日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:70」を破折する 連載100回
妄説:70 特定の人に与えられた御本尊を、他の人が拝んでも功徳はありますか。
基本としては、願主が誰であっても、本宗の御本尊を正しく信仰するならば、誰にでも功徳はあります。
しかし、この質問は、今回創価学会が浄圓寺(じょうえんじ)の大行(だいぎょう)阿闍梨本證坊授与の日寛上人御書写の御本尊を、御法主上人の許可なく授与書きを削除し、コピーして会員に販売していることについて、御本尊をこのように勝手に扱ってもよいのか、ということでしょう。
実例を挙げて説明しましょう。
「お守り御本尊」は授与を受けた願主が死亡した場合、寺院に返納するのが原則です。
また授与書きのある「常住御本尊」も、願主が死亡したときには寺院に返納します。遺族が引き続きその御本尊を受持したいときは、「感得(かんとく)願い」を申し出なければなりません。
寺院の常住御本尊には脇書(わきが)きに「○○寺安置」としたためられている御本尊がありますが、その御本尊の御安置の場所を変えるときも、御法主上人の許可が必要です。
要は、本宗の御本尊はすべて日蓮大聖人の魂魄(こんぱく)であり、御本仏の当体ですから、大聖人の仏法を受け継がれている御法主上人の許可なく、勝手に取り扱うことは厳しく戒められているのです。
今回の学会のように、御本尊の授与書きを勝手に削り、勝手にコピーして販売することは、大聖人の御意に背き、日寛上人のお徳を汚す大罪となります。
破折:
1.学会の〝御本尊授与の大権〟は日寛上人との御仏縁より
御本尊は〝法主の私物〟ではない。信心を持つ人には、当然、御本尊を授与すべきである。
「志有る者には本尊を授与し給ふに時を選ばず」(日興上人『富士宗学要集』第5巻175頁)
「大聖人の御意に背き、日寛上人のお徳を汚す大罪」とは、広宣流布の主体である学会を破門して御本尊下付を停止し、さらに檀徒づくりの目的で御本尊を利用し、学会員への威嚇・脅迫を行なう宗門の一連の悪行を指す。
このために御本尊流布が叶わず、広宣流布が阻害されてきたが、法主信仰を打破された日寛上人との御仏縁をもって、遂に学会が御本尊授与を行なう秋(とき)に至った。
法主信仰(すなわち日顕の〝魔仏信仰〟)を永久に停止させるべく、日寛上人が唯一の和合僧たる学会に〝御本尊授与の大権〟を託されたものと、信じて止まない。
2.御本尊の功徳は〝特定の人〟に限られない
御本尊の功徳は「特定の人」限定ではない。御本尊を貶める宗門には御本尊下付の資格は無い。
◇
斉藤 それにしても、日顕宗の言いがかりは、子供じみています。最近も、学会授与の御本尊は日寛上人が淨圓寺(じょうえんじ)に認(したた)められたもので、〝一機一縁〟の本尊だから、御形木(かたぎ)にして、他の人が拝んでも功徳はないなどと、言いはじめたようです。
辻 日顕は、「一機一縁」の正しい意味すら分かっていないのかね。そもそも「一機一縁」とは、大聖人が、門下に与えられた御本尊について使われる言葉で、出世の本懐(ほんがい)である「一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ)」の大御本尊と区別する意味で用いられるものだ。
斉藤 そうです。「一機一縁」とは、あくまでも仏の化導(けどう)について用いられる言葉です。釈尊の場合で言えば、出世の本懐である法華経が一切衆生のための教えであるのに対して、衆生の機根に応じて説かれた爾前経(にぜんきょう)が、一機一縁の教えになる。
谷川 大聖人の御化導のうえからいえば、日淳上人は「御在世と御滅後を通じ根本の御本尊は此の一切衆生総与の戒壇(かいだん)の大御本尊にまします」と、大御本尊が一切衆生を導く根本であることを述べられ、これに対して、大聖人御在世の弟子や信徒を導くために授与された御本尊を一機一縁の御本尊と、明確に示されています。
高橋 要するに、一機一縁の御本尊とは、本来は大聖人在世の門下に与えられた御真筆(ごしんぴつ)の御本尊のことを指す言葉ですね。
細谷 しかし日顕宗では、これも、よく分かっていないようだ(笑い)。そんなこともわからず、大御本尊を書写された日寛上人の御本尊が、功徳が出ないとか、おかしなことを言い出すようじゃおしまいだ。
高橋 まったくおかしな話です。そもそも、御本尊の功徳が特定の人に限られるなどという話は、聞いたことがありません。
辻 そう。草創期に入信した人たちは、大勢、日寛上人の御形木御本尊を拝んで、たくさん功徳をいただいたよ。それに昔は、末寺ごとに日寛上人とか、日布上人とか、日応上人とか、それぞれ歴代上人の異なる御形木御本尊が下付されていた。日顕宗の言い分だと、これも〝一機一縁〟のニセ本尊を下付していたことになる(笑い)。冗談じゃない。宗門古来の伝統も否定して、支離滅裂だ。
高橋 日顕は、自分の書写した御本尊を拝んでもいいが、日寛上人の御本尊はいけないとでも言うのでしょうか。もう、目茶苦茶(めちゃくちゃ)ですね(笑い)。
(発言者:辻参議会議長、細谷副会長、斉藤教学部長、高橋婦人部書記長、谷川青年部長『聖教新聞』1993年9月22日)
3. 宗門の存在意義を揺るがした、創価学会の御本尊授与
① 日寛上人御書写の御本尊を「ニセモノとはいえない」という宗門の僧侶たち
現在、創価学会が行っている本尊授与の形式を宗門が非難することはできない。それは、かつては、宗門も本山ではなく、東京の末寺が寺宝である有縁の法主の本尊を印刷して信徒に授与していたからである。
今回の宗門事件で日顕が創価学会に対して、御本尊を授与しないと言い出し、御本尊を、信徒を脅かす手段にしてきた。
その卑劣な行為に対し、日蓮正宗改革同盟並びに青年僧侶改革同盟は、改革同盟に所属する小山市・浄圓寺に格護されていた日寛上人御書写の本尊を授与することを決議し、創価学会に申し入れしたのだ。
だから本山・理境坊の小川只道のように、宗門の歴史を知る者は、日寛上人御書写の本尊を「にせものとは言えないが、許可がない」という言い方になるのだ。
(『新改革通信』108号 平成23年10月11日 発行:日蓮正宗改革同盟)
② 「許可」という権威を失えば宗門の存在意義はなくなり、分裂が起こる
結局、彼らが言えることは「許可がない」ということだけだ。しかし、宗門は創価学会を破門にし、「関係ない団体」と言いだした。「関係がない」と言いながら、困ると関係があると言いだす。まるで、駄々をこねる子供のようだ。
創価学会が本尊を授与すると、なぜ、宗門は困るのか。なぜ、「許可」にこだわるのか。それは、彼らの権威が失われ、宗門の存在意義さえ、疑われるからだ。
すなわち、宗門の「許可」という権威が失われれば、歴代法主の本尊を所持している寺院は、将来、宗門から離れても、完全に独立できるようになる。そして、権威だけで末寺を束ねている宗門は、いとも簡単に分裂してしまう。
(同)
③ ニセ法主に「許可」をもらう必要などない
そもそも自己申告で猊座を盗んだ日顕に、「許可」をもらうなど、盗人に頭を下げるようなものだ。
日達法主は亡くなる直前、大奥に、娘婿の東京国立・大宣寺の菅野慈雲と当時の御仲居・光久諦顕を呼ぶように奥番に命じた。
もし、日顕が内々に相承を受けたというなら、その場に呼ばれているはずだが、実際には呼ばれていない。
しかし、日達法主は病院で、大奥に向かう前に逝去された。そのことを日顕は最後のチャンスととらえて、自分が内々に相承を受けたと言いだしたのだ。
(同)
④ 日顕・日如を用いないことが正しい信心
日興上人の『遺誠置文』に「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」とある。
自作自演で法主の座を盗んだだけでなく、信徒の浄財で遊蕩に明け暮れて堕落し、信徒差別の感情から「C作戦」を企てた日顕・日如を用いないということが、正しい信心の姿である。
(同)
(了)
妄説:70 特定の人に与えられた御本尊を、他の人が拝んでも功徳はありますか。
基本としては、願主が誰であっても、本宗の御本尊を正しく信仰するならば、誰にでも功徳はあります。
しかし、この質問は、今回創価学会が浄圓寺(じょうえんじ)の大行(だいぎょう)阿闍梨本證坊授与の日寛上人御書写の御本尊を、御法主上人の許可なく授与書きを削除し、コピーして会員に販売していることについて、御本尊をこのように勝手に扱ってもよいのか、ということでしょう。
実例を挙げて説明しましょう。
「お守り御本尊」は授与を受けた願主が死亡した場合、寺院に返納するのが原則です。
また授与書きのある「常住御本尊」も、願主が死亡したときには寺院に返納します。遺族が引き続きその御本尊を受持したいときは、「感得(かんとく)願い」を申し出なければなりません。
寺院の常住御本尊には脇書(わきが)きに「○○寺安置」としたためられている御本尊がありますが、その御本尊の御安置の場所を変えるときも、御法主上人の許可が必要です。
要は、本宗の御本尊はすべて日蓮大聖人の魂魄(こんぱく)であり、御本仏の当体ですから、大聖人の仏法を受け継がれている御法主上人の許可なく、勝手に取り扱うことは厳しく戒められているのです。
今回の学会のように、御本尊の授与書きを勝手に削り、勝手にコピーして販売することは、大聖人の御意に背き、日寛上人のお徳を汚す大罪となります。
破折:
1.学会の〝御本尊授与の大権〟は日寛上人との御仏縁より
御本尊は〝法主の私物〟ではない。信心を持つ人には、当然、御本尊を授与すべきである。
「志有る者には本尊を授与し給ふに時を選ばず」(日興上人『富士宗学要集』第5巻175頁)
「大聖人の御意に背き、日寛上人のお徳を汚す大罪」とは、広宣流布の主体である学会を破門して御本尊下付を停止し、さらに檀徒づくりの目的で御本尊を利用し、学会員への威嚇・脅迫を行なう宗門の一連の悪行を指す。
このために御本尊流布が叶わず、広宣流布が阻害されてきたが、法主信仰を打破された日寛上人との御仏縁をもって、遂に学会が御本尊授与を行なう秋(とき)に至った。
法主信仰(すなわち日顕の〝魔仏信仰〟)を永久に停止させるべく、日寛上人が唯一の和合僧たる学会に〝御本尊授与の大権〟を託されたものと、信じて止まない。
2.御本尊の功徳は〝特定の人〟に限られない
御本尊の功徳は「特定の人」限定ではない。御本尊を貶める宗門には御本尊下付の資格は無い。
◇
斉藤 それにしても、日顕宗の言いがかりは、子供じみています。最近も、学会授与の御本尊は日寛上人が淨圓寺(じょうえんじ)に認(したた)められたもので、〝一機一縁〟の本尊だから、御形木(かたぎ)にして、他の人が拝んでも功徳はないなどと、言いはじめたようです。
辻 日顕は、「一機一縁」の正しい意味すら分かっていないのかね。そもそも「一機一縁」とは、大聖人が、門下に与えられた御本尊について使われる言葉で、出世の本懐(ほんがい)である「一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ)」の大御本尊と区別する意味で用いられるものだ。
斉藤 そうです。「一機一縁」とは、あくまでも仏の化導(けどう)について用いられる言葉です。釈尊の場合で言えば、出世の本懐である法華経が一切衆生のための教えであるのに対して、衆生の機根に応じて説かれた爾前経(にぜんきょう)が、一機一縁の教えになる。
谷川 大聖人の御化導のうえからいえば、日淳上人は「御在世と御滅後を通じ根本の御本尊は此の一切衆生総与の戒壇(かいだん)の大御本尊にまします」と、大御本尊が一切衆生を導く根本であることを述べられ、これに対して、大聖人御在世の弟子や信徒を導くために授与された御本尊を一機一縁の御本尊と、明確に示されています。
高橋 要するに、一機一縁の御本尊とは、本来は大聖人在世の門下に与えられた御真筆(ごしんぴつ)の御本尊のことを指す言葉ですね。
細谷 しかし日顕宗では、これも、よく分かっていないようだ(笑い)。そんなこともわからず、大御本尊を書写された日寛上人の御本尊が、功徳が出ないとか、おかしなことを言い出すようじゃおしまいだ。
高橋 まったくおかしな話です。そもそも、御本尊の功徳が特定の人に限られるなどという話は、聞いたことがありません。
辻 そう。草創期に入信した人たちは、大勢、日寛上人の御形木御本尊を拝んで、たくさん功徳をいただいたよ。それに昔は、末寺ごとに日寛上人とか、日布上人とか、日応上人とか、それぞれ歴代上人の異なる御形木御本尊が下付されていた。日顕宗の言い分だと、これも〝一機一縁〟のニセ本尊を下付していたことになる(笑い)。冗談じゃない。宗門古来の伝統も否定して、支離滅裂だ。
高橋 日顕は、自分の書写した御本尊を拝んでもいいが、日寛上人の御本尊はいけないとでも言うのでしょうか。もう、目茶苦茶(めちゃくちゃ)ですね(笑い)。
(発言者:辻参議会議長、細谷副会長、斉藤教学部長、高橋婦人部書記長、谷川青年部長『聖教新聞』1993年9月22日)
3. 宗門の存在意義を揺るがした、創価学会の御本尊授与
① 日寛上人御書写の御本尊を「ニセモノとはいえない」という宗門の僧侶たち
現在、創価学会が行っている本尊授与の形式を宗門が非難することはできない。それは、かつては、宗門も本山ではなく、東京の末寺が寺宝である有縁の法主の本尊を印刷して信徒に授与していたからである。
今回の宗門事件で日顕が創価学会に対して、御本尊を授与しないと言い出し、御本尊を、信徒を脅かす手段にしてきた。
その卑劣な行為に対し、日蓮正宗改革同盟並びに青年僧侶改革同盟は、改革同盟に所属する小山市・浄圓寺に格護されていた日寛上人御書写の本尊を授与することを決議し、創価学会に申し入れしたのだ。
だから本山・理境坊の小川只道のように、宗門の歴史を知る者は、日寛上人御書写の本尊を「にせものとは言えないが、許可がない」という言い方になるのだ。
(『新改革通信』108号 平成23年10月11日 発行:日蓮正宗改革同盟)
② 「許可」という権威を失えば宗門の存在意義はなくなり、分裂が起こる
結局、彼らが言えることは「許可がない」ということだけだ。しかし、宗門は創価学会を破門にし、「関係ない団体」と言いだした。「関係がない」と言いながら、困ると関係があると言いだす。まるで、駄々をこねる子供のようだ。
創価学会が本尊を授与すると、なぜ、宗門は困るのか。なぜ、「許可」にこだわるのか。それは、彼らの権威が失われ、宗門の存在意義さえ、疑われるからだ。
すなわち、宗門の「許可」という権威が失われれば、歴代法主の本尊を所持している寺院は、将来、宗門から離れても、完全に独立できるようになる。そして、権威だけで末寺を束ねている宗門は、いとも簡単に分裂してしまう。
(同)
③ ニセ法主に「許可」をもらう必要などない
そもそも自己申告で猊座を盗んだ日顕に、「許可」をもらうなど、盗人に頭を下げるようなものだ。
日達法主は亡くなる直前、大奥に、娘婿の東京国立・大宣寺の菅野慈雲と当時の御仲居・光久諦顕を呼ぶように奥番に命じた。
もし、日顕が内々に相承を受けたというなら、その場に呼ばれているはずだが、実際には呼ばれていない。
しかし、日達法主は病院で、大奥に向かう前に逝去された。そのことを日顕は最後のチャンスととらえて、自分が内々に相承を受けたと言いだしたのだ。
(同)
④ 日顕・日如を用いないことが正しい信心
日興上人の『遺誠置文』に「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」とある。
自作自演で法主の座を盗んだだけでなく、信徒の浄財で遊蕩に明け暮れて堕落し、信徒差別の感情から「C作戦」を企てた日顕・日如を用いないということが、正しい信心の姿である。
(同)
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №61~70
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:69」を破折する 連載99回
妄説:69 宗門から離脱した僧侶の話では「総本山でも末寺でも御形木御本尊の開眼などは、していない」とのことですが、本当ですか。
宗門から離脱した僧侶の話が、はたして信じられるでしょうか。創価学会の手先となり、血脈付法の御法主上人から頂いた袈裟と衣を身につけて、「宗門は悪」「猊下は悪」と喧伝(けんでん)している不知恩の徒輩ですから、はじめから信じるに足りないのは当然のことです。
御当代日顕上人は、御登座(とうざ)以来今日に至るまで、御本尊を必ず御宝前(ごほうぜん)にお供えし、開眼されています。
末寺住職は御法主上人の任命を拝し、名代として住職の任を務めています。檀信徒に御本尊を下付するときは、その名代としての責務の上から、御法主上人の允可のもと、御形木御本尊を「本門戒壇の大御本尊」の分身たる寺院の御宝前に供え奉り、読経唱題を申し上げるのです。
この尊厳なる責務を忘れ、邪智謗法の創価学会と与(くみ)する離脱僧には、始めからこの尊厳なる責務を全うする信心がなかったのです。
「あるものをない」といい、「ないものまである」といって、檀信徒を誑(たぶ)らかす離脱僧は、まさに僧形の天魔といえましょう。
破折:
1.「日顕の開眼などなかった」
口先の「机上の空論」を振り回す宗門の無任所教師と、末寺の現場で実務に汗を流してきた僧侶の「実体験」との、どちらの言葉が説得力に富むと思えるか。
日蓮正宗改革同盟の故・渡辺慈済住職の手記から、宗門の実態と、日顕の悪逆非道の行躰が明かされる。
◇
平成五年九月、学会が日寛上人の御本尊の授与を決定すると、日顕が新たに持ち出してきたのはニセ本尊という言い掛かりだった。
御本尊が学会で授与されることになると、日顕は信徒脅しの最後の〝切り札〟を失うことになる。何が何でも阻止しなければならないと、慌てたのは日顕だった。このため日顕は、〝御本尊は法主の「允可(いんか)」「開眼(かいげん)」が必要だ、ところが学会の御本尊はそれを受けていない、だからニセ本尊だ〟と難癖をつけたのである。しかし、これはまったく根拠のない話で、私の妙光寺時代の体験を語るだけで簡単に破折できる、幼稚なものだった。
今日のように、時の猊下の御形木御本尊を下付するようになったのは、日達上人の時代になってからで、昔は、各末寺ごとにその寺に縁のある歴代上人の御形木御本尊を下付していた。
昭和二十年代、私が在勤していた品川の妙光寺では、初代以来、歴代住職のほとんどが五十五世日布(にっぷ)上人の系列だったため、日布上人の御形木御本尊を下付していた。折伏が進み、日布上人の御本尊がなくなると、池袋・法道院で印刷していた日寛上人の御形木御本尊を分けてもらい、下付するようになった。他の末寺も同様で、日顕がいうような〝法主の允可〟〝法主の開眼〟などまったくなく、法道院から直接御本尊を送ってもらい、それを下付していたのである。
日顕の代になって、大石寺内事部に第三課がつくられ、御本尊取り扱いの窓口は法道院からこの第三課になったが、御本尊の印刷・表装は外部の業者が行ない、大石寺に納入されたものをそのまま末寺に送っていたのである。もちろん、日顕の開眼などなかった。
当然のことながら、御本尊の功徳についても、法主の允可や開眼とは一切関係ない。御書に「信心の厚薄によるべきなり」(日女御前御返事)、法華経にも「以信得入」(譬喩品)とあるように、御本尊の功徳はその人の信心によって決まり、信力・行力に応じて、仏力・法力が顕れるのである。草創期以来、多くの学会員が御本尊の功徳を受けてきたのも、その人たちが広宣流布のために懸命に信心に励んできたからである。逆に、御本尊を受けても、真剣に信心しなければ、功徳がないのは、いうまでもない。このように、日顕の言う〝法主の允可〟〝法主の開眼〟が、いかに根拠のない苦し紛れの言い掛かりにすぎないか、明らかであった。
(『日蓮正宗〝落日の真因〟』渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
2.「不知恩の徒輩」とは誰を指すか
前記は、現場たる末寺で、長らく御本尊を取り扱ってきた僧侶自身の体験である。「日顕の開眼などなかった」と、明確に証言している。
「御当代日顕上人は、御登座以来今日に至るまで、御本尊を必ず御宝前にお供えし、開眼されています」とは、戯言である。
正しく僧侶の分を守ってきた人を「創価学会の手先」などと誹謗する輩こそ、「日顕の手先」「日顕の私兵」ではないか。
「不知恩の徒輩」とは、まさしく日顕とその手先を言うのである。先師細井管長(日達法主)の事跡を跡形もなく破壊したのは、不知恩以外の何物であろうか。
正本堂、大客殿等々、寄進者は学会であっても建立したのは日顕の先師・細井管長である。破壊の理由を〝学会の謗法〟に帰するも、その実は先師を軽蔑し、遺恨を含んでのことは、河辺メモに明白に書かれている。
「一、G(猊下)は話にならない
人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の
事ではGでは不可能だ。
一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻
るだらうと云う安易な考へを持っている。」
日顕は教学部長時代から先師を批判、軽蔑していたことが明らかであり、先師の事跡を大事にするわけもない。また遺恨とは、実際には「相承をしてもらえなかった」ことである。それが恨みとなり、すさまじいばかりの破壊となったのである。
◇
日達上人は、話題が次の法主の問題になっても、「信雄(しんのう)(日顕のこと)はなあー」と、何時も言葉を濁らせておられた。信心の面、人格や人間性の面で、上に立つのは難しいと考えておられたのである。(中略)
猊座を盗み取ったものの、相承がないばかりに、山崎正友にいたぶられ、正信会の裁判にまで発展する。日顕の法主生活の前半は、この相承問題で揺さぶられるのである。当然、日顕が日達上人をよく思えるわけがなく、深い恨みを持ち、怨念をふくらませていったのである。
(前出『日蓮正宗〝落日の真因〟』)
しかし、細井管長が日顕に相承しなかったことを理由に恨まれる道理はない。前代未聞の〝逆恨み〟である。日顕ほどの「不知恩の徒輩」が、他にいるであろうか。
3.「ニセもの」の化けの皮が剝がれた
あれほどニセ本尊、ニセ本尊と騒いだ日顕だったが、実は「ニセもの」の化けの皮が剝がれたのは、日顕の方だった。
それは、その後の経緯を見ればはっきりしている。学会はますます発展したのに対して、宗門は衰退の一途。とくに、日顕は、平成八年、十年と、二度にわたって病気で苦しまなければならなかったし、信心のまったくない遊蕩法主だったこともバレた。シアトル事件の裁判でも、裁判長の前で数々の偽証を重ね、嘘つき法主だったことも証明された。さらに、「河辺メモ」の発覚によって戒壇の大御本尊を否定していた大謗法法主であったことも明らかになった。戒壇の大御本尊と〝不二の尊体〟といっていた日顕が、信心も相承もない「ニセもの」であることが明白になったのである。
結局、日寛上人の御本尊がニセ本尊どころか、誹謗すればするほど厳しき現証の出る、まことに正しい御本尊であることを、自分で天下に証明したのであった。
ニセものは本物を厭(いと)うというが、要は、日顕自身が「偽法主」だったからこそ、本物の正しい御本尊までニセものと誹謗せざるをえなかっただけなのである。
(前出『日蓮正宗〝落日の真因〟』)
この「信心のまったくない遊蕩法主」「裁判長の前で数々の偽証を重ねた嘘つき法主」「戒壇の大御本尊を否定していた大謗法法主」以外に、「僧形の天魔」がいるであろうか。それは天下に証明された事実である。
4.〝僧形の天魔〟日顕
「『ないものまである』といって、檀信徒を誑(たぶ)らかす」者とは、まさしく日顕である。
日顕が、日達法主から本山の大奥において相承を受けたとする日を「五十三年四月十五日」と明言したが、この日の日達法主は誕生日のため、極めて多忙な一日であった。
◇
昭和六十一年十月四日の「河辺メモ」には、東京・八王子市の法忍寺住職・水谷慈浄の証言としてこう記されている。
「光久諦顕が、かつて(宝浄寺に於て、鎌田卓道論文『相承の有無』の反論会議の時)光久が猊下に『4月15日にしていいのですか、あの日は達師が忙しい日だが』と云った記憶があると云っていた」
すなわち、水谷の言によれば、正信会の鎌田卓道が書いた「相承の有無」という論文の反論を書くための会議が、教学部長の大村寿顕(日統)の宝浄寺(東京・大田区)で行われた。その際、光久がかつて日顕に〝本当に昭和五十三年四月十五日に相承を受けたことにしていいのか、あの日は達師の誕生日で忙しく、とても相承をする時間的余裕などなかったはずだが〟と注進していたことがあると話していたというのだ。
当日のスケジュールを誰よりも知る人物だけに、この発言は重要だ。少なくともこの発言からは、お仲居であった光久をして、この日に日達上人から日顕への相承があったと確信していなかったことだけは明白である。
(『法主詐称』憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
「五十三年四月十五日」当日の奥番日誌の中に、日顕の名はどこにも登場しない。日顕を本山で見たという者もおらず、これを裏付ける資料もない。
日誌によれば、この日、日達法主は多忙で、朝から法務等をこなしたうえで、午前11時には本山を離れている。相承の儀式を行なう時間など、全く無かったのである。
日顕は自らの相承に関して、「何時に」「大奥のどの場所で」「どのように」行なわれたのかを釈明することは一切できない。
相承などと「『ないものまである』といって、檀信徒を誑(たぶ)らかす」日顕は、宗門の言う「僧形の天魔」に相違ない。
5.過去の歴史を意図的に隠す宗門
日蓮正宗改革同盟の御僧侶達は、長年住職として宗門の諸行事に勤務してきたのであり、宗門の裏も表も知り尽くしている。学会に誹謗中傷するだけが仕事である「邪義破折班」所属の無任所教師の小僧共とは、法臘(ほうろう)が違う。
「僧形の天魔」たる日顕の戯言しか聞いたことの無い小僧共は、以下の真実の声に傾注するがよい。
◇
昭和27年、「布教会」が日寛上人の御本尊に統一
法道院の近くのアパートで従業員が本尊を印刷
今回の宗門事件が起こり、宗門は創価学会の御本尊授与に対して、様々に難癖をつけようとしているが、彼らは宗門の過去の歴史を意図的に隠している。
我々は宗門の過去の歴史を明らかにし、彼らの批判がただの僧俗差別の偏見に基づいた邪義であることを白日の元にさらす。
(『新改革通信』113号 平成23年10月21日 発行:日蓮正宗改革同盟)
① 信徒が自分で御本尊を表具屋に表装を依頼していたこともあった
今までに紹介してきた通り、戦前・戦後の宗門では、東京の末寺がそれぞれ、有縁の法主の本尊を印刷して信徒に下付していた。
しかも、表装された状態ではなく、本尊が印刷された本紙の状態で下付され、御本尊を受けた本人が自分で表具屋に頼んで表装してもらう場合もあった。
ただ、信徒が使う表具屋も色々で、他宗の本尊を真似た表装などが問題になり、その都度、宗門で表具屋を認定するようになった。
この場合、「開眼」などしていない。というより、宗内に「開眼が必要」ということを言う者など誰もいなかった。
また、本山が東京の末寺がすることにいちいち口を出すことはなかった。
(同)
② 「布教会」が日寛上人の御形木本尊に統一し、法道院の従業員がアパートで 印刷
しかし、創価学会が誕生し、急激に信徒が増えたため、本尊を統一する必要が出てきた。
そして、昭和二十七年、宗門の「布教会」が、日寛上人の御形木本尊に統一することを決定した。
そして、本尊の印刷を請け負ったのが、豊島区・法道院内の「仏書刊行会」であった。
ただ、実際に、本尊の印刷を行っていたのは、僧侶ではなく、従業員の信徒であった。しかも、印刷が行われていた場所は、近くのアパートの一室であったというのだ。
そこで印刷された本尊は、特別な儀式もなく、そのまま末寺に送られていた。
(同)
③ 昭和四十一年まで続いた日寛上人の御形木御本尊
昭和三十四年十一月、日達法主が登座したが、昭和四十一年までの約六年間、日寛上人の御形木本尊の授与が続けられた。
日達法主は、〝日寛上人の御形木本尊があるのだから、わざわざ書写しなくても〟というお気持ちであったと聞いている。
そして、昭和四十一年から日達法主の書写した御形木本尊が授与されるようになったが、本尊の印刷は、引き続き、法道院内の「仏書刊行会」で行われていた。
(同)
④ 日顕の代になり、富士宮の印刷会社が本尊を印刷
日顕らは、本尊の印刷は、昔から本山で行われていたように説明しているが、本尊の管轄が法道院から本山に移ったのは、日顕の代からである。まだ三十数年の歴史でしかない。
しかも、本尊の印刷を本山内で行っているわけではなく、富士宮の法華講員が経営している印刷会社が請け負っている。
そこから印刷された本尊が、十体ずつ箱に入れられ、さらにその箱が段ボール箱に入った状態で本山に届けられる。そして、そのまま、開眼の儀式もなく、末寺に発送されていた。
宗門の歴史を見れば、〝すべての本尊を法主が開眼〟などというのは、まったくのウソであることがわかる。彼らは僧俗差別の感情から、信徒を欺き、難癖をつけているだけだ。
(同)
宗門の駆け出しの小僧共の頭には、戦時中の軍部の広報と同じく、嘘しか吹き込まれていない。だが宗内の老僧にとってこれら「百問百答」の妄説は、宗門始まって以来の珍説ばかりだと、さぞ驚いたことであったろう。
(了)
妄説:69 宗門から離脱した僧侶の話では「総本山でも末寺でも御形木御本尊の開眼などは、していない」とのことですが、本当ですか。
宗門から離脱した僧侶の話が、はたして信じられるでしょうか。創価学会の手先となり、血脈付法の御法主上人から頂いた袈裟と衣を身につけて、「宗門は悪」「猊下は悪」と喧伝(けんでん)している不知恩の徒輩ですから、はじめから信じるに足りないのは当然のことです。
御当代日顕上人は、御登座(とうざ)以来今日に至るまで、御本尊を必ず御宝前(ごほうぜん)にお供えし、開眼されています。
末寺住職は御法主上人の任命を拝し、名代として住職の任を務めています。檀信徒に御本尊を下付するときは、その名代としての責務の上から、御法主上人の允可のもと、御形木御本尊を「本門戒壇の大御本尊」の分身たる寺院の御宝前に供え奉り、読経唱題を申し上げるのです。
この尊厳なる責務を忘れ、邪智謗法の創価学会と与(くみ)する離脱僧には、始めからこの尊厳なる責務を全うする信心がなかったのです。
「あるものをない」といい、「ないものまである」といって、檀信徒を誑(たぶ)らかす離脱僧は、まさに僧形の天魔といえましょう。
破折:
1.「日顕の開眼などなかった」
口先の「机上の空論」を振り回す宗門の無任所教師と、末寺の現場で実務に汗を流してきた僧侶の「実体験」との、どちらの言葉が説得力に富むと思えるか。
日蓮正宗改革同盟の故・渡辺慈済住職の手記から、宗門の実態と、日顕の悪逆非道の行躰が明かされる。
◇
平成五年九月、学会が日寛上人の御本尊の授与を決定すると、日顕が新たに持ち出してきたのはニセ本尊という言い掛かりだった。
御本尊が学会で授与されることになると、日顕は信徒脅しの最後の〝切り札〟を失うことになる。何が何でも阻止しなければならないと、慌てたのは日顕だった。このため日顕は、〝御本尊は法主の「允可(いんか)」「開眼(かいげん)」が必要だ、ところが学会の御本尊はそれを受けていない、だからニセ本尊だ〟と難癖をつけたのである。しかし、これはまったく根拠のない話で、私の妙光寺時代の体験を語るだけで簡単に破折できる、幼稚なものだった。
今日のように、時の猊下の御形木御本尊を下付するようになったのは、日達上人の時代になってからで、昔は、各末寺ごとにその寺に縁のある歴代上人の御形木御本尊を下付していた。
昭和二十年代、私が在勤していた品川の妙光寺では、初代以来、歴代住職のほとんどが五十五世日布(にっぷ)上人の系列だったため、日布上人の御形木御本尊を下付していた。折伏が進み、日布上人の御本尊がなくなると、池袋・法道院で印刷していた日寛上人の御形木御本尊を分けてもらい、下付するようになった。他の末寺も同様で、日顕がいうような〝法主の允可〟〝法主の開眼〟などまったくなく、法道院から直接御本尊を送ってもらい、それを下付していたのである。
日顕の代になって、大石寺内事部に第三課がつくられ、御本尊取り扱いの窓口は法道院からこの第三課になったが、御本尊の印刷・表装は外部の業者が行ない、大石寺に納入されたものをそのまま末寺に送っていたのである。もちろん、日顕の開眼などなかった。
当然のことながら、御本尊の功徳についても、法主の允可や開眼とは一切関係ない。御書に「信心の厚薄によるべきなり」(日女御前御返事)、法華経にも「以信得入」(譬喩品)とあるように、御本尊の功徳はその人の信心によって決まり、信力・行力に応じて、仏力・法力が顕れるのである。草創期以来、多くの学会員が御本尊の功徳を受けてきたのも、その人たちが広宣流布のために懸命に信心に励んできたからである。逆に、御本尊を受けても、真剣に信心しなければ、功徳がないのは、いうまでもない。このように、日顕の言う〝法主の允可〟〝法主の開眼〟が、いかに根拠のない苦し紛れの言い掛かりにすぎないか、明らかであった。
(『日蓮正宗〝落日の真因〟』渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
2.「不知恩の徒輩」とは誰を指すか
前記は、現場たる末寺で、長らく御本尊を取り扱ってきた僧侶自身の体験である。「日顕の開眼などなかった」と、明確に証言している。
「御当代日顕上人は、御登座以来今日に至るまで、御本尊を必ず御宝前にお供えし、開眼されています」とは、戯言である。
正しく僧侶の分を守ってきた人を「創価学会の手先」などと誹謗する輩こそ、「日顕の手先」「日顕の私兵」ではないか。
「不知恩の徒輩」とは、まさしく日顕とその手先を言うのである。先師細井管長(日達法主)の事跡を跡形もなく破壊したのは、不知恩以外の何物であろうか。
正本堂、大客殿等々、寄進者は学会であっても建立したのは日顕の先師・細井管長である。破壊の理由を〝学会の謗法〟に帰するも、その実は先師を軽蔑し、遺恨を含んでのことは、河辺メモに明白に書かれている。
「一、G(猊下)は話にならない
人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の
事ではGでは不可能だ。
一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻
るだらうと云う安易な考へを持っている。」
日顕は教学部長時代から先師を批判、軽蔑していたことが明らかであり、先師の事跡を大事にするわけもない。また遺恨とは、実際には「相承をしてもらえなかった」ことである。それが恨みとなり、すさまじいばかりの破壊となったのである。
◇
日達上人は、話題が次の法主の問題になっても、「信雄(しんのう)(日顕のこと)はなあー」と、何時も言葉を濁らせておられた。信心の面、人格や人間性の面で、上に立つのは難しいと考えておられたのである。(中略)
猊座を盗み取ったものの、相承がないばかりに、山崎正友にいたぶられ、正信会の裁判にまで発展する。日顕の法主生活の前半は、この相承問題で揺さぶられるのである。当然、日顕が日達上人をよく思えるわけがなく、深い恨みを持ち、怨念をふくらませていったのである。
(前出『日蓮正宗〝落日の真因〟』)
しかし、細井管長が日顕に相承しなかったことを理由に恨まれる道理はない。前代未聞の〝逆恨み〟である。日顕ほどの「不知恩の徒輩」が、他にいるであろうか。
3.「ニセもの」の化けの皮が剝がれた
あれほどニセ本尊、ニセ本尊と騒いだ日顕だったが、実は「ニセもの」の化けの皮が剝がれたのは、日顕の方だった。
それは、その後の経緯を見ればはっきりしている。学会はますます発展したのに対して、宗門は衰退の一途。とくに、日顕は、平成八年、十年と、二度にわたって病気で苦しまなければならなかったし、信心のまったくない遊蕩法主だったこともバレた。シアトル事件の裁判でも、裁判長の前で数々の偽証を重ね、嘘つき法主だったことも証明された。さらに、「河辺メモ」の発覚によって戒壇の大御本尊を否定していた大謗法法主であったことも明らかになった。戒壇の大御本尊と〝不二の尊体〟といっていた日顕が、信心も相承もない「ニセもの」であることが明白になったのである。
結局、日寛上人の御本尊がニセ本尊どころか、誹謗すればするほど厳しき現証の出る、まことに正しい御本尊であることを、自分で天下に証明したのであった。
ニセものは本物を厭(いと)うというが、要は、日顕自身が「偽法主」だったからこそ、本物の正しい御本尊までニセものと誹謗せざるをえなかっただけなのである。
(前出『日蓮正宗〝落日の真因〟』)
この「信心のまったくない遊蕩法主」「裁判長の前で数々の偽証を重ねた嘘つき法主」「戒壇の大御本尊を否定していた大謗法法主」以外に、「僧形の天魔」がいるであろうか。それは天下に証明された事実である。
4.〝僧形の天魔〟日顕
「『ないものまである』といって、檀信徒を誑(たぶ)らかす」者とは、まさしく日顕である。
日顕が、日達法主から本山の大奥において相承を受けたとする日を「五十三年四月十五日」と明言したが、この日の日達法主は誕生日のため、極めて多忙な一日であった。
◇
昭和六十一年十月四日の「河辺メモ」には、東京・八王子市の法忍寺住職・水谷慈浄の証言としてこう記されている。
「光久諦顕が、かつて(宝浄寺に於て、鎌田卓道論文『相承の有無』の反論会議の時)光久が猊下に『4月15日にしていいのですか、あの日は達師が忙しい日だが』と云った記憶があると云っていた」
すなわち、水谷の言によれば、正信会の鎌田卓道が書いた「相承の有無」という論文の反論を書くための会議が、教学部長の大村寿顕(日統)の宝浄寺(東京・大田区)で行われた。その際、光久がかつて日顕に〝本当に昭和五十三年四月十五日に相承を受けたことにしていいのか、あの日は達師の誕生日で忙しく、とても相承をする時間的余裕などなかったはずだが〟と注進していたことがあると話していたというのだ。
当日のスケジュールを誰よりも知る人物だけに、この発言は重要だ。少なくともこの発言からは、お仲居であった光久をして、この日に日達上人から日顕への相承があったと確信していなかったことだけは明白である。
(『法主詐称』憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
「五十三年四月十五日」当日の奥番日誌の中に、日顕の名はどこにも登場しない。日顕を本山で見たという者もおらず、これを裏付ける資料もない。
日誌によれば、この日、日達法主は多忙で、朝から法務等をこなしたうえで、午前11時には本山を離れている。相承の儀式を行なう時間など、全く無かったのである。
日顕は自らの相承に関して、「何時に」「大奥のどの場所で」「どのように」行なわれたのかを釈明することは一切できない。
相承などと「『ないものまである』といって、檀信徒を誑(たぶ)らかす」日顕は、宗門の言う「僧形の天魔」に相違ない。
5.過去の歴史を意図的に隠す宗門
日蓮正宗改革同盟の御僧侶達は、長年住職として宗門の諸行事に勤務してきたのであり、宗門の裏も表も知り尽くしている。学会に誹謗中傷するだけが仕事である「邪義破折班」所属の無任所教師の小僧共とは、法臘(ほうろう)が違う。
「僧形の天魔」たる日顕の戯言しか聞いたことの無い小僧共は、以下の真実の声に傾注するがよい。
◇
昭和27年、「布教会」が日寛上人の御本尊に統一
法道院の近くのアパートで従業員が本尊を印刷
今回の宗門事件が起こり、宗門は創価学会の御本尊授与に対して、様々に難癖をつけようとしているが、彼らは宗門の過去の歴史を意図的に隠している。
我々は宗門の過去の歴史を明らかにし、彼らの批判がただの僧俗差別の偏見に基づいた邪義であることを白日の元にさらす。
(『新改革通信』113号 平成23年10月21日 発行:日蓮正宗改革同盟)
① 信徒が自分で御本尊を表具屋に表装を依頼していたこともあった
今までに紹介してきた通り、戦前・戦後の宗門では、東京の末寺がそれぞれ、有縁の法主の本尊を印刷して信徒に下付していた。
しかも、表装された状態ではなく、本尊が印刷された本紙の状態で下付され、御本尊を受けた本人が自分で表具屋に頼んで表装してもらう場合もあった。
ただ、信徒が使う表具屋も色々で、他宗の本尊を真似た表装などが問題になり、その都度、宗門で表具屋を認定するようになった。
この場合、「開眼」などしていない。というより、宗内に「開眼が必要」ということを言う者など誰もいなかった。
また、本山が東京の末寺がすることにいちいち口を出すことはなかった。
(同)
② 「布教会」が日寛上人の御形木本尊に統一し、法道院の従業員がアパートで 印刷
しかし、創価学会が誕生し、急激に信徒が増えたため、本尊を統一する必要が出てきた。
そして、昭和二十七年、宗門の「布教会」が、日寛上人の御形木本尊に統一することを決定した。
そして、本尊の印刷を請け負ったのが、豊島区・法道院内の「仏書刊行会」であった。
ただ、実際に、本尊の印刷を行っていたのは、僧侶ではなく、従業員の信徒であった。しかも、印刷が行われていた場所は、近くのアパートの一室であったというのだ。
そこで印刷された本尊は、特別な儀式もなく、そのまま末寺に送られていた。
(同)
③ 昭和四十一年まで続いた日寛上人の御形木御本尊
昭和三十四年十一月、日達法主が登座したが、昭和四十一年までの約六年間、日寛上人の御形木本尊の授与が続けられた。
日達法主は、〝日寛上人の御形木本尊があるのだから、わざわざ書写しなくても〟というお気持ちであったと聞いている。
そして、昭和四十一年から日達法主の書写した御形木本尊が授与されるようになったが、本尊の印刷は、引き続き、法道院内の「仏書刊行会」で行われていた。
(同)
④ 日顕の代になり、富士宮の印刷会社が本尊を印刷
日顕らは、本尊の印刷は、昔から本山で行われていたように説明しているが、本尊の管轄が法道院から本山に移ったのは、日顕の代からである。まだ三十数年の歴史でしかない。
しかも、本尊の印刷を本山内で行っているわけではなく、富士宮の法華講員が経営している印刷会社が請け負っている。
そこから印刷された本尊が、十体ずつ箱に入れられ、さらにその箱が段ボール箱に入った状態で本山に届けられる。そして、そのまま、開眼の儀式もなく、末寺に発送されていた。
宗門の歴史を見れば、〝すべての本尊を法主が開眼〟などというのは、まったくのウソであることがわかる。彼らは僧俗差別の感情から、信徒を欺き、難癖をつけているだけだ。
(同)
宗門の駆け出しの小僧共の頭には、戦時中の軍部の広報と同じく、嘘しか吹き込まれていない。だが宗内の老僧にとってこれら「百問百答」の妄説は、宗門始まって以来の珍説ばかりだと、さぞ驚いたことであったろう。
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №61~70
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:68」を破折する(その二) 連載98回
妄説:68 聖教新聞によると「従来は御本尊に関する権能が法主一人に限られたが、現在は『一閻浮提総与』の意味からも法主一人に限定する時代ではない」(聖教新聞 H五・九・二〇 取意)とありますが、それでよいのでしょうか。
この主張は、創価学会の「ご都合主義」による思いつきの邪説であり、「一閻浮提総与」の意味を歪曲(わいきょく)した邪義です。
本宗においては御本尊の大権は、唯授一人血脈付法の御法主上人にのみ具わっており、このことは一貫して不変のものです。「一閻浮提総与の大御本尊」とは、「全世界の人々が信受すべき御本尊」との意味であって、民衆が御本尊の権能を持つということではありません。
そもそも「従来」と「現在」の時間的な立て分けは何を根拠にしているのでしょうか。第六十五世日淳上人はかつて、
「宗門は長い間宗門護持の時代であったが、今後は流通広布の時代と定義されるであろう」(淳全 1620頁 取意)
と述べられましたが、これは妙法流布の相を区分されたものであって、御本尊の権能や僧俗の立て分けを述べられたものではありません。
創価学会では、十数年前に
「御法主上人の御もとに、日蓮正宗の伝統法義を確実に体していくことを、不動の路線とする」(広布と人生を語る 三-二七一頁 取意)
と発表しながら、破門されるや、「今日はその時代ではない」などといって、簡単に「不動の路線」を変更しています。
学会では「不動」という言葉のもつ意味がわからないのでしょうか。
ともあれ、このような学会の主張を「詭弁(きべん)」というのです。
破折:
4.〝常住本尊の示書による即身成仏〟という「免罪符」
宗門というところは、間違いなく〝地獄の沙汰も金次第〟の世界である。
【愚論】
とはいえ、この末寺住職による〝判形のない曼荼羅〟の書写は、
▲「然(しか)りといへども、此は仮本尊にして形木同然の意なるべし。故に守(※お守り御本尊)に於いては『判形有るべからず』と制し、曼荼羅に於ては『判形為すべからず』と誡め給ふ。此の判形こそ真仮の分るゝ所にして猶(なお)俗法の如し」(富要集第一巻一一三頁)
と、所詮、仮本尊であるとせられているのである。
不相伝家の創価学会は、この一時的な仮本尊書写の御許可を、自分達に都合よく、いつでも誰でも御本尊書写や御形木御本尊を作ることができる、と解釈したわけだが、仮本尊の書写の許可も、その時代背景を踏まえて時の御法主上人(ここでの事例は日有上人)がなされるのである。資料を勝手に誤読してはならない。
創価学会では、こうした誤った解釈の上から、「御本尊流布こそが広宣流布であり、そのために創価学会が形木本尊を作り流布させている」などとも言っているが、大きな誤りである。
(「『御本尊はだれが書いてもいい。』との邪義を破折」H.P.)
【破折】
上記に「所詮、仮本尊である」とあるのは〝仮本尊では成仏できない〟との趣旨か。
◇
日有は『下野阿闍梨聞書』において、「他門跡云く・如何なれば富士方に神座を立てざるや、仰せに云く・他門跡に立つるところの神座は理の神座なり・ただ当宗は事の位牌を本となすゆえに別に神座を立てざるなり、事の位牌とは本尊の示書これなり、そのゆえは本尊に当住持の名判を成されそれに向て示す人の名を書けば、師弟相対して中尊の妙法蓮華経の主となればその当位即身成仏これなり」(『富要』2-153)とあるように、大石寺住職が弟子、信徒に与える常住本尊に授与された当人の名が書き入れてあれば、その弟子、信徒の即身成仏は決定していると主張している。(中略)
この仮の本尊にも即身成仏の効能があるのかどうかは不明であるが、大石寺住持の権能を強調した文からは、そのような効能は期待できないだろう。ほとんどすべての創価学会員の家庭には仮の本尊でしかない形木本尊が安置されているだけであるが、これらの人は日有以来の伝統教義によれば即身成仏ができない信者であるということになる。もちろんこの常住本尊の示書による即身成仏という日有以来の伝統教義が日蓮、日興にはないということを指摘しておく必要がある。
(『日有の教学思想の諸問題(1) 』宮田幸一)
法主の書写する常住本尊に授与者の名が書き入れられなければ、成仏が叶わないのなら、大聖人が希求された広宣流布も、万人成仏も、「夢のまた夢」となる。
戸田会長はこの件を会員にどう説明したか。
◇
[質問]:奉安殿(昭和30年代当時)(現在は正本堂)の大御本尊様、あるいは客殿の御本尊様、御形木御本尊様といろいろありますが、これらの御本尊様に違いがあるかどうか、おうかがいします。
むずかしい問題です。がっかりすると悪いし、よほど信心のしっかりしている人であれば、きちんとわかってくれることなのですが、初信の人だと説明の仕方がへただと、ふと迷ってしまうのです。気が弱ります。
御本尊様には違いがあります。仏法の上では分身散体(ぶんしんさんたい)ということがあります。私なら私の心と同じ心にできているのを分身体というのです。奉安殿(正本堂)の大御本尊様、ここの客殿の御本尊様、私どものいただいている常住御本尊様、あなた方が拝んでいる御形木御本尊様、それぞれ違うのです。
違うのですが、こちらの信心の仕方で少しも違わない結果を出せるのです。すべてそれは信力の問題です。
あなた方の御本尊様の力をいえば、釈尊時代からある仏と菩薩とを、みないっしょにしたその功徳の何億倍と違ってくるのです。釈尊時代にもその前にも仏はいたでしょう。それらの三世の諸仏の功徳がぜんぶ出ているのです。
これは観心本尊抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲(ゆず)り与え給う」(御書全集二四六ページ)ときちんと出ています。
(『ブログで読める戸田城聖全集 第二巻 質問会編』H.P.)
戸田会長は「常住本尊の示書」をあえて説明しなかった。話したところで、信心に益するわけでは無いからである。
檀家では常住本尊はもちろん、御供養のたびごとに「賞与御本尊」をいただいてきた。一戸のうちで何体もの御本尊を持っているのである。
彼等の即身成仏は決定しているから、勤行もしなければ折伏もしない、御書を読むはずもない。彼等は宗門より〝免罪符〟を買ってあるから、今世で修行する必要が無いのである。〝地獄の沙汰も金次第〟とは、このことである。
「貧乏人と病人の集まり」と揶揄された学会員に、金の余裕などあるわけもない。それゆえ草創期ではごく一部の寺院を除き、ほとんどの正宗寺院は学会員の御授戒を受け付けなかった。御供養を期待できない学会員と関わりになるのを避けたのである。
貧乏・病気等、苦悩の真っ只中に「願兼於業」して出現するのが〝地涌の菩薩〟たる学会員である。信仰を「商売」とする〝金の亡者〟が宗門である。学会員と宗門とでは、菩薩と亡者ほどの境界の差がある。
そもそも御本尊に上下のランクを付けたところで、主題の五字も御名も変わるわけではない。
如来滅後五五百歳始観心本尊抄(二四六㌻)にいわく、
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」
同抄(二五四㌻)にいわく
「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」
5.日顕宗の論拠は「切り文」と「後加文」ばかり
【愚論】
「本尊の事は欺の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り、云々」
とあるごとく、御本尊は書写はもちろんのこと、授与することについても御法主上人の許可・認可が絶対条件であり、日亨上人の註解は、全てこの大前提を元として説かれているのである。
それは、原文を全文拝読すれば容易に領解できることである。
であるから、御本尊に関しての全ての権能を御所持されている御法主上人が「大謗法のニセ本尊である」と断定されている掛け軸など、日亨上人の仰せを用いて正当化できる道理など全くない。
また、「では信徒に授与される御本尊は全て御法主上人から授与されるのか?」との愚問を投げかける愚かな創価学会員もいるだろうが、それは、各末寺の御住職は全て御法主上人からの任命を受けて赴任されている。
その御法主上人の御名代である末寺の御住職からの下付は、その義、御法主上人から許可された御本尊下付に通じる、同義である。
(「『御本尊はだれが書いてもいい。』との邪義を破折」H.P.)
【破折】
何度でも言うが、「本尊の事は欺の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り」と定めてしまえば広宣流布が進展しない、だからこそ「御形木御本尊」を安置するのである、と日亨師が強調した文である(前項「妄説:68」(その一)3.参照)
宗門は日亨師が否定した箇所を、肯定した如く印象付けるために切り文したのである。
「然るに本尊の事は斯の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り授与せらるる人は信行不退の決定者に限るとせば・仮令(たとい)不退の行者たりとも・本山を距(さ)ること遠きにある人は・交通不便戦乱絶えず山河梗塞(こうそく)の戦国時代には・何を以つて大曼陀羅を拝するの栄を得んや、故に形木の曼荼羅あり仮に之を安す、本山も亦影師の時之を用ひられしと聞く、此に於いて有師仮に守護及び常住の本尊をも・末寺の住持に之を書写して檀那弟子に授与する事を可なりとし給ふ・即本文の如し、但し有師已前已に此の事ありしやも知るべからず、然りといへども此は仮本尊にして形木同然の意なるべし」(「有師化儀抄註解」富要1-113)
(それなのに本尊の事をこのように例外なく定め、授与する人は金口相承の法主に限定し、授与される人は信行不退転と決定した者に限るとしたら、たとえ不退転の行者であろうと、本山より遠く離れた地にある人は、交通不便で戦乱が絶えず、自然の要害により閉塞した戦国時代にあっては、どうやって大御本尊を拝する栄に浴することができようか。ゆえに御形木御本尊がある。仮にこれを御安置するのである。本山もまた八世日影師の時にこれを用いられたと聞く。ここにおいて、九世日有師が仮のお守り本尊・常住本尊をも、末寺住職がこれを書写して弟子檀那に授与しても良いとされたのであり、すなわち『化儀抄』本文の通りである。ただし日有師以前、すでにこのことがあったかも知れない。そうであってもこれは仮本尊であり、御形木御本尊と同然の意味なのである)
「御法主上人」の中には、相伝書の記述と異なる御本尊を書写した挙句、平僧や在家から非難を受け、やむなく謝罪した情けない法主(六十世日開)がいる。またその息子は大御本尊を「ニセ物」と誹謗した不埒者(日顕)である。彼等はそもそも法主などと言われる資格の無い者共である。
宗門は、「御本尊は書写はもちろんのこと、授与することについても御法主上人の許可・認可が絶対条件」「御本尊に関しての全ての権能を御所持されている御法主上人」などと言って恥ずかしくないか。
宗門の法灯は、面授相承を詐称した日顕によってすでに絶え果てている。現在の宗門は「法主信仰」すなわち「魔仏信仰」である。御本尊をこのような魔仏どもの〝弄びもの〟としておくわけにはいかない。
大聖人の仏法を守るのは学会の役目である。よって御本尊授与は創価学会にしかできないのである。
6.〝仏法の正邪〟が根拠
「『従来』と『現在』の時間的な立て分けは何を根拠にしている」のかと問えば、それは〝仏法の正邪〟である。
① 従来:「日顕の悩乱前」(=日蓮正宗)
現在:「日顕が悩乱した現在」(=日顕宗)
② 従来:「日寛上人が〝法主信仰〟を排除」(=正統教学)
現在:「日顕が〝法主信仰〟を復活」(=邪教)
「日蓮正宗の伝統法義を確実に体していくことを、不動の路線とする」ことは、学会においてはより厳しく心得ていく。すなわち「宗開両祖の精神を体していくこと」である。
一方、宗門を見れば、江戸幕府による政治機構の下で御用宗教(=幕府の犬)となって以降、常態となった「檀家に集(たか)る化儀」(僧侶による葬儀・戒名・塔婆等)が、宗門に染みついた「不動の路線」である。宗門の伝統法義とは、ここまで見苦しいものか。
(了)
妄説:68 聖教新聞によると「従来は御本尊に関する権能が法主一人に限られたが、現在は『一閻浮提総与』の意味からも法主一人に限定する時代ではない」(聖教新聞 H五・九・二〇 取意)とありますが、それでよいのでしょうか。
この主張は、創価学会の「ご都合主義」による思いつきの邪説であり、「一閻浮提総与」の意味を歪曲(わいきょく)した邪義です。
本宗においては御本尊の大権は、唯授一人血脈付法の御法主上人にのみ具わっており、このことは一貫して不変のものです。「一閻浮提総与の大御本尊」とは、「全世界の人々が信受すべき御本尊」との意味であって、民衆が御本尊の権能を持つということではありません。
そもそも「従来」と「現在」の時間的な立て分けは何を根拠にしているのでしょうか。第六十五世日淳上人はかつて、
「宗門は長い間宗門護持の時代であったが、今後は流通広布の時代と定義されるであろう」(淳全 1620頁 取意)
と述べられましたが、これは妙法流布の相を区分されたものであって、御本尊の権能や僧俗の立て分けを述べられたものではありません。
創価学会では、十数年前に
「御法主上人の御もとに、日蓮正宗の伝統法義を確実に体していくことを、不動の路線とする」(広布と人生を語る 三-二七一頁 取意)
と発表しながら、破門されるや、「今日はその時代ではない」などといって、簡単に「不動の路線」を変更しています。
学会では「不動」という言葉のもつ意味がわからないのでしょうか。
ともあれ、このような学会の主張を「詭弁(きべん)」というのです。
破折:
4.〝常住本尊の示書による即身成仏〟という「免罪符」
宗門というところは、間違いなく〝地獄の沙汰も金次第〟の世界である。
【愚論】
とはいえ、この末寺住職による〝判形のない曼荼羅〟の書写は、
▲「然(しか)りといへども、此は仮本尊にして形木同然の意なるべし。故に守(※お守り御本尊)に於いては『判形有るべからず』と制し、曼荼羅に於ては『判形為すべからず』と誡め給ふ。此の判形こそ真仮の分るゝ所にして猶(なお)俗法の如し」(富要集第一巻一一三頁)
と、所詮、仮本尊であるとせられているのである。
不相伝家の創価学会は、この一時的な仮本尊書写の御許可を、自分達に都合よく、いつでも誰でも御本尊書写や御形木御本尊を作ることができる、と解釈したわけだが、仮本尊の書写の許可も、その時代背景を踏まえて時の御法主上人(ここでの事例は日有上人)がなされるのである。資料を勝手に誤読してはならない。
創価学会では、こうした誤った解釈の上から、「御本尊流布こそが広宣流布であり、そのために創価学会が形木本尊を作り流布させている」などとも言っているが、大きな誤りである。
(「『御本尊はだれが書いてもいい。』との邪義を破折」H.P.)
【破折】
上記に「所詮、仮本尊である」とあるのは〝仮本尊では成仏できない〟との趣旨か。
◇
日有は『下野阿闍梨聞書』において、「他門跡云く・如何なれば富士方に神座を立てざるや、仰せに云く・他門跡に立つるところの神座は理の神座なり・ただ当宗は事の位牌を本となすゆえに別に神座を立てざるなり、事の位牌とは本尊の示書これなり、そのゆえは本尊に当住持の名判を成されそれに向て示す人の名を書けば、師弟相対して中尊の妙法蓮華経の主となればその当位即身成仏これなり」(『富要』2-153)とあるように、大石寺住職が弟子、信徒に与える常住本尊に授与された当人の名が書き入れてあれば、その弟子、信徒の即身成仏は決定していると主張している。(中略)
この仮の本尊にも即身成仏の効能があるのかどうかは不明であるが、大石寺住持の権能を強調した文からは、そのような効能は期待できないだろう。ほとんどすべての創価学会員の家庭には仮の本尊でしかない形木本尊が安置されているだけであるが、これらの人は日有以来の伝統教義によれば即身成仏ができない信者であるということになる。もちろんこの常住本尊の示書による即身成仏という日有以来の伝統教義が日蓮、日興にはないということを指摘しておく必要がある。
(『日有の教学思想の諸問題(1) 』宮田幸一)
法主の書写する常住本尊に授与者の名が書き入れられなければ、成仏が叶わないのなら、大聖人が希求された広宣流布も、万人成仏も、「夢のまた夢」となる。
戸田会長はこの件を会員にどう説明したか。
◇
[質問]:奉安殿(昭和30年代当時)(現在は正本堂)の大御本尊様、あるいは客殿の御本尊様、御形木御本尊様といろいろありますが、これらの御本尊様に違いがあるかどうか、おうかがいします。
むずかしい問題です。がっかりすると悪いし、よほど信心のしっかりしている人であれば、きちんとわかってくれることなのですが、初信の人だと説明の仕方がへただと、ふと迷ってしまうのです。気が弱ります。
御本尊様には違いがあります。仏法の上では分身散体(ぶんしんさんたい)ということがあります。私なら私の心と同じ心にできているのを分身体というのです。奉安殿(正本堂)の大御本尊様、ここの客殿の御本尊様、私どものいただいている常住御本尊様、あなた方が拝んでいる御形木御本尊様、それぞれ違うのです。
違うのですが、こちらの信心の仕方で少しも違わない結果を出せるのです。すべてそれは信力の問題です。
あなた方の御本尊様の力をいえば、釈尊時代からある仏と菩薩とを、みないっしょにしたその功徳の何億倍と違ってくるのです。釈尊時代にもその前にも仏はいたでしょう。それらの三世の諸仏の功徳がぜんぶ出ているのです。
これは観心本尊抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲(ゆず)り与え給う」(御書全集二四六ページ)ときちんと出ています。
(『ブログで読める戸田城聖全集 第二巻 質問会編』H.P.)
戸田会長は「常住本尊の示書」をあえて説明しなかった。話したところで、信心に益するわけでは無いからである。
檀家では常住本尊はもちろん、御供養のたびごとに「賞与御本尊」をいただいてきた。一戸のうちで何体もの御本尊を持っているのである。
彼等の即身成仏は決定しているから、勤行もしなければ折伏もしない、御書を読むはずもない。彼等は宗門より〝免罪符〟を買ってあるから、今世で修行する必要が無いのである。〝地獄の沙汰も金次第〟とは、このことである。
「貧乏人と病人の集まり」と揶揄された学会員に、金の余裕などあるわけもない。それゆえ草創期ではごく一部の寺院を除き、ほとんどの正宗寺院は学会員の御授戒を受け付けなかった。御供養を期待できない学会員と関わりになるのを避けたのである。
貧乏・病気等、苦悩の真っ只中に「願兼於業」して出現するのが〝地涌の菩薩〟たる学会員である。信仰を「商売」とする〝金の亡者〟が宗門である。学会員と宗門とでは、菩薩と亡者ほどの境界の差がある。
そもそも御本尊に上下のランクを付けたところで、主題の五字も御名も変わるわけではない。
如来滅後五五百歳始観心本尊抄(二四六㌻)にいわく、
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」
同抄(二五四㌻)にいわく
「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」
5.日顕宗の論拠は「切り文」と「後加文」ばかり
【愚論】
「本尊の事は欺の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り、云々」
とあるごとく、御本尊は書写はもちろんのこと、授与することについても御法主上人の許可・認可が絶対条件であり、日亨上人の註解は、全てこの大前提を元として説かれているのである。
それは、原文を全文拝読すれば容易に領解できることである。
であるから、御本尊に関しての全ての権能を御所持されている御法主上人が「大謗法のニセ本尊である」と断定されている掛け軸など、日亨上人の仰せを用いて正当化できる道理など全くない。
また、「では信徒に授与される御本尊は全て御法主上人から授与されるのか?」との愚問を投げかける愚かな創価学会員もいるだろうが、それは、各末寺の御住職は全て御法主上人からの任命を受けて赴任されている。
その御法主上人の御名代である末寺の御住職からの下付は、その義、御法主上人から許可された御本尊下付に通じる、同義である。
(「『御本尊はだれが書いてもいい。』との邪義を破折」H.P.)
【破折】
何度でも言うが、「本尊の事は欺の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り」と定めてしまえば広宣流布が進展しない、だからこそ「御形木御本尊」を安置するのである、と日亨師が強調した文である(前項「妄説:68」(その一)3.参照)
宗門は日亨師が否定した箇所を、肯定した如く印象付けるために切り文したのである。
「然るに本尊の事は斯の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り授与せらるる人は信行不退の決定者に限るとせば・仮令(たとい)不退の行者たりとも・本山を距(さ)ること遠きにある人は・交通不便戦乱絶えず山河梗塞(こうそく)の戦国時代には・何を以つて大曼陀羅を拝するの栄を得んや、故に形木の曼荼羅あり仮に之を安す、本山も亦影師の時之を用ひられしと聞く、此に於いて有師仮に守護及び常住の本尊をも・末寺の住持に之を書写して檀那弟子に授与する事を可なりとし給ふ・即本文の如し、但し有師已前已に此の事ありしやも知るべからず、然りといへども此は仮本尊にして形木同然の意なるべし」(「有師化儀抄註解」富要1-113)
(それなのに本尊の事をこのように例外なく定め、授与する人は金口相承の法主に限定し、授与される人は信行不退転と決定した者に限るとしたら、たとえ不退転の行者であろうと、本山より遠く離れた地にある人は、交通不便で戦乱が絶えず、自然の要害により閉塞した戦国時代にあっては、どうやって大御本尊を拝する栄に浴することができようか。ゆえに御形木御本尊がある。仮にこれを御安置するのである。本山もまた八世日影師の時にこれを用いられたと聞く。ここにおいて、九世日有師が仮のお守り本尊・常住本尊をも、末寺住職がこれを書写して弟子檀那に授与しても良いとされたのであり、すなわち『化儀抄』本文の通りである。ただし日有師以前、すでにこのことがあったかも知れない。そうであってもこれは仮本尊であり、御形木御本尊と同然の意味なのである)
「御法主上人」の中には、相伝書の記述と異なる御本尊を書写した挙句、平僧や在家から非難を受け、やむなく謝罪した情けない法主(六十世日開)がいる。またその息子は大御本尊を「ニセ物」と誹謗した不埒者(日顕)である。彼等はそもそも法主などと言われる資格の無い者共である。
宗門は、「御本尊は書写はもちろんのこと、授与することについても御法主上人の許可・認可が絶対条件」「御本尊に関しての全ての権能を御所持されている御法主上人」などと言って恥ずかしくないか。
宗門の法灯は、面授相承を詐称した日顕によってすでに絶え果てている。現在の宗門は「法主信仰」すなわち「魔仏信仰」である。御本尊をこのような魔仏どもの〝弄びもの〟としておくわけにはいかない。
大聖人の仏法を守るのは学会の役目である。よって御本尊授与は創価学会にしかできないのである。
6.〝仏法の正邪〟が根拠
「『従来』と『現在』の時間的な立て分けは何を根拠にしている」のかと問えば、それは〝仏法の正邪〟である。
① 従来:「日顕の悩乱前」(=日蓮正宗)
現在:「日顕が悩乱した現在」(=日顕宗)
② 従来:「日寛上人が〝法主信仰〟を排除」(=正統教学)
現在:「日顕が〝法主信仰〟を復活」(=邪教)
「日蓮正宗の伝統法義を確実に体していくことを、不動の路線とする」ことは、学会においてはより厳しく心得ていく。すなわち「宗開両祖の精神を体していくこと」である。
一方、宗門を見れば、江戸幕府による政治機構の下で御用宗教(=幕府の犬)となって以降、常態となった「檀家に集(たか)る化儀」(僧侶による葬儀・戒名・塔婆等)が、宗門に染みついた「不動の路線」である。宗門の伝統法義とは、ここまで見苦しいものか。
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №61~70
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:68」を破折する(その一) 連載97回
妄説:68 聖教新聞によると「従来は御本尊に関する権能が法主一人に限られたが、現在は『一閻浮提総与』の意味からも法主一人に限定する時代ではない」(聖教新聞 H五・九・二〇 取意)とありますが、それでよいのでしょうか。
この主張は、創価学会の「ご都合主義」による思いつきの邪説であり、「一閻浮提総与」の意味を歪曲(わいきょく)した邪義です。
本宗においては御本尊の大権は、唯授一人血脈付法の御法主上人にのみ具わっており、このことは一貫して不変のものです。「一閻浮提総与の大御本尊」とは、「全世界の人々が信受すべき御本尊」との意味であって、民衆が御本尊の権能を持つということではありません。
そもそも「従来」と「現在」の時間的な立て分けは何を根拠にしているのでしょうか。第六十五世日淳上人はかつて、
「宗門は長い間宗門護持の時代であったが、今後は流通広布の時代と定義されるであろう」(淳全 1620頁 取意)
と述べられましたが、これは妙法流布の相を区分されたものであって、御本尊の権能や僧俗の立て分けを述べられたものではありません。
創価学会では、十数年前に
「御法主上人の御もとに、日蓮正宗の伝統法義を確実に体していくことを、不動の路線とする」(広布と人生を語る 三-二七一頁 取意)
と発表しながら、破門されるや、「今日はその時代ではない」などといって、簡単に「不動の路線」を変更しています。
学会では「不動」という言葉のもつ意味がわからないのでしょうか。
ともあれ、このような学会の主張を「詭弁(きべん)」というのです。
破折:
1.〝海外広布の時代〟は法主一人の手には成らない
「御本尊に関する権能」が「法主一人に限られた」のは古来の伝統とされた。しかし海外広宣流布の時が至れば、そうはいかない。このことは「創価学会の『ご都合主義』による思いつきの邪説」ではない、法主自身が表明しているのである。
「有師斯の如く時の宜しきに従ひて寛容の度を示し給ふといへど、しかも爾後数百年宗門の真俗能く祖意を守りて苟(いやしく)も授与せず書写せず・以て寛仁の化儀に馴るること無かりしは、実に宗門の幸福なりしなり、然りといへども宗運漸次に開けて・異族に海外に妙法の唱へ盛なるに至らば・曼荼羅授与の事豈法主一人の手に成ることを得んや、或いは本条の如き事実を再現するに至らんか・或は形木を以て之を補はんか・已に故人となれる学頭日照師が朝鮮に布教するや、紫宸殿の御本尊を有師の模写せるものによりて写真石版に縮写し・新入の信徒に授与せり、其病んで小梅の故庵に臥せし時、偶予に此縮写の本尊に判形を加ふべきや否やの談を為されたる事あり、予は直に此文を思ひ浮べて云為したり・忘られぬ儘此に付記す」(『有師(うし)化儀抄註解』富要1-113)
(九世日有師はこのように時代の状況に適うよう寛容の心を示されたのであるが、以後数百年間は僧俗ともによく大聖人の御心を守って、かりそめにも(末寺住職が)授与することも書写することもなく、(日有師の定められた)おおらかな化儀に慣れなかったことは、まことに宗門の幸福と言うものであった。そうではあるけれども、宗門の運が次第に開けて、他民族に海外に妙法を唱えることが盛んになったときには、御本尊を授与することがどうして法主一人の手に成ることができようか。或いは本条のような事実(末寺住職による本尊書写)を再現することとなろうか、あるいは御形木を以てこれを補うとするか。すでに故人となられた学頭の日照師が朝鮮に布教するにあたり、紫宸殿の御本尊を日有師が模写したものにより写真の石版に縮写して、新たに入信した信徒に授与した。その日照師が病気で今は無い小梅の庵に臥せていたが、たまたま自分にこの縮写の本尊に判形を加えるべきかそうでないかとの談話を為されたことがあった。自分はすぐにこの御文を思い浮かべて強調して話したのであったが、忘れられないのでそのままここに付記する)
日有師の『化儀抄』の規定では、末寺住職は判形さえ書かなければ、御守り本尊や常住本尊を書写することを認めている。
「一、末寺に於て弟子檀那を持つ人は守りをば書くべし、但し判形は有るべからず本寺住持の所作に限るべし云云。 一、漫荼羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし判形をば為すべからず云云、但し本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるゝ事も之有り、希なる義なり云云。」(『富要』1-71,72)
五十九世堀日亨法主は「『一閻浮提総与』の意味を歪曲」などしていない。世界広宣流布においては曼荼羅授与が法主一人の手には及ばないと予見し、その際は日有師の『化儀抄』に規定のある「末寺での常住本尊書写」、あるいは「御形木本尊」を以て対応するであろう、と想定したのである。
御形木本尊は自由な化儀である。学会が御形木本尊の授与を行なうことは、宗門古来の規定(『化儀抄』)に抵触せず、また近代の法主(堀日亨師)の推奨するところでもある。
また戦後の学会員に授与された日寛上人の御形木本尊は、宗門離脱後の学会が授与する御形木本尊と同様に、「授与書き」も「開眼」も無かった。
以上の通り、学会による御本尊授与には何等の問題も存在しない。その上で、インターネットに愚論が掲載されていたので破折しておいた。
【愚論】
『化儀抄註解』において日亨上人は、
▲「有師斯(かく)の如く時の宜(よろ)しきに従ひて寛容の度を示し給ふといへども、しかも爾後(じご)数百年、宗門の真俗(しんぞく)能(よ)く祖意を守りて、苟(いやし)くも授与せず書写せず、以て寛仁(かんにん)の化優に馴(な)るふこと無かりしは、実に宗門の幸福なりしなり」(富要集第一巻一一三頁)
と、日有上人が末寺住職に仮本尊書写を許されたといっても、その後数百年、宗内僧俗は大聖人の御意を守って、まったく仮本尊の書写や勝手な授与をせず、いたずらに「宗門第一尊厳の化儀」を乱すことはなかった、と喜ばれている。
このお言葉をもって言うならば、学会が許可なく変造本尊を作り、勝手に広く授与していることは、まさに聖意を破壊する法滅の化儀であり、不幸この上ない事態といえよう。
(「『御本尊はだれが書いてもいい。』との邪義を破折」H.P.)
【破折】
上記の引用文には、次の文が続くはずである(前掲の『有師化儀抄註解』を参照)。
「然りといへども宗運漸次に開けて・異族に海外に妙法の唱へ盛なるに至らば・曼荼羅授与の事豈法主一人の手に成ることを得んや、或いは本条の如き事実を再現するに至らんか・或は形木を以て之を補はんか」
この箇所が本文の肝要である。信者がほとんど増えず、海外広布など夢であった過去の時代をつつましく偲び、その上で「然りといへども」、広宣流布が始まればそうしてはいられない、と強調した。いったんは日有師の定めを封印するようでいて、今後はその封印を解く時代が来るであろう、と予見したのである。
海外広布が現実となった今日、学会による御形木御本尊の流布は、日亨師の推奨する通りの展開となった。
〝切り文〟は宗門の常套手段であるが、このやり口は日亨師の「聖意を破壊する」行為であり、「不幸この上ない事態」となろう。
2.宗門が謗法の日尊を讃嘆
日顕宗では大石寺宗門に謗法をもたらした要法寺の開基、日尊を讃嘆する。〝類は友を呼ぶ〟とはこのことか。
(1)日尊は既に謗法に堕していた
【愚論】
▲「冨士門跡は付弟一人此(※御本尊)を書写し奉る可きの由、日興上人御遺誡なり」(日蓮宗宗学全書第二巻興尊全集興門集四一八頁)
と遺言し、御本尊書写は「付弟一人」の権能であることを日興上人が御遺誡せられていた、と伝えている。
また、第五十九世日亨上人が
▲「尊師(日尊師)は宗門未有の弘通者なれども自ら曼荼羅を書写せず」(富要集第一巻一一二頁)
と仰せられているように、日尊師自身も日興上人の戒めを守って、生涯、御本尊を書写することはなかったという。
創価学会では、日尊師が、後に謗法化していった要法寺の開基であることをもって、その遺言をも軽んじているようだが、日尊師自身は、逝去に至るまで日興上人の御弟子だったのであり、今日の要法寺と同一視することは、的外れな、ためにする悪口である。
(「『御本尊はだれが書いてもいい。』との邪義を破折」(H.P.)
【破折】
「故に宗祖は濫(みだり)に曼荼羅を授与し給はず・開山は曼荼羅転授に就いても之を鄭重になし給ひ、尊師は宗門未有の弘通者なれども自ら曼荼羅を書写せず、然るに余門流の僧侶不相伝の儘猥(みだ)りに曼荼羅を書き散して、僭越の逆罪とも思はざるのみならず・雑乱滅裂全き型式をだに得たるものなし、無法無慙の甚しきもの八大地獄は彼等の為に門を開けり・慎まざるべけんや」(富要1-112)
大聖人、日興上人が御本尊授与の化儀を丁寧になされていたことは十分に理解できますが、ここで紹介されている日尊については、京都の上行院建立(1339年)の2年後(板本尊を1344年に弟子の日印に授与する3年前)に、この上行院に釈迦像や十大弟子の像を建立・安置している(日蓮正宗富士年表P.84)のですから、曼荼羅を書写しなかったのは決して曼荼羅に対する正しい信仰があったなどと言うことは出来ません。日亨上人はここでは他山の本尊雑乱(主題を「南無妙法蓮華経 日×」と書く筆法)に対して厳しく批判されておられるだけなのです。日尊は既に謗法に堕していたのですから、本尊書写をしなかったことに何の意味もないのです。まして板本尊はしっかり建立しているのです。この時に法主の允可を受けたはずもありません。すでに釈迦像建立をするような謗法に陥っていたのですから。
(『日蓮正宗の本尊義を破す』)
日尊が造像の謗法に至るのは、青年時代に習学した天台宗学の臭味が抜けず、神天上の法門に異議を抱いていたゆえという。
彼が改宗させた妙福寺(福島県)では、地蔵像が謗法払いされずに伝えられたことは、そのあらわれと言えよう。戦後この像をめぐり檀家と住職との間に争いが起こり、学会も巻き込んだ事件があった(『人間革命』第七巻参照)。
(2)形木本尊は古来より末寺で行なわれた自由な化儀
【愚論】
▲日亨上人は、また、「不相伝」の者が「猥(みだ)りに曼荼羅を書き散らして」いることは「借越(せんえつ)の逆罪」である、とせられているが、それと同様のニセ本尊作りをした創価学会も、大謗法の罪は免れないのである。
(「『御本尊はだれが書いてもいい。』との邪義を破折」(H.P.)
【破折】
前記の引用文に「余門流の僧侶不相伝の儘猥(みだ)りに曼荼羅を書き散して」とある通り、日亨師は他門僧による本尊書写を批判しているのである。
しかし学会は本尊書写を行わない。日亨師の推奨通り、御形木御本尊を発行し授与するのである。それを「ニセ本尊」とは何事か、宗門の輩は日亨法主に対して「大謗法の罪は免れない」であろう。
◇
「併(しか)し乍(なが)ら此の判形といへるに種々あるべし、一には形木又は縮写のものに法主の判形を為されたるもの、二には平僧の書写せしものに法主の判形を加へられたるもの・三には後代の法主が宗祖開山等の曼荼羅を其儘模写し給ひて更に模写の判形を為されたるものを形木又は写真版等となしたるもの・四には先師先聖の模写版又は形木に平僧が自らの判形を加へ又は平僧自ら書写して判形(自己)まで加へたるもの等に分つを得べきか・此中に一と三とは事なかるべし、二は未だ広く実例を見ず、第四は大なる違法にして・是こそ正に本条の制誡なり」(富要1-113)
要するに、ありとあらゆる化儀の可能性があって、「宗門第一尊厳の化儀」である法主による書写本尊以外にも、正式な本尊として判形をどう書くのかの違いで、一から三は認められるものだと言うのです。第四の末寺で判形を書くことのみが禁止された化儀なのです。そして、形木本尊は正式な本尊ではないので、そもそもこれらにさえも該当しない自由な化儀に分類されているのです。大石寺派がいくら勿体ぶってみても、全ては堀上人が明らかにされてしまっているのです。
学会の日寛上人の形木本尊に誰かが判形を書いていたら文句を言われることがあるかも知れませんが、日寛上人の御本尊を写真製版で形木にしただけの、古来より大石寺末寺で行ってきた化儀なのですから、誰にも何も言われる筋合いなど全く無いのです。
(前出『日蓮正宗の本尊義を破す』)
3.広宣流布のため仮本尊を允可
宗門側が提示する文証はどれもこれも〝切り文〟で、原典を明示すればたちまち底の割れる〝いいがかり〟である。
【愚論】
また、創価学会では、第九世日有上人が
▲「末寺に於いて弟子檀那を持つ人は守をば書くべし、但し判形は有るべからず。本寺住持の所作に限るべし」 (聖典九八八頁)
▲「曼荼羅は末寺に於いて弟子檀那を持つ人は之れを書くべし。判形をば為すべからず」(聖典九八八頁)
と、末寺住職による〝判形のない曼荼羅〟の書写を許されていることを挙げて、「誰が書写してもいい証拠だ。それに、日興上人の御代にも、日興上人以外の僧侶が書写した御本尊が現存している」などという。
だが、これは筋違いな暴論、というほかはない。
第五十九世日亨上人は、この日有上人の御指南を次のように釈されている。
まず、日有上人が末寺住職に書写を許された理由と背景について、
▲「仮使(たとい)不退の行者たりとも、本山を距(さ)ること遠きにある人は、交通不便戦乱絶えず山河梗塞(こうそく)の戦国時代には、何を以って大曼荼羅を拝するの栄を得んや。(中略)此に於いて有師仮に守護及び常住の本尊をも、末寺の住持に之を書写して弟子檀那に授与する事を可なりとし給ふ」(富要集第一巻一一二頁・「有師化儀抄註解」)
と、戦乱による交通不便のため、一時的に末寺住職に書写を許された旨を御教示されている。
(「『御本尊はだれが書いてもいい。』との邪義を破折」H.P.)
【破折】
引用文の前文と中間の文言を削除した切り文であるから、堀日亨師が九世日有師当時の状況だけを追っているかの印象を受ける。
しかし原典は〝法主の書写本尊しか授与されないとなれば、広宣流布は進展しない、それゆえに御形木御本尊をご安置するのである〟と強調した文書である。
「然るに本尊の事は斯の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り授与せらるる人は信行不退の決定者に限るとせば・仮令(たとい)不退の行者たりとも・本山を距(さ)ること遠きにある人は・交通不便戦乱絶えず山河梗塞(こうそく)の戦国時代には・何を以つて大曼陀羅を拝するの栄を得んや、故に形木の曼荼羅あり仮に之を安す、本山も亦影師の時之を用ひられしと聞く、此に於いて有師仮に守護及び常住の本尊をも・末寺の住持に之を書写して檀那弟子に授与する事を可なりとし給ふ・即本文の如し、但し有師已前已に此の事ありしやも知るべからず、然りといへども此は仮本尊にして形木同然の意なるべし」(「有師化儀抄註解」富要1-113)
(それなのに本尊の事をこのように例外なく定め、授与する人は金口相承の法主に限定し、授与される人は信行不退転と決定した者に限るとしたら、たとえ不退転の行者であろうと、本山より遠く離れた地にある人は、交通不便で戦乱が絶えず、自然の要害により閉塞した戦国時代にあれば、どうして大御本尊を拝する栄に浴せよう。ゆえに御形木御本尊があり、仮にこれを御安置するのである。本山もまた八世日影師の時にこれを用いられたと聞く。ここにおいて、九世日有師が仮のお守り本尊・常住本尊をも、末寺住職がこれを書写して弟子檀那に授与しても良いとされたのであり、すなわち『化儀抄』本文の通りである。ただし日有師以前、すでにこのことがあったかも知れない。そうであってもこれは仮本尊であり、御形木御本尊と同然の意味なのである)
◇
ここで「然るに・・とせば」以降は、それまでの書写本尊の化儀による制約を否定されている箇所です。法主一人が書写し、信行不退の者だけに下付する、などと硬直的な運用をしていては、時代の変遷の中で大聖人の民衆救済という目的が達成できなくなる。こうした理由に基づいた結論として、「故に(だから)」形木の曼荼羅を仮に安置するという化儀を古来より認めているのだ、と解説しているのです。そして、日有師は更に末寺での守りや常住本尊さえも、「形木と同様に」仮本尊とみなして允可を与えている、というのです。
この「常住の本尊を『も』」という言葉の意味は、連結の副助詞「も」によって、「形木本尊と同じように」という意味を表しているのです。すでに日有上人、日亨上人が形木本尊の下付について、末寺で自由に行うことを允可されている以上、学会が唯一の和合僧団として、改革同盟の真実の僧侶達の申し出に基づいて(後述)日寛上人の形木御本尊を下付することは、大聖人の大慈悲の意志にも叶う「法華経の行者」としての最適な選択だったのです。
しかも、その御本尊を提供した浄圓寺は、宗教法人として独立した存在なのですから、大石寺派からとやかく言われる筋合いなど全く無いのです。
天魔の軍勢は、この新たな歴史の建設を必死になって妨害しようと、ありとあらゆる誹謗中傷を繰り返している訳ですが、事実として法華経の行者の決意を固めた同志たちに次々に功徳が涌き出ていることからも「利生の有無を以て隠没・流布を知るべきなり」(文段)で、学会の正義は既に証明されているのです。
(前出『日蓮正宗の本尊義を破す』)
(続く)
妄説:68 聖教新聞によると「従来は御本尊に関する権能が法主一人に限られたが、現在は『一閻浮提総与』の意味からも法主一人に限定する時代ではない」(聖教新聞 H五・九・二〇 取意)とありますが、それでよいのでしょうか。
この主張は、創価学会の「ご都合主義」による思いつきの邪説であり、「一閻浮提総与」の意味を歪曲(わいきょく)した邪義です。
本宗においては御本尊の大権は、唯授一人血脈付法の御法主上人にのみ具わっており、このことは一貫して不変のものです。「一閻浮提総与の大御本尊」とは、「全世界の人々が信受すべき御本尊」との意味であって、民衆が御本尊の権能を持つということではありません。
そもそも「従来」と「現在」の時間的な立て分けは何を根拠にしているのでしょうか。第六十五世日淳上人はかつて、
「宗門は長い間宗門護持の時代であったが、今後は流通広布の時代と定義されるであろう」(淳全 1620頁 取意)
と述べられましたが、これは妙法流布の相を区分されたものであって、御本尊の権能や僧俗の立て分けを述べられたものではありません。
創価学会では、十数年前に
「御法主上人の御もとに、日蓮正宗の伝統法義を確実に体していくことを、不動の路線とする」(広布と人生を語る 三-二七一頁 取意)
と発表しながら、破門されるや、「今日はその時代ではない」などといって、簡単に「不動の路線」を変更しています。
学会では「不動」という言葉のもつ意味がわからないのでしょうか。
ともあれ、このような学会の主張を「詭弁(きべん)」というのです。
破折:
1.〝海外広布の時代〟は法主一人の手には成らない
「御本尊に関する権能」が「法主一人に限られた」のは古来の伝統とされた。しかし海外広宣流布の時が至れば、そうはいかない。このことは「創価学会の『ご都合主義』による思いつきの邪説」ではない、法主自身が表明しているのである。
「有師斯の如く時の宜しきに従ひて寛容の度を示し給ふといへど、しかも爾後数百年宗門の真俗能く祖意を守りて苟(いやしく)も授与せず書写せず・以て寛仁の化儀に馴るること無かりしは、実に宗門の幸福なりしなり、然りといへども宗運漸次に開けて・異族に海外に妙法の唱へ盛なるに至らば・曼荼羅授与の事豈法主一人の手に成ることを得んや、或いは本条の如き事実を再現するに至らんか・或は形木を以て之を補はんか・已に故人となれる学頭日照師が朝鮮に布教するや、紫宸殿の御本尊を有師の模写せるものによりて写真石版に縮写し・新入の信徒に授与せり、其病んで小梅の故庵に臥せし時、偶予に此縮写の本尊に判形を加ふべきや否やの談を為されたる事あり、予は直に此文を思ひ浮べて云為したり・忘られぬ儘此に付記す」(『有師(うし)化儀抄註解』富要1-113)
(九世日有師はこのように時代の状況に適うよう寛容の心を示されたのであるが、以後数百年間は僧俗ともによく大聖人の御心を守って、かりそめにも(末寺住職が)授与することも書写することもなく、(日有師の定められた)おおらかな化儀に慣れなかったことは、まことに宗門の幸福と言うものであった。そうではあるけれども、宗門の運が次第に開けて、他民族に海外に妙法を唱えることが盛んになったときには、御本尊を授与することがどうして法主一人の手に成ることができようか。或いは本条のような事実(末寺住職による本尊書写)を再現することとなろうか、あるいは御形木を以てこれを補うとするか。すでに故人となられた学頭の日照師が朝鮮に布教するにあたり、紫宸殿の御本尊を日有師が模写したものにより写真の石版に縮写して、新たに入信した信徒に授与した。その日照師が病気で今は無い小梅の庵に臥せていたが、たまたま自分にこの縮写の本尊に判形を加えるべきかそうでないかとの談話を為されたことがあった。自分はすぐにこの御文を思い浮かべて強調して話したのであったが、忘れられないのでそのままここに付記する)
日有師の『化儀抄』の規定では、末寺住職は判形さえ書かなければ、御守り本尊や常住本尊を書写することを認めている。
「一、末寺に於て弟子檀那を持つ人は守りをば書くべし、但し判形は有るべからず本寺住持の所作に限るべし云云。 一、漫荼羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし判形をば為すべからず云云、但し本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるゝ事も之有り、希なる義なり云云。」(『富要』1-71,72)
五十九世堀日亨法主は「『一閻浮提総与』の意味を歪曲」などしていない。世界広宣流布においては曼荼羅授与が法主一人の手には及ばないと予見し、その際は日有師の『化儀抄』に規定のある「末寺での常住本尊書写」、あるいは「御形木本尊」を以て対応するであろう、と想定したのである。
御形木本尊は自由な化儀である。学会が御形木本尊の授与を行なうことは、宗門古来の規定(『化儀抄』)に抵触せず、また近代の法主(堀日亨師)の推奨するところでもある。
また戦後の学会員に授与された日寛上人の御形木本尊は、宗門離脱後の学会が授与する御形木本尊と同様に、「授与書き」も「開眼」も無かった。
以上の通り、学会による御本尊授与には何等の問題も存在しない。その上で、インターネットに愚論が掲載されていたので破折しておいた。
【愚論】
『化儀抄註解』において日亨上人は、
▲「有師斯(かく)の如く時の宜(よろ)しきに従ひて寛容の度を示し給ふといへども、しかも爾後(じご)数百年、宗門の真俗(しんぞく)能(よ)く祖意を守りて、苟(いやし)くも授与せず書写せず、以て寛仁(かんにん)の化優に馴(な)るふこと無かりしは、実に宗門の幸福なりしなり」(富要集第一巻一一三頁)
と、日有上人が末寺住職に仮本尊書写を許されたといっても、その後数百年、宗内僧俗は大聖人の御意を守って、まったく仮本尊の書写や勝手な授与をせず、いたずらに「宗門第一尊厳の化儀」を乱すことはなかった、と喜ばれている。
このお言葉をもって言うならば、学会が許可なく変造本尊を作り、勝手に広く授与していることは、まさに聖意を破壊する法滅の化儀であり、不幸この上ない事態といえよう。
(「『御本尊はだれが書いてもいい。』との邪義を破折」H.P.)
【破折】
上記の引用文には、次の文が続くはずである(前掲の『有師化儀抄註解』を参照)。
「然りといへども宗運漸次に開けて・異族に海外に妙法の唱へ盛なるに至らば・曼荼羅授与の事豈法主一人の手に成ることを得んや、或いは本条の如き事実を再現するに至らんか・或は形木を以て之を補はんか」
この箇所が本文の肝要である。信者がほとんど増えず、海外広布など夢であった過去の時代をつつましく偲び、その上で「然りといへども」、広宣流布が始まればそうしてはいられない、と強調した。いったんは日有師の定めを封印するようでいて、今後はその封印を解く時代が来るであろう、と予見したのである。
海外広布が現実となった今日、学会による御形木御本尊の流布は、日亨師の推奨する通りの展開となった。
〝切り文〟は宗門の常套手段であるが、このやり口は日亨師の「聖意を破壊する」行為であり、「不幸この上ない事態」となろう。
2.宗門が謗法の日尊を讃嘆
日顕宗では大石寺宗門に謗法をもたらした要法寺の開基、日尊を讃嘆する。〝類は友を呼ぶ〟とはこのことか。
(1)日尊は既に謗法に堕していた
【愚論】
▲「冨士門跡は付弟一人此(※御本尊)を書写し奉る可きの由、日興上人御遺誡なり」(日蓮宗宗学全書第二巻興尊全集興門集四一八頁)
と遺言し、御本尊書写は「付弟一人」の権能であることを日興上人が御遺誡せられていた、と伝えている。
また、第五十九世日亨上人が
▲「尊師(日尊師)は宗門未有の弘通者なれども自ら曼荼羅を書写せず」(富要集第一巻一一二頁)
と仰せられているように、日尊師自身も日興上人の戒めを守って、生涯、御本尊を書写することはなかったという。
創価学会では、日尊師が、後に謗法化していった要法寺の開基であることをもって、その遺言をも軽んじているようだが、日尊師自身は、逝去に至るまで日興上人の御弟子だったのであり、今日の要法寺と同一視することは、的外れな、ためにする悪口である。
(「『御本尊はだれが書いてもいい。』との邪義を破折」(H.P.)
【破折】
「故に宗祖は濫(みだり)に曼荼羅を授与し給はず・開山は曼荼羅転授に就いても之を鄭重になし給ひ、尊師は宗門未有の弘通者なれども自ら曼荼羅を書写せず、然るに余門流の僧侶不相伝の儘猥(みだ)りに曼荼羅を書き散して、僭越の逆罪とも思はざるのみならず・雑乱滅裂全き型式をだに得たるものなし、無法無慙の甚しきもの八大地獄は彼等の為に門を開けり・慎まざるべけんや」(富要1-112)
大聖人、日興上人が御本尊授与の化儀を丁寧になされていたことは十分に理解できますが、ここで紹介されている日尊については、京都の上行院建立(1339年)の2年後(板本尊を1344年に弟子の日印に授与する3年前)に、この上行院に釈迦像や十大弟子の像を建立・安置している(日蓮正宗富士年表P.84)のですから、曼荼羅を書写しなかったのは決して曼荼羅に対する正しい信仰があったなどと言うことは出来ません。日亨上人はここでは他山の本尊雑乱(主題を「南無妙法蓮華経 日×」と書く筆法)に対して厳しく批判されておられるだけなのです。日尊は既に謗法に堕していたのですから、本尊書写をしなかったことに何の意味もないのです。まして板本尊はしっかり建立しているのです。この時に法主の允可を受けたはずもありません。すでに釈迦像建立をするような謗法に陥っていたのですから。
(『日蓮正宗の本尊義を破す』)
日尊が造像の謗法に至るのは、青年時代に習学した天台宗学の臭味が抜けず、神天上の法門に異議を抱いていたゆえという。
彼が改宗させた妙福寺(福島県)では、地蔵像が謗法払いされずに伝えられたことは、そのあらわれと言えよう。戦後この像をめぐり檀家と住職との間に争いが起こり、学会も巻き込んだ事件があった(『人間革命』第七巻参照)。
(2)形木本尊は古来より末寺で行なわれた自由な化儀
【愚論】
▲日亨上人は、また、「不相伝」の者が「猥(みだ)りに曼荼羅を書き散らして」いることは「借越(せんえつ)の逆罪」である、とせられているが、それと同様のニセ本尊作りをした創価学会も、大謗法の罪は免れないのである。
(「『御本尊はだれが書いてもいい。』との邪義を破折」(H.P.)
【破折】
前記の引用文に「余門流の僧侶不相伝の儘猥(みだ)りに曼荼羅を書き散して」とある通り、日亨師は他門僧による本尊書写を批判しているのである。
しかし学会は本尊書写を行わない。日亨師の推奨通り、御形木御本尊を発行し授与するのである。それを「ニセ本尊」とは何事か、宗門の輩は日亨法主に対して「大謗法の罪は免れない」であろう。
◇
「併(しか)し乍(なが)ら此の判形といへるに種々あるべし、一には形木又は縮写のものに法主の判形を為されたるもの、二には平僧の書写せしものに法主の判形を加へられたるもの・三には後代の法主が宗祖開山等の曼荼羅を其儘模写し給ひて更に模写の判形を為されたるものを形木又は写真版等となしたるもの・四には先師先聖の模写版又は形木に平僧が自らの判形を加へ又は平僧自ら書写して判形(自己)まで加へたるもの等に分つを得べきか・此中に一と三とは事なかるべし、二は未だ広く実例を見ず、第四は大なる違法にして・是こそ正に本条の制誡なり」(富要1-113)
要するに、ありとあらゆる化儀の可能性があって、「宗門第一尊厳の化儀」である法主による書写本尊以外にも、正式な本尊として判形をどう書くのかの違いで、一から三は認められるものだと言うのです。第四の末寺で判形を書くことのみが禁止された化儀なのです。そして、形木本尊は正式な本尊ではないので、そもそもこれらにさえも該当しない自由な化儀に分類されているのです。大石寺派がいくら勿体ぶってみても、全ては堀上人が明らかにされてしまっているのです。
学会の日寛上人の形木本尊に誰かが判形を書いていたら文句を言われることがあるかも知れませんが、日寛上人の御本尊を写真製版で形木にしただけの、古来より大石寺末寺で行ってきた化儀なのですから、誰にも何も言われる筋合いなど全く無いのです。
(前出『日蓮正宗の本尊義を破す』)
3.広宣流布のため仮本尊を允可
宗門側が提示する文証はどれもこれも〝切り文〟で、原典を明示すればたちまち底の割れる〝いいがかり〟である。
【愚論】
また、創価学会では、第九世日有上人が
▲「末寺に於いて弟子檀那を持つ人は守をば書くべし、但し判形は有るべからず。本寺住持の所作に限るべし」 (聖典九八八頁)
▲「曼荼羅は末寺に於いて弟子檀那を持つ人は之れを書くべし。判形をば為すべからず」(聖典九八八頁)
と、末寺住職による〝判形のない曼荼羅〟の書写を許されていることを挙げて、「誰が書写してもいい証拠だ。それに、日興上人の御代にも、日興上人以外の僧侶が書写した御本尊が現存している」などという。
だが、これは筋違いな暴論、というほかはない。
第五十九世日亨上人は、この日有上人の御指南を次のように釈されている。
まず、日有上人が末寺住職に書写を許された理由と背景について、
▲「仮使(たとい)不退の行者たりとも、本山を距(さ)ること遠きにある人は、交通不便戦乱絶えず山河梗塞(こうそく)の戦国時代には、何を以って大曼荼羅を拝するの栄を得んや。(中略)此に於いて有師仮に守護及び常住の本尊をも、末寺の住持に之を書写して弟子檀那に授与する事を可なりとし給ふ」(富要集第一巻一一二頁・「有師化儀抄註解」)
と、戦乱による交通不便のため、一時的に末寺住職に書写を許された旨を御教示されている。
(「『御本尊はだれが書いてもいい。』との邪義を破折」H.P.)
【破折】
引用文の前文と中間の文言を削除した切り文であるから、堀日亨師が九世日有師当時の状況だけを追っているかの印象を受ける。
しかし原典は〝法主の書写本尊しか授与されないとなれば、広宣流布は進展しない、それゆえに御形木御本尊をご安置するのである〟と強調した文書である。
「然るに本尊の事は斯の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り授与せらるる人は信行不退の決定者に限るとせば・仮令(たとい)不退の行者たりとも・本山を距(さ)ること遠きにある人は・交通不便戦乱絶えず山河梗塞(こうそく)の戦国時代には・何を以つて大曼陀羅を拝するの栄を得んや、故に形木の曼荼羅あり仮に之を安す、本山も亦影師の時之を用ひられしと聞く、此に於いて有師仮に守護及び常住の本尊をも・末寺の住持に之を書写して檀那弟子に授与する事を可なりとし給ふ・即本文の如し、但し有師已前已に此の事ありしやも知るべからず、然りといへども此は仮本尊にして形木同然の意なるべし」(「有師化儀抄註解」富要1-113)
(それなのに本尊の事をこのように例外なく定め、授与する人は金口相承の法主に限定し、授与される人は信行不退転と決定した者に限るとしたら、たとえ不退転の行者であろうと、本山より遠く離れた地にある人は、交通不便で戦乱が絶えず、自然の要害により閉塞した戦国時代にあれば、どうして大御本尊を拝する栄に浴せよう。ゆえに御形木御本尊があり、仮にこれを御安置するのである。本山もまた八世日影師の時にこれを用いられたと聞く。ここにおいて、九世日有師が仮のお守り本尊・常住本尊をも、末寺住職がこれを書写して弟子檀那に授与しても良いとされたのであり、すなわち『化儀抄』本文の通りである。ただし日有師以前、すでにこのことがあったかも知れない。そうであってもこれは仮本尊であり、御形木御本尊と同然の意味なのである)
◇
ここで「然るに・・とせば」以降は、それまでの書写本尊の化儀による制約を否定されている箇所です。法主一人が書写し、信行不退の者だけに下付する、などと硬直的な運用をしていては、時代の変遷の中で大聖人の民衆救済という目的が達成できなくなる。こうした理由に基づいた結論として、「故に(だから)」形木の曼荼羅を仮に安置するという化儀を古来より認めているのだ、と解説しているのです。そして、日有師は更に末寺での守りや常住本尊さえも、「形木と同様に」仮本尊とみなして允可を与えている、というのです。
この「常住の本尊を『も』」という言葉の意味は、連結の副助詞「も」によって、「形木本尊と同じように」という意味を表しているのです。すでに日有上人、日亨上人が形木本尊の下付について、末寺で自由に行うことを允可されている以上、学会が唯一の和合僧団として、改革同盟の真実の僧侶達の申し出に基づいて(後述)日寛上人の形木御本尊を下付することは、大聖人の大慈悲の意志にも叶う「法華経の行者」としての最適な選択だったのです。
しかも、その御本尊を提供した浄圓寺は、宗教法人として独立した存在なのですから、大石寺派からとやかく言われる筋合いなど全く無いのです。
天魔の軍勢は、この新たな歴史の建設を必死になって妨害しようと、ありとあらゆる誹謗中傷を繰り返している訳ですが、事実として法華経の行者の決意を固めた同志たちに次々に功徳が涌き出ていることからも「利生の有無を以て隠没・流布を知るべきなり」(文段)で、学会の正義は既に証明されているのです。
(前出『日蓮正宗の本尊義を破す』)
(続く)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №61~70
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:67」を破折する 連載96回
妄説:67 昔は末寺でも、法主の許可なしで御形木(おかたぎ)御本尊を作って下付していたのではないでしょうか。
宗門においては古来、御本尊を御法主上人の許可なしで下付したことはありません。
第六十六世日達上人は、
『化儀抄略解』の注に「当時は交通が不便であり、戦乱相(あい)継ぐ時代である故、日有上人が一時的に末寺住職に許されたことで、形木の意であります。書き判が無(な)いから決定的でないことを表わしている。現今は絶対に許されないことであります」(達全 1-4-560頁)
と仰せです。
このように御形木御本尊を末寺で作り、下付されたことがあっても、それは特殊な時代状況のもとで、御法主上人の許可を得て、一時的に行なわれたことです。
また、たとえ特殊の事情があったとしても、こと御本尊に関しては、第二十九世日東上人が
『当家法則文抜書(ぬきがき)』に「仏法を相属して当代の法主の処に本尊の体有る可きなり」(研教 九-七四〇頁)
と教示されているように、本宗では昔から、御本尊に関してはすべて御法主上人の許可が必要だったのです。
今日、学会で御本尊を勝手にコピーし、授与するなどはもってのほかの所業なのです。
破折:
1.御形木御本尊を乱発しても「能化」に叙せられた末寺住職
室町時代の『化儀抄』の話でなくとも、近年、「法主の許可なしで御形木(おかたぎ)御本尊を作って下付していた」末寺があった。それも、〝大聖人御真筆の御本尊〟を御形木にしたのであり、「現今は絶対に許されない」どころではない、古来より宗制で禁じられてきたはずである。
◇
近くは昭和四十八年頃、千葉県保田の妙本寺が同寺に格護する日蓮大聖人御真筆の「万年救護本尊」を縮小して製版印刷したものを、脱会者などの檀徒に大量に下付した。だが住職・鎌倉寛全(当時)は、その直後、能化に叙せられ鎌倉日櫻を名乗るに至っている。
鎌倉がこのとき能化に叙せられたのは、大本山妙本寺の離脱を阻止する懐柔が主たる目的だった。
時の〝法主〟の意に逆らい「万年救護本尊」の御形木御本尊を乱発しても、処罰されるどころか、僧として最高位の能化に叙せられることもあるのだ。このことは、末寺が御形木御本尊を印刷・授与しても、仏法上、罪はないことを示しているともいえる。
(『地涌』第701号 1993年10月3日 発行:日蓮正宗自由通信同盟)
宗門では本来、戒壇の大御本尊を書写するべきとして、大聖人御自筆の曼荼羅を形木に刻み印刷することを禁止し、御形木御本尊は日興上人以降の歴代の曼荼羅に限っている。
ところが末寺である保田妙本寺が、大聖人御真筆の御本尊を御形木にして檀徒に下付したのである。当然ながら法主の許可など受けていない。その末寺住職が能化に叙せられ、最大に厚遇されている。
「御本尊に関してはすべて御法主上人の許可が必要だった」とは、〝時と場合による〟ものらしい。結論すれば、宗門にとって御本尊は寺院経営のために存在し、仏法とは何の関連も無いものとされているのである。
所詮、「御法主上人」は〝教団経営の管理者〟に過ぎず、〝仏法上の最高意思決定者(=法主)〟の名に価する者ではない。
五十九世日亨法主に、次のような発言がある。
◇
ワシが猊下をなぜ二年でやめたと思う。猊下というもの、あれは政治家だよ。俗の奸物がなるものであって、学問をやる者がめざすところのものではありゃしない。
(『亨師談聴聞記』大橋慈譲記録 昭和二十六年 冬)
2.末寺の離反は日顕の悩乱が原因
宗史を遡れば前述の保田妙本寺は、大石寺四世日道に反目した日郷が、御真筆の「万年救護本尊」等の重宝とともに大石寺を離脱し、千葉県の吉浜に法華堂を建てたことに由来する。戦後、戸田会長の勧めにより大石寺に帰属したのであったが、日顕が学会を破門したそのわずか数年後、日蓮正宗から独立し、単立の宗教法人となった。
◇
この妙本寺離脱の背景としては、さまざまな要因が分析できる。以下、それを列記する。
① 日蓮正宗への帰一が、創価学会の仲立ちによるものであるだけに、日蓮正宗から創価学会を破門した日顕のもとに、このまま従属している因縁はない。
② 妙本寺は、かねてより一閻浮提総与の大御本尊を唯一最高の本尊とはみなさず、同寺に格護されている万年救護本尊の由緒は、それに勝るとの立場をとってきた。このほか、富士大石寺教学とさまざまな対立点がある。
③ 一九六三(昭和三十八)年、シアトルにおいて日顕が買春したことは、証拠と証人をクロウ夫人ならびに創価学会側が提示したことにより、誰の目にも明らかになった。 この腐敗堕落した〝法主〟のもとに隷属することは、日郷以来守られてきたとされる同寺の正当性を損なうと判断した。
④ 妙本寺から見れば同格の大本山の一つである大石寺の住持が、「唯授一人血脈相承」の〝法主〟として日蓮大聖人と同格とされる、いまの大石寺狂学についていけなかった。
⑤ 妙本寺格護の万年救護本尊を、平成三年八月二十九日に大石寺でおこなわれた全国教師講習会において、日顕が、「万年救護本尊も、日蓮大聖人に一切の法界を具え給う本仏の体相を直ちに顕示されるに至っていないのです。故に相対妙の法門においては未究竟に配せられるのであります」(『大日蓮』平成三年十月号)と断じたことに反発した。
このほかにも、妙本寺の内部的要因として、つぎのようなことを挙げることができる。
⑥ 近年、妙本寺に新たに所属してきた他寺法華講の脱講者の所持する大石寺御本尊については大石寺に返納させ、口唱の題目を表にしてきた。だが、それも長期の説得材料としては乏しく、急いで万年救護の形木の本尊を出さなければ、脱講者などが同寺にとどまらないとの内部事情があった。
⑦ 住職・鎌倉日櫻の次男・修郷が、ここ数年、離脱をしばしば口にしてきた。この言葉を信じてついてきた者のなかに、離脱が実行に移されないことを見て離反する動きが見えはじめた。
こうした、さまざまな要因が重なりあって妙本寺は離脱したのだが、その根本原因はといえば、ひとえに日顕の狂乱につきる。
(『地涌』第853号 1995年5月6日 ※番号は管理人が付与)
3.末寺における御本尊授与の実態
「本宗では昔から、御本尊に関してはすべて御法主上人の許可が必要だったのです」とは嘘である。
「御形木御本尊を末寺で作り、下付されたことがあっても、それは特殊な時代状況のもとで、御法主上人の許可を得て、一時的に行なわれたことです」とあるのも嘘である。
いくら宗門が嘘の固まりであろうと、ここまで嘘を塗りたくるとは。
宗門の言う「もってのほかの所業」とは、かつて末寺の判断で行なわれてきたことであり、時代は鉄道も自動車も整備された昭和の話である。決して「交通が不便であり、戦乱相(あい)継ぐ時代」ではない、さらに戦後ともなれば「特殊な時代状況」など何もない。
◇
(1)昭和初期
〇 戦前戦後を通じ、東京周辺の大寺院を主体に、例えば妙光寺は五十五世日布上人、法道院は五十六世日応上人、常在寺は五十七世日正上人など、各末寺から有縁の法主の御形木御本尊が授与されてきた。
〇 遠隔地の信徒の場合、御本尊の印刷された和紙がそのまま授与され、信徒が自分で表具店に出し、表装する場合もあった。
(2)昭和30年代前半/日淳上人の代
〇 東京・豊島区の法道院にある「大日蓮」で日寛上人御筆の御本尊を印刷。
〇 付き合いのある表具店を持つ末寺は表装前の和紙の状態の御本尊を、基本的には百枚一束で法道院から購入し、表装に出していた。
〇 専属の表具店をもたない末寺では、法道院から表具店に出してもらい、表装済みの御本尊を発送してもらっていた。
(3)昭和30年代後半/日達上人の代
〇 法道院の「大日蓮」で印刷された日寛上人御筆の御本尊を法道院が表具店に出し、表装済みの御本尊が法道院から各末寺へ発送されていた。
(4)昭和40年代~54年/日達上人の代
〇 日達上人御筆の御本尊を法道院で印刷。
〇 法道院が表具店に出し、表装済みの御本尊が法道院から各末寺へ発送されていた。
(5)昭和54年以降/日顕の代
〇 本山に御本尊を取り扱う内事部第三課が設置されてからは、富士宮市内のK印刷が日顕筆の御本尊を印刷。
〇 印刷会社から第三課に届けられた御本尊は、第三課の僧侶が印刷の状態と枚数を点検、印刷状態の悪いものを破棄。
〇 その後、群馬県のO表具店など数社の表具店に出し表装。
〇 表装された御本尊は、再び第三課に送り戻され、納品される。
〇 第三課では検査の後、別の段ボールに詰め換え、末寺の入金に応じて、宅配便で配送していた。
これらの実態は、長年宗門にいた多くの僧侶が認めている。
第三課に勤めていた複数の僧侶も「御形木御本尊の場合、表具の前にも後にも、日顕が祈念などすることは一度もありませんでした」と証言している。
これらの実態からも明らかなように、本山で、法主がすべての御本尊を「開眼」していたというのは、真っ赤なウソなのである。
(『創価新報』1993.10.20)
4.日寛上人こそ法主本仏論を排除した正師
宗門の引用した「仏法を相属して当代の法主の処に本尊の体有る可きなり」(『当家法則文抜書』)とは、典型的な「法主本仏論」の邪義である。
松岡幹夫氏(青年僧侶改革同盟)は、宗門の謗法義を以下の通り破折した。
◇
(1) 法主信仰は稚児貫首の時代に作られた逸脱義
考えてみれば、日寛上人は、それ以前の宗門に時折見られた「法主信仰」的な動きを、教学の面から完全に封じた法主である。日寛上人以前の宗門では、法主の権威がとりわけ強調された時期が2度ほどあった。
一度目は、12世の日鎮法主の代である。日鎮法主は、数え年の14歳で9世の日有上人から血脈相承を受けたとされる「稚児貫首」の一人である。この頃、京都・住本寺系の高僧で大石寺へ帰伏し、日有上人の門下となった左京阿闍梨・日教が、若年の日鎮法主の補佐役として活躍した。未熟な青年法主を支えるためか、日教はいくつかの著作の中で、ことのほか法主の権威を力説している。例えば、「類聚翰集私」では「当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり」「法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ」「当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ」「持経者は又当代の法主に値ひ奉る時・本仏に値ふなり」などと述べている。
他門の僧侶歴が長く、老境に至って日有上人に帰伏した日教は、宗開両祖の正法正義を唯一継承する門流が大石寺であることを強く意識し、この点からも、宗門法主への尊信を熱心に唱えたのだろう。その心情は理解できるが、だからといって、「本尊の体」を、御本尊よりも大石寺法主の内証に求めるならば、明らかに逸脱義である。日教は、「穆作抄」に「閣浮第一の御本尊も真実は用なり」と述べている。ここでいう「御本尊」が、大聖人の顕された御本尊を指すとすれば、日教の本尊観は〝法主が体で、御本尊は用〟ということになる。これは本末転倒の「法主信仰」である。いずれにせよ、日教の法主論は、後世の宗門に甚大な禍根を残した。なぜならば、時代が下るに従って、日教に似た言い回しで、「法主信仰」を唱える事例が目立ってくるからである。
(『法主信仰の打破――日寛上人の言論闘争』著者:松岡幹夫氏 掲載誌:『大白蓮華』 発行日:平成十七年九月一日)
(2)日寛上人は六巻抄から法主信仰を除外された
ともかく「法主信仰」は、日寛上人が活躍される頃には、宗門の一部に隠然と根を張っていた。「当家法則文抜書」と呼ばれる、日寛上人の文書がある。現代的に言うと、備忘録の類であろう。日寛上人はそこで、日教の「類聚翰集私」から、多くの箇所を抜き書きされている。中には、「当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり」「法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ」などの「法主即本尊」「法主即日蓮」の義を説いた文も含まれている。近年、日顕らは、日寛上人にも「法主信仰」があった、と言い、この「当家法則文抜書」をよく持ち出してくる。
しかし、「当家法則文抜書」は「抜書」であり、殊更に何かを主張した論書ではない。(中略)
じつは、日寛上人は、「類聚翰集私」が誰の作なのか分からず、宗門の教義規則=「当家御法則」の集成として認識され、抜き書きをされた。「類聚翰集私」を日教の作と断定したのは、近代の堀日亨上人であり、江戸時代の宗門人は知る由もなかった。日寛上人も、宗門古来の伝承として一応、それを受け止められたのであろう。しかし、日寛上人は、「法主即本尊」「法主即日蓮」という義を、「六巻抄」や文段類の中に、まったく取り入れられなかった。ここに、たとえ歴代先師の指南であっても、「法主信仰」につながり、正統教学を混乱させる教えは用いない、との日寛上人の姿勢がうかがい知れよう。
(同)
(3)日寛上人こそが大聖人と日興上人の正統な系譜
さらに日寛上人は、ご自身が相承を受けられた後でも、歴代法主だけは本仏と一体である、などと決して説かれなかった。最晩年に完成された再治本の「六巻抄」に、そのような主張は、どこにもみられない。むしろ「当家三衣抄」の最後の所で、日寛上人は、宗門の三宝を論ずるとともに、「行者謹んで次第を超越する勿れ」との誡めの言葉を残されている。これは、「法主即日蓮」の義などに基づく「法主信仰」を、上人が否定されていた証左である。
(同)
今回宗門が持ち出した『当家法則文抜書(ぬきがき)』は、宗門に法主信仰の毒を投げ込んだ要法寺系の流入僧、左京阿闍梨・日教の文書からの抜粋である。勿論このような邪教の言を日寛上人が信じられたわけではない。
日寛上人は法主信仰を否定された正師であられ、当然に日顕・日如を否定される御立場にある。学会が日寛上人御書写の御本尊を授与することは、学会の正義を顕彰し、かつ邪教・日顕宗を退治する象徴なのである。
(了)
妄説:67 昔は末寺でも、法主の許可なしで御形木(おかたぎ)御本尊を作って下付していたのではないでしょうか。
宗門においては古来、御本尊を御法主上人の許可なしで下付したことはありません。
第六十六世日達上人は、
『化儀抄略解』の注に「当時は交通が不便であり、戦乱相(あい)継ぐ時代である故、日有上人が一時的に末寺住職に許されたことで、形木の意であります。書き判が無(な)いから決定的でないことを表わしている。現今は絶対に許されないことであります」(達全 1-4-560頁)
と仰せです。
このように御形木御本尊を末寺で作り、下付されたことがあっても、それは特殊な時代状況のもとで、御法主上人の許可を得て、一時的に行なわれたことです。
また、たとえ特殊の事情があったとしても、こと御本尊に関しては、第二十九世日東上人が
『当家法則文抜書(ぬきがき)』に「仏法を相属して当代の法主の処に本尊の体有る可きなり」(研教 九-七四〇頁)
と教示されているように、本宗では昔から、御本尊に関してはすべて御法主上人の許可が必要だったのです。
今日、学会で御本尊を勝手にコピーし、授与するなどはもってのほかの所業なのです。
破折:
1.御形木御本尊を乱発しても「能化」に叙せられた末寺住職
室町時代の『化儀抄』の話でなくとも、近年、「法主の許可なしで御形木(おかたぎ)御本尊を作って下付していた」末寺があった。それも、〝大聖人御真筆の御本尊〟を御形木にしたのであり、「現今は絶対に許されない」どころではない、古来より宗制で禁じられてきたはずである。
◇
近くは昭和四十八年頃、千葉県保田の妙本寺が同寺に格護する日蓮大聖人御真筆の「万年救護本尊」を縮小して製版印刷したものを、脱会者などの檀徒に大量に下付した。だが住職・鎌倉寛全(当時)は、その直後、能化に叙せられ鎌倉日櫻を名乗るに至っている。
鎌倉がこのとき能化に叙せられたのは、大本山妙本寺の離脱を阻止する懐柔が主たる目的だった。
時の〝法主〟の意に逆らい「万年救護本尊」の御形木御本尊を乱発しても、処罰されるどころか、僧として最高位の能化に叙せられることもあるのだ。このことは、末寺が御形木御本尊を印刷・授与しても、仏法上、罪はないことを示しているともいえる。
(『地涌』第701号 1993年10月3日 発行:日蓮正宗自由通信同盟)
宗門では本来、戒壇の大御本尊を書写するべきとして、大聖人御自筆の曼荼羅を形木に刻み印刷することを禁止し、御形木御本尊は日興上人以降の歴代の曼荼羅に限っている。
ところが末寺である保田妙本寺が、大聖人御真筆の御本尊を御形木にして檀徒に下付したのである。当然ながら法主の許可など受けていない。その末寺住職が能化に叙せられ、最大に厚遇されている。
「御本尊に関してはすべて御法主上人の許可が必要だった」とは、〝時と場合による〟ものらしい。結論すれば、宗門にとって御本尊は寺院経営のために存在し、仏法とは何の関連も無いものとされているのである。
所詮、「御法主上人」は〝教団経営の管理者〟に過ぎず、〝仏法上の最高意思決定者(=法主)〟の名に価する者ではない。
五十九世日亨法主に、次のような発言がある。
◇
ワシが猊下をなぜ二年でやめたと思う。猊下というもの、あれは政治家だよ。俗の奸物がなるものであって、学問をやる者がめざすところのものではありゃしない。
(『亨師談聴聞記』大橋慈譲記録 昭和二十六年 冬)
2.末寺の離反は日顕の悩乱が原因
宗史を遡れば前述の保田妙本寺は、大石寺四世日道に反目した日郷が、御真筆の「万年救護本尊」等の重宝とともに大石寺を離脱し、千葉県の吉浜に法華堂を建てたことに由来する。戦後、戸田会長の勧めにより大石寺に帰属したのであったが、日顕が学会を破門したそのわずか数年後、日蓮正宗から独立し、単立の宗教法人となった。
◇
この妙本寺離脱の背景としては、さまざまな要因が分析できる。以下、それを列記する。
① 日蓮正宗への帰一が、創価学会の仲立ちによるものであるだけに、日蓮正宗から創価学会を破門した日顕のもとに、このまま従属している因縁はない。
② 妙本寺は、かねてより一閻浮提総与の大御本尊を唯一最高の本尊とはみなさず、同寺に格護されている万年救護本尊の由緒は、それに勝るとの立場をとってきた。このほか、富士大石寺教学とさまざまな対立点がある。
③ 一九六三(昭和三十八)年、シアトルにおいて日顕が買春したことは、証拠と証人をクロウ夫人ならびに創価学会側が提示したことにより、誰の目にも明らかになった。 この腐敗堕落した〝法主〟のもとに隷属することは、日郷以来守られてきたとされる同寺の正当性を損なうと判断した。
④ 妙本寺から見れば同格の大本山の一つである大石寺の住持が、「唯授一人血脈相承」の〝法主〟として日蓮大聖人と同格とされる、いまの大石寺狂学についていけなかった。
⑤ 妙本寺格護の万年救護本尊を、平成三年八月二十九日に大石寺でおこなわれた全国教師講習会において、日顕が、「万年救護本尊も、日蓮大聖人に一切の法界を具え給う本仏の体相を直ちに顕示されるに至っていないのです。故に相対妙の法門においては未究竟に配せられるのであります」(『大日蓮』平成三年十月号)と断じたことに反発した。
このほかにも、妙本寺の内部的要因として、つぎのようなことを挙げることができる。
⑥ 近年、妙本寺に新たに所属してきた他寺法華講の脱講者の所持する大石寺御本尊については大石寺に返納させ、口唱の題目を表にしてきた。だが、それも長期の説得材料としては乏しく、急いで万年救護の形木の本尊を出さなければ、脱講者などが同寺にとどまらないとの内部事情があった。
⑦ 住職・鎌倉日櫻の次男・修郷が、ここ数年、離脱をしばしば口にしてきた。この言葉を信じてついてきた者のなかに、離脱が実行に移されないことを見て離反する動きが見えはじめた。
こうした、さまざまな要因が重なりあって妙本寺は離脱したのだが、その根本原因はといえば、ひとえに日顕の狂乱につきる。
(『地涌』第853号 1995年5月6日 ※番号は管理人が付与)
3.末寺における御本尊授与の実態
「本宗では昔から、御本尊に関してはすべて御法主上人の許可が必要だったのです」とは嘘である。
「御形木御本尊を末寺で作り、下付されたことがあっても、それは特殊な時代状況のもとで、御法主上人の許可を得て、一時的に行なわれたことです」とあるのも嘘である。
いくら宗門が嘘の固まりであろうと、ここまで嘘を塗りたくるとは。
宗門の言う「もってのほかの所業」とは、かつて末寺の判断で行なわれてきたことであり、時代は鉄道も自動車も整備された昭和の話である。決して「交通が不便であり、戦乱相(あい)継ぐ時代」ではない、さらに戦後ともなれば「特殊な時代状況」など何もない。
◇
(1)昭和初期
〇 戦前戦後を通じ、東京周辺の大寺院を主体に、例えば妙光寺は五十五世日布上人、法道院は五十六世日応上人、常在寺は五十七世日正上人など、各末寺から有縁の法主の御形木御本尊が授与されてきた。
〇 遠隔地の信徒の場合、御本尊の印刷された和紙がそのまま授与され、信徒が自分で表具店に出し、表装する場合もあった。
(2)昭和30年代前半/日淳上人の代
〇 東京・豊島区の法道院にある「大日蓮」で日寛上人御筆の御本尊を印刷。
〇 付き合いのある表具店を持つ末寺は表装前の和紙の状態の御本尊を、基本的には百枚一束で法道院から購入し、表装に出していた。
〇 専属の表具店をもたない末寺では、法道院から表具店に出してもらい、表装済みの御本尊を発送してもらっていた。
(3)昭和30年代後半/日達上人の代
〇 法道院の「大日蓮」で印刷された日寛上人御筆の御本尊を法道院が表具店に出し、表装済みの御本尊が法道院から各末寺へ発送されていた。
(4)昭和40年代~54年/日達上人の代
〇 日達上人御筆の御本尊を法道院で印刷。
〇 法道院が表具店に出し、表装済みの御本尊が法道院から各末寺へ発送されていた。
(5)昭和54年以降/日顕の代
〇 本山に御本尊を取り扱う内事部第三課が設置されてからは、富士宮市内のK印刷が日顕筆の御本尊を印刷。
〇 印刷会社から第三課に届けられた御本尊は、第三課の僧侶が印刷の状態と枚数を点検、印刷状態の悪いものを破棄。
〇 その後、群馬県のO表具店など数社の表具店に出し表装。
〇 表装された御本尊は、再び第三課に送り戻され、納品される。
〇 第三課では検査の後、別の段ボールに詰め換え、末寺の入金に応じて、宅配便で配送していた。
これらの実態は、長年宗門にいた多くの僧侶が認めている。
第三課に勤めていた複数の僧侶も「御形木御本尊の場合、表具の前にも後にも、日顕が祈念などすることは一度もありませんでした」と証言している。
これらの実態からも明らかなように、本山で、法主がすべての御本尊を「開眼」していたというのは、真っ赤なウソなのである。
(『創価新報』1993.10.20)
4.日寛上人こそ法主本仏論を排除した正師
宗門の引用した「仏法を相属して当代の法主の処に本尊の体有る可きなり」(『当家法則文抜書』)とは、典型的な「法主本仏論」の邪義である。
松岡幹夫氏(青年僧侶改革同盟)は、宗門の謗法義を以下の通り破折した。
◇
(1) 法主信仰は稚児貫首の時代に作られた逸脱義
考えてみれば、日寛上人は、それ以前の宗門に時折見られた「法主信仰」的な動きを、教学の面から完全に封じた法主である。日寛上人以前の宗門では、法主の権威がとりわけ強調された時期が2度ほどあった。
一度目は、12世の日鎮法主の代である。日鎮法主は、数え年の14歳で9世の日有上人から血脈相承を受けたとされる「稚児貫首」の一人である。この頃、京都・住本寺系の高僧で大石寺へ帰伏し、日有上人の門下となった左京阿闍梨・日教が、若年の日鎮法主の補佐役として活躍した。未熟な青年法主を支えるためか、日教はいくつかの著作の中で、ことのほか法主の権威を力説している。例えば、「類聚翰集私」では「当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり」「法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ」「当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ」「持経者は又当代の法主に値ひ奉る時・本仏に値ふなり」などと述べている。
他門の僧侶歴が長く、老境に至って日有上人に帰伏した日教は、宗開両祖の正法正義を唯一継承する門流が大石寺であることを強く意識し、この点からも、宗門法主への尊信を熱心に唱えたのだろう。その心情は理解できるが、だからといって、「本尊の体」を、御本尊よりも大石寺法主の内証に求めるならば、明らかに逸脱義である。日教は、「穆作抄」に「閣浮第一の御本尊も真実は用なり」と述べている。ここでいう「御本尊」が、大聖人の顕された御本尊を指すとすれば、日教の本尊観は〝法主が体で、御本尊は用〟ということになる。これは本末転倒の「法主信仰」である。いずれにせよ、日教の法主論は、後世の宗門に甚大な禍根を残した。なぜならば、時代が下るに従って、日教に似た言い回しで、「法主信仰」を唱える事例が目立ってくるからである。
(『法主信仰の打破――日寛上人の言論闘争』著者:松岡幹夫氏 掲載誌:『大白蓮華』 発行日:平成十七年九月一日)
(2)日寛上人は六巻抄から法主信仰を除外された
ともかく「法主信仰」は、日寛上人が活躍される頃には、宗門の一部に隠然と根を張っていた。「当家法則文抜書」と呼ばれる、日寛上人の文書がある。現代的に言うと、備忘録の類であろう。日寛上人はそこで、日教の「類聚翰集私」から、多くの箇所を抜き書きされている。中には、「当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり」「法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ」などの「法主即本尊」「法主即日蓮」の義を説いた文も含まれている。近年、日顕らは、日寛上人にも「法主信仰」があった、と言い、この「当家法則文抜書」をよく持ち出してくる。
しかし、「当家法則文抜書」は「抜書」であり、殊更に何かを主張した論書ではない。(中略)
じつは、日寛上人は、「類聚翰集私」が誰の作なのか分からず、宗門の教義規則=「当家御法則」の集成として認識され、抜き書きをされた。「類聚翰集私」を日教の作と断定したのは、近代の堀日亨上人であり、江戸時代の宗門人は知る由もなかった。日寛上人も、宗門古来の伝承として一応、それを受け止められたのであろう。しかし、日寛上人は、「法主即本尊」「法主即日蓮」という義を、「六巻抄」や文段類の中に、まったく取り入れられなかった。ここに、たとえ歴代先師の指南であっても、「法主信仰」につながり、正統教学を混乱させる教えは用いない、との日寛上人の姿勢がうかがい知れよう。
(同)
(3)日寛上人こそが大聖人と日興上人の正統な系譜
さらに日寛上人は、ご自身が相承を受けられた後でも、歴代法主だけは本仏と一体である、などと決して説かれなかった。最晩年に完成された再治本の「六巻抄」に、そのような主張は、どこにもみられない。むしろ「当家三衣抄」の最後の所で、日寛上人は、宗門の三宝を論ずるとともに、「行者謹んで次第を超越する勿れ」との誡めの言葉を残されている。これは、「法主即日蓮」の義などに基づく「法主信仰」を、上人が否定されていた証左である。
(同)
今回宗門が持ち出した『当家法則文抜書(ぬきがき)』は、宗門に法主信仰の毒を投げ込んだ要法寺系の流入僧、左京阿闍梨・日教の文書からの抜粋である。勿論このような邪教の言を日寛上人が信じられたわけではない。
日寛上人は法主信仰を否定された正師であられ、当然に日顕・日如を否定される御立場にある。学会が日寛上人御書写の御本尊を授与することは、学会の正義を顕彰し、かつ邪教・日顕宗を退治する象徴なのである。
(了)
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