日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:80」を破折する 連載113回
妄説:80 『十法界明因果抄』に「爾前経の如く師に随ひて戒を持せず、但此の経を信ずるが即ち持戒なり」(新編 216頁)とありますが、これは授戒の儀式を不要とする文証ではありませんか。
この御文は、釈尊の仏法において、法華経を信ずる者は戒を持つことになると明かされたもので、この文の前には「爾前の十界の人、法華経に来至(らいし)すれば皆持戒なり」とあるとおりです。
ですから、この御文をもって「僧侶による授戒は不要だ」などというのは、的(まと)はずれのいいがかりにすぎません。
本宗の御授戒は大聖人の時代からとり行なわれてきたものであり、即身成仏のために大事な儀式なのです。
もし、今になって「御授戒は必要ない」というなら、近年、何百万という人が御授戒を受け、日蓮正宗に入信された事実はどうなるのでしょう。御授戒は無駄なことであった、とでもいうのでしょうか。
大聖人様は『御義口伝』に「頭に南無妙法蓮華経を頂戴(ちょうだい)し奉る時名字即なり」(新編 1765頁)
と仰せられておりますし、日寛上人の『福原式治状』にも、
「本尊等、願の事。之れ有るにおいては、遠慮なく申し遣(つかう)べし(中略)たとへ授戒候とも、本尊なくば別して力も有るまじく候」
とあり、当時、御授戒が行なわれていたことが明らかです。
破折:
1.宗門の〝破和合僧〟により授戒の儀式が無用に
十法界明因果抄(四三七㌻)にいわく、
「爾前の十界の人法華経に来至すれば皆持戒なり、故に法華経に云く『是を持戒と名く』文、安然和尚(あんねんわじょう)の広釈に云く『法華に云く能く法華を説く是を持戒と名く』文、爾前経の如く師に随つて、戒を持せず但此の経を信ずるが即ち持戒なり」
(爾前の十界の人が法華経にくればみな持戒の人である。法華経には「これを持戒と名づける」とある。安然和尚の広釈には「法華経には『能く法華経を説くことを持戒と名づける』とある」と釈している。爾前経のように、師に従って戒を持つのではなく、ただこの経を信ずるのが、すなわち持戒である)
「この御文をもって『僧侶による授戒は不要だ』などというのは、的(まと)はずれのいいがかり」とあるが、逆に「僧侶による授戒が必要だ」とする御文が御書のどこに存在すると言うのか。
御書に不在の〝後世の化儀〟を崇めよ、とはすでに宗開両祖の仏法を離れ、現法主のための宗教であることを誇示するものである。
「本宗の御授戒は大聖人の時代からとり行なわれてきた」などと、どうしてそのような大嘘をつくのであろう。
〝歴代上人は無謬〟と宗門が言うなら、五十九世堀日亨法主が宗史を研鑽した結果、最蓮房の外には大聖人が授戒の儀式を行われた例はなく、日興上人もまた授戒された記録はない、と明言したことを無視するのか。
◇
大聖の御遺文のなかでも、問題未決ともいうべきが、最蓮房の塚原授戒の例はさらに一文も他にない。晩年期の三大秘法抄の文を味わってみても、将来の理想であって、現実ではおそらくあるまい。いわんや、開山在富五十年にも、公式の受戒は戒壇建立以前なれば、佐渡のごとく仮壇を設くるまでなく、一回も、半回も実現せられず、日順雑集各文もなかにもそれらしい筆は見えず。
(『富士日興上人詳伝』聖教文庫下巻P195)
上記の書籍(聖教文庫)は誰もが入手することができ、宗門の歴代法主(堀日亨師)が明確に断を下しているのであり、すぐにもばれるウソであるだけに、猶更性(たち)が悪い。
日顕が先師から〝面授相承を受けた〟と言うことと同じで、日顕宗はすべてが〝捏造〟であることの好例である。
2.「信受」こそ授戒
御義口伝巻下(七五二㌻)にいわく
「頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり」
大聖人の妙法を「信受」することこそ灌頂であり、授戒である。どこに僧侶を仲介する「儀式」が記されているか。
次に、日寛上人の「たとへ授戒候とも、本尊なくば別して力も有るまじく候」とある御文は、内得信仰と御本尊受持との、功徳の違いを述べられる。
この文の「授戒」の語を、単に僧侶を介した「儀式」と取れば、宗門の言い分そのままとなる。しかしここは信者本人の「信受」と受け止めてこそ、日寛上人の御本意と拝察する。
日寛上人は「法力・仏力は正しく本尊に在り。これを疑うべからず。我等応(まさ)に信力・行力を励むべきのみ」と記された。ゆえに御本尊を目前に拝してからは、我らの信心と修行次第である。
そのため前述の御文には〝内得信仰だけでは、まだ力不足である、早く御本尊を受持して、功徳をいただきなさい〟と述べられるのである。
形としての儀式があったところで、心からの信受が無ければ、何の意味があろう。日寛上人は、内面の信心こそ大切である、との趣旨を多くの御文に述べられることに、心すべきである。
3.「受持即受戒なり」
「即身成仏のために大事な儀式」などと、御書の意を蔑(ないがし)ろにするのはいい加減にしろ、と言いたい。
僧俗和合の時代にあっては、授戒の儀式は、僧侶と信者との接点の場であった。ところが、宗門が一方的に〝学会を破門する〟と言ったと同時に、御授戒の意義をも消し去ったのである。
学会の側で「御授戒は無駄なことであった」と言っているわけではない。宗門は〝破和合僧〟の大罪を猛省すべきである。
宗門のパンフレットには、「受持即持戒」が説明されている。無論、儀式のことは記されていない。
◇
宗門発行の『続 日蓮正宗の行事』には「三大秘法の御本尊を受持し、一生涯信仰を貫いて行くことが、一切の戒や道徳の根本であると教えています。ゆえにこれを受持即持戒というのです」とある。
日興上人も、『三大秘法口決』の裏書きに、「受持即受戒なり、経に云く是を持戒と名く」(『富士宗学要集』)と記されている。末法における「受戒」とは、御本尊を「受持」することであることは明白だ。
(『新改革通信』126号 平成23年11月19日)
4.授戒の儀式は〝坊主の飯の種〟
最蓮房ただ一人の授戒の記録を、信徒すべてに当て嵌めようとする魂胆はただ一つ、坊主が御供養を収奪する機会を増やすことにある。それは「死後戒名」「塔婆供養」等々、御書中に依処の無いものばかりである。これに加えて「授戒の儀式」を言い出すところが、いかにも〝御供養餓鬼〟の宗門らしい。
「信徒もこれに準じて考えるべき」とは、大聖人の清浄なる仏法を〝飯の種〟にしようとする、さもしい了見と言うべきである。
今回、宗門が引用する『十法界明因果抄』には、次の御文をお認めである。
「畜生道とは愚癡(ぐち)無慙(むざん)にして徒(いたずら)に信施の他物を受けて之を償(つぐな)わざる者此の報を受くるなり」(四三〇㌻)
(畜生道とは、愚癡で自らを恥じないで、人から布施を受けてもこれを償わない者は、この報を受けるのである)
「信施の他物」にたかる宗門坊主の後生は、畜生道に堕ちる定めにある。当然の帰結と言うべきであろう。
(了)
妄説:80 『十法界明因果抄』に「爾前経の如く師に随ひて戒を持せず、但此の経を信ずるが即ち持戒なり」(新編 216頁)とありますが、これは授戒の儀式を不要とする文証ではありませんか。
この御文は、釈尊の仏法において、法華経を信ずる者は戒を持つことになると明かされたもので、この文の前には「爾前の十界の人、法華経に来至(らいし)すれば皆持戒なり」とあるとおりです。
ですから、この御文をもって「僧侶による授戒は不要だ」などというのは、的(まと)はずれのいいがかりにすぎません。
本宗の御授戒は大聖人の時代からとり行なわれてきたものであり、即身成仏のために大事な儀式なのです。
もし、今になって「御授戒は必要ない」というなら、近年、何百万という人が御授戒を受け、日蓮正宗に入信された事実はどうなるのでしょう。御授戒は無駄なことであった、とでもいうのでしょうか。
大聖人様は『御義口伝』に「頭に南無妙法蓮華経を頂戴(ちょうだい)し奉る時名字即なり」(新編 1765頁)
と仰せられておりますし、日寛上人の『福原式治状』にも、
「本尊等、願の事。之れ有るにおいては、遠慮なく申し遣(つかう)べし(中略)たとへ授戒候とも、本尊なくば別して力も有るまじく候」
とあり、当時、御授戒が行なわれていたことが明らかです。
破折:
1.宗門の〝破和合僧〟により授戒の儀式が無用に
十法界明因果抄(四三七㌻)にいわく、
「爾前の十界の人法華経に来至すれば皆持戒なり、故に法華経に云く『是を持戒と名く』文、安然和尚(あんねんわじょう)の広釈に云く『法華に云く能く法華を説く是を持戒と名く』文、爾前経の如く師に随つて、戒を持せず但此の経を信ずるが即ち持戒なり」
(爾前の十界の人が法華経にくればみな持戒の人である。法華経には「これを持戒と名づける」とある。安然和尚の広釈には「法華経には『能く法華経を説くことを持戒と名づける』とある」と釈している。爾前経のように、師に従って戒を持つのではなく、ただこの経を信ずるのが、すなわち持戒である)
「この御文をもって『僧侶による授戒は不要だ』などというのは、的(まと)はずれのいいがかり」とあるが、逆に「僧侶による授戒が必要だ」とする御文が御書のどこに存在すると言うのか。
御書に不在の〝後世の化儀〟を崇めよ、とはすでに宗開両祖の仏法を離れ、現法主のための宗教であることを誇示するものである。
「本宗の御授戒は大聖人の時代からとり行なわれてきた」などと、どうしてそのような大嘘をつくのであろう。
〝歴代上人は無謬〟と宗門が言うなら、五十九世堀日亨法主が宗史を研鑽した結果、最蓮房の外には大聖人が授戒の儀式を行われた例はなく、日興上人もまた授戒された記録はない、と明言したことを無視するのか。
◇
大聖の御遺文のなかでも、問題未決ともいうべきが、最蓮房の塚原授戒の例はさらに一文も他にない。晩年期の三大秘法抄の文を味わってみても、将来の理想であって、現実ではおそらくあるまい。いわんや、開山在富五十年にも、公式の受戒は戒壇建立以前なれば、佐渡のごとく仮壇を設くるまでなく、一回も、半回も実現せられず、日順雑集各文もなかにもそれらしい筆は見えず。
(『富士日興上人詳伝』聖教文庫下巻P195)
上記の書籍(聖教文庫)は誰もが入手することができ、宗門の歴代法主(堀日亨師)が明確に断を下しているのであり、すぐにもばれるウソであるだけに、猶更性(たち)が悪い。
日顕が先師から〝面授相承を受けた〟と言うことと同じで、日顕宗はすべてが〝捏造〟であることの好例である。
2.「信受」こそ授戒
御義口伝巻下(七五二㌻)にいわく
「頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり」
大聖人の妙法を「信受」することこそ灌頂であり、授戒である。どこに僧侶を仲介する「儀式」が記されているか。
次に、日寛上人の「たとへ授戒候とも、本尊なくば別して力も有るまじく候」とある御文は、内得信仰と御本尊受持との、功徳の違いを述べられる。
この文の「授戒」の語を、単に僧侶を介した「儀式」と取れば、宗門の言い分そのままとなる。しかしここは信者本人の「信受」と受け止めてこそ、日寛上人の御本意と拝察する。
日寛上人は「法力・仏力は正しく本尊に在り。これを疑うべからず。我等応(まさ)に信力・行力を励むべきのみ」と記された。ゆえに御本尊を目前に拝してからは、我らの信心と修行次第である。
そのため前述の御文には〝内得信仰だけでは、まだ力不足である、早く御本尊を受持して、功徳をいただきなさい〟と述べられるのである。
形としての儀式があったところで、心からの信受が無ければ、何の意味があろう。日寛上人は、内面の信心こそ大切である、との趣旨を多くの御文に述べられることに、心すべきである。
3.「受持即受戒なり」
「即身成仏のために大事な儀式」などと、御書の意を蔑(ないがし)ろにするのはいい加減にしろ、と言いたい。
僧俗和合の時代にあっては、授戒の儀式は、僧侶と信者との接点の場であった。ところが、宗門が一方的に〝学会を破門する〟と言ったと同時に、御授戒の意義をも消し去ったのである。
学会の側で「御授戒は無駄なことであった」と言っているわけではない。宗門は〝破和合僧〟の大罪を猛省すべきである。
宗門のパンフレットには、「受持即持戒」が説明されている。無論、儀式のことは記されていない。
◇
宗門発行の『続 日蓮正宗の行事』には「三大秘法の御本尊を受持し、一生涯信仰を貫いて行くことが、一切の戒や道徳の根本であると教えています。ゆえにこれを受持即持戒というのです」とある。
日興上人も、『三大秘法口決』の裏書きに、「受持即受戒なり、経に云く是を持戒と名く」(『富士宗学要集』)と記されている。末法における「受戒」とは、御本尊を「受持」することであることは明白だ。
(『新改革通信』126号 平成23年11月19日)
4.授戒の儀式は〝坊主の飯の種〟
最蓮房ただ一人の授戒の記録を、信徒すべてに当て嵌めようとする魂胆はただ一つ、坊主が御供養を収奪する機会を増やすことにある。それは「死後戒名」「塔婆供養」等々、御書中に依処の無いものばかりである。これに加えて「授戒の儀式」を言い出すところが、いかにも〝御供養餓鬼〟の宗門らしい。
「信徒もこれに準じて考えるべき」とは、大聖人の清浄なる仏法を〝飯の種〟にしようとする、さもしい了見と言うべきである。
今回、宗門が引用する『十法界明因果抄』には、次の御文をお認めである。
「畜生道とは愚癡(ぐち)無慙(むざん)にして徒(いたずら)に信施の他物を受けて之を償(つぐな)わざる者此の報を受くるなり」(四三〇㌻)
(畜生道とは、愚癡で自らを恥じないで、人から布施を受けてもこれを償わない者は、この報を受けるのである)
「信施の他物」にたかる宗門坊主の後生は、畜生道に堕ちる定めにある。当然の帰結と言うべきであろう。
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №71~80
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:79」を破折する 連載112回
妄説:79 「受持即持戒」という仏法の本義に立てば、従来の御授戒の儀式は必要ないものになるのですか。
「受持即持戒」とは、本門戒壇の大御本尊を受持することによる功徳を表現したものであって、信仰の出発となる授戒の儀式が不要であるという意味ではありません。
日蓮正宗では御授戒の儀式により、邪宗の謗法を捨てて、三大秘法を持つことを誓います。
日蓮大聖人は、『最蓮房御返事』に
「結句は卯月(うづき)八日夜半寅(とら)の時に妙法の本円戒を以て受職潅頂(かんじょう)せしめ奉る者なり。此の受職(じゅしょく)を得るの人争(いか)でか現在なりとも妙覚の仏を成ぜざらん」(新編 587)
と示され、また『得受職人功徳法門抄』には、
「釈迦すでに妙法の智水をもって日蓮の頂に灌(そそ)いで面授(めんじゅ)口決(くけつ)せしめ給う。日蓮又日浄に受職せしむ」(新定 1―854頁)
と仰せになり、大聖人自ら最蓮房に対し、本円戒を授けたことを明示されています。
この授戒は僧侶に対してでありますが、信徒もこれに準じて考えるべきです。
「受持即持戒」の大法だからこそ、正法を受持することを誓う御授戒は大切な儀式なのです。
破折:
1.出家の授戒と信徒の授戒をわざと混同させている宗門
大学匠・五十九世堀日亨法主の研鑽において、大聖人より授戒を受けた弟子は、最蓮房以外には存在しないと述べられる。
◇
宗門は「古来から御授戒を行っていた」と主張し、その証拠として、『最蓮房御返事』の「結句は卯月八日・夜半寅の時妙法の本円戒を以て受職潅頂せしめ奉る者なり」の文をあげている。
しかし、この御文を見る限り、これは「出家」に対する授戒である。最蓮房は、佐渡流罪中、大聖人に帰依をした。天台僧の最蓮房は、比叡山で法華迹門の戒を受けていたはずで、独一本門の戒を大聖人から受け直したと伝えられる。
同じく大聖人の弟子の日昭の授戒について、日亨上人は「最蓮房だけは佐渡において大聖よりあらたに本門戒を受けたる御書あるが、日昭においては御門にはいるとともに本門戒を受け直したりとの文献も、伝説も見えず」(『富士日興上人詳伝』※)と述べている。
大聖人の御在世においては、「出家」の弟子に対してさえ、授戒の記録は、最蓮房以外に残っていない。まして、「在家」の信徒が授戒を受けた記録は、まったく無いのが現状である。
(『新改革通信』126号 平成23年11月19日)※聖教文庫 下巻P194
2.「聖僧」たる最蓮房
前項の堀日亨師の言葉にある通り、六老僧の一人で最も早く大聖人の弟子となった日昭でも、「本門戒を受け直したりとの文献も、伝説も見えず」(=大聖人より授戒を受けていない)とされる。
そもそも御書には、最蓮房以外の弟子に授戒したとされる御文は一切存在しないのであり、ましてや在家の信徒が授戒を受けた御文となると、皆無である。
宗開両祖が行なわれなかったことを「信徒もこれに準じて考えるべきです」とするのは、他宗・他門の化儀に倣うことではないか。それだけ大聖人の仏法から離れて行くのが分からないか。
受戒を受けた唯一の弟子・最蓮房は、大聖人に同じく妻帯せず、魚肉を嗜まない「聖僧」であった。
祈祷経送状(一三五七㌻)にいわく、
「一御状に十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云(中略)但今の御身は念仏等の権教を捨てて正法に帰し給う故に誠に持戒の中の清浄の聖人なり」
(一、お手紙に十七歳で出家した後は、妻子をもたず、肉を食べず等とあったことについて。……ただいまのあなたの身は念仏等の権教を捨てて正法に帰依されたゆえに、まことに持戒のなかの清浄な聖人である)
最蓮房は「清浄なる聖人」であったからこそ、大聖人から御授戒をいただいたのである。最蓮房を引き合いに出した宗門の輩は、おのれの身を振り返ってみて、恥ずかしくないか。
肉食妻帯に飽き足らず、遊蕩にうつつを抜かす宗門の僧侶は、大聖人から「法師の皮を著たる畜生」と蔑(さげす)まれ、人の唾を食らう者である。その好例が、宗門の法主である。
① 「元来大石日応は人も知る如き色魔にて東京に妾(めかけ)を置き又大宮(=富士宮)其他附近に出でては飽くまで不品行を恣(ほしいまま)にして恥ぢぬ程の者」(『静岡民友新聞』明治四十一年十月二日付「日応の人となり」と題し)と、その痴態ぶりを記され、寺の財産を使い込み「一万円にも及べる借財」(現在の相場に換算し約一億円)を為したと報道された法主は、誰か。
……五十六世大石日応である!
② 芸妓の身代金を払って妾として囲うなどで豪遊、寺の財産約九千円を浪費し約三万円の手形を乱発し(計三万九千円。現在の相場に換算して約一億円)、背任罪に問われ書類送検され、その「破戒行為」を全国紙(『読売新聞』昭和五年十二月二十九日付)に指摘されて、宗門の名を地に落としめた法主は、誰か。
……六十一世水谷日隆である!
③ 昭和三十八年三月二十日午前二時頃、シアトルの歓楽街の交差点付近で、複数の売春婦に囲まれた禿頭の男が、パトロール中の二人の警察官に発見された。このとき男は、警察官から通知されて呼び出されたクロウ・ヒロエさんに助けてもらわなければ、売春婦と行為に及んだかどで、その場でシアトルの警察に逮捕され(アメリカの法律による買春罪で)、拘留されていたはずである。後に詐称し猊座を盗んだが、かつての恩人であるクロウさんに感謝するどころか、嘘つき呼ばわりし、誹謗の限りを尽くした法主は、誰か。
……六十七世を詐称する阿部日顕である!
松野殿御返事(一三八六㌻)にいわく、
「遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし・法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし」
(了)
妄説:79 「受持即持戒」という仏法の本義に立てば、従来の御授戒の儀式は必要ないものになるのですか。
「受持即持戒」とは、本門戒壇の大御本尊を受持することによる功徳を表現したものであって、信仰の出発となる授戒の儀式が不要であるという意味ではありません。
日蓮正宗では御授戒の儀式により、邪宗の謗法を捨てて、三大秘法を持つことを誓います。
日蓮大聖人は、『最蓮房御返事』に
「結句は卯月(うづき)八日夜半寅(とら)の時に妙法の本円戒を以て受職潅頂(かんじょう)せしめ奉る者なり。此の受職(じゅしょく)を得るの人争(いか)でか現在なりとも妙覚の仏を成ぜざらん」(新編 587)
と示され、また『得受職人功徳法門抄』には、
「釈迦すでに妙法の智水をもって日蓮の頂に灌(そそ)いで面授(めんじゅ)口決(くけつ)せしめ給う。日蓮又日浄に受職せしむ」(新定 1―854頁)
と仰せになり、大聖人自ら最蓮房に対し、本円戒を授けたことを明示されています。
この授戒は僧侶に対してでありますが、信徒もこれに準じて考えるべきです。
「受持即持戒」の大法だからこそ、正法を受持することを誓う御授戒は大切な儀式なのです。
破折:
1.出家の授戒と信徒の授戒をわざと混同させている宗門
大学匠・五十九世堀日亨法主の研鑽において、大聖人より授戒を受けた弟子は、最蓮房以外には存在しないと述べられる。
◇
宗門は「古来から御授戒を行っていた」と主張し、その証拠として、『最蓮房御返事』の「結句は卯月八日・夜半寅の時妙法の本円戒を以て受職潅頂せしめ奉る者なり」の文をあげている。
しかし、この御文を見る限り、これは「出家」に対する授戒である。最蓮房は、佐渡流罪中、大聖人に帰依をした。天台僧の最蓮房は、比叡山で法華迹門の戒を受けていたはずで、独一本門の戒を大聖人から受け直したと伝えられる。
同じく大聖人の弟子の日昭の授戒について、日亨上人は「最蓮房だけは佐渡において大聖よりあらたに本門戒を受けたる御書あるが、日昭においては御門にはいるとともに本門戒を受け直したりとの文献も、伝説も見えず」(『富士日興上人詳伝』※)と述べている。
大聖人の御在世においては、「出家」の弟子に対してさえ、授戒の記録は、最蓮房以外に残っていない。まして、「在家」の信徒が授戒を受けた記録は、まったく無いのが現状である。
(『新改革通信』126号 平成23年11月19日)※聖教文庫 下巻P194
2.「聖僧」たる最蓮房
前項の堀日亨師の言葉にある通り、六老僧の一人で最も早く大聖人の弟子となった日昭でも、「本門戒を受け直したりとの文献も、伝説も見えず」(=大聖人より授戒を受けていない)とされる。
そもそも御書には、最蓮房以外の弟子に授戒したとされる御文は一切存在しないのであり、ましてや在家の信徒が授戒を受けた御文となると、皆無である。
宗開両祖が行なわれなかったことを「信徒もこれに準じて考えるべきです」とするのは、他宗・他門の化儀に倣うことではないか。それだけ大聖人の仏法から離れて行くのが分からないか。
受戒を受けた唯一の弟子・最蓮房は、大聖人に同じく妻帯せず、魚肉を嗜まない「聖僧」であった。
祈祷経送状(一三五七㌻)にいわく、
「一御状に十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云(中略)但今の御身は念仏等の権教を捨てて正法に帰し給う故に誠に持戒の中の清浄の聖人なり」
(一、お手紙に十七歳で出家した後は、妻子をもたず、肉を食べず等とあったことについて。……ただいまのあなたの身は念仏等の権教を捨てて正法に帰依されたゆえに、まことに持戒のなかの清浄な聖人である)
最蓮房は「清浄なる聖人」であったからこそ、大聖人から御授戒をいただいたのである。最蓮房を引き合いに出した宗門の輩は、おのれの身を振り返ってみて、恥ずかしくないか。
肉食妻帯に飽き足らず、遊蕩にうつつを抜かす宗門の僧侶は、大聖人から「法師の皮を著たる畜生」と蔑(さげす)まれ、人の唾を食らう者である。その好例が、宗門の法主である。
① 「元来大石日応は人も知る如き色魔にて東京に妾(めかけ)を置き又大宮(=富士宮)其他附近に出でては飽くまで不品行を恣(ほしいまま)にして恥ぢぬ程の者」(『静岡民友新聞』明治四十一年十月二日付「日応の人となり」と題し)と、その痴態ぶりを記され、寺の財産を使い込み「一万円にも及べる借財」(現在の相場に換算し約一億円)を為したと報道された法主は、誰か。
……五十六世大石日応である!
② 芸妓の身代金を払って妾として囲うなどで豪遊、寺の財産約九千円を浪費し約三万円の手形を乱発し(計三万九千円。現在の相場に換算して約一億円)、背任罪に問われ書類送検され、その「破戒行為」を全国紙(『読売新聞』昭和五年十二月二十九日付)に指摘されて、宗門の名を地に落としめた法主は、誰か。
……六十一世水谷日隆である!
③ 昭和三十八年三月二十日午前二時頃、シアトルの歓楽街の交差点付近で、複数の売春婦に囲まれた禿頭の男が、パトロール中の二人の警察官に発見された。このとき男は、警察官から通知されて呼び出されたクロウ・ヒロエさんに助けてもらわなければ、売春婦と行為に及んだかどで、その場でシアトルの警察に逮捕され(アメリカの法律による買春罪で)、拘留されていたはずである。後に詐称し猊座を盗んだが、かつての恩人であるクロウさんに感謝するどころか、嘘つき呼ばわりし、誹謗の限りを尽くした法主は、誰か。
……六十七世を詐称する阿部日顕である!
松野殿御返事(一三八六㌻)にいわく、
「遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし・法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし」
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №71~80
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:78」を破折する 連載111回
妄説:78 日蓮正宗の授戒にはどのような意義があるのでしょうか。
本宗の授戒は、御本尊の御宝前において、僧侶の導師によって読経・唱題した後、御本尊を頭に頂戴し、爾前迹門の謗法を捨てて、一生の間退転なく、三大秘法を受持することを下種三宝に誓う儀式です。
これによって、授戒者は大聖人以来の血脈に浴し、妙法の信仰者として認められるのです。
大聖人は最蓮房に「授職灌頂」をしておられますが、これは現在の御授戒に当たります。(次項参照)
この戒体について『教行証御書』に
「但し此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれども破れず。是を金剛宝器戒(こんごうほうきかい)とや申しけん」( 新編 1109頁)
と仰せられ、一度受けた戒体は未来永劫に失せることなく存続し、必ず自分自身を成仏へ導く力となるのです。
御本尊を頭に頂戴し、本門の戒体を授かることによって、事実の上に仏界を具し即身成仏の当体となることができるのです。
そのような意義から御授戒は重要な儀式なのです。
〔参考文献〕
「久遠の一念元初の妙法を受け頂く事は、最極無上の潅頂(かんじょう)なり」(百六箇抄・新編 1699頁)
「十界三千の諸法を一言を以て授職する所の秘文なり」(御講聞書・新編1860頁)
破折:
1.近年まで御授戒の作法は無かった
「僧侶の導師によって読経・唱題した後、御本尊を頭に頂戴し」とあるのは、比較的近年に制定され統一された、御授戒における所作である。
しかし大聖人御在世当時において、僧俗を通して大聖人が授戒をされた記録があるのは、最蓮房ただ一人である。
宗門の言う御授戒とは、〝僧俗すべてが受けるべき儀式〟を言うはずであるから、一人の事例をもって「これは現在の御授戒に当たります」というのは、趣旨に該当しない〝すり替え〟であり、宗門得意の〝だましの手口〟である。
創価学会が出現する前までは、新たに他宗派から改宗する者は、ごくわずかしかいなかった。江戸幕府の寺請制度以後、折伏は表だってできないこととなっていたが、宗門では明治以降も〝習い性〟となって、折伏など絶えて行われなかったのである。
その希有な例であった入信の場では、御本尊を下付される際、僧侶が祈念を行なったり、信者が所持していた他宗派の念珠を切って、かつての宗派と決別する意思表示を行うこともあったという。つまり、御授戒として統一した作法など、皆無だったのである。
2.御本尊の受持こそ末法の戒
(1)〝戒〟とは「妙法の受持」
教行証御書(一二八二㌻)にいわく、
「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し」
宗門は、この御文の後半部分しか収載していない。「此の具足の妙戒」とは、妙法蓮華経の五字を指す。すなわち三大秘法総在の本門の本尊を受持すること、これが持戒であり、金剛宝器戒と仰せである。
すなわち〝戒〟とは、「妙法の受持」のなかに一切が含まれるのであり、「儀式・作法」を意味するものではない。いつに変わらず、切り文好きの宗門である。
(2)妙法の信受に僧侶の仲介は無用
「御本尊を頭に頂戴し」と言うのは、妄説「百問百答」の№80にも引用してある通り、御書の文をそのまま授戒の儀式に当てはめようとしているのである。
御義口伝巻下(七五二㌻)にいわく
「頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり」
これも〔参考文献〕の百六箇抄にある通り、大聖人の妙法を信受することが、即灌頂であり、授戒であることを仰せである。しかし、そこに僧侶を仲介することなど、どこの御書にも記されていないことを、宗門は心得るべきである。
(了)
妄説:78 日蓮正宗の授戒にはどのような意義があるのでしょうか。
本宗の授戒は、御本尊の御宝前において、僧侶の導師によって読経・唱題した後、御本尊を頭に頂戴し、爾前迹門の謗法を捨てて、一生の間退転なく、三大秘法を受持することを下種三宝に誓う儀式です。
これによって、授戒者は大聖人以来の血脈に浴し、妙法の信仰者として認められるのです。
大聖人は最蓮房に「授職灌頂」をしておられますが、これは現在の御授戒に当たります。(次項参照)
この戒体について『教行証御書』に
「但し此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれども破れず。是を金剛宝器戒(こんごうほうきかい)とや申しけん」( 新編 1109頁)
と仰せられ、一度受けた戒体は未来永劫に失せることなく存続し、必ず自分自身を成仏へ導く力となるのです。
御本尊を頭に頂戴し、本門の戒体を授かることによって、事実の上に仏界を具し即身成仏の当体となることができるのです。
そのような意義から御授戒は重要な儀式なのです。
〔参考文献〕
「久遠の一念元初の妙法を受け頂く事は、最極無上の潅頂(かんじょう)なり」(百六箇抄・新編 1699頁)
「十界三千の諸法を一言を以て授職する所の秘文なり」(御講聞書・新編1860頁)
破折:
1.近年まで御授戒の作法は無かった
「僧侶の導師によって読経・唱題した後、御本尊を頭に頂戴し」とあるのは、比較的近年に制定され統一された、御授戒における所作である。
しかし大聖人御在世当時において、僧俗を通して大聖人が授戒をされた記録があるのは、最蓮房ただ一人である。
宗門の言う御授戒とは、〝僧俗すべてが受けるべき儀式〟を言うはずであるから、一人の事例をもって「これは現在の御授戒に当たります」というのは、趣旨に該当しない〝すり替え〟であり、宗門得意の〝だましの手口〟である。
創価学会が出現する前までは、新たに他宗派から改宗する者は、ごくわずかしかいなかった。江戸幕府の寺請制度以後、折伏は表だってできないこととなっていたが、宗門では明治以降も〝習い性〟となって、折伏など絶えて行われなかったのである。
その希有な例であった入信の場では、御本尊を下付される際、僧侶が祈念を行なったり、信者が所持していた他宗派の念珠を切って、かつての宗派と決別する意思表示を行うこともあったという。つまり、御授戒として統一した作法など、皆無だったのである。
2.御本尊の受持こそ末法の戒
(1)〝戒〟とは「妙法の受持」
教行証御書(一二八二㌻)にいわく、
「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し」
宗門は、この御文の後半部分しか収載していない。「此の具足の妙戒」とは、妙法蓮華経の五字を指す。すなわち三大秘法総在の本門の本尊を受持すること、これが持戒であり、金剛宝器戒と仰せである。
すなわち〝戒〟とは、「妙法の受持」のなかに一切が含まれるのであり、「儀式・作法」を意味するものではない。いつに変わらず、切り文好きの宗門である。
(2)妙法の信受に僧侶の仲介は無用
「御本尊を頭に頂戴し」と言うのは、妄説「百問百答」の№80にも引用してある通り、御書の文をそのまま授戒の儀式に当てはめようとしているのである。
御義口伝巻下(七五二㌻)にいわく
「頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり」
これも〔参考文献〕の百六箇抄にある通り、大聖人の妙法を信受することが、即灌頂であり、授戒であることを仰せである。しかし、そこに僧侶を仲介することなど、どこの御書にも記されていないことを、宗門は心得るべきである。
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №71~80
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:77」を破折する 連載110回
妄説:77 「正本堂賞与御本尊」について教えてください。
昭和四十七年の十月、全世界の日蓮正宗の僧俗の御供養をもって、総本山に正本堂が完成されました。
その発願(ほつがん)者である池田氏に対し、第六十六世日達上人は「正本堂賞与御本尊」を授与し、その功績を讃(たた)えられたのです。
ところが池田氏は正式な手続きをとらず、この御本尊を勝手に模刻し、会館に安置して一般の学会員に拝ませたのです。
日達上人は後に昭和五十三年六月二十九日の教師指導会において
「学会の方で板御本尊に直した所があります。それは私が知らなかった」(大日蓮 390-44頁)
と仰せられています。
御法主上人の允可(いんか)を得ないで、池田氏が勝手に模刻した本尊は、まさに『ニセ本尊』であり、これは後日、池田氏等の詫びとともに、総本山に納められ、二度と日の目を見ることなく今日に至っております。
なお「正本堂賞与御本尊」の裏に、日達上人の直筆(じきひつ)で
「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命(ゆいめい)の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也」
と書かれていますが、これは当初、学会側から「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為(た)ることの証明の本尊也」
と書いてほしいと原稿を持参して申し入れてきたものです。
日達上人はこの不遜(ふそん)な申し入れに苦慮のうえ、あえて「準」の一字を入れられて、学会の慢心を戒め、正本堂が直ちに事の戒壇ではないことを念のために書かれたのです。
破折:
1.〝大ウソつき〟宗門の謀略
(1)日達法主は御本尊謹刻を了解していた
秋谷 今回は、元・日蓮正宗御用達の仏師で、赤沢朝陽会長の赤沢猛さんに来ていただいた。実際に学会本部の御本尊御謹刻(きんこく)に携(たずさ)わった当事者として、当時の状況をありのままに語ってもらいましょう。
赤沢 はい。赤沢です。よろしくお願いします。
原田 赤沢さんは、四年前の座談会(平成五年九月三十日付)以来、二度目の登場ですね。ぜひ、もう一度、話してください。
赤沢 わかりました。私どもは、明治四十年に日蓮正宗御用達となって以来、日顕が学会を破門するに至(いた)るまでの間、宗門の御本尊の御謹刻に関する仕事は一手にお引き受けしてまいりました。学会本部の御本尊を御謹刻したのも私どもですし、よく存じております。
佐藤 早速ですが、今回日顕宗では、大石寺に納められている板御本尊を調査したら、御本尊のほぞの部分に、仏師の名前と彫刻した年月が刻まれているのを発見したと言っていますが、それは本当ですか。
赤沢 その通りでございます。ほぞというのは板御本尊の台座に差し込まれている部分のことですが、通常、御本尊の御謹刻が終わり、台座に差し込む際に、仏師の名前と年月を刻んでおります。
佐藤 なるほど。それでは宗門側が、池田先生が日達上人から昭和四十九年一月二日に賜(たまわ)った「正本堂賞与(しょうよ)御本尊」の板御本尊に、「昭和四十九年四月 朝陽(ちょうよう)」と彫られていたと発表していますが、これも間違いないわけですね。
赤沢 はい。間違いないと思います。「正本堂賞与御本尊」については、一番最初に御謹刻させていただきましたので、よく覚えています。四十九年の一月に依頼を受け、二月に彫り始めて、四月三十日に学会本部に納めました。
八矢 何の問題もないじゃない。いったい宗門側は、何がいけないと言ってるの?
佐藤 宗門の教学部副部長である水島の話はこうです。要は、〝学会が板御本尊にしたいと願い出をしてきたのは昭和四十九年九月二日。ところが、実はそれよりも五カ月も前の四月には彫刻が終わっていた〟というのです。
赤沢 それはとんでもないスリ替えです。「正本堂賞与御本尊」を板御本尊にすることは、日達上人は昭和四十九年の一月にはすでにご存じでした。これは日達上人からも、また池田先生からも、私が直接お話を伺(うかが)ったことですから、確かなことです。このことは四年前の座談会でも、明確に申し上げたはずです。
森田 日顕宗というところは、「唖法(あほう=無言の行法)を受けたる婆羅門(ばらもん)等の如(ごと)し」(御書二一ページ)とある通り、自分たちに都合の悪いところはすぐに頬被(ほおかむ)りして黙ってしまう習性がある(笑い)。念のため、もう一度、その間の経緯を教えていただけませんか。
赤沢 はい。わかりました。私が初めてこの話を伺ったのは、昭和四十八年の暮れのことでした。学会本部から、「学会の御本尊を何体か板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下(げいか)に一言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました。
秋谷 そうです。それで、年明け早々に、その件で池田先生から日達上人にお話ししたわけです。ちょうど、日達上人から池田先生に「正本堂賞与御本尊」が下付(かふ)された時のことでした。
赤沢 昭和四十九年一月十六日のことですが、私が池田先生にお会いした折、先生の方から「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、〝大事にするためなんだからいいんだよ〟とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。
原田 つまり、日顕宗側が問題にしている「正本堂賞与御本尊」については、昭和四十九年一月に日達上人の了承を得たうえで依頼を受け、二月に彫り始めて四月に学会本部に納めた、ということですね。
赤沢 その通りです。ですから、水島の言う〝願い出をする前から、学会は謹刻していた〟というのは、明らかな間違いです。
秋谷 間違えたというよりは、手柄を立てたいために、意図的に無視して、〝新発見〟にしたというのが真相でしょう。宗内でも知らない人が聞いたら、本当かなと思ってしまう。
原田 まったくタチの悪い教学部副部長だ。こんな〝トリック〟で、人々を騙(だま)そうとするなんて、まったくずるい。この昭和四十九年九月二日というのは、学会と宗門の連絡会議が行われた日のことだが、ここで議題に上がった板御本尊とは、学会本部常住の師弟会館の御本尊のことで、「正本堂賞与御本尊」のことではない。
森田 そう。私も出席者だったからよく覚えている。もともと御謹刻は日達上人の了解を得てから始めたものだが、学会本部常住の御本尊を御謹刻する際、改めて、連絡会議にかけたのです。
秋谷 その会議には、当時、総監代務者だった日顕自身も宗門側の責任者として出ていて、日達上人に報告していたはずだ。その時も日達上人ははっきりと了解している。だから、そのことは、報告した当人の日顕が、誰(だれ)よりもこの事実について一番よく知っているはずだ。
(『聖教新聞』1997年10月17日)
〈正本堂賞与御本尊の御謹刻〉
〇 昭和四十九年一月二日 池田会長が日達法主より「正本堂賞与御本尊」を賜る
〇 昭和四十九年一月十六日 赤沢氏が池田会長より御謹刻の依頼を受ける
「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、〝大事にするためなんだからいいんだよ〟とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」(池田会長)
〇 同年二月 彫り始める
〇 同年四月三十日 学会本部に納める
〈学会本部常住御本尊の御謹刻〉
〇 昭和四十九年九月二日 学会と宗門の連絡会議において、学会本部常住の師弟会館の御本尊が議題に上がる(板本尊への御謹刻の件)
〇 同年十一月 謹刻が始まる
〇 昭和五十年一月一日 入仏式
〇 同年一月四日付 聖教新聞に報道
(2)学会本部常住の御本尊と「正本堂賞与御本尊」をスリ替えて発表
佐藤 ちなみに赤沢さん、本部常住の御本尊を謹刻したのはいつごろですか?
赤沢 四十九年の十一月末に彫り始め、その年の暮れに学会本部に納めています。
原田 そう。だから九月に連絡会議で確認して、十一月から謹刻が始まったのです。そしてこの学会本部常住の板御本尊については、翌五十年の一月一日に入仏式を行った。このことは当時の聖教新聞(一月四日付)でも大々的に報道している。当然のことながら、当時、これらの御謹刻については、何の問題にもなってはいませんでした。学会には宗門に隠れてこっそりやらなければならない理由など何一つなかったんです。
佐藤 では謹刻の仕方についてはどうですか? 何か宗門側は、紙幅(しふく)の御本尊を写真に撮(と)って、板にしたことが悪いように言っていますが。
赤沢 そんなことはありません。現に学会本部の御本尊以外にも、保田の妙本寺では十体、日向(ひゅうが)の定善寺では七体ほど、それぞれお寺の御本尊の写真を撮り、謹刻しています。何より日顕自身、広島・正教寺の客殿の御本尊が大きすぎて御厨子(ずし)に入らず、住職に「赤沢に言って、写真を撮ってもらって小さくしろ」と指示を出していたことがあります。
八矢 まー、御厨子を大きくするんじゃなくて、御本尊を小さくしたの? とんでもない本末転倒(ほんまつてんとう)じゃないですか。
秋谷 御本尊を単なる〝モノ〟としか思っていない証拠だ。それに比べて学会は、本部常住の御本尊をはじめ数体の御本尊を、将来にわたって大切にお守りするために、板御本尊にしたいと願い出をしたんだ。それに対して日達上人は、「紙幅を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」と言われた。それを今さら宗門側がとやかく言うのは筋違(すじちが)いです。
森田 いずれにしても、これで日顕宗の言い掛かりは完全に総崩れだ(笑い)。わざと学会本部常住の御本尊と「正本堂賞与御本尊」をスリ替えて、〝願い出の五カ月前に勝手に謹刻していた〟などと発表するなんて、聖職者の風上(かざかみ)にもおけない大ウソつきだ。
佐藤 水島も総監の藤本も、さぞかし〝穴があったら入りたい〟心境だろう。〝新事実発見!〟などと、あれだけ得意になって大はしゃぎしていたクセに、「創価新報」(九月十七日付)で破折(はしゃく)されたとたん、「大白法」(十月一日付)では見る影もないほど〝トーンダウン〟している(笑い)。
原田 赤沢さんが四年前に証言していたことについても、〝知っていたけど、発表は省略しました〟などと負け惜しみを言ってる。これで〝学会員を再折伏しよう!〟だなんて、とんだお笑い草だよ。わざわざ自分たちで〝墓穴(ぼけつ)〟を掘りにくるようなものだ(笑い)。
秋谷 要するに、大騒ぎしても、よく見ると実態は何もない。正論があらわれると、あとは何も言わないで身を縮めて穴の中にこもってしまう。まさに「帝釈(たいしゃく)にせめられて無熱池(むねっち)の蓮(はちす)の中に小身(しょうしん)と成(なり)て隠れしが如(ごと)し」(御書九五七ページ)の御金言通りの哀(あわ)れな姿じゃないか。日顕宗が凋落(ちょうらく)の一途をたどるのも当然と言えば当然だ。
(同)
2.正本堂は「事実上の本門戒壇堂」
宗門は「正本堂が直ちに事の戒壇ではない」と言うが、御供養の勧募趣意書には「正本堂建立は、実質的な戒壇建立」との細井管長(日達法主)の趣旨を奉じ、次の通り明記されている。
「戒壇の大御本尊様が、いよいよ、奉安殿よりお出ましになって、正本堂に御安置されることを、正式に仰せくだされたのであります。かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになったのであります」
(昭和四十年三月二十六日 正本堂御供養趣意書)
それが、正本堂完成の直前になって、宗門はその改変を発表する。
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」
(昭和四十七年四月二十八日『訓諭』)
御供養を受け取っておいて、その後に勧募の趣旨が変更になったのである。背景には、国立戒壇説に固執する暴力集団・妙信講に、宗門が脅迫されていた経緯がある。
この妙信講の反発を抑える意味から、対外的に「現時における事の戒壇」と発表せざるを得なかったと推測されるが、当初の細井管長の主旨は間違いなく「事実上の本門戒壇堂」の建立にあった。
「大聖人様がこの法華本門の戒壇を建立せられ、今まさにその本門戒壇の戒壇堂が建立しようと云うのが今年の、この十月に法華講総講頭池田先生によって発願をせられておられるのでございます」
(昭和四十二年十月四日、甲府・正光寺、『大日蓮』昭和四十四年十月号)
「今当に時来り、法華講総講頭池田大作先生が大願主となり、事実上の本門戒壇堂である正本堂の建立が進行中であります」
(昭和四十四年四月六日、総本山でおこなわれた御虫払大法会、『大日蓮』昭和四十四年六月号)
池田会長は、「実質的な戒壇建立」(『正本堂御供養趣意書』)との正本堂の建立趣意に賛同し赤誠の御供養を拠出した何百万人もの学会員の心情を汲み、御本尊にはその真実を記し置かれたいと、細井管長に懇請したのである。
この池田会長の誠意に対し、宗門は「学会の慢心」と断じた。法主が訓諭で正本堂の意義を改変したことを、信徒の分際で逆らった、とした。
だが「正本堂賞与御本尊」は、正本堂にかかる一切の真実をご照覧である。細井管長が「事実上の本門戒壇堂」等と説いてきたことは、紛れもなく周知の事実である。
細井管長は「正本堂賞与御本尊」に対し奉り、両舌(二枚舌)の罪をお詫び申し上げるべきであった。それとともに宗門は御本尊にかかる謀略の事実を認め、学会及び学会員に謝罪すべきである。
(了)
妄説:77 「正本堂賞与御本尊」について教えてください。
昭和四十七年の十月、全世界の日蓮正宗の僧俗の御供養をもって、総本山に正本堂が完成されました。
その発願(ほつがん)者である池田氏に対し、第六十六世日達上人は「正本堂賞与御本尊」を授与し、その功績を讃(たた)えられたのです。
ところが池田氏は正式な手続きをとらず、この御本尊を勝手に模刻し、会館に安置して一般の学会員に拝ませたのです。
日達上人は後に昭和五十三年六月二十九日の教師指導会において
「学会の方で板御本尊に直した所があります。それは私が知らなかった」(大日蓮 390-44頁)
と仰せられています。
御法主上人の允可(いんか)を得ないで、池田氏が勝手に模刻した本尊は、まさに『ニセ本尊』であり、これは後日、池田氏等の詫びとともに、総本山に納められ、二度と日の目を見ることなく今日に至っております。
なお「正本堂賞与御本尊」の裏に、日達上人の直筆(じきひつ)で
「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命(ゆいめい)の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也」
と書かれていますが、これは当初、学会側から「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為(た)ることの証明の本尊也」
と書いてほしいと原稿を持参して申し入れてきたものです。
日達上人はこの不遜(ふそん)な申し入れに苦慮のうえ、あえて「準」の一字を入れられて、学会の慢心を戒め、正本堂が直ちに事の戒壇ではないことを念のために書かれたのです。
破折:
1.〝大ウソつき〟宗門の謀略
(1)日達法主は御本尊謹刻を了解していた
秋谷 今回は、元・日蓮正宗御用達の仏師で、赤沢朝陽会長の赤沢猛さんに来ていただいた。実際に学会本部の御本尊御謹刻(きんこく)に携(たずさ)わった当事者として、当時の状況をありのままに語ってもらいましょう。
赤沢 はい。赤沢です。よろしくお願いします。
原田 赤沢さんは、四年前の座談会(平成五年九月三十日付)以来、二度目の登場ですね。ぜひ、もう一度、話してください。
赤沢 わかりました。私どもは、明治四十年に日蓮正宗御用達となって以来、日顕が学会を破門するに至(いた)るまでの間、宗門の御本尊の御謹刻に関する仕事は一手にお引き受けしてまいりました。学会本部の御本尊を御謹刻したのも私どもですし、よく存じております。
佐藤 早速ですが、今回日顕宗では、大石寺に納められている板御本尊を調査したら、御本尊のほぞの部分に、仏師の名前と彫刻した年月が刻まれているのを発見したと言っていますが、それは本当ですか。
赤沢 その通りでございます。ほぞというのは板御本尊の台座に差し込まれている部分のことですが、通常、御本尊の御謹刻が終わり、台座に差し込む際に、仏師の名前と年月を刻んでおります。
佐藤 なるほど。それでは宗門側が、池田先生が日達上人から昭和四十九年一月二日に賜(たまわ)った「正本堂賞与(しょうよ)御本尊」の板御本尊に、「昭和四十九年四月 朝陽(ちょうよう)」と彫られていたと発表していますが、これも間違いないわけですね。
赤沢 はい。間違いないと思います。「正本堂賞与御本尊」については、一番最初に御謹刻させていただきましたので、よく覚えています。四十九年の一月に依頼を受け、二月に彫り始めて、四月三十日に学会本部に納めました。
八矢 何の問題もないじゃない。いったい宗門側は、何がいけないと言ってるの?
佐藤 宗門の教学部副部長である水島の話はこうです。要は、〝学会が板御本尊にしたいと願い出をしてきたのは昭和四十九年九月二日。ところが、実はそれよりも五カ月も前の四月には彫刻が終わっていた〟というのです。
赤沢 それはとんでもないスリ替えです。「正本堂賞与御本尊」を板御本尊にすることは、日達上人は昭和四十九年の一月にはすでにご存じでした。これは日達上人からも、また池田先生からも、私が直接お話を伺(うかが)ったことですから、確かなことです。このことは四年前の座談会でも、明確に申し上げたはずです。
森田 日顕宗というところは、「唖法(あほう=無言の行法)を受けたる婆羅門(ばらもん)等の如(ごと)し」(御書二一ページ)とある通り、自分たちに都合の悪いところはすぐに頬被(ほおかむ)りして黙ってしまう習性がある(笑い)。念のため、もう一度、その間の経緯を教えていただけませんか。
赤沢 はい。わかりました。私が初めてこの話を伺ったのは、昭和四十八年の暮れのことでした。学会本部から、「学会の御本尊を何体か板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下(げいか)に一言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました。
秋谷 そうです。それで、年明け早々に、その件で池田先生から日達上人にお話ししたわけです。ちょうど、日達上人から池田先生に「正本堂賞与御本尊」が下付(かふ)された時のことでした。
赤沢 昭和四十九年一月十六日のことですが、私が池田先生にお会いした折、先生の方から「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、〝大事にするためなんだからいいんだよ〟とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。
原田 つまり、日顕宗側が問題にしている「正本堂賞与御本尊」については、昭和四十九年一月に日達上人の了承を得たうえで依頼を受け、二月に彫り始めて四月に学会本部に納めた、ということですね。
赤沢 その通りです。ですから、水島の言う〝願い出をする前から、学会は謹刻していた〟というのは、明らかな間違いです。
秋谷 間違えたというよりは、手柄を立てたいために、意図的に無視して、〝新発見〟にしたというのが真相でしょう。宗内でも知らない人が聞いたら、本当かなと思ってしまう。
原田 まったくタチの悪い教学部副部長だ。こんな〝トリック〟で、人々を騙(だま)そうとするなんて、まったくずるい。この昭和四十九年九月二日というのは、学会と宗門の連絡会議が行われた日のことだが、ここで議題に上がった板御本尊とは、学会本部常住の師弟会館の御本尊のことで、「正本堂賞与御本尊」のことではない。
森田 そう。私も出席者だったからよく覚えている。もともと御謹刻は日達上人の了解を得てから始めたものだが、学会本部常住の御本尊を御謹刻する際、改めて、連絡会議にかけたのです。
秋谷 その会議には、当時、総監代務者だった日顕自身も宗門側の責任者として出ていて、日達上人に報告していたはずだ。その時も日達上人ははっきりと了解している。だから、そのことは、報告した当人の日顕が、誰(だれ)よりもこの事実について一番よく知っているはずだ。
(『聖教新聞』1997年10月17日)
〈正本堂賞与御本尊の御謹刻〉
〇 昭和四十九年一月二日 池田会長が日達法主より「正本堂賞与御本尊」を賜る
〇 昭和四十九年一月十六日 赤沢氏が池田会長より御謹刻の依頼を受ける
「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、〝大事にするためなんだからいいんだよ〟とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」(池田会長)
〇 同年二月 彫り始める
〇 同年四月三十日 学会本部に納める
〈学会本部常住御本尊の御謹刻〉
〇 昭和四十九年九月二日 学会と宗門の連絡会議において、学会本部常住の師弟会館の御本尊が議題に上がる(板本尊への御謹刻の件)
〇 同年十一月 謹刻が始まる
〇 昭和五十年一月一日 入仏式
〇 同年一月四日付 聖教新聞に報道
(2)学会本部常住の御本尊と「正本堂賞与御本尊」をスリ替えて発表
佐藤 ちなみに赤沢さん、本部常住の御本尊を謹刻したのはいつごろですか?
赤沢 四十九年の十一月末に彫り始め、その年の暮れに学会本部に納めています。
原田 そう。だから九月に連絡会議で確認して、十一月から謹刻が始まったのです。そしてこの学会本部常住の板御本尊については、翌五十年の一月一日に入仏式を行った。このことは当時の聖教新聞(一月四日付)でも大々的に報道している。当然のことながら、当時、これらの御謹刻については、何の問題にもなってはいませんでした。学会には宗門に隠れてこっそりやらなければならない理由など何一つなかったんです。
佐藤 では謹刻の仕方についてはどうですか? 何か宗門側は、紙幅(しふく)の御本尊を写真に撮(と)って、板にしたことが悪いように言っていますが。
赤沢 そんなことはありません。現に学会本部の御本尊以外にも、保田の妙本寺では十体、日向(ひゅうが)の定善寺では七体ほど、それぞれお寺の御本尊の写真を撮り、謹刻しています。何より日顕自身、広島・正教寺の客殿の御本尊が大きすぎて御厨子(ずし)に入らず、住職に「赤沢に言って、写真を撮ってもらって小さくしろ」と指示を出していたことがあります。
八矢 まー、御厨子を大きくするんじゃなくて、御本尊を小さくしたの? とんでもない本末転倒(ほんまつてんとう)じゃないですか。
秋谷 御本尊を単なる〝モノ〟としか思っていない証拠だ。それに比べて学会は、本部常住の御本尊をはじめ数体の御本尊を、将来にわたって大切にお守りするために、板御本尊にしたいと願い出をしたんだ。それに対して日達上人は、「紙幅を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」と言われた。それを今さら宗門側がとやかく言うのは筋違(すじちが)いです。
森田 いずれにしても、これで日顕宗の言い掛かりは完全に総崩れだ(笑い)。わざと学会本部常住の御本尊と「正本堂賞与御本尊」をスリ替えて、〝願い出の五カ月前に勝手に謹刻していた〟などと発表するなんて、聖職者の風上(かざかみ)にもおけない大ウソつきだ。
佐藤 水島も総監の藤本も、さぞかし〝穴があったら入りたい〟心境だろう。〝新事実発見!〟などと、あれだけ得意になって大はしゃぎしていたクセに、「創価新報」(九月十七日付)で破折(はしゃく)されたとたん、「大白法」(十月一日付)では見る影もないほど〝トーンダウン〟している(笑い)。
原田 赤沢さんが四年前に証言していたことについても、〝知っていたけど、発表は省略しました〟などと負け惜しみを言ってる。これで〝学会員を再折伏しよう!〟だなんて、とんだお笑い草だよ。わざわざ自分たちで〝墓穴(ぼけつ)〟を掘りにくるようなものだ(笑い)。
秋谷 要するに、大騒ぎしても、よく見ると実態は何もない。正論があらわれると、あとは何も言わないで身を縮めて穴の中にこもってしまう。まさに「帝釈(たいしゃく)にせめられて無熱池(むねっち)の蓮(はちす)の中に小身(しょうしん)と成(なり)て隠れしが如(ごと)し」(御書九五七ページ)の御金言通りの哀(あわ)れな姿じゃないか。日顕宗が凋落(ちょうらく)の一途をたどるのも当然と言えば当然だ。
(同)
2.正本堂は「事実上の本門戒壇堂」
宗門は「正本堂が直ちに事の戒壇ではない」と言うが、御供養の勧募趣意書には「正本堂建立は、実質的な戒壇建立」との細井管長(日達法主)の趣旨を奉じ、次の通り明記されている。
「戒壇の大御本尊様が、いよいよ、奉安殿よりお出ましになって、正本堂に御安置されることを、正式に仰せくだされたのであります。かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになったのであります」
(昭和四十年三月二十六日 正本堂御供養趣意書)
それが、正本堂完成の直前になって、宗門はその改変を発表する。
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」
(昭和四十七年四月二十八日『訓諭』)
御供養を受け取っておいて、その後に勧募の趣旨が変更になったのである。背景には、国立戒壇説に固執する暴力集団・妙信講に、宗門が脅迫されていた経緯がある。
この妙信講の反発を抑える意味から、対外的に「現時における事の戒壇」と発表せざるを得なかったと推測されるが、当初の細井管長の主旨は間違いなく「事実上の本門戒壇堂」の建立にあった。
「大聖人様がこの法華本門の戒壇を建立せられ、今まさにその本門戒壇の戒壇堂が建立しようと云うのが今年の、この十月に法華講総講頭池田先生によって発願をせられておられるのでございます」
(昭和四十二年十月四日、甲府・正光寺、『大日蓮』昭和四十四年十月号)
「今当に時来り、法華講総講頭池田大作先生が大願主となり、事実上の本門戒壇堂である正本堂の建立が進行中であります」
(昭和四十四年四月六日、総本山でおこなわれた御虫払大法会、『大日蓮』昭和四十四年六月号)
池田会長は、「実質的な戒壇建立」(『正本堂御供養趣意書』)との正本堂の建立趣意に賛同し赤誠の御供養を拠出した何百万人もの学会員の心情を汲み、御本尊にはその真実を記し置かれたいと、細井管長に懇請したのである。
この池田会長の誠意に対し、宗門は「学会の慢心」と断じた。法主が訓諭で正本堂の意義を改変したことを、信徒の分際で逆らった、とした。
だが「正本堂賞与御本尊」は、正本堂にかかる一切の真実をご照覧である。細井管長が「事実上の本門戒壇堂」等と説いてきたことは、紛れもなく周知の事実である。
細井管長は「正本堂賞与御本尊」に対し奉り、両舌(二枚舌)の罪をお詫び申し上げるべきであった。それとともに宗門は御本尊にかかる謀略の事実を認め、学会及び学会員に謝罪すべきである。
(了)
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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:76」を破折する 連載109回
妄説:76 今回の創価学会のように、末寺の住職から所蔵の本尊を提供されれば、在家の者が複製して配布することは許されるのですか。
そのようなことは絶対に許されません。
かつて池田氏は「末法の大白法は、唯授一人、血脈付法の御歴代の御法主上人御一人がお伝えあそばされているのであり、そのうえからわれわれ信徒のために御本尊をお認(したた)めくださっているのである」(広布と人生を語る 四-六七頁)と、御法主上人お一人が末法の大白法を伝え、そのうえから御本尊をおしたためくださったといっていました。
『本因妙抄』に
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)
と御教示のように、御本尊に関することはすべて血脈相承の御法主上人にその権能があります。
したがって、たとえ末寺所蔵の御本尊であっても、末寺の住職の勝手な判断で、御本尊を他人に提供することなど許されません。日興上人は、
「縦(たと)ひ子孫たりと雖も私に之を与へ、若し又売買する者は同罪たるべき也」(歴全 1-144頁)
として、大謗法であると断ぜられております。
また、もし御法主上人の許可を受けて末寺住職が御本尊を在家の人に下付したとしても、それを勝手に複製したり配布することは、当然大謗法です。
破折:
1.御本尊は〝専売特許〟ではない
宗門は、学会授与の御本尊を「末寺所蔵の御本尊」と言うが、気は確かか。いや、もとから気が触れているのであろう。
平成四年十一月十二日、浄圓寺(栃木県小山市)は住職と総代の意志により、日蓮正宗より正式に宗派離脱した。よって以後は、独立の宗教法人(浄圓寺)が、他の宗教法人(大石寺)の許可を得る必要は無い。
また「末寺の住職の勝手な判断で、御本尊を他人に提供することなど許されません」と言うが、すでに浄圓寺は日顕・日如の手の届かない所にある。それを「末寺」呼ばわりされるいわれは無く、宗門は浄圓寺に叩頭(こうとう)して謝罪すべきである。
そもそも御本尊の授与を差し止めようとすることは、御開山上人への違背である。
「志(こころざし)有る者には本尊を授与し給ふに時を選ばず」(『富士宗学要集』第五巻 一七五頁)
〝志〟とは、「信心の志」、「生涯を広宣流布のために尽くす志」を言う。信心の志がある者には、授与があってしかるべきである。
宗門は「勝手な判断で、御本尊を他人に提供することなど許されません」と言う。御本尊を〝法主の専売特許(=パテント)〟と見なしており、その帰趨が〝ご供養(=坊主の飯の種)〟の行方を決定するからである。
その意味で宗門は〝商人(あきんど)〟であり、管長は「御法主商人」とお呼びすべきであろう。だがその正体は、広宣流布を阻害する天魔である。
2.身延と〝同意〟する宗門
宗門が「縦(たと)ひ子孫たりと雖も私に之を与へ、若し又売買する者は同罪たるべき也」との御文を持ち出すなど、全くの的外れである。
学会では、親子といえども所帯が異なれば、御本尊は所帯ごとに授与される。御本尊を子孫代々で受け継ぐこともない。
むしろ法華講の檀家では、御供養の見返りである「賞与御本尊」を一軒で何体も所蔵するが、これらの御本尊は当主の死亡の際、宗門に返還してきたであろうか。決してそのようなことはない。
そもそも賞与御本尊を乱発してきた宗門の実態を日興上人が御覧になれば、さぞ歎かれることであろう。故・渡辺慈済師は次の通り綴った。
◇
本来、御本尊は信仰の根本であり、拝むためにあるが、いつの間にか大石寺では、賞与御本尊を謝礼として出すから御供養をするように呼び掛けるようになっていた。
例えば、私の所持している「御守御本尊」は六十世日開上人が認(したた)めたものである。脇書には「宗祖大聖人第六百五十御遠忌(ごおんき)壱万幅之内」とある。昭和六年の大聖人六百五十遠忌の時に、御供養をしたお礼である。日布上人や日応上人も同様のことを行なっているが、本山に金がなく、何か記念事業を行なう折に、このように賞与御本尊を授与する形で資金集めをしていたのである。お金のために御本尊を授与したと言われても仕方のない実態だった。
(『日蓮正宗〝落日の真因〟』渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
次に、御本尊の売買も論外である。学会がいったいどこの土産物店で御本尊を陳列したか、不特定多数の顧客に販売したと言うか。およそ場違いな御文を持ち出してきたものである。
「御本尊を他人に提供」とか「売買」とあるのは、彼らが身延の門前町で見た光景が頭にあるのではないのか。宗門は昔から身延との同座が名誉と思うらしく、謗法与同の歴史はいくらもある。
〇 五十七世阿部日正:日蓮大聖人への「立正大師号」宣下にあたり、日蓮宗各派と合同の勤行を行なった(大正十一年十月十三日、於:築地の水交社)。「妄説:48」を破折する(その二)を参照。
〇 六十世阿部日開:天皇に「立正」の文字を書いてもらい、「勅額」を身延山久遠寺に降賜する条件として、身延を大聖人の「廟所」と認める念書を文部大臣に提出した(昭和六年十月一日に下賜、久遠寺の祖師堂に掲げられた)。「妄説:53」を破折する(その二)を参照。
所詮、宗門も身延も同じ謗法の徒であり、考えつくことは共通のようである。
3.詐称法主・日顕の正体
(1)自己申告で猊座を奪う
「御法主上人の許可」云々とご大層なことであるが、「ニセ上人」の許可など不要である。〝唯授一人血脈相承〟を詐称し、大聖人の仏法を毀損した法主の戯言を、誰が聞く耳を持とうか。
日顕の先師・細井管長(日達法主)は、昭和五十四年七月二十二日午前五時、富士宮市の病院で逝去した。遺体が大奥対面所に戻り、身内、関係者による読経が終わり、午前十一時十分、東奥番室の奥の応接間で緊急重役会議が開かれた。
出席者は、阿部総監、椎名重役、早瀬日慈能化の三人であった。以下は、その再現シーンである。
◇
日顕は一世一代の勝負に出る。会議が始まったとたん、日顕が口火を切った。
「今日まで、どなたにも秘してきたが……」
日顕はすでに考えていたシナリオを慎重に言葉にした。問題は相承を受けた日だ。この日なら、確実に日達上人は本山にいたはずだ。
「実は昨年四月十五日、総本山大奥において猊下と自分と、二人きりの場において、猊下より自分に対し内々に、御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜わったことを御披露する」
「えーっ! そんな」
日顕のいきなりの自己申告に、重役の椎名は思わず、声をあげた。しかし、その瞬間、
「いや、何をおっしゃる。これでお山は安泰だ。南無妙法蓮華経……」
早瀬日慈が日顕に向かって合掌した。六十七世法主が誕生した瞬間であった。
早瀬日慈も法主候補の一人であったが、日顕が先に名乗り出た以上、仕方ない。早い者勝ちだった。
(『転落の法主』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著 エバラオフィス 2004年04月出版)
証拠は一切なく、証人もいない日顕の言い分など、到底信じられるものではない。対するに宗内では、早瀬日慈が次の法主の最有力候補と目されていた。しかし当の早瀬が折れてしまっては、椎名も受け入れざるを得なかった。
◇
早瀬が後年、法道院の地元・豊島区の創価学会幹部に、
「藤本は小心者で、実質的に阿部しかいなかったのです。私が我慢したからそうなったのです」(筆者註 「藤本」とは当時、庶務部長だった藤本栄道)
と述べている。
(『暁闇』北林芳典著 報恩社 2002年12月出版)
日顕は、宗門の体面という盲点を突いた。なまじ「唯授一人血脈相承」を喧伝している宗門ゆえ、日達法主が次期管長を明確にしないまま急死したため、そのままでは伝統の形に疵がつくこととなってしまった。他宗などから、どのような言われ方がされるであろうか、宗内にはそのような懸念があった。
それ故に、このような猿芝居一つで、日顕は管長の地位を獲得したのである。
(2)口に締まりのない詐称男
「日顕が登座して、しばらくしてからのことです。ある時、私たちが聞いたわけではないのに、日顕は問わず語りにこう言いだしたのです。『ワシは、もしかしたら早瀬日慈さんあたりが(相承を)受けているのではないかとも思ったが、しばらく待っていても(早瀬が)何も言い出さないので、自分から言い出して登座したんだ』と。この話は私だけでなく、当時、本山にいた何人もの若手僧侶が聞いています」(吉川幸道住職)
(『法主詐称』憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
あたかも手柄話でもするかのように、得意気な様子の日顕である。緊急重役会議において一世一代の自己申告をしたところ、それが通ってしまった。「してやったり」の高揚感のままに、相承が無かった秘密をあっさりと漏らしてしまったのである。
◇
中島法信住職は証言する。
「正信会から相承をめぐる裁判を起こされ、揺れに揺れていた昭和五十六年頃のことです。本山から名古屋への帰り、新幹線で京都に帰る椎名日澄師と一緒になったのです。その時、椎名師から直接聞いたのですが、『猊下も大変だねえ。ただ自分がそう言うだけで、相承を受けたという証拠が何もないんだから』と言うんです。早瀬日慈さんにも出席してもらって、三人で重役会議をやり、しかも仮通夜の席で重大発表をした張本人が、こんなことを言い出したので驚きました」
(前出『法主詐称』)
このニセ法主を指して「唯授一人、血脈付法の御歴代の御法主上人」とはお笑いである。それを受けいれた宗門もまた「ニセ宗門」である。ニセ法主とニセ宗門とが我ら学会員を誹謗しようと、犬の遠吠えでしかない。
衆生身心御書(一五九五㌻)にいわく、
「法華経の行者はいやしけれども・守護する天こわし、例せば修羅が日月をのめば頭七分にわる・犬は師子をほゆれば・はらわたくさる」
日寛上人の御本尊を寺宝として所蔵する浄圓寺が、日顕の魔窟を脱し、住職と総代の合意をもって学会による御形木御本尊が授与されるに至り、御本尊流布の体制が整った。
いかに日寛上人が快哉を叫ばれたことであろうか。我らがこの御恩に報いるには、ひたすら広宣流布あるのみである。
(了)
妄説:76 今回の創価学会のように、末寺の住職から所蔵の本尊を提供されれば、在家の者が複製して配布することは許されるのですか。
そのようなことは絶対に許されません。
かつて池田氏は「末法の大白法は、唯授一人、血脈付法の御歴代の御法主上人御一人がお伝えあそばされているのであり、そのうえからわれわれ信徒のために御本尊をお認(したた)めくださっているのである」(広布と人生を語る 四-六七頁)と、御法主上人お一人が末法の大白法を伝え、そのうえから御本尊をおしたためくださったといっていました。
『本因妙抄』に
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)
と御教示のように、御本尊に関することはすべて血脈相承の御法主上人にその権能があります。
したがって、たとえ末寺所蔵の御本尊であっても、末寺の住職の勝手な判断で、御本尊を他人に提供することなど許されません。日興上人は、
「縦(たと)ひ子孫たりと雖も私に之を与へ、若し又売買する者は同罪たるべき也」(歴全 1-144頁)
として、大謗法であると断ぜられております。
また、もし御法主上人の許可を受けて末寺住職が御本尊を在家の人に下付したとしても、それを勝手に複製したり配布することは、当然大謗法です。
破折:
1.御本尊は〝専売特許〟ではない
宗門は、学会授与の御本尊を「末寺所蔵の御本尊」と言うが、気は確かか。いや、もとから気が触れているのであろう。
平成四年十一月十二日、浄圓寺(栃木県小山市)は住職と総代の意志により、日蓮正宗より正式に宗派離脱した。よって以後は、独立の宗教法人(浄圓寺)が、他の宗教法人(大石寺)の許可を得る必要は無い。
また「末寺の住職の勝手な判断で、御本尊を他人に提供することなど許されません」と言うが、すでに浄圓寺は日顕・日如の手の届かない所にある。それを「末寺」呼ばわりされるいわれは無く、宗門は浄圓寺に叩頭(こうとう)して謝罪すべきである。
そもそも御本尊の授与を差し止めようとすることは、御開山上人への違背である。
「志(こころざし)有る者には本尊を授与し給ふに時を選ばず」(『富士宗学要集』第五巻 一七五頁)
〝志〟とは、「信心の志」、「生涯を広宣流布のために尽くす志」を言う。信心の志がある者には、授与があってしかるべきである。
宗門は「勝手な判断で、御本尊を他人に提供することなど許されません」と言う。御本尊を〝法主の専売特許(=パテント)〟と見なしており、その帰趨が〝ご供養(=坊主の飯の種)〟の行方を決定するからである。
その意味で宗門は〝商人(あきんど)〟であり、管長は「御法主商人」とお呼びすべきであろう。だがその正体は、広宣流布を阻害する天魔である。
2.身延と〝同意〟する宗門
宗門が「縦(たと)ひ子孫たりと雖も私に之を与へ、若し又売買する者は同罪たるべき也」との御文を持ち出すなど、全くの的外れである。
学会では、親子といえども所帯が異なれば、御本尊は所帯ごとに授与される。御本尊を子孫代々で受け継ぐこともない。
むしろ法華講の檀家では、御供養の見返りである「賞与御本尊」を一軒で何体も所蔵するが、これらの御本尊は当主の死亡の際、宗門に返還してきたであろうか。決してそのようなことはない。
そもそも賞与御本尊を乱発してきた宗門の実態を日興上人が御覧になれば、さぞ歎かれることであろう。故・渡辺慈済師は次の通り綴った。
◇
本来、御本尊は信仰の根本であり、拝むためにあるが、いつの間にか大石寺では、賞与御本尊を謝礼として出すから御供養をするように呼び掛けるようになっていた。
例えば、私の所持している「御守御本尊」は六十世日開上人が認(したた)めたものである。脇書には「宗祖大聖人第六百五十御遠忌(ごおんき)壱万幅之内」とある。昭和六年の大聖人六百五十遠忌の時に、御供養をしたお礼である。日布上人や日応上人も同様のことを行なっているが、本山に金がなく、何か記念事業を行なう折に、このように賞与御本尊を授与する形で資金集めをしていたのである。お金のために御本尊を授与したと言われても仕方のない実態だった。
(『日蓮正宗〝落日の真因〟』渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
次に、御本尊の売買も論外である。学会がいったいどこの土産物店で御本尊を陳列したか、不特定多数の顧客に販売したと言うか。およそ場違いな御文を持ち出してきたものである。
「御本尊を他人に提供」とか「売買」とあるのは、彼らが身延の門前町で見た光景が頭にあるのではないのか。宗門は昔から身延との同座が名誉と思うらしく、謗法与同の歴史はいくらもある。
〇 五十七世阿部日正:日蓮大聖人への「立正大師号」宣下にあたり、日蓮宗各派と合同の勤行を行なった(大正十一年十月十三日、於:築地の水交社)。「妄説:48」を破折する(その二)を参照。
〇 六十世阿部日開:天皇に「立正」の文字を書いてもらい、「勅額」を身延山久遠寺に降賜する条件として、身延を大聖人の「廟所」と認める念書を文部大臣に提出した(昭和六年十月一日に下賜、久遠寺の祖師堂に掲げられた)。「妄説:53」を破折する(その二)を参照。
所詮、宗門も身延も同じ謗法の徒であり、考えつくことは共通のようである。
3.詐称法主・日顕の正体
(1)自己申告で猊座を奪う
「御法主上人の許可」云々とご大層なことであるが、「ニセ上人」の許可など不要である。〝唯授一人血脈相承〟を詐称し、大聖人の仏法を毀損した法主の戯言を、誰が聞く耳を持とうか。
日顕の先師・細井管長(日達法主)は、昭和五十四年七月二十二日午前五時、富士宮市の病院で逝去した。遺体が大奥対面所に戻り、身内、関係者による読経が終わり、午前十一時十分、東奥番室の奥の応接間で緊急重役会議が開かれた。
出席者は、阿部総監、椎名重役、早瀬日慈能化の三人であった。以下は、その再現シーンである。
◇
日顕は一世一代の勝負に出る。会議が始まったとたん、日顕が口火を切った。
「今日まで、どなたにも秘してきたが……」
日顕はすでに考えていたシナリオを慎重に言葉にした。問題は相承を受けた日だ。この日なら、確実に日達上人は本山にいたはずだ。
「実は昨年四月十五日、総本山大奥において猊下と自分と、二人きりの場において、猊下より自分に対し内々に、御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜わったことを御披露する」
「えーっ! そんな」
日顕のいきなりの自己申告に、重役の椎名は思わず、声をあげた。しかし、その瞬間、
「いや、何をおっしゃる。これでお山は安泰だ。南無妙法蓮華経……」
早瀬日慈が日顕に向かって合掌した。六十七世法主が誕生した瞬間であった。
早瀬日慈も法主候補の一人であったが、日顕が先に名乗り出た以上、仕方ない。早い者勝ちだった。
(『転落の法主』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著 エバラオフィス 2004年04月出版)
証拠は一切なく、証人もいない日顕の言い分など、到底信じられるものではない。対するに宗内では、早瀬日慈が次の法主の最有力候補と目されていた。しかし当の早瀬が折れてしまっては、椎名も受け入れざるを得なかった。
◇
早瀬が後年、法道院の地元・豊島区の創価学会幹部に、
「藤本は小心者で、実質的に阿部しかいなかったのです。私が我慢したからそうなったのです」(筆者註 「藤本」とは当時、庶務部長だった藤本栄道)
と述べている。
(『暁闇』北林芳典著 報恩社 2002年12月出版)
日顕は、宗門の体面という盲点を突いた。なまじ「唯授一人血脈相承」を喧伝している宗門ゆえ、日達法主が次期管長を明確にしないまま急死したため、そのままでは伝統の形に疵がつくこととなってしまった。他宗などから、どのような言われ方がされるであろうか、宗内にはそのような懸念があった。
それ故に、このような猿芝居一つで、日顕は管長の地位を獲得したのである。
(2)口に締まりのない詐称男
「日顕が登座して、しばらくしてからのことです。ある時、私たちが聞いたわけではないのに、日顕は問わず語りにこう言いだしたのです。『ワシは、もしかしたら早瀬日慈さんあたりが(相承を)受けているのではないかとも思ったが、しばらく待っていても(早瀬が)何も言い出さないので、自分から言い出して登座したんだ』と。この話は私だけでなく、当時、本山にいた何人もの若手僧侶が聞いています」(吉川幸道住職)
(『法主詐称』憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
あたかも手柄話でもするかのように、得意気な様子の日顕である。緊急重役会議において一世一代の自己申告をしたところ、それが通ってしまった。「してやったり」の高揚感のままに、相承が無かった秘密をあっさりと漏らしてしまったのである。
◇
中島法信住職は証言する。
「正信会から相承をめぐる裁判を起こされ、揺れに揺れていた昭和五十六年頃のことです。本山から名古屋への帰り、新幹線で京都に帰る椎名日澄師と一緒になったのです。その時、椎名師から直接聞いたのですが、『猊下も大変だねえ。ただ自分がそう言うだけで、相承を受けたという証拠が何もないんだから』と言うんです。早瀬日慈さんにも出席してもらって、三人で重役会議をやり、しかも仮通夜の席で重大発表をした張本人が、こんなことを言い出したので驚きました」
(前出『法主詐称』)
このニセ法主を指して「唯授一人、血脈付法の御歴代の御法主上人」とはお笑いである。それを受けいれた宗門もまた「ニセ宗門」である。ニセ法主とニセ宗門とが我ら学会員を誹謗しようと、犬の遠吠えでしかない。
衆生身心御書(一五九五㌻)にいわく、
「法華経の行者はいやしけれども・守護する天こわし、例せば修羅が日月をのめば頭七分にわる・犬は師子をほゆれば・はらわたくさる」
日寛上人の御本尊を寺宝として所蔵する浄圓寺が、日顕の魔窟を脱し、住職と総代の合意をもって学会による御形木御本尊が授与されるに至り、御本尊流布の体制が整った。
いかに日寛上人が快哉を叫ばれたことであろうか。我らがこの御恩に報いるには、ひたすら広宣流布あるのみである。
(了)
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