福島第一原発事故発生から5日目の2011年3月15日午前6時。原子炉で爆発音が聞こえ、原子炉内の圧力を示す計器盤が「0」になった。深刻な故障が発生したという意味だった。現場責任者の吉田昌郎所長=2013年死去=は放射線被ばくに備え、所員に「福島第一原発の構内の放射線量が低いエリアで待つ。安全が確認され次第戻って作業を再開するように」という内容の緊急放送をした。
しかし、所員は命令とは全く違う行動を取った。原発内部のシャトルバスに乗ったある所員が「第二原発に行こう」と叫び、脱出が始まった。一部所員は駐車場に止めてあった乗用車を運転して慌てて脱出した。彼らが向かったのは事故現場から10キロ離れた福島第二原発だった。所員720人のうち90%に当たる651人が指示に背いて脱出しており、吉田所長ら69人だけが現場に残った。原発運営会社の東京電力はこれまで「現場所長の指示に基づいて所員は避難した」とし、このような無断離脱を3年以上隠蔽(いんぺい)していた。
こうした事実は吉田所長の証言録を朝日新聞が20日に公開したことにより明らかになった。吉田所長は食道がんで11年12月に退職しており、昨年7月に58歳で死去した。吉田所長は死去前に政府調査委員会に対し事故の状況を29時間かけて証言していた。
吉田所長は証言録で「当時、無断離脱者の中には危機対応チームの幹部たちもいた」と明らかにした。吉田所長はその後、原子炉が破損していないことを確認し、所員の現場復帰を強く指示。所員らは同日正午過ぎになって幹部クラスを中心に少しずつ戻ってきたという。
こうした出来事があった前日の同年3月14日には、政府原発規制機関の原子力安全・保安院所属検査官4人が現場を離脱していた。検査官は緊急事態発生時に事態の収拾方法を助言し、政府の指示を現場に伝える役割を担う。原子力安全・保安院はこのとき「検査官は食料の調達が容易でなかったため現場を抜け出した」と弁明した。