日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:50」を破折する 連載73回
妄説:50 学会では「従来、法主の権能(けんのう)とされてきた御本尊書写などは、実際は単なる『役割』にすぎない」といっていますが、本当でしょうか。
従来、御本尊のことはすべて御法主上人お一人に限られてきたのですから、それは「権限」であり「権能(けんのう)」です。
日蓮大聖人は
『百六箇(ひゃくろっか)抄』に「日興が嫡々相承の曼荼羅(まんだら)を以て本堂の正本尊と為すべきなり」(新編 1702頁)
と仰せです。
さらに日興上人は『日興跡条々事』に
「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す」(新編 1883頁)
と、本門戒壇の大御本尊を日目上人へ相伝され、さらには日道上人等の御歴代上人に相承されてきました。
『百六箇抄』に
「御本尊書写の事予が顕し奉るが如くなるべし」(全集 八六九頁)
とあるように、御本尊書写のことは、御法主上人の権能です。
さらに御法主上人は、日蓮大聖人の仏法の一切を相承伝持される立場から、御本尊を書写され、我々に下付されるのですから、単に「役割」などという軽いものではないのです。
破折:
1.傲慢なる〝落語〟本尊
青年僧侶改革同盟の方々は、当時所化として日顕の身辺で勤務していただけあり、日顕の裏の顔はよく承知している。
◇
大坊慣れしている小森は多少のことには驚かない。小僧たちが中啓で叩かれるのもいつもの儀式だ。日顕から怒られても、その場さえしのげばいいのだから、どうってことはない。そんな小森でも、日顕の御本尊書写の姿を見た時には我が目を疑った。
その日、渉外部長が目通りを願って来た。大奥では、御本尊の書写をしている時には、一般の末寺住職の目通りは取り次がないことになっていたが、緊急の場合や、相手が役僧の場合には取り次いで良いことになっていた。小森は目通りを取り次ぐために、日顕が御本尊を書写する部屋に向かった。
日顕の邪魔をしないようにと、小森は静かにドアを開けた。すると、中から誰かの話し声が聞こえてきた。
(一体、誰の声だろう)と小森は耳を澄ませた。小森は「ハッ」とした。その声は、古今亭志ん生の落語の声だった。
落語好きの日顕は、昼間から落語のテープを聞いて過ごすことがよくあった。小森はきっと御本尊書写が済み、落語を聴いてくつろいでいるのだろうと思い、「失礼します」と声をかけて部屋に入った。
部屋に入った途端、小森は身体が硬直した。日顕が落語を聞きながら、御本尊を書写していたのだ。机の上にはテープレコーダーを置いてあり、カセットテープが並んでいた。
日顕は小森が部屋に入ってきた気配を感じ、顔をあげた。そして、小森の顔を見て日顕も驚いて書写の手をとめた。日顕の顔には明らかに動揺の色が浮かんでいた。「とんでもないところを小僧に見られてしまった」と顔をしかめているのだ。そして、慌ててテープレコーダーのスイッチを切った日顕は
「何だ! 貴様!」
と、立ち上がって小森を睨みつけ、大声を張り上げた。小森は驚きで声が出ない。日顕はさらに一歩前に踏み出し、「何だ! 何の用だ!」とわめいた。小森は、一瞬、(殴られるのではないか)と恐怖を感じた。
「すみません。渉外部長様が目通りに来られました」
小森はやっとのことでそう告げた。しかし日顕は興奮がおさまらず、
「わかった! あっちにいってろ!」と小森を部屋から追いだした。
小森は「見てはいけないものを見てしまった」と冷や汗をかきながら、逃げるように西奥番室に戻った。それでも、今見た光景が脳裏に焼きついて離れない。
(落語を聞きながら、御本尊を書写するなんて……)
堀日亨上人は、御本尊を書写する際の心構えとして「本尊書写は、筆の巧拙にのみよるものでなく、一心浄念に身心一如になさるべきで、その願主の熾烈な信仰に酬いらるるもの」(『富士日興上人詳伝』)と述べられている。
つまり本尊書写は筆の巧みさで書写するものではなく、心を定め、清浄なる一念で臨まなければならない。そして御本尊の授与を願う主の真剣な信心に真摯に応えるものではなくてはならないのである。しかし、日顕は違う。「法主のワシが書いてやるのだ」という傲慢な態度で書写をしているのだ。だから、落語を聞きながら書写をするという不遜なことができるのである。
(『実録小説 大石寺・大坊物語』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著)
「御本尊書写のことは、御法主上人の権能です」とは、「法主のワシが書いてやるのだ」との傲慢な態度を如実に表わした言葉である。大聖人の仏法を下す不埒者・日顕を擁する邪宗門は、徹底して糾弾されねばならない。
2.宗門の依処は〝御加文〟
宗門が例証として挙げる「日興跡条々事」の第二条文中の「相伝」の語は〝後加文〟である。原文は次の通り。
「日興宛身所給弘安二年大御本尊□□□□日目授與之」
(日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊□□□□日目に之を授与す)
この「授與之」の上に「相傳之」が後加で重ね字されている。日蓮正宗の『歴代法主全集』(1-96頁)では「授与」とあり、また五十九世日亨法主の『富士宗学要集』第八巻史料類聚(18頁)もまた「授与」となっている。
つまりこの御文は、貫首(法主)の代替わりにおける「大御本尊の授与」を示すに他ならず、宗門が言うところの、内証の「法体」の相伝などではない。
日顕が発行させた『平成新編御書』は、わざわざ後加文の「相傳之」を採用しているのであり、日顕のさもしい心根が透けて見える〝捏造御書〟である。
主張の根拠が贋物であれば、本来は主張の内容を吟味するまでもない。しかしガセ文書はひとまず措き、宗門の言い分を検証しよう。
3.御本尊書写は「修行の一部」
御本尊書写は、法主の権能ではなく修行の一部である。いやしくも仏法者なら、どのような高い位にあろうとも修行を怠ってはならない。
◇
日寛上人は、「三宝抄」の中で「予が如き無智無戒も僧宝の一分なり」と述べられている。御自身を「僧宝の一分」とされたことは、教義の根幹にかかわる以上、単なる謙遜の表現ではない。日寛上人は、あくまで法主を修行者と考えられた。それは、上人が「観心本尊抄文段」の中で、法主の本尊書写を、「受持」という信心修行の位における書写行、とされたことからも明らかである。
また、大聖人の究極の教えが日寛教学を通じて公開されている現代では、すべての信仰者が〝僧宝の一分になりうる〟存在である。今の私たちは、信仰の本質的次元において、法主とまったく対等な立場にいる。いわんや、明治以降の法主が、在家者と同じく肉食妻帯の者であることを思えば、なおさらである。
(『法主信仰の打破――日寛上人の言論闘争』松岡幹夫氏 著『大白蓮華』平成十七年九月一日発行)
上記に引用された「観心本尊抄文段」の該当箇所は次の通り。
◇
今「受持」とは即ちこれ偈の中の総体の受持なり。故に五種の妙行に通じ、五種の妙行を総するなり。
然るに今、受持正しく信心口唱に当るとは、信心は即ちこれ受持が家の受持なり。口唱は即ちこれ受持が家の読誦なり。当に知るべし、受持が家の受持読誦はこれ即ち自行なり。
今自行の観心を明かす、故に但自行の辺を取るなり。解説書写は化他を面と為る故にこれを論ぜず。解説は知んぬべし。本尊書写豈化他に非ずや。
(「観心本尊抄文段上」『富士宗学要集』第四巻 p247~p248)
松岡氏の論説を攻略しようと、あがく者がいる。住職の口が空かないため、無任所教師のまま、暇で他にすることが無い小僧共である。詭弁と体裁だけ有って世間を知らないゆえ、次の通りの戯言しか口にできない輩である。
◇
それは、能所を混乱した邪義である。
この日寛上人の仰せは、下種仏法における五種の妙行を示されたものであるが、ただ本尊書写の部分は御法主上人に限られるのであるから、能化たる御法主上人の本尊書写は化他行であるという意である。すなわち御法主上人の御内証は究竟果分の無作三身にましますのであるから、一切衆生の観心の対境として御認め遊ばされる御法主上人の御本尊書写は、能化における化他行という意義が存するとの御指南である。したがって、この「本尊書写豈化他に非ずや」の御指南を所化の修行と同等の〝「受持」の修行中の書写行〟と解釈することは間違いであり、摧尊入卑の邪言である。汝の主張は、あくまで御法主上人を「因分」に属させたいが為にする狡猾な欺誑であると断ずる。
(『松岡幹夫の傲慢不遜なる十項目の愚問を弁駁す』日蓮正宗青年僧侶邪義破折班)
要は、一切衆生は凡夫すなわち所化であり、これに対し法主は能化であるから、同等に論じられるものではないのだと。次項でその迷妄を明らかにしたい。
4.「信心修行」を「所化の修行」と読む傲慢さ
ご本尊の書写は「五種の妙行」のうちの「書写行」であり、文字通り〝修行〟である。現在の日顕宗での解釈はともかく、本来の日蓮正宗の教学においては、一般僧俗(=所化)が受持・読・誦・解説の行を修するに対し、宗門法主(=能化)にはさらに書写行(本尊書写)が加わり、責任はより重いのである。
所化の修行……受持・読・誦・解説
能化の修行……受持・読・誦・解説・書写
いったい松岡氏の論説のどこに「所化の修行と同等の〝『受持』の修行中の書写行〟」なるものがあるか。
宗門は松岡氏の言われる「法主の本尊書写を、『受持』という信心修行の位における書写行、とされた」の語が、気に食わないのか。「信心修行」を「所化の修行」と読んだらしいが、日顕宗らしい傲慢さである。
宗門では、法主に「信心修行」は不要であるのか。しかし、能化であろうと書写行(本尊書写)以外の修行が、〝免除〟されるはずはない。
御本仏たる大聖人でさえ「日蓮は名字即の位」(本因妙抄 八七三㌻)また「信の一字は名字即の位なり」(御義口伝巻下 七六〇㌻)と仰せであり、「信心修行の位」にあられる。それとも、法主は大聖人よりも上であると言うのか。
日顕宗は、抗えば抗うほど、土壺にはまっていく(土壺とは肥甕(こえがめ)のことで、これ以上説明を要しない)。
そもそも日顕は、先師・日達法主から能化の位を授かっていない。勝手に猊座に納まり、勝手に能化に成った者が、日寛上人の御文を〝能所〟で分断しようなどと、これは片腹痛い。
5.書写は「権能」か「役割」か
宗門が言う「御法主上人の権能」とは、事実上「御本尊を〝ご供養収奪の手段〟とする権能」であり、このような権能なら誰の手にも渡したくないはずである。金(カネ)にかかわる話であれば、宗教者としての「役割」の意義ではない、まさしく寺院経営者の「権能」である。
宗門のこれまでの実態を見れば分かる。法華講は御供養をした都度、「賞与御本尊」を授与されてきた。このため檀家では、一軒で十体も二十体も御本尊を持つようになり、拝む対境としてで無く、単なる宝物としてしか扱わなくなっていた。それゆえ檀家が正しく信仰できるはずもなく、謗法まみれになるのも当然であった。
御本尊を「権能」の手段とする宗門は、人々の幸福など願ってはいない、ただ懐を肥やしたいだけである。だが、我らはそのような汚らわしい権能など、不要である。
日顕の限りない謗法のため、宗門は御本尊書写の「役割」を永遠に失った。大御本尊を御写しする「当代」の法主は二度と現れないゆえに、学会は歴代正師であられる日寛上人御書写の御本尊を信奉し、会員に授与するのである。
◇
日顕は五十九世・堀日亨上人の次の言葉をかみ締めるべきであろう。
日亨上人は「御本尊様も本当に日の目を見たのは、学会が出現してからだ。学会のお陰で御本尊様の本当の力が出るようになったことは誠に有り難い。檀家が御本尊様を書いて貰いたいと頼みに来るが、私は広宣流布のための御本尊様なら書写するが、御供養をいくら出すから頂きたいというのなら一切書かない」と語っておられた。
この日亨上人の発言の裏には、宗門が御本尊を商売道具、金儲けの手段にしてきたことへの非難がある。
例えば昭和六年の第六百五十遠忌を前に時の法主・日開(日顕の父)は寄付を呼び掛け「御遠忌記念事業費寄付金募集及賞与規定」に次のように定めていた。
「一、一千円以上完納者ニハ賞与大漫荼羅及永代尊号ヲ授与ス
二、五十円以上完納者ニハ大漫荼羅ヲ授与ス」
つまり、高額寄付の謝礼に御本尊を授与すると明記していた。当時の千円は現在の約百五十万円、五十円は約七万五千円に相当する。御本尊を商売道具、信徒支配の手段にしてきた体質を日顕は引き継いでいる。
法主が御本尊授与の役割を放棄した今、大聖人の信心の血脈を現代に受け継ぎ、正法を全世界に弘通してきた唯一の「和合僧団」である創価学会が、その資格で御本尊を授与することは当然のことである。
(「フェイク」第625号 発行=05.10.03)
(了)
妄説:50 学会では「従来、法主の権能(けんのう)とされてきた御本尊書写などは、実際は単なる『役割』にすぎない」といっていますが、本当でしょうか。
従来、御本尊のことはすべて御法主上人お一人に限られてきたのですから、それは「権限」であり「権能(けんのう)」です。
日蓮大聖人は
『百六箇(ひゃくろっか)抄』に「日興が嫡々相承の曼荼羅(まんだら)を以て本堂の正本尊と為すべきなり」(新編 1702頁)
と仰せです。
さらに日興上人は『日興跡条々事』に
「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す」(新編 1883頁)
と、本門戒壇の大御本尊を日目上人へ相伝され、さらには日道上人等の御歴代上人に相承されてきました。
『百六箇抄』に
「御本尊書写の事予が顕し奉るが如くなるべし」(全集 八六九頁)
とあるように、御本尊書写のことは、御法主上人の権能です。
さらに御法主上人は、日蓮大聖人の仏法の一切を相承伝持される立場から、御本尊を書写され、我々に下付されるのですから、単に「役割」などという軽いものではないのです。
破折:
1.傲慢なる〝落語〟本尊
青年僧侶改革同盟の方々は、当時所化として日顕の身辺で勤務していただけあり、日顕の裏の顔はよく承知している。
◇
大坊慣れしている小森は多少のことには驚かない。小僧たちが中啓で叩かれるのもいつもの儀式だ。日顕から怒られても、その場さえしのげばいいのだから、どうってことはない。そんな小森でも、日顕の御本尊書写の姿を見た時には我が目を疑った。
その日、渉外部長が目通りを願って来た。大奥では、御本尊の書写をしている時には、一般の末寺住職の目通りは取り次がないことになっていたが、緊急の場合や、相手が役僧の場合には取り次いで良いことになっていた。小森は目通りを取り次ぐために、日顕が御本尊を書写する部屋に向かった。
日顕の邪魔をしないようにと、小森は静かにドアを開けた。すると、中から誰かの話し声が聞こえてきた。
(一体、誰の声だろう)と小森は耳を澄ませた。小森は「ハッ」とした。その声は、古今亭志ん生の落語の声だった。
落語好きの日顕は、昼間から落語のテープを聞いて過ごすことがよくあった。小森はきっと御本尊書写が済み、落語を聴いてくつろいでいるのだろうと思い、「失礼します」と声をかけて部屋に入った。
部屋に入った途端、小森は身体が硬直した。日顕が落語を聞きながら、御本尊を書写していたのだ。机の上にはテープレコーダーを置いてあり、カセットテープが並んでいた。
日顕は小森が部屋に入ってきた気配を感じ、顔をあげた。そして、小森の顔を見て日顕も驚いて書写の手をとめた。日顕の顔には明らかに動揺の色が浮かんでいた。「とんでもないところを小僧に見られてしまった」と顔をしかめているのだ。そして、慌ててテープレコーダーのスイッチを切った日顕は
「何だ! 貴様!」
と、立ち上がって小森を睨みつけ、大声を張り上げた。小森は驚きで声が出ない。日顕はさらに一歩前に踏み出し、「何だ! 何の用だ!」とわめいた。小森は、一瞬、(殴られるのではないか)と恐怖を感じた。
「すみません。渉外部長様が目通りに来られました」
小森はやっとのことでそう告げた。しかし日顕は興奮がおさまらず、
「わかった! あっちにいってろ!」と小森を部屋から追いだした。
小森は「見てはいけないものを見てしまった」と冷や汗をかきながら、逃げるように西奥番室に戻った。それでも、今見た光景が脳裏に焼きついて離れない。
(落語を聞きながら、御本尊を書写するなんて……)
堀日亨上人は、御本尊を書写する際の心構えとして「本尊書写は、筆の巧拙にのみよるものでなく、一心浄念に身心一如になさるべきで、その願主の熾烈な信仰に酬いらるるもの」(『富士日興上人詳伝』)と述べられている。
つまり本尊書写は筆の巧みさで書写するものではなく、心を定め、清浄なる一念で臨まなければならない。そして御本尊の授与を願う主の真剣な信心に真摯に応えるものではなくてはならないのである。しかし、日顕は違う。「法主のワシが書いてやるのだ」という傲慢な態度で書写をしているのだ。だから、落語を聞きながら書写をするという不遜なことができるのである。
(『実録小説 大石寺・大坊物語』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著)
「御本尊書写のことは、御法主上人の権能です」とは、「法主のワシが書いてやるのだ」との傲慢な態度を如実に表わした言葉である。大聖人の仏法を下す不埒者・日顕を擁する邪宗門は、徹底して糾弾されねばならない。
2.宗門の依処は〝御加文〟
宗門が例証として挙げる「日興跡条々事」の第二条文中の「相伝」の語は〝後加文〟である。原文は次の通り。
「日興宛身所給弘安二年大御本尊□□□□日目授與之」
(日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊□□□□日目に之を授与す)
この「授與之」の上に「相傳之」が後加で重ね字されている。日蓮正宗の『歴代法主全集』(1-96頁)では「授与」とあり、また五十九世日亨法主の『富士宗学要集』第八巻史料類聚(18頁)もまた「授与」となっている。
つまりこの御文は、貫首(法主)の代替わりにおける「大御本尊の授与」を示すに他ならず、宗門が言うところの、内証の「法体」の相伝などではない。
日顕が発行させた『平成新編御書』は、わざわざ後加文の「相傳之」を採用しているのであり、日顕のさもしい心根が透けて見える〝捏造御書〟である。
主張の根拠が贋物であれば、本来は主張の内容を吟味するまでもない。しかしガセ文書はひとまず措き、宗門の言い分を検証しよう。
3.御本尊書写は「修行の一部」
御本尊書写は、法主の権能ではなく修行の一部である。いやしくも仏法者なら、どのような高い位にあろうとも修行を怠ってはならない。
◇
日寛上人は、「三宝抄」の中で「予が如き無智無戒も僧宝の一分なり」と述べられている。御自身を「僧宝の一分」とされたことは、教義の根幹にかかわる以上、単なる謙遜の表現ではない。日寛上人は、あくまで法主を修行者と考えられた。それは、上人が「観心本尊抄文段」の中で、法主の本尊書写を、「受持」という信心修行の位における書写行、とされたことからも明らかである。
また、大聖人の究極の教えが日寛教学を通じて公開されている現代では、すべての信仰者が〝僧宝の一分になりうる〟存在である。今の私たちは、信仰の本質的次元において、法主とまったく対等な立場にいる。いわんや、明治以降の法主が、在家者と同じく肉食妻帯の者であることを思えば、なおさらである。
(『法主信仰の打破――日寛上人の言論闘争』松岡幹夫氏 著『大白蓮華』平成十七年九月一日発行)
上記に引用された「観心本尊抄文段」の該当箇所は次の通り。
◇
今「受持」とは即ちこれ偈の中の総体の受持なり。故に五種の妙行に通じ、五種の妙行を総するなり。
然るに今、受持正しく信心口唱に当るとは、信心は即ちこれ受持が家の受持なり。口唱は即ちこれ受持が家の読誦なり。当に知るべし、受持が家の受持読誦はこれ即ち自行なり。
今自行の観心を明かす、故に但自行の辺を取るなり。解説書写は化他を面と為る故にこれを論ぜず。解説は知んぬべし。本尊書写豈化他に非ずや。
(「観心本尊抄文段上」『富士宗学要集』第四巻 p247~p248)
松岡氏の論説を攻略しようと、あがく者がいる。住職の口が空かないため、無任所教師のまま、暇で他にすることが無い小僧共である。詭弁と体裁だけ有って世間を知らないゆえ、次の通りの戯言しか口にできない輩である。
◇
それは、能所を混乱した邪義である。
この日寛上人の仰せは、下種仏法における五種の妙行を示されたものであるが、ただ本尊書写の部分は御法主上人に限られるのであるから、能化たる御法主上人の本尊書写は化他行であるという意である。すなわち御法主上人の御内証は究竟果分の無作三身にましますのであるから、一切衆生の観心の対境として御認め遊ばされる御法主上人の御本尊書写は、能化における化他行という意義が存するとの御指南である。したがって、この「本尊書写豈化他に非ずや」の御指南を所化の修行と同等の〝「受持」の修行中の書写行〟と解釈することは間違いであり、摧尊入卑の邪言である。汝の主張は、あくまで御法主上人を「因分」に属させたいが為にする狡猾な欺誑であると断ずる。
(『松岡幹夫の傲慢不遜なる十項目の愚問を弁駁す』日蓮正宗青年僧侶邪義破折班)
要は、一切衆生は凡夫すなわち所化であり、これに対し法主は能化であるから、同等に論じられるものではないのだと。次項でその迷妄を明らかにしたい。
4.「信心修行」を「所化の修行」と読む傲慢さ
ご本尊の書写は「五種の妙行」のうちの「書写行」であり、文字通り〝修行〟である。現在の日顕宗での解釈はともかく、本来の日蓮正宗の教学においては、一般僧俗(=所化)が受持・読・誦・解説の行を修するに対し、宗門法主(=能化)にはさらに書写行(本尊書写)が加わり、責任はより重いのである。
所化の修行……受持・読・誦・解説
能化の修行……受持・読・誦・解説・書写
いったい松岡氏の論説のどこに「所化の修行と同等の〝『受持』の修行中の書写行〟」なるものがあるか。
宗門は松岡氏の言われる「法主の本尊書写を、『受持』という信心修行の位における書写行、とされた」の語が、気に食わないのか。「信心修行」を「所化の修行」と読んだらしいが、日顕宗らしい傲慢さである。
宗門では、法主に「信心修行」は不要であるのか。しかし、能化であろうと書写行(本尊書写)以外の修行が、〝免除〟されるはずはない。
御本仏たる大聖人でさえ「日蓮は名字即の位」(本因妙抄 八七三㌻)また「信の一字は名字即の位なり」(御義口伝巻下 七六〇㌻)と仰せであり、「信心修行の位」にあられる。それとも、法主は大聖人よりも上であると言うのか。
日顕宗は、抗えば抗うほど、土壺にはまっていく(土壺とは肥甕(こえがめ)のことで、これ以上説明を要しない)。
そもそも日顕は、先師・日達法主から能化の位を授かっていない。勝手に猊座に納まり、勝手に能化に成った者が、日寛上人の御文を〝能所〟で分断しようなどと、これは片腹痛い。
5.書写は「権能」か「役割」か
宗門が言う「御法主上人の権能」とは、事実上「御本尊を〝ご供養収奪の手段〟とする権能」であり、このような権能なら誰の手にも渡したくないはずである。金(カネ)にかかわる話であれば、宗教者としての「役割」の意義ではない、まさしく寺院経営者の「権能」である。
宗門のこれまでの実態を見れば分かる。法華講は御供養をした都度、「賞与御本尊」を授与されてきた。このため檀家では、一軒で十体も二十体も御本尊を持つようになり、拝む対境としてで無く、単なる宝物としてしか扱わなくなっていた。それゆえ檀家が正しく信仰できるはずもなく、謗法まみれになるのも当然であった。
御本尊を「権能」の手段とする宗門は、人々の幸福など願ってはいない、ただ懐を肥やしたいだけである。だが、我らはそのような汚らわしい権能など、不要である。
日顕の限りない謗法のため、宗門は御本尊書写の「役割」を永遠に失った。大御本尊を御写しする「当代」の法主は二度と現れないゆえに、学会は歴代正師であられる日寛上人御書写の御本尊を信奉し、会員に授与するのである。
◇
日顕は五十九世・堀日亨上人の次の言葉をかみ締めるべきであろう。
日亨上人は「御本尊様も本当に日の目を見たのは、学会が出現してからだ。学会のお陰で御本尊様の本当の力が出るようになったことは誠に有り難い。檀家が御本尊様を書いて貰いたいと頼みに来るが、私は広宣流布のための御本尊様なら書写するが、御供養をいくら出すから頂きたいというのなら一切書かない」と語っておられた。
この日亨上人の発言の裏には、宗門が御本尊を商売道具、金儲けの手段にしてきたことへの非難がある。
例えば昭和六年の第六百五十遠忌を前に時の法主・日開(日顕の父)は寄付を呼び掛け「御遠忌記念事業費寄付金募集及賞与規定」に次のように定めていた。
「一、一千円以上完納者ニハ賞与大漫荼羅及永代尊号ヲ授与ス
二、五十円以上完納者ニハ大漫荼羅ヲ授与ス」
つまり、高額寄付の謝礼に御本尊を授与すると明記していた。当時の千円は現在の約百五十万円、五十円は約七万五千円に相当する。御本尊を商売道具、信徒支配の手段にしてきた体質を日顕は引き継いでいる。
法主が御本尊授与の役割を放棄した今、大聖人の信心の血脈を現代に受け継ぎ、正法を全世界に弘通してきた唯一の「和合僧団」である創価学会が、その資格で御本尊を授与することは当然のことである。
(「フェイク」第625号 発行=05.10.03)
(了)
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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:49」を破折する 連載72回
妄説:49 御本尊の「書写」とはどういうことですか。
日蓮正宗の各末寺に安置されている御本尊や信徒に下付される御本尊(ニセ本尊は除く)は、すべて根本の御本尊たる本門戒壇の大御本尊のお写しです。御本尊の左下の方を拝すると、「奉書写之」(之(これ)を書写し奉る)としたためられています。
「之(これ)」とは、とりもなおさず本門戒壇の大御本尊のことです。
この戒壇の大御本尊の御内証を書写できるのは、大聖人より唯授一人の血脈を相承された御法主上人ただお一人なのです。
このことは、第五十六世日応上人が
「金口(こんく)嫡々相承を受けざれば、決して本尊の書写をなすこと能(あた)はず」(弁惑観心抄 212頁)
と、はっきり戒められています。
つまり、御本尊の書写とは本門戒壇の大御本尊を所持され、大聖人の仏法の一切を受けられている御法主上人が金口嫡々相承のもとに、その御内証を書写あそばすことであり、他の誰人もできないことです。
かつて、池田大作氏も「われわれの拝受したてまつる御本尊は、血脈付法の代々の御法主上人のみが、分身散体(ふんじんさんたい)の法理からおしたためくださるのである」(広布と人生を語る 一-一一二頁)
と明言していたとおりです。
破折:
1.御本尊書写の心構えとは
大聖人が御本尊を御認(したた)められる際の、御心構えを述べられたのが次の御書である。
経王殿御返事(一一二四㌻)にいわく、
「日蓮守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず、経に云く『師子奮迅之力』とは是なり」
(日蓮が守護の御本尊を認(したた)めるのも師子王に劣らぬ姿勢によってあらわしたのである。法華経涌出品に「師子奮迅の力」とあるのはこれである)
大聖人が全生命を一幅の曼荼羅に込められたゆえに、御本尊は即、日蓮大聖人の御生命そのものであり、偉大な力を秘められるのである。
五十九世日亨法主は、御本尊書写の心構えにつき、次の通り述べる。
◇
本尊書写は、筆の巧拙にのみよるものでなく、一心浄念に身心一如になさるべきで、その願主の熾烈な信仰に酬(むく)いらるるもので、御開山の御用意はもちろんのことであるが、中興日有上人はもとより、代々の写主が本尊に脇書する人名の即身成仏を示すものとなされておる。
(「富士日興上人詳伝(下)」聖教文庫 P227)
御本尊の書写においては、「一心浄念」すなわち気高さ、徳性をもって邪気・煩悩を打ち払い、大御本尊への絶対の信をもって書写に傾注しなくてはならない。「師子奮迅之力」の込められない御本尊に、どうして大御本尊の力用が顕現されるわけがあろうか。
2.日顕書写の本尊
(1)〝誤字脱字〟本尊
ならば、この例はどうか。元・日蓮正宗御用達仏師「赤沢朝陽」社長の証言である。
◇
日顕が書写する御本尊は、実は、不注意で御文字が抜けていることが多い。私どもは、こと御本尊のことでは、一切、間違いがあってはいけないとの厳格な姿勢できました。日顕が末寺や法華講の板御本尊用に書写した和紙が、本山から届いた段階で、謹刻する前に必ず、一体一体を点検するんです。すると、本来あるべき御文字が抜けていたり、名前などの御文字が間違っているんです。細かいのもあげれば、預かった御本尊の一割近くになるかもしれません。(中略)
日達上人の時代には、考えられないことです。なかには「十羅刹女(じゅうらせつにょ) 阿闍世王(あじゃせおう) 大龍王」の三つを一遍に書き忘れていたり、「奉書写之」を抜かしていることもありました。
(『聖教新聞』1993年10月14日)
宗門は「『之(これ)』とは、とりもなおさず本門戒壇の大御本尊のことです」と、「奉書写之」の文字の所以を誇らしげに説く。
「その御内証を書写あそばすこと」「他の誰人もできないこと」と、法主の〝唯授一人〟の立場を強調するが、その象徴とも言うべき大切な文字(「奉書写之」)を、日顕はあっさりと抜かしてしまう。
周囲がどれほど盛り立てようと、片端からぶち壊してしまう不出来な法主、日顕。宗門は、いいかげんうんざりしていることであろう。
このことは、日顕が「大聖人より唯授一人の血脈を相承された御法主上人」では無い、とする重大な事実を露顕するものと言えよう。
(2)〝曲体〟本尊
「赤沢朝陽」社長の証言が続く。
◇
もう一つ、重大なことを申し上げます。実は、日顕は、御本尊の首題の御題目の字が、真っすぐ書けないんです。特に、「華」の字が、なぜか左のほうに曲がってしまうのです。学会の二百カ寺建立寄進が始まって間もなくの昭和六十年ごろから、末寺などの御本尊に、その傾向がひどくなってきました。(中略)
ある時、日顕もそれに気づいて、なんと「これは自分の癖(くせ)だ。そっちで真っすぐに直して彫ってくれ」と、面倒くさそうに言ったんです。これには本当に驚きました。とんでもないことを言うものだと思いつつも、私どもは、言われるままに御文字を真っすぐになるように曲尺(かねじゃく)で修正しながら、謹刻したんです。
(前出『聖教新聞』)
このころ、日顕の相承詐称疑惑による正信会僧侶との裁判により、宗門は多数の寺院を失った。これを補うために日顕は、開創七百年慶祝記念の一環として、学会に二百カ寺寄進を申し入れたのである。
◇
日顕は学会の二百カ寺寄進に対して、「おんぶに抱っこで、申し訳ありません。私が命のあるかぎり学会をお守りします」と殊勝なことを口にしたが、その裏では、本山の僧侶に「(二百カ寺寄進をさせるために)ワシが下げたくもない頭を下げたんだ」と言っていた。
(「転落の法主」渡辺雄範著 2004年4月28日発行)
書写の題目が曲がっているのを修正した御本尊は、七、八十体ほどあったという。日顕がどれほど書写しても、肝心な題目の字が曲がってしまうとは、御書に仰せの通りである。
諸経と法華経と難易の事(九九二㌻)にいわく、
「体曲れば影ななめなり」
〝背信の体〟とは、かくの如きである。その口車で学会を騙せても、大御本尊は御照覧である。日顕の曲がった心は、自ら書写した文字に如実に表れていたのである。
彫師に直させた字であれば、書写とは言えない。ゆえに「彫師の心」は伝わろうと、「大聖人の魂」はどこを探しても無い。
「代々の御法主上人がしたためられる御本尊は【日蓮が魂】となる」とは、日顕には遠く及ばぬ話であり、日顕を継いだ日如は言わずもがなである。
(3)〝ステテコ〟本尊
どうあっても御本尊書写に「一心浄念」を込められなければ、〝御法主上人〟と言えども、大御本尊の功徳を御写しすることは叶わない。
◇
昭和五十七年ごろ、日顕の奥番をしていた改革同盟の宮川雄法さんによると、日顕は、御本尊を書写する合間、書きかけの御本尊を何枚も畳の上にも並べっぱなしにして、中座して風呂に入っては、ステテコ姿で庭で休憩しているとか、オートメーションの〝作業〟のように書いているとか。信心を微塵も感じられない姿であったということです。
(発言者:谷川青年部長 『聖教新聞』1993年10月14日)
国書刊行会の「御本尊の書き方」(有賀要延・編著者)には、書写の心得として「斎戒沐浴して」と記されるが、当然のことである。大石寺法主の心根が、他宗他派のそれに及ばないとは、情けない限りではないか。日顕は歴代法主の「面汚し」、文字通りの「落第坊主」である。
3.宗門の御本尊取扱いの実態
宗門は、その大切な御本尊をどう取り扱っていたのか、再び「赤沢朝陽」社長に聞く。
◇
高橋 ところで赤沢さん、宗門の御本尊に関する姿勢はどうだったのですか。
赤沢 学会と宗門の御本尊に対する姿勢は全然違います。これは、謹刻を依頼された時からそうです。学会の場合は、先生はじめ、本当に信心の真心から行われ、扱われていました。それに対し宗門は、御本尊をまるで〝物扱い〟なんです。
谷川 具体的には、どういうことですか。
赤沢 例えば、大石寺では、御本尊の謹刻をうちに依頼してくるときに、御本尊を書写した和紙を郵便書留で送ってくるんですよ。また、化粧直しのための板御本尊を他の業者に頼んで送りつけてくる住職もいます。こういうことについて、もし、途中で事故があったらどうするのか。私どもでは責任を持てないから他の方法を考えていただきたいと本山まで行って直訴(じきそ)したんです。これは平成二年の七月でした。日顕は「うーん、やらないほうがいいな」と言いながらも、結局、何も変わりませんでした。
高橋 いや。日顕は、第一回海外出張御授戒の時、シアトル事件の前に、ハワイでトイレに大切な御本尊を忘れてくるくらいですからね(笑い)。
谷川 昭和五十年でしたか、滋賀県の寺(仏世寺)の坊主が借金に困って、業者と共謀して寺の御本尊を持ち出しておいて、〝持っていかれた〟と狂言を繕(つくろ)い、本山から金を出させようとした、とんでもない事件があったと聞いています。
秋谷 そう。当時、同じ布教区で、教学部長としてその坊主を監督すべき立場だったのが日顕(当時、京都・平安寺住職)だった(笑い)。これだって本当は重大問題です。この時も、全部、学会が解決してあげたんです。
赤沢 あと日顕の御本尊に対する姿勢がおかしいなと思ったことは、実はたくさんあるんです。また、機会があれば、ぜひ、お話させてもらいたい。
細谷 ぜひ、お願いします。それにしても、日顕はどこまで悪いのか計り知れない。
高橋 赤沢さんの話で御本尊謹刻のことも、よりハッキリしましたね。
秋谷 日顕たちが何を言おうと、所詮は、御本尊を〝商売道具〟としか見ない謗法の輩(やから)の猿知恵だ。その悪辣(あくらつ)さは、すでに白日のもとになっていますが、後世のためにも、この前代未聞の悪侶の実像を、今後もしっかり語り残しておきましょう。
(発言者:秋谷会長、細谷副会長、高橋婦人部書記長、谷川青年部長、赤沢猛さん 『聖教新聞』1993年9月30日)
御本尊を〝物扱い〟〝商売道具〟と見る宗門においては、大御本尊の功徳は顕れない。日顕・日如の謗法によって、消え失せてしまうのである。
曾谷殿御返事(一〇五六㌻)にいわく、
「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり」
(了)
妄説:49 御本尊の「書写」とはどういうことですか。
日蓮正宗の各末寺に安置されている御本尊や信徒に下付される御本尊(ニセ本尊は除く)は、すべて根本の御本尊たる本門戒壇の大御本尊のお写しです。御本尊の左下の方を拝すると、「奉書写之」(之(これ)を書写し奉る)としたためられています。
「之(これ)」とは、とりもなおさず本門戒壇の大御本尊のことです。
この戒壇の大御本尊の御内証を書写できるのは、大聖人より唯授一人の血脈を相承された御法主上人ただお一人なのです。
このことは、第五十六世日応上人が
「金口(こんく)嫡々相承を受けざれば、決して本尊の書写をなすこと能(あた)はず」(弁惑観心抄 212頁)
と、はっきり戒められています。
つまり、御本尊の書写とは本門戒壇の大御本尊を所持され、大聖人の仏法の一切を受けられている御法主上人が金口嫡々相承のもとに、その御内証を書写あそばすことであり、他の誰人もできないことです。
かつて、池田大作氏も「われわれの拝受したてまつる御本尊は、血脈付法の代々の御法主上人のみが、分身散体(ふんじんさんたい)の法理からおしたためくださるのである」(広布と人生を語る 一-一一二頁)
と明言していたとおりです。
破折:
1.御本尊書写の心構えとは
大聖人が御本尊を御認(したた)められる際の、御心構えを述べられたのが次の御書である。
経王殿御返事(一一二四㌻)にいわく、
「日蓮守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず、経に云く『師子奮迅之力』とは是なり」
(日蓮が守護の御本尊を認(したた)めるのも師子王に劣らぬ姿勢によってあらわしたのである。法華経涌出品に「師子奮迅の力」とあるのはこれである)
大聖人が全生命を一幅の曼荼羅に込められたゆえに、御本尊は即、日蓮大聖人の御生命そのものであり、偉大な力を秘められるのである。
五十九世日亨法主は、御本尊書写の心構えにつき、次の通り述べる。
◇
本尊書写は、筆の巧拙にのみよるものでなく、一心浄念に身心一如になさるべきで、その願主の熾烈な信仰に酬(むく)いらるるもので、御開山の御用意はもちろんのことであるが、中興日有上人はもとより、代々の写主が本尊に脇書する人名の即身成仏を示すものとなされておる。
(「富士日興上人詳伝(下)」聖教文庫 P227)
御本尊の書写においては、「一心浄念」すなわち気高さ、徳性をもって邪気・煩悩を打ち払い、大御本尊への絶対の信をもって書写に傾注しなくてはならない。「師子奮迅之力」の込められない御本尊に、どうして大御本尊の力用が顕現されるわけがあろうか。
2.日顕書写の本尊
(1)〝誤字脱字〟本尊
ならば、この例はどうか。元・日蓮正宗御用達仏師「赤沢朝陽」社長の証言である。
◇
日顕が書写する御本尊は、実は、不注意で御文字が抜けていることが多い。私どもは、こと御本尊のことでは、一切、間違いがあってはいけないとの厳格な姿勢できました。日顕が末寺や法華講の板御本尊用に書写した和紙が、本山から届いた段階で、謹刻する前に必ず、一体一体を点検するんです。すると、本来あるべき御文字が抜けていたり、名前などの御文字が間違っているんです。細かいのもあげれば、預かった御本尊の一割近くになるかもしれません。(中略)
日達上人の時代には、考えられないことです。なかには「十羅刹女(じゅうらせつにょ) 阿闍世王(あじゃせおう) 大龍王」の三つを一遍に書き忘れていたり、「奉書写之」を抜かしていることもありました。
(『聖教新聞』1993年10月14日)
宗門は「『之(これ)』とは、とりもなおさず本門戒壇の大御本尊のことです」と、「奉書写之」の文字の所以を誇らしげに説く。
「その御内証を書写あそばすこと」「他の誰人もできないこと」と、法主の〝唯授一人〟の立場を強調するが、その象徴とも言うべき大切な文字(「奉書写之」)を、日顕はあっさりと抜かしてしまう。
周囲がどれほど盛り立てようと、片端からぶち壊してしまう不出来な法主、日顕。宗門は、いいかげんうんざりしていることであろう。
このことは、日顕が「大聖人より唯授一人の血脈を相承された御法主上人」では無い、とする重大な事実を露顕するものと言えよう。
(2)〝曲体〟本尊
「赤沢朝陽」社長の証言が続く。
◇
もう一つ、重大なことを申し上げます。実は、日顕は、御本尊の首題の御題目の字が、真っすぐ書けないんです。特に、「華」の字が、なぜか左のほうに曲がってしまうのです。学会の二百カ寺建立寄進が始まって間もなくの昭和六十年ごろから、末寺などの御本尊に、その傾向がひどくなってきました。(中略)
ある時、日顕もそれに気づいて、なんと「これは自分の癖(くせ)だ。そっちで真っすぐに直して彫ってくれ」と、面倒くさそうに言ったんです。これには本当に驚きました。とんでもないことを言うものだと思いつつも、私どもは、言われるままに御文字を真っすぐになるように曲尺(かねじゃく)で修正しながら、謹刻したんです。
(前出『聖教新聞』)
このころ、日顕の相承詐称疑惑による正信会僧侶との裁判により、宗門は多数の寺院を失った。これを補うために日顕は、開創七百年慶祝記念の一環として、学会に二百カ寺寄進を申し入れたのである。
◇
日顕は学会の二百カ寺寄進に対して、「おんぶに抱っこで、申し訳ありません。私が命のあるかぎり学会をお守りします」と殊勝なことを口にしたが、その裏では、本山の僧侶に「(二百カ寺寄進をさせるために)ワシが下げたくもない頭を下げたんだ」と言っていた。
(「転落の法主」渡辺雄範著 2004年4月28日発行)
書写の題目が曲がっているのを修正した御本尊は、七、八十体ほどあったという。日顕がどれほど書写しても、肝心な題目の字が曲がってしまうとは、御書に仰せの通りである。
諸経と法華経と難易の事(九九二㌻)にいわく、
「体曲れば影ななめなり」
〝背信の体〟とは、かくの如きである。その口車で学会を騙せても、大御本尊は御照覧である。日顕の曲がった心は、自ら書写した文字に如実に表れていたのである。
彫師に直させた字であれば、書写とは言えない。ゆえに「彫師の心」は伝わろうと、「大聖人の魂」はどこを探しても無い。
「代々の御法主上人がしたためられる御本尊は【日蓮が魂】となる」とは、日顕には遠く及ばぬ話であり、日顕を継いだ日如は言わずもがなである。
(3)〝ステテコ〟本尊
どうあっても御本尊書写に「一心浄念」を込められなければ、〝御法主上人〟と言えども、大御本尊の功徳を御写しすることは叶わない。
◇
昭和五十七年ごろ、日顕の奥番をしていた改革同盟の宮川雄法さんによると、日顕は、御本尊を書写する合間、書きかけの御本尊を何枚も畳の上にも並べっぱなしにして、中座して風呂に入っては、ステテコ姿で庭で休憩しているとか、オートメーションの〝作業〟のように書いているとか。信心を微塵も感じられない姿であったということです。
(発言者:谷川青年部長 『聖教新聞』1993年10月14日)
国書刊行会の「御本尊の書き方」(有賀要延・編著者)には、書写の心得として「斎戒沐浴して」と記されるが、当然のことである。大石寺法主の心根が、他宗他派のそれに及ばないとは、情けない限りではないか。日顕は歴代法主の「面汚し」、文字通りの「落第坊主」である。
3.宗門の御本尊取扱いの実態
宗門は、その大切な御本尊をどう取り扱っていたのか、再び「赤沢朝陽」社長に聞く。
◇
高橋 ところで赤沢さん、宗門の御本尊に関する姿勢はどうだったのですか。
赤沢 学会と宗門の御本尊に対する姿勢は全然違います。これは、謹刻を依頼された時からそうです。学会の場合は、先生はじめ、本当に信心の真心から行われ、扱われていました。それに対し宗門は、御本尊をまるで〝物扱い〟なんです。
谷川 具体的には、どういうことですか。
赤沢 例えば、大石寺では、御本尊の謹刻をうちに依頼してくるときに、御本尊を書写した和紙を郵便書留で送ってくるんですよ。また、化粧直しのための板御本尊を他の業者に頼んで送りつけてくる住職もいます。こういうことについて、もし、途中で事故があったらどうするのか。私どもでは責任を持てないから他の方法を考えていただきたいと本山まで行って直訴(じきそ)したんです。これは平成二年の七月でした。日顕は「うーん、やらないほうがいいな」と言いながらも、結局、何も変わりませんでした。
高橋 いや。日顕は、第一回海外出張御授戒の時、シアトル事件の前に、ハワイでトイレに大切な御本尊を忘れてくるくらいですからね(笑い)。
谷川 昭和五十年でしたか、滋賀県の寺(仏世寺)の坊主が借金に困って、業者と共謀して寺の御本尊を持ち出しておいて、〝持っていかれた〟と狂言を繕(つくろ)い、本山から金を出させようとした、とんでもない事件があったと聞いています。
秋谷 そう。当時、同じ布教区で、教学部長としてその坊主を監督すべき立場だったのが日顕(当時、京都・平安寺住職)だった(笑い)。これだって本当は重大問題です。この時も、全部、学会が解決してあげたんです。
赤沢 あと日顕の御本尊に対する姿勢がおかしいなと思ったことは、実はたくさんあるんです。また、機会があれば、ぜひ、お話させてもらいたい。
細谷 ぜひ、お願いします。それにしても、日顕はどこまで悪いのか計り知れない。
高橋 赤沢さんの話で御本尊謹刻のことも、よりハッキリしましたね。
秋谷 日顕たちが何を言おうと、所詮は、御本尊を〝商売道具〟としか見ない謗法の輩(やから)の猿知恵だ。その悪辣(あくらつ)さは、すでに白日のもとになっていますが、後世のためにも、この前代未聞の悪侶の実像を、今後もしっかり語り残しておきましょう。
(発言者:秋谷会長、細谷副会長、高橋婦人部書記長、谷川青年部長、赤沢猛さん 『聖教新聞』1993年9月30日)
御本尊を〝物扱い〟〝商売道具〟と見る宗門においては、大御本尊の功徳は顕れない。日顕・日如の謗法によって、消え失せてしまうのである。
曾谷殿御返事(一〇五六㌻)にいわく、
「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり」
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №41~50
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:48」を破折する(その四) 連載71回
妄説:48 「血脈相承の内容についても、『相伝書』が内外に公開されている現在、法主一人に伝わる法門などない」(聖教新聞 H五・九・八)といっていますが、本当ですか。
この説は、創価学会には絶対にない「唯授一人の血脈相承」を否定するために、無理やりいい出したことです。
御相承について、御法主日顕上人は
「金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、身延・池上の二箇(にか)相承が金紙(こんし)として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです」(大日蓮 560-19頁)
と指南され、その証拠に『家中抄(けちゅうしょう)』の道師伝(どうしでん)を引かれ、
「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(聖典 695頁)
と、金紙の存在を明らかにされております。
もちろん、これは唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません。
第五十六世日応上人も、
「仮令(たとい)、広布の日といへども別付(べっぷ)血脈相承なるものは他に披見せしむ可きものに非ず」(研教 二七-四五六頁)
と仰せられ、法体別付属相承が他に披見を許されない秘伝であると指南されています。
私たちは、御当代上人の、その時々に応じた指南を素直に受けとめ、成仏の信心修行に邁進(まいしん)するべきなのです。
部外の者が唯授一人の法体相承をみだりに云云(うんぬん)することは厳に慎(つつし)むべきです。
破折:
7.万人に開示された相伝書
日蓮大聖人の秘伝とは、「問う所説の要言の法とは何物ぞや、答て云く……寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(三大秘法禀承事 一〇二一㌻)と明かされる、三大秘法である。その深義は、日興上人以来の相伝によらねばならないとされるが、そのすべてを網羅・整足して遺されたのが、日寛上人である。
相承を受ける前の日寛上人は、文底秘沈の三大秘法について「宗祖云く『此の経は相伝に非ずんば知り難し』等云云」(「撰時抄愚記上」、文段集271)と述べられ、唯授一人相承の法主以外には、知り得ない事柄であると言われていた。
それが日寛上人の晩年に至り、以下の決意を述べられる。
◇
法華取要抄に云く「問うて曰く如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」云云。
問う此の文意如何。
答う此れは是れ文底秘沈の大事・正像未弘(みぐ)の秘法・蓮祖出世の本懐・末法下種の正体にして宗門の奥義此れに過ぎたるは莫(な)し、故に前代の諸師尚顕(あらわ)に之を宣(の)べず況んや末学の短才何んぞ輙(たやす)く之を解せん、然りと雖も今講次(こうじ)に臨んで遂に已(や)むことを獲ず粗(ほぼ)大旨を撮(と)りて以て之を示さん、初めに本門の本尊を釈し、次に本門の戒壇を釈し、三に本門の題目を明すなり。
(『六巻抄』文底秘沈抄第二)
ここに、日寛上人は唯授一人相承を受けた当事者として、「文底秘沈の三大秘法を初めて開示されたのである。この六巻抄を、五十九世堀日亨法主が次の通り賞賛する。
「釈迦仏の又蓮祖大聖の総てを此中に納めたりとの会心の御作」
(「富士宗学要集」第三巻2頁)
ただしこの六巻抄は、長らく貫主直伝の秘書とされてきたのであり、門流の僧俗は容易にそれを披見することはできなかった。
しかし明治以降、宗門の秘伝書・相伝書類が、次第に出版されるようになった。明治三十七年(一九〇四年)には、五十六世日応が註解した『三重秘伝抄』(『六巻抄』第一巻)が、東京の法道会から出版されている。
そして大正十四年(一九二五年)刊行の『日蓮宗宗学全書』第四巻に六巻抄が収録され、この後、六巻抄は昭和十三年(一九三八年)に日亨法主が編纂した『富士宗学要集』(宗義部之三)にも収められた。
日亨法主は、次の通り述べている。
「此(六巻抄)と本尊抄文段とは特に門外不出貫主直伝の秘書であったが、後世には何日となしに写伝して次第に公開せらるるに至ったのは、善か悪か全く時の流れであらう」
(「日蓮正宗綱要」一九二二年出版)
天台の奥義が真言宗に盗まれた仏法史を繰り返さぬよう、「秘書」は固く守られてきた。だが時代は、「秘書」が広く公開され、より多くの衆生を救済することに第一義が置かれるようになった。「時の流れ」とは、このことを指すものと思われる。
◇
日亨の証言によると、明治三十年代まで、日寛筆の諸々の御書文段の正本はないものと思われていた。だが彼は独自に調査を行い、大石寺宝蔵の棚の上でそれらを発見したという。
(「堀上人に富士宗門史を聞く(一)」『大白蓮華』第六十六号、一九五六年十一月、二一頁 引用:「日蓮正宗の神話」松岡幹夫氏 p176)。
宗門の秘書が出版された意義は、大きかった。
◇
戦前の宗内事情に詳しい竹尾清澄は「僧侶でも六巻抄を所持される方は極めて少数に限られ、勿論印刷されたものはなく、師から弟子に転写されたものであった。産湯相承、本尊七箇の口伝の如きは唯授一人のものと称せられ、その公表はまさに驚倒に値する」「富士宗学要集の公表は闇中の巨燈であった」などと述べ、戦前において富士門の秘書が出版公開されたことの意義を力説している。
(竹尾清澄「畑毛日記」三七頁 引用:「日蓮正宗の神話」同上)
この御書文段につき、昭和五十五年(一九八〇年)発刊の創価学会教学部編「日寛上人文段集」には全文を平易な書き下しで公開している。
こうして日亨法主は相伝書のすべてを開示し、創価学会の出版事業によって、何百万の学会員の研鑚するところとなった。もはや法主だけが知る法門はなくなったのであり、「唯授一人の秘伝」は、その役目を終えたのである。
さらには以下の記事にある通り、宗門法主(六十五世堀米日淳)自身によって、創価学会幹部に毎月の御書講義を通し、その深義を学会に伝授した事実は、今、法滅した宗門に替わり、学会が未来万年にわたる本尊流布の主体たるべきことを、裏付けているのである。
◇
戦後間もない頃から、後に六五世の法主となる堀米日淳が学会本部に毎月のように出向き、昭和三十一(一九五六)年十一月に終了するまで十年もの長きにわたって学会幹部への御書講義を続けた、という事実は注目に値する。宗門の碩学で六巻抄に造詣が深かった日淳の講義を通じて、大石寺の金口相承の根幹的内容である三大秘法義は創価学会員の間に深く浸透していったに違いない。
(「現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義」第五章:現代における三大秘法義の理論的公開 青年僧侶改革同盟 松岡幹夫氏)
検証した通り大聖人の御相伝は、もはや法主信仰主体の宗門においてその意(こころ)は消滅しており、創価学会にこそ正しく受け継がれている、これが歴然たる事実である。
(追記)相伝類の全貌
上記までで今回の破折は論じ終えたが、なお我らの後学のために、掲示しておきたい文章がある。
すなわち日寛上人が観心本尊抄文段に記されたところの、相伝類のすべての名目を明かした内容につき、論文「現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義」(青年僧侶改革同盟 松岡幹夫)において、詳細に解説が為されている。少々引用が長くなるが、相伝類の全貌を概観する上で資するものであり、以下の通り掲載する。なお読者の便宜を図り、文中に№を付した。
◇
日寛上人の観心本尊抄文段にいわく、
「故に当抄に於て重々の相伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝、種脱一百六箇の本迹、三大章疏七面七重口決、台当両家二十四番の勝劣、摩訶止観十重顕観の相伝、四重の興廃、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨の三箇、文上文底、本地垂迹、自行化池、形貌種脱、判摂名字、応仏昇進、久遠元初、名同体異、名異体同、事理の三千、観心教相、本尊七箇の口決、三重の相伝、筆法の大事、明星直見の伝受、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり」(日寛上人文段集443~444)。
金口相承の三大秘法義の理論的開示が完結した時代に生きるわれわれは、大石寺の血脈の承継者たらずとも、上記の「重々の相伝」の内容をすべて説明することができる。
① まず「三種九部の法華経」とは「撰時抄愚記」に「これ則ち広・略・要の中には要の法華経なり。文・義・意の中には意の法華経なり。種・熟・脱の中には下種の法華経なり」(文段集221)と示されるごとく、文義意の法華経・種熟脱の法華経・広略要の法華経を総称した言葉である。また創価学会の『仏教哲学大辞典』第三版には日寛の「三種九部法華経事」の内容の一部が引用され、広く公開されている。
② 次に、「二百廿九条の口伝」とは「御義口伝」(全集708~803)のことをいい、
③ 「三大章疏七面七重口決」(全集870~872)「台当両家廿四番の勝劣」(全集875~876)「摩訶止観十重顕観の相伝」(全集872~875)はいずれも「本因妙抄」の中にある。
④ 「四重の興廃」は、釈尊の教えを爾前経・法華経迹門・法華経本門・観心の四重に配立したもので『法華玄義』に説かれるが、ここでは文底の立場から、三大秘法の妙法の興隆によって寿量文上の本門が廃れるという意を含んでいる。
⑤ 「三重の口伝」は迹門・本門・文底の三重秘伝、
⑥ 「宗教の五箇」は教・機・時・国・教法流布の先後のこと、
⑦ 「宗旨の三箇」は三大秘法の本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目、
⑧ 「文上文底」は法華経の寿量品を本果妙から読めば文上・本因妙から読めば文底となることをいう。
⑨ また多少順番は前後するが、「本地垂迹」「自行化他」「応仏昇進」「久遠元初」はいずれも本仏と迹仏の区別を示すための概念で、日寛の様々な著述の中で論じられている。例えば、「末法相応抄」には「問ふ久遠元初の自受用身と応仏昇進の自受用身とは其異如何、答ふ多の異有りと雖も今一二を説かん、一には謂く本地と垂迹、二には謂く自行と化他、三には謂く名字凡身と色相荘厳、四には謂く人法体一と人法勝劣、五には謂く下種の教主と脱益の化主云云」(要3-174)と示されている。
⑩ さらに「形貌種脱」とは仏の形貌に約して種脱を論ずること、「判摂名字」は「名字に摂まると判ず」と読み、究竟即といっても名字即におさまるとの意である。
⑪ 「名同体異」は名が同じでも本体が異なる様を言い、日寛の「観心本尊抄文段」では、蔵・通・別・迹・本・文底の六種の釈尊が「名同体異の相伝」として示唆されている(文段集531)。
⑫ 反対に、「名異体同」は名を異にしても体が同じとの意で、例えば、釈尊と日蓮が名を異にしながら、ともに本因妙の教主としてその体を一にしていることをいう。
⑬ 「事理の三千」は「迹門理の一念三千」「本門事の一念三千」の区別から一重立ち入った法門、すなわち迹本の一念三千をともに理の一念三千として文底事行の一念三千を顕説する「本因妙抄」の文などを指すと考えられる。
⑭ 「観心教相」は、ここでは釈尊の仏法を教相、日蓮仏法を観心とする勝劣判を意味するのだろう。
⑮ 「本尊七箇口決・三重の相伝・筆法の大事」は、『富士宗学要集』第一巻の「御本尊七箇相承」(要1-31~33)「本尊三度相伝」(要1-35~42)の内容を指すものと思われる。
⑯ 「明星直見の伝受」は現在の「御本尊七箇相承」の中にあり、日蓮が日興に対し、自身が本尊の当体であることを明かした口伝相承とされている。
⑰ 最後の「甚深奥旨・宗門の淵底」は、具体的名目すら明かせぬ金口相承の秘義、という意味ではない。日寛は「文底秘沈抄」の中で、文底秘沈の三大秘法義をもって「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」の極理と規定している。日寛にあっては、「文底秘沈抄」に説かれた三大秘法義以上の「宗門の奥義」など存在しなかった。したがって、ここでいう「甚深奥旨・宗門の淵底」とは、その前に列挙された、三大秘法の本尊義にかかわる様々な教義概念を総括した表現なのである。
(中略)
以上のような教義概念や文献に関する説明は、今日、創価学会が発行する『御書全集』『富士宗学要集』『六巻抄講義』『仏教哲学大辞典』等を参照すれば、誰にでも可能である。この事実は当たり前のようにみえて、まことに驚嘆すべきことではなかろうか。現代は、唯授一人どころか、万人が血脈承継の法主と同等の教義理解をなし得る時代なのである。この刮目すべき事態を到来せしめたものは、第一に日寛による三大秘法義の理論的開示、第二に堀日亨による富士門流の相伝書の出版公開、第三には戦後の創価学会による在家主体の日寛教学継承である。(引用終わり)
なお、本文中の「種脱一百六箇の本迹」についての解説は無いが、「百六箇抄」を指していることは言うまでもない。
(了)
妄説:48 「血脈相承の内容についても、『相伝書』が内外に公開されている現在、法主一人に伝わる法門などない」(聖教新聞 H五・九・八)といっていますが、本当ですか。
この説は、創価学会には絶対にない「唯授一人の血脈相承」を否定するために、無理やりいい出したことです。
御相承について、御法主日顕上人は
「金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、身延・池上の二箇(にか)相承が金紙(こんし)として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです」(大日蓮 560-19頁)
と指南され、その証拠に『家中抄(けちゅうしょう)』の道師伝(どうしでん)を引かれ、
「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(聖典 695頁)
と、金紙の存在を明らかにされております。
もちろん、これは唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません。
第五十六世日応上人も、
「仮令(たとい)、広布の日といへども別付(べっぷ)血脈相承なるものは他に披見せしむ可きものに非ず」(研教 二七-四五六頁)
と仰せられ、法体別付属相承が他に披見を許されない秘伝であると指南されています。
私たちは、御当代上人の、その時々に応じた指南を素直に受けとめ、成仏の信心修行に邁進(まいしん)するべきなのです。
部外の者が唯授一人の法体相承をみだりに云云(うんぬん)することは厳に慎(つつし)むべきです。
破折:
7.万人に開示された相伝書
日蓮大聖人の秘伝とは、「問う所説の要言の法とは何物ぞや、答て云く……寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(三大秘法禀承事 一〇二一㌻)と明かされる、三大秘法である。その深義は、日興上人以来の相伝によらねばならないとされるが、そのすべてを網羅・整足して遺されたのが、日寛上人である。
相承を受ける前の日寛上人は、文底秘沈の三大秘法について「宗祖云く『此の経は相伝に非ずんば知り難し』等云云」(「撰時抄愚記上」、文段集271)と述べられ、唯授一人相承の法主以外には、知り得ない事柄であると言われていた。
それが日寛上人の晩年に至り、以下の決意を述べられる。
◇
法華取要抄に云く「問うて曰く如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」云云。
問う此の文意如何。
答う此れは是れ文底秘沈の大事・正像未弘(みぐ)の秘法・蓮祖出世の本懐・末法下種の正体にして宗門の奥義此れに過ぎたるは莫(な)し、故に前代の諸師尚顕(あらわ)に之を宣(の)べず況んや末学の短才何んぞ輙(たやす)く之を解せん、然りと雖も今講次(こうじ)に臨んで遂に已(や)むことを獲ず粗(ほぼ)大旨を撮(と)りて以て之を示さん、初めに本門の本尊を釈し、次に本門の戒壇を釈し、三に本門の題目を明すなり。
(『六巻抄』文底秘沈抄第二)
ここに、日寛上人は唯授一人相承を受けた当事者として、「文底秘沈の三大秘法を初めて開示されたのである。この六巻抄を、五十九世堀日亨法主が次の通り賞賛する。
「釈迦仏の又蓮祖大聖の総てを此中に納めたりとの会心の御作」
(「富士宗学要集」第三巻2頁)
ただしこの六巻抄は、長らく貫主直伝の秘書とされてきたのであり、門流の僧俗は容易にそれを披見することはできなかった。
しかし明治以降、宗門の秘伝書・相伝書類が、次第に出版されるようになった。明治三十七年(一九〇四年)には、五十六世日応が註解した『三重秘伝抄』(『六巻抄』第一巻)が、東京の法道会から出版されている。
そして大正十四年(一九二五年)刊行の『日蓮宗宗学全書』第四巻に六巻抄が収録され、この後、六巻抄は昭和十三年(一九三八年)に日亨法主が編纂した『富士宗学要集』(宗義部之三)にも収められた。
日亨法主は、次の通り述べている。
「此(六巻抄)と本尊抄文段とは特に門外不出貫主直伝の秘書であったが、後世には何日となしに写伝して次第に公開せらるるに至ったのは、善か悪か全く時の流れであらう」
(「日蓮正宗綱要」一九二二年出版)
天台の奥義が真言宗に盗まれた仏法史を繰り返さぬよう、「秘書」は固く守られてきた。だが時代は、「秘書」が広く公開され、より多くの衆生を救済することに第一義が置かれるようになった。「時の流れ」とは、このことを指すものと思われる。
◇
日亨の証言によると、明治三十年代まで、日寛筆の諸々の御書文段の正本はないものと思われていた。だが彼は独自に調査を行い、大石寺宝蔵の棚の上でそれらを発見したという。
(「堀上人に富士宗門史を聞く(一)」『大白蓮華』第六十六号、一九五六年十一月、二一頁 引用:「日蓮正宗の神話」松岡幹夫氏 p176)。
宗門の秘書が出版された意義は、大きかった。
◇
戦前の宗内事情に詳しい竹尾清澄は「僧侶でも六巻抄を所持される方は極めて少数に限られ、勿論印刷されたものはなく、師から弟子に転写されたものであった。産湯相承、本尊七箇の口伝の如きは唯授一人のものと称せられ、その公表はまさに驚倒に値する」「富士宗学要集の公表は闇中の巨燈であった」などと述べ、戦前において富士門の秘書が出版公開されたことの意義を力説している。
(竹尾清澄「畑毛日記」三七頁 引用:「日蓮正宗の神話」同上)
この御書文段につき、昭和五十五年(一九八〇年)発刊の創価学会教学部編「日寛上人文段集」には全文を平易な書き下しで公開している。
こうして日亨法主は相伝書のすべてを開示し、創価学会の出版事業によって、何百万の学会員の研鑚するところとなった。もはや法主だけが知る法門はなくなったのであり、「唯授一人の秘伝」は、その役目を終えたのである。
さらには以下の記事にある通り、宗門法主(六十五世堀米日淳)自身によって、創価学会幹部に毎月の御書講義を通し、その深義を学会に伝授した事実は、今、法滅した宗門に替わり、学会が未来万年にわたる本尊流布の主体たるべきことを、裏付けているのである。
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戦後間もない頃から、後に六五世の法主となる堀米日淳が学会本部に毎月のように出向き、昭和三十一(一九五六)年十一月に終了するまで十年もの長きにわたって学会幹部への御書講義を続けた、という事実は注目に値する。宗門の碩学で六巻抄に造詣が深かった日淳の講義を通じて、大石寺の金口相承の根幹的内容である三大秘法義は創価学会員の間に深く浸透していったに違いない。
(「現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義」第五章:現代における三大秘法義の理論的公開 青年僧侶改革同盟 松岡幹夫氏)
検証した通り大聖人の御相伝は、もはや法主信仰主体の宗門においてその意(こころ)は消滅しており、創価学会にこそ正しく受け継がれている、これが歴然たる事実である。
(追記)相伝類の全貌
上記までで今回の破折は論じ終えたが、なお我らの後学のために、掲示しておきたい文章がある。
すなわち日寛上人が観心本尊抄文段に記されたところの、相伝類のすべての名目を明かした内容につき、論文「現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義」(青年僧侶改革同盟 松岡幹夫)において、詳細に解説が為されている。少々引用が長くなるが、相伝類の全貌を概観する上で資するものであり、以下の通り掲載する。なお読者の便宜を図り、文中に№を付した。
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日寛上人の観心本尊抄文段にいわく、
「故に当抄に於て重々の相伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝、種脱一百六箇の本迹、三大章疏七面七重口決、台当両家二十四番の勝劣、摩訶止観十重顕観の相伝、四重の興廃、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨の三箇、文上文底、本地垂迹、自行化池、形貌種脱、判摂名字、応仏昇進、久遠元初、名同体異、名異体同、事理の三千、観心教相、本尊七箇の口決、三重の相伝、筆法の大事、明星直見の伝受、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり」(日寛上人文段集443~444)。
金口相承の三大秘法義の理論的開示が完結した時代に生きるわれわれは、大石寺の血脈の承継者たらずとも、上記の「重々の相伝」の内容をすべて説明することができる。
① まず「三種九部の法華経」とは「撰時抄愚記」に「これ則ち広・略・要の中には要の法華経なり。文・義・意の中には意の法華経なり。種・熟・脱の中には下種の法華経なり」(文段集221)と示されるごとく、文義意の法華経・種熟脱の法華経・広略要の法華経を総称した言葉である。また創価学会の『仏教哲学大辞典』第三版には日寛の「三種九部法華経事」の内容の一部が引用され、広く公開されている。
② 次に、「二百廿九条の口伝」とは「御義口伝」(全集708~803)のことをいい、
③ 「三大章疏七面七重口決」(全集870~872)「台当両家廿四番の勝劣」(全集875~876)「摩訶止観十重顕観の相伝」(全集872~875)はいずれも「本因妙抄」の中にある。
④ 「四重の興廃」は、釈尊の教えを爾前経・法華経迹門・法華経本門・観心の四重に配立したもので『法華玄義』に説かれるが、ここでは文底の立場から、三大秘法の妙法の興隆によって寿量文上の本門が廃れるという意を含んでいる。
⑤ 「三重の口伝」は迹門・本門・文底の三重秘伝、
⑥ 「宗教の五箇」は教・機・時・国・教法流布の先後のこと、
⑦ 「宗旨の三箇」は三大秘法の本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目、
⑧ 「文上文底」は法華経の寿量品を本果妙から読めば文上・本因妙から読めば文底となることをいう。
⑨ また多少順番は前後するが、「本地垂迹」「自行化他」「応仏昇進」「久遠元初」はいずれも本仏と迹仏の区別を示すための概念で、日寛の様々な著述の中で論じられている。例えば、「末法相応抄」には「問ふ久遠元初の自受用身と応仏昇進の自受用身とは其異如何、答ふ多の異有りと雖も今一二を説かん、一には謂く本地と垂迹、二には謂く自行と化他、三には謂く名字凡身と色相荘厳、四には謂く人法体一と人法勝劣、五には謂く下種の教主と脱益の化主云云」(要3-174)と示されている。
⑩ さらに「形貌種脱」とは仏の形貌に約して種脱を論ずること、「判摂名字」は「名字に摂まると判ず」と読み、究竟即といっても名字即におさまるとの意である。
⑪ 「名同体異」は名が同じでも本体が異なる様を言い、日寛の「観心本尊抄文段」では、蔵・通・別・迹・本・文底の六種の釈尊が「名同体異の相伝」として示唆されている(文段集531)。
⑫ 反対に、「名異体同」は名を異にしても体が同じとの意で、例えば、釈尊と日蓮が名を異にしながら、ともに本因妙の教主としてその体を一にしていることをいう。
⑬ 「事理の三千」は「迹門理の一念三千」「本門事の一念三千」の区別から一重立ち入った法門、すなわち迹本の一念三千をともに理の一念三千として文底事行の一念三千を顕説する「本因妙抄」の文などを指すと考えられる。
⑭ 「観心教相」は、ここでは釈尊の仏法を教相、日蓮仏法を観心とする勝劣判を意味するのだろう。
⑮ 「本尊七箇口決・三重の相伝・筆法の大事」は、『富士宗学要集』第一巻の「御本尊七箇相承」(要1-31~33)「本尊三度相伝」(要1-35~42)の内容を指すものと思われる。
⑯ 「明星直見の伝受」は現在の「御本尊七箇相承」の中にあり、日蓮が日興に対し、自身が本尊の当体であることを明かした口伝相承とされている。
⑰ 最後の「甚深奥旨・宗門の淵底」は、具体的名目すら明かせぬ金口相承の秘義、という意味ではない。日寛は「文底秘沈抄」の中で、文底秘沈の三大秘法義をもって「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」の極理と規定している。日寛にあっては、「文底秘沈抄」に説かれた三大秘法義以上の「宗門の奥義」など存在しなかった。したがって、ここでいう「甚深奥旨・宗門の淵底」とは、その前に列挙された、三大秘法の本尊義にかかわる様々な教義概念を総括した表現なのである。
(中略)
以上のような教義概念や文献に関する説明は、今日、創価学会が発行する『御書全集』『富士宗学要集』『六巻抄講義』『仏教哲学大辞典』等を参照すれば、誰にでも可能である。この事実は当たり前のようにみえて、まことに驚嘆すべきことではなかろうか。現代は、唯授一人どころか、万人が血脈承継の法主と同等の教義理解をなし得る時代なのである。この刮目すべき事態を到来せしめたものは、第一に日寛による三大秘法義の理論的開示、第二に堀日亨による富士門流の相伝書の出版公開、第三には戦後の創価学会による在家主体の日寛教学継承である。(引用終わり)
なお、本文中の「種脱一百六箇の本迹」についての解説は無いが、「百六箇抄」を指していることは言うまでもない。
(了)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №41~50
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:48」を破折する(その三) 連載70回
妄説:48 「血脈相承の内容についても、『相伝書』が内外に公開されている現在、法主一人に伝わる法門などない」(聖教新聞 H五・九・八)といっていますが、本当ですか。
この説は、創価学会には絶対にない「唯授一人の血脈相承」を否定するために、無理やりいい出したことです。
御相承について、御法主日顕上人は
「金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、身延・池上の二箇(にか)相承が金紙(こんし)として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです」(大日蓮 560-19頁)
と指南され、その証拠に『家中抄(けちゅうしょう)』の道師伝(どうしでん)を引かれ、
「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(聖典 695頁)
と、金紙の存在を明らかにされております。
もちろん、これは唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません。
第五十六世日応上人も、
「仮令(たとい)、広布の日といへども別付(べっぷ)血脈相承なるものは他に披見せしむ可きものに非ず」(研教 二七-四五六頁)
と仰せられ、法体別付属相承が他に披見を許されない秘伝であると指南されています。
私たちは、御当代上人の、その時々に応じた指南を素直に受けとめ、成仏の信心修行に邁進(まいしん)するべきなのです。
部外の者が唯授一人の法体相承をみだりに云云(うんぬん)することは厳に慎(つつし)むべきです。
破折:
6.〈五十七世阿部日正〉「面授相承」の途絶(続き)
6-2.相承にかかる謎
(7)〝死活相承〟の伝説
何ゆえ細井管長(日達法主)は、五十七世日正の相承の記録を塗り変え、全く違う話としてしまったのか。それは細井管長の、宗門での立場を考慮する必要がある。
細井管長は、阿部日主を師匠として得度した直弟子である。師匠と弟子との関係は、血のつながった親子の絆より強いと言われる。
その師匠が面授相承をできず、やむなく在家に相承を預け、死亡した事実を宗史に刻むのは忍びない。「唯授一人の血脈相承」であるべき宗門の伝統に、傷を付けることとなる。否、相承に断絶などあってはならない。それを物語るものに、「死活相承」の伝説がある。
◇
死活とは只事ではないが、これは現実離れしたオカルトというよりも、ほとんど喜劇的な相承伝説である。
第十四世の日主上人は、上野(群馬県)館林城主の血を引くとされ、十三歳から十三世・日院上人の直弟子であった。
伝説によると、日主上人危篤の知らせを受けた代官の寂日坊が、栃木県の蓮行寺に駆け付けたが臨終に間に合わず、日主上人はすでに息を引き取った後であったという。これでは代官による預かり相承とはいえ口頭で相承することはできない。「唯授一人の血脈」は断絶してしまう。
ところが、死亡して床に横わっていた日主上人は、寂日坊が入室するとガバッと生き返り、相承を無事に終え、ふたたび死んだという。
むろん後世に捏造された話だろうが、「法水瀉瓶」「血脈相承」の伝統を守るためには系譜が途切れてはいけない。そのために死人まで生き返らせてしまったのである。このような話を作り出さなければならないほど、すでにこの当時、「血脈相承」に神秘性をつけ加え、権威を持たせる必要があったのである。
面授相承を重視するあまり、「面授は本当にあったのだ、その証拠に・・・」と、怪しげなというよりも滑稽極まる「死活相承」まで作り出したのである。
日主上人にまつわる根強い死活相承の伝説に対して、大正十二年四月号の『大日蓮』において堀日亨上人は、今までの死活相承は後世の捏造であったと論評している。
(「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
上記の話にある通り、「唯授一人の血脈相承」とは「面授相承」の形をとらなければならないのであり、「在家の預かり相承」では不完全である。
しかし、細井管長が「預かり相承」の顛末を記載した書籍(※)を発行してから、十五、六年後(昭和四十七年)ともなれば、大正十二年当時の相承から半世紀も経過している。相承に関わった者は、もはやこの世にいない。「面授相承は滞りなく取り行われた」としておけば、師匠に傷が付かないし、宗史に汚点を残さない。
(※)(「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」昭和三十一年、日蓮正宗布教会編著、日蓮正宗布教会〈代表・細井精道〉発行)
「都合よく作られたものである」と、宗門等が学会を誹謗した言葉は、自分達・宗門の体質をそのまま言い当てているのである。
なお、引用された「大白蓮華」の記事は僧俗和合当時のものであり、宗門から取材した通りの内容である。宗門はそれを承知の上で、反証として持ち出したのである。宗門がついたウソであっても、ウソを信じきってそのまま載せた学会が悪いと言うのか。
「みよ、かつての学会は、真相に基づき、明らかに、『在家に相承を託した』『蓮華寺で相承した』等の妄説を打ち破っているではないか」と宗門等は言うが、まことに空々しく、常人の感覚ではない。
虚偽の言葉を繰り返し、あたかも真実であるかの如くの印象を植え付ける、これが宗門の常套手段である。「嘘も千回重ねれば真実となる」と巷間言われるが、それを地で行くのが日顕宗である。
(8)C説:「駆けつけて来た御節介屋」
相承につき相反する二つの説の出所は、ともに細井管長である。かたや細井管長の発行書籍(A説)、かたや細井管長の講話(B説)。ところが、阿部日正の相承を伝えるもう一つの記録がある(これをC説とする)。
日正が逝去した八月十八日当日、「今際(いまわ)のきわ」に駆けつけた弟子がいた。これが前出の「御節介屋」と思しき人物であり、以下はその概略である。
◇
大正十二年八月十八日、静岡県興津町(当時の町名)の海辺の家を借りて療養していた日正が日開を呼んだ。急いで日正の側に来た日開は日正を見るや、臨終と早合点して大声で題目を唱えたため、日正は一時、失神したという。(中略)
早合点した日開の大声で一時、気を失っていた日正は意識を取り戻すと、枕元の日開と日隆の二人に「筆を取って記せ」と命じて、空中や畳に指で文字を記したが、全く読み取れなかった。
側にいた崎尾正道が日正を抱き上げ、耳に口を当て「阿部さんですか?」と聞くと日正は頭を横に振った。
「堀さんですか?」、また横に振った。
「有元さんですか?」、なおも横に振った。
仕方なく「学頭さんですか?」と聞くと、首を縦に振った。再び「学頭さんですか?」と聞くと、やはり縦に振った。三度目、四度目の時は最早、臨終で返答はなかった。
最初に聞くべき「学頭さんですか?」を最後に回し、日正の今際の際に、首を何とか、横に振らせようと、執拗に何度も日正に「学頭さんですか?」と問い糺しているところに、日開一派の鬼気迫る執念が感じられる。
以上のような興津町での日正の最期の模様は「日正上人 日柱上人 御相承関係趣意書」という文書に関戸時次郎の証言として記載されている。
(「フェイク」第1314号 発行=12.08.18)
記事の執筆者は、日開が勢い込んでやってきた理由を、次のように解き明かしている。
◇
日開が早合点した理由は、日正が次期法主を指名しないまま死ねば「相承は私が受けた」と公表する下心があったからだ。
ちょうど、日達法主の急死後、相承を詐称した日顕と同じ図式である。そのため、日開は日正の死の瞬間、居合わせねばならない。その思いが強すぎたため、日開は早合点したのだった。
日正と日柱は明治四十一年の学頭選挙で争ったことがある。その際、日正擁立派の中心であった日開や水谷日隆(後の六十一世)の策謀で、日柱が七十八日間も投獄されるという事件があった。日開と日柱は、それ以来の宿敵である。
万一、日柱が登座すれば、日開が猊座に登る可能性は極めて薄くなる。それ故、日開は日正の指名を得る必要があったのだ。
己の野望の為、日開は日正がガンで病床に伏すようになると「転地療養」と称して興津町に幽閉し、己の派閥の僧達を周囲に配して、日柱とその一派が近づけないようにしたのだった。
第一次宗門事件の際、日達法主に狡猾に取りいった山崎正友が「玉は俺の手中にある」と豪語したように、日開も「玉を掌中にした」と、ほくそ笑んだ事だろう。
(同)
日開は日顕の父親である。謀略の血は争えない、との感を深くする。
当時の宗規では大学頭が、次の法主となることが定められていた。だから日正が別に後継者を指名しなければ、宗規に基づき、大学頭である土屋慈観(日柱)が就任することとなる。
だからこそ、日開は日正の臨終の間際に、法主から指名を得る必要があった。指名を得られなくとも、「指名された」と言うつもりであった。ところが、日開の「その思いが強すぎた」ために、臨終と早合点してしまったのである。
(9)臨終の様相
日正の臨終の様相は、A説・B説及びC説とでは、またも異なるものとなっている。
細井管長の書籍(A説)においては、次の通り伝える。
「かくて八月十七日の夕刻に於て明朝遺言をするから皆んな呼んでおけとの仰せがあったので、周囲の者は慌てて、四方へ電報を打つやら電話を掛けるやらしたのである。其の夜半に於て弟子共への御遺言があり、それぞれ近親への御遺言もあり、而して夜はホノボノと明けゆく時、四方より重立った人が駆けつけて来たのであるが、五時頃になると、皆を此れに呼べ、と仰せられて、一同は上人の枕辺に集まったのである。一同着坐し終るや上人はずっと見廻わされて、やがて侍僧に紙と筆とを持って来る様にと仰せられた。侍僧は静かに立って用意をした。そこで上人は徐ろに『大僧正の権は大学頭日柱に相承する』と御遺言を遊ばされ、侍僧の認めた料紙を手にとって御覧になり、更に署名と花押とを認める様に命じ給い、御手を差し伸べて指の先にて花押の御指図があった。此れが終るや再び一同を見廻してそれから目を閉じられたのである」
(前出「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」 引用:「地涌」第316号)
同じ細井管長の講話(B説)では次の通りとなっている。
◇
(今夜あたりが危ないとの医者の話に、皆がお側を離れずにいたところ)1時間ばかりおやすみになって目が醒められて、「ああ気持がよかった」とおっしゃった。それから2時間ばかりたって、(大正2年8月)18日の朝7時頃ですが御入滅になりました次第でございます。
(第66世日達上人・昭和47年6月1日の日正上人第50遠忌の砌のお言葉 『慧妙』H16.4.16)
〇A説:遺言の儀が完璧に挙行され、一山の管長の最期を留める記録として、滞り無い。だが、かえって出来過ぎの感があり、「後になって誰からも異論を差し挟む余地のないよう、作られて書いたもの」の印象がある。美化され脚色されたものと推論せざるを得ない。
〇B説:すでに面授相承を済ませた後となっているため、さしたる状況は伝えていない。法主が逝去前、ただ一言「ああ気持がよかった」とある。法主はよどみなく言葉を発しており、「舌癌」ではなかった、と強調しているようである。
〇C説:師弟子のやりとりが、その場に居なければ書き留められない、臨場感・緊迫感に満ちていて、鬼気迫るものがある。
細井管長発行の書籍(A説)と講話(B説)とのどちらにも、日正が逝去した八月十八日に阿部法運(日開)が駆けつけた、との記載は一切無い。法主経験者に纏わる不穏な話は、記録に載せないのが宗門の秩序というものであろう。だが、それでは記録書としての信憑性はない。
臨終の様相として信ずるに足るものは、C説しかない。
前回、「A説とB説とは、百八十度、話の趣が異なり、両立できない。『どちらかが嘘』であるか、あるいは『どちらとも嘘』である」と書いた。
預かり相承の件では、書籍(A説)が正しく、講話(B説)は嘘であった。そして臨終の様相においては、A説とB説の「どちらとも嘘」であった。宗門の記録は、必ず検証してかからねばならない。嘘を平然と書き記し、平然と話に載せるのが、宗門と言うものである。
(10)日正法主の死因は舌癌か
「阿部日正は舌ガンにより、大正十二年八月十八日、養生先の静岡県興津で亡くなった」(「暁闇」北林芳典著 断簡十四より)
この記事に対し、宗門・法華講は細井管長の講説をもって、虚偽であると決めつける。しかし〝日正上人が癌であった〟と書いたのは、当の細井管長である。宗門は次の記事を一読すべし。
「日正上人の御病気の事であるが、大正十一年秋頃下顎に極めて小さな丁度楊子の先程のものが出来たので、東京の某病院で診察を受けられたが、何んだか判然としなかったのである。其の後に上京の節には同博士に診察を受けられたが、結局どうも此れは癌らしいと言うことになって其の治療を受けられたのである。大正十二年の入梅をひかえて僅か数日間の予定で興津に御出かけ遊ばされたのである。然し上人の御健康を気遣う周囲のものが此の夏は寧ろ、海岸に於て御静養遊ばされた方が好くないかと云うことで、俄かに一軒家を借りて其処に御滞在をお願い申上げたのであった。上人は蒲柳の質であらせられて、常に其の御健康に就いて御気遣申上げていたので有る。(此のことはむしろ上人は弟子共が海水浴をしたいので家まで借りたと御考えになって笑っていられた)」
(前出「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」)
本書の趣旨を補って余りあるのは、第三者の証言記録(C説)である。
阿部日正は口を利くことができず、指を以て知らしめようとする。崎尾正道が執拗に「〇〇さんですか?」と尋ねるたび、日正は首を振って答える。日正の意志こそはっきりしているものの、口を利くことができない。舌を動かせないのである。
日正が舌癌であったことは、細井管長発行の書籍と、臨終の現場を綴った第三者の証言とによって、明らかである。宗門の言うことは、すべてが嘘である。
日正が業病で亡くなったのは、謗法との「与同罪」の現罰であったのか。全ては厳正なる因果律による果報である、と言うしかない。
(11)法主逝去時の不祥事
「日正上人が亡くなられたとき、日正上人所持の相伝書のうち何冊かを盗んで、みずからが相承を受けたと騒いだ不埒な僧がいた」
(「地涌」第354号)
上記については、次の説明がある。
◇
堀上人が言う「崎尾の相承」とは、五十七世の阿部日正上人が持っていた相伝書を正師の臨終間際、側に仕えていた崎尾正道がこっそり抜いて持っていたもの。その相伝書の中身は、五十五世下山日布上人が相承のことを書き記したものと言われるが、要するに、布師も正師も柱師も、堀上人が自分の研さんで得た以上のものは、持っていなかったということである。
(「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
相伝書を盗んだのは、崎尾正道であった。五十九世日亨法主の談話には、その崎尾正道から、相承の内容を聞き取ったとある。
◇
崎尾の相承もそうだよ。中(光達)とか、多くの信徒が涙声でたのみこむものだから、ついワシも傍観できず、二階に上げて聞いたが、案の定、学問する者にとってはビックリするほどの内容もなく、大ミエを切って、これが相承であるぞというものではなかったよ。
(「亨師談聴聞記」大橋慈譲記録 昭和二十六年 夏)
日正が亡くなり、中、牧野の在家二人がその意志を継ぎ、相承書を土屋日柱のもとに届けた。だがその相承書は、崎尾正道が何冊かを抜き出した残りのものであった。
面授相承はできず、相承書も抜き取られた〝痩せ細った相承〟であった。「唯授一人の血脈相承」など〝有名無実〟〝謳(うた)い文句〟に過ぎなかった。
だが、宗史では「面目無い話」は載せられない。だから直弟子の細井管長が作成した書籍には、〝かくて日柱上人との脈絡は完全についたのである〟と、強調して記されているのである。
(12)日開の思惑が外れたこと
「御遷化の報が四方に伝えられるや、宗門は哀愁の底に落ちた、しかし此の時に於ても中には種々憶測をする者もあって御遺言は日柱上人か日開上人かを確め様とする者もあって、近侍の者にしきりと尋ねる者もあった。近侍の者のうち次の座敷にいた末輩の者が、御声が聞えなかったと答えたのが、一方に誤った噂さとなったのである。それは其の後葬送の席に於て日柱上人か日開上人かハッキリしなかったというではないか、と云う話が出たので、其の時日開上人は大学頭ではない筈だがと言ったら口を噤んで了った。日開上人への御相承を期待した人達の心情を察すべきである」
(「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」 引用:「地涌」第316号)
法主の「御声が聞えなかった」のは、次の座敷にいた者だけではない、言葉を話せないから、誰にも聞こえるはずが無かったのである。
上記では日開の思惑が外れ、それに追随した勢力が意気消沈したであろうことに言及した。だが、これであきらめる日開ではなかった。彼の野望が本領を発揮するのは、まだこれからである。
(続く)
妄説:48 「血脈相承の内容についても、『相伝書』が内外に公開されている現在、法主一人に伝わる法門などない」(聖教新聞 H五・九・八)といっていますが、本当ですか。
この説は、創価学会には絶対にない「唯授一人の血脈相承」を否定するために、無理やりいい出したことです。
御相承について、御法主日顕上人は
「金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、身延・池上の二箇(にか)相承が金紙(こんし)として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです」(大日蓮 560-19頁)
と指南され、その証拠に『家中抄(けちゅうしょう)』の道師伝(どうしでん)を引かれ、
「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(聖典 695頁)
と、金紙の存在を明らかにされております。
もちろん、これは唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません。
第五十六世日応上人も、
「仮令(たとい)、広布の日といへども別付(べっぷ)血脈相承なるものは他に披見せしむ可きものに非ず」(研教 二七-四五六頁)
と仰せられ、法体別付属相承が他に披見を許されない秘伝であると指南されています。
私たちは、御当代上人の、その時々に応じた指南を素直に受けとめ、成仏の信心修行に邁進(まいしん)するべきなのです。
部外の者が唯授一人の法体相承をみだりに云云(うんぬん)することは厳に慎(つつし)むべきです。
破折:
6.〈五十七世阿部日正〉「面授相承」の途絶(続き)
6-2.相承にかかる謎
(7)〝死活相承〟の伝説
何ゆえ細井管長(日達法主)は、五十七世日正の相承の記録を塗り変え、全く違う話としてしまったのか。それは細井管長の、宗門での立場を考慮する必要がある。
細井管長は、阿部日主を師匠として得度した直弟子である。師匠と弟子との関係は、血のつながった親子の絆より強いと言われる。
その師匠が面授相承をできず、やむなく在家に相承を預け、死亡した事実を宗史に刻むのは忍びない。「唯授一人の血脈相承」であるべき宗門の伝統に、傷を付けることとなる。否、相承に断絶などあってはならない。それを物語るものに、「死活相承」の伝説がある。
◇
死活とは只事ではないが、これは現実離れしたオカルトというよりも、ほとんど喜劇的な相承伝説である。
第十四世の日主上人は、上野(群馬県)館林城主の血を引くとされ、十三歳から十三世・日院上人の直弟子であった。
伝説によると、日主上人危篤の知らせを受けた代官の寂日坊が、栃木県の蓮行寺に駆け付けたが臨終に間に合わず、日主上人はすでに息を引き取った後であったという。これでは代官による預かり相承とはいえ口頭で相承することはできない。「唯授一人の血脈」は断絶してしまう。
ところが、死亡して床に横わっていた日主上人は、寂日坊が入室するとガバッと生き返り、相承を無事に終え、ふたたび死んだという。
むろん後世に捏造された話だろうが、「法水瀉瓶」「血脈相承」の伝統を守るためには系譜が途切れてはいけない。そのために死人まで生き返らせてしまったのである。このような話を作り出さなければならないほど、すでにこの当時、「血脈相承」に神秘性をつけ加え、権威を持たせる必要があったのである。
面授相承を重視するあまり、「面授は本当にあったのだ、その証拠に・・・」と、怪しげなというよりも滑稽極まる「死活相承」まで作り出したのである。
日主上人にまつわる根強い死活相承の伝説に対して、大正十二年四月号の『大日蓮』において堀日亨上人は、今までの死活相承は後世の捏造であったと論評している。
(「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
上記の話にある通り、「唯授一人の血脈相承」とは「面授相承」の形をとらなければならないのであり、「在家の預かり相承」では不完全である。
しかし、細井管長が「預かり相承」の顛末を記載した書籍(※)を発行してから、十五、六年後(昭和四十七年)ともなれば、大正十二年当時の相承から半世紀も経過している。相承に関わった者は、もはやこの世にいない。「面授相承は滞りなく取り行われた」としておけば、師匠に傷が付かないし、宗史に汚点を残さない。
(※)(「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」昭和三十一年、日蓮正宗布教会編著、日蓮正宗布教会〈代表・細井精道〉発行)
「都合よく作られたものである」と、宗門等が学会を誹謗した言葉は、自分達・宗門の体質をそのまま言い当てているのである。
なお、引用された「大白蓮華」の記事は僧俗和合当時のものであり、宗門から取材した通りの内容である。宗門はそれを承知の上で、反証として持ち出したのである。宗門がついたウソであっても、ウソを信じきってそのまま載せた学会が悪いと言うのか。
「みよ、かつての学会は、真相に基づき、明らかに、『在家に相承を託した』『蓮華寺で相承した』等の妄説を打ち破っているではないか」と宗門等は言うが、まことに空々しく、常人の感覚ではない。
虚偽の言葉を繰り返し、あたかも真実であるかの如くの印象を植え付ける、これが宗門の常套手段である。「嘘も千回重ねれば真実となる」と巷間言われるが、それを地で行くのが日顕宗である。
(8)C説:「駆けつけて来た御節介屋」
相承につき相反する二つの説の出所は、ともに細井管長である。かたや細井管長の発行書籍(A説)、かたや細井管長の講話(B説)。ところが、阿部日正の相承を伝えるもう一つの記録がある(これをC説とする)。
日正が逝去した八月十八日当日、「今際(いまわ)のきわ」に駆けつけた弟子がいた。これが前出の「御節介屋」と思しき人物であり、以下はその概略である。
◇
大正十二年八月十八日、静岡県興津町(当時の町名)の海辺の家を借りて療養していた日正が日開を呼んだ。急いで日正の側に来た日開は日正を見るや、臨終と早合点して大声で題目を唱えたため、日正は一時、失神したという。(中略)
早合点した日開の大声で一時、気を失っていた日正は意識を取り戻すと、枕元の日開と日隆の二人に「筆を取って記せ」と命じて、空中や畳に指で文字を記したが、全く読み取れなかった。
側にいた崎尾正道が日正を抱き上げ、耳に口を当て「阿部さんですか?」と聞くと日正は頭を横に振った。
「堀さんですか?」、また横に振った。
「有元さんですか?」、なおも横に振った。
仕方なく「学頭さんですか?」と聞くと、首を縦に振った。再び「学頭さんですか?」と聞くと、やはり縦に振った。三度目、四度目の時は最早、臨終で返答はなかった。
最初に聞くべき「学頭さんですか?」を最後に回し、日正の今際の際に、首を何とか、横に振らせようと、執拗に何度も日正に「学頭さんですか?」と問い糺しているところに、日開一派の鬼気迫る執念が感じられる。
以上のような興津町での日正の最期の模様は「日正上人 日柱上人 御相承関係趣意書」という文書に関戸時次郎の証言として記載されている。
(「フェイク」第1314号 発行=12.08.18)
記事の執筆者は、日開が勢い込んでやってきた理由を、次のように解き明かしている。
◇
日開が早合点した理由は、日正が次期法主を指名しないまま死ねば「相承は私が受けた」と公表する下心があったからだ。
ちょうど、日達法主の急死後、相承を詐称した日顕と同じ図式である。そのため、日開は日正の死の瞬間、居合わせねばならない。その思いが強すぎたため、日開は早合点したのだった。
日正と日柱は明治四十一年の学頭選挙で争ったことがある。その際、日正擁立派の中心であった日開や水谷日隆(後の六十一世)の策謀で、日柱が七十八日間も投獄されるという事件があった。日開と日柱は、それ以来の宿敵である。
万一、日柱が登座すれば、日開が猊座に登る可能性は極めて薄くなる。それ故、日開は日正の指名を得る必要があったのだ。
己の野望の為、日開は日正がガンで病床に伏すようになると「転地療養」と称して興津町に幽閉し、己の派閥の僧達を周囲に配して、日柱とその一派が近づけないようにしたのだった。
第一次宗門事件の際、日達法主に狡猾に取りいった山崎正友が「玉は俺の手中にある」と豪語したように、日開も「玉を掌中にした」と、ほくそ笑んだ事だろう。
(同)
日開は日顕の父親である。謀略の血は争えない、との感を深くする。
当時の宗規では大学頭が、次の法主となることが定められていた。だから日正が別に後継者を指名しなければ、宗規に基づき、大学頭である土屋慈観(日柱)が就任することとなる。
だからこそ、日開は日正の臨終の間際に、法主から指名を得る必要があった。指名を得られなくとも、「指名された」と言うつもりであった。ところが、日開の「その思いが強すぎた」ために、臨終と早合点してしまったのである。
(9)臨終の様相
日正の臨終の様相は、A説・B説及びC説とでは、またも異なるものとなっている。
細井管長の書籍(A説)においては、次の通り伝える。
「かくて八月十七日の夕刻に於て明朝遺言をするから皆んな呼んでおけとの仰せがあったので、周囲の者は慌てて、四方へ電報を打つやら電話を掛けるやらしたのである。其の夜半に於て弟子共への御遺言があり、それぞれ近親への御遺言もあり、而して夜はホノボノと明けゆく時、四方より重立った人が駆けつけて来たのであるが、五時頃になると、皆を此れに呼べ、と仰せられて、一同は上人の枕辺に集まったのである。一同着坐し終るや上人はずっと見廻わされて、やがて侍僧に紙と筆とを持って来る様にと仰せられた。侍僧は静かに立って用意をした。そこで上人は徐ろに『大僧正の権は大学頭日柱に相承する』と御遺言を遊ばされ、侍僧の認めた料紙を手にとって御覧になり、更に署名と花押とを認める様に命じ給い、御手を差し伸べて指の先にて花押の御指図があった。此れが終るや再び一同を見廻してそれから目を閉じられたのである」
(前出「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」 引用:「地涌」第316号)
同じ細井管長の講話(B説)では次の通りとなっている。
◇
(今夜あたりが危ないとの医者の話に、皆がお側を離れずにいたところ)1時間ばかりおやすみになって目が醒められて、「ああ気持がよかった」とおっしゃった。それから2時間ばかりたって、(大正2年8月)18日の朝7時頃ですが御入滅になりました次第でございます。
(第66世日達上人・昭和47年6月1日の日正上人第50遠忌の砌のお言葉 『慧妙』H16.4.16)
〇A説:遺言の儀が完璧に挙行され、一山の管長の最期を留める記録として、滞り無い。だが、かえって出来過ぎの感があり、「後になって誰からも異論を差し挟む余地のないよう、作られて書いたもの」の印象がある。美化され脚色されたものと推論せざるを得ない。
〇B説:すでに面授相承を済ませた後となっているため、さしたる状況は伝えていない。法主が逝去前、ただ一言「ああ気持がよかった」とある。法主はよどみなく言葉を発しており、「舌癌」ではなかった、と強調しているようである。
〇C説:師弟子のやりとりが、その場に居なければ書き留められない、臨場感・緊迫感に満ちていて、鬼気迫るものがある。
細井管長発行の書籍(A説)と講話(B説)とのどちらにも、日正が逝去した八月十八日に阿部法運(日開)が駆けつけた、との記載は一切無い。法主経験者に纏わる不穏な話は、記録に載せないのが宗門の秩序というものであろう。だが、それでは記録書としての信憑性はない。
臨終の様相として信ずるに足るものは、C説しかない。
前回、「A説とB説とは、百八十度、話の趣が異なり、両立できない。『どちらかが嘘』であるか、あるいは『どちらとも嘘』である」と書いた。
預かり相承の件では、書籍(A説)が正しく、講話(B説)は嘘であった。そして臨終の様相においては、A説とB説の「どちらとも嘘」であった。宗門の記録は、必ず検証してかからねばならない。嘘を平然と書き記し、平然と話に載せるのが、宗門と言うものである。
(10)日正法主の死因は舌癌か
「阿部日正は舌ガンにより、大正十二年八月十八日、養生先の静岡県興津で亡くなった」(「暁闇」北林芳典著 断簡十四より)
この記事に対し、宗門・法華講は細井管長の講説をもって、虚偽であると決めつける。しかし〝日正上人が癌であった〟と書いたのは、当の細井管長である。宗門は次の記事を一読すべし。
「日正上人の御病気の事であるが、大正十一年秋頃下顎に極めて小さな丁度楊子の先程のものが出来たので、東京の某病院で診察を受けられたが、何んだか判然としなかったのである。其の後に上京の節には同博士に診察を受けられたが、結局どうも此れは癌らしいと言うことになって其の治療を受けられたのである。大正十二年の入梅をひかえて僅か数日間の予定で興津に御出かけ遊ばされたのである。然し上人の御健康を気遣う周囲のものが此の夏は寧ろ、海岸に於て御静養遊ばされた方が好くないかと云うことで、俄かに一軒家を借りて其処に御滞在をお願い申上げたのであった。上人は蒲柳の質であらせられて、常に其の御健康に就いて御気遣申上げていたので有る。(此のことはむしろ上人は弟子共が海水浴をしたいので家まで借りたと御考えになって笑っていられた)」
(前出「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」)
本書の趣旨を補って余りあるのは、第三者の証言記録(C説)である。
阿部日正は口を利くことができず、指を以て知らしめようとする。崎尾正道が執拗に「〇〇さんですか?」と尋ねるたび、日正は首を振って答える。日正の意志こそはっきりしているものの、口を利くことができない。舌を動かせないのである。
日正が舌癌であったことは、細井管長発行の書籍と、臨終の現場を綴った第三者の証言とによって、明らかである。宗門の言うことは、すべてが嘘である。
日正が業病で亡くなったのは、謗法との「与同罪」の現罰であったのか。全ては厳正なる因果律による果報である、と言うしかない。
(11)法主逝去時の不祥事
「日正上人が亡くなられたとき、日正上人所持の相伝書のうち何冊かを盗んで、みずからが相承を受けたと騒いだ不埒な僧がいた」
(「地涌」第354号)
上記については、次の説明がある。
◇
堀上人が言う「崎尾の相承」とは、五十七世の阿部日正上人が持っていた相伝書を正師の臨終間際、側に仕えていた崎尾正道がこっそり抜いて持っていたもの。その相伝書の中身は、五十五世下山日布上人が相承のことを書き記したものと言われるが、要するに、布師も正師も柱師も、堀上人が自分の研さんで得た以上のものは、持っていなかったということである。
(「法主詐称」憂宗護法同盟著 2003年7月16日初版)
相伝書を盗んだのは、崎尾正道であった。五十九世日亨法主の談話には、その崎尾正道から、相承の内容を聞き取ったとある。
◇
崎尾の相承もそうだよ。中(光達)とか、多くの信徒が涙声でたのみこむものだから、ついワシも傍観できず、二階に上げて聞いたが、案の定、学問する者にとってはビックリするほどの内容もなく、大ミエを切って、これが相承であるぞというものではなかったよ。
(「亨師談聴聞記」大橋慈譲記録 昭和二十六年 夏)
日正が亡くなり、中、牧野の在家二人がその意志を継ぎ、相承書を土屋日柱のもとに届けた。だがその相承書は、崎尾正道が何冊かを抜き出した残りのものであった。
面授相承はできず、相承書も抜き取られた〝痩せ細った相承〟であった。「唯授一人の血脈相承」など〝有名無実〟〝謳(うた)い文句〟に過ぎなかった。
だが、宗史では「面目無い話」は載せられない。だから直弟子の細井管長が作成した書籍には、〝かくて日柱上人との脈絡は完全についたのである〟と、強調して記されているのである。
(12)日開の思惑が外れたこと
「御遷化の報が四方に伝えられるや、宗門は哀愁の底に落ちた、しかし此の時に於ても中には種々憶測をする者もあって御遺言は日柱上人か日開上人かを確め様とする者もあって、近侍の者にしきりと尋ねる者もあった。近侍の者のうち次の座敷にいた末輩の者が、御声が聞えなかったと答えたのが、一方に誤った噂さとなったのである。それは其の後葬送の席に於て日柱上人か日開上人かハッキリしなかったというではないか、と云う話が出たので、其の時日開上人は大学頭ではない筈だがと言ったら口を噤んで了った。日開上人への御相承を期待した人達の心情を察すべきである」
(「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」 引用:「地涌」第316号)
法主の「御声が聞えなかった」のは、次の座敷にいた者だけではない、言葉を話せないから、誰にも聞こえるはずが無かったのである。
上記では日開の思惑が外れ、それに追随した勢力が意気消沈したであろうことに言及した。だが、これであきらめる日開ではなかった。彼の野望が本領を発揮するのは、まだこれからである。
(続く)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №41~50
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:48」を破折する(その二) 連載69回
妄説:48 「血脈相承の内容についても、『相伝書』が内外に公開されている現在、法主一人に伝わる法門などない」(聖教新聞 H五・九・八)といっていますが、本当ですか。
この説は、創価学会には絶対にない「唯授一人の血脈相承」を否定するために、無理やりいい出したことです。
御相承について、御法主日顕上人は
「金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、身延・池上の二箇(にか)相承が金紙(こんし)として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです」(大日蓮 560-19頁)
と指南され、その証拠に『家中抄(けちゅうしょう)』の道師伝(どうしでん)を引かれ、
「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(聖典 695頁)
と、金紙の存在を明らかにされております。
もちろん、これは唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません。
第五十六世日応上人も、
「仮令(たとい)、広布の日といへども別付(べっぷ)血脈相承なるものは他に披見せしむ可きものに非ず」(研教 二七-四五六頁)
と仰せられ、法体別付属相承が他に披見を許されない秘伝であると指南されています。
私たちは、御当代上人の、その時々に応じた指南を素直に受けとめ、成仏の信心修行に邁進(まいしん)するべきなのです。
部外の者が唯授一人の法体相承をみだりに云云(うんぬん)することは厳に慎(つつし)むべきです。
破折:
宗門が引用した文には、「仮令、広布の日といへども別付血脈相承なるものは他に披見せしむ可きものに非ず」(五十六世大石日応)とある。
こう言い切った日応であったが、その「別付血脈相承なるもの」(=相伝書)は、法主以外の者の手に渡って「他に披見」されただけでなく、相伝書自体が散逸した。さらに「面授相承」が途絶したことで、相伝の内容そのものが痩せ細ったものとなったのである。
皮肉にも、「金口嫡々の血脈相承」が〝名目〟だけのものとなったのは、日応が法を付嘱した五十七世阿部日正のときであった。
6.〈五十七世阿部日正〉「面授相承」の途絶
6-1.謗法と同座し「与同罪」
相承の話の前に、日正にかかる謗法の事実を話しておきたい。それは日正が、日蓮大聖人への「立正大師号」宣下にあたり、日蓮宗各派と合同の勤行を行ない、謗法同座して身延と「与同罪」となったことである。
大正十一年九月十一日、日蓮大聖人への「大師号」下賜の請願書を日蓮門下各派の管長が連名で提出した時、阿部日正もこの請願書に署名した。
そして、同年十月十三日、「立正大師」の大師号が宣下され、日蓮門下各派の代表が宮内庁へ出向いて宣下書を受けた後、築地の水交社に赴き、そこで日蓮宗管長(磯野日莚)を導師に勤行した。最後に日正は閉会の挨拶をし、他宗の管長たちと記念撮影に収まっている。この通り、日正は謗法の身延と同座したのである。
そもそも日興上人が身延離山を決意されたのは、地頭の謗法を容認できなかったためである。日興上人が永久に離別した身延に与(くみ)して「謗法同座」した日正は、身延と「与同罪」である。
新池御書(一四四一㌻)にいわく、
「いかなる智者聖人も無間地獄を遁るべからず、又それにも近づくべからず与同罪恐るべし恐るべし」
日興遺誡置文(一六一八㌻)にいわく、
「一、謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事」
ところが宗門はこう弁解する。
◇
奉戴式の模様を写した写真をよく見るなら、(中略)実際には合掌などしていないことがわかる。合掌していない(共に読経・唱題はしていない)とすれば、第9世日有上人の『化儀抄』に、「同座なれども経をも読まず布施をも引かざるなり」とあるように、他宗の僧侶と同座することになったとしても謗法になどならないのである。よって、何ら問題のないことは明白である。
(『慧妙』H22.6.16)
ところがこの『化儀抄』の引用箇所は「切り文」であり、宗門の言い訳とは、全く該当しない事項である。
「一、他宗の仏事善根の座へ法花宗の出家、世事の所用にて行く時、彼の仏事の時、点心を備ふには食すべきなり、既に請せず又ロサイ(暹齋)にも行かざる故に態(わざ)とも用意して翫(もて)なすべき客人なれば備ふるなり、又受くるも世事なり、されば同座なれども経をも読まず布施をも引かざるなり(中略)世間の仁義なり云云」(「化儀抄」第百条)
(これは世間の用事で訪問した時、たまたま訪問先で他宗の仏事を行なっていて、点心〈軽食・茶菓〉が提供された場合、食してもよい。それは招請されたものでも、乞食行脚で訪れたものでもなく、わざわざ用意したものではなく、たまたま訪れた客として接待されたものであり、また読経もせず、布施も貰わず、あくまで世間的なつきあいである)
(「フェイク」第1131号)
しかし日正は〝態(わざ)とも用意して翫(もて)なすべき客人〟の立場にあったのではない。他宗と「合意の上で行なった勤行」への同座は、明らかに日興上人の御遺誡に背く謗法の所為である。
毎度のことながら、切り文を持ち出して真実を隠す宗門の愚かしさ・卑劣さには、世間で言う「怒りを通り越して呆れる」ところである。
〝反省など、絶対にするものではない〟〝捏造してでも反証する〟〝バレなければ、何をやってもよい〟等と、それが宗門の常識と心得ておくしかない。
大聖人は御生涯を通じ、権力に媚びず、他宗に迎合することは一切無かった。北条幕府からの寄進の申し出を断り、山中に隠棲されたことは、幕府に大聖人の諫暁の言が用いられず、他宗と同様に保護を受けることを潔しとされなかったのである。
弟子と称する者が、大聖人に続き国家諫暁を果たすこと無く、広宣流布の実現もないままに、国に大師号の下賜を願い出たと言って、それで大聖人がお喜びになるであろうか。「真に弟子であると言うなら、為すべきことは他に有ろう」と、お叱りがあったに違いない。
6-2.相承にかかる謎
(1)A説:「在家が相承を預かった」
五十七世阿部日正は、大正十二年八月十八日、養生先の静岡県興津で亡くなった。
だが日正は、面授相承ができなかった。日正が法を譲るべき大学頭の土屋慈観(日柱)の法主就任を妨げようと、阿部法運(日開)〈=日顕の父〉が悪辣な手段を弄していたため、土屋慈観は日正に近付けなかったのである。
そこで日正は、在家の信徒二人(中光達・牧野梅太郎)を呼んで相承を預け、二人が大阪の蓮華寺へ行って、土屋慈観に相承を伝えたのである。
(引用:「暗黒の富士宗門史―日顕宗の淵源を切る」著:河合一 第三文明社)
(2)B説:「直々に面授相承をした」
前記の説に対し法華講らは、過去の学会機関誌に載った記事を以て反論する。
「大阪から呼び寄せられた本山学頭・土屋慈観師(後の58世土屋日柱上人)は、日正上人の御住居から程近い水口屋旅館に止宿され、そこから阿部日正上人の御住居に通われて、2日1晩にわたって御相承を受けられたのである」(「大白蓮華」第57号)
また細井管長(日達法主)の講話でも、同様の内容を伝えている。
「この日正上人は、7月のはじめ乃至(ないし)6月の終りかも知れませんが、大正12年の夏のはじめに体がお弱くなったために、いちおう興津へ一軒を借りまして、ご養生されておりました。その時に私も7月中頃以後、そこにお付きをしておりまして、よく、その間の事情は知っております。それで、8月11日の夕方に大学頭・日柱上人が、大阪の中弥兵衛という人と牧野梅太郎という人の2人に付き添われて、興津の日正上人のところへ来られました。
また崎尾正道という人がおりまして、これは日正上人の弟子で、私よりも年は上だけれども、後輩の人です。この人が非常に日正上人にかわいがられて、奥番なんか長くして、非常に用いられました。そのために、たいへん僭越(せんえつ)になって横暴(おうぼう)を極め、そして崎尾自身が日柱上人を非常に嫌っておった。日柱上人という人は非常に強い方で、悪いことがあると頭からガンガン怒る方でございますから、非常に付き合いにくい。それで崎尾も日柱上人を嫌がった。
それに反し日開上人は温厚な方で、寂日坊から、常泉寺へ入られた。
ですけれども、(崎尾は)日開上人にどうしても、日正上人の跡をやっていただきたい。そうすれば自分もきっと幅をきかせられる、と思ったのでしょう。そこで、日開上人を日正上人の跡にしようと、策謀したのでございます。
ところが、日正上人は日柱上人を大学頭にしておるのだから、それより下の日開上人に法を譲るということはできないと、固い心があった。
昨夜の本種院の話によっても、『崎尾正道は勝手なことをするからよく注意しろ』と言われたくらいで、非常に気にしておられたのであります。
たまたま崎尾も興津へ行っておりまして、私も興津へ行って日正上人のお側へついて、お給仕をしておりました。崎尾も来て、何かと、若い我々に対していろんな、今も言ったとおり『日柱上人はだめだから、日開上人がやってくれなくては宗門はだめになる』ということを常に吹きこんだ。それから『師匠の日正上人もその心でいる』ということを言われましたから、私は本気にしておったのです。
で、たまたま8月11日のタ刻、今言ったとおりに、日柱上人が日正上人に呼ばれて来た。その前に日正上人がもうお体が悪いからというので、本山では非常にいろんな策謀があったのです、崎尾がそのもとですが。
そのために日正上人は、日柱上人がそれに巻き込まれることを恐れて、大阪へやってしまったのです。大阪の今の牧野梅太郎の家が宿屋をしておりましたから、そこにしばらく避けていろと言って、やられておったのです。
その日柱上人が呼ばれて、その11日の夕方着きました。そのころの汽車はのろいですから、夕方やっと興津へまいられました。そして夏のことですから、蚊がおりますから、蚊帳(かや)をつって日正上人がおられました。そこへ3人が来ました。(中略)それで、しばらく話をされて、とにかく今夜12時に日柱上人にもう1遍来い、と言って帰しました。
3人は、興津に大きな宿屋が当時ありまして、何というのか覚えていませんが、その宿屋へ行って泊っておって、夜中の12時に再び来まして、それで今度は日柱上人だけが、蚊帳に入ってゆっくりお話を聞いたのです。それがご相承だったのです」
(『蓮華』S47.6)
法華講らは、この談話をもって「真実は、日正上人より日柱上人へ直々に口決相承があり、学会のいう『策謀』とは、崎尾正道によるものであったことが明確にされているのである」と主張する。
しかし細井管長は、崎尾正道の〝一人芝居による策謀〟であったとは述べていない。むしろ崎尾が「もと」となった故に「本山では非常にいろんな策謀があった」と明言している。
具体的には崎尾が表立って、阿部日正の傍で動静を窺う役目として付きっきりとなり、「本山」で「いろんな策謀」をめぐらす頭目らしき人物と、連絡を取り合っていることを匂わせる。法主の今際(いまわ)のきわを待つ、その頭目と思しき人物は、後の項で登場する。
法華講らは学会を誹謗して、こう言う。
「創価学会の疑難は、時に自らの機関誌さえ無視し、時に大恩ある日達上人の御言葉すらも無視して、都合よく作られたものである」と。
よくぞ言ったものである。学会の見解は、細井管長の講話(昭和四十七年)の十五、六年前、細井管長が代表者として発行した書籍に記された内容に依る。宗門も法華講も、自分達の主張の根拠である細井管長によって「都合よく作られたもの」を、一読すればすぐに分かることである。
(3)再びA説:「在家が相承を預かった」(続き)
細井管長自身が発行した書籍が記した内容とは、以下の通りである。
「しかし思えば既に御心中に深く決せられることがあったのであろう、大阪の中光達居士、牧野梅太郎氏とを召されて、一切の者を遠ざけて後事を托されたのであった。それで俄に両氏は日柱上人を蓮華寺に迎えたのである。(此れは日柱上人が御節介屋の謀言に引き廻わされないようにと深い思召しで、此に依て日正上人と日柱上人と中、牧野両氏とだけで後継の事を取り運ぶ為であり、其の他の介入を斥けるための計であった)かくて日柱上人との脈絡は完全についたのである」
(「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」昭和三十一年、日蓮正宗布教会編著、日蓮正宗布教会〈代表・細井精道〉発行 引用;「地涌」第316号)
この書籍の発行の代表者名を確認されたい。〈代表・細井精道〉とは、後の細井管長(日達法主)であり、この書籍が発行された年においては、細井管長は総監であった。その立場からしても、本書は宗門の正式文書である。
本書には、阿部日正は直接、土屋慈観(日柱)に相承することができず、やむなく二人の在家に相承を託したいきさつを、明瞭に述べている。
なお、日正のお側の僧、崎尾正道が「御節介屋」に通じており、土屋慈観を直々に呼べば「其の他の介入」があると言っているが、その名は伏せられたままである。
(4)相承の事実:A説かB説か
細井管長が発行した書籍の内容が、その十五、六年後には、全く異なった話と化している。日顕ならともかく、細井管長が両舌(りょうぜつ)(二枚舌)を使うとは思えないが(両舌は十悪の一つ)、故人に問い合わせはできない。
両説を整理する。
〇A説:日正は土屋慈観に面授相承できないので、在家二名を療養先の一軒家に呼んで相承を預け、その二名の者が大阪・蓮華寺において土屋慈観に相承を伝えた。
〇B説:大阪から呼び寄せられた土屋慈観は、日正の住居から程近い旅館に止宿し、そこから日正の住居に通い、二日一晩にわたって相承を受けた。
A説とB説とは、百八十度、話の趣が異なり、両立できない。「どちらかが嘘」であるか、あるいは「どちらとも嘘」である。
(5)当時の状況は
土屋慈観(日柱)を擁護していた信徒の西脇栄曽吉が著した「上申書」(昭和五年四月三日付)には、当時の緊迫した状況が記される。
「然るに其当時より柱師の偉大なる御人格を嫉み諂う阿部師を擁立せんとする一派が正師の御病気の重せらるるを見て早くも後継法主の擁立を画策し狂運動を成せし事実はある書に明白なり正師の御病気益々重せられ愈興津へ転地療養の後は柱師の御枕頭へ御近づけ申さず彼の一派等は益々跋扈し或時は偽書を作り或時は暴力を以し或時は強言を以て大学頭職の辞職を強要す」(「上申書」)
この通り、日正が興津へ転地療養してからは、阿部法運一派のために「柱師の御枕頭へ御近づけ申さず」とあり、土屋慈観は日正に会うことができなかったのである。そうであれば、日正から直々に呼ばれて相承を受けたと言う話(B説)は、ありえないとの結論になる。
(6)相承の内容
後日、管長に就任した土屋日柱は、阿部日正から〝十全の相承〟を受けていたであろうか。すなわち、「在家の預かり相承」(A説)と、「親しく二日一晩にわたり相承を受けた」(B説)とするのでは、授受した相承の程度が違って当然である。
土屋日柱から相承を受けた五十九世堀日亨法主は、それをどう捉えていたか。
◇
ワシは柱師からあらたまって相承は受けておらん。それは形式的なものだよ。柱師も亦(また)、相承というものは受けておらんかったようだ。してみて、考えてみれば、柱師がワシに相承しないのは、悪意ではなくて柱師の善意であったように思う。ワシの方が法門は勝(すぐ)れていると柱師も解っていたので、あえて相承の中身を言わなかったのだと思うようになった。
(「亨師談聴聞記」大橋慈譲記録 昭和二十六年冬の談話)
ここで日亨法主は、日柱は十全の相承どころか、「相承そのものを受けていない」と判断している。
もう一つは昭和二年、日亨法主が宗内に退座の決意を示し、「告白」と題する一文を記した。その中に次の箇所がある。
「三、次上の事より引いて日正師が特別の相承を預けたと云う者より其内容を聞き取りし事は、上求菩提の精神に合うやと憚りおる事」(「告白」)
日亨法主の証言により、次の二点が明らかである。
〇 土屋日柱は、相承そのものを受けていない。
〇 堀日亨法主は「阿部日正から特別の相承を預かった」と言う者から、内容を聞き取った。
日正の相承にかかる二種類の証言(A説)及び(B説)の真偽は、これで落着した。日亨法主の証言は二点ともに、細井管長の昭和三十一年発行の書籍の言(A説)を裏付けており、学会の主張に一致する。
よって、宗門が根拠とする細井管長の昭和四十七年の講話(B説)、すなわち「日正上人より日柱上人へ直々に口決相承があり」との趣旨は、〝虚飾に満ちた作り話〟であることが明白である。
宗門・法華講が細井管長の講話を楯に取って学会を非難することは、「日達法主が発行した著作は真実でない」と貶していることになり、面白い構図である。宗門等が学会に誹謗中傷の暴言を吐けば吐くほど、それだけ日達法主を「二枚舌」と罵ることになる。
宗門・法華講は、自分たちの「天」であるはずの法主に向かって、唾を吐いているのである。
常忍抄(九八〇㌻)にいわく、
「此の人人・天に向つて唾(つば)を吐き地を爴(つか)んで忿(いかり)を為す者か」
開目抄上(二〇五㌻)にいわく、
「世尊・提婆達多を汝愚人・人の唾を食うと罵詈せさせ給し」
釈尊は提婆達多を「人の唾を食う愚人」と罵ったが、宗門らは自ら吐いた唾を喰らう者であり、提婆達多よりも愚かである。
種種御振舞御書(九二一㌻)にいわく
「弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見(びゃっけん)をまことと思いて叡山・東寺・園城寺の人人の鎌倉をあだみ給いしかば還著於本人(げんじゃくおほんにん)とて其の失(とが)還つて公家はまけ給いぬ」
「還著於本人」を身で読む者、それが日顕宗の輩である。
(続く)
妄説:48 「血脈相承の内容についても、『相伝書』が内外に公開されている現在、法主一人に伝わる法門などない」(聖教新聞 H五・九・八)といっていますが、本当ですか。
この説は、創価学会には絶対にない「唯授一人の血脈相承」を否定するために、無理やりいい出したことです。
御相承について、御法主日顕上人は
「金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、身延・池上の二箇(にか)相承が金紙(こんし)として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです」(大日蓮 560-19頁)
と指南され、その証拠に『家中抄(けちゅうしょう)』の道師伝(どうしでん)を引かれ、
「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(聖典 695頁)
と、金紙の存在を明らかにされております。
もちろん、これは唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません。
第五十六世日応上人も、
「仮令(たとい)、広布の日といへども別付(べっぷ)血脈相承なるものは他に披見せしむ可きものに非ず」(研教 二七-四五六頁)
と仰せられ、法体別付属相承が他に披見を許されない秘伝であると指南されています。
私たちは、御当代上人の、その時々に応じた指南を素直に受けとめ、成仏の信心修行に邁進(まいしん)するべきなのです。
部外の者が唯授一人の法体相承をみだりに云云(うんぬん)することは厳に慎(つつし)むべきです。
破折:
宗門が引用した文には、「仮令、広布の日といへども別付血脈相承なるものは他に披見せしむ可きものに非ず」(五十六世大石日応)とある。
こう言い切った日応であったが、その「別付血脈相承なるもの」(=相伝書)は、法主以外の者の手に渡って「他に披見」されただけでなく、相伝書自体が散逸した。さらに「面授相承」が途絶したことで、相伝の内容そのものが痩せ細ったものとなったのである。
皮肉にも、「金口嫡々の血脈相承」が〝名目〟だけのものとなったのは、日応が法を付嘱した五十七世阿部日正のときであった。
6.〈五十七世阿部日正〉「面授相承」の途絶
6-1.謗法と同座し「与同罪」
相承の話の前に、日正にかかる謗法の事実を話しておきたい。それは日正が、日蓮大聖人への「立正大師号」宣下にあたり、日蓮宗各派と合同の勤行を行ない、謗法同座して身延と「与同罪」となったことである。
大正十一年九月十一日、日蓮大聖人への「大師号」下賜の請願書を日蓮門下各派の管長が連名で提出した時、阿部日正もこの請願書に署名した。
そして、同年十月十三日、「立正大師」の大師号が宣下され、日蓮門下各派の代表が宮内庁へ出向いて宣下書を受けた後、築地の水交社に赴き、そこで日蓮宗管長(磯野日莚)を導師に勤行した。最後に日正は閉会の挨拶をし、他宗の管長たちと記念撮影に収まっている。この通り、日正は謗法の身延と同座したのである。
そもそも日興上人が身延離山を決意されたのは、地頭の謗法を容認できなかったためである。日興上人が永久に離別した身延に与(くみ)して「謗法同座」した日正は、身延と「与同罪」である。
新池御書(一四四一㌻)にいわく、
「いかなる智者聖人も無間地獄を遁るべからず、又それにも近づくべからず与同罪恐るべし恐るべし」
日興遺誡置文(一六一八㌻)にいわく、
「一、謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事」
ところが宗門はこう弁解する。
◇
奉戴式の模様を写した写真をよく見るなら、(中略)実際には合掌などしていないことがわかる。合掌していない(共に読経・唱題はしていない)とすれば、第9世日有上人の『化儀抄』に、「同座なれども経をも読まず布施をも引かざるなり」とあるように、他宗の僧侶と同座することになったとしても謗法になどならないのである。よって、何ら問題のないことは明白である。
(『慧妙』H22.6.16)
ところがこの『化儀抄』の引用箇所は「切り文」であり、宗門の言い訳とは、全く該当しない事項である。
「一、他宗の仏事善根の座へ法花宗の出家、世事の所用にて行く時、彼の仏事の時、点心を備ふには食すべきなり、既に請せず又ロサイ(暹齋)にも行かざる故に態(わざ)とも用意して翫(もて)なすべき客人なれば備ふるなり、又受くるも世事なり、されば同座なれども経をも読まず布施をも引かざるなり(中略)世間の仁義なり云云」(「化儀抄」第百条)
(これは世間の用事で訪問した時、たまたま訪問先で他宗の仏事を行なっていて、点心〈軽食・茶菓〉が提供された場合、食してもよい。それは招請されたものでも、乞食行脚で訪れたものでもなく、わざわざ用意したものではなく、たまたま訪れた客として接待されたものであり、また読経もせず、布施も貰わず、あくまで世間的なつきあいである)
(「フェイク」第1131号)
しかし日正は〝態(わざ)とも用意して翫(もて)なすべき客人〟の立場にあったのではない。他宗と「合意の上で行なった勤行」への同座は、明らかに日興上人の御遺誡に背く謗法の所為である。
毎度のことながら、切り文を持ち出して真実を隠す宗門の愚かしさ・卑劣さには、世間で言う「怒りを通り越して呆れる」ところである。
〝反省など、絶対にするものではない〟〝捏造してでも反証する〟〝バレなければ、何をやってもよい〟等と、それが宗門の常識と心得ておくしかない。
大聖人は御生涯を通じ、権力に媚びず、他宗に迎合することは一切無かった。北条幕府からの寄進の申し出を断り、山中に隠棲されたことは、幕府に大聖人の諫暁の言が用いられず、他宗と同様に保護を受けることを潔しとされなかったのである。
弟子と称する者が、大聖人に続き国家諫暁を果たすこと無く、広宣流布の実現もないままに、国に大師号の下賜を願い出たと言って、それで大聖人がお喜びになるであろうか。「真に弟子であると言うなら、為すべきことは他に有ろう」と、お叱りがあったに違いない。
6-2.相承にかかる謎
(1)A説:「在家が相承を預かった」
五十七世阿部日正は、大正十二年八月十八日、養生先の静岡県興津で亡くなった。
だが日正は、面授相承ができなかった。日正が法を譲るべき大学頭の土屋慈観(日柱)の法主就任を妨げようと、阿部法運(日開)〈=日顕の父〉が悪辣な手段を弄していたため、土屋慈観は日正に近付けなかったのである。
そこで日正は、在家の信徒二人(中光達・牧野梅太郎)を呼んで相承を預け、二人が大阪の蓮華寺へ行って、土屋慈観に相承を伝えたのである。
(引用:「暗黒の富士宗門史―日顕宗の淵源を切る」著:河合一 第三文明社)
(2)B説:「直々に面授相承をした」
前記の説に対し法華講らは、過去の学会機関誌に載った記事を以て反論する。
「大阪から呼び寄せられた本山学頭・土屋慈観師(後の58世土屋日柱上人)は、日正上人の御住居から程近い水口屋旅館に止宿され、そこから阿部日正上人の御住居に通われて、2日1晩にわたって御相承を受けられたのである」(「大白蓮華」第57号)
また細井管長(日達法主)の講話でも、同様の内容を伝えている。
「この日正上人は、7月のはじめ乃至(ないし)6月の終りかも知れませんが、大正12年の夏のはじめに体がお弱くなったために、いちおう興津へ一軒を借りまして、ご養生されておりました。その時に私も7月中頃以後、そこにお付きをしておりまして、よく、その間の事情は知っております。それで、8月11日の夕方に大学頭・日柱上人が、大阪の中弥兵衛という人と牧野梅太郎という人の2人に付き添われて、興津の日正上人のところへ来られました。
また崎尾正道という人がおりまして、これは日正上人の弟子で、私よりも年は上だけれども、後輩の人です。この人が非常に日正上人にかわいがられて、奥番なんか長くして、非常に用いられました。そのために、たいへん僭越(せんえつ)になって横暴(おうぼう)を極め、そして崎尾自身が日柱上人を非常に嫌っておった。日柱上人という人は非常に強い方で、悪いことがあると頭からガンガン怒る方でございますから、非常に付き合いにくい。それで崎尾も日柱上人を嫌がった。
それに反し日開上人は温厚な方で、寂日坊から、常泉寺へ入られた。
ですけれども、(崎尾は)日開上人にどうしても、日正上人の跡をやっていただきたい。そうすれば自分もきっと幅をきかせられる、と思ったのでしょう。そこで、日開上人を日正上人の跡にしようと、策謀したのでございます。
ところが、日正上人は日柱上人を大学頭にしておるのだから、それより下の日開上人に法を譲るということはできないと、固い心があった。
昨夜の本種院の話によっても、『崎尾正道は勝手なことをするからよく注意しろ』と言われたくらいで、非常に気にしておられたのであります。
たまたま崎尾も興津へ行っておりまして、私も興津へ行って日正上人のお側へついて、お給仕をしておりました。崎尾も来て、何かと、若い我々に対していろんな、今も言ったとおり『日柱上人はだめだから、日開上人がやってくれなくては宗門はだめになる』ということを常に吹きこんだ。それから『師匠の日正上人もその心でいる』ということを言われましたから、私は本気にしておったのです。
で、たまたま8月11日のタ刻、今言ったとおりに、日柱上人が日正上人に呼ばれて来た。その前に日正上人がもうお体が悪いからというので、本山では非常にいろんな策謀があったのです、崎尾がそのもとですが。
そのために日正上人は、日柱上人がそれに巻き込まれることを恐れて、大阪へやってしまったのです。大阪の今の牧野梅太郎の家が宿屋をしておりましたから、そこにしばらく避けていろと言って、やられておったのです。
その日柱上人が呼ばれて、その11日の夕方着きました。そのころの汽車はのろいですから、夕方やっと興津へまいられました。そして夏のことですから、蚊がおりますから、蚊帳(かや)をつって日正上人がおられました。そこへ3人が来ました。(中略)それで、しばらく話をされて、とにかく今夜12時に日柱上人にもう1遍来い、と言って帰しました。
3人は、興津に大きな宿屋が当時ありまして、何というのか覚えていませんが、その宿屋へ行って泊っておって、夜中の12時に再び来まして、それで今度は日柱上人だけが、蚊帳に入ってゆっくりお話を聞いたのです。それがご相承だったのです」
(『蓮華』S47.6)
法華講らは、この談話をもって「真実は、日正上人より日柱上人へ直々に口決相承があり、学会のいう『策謀』とは、崎尾正道によるものであったことが明確にされているのである」と主張する。
しかし細井管長は、崎尾正道の〝一人芝居による策謀〟であったとは述べていない。むしろ崎尾が「もと」となった故に「本山では非常にいろんな策謀があった」と明言している。
具体的には崎尾が表立って、阿部日正の傍で動静を窺う役目として付きっきりとなり、「本山」で「いろんな策謀」をめぐらす頭目らしき人物と、連絡を取り合っていることを匂わせる。法主の今際(いまわ)のきわを待つ、その頭目と思しき人物は、後の項で登場する。
法華講らは学会を誹謗して、こう言う。
「創価学会の疑難は、時に自らの機関誌さえ無視し、時に大恩ある日達上人の御言葉すらも無視して、都合よく作られたものである」と。
よくぞ言ったものである。学会の見解は、細井管長の講話(昭和四十七年)の十五、六年前、細井管長が代表者として発行した書籍に記された内容に依る。宗門も法華講も、自分達の主張の根拠である細井管長によって「都合よく作られたもの」を、一読すればすぐに分かることである。
(3)再びA説:「在家が相承を預かった」(続き)
細井管長自身が発行した書籍が記した内容とは、以下の通りである。
「しかし思えば既に御心中に深く決せられることがあったのであろう、大阪の中光達居士、牧野梅太郎氏とを召されて、一切の者を遠ざけて後事を托されたのであった。それで俄に両氏は日柱上人を蓮華寺に迎えたのである。(此れは日柱上人が御節介屋の謀言に引き廻わされないようにと深い思召しで、此に依て日正上人と日柱上人と中、牧野両氏とだけで後継の事を取り運ぶ為であり、其の他の介入を斥けるための計であった)かくて日柱上人との脈絡は完全についたのである」
(「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」昭和三十一年、日蓮正宗布教会編著、日蓮正宗布教会〈代表・細井精道〉発行 引用;「地涌」第316号)
この書籍の発行の代表者名を確認されたい。〈代表・細井精道〉とは、後の細井管長(日達法主)であり、この書籍が発行された年においては、細井管長は総監であった。その立場からしても、本書は宗門の正式文書である。
本書には、阿部日正は直接、土屋慈観(日柱)に相承することができず、やむなく二人の在家に相承を託したいきさつを、明瞭に述べている。
なお、日正のお側の僧、崎尾正道が「御節介屋」に通じており、土屋慈観を直々に呼べば「其の他の介入」があると言っているが、その名は伏せられたままである。
(4)相承の事実:A説かB説か
細井管長が発行した書籍の内容が、その十五、六年後には、全く異なった話と化している。日顕ならともかく、細井管長が両舌(りょうぜつ)(二枚舌)を使うとは思えないが(両舌は十悪の一つ)、故人に問い合わせはできない。
両説を整理する。
〇A説:日正は土屋慈観に面授相承できないので、在家二名を療養先の一軒家に呼んで相承を預け、その二名の者が大阪・蓮華寺において土屋慈観に相承を伝えた。
〇B説:大阪から呼び寄せられた土屋慈観は、日正の住居から程近い旅館に止宿し、そこから日正の住居に通い、二日一晩にわたって相承を受けた。
A説とB説とは、百八十度、話の趣が異なり、両立できない。「どちらかが嘘」であるか、あるいは「どちらとも嘘」である。
(5)当時の状況は
土屋慈観(日柱)を擁護していた信徒の西脇栄曽吉が著した「上申書」(昭和五年四月三日付)には、当時の緊迫した状況が記される。
「然るに其当時より柱師の偉大なる御人格を嫉み諂う阿部師を擁立せんとする一派が正師の御病気の重せらるるを見て早くも後継法主の擁立を画策し狂運動を成せし事実はある書に明白なり正師の御病気益々重せられ愈興津へ転地療養の後は柱師の御枕頭へ御近づけ申さず彼の一派等は益々跋扈し或時は偽書を作り或時は暴力を以し或時は強言を以て大学頭職の辞職を強要す」(「上申書」)
この通り、日正が興津へ転地療養してからは、阿部法運一派のために「柱師の御枕頭へ御近づけ申さず」とあり、土屋慈観は日正に会うことができなかったのである。そうであれば、日正から直々に呼ばれて相承を受けたと言う話(B説)は、ありえないとの結論になる。
(6)相承の内容
後日、管長に就任した土屋日柱は、阿部日正から〝十全の相承〟を受けていたであろうか。すなわち、「在家の預かり相承」(A説)と、「親しく二日一晩にわたり相承を受けた」(B説)とするのでは、授受した相承の程度が違って当然である。
土屋日柱から相承を受けた五十九世堀日亨法主は、それをどう捉えていたか。
◇
ワシは柱師からあらたまって相承は受けておらん。それは形式的なものだよ。柱師も亦(また)、相承というものは受けておらんかったようだ。してみて、考えてみれば、柱師がワシに相承しないのは、悪意ではなくて柱師の善意であったように思う。ワシの方が法門は勝(すぐ)れていると柱師も解っていたので、あえて相承の中身を言わなかったのだと思うようになった。
(「亨師談聴聞記」大橋慈譲記録 昭和二十六年冬の談話)
ここで日亨法主は、日柱は十全の相承どころか、「相承そのものを受けていない」と判断している。
もう一つは昭和二年、日亨法主が宗内に退座の決意を示し、「告白」と題する一文を記した。その中に次の箇所がある。
「三、次上の事より引いて日正師が特別の相承を預けたと云う者より其内容を聞き取りし事は、上求菩提の精神に合うやと憚りおる事」(「告白」)
日亨法主の証言により、次の二点が明らかである。
〇 土屋日柱は、相承そのものを受けていない。
〇 堀日亨法主は「阿部日正から特別の相承を預かった」と言う者から、内容を聞き取った。
日正の相承にかかる二種類の証言(A説)及び(B説)の真偽は、これで落着した。日亨法主の証言は二点ともに、細井管長の昭和三十一年発行の書籍の言(A説)を裏付けており、学会の主張に一致する。
よって、宗門が根拠とする細井管長の昭和四十七年の講話(B説)、すなわち「日正上人より日柱上人へ直々に口決相承があり」との趣旨は、〝虚飾に満ちた作り話〟であることが明白である。
宗門・法華講が細井管長の講話を楯に取って学会を非難することは、「日達法主が発行した著作は真実でない」と貶していることになり、面白い構図である。宗門等が学会に誹謗中傷の暴言を吐けば吐くほど、それだけ日達法主を「二枚舌」と罵ることになる。
宗門・法華講は、自分たちの「天」であるはずの法主に向かって、唾を吐いているのである。
常忍抄(九八〇㌻)にいわく、
「此の人人・天に向つて唾(つば)を吐き地を爴(つか)んで忿(いかり)を為す者か」
開目抄上(二〇五㌻)にいわく、
「世尊・提婆達多を汝愚人・人の唾を食うと罵詈せさせ給し」
釈尊は提婆達多を「人の唾を食う愚人」と罵ったが、宗門らは自ら吐いた唾を喰らう者であり、提婆達多よりも愚かである。
種種御振舞御書(九二一㌻)にいわく
「弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見(びゃっけん)をまことと思いて叡山・東寺・園城寺の人人の鎌倉をあだみ給いしかば還著於本人(げんじゃくおほんにん)とて其の失(とが)還つて公家はまけ給いぬ」
「還著於本人」を身で読む者、それが日顕宗の輩である。
(続く)
- このエントリーのカテゴリ : 日顕宗破折 №41~50
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