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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:40」を破折する 連載54回

妄説:40 学会は「創立以来、一貫した信心」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、はたしてそうでしょうか。

 現在の創価学会の主張と、過去における主張とが矛盾していることは、過去の学会出版物と見くらべれば明白です。
 たとえば、戸田二代会長は
『信者の大精神に立て』のなかで、「先代牧口先生当時から、学会は猊座のことには一切関知せぬ大精神でとおしてきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破るものは、たとえ大幹部といえども、即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない」(聖教新聞 S三一・一・二九)
と述べています。
 また、池田大作氏は会長就任式で
「御法主上人猊下にご奉公申し上げることが、学会の根本精神であると信じます」(大白蓮華 一〇九-七頁)
といい、さらにまた、
「日蓮正宗における根本は、唯授一人の血脈である。その血脈相承の御法主上人に随順してゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。この一点を誤れば、すべてが狂ってくるのである。創価学会は、御歴代の御法主上人に随順してきたがゆえに、永遠に栄えていくことはまちがいないと確信する」(広布と人生を語る 三-三二頁)
と指導していますが、これらの指導と現在行なわれている指導とが一貫しているとはとうていいえません。

破折:
1.現在の邪宗門の主張と、過去における主張とが矛盾

① 〝御本尊を受持した人に謗法はない〟と日顕

 日顕が悩乱する以前は、譫言(うわごと)ではない真面(まとも)なことを話していた。
                ◇
 私が先般〝末法において、御本尊を受持しておられる方においては、基本的には謗法はない〟と申し上げたことと、同意義であります。それに対しての反論は〝それはおかしい。創価学会は謗法の団体なのに〟というようなことを言って、まず創価学会は謗法の団体であるということを前提にして、それから御本尊をみようとするのですから、本末転倒しているといわなければなりません。
 あくまで、正法を受持する……阿弥陀信仰や、その他あるゆる邪義邪宗の仏像等の一切を払って、正しい三大秘法の御本尊を受持して信心をするという形においては、絶対に謗法はありません。
(昭和五十五年十一月三日・第五回衆象会の砌)

 学会は変わることなく「正しい三大秘法の御本尊」を信受している。この事実を以て日顕は「絶対に謗法はありません」と断言していた。
 ところが破門後は、学会が授与する日寛上人御書写の御本尊を「ニセ本尊」と誹謗する。宗門で〝寛尊〟と讃えられる日寛上人の正統教学とは相容れない、〝法主本仏〟の邪教に日顕が堕ちたゆえの妄言である。

② 学会の広宣流布を讃嘆した日顕

 次に三代池田会長の時代には更に七五〇万世帯を達成され、未曽有の正法広布がなされたのであります。これ、まことに歴代会長の優れた指導力によるものであり、昭和年間における正法広宣流布の相は、その短い期間において多大の実績を残された点、世界宗教史にも類例を見ない特筆すべきものであって、その宗教的意義はまことに大きいというべきであります。
(昭和五十五年十一月二十六日・創価学会創立五十周年記念幹部登山の砌)

 日顕はこれほど学会の広宣流布を絶賛していたのに、何ゆえ悩乱したか。と言うよりは、天魔の本性を現したわけか。

③ 本音を隠していた日顕

 それは「新興宗教・創価学会の寄進で」ということが書いてありました。時々そういう間違いを世間の謗法の人達は犯しておるようでありますが、私は「創価学会はけっして新興宗教ではありません」と常に申しております。
 それはなぜかというならば、仏教の根本を一切の信行の中心として信仰し、修行し、そして護持しておるところの宗団は創価学会をおいてほかにはないからであります。
(昭和六十三年一月二十二日・法光山妙永寺落慶入仏法要の砌)
 
 この発言からわずか三年後、日顕は学会を破門している。豹変したかと思うほどである。
 
「とっさに思いついてやったことじゃない。五、六年も前から考えに考え抜いてきたんだ」
(「C作戦」の存在を明らかにしたときの日顕の言葉)

 日顕は学会を破門する心づもりでいながら機会を待ち、それまでは言葉巧みに学会に供養させていたわけである。

2.〝蓮華寺事件のS住職〟

 引用された『信者の大精神に立て』(戸田会長)が書かれた背景を知らねばならない。切り文では内容が掴めない。
               ◇
 突然、御法主上人様のお座替わりのご意向発表を伺い申し上げた。聞くところによれば、過日、本山内の重役会議の席で、日昇上人様からご隠退(いんたい)の意をもらされ、その席上でご決定とのことである。
 学会再建以来、御法主上人よりは数限りないご慈悲をたまわって、いまの学会発展をみることができ、まことに、いつまでも法主様としてお仕え出来たらばと思うが、御仏意であるから私の感情は恐れ多い。
 先代牧口先生当時から、学会は猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない。
 むかし、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者があったそうだが、仏法の尊厳をそこなう者は当然そうなる。
 どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えしてきたのと、いさかかも変わりない。(後略)
昭和32年1月29日
(『戸田城聖全集』第二巻 論文より)

 注目するのは、次の件(くだり)である。

「むかし、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者があったそうだが、仏法の尊厳をそこなう者は当然そうなる」

 かつて管長の座をめぐる本山内の権力闘争で、謀略の先兵となって宗内を横行した不心得者がいたことに言及している。名前を挙げてはいないものの、〝関西〟とあることから「大阪蓮華寺」と合点がゆく。当然に坊主であって、学会員のことではない。
 この二年前、昭和30年 (1955年)1月下旬に起こった〝蓮華寺事件〟の顛末は、『人間革命』第八巻に述べられる。
 空襲で焼亡した蓮華寺では、土蔵に御本尊を御移しして授戒等を行なっていたが、大阪での本尊流布が急速に発展し、かかる仮本堂ではあまりに狭くなっていた。そこで学会は寺院の建て替えを申し出たのであるが、S住職はこれを拒んだのみか、学会との対話を一切避けたのである。ここに至り、戸田会長は大阪に新寺院を建立することを決定し、学会員は蓮華寺に参拝しないこととした。
 これに対するにS住職は、学会員の授戒並びに法要を停止し、それまで学会員に下付した御本尊は返却するよう学会に要求した。さらに学会員の一部を離脱させ、常住御本尊下付などの誘惑手段をもって、手を伸ばしてきたのである。
 信者と御本尊との離間策を取る手口は、日顕と全く同じである。このときは大阪だけの問題であり、S住職は反省すること無く宗門から離脱した。だが、魔はこの事例を学習した。後に宗門を挙げて、御本尊下付停止の暴挙を再現するのである。

3.宗門を安定させた戸田会長

「学会は猊座のことには一切関知せぬ……これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する」云々とあるが、かつて学会員が管長就任に何らかの役割を果たしたことなど、あるわけがないし、またできようはずもない。
 では何ゆえ学会員を対象とする話としたか。これは学会員に事寄せて、その実は、おかしな動きをする坊主を牽制し、楔(くさび)を打ったものである。
 ここで、近代の宗門史を大別しておく。

(1) 五十六世大石日応~六十三世秋山日満 (擾乱(じょうらん)の時代) 
(2) 六十四世水谷日昇~六十五世堀米日淳 (安定の時代)
(3) 六十六世細井日達          (安定から法滅へ)
(4) 日顕宗宗祖・阿部日顕~二世早瀬日如 (新宗教・ニセ宗門)

(1)擾乱(じょうらん)の時代

 日応から日満までの法主代々、僧侶間で「猊座」を奪い合う〝醜い争い〟が本山で繰り広げられてきた。この時代に、前出の「猊座のことに意見をふりまわし」、策謀した者がいたわけである。
 管長職の授受は「唯授一人血脈相承」などと、体裁を言えた状態ではなかったのである。戸田会長にとって、学会員には見せられない姿と映ったことであろう。
 五十六世大石日応は、日如の曽祖父にあたる。六十世阿部日開は、日顕の父である。この事実をもってしても、いかに本山が魔窟であったか推測するに余りある。
 学会は、ひたすら大聖人への信仰のみに専心し、下世話で野卑な世界(宗門)とは無縁でなければならなかった。権力欲と野望の渦巻いた宗門の内部を学会員が垣間見ては、広宣流布の勢いにも影がさす。いきおい、戸田会長の前出の言葉が強烈な言い方となったわけである。
 それゆえ当時の『折伏教典』には、この当時の法主達の履歴は何も記されていない。僧俗和合の時代には、「臭いものには蓋をする」で通してきたのである。
 もはやその時代は過ぎた。悪臭紛々たる宗門の現実を凝視しなければ、その本質を語ることはできない。この連載において適宜、事例を示していきたい。

(2)安定の時代

 引用された記事(『信者の大精神に立て』)は、六十四世水谷日昇の隠退表明に寄せた戸田会長の論文である。水谷管長は、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」と脇書きを認めた創価学会常住本尊を書写、授与した学会有縁の法主であった。
              ◇
 第六十四世の貫首の座についたのは水谷日昇であった。……安詳として猊座をまっとうできたのは、水谷日昇ただ一人である。水谷日昇が同職をまっとうできたのは、創価学会の戸田会長の庇護があったればこそのこと。……新たに大石寺第六十五世貫首となった堀米日淳は、登座前より創価学会に対して深い理解を持っていた。
(『暁闇』北林芳典著 報恩社 2002年12月出版)

 戸田会長が前出の論文を記した時は、次の法主が決定されたわけではなかったが、衆目の一致するところが堀米日淳であることは、疑いないところであったろう。
 戸田会長が出獄した日の翌々日、外出はまだ無理とされた病躯をおして訪ねた人物が、堀米日淳であった。戦時中に神札甘受等の謗法に走り、学会を信徒除名とした宗門の中にあって、戸田会長が唯一期待を寄せていた僧侶である。
 水谷法主以前は、管長であろうと足元をすくわれることがあった。前職の六十三世秋山日満は、材木の不法伐採で猊座を追われ、末寺に追いやられている。
 しかし、今迄のような争い事は終わらせなければいけないし、戦前のように謗法に陥ってもならない。日淳師には、どうか宗門を真っ当なものにしてほしい――。このような大事な時に気掛かりなのは、蓮華寺のS住職のような例である。

4.日顕とS住職との〝魔縁〟

 蓮華寺のS住職は、かつて六十世阿部日開を猊座に推戴するため、宗門を跳梁跋扈した。だが今後は絶対、猊座の決定が謀略によってかき乱されてはならない。このS住職ならずとも、似たような事は二度と起こしてはならない――。
 前出の論文には、戸田会長の強い信念と決意とが込められている。日昇法主・日淳法主の二代にわたり、管長職が真っ当に遂行された安定の時代は、戸田会長の外護の力によるものであった。
 かかるS住職とは、いかなる人物であったか。細井管長は次の通り話している。
              ◇
 崎尾正道という人がおりまして、これは日正上人の弟子で、私よりも年は上だけれども、後輩の人です。この人が非常に日正上人にかわいがられて、奥番なんか長くして、非常に用いられました。そのために、たいへん僭越(せんえつ)になって横暴(おうぼう)を極め……(崎尾は)日開上人にどうしても、日正上人の跡をやっていただきたい。そうすれば自分もきっと幅をきかせられる、と思ったのでしょう。そこで、日開上人を日正上人の跡にしようと、策謀したのでございます。……本山では非常にいろんな策謀があったのです、崎尾がそのもとですが。
(『蓮華』S47.6)

 S住職とは、この崎尾正道である。日顕の父・阿部法運(日開)を管長に推戴するため、「猊座のことに意見をふりまわした」坊主である。
 細井管長は、日開が法主経験者であるゆえ遠慮して、策謀を崎尾に帰している。ただし「崎尾がそのもと」と言っているのであり、日開と共謀したことを否定してはいない。
 日顕自身は崎尾と直接の関連は無いが、〝魔縁〟とは恐ろしいものである。崎尾の盟主であった日開の息子・日顕は、崎尾という魔僧の働きをきちんとなぞっている。それが先述した、御本尊下付停止と言う天魔の所為である。

5.「偽の仏」は魔の変化身

 法を担うには、まず人である。戸田会長には、六十四世水谷日昇から六十五世堀米日淳への流れが見えていたから、それを乱す者(「罰当たり者」)が出ないよう、宗門坊主を強く牽制しておいたのである。
 日顕宗では、この時の戸田会長の言葉を、自分等に適用されるとでも思っているのであろうか。それは戸田会長が真っ先に反対したはずである。
              ◇
 大場 日顕が「C作戦」で学会の破壊をもくろんだのも、あの男が昔から、学会を妬み抜いてきたからだ。
 渡辺 昭和27年に学会が宗教法人の認可を取得することになった時も、日顕は猛反対していたんです。「僧侶が上、信徒が下」でないと気が済まない日顕は、あのころから旭日の勢いで発展する学会に焼き餅をやき、「私怨」を抱いていました。
 森田 戸田先生も、そういう日顕の魔性を鋭く見破られ、〝阿部には腹黒いものがあるから気をつけろ〟と言われていた。日顕は戸田先生から厳しく叱責を受けたこともある。
 工藤 日顕が自分で白状していますよ。宗門の機関誌で「私の罪障と云はうか、(戸田)先生の云ういはゆる坊主根性の為か、昭和二十四年頃の私は、自らの心にある垣根を作り、それが円融闊達にして師厳道尊なる先生の精神に半ば通じない事があった」と書いている通りです。
 原田 この「昭和二十四年頃」というのは、どういう時期なんでしょう。
 工藤 そのころといえば、ちょうど昭和25年秋ごろに日淳上人が向島の常泉寺住職に赴任され、日顕は、道を挟んで向かいにあった本行寺の住職でした。日淳上人は、戸田先生との親交も厚く、人格も見識も素晴らしい方でした。学会員は、みな自然と常泉寺に足が向いた。ところが日顕の本行寺には、誰も寄りつかなかったんです(笑い)。
 大場 なるほど。それでひがんでいたんだな。自分で言うぐらいの醜い「坊主根性」だったわけだ(大笑い)。
(『聖教新聞』2001-10-5)
 
「学会は猊座のことには一切関知せぬ」と言っても、それは法主が大御本尊を「究竟(くきょう)中の究竟、本懐の中の本懐」(『観心本尊抄文段』)と拝して格護するものと信じ、また学会との僧俗和合があればこそ、尊敬もするのである。
 大御本尊を「ニセ物」と誹謗し、「事の本門戒壇」たる正本堂の御座より引きずり降ろし遷座させた日顕を、学会が許すはずはない。戸田会長が存命であったら、「仏法の尊厳をそこなう者」と、大喝したことであろう。
 かかる天魔の所為は何故であるか、ここに思い至れば、日顕が相承詐称で法脈を汚した「偽の仏」であったことに行き当たるわけである。

 南条兵衛七郎殿御書(一四九七㌻)にいわく、
「大悪魔は貴き僧となり父母・兄弟等につきて人の後世をば障るなり」

 前師より相承を受けず、自己申告の舌先三寸で猊座を盗み取った日顕は、「猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者」(戸田会長)の謗りをまともに受ける身であり、言葉通りの運命が待ち構えることとなる。

6.「創立以来、一貫した信心」とは

 学会創立以来の一貫した信心とは、三代にわたる会長の姿にある。学会は戦前から、宗門の外護を任じてきた。しかし、宗門が大聖人の正義を失う振舞に及んだときには、これを正しく諌めてきた。
 法華講のように、宗門に盲従するだけの存在なら、楽なことである。宗門に貢いでやって、それで宗門とともに地獄に堕ちるとは、割の合わない話であるが、自ら選んだ安易な道である。
 しかし、学会は大聖人の御叱正を恐れる。大聖人の正しい仏法を腐(くた)してしまってはならない。
              ◇
 昭和十八年六月に学会の幹部は登山を命ぜられ、「神札」を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうかと、二上人立ち会いのうえ渡辺慈海師より申しわたされた。
 御開山上人の御遺文にいわく、
「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(御書全集一六一八ページ)
 この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった。しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには、
「一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、恐れるのである。いまこそ、国家諌暁の時ではないか。なにを恐れているのか知らん」と。
 まことに大聖人の御金言は恐るべく。権力は恐るべきものではない。牧口会長の烈々たるこの気迫ありといえども、狂人の軍部は、ついに罪なくして罪人として、ただ天照大神をまつらぬという〝とが〟で、学会の幹部二十一名が投獄されたのである。このとき、信者一同のおどろき、あわてかた、御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるも恥ずかしきしだいであった。牧ロ、戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられたのは、時とはいえ、こっけいなものである。
(『創価学会の歴史と確信』戸田会長)

 牧口会長は、大聖人の正義を奉じたゆえに弾圧を受けた。法華経を身で読み、地涌の菩薩の本地を顕わしたのである。

 上野殿御返事(一五六一㌻)にいわく、
「とにかくに死は一定なり、其の時のなげ(歎)きは・たうじ(当時)のごとし、をなじくは・かり(仮)にも法華経のゆへに命をすてよ、つゆ(露)を大海にあつらへ・ちり(塵)を大地にうづ(埋)むとをもへ、法華経の第三に云く『願くは此の功徳を以て普(あまね)く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん』云云」

(ともかく、死は一定なのである。その時の嘆きは現在の迫害の苦しみと同じである。同じことなら、かりにも法華経のために命を捨てよ。それこそ、あたかも露を大海に入れ、塵を大地に埋めるようなものであると思いなさい。法華経第三の巻化城喩品第七に「願わくは此の功徳を以って、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」と説かれているとおりである)
 
 学会幹部も続いたが、ほとんどは退転してしまった。事実上、牧口会長と戸田理事長(当時)だけが消えかかった正法の法灯を守り抜いたのである。これこそは、学会の「創立以来、一貫した信心」であり、その根元である。
 これに対し宗門は、いち早く逮捕者を信徒除名とし、保身を図った。江戸時代、各地で信者が弾圧を受けたときも宗門は冷たく切ってきたが、戦時中の対応も同じ構図だったのである。

7.魔を打ち破る信心

 宗門が引用する池田名誉会長の著述は、〝僭称疑惑〟を正信会の悪侶から糾弾された日顕を守ってやったものである。ところが、日顕が正信会僧侶を排除し終えると、次には池田名誉会長と学会の切り捨てを企んだ。〝恩を仇で返した〟のである。
 我ら学会は、長らく宗門厳護の赤誠を尽くしてきた。しかし、僧俗差別が頭から抜けない宗門に誠意など、通じるわけがなかった。
 宗門の悪意極まる嘘・偽りには、我らは徹底して反撃する。正義の声に敵(かな)うものは無い。御書には仰せである。

 松野殿後家尼御前御返事(一三九三㌻)にいわく、
「師子の声には一切の獣・声を失ふ虎の影には犬恐る、日天東に出でぬれば万星の光は跡形もなし」

 我らはいよいよ信行立てて、声を上げ、魔教の宗門を打ち破る。
              ◇
 戸田先生は語っておられた。
「何のための信心か。魔を打ち破るための信心である、宿業を打ち破るための信心である。どのような障害物も堂々と乗り越えていく。この激流のような信心で勝ち進むのだ」   
 私たちも、この決意で進みたい。
(池田名誉会長 第39回本部幹部会 2010.4.17)
                           (了)
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日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:39」を破折する 連載53回

妄説:39 「学会員が増えることが広宣流布」ということは正しいのですか。

 第六十六世日達上人は、
「創価学会創立四十八周年記念代表幹部会」の折、「とにかく大聖人以来、七百年間守りつづけてきた伝統と教義の根本はあくまで守り伝えなくてはならないのであります。これを踏まえなかったならば仮りにこれからいくら勢力が増しても、広宣流布は見せかけのものであったかとの後世の批判を免れることはできないのではないかと心配いたします」(大白蓮華 三三三-一三頁)
と明確に指南されております。
 かつて池田大作氏は
「現代においては、いかなる理由があれ、御本仏・日蓮大聖人の『遣使還告(けんしげんごう)』であられる血脈付法の御法主日顕上人猊下を非難することは、これら(=正信会)の徒と同じであるといわなければならない。批判する者は、正法正義の日蓮正宗の異流であり、反逆者であるからである」(大白蓮華 三六三-五二頁)
と発言しておりますが、この言葉どおり、現在の創価学会は、日蓮正宗の正法に敵対する異流義となり、日蓮正宗より破門されてしまいました。
 したがって、学会員がいかに増えても広宣流布とは関係ありません。

破折:
1.広宣流布の意義
 
 広宣流布の語には、深い意義が込められる。「学会員が増えることが広宣流布」とは真実義の一部であるが、すべてではない。
 細井管長(日達法主)の意は「七百年間守りつづけてきた伝統と教義の根本」を弘めることにあったようだが、それは結局、僧侶の怠惰と謗法とによって「形骸」と化し、今日に至っている。その内訳についてはこれまで数々挙げてきたが、到底言い尽くせない。
 ここでは宗門が心得違いしている、広宣流布の意義を正しておきたい。
               ◇
 広宣流布は創価学会の会員の拡大だけを意味するものではない。御本尊を受持して信心にはげんだものは、まず人間として自己自身を革命することは当然のことだ。革命された個人は自己の宿命をも換え、家庭をも革新する。このような個々人の集団というものは、地域社会にも一つの根本的な変革をもたらすはずである。いや地域社会ばかりではない。それらの個々人は、あらゆる社会分野にわたって発芽するだろう。政治の分野にも、経済活動の分野にも、生産の分野にも、教育や文化や、科学、哲学の分野にも、みずからの生命を革命したわが学会員の日々の活動というものは、その才能を十二分に発揮しつつ、大きな波動をあたえ、やがては新世紀への斬新な潮流となって、来るべき人類の宿命の転換に偉大な貢献を果たす時がこよう。これが妙法の広宣流布の活動というものだと、彼は心に期していた。
(「人間革命」第九巻 展開の章より)

 大聖人は、〝折伏して御本尊送りをしていれば、それで広宣流布が達成される〟等の趣旨など、どこにも説かれていない。広宣流布の目的とは、日蓮大聖人が御自身の生命を賭して時の権力者に諫暁したところの「立正安国」であり、仏国土の建設である。
 それには、妙法を持った者一人一人が自己自身だけでなく、社会の全分野をも変革していくことが、広宣流布の目的に適うこととなる。ゆえに大聖人の御遺命を達成すべく、異体同心をもって共々に進み行く学会の組織が、最も大切なのである。

2.仏国土の建設

 大聖人が希求された「立正安国」の先にあるものこそ、仏国土である。それはいかなる様相であるか、御書を拝しておきたい。

 如説修行抄(五〇二㌻)にいわく
「法華折伏・破権門理の金言なれば終(つい)に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤(つちくれ)を砕かず、代は羲農(ぎのう)の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理(ことわり)顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」

(法華経は折伏であって、どこまでも権教の理を破折していくという仏の金言であるから、最後には、権教権門を信じている者どもを、一人も残さず折伏して、日蓮大聖人の門下となし、天下万民、すべての人々が一仏乗に帰して三大秘法の南無妙法蓮華経が独(ひと)り繁昌する広宣流布の時になり、またすべての人々が一同に南無妙法蓮華経と唱えていくならば、風は穏やかに吹き、降る雨も壤(つちくれ)を砕かず、万物の成育に適して、世は昔の中国における義農の時代のような理想社会となり、人々は今生には不祥の災難にもあわず、長生きできる方法を得る。また妙法を根本とした人生は、どこまでも幸福を満喫でき、人生も、そしてまた妙法も共に、不老不死であるという道理が実現するその時を、みんなが見てご覧なさい。その時こそ「現世安穏」という証文が事実となって現われることに、いささかの疑いもないのである)

 何点かは説明を要する。
① 「吹く風枝をならさず雨壤(つちくれ)を砕かず」

 国土世間の平和論である。衆生世間である我らとは〝一念三千〟で一体である。
 自然環境の荒廃が叫ばれて久しい。砂漠化(地球規模で年間に日本の面積の三分の一に及ぶ)一つをとっても、すべて人間の生活が織りなした結果である。食物連鎖の捕食の頂点に君臨する猛獣・猛禽類を狩猟した結果、被食の草食動物が大量発生し草の根まで食い尽くす、生態系の破壊によることが大であったと指摘される。また焼畑農業で樹林を焼き尽くし、山林を伐採して禿山としてきた。河川は生活用水、工業用水の投棄で汚染され、海洋に及ぶ。すべては人間の所為である。
 まさに仏法者が率先して依正不二の原理を実証し、国土世間を変革していかねばならない。理想社会は待望するものではなく、目標として創造するためのものである。

② 「人法共に不老不死の理(ことわり)顕れん」

 人類は科学の進歩とともに、平均寿命が伸長しつつある。だが、新たな病気が次々と発見されていることからしても、人は科学をもって病や死から解放されることは無い。では「不老不死」とは何の謂いか。
 法華経如来寿量品第十六に「常住此説法(じょうじゅうしせっぽう)」(常に此(ここ)に住(じゅう)して法を説く)、「常在此不滅(じょうざいしふめつ)」(常に此に在(あ)って滅せず)とある。
 意義については二様ある。第一に、大聖人の大法には三世常住の利益があることを言う。

 報恩抄(三二九㌻)にいわく、
「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」

 第二には、境涯革命の理念に立った学会員が、永遠の生命を悟る境界を言う。三世の生命を知ればこそ、今生での使命を了解し、仏国土の建設に邁進できるのである。

 富木入道殿御返事(九五五㌻)にいわく、
「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」

(命は限りあるものである。これを惜しんではならない。願うところは寂光土である)

 佐渡に流されて翌月十一月の下旬、富木常忍に認められた御書である。死身弘法の決意を込められた、烈々たる御消息文である。難による死を覚悟しつつ、仏国に至ることは疑いないとの御確信が表わされ、限りある人身を受けながら仏道を成ずるという永劫の幸福を確立しうる喜びを示されている。
 軍国主義の弾圧に屈せず、法灯を最後まで守った牧口会長は、大聖人の御精神を身に体した、法華経の行者であった。

3.順逆ともどもの広宣流布

 広宣流布と一口に言っても、大聖人の仏法を信受する者だけが増加することを言うのではない、誹謗する者もそれだけ増える道理を、御書に仰せである。

 中興入道消息(一三三二㌻)にいわく、
「はじめは日蓮只一人唱へ候いしほどに、見る人・値(あ)う人・聞く人耳をふさぎ、眼(まなこ)をいか(怒)らかし、口をひそめ、手をにぎり、は(歯)をかみ、父母・兄弟・師匠・ぜんう(善友)もかたきとなる。後には所の地頭・領家かたきとなる。後には一国さはぎ、後には万民をどろくほどに、或は人の口まねをして南無妙法蓮華経ととなへ、或は悪口のためにとなへ、或は信ずるに似て唱へ、或はそしるに似て唱へなんどする程に、すでに日本国十分が一分は一向南無妙法蓮華経、のこりの九分は或は両方、或はうたがひ、或は一向念仏者なる者は、父母のかたき、主君のかたき、宿世(すくせ)のかたきのやうにのの(罵)しる。村主・郷主(ごうしゅ)・国主等は謀叛(むほん)の者のごとくあだ(怨)まれたり」

(はじめは日蓮ただ一人、題目を唱えていたが、見る人、会う人、聞く人いずれも耳をふさぎ、眼をいからし、口をゆがめ、手を握りしめ、歯がみするなどして、父母、兄弟、師匠、善友等、近しい人達までもが敵対した。後には、生国の地頭や領家も日蓮に敵対し、ついには一国をあげて騒ぎ、万民が驚動するありさまとなった。そうしたなかで、人の口まねをして南無妙法蓮華経と唱える者がいたり、あるいは悪口のために唱えたり、信ずるに似て唱え、あるいは誹謗に似て唱える者がいたりして、すでに日本国の民衆の十分の一は、一向に南無妙法蓮華経と唱えるようになったのである。残りの九分のうちには、あるいは念仏と題目の両方を行じ、あるいはどちらにつくべきか迷い、あるいは一途に念仏を行ずる者は、日蓮をまるで父母のかたき、主君のかたき、宿世のかたきででもあるかのようにして罵る。村主、郷主、国主等は、日蓮を謀叛人のように怨(あだ)んでいるのである)

 日本国の十分の一の人々に題目が広まったと仰せであるが、それは順縁・逆縁の両縁による題目流布の結果を言われている。
 逆縁に遭うことは、実に峻烈なものがある。しかし、結果として折伏したことによって人々が結縁されたのであり、妙法の種を撒いたことになる。信順する順縁の人も、反発する逆縁の人も、生命的に触発され、妙法に結縁されたのである。
 難を恐れていては、広宣流布は叶わない。大聖人の未来記を実現するのは、弟子たる我らの勤めである。

 妙密上人御消息(一二四一㌻)にいわく、
「日本国の中(うち)に但一人(いちにん)南無妙法蓮華経と唱えたり。これは須弥山の始めの一塵(じん)、大海の始めの一露(ろ)なり。二人・三人・十人・百人、一国・二国・六十六箇国、已(すで)に島二(ふたつ)にも及びぬらん。今は謗(ぼう)ぜし人人も唱へ給うらん。又上一人より下万民に至るまで、法華経の神力品の如く、一同に南無妙法蓮華経と唱へ給ふ事もやあらんずらん」

(日蓮は日本国でただ一人、南無妙法蓮華経と題目を唱えたのである。このことは須弥山という大山を形成する最初の一塵であり、大海を構成する最初の一露である。二人、三人、十人、百人、一国、二国、六十六箇国まで弘まり壱岐、対馬にまでおよぶであろう。今は日蓮を謗(ぼう)じていた人達も題目を唱えているであろう。また日本国の上一人より下万民にいたるまで、法華経の神力品で説かれているように、必ず一同に声を合わせて南無妙法蓮華経と唱えることがあるだろう)

4.「大悪をこれば大善きたる」

 大聖人の立宗宣言以来、広宣流布を実現したのは、爾来七百有余年後に大法流通の時を感じて出現した創価学会以外にない。そして宗門は学会を破門した。仏法の台頭するところ、魔の反動が襲い来たることは道理である。宗門は悪知識として、学会の正義を証明したのである。
 釈尊は魔を降し成道した。大聖人も数々の大難を超えられ、発迹顕本されたのである。我らも魔を恐れてはならない。

 大悪大善御書(一三〇〇㌻)にいわく、
「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし」

(大事の起こる前には小さな瑞相はない。大悪が起これば大善がくる。既に大謗法が国に充満しているのであるから、大正法は必ず弘まるであろう)

 大悪と大謗法は、日本国に三度到来した。

① 第一の大悪・大謗法

(弾圧者) 鎌倉幕府
(大悪)  大聖人の流罪・死罪
      熱原の農民信徒弾圧、三烈士の処刑
(悪果)  二度にわたる元寇 
(正法興隆)三大秘法の開顕、御本尊の建立

② 第二の大悪・大謗法

(弾圧者) 軍部政府
(大悪)  宗門による神札甘受等の謗法
      学会幹部の逮捕、牧口会長の獄死
(悪果)  本山の火災、宗門管長の焼死
      全土に空襲、二度にわたる原爆
(正法興隆)国家神道の廃止、学会の興隆、御本尊の流布

③ 第三の大悪・大謗法

(弾圧者) 詐称法主・日顕
(大悪)  正本堂(「事の本門戒壇」)の破壊
      学会の破門、御本尊下付の停止
(悪果)  広宣流布の停滞、
      二度にわたる天災(阪神淡路大震災、東日本大震災)
(正法興隆)魂の独立、学会による日寛上人御書写の御本尊授与

 大聖人は先程の御文の後に、次の通りお認めである。

 大悪大善御書(一三〇〇㌻)にいわく、
「各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか」

(おのおのは何を嘆くことがあろうか。迦葉尊者でなくても、舞を舞うべきところである。舎利弗でなくても、立って踊るべきところである。上行菩薩が大地から湧出したときには、踊り出られたのである)

 大正法が世に出るときの、歓喜の渦である。この姿を現出させるためにも、広宣流布は必ず我らが為し遂げる。

5.忘恩の日顕

 名誉会長は当時、正信会の攻撃に曝(さら)されていた日顕を庇った。ところが正信会の処分が落着すると、手のひらを返すように、おのれの恩人(名誉会長、学会)を破門したのが日顕である。学会員は、その忘恩を許さない。
              ◇
 八矢 これはもう日顕宗全般に言えることですが、出家の身でありながら、とにかく〝恩〟と言うものを知らなすぎるわね。その最たるものが、大恩ある学会、なかんずく池田先生に対する仕打ちです。
 秋谷 会長就任以来、それこそ池田先生はどれほど宗門に貢献されたか。建立寄進した末寺の数だけでも三百六十カ寺にも及ぶ。それほどの大功労者を、あろうことか『あの野郎』呼ばわりして切ってきた。
 佐藤 大聖人は「畜生すら猶(なお)恩をほうず」(同二〇四ページ)と仰せです。世間でも、犬すら三日飼えば恩は忘れないという。大恩に仇(あだ)で報いた日顕は、断じて許すことはできない。
(聖教新聞 1997.10.18)

 聖愚問答抄下(四九一㌻)にいわく、
「世に四恩あり之を知るを人倫となづけ知らざるを畜生とす」

 報恩抄(二九三㌻)にいわく、
「夫れ老狐は塚をあとにせず白亀は毛宝が恩をほうず畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや」

 不知恩の者は畜生にも等しい。しかしその畜生でさえ、一分の恩を報ずることを知っている。畜生の名にすら価しないのが、忘恩の日顕である。
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:38」を破折する(その2) 連載52回

妄説:38 学会では〝先生と自分との関係を忘れない信心こそ功徳がある〟との指導をしていますが、この考えは正しいのですか。

 学会では「御本尊と自分の間に、ほかのものはいらない」と指導しているのに、ずいぶん矛盾した指導ではありませんか。
 日蓮正宗は、日蓮大聖人の仏法を信じる教団です。
 したがって、『上野殿御返事』に
「此の南無妙法蓮華経に余事をまじ(交)へば、ゆゝしきひが(僻)事なり」(新編 1219頁)
と仰せのように、大聖人の教えでないものを入れることは謗法です。
「先生と自分との関係を忘れない信心」とのことですが、信仰をしていくうえで、池田大作氏を絶対的な立場に位置づけることは間違いです。
 昭和五十三年一月に、第六十六世日達上人は
「先日、東北のある県で、〝御本尊に向って、ある人を心に思い浮かべてお題目を唱えろ〟ということを指導した人がある(中略)実に残念なことでございます。それでは謗法の念慮(ねんりょ)を絶したということにはならない」(達全 2-7-136頁)
と仰せられましたが、この〝ある人〟とは当時創価学会会長であった池田大作氏を指していることは周知の事実です。
 ましてや、今日、池田氏は大慢心を起こして、日蓮大聖人の仏法を継承する日蓮正宗を誹謗しているのですから、その池田氏との「関係を忘れない信心」をすれば、池田氏同様、会員も頭破作七分になり、悪道に堕(お)ちることになります。

破折:
4. 仏教を逸脱した宗門

「御本尊と自分の間に、ほかのものはいらない」とは、成仏得道には〝法主という介在物〟を要しないことを言う。
「本従の師に至るには総貫首たる御法主上人の御指南に随順しなければなりません」(「妄説:14」)とあるが、御本尊と我らとの間に何ゆえ「異物」が混入しなければならないか。御書のどこに説かれているか。
 古代エジプトやギリシャ都市国家では、神と民衆との間を神官が取り持った。インドでは婆羅門階級が祭祀を占有したが、釈尊はこれらの迷妄を打ち払い、一人一人の人間の中に仏性を見出した。
 ところが日顕宗は、「大聖人の御内証の法体を唯授一人血脈相伝される御歴代上人」(「妄説:6」)と言い、法主代々に御本仏・大聖人が降臨すると言う。
 民衆の心奥に内在する仏性を開発する、釈尊から日蓮大聖人へと伝持された仏法の根幹に背を向けて、現時に生きる法主を畏敬すべき特別な存在と拵え、これに〝信伏随従〟することが信心であり、さもなくば「堕地獄の業因となります」(「妄説:34」)等と脅迫する。
 まさに神の言葉を真似る巫女・呪術師さながらである。しかし、なまじ仏教に似せているだけに、罪は一層深い。
 信仰が釈尊以前の時代に退化してよいものか。宗門はどこまで堕ちていくのであろう。

 御義口伝巻下(七六五㌻)にいわく、
「信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり」

(信伏随従の信とは無疑曰信〈=疑いなきを信と曰う〉の信であり、伏とは法華経〈御本尊〉に帰伏することである。随とは心を法華経に移すことであり、従とは身を法華経に移すことである)

 信伏随従すべきは、御本尊である。宗門が〝法主に信伏随従せよ〟とするのは、管長自らを御本尊に擬した大不敬であり、「法主本尊」「法主本仏」の大誑惑である。
 宗門が邪宗に堕ちた原因は、前回(連載51回)において「題目不信」「題目否定」の悪業にあったと結論したが、それだけではなかった。謗法の両輪である。
 結論すれば、最悪の結果に陥った宗門である。大聖人の後嗣のはずが、限りなく奈落へと続く邪宗教に変貌してしまった。
 では、何ゆえ彼らがそこまで堕ちたか、それは〝正しい師匠〟たる三代の師匠を信受せず、御書を肝心としないためである。
 むしろ後代の師匠の言を「相伝」と称し、加筆、歪曲されたものを大聖人の直伝に擬したことが、最大の過ちである。そのために大聖人の大法たる御書が、蔑ろにされていったのである。相伝の有謬性については、回を改めて論じたい。 

5.信伏随従

 青年得度した所化たちの、本山での回想である。
               ◇
 山岸と植田は押井と年齢は同じだが、得度は一年早い。三人は行学講習会で顔見知りになり、同世代の親しさから講習会の間、時おり話をしていた。
「どんな指南でも信伏随従だからなあ……」
「そう、信伏随従なのさ。この世界では」
〝信伏随従〟――得度してから、毎日のように聞く言葉だ。
「たとえ黒でも猊下が白と言えば〝白〟。それが信伏随従……」と山岸は合掌するふりをしてつぶやいた。
「僕が在勤している寺の住職も同じことを言っていたよ。『たとえ白でも、猊下が黒と言えば〝黒〟なんだ。覚えておけ』とね」
 植田も声を低くして話している。
「それって、やっぱり本当なんですか!」
「シーッ! 声が大きいよ」山岸が指を唇にあてた。
「こういう話は宗門では禁句だからね……」
 押井は高校生がこの白黒談義をしているのを聞いたことがあった。彼らも「これが宗門の鉄則だ」と語っていた。
 三人は中講堂にいた。植田は周りに人がいないのを確認してから、「彼はその信伏随従を身で体験したんだから」と山岸を指差した。
「またあの話かよー」。山岸が不快な顔をした。
「信伏随従を体験したって、どういう意味ですか?」
「まあいいか。実は、去年の丑寅でね……」。山岸が自分の体験を話し始めた。

 その日の丑寅勤行で日顕はすこぶる機嫌が悪かった。中学生の一人が居眠りしていたのだ。日顕は何度も斜め後ろに座っている奥番を呼んでは、注意に行かせた。中学生と言えば、まだ十二、三歳である。深夜二時半の勤行には耐えられないこともある。本人は一生懸命に勤行しようとしているのだが、何度も居眠りしてしまう。山岸は後ろから見ていて「仕方ない」と同情していた。しかし、本山ではそれではすまない。勤行の後に惨劇が待っていることは誰でも予想ができた。
「この! 居眠りばかりしおって!」「パン!」
 案の定、丑寅勤行が終わり、日顕は怒りを爆発させた。居眠りしていた中学生の頭の上に日顕の中啓がいつもの倍のスピードで炸裂した。
「はい!」。その中学生の声が震えている。恐怖でひきつっているのだ。
「〝はい〟じゃないだろう! 何で寝てるんだと聞いておるんだ!」
 日顕はしゃべりながらも、目を吊り上げて「パン! パン!」と中啓で所化の頭を叩き続けている。
「はい!」
「だから、何で寝てるんだと聞いておるんだ! バカモノ!」
「はい!」。中学生は何て答えていいのかわからないのだ。
「何度も同じことを言わせるな! 理由を言え!」
「パン! パン! パン!」と日顕は狂ったように中啓で小僧の頭を叩き続けている。
「バキ!」。とうとう叩きすぎて、中啓が壊れてしまった。
「この! 馬鹿小僧が!」。そう言いながら、さすがに日顕も全力で叩き続けたので肩で息をしている。
 中啓が壊れるほど、頭を叩かれた小僧は苦痛で顔を歪めながら、それでも下を向いて合掌している。それ以上、どうしていいのかわからないのだ。
「もう、いい! オイ! 御仲居。学衆課の者にもしっかり指導するように言っておけ!」
「はい!」。御仲居もまるで小僧のように身をちぢめている。
「まー、これも修行だ。へへへ……」
 日顕はいつも、怒りを爆発させた後に愛想笑いをする。この様子を初めて見た者は「二重人格ではないか」と驚く。
 日顕は高校生に向かい、急に優しい声で「今日の太鼓は良かったぞ」とほめた。
 それから日顕はおもむろに山岸の方を向いて、
「あー、たしか、お前は雄尊だったな」と声をかけてきた。しかし、山岸の道号は雄尊ではない。山岸は神妙に答えた。
「いえ、雄才でございます」
 山岸がそう言った途端、日顕の表情が変わった。
「何! 貴様! 口答えするのか! 貴様は雄尊だろ!」
 山岸は一瞬、頭の中が白くなった。自分の道号は確かに雄尊ではなく、雄才だ。
「あ、あの……」。言葉が出てこない。
「おい! お前は雄尊だ!」
 山岸は観念した。「はい、雄尊でございます」
「そうだ、お前は雄尊だ。この馬鹿が! 生意気に!」
 要するに、何があっても日顕に口答えしてはならないのだ。日顕が黒といえば、白であっても黒なのである。

「そんな……。自分の名前なのに」
 押井は山岸の話を聞いて、にわかに信じ難かった。
「だから、黒でも白。白でも黒。これがこの世界の信伏随従さ」
「とんでもない世界に来てしまったよね」
 植田がため息をついた。
「シーッ。声がでかいよ。誰かに聞かれたら、俺たちクビだぞ」
 そう言って、山岸は自分の首を手で切るふりをした。
「はぁあ」。押井もため息をついた。自分の想像していた宗門とあまりに違う。知れば知るほど、その違いがはっきりしてくる。一言で言えば、「法主信仰」なのである。
『御義口伝』には「信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり」と身心ともに法華経に帰伏することが信伏随従であると書かれている。ところが、宗門の世界では「法華」が「法主」に入れ替わっていた。
(『実録小説 大石寺・大坊物語』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著)

6.〝師弟子を正す〟

 日興上人は〝師弟子を正す〟こと、〝正しい師匠〟を選ぶことこそ、成仏得道には欠かせないことを説かれる。

「このほうもんは、しでしをただして、ほとけになるほうもんにて候なり」(『佐渡国法華講衆御返事』)

 だが大聖人・日興上人・日目上人の三代にわたる「師弟」は、目師の御遷化をもって絶えてしまった。
 弟子の日道、日郷、日尊等は、三代の師匠の威徳を世に弘めるどころか、或いは対立し(道郷論争)、或いは異流儀に染まり(日尊)、各々の勢力拡大を計ることのみに傾倒していく。
 時代は下り、詐称法主日顕によって、細々と命脈を保った宗門の法灯は絶えてしまった。前師を師匠と仰がなかった傲慢不遜の男が、自分の宗教を立ち上げたのである。
 僧職にはもはや、令法久住を担う役割が失われたこの時代、大聖人の法義を正しく受け継ぐ師匠を選択することが、最も重要である。
「先生と自分との関係を忘れない信心」とは、自身の信心を振り返る時、この一点に立ち帰ることが大事なことを言う。先生とは、師匠の別名である。
 それでは、己の師匠とすべき人の信心が〝真金〟であるのかを如何にして判断するか、御書には仰せである。

 生死一大事血脈抄(一三三七㌻)にいわく、
「金(こがね)は大火にも焼けず大水にも漂(ただよ)わず朽(く)ちず・鉄(くろがね)は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈(あに)真金(しんきん)に非ずや・法華経の金を持つ故か、経に云く『衆山の中に須弥山為(これ)第一・此の法華経も亦復是くの如し』又云く『火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず』云云、過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、『在在諸仏土(ざいざいしょぶつど)常与師倶生(じょうよしぐしょう)』よも虚事(そらごと)候はじ」

(金は大火にも焼けず、大水にも流されず、また朽ちることもない。鉄は水にも火にも、ともに耐えることができない。賢人は金のようであり、愚人は鉄のようなものである。あなたは法華経の金を持(たも)つゆえに、まさに真金である。薬王菩薩本事品に「諸山の中で須弥山が第一であるように、この法華経もまた諸経中最第一である」とあり、また「火も焼くことできず、水も漂わすことができない」と説かれている。過去の宿縁から今世で日蓮の弟子となられたのであろうか。釈迦多宝の二仏こそ御存知と思われる。化城喩品の「在在諸仏の土に、常に師と倶(とも)に生ぜん」の経文は、よもや虚事(そらごと)とは思われない)

 難に遭っても信念を曲げないのが賢人であり、そのゆえに賢人は「金」に譬えると仰せである。それに対し、難にあうと信念を失ってしまう愚人を「鉄」に譬えられる。
 大聖人と同じ境界に立ち、同じく信念を貫く人こそ、大聖人直結の弟子である。その人こそ、「師匠」として信ずるに足る人なのである。
 大聖人御在世当時、幕府の弾圧に屈して弟子門下とも退転していったなか、日興上人や四条金吾らは、種々の難に耐えて純粋な信心を貫いた、大聖人の弟子・檀那の鑑である。
 時代は下り、時の軍部政府の強権により、神札を受容する等の謗法を犯したのは、他ならぬ法主であり、宗門であった。その時、敢然と反対したのが牧口会長である。
               ◇
 戸田会長の回顧にいわく、
「昭和十八年六月に学会の幹部は登山を命ぜられ、『神札』を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうかと、二上人立ち会いのうえ渡辺慈海師より申しわたされた。
 御開山上人の御遺文にいわく、
『時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事』(御書全集一六一八㌻)
 この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった。しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには、
『一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、恐れるのである。いまこそ、国家諌暁の時ではないか。なにを恐れているのか知らん』と」
(『創価学会の歴史と確信』)

 大聖人に続くか、保身を取るか、はっきりと態度を明確にすべきとあらば、我ら学会員はどこまでも大聖人に続く。それこそは牧口会長以来の、「師弟子を正す」精神である。

7.久遠元初以来の師弟

 戸田会長は、元初の昔、霊鷲山会、大聖人御在世と、いついかなる時でも「師弟の契り」を結んだ〝折伏の大闘志〟が出現すると断じている。それこそは誰あろう、我ら学会員である。
                ◇
 戸田城聖第二代会長は、日蓮大聖人宗旨建立七百年にあたる昭和二十七年、「七百年の意義」と題する論文を著している。
「かならずやこのとき、大聖人様の命を受けたる折伏の大闘士があらわれねばならぬと、予は断ずるのである。
 この折伏の大闘士こそ、久遠元初においては父子一体の自受用身であり、中間には霊鷲山会において上行菩薩に扈従して、主従の縁を結び、近くは大聖人様御在世のとき、深き師弟の契りを結びし御方であるにちがいない。この御方こそ大聖人様の予言を身をもって行じ、主師親の三徳の御本仏を妄語の仏ならしめずと固く誓って、不自惜身命の行を励むにちがいないと固く確信するものである。
 わが創価学会は、うれしくも、このとき、誕生したのである。広宣流布の大菩薩ご出現に間に合うとやせむ、間に合わぬとやせむ、ただただ宗祖日蓮大聖人様、御開山日興上人様の御命にまかせ、身命を捨ててあらあら広宣流布なして、大菩薩のおほめにあずかろうとするものである」(『戸田城聖全集』第三巻所収「七百年の意義」より一部抜粋)」
 これが、創価学会の大確信である。いまが、地涌の菩薩台頭の時なのだ。
(『地涌』第503号 1992年9月15日)

8.「師弟」があるゆえ学会は発展

 池田名誉会長の指導から「師弟」を学ぶ。
               ◇
① 自身を育む「師匠との出会い」

 先日、ボストン二十一世紀センターの横田政夫代表が、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のバーナード・ワイナー教授にインタビューした内容を報告してくれた。
 ワイナー教授は、「動機づけの心理学」の第一人者として、世界的に著名である。
 その教授が、人間に偉大な「動機」をもたらし、自発の心を育む重大な役割として着目しておられるのは、何か――。
 それは、「師匠との出会い」だというのである。
 その観点から、教授は、創価学会が「師弟」の絆を通して、信仰を深め、運動を広げていることに、大きな共感を寄せてくださったという。
 教授は言われた。
「池田会長は、自分が今あるのは、すべて戸田会長のおかげであると語られている。
 すべてを戸田会長から学んだのだ、と。
 これは、大変に重要なことである。
 自らが誇れる師匠をもてば、その思想と絆を人びとに伝えていくことの大切さを確信できる。師匠をもたなければ、この師弟の関係の重要性はわからない」と。
 戦時中、牧口先生を、師匠と尊敬し、仰いでいた直弟子らが、先生が戦争反対で入獄したあとは、手のひらを返すように、「牧口の馬鹿野郎」「牧口、牧口」と、頻繁に罵倒したものである。
 人の心は恐ろしい。
 よく、戸田先生は語っておられた。
 ――私が会長になった時に、ずる賢い傲慢な連中は、「俺は、戸田の弟子ではない。牧口会長の弟子である」と言い出した。
 別に、私から、弟子になってくれと頼んだ覚えはない。それでは、彼らは、なぜ勝手に、牧口先生の弟子だというのか。
 要するに、彼らは、自分の都合のいいように、自分を飾っているだけだ。
 牧口会長の弟子といえば、体裁がいい。しかし、弟子として戦っているかといえば、何もしない。それでは、現実を逃避して、空論の世界に入ってしまっているにすぎない。
 つまり、牧口会長を利用しているだけであって、決して弟子ではない。
 牧口会長の本当の弟子ならば、その精神を受け継いで、広宣流布に敢闘しゆく戸田城聖につくというのが、牧口先生の甚深の指導ではなかったか。
 師弟は不二である。
 師弟不二であるがゆえに、初代の心を継いだ第二代に仕えることが、牧口先生に対する報恩であろう。
 また、私自身のことはいざ知らず、令法久住の一つの方程式、一つの法理として、仏法は、永遠に師弟によらねばならないのだ――と。
 牧口会長の弟子を名乗って、戸田先生につかなかった連中は、皆、退転、反逆であり、仏法から遠ざかってしまった。
 彼らがいかなる自己正当化の強弁をしようとも、それらは、真実の深き師弟というものを知らない、浅はかな愚者の邪論であり、戯論であったことは明白である。
 戸田先生が第二代会長になられる前年(昭和二十五年)のことであった。
 我々が師匠として尊敬する先生が、当時の学会の最高の職務であった理事長職を、突然、人に譲られたのである。
 事業が窮地に陥り、学会に迷惑をかけぬための辞任であったが、私には、戸田先生のいない学会など考えられなかった。
 私は、すぐに、先生のもとへ行って、お聞きした。
「先生が理事長を辞められると、これから、私の師匠は誰になるのでしょうか……」
 先生は即座に言われた。
「苦労ばかりかけるけれども、君の師匠は、この私だよ」
 ――小説『人間革命』にも書いたが、生涯忘れ得ぬ、師弟の劇の一齣である。

② 代々の会長は善知識の頂点

 いうまでもなく、われらの信仰は、日蓮大聖人を末法の御本仏と拝する。
 日蓮仏法は、その上に立って、師弟を教えている。
 日興上人も、こう仰せである(通解)。
「この大聖人の法門は、師弟の道を正して、成仏していくのである。師弟の道を、少しでも誤ってしまえば、同じく法華経を持っていても、無間地獄に堕ちてしまうのである」と。

「こ(此)のほうもん(法門)は、しでし(師弟子)をただして、ほとけ(仏)にな(成)り候、しでしだにも、ちが(違)い候へば、おな(同)じほくぇ(法華)をたも(持)ち、まい(進)らせて、候へども・むけん(無間)ぢごく(地獄)にお(落)ち候なり」   

 ゆえに、「法」を正しく行ずる師匠を求めないで、まるで親分・子分の関係のように、「自分につけ」というのは、仏法の在り方ではない。
 仏道を修行する同志は、「異体同心」であり、平等であるからだ。
 そのうえで、仏法それ自体が、仏(師)と衆生(弟子)の一体不二を教えた「師弟論」である。法華経は、峻厳な師弟の道理を築き、その軌道に則って、人間として永遠に向上していく大道なのである。
 ともあれ、〝師弟があるから、創価学会は発展している〟ことに着目された、このアメリカの心理学の、ワイナー教授の指摘は、まことに鋭い。
 御書には、繰り返し、「悪知識を捨てて善友(善知識)に親近(しんごん)せよ」と説かれている。
 悪知識には、親近してはならない。いくら信心していても、野心があったり、我見がある疑似信仰者、疑似幹部には、親近してはならないのである。
 さらに、御聖訓には、「悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧にして愚癡の人の心を取って善心を破る」(御書7P)とも仰せである。
 この悪知識の偽善を、聡明に見抜いていかねばならない。
「開目抄」には、「善知識と申すは一向・師にもあらず一向・弟子にもあらず」(同208P)とある。
 同志は、互いに善知識として励まし合い、学び合っていくことを教えられている。
 学会の幹部は、善知識にほかならない。
 また、いうなれば、これから続いていく、代々の会長という立場は、その善知識の頂点ともいえよう。
 そして、厳然と、広宣流布へ向かう、その信心の深さ、使命の深さから、「師」と仰がれるようになっていかなければならないのだ。
(『随筆/新・人間革命/82』より「創価の永遠の軌道」)
                           (了)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:38」を破折する(その1) 連載51回

妄説:38 学会では〝先生と自分との関係を忘れない信心こそ功徳がある〟との指導をしていますが、この考えは正しいのですか。

 学会では「御本尊と自分の間に、ほかのものはいらない」と指導しているのに、ずいぶん矛盾した指導ではありませんか。
 日蓮正宗は、日蓮大聖人の仏法を信じる教団です。
 したがって、『上野殿御返事』に
「此の南無妙法蓮華経に余事をまじ(交)へば、ゆゝしきひが(僻)事なり」(新編 1219頁)
と仰せのように、大聖人の教えでないものを入れることは謗法です。
「先生と自分との関係を忘れない信心」とのことですが、信仰をしていくうえで、池田大作氏を絶対的な立場に位置づけることは間違いです。
 昭和五十三年一月に、第六十六世日達上人は
「先日、東北のある県で、〝御本尊に向って、ある人を心に思い浮かべてお題目を唱えろ〟ということを指導した人がある(中略)実に残念なことでございます。それでは謗法の念慮(ねんりょ)を絶したということにはならない」(達全 2-7-136頁)
と仰せられましたが、この〝ある人〟とは当時創価学会会長であった池田大作氏を指していることは周知の事実です。
 ましてや、今日、池田氏は大慢心を起こして、日蓮大聖人の仏法を継承する日蓮正宗を誹謗しているのですから、その池田氏との「関係を忘れない信心」をすれば、池田氏同様、会員も頭破作七分になり、悪道に堕(お)ちることになります。

破折
1.唱題行を貶(けな)す日顕

 御書を引用するなら〝切り文〟をしないで、前後の御文とともに掲示しなければいけない。切り文は、大聖人が顕わされた大法を、恣意的にすり替える姑息な手口である。もっとも、〝換骨奪胎〟は宗門の常套手段であったか。

 上野殿御返事(一五四六㌻)にいわく、
「又日蓮が弟子等の中に・なかなか法門しりたりげに候人人は・あしく候げに候、南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心・人の中の神(たましい)のごとし、此れにものを・ならぶれば・きさき(后)のならべて二王をおとこ(夫)とし、乃至きさきの大臣已下になひなひ(内内)とつ(嫁)ぐがごとし、わざはひ(禍)のみなもと(源)なり、正法・像法には此の法門をひろ(弘)めず余経を失わじがためなり、今末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし、但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だして候も・わたくし(私)の計(はからい)にはあらず、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計なり、此の南無妙法蓮華経に余事をまじ(交)へば・ゆゆしきひが(僻)事なり、日出でぬれば・とほしび(灯)せん(詮)なし・雨のふるに露なにのせんかあるべき、嬰児(みどりご)に乳より外のものをやしな(養)うべきか、良薬に又薬を加えぬる事なし」

(また、日蓮の弟子達の中に、法門を知った振りをする人々が、かえって間違いを犯しているようである。南無妙法蓮華経というのは、法華経の肝心で、人の魂のようなものである。これにものを並べることは、后が二人の王を夫とし、また后が大臣以下の者にひそかに情を通じるようなものであって、禍の根源である。正法や像法にはこの法門を弘めることはなかった。それは余経を失わせないためであった。今末法に入ったならば、余経も法華経も無益であり、ただ南無妙法蓮華経以外にないのである。こう言い出したのも、私見ではない。釈迦・多宝如来・十方の諸仏・地涌千界の菩薩の考え定められたことである。この南無妙法蓮華経に余の修行を交えるならば、大変な間違いである。太陽が出たならば、灯は無意味である。雨が降ったなら、露は何の役に立つであろうか。赤児には乳より外のものを与えるべきであろうか。良薬にまた他の薬を加えることはない)

 末法における要法は「但南無妙法蓮華経なるべし」と示し、信心を勧められた御書である。余経(爾前経)も法華経(一部二十八品)も、現時では無益とされる。
 すなわち「大聖人の教え」「日蓮大聖人の仏法」とは、南無妙法蓮華経であり唱題行である。「大聖人の教えでないものを入れることは謗法です」と宗門は言うが、学会が爾前経や、法華経全品を読誦したことがあろうか。唱題根本が学会の修行である。

 本因妙抄(八七二㌻)にいわく、
「信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり」

 学会は、正行である唱題を中心に勤行する。ところが、この成仏への直道たる唱題行を貶すのが、日顕である。

「自分勝手な意味で修行をするということは、たいへんよろしくありません。お題目を唱えることによって、むしろ罪障を積んでいる」(1984年〈昭和59年〉8月、行学講習会)
「(題目を)30分ぐらい真剣に行なうことはよいとおもうのであります。しかし、それ以上は、多すぎることになってもかえって弊害があります」(同)
「お題目を唱えて、我々の仏界湧現、仏界湧現っていうんだ。これはまさしく大謗法だよ」(94年〈平成6年〉8月、全国教師講習会)
「そんな簡単にね、我々凡夫が、仏界が現れたり悟ったりできるんだったら、末法の凡夫はみんな仏になってんだよ」(同)
「題目を唱えたからといって、直ちに九識の境界を得ることができたなどということは、おそらくない」(2004年〈平成16年〉8月、夏季講習会)

2.「唱題」を「馬鹿なこと」と誹謗

 勤行も唱題もしない日顕が、成仏の境涯を説けるはずがない。

「かつて日顕の奥番だった宮川雄法氏(改革同盟)は、『日顕は丑寅以外、まったく勤行をしない。大奥の茶の間にある御本尊に、日顕が読経・唱題している姿など見たことがない』と証言している」

 宗門は上述の記事に対し、次の通り反論する。
               ◇
 創価学会は、退転僧宮川某が一時、日顕上人の奥番(おくばん)の一人であったことを悪用して、日顕上人を誹謗しています。
 宮川某は、「大奥の茶の間にある御本尊」と言っていますが、大奥の茶の間には御本尊はご安置されていませんから、これは宮川某の作り話です。また、「日顕(上人)が読経・唱題している姿など見たことがない」とも言っていますが、御内仏様(おないぶつさま)(御本尊)がご安置されている部屋には、奥番であっても勝手に入ることはできないのですから、日顕上人が大奥で読経・唱題されている「姿」を宮川某が「見たことがない」のは当たり前なのです。しかし、日顕上人が毎夕の勤行をされているお声は、奥番であれば誰もが耳にしているはずです。
 宮川某は、短期間とはいえ、日顕上人のお側に仕えさせていただいた御恩をふみにじり、嘘の話をもって日顕上人を貶(おとし)めようとしているのです
(ブログ「学会のいう『宗門きっての勤行・唱題嫌い』を破折する」)

 宮川氏(小説では「宮内」)が日顕の奥番であったときの出来事が、以下の実録小説に綴られている。
              ◇
 宮内は得度して以来、最大のショックを受ける出来事に遭遇した。
 大奥にも仏間があり、板御本尊が安置されている。ある日、宮内はやはり僧侶として自分を成長させねばならないと思い、その仏間で唱題をした。十分ほど唱題していると突然、奥の部屋にいた日顕が仏間に入ってきた。
「おい! コラッ!」
 日顕は目をつりあげて自分を睨んでいる。宮内はきっと唱題の声が大きくて、日顕の邪魔をしたのではないかと思った。しかし、そうではなかった。
「お前! 何を馬鹿なことをしてるんだ」
 宮内は自分の耳を疑った。日顕が「唱題」を「馬鹿なこと」と言ったのだ。
「いいか! 唱題なんていうのはな! 信者がやることだ!」
 宮内は唖然としてしまった。『御義口伝』には「今日蓮等の弘通の南無妙法蓮華経は体なり心なり廿八品は用なり廿八品は助行なり題目は正行なり正行に助行を摂す可きなり」とある。僧侶は大聖人の弟子である。ところが日顕は末法の正行である題目を唱えることを「馬鹿なこと」と罵り、「信者がやること」と見下しているのだ。
 宮内は日顕が一体仏を身に付けていることを思い出した。上辺だけは大聖人の真似をしているが、言っていることは大聖人とまったく正反対である。大聖人の跡を継ぐというのならば、誰よりも唱題行に専念し、折伏の先陣を切るべきである。ところが日顕は勤行をサボり、毎日、時間を無為に過ごしている。(中略)
 宮内は日顕に唱題を「馬鹿なこと」と言われてから、混乱していた。一体、信心の根幹は何なのか、わからなくなってきたのだ。
(「実録小説 大石寺・大坊物語」青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著)

 掲載した二つの記事で分かったことは、次の点である。

① 「茶の間」とあるは「仏間」

 宗門は「大奥の茶の間にある御本尊」との文言に執着し、「大奥の茶の間には御本尊はご安置されていません」として「作り話」とする。
 だがその前に、我々の家を例にとって考えてみよう。よほど狭い家でなければ「茶の間」に仏壇を置くはずがないことは、滅多に勤行しない宗門ならずとも気が付くはずである。「仏間」を意味した話であろうと、想像がつく。
「茶の間」と「仏間」の言葉のあやを突いたところで、問題の解決にはならない。巷間に「茶の間」と伝えられたわけは措くとして、前出の実録小説にはいかに描写されているか。

「大奥にも仏間があり、板御本尊が安置されている。……その仏間で唱題をした」

 はっきり「仏間」と記述されている。この臨場感あふれる詳細な描写は、単なる作り話では出来得ないことは、自ずと分かりそうなものである。

② 「入ることはできない」とは不自然

 次に「御内仏様(おないぶつさま)(御本尊)がご安置されている部屋には、奥番であっても勝手に入ることはできない」とは、何を根拠に言うのであろうか。法主がいつでも使用できるよう、行き届かせるのが奥番の勤めである。
「入ることはできない」室となれば、清掃すらできない。自分たちの師匠である法主の清冽・荘厳たるべき仏間が、埃だらけで良いのか。それとも、法主があまりに勤行しないのを幸いに、「入ることはできない」としたほうが、清掃の手間が省けていいのか。
 ともかく宮内が仏間で唱題していた時に日顕の叱責があった、その理由は、「勝手に入ることはできない」仏間に入ったためではない、「唱題した」ことを咎めたのである。

③ 「日顕の勤行」は誰も見聞きしていない

「日顕上人が大奥で読経・唱題されている『姿』を宮川某が『見たことがない』のは当たり前なのです」と、宗門は時に真実を言う。日顕は勤行をしないゆえに、誰であろうと見たことがないのは「当たり前」である。
「毎夕の勤行をされているお声は、奥番であれば誰もが耳にしているはず」とあるが、「はず」では説得力がない。〝聞いた人間がいた〟とは言えないのである。
               ◇
 日顕もニセ法主の座に三十年近く居座り続けたが、夜の勤行をしたのは僅か一度だけという懈怠ぶりだ。
 大石寺では六壺で毎日午後四時から夜の勤行を行うのを常とする。だが、日顕は「大奥で色々な仕事があって忙しい」と理由を付けては欠席をしたが、一日だけ発心したことがあった。
 昭和六十年春、当時の仲居に「ワシも明日から六壺で勤行をするからな。信心根本でなきゃいかん」と言ったものの、勤行したのは、その翌日の一度だけ。同六十三年にも「勤行に出てやる」と言ったが、この時は口先だけに終わった。
 かつての奥番・山澄信玉が「御前様が勤行をしないんだ」とボヤいていたのは有名だ。
(「フェイク」第1288号  発行=12.04.17)

3.「題目不信」の宗門

〝日顕が唱題しない〟話が、いささか長くなった。それにしても、前出の「(題目を)30分ぐらい真剣に行なうことはよいとおもうのであります。しかし、それ以上は、多すぎることになってもかえって弊害があります」との「題目30分」の根拠が、あまりに馬鹿馬鹿しいのでもう少し続けたい。

① 唱題会で荒れた大坊が一変

 唱題は、荒れた所化教育を正す最善の道であった。 
              ◇
 昭和五十六年、宗門は日蓮大聖人第七百遠忌を奉修した。その年、日顕は〝七百遠忌記念大処分〟と揶揄された程、大量の所化の離弟処分を行った。当時の大坊は荒れており、多くの小僧が喫煙や万引きなどの非行に走っていたのだ。
「どうしようもない悪い小僧はクビを切る。若いのだから、仕事を探せばよい」
 そう言って日顕は処分を断行した。約半分が処分された学年もあった。
 吉岡と佐川は〝処分することで大坊の問題を改善することはできない。今こそ、大坊を抜本的に変革しなければならない。そのためには唱題会を行うしかない〟と決断し、日顕に唱題会の許可をもらうために目通りを願った。最悪の場合は二人とも学衆課をクビになるかもしれない。それでも構わないと、二人は決死の覚悟で臨んだ。
 対面所で二人は日顕に懇願した。
「唱題会を始めさせてください」
「唱題会?」
 日顕は考え込むようにして腕を組んだ。
「大坊を良くするためにお願いします」
 二人は畳に手をついて土下座した。しばらく日顕の沈黙が続いた。
「うん。いいだろう」
 日顕は〝仕方がない〟という表情で答えた。
 日顕にとっても小僧の非行問題は深刻な悩みであった。達師の弟子を処分することには躊躇をしなかったが、自分の弟子を処分することには抵抗があった。なぜなら、それは自分の勢力を減らすことになるからだ。万策尽きていた日顕は二人に賭けるしかないという思いで唱題会を認めた。吉岡と佐川の二人は喜びで小躍りするように大奥を辞した。そしてここに大坊の歴史始まって以来の唱題会が開始された。
 大坊は夜九時に点呼が行われる。吉岡らはその点呼の際に、御書の一節を通して、また『聖教新聞』の体験談を読んで聞かせて、題目の功徳を訴えた。そして点呼後、全員が六壺で毎日一時間の唱題会を行った。また、日曜日は各学年別に座談会を持ち、御書を通して小僧たちに信心の基礎を教えていった。
 この唱題会によって、大坊の雰囲気は一変した。非行がなくなり、上野中学校での小僧たちの成績は向上した。地元の高校から〝入学試験で同じ点数なら大石寺の学生を取りたい〟とまでいわれるほど評判がよくなった。
 しかし、その一方で末寺の住職たちから、「最近、本山では〝唱題をしろ〟と変な指導をしている」という批判があがり、「うちの子どもが休暇で帰ってきたら、唱題ばかりして困る」という苦情が本山に寄せられた。学衆課の主任になっていた吉岡は、(大坊の運命は自分の肩にかかっている。ここでやめたらすべてが水の泡だ。絶対にやめてはいけない)と、それらの批判を無視して唱題会を続けた。
(前出「大石寺・大坊物語」)

② 三十分以上の唱題は日顕の「分を超える」

 昭和五十九年八月の行学講習会で、日顕が怒気を含めて話し始めた。
「この中で二時間も題目をあげているヤツがいる。あげすぎだ、すぐにやめろ。そんなに題目をあげればいいというものではない。ほかにもやることがあるはずだ。三十分ぐらい真剣に行うのはよいが、それ以上は弊害がある」
 この日顕の話は正式な法主の指南として『大日蓮』(昭和五十九年十月号)に掲載された。
 日顕が「三十分は良い」と言ったのには理由があった。日顕は吉岡との目通りで、「ワシもかつて、一度だけ、三十分唱題したことがある。教学部長の時、海外のメンバーに頼まれて一緒に唱題した。十五分を過ぎると、何とも言えない、すがすがしい気持ちになった。こんな気持ちになったのは初めてだった。これが仏界かと思った」と話したことがあった。
 日顕は自分の体験を基準にしていたのである。三十分以上、唱題をしたことがない日顕は、弟子が自分よりも題目を唱えることなどあってはならない、すなわち、弟子が自分を超えることを許してはならないと考えたのだ。
 日顕の指南を聞いた高校生たちが学衆課に来て、「今日の猊下の説法はおかしいんじゃないですか」と疑問の声をあげた。しかし、この日顕の指南により唱題会は中止になった。
 吉岡と佐川はすぐに日顕に目通りし、「いま唱題会を禁止したら大坊は元に戻ってしまいます。唱題会の中止を取り消してください」と直訴した。
 しかし、日顕は「貴様ら、ワシにたて突くのか!」と怒るばかりで、吉岡たちを目通り禁止にしたうえ、「今後、二度と『題目をあげろ』と指導してはならん」と厳命したのであった。
 唱題会が中止になり、大坊は坂をころがり落ちるように元のすさんだ状態に戻っていった。イジメや暴力が復活し、学校の成績は低下した。万引き、喫煙等の非行に走る子どももでてきた。
(同)

 いかに日顕が普段唱題をしないのか、発言には如実に表れている。

「そんな簡単にね、我々凡夫が、仏界が現れたり悟ったりできるんだったら、末法の凡夫はみんな仏になってんだよ」(日顕)
 日顕は「十五分を過ぎると、何とも言えない、すがすがしい気持ちになった。こんな気持ちになったのは初めてだった。これが仏界かと思った」と話している。
 わずか十五分の唱題で仏界が湧現したではないか。「末法の凡夫」が仏になる道理を、日顕が垣間見た瞬間である。

「お題目を唱えて、我々の仏界湧現、仏界湧現っていうんだ。これはまさしく大謗法だよ」(同)
 そうすると、初めて仏界を感じた日顕は大謗法であったわけか。

「題目を唱えたからといって、直ちに九識の境界を得ることができたなどということは、おそらくない」(同)
 唱題しなければ、仏界を得られることは「おそらくない」。唱題しない人間には到達できない境界であり、成仏は思いもよらない。

 一生成仏抄(三八四㌻)にいわく、
「譬えば闇鏡(あんきょう)も磨きぬれば玉(たま)と見ゆるが如し、只今も一念無明(むみょう)の迷心は磨かざる鏡なり是(これ)を磨かば必ず法性真如(ほっしょうしんにょ)の明鏡と成るべし、深く信心を発(おこ)して日夜朝暮(にちやちょうぼ)に又懈(おこた)らず磨くべし何様(いかよう)にしてか磨くべき只(ただ)南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云(い)うなり」

(たとえば曇った鏡も磨けば宝石のような明鏡と見えるようなものである。我々の一念無明の迷いの心は磨かない鏡である。これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。それゆえ深く信心を発(おこ)して日夜朝暮に、また懈(おこた)らないで磨くべきである。どのようにすれば磨けるのであろうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが磨くことになるのである)

 信心は日々精進である。「これでよい」と思うときは、今生に別れを告げる時である。宗門の坊主は得度した時が、大聖人の仏法と訣別した時であった。

「いいか。僧侶になった、出家したということ自体が信心のある結果だ。だから、これからは信心を深めることは一切、考えなくてよい。折伏もしなくてよい。題目もあげてはいけない」
(前出「実録小説 大石寺・大坊物語」)

 本山で得度した中学一年生の所化達が、先輩より最初に与えられる指導がこれである。学会が出現して広宣流布するまで、日蓮正宗が世に弘められなかったこと、また宗門の法脈が滅尽し、遂に邪教へと堕した原因もまた、「題目不信」「題目否定」の悪業にあった。

 生死一大事血脈抄(一三三七㌻)にいわく、
「謗法不信の者は『即断一切世間仏種』とて仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり」

(謗法不信の者は、譬喩品に「即ち一切、世間の仏種を断ぜん」と説かれて、成仏すべき仏種を断絶するがゆえに、生死一大事の血脈はないのである)
                          (続く)
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:37」を破折する 連載50回

妄説:37 学会員は「学会のおかげ」「池田先生のおかげ」と指導されますが、これは正しい指導なのでしょうか。

 このような指導は間違いです。
 現在の創価学会員が、日蓮正宗の正しい信心ができないのは、かえって「池田先生のおかげ」を最優先させているからです。
 第二代会長戸田城聖氏は
「良き法と、良き師と、良き檀那との三つが、そろわなければだめなのです。南無妙法蓮華経、これは良き法にきまっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、六十四代のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下をとおして大御本尊様を拝しますれば、かならず功徳がでてくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私はひじょうに光栄とするものであります」(戸田城聖全集 四-三九九頁)
といっています。
 学会は檀那(信徒)の団体であり、会員が会長を尊敬することは当然ですが、三宝以上に敬うことは本末転倒であり、謗法になります。
 今までの学会員が功徳を得てきたのは、「御本尊様のおかげ」「正しい仏法のおかげ」であって、「学会のおかげ」「池田先生のおかげ」ではないのです。

破折:
1.「良き法と、良き師と、良き檀那」とは

 法華初心成仏抄(五五〇㌻)にいわく、
「よき師と・よき檀那と・よき法と此の三(みつ)寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり、よき師とは指したる世間の失(とが)無くして聊(いささか)のへつら(諂)うことなく少欲知足にして慈悲有らん僧の経文に任せて法華経を読み持(たも)ちて人をも勧めて持たせん僧をば仏は一切の僧の中に吉(よき)第一の法師なりと讃(ほ)められたり」

(よい師と、よい檀那と、よい法と、この三つが寄り合って祈りを成就し、国土の大難をもはらうことができるのである。
 よい師とは、これという世間の失(とが)がなく、いささかもへつらうことなく、少欲知足で、慈悲のある僧で、経文の意に任せて法華経を読み持(たも)ち、人にも勧めて持(たも)たせる僧を、仏は一切の僧のなかで第一のよい法師であるとほめられている)

 まず「良き法」については「南無妙法蓮華経、これは良き法にきまっている。大御本尊様は良き法なのです」(戸田会長)と。
 次に「良き師」とは、日蓮大聖人、日興上人、日目上人の三代の師弟の御事である。
 更に「良き檀那」には、四条金吾、富木常忍、南条時光等が輩出した。
 しかしながら、問題は次代の「良き師と、良き檀那」が出現しなかったことである。
 日目上人が遷化された後、弟子の日道(富士大石寺)・日郷(保田妙本寺)・日尊(京・上行院)は、それぞれ一派をなして分裂していった。
 日道と日郷とは、いわゆる「道郷論争」に明け暮れ、紛争は弟子に受け継がれ、七十年を越える長きにわたった。
              ◇
 1333年(AN52)に日興、日目が相次いで逝去し、大石寺は日目の甥日道が継いだ。その日道も1341年(AN60)に逝去し、後を日目の従姉妹の子日行が継ぐと、日興の直弟子達は日行の権威を認めず、勝手に門流をつくっていった。
(「法体としての本尊論と法主の権限 1991」宮田幸一のホームページ)

 こうして富士門流は分裂し、僧侶の関心は広宣流布よりも、寺領の確保に向けられていた。その後の大石寺においても、有力者の子弟を貫首(法主)に迎えて庇護を恃むようになり、数代にわたり稚児(少年)法主が輩出した。
 しかし仏道においては本来、門地に関わり無く、思念堅固で随力弘通に精進する者が皆の手本となり、師匠に認められ後嗣ともなるべきはずである。これでは皇族や貴族が修行無しに管長に就任する大寺院と同じであり、教団に覇気が漲るわけも無い。
 大石寺は人材が枯渇して衰微し、日尊の門流(上行院の後身である要法寺)より法主を迎えるまでになった。異流儀が混入するのも、時間の問題であった。
 江戸幕府によって寺請制度が布かれ、寺院が民衆に君臨する立場となってから、僧侶による葬儀・戒名・塔婆等、新たな化儀を設定して収奪することが常態化された。
 明治に入って、「肉食妻帯勝手」の太政官布告により五十六世日応が妻帯し、宗内が範に倣い、寺族が幅をきかすようになった。
 現在、僧侶と在家と異なるところは、「袈裟」くらいのものである。「袈裟」は、宗門と言う名の会社に勤務する社員の、ユニフォームないしはビジネススーツの位置にあり、そこに僧侶としてのユニークさ(独自性)が残っている。

2.「小善中善の謗法者」
 
「御法主上人は唯授一人、六十四代のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです」
 宗門が引用した戸田会長の言葉は、当時の「六十四代」の水谷日昇管長を讃え、そのゆえんを日蓮正宗に伝わる「御内証」云々の〝神話〟に置いたものである。当時は〝神話〟も信徒が受容すべき教義の一部であった。
 しかし日蓮正宗の〝神話〟と現実との間には、相当の懸隔(けんかく)がある。戸田会長は何より、戦前の謗法に染まり切った宗門と法主(六十二世鈴木日恭)から、煮え湯を飲まされているのであり、宗門の姑息な体質は知り尽くしていた。
 戸田会長は語った。

「我々は大聖人を信じ、大聖人の教えを行じているのだ。この原点を忘れたら大変なことになる。〝途中〟の僧侶などを盲信したら、すべてが狂ってしまう」

 ここで話は戸田会長の先師・牧口初代会長に遡る。日本が太平洋戦争に突入した翌年、牧口会長は次の通り講演した。
               ◇
 日蓮大聖人御在世当時の天台宗は、現今の日蓮宗の中でも「日蓮正宗」に相当すると思はれる。さらば従来の日蓮正宗の信者の中に「誰か三障四魔競へる人あるや」と問わねばなるまい。そして魔が起こらないで、人を指導しているのは「悪道に人をつかはす獄卒」ではないか。しからば、魔が起こるか起こらないかで、信者と行者の区別がわかるではないか。
 自分一個のために信仰している小善生活の人には決して魔は起こらない、これに反して、菩薩行という大善生活をやれば、必ず魔が起こる。
 我々は、蓮華の泥中よりぬけ出でて、清浄の身をたもつがごとく、小善中善の謗法者の中に敵前上陸をなし、敢然と大悪を敵として戦っているようなものであれば、三障四魔が紛然として起こるのが当たり前であり、起こるがゆえに行者といわれるのである。
(於:創価教育学会第五回総会 昭和十七年十一月二十二日)

 宗門は軍部政府当局の弾圧を恐れ、この前年より日蓮宗(身延派等の合同)に追随し、御書発刊禁止、御書要文十四か所の文字削除及び引用禁止等、次々と大聖人の法を下して行ったのである。
「小善中善の謗法者」とは、組織の保身のみを図り、結局は大聖人に敵対する謗法の宗門を指しており、「大善」とは、国家民衆の安寧を念じられた大聖人の御振舞いに続くことである。
「大悪を敵として」、それは流罪・死罪に及ばれた大聖人の戦いを念頭に置き、不惜身命の戦いで魔を現出させるものであった。

3.「聊のへつらうことなく」
 
「聊(いささか)のへつらうことなく」(『法華初心成仏抄』)とは、権威を恐れたり卑屈になって媚(こ)びたりすることがなく、との意である。逆に「へつらう姿」とは、軍部の言いなりになって、神札を祀る等の謗法行為を繰り返した宗門を言うのである。
               ◇
(昭和)18年2月、学会への弾圧が近いことを知った宗門では、役僧が東京の警視庁に出向き、〝学会員の中には脱線的な部分もあるかも知れないが、本山が直接関知しているところではなく、日蓮正宗においては不敬の行為は絶対ない〟などと上申。弘教に邁進する信徒を守るどころか、卑劣にも、自らに火の粉が及ぶのを恐れて、切り捨てるという暴挙に出たのである。
 そして、「神札」受諾を公式に徹底する方針を固めた宗門は同年6月20日には、本山書院に神札を祀ったうえ、同月27日、「神札」受諾に頑強に抵抗してきた牧口会長、戸田理事長ら6人の幹部を緊急に大石寺に呼びつけ、時の法主・鈴木日恭が、「神札」を受けるよう、申し渡したのである」
(創価新報 2003.11. 5.)

 軍部政府の弾圧を避けるため、学会に謗法を甘受させようとする宗門に対し、「承服いたしかねます。神札は絶対に受けません」と言い切った牧口会長は、戸田理事長(当時)とともに大聖人に続き、死身弘法の境涯に立った。
 牧口会長と戸田理事長がともに逮捕されたとき、宗門はいち早く学会幹部を信徒除名とし、教団の保身を図ったのである。
               ◇
(牧口)先生の法難に驚いて先生を悪口した坊主共よ。法を捨て先生を捨てたる意気地無(いくじなし)共よ。懺悔滅罪せんと欲すれば我等が会に来って先生の遺風を仰ぎ仏の御訓(みおしえ)に随順すべきである。
(価値創造『牧口先生』1946年〈昭和21年〉11月)

4.狸祭り事件

 学会幹部が逮捕・収監され、宗門は世法の咎めを免れたのであったが、仏法の誡めから逃れることはできなかった。昭和二十年六月十七日、夜半に発生した火災により、本山が炎上、鈴木日恭管長は焼死した。
 重ねて、戦後の農地改革により土地の大部分を奪われ、塔中の住職や所化が、土地を開墾して飢えをしのぐほどの窮状となった。
 昭和二十五年十一月、収入の手段を得るためとして、大石寺を観光化する計画が進み、その打ち合わせが行なわれた。これに反対した戸田会長が、学会員が定期的に大石寺に参詣する「登山会」を実施することにしたのである。
 昭和二十七年四月、宗旨建立七百年記念法要において、いわゆる「狸祭り事件」が勃発した。「神本仏迹論」という邪義を唱え、軍部と結託して宗門を日蓮宗に合同させようと謀った小笠原慈聞が登山していることを知り、戦時中の邪義を追及したのである。
 これにつき宗会は、学会を一方的に非難して戸田会長を「登山停止」処分とした。水谷管長も、宗会の決議を撤回させることはできなかった。日顕のような、宗会に諮ることなく大御本尊を勝手に正本堂から遷座したほどの、独断法主はまれである。
              ◇
一、宗会の決議では我等の会長が登山止めだそうな、物騒な世の中になったものだ。
一、忠義を尽して謗法を責めて御褒美あるかと思うたに、
  おほめはなくて「登山まかりならん」とおしかりさ。
  弟子共一同「俺達も一緒に登らんわい、フン」だってさ。
一、何が「フン」だい。
  決ってるじゃないか、日本全国の信者の声だってさ、
  嘘もよい加減にしろ、折伏も出来ず、御衣の権威で偉ばること許(ばか)りを知っとる坊主の学会に対するやきもちだからさ。
一、寸鉄居士会長に御伺いをたてたら
 「あんまり騒ぐなよ、こんな目出度いことを」とニヤリさ。
一、こらこら騒ぐな「ニヤリ」を説明してやるからな、
  如説修行抄に仰せあり
 「真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の強敵決定せり。されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし」。
  三類の悪人の仕業の中に
 「遠離塔寺(おんりとうじ)」と言って寺から追い出すやり方がある、悪人共がさ。
  さて、我等が会長に折伏の大将として一大名誉を贈ったのさ、
 「遠離塔寺」と云う仏様からの勲章なんだ。
一、寸鉄居士ニヤリとして曰く、宗会議員の諸公は三類の敵人中、
  第二類か第三類か、ニヤリ。
(「寸鉄」昭和二十七年七月十日付)

 結局、学会青年部が宗会議員の一人一人を説得し、情勢を変えていったのである。池田名誉会長は当時の戸田会長の様子を、次のように伝えている。
               ◇
 宗門は、何かあると、すぐに権威ぶって、「登山禁止」「本山に来るな」という癖がある。この時も、戸田先生は悠然と笑いながら、言われていた。「登山停止というなら、ちょうどいい。別に、本山に行かないと成仏できないわけでもない。御書にも、その原理は、ちゃんと書いているよ」と。(93・11・21)
(『暗黒の富士宗門史』 著者:河合一 第三文明社)

5.「法自ら弘まらず」

「学会員が功徳を得てきたのは、『学会のおかげ』『池田先生のおかげ』ではない」とは、宗門は事実を真逆に言う。
 草創期の学会員が〝草の根〟として、一人また一人と折伏行に歩き、対話を実らせていったからこそ、現在の我らが「御本尊様」に巡り会うことが出来たのである。さらに代々の会長の指導をもって、「正しい仏法」の何たるかを知ったのである。

 百六箇抄(八五六㌻)にいわく、
「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」

 坊主が寺に籠っていて、法が弘まる道理はない。僧侶が率先して折伏に励んだ日興上人・日目上人の時代は、遠い過去の話となってしまった。
 十二世法主以降は、本山に整備された御影堂などの伽藍ごとに勤行して廻り、それが後に五座三座の勤行様式となる。すなわち全国を折伏弘教する気概も熱情も消え失せ、助行ばかり多い勤行で日がな一日を過ごす、宗門の形が出来上がっていく。
 江戸時代に寺請制度が施行されて以来、信徒の改宗は認められず、広宣流布は〝空文〟となった。それにもかかわらず各地で信徒が入信し、「金沢法難」「伊那法難」「尾張法難」等、過酷な拷問を受けたが、宗門は難を恐れて何もできず、冷たく見捨ててきたのである。
 寺請制度は、帰属寺院と民衆とを否応なく縛り付け、僧侶は安逸に暮らすようになった。〝安逸〟とは〝怠惰〟に繋がる。いったん僧侶に滲(し)みこんだ〝怠惰〟の二字は、明治の世となってからも宗門から抜け出ることはなかった。広大な寺領からの収益があり、経営に不自由はなかった。
 ところが戦後、土地を農地改革によって大部分を没収され、宗門は貧困のただ中に落された。それを支えたのは、ひとり創価学会である。戸田会長が登山会を発案し、本山が潤うことができたことは、前項で述べた通りである。だがその恩義など、今では全く忘れ去られている。
 大聖人の御精神など微塵も無い、形ばかりの宗門が、日興上人と同じ「僧」として同等に列されると思うなら、とんでもない増上慢と言うべきである。
 戸田会長は語った。

「なぜ宗門の堕落が始まり、腐敗していくのか。それは、広宣流布という至上の目的に生きることを忘れているからなのだ」

6.現在の「良き法と、良き師と、良き檀那」

 宗門が「良き法と、良き師と、良き檀那との三つが、そろわなければだめなのです」と戸田会長の言葉を引用した思惑は、二点ある。
 第一点は、「良き法」たる大御本尊は本山に格護されているゆえに、登山して御目通りしなければ成仏できない、と言いたいわけである。
 しかし「狸祭り事件」の際、戸田会長は「本山に行かないと成仏できないわけでもない。御書にも、その原理は、ちゃんと書いているよ」と語っている。

 御義口伝巻下(七八一㌻)にいわく、
「法華経を持ち奉る処を当詣道場(とうけいどうじょう)と云うなり此(ここ)を去つて彼(かしこ)に行くには非ざるなり、道場とは十界の衆生の住処を云うなり、今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野(せんごくこうや)皆寂光土なり此れを道場と云うなり」
 
 また日顕の先師・細井管長(日達法主)も、信心ある者なら、どこであろうと成仏すると述べている。
              ◇
 御本尊安置の場所がどこであれ、いちおう義の戒壇と申しても、御本尊に向かって一心に余念無く唱うるところのお題目は、即座に本門戒壇の大御本尊に納まり、南無妙法蓮華経と唱えるその場所即霊山浄土であり、即身成仏のところであります。
(昭和52年11月23日)

 第二点は、「良き師と、良き檀那」とある通り、あくまで〝僧〟と〝俗〟とは相対する者であり、「学会は檀那(信徒)の団体」であるから、現時での「師」たる僧侶を持たない、と宗門は言おうとしている。
 これについては、僧侶の意義を、狭義と広義とに分けて解釈する。

(1) 狭義における「良き師と、良き檀那」

「良き師」は日蓮大聖人、日興上人、日目上人の三代の師匠、「良き檀那」は学会である。
「良き師」の教えはすべて御書にある。「当門流に於ては御書を心肝に染め」(『日興遺誡置文』一六一八㌻)とある通りである。

(2) 広義における「良き師と、良き檀那」

「三宝以上に敬うことは本末転倒であり、謗法になります」とは、相変わらず根拠の無い御託を言うが、「僧」とは本来、出家在家に関わらず、「信仰集団」を意味する語であることくらい、宗門も承知のはず。
               ◇
 そもそも「僧」(サンガ)という仏教語は、出家者の個々を指す言葉ではなく、出家・在家の「四衆(ししゅ)」が和合した集団全体を意味していた。釈尊の時代、教団における全ての決定は教団の総意で行われてきた。ゆえに、その教団の存在自体が重視され、三宝の一つとして、その「つどい」が「僧宝」に位置付けられていた。
(「創価学会の御本尊授与に関する法門上の見解」日蓮正宗・青年僧侶改革同盟 『聖教新聞』1993年9月20日付)

 現代の「僧宝」の意義を有する創価学会が、そのまま「良き師と、良き檀那」である。かつて〝令法久住〟は宗門、〝広宣流布〟は学会と、各々の役割があった。しかし日顕によって日蓮正宗の教義が改変され、事実上の日顕宗と変じた現在、学会が令法久住の役割を担うしかない。
 ゆえに「師」と「檀那」の役割も、「三代の会長」と「会員」とで担うのである。
 池田名誉会長は語った。
              ◇            
(日目上人は)先師の御遺命を奉じ、寺に安住することなく、命の尽きるまで弘教に奔走されたのである。大聖人、日興上人、日目上人の「立正安国」への御行動を今、だれが受け継いでいるのか。だれが継承者なのか。それは歴史的、客観的に見て、近年の牧口先生、戸田先生であり、我が創価学会以外にない。(93・11・21)
(前出『暗黒の富士宗門史』)
                           (了)
 

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Author:墨田ツリー

 
 
 

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