日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:60」を破折する 連載87回
妄説:60 「御本尊の偉大なる功徳を実証した者」には御本尊を授与する資格があるのですか。
日蓮正宗七百年の歴史において、御本尊の偉大な功徳を実証された僧侶・信徒は数多くいますが、その人たちが勝手に御本尊を作り、授与したということは一度もありません。
およそ、自分が御本尊の偉大な功徳を実証したなどということ自体が、増上慢(ぞうじょうまん)の極みであり、この池田大作氏の慢心が、かつての清浄な創価学会を謗法の団体としてしまったのです。
日寛上人は『三重秘伝(さんじゅうひでん)抄』において、
「法体と修行を混同することは誤りである」(聖典 818頁 取意)
と破折されています。
すなわち「御本尊の偉大な功徳を実証する」ということは衆生の信心修行の領域であり、「御本尊の書写・授与」とは法体に関することであって唯授一人血脈付法の大導師の権能です。この二面を混同することは大きな誤りといわねばなりません。
第六十六世日達上人は
「長い間学会はよく宗門のために尽くして下さいました。その功徳は大きいのであります。しかし功績が大きいからといって教義を間違えて宗門から逸脱してしまえば、これはなにも役に立ちません」(達全 2-7-327頁)
と指南されています。
たとえ御本尊の功徳を実証したからといって、相伝なき凡夫が御本尊の権能にまで立ち入ることは絶対に許されないことです。
破折:
1.功徳を得られない者の嫉妬
「自分が御本尊の偉大な功徳を実証したなどということ自体が、増上慢(ぞうじょうまん)の極み」とは、間違いなく「狂乱の極み」に達した者の言葉である。
御本尊から功徳をいただいた事実を口にするのはいけないことか。学会員が幸福になるのは、妬ましいか。
増上慢とは、「いまだ悟りを得ていないのに、得たと思い上がること」である。宗門においては、御本尊に功徳をいただいた感謝を申し上げると、増上慢と呼ぶらしい。
◇
いいか。僧侶になった、出家したということ自体が信心のある結果だ。だから、これからは信心を深めることは一切、考えなくてよい。折伏もしなくてよい。題目もあげてはいけない。
(『実録小説 大石寺・大坊物語』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著)
上記は本山で得度した中学一年生の所化達が、先輩より最初に与えられる指導である。「出家したということ自体が信心のある結果だ」と言うこと自体、〝増上慢〟を説明するには十分である。
南条殿御返事(一五三五㌻)にいわく、
「あえてこれよりの心ざしのゆわ(弱)きにはあらず、各各の御信心のあつ(厚)くう(薄)すきにて候べし」
(あえてこちらの志が弱いためではない。あなた方の御信心が厚いか薄いかによるのである)
宗門の坊主は〝信心を深める必要の無い立場〟にあり、従って「御本尊の偉大な功徳を実証」する必要がない。よって信者が〝功徳をいただいた〟と言えば、自らは体得できない境地にあるゆえ「増上慢」と侮蔑し嫉妬する。まことに身勝手な連中であり、迷惑この上無い。
2.恩も御書も忘れた日顕
日顕は「増上慢」の意味が分からない。仏語を忘れたのである。
◇
全国宗務支院長会議で日顕は、池田名誉会長のことを「僣聖増上慢」と罵っている。日顕は僣聖増上慢について説かれた仏の言葉を忘れたのだ。愚かな「法主」である。恩も忘れれば、御書も忘れている。
「或は阿練若(あれんにゃ)に納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って自ら真の道を行ずと謂って人間を軽賎(きょうせん)する者有らん利養に貪著(とんじゃく)するが故に白衣(びゃくえ)の与(ため)に法を説いて世に恭敬(くぎょう)せらるることを為(う)ること六通の羅漢の如くならん。是の人悪心を懐(いだ)き常に世俗の事を念(おも)い名を阿練若に仮(かっ)て好んで我等が過(とが)を出さん、常に大衆の中に在って我等を毀(そし)らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗(ひぼう)して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂(い)わん、濁劫悪世の中には多く諸の恐怖(くふ)有らん悪鬼其身に入って我を罵詈毀辱(めりきにく)せん、濁世(じょくせ)の悪比丘は仏の方便随宜(ずいぎ)の所説の法を知らず悪口(あっく)し顰蹙(ひんじゅく)し数数擯出(しばしばひんずい)せられん」(開目抄)
【通解】あるいは人里離れた閑静な場所に衣をまとい、静かなところで真の仏道を行じていると思い、世事にあくせくする人間を軽賤する者があるであろう。私利私欲を得る目的で在家のために法を説いて、その結果、形のうえでは六通に羅漢のように尊敬されるであろう。この人は悪心をいだき、つねに世俗のことを思い、閑静な場所にいるとの理由だけで、自己保身のため、正法の者の悪口をならべたてるであろう。つねに大衆のなかにあって、正法の行者を毀るため、国王や大臣や婆羅門居士およびその他の比丘衆に向かって誹謗し、われらの悪を説いて、『これは邪見の人であり、外道の論義を説いている』と言うであろう。濁劫悪世のなかには多くのもろもろの恐怖する事件があり、悪鬼がその身に入ってわれら正法の行者を罵り、批判し、はずかしめるであろう。濁世の悪比丘は、仏が方便随宜の説法をしていることに迷い、経の浅深勝劣を知らず、正法の行者に悪口し、顔をしかめ、しばしばその居所を追い出すであろう。
これが「僣聖増上慢」についての依文であることは、日蓮大聖人の門下にとって常識である。「阿練若」とは人里離れた寺院のことで、すなわち僣聖増上慢とは、寺院に住む僧の中にこそ現れるのである。
僣聖増上慢の文字の如く「僣」は「狡」を意味し、ずるく悪賢い「聖」を装った者をいう。それに対して、在俗の魔は俗衆増上慢という。
この御書は、現在における日顕ら悪比丘のことである。日顕の身にあてはめて、ここまで正鵠を射た御文を読み、日顕は「不思議な因縁」を感じないのだろうか。
大衆のただ中にあって戦う在家指導者を指して「僣聖増上慢」とは、これにまさる妄語はない。
(『地涌』第410号 1992年4月24日)
日顕も宗門も、学会と池田名誉会長の恩を忘れ、人の心を失ったゆえに御書も忘れたのである。
3.法主は「凡夫」の名にも値しない
宗門は我ら信者を指して「相伝なき凡夫」と誹謗する。だが「大御本尊を信受すること」以上の相伝など、宗門に無かろう。それが最高・最大の相伝ではないか。
戦時中の軍部政府より神札受領を強制されたとき、甘受したのは宗門であった。軍部の弾圧から「唯授一人血脈付法の御法主上人」をお守りする、との美名のもとである。大聖人の仏法が腐(くた)されようとするとき、「相伝」の伝法者が何の役に立ったと言うのか。
謗法物の受領を断固拒否し、大聖人の正義を守ったのは学会である。ゆえに大聖人の信心の血脈は、学会にしか流れていない。
さらに言えば、「凡夫」であることに何の非があるか。
御義口伝巻下(七六六㌻)にいわく、
「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり」
宗門は「凡夫」の語を侮蔑の意で用いるが、それは大聖人の御正意に反するものである。
大聖人は、御自分を「凡夫」また「凡夫僧」と称された。さらには、御自身の出生を指して「海人が子」(本尊問答抄 三七〇㌻)、「賤民が子」(善無畏三蔵抄 八八三㌻)、「旃陀羅が子」(佐渡御勘気抄 八九一㌻)とまで言われたのである。宗門の輩は、到底大聖人の御心境を受け止められる境界にない。
4.「凡夫こそ本仏」の大宣言
池田名誉会長は、次の通り講じた。
◇
「凡夫でしかない」―そういう言い方は、とんでもない間違いです。
そういう錯覚の黒雲を、大いなる涼風で吹き払ったのが法華経です。「凡夫でしかない」どころか「凡夫こそ仏なのだ」と。「人間こそが最高に尊貴なのだ」と。
この「法華経の心」を究極まで表現されたのが日蓮大聖人の次の御言葉です。
「凡夫は体(たい)の三身にして本仏ぞかし、仏は用(ゆう)の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(御書一三五八頁)
「本仏と云(い)うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」(御書一三五九頁)
まさに「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」御言葉です。凡夫が「本仏」、仏はその〝影〟である「迹仏」にすぎないと言われるのだから。〝仏があって凡夫がある〟と思っていたら、そうではなく、〝凡夫があって仏がある〟のだと。
仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言です。
どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、実は凡夫=人間の「影」であり、「用(ゆう)(働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない――こんな宣言は他にありません。
まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。
歴史上、「人間のため」のはずの宗教が、いつのまにか「権威のため」の宗教に変貌してきた。その思想的な根っこは「神仏が上、人間が下」としたところにある。そう言えるのではないだろうか。
(『法華経の智慧』第五巻)
戸田会長は、宗門の僧俗差別の体質を捉えて言った。
◇
一、なげかわしきかな魔の僧侶よ、大御本尊様は大慈大悲の大聖人様が凡夫マル出しのその凡夫に賜わった事を知らざるか、僧衣をぬいで速かに地獄へ行け。
(『寸鉄』昭和二十八年十一月二十二日)
逆に宗門に尋ねるが、管長は「聖僧」であると言うか。昭和三十八年三月、宗門初の海外出張御授戒の出先で、売春婦と行為に及び、警察のお世話になる、このような者は「凡夫」の名にも値しないはずである(「妄説:57」(その三)(連載84回)参照)。
それでは管長を何と呼ぶか、御書を拝すれば次の通りお認めである。
松野殿御返事(一三八六㌻)にいわく、
「受けがたき人身を得て適(たまた)ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談(ゆげぞうだん)のみして明し暮さん者は法師の皮を著(き)たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一(ひとつ)もなし・法師と云う名字をぬすめる盗人(ぬすびと)なり、恥づべし恐るべし」
「凡夫」の名にも値しない者とは、「法師の皮を著たる畜生」「法師と云う名字をぬすめる盗人」であり、これが日顕宗管長である。
5.宗門の及ばない「御本尊の権能」
「御本尊の権能にまで立ち入る」と言うが、宗門が一方的に破門通告をし、勝手に縁を切った後に、今さら学会に命令しようとするのか。
学会授与の御本尊は、宗門を離脱した単立寺院・淨圓寺の御宝物である。すなわち淨圓寺は独立不羈であり、独自の「御本尊の権能」が存する。
よって宗門が、淨圓寺の「御本尊の権能にまで立ち入ることは絶対に許されないこと」であることは、当然分かりそうなものである。
我ら学会員を指して「相伝なき凡夫」と言うが、その「相伝」自体が御書に後加文したものばかり、捏造で塗り固めたものであったとは、何ともがっかりさせられるではないか。
ねたの割れた手品(「相伝」)と手品師(詐称法主=日顕・日如)に向けられる目は、冷たく覚めている。
戦時中の軍部と宗門との謗法により、あわや消えゆかんとした法灯を守ったのが、獄中の牧口会長と戸田理事長であった。以来、大聖人の仏法は学会によって持(たも)たれているのである。
持妙法華問答抄(四六六㌻)にいわく、
「持(たも)たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし」
大聖人の仏法を弘める者は、学会あるのみ。我らこそ「大聖人直伝の凡夫」である。
(了)
妄説:60 「御本尊の偉大なる功徳を実証した者」には御本尊を授与する資格があるのですか。
日蓮正宗七百年の歴史において、御本尊の偉大な功徳を実証された僧侶・信徒は数多くいますが、その人たちが勝手に御本尊を作り、授与したということは一度もありません。
およそ、自分が御本尊の偉大な功徳を実証したなどということ自体が、増上慢(ぞうじょうまん)の極みであり、この池田大作氏の慢心が、かつての清浄な創価学会を謗法の団体としてしまったのです。
日寛上人は『三重秘伝(さんじゅうひでん)抄』において、
「法体と修行を混同することは誤りである」(聖典 818頁 取意)
と破折されています。
すなわち「御本尊の偉大な功徳を実証する」ということは衆生の信心修行の領域であり、「御本尊の書写・授与」とは法体に関することであって唯授一人血脈付法の大導師の権能です。この二面を混同することは大きな誤りといわねばなりません。
第六十六世日達上人は
「長い間学会はよく宗門のために尽くして下さいました。その功徳は大きいのであります。しかし功績が大きいからといって教義を間違えて宗門から逸脱してしまえば、これはなにも役に立ちません」(達全 2-7-327頁)
と指南されています。
たとえ御本尊の功徳を実証したからといって、相伝なき凡夫が御本尊の権能にまで立ち入ることは絶対に許されないことです。
破折:
1.功徳を得られない者の嫉妬
「自分が御本尊の偉大な功徳を実証したなどということ自体が、増上慢(ぞうじょうまん)の極み」とは、間違いなく「狂乱の極み」に達した者の言葉である。
御本尊から功徳をいただいた事実を口にするのはいけないことか。学会員が幸福になるのは、妬ましいか。
増上慢とは、「いまだ悟りを得ていないのに、得たと思い上がること」である。宗門においては、御本尊に功徳をいただいた感謝を申し上げると、増上慢と呼ぶらしい。
◇
いいか。僧侶になった、出家したということ自体が信心のある結果だ。だから、これからは信心を深めることは一切、考えなくてよい。折伏もしなくてよい。題目もあげてはいけない。
(『実録小説 大石寺・大坊物語』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著)
上記は本山で得度した中学一年生の所化達が、先輩より最初に与えられる指導である。「出家したということ自体が信心のある結果だ」と言うこと自体、〝増上慢〟を説明するには十分である。
南条殿御返事(一五三五㌻)にいわく、
「あえてこれよりの心ざしのゆわ(弱)きにはあらず、各各の御信心のあつ(厚)くう(薄)すきにて候べし」
(あえてこちらの志が弱いためではない。あなた方の御信心が厚いか薄いかによるのである)
宗門の坊主は〝信心を深める必要の無い立場〟にあり、従って「御本尊の偉大な功徳を実証」する必要がない。よって信者が〝功徳をいただいた〟と言えば、自らは体得できない境地にあるゆえ「増上慢」と侮蔑し嫉妬する。まことに身勝手な連中であり、迷惑この上無い。
2.恩も御書も忘れた日顕
日顕は「増上慢」の意味が分からない。仏語を忘れたのである。
◇
全国宗務支院長会議で日顕は、池田名誉会長のことを「僣聖増上慢」と罵っている。日顕は僣聖増上慢について説かれた仏の言葉を忘れたのだ。愚かな「法主」である。恩も忘れれば、御書も忘れている。
「或は阿練若(あれんにゃ)に納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って自ら真の道を行ずと謂って人間を軽賎(きょうせん)する者有らん利養に貪著(とんじゃく)するが故に白衣(びゃくえ)の与(ため)に法を説いて世に恭敬(くぎょう)せらるることを為(う)ること六通の羅漢の如くならん。是の人悪心を懐(いだ)き常に世俗の事を念(おも)い名を阿練若に仮(かっ)て好んで我等が過(とが)を出さん、常に大衆の中に在って我等を毀(そし)らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗(ひぼう)して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂(い)わん、濁劫悪世の中には多く諸の恐怖(くふ)有らん悪鬼其身に入って我を罵詈毀辱(めりきにく)せん、濁世(じょくせ)の悪比丘は仏の方便随宜(ずいぎ)の所説の法を知らず悪口(あっく)し顰蹙(ひんじゅく)し数数擯出(しばしばひんずい)せられん」(開目抄)
【通解】あるいは人里離れた閑静な場所に衣をまとい、静かなところで真の仏道を行じていると思い、世事にあくせくする人間を軽賤する者があるであろう。私利私欲を得る目的で在家のために法を説いて、その結果、形のうえでは六通に羅漢のように尊敬されるであろう。この人は悪心をいだき、つねに世俗のことを思い、閑静な場所にいるとの理由だけで、自己保身のため、正法の者の悪口をならべたてるであろう。つねに大衆のなかにあって、正法の行者を毀るため、国王や大臣や婆羅門居士およびその他の比丘衆に向かって誹謗し、われらの悪を説いて、『これは邪見の人であり、外道の論義を説いている』と言うであろう。濁劫悪世のなかには多くのもろもろの恐怖する事件があり、悪鬼がその身に入ってわれら正法の行者を罵り、批判し、はずかしめるであろう。濁世の悪比丘は、仏が方便随宜の説法をしていることに迷い、経の浅深勝劣を知らず、正法の行者に悪口し、顔をしかめ、しばしばその居所を追い出すであろう。
これが「僣聖増上慢」についての依文であることは、日蓮大聖人の門下にとって常識である。「阿練若」とは人里離れた寺院のことで、すなわち僣聖増上慢とは、寺院に住む僧の中にこそ現れるのである。
僣聖増上慢の文字の如く「僣」は「狡」を意味し、ずるく悪賢い「聖」を装った者をいう。それに対して、在俗の魔は俗衆増上慢という。
この御書は、現在における日顕ら悪比丘のことである。日顕の身にあてはめて、ここまで正鵠を射た御文を読み、日顕は「不思議な因縁」を感じないのだろうか。
大衆のただ中にあって戦う在家指導者を指して「僣聖増上慢」とは、これにまさる妄語はない。
(『地涌』第410号 1992年4月24日)
日顕も宗門も、学会と池田名誉会長の恩を忘れ、人の心を失ったゆえに御書も忘れたのである。
3.法主は「凡夫」の名にも値しない
宗門は我ら信者を指して「相伝なき凡夫」と誹謗する。だが「大御本尊を信受すること」以上の相伝など、宗門に無かろう。それが最高・最大の相伝ではないか。
戦時中の軍部政府より神札受領を強制されたとき、甘受したのは宗門であった。軍部の弾圧から「唯授一人血脈付法の御法主上人」をお守りする、との美名のもとである。大聖人の仏法が腐(くた)されようとするとき、「相伝」の伝法者が何の役に立ったと言うのか。
謗法物の受領を断固拒否し、大聖人の正義を守ったのは学会である。ゆえに大聖人の信心の血脈は、学会にしか流れていない。
さらに言えば、「凡夫」であることに何の非があるか。
御義口伝巻下(七六六㌻)にいわく、
「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり」
宗門は「凡夫」の語を侮蔑の意で用いるが、それは大聖人の御正意に反するものである。
大聖人は、御自分を「凡夫」また「凡夫僧」と称された。さらには、御自身の出生を指して「海人が子」(本尊問答抄 三七〇㌻)、「賤民が子」(善無畏三蔵抄 八八三㌻)、「旃陀羅が子」(佐渡御勘気抄 八九一㌻)とまで言われたのである。宗門の輩は、到底大聖人の御心境を受け止められる境界にない。
4.「凡夫こそ本仏」の大宣言
池田名誉会長は、次の通り講じた。
◇
「凡夫でしかない」―そういう言い方は、とんでもない間違いです。
そういう錯覚の黒雲を、大いなる涼風で吹き払ったのが法華経です。「凡夫でしかない」どころか「凡夫こそ仏なのだ」と。「人間こそが最高に尊貴なのだ」と。
この「法華経の心」を究極まで表現されたのが日蓮大聖人の次の御言葉です。
「凡夫は体(たい)の三身にして本仏ぞかし、仏は用(ゆう)の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(御書一三五八頁)
「本仏と云(い)うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」(御書一三五九頁)
まさに「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」御言葉です。凡夫が「本仏」、仏はその〝影〟である「迹仏」にすぎないと言われるのだから。〝仏があって凡夫がある〟と思っていたら、そうではなく、〝凡夫があって仏がある〟のだと。
仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言です。
どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、実は凡夫=人間の「影」であり、「用(ゆう)(働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない――こんな宣言は他にありません。
まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。
歴史上、「人間のため」のはずの宗教が、いつのまにか「権威のため」の宗教に変貌してきた。その思想的な根っこは「神仏が上、人間が下」としたところにある。そう言えるのではないだろうか。
(『法華経の智慧』第五巻)
戸田会長は、宗門の僧俗差別の体質を捉えて言った。
◇
一、なげかわしきかな魔の僧侶よ、大御本尊様は大慈大悲の大聖人様が凡夫マル出しのその凡夫に賜わった事を知らざるか、僧衣をぬいで速かに地獄へ行け。
(『寸鉄』昭和二十八年十一月二十二日)
逆に宗門に尋ねるが、管長は「聖僧」であると言うか。昭和三十八年三月、宗門初の海外出張御授戒の出先で、売春婦と行為に及び、警察のお世話になる、このような者は「凡夫」の名にも値しないはずである(「妄説:57」(その三)(連載84回)参照)。
それでは管長を何と呼ぶか、御書を拝すれば次の通りお認めである。
松野殿御返事(一三八六㌻)にいわく、
「受けがたき人身を得て適(たまた)ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談(ゆげぞうだん)のみして明し暮さん者は法師の皮を著(き)たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一(ひとつ)もなし・法師と云う名字をぬすめる盗人(ぬすびと)なり、恥づべし恐るべし」
「凡夫」の名にも値しない者とは、「法師の皮を著たる畜生」「法師と云う名字をぬすめる盗人」であり、これが日顕宗管長である。
5.宗門の及ばない「御本尊の権能」
「御本尊の権能にまで立ち入る」と言うが、宗門が一方的に破門通告をし、勝手に縁を切った後に、今さら学会に命令しようとするのか。
学会授与の御本尊は、宗門を離脱した単立寺院・淨圓寺の御宝物である。すなわち淨圓寺は独立不羈であり、独自の「御本尊の権能」が存する。
よって宗門が、淨圓寺の「御本尊の権能にまで立ち入ることは絶対に許されないこと」であることは、当然分かりそうなものである。
我ら学会員を指して「相伝なき凡夫」と言うが、その「相伝」自体が御書に後加文したものばかり、捏造で塗り固めたものであったとは、何ともがっかりさせられるではないか。
ねたの割れた手品(「相伝」)と手品師(詐称法主=日顕・日如)に向けられる目は、冷たく覚めている。
戦時中の軍部と宗門との謗法により、あわや消えゆかんとした法灯を守ったのが、獄中の牧口会長と戸田理事長であった。以来、大聖人の仏法は学会によって持(たも)たれているのである。
持妙法華問答抄(四六六㌻)にいわく、
「持(たも)たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし」
大聖人の仏法を弘める者は、学会あるのみ。我らこそ「大聖人直伝の凡夫」である。
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №51~60
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:59」を破折する 連載86回
妄説:59 過去には学会の会館で御本尊を授与したことがありましたが、在家信徒にも授与の権能があるのですか。
信徒が勝手に御本尊を授与することはできません。
以前、日達上人の時代に、特別御形木(かたぎ)御本尊に限り、創価学会の会館で下付したことがありましたが、これは当時の状況を配慮された日達上人の許可を受けて行われたものです。
したがって、この場合は実質的には日達上人が会員に授与されたということであり、創価学会が授与したということではありません。
御当代日顕上人の代になってからは、従来どおり末寺を通じて下付申請の手続きをとり、末寺において下付されています。
日達上人が『化儀抄略解(りゃくげ)』に
「守(まもり)本尊や、常住本尊の下附を、本山へ登山参詣して願うにしても、まず第一に自分の直接の師匠に話をして、その師匠の添書をもらって、本山に願い出て、始めて許可せられてこそ、功徳が備わるのであります」(達全 1-4-512頁)
と述べられているとおり、末寺(所属寺院)を通して、御本尊の授与がなされるのが、本来のあり方なのです。
破折:
1.『化儀抄略解』は「特別御形木御本尊」を制限せず
日達法主は『化儀抄略解』において「守(まもり)本尊や、常住本尊」の下附にかかる定めを述べたが、「特別御形木御本尊」は含めていない。それゆえ特別御形木御本尊を「創価学会の会館で下付した」のであり、すなわち「本来のあり方」である。それは現在においても変わることはない。
それでもまだ「本来のあり方」を云々するなら、宗門はただちに環境を「本来」の姿に復旧すべきである。
〇 学会の破門を解き、一連の経緯を謝罪すること
〇 池田名誉会長を総講頭に復帰させ名誉回復すること
〇 破壊した正本堂・大客殿等、先師日達法主が建立した堂宇伽藍の全てを再興すること
〇 平成十一年十二月十九日付で改悪した『日蓮正宗要義』を廃止し、原状回復すること
〇「面授相承」を詐称し法水写瓶を汚した日顕と、後を襲った日如の二人を除籍すること
以上まだ足りないが、ひとまず宗門は上述の件を果たした上で、「本来のあり方」との言葉を口にするも良かろう。
だが、出来ようはずはない。〝覆水盆に返らず〟の諺を、宗門は身をもって知るべきである。
三大秘法禀承事(一〇二三㌻)にいわく、
「叡山に座主(ざす)始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言(おうげん)を本(もと)として我が山の戒法をあなづり戯論(けろん)とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒(いたずら)に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」
一山が土泥と化した史実は、古くて新しい話である。所詮は後代の人師・論師が、祖師の大法を破ってしまうのである。
佐渡御書(九五七㌻)にいわく、
「悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食(はむ)等云云」
2.学会こそ唯一の「僧宝」
「信徒が勝手に御本尊を授与することはできません」とは、日顕が悩乱する以前のことである。前項に例示した通りの「本来のあり方」が宗門から失われたことは、すべて日顕の所業に由来する。
何度も指摘することであるが、宗門はかつての日蓮正宗ではない。日顕は血脈相承を詐称した〝ニセ法主〟であり、宗義も作り変えられた〝ニセ宗門〟である。我らは大聖人の仏法を、偽物に託すわけにはいかないのだ。
◇
日蓮正宗が日顕の悩乱によって完全なる邪教と化した今日、一大和合僧団・創価学会は唯一、御本仏の正統の法脈を受け継ぐ団体であるゆえに、仏法僧の「三宝(さんぼう)」のうちの「僧宝」の徳を有すると考えるべきである。
もとより「僧宝」とは、別して日興上人御一人であられる。しかしながら、総じての立場で言えば、全ての僧俗は信心・行躰(ぎょうたい)の如何(いかん)によって、「僧宝」の一分に加えられる。とすれば、真の和合僧団・創価学会にこそ「僧宝」の意義が存することは、未曾有(みぞう)の世界広布の歴史が、おのずから証明するところである。
そもそも「僧」(サンガ)という仏教語は、出家者の個々を指す言葉ではなく、出家・在家の「四衆(ししゅ)」が和合した集団全体を意味していた。釈尊の時代、教団における全ての決定は教団の総意で行われてきた。ゆえに、その教団の存在自体が重視され、三宝の一つとして、その「つどい」が「僧宝」に位置付けられていた。
すなわち、釈尊の時代の三宝帰依(きえ)の原形となる言葉を見てみると、「わたしはブッダに帰依します。法に帰依します。つどいに帰依します」(『ゴータマ・ブッダ』一巻、中村元 五六六ページ)と訳されており、「僧宝」の原義は信仰する者の「つどい」であった。ところが、中国に仏教が伝来してから、「つどい」を意味する「僧」が、いつしか個人の比丘の名称として、呼ばれるようになったのである。
しかれば、別して「僧宝」であられる日興上人の「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可(べ)き事」(御書一六一八ページ)との御精神のままに、ひたすら広宣流布に生き抜いている真の和合僧団・創価学会こそ、現時において唯一「僧宝」の意義と資格を有するのである。さらに、和合僧団の原義は前段のごとく在家・出家の「四衆」にわたるものであり、学会と、広宣流布の使命と戦いを共有する私ども改革同盟の僧侶も、その一員であると自覚している。
そうした意義から、創価学会が唯一の和合僧団の自覚において御本尊の授与という「法体」の弘通を行うことは、「僧宝」として「令法久住」の使命を果たすことにも通じ、御本仏大聖人・日興上人の御心に適(かな)う浄業(じょうぎょう)と私ども一同、堅く信ずるものである。
(「創価学会の御本尊授与に関する法門上の見解」日蓮正宗・青年僧侶改革同盟 『聖教新聞』1993.09.20)
3.学会は宗門の「柱」であった
弓谷 宗門にとって学会が、どれほど「柱」の存在だったか。堀日亨上人も〝今の宗門から創価学会を取ったら、何が残るか。何も残らないではないか〟と厳然と言われていたじゃないか。
杉山 日淳上人も池田先生に「戸田先生のおかげで、創価学会のおかげで、大法は清浄に、今日までまいりました。本宗は、戸田先生、創価学会の大恩を永久に忘れてはなりません。こう、細井(=日達法主)に言っておきました」と言われていたと、うかがっている。
熊谷 日達法主も「今また大行尊霊(=南条時光)に継ぐ大篤信の偉人ありそれ法華講総講頭池田大作なり」「一大和合僧団創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き謗言を恣にする者ありとせば、其籍、宗の内外に在るを問はず、全て是れ広布の浄業を阻礙する大僻見の人、罪を無間に開く者と謂ふべし」等と称賛されていた。
高柳 日達法主の言葉に従えば、日顕こそが「大僻見」であり「罪を無間に開く者」じゃないの!
秋谷 柱を取ったら、家は潰れるに決まっている。だから宗門は「おしまい」だと言うんだ。
(発言者:秋谷会長、高柳婦人部長、弓谷男子部長、熊谷関西男子部長 『聖教新聞』2004年9月23日)
学会が去った後の宗門に残るは、「日顕の謗法」のみである。
(了)
妄説:59 過去には学会の会館で御本尊を授与したことがありましたが、在家信徒にも授与の権能があるのですか。
信徒が勝手に御本尊を授与することはできません。
以前、日達上人の時代に、特別御形木(かたぎ)御本尊に限り、創価学会の会館で下付したことがありましたが、これは当時の状況を配慮された日達上人の許可を受けて行われたものです。
したがって、この場合は実質的には日達上人が会員に授与されたということであり、創価学会が授与したということではありません。
御当代日顕上人の代になってからは、従来どおり末寺を通じて下付申請の手続きをとり、末寺において下付されています。
日達上人が『化儀抄略解(りゃくげ)』に
「守(まもり)本尊や、常住本尊の下附を、本山へ登山参詣して願うにしても、まず第一に自分の直接の師匠に話をして、その師匠の添書をもらって、本山に願い出て、始めて許可せられてこそ、功徳が備わるのであります」(達全 1-4-512頁)
と述べられているとおり、末寺(所属寺院)を通して、御本尊の授与がなされるのが、本来のあり方なのです。
破折:
1.『化儀抄略解』は「特別御形木御本尊」を制限せず
日達法主は『化儀抄略解』において「守(まもり)本尊や、常住本尊」の下附にかかる定めを述べたが、「特別御形木御本尊」は含めていない。それゆえ特別御形木御本尊を「創価学会の会館で下付した」のであり、すなわち「本来のあり方」である。それは現在においても変わることはない。
それでもまだ「本来のあり方」を云々するなら、宗門はただちに環境を「本来」の姿に復旧すべきである。
〇 学会の破門を解き、一連の経緯を謝罪すること
〇 池田名誉会長を総講頭に復帰させ名誉回復すること
〇 破壊した正本堂・大客殿等、先師日達法主が建立した堂宇伽藍の全てを再興すること
〇 平成十一年十二月十九日付で改悪した『日蓮正宗要義』を廃止し、原状回復すること
〇「面授相承」を詐称し法水写瓶を汚した日顕と、後を襲った日如の二人を除籍すること
以上まだ足りないが、ひとまず宗門は上述の件を果たした上で、「本来のあり方」との言葉を口にするも良かろう。
だが、出来ようはずはない。〝覆水盆に返らず〟の諺を、宗門は身をもって知るべきである。
三大秘法禀承事(一〇二三㌻)にいわく、
「叡山に座主(ざす)始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言(おうげん)を本(もと)として我が山の戒法をあなづり戯論(けろん)とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒(いたずら)に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」
一山が土泥と化した史実は、古くて新しい話である。所詮は後代の人師・論師が、祖師の大法を破ってしまうのである。
佐渡御書(九五七㌻)にいわく、
「悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食(はむ)等云云」
2.学会こそ唯一の「僧宝」
「信徒が勝手に御本尊を授与することはできません」とは、日顕が悩乱する以前のことである。前項に例示した通りの「本来のあり方」が宗門から失われたことは、すべて日顕の所業に由来する。
何度も指摘することであるが、宗門はかつての日蓮正宗ではない。日顕は血脈相承を詐称した〝ニセ法主〟であり、宗義も作り変えられた〝ニセ宗門〟である。我らは大聖人の仏法を、偽物に託すわけにはいかないのだ。
◇
日蓮正宗が日顕の悩乱によって完全なる邪教と化した今日、一大和合僧団・創価学会は唯一、御本仏の正統の法脈を受け継ぐ団体であるゆえに、仏法僧の「三宝(さんぼう)」のうちの「僧宝」の徳を有すると考えるべきである。
もとより「僧宝」とは、別して日興上人御一人であられる。しかしながら、総じての立場で言えば、全ての僧俗は信心・行躰(ぎょうたい)の如何(いかん)によって、「僧宝」の一分に加えられる。とすれば、真の和合僧団・創価学会にこそ「僧宝」の意義が存することは、未曾有(みぞう)の世界広布の歴史が、おのずから証明するところである。
そもそも「僧」(サンガ)という仏教語は、出家者の個々を指す言葉ではなく、出家・在家の「四衆(ししゅ)」が和合した集団全体を意味していた。釈尊の時代、教団における全ての決定は教団の総意で行われてきた。ゆえに、その教団の存在自体が重視され、三宝の一つとして、その「つどい」が「僧宝」に位置付けられていた。
すなわち、釈尊の時代の三宝帰依(きえ)の原形となる言葉を見てみると、「わたしはブッダに帰依します。法に帰依します。つどいに帰依します」(『ゴータマ・ブッダ』一巻、中村元 五六六ページ)と訳されており、「僧宝」の原義は信仰する者の「つどい」であった。ところが、中国に仏教が伝来してから、「つどい」を意味する「僧」が、いつしか個人の比丘の名称として、呼ばれるようになったのである。
しかれば、別して「僧宝」であられる日興上人の「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可(べ)き事」(御書一六一八ページ)との御精神のままに、ひたすら広宣流布に生き抜いている真の和合僧団・創価学会こそ、現時において唯一「僧宝」の意義と資格を有するのである。さらに、和合僧団の原義は前段のごとく在家・出家の「四衆」にわたるものであり、学会と、広宣流布の使命と戦いを共有する私ども改革同盟の僧侶も、その一員であると自覚している。
そうした意義から、創価学会が唯一の和合僧団の自覚において御本尊の授与という「法体」の弘通を行うことは、「僧宝」として「令法久住」の使命を果たすことにも通じ、御本仏大聖人・日興上人の御心に適(かな)う浄業(じょうぎょう)と私ども一同、堅く信ずるものである。
(「創価学会の御本尊授与に関する法門上の見解」日蓮正宗・青年僧侶改革同盟 『聖教新聞』1993.09.20)
3.学会は宗門の「柱」であった
弓谷 宗門にとって学会が、どれほど「柱」の存在だったか。堀日亨上人も〝今の宗門から創価学会を取ったら、何が残るか。何も残らないではないか〟と厳然と言われていたじゃないか。
杉山 日淳上人も池田先生に「戸田先生のおかげで、創価学会のおかげで、大法は清浄に、今日までまいりました。本宗は、戸田先生、創価学会の大恩を永久に忘れてはなりません。こう、細井(=日達法主)に言っておきました」と言われていたと、うかがっている。
熊谷 日達法主も「今また大行尊霊(=南条時光)に継ぐ大篤信の偉人ありそれ法華講総講頭池田大作なり」「一大和合僧団創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き謗言を恣にする者ありとせば、其籍、宗の内外に在るを問はず、全て是れ広布の浄業を阻礙する大僻見の人、罪を無間に開く者と謂ふべし」等と称賛されていた。
高柳 日達法主の言葉に従えば、日顕こそが「大僻見」であり「罪を無間に開く者」じゃないの!
秋谷 柱を取ったら、家は潰れるに決まっている。だから宗門は「おしまい」だと言うんだ。
(発言者:秋谷会長、高柳婦人部長、弓谷男子部長、熊谷関西男子部長 『聖教新聞』2004年9月23日)
学会が去った後の宗門に残るは、「日顕の謗法」のみである。
(了)
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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:58」を破折する 連載85回
妄説:58 現在も末寺で御本尊を下付されますが、末寺の僧侶にも御本尊下付の権限があるのですか。
日蓮正宗の末寺は、すべて総本山大石寺を根本としております。また末寺の住職は、日蓮正宗管長(御法主上人)の任命によって就任します。
これは本宗の末寺はすべて総本山の所有するところであり、末寺住職は御法主上人の名代(みょうだい)として各地に派遣され、定められた寺務・法務を代行することを意味しています。
日有上人の『化儀抄』七十四条に
「本寺(ほんじ)直の弘通所(ぐづうしょ)にて経を持つ真俗の衆は数代を経れども本寺の直弟(じきてい)たるべし」(富要 1-71頁)
とあり、日達上人も
「その寺の本山法主上人の御代理人たる住職」(達全 1-4-557頁)
と明確に指南されています。
本宗の末寺において、住職が御本尊を下付するのは、御法主上人の代理として許可を受けたうえでのことなのです。
破折:
1.末寺による弟子檀那の私物化禁止事項
「住職が御本尊を下付するのは、御法主上人の代理として許可を受けたうえでのこと」と言うのは、あくまで学会が出現してからの話である。それまでは僧侶の得度も、御本尊の発行及び授与も、すべて〝末寺の住職の判断〟で行われていたのである。
宗門には次の法規が伝えられるものの、実際には「有名無実」であった。
「一、本寺直(じき)の弘通所にて経を持つ真俗の衆は数代を経(ふ)れども本寺の直弟たるべし、其の所の代官の私の弟子には有るべからず、既に代官と云ふ故に初従此仏菩薩結縁の道理爾(しか)らしむる故なり云云」(九世日有師『化儀抄』七十四条)
(本寺〈本山〉直轄の弘通所において信心を持つ僧俗は、何代経ったところで、本寺の直弟子である。弘通所の代官の私的な弟子ではない。それはあくまで代官〈代理〉の故である。初めの仏菩薩に従って結縁した衆生は、再び同じ仏菩薩によって成仏へと完成されねばならないとの道理は、故あることである)
妙楽大師の法華文句記に「初従此仏菩薩結縁(初め此の仏菩薩に従って結縁し還(また)此の仏菩薩に於いて成就す)」とある(「曾谷殿御返事」一〇五六㌻参照)。この「本従の師」とは日蓮大聖人の御事である。
だが弘通所などと言う、現在には無い室町時代の規定を持ち出してきて、宗門はどうしたいと言うのか。
本書の趣旨を現代に読み替えれば、末寺が所属する弟子・檀那を私物化することを戒めたものである。だが実際には、末寺同士で有縁の法主の御形木本尊を印刷し、競い合ってきたのが事実であった。
2.東京の末寺がそれぞれ御本尊を印刷
創価学会が誕生する前は、大石寺は財政的に窮乏していた。ところが、東京の寺院はある程度の檀家がいて、収入が安定していた。東京の末寺は財力があったから、御本尊を印刷できたのである。
だから、多くの住職は、田舎の本山に赴任するよりも、東京の末寺の住職になることが夢であった。財力があったということは宗内に対する影響力も強く、本山は東京の末寺がすることに対して、いちいち口をだすことはなかった。
そして、品川の妙光寺は五十五世日布法主、豊島区の法道院は五十六世日応法主、同じく豊島区の常在寺は五十七世日正法主と、それぞれ有縁の法主の御形木本尊を印刷して、信徒に授与していた。
当時の様子を「さながら群雄割拠の感があった」とある老僧が語っていた。
(『新改革通信』115号 平成23年10月25日)
宗門はわざわざ『化儀抄』を持ち出してきて、何とするつもりか。東京の末寺住職は、みな高位の僧である。それが宗門古来の規範たる『化儀抄』に背いてきた事実が、明らかにされただけのことではないか。
これに限らず、宗門が自己の主張を証するために出してくる依処・依文と言ったものは、見当外れのものか、あるいは切り文にして原書の意を曲げるか、のどちらかである。
3.〝末寺得度〟から〝本山得度〟へ
昔は、本尊のことだけでなく、宗内の様々なことが末寺中心であった。葬儀のやり方など様々な化儀はその寺の住職によって異なり、後年、化儀を統一するために『教師必携』が作られた。
その背景にあったのは、末寺での得度制度であった。今、本山で行われている年分得度制度(十二歳からの得度)が出来たのは、日達法主の時代で、それ以前は末寺の住職のもとで出家する末寺得度であった。
ここから、自然に有力寺院を中心とした派閥が出来上がり、多くの弟子を持つ東京の寺院は影響力を持つようになったのである。
ところが創価学会が誕生し、信徒の急激な増加により、僧侶を増やす必要が出てきた。そこで、日達法主の時代より、本山で一括して得度する年分得度制度が出来上がった。
この年分得度制度により、僧侶はすべて当代の法主の弟子となり、末寺の派閥が解消されていったのだ。
(同)
4.本山の窮乏を救うために始まった登山会
戦後、財政的に窮乏していた本山は、その打開策として、富士宮市や観光協会と話し合い、本山の観光地化を進めていた。
そのことを知った戸田会長は、大石寺が他宗のように宗教を売り物にする観光地となることを恐れて月例登山を提案した。
そして、昭和二十七年から創価学会の月例登山が始まり、その御供養で本山は運営が賄えるようになった。
今、宗門は〝登山をしないと成仏しない〟などと言っているが、かつては登山会などなく、御開扉を受けることが出来たのは、一部の僧侶でしかなかった。
(同)
5.創価学会の誕生により、本山らしくなってきた大石寺
このように、創価学会が始めた登山会の供養などで本山は財政的に豊かになり、また、本山での得度制度が確立して本山在勤の僧侶も増え、ようやく大石寺は本山らしくなってきたのである。
明治三十七年の政府調査によると、身延派の寺院数は、三六八五。住職数は二九八二。信徒数は約百八万人。これに対して、大石寺の寺院数は、八十七。住職数は四十七。無住の寺が半分ちかくあったことになる。そして信徒数は、約二万八千四百人。日蓮正宗がいかに弱小教団であったか明白だ。創価学会がなければ、宗門の存続は難しかったのである。
(同)
(了)
妄説:58 現在も末寺で御本尊を下付されますが、末寺の僧侶にも御本尊下付の権限があるのですか。
日蓮正宗の末寺は、すべて総本山大石寺を根本としております。また末寺の住職は、日蓮正宗管長(御法主上人)の任命によって就任します。
これは本宗の末寺はすべて総本山の所有するところであり、末寺住職は御法主上人の名代(みょうだい)として各地に派遣され、定められた寺務・法務を代行することを意味しています。
日有上人の『化儀抄』七十四条に
「本寺(ほんじ)直の弘通所(ぐづうしょ)にて経を持つ真俗の衆は数代を経れども本寺の直弟(じきてい)たるべし」(富要 1-71頁)
とあり、日達上人も
「その寺の本山法主上人の御代理人たる住職」(達全 1-4-557頁)
と明確に指南されています。
本宗の末寺において、住職が御本尊を下付するのは、御法主上人の代理として許可を受けたうえでのことなのです。
破折:
1.末寺による弟子檀那の私物化禁止事項
「住職が御本尊を下付するのは、御法主上人の代理として許可を受けたうえでのこと」と言うのは、あくまで学会が出現してからの話である。それまでは僧侶の得度も、御本尊の発行及び授与も、すべて〝末寺の住職の判断〟で行われていたのである。
宗門には次の法規が伝えられるものの、実際には「有名無実」であった。
「一、本寺直(じき)の弘通所にて経を持つ真俗の衆は数代を経(ふ)れども本寺の直弟たるべし、其の所の代官の私の弟子には有るべからず、既に代官と云ふ故に初従此仏菩薩結縁の道理爾(しか)らしむる故なり云云」(九世日有師『化儀抄』七十四条)
(本寺〈本山〉直轄の弘通所において信心を持つ僧俗は、何代経ったところで、本寺の直弟子である。弘通所の代官の私的な弟子ではない。それはあくまで代官〈代理〉の故である。初めの仏菩薩に従って結縁した衆生は、再び同じ仏菩薩によって成仏へと完成されねばならないとの道理は、故あることである)
妙楽大師の法華文句記に「初従此仏菩薩結縁(初め此の仏菩薩に従って結縁し還(また)此の仏菩薩に於いて成就す)」とある(「曾谷殿御返事」一〇五六㌻参照)。この「本従の師」とは日蓮大聖人の御事である。
だが弘通所などと言う、現在には無い室町時代の規定を持ち出してきて、宗門はどうしたいと言うのか。
本書の趣旨を現代に読み替えれば、末寺が所属する弟子・檀那を私物化することを戒めたものである。だが実際には、末寺同士で有縁の法主の御形木本尊を印刷し、競い合ってきたのが事実であった。
2.東京の末寺がそれぞれ御本尊を印刷
創価学会が誕生する前は、大石寺は財政的に窮乏していた。ところが、東京の寺院はある程度の檀家がいて、収入が安定していた。東京の末寺は財力があったから、御本尊を印刷できたのである。
だから、多くの住職は、田舎の本山に赴任するよりも、東京の末寺の住職になることが夢であった。財力があったということは宗内に対する影響力も強く、本山は東京の末寺がすることに対して、いちいち口をだすことはなかった。
そして、品川の妙光寺は五十五世日布法主、豊島区の法道院は五十六世日応法主、同じく豊島区の常在寺は五十七世日正法主と、それぞれ有縁の法主の御形木本尊を印刷して、信徒に授与していた。
当時の様子を「さながら群雄割拠の感があった」とある老僧が語っていた。
(『新改革通信』115号 平成23年10月25日)
宗門はわざわざ『化儀抄』を持ち出してきて、何とするつもりか。東京の末寺住職は、みな高位の僧である。それが宗門古来の規範たる『化儀抄』に背いてきた事実が、明らかにされただけのことではないか。
これに限らず、宗門が自己の主張を証するために出してくる依処・依文と言ったものは、見当外れのものか、あるいは切り文にして原書の意を曲げるか、のどちらかである。
3.〝末寺得度〟から〝本山得度〟へ
昔は、本尊のことだけでなく、宗内の様々なことが末寺中心であった。葬儀のやり方など様々な化儀はその寺の住職によって異なり、後年、化儀を統一するために『教師必携』が作られた。
その背景にあったのは、末寺での得度制度であった。今、本山で行われている年分得度制度(十二歳からの得度)が出来たのは、日達法主の時代で、それ以前は末寺の住職のもとで出家する末寺得度であった。
ここから、自然に有力寺院を中心とした派閥が出来上がり、多くの弟子を持つ東京の寺院は影響力を持つようになったのである。
ところが創価学会が誕生し、信徒の急激な増加により、僧侶を増やす必要が出てきた。そこで、日達法主の時代より、本山で一括して得度する年分得度制度が出来上がった。
この年分得度制度により、僧侶はすべて当代の法主の弟子となり、末寺の派閥が解消されていったのだ。
(同)
4.本山の窮乏を救うために始まった登山会
戦後、財政的に窮乏していた本山は、その打開策として、富士宮市や観光協会と話し合い、本山の観光地化を進めていた。
そのことを知った戸田会長は、大石寺が他宗のように宗教を売り物にする観光地となることを恐れて月例登山を提案した。
そして、昭和二十七年から創価学会の月例登山が始まり、その御供養で本山は運営が賄えるようになった。
今、宗門は〝登山をしないと成仏しない〟などと言っているが、かつては登山会などなく、御開扉を受けることが出来たのは、一部の僧侶でしかなかった。
(同)
5.創価学会の誕生により、本山らしくなってきた大石寺
このように、創価学会が始めた登山会の供養などで本山は財政的に豊かになり、また、本山での得度制度が確立して本山在勤の僧侶も増え、ようやく大石寺は本山らしくなってきたのである。
明治三十七年の政府調査によると、身延派の寺院数は、三六八五。住職数は二九八二。信徒数は約百八万人。これに対して、大石寺の寺院数は、八十七。住職数は四十七。無住の寺が半分ちかくあったことになる。そして信徒数は、約二万八千四百人。日蓮正宗がいかに弱小教団であったか明白だ。創価学会がなければ、宗門の存続は難しかったのである。
(同)
(了)
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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:57」を破折する(その三) 連載84回
妄説:57 「創価学会を破門し、広布を破壊しようとした法主に御本尊を授与する資格はない」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当ですか。
この質問には①創価学会の破門について、②御法主上人が広布を破壊したか否かについて、③御法主上人の御本尊授与の資格について、の三点が含まれています。
①の学会の破門について。
第六十六世日達上人は、昭和五十四年三月三十一日の妙観会において
「長い間において学会が、宗門の法義の上において間違ってきてしまった、それを指摘してなんとか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい(中略)功績が大きいからといって教義を間違えて宗門から逸脱(いつだつ)してしまえば、これはなにも役に立ちません」(達全 2-7-327頁)
と仰せられていました。残念ながら、この日達上人の危惧(きぐ)が日顕上人の時代に現実のものとなったのです。
このため日顕上人は
「創価学会を破門する必然性があったため、宗門はそれを断行したのである」(大日蓮 553-48頁)
と仰せのように、宗門古来の信仰に照らして厳正に学会を破門処分にしたのです。
②の広布の破壊について。
池田大作氏が率(ひき)いる創価学会が、本当に正しい正宗信徒であったのか、また正しく日蓮正宗の仏法を広めていたのかどうか、まことに疑問です。また昭和四十五年頃に「八百万」といっていた信徒数が二十年以上経過した現在、どれほど増加しているのか、はなはだ疑問です。広布の進展を妨げているのは宗門や御法主上人ではなく、池田氏の指導性と学会の体質にあったというほうが適当でしょう。
③の法主に授与の資格がないという主張は、単なる言いがかりであり、本宗本来の教義に照らせば、御本尊授与に関することは、唯授一人の血脈相承を受けられた御法主上人お一人に限られることは、永遠不変の鉄則なのです。
破折:
11. シアトル買春事件
(1)事件の発覚と裁判の顛末
テレビの報道番組で「C作戦」文書が放映され、「かまし発言」で日顕の衣の下の素顔が暴かれたが、またしても日顕の旧悪が暴露された。
◇
平成四年六月、『創価新報』に宗内僧侶をも驚かす記事が掲載された。通称「シアトル買春事件」である。
昭和三十八年三月十九日、日顕は栄えある第一回海外出張御授戒の途上、アメリカ西海岸の都市シアトルを訪ねた。その夜、事件が起こった。日顕は売春婦とトラブルを起こして警察の厄介になり、ある婦人部員に助けられたというのが告発の内容であった。
その婦人部員、ヒロエ・クロウ夫人は僧俗和合のため、そのことをずっと隠してきた。しかし、学会の破門を機に、日顕に対する怒りの告発として、すべてを話す決意をしたのである。
この告発に対し、日顕は「ホテルから一歩も出ていない」と反論し、『創価新報』の記事が名誉毀損にあたるとして、平成五年十二月、創価学会および池田名誉会長に対し二十億円の損害賠償と謝罪広告を求めて東京地裁に提訴した。
ところが、平成七年九月、告発をしたクロウ夫人の出廷直前になって、突如、日顕はこの「ホテルから一歩も出ていない」との主張を翻し、シアトルでは「一人で散策し飲酒して帰室」(平成七年九月二十九日、宗門側準備書面)と、ホテルから外出したことを認めた。
裁判は進み、平成九年十二月二十二日、日顕が証言台に立ち、その後、三回にわたり反対尋問が行われた。そして、東京地裁は、六年余に及ぶ厳正な審理を経て、平成十二年三月二十一日、判決で二十カ所にわたる日顕の証言の矛盾を指摘したうえ、日顕が「売春婦と性行為を行った」と認定、日顕側の全面敗訴の断を下した。
これに対し日顕側は、「どんな無理を押し通しても創価学会を勝たせようという、本当に一方的な、不公平極まる判決だった」と猛反発し、東京高裁に控訴した。
しかし、日顕側は、控訴審においても、一審の判決を覆す有力な証拠を出すことができず、裁判所は、日顕側に第一審と同じように「訴えの取り下げ」を強く勧告した。日顕側は創価学会側に二十億円の損害賠償を求め、一審二審を通して、約千四百万円もの印紙を貼って訴えてきたが、高裁から再び、訴え取り下げの勧告を受け、平成十四年一月三十一日、訴えを取り下げて和解した。自らの訴えを取り下げたのだから、それは実質的な日顕の敗北であった。
(『転落の法主』渡辺雄範著 2004年4月28日発行)
(2)渡辺慈済師の回顧と裁判記録
宗門では、未だに〝学会による捏造〟であるとか、和解した以上は〝地裁判決も無効〟である、などの妄論を吐いている。
しかし日顕が当時アメリカの出張先で事件を起こした事実は、すぐに本山の知るところとなったのである。
また高裁で和解したからと言って、一度裁定が下った地裁判決が無効となるはずも無い。日顕の汚名は、地裁判決として永久に記し置かれるのである。
以下、渡辺慈済師の回顧と裁判の記録とを確認する。
① 本山では昔から事件を知っていた
当時、宗内でも、日顕がアメリカで何か不祥事を起こしたことについて、知る人は知っていた。
私が耳にしたのは、事件から一か月経った時だった。
三十八年四月下旬、日顕が出張御授戒から帰国して初めての年表委員会が本山で開かれた。三日間の会議を終え、解散下山になったが、私は菅野慈雲氏とともに、彼の宿坊の本住坊に泊まることになった。その時、彼が「慈済さん知ってるかい?」と切り出したのが、事件のことである。
「教学部長が、アメリカで事件を起こして、大失敗したそうだよ!」
常日頃、日顕から頭ごなしに言われていたこともあって、この時とばかりに慈雲氏は私に告げたのであった。
(『日蓮正宗〝落日の真因〟』渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
日達法主の娘婿であった菅野慈雲は、いち早く日顕の不祥事を耳にしていたのである。
② 本山の期待を背負っていた日顕
この三十八年の第一回海外出張御授戒は、宗門にとって記念すべき歴史的行事だった。宗門始まって以来、初めて海外に僧侶が派遣され御授戒が行なわれるわけで、世界広布のうえからも後世に誇る輝かしい行事であり、宗門ではこぞって大成功を期待していた。
とくに、妙玄院(故・高野日深能化)の法類においては、この頃、慶事が重なり、二月には、日顕の一番弟子の八木信瑩(しんえい)氏と妙玄院の三男・高野法雄(ほうおう)氏の婚儀が相次いで行なわれ、これに続く日顕の海外出張であった。
日達上人も、「信雄房日慈(にちじ)」にと、記念の常住御本尊をわざわざ認(したた)められ、内事部や宗務院に詰めていた我々も皆で祝福し、本山や東京で壮行会を盛大に行なって、送り出したのである。
日顕も出発の折には、こう挨拶していた。
「池田会長先生の要請にもとづき、また畏くも御法主上人猊下の御名(ぎょめい)により、そのお使いとして、世界広宣流布の第一歩としてのこの出張授戒に対し、その意義に真にめざめ、なおかつ日蓮正宗の僧侶としての自覚のもとに、アメリカの将来の広宣流布達成の、ほんとうのもととなるような気持をもって御授戒いたし、また現地の方々と語り合い、使命を遂行していきたい」
このように、「猊下のお使いとして」「日蓮正宗の僧侶として」、使命を遂行したいと言っておきながら、日顕は現地で、まったく逆の、語るに落ちる破廉恥事件を起こしていたのである。
(同)
② 破廉恥事件で歴史的行事を汚す
事件の詳しい内容が明らかになったのは、それから二十九年を経た平成四年六月。ちょうど私が離脱する四か月前であった。
――出張御授戒は、三月十六日、日顕が大村寿顕氏とともに羽田を出発。ハワイ、ロサンゼルスは二人一緒で行動し、ロス以降、日顕は北回りでシアトルやシカゴ等を訪問、南回りの大村氏とはニューヨークで合流し、その後サンフランシスコを回って、三月三十日、日本に帰国するという行程だった。
日顕が事件を起こしたのは、大村氏と分かれて、最初に向かったシアトルである。
三月十九日、シアトルに着いた日顕は、御授戒を終え、支部長のヒロエ・クロウさんに宿舎のオリンピック・ホテルに送り届けてもらった。ところが、深夜、一人で外出したのである。
二十日午前二時頃、歓楽街だった七番街とパイク通りの交差点付近で、複数の売春婦に囲まれ、金の支払いで争いになっていたところを、パトカーで巡回していた二人の警察官に発見された。警察官からの電話で、現場に駆けつけたクロウ夫人に助けられ、ホテルに送り届けられたのである。
警察官の説明では、日顕は「一人の売春婦に、お金を払うからヌード写真を撮らせてくれといって、部屋に入った」「もう一人の売春婦とは行為を終えている。そのことによるマネートラブルである」というのである――
アメリカを訪れ、ハワイで、ロサンゼルスで、シアトルで、何百人という現地の人たちが、真剣に仏法を求めている姿を目の当たりにしながら、その歴史的な法務に携わる誇りと喜びを忘れ、売春婦とトラブルを起こすことなど、言語道断である。「授戒」に行った者が、自ら「破戒」していたとは大恥であり、宗門の記念すべき行事を汚し、地に堕としめたことは、決して許されるものではない。
(同)
④ 日顕の嘘が次々打ち砕かれる
何よりも白眉だったのが、嘘に嘘を上塗りして作りあげていた事件当夜の日顕のアリバイが、完全に崩れてしまったことだ。
日顕は当初、事件があった夜は「ホテルから一歩も出ていない」と言っていた。ところが裁判の過程のなかで、「一人で散策し、飲酒して帰室、同月二十日午前一時には就寝した」――つまり、ホテルから外出はしたものの、事件があった御前二時頃にはもうホテルで寝ていた、と話を作りかえていた。この変更自体、それまで嘘をついていたことを認めるものだが、法廷では新たに作られた話さえも、完膚なきまでに打ち砕かれるのである。
日顕は法廷に当時の「手帳」を提出したが、シアトルの夜についてはこう記されている。
「夜、渡米已来始めて一人歩きし、あちこち尋ねつゝ、とうゝゝウィスキーにありつく。久しぶりで酔った。こちらで聞くことは判ってくれるが、むこうの返事はとたんに判らない。身振り手振りでやっとわかる程度。我ながら情ない。さあねよう、
午后1時、
Mrs.クロウヒロヱの例
主人の遺言『骨を大石寺に(中略)
あくまで遺言によって、火葬にするよう守りぬいたこと」
これをもとに、日顕は、事件当夜は「カルーセル・ルーム」という店でウイスキーをダブルで二杯くらい飲んで、ホテルに帰り、手帳に「夜、渡米已来」の個所から「~~さあねよう」までを書いて寝た。しばらくして目が覚め、手帳に「Mrs.クロウヒロヱの例」から「~~守りぬいたこと」までを書き、前の部分に戻って、「午后1時」(「午前一時」の書き損じという)と就寝時間を書き、朝十時まで寝ていた。だから、事件があった午前二時頃は現場にいなかったと、法廷で証言したのである。
これは、日顕の性格を知る者から見れば、明らかに不自然な話であった。酔っ払って寝た者が、途中で目が覚めたからといって、はたして手帳に書き物をするだろうか。筆跡をみても「夜、渡米已来」の前の部分は乱雑で、「Mrs.クロウ・ヒロエの例」以降は整然としている。しかも、同じ時に書いたという「午后1時」のインクと、「Mrs.クロウヒロヱの例」以下のインクは違う質のものであることが、鑑定の結果、判明した。
案の定、反対尋問で、これが嘘の作り話であることが暴かれてしまうのである。
(同)
⑤ 証拠として出した「手帳」が命取り
日顕が酒を飲んだという「カルーセル・ルーム」は、実は、肩や太ももをあらわにした水着のような服装のウェイトレスが働き、売春婦も出入りするようないかがわしい店だった。法廷でこれを学会側の弁護士から指摘されると、日顕はしどろもどろ。当初「入った中の感じは、広い感じで、明るい感じでありました」と言っていながら、今度は「中に入らなかったんです」「店の中へ入ったという記憶もなければ」「店に入らなかったとさっきから言っております」と、まったく正反対のことを言い出す始末だった。
クルクル話の内容を変えること自体、嘘をついている証拠である。
また、この店は「事件現場から相当な距離がある」と宗内には説明されていたが、事件現場からわずか五百三十メートル、徒歩で六分で行ける距離だったことを突かれた時も、日顕は、「いや、私に聞かれても困りますね。あなたがこういう写真を見て近いんだと思えば、そうなんでしょう」と、極めて近い距離にあることを認めざるをえなかった。
さらに、「手帳」に書かれた「午后1時」の文字は、鑑定によって、真裏に記載された次の訪問地であるシカゴの記載よりも後に書き加えられたものであることが判明した。
しかも、この「手帳」の発見の経緯も嘘だったことが明らかになった。日顕は、この「手帳」について、出張御授戒から帰国後、京都・平安寺への転任準備の忙しさのなかで、引っ越し荷物の中に突っ込んでしまい、以来、その存在すら忘れていた、平成七年三月、大石寺出張所を西片から世田谷に移転する際、荷物の整理をしていたら偶然、妻の政子が「手帳」を発見したと述べていたが、実は平安寺に赴任以降も、この「手帳」のことを覚えており、手元に置いていたのである。
学会側から、昭和三十八年四月、日顕が平安寺で大村氏とともに「聖教新聞」のインタビューに答えている写真が提出され、その日顕の手元には例の「手帳」がしっかり写っており、引っ越しの荷物に紛れて、存在自体を忘れていたなどというのは大嘘だったことが証明されたのである。
日顕もここまで立証されるとは思ってもみなかっただろうが、記念すべき第一回海外出張御授戒で不祥事を起こすという宗門にとって恥ずべき人間であっただけでなく、その事実を隠そうとして嘘に嘘を重ね、法廷でも平気で偽証し、法廷に出す証拠さえ工作する宗教者にあるまじき狡猾な人間であったことを、後世の歴史に永遠に残すことになったのである。
(同)
12.正本堂の破壊
シアトル買春事件による裁判は、日顕が恥を満天下に晒した結果で終わった。だがまさかそれが正本堂の破壊につながろうとは、誰にも思いつかなかった。
◇
裁判では衣の権威は通用しない。日顕はかつてない激しい感情の波に翻弄される。クロウ夫人への怒り、創価学会への恨み、告発された恥ずかしさ、証言台に立つ恐怖、自分の権威が失墜する不安。そのすべてが絡み合いながら日顕を襲った。
日顕は耐えがたい苦しみと屈辱から逃れるため、前代未聞の挙に出る。正本堂の破壊を決行したのだ。
正本堂は昭和四十七年十月、全世界の八百万人信徒によって建立された、世界でも比類のない世紀の大宗教建築物である。名誉会長は工事を何度も視察し、その数は五百回を超えている。会員の真心の供養に対する責任感から足を運んだのである。
シアトル裁判から人々の目をそらせたい。そして同時に、名誉会長と学会員に自分の怖さを教えてやる。そのためには、今、正本堂の解体を決定せねば意味がない。その日顕の焦りが、宗門史に否、世界の宗教史上に永遠に残る愚行を引き起こしたのである。
(前出『転落の法主』)
(了)
妄説:57 「創価学会を破門し、広布を破壊しようとした法主に御本尊を授与する資格はない」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当ですか。
この質問には①創価学会の破門について、②御法主上人が広布を破壊したか否かについて、③御法主上人の御本尊授与の資格について、の三点が含まれています。
①の学会の破門について。
第六十六世日達上人は、昭和五十四年三月三十一日の妙観会において
「長い間において学会が、宗門の法義の上において間違ってきてしまった、それを指摘してなんとか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい(中略)功績が大きいからといって教義を間違えて宗門から逸脱(いつだつ)してしまえば、これはなにも役に立ちません」(達全 2-7-327頁)
と仰せられていました。残念ながら、この日達上人の危惧(きぐ)が日顕上人の時代に現実のものとなったのです。
このため日顕上人は
「創価学会を破門する必然性があったため、宗門はそれを断行したのである」(大日蓮 553-48頁)
と仰せのように、宗門古来の信仰に照らして厳正に学会を破門処分にしたのです。
②の広布の破壊について。
池田大作氏が率(ひき)いる創価学会が、本当に正しい正宗信徒であったのか、また正しく日蓮正宗の仏法を広めていたのかどうか、まことに疑問です。また昭和四十五年頃に「八百万」といっていた信徒数が二十年以上経過した現在、どれほど増加しているのか、はなはだ疑問です。広布の進展を妨げているのは宗門や御法主上人ではなく、池田氏の指導性と学会の体質にあったというほうが適当でしょう。
③の法主に授与の資格がないという主張は、単なる言いがかりであり、本宗本来の教義に照らせば、御本尊授与に関することは、唯授一人の血脈相承を受けられた御法主上人お一人に限られることは、永遠不変の鉄則なのです。
破折:
11. シアトル買春事件
(1)事件の発覚と裁判の顛末
テレビの報道番組で「C作戦」文書が放映され、「かまし発言」で日顕の衣の下の素顔が暴かれたが、またしても日顕の旧悪が暴露された。
◇
平成四年六月、『創価新報』に宗内僧侶をも驚かす記事が掲載された。通称「シアトル買春事件」である。
昭和三十八年三月十九日、日顕は栄えある第一回海外出張御授戒の途上、アメリカ西海岸の都市シアトルを訪ねた。その夜、事件が起こった。日顕は売春婦とトラブルを起こして警察の厄介になり、ある婦人部員に助けられたというのが告発の内容であった。
その婦人部員、ヒロエ・クロウ夫人は僧俗和合のため、そのことをずっと隠してきた。しかし、学会の破門を機に、日顕に対する怒りの告発として、すべてを話す決意をしたのである。
この告発に対し、日顕は「ホテルから一歩も出ていない」と反論し、『創価新報』の記事が名誉毀損にあたるとして、平成五年十二月、創価学会および池田名誉会長に対し二十億円の損害賠償と謝罪広告を求めて東京地裁に提訴した。
ところが、平成七年九月、告発をしたクロウ夫人の出廷直前になって、突如、日顕はこの「ホテルから一歩も出ていない」との主張を翻し、シアトルでは「一人で散策し飲酒して帰室」(平成七年九月二十九日、宗門側準備書面)と、ホテルから外出したことを認めた。
裁判は進み、平成九年十二月二十二日、日顕が証言台に立ち、その後、三回にわたり反対尋問が行われた。そして、東京地裁は、六年余に及ぶ厳正な審理を経て、平成十二年三月二十一日、判決で二十カ所にわたる日顕の証言の矛盾を指摘したうえ、日顕が「売春婦と性行為を行った」と認定、日顕側の全面敗訴の断を下した。
これに対し日顕側は、「どんな無理を押し通しても創価学会を勝たせようという、本当に一方的な、不公平極まる判決だった」と猛反発し、東京高裁に控訴した。
しかし、日顕側は、控訴審においても、一審の判決を覆す有力な証拠を出すことができず、裁判所は、日顕側に第一審と同じように「訴えの取り下げ」を強く勧告した。日顕側は創価学会側に二十億円の損害賠償を求め、一審二審を通して、約千四百万円もの印紙を貼って訴えてきたが、高裁から再び、訴え取り下げの勧告を受け、平成十四年一月三十一日、訴えを取り下げて和解した。自らの訴えを取り下げたのだから、それは実質的な日顕の敗北であった。
(『転落の法主』渡辺雄範著 2004年4月28日発行)
(2)渡辺慈済師の回顧と裁判記録
宗門では、未だに〝学会による捏造〟であるとか、和解した以上は〝地裁判決も無効〟である、などの妄論を吐いている。
しかし日顕が当時アメリカの出張先で事件を起こした事実は、すぐに本山の知るところとなったのである。
また高裁で和解したからと言って、一度裁定が下った地裁判決が無効となるはずも無い。日顕の汚名は、地裁判決として永久に記し置かれるのである。
以下、渡辺慈済師の回顧と裁判の記録とを確認する。
① 本山では昔から事件を知っていた
当時、宗内でも、日顕がアメリカで何か不祥事を起こしたことについて、知る人は知っていた。
私が耳にしたのは、事件から一か月経った時だった。
三十八年四月下旬、日顕が出張御授戒から帰国して初めての年表委員会が本山で開かれた。三日間の会議を終え、解散下山になったが、私は菅野慈雲氏とともに、彼の宿坊の本住坊に泊まることになった。その時、彼が「慈済さん知ってるかい?」と切り出したのが、事件のことである。
「教学部長が、アメリカで事件を起こして、大失敗したそうだよ!」
常日頃、日顕から頭ごなしに言われていたこともあって、この時とばかりに慈雲氏は私に告げたのであった。
(『日蓮正宗〝落日の真因〟』渡辺慈済著 発行所:第三文明社)
日達法主の娘婿であった菅野慈雲は、いち早く日顕の不祥事を耳にしていたのである。
② 本山の期待を背負っていた日顕
この三十八年の第一回海外出張御授戒は、宗門にとって記念すべき歴史的行事だった。宗門始まって以来、初めて海外に僧侶が派遣され御授戒が行なわれるわけで、世界広布のうえからも後世に誇る輝かしい行事であり、宗門ではこぞって大成功を期待していた。
とくに、妙玄院(故・高野日深能化)の法類においては、この頃、慶事が重なり、二月には、日顕の一番弟子の八木信瑩(しんえい)氏と妙玄院の三男・高野法雄(ほうおう)氏の婚儀が相次いで行なわれ、これに続く日顕の海外出張であった。
日達上人も、「信雄房日慈(にちじ)」にと、記念の常住御本尊をわざわざ認(したた)められ、内事部や宗務院に詰めていた我々も皆で祝福し、本山や東京で壮行会を盛大に行なって、送り出したのである。
日顕も出発の折には、こう挨拶していた。
「池田会長先生の要請にもとづき、また畏くも御法主上人猊下の御名(ぎょめい)により、そのお使いとして、世界広宣流布の第一歩としてのこの出張授戒に対し、その意義に真にめざめ、なおかつ日蓮正宗の僧侶としての自覚のもとに、アメリカの将来の広宣流布達成の、ほんとうのもととなるような気持をもって御授戒いたし、また現地の方々と語り合い、使命を遂行していきたい」
このように、「猊下のお使いとして」「日蓮正宗の僧侶として」、使命を遂行したいと言っておきながら、日顕は現地で、まったく逆の、語るに落ちる破廉恥事件を起こしていたのである。
(同)
② 破廉恥事件で歴史的行事を汚す
事件の詳しい内容が明らかになったのは、それから二十九年を経た平成四年六月。ちょうど私が離脱する四か月前であった。
――出張御授戒は、三月十六日、日顕が大村寿顕氏とともに羽田を出発。ハワイ、ロサンゼルスは二人一緒で行動し、ロス以降、日顕は北回りでシアトルやシカゴ等を訪問、南回りの大村氏とはニューヨークで合流し、その後サンフランシスコを回って、三月三十日、日本に帰国するという行程だった。
日顕が事件を起こしたのは、大村氏と分かれて、最初に向かったシアトルである。
三月十九日、シアトルに着いた日顕は、御授戒を終え、支部長のヒロエ・クロウさんに宿舎のオリンピック・ホテルに送り届けてもらった。ところが、深夜、一人で外出したのである。
二十日午前二時頃、歓楽街だった七番街とパイク通りの交差点付近で、複数の売春婦に囲まれ、金の支払いで争いになっていたところを、パトカーで巡回していた二人の警察官に発見された。警察官からの電話で、現場に駆けつけたクロウ夫人に助けられ、ホテルに送り届けられたのである。
警察官の説明では、日顕は「一人の売春婦に、お金を払うからヌード写真を撮らせてくれといって、部屋に入った」「もう一人の売春婦とは行為を終えている。そのことによるマネートラブルである」というのである――
アメリカを訪れ、ハワイで、ロサンゼルスで、シアトルで、何百人という現地の人たちが、真剣に仏法を求めている姿を目の当たりにしながら、その歴史的な法務に携わる誇りと喜びを忘れ、売春婦とトラブルを起こすことなど、言語道断である。「授戒」に行った者が、自ら「破戒」していたとは大恥であり、宗門の記念すべき行事を汚し、地に堕としめたことは、決して許されるものではない。
(同)
④ 日顕の嘘が次々打ち砕かれる
何よりも白眉だったのが、嘘に嘘を上塗りして作りあげていた事件当夜の日顕のアリバイが、完全に崩れてしまったことだ。
日顕は当初、事件があった夜は「ホテルから一歩も出ていない」と言っていた。ところが裁判の過程のなかで、「一人で散策し、飲酒して帰室、同月二十日午前一時には就寝した」――つまり、ホテルから外出はしたものの、事件があった御前二時頃にはもうホテルで寝ていた、と話を作りかえていた。この変更自体、それまで嘘をついていたことを認めるものだが、法廷では新たに作られた話さえも、完膚なきまでに打ち砕かれるのである。
日顕は法廷に当時の「手帳」を提出したが、シアトルの夜についてはこう記されている。
「夜、渡米已来始めて一人歩きし、あちこち尋ねつゝ、とうゝゝウィスキーにありつく。久しぶりで酔った。こちらで聞くことは判ってくれるが、むこうの返事はとたんに判らない。身振り手振りでやっとわかる程度。我ながら情ない。さあねよう、
午后1時、
Mrs.クロウヒロヱの例
主人の遺言『骨を大石寺に(中略)
あくまで遺言によって、火葬にするよう守りぬいたこと」
これをもとに、日顕は、事件当夜は「カルーセル・ルーム」という店でウイスキーをダブルで二杯くらい飲んで、ホテルに帰り、手帳に「夜、渡米已来」の個所から「~~さあねよう」までを書いて寝た。しばらくして目が覚め、手帳に「Mrs.クロウヒロヱの例」から「~~守りぬいたこと」までを書き、前の部分に戻って、「午后1時」(「午前一時」の書き損じという)と就寝時間を書き、朝十時まで寝ていた。だから、事件があった午前二時頃は現場にいなかったと、法廷で証言したのである。
これは、日顕の性格を知る者から見れば、明らかに不自然な話であった。酔っ払って寝た者が、途中で目が覚めたからといって、はたして手帳に書き物をするだろうか。筆跡をみても「夜、渡米已来」の前の部分は乱雑で、「Mrs.クロウ・ヒロエの例」以降は整然としている。しかも、同じ時に書いたという「午后1時」のインクと、「Mrs.クロウヒロヱの例」以下のインクは違う質のものであることが、鑑定の結果、判明した。
案の定、反対尋問で、これが嘘の作り話であることが暴かれてしまうのである。
(同)
⑤ 証拠として出した「手帳」が命取り
日顕が酒を飲んだという「カルーセル・ルーム」は、実は、肩や太ももをあらわにした水着のような服装のウェイトレスが働き、売春婦も出入りするようないかがわしい店だった。法廷でこれを学会側の弁護士から指摘されると、日顕はしどろもどろ。当初「入った中の感じは、広い感じで、明るい感じでありました」と言っていながら、今度は「中に入らなかったんです」「店の中へ入ったという記憶もなければ」「店に入らなかったとさっきから言っております」と、まったく正反対のことを言い出す始末だった。
クルクル話の内容を変えること自体、嘘をついている証拠である。
また、この店は「事件現場から相当な距離がある」と宗内には説明されていたが、事件現場からわずか五百三十メートル、徒歩で六分で行ける距離だったことを突かれた時も、日顕は、「いや、私に聞かれても困りますね。あなたがこういう写真を見て近いんだと思えば、そうなんでしょう」と、極めて近い距離にあることを認めざるをえなかった。
さらに、「手帳」に書かれた「午后1時」の文字は、鑑定によって、真裏に記載された次の訪問地であるシカゴの記載よりも後に書き加えられたものであることが判明した。
しかも、この「手帳」の発見の経緯も嘘だったことが明らかになった。日顕は、この「手帳」について、出張御授戒から帰国後、京都・平安寺への転任準備の忙しさのなかで、引っ越し荷物の中に突っ込んでしまい、以来、その存在すら忘れていた、平成七年三月、大石寺出張所を西片から世田谷に移転する際、荷物の整理をしていたら偶然、妻の政子が「手帳」を発見したと述べていたが、実は平安寺に赴任以降も、この「手帳」のことを覚えており、手元に置いていたのである。
学会側から、昭和三十八年四月、日顕が平安寺で大村氏とともに「聖教新聞」のインタビューに答えている写真が提出され、その日顕の手元には例の「手帳」がしっかり写っており、引っ越しの荷物に紛れて、存在自体を忘れていたなどというのは大嘘だったことが証明されたのである。
日顕もここまで立証されるとは思ってもみなかっただろうが、記念すべき第一回海外出張御授戒で不祥事を起こすという宗門にとって恥ずべき人間であっただけでなく、その事実を隠そうとして嘘に嘘を重ね、法廷でも平気で偽証し、法廷に出す証拠さえ工作する宗教者にあるまじき狡猾な人間であったことを、後世の歴史に永遠に残すことになったのである。
(同)
12.正本堂の破壊
シアトル買春事件による裁判は、日顕が恥を満天下に晒した結果で終わった。だがまさかそれが正本堂の破壊につながろうとは、誰にも思いつかなかった。
◇
裁判では衣の権威は通用しない。日顕はかつてない激しい感情の波に翻弄される。クロウ夫人への怒り、創価学会への恨み、告発された恥ずかしさ、証言台に立つ恐怖、自分の権威が失墜する不安。そのすべてが絡み合いながら日顕を襲った。
日顕は耐えがたい苦しみと屈辱から逃れるため、前代未聞の挙に出る。正本堂の破壊を決行したのだ。
正本堂は昭和四十七年十月、全世界の八百万人信徒によって建立された、世界でも比類のない世紀の大宗教建築物である。名誉会長は工事を何度も視察し、その数は五百回を超えている。会員の真心の供養に対する責任感から足を運んだのである。
シアトル裁判から人々の目をそらせたい。そして同時に、名誉会長と学会員に自分の怖さを教えてやる。そのためには、今、正本堂の解体を決定せねば意味がない。その日顕の焦りが、宗門史に否、世界の宗教史上に永遠に残る愚行を引き起こしたのである。
(前出『転落の法主』)
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №51~60
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:57」を破折する(その二) 連載83回
妄説:57 「創価学会を破門し、広布を破壊しようとした法主に御本尊を授与する資格はない」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当ですか。
この質問には①創価学会の破門について、②御法主上人が広布を破壊したか否かについて、③御法主上人の御本尊授与の資格について、の三点が含まれています。
①の学会の破門について。
第六十六世日達上人は、昭和五十四年三月三十一日の妙観会において
「長い間において学会が、宗門の法義の上において間違ってきてしまった、それを指摘してなんとか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい(中略)功績が大きいからといって教義を間違えて宗門から逸脱(いつだつ)してしまえば、これはなにも役に立ちません」(達全 2-7-327頁)
と仰せられていました。残念ながら、この日達上人の危惧(きぐ)が日顕上人の時代に現実のものとなったのです。
このため日顕上人は
「創価学会を破門する必然性があったため、宗門はそれを断行したのである」(大日蓮 553-48頁)
と仰せのように、宗門古来の信仰に照らして厳正に学会を破門処分にしたのです。
②の広布の破壊について。
池田大作氏が率(ひき)いる創価学会が、本当に正しい正宗信徒であったのか、また正しく日蓮正宗の仏法を広めていたのかどうか、まことに疑問です。また昭和四十五年頃に「八百万」といっていた信徒数が二十年以上経過した現在、どれほど増加しているのか、はなはだ疑問です。広布の進展を妨げているのは宗門や御法主上人ではなく、池田氏の指導性と学会の体質にあったというほうが適当でしょう。
③の法主に授与の資格がないという主張は、単なる言いがかりであり、本宗本来の教義に照らせば、御本尊授与に関することは、唯授一人の血脈相承を受けられた御法主上人お一人に限られることは、永遠不変の鉄則なのです。
破折:
5.「C作戦」を謀議
日顕宗が学会に対し謀議した内容が、後年明らかとなった。
◇
『創価新報』(平成六年一月一日付)がスクープした「河辺メモ」。「河辺メモ」とは、〝日顕の懐刀〟である日蓮正宗参議、北海道大布教区宗務大支院長の河辺慈篤みずから記録した極秘のメモである。
この「河辺メモ」には、「C作戦」について、日顕を中心にしての会議が平成二年七月に二度にわたりおこなわれたことが記録されている。
この二度の会議とは、平成二年七月十六日に文京区西片にある大石寺東京出張所でおこなわれた「西片会議」と、二日後の十八日に大石寺大書院でおこなわれた「御前会議」のことである。
(『地涌』第723号 1994年1月4日)
「C作戦」の名称の由来は、何であったか。
◇
「ところで、丑寅勤行の件はどうなったんだ」
日顕は丑寅勤行の参加者の数にこだわっていた。日顕は丑寅勤行の参加者数によって、態度が違う。大勢の時は挨拶するが、学会の登山会が終わり、参加者が二、三十人の時などは、挨拶もせず傲然と退座する。日顕にとって丑寅勤行は己の権威を誇示する場である。だから、参加者数の増減が自分の権威にかかわる重要なこだわりとなっていた。
「はい、それが、『丑寅勤行の参加人数の問題などは実務に関することであり、猊下にいちいち心配をおかけしないよう、連絡会議で取り上げていきましょう』と言うだけで……」
実際には、藤本はその場で「そうですね」と答えてしまったが、そのことは伏せて、学会の言い分だけを伝えた。
「何! ワシの意見を無視するというのか」
しばらく、日顕は黙ったままだった。皆、日顕の次の言葉を待つしかなかった。
「やはり、駄目だな」
投げ捨てるように日顕が言った。他の者たちにも、その意味が分かった。僧侶の批判を始めた時点で、学会の運命は決まった。過去にどんな功績があっても関係ない。僧侶にたてつく者は「悪」なのである。
「学会と戦うしかない、ということですね。では学会のGをとって、『G作戦』ですな」
河辺は早く話を進めようと思い、わざとそう言った。すると、日顕はまるで以前から考えていたように、即座に答えた。
「いや、違う。Cだ。『C作戦』だ」
「『C作戦』?」
「そうだ。カットのCだ。あいつの首を切るからカットだ!」
「なるほど、『C作戦』ですか……」
(『実録小説 転落の法主』青年僧侶改革同盟・渡辺雄範著 2004年4月28日発行)
池田名誉会長の首を切る作戦だ、と日顕が言い放った時である。だが、平成三年九月二十日号の『週刊文春』の学会への中傷記事の中に、「『池田打倒』を画策した『C作戦』なるシナリオ」という一文が出てしまった。誰が週刊誌に漏らしたのかは分からなかった。
日顕は平成四年十一月二十九日に大阪市の浄妙寺において親教をおこなったとき、このように述べている。
「宗門が創価学会を破門いたしましたのは、当然、それなりの正しい理由が存するのであります。それに対し、彼等は『C作戦』というものがあったというようなことを盛んに宣伝しております。皆さん方も『C作戦』などという変な言葉を聞かれたことがあるかと思いますが、そのような事実は全くございません。あくまで日蓮正宗の信徒として、どこまでも正しく教導していきたいという気持ちは、登座の当初からあったのであります。(中略)
その後も私は、正しく教導をしたいと常に念願してきたわけでありますから、宗門に『C作戦』などというものがあって、創価学会を切るということ、いわゆる破門に処するなどという考え方は全くなかったのであります」
(『大日蓮』平成五年一月号より引用)
日顕はC作戦の存在そのものを否定し、言い訳に終始した。ところが、前述の河辺メモが発覚したのである。
6.河辺メモの内容
画像は「C作戦-創価学会分離作戦」より
(画像の右端が映らないので、全体像は上記ファイルをクリックして下さい)
○、御前会議の流れ.
早瀬部長よりの連絡会議報告の後、池田追放の線で進られ.
河辺=それでは、この作戦はG作戦だ.
猊下=それは違う、Cだよ
○ともかく21日の池田の目通り山だ.
○もう少し池田の証拠を集めて、C作戦の時を待つ
○教師講習会の時に『6.30の教義上の問題を通して
財務問題(供養問題)を重点に』猊下・宗務院が
話す.
河辺=C作戦というが、いずれはやらなくてはならない問
題としても、今この問題をやる亊は両刃の剣を持つ
亊になる。やるとしても、もつと分析が必要、それ
よりも大亊な事は、僧侶の綱紀自粛が必要、この作
戦を実行しても、返す刀で、この綱紀問題で学会に
やられる.
猊下=お前は分析・分析というが、分析して何ができると
云うんだ、=激しく怒つたように河辺を叱責=
(平成六年一月一日付『創価新報』掲載の「河辺メモ」より一部抜粋)
「河辺メモ」は、七月十八日の項で「御前会議」の内容に触れている。この「御前会議」の出席者は、日顕、総監・藤本日潤、大石寺主任理事・八木信瑩、渉外部長・秋元広学、庶務部長・早瀬義寛、海外部主任(当時)・関快道そして河辺慈篤である。
メモ魔と言われた河辺慈篤の冷徹なまでに要を得たメモには、日顕等の企みが掌を示すように記録されていた。
日顕は平然と嘘をついていたのであり、それを心やましく感じる人間でないことは無論である。
7.〝きょう慢謗法だ!〟
日顕は池田名誉会長の総講頭解任のために、名誉会長から言質を取ろうとした。
◇
平成二年七月二十一日のその日、日顕は意気込んで対面所に入った。日顕は、権威を象徴する大きな白い座布団に座るなり、向かって言った。
「この間の連絡会議の件だ。丑寅勤行に関する私の発言を無視しようとしたことは分かっている」
会長が何か言おうとしたが、取り付く島もなかった。日顕はいきなり机を叩きながら叫んだ。
「法主の発言を封じた。きょう慢だ、きょう慢謗法だ!」
その日顕の怒声は対面所の一階に控えていた学会の副会長らにも聞こえてきた。ビックリして階段上を見上げていると、日顕の怒鳴り声がまた対面所から聞こえてきた。
「あんたにも言っておきたいことがある。懲罰にかけるから」
日顕は名誉会長を睨みつけながら、激しく言葉を吐いた。
「あんたは財務を御供養と指導しているだろう」
日顕は肩を怒らせ、顔を上気させている。しかし、言い方はまるで下手な台詞を言うようで、芝居がかっていた。
「まだ、ある。学会の記念行事があるので、御講に行かなくてよいと、あんた自身が地域の総代に言ったじゃないか」
日顕はつばを飛ばしながら、机の上に手を広げたまま、今にも立ち上がりそうな勢いでわめき続けた。日顕の話には何の根拠もなかった。すべて、風聞をもとにしたものに過ぎなかった。
名誉会長はその日顕の挑発に乗ることはなく、その言いがかりとも言える追及に対して、一つ一つ冷静にその誤りを指摘していった。
結局、日顕の目論見は失敗した。「懲罰」に該当する言質を何一つ取れなかったのである。日顕は怒りで顔を赤くしたまま席を立って、奥に消えた。
(前出『転落の法主』)
7.総講頭職の資格喪失
それまで宗規には総講頭職の解任に関する規定がなかったが、日顕はそこに目を付けた。
◇
十二月二十六日、宗門は総監の名で、「お尋ね」に対して誠意ある回答なしと受け止めた旨の「通知」を学会に送付し、翌二十七日、第百三十回臨時宗会が宗務院で開かれた。
しかし、この宗会は日顕主導による形式だけの宗会だった。意見を言うことは許されず、宗会は日顕の提案に従うしかなかった。
副議長の土居崎慈成は「机の上に置かれていた茶封筒を開けて初めて分かったんだ。その後、説明を受けて賛成した。反対なんかできるか」と後に語っている。
この宗会で、「日蓮正宗宗規一部改正の件」が議決され、即日施行された。
これにより、総講頭の任期は五年、総講頭以外の役員の任期は三年となったが、「但し、再任を妨げない」とされた。そして、「この宗規変更にともない、従前法華講本部役員の職にあった者は、その資格を失う」とあり、名誉会長の総講頭の地位は即日、剥奪された。
また、信徒の除名等の理由として「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀、讒謗したとき」等の条項が新たに追加された。
(同)
広宣流布を阻害する天魔の企み通りとなった。日顕は創価学会を破門する準備を整え終えたのである。
8.「C作戦」の存在を認める
池田総講頭罷免の翌平成三年初め、宗門側が池田名誉会長に謝罪を求める要求書を出し、末寺の住職たちに署名捺印を求めたのは、いわゆる「踏み絵」であった。
大橋正淳住職は捺印を拒み、日顕に「お目通り」を願い出たが、その結果が日顕のあの発言となった。
◇
平成三年三月五日、工藤玄英住職と大橋正淳住職が日顕に目通りした。大橋住職が「C作戦」の存在を日顕に質問すると、日顕は憎々しげに答えた。
「じゃ言ってやるか、あれはだな、あの野郎の首をカットするという意味だ」
そう言いながら、日顕は指を突き出し、C、U、Tと書いて見せた。大橋住職は日顕が宙に書いた字を読みながら、確認した。
「カットという意味ですか?」
「そうだ、そのカットの頭文字を取ってのC作戦だ」
工藤住職と大橋住職は「やはり」と思い、互いに顔を見合わせた。すると日顕は言い訳をするように付け加えた。
「とっさに思いついてやったことじゃない。五、六年も前から考えに考え抜いてきたんだ」
日顕が自分の野望を白状した瞬間だった。
(同)
9.日顕の裏の顔がテレビに
このころ日顕の肉声のテープが流出し、テレビのニュース番組で報道された。学会員のみならず全国の視聴者が、およそ僧侶の発言とは思えない日顕の暴言を聞き、その非人間性が知られることとなったのである。
◇
平成三年八月の教師指導会で、ある住職が信心に嫌気がさした信者をどう教導するかについて日顕に質問した。それに対して日顕は次のように答えた。
「信心がイヤになろうが、何しようが、そんなことは関係ないんだ、君にとっては! そんなこと、そんなくだらないことを言っておっては駄目だってことを、頭から少しかましてやればいいんだ!」
(同)
僧職にある者ならば、信者が信心を全うできるかどうかの大事な局面にあるとなれば、どのように指導していくかと心を砕くところであろう。それは宗旨の如何を問わない。
それを「関係ない」の一言で撥ね退け、〝威圧的な態度でかかるんだ〟とばかりに、まくし立てたのである。
◇
平成三年十月六日、今度はTBSテレビの「報道特集」で、宗門問題がとりあげられ、印刷された「C作戦」文書が放映される。この放送は宗門と学会だけではなく、社会的にも大きな影響を与え、日蓮正宗は〝一千万信徒を切った宗教団体〟としてクローズアップされた。
(同)
10.天魔の非道
十分に下準備していた日顕の学会追放のもくろみは、最終段階に到った。
◇
平成三年十一月七日に「解散勧告書」、二十八日に「破門通告書」が宗門から創価学会に送付された。そして引き続き、十一月三十日の教師指導会で、学会員に対する「御本尊下附停止」を発表した。(中略)
学会の破門を契機に、その日顕の非道を糾弾して、次々に宗内僧侶が離脱していく。そして「日蓮正宗改革同盟」「青年僧侶改革同盟」「憂宗護法同盟」等が結成され、離脱した僧侶たちの証言によって「C作戦」の存在が明らかになる。
(同)
大聖人御在世時にも、このような悪逆非道が行われた事実が御書にお認(したた)めである。
◇
滝泉寺申状(八五三㌻)にいわく、
「住坊を奪い取り厳重の御祈祷を打ち止むるの余り悪行(あくぎょう)猶(なお)以て飽き足らず為(ため)に法華経行者の跡(あと)を削り謀案(ぼうあん)を構えて種種の不実を申し付くるの条・豈(あに)在世の調達(ちょうだつ)に非ずや」
(行智は、日秀、日弁らが住侶として職していた住坊を不法に奪い取り、住侶としてもっとも厳粛かつ重要な国家安穏の御祈祷もできなくしたうえ、さらに悪行を重ねて法華経の行者(日秀、日弁ら)の功績を抹殺し、虚偽を構えて追放処分にした。これらは仏法を破壊しようとした釈尊在世の提婆達多と同様の悪逆である)
(続く)
妄説:57 「創価学会を破門し、広布を破壊しようとした法主に御本尊を授与する資格はない」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当ですか。
この質問には①創価学会の破門について、②御法主上人が広布を破壊したか否かについて、③御法主上人の御本尊授与の資格について、の三点が含まれています。
①の学会の破門について。
第六十六世日達上人は、昭和五十四年三月三十一日の妙観会において
「長い間において学会が、宗門の法義の上において間違ってきてしまった、それを指摘してなんとか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい(中略)功績が大きいからといって教義を間違えて宗門から逸脱(いつだつ)してしまえば、これはなにも役に立ちません」(達全 2-7-327頁)
と仰せられていました。残念ながら、この日達上人の危惧(きぐ)が日顕上人の時代に現実のものとなったのです。
このため日顕上人は
「創価学会を破門する必然性があったため、宗門はそれを断行したのである」(大日蓮 553-48頁)
と仰せのように、宗門古来の信仰に照らして厳正に学会を破門処分にしたのです。
②の広布の破壊について。
池田大作氏が率(ひき)いる創価学会が、本当に正しい正宗信徒であったのか、また正しく日蓮正宗の仏法を広めていたのかどうか、まことに疑問です。また昭和四十五年頃に「八百万」といっていた信徒数が二十年以上経過した現在、どれほど増加しているのか、はなはだ疑問です。広布の進展を妨げているのは宗門や御法主上人ではなく、池田氏の指導性と学会の体質にあったというほうが適当でしょう。
③の法主に授与の資格がないという主張は、単なる言いがかりであり、本宗本来の教義に照らせば、御本尊授与に関することは、唯授一人の血脈相承を受けられた御法主上人お一人に限られることは、永遠不変の鉄則なのです。
破折:
5.「C作戦」を謀議
日顕宗が学会に対し謀議した内容が、後年明らかとなった。
◇
『創価新報』(平成六年一月一日付)がスクープした「河辺メモ」。「河辺メモ」とは、〝日顕の懐刀〟である日蓮正宗参議、北海道大布教区宗務大支院長の河辺慈篤みずから記録した極秘のメモである。
この「河辺メモ」には、「C作戦」について、日顕を中心にしての会議が平成二年七月に二度にわたりおこなわれたことが記録されている。
この二度の会議とは、平成二年七月十六日に文京区西片にある大石寺東京出張所でおこなわれた「西片会議」と、二日後の十八日に大石寺大書院でおこなわれた「御前会議」のことである。
(『地涌』第723号 1994年1月4日)
「C作戦」の名称の由来は、何であったか。
◇
「ところで、丑寅勤行の件はどうなったんだ」
日顕は丑寅勤行の参加者の数にこだわっていた。日顕は丑寅勤行の参加者数によって、態度が違う。大勢の時は挨拶するが、学会の登山会が終わり、参加者が二、三十人の時などは、挨拶もせず傲然と退座する。日顕にとって丑寅勤行は己の権威を誇示する場である。だから、参加者数の増減が自分の権威にかかわる重要なこだわりとなっていた。
「はい、それが、『丑寅勤行の参加人数の問題などは実務に関することであり、猊下にいちいち心配をおかけしないよう、連絡会議で取り上げていきましょう』と言うだけで……」
実際には、藤本はその場で「そうですね」と答えてしまったが、そのことは伏せて、学会の言い分だけを伝えた。
「何! ワシの意見を無視するというのか」
しばらく、日顕は黙ったままだった。皆、日顕の次の言葉を待つしかなかった。
「やはり、駄目だな」
投げ捨てるように日顕が言った。他の者たちにも、その意味が分かった。僧侶の批判を始めた時点で、学会の運命は決まった。過去にどんな功績があっても関係ない。僧侶にたてつく者は「悪」なのである。
「学会と戦うしかない、ということですね。では学会のGをとって、『G作戦』ですな」
河辺は早く話を進めようと思い、わざとそう言った。すると、日顕はまるで以前から考えていたように、即座に答えた。
「いや、違う。Cだ。『C作戦』だ」
「『C作戦』?」
「そうだ。カットのCだ。あいつの首を切るからカットだ!」
「なるほど、『C作戦』ですか……」
(『実録小説 転落の法主』青年僧侶改革同盟・渡辺雄範著 2004年4月28日発行)
池田名誉会長の首を切る作戦だ、と日顕が言い放った時である。だが、平成三年九月二十日号の『週刊文春』の学会への中傷記事の中に、「『池田打倒』を画策した『C作戦』なるシナリオ」という一文が出てしまった。誰が週刊誌に漏らしたのかは分からなかった。
日顕は平成四年十一月二十九日に大阪市の浄妙寺において親教をおこなったとき、このように述べている。
「宗門が創価学会を破門いたしましたのは、当然、それなりの正しい理由が存するのであります。それに対し、彼等は『C作戦』というものがあったというようなことを盛んに宣伝しております。皆さん方も『C作戦』などという変な言葉を聞かれたことがあるかと思いますが、そのような事実は全くございません。あくまで日蓮正宗の信徒として、どこまでも正しく教導していきたいという気持ちは、登座の当初からあったのであります。(中略)
その後も私は、正しく教導をしたいと常に念願してきたわけでありますから、宗門に『C作戦』などというものがあって、創価学会を切るということ、いわゆる破門に処するなどという考え方は全くなかったのであります」
(『大日蓮』平成五年一月号より引用)
日顕はC作戦の存在そのものを否定し、言い訳に終始した。ところが、前述の河辺メモが発覚したのである。
6.河辺メモの内容
画像は「C作戦-創価学会分離作戦」より
(画像の右端が映らないので、全体像は上記ファイルをクリックして下さい)
○、御前会議の流れ.
早瀬部長よりの連絡会議報告の後、池田追放の線で進られ.
河辺=それでは、この作戦はG作戦だ.
猊下=それは違う、Cだよ
○ともかく21日の池田の目通り山だ.
○もう少し池田の証拠を集めて、C作戦の時を待つ
○教師講習会の時に『6.30の教義上の問題を通して
財務問題(供養問題)を重点に』猊下・宗務院が
話す.
河辺=C作戦というが、いずれはやらなくてはならない問
題としても、今この問題をやる亊は両刃の剣を持つ
亊になる。やるとしても、もつと分析が必要、それ
よりも大亊な事は、僧侶の綱紀自粛が必要、この作
戦を実行しても、返す刀で、この綱紀問題で学会に
やられる.
猊下=お前は分析・分析というが、分析して何ができると
云うんだ、=激しく怒つたように河辺を叱責=
(平成六年一月一日付『創価新報』掲載の「河辺メモ」より一部抜粋)
「河辺メモ」は、七月十八日の項で「御前会議」の内容に触れている。この「御前会議」の出席者は、日顕、総監・藤本日潤、大石寺主任理事・八木信瑩、渉外部長・秋元広学、庶務部長・早瀬義寛、海外部主任(当時)・関快道そして河辺慈篤である。
メモ魔と言われた河辺慈篤の冷徹なまでに要を得たメモには、日顕等の企みが掌を示すように記録されていた。
日顕は平然と嘘をついていたのであり、それを心やましく感じる人間でないことは無論である。
7.〝きょう慢謗法だ!〟
日顕は池田名誉会長の総講頭解任のために、名誉会長から言質を取ろうとした。
◇
平成二年七月二十一日のその日、日顕は意気込んで対面所に入った。日顕は、権威を象徴する大きな白い座布団に座るなり、向かって言った。
「この間の連絡会議の件だ。丑寅勤行に関する私の発言を無視しようとしたことは分かっている」
会長が何か言おうとしたが、取り付く島もなかった。日顕はいきなり机を叩きながら叫んだ。
「法主の発言を封じた。きょう慢だ、きょう慢謗法だ!」
その日顕の怒声は対面所の一階に控えていた学会の副会長らにも聞こえてきた。ビックリして階段上を見上げていると、日顕の怒鳴り声がまた対面所から聞こえてきた。
「あんたにも言っておきたいことがある。懲罰にかけるから」
日顕は名誉会長を睨みつけながら、激しく言葉を吐いた。
「あんたは財務を御供養と指導しているだろう」
日顕は肩を怒らせ、顔を上気させている。しかし、言い方はまるで下手な台詞を言うようで、芝居がかっていた。
「まだ、ある。学会の記念行事があるので、御講に行かなくてよいと、あんた自身が地域の総代に言ったじゃないか」
日顕はつばを飛ばしながら、机の上に手を広げたまま、今にも立ち上がりそうな勢いでわめき続けた。日顕の話には何の根拠もなかった。すべて、風聞をもとにしたものに過ぎなかった。
名誉会長はその日顕の挑発に乗ることはなく、その言いがかりとも言える追及に対して、一つ一つ冷静にその誤りを指摘していった。
結局、日顕の目論見は失敗した。「懲罰」に該当する言質を何一つ取れなかったのである。日顕は怒りで顔を赤くしたまま席を立って、奥に消えた。
(前出『転落の法主』)
7.総講頭職の資格喪失
それまで宗規には総講頭職の解任に関する規定がなかったが、日顕はそこに目を付けた。
◇
十二月二十六日、宗門は総監の名で、「お尋ね」に対して誠意ある回答なしと受け止めた旨の「通知」を学会に送付し、翌二十七日、第百三十回臨時宗会が宗務院で開かれた。
しかし、この宗会は日顕主導による形式だけの宗会だった。意見を言うことは許されず、宗会は日顕の提案に従うしかなかった。
副議長の土居崎慈成は「机の上に置かれていた茶封筒を開けて初めて分かったんだ。その後、説明を受けて賛成した。反対なんかできるか」と後に語っている。
この宗会で、「日蓮正宗宗規一部改正の件」が議決され、即日施行された。
これにより、総講頭の任期は五年、総講頭以外の役員の任期は三年となったが、「但し、再任を妨げない」とされた。そして、「この宗規変更にともない、従前法華講本部役員の職にあった者は、その資格を失う」とあり、名誉会長の総講頭の地位は即日、剥奪された。
また、信徒の除名等の理由として「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀、讒謗したとき」等の条項が新たに追加された。
(同)
広宣流布を阻害する天魔の企み通りとなった。日顕は創価学会を破門する準備を整え終えたのである。
8.「C作戦」の存在を認める
池田総講頭罷免の翌平成三年初め、宗門側が池田名誉会長に謝罪を求める要求書を出し、末寺の住職たちに署名捺印を求めたのは、いわゆる「踏み絵」であった。
大橋正淳住職は捺印を拒み、日顕に「お目通り」を願い出たが、その結果が日顕のあの発言となった。
◇
平成三年三月五日、工藤玄英住職と大橋正淳住職が日顕に目通りした。大橋住職が「C作戦」の存在を日顕に質問すると、日顕は憎々しげに答えた。
「じゃ言ってやるか、あれはだな、あの野郎の首をカットするという意味だ」
そう言いながら、日顕は指を突き出し、C、U、Tと書いて見せた。大橋住職は日顕が宙に書いた字を読みながら、確認した。
「カットという意味ですか?」
「そうだ、そのカットの頭文字を取ってのC作戦だ」
工藤住職と大橋住職は「やはり」と思い、互いに顔を見合わせた。すると日顕は言い訳をするように付け加えた。
「とっさに思いついてやったことじゃない。五、六年も前から考えに考え抜いてきたんだ」
日顕が自分の野望を白状した瞬間だった。
(同)
9.日顕の裏の顔がテレビに
このころ日顕の肉声のテープが流出し、テレビのニュース番組で報道された。学会員のみならず全国の視聴者が、およそ僧侶の発言とは思えない日顕の暴言を聞き、その非人間性が知られることとなったのである。
◇
平成三年八月の教師指導会で、ある住職が信心に嫌気がさした信者をどう教導するかについて日顕に質問した。それに対して日顕は次のように答えた。
「信心がイヤになろうが、何しようが、そんなことは関係ないんだ、君にとっては! そんなこと、そんなくだらないことを言っておっては駄目だってことを、頭から少しかましてやればいいんだ!」
(同)
僧職にある者ならば、信者が信心を全うできるかどうかの大事な局面にあるとなれば、どのように指導していくかと心を砕くところであろう。それは宗旨の如何を問わない。
それを「関係ない」の一言で撥ね退け、〝威圧的な態度でかかるんだ〟とばかりに、まくし立てたのである。
◇
平成三年十月六日、今度はTBSテレビの「報道特集」で、宗門問題がとりあげられ、印刷された「C作戦」文書が放映される。この放送は宗門と学会だけではなく、社会的にも大きな影響を与え、日蓮正宗は〝一千万信徒を切った宗教団体〟としてクローズアップされた。
(同)
10.天魔の非道
十分に下準備していた日顕の学会追放のもくろみは、最終段階に到った。
◇
平成三年十一月七日に「解散勧告書」、二十八日に「破門通告書」が宗門から創価学会に送付された。そして引き続き、十一月三十日の教師指導会で、学会員に対する「御本尊下附停止」を発表した。(中略)
学会の破門を契機に、その日顕の非道を糾弾して、次々に宗内僧侶が離脱していく。そして「日蓮正宗改革同盟」「青年僧侶改革同盟」「憂宗護法同盟」等が結成され、離脱した僧侶たちの証言によって「C作戦」の存在が明らかになる。
(同)
大聖人御在世時にも、このような悪逆非道が行われた事実が御書にお認(したた)めである。
◇
滝泉寺申状(八五三㌻)にいわく、
「住坊を奪い取り厳重の御祈祷を打ち止むるの余り悪行(あくぎょう)猶(なお)以て飽き足らず為(ため)に法華経行者の跡(あと)を削り謀案(ぼうあん)を構えて種種の不実を申し付くるの条・豈(あに)在世の調達(ちょうだつ)に非ずや」
(行智は、日秀、日弁らが住侶として職していた住坊を不法に奪い取り、住侶としてもっとも厳粛かつ重要な国家安穏の御祈祷もできなくしたうえ、さらに悪行を重ねて法華経の行者(日秀、日弁ら)の功績を抹殺し、虚偽を構えて追放処分にした。これらは仏法を破壊しようとした釈尊在世の提婆達多と同様の悪逆である)
(続く)
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