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日顕宗の「妄説:77」を破折する 連載110回

日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:77」を破折する 連載110回

妄説:77 「正本堂賞与御本尊」について教えてください。

 昭和四十七年の十月、全世界の日蓮正宗の僧俗の御供養をもって、総本山に正本堂が完成されました。
 その発願(ほつがん)者である池田氏に対し、第六十六世日達上人は「正本堂賞与御本尊」を授与し、その功績を讃(たた)えられたのです。
 ところが池田氏は正式な手続きをとらず、この御本尊を勝手に模刻し、会館に安置して一般の学会員に拝ませたのです。
 日達上人は後に昭和五十三年六月二十九日の教師指導会において
「学会の方で板御本尊に直した所があります。それは私が知らなかった」(大日蓮 390-44頁)
と仰せられています。
 御法主上人の允可(いんか)を得ないで、池田氏が勝手に模刻した本尊は、まさに『ニセ本尊』であり、これは後日、池田氏等の詫びとともに、総本山に納められ、二度と日の目を見ることなく今日に至っております。
 なお「正本堂賞与御本尊」の裏に、日達上人の直筆(じきひつ)で
「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命(ゆいめい)の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也」
と書かれていますが、これは当初、学会側から「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為(た)ることの証明の本尊也」
と書いてほしいと原稿を持参して申し入れてきたものです。
 日達上人はこの不遜(ふそん)な申し入れに苦慮のうえ、あえて「準」の一字を入れられて、学会の慢心を戒め、正本堂が直ちに事の戒壇ではないことを念のために書かれたのです。

破折:
1.〝大ウソつき〟宗門の謀略
(1)日達法主は御本尊謹刻を了解していた

 秋谷 今回は、元・日蓮正宗御用達の仏師で、赤沢朝陽会長の赤沢猛さんに来ていただいた。実際に学会本部の御本尊御謹刻(きんこく)に携(たずさ)わった当事者として、当時の状況をありのままに語ってもらいましょう。
 赤沢 はい。赤沢です。よろしくお願いします。
 原田 赤沢さんは、四年前の座談会(平成五年九月三十日付)以来、二度目の登場ですね。ぜひ、もう一度、話してください。
 赤沢 わかりました。私どもは、明治四十年に日蓮正宗御用達となって以来、日顕が学会を破門するに至(いた)るまでの間、宗門の御本尊の御謹刻に関する仕事は一手にお引き受けしてまいりました。学会本部の御本尊を御謹刻したのも私どもですし、よく存じております。
 佐藤 早速ですが、今回日顕宗では、大石寺に納められている板御本尊を調査したら、御本尊のほぞの部分に、仏師の名前と彫刻した年月が刻まれているのを発見したと言っていますが、それは本当ですか。
 赤沢 その通りでございます。ほぞというのは板御本尊の台座に差し込まれている部分のことですが、通常、御本尊の御謹刻が終わり、台座に差し込む際に、仏師の名前と年月を刻んでおります。
 佐藤 なるほど。それでは宗門側が、池田先生が日達上人から昭和四十九年一月二日に賜(たまわ)った「正本堂賞与(しょうよ)御本尊」の板御本尊に、「昭和四十九年四月 朝陽(ちょうよう)」と彫られていたと発表していますが、これも間違いないわけですね。
 赤沢 はい。間違いないと思います。「正本堂賞与御本尊」については、一番最初に御謹刻させていただきましたので、よく覚えています。四十九年の一月に依頼を受け、二月に彫り始めて、四月三十日に学会本部に納めました。
 八矢 何の問題もないじゃない。いったい宗門側は、何がいけないと言ってるの?
 佐藤 宗門の教学部副部長である水島の話はこうです。要は、〝学会が板御本尊にしたいと願い出をしてきたのは昭和四十九年九月二日。ところが、実はそれよりも五カ月も前の四月には彫刻が終わっていた〟というのです。
 赤沢 それはとんでもないスリ替えです。「正本堂賞与御本尊」を板御本尊にすることは、日達上人は昭和四十九年の一月にはすでにご存じでした。これは日達上人からも、また池田先生からも、私が直接お話を伺(うかが)ったことですから、確かなことです。このことは四年前の座談会でも、明確に申し上げたはずです。
 森田 日顕宗というところは、「唖法(あほう=無言の行法)を受けたる婆羅門(ばらもん)等の如(ごと)し」(御書二一ページ)とある通り、自分たちに都合の悪いところはすぐに頬被(ほおかむ)りして黙ってしまう習性がある(笑い)。念のため、もう一度、その間の経緯を教えていただけませんか。
 赤沢 はい。わかりました。私が初めてこの話を伺ったのは、昭和四十八年の暮れのことでした。学会本部から、「学会の御本尊を何体か板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下(げいか)に一言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました。
 秋谷 そうです。それで、年明け早々に、その件で池田先生から日達上人にお話ししたわけです。ちょうど、日達上人から池田先生に「正本堂賞与御本尊」が下付(かふ)された時のことでした。
 赤沢 昭和四十九年一月十六日のことですが、私が池田先生にお会いした折、先生の方から「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、〝大事にするためなんだからいいんだよ〟とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。
 原田 つまり、日顕宗側が問題にしている「正本堂賞与御本尊」については、昭和四十九年一月に日達上人の了承を得たうえで依頼を受け、二月に彫り始めて四月に学会本部に納めた、ということですね。
 赤沢 その通りです。ですから、水島の言う〝願い出をする前から、学会は謹刻していた〟というのは、明らかな間違いです。
 秋谷 間違えたというよりは、手柄を立てたいために、意図的に無視して、〝新発見〟にしたというのが真相でしょう。宗内でも知らない人が聞いたら、本当かなと思ってしまう。
 原田 まったくタチの悪い教学部副部長だ。こんな〝トリック〟で、人々を騙(だま)そうとするなんて、まったくずるい。この昭和四十九年九月二日というのは、学会と宗門の連絡会議が行われた日のことだが、ここで議題に上がった板御本尊とは、学会本部常住の師弟会館の御本尊のことで、「正本堂賞与御本尊」のことではない。
 森田 そう。私も出席者だったからよく覚えている。もともと御謹刻は日達上人の了解を得てから始めたものだが、学会本部常住の御本尊を御謹刻する際、改めて、連絡会議にかけたのです。
 秋谷 その会議には、当時、総監代務者だった日顕自身も宗門側の責任者として出ていて、日達上人に報告していたはずだ。その時も日達上人ははっきりと了解している。だから、そのことは、報告した当人の日顕が、誰(だれ)よりもこの事実について一番よく知っているはずだ。
(『聖教新聞』1997年10月17日) 

〈正本堂賞与御本尊の御謹刻〉
〇 昭和四十九年一月二日  池田会長が日達法主より「正本堂賞与御本尊」を賜る
〇 昭和四十九年一月十六日 赤沢氏が池田会長より御謹刻の依頼を受ける
「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、〝大事にするためなんだからいいんだよ〟とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」(池田会長)
〇 同年二月 彫り始める
〇 同年四月三十日 学会本部に納める

〈学会本部常住御本尊の御謹刻〉
〇 昭和四十九年九月二日 学会と宗門の連絡会議において、学会本部常住の師弟会館の御本尊が議題に上がる(板本尊への御謹刻の件)
〇 同年十一月 謹刻が始まる
〇 昭和五十年一月一日 入仏式
〇 同年一月四日付 聖教新聞に報道

(2)学会本部常住の御本尊と「正本堂賞与御本尊」をスリ替えて発表

 佐藤 ちなみに赤沢さん、本部常住の御本尊を謹刻したのはいつごろですか?
 赤沢 四十九年の十一月末に彫り始め、その年の暮れに学会本部に納めています。
 原田 そう。だから九月に連絡会議で確認して、十一月から謹刻が始まったのです。そしてこの学会本部常住の板御本尊については、翌五十年の一月一日に入仏式を行った。このことは当時の聖教新聞(一月四日付)でも大々的に報道している。当然のことながら、当時、これらの御謹刻については、何の問題にもなってはいませんでした。学会には宗門に隠れてこっそりやらなければならない理由など何一つなかったんです。
 佐藤 では謹刻の仕方についてはどうですか? 何か宗門側は、紙幅(しふく)の御本尊を写真に撮(と)って、板にしたことが悪いように言っていますが。
 赤沢 そんなことはありません。現に学会本部の御本尊以外にも、保田の妙本寺では十体、日向(ひゅうが)の定善寺では七体ほど、それぞれお寺の御本尊の写真を撮り、謹刻しています。何より日顕自身、広島・正教寺の客殿の御本尊が大きすぎて御厨子(ずし)に入らず、住職に「赤沢に言って、写真を撮ってもらって小さくしろ」と指示を出していたことがあります。
 八矢 まー、御厨子を大きくするんじゃなくて、御本尊を小さくしたの? とんでもない本末転倒(ほんまつてんとう)じゃないですか。
 秋谷 御本尊を単なる〝モノ〟としか思っていない証拠だ。それに比べて学会は、本部常住の御本尊をはじめ数体の御本尊を、将来にわたって大切にお守りするために、板御本尊にしたいと願い出をしたんだ。それに対して日達上人は、「紙幅を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」と言われた。それを今さら宗門側がとやかく言うのは筋違(すじちが)いです。
 森田 いずれにしても、これで日顕宗の言い掛かりは完全に総崩れだ(笑い)。わざと学会本部常住の御本尊と「正本堂賞与御本尊」をスリ替えて、〝願い出の五カ月前に勝手に謹刻していた〟などと発表するなんて、聖職者の風上(かざかみ)にもおけない大ウソつきだ。
 佐藤 水島も総監の藤本も、さぞかし〝穴があったら入りたい〟心境だろう。〝新事実発見!〟などと、あれだけ得意になって大はしゃぎしていたクセに、「創価新報」(九月十七日付)で破折(はしゃく)されたとたん、「大白法」(十月一日付)では見る影もないほど〝トーンダウン〟している(笑い)。
 原田 赤沢さんが四年前に証言していたことについても、〝知っていたけど、発表は省略しました〟などと負け惜しみを言ってる。これで〝学会員を再折伏しよう!〟だなんて、とんだお笑い草だよ。わざわざ自分たちで〝墓穴(ぼけつ)〟を掘りにくるようなものだ(笑い)。
 秋谷 要するに、大騒ぎしても、よく見ると実態は何もない。正論があらわれると、あとは何も言わないで身を縮めて穴の中にこもってしまう。まさに「帝釈(たいしゃく)にせめられて無熱池(むねっち)の蓮(はちす)の中に小身(しょうしん)と成(なり)て隠れしが如(ごと)し」(御書九五七ページ)の御金言通りの哀(あわ)れな姿じゃないか。日顕宗が凋落(ちょうらく)の一途をたどるのも当然と言えば当然だ。
(同)

2.正本堂は「事実上の本門戒壇堂」

 宗門は「正本堂が直ちに事の戒壇ではない」と言うが、御供養の勧募趣意書には「正本堂建立は、実質的な戒壇建立」との細井管長(日達法主)の趣旨を奉じ、次の通り明記されている。

「戒壇の大御本尊様が、いよいよ、奉安殿よりお出ましになって、正本堂に御安置されることを、正式に仰せくだされたのであります。かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになったのであります」
(昭和四十年三月二十六日 正本堂御供養趣意書)

 それが、正本堂完成の直前になって、宗門はその改変を発表する。

「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」
(昭和四十七年四月二十八日『訓諭』)

 御供養を受け取っておいて、その後に勧募の趣旨が変更になったのである。背景には、国立戒壇説に固執する暴力集団・妙信講に、宗門が脅迫されていた経緯がある。
 この妙信講の反発を抑える意味から、対外的に「現時における事の戒壇」と発表せざるを得なかったと推測されるが、当初の細井管長の主旨は間違いなく「事実上の本門戒壇堂」の建立にあった。

「大聖人様がこの法華本門の戒壇を建立せられ、今まさにその本門戒壇の戒壇堂が建立しようと云うのが今年の、この十月に法華講総講頭池田先生によって発願をせられておられるのでございます」
(昭和四十二年十月四日、甲府・正光寺、『大日蓮』昭和四十四年十月号)

「今当に時来り、法華講総講頭池田大作先生が大願主となり、事実上の本門戒壇堂である正本堂の建立が進行中であります」
(昭和四十四年四月六日、総本山でおこなわれた御虫払大法会、『大日蓮』昭和四十四年六月号)

 池田会長は、「実質的な戒壇建立」(『正本堂御供養趣意書』)との正本堂の建立趣意に賛同し赤誠の御供養を拠出した何百万人もの学会員の心情を汲み、御本尊にはその真実を記し置かれたいと、細井管長に懇請したのである。
 この池田会長の誠意に対し、宗門は「学会の慢心」と断じた。法主が訓諭で正本堂の意義を改変したことを、信徒の分際で逆らった、とした。
 だが「正本堂賞与御本尊」は、正本堂にかかる一切の真実をご照覧である。細井管長が「事実上の本門戒壇堂」等と説いてきたことは、紛れもなく周知の事実である。
 細井管長は「正本堂賞与御本尊」に対し奉り、両舌(二枚舌)の罪をお詫び申し上げるべきであった。それとともに宗門は御本尊にかかる謀略の事実を認め、学会及び学会員に謝罪すべきである。
                           (了)
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