側の〝怠慢〟になる(笑い)。
(『聖教新聞』1997年10月18日)

 御謹刻にかかる〝書面による申告制度〟が布かれる以前に、口頭による申告で了解された時代に御謹刻された御本尊に、書面が存在するはずがない。それこそ「不可抗力」である。
〝書面〟が提出されなければ〝謗法〟であるとするのは、仏法の論議からの逸脱である。仏法を破壊する行為、すなわち「破仏法」である。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:87」を破折する 連載127回

妄説:87 学会では、当時の宗門と学会との連絡協議会を記録した「藤本メモ」に、本尊模刻について宗門側が承諾した旨、明記してあると主張していますが、いかがですか。

 昭和四十九年九月三日の連絡協議会メモ(別掲2)にある「OK」を見て軽々に判断を下さず、前日九月二日のメモ(別掲1)の内容をよく読んで「OK」の意味を考えなければなりません。
 連絡協議会の議題①~⑦の内で、①は九月三日のメモにあるように、正本堂二周年法要の名称についてですから、特に手続きが必要な事柄ではありません。
 ところが②~⑦の件は、よく読めばわかるように、すべて正式な手続きが必要なことばかりです。ですから九月三日のメモの「OK」は、いずれも前日の連絡協議会の御報告を日達上人にし、正式な手続きを開始する許可を賜ったことを意味する「OK」なのです。
 それより四ヵ月後の、昭和五十年一月十日付メモ(別掲3)に「日昇上人御本尊の彫刻については前に話しがあったかどうか記憶ない、許可した覚えはない」とあり、さらに日達上人は
「板本尊にしてほしいという願いはあったが、その後、御本尊下附願いが正式に出てこないので、どうしたのかと思っていたら、既に板本尊に直していたということを後から聞かされた」(菅野慈雲師手記・大日蓮 573-78頁)
と明確にいわれています。
学会は「連絡協議会のメモ」や、関係者の記憶で弁解せず、何年何月何日に正式に許可を戴いた、という明確な書類をこそ公表すべきです。その許可がないゆえに、「OK」の文字で学会員をごまかそうとしているのです。

破折:
1.「藤本メモ」検証(前篇)

「藤本メモ」は、「地涌」(日蓮正宗宗内僧俗の有志によるFAX通信誌)が報じた、日顕宗のウソを暴いたスクープである。
               ◇
 本紙『地涌』編集部は、日達上人が創価学会の御本尊謹刻を許可した経緯を記録した宗門側の極秘資料を入手した。その極秘資料とは、日顕宗の現総監である藤本日潤が、みずから綴った「備忘録」である。本稿では、以下これを「藤本メモ」と称する。
 この「藤本メモ」は、今回、創価学会側が明らかにした御本尊謹刻に関する事実を、ことごとく裏づけるものである。窮地に追い詰められた日顕宗は、創価学会を誹謗するために〝模刻問題〟を口にしているが、「藤本メモ」はこの日顕宗の主張を根底より崩す一級資料といえる。(中略)
 それでは、当時、庶務部長であった現総監の藤本日潤が日々の出来事を記録した「藤本メモ」には、御本尊謹刻についてどのように書かれているであろうか。
(『地涌』第699号 1993年10月1日)

① 昭和49年9月2日

 まず、昭和四十九年九月二日付の「藤本メモ」を紹介する。

 「9・2
   △后6:50~8:40 雪山坊 連絡会議
    阿部、吉田、藤本、理事    横山
    会長、北条、森田(康)、星生、八尋、平野
 1. 正本堂建立2周年記念行事の件、 ―10月11. 12の2日間
 2. 正本堂会計の収束について、  ―9月末日で収束
 3. 正本堂会計の土地を学会に譲渡する件、  ―扶桑文化センター等
 4. 宗門擁護基金について、  ―とりやめる
 5. 記念資料館について、  ―運営主体、富士美術カンに
 6. 旧妙國寺建物、土地譲渡の件 ―お願いしたい
 7. 本部三階の御本尊の件 ―板御本尊にしたい」

 この「藤本メモ」は、昭和四十九年九月二日午後六時五十分から八時四十分まで、雪山坊においておこなわれた創価学会と宗門の「連絡会議」の内容を記録したものである。
 その議題の「7」に注目すべきである。そこには、「7. 本部三階の御本尊の件 ―板御本尊にしたい」と記されている。この記録の示すところは、創価学会本部三階に安置されている創価学会本部常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊を、板御本尊として御謹刻申し上げたいと、創価学会側より宗門に願い出たことを記録したものである。

② 昭和49年9月3日

 では、この「連絡会議」の翌日である昭和四十九年九月三日のことを記録した「藤本メモ」を見てみよう。

「9・3
   [奥]*ゼ8:35~9:40(阿、吉、藤、理)
   昨夜の連絡会議の件 御報告
 1. 正本堂2周年法要の名称 正本堂建立第三年記念大法要
        第1日 世界平和祈願会
        第2日 正本堂建立第三年記念法要
 2の件 ―OK
 3の件 ―OK
 4の件 ―OK
 5の件 ―OK
 6の件 ―OK
 7の件 ―OK」

 以上の「藤本メモ」の意味するところは、九月三日午前八時三十五分から九時四十分にかけて、「奥」すなわち大奥に上がり、日達上人に前日の「連絡会議」について報告した、というものである。このとき、日達上人に直々に報告したのは、連絡会議に出席した阿部日顕、吉田日勇、藤本日潤、早瀬義孔の四名であった。
 この「お目通り」において日達上人は裁可を下している。「藤本メモ」には、「7の件 ―OK」と明記されている。創価学会本部常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊を板本尊として謹刻してよろしい(OK)と、日達上人が許可したのである。
 それなのに、なぜ、日達上人の許可を得て御謹刻申し上げた御本尊について、創価学会が勝手に〝模刻〟したなどという事実に反した悪い噂が立ちはじめたのであろうか。
 その解答は、創価学会が日達上人より御謹刻の許可をもらった翌年の「藤本メモ」に出ている。すなわち昭和五十年一月十日付の「藤本メモ」である。
(同)

③ 昭和50年1月10日

「                   1. 10
 [奥]*ゼ9:10(吉田、藤本)
 1. 昨日の会議の結果 御報告
  (藤本より)
 1. 妙教寺 駐車場用地購入承認書1/10付―印頂戴
 2. 仏心寺 土地贈与(学会へ、会館用地として)承認証―OK
 3. 本証寺 総代・補欠(K)選定届―OK
 4. 妙経寺 総代改選届      ―〃
 5. 興道寺 法ケ講役員改選届   ―〃
 6. 伊藤康二(品川区小山4―14―10)より藤本宛書簡(学会本部で紙幅御本尊を板御本尊に彫刻、入仏式をやったことが聖教新聞に出ている件について質問)
 御披露―G)日昇上人御本尊の彫刻については. 前に話しがあったかどうか記憶ない.許可した覚えはない。正月登山の時に。会長から『板御本尊にしました』という報告はあった。個人が受けた御本尊だから、その人又は会の宝物だから。どのように格護しようと他がとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは。前からも行なわれている。御開眼とか。入仏式とかは。信仰上からは。僧侶にお願いするのが本当だが。しかし。これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない。という事でもない」

 以上の「藤本メモ」は、次のように解される。
 昭和五十年一月十日午前九時十分、吉田日勇と藤本日潤の両名は大奥に上がり日達上人に「お目通り」した。この時、品川区在住の「伊藤康二」という人物が「藤本宛」に出した書簡を、藤本が日達上人に見せた。
 書簡は、「学会本部で紙幅御本尊を板御本尊に彫刻、入仏式をやったことが聖教新聞に出ている件について質問」したものであった。この書簡を見た日達上人(「藤本メモ」ではGとなっている)は、まず創価学会本部常任の本尊の御謹刻について、
「日昇上人御本尊の彫刻については. 前に話しがあったかどうか記憶ない. 許可した覚えはない. 正月登山の時に. 会長から『板御本尊にしました』という報告はあった」
 と述べたことが、「藤本メモ」に記録されている。この「藤本メモ」からうかがえることは、日達上人は前年(昭和四十九年)の九月三日に出した許可を〝失念〟してしまっていたということである。
 日達上人は〝失念〟の挙句、「記憶ない、許可した覚えはない」と発言したのである。その事実に反した発言は、以降もつづいたようである。
 ここで考えられるのは、庶務部長であった藤本がメモまでしていながら、日達上人の〝失念〟を正さなかったという職務上の怠慢の罪の重さである。このため、それ以降、宗内で無用の混乱がつづいたのだ。
 さて、この一月十日の「藤本メモ」によれば、日達上人はこのとき、藤本日潤に対して、前もって創価学会が日達上人の許可を受けていなかったにしても、紙幅の御本尊を板に御謹刻することは何ら悪いことではないと指南している。
 これは、きわめて重要なことである。しかも、板御本尊の開眼についても、「僧侶を呼ばなければいけない. という事でもない」と指南している。
 すなわち、紙幅の御本尊を板御本尊にすることは、御本尊を受持していく者の信心の表れであり、御本尊を一層大事にすることであるから、僧がそこに介在する余地はないとの判断を、日達上人は示されたのである。
 この昭和五十年になされた日達上人の指南からすれば、昭和五十三年に山崎正友らに操られた正信会の坊主らが、御本尊を〝模刻〟したとして創価学会を「謗法」であると批判したことは、まったくもって不当な中傷であったということになる。
 しかも、それは事実関係のみならず、教義においても、はなはだしく不当なものであったと言える。
(同)

2.「藤本メモ」検証(後編)
① 嘘と先師違背の日顕

 引き続き、「地涌」が報じたスクープより。
               ◇
「藤本メモ」によれば、日顕は、「本部三階の御本尊の件―板御本尊にしたい」との創価学会側からの願い出がおこなわれた昭和四十九年九月二日の連絡会議にも出席しておれば、そのことについて日達上人の許可を得た昭和四十九年九月三日の「お目通り」にも列席している。
 それでいて日顕は、事実に頬かむりして創価学会なかんずく池田名誉会長を誹謗しているのである。日顕は、「C作戦」を断行した直後の平成三年一月六日の全国教師指導会において、
「あの御本尊の件というのはね、私から言っとくよ。御本尊の件、御本尊模刻の件についてはね、これはね、こちらから基本的に、やはり今後も言わないようにしたほうがいいと思う。ただしなにかの話の中で『名誉会長は、池田先生は絶対間違いないんだ』というようなことを向こうが、いや信徒が話をした時、その時の対応の中では『御本尊模刻ということもありましたよ』ということは言っていいと思います。
 それから『名誉会長がどこまでも正しいんだと、誤りがないんだ』と言っている人が、信じている人がいるとしたら、その御本尊模刻の件も色々の指摘すること、間違いの中の一つとして『御本尊の模刻もありました』と言っていい」
 と述べている。日顕は事実を知りながら、ウソをついて信徒を誑かす大変な悪比丘であることが、この一事をもってもわかる。しかも、先師日達上人の指南に平気で叛き、「模刻」の問題に言及するように、平成三年一月の段階で全国の教師に早くも教唆したのである。
 日顕は、平成四年八月二十八日におこなわれた全国教師指導会においても、つぎのように話している。
「本尊について仏智をないがしろにし、『日蓮が魂を墨に染め流して……』ともかく日蓮大聖人の御心をないがしろにしている。池田大作が御本尊に関して明らかに大聖人の御心に背いている。
 したがって、本尊の模刻があった。本尊の模刻については私は関与していないけれどもだ。日達上人が、いろんな面で最終的には触れるなとおっしゃったけれども、今日ここに至れば、やはりその在り方のもとは、本尊蔑視の池田の本尊観からこうゆう本尊模刻というのが出てくるのだ」
 ここで日顕は、「本尊の模刻については私は関与していない」と言明している。だが、先の「藤本メモ」に記されているように、日顕は創価学会側が宗門に御謹刻を願い出た連絡会議にも日達上人が許可を与えた「お目通り」にも出席していたのである。
(同)

② 日顕や藤本の『ウソ』に踊らされた僧俗

 断るまでもないが、総監・藤本日潤の記したこの「藤本メモ」により、御本尊を板に御謹刻した創価学会の行為が、事実経過においても教義においても、なんら問題にされるようなことでないことが証明された。
 他方で、「藤本メモ」は、日顕や藤本が御本尊のことについても、シャアシャアとウソをつく稀代の悪比丘であることを立証した。
 平成三年十一月二十八日、日蓮正宗管長阿部日顕、日蓮正宗総監藤本日潤は、「日蓮正宗は、宗教法人創価学会を破門に付し、以後、日蓮正宗とは無関係の団体であることを通告いたします」(『創価学会破門通告書』より引用)という内容を骨子とする「破門通告書」を創価学会側に送りつけた。
 この「破門通告書」により全世界の一千万人の仏子が「破門」にされたのだが、その「破門通告書」にも、〝模刻問題〟が、「池田氏は、過去にも、あろうことか何体もの板御本尊を、勝手に模刻するという大罪を犯しております」(『破門通告書』より引用)と記述されている。
 日顕、藤本ともに事情を知悉していながら、創価学会破壊を目的として池田名誉会長に故無き罪を着せたのである。その悪辣な行為は、今日においてもつづけられている。
 本年九月十三日、日蓮正宗宗務院は「創価学会の『ニセ本尊』について」という院達を「宗内一般宛」に出したが、この院達の中でも御本尊謹刻の事実経過を無視し、以下のようなウソを公然と述べている。
「かつて、池田大作は、自らの慢心をもって宗門支配を企て、時の御法主日達上人に無断で御本尊を模刻し、各地の会館に安置するという非法行為を犯し、日達上人より厳しい御叱責を蒙って、総本山にその模刻本尊を納めたという経緯があります」
 この院達を出した宗務院の総監は、「藤本メモ」を書いた当の藤本日潤である。事実を知りながらこれだけのウソをつき、人を誹謗中傷することは犯罪である。日顕宗中枢の坊主らは、このような大それた犯罪行為を平気でおこなうのである。
 この院達は、創価学会が日寛上人の御本尊を会員に授与することを九月七日に発表したことにうろたえ出されたもの。だが、ありもしない〝模刻問題〟にこと寄せて創価学会の御本尊授与の不当性を述べている日顕宗の姿は、創価学会による御本尊授与がいかに正当であるかを逆説的に証明している。院達は先に引用した〝模刻〟に論及した文につづき、つぎのように述べている。
「しかるに、創価学会は、再びこの過ちを犯したのです。先には宗祖大聖人以来の唯授一人血脈相承を否定し、今また宗祖大聖人の御当体たる大御本尊の深義までを否定し、汚し奉ったのであります。
 宗内僧俗各位には、近年における創価学会の一連の言動が、ことごとく宗祖大聖人の御真意に反逆する大謗法行為であり、創価学会作成の本尊が『ニセ本尊』であることを、宗の内外に広く知らせるとともに、創価学会の邪義を徹底的に破折し、御法主上人の御指南のもとに寺檀和合・正法興隆のため、ますます精進せられるよう望みます」
 院達は、〝模刻問題〟と今回の〝御本尊授与〟を、同等の謗法行為としている。ということは、〝模刻問題〟が事実無根であり、まったく謗法でないことが確認された今、創価学会による〝御本尊授与〟も仏法上、なんらの咎もないことが証されたことになる。
 換言すれば、創価学会の〝御本尊授与〟に対する日顕宗による批判は、〝模刻問題〟同様の仏法に違背した難クセということになる。
 創価学会による“御本尊授与〟の聖業にケチをつけようとして、〝模刻問題〟とリンクしたことにより、かえって日顕宗の主張に根拠のないことが満天下に明らかとなったのである。
 宗内の僧俗は、いつまでも日顕や藤本の「ウソ」に踊らされていないで、真実を見つめ仏意を探る努力をすべきだ。同時に、〝模刻問題〟について沈黙することにより先師日達上人の徳を守り、泥をかぶってまで僧俗和合を願った池田名誉会長の広宣流布成就に向けての熱誠を思うべきである。
 なお参考資料として「藤本メモ」のコピーを掲載したので真実究明の糧としていただきたい。
(同)

3.日顕・藤本による日達法主への連絡不徹底 ~ 学会に責任転嫁か

 前々回の「妄説:85」(その二)連載125回において、『宗務院・学会記録文書』(発行者日蓮正宗僧侶有志、昭和56年1月10日発行)を紹介した。
 そこには、昭和四十九年九月二日の学会と宗門との「連絡会議」を受け、翌九月三日の「お目通り」において前日の議題内容を報告した宗務院側(日顕・藤本)と報告を聞いた日達法主との、議題の対象である御本尊の認識に不一致があったとの〝重大疑惑〟が記される。

「当時藤本師の連絡を受けた阿部師は、謹刻の連絡はいただいたはず、と9月3日のお目通りの件について述べているが、もし阿部師が9月2日の連絡会議での学会側からの要望を、学会独自で謹刻するとの心証で受け止め、且つ翌日のお目通りの際の報告並びに日達上人のOKのお言葉を、学会側で謹刻することに対する許可として受けとめたとすれば、御法主一人の御大権としての御本尊観に対して、重大なる認識の相違があつたとはいえまいか。もし上人(日達前法主)が当時ありのままを述べられれば、一切の責めは当時宗務当局に及んだことは必定であり、それを深くおもんばかられての御処置(論議禁止の院達と7体の御本尊の奉納)であった」(『宗務院・学会記録文書』5p)

 まず、九月二日に学会より板御本尊の御謹刻の申し入れがあった件につき、連絡会議に出席した阿部日顕が宗門側の責任者として、翌三日のお目通りにおいて日達法主に報告した。
               ◇
 翌三日、教学部長・阿部信雄より、創価学会理事長・北条浩宛に、
「一応、申し上げました。猊下ご了承です。後程、お目通りの時、先生からお話がある旨申し上げておきました」(同)
との返事があった。
(『暁闇』北林芳典著 報恩社 2002年12月)

 このとき日達法主は日顕の報告から、前日の学会からの申請の趣旨は〝新たな御本尊の下付願い〟であり、その上で板本尊に御謹刻するものと認識したとするのが、前出の文書の趣旨である。それを裏付けるように、今回の妄説には、次の日達法主の言葉が掲示されている。

「板本尊にしてほしいという願いはあったが、その後、御本尊下附願いが正式に出てこないので、どうしたのかと思っていたら、既に板本尊に直していたということを後から聞かされた」(菅野慈雲師手記・大日蓮 573-78頁)

 この言葉を、『慧妙』では次のように解説している。
               ◇
 日達上人は、学会の「板御本尊にしたい」という意味は、今までの日昇上人の紙幅御本尊はおしまいして、新たに日達上人に板御本尊の御下附を願い出るものと、このように思われて、そういう意味で御承知であったということ。(『慧妙』)

 しかし学会はあくまで、本部三階に御安置されている創価学会本部常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊を、板御本尊として御謹刻申し上げたい、と議題提示をしたのである。
 今、昭和四十九年九月二日付の藤本メモを見れば「7. 本部三階の御本尊の件 ―板御本尊にしたい」とあるだけで、〝従来よりご安置の御本尊の御謹刻〟とも、〝新たな板御本尊の御下付願い〟とも、どちらとも記していない。
 この通りの報告であったならば、あまりに手抜きではないか。いったい日顕も藤本も、何の具体的な内容をも報告しなかったのであろうか。それで法主が誤解する結果となったのならば、宗務院のミスを覆い隠すために、法主が論議禁止としたことになる。
 ただ、これはあくまで『宗務院・学会記録文書』を記した僧侶の推論も含め、宗門側の主張だけで推測するのみの話である。
 そもそも連絡会議の前に、池田会長から直接日達法主に口頭で申請したのであり、それは赤澤朝暘社長の証言がある。
               ◇
 四十九年の秋ごろでした。仕事のことで、大奥の対面所で日達上人とのお目通りがありました。本来の用件が終わって、猊下はいったんお帰りになろうとしたんですが、思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤沢で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。私が「そうです」と答えますと、猊下は「他のもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げると、「うん。池田会長から聞いているよ。あと五、六体やらせてもらいたいと言ってたな」と言われて、部屋を出ていかれたんです。
(『聖教新聞』1993年9月30日)

「四十九年の秋ごろ」とは、前述した昭和四十九年九月二日の学会・宗門の「連絡会議」の、おそらく直後のことと思える。すると「学会本部の御本尊は赤沢で彫ってるんだよね」との法主の発言から導き出される答えとして、新たに日達法主が書写して下付する御本尊のことを言ったものではないことになる。
 だが、翌五十年一月十日のお目通りにおいて
「日昇上人御本尊の彫刻については. 前に話しがあったかどうか記憶ない. 許可した覚えはない. 正月登山の時に. 会長から『板御本尊にしました』という報告はあった」
との日達法主の発言があったとするのは、いくら高齢であったとしても、わずか数か月で失念したのか、との疑念が生じ、不自然である。学会側の証言と宗門側の証言とで、あまりに懸隔がある。
 そもそも「今までの日昇上人の紙幅御本尊はおしまいして、新たに日達上人に板御本尊の御下附を願い出るもの」(『慧妙』)とあるが、何ゆえに従来より学会本部で礼拝してきた「日昇上人の紙幅御本尊」を仏壇よりお下げし、わざわざ当職の法主に書写を願い出る必要があるのか。話が不自然ではないか。
 歴代上人の御本尊の功徳に、差は無いはずである。それとも日達法主が自ら書写することに意欲的(言い方を変えれば〝自意識過剰〟)であったのか。 
 宗門側の記録(藤本メモ)で検証しようにも、連絡会議のページには「板御本尊にしたい」との要望を記すのみで詳細は一切無し、お目通りでは「OK」とあるのみで、これもまた如何様にも受け取れる。
 日達法主の発言は自語相違であり、宗務院の報告も具体的に記されず、等閑(なおざり)であったことは間違いない。宗門は確たる根拠が定まらないまま、法主が論議禁止としたのである。それはどこまでも〝学会側が不備であったため〟との印象を植え付けるものとなった。
 再度言うが、宗門はやり方が汚い。
                           (了)
                           
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:86」を破折する 連載126回

妄説:86  なぜ、学会は御本尊を模刻したのですか。

 はじめに、模刻とは、大聖人御図顕の御本尊や、御歴代上人が書写された紙幅(しふく)の御本尊を、板に御謹告(きんこく)申し上げることです。
 御法主上人の許可を得れば「模刻」自体は謗法ではありませんが、許可を得ないで行なった場合の「模刻」は大謗法であり、かつ正しい本尊とはならないのです。
 創価学会が御本尊を勝手に模刻したということは、当時の会長であった池田大作氏に、御本尊への信心がなくなっていたからにほかなりません。御本尊は根本尊崇(こんぽんそんすう)、本来尊重(ほんらいそんちょう)の御当体で信心の根本ですから本当に信心があり、御本尊への畏敬(いけい)・尊敬の念があるならば、御本尊に関しては厳格すぎるほど厳格に、慎重すぎるほど慎重にお取り扱いするはずです。
 ましてや、御本尊を模刻するという重大な行為ですから、何度でも御法主上人に御指南を戴くべく、総本山に足を運び、ことを進めるのが当然です。
 それを勝手に「模刻」を実行してしまったのですから、たとえどのような理由を並べようとも、池田氏には厳格な信心がなかったのです。しかも、当時池田氏は、本宗の全信徒に模範を示すべき、法華講総講頭の立場にあったのですから、なおさらのことです。

破折:
1. 〝御法主上人の許可〟とは「後出しルール」

「御法主上人の許可を得れば『模刻』自体は謗法ではありません」などと言うが、〝御本尊謹刻には法主の許可を要する〟とあるのは、史実に反する。宗門得意の「後出しルール」であり、「いいがかり」である。
 証拠は、庶務部長・藤本が書き止めた昭和五十年一月十日付の「藤本メモ」にある。 
               ◇
                          1.10
 [奥] ゼ 9:10(吉田、藤本)
 1. 昨日の会議の結果 御報告
  (藤本より)
 1. 妙教寺 駐車場用地購入承認書1/10付―印頂戴
 2. 仏心寺 土地贈与(学会へ、会館用地として)承認証―OK
 3. 本証寺 総代・補欠(K)選定届―OK
 4. 妙経寺 総代改選届      ―〃
 5. 興道寺 法ケ講役員改選届   ―〃
 6. 伊藤康二(品川区小山4―14―10)より藤本宛書簡
      (学会本部で紙幅御本尊を板御本尊に彫刻、入仏式を
        やったことが聖教新聞に出ている件について質問)
御披露G)日昇上人御本尊の彫刻については.前に話しがあったかど
     うか記憶ない.許可した覚えはない. 正月登山の時に.
     会長から『板御本尊にしました』という報告はあった.
     人が受けた御本尊だから、その人又は会の宝物だから.
     どのように格護しようと他がとやかく云えない.
     紙幅を板御本尊にするということは. 前からも行なわれ
     ている.
     御開眼とか. 入仏式とかは. 信仰上からは.僧侶にお願
     いするのが本当だが. しかし. これも個人の自由で、僧
     侶を呼ばなければいけない. という事でもない。
(『地涌』第699号 1993年10月1日)

藤本メモ2

 肝心な箇所は以下の文言である(原文の句読点を修正)。

「個人が受けた御本尊だから、その人又は会の宝物だから、どのように格護しようと他がとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは、前からも行なわれている。御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない」
(「御披露―G)」と記した箇所より一部抜粋)

 細井管長(日達法主)自身が「他がとやかく云えない」として、御本尊を授与された者の裁量に任せている。すなわち「法主の許可」云々は、学会を陥れるために後から定義づけた難癖である。
 法主が「個人の自由」と裁可を下し、役僧の藤本が書き止めた以上、「許可を得ないで行なった場合の『模刻』は大謗法であり、かつ正しい本尊とはならない」等の言葉は、何ら効力を有しない。
「御本尊に関しては厳格すぎるほど厳格に、慎重すぎるほど慎重にお取り扱いするはず」であることは、当然である。
 御本尊を最も慎重にお取扱いするべき者は、誰か、宗門管長のはずである。それがステテコ姿で庭で休憩しながら書写するなど、あり得ることか。書写して彫師に渡した段階で、一割近くも誤字・脱字があるなどと、信じられようか。
 このような者(日顕)が登座したこと自体、間違いであり、早急に退座すべきであった。それが四半世紀も猊座に居残るなど、おこがましい限りである。七百年の伝統ある宗門は、とうとう邪宗に堕した。もう元に戻ることはない。

2.御本尊謹刻は受持した人の自由

 学会は御本尊を御謹刻する事前に法主および役僧に申請しており、僧侶が入仏式で礼拝法要を行なっている。

 ① 池田会長が日達法主に口頭で申し入れ、快諾された。
 ② 宗務院との連絡会議において、正式に議題提出を行なった。
 ③ 御謹刻が成った板御本尊の入仏式において、末寺住職ないし本山の役僧が礼拝法要を執り行なった。

 上記の事実が存在するのに、宗門は何ゆえ〝学会が単独行動を行なった〟と誹謗するのか。

 ① 口頭での申請を法主が失念したのか。
 ② 連絡会議での議事内容につき、宗務院(責任者:日顕)が法主に説明不足の報告をしたのか。
 ③ 入仏式で導師を務めた僧侶が礼拝法要し、御供養をもらって帰った記憶すら亡失したのか、

 いずれにしても宗門側の問題であり、学会に責めがあるはずが無い。
               ◇              
 佐藤 私が理解できないのは、御本尊を大切にするために板御本尊にしたのに、何で宗門がとやかく言うのか、ということです。これは信心のうえから、どう考えたって納得できない。
 八矢 そうですよ。ご不敬したとか、紛失したとか、あるいは身延みたいにキツネや鬼子母神(きしもじん)を祀(まつ)ったというのなら話は別ですが、学会は御本尊を荘厳申し上げたんです。今ごろ日顕宗から文句を言われる筋合いなんてどこにもないですよ。
 秋谷 まったくその通りです。日達上人も、「御本尊は受持した人のものですから、信心の上で大切にするのであれば、板御本尊にするのは自由です。他の人がとやかく言うものではありません。紙幅(しふく)を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」と言われていた。それを今さら「謗法だ!」なんて、とんでもない言い掛かりだ。
 原田 そう。もともと紙幅の御本尊を板御本尊に彫刻することは、宗内では昔から行われていることです。昔は〝御形木三年〟といって、そのあとは信者でも、板御本尊にするのが当たり前だったんです。
 森田 現に大石寺周辺には、板本尊を持っている檀家はいくらでもいるし、初代会長の牧口先生の御本尊も板御本尊だった。
 佐藤 だいたい、彼らの言う、「模刻」という言葉自体が新造語でおかしい。まるで学会が勝手に御本尊をマネして板に刻んだような悪いイメージをつくろうとしている。もともとそれが、あの連中の狙(ねら)いなんだろうが、冗談じゃない。
 原田 そうそう。〝聖教新聞社の地下でつくった〟とか、ひどいのになると〝実はその時、板本尊を何百体もつくっていた〟と本気で信じている者もいる(笑い)。
 佐藤 改革同盟の大橋正淳住職(和歌山・大照寺)も、「正信会が騒ぎ出すまで、『模刻』なんて言葉は聞いたこともなかった」と語っています。
 原田 いずれにせよ、学会は日達上人の了解をきちんと得たうえで、日蓮正宗御用達の仏師に依頼し、御本尊を御謹刻申し上げたんだ。それに対して、向こうが日達上人の禁止令を破ってまで批判してくるなら、この際、こっちも事実関係をハッキリしておく必要がある。
 秋谷 あれは了解を得たうえでの「謹刻」であり、断じて彼らのいう「勝手に模刻」とか、ましてや御本尊に御不敬を働いた日顕宗が言うような「謗法」ではないことは明確だ。そもそも、御本尊にこと寄せ、そんなバカげた言い掛かりをつけること自体、信徒などいかようにも騙(だま)せるという日顕宗宗門のペテン師ぶりが如実に表れている。
(『聖教新聞』1997年10月16日)

3.宗門は御本尊をどう「お取り扱い」しているか

「御本尊に関しては厳格すぎるほど厳格に、慎重すぎるほど慎重にお取り扱いするはず」であると。では宗門は、御本尊をどれだけ慎重に「お取り扱い」しているのか、元・日蓮正宗御用達仏師である「赤沢朝陽」社長の証言をもって検証したい。
               ◇
 高橋 ところで赤沢さん、宗門の御本尊に関する姿勢はどうだったのですか。
 赤沢 学会と宗門の御本尊に対する姿勢は全然違います。これは、謹刻を依頼された時からそうです。学会の場合は、先生はじめ、本当に信心の真心から行われ、扱われていました。それに対し宗門は、御本尊をまるで〝物扱い〟なんです。
 谷川 具体的には、どういうことですか。
 赤沢 例えば、大石寺では、御本尊の謹刻をうちに依頼してくるときに、御本尊を書写した和紙を郵便書留で送ってくるんですよ。また、化粧直しのための板御本尊を他の業者に頼んで送りつけてくる住職もいます。こういうことについて、もし、途中で事故があったらどうするのか。私どもでは責任を持てないから他の方法を考えていただきたいと本山まで行って直訴(じきそ)したんです。これは平成二年の七月でした。日顕は「うーん、やらないほうがいいな」と言いながらも、結局、何も変わりませんでした。
 高橋 いや。日顕は、第一回海外出張御授戒の時、シアトル事件の前に、ハワイでトイレに大切な御本尊を忘れてくるくらいですからね(笑い)。
 谷川 昭和五十年でしたか、滋賀県の寺(仏世寺)の坊主が借金に困って、業者と共謀して寺の御本尊を持ち出しておいて、〝持っていかれた〟と狂言を繕(つくろ)い、本山から金を出させようとした、とんでもない事件があったと聞いています。
 秋谷 そう。当時、同じ布教区で、教学部長としてその坊主を監督すべき立場だったのが日顕(当時、京都・平安寺住職)だった(笑い)。これだって本当は重大問題です。この時も、全部、学会が解決してあげたんです。
 赤沢 あと日顕の御本尊に対する姿勢がおかしいなと思ったことは、実はたくさんあるんです。また、機会があれば、ぜひ、お話させてもらいたい。
 細谷 ぜひ、お願いします。それにしても、日顕はどこまで悪いのか計り知れない。
 高橋 赤沢さんの話で御本尊謹刻のことも、よりハッキリしましたね。
 秋谷 日顕たちが何を言おうと、所詮は、御本尊を〝商売道具〟としか見ない謗法の輩(やから)の猿知恵だ。その悪辣(あくらつ)さは、すでに白日のもとになっていますが、後世のためにも、この前代未聞の悪侶の実像を、今後もしっかり語り残しておきましょう。
(『聖教新聞』1993年9月30日)

4.日顕の〝誤字本尊〟〝脱字本尊〟

 辻 御本尊に対する確信なんて、まるでないのが宗門だ。牧口先生の罰論(ばちろん)を否定していたんだから、御本尊の功徳も罰もわからなかった。
 細谷 その信心がない証拠に、日顕宗が、いかに御本尊を粗末に扱ってきたか。今回も、赤沢猛さん(元・日蓮正宗御用達仏師である「赤沢朝陽」社長)に、また証言していただこう。
 赤沢 私どもでは、明治時代から代々の法主の依頼で御本尊を謹刻(きんこく)してきましたが、実は日顕の代になって、こんなに御本尊をいい加減に扱ってよいのかと思うことが、随分あったんです。
 高橋 具体的には、どんなことが、あったのですか。
 赤沢 日顕の御本尊に対する、信心の全くない姿です。日淳上人、日達上人時代には、考えられない、いい加減というか、ずさんなことが多かった。
 まず、日顕が書写する御本尊は、実は、不注意で御文字が抜けていることが多い。私どもは、こと御本尊のことでは、一切、間違いがあってはいけないとの厳格な姿勢できました。日顕が末寺や法華講の板御本尊用に書写した和紙が、本山から届いた段階で、謹刻する前に必ず、一体一体を点検するんです。すると、本来あるべき御文字が抜けていたり、名前などの御文字が間違っているんです。細かいのもあげれば、預かった御本尊の一割近くになるかもしれません。
 高橋 えっ。日顕は、書写の段階で一割も間違いがあるんですか。
 辻 そんな間違いだらけの本尊を書くようじゃ、御本尊を書写する資格なんかないじゃないか。相承(そうじょう)の有無を疑われても、しかたがない。
 赤沢 そうです。日達上人の時代には、考えられないことです。なかには「十羅刹女(じゅうらせつにょ) 阿闍世王(あじゃせおう) 大龍王」の三つを一遍に書き忘れていたり、「奉書写之」を抜かしていることもありました。
 斉藤 信じられないような話ですね。いったい、何を考えて書いているんだろう。それにしても、書いた後、自分で点検しないんですかね。何かといえば、法主の専権事項だと、いばりくさっておきながら、とんでもない話だ。
 谷川 昭和五十七年ごろ、日顕の奥番をしていた改革同盟の宮川雄法さんによると、日顕は、御本尊を書写する合間、書きかけの御本尊を何枚も畳の上にも並べっぱなしにして、中座して風呂に入っては、ステテコ姿で庭で休憩しているとか、オートメーションの〝作業〟のように書いているとか。信心を微塵(みじん)も感じられない姿であったということです。
 秋谷 その姿勢の中に、御本尊書写の資格を既に失っている日顕の正体が、よく現れている。表面は、仮面をかぶって聖僧ぶっていても、本性は天魔ですよ。
 高橋 法主は、命を縮めるような思いで、御本尊を書写していると思っていましたが、日顕は、色紙や何かの書き物をする程度の感覚しかないんですね。そんな軽々しい、乱れた姿で御本尊を書写するなど、大聖人がお許しになるはずが、断じてありません。
 秋谷 そう。大聖人は「日蓮守護たる処(ところ)の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず、経に云(いわ)く『師子奮迅之力(ししふんじんしりき)』とは是(これ)なり」(御書一一二四ページ)と仰せです。大慈悲、大勇猛心で御本尊に魂をとどめられた、この大聖人の仰せに照らしても、日顕がいかに御本尊書写を軽々に考えているかがわかる。大聖人の末流を名乗ることなど、全く、おこがましい。自ら恥じて退座すべきです。
 斉藤 ところで、御本尊の文字が抜けていることを、日顕には話したのですか。
 赤沢 もちろんです。一字、一点でも抜けていれば、大変なことです。その都度、本山まで出掛けていって、日顕に、その部分を直してもらったんです。ところが日顕は、自分の間違いを棚(たな)に上げて、点検係の僧に〝赤沢に渡す前に、もっとしっかり点検しろ〟と怒鳴りつけていたらしいんです。ですから、訂正の願いが度重なると、点検係も、日顕に取り次ぐのをいやがっていましたね。
 辻 僕も、あちこちの寺の行事で、日顕とは、随分、付き合ったが、あのわがままぶりは、みっともなくて他には見せられなかった。なにしろ、ちょっとでも気に食わないことがあると、突然、怒鳴りつけるもんだから、坊さんたちは怯(おび)えて近付きたがらない。それで、しょっちゅう、僕が相手をしていたんだ。あんな権威主義の、いやな人間はいない。
 細谷 宮川さんも、文字や点が抜けていることが、随分、あったと証言している。ある時など、点が抜けているのを、日顕に報告したら、「何だ! そこに置いとけ」と、怒鳴られたというのですから。大事な御本尊のことで自分が間違いを犯して、申し訳ないことをしたという気持ちなど、さらさらない。これが法主かと、呆(あき)れ果てていました。
 秋谷 信者や所化(しょけ)など虫けら同然と思っている、どうしようもないエセ法主ですよ。やることが、ひどすぎる。
 赤沢 しかも、日顕には、そうした訂正の願い出をするにも、いちいち御供養がいるのです。
 高橋 えっ。それはひどい。自分が間違って、人にまで迷惑をかけているのに、そのうえ、ぬけぬけとお金を取るとは。なんというあくどさですか。
 赤沢 日達上人は、そういう時には、「それは、こちらの間違いなのだから、御供養はいいんだよ」と言ってくださいましたが、日顕は、そうではないんです。
 細谷 守銭奴(しゅせんど)どころではない。要するに、日顕にとっては御本尊書写も金儲け以外の何ものでもないんだ。御本尊書写について、日興上人は「忝(かたじけな)くも書写し奉(たてまつ)り」(同一六〇六ページ)と仰せですが、もったいなくも御本尊を書写させていただくという報恩の思いなど、カケラもないのが日顕だ。
(『聖教新聞』1993年10月14日)

5.「体曲れば影ななめなり」

 赤沢 もう一つ、重大なことを申し上げます。実は、日顕は、御本尊の首題の御題目の字が、真っすぐ書けないんです。特に、「華」の字が、なぜか左のほうに曲がってしまうのです。学会の二百カ寺建立寄進が始まって間もなくの昭和六十年ごろから、末寺などの御本尊に、その傾向がひどくなってきました。
 辻 根性が、そのまま現れるんだね。
 赤沢 ある時、日顕もそれに気づいて、なんと「これは自分の癖(くせ)だ。そっちで真っすぐに直して彫ってくれ」と、面倒くさそうに言ったんです。これには本当に驚きました。とんでもないことを言うものだと思いつつも、私どもは、言われるままに御文字を真っすぐになるように曲尺(かねじゃく)で修正しながら、謹刻したんです。
 秋谷 いくら書写しても、題目の字が曲がってしまうとは、仏法は厳しいね。「体曲れば影ななめなり」(同九九二ページ)とは、まさに日顕の信心なき姿のことだったんですね。自分で直さないで、彫師に直させるとは、それでは書写とはいえないじゃないか。
 谷川 その、書写の題目が曲がっているのを直した御本尊は、何体ぐらい、あったのですか。
 赤沢 七、八十体ほどでは、ないでしょうか。
 辻 とんでもないね。それじゃあ、そういう彫師が修正した日顕の御本尊が安置されている寺もあるということだ。これこそ事実上の〝模造〟だ。しかも、それを日顕が命令している。
 赤沢 そうなんです。日達上人の時には、なかったことです。それが日顕は、御本尊の御文字の位置を私たち業者に修正させるのです。こんなことがあっていいのかと思っていましたが、だれにも言えませんでした。
 細谷 それに日顕は、一方的に叱(しか)りつけることが、随分、あったそうですね。
 赤沢 それも、なぜ怒っているのかわからないことが多いんです。平成二年の十月、板橋の妙国寺の新築に当たって、御本尊のお化粧(けしょう)直しをしたときも、そうでした。
 谷川 日顕の娘婿(むこ)の早瀬義純の寺ですね。
 赤沢 その妙国寺の、客殿の板御本尊の漆(うるし)と金箔(きんぱく)を塗り直したんですが、落慶式が終わった後で、日顕が、私に突然、すごい勢いで怒り出したんです。「何だ、あの御本尊は。塗り直しをやってないじゃないか」と。
「そんなことはありません」と言っても聞きません。念のために確認に行った者が「塗ってあります」と言っても、「そんなことがあるか!」と怒鳴りちらすばかりで、取り付く島もないんです。
 その後、仕方なく、本山に改めて謝りに行くと、また「あの御本尊は何だ。やってもいないものを、やってあるなどと、いいかげんなことを言うな。いったい、どうなんだ。返事をしろ!」と。とにかく、手がつけられませんでした。
 辻 自分で勝手に思い込んで、感情むき出しに人を怒鳴りつけるとは、暴君そのものだ。肝心の信心がない。全くの幼児性だし、駄々っ子みたいな〝見せかけ法主〟の正体がよくわかる話だ。
 秋谷 幼稚といえば、数年前、日顕に目通りした時、得意満面で、しゃべっていたことがある。なんと日顕は、テレビで相撲を見ていて、自分が好きな力士が土俵に上がると、〝題目を送ると勝つんです〟と言うんです。
 辻 ということは、日顕にとってテレビが御本尊で、それに祈っていたということになる。それじゃ、日顕が祈ったら、その力士は、全勝優勝できるのか。負けたら、どうするんだ。あまりにも子供じみている。幼児以下だね。
 赤沢 このほかにも、疑問に思ったことは、いっぱいあります。六十三年三月の広島・福山の正教寺の新築の際も、そうでした。お厨子(ずし)より御本尊のほうが大きくて納まらなかったんです。そしたら日顕は、住職に「赤沢に言って、御本尊を写真に撮って小さくしなさい」と言ったそうで、実際、写真で縮小して謹刻したんです。
 秋谷 厨子に合わないから、いとも簡単に御本尊のほうの寸法を変えろと言う、この感覚――。日顕が、いかに御本尊を軽く考えているかがわかる。ともかく日顕の物の見方は、すべて狂っているから、完全に顛倒(てんどう)している。
 高橋 これこそ御本尊まで自分の感情のままに〝物〟扱いしている証拠ですね。御本尊は、信心が根本じゃないですか。日顕には、その信心が全くないと言うしかありません。
 辻 そう。学会は、どこまでも信心で御本尊を拝してきた。だから仏力・法力が厳然と顕(あらわ)れる。戸田先生は、日興上人がご生前、最後にしたためられた「お筆止めの御本尊」を拝して、〝私は、この御本尊を拝するたび、泣けて仕方がない。お年をとられて、もったいないけれども、御本尊様のお文字が細く、枯れてしまっているのです。そこまで生命を打ち込んで御本尊をしたためられた、御開山上人の御心に涙するのです〟と言われていた。日顕のやっていることは、すべて、大聖人への冒涜(ぼうとく)であり、日興上人への師敵対以外の何ものでもない。
 秋谷 大聖人は「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)・未来までもながるべし」(同三二九ページ)と仰せです。日顕は、その御本尊の下付を止め、御本尊で脅(おど)し、御本尊を商売道具扱いしている。権威をカサに、御本尊を弄(もてあそ)んでいるんです。この破仏法の大悪人を放置していたら、それこそ御本仏のお叱りをこうむってしまう。私どもも、この座談会で、更に、この仏敵を、徹底して呵責(かしゃく)していこう。
(同)

 詐称法主・日顕の後を継いだのは、稀代の暴力住職・日如である。すなわち日顕の「所化虐待」を〝血脈相承〟した者である。
 このゆえに日顕・日如の書写した御本尊に共通する「一相」は、まさしく「暴力の相」であり、「修羅の相」である。「正しい本尊とはならない」のは、当然と言えよう。
                           (了)
 

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Author:墨田ツリー

 
 
 

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