Shinya talk

     

 

2014/05/21(Wed)

時代風景の中における片山祐輔について考えてみる(Catwalkより転載)



皇居にロケット砲を撃ち込んで(省略)を始末する地下鉄霞が関駅でサリン散布する(省略)裁判官と(省略)弁護士と(省略)検事 を上九一色村製AK47で射殺する(省略)病院爆破する(省略)小学校で小女子喰う(省略)を去勢して天皇制断絶(省略)の閉経マンkにVXガス注射してポアする(省略)店に牛五十頭突っ込ます(省略)will be killed just like her father.今度の土日、桜田門前で皇居ランナーを辻斬りする。邪魔な皇居ランナーを桜田門前で無差別殺人します。刃渡り30センチのナイフで斬りまくります。あと天皇もぶっ殺す。警官も殺します。よろしくお願いします。下賤で汚らわしいクソゴキブリのドエッタどもは1秒でも早く死ね!滅びろ!呪われた屠殺者の末裔どもめ。お前らは日本社会の、アジアの、世界の、宇宙の迷惑害虫だからさっさと殺してやるよ。入船のお前ら糞虫の巣を爆破してやる。爆発と同時に硫化水素が発生する爆弾だ。一匹残らず死ね!!!



片山祐輔が小保方銃蔵の名前でマスコミ各所に送りつけた「私が真犯人」メールを彼自身が書いたとわかった今、その長いメールの中の部分は、かりに偽悪気取りで書いたにしろ、そこには片山祐輔というあの温厚な表情の青年の心の裏に眠る時代風景が見えるようでもある。



神戸連続児童殺傷事件( 酒鬼薔薇聖斗事件 )
。



西鉄バスジャック事件
。



岡山金属バット母親殺害事件。



秋葉原通り魔事件。



取手駅通り魔事件。



そしてこのトークでも取り上げた名古屋駅の交差点の歩道で歩行者13人をはねた大野木亮太。





いずれも昭和57年(82年)生まれである。

この年代は小学校入学時はバブル全盛、
小学校上学年から中学校に入学に至る多感な時期に阪神淡路大震災、オウム事件
といった世間を震撼させる大事件に直面している。

学年が上になればなる程、景気が悪化。失われた10年と言われる時代に
 小学校・中学校・高校時代を過ごし、青年になってからはワーキングプアの坩堝に投げ入れられる。

当然この年代には立派な青年もいるわけだが、上記の怨念に満ちたメールを読むと秋葉原事件の加藤智大や名古屋の大野木亮太など同様、現代の奴隷制度の中から立ち現れたモンスターという側面もあるように感じる。



文面の中に彼が少年時代に経験したオウム真理教事件も色濃く反映しているように、そういった時代風景を背負った年代の青年が道を誤るか正道を歩むかは、ある意味で個人的ななんらかの分岐点があるのだろう。



そういった観点からすでに昨年のトークで彼にまつわる感想をしたためているので再録したい。





                        ◉





遠隔操作ウイルス事件。



片山祐輔容疑者(30)は無類の猫好きだったらしい。

この案件、Cat Walkと関係あるようなないような。

メンバーの皆さんの中には鼻をつまれる人も居るかもしれないが、私は彼をCat Walkのメンバーに入れてもよい、と思った。



いくつかの情報を繋ぎ合わせるに、小学時代から今まで彼は世間から疎外された人生を送って来たようだ。

そういった人間が何らかの事件を起す。

昔からよくあるパターンである。

江ノ島の猫につけた首輪に仕込んだそのチップの中にも自分の人生があることで大きく軌道修正されたという恨みのようなものが書かれているらしい。



そんな彼の人生とその風貌を窺いながら13年前のある日の夕刻、渋谷ハチ公前広場での胸の悪くなるような小さな出来事を思い出す。



私のそばにいる4人の女子高生が雑踏の向こうを指をさしながら笑いころげていた。

何事かと、その指さす方を見ると5、6メートル離れた雑踏の向こうに同じ年代と思える一人の私服の少年がいた。

私はてっきり、女子高生とその少年は知り合いだと思ったのだが、どうも様子がおかしい。

指さされた少年は女子から干渉されたことに一旦ははにかんだ表情を見せるのだが、それはやがて青ざめた真顔へと変わる。



女子高生が口々に大きな声で仲間と顔を見合わせながら「キモーい!」と言ったのだ。

どうやら少年と女子高生は赤の他人のようだ。



少年は小太りでちょっとオタクっぽかったが、私には別段指をさされるほと変わった人間には見えなかった。

だがこういった年代には独特の嗅覚というものがあり、その嗅覚の投網に引っかかったということかも知れない。

少年は青ざめた表情で身を隠すように雑踏の向こうに消えた。

残酷な情景だった。



私は「てめえの方がキモいだろう、帰ってちゃんと鏡を見ろ!」と毒づいた。

女子高生は私に何かされると思ったのか、口々に奇声を上げながら交差点の向こうに走って行った。





                        ◉





思うに逆算すると片山容疑者はあの八公前の少年とほぼ同じ年齢である。

30歳にしてすでに頭は薄く、その面がまえも中年のように見受けられる彼が、その30年の年月の中で(あの女子高生が見せたような)数々の残酷な排除の仕打ちを経験したであろうことは想像に難くない。



だから他人のパソコンから逮捕に至るような危険な暴言を世間に撒き散らしてもよいということにはならないのは自明だが、世間から排除されてきた彼には、その痛みをすくいとる何らかの装置があったなら少しは健全な精神を回復できたのではないかと思ったのだ。

彼がCat Walkのメンバーであったなら、と思った所以である。



野良猫に餌をやったりする行動、そして猫カフェで猫を抱く彼の表情を見るに、彼は基本的には優しい男なのだろうと思う。





話は飛ぶが、それにしても、ネットで人を殺せ、殺す、と書き込むと逮捕に至るわけだが、街頭でそのようなプラカードを持って練り歩くぶんには逮捕されないというこの差異は何か。



昨今多国籍化している新大久保で「在特会」なる集団が頻繁にデモを行い、「善い韓国人も 悪い韓国人も どちらも殺せ」「朝鮮人 首吊レ毒飲メ飛ビ降リロ」などと書いたプラカードを掲げてねり歩いている。



こういった基本的人権を抹殺するような言葉の暴走を見逃す公安とは何か。

普通ネットでの言葉より、現実空間における言葉の方がダイレクトに人を傷つけると思うのだが。



そして遠隔操作ウイルス事件とこの案件はまったく無縁とも言えない。

これほど毒のある言葉を編み出すということは「在特会」なる面々もまた、その過去の生活の中で”排除”された経験があるということは考えられることである。

人はされたことを仕返すものである。



     

 

2014/04/26(Sat)

セウォル号の海難事故について(Catwalkより転載)



楽天的な性格ゆえに、普段はあまりストレスのない方なのだが、ここのところ気分が優れす、朝の寝起きが悪い。



船長として長年海に馴染んで来た者として、今回の韓国の海難事故は相当こたえた。



何百人もの将来あるうら若き子供たちが、海の中で殺されたのである(おそらく奇跡は起こらないだろう)。



あえて”殺された”と言ったのは私たち海に馴染むの者からすれば旅客船セウォル号の建造と運用に多くの疑念が浮かび上がるからだ。





一般的に船舶というものは、その造船時に前後左右上下のバランスを極めて厳密に割り出し、建造される。



船は車と異なり水に浮かぶものであるから基本的には極めて不安定なものであり、そこにバランスの厳密な数式の応用が必要となってくる。



このセウォル号はご承知のように元日本の海運会社所属でその後韓国に売却されている。



ニュースではその売却後に船は改造され、写真のように船のスターン部(後方)に3階部分が増築されている。



つまり船用語で言うとトップヘビーということになる。





トップヘビー





このことによって船が非常に不安定なものになったと日本では報じられている。



しかし今回の悲劇の最大の原因は私の見るところ船のトップヘビー(それもひつの要因だが)にあるのではなく、バウ(船首)ヘビーであったことにあると思う。





このことは横転時の船の写真を見るとバウ部デッキにたくさんのコンテナ(船の大小に関わらず普通はバウ部には重量をかけないのが船の運航の基本である)が積み上げられていることからも明らかである。





コンテナ





つまりバウがヘビーであることはどう言うことかというと、船首が前のめりになり、やや水に突っ込んだ格好となるわけだ。



バウが水に沈むと船は非常に不安定になり、燃費も極端に悪くなる。



そしてこの状態で面舵いっぱい取り舵いっぱいで船を方向転換すれば、船首に大きな水の抵抗がかかり、曲がろうとした逆の方向に船は大きく傾く。



その上でこの船が悲劇だったのは船の後方部がトップヘビーだったということになる。



方向転換をしながら船首が水に突っ込み傾いたとき、ちょうど船の後方部トップが重いためにねじれるような形で左舷側に大きく傾いてしまったわけだ。



そして船が大きく傾いた時にコンテナや車などの積み荷が写真のように滑動し、片荷となり、船はさらに大きく傾くことになる。

さらにこの船がずさんだったことは荷留めをしていなかったことだ。





何千トンもの船が方向転換をしただけでなぜ傾いて沈没てしまったのか、普通の人は七不思議を見るような思いを持たれるかもしれないが、以上のようないくつもの悪条件が重なった結果が今回の海難事故だと船長は見る。



しかし日本の報道ではこの船は日本の海運会社から売却されたものであり、その後船の上階が増築されたことが不安定の要因だとされている。



しかし今、韓国では、船が不安定であった要因は増築にあるのではなく、暗にもともとこの船の造船時に問題があったのではないかと言う報道がなされている。

つまり、今から5年ほど前同じ造船所で作った同じ形式の船が同様の海難事故を起こしておりそれが論点となっているのである。

日本ではこの両海難事故の対応の違いが強調されている。



以下、韓国内の報道。



file:///Users/mojiko/Desktop/세월호와%20같은%20제조사%20여객선,%20日서%20'쌍둥이%20사고'%20-%20네이버%20뉴스-2.webloc
以下ニュースの訳。




◆セウォル号のメーカー客船、日本で双子の事故



事故原因をより集中的に探ってみましょう。去る2009年、日本でも今回の事故と似た一種の双子の事故がありました。積載した貨物が一方的に傾きながら、このように船が90度に倒れてしまいました。



ところで、この事故を起こした旅客船もセウォル号を売却した日本の海運会社所属で同じ造船所で作られました。



まず、東京からチェソンホ特派員です。



右側に40度ぐらい傾いたまま、中心を捉えようとありったけの力をふりしぼるこの船は日本の客船有明号です。そうこうするうちに4時間、最終的には90度角度で海に横たわってしまいました。水深が浅いところに押し出されて、沈没という最悪の状況は避けました。



去る2009年11月13日、日本の三重県沖で発生した事故です。大きい波にあたった衝撃で、船内に載っていたコンテナと貨物車など2,400トンの貨物が片側に傾いて、ついに復原力を回復できないまま倒れました。



ところでこの船が所属した会社が丸栄フェリー、直近2012年までセウォル号をナミノウエという名前で運行していた会社です。両方の事故は、「双子の事故」と呼ばれるほど似ています。



7千トン内外の船舶では、両方とも長崎県にある林兼船渠(注1)で1年差で作られました。乗客コンテナ貨物を一緒に乗せる方法も同じで、何よりも積載された貨物が傾いてひっくり返ったプロセスが似ています。最初に傾いた原因は違っていても展開過程が似ているというのが専門家の評価です。





渡辺/東京海洋大学教授:

船の中に荷物が散らばったという証言とも一致して、船腹が突然傾いてバランスを失い、そのために被害が大きくなったというのが共通点です。当時、有明号には乗組員と乗客28人が乗っていましたが、全員無事に救出されました。





いま世界はグローバル化によって情報が瞬時のうちに共有されるというものの見方が一般的だが、国と国との利害関係によってむしろ情報が隠ぺい化されるという逆の傾向が生まれており、今回の韓国の海難事故報道の日韓の異相にもそれが表れているように思える。





付け加えるなら、報道はされていないが、今回の悲劇をさらに重くしたものは1年のうちでこの時期が海洋において最もプランクトンの発生する時期に当たっているということである。



潜水夫の話によると視界はわずかに30センチから50センチというからほとんど何も見えないに等しい。



これでは救出の手立てがない。

今の時期は日本においてもプランクトンが多く発生しているが視界30センチから50センチというのはあまりにも極端である。

おそらくこれはpm 2.5と同じように中国大陸から大量の工業排水生活排水が海に放出され海に極端な富栄養化が進んだ結果ではないかと思われる。



そのように今回の悲劇には様々な要因が集約されていると考えられるわけだが、そのような原因究明も当然必要なことではあるが、何百名にも及ぶ若き尊い命が未だ海の底にあることを私たちは哀矜の意をもって相対すべきだろう。



     

 

2014/04/03(Thu)

やがて、かつてテレビにも世の中を語るような番組があった、と懐かしまれる砂漠のような時代がやって来るという予感(Cat Walkより転載)。



3月19日にアップしたトーク「ただ漫然と視聴するのではなく、今後「みなさまのNHA(BE)」で何か小さな異変が起こっていないかの”気づき”が必要である」はメディアの危機状況に触れた。

その中で今後テレビのブラウン管から姿を消すとの情報のある方々の名前を列記したわけだが、4月1日の民放の番組改編をウォッチするとメディアの危機状況はそれ以上に深刻なようだ。



3月19日のタイトルはNHKに照準を当てたものだが、私たちは政権のNHK人事の介入ばかりに目を奪われ、その影で着実に進むであろうより御しやすい商業放送の動向に関心を寄せることがおろそかになっている。

が、実のところNHK以上に商業放送の方が非常に危ない状況になっているのである。



私はテレビというものを熱心に見ているというわけではないが、何か事件のあったおりなど例えばワイドショー系は野次馬根性を発揮し、時に他のメディアではやらないくらいの掘り下げた取材をすることがある。



そういった意味で時にそれは重要な情報源なのである。



だが昨日今日とSTAP細胞関連の雑情報をその手の番組から得ようとして唖然とした。



このSTAP細胞問題とはこれまでの経緯からこれまで取り沙汰されてきた生物学マターではなく、言いなりになる小娘をシテ役としたきわめて醜悪な政治マター臭がプンプンと臭いはじめており、ここにはどうやら現政権(文科省)と理化学研究所の根深いお手盛り癒着構造が眠っているように思われる。



こういった出来レースはNHK籾井問題もまったく同様の構造であり、現政権の権力濫用はとどまるところを知らない。



すでに明らかになっていると言って過言ではない、そういったSTAP細胞をめぐる政府と理研の癒着の動静を伺おうと昨日今日とワイドショーをにチャンネルを合わせて見るのだが、STAP細胞関連に触れた番組は朝のテレビ朝日たった一件だけで、他は軒並み毒にも薬にもならないエンタテイメント系の番組に様変わりしていて驚いた。



特に驚いたのが硬派の報道系であったテレビ朝日の昼のワイドショーが家「徹子の部屋」とそのあとの料理番組に変わっていたことである。



そのテレビ朝日の昼のワイドショーには3月19日のトークでブラウン管から姿を消すと書いていたなかにし礼や古賀茂章などが常連で出ており、私が入手した情報がガセでなかったことが裏付けられている。



ワイドショーと言えばかつてのみのもんた騒動を思い出す。

このみのもんた騒動では1年近くも公安ともんた側の綱引きがあり、これは現政権の差し金だと思われるが、結局みのもんたの息子の不祥事は世間に公表されるところのものとなり、その流れの中でみのもんたはワイドショーのキャスターの座を追われている。



私と同じ年齢であるみのもんたは、時に問題発言もあったが「朝ズバッ!」の名の通り歯に衣着せぬ発言で時の政権にさえタテつくようなところがあった。



この4月のまるで砂漠のような民放番組の改編はすでにみのもんた失脚のころから射程距離の内にあったと見なすべきだろう。



去年は秘密保護法是非に世間の論調は揺れたが、言論の自由保障をするしないの領域を越え、そもそも言論の場が摘み取られる方向にある昨今のメディア状況を見ると、すでに秘密保護法はかなり完璧な形で施行されているという味方も可能である。

     

 

2014/03/08(Sat)

組織化されない”ばらけた”小さな2.26事件について(Catwalkより転載)



柏の事件に関し、キャットメロンの読者からたくさんの問い合わせがあったので、すでに昨日の時点でCatwalkの方に書いていた、ブログを転載する。




「2.26事件からはものすごく早かった」



今日昼に会食した音楽評論家の湯川れい子さん(2.26事件の起こった1936年生まれ)と話していて印象に残った言葉である。

同じようなことを瀬戸内寂聴さんも以前に話していたことがある。



ご承知のように2.26事件とは天皇の親政を望む「皇道派」と自からの手で政治を支配しょうとする「統制派」の争いの中で皇道派の青年将校1400名が決起して首相官邸、警察庁などを占拠し、高橋是清、斉藤実らを暗殺した事件である。



結果的に皇道派は天皇の怒りを買い、青年たちは粛正され、それとともに軍部(統制派)が巨大な力を持ち、政治を支配し、その結果太平洋戦争へと雪崩れ込んでいくわけである。



2.26事件からはものすごく早かった、という言葉の中には今回の都知事選において泡沫候補と言われていた極右の田母神に主に青年層から60万もの票が入ったことの危うさが込められている。



昨今の世の中における一部の狂信的な青年の急激な右傾化傾向と2.26事件の時代の青年の極右化傾向とは図らずも似通っているわけだ。



この2.26事件はアメリカ発の世界恐慌を受けて深刻な不況に陥り、農村の娘が身売りをするなど、大きな不安が日本を襲ったところに端を発するわけだが、昨今の平成時代はその時代とは比べようもなく豊かであり、一見近似する時代環境ではないように思えるが、実はある階層においては近似した環境がないとも言えない。



それは小泉改革以降におけるブラック企業に象徴される昨今の若年層における奴隷化とも言える劣悪な雇用環境である。



昨今企業は内部留保をしこたま溜め込み、勝ち組みはひとつの階層を形成している反面、1日8時間まじめに働いても年収200万円以下でまともに暮らして行けない若者は世の中に溢れかえっている。

それに男女差はなく、食っていけない若い女性が風俗に身をやつすということも普通に起こっているわけである。それはまさにあの時代に食っていけない農村の娘が身売りをした情況と酷似している。



いったいこれがGDP世界第三位の国かと思えるほど若年層の貧困化は深刻である。



つまり2.26事件時代を襲った不況と不安は、その特定の困窮階層においてのみ非常に近似していると言える。



さらに言えば彼の時代は日本全体が困窮していたわけだが、この平成にあっては貧富の階層化が起こり、富める者は富み、窮する者は大貧民のごとく社会の底辺において抑圧され悶々としてストレスを溜めている。



そういう平成時代における特殊な環境の中において、私はすでに2.26事件は”非組織的”に散発していると見ている。



今日逮捕された柏通り魔事件の竹井聖寿容疑者もそのひとりだと見ていたところ、彼は逮捕されてのち社会への報復(飛行機をハイジャックしスカイツリーに突っ込むなど)を口走っているらしい。



ヘイトデモに不満のはけ口を求めるような、この新たな極貧化した若年層のストレスは遠くは秋葉原無差別殺傷事件を起こしたトヨタ系下請けの契約社員の加藤智大容疑者、そして竹井聖寿容疑者のみならず、2.26ならぬ2.23に無職の大野木亮太容疑者(30)が「人をはねて殺すつもりでやった」と名古屋駅近くの交差点の歩道に乗用車が突っ込み、歩行者13人をはねたあの事件にも共通した臭いを感じる。







自分の子供に熱湯をかける青年にも同様の臭いがあるし、これは少し年上だが派遣社員ということでは極貧層と言えるあの食品大手マルハニチロホールディングスの子会社「アクリフーズ」群馬工場(群馬県大泉町)で冷凍食品に農薬「マラチオン」を混入させたとして逮捕された中年男性にも共通分母がある。



さらに敷衍すればここ10年嵐のごとく起こっている「オレオレ詐欺」もまたこのいびつな階級社会における困窮層(怨念層)の犯罪とも言えなくもないだろう。





そして「アンネの日記」の破断事件である。

こういったあたかも散発する2.26事件とも言える事件の起こる時代背景の中の一連の一見無目的な、そして偶発的とも見える困窮層の起こす事件が、ひとつのイデオロギーの外套をまといはじめた事件として(ヒトラー礼賛とも受け取れる)アンネ事件は注視しておかなくてはならないと考える。



連行の最中「ヤフーチャット万歳!(ネットアンダーグラウンド礼賛とも受け取れる)」「ジョアク(除悪)連合万歳!」と叫んだ竹井聖寿容疑者が「大日本帝国万歳!」と叫びいつつ、イデオロギーという鎧を纏いはじめてもおかしくないということである。



2.26はすでにイデオロギー化の危うさ含みながら平成のこの世に萌芽しはじめているのかも知れない。



その意味においてそのような時代傾向が”組織化”された数量となった田母神信仰”事件”は不気味である。



そして公共放送に籾井というゲッペルス宣伝相を送り込んだ阿倍独裁政権は今日、憲法解釈を強引に自からのものとして引き込み、集団的自衛権成立にさらに拍車をかける勢いだ(断っておくが防衛論に関して私は戦後左翼ののどかな平和主義と軌を一にしない)。



そういった”頂上”の独走と時代の底辺の負のエネルギーが呼応しはじめたとき、この国にいったい何が起こるのか。



その速度があの時のように「ものすごく早い」ものでないことを祈りながら、用心深く注視する必要があるだろう。







     

 

2014/03/05(Wed)

Twitter拡散要望!!


ノラリクラリと批判の嵐が過ぎ去るのをやり過ごせ。世間とマスコミの熱なぞすぐに冷める。これが籾井NHK会長と安倍首相の思惑である。私たちは粘り強く受信料のカンタン支払い拒否を履行しつづけ、マスコミも粘り腰を見せる正念場だ。

     

 

2014/02/19(Wed)

NHK受信料支払い停止のためのカンタンガイド。(Catwalkより転載)

昨日のNHK受信料支払い留保の件に関しては多くの賛同をいただいているが、これはあくまで私個人の行為であり、くれぐれも藤原の意見への同調ではなく、自分自身の考えと判断のもとの行為としていただきたい。



しかしまた考えてみればこういった民主主義国家の中で一般庶民の意思が何らかの力を持ち得るという意味において、公共放送であるNHKの”一口株主”である私たちはそれなりの微力を持っているということであり、この件は一人ひとりの面倒をいとわないちょっとした努力が”世の中を変える”一助”になることもありうるひとつのケースであるのかも知れない。



しかし”日常をきわめて日常的に暮らしている人々”というものはこういったちょっとした日常の異化にも二の足を踏むであろうことは想像に難くないわけだが、しかしこのNHK受信料支払い留保の手続きに関しては案ずるより行うが易し、つまりきわめて簡単にその手続きは”気持ちよく”行うことができるので、ご自身の考えとしてそういった行為に出られる方のために私が経験した支払い留保手続きの手順を簡単に記しておきたい。



まず下記のURLのNHK受信料の窓口にあるフリーダイヤル0120−151515か有料ダイヤル050−3786−5003に電話をする。



http://pid.nhk.or.jp/jushinryo/toiawase/index.html





ナビダイヤルで3を押すとオペレーターが出てくるのでここで受信料の不払いを告げる。

オペレーターは名前と受信料支払い登録時の電話番号を聞いて来るのでそれを告げると、上司が出てくる。



上司という言葉が出て来たので”ウムいざ対決か”とちょっと居住まいを正すがこれが拍子抜けするように相手の物腰は親切かつ、考えようによっては”私の味方’とも受け取れる。



この上司とやらにここで受信料支払い停止の理由を話すわけだが「今回のNHKの会長や経営委員の発言が公平をむねとする公共放送の立ち位置を危うくするものであり、この状況が改善されるまで支払いを停止したい」というまっとうな話をするわけだ。



その男性の上司(名前を聞いたが失念)の方はなかなか感じのよろしい方で、聞きようによっては一般視聴者からそのような申し出があったことに我が意を得たという風にも受け取れるような物腰で、向こうの方から今回のNHK会長や2名の経営委員の発言の不備に関する抗議は私ども公平を守らなければならない立場にある者はもっともなご意見であり、そのことは謙虚に受け止め必ず情報として上げておきたい、と丁寧に対応。



と”ご理解”を得た上で支払い停止の話になるわけだが、昨今、ほとんどの視聴者の受信料は銀行の自動引き落としとなっているが、支払い停止に関してはわざわざ銀行に行く必要はい。

つまり支払いの変更ないし停止はおもしろいことにアナログチックにこの上司との話合いだけで済むのである。

その場合、留意しなければならないことは先方としては自分の方から停止をかけるわけにはいかず、先方としては自動振り込みシステムを停止し、2ヶ月あるいは半年ごとの手動振り込みに切り替えるということである(私の場合は最短の4月からの切り替えとした)。

そしてその2ヶ月ごと送られてくる振込用紙をこちらが無視するという時点において、支払いの停止の意思表明となるわけだ。



当然1年も2年も振り込みをしない場合は督促状が送られてくるわけだが「それでもなお払わない場合は差し押さえということになるのですか」と尋ねると「その場合は当方も一件一件相当の出費(時には受信料滞納金以上の)を要することになり何千、何万件ものそういった手続きをすることは現実的ではありません」



となかなかご親切かつ配慮に富んだ返事が返ってきた。



要するに簡単に言ってしまえば確固とした理由のもとの受信料支払い拒否に関してはNHKとしても強腰には出られないということである。



というわけでどうやら受信料支払い留保がそんなに大仕事ではなく、リスクもあまりないとわかった暁には私たちはその行為を「長丁場のゲームとして面ろう楽しんだらええやないか」(急に関西弁)というスタンスで臨んだらよろしいのではないかと思うのである。



出過ぎず引っ込みすぎず毎日同じルーティンで平凡な日常を送っている方々にはこういった日常異化行為はちょっとした気付け薬になると思うのだがいかがだろう。



毎日異化行動をしている耄碌の間近い船長のような者にとってはこういった行いはむしろ日常の一コマに過ぎないわけだが。


藤原さんこんなことアジってたらNHKの仕事なくなるんじゃないですか、とメールでご忠告する人もおられるが「俺はNHKの微々たる仕事より子孫の代の方が心配だ」と”ニッポンの老人”として当然の返信をしている。



     

 

2014/02/18(Tue)

公共放送であるNHKの瓦解は、メディアの将棋倒しの危険をひめていると言える。(Catwalkより転載)

流れてくるラジオをそれとなく聞いていると、ゲストに鳥越俊太郎氏が出ていて、例のNHK問題に関連して「不払い運動を起こすべきだ」としゃべって、アナウンサーは慌てて話しを他に振っていた。



Catwalk会員からの2月10日の投稿でも「NHK公共放送への権力の圧力を批判する行動をなにか起こせないものでしょうか」とあるが、機構を動かす立場にない私たち一般庶民にできることは鳥越氏がしゃべっていたようにNHKへの抗議の意味での「不払い」という行動である。



安倍首相が自ら任命権のある(NHK会長の任免権を持っている)NHK経営委員に埼玉大学教授の長谷川三千子氏や作家の百田尚樹氏など過激な右翼思想を持った4名のお友達を任命した意味とは12人で構成される経営委員のうち、4人の拒否があれば会長候補にのぼった会長はその拒否権によって選出されないという規則があるからだ。



つまり12人全部でなくとも4人の安倍の意中の人間さえ経営委員に送り込めば自分の思い通りのNHK会長がをつくることができるということだ。安倍という人間はほんとうに悪知恵に長けている。



その結果生まれたのがあの籾井(もみい)勝人氏という会長であるわけだが、ご承知のように就任会見の席で記者から従軍慰安婦問題のことを尋ねられ、とつぜんオランダの飾り窓の女(いわゆる娼婦)のことを持ち出し、娼婦は世界どこにでもいるのだから慰安婦をことさら特別視することもない、とも受け取られかねない愚鈍な迷言を発し、また特別機密保護法のことを尋ねられ「通ったものは仕方がない」などと自らが政府の人間でないにもかかわらずなぜか”居直り”とも取れるような発言をしたりと、あきらかに公平であるべき公共放送の長に不適格な人格であることを自から露わにしている。



とうぜんマスコミの非難を受け、国会では火消しのために謝罪の意を表したわけだが、人格というものは謝罪によって変わる種類のものではなく、彼が会見で露わにしたきわめて偏狭な”思想”は謝罪面の下でいまだにあぐらをかいているわけだ。



そんな中、公共放送であるNHKの存立がおそらく戦後もっとも”危ない”局面にさしかかっていることはNHK職員もひしひしと感じており、内部には今鬱屈した空気が充満していると聞く。



そしてこの局面を打開するのは当然時の政権であるわけはなく、弱体化した野党であるわけでもなく、NHKの一般視聴者以外にないという意見が出はじめているのである。



つまりNHKの財政を支える一般視聴者は企業で言えば一口株主のようなものであり、もっともNHKに対してモノが言えるのはNHKの財政を支えている一般視聴者に他ならないわけである。



そういう意味において当然公に口にすることは出来ないが、この危機を打開するためにNHK内部の社員自ら「不払い運動が起こってほしい」と思っている人が大変多いのである。



冒頭の鳥越氏の発言にはそういった意味があるわけだが、彼の発言にはジャーナリストらしからぬ穴がある。

それは「不払い」という言葉を使っていることだ。

現今の放送法にかかる法律では「不払い」とはひとつの犯罪であり、由なく不払いを続けるとそれは差し押さえの対象となり、法的に強制的に支払いを命じられるとともになにがしかのペナルティを課せられる可能性がある。



つまり不払い行動には視聴者としてまっとうな筋を通したロジックを持って臨み、軽率にも「不払い」という言葉を使うのではなく「留保」という言葉を使うべきなのである。



つまりこのたびのNHK会長の発言ならびに経営委員の発言や立ち居振る舞いは公共放送は公平であるべきとする「公共放送法」に抵触するものであり、その危惧が払拭されるまでNHK受信料支払いを一時留保する。というまっとうなロジックを携えて一介の庶民としての力を発揮すべきなのである。



そういった文言に関する、そして穴のないロジックの周到な準備の上に立って”不払い”行動を起こした場合、それを差し押さえでもって対処したとするならおそらく裁判では不利になるから相手はそう簡単には動けないわけだ。



それから鳥越氏の発言のもうひとつの穴というか弱さは”不払い’発言をしながら自分自身その不払い行動を起こしているかどうかの発言がなかったということだ。



このトークでいずれNHK問題に触れると書いたのはつまりその件であり、都知事選につづき、また今回も私はCatwalk号船長としてではなく”個人”としてNHKの危機が改善されるまで受信料支払いの一時留保を実行することをすでに早くから決めている。

これは公に言葉を扱う表現者としてきわめて自然な行動であり、そういった動きが作家その他の表現者から上がってこない方が不思議である。



余談だが、NHKの営業経由の情報になるが、視聴者の中にはそのような常軌をわきまえた方々が大勢いるようで今回のNHK会長の発言を期に静かな支払い留保行動が起こっており、すでに万単位に近づきつつあるらしい。



「この傾向がさらに進めばそれはNHKの存在理由の根底を崩すものですから、組合としてもその一般視聴者の動静を盾に会長の去就に言及できるようになる。それにはさらに数が欲しい」



NHKのある職員はそう言った。

     

 

2014/02/09(Sun)

漫然と既視感の海を生きる愚衆の海をクロールで泳げ君。

すでに3日前の6日、ある信頼すべき筋から舛添が対細川ダブルスコアで8時には当確を決めるという情報が入っていたが、投票前にこういったマイナス情報を流すのはよろしくないと思い控えていた。



そういう意味で今日の選挙結果は驚くにあたらぬにしても残念であることに変わりはない。

ただしこの都知事選挙の結果を見るに、私たちはすでにそれをケーススタディとする既視感を持っていることに思いが至る。



つまりそれは先の参議院選挙である。



思うに今回の都知事選は景気政策を前面に打ち出して自民党が大勝した参議院選挙からわずか半年しか経っていないのである。



それを支えたマジョリティを占める国民の指向性がわずか半年で変わるとは思えず、ましてや原発問題は時を経れば経るほど忘却され、それを争点とする条件としては半年前の参議院選挙よりも不利ということになる。



その意味で先の参議院選挙の直後にCatwalkトークで書いた私の選挙に関する観測はそのまま、今回の都知事選への観測としてそっくり当てはまるわけであり、今回の都知事選に関する私のコメントは、そのトークを転載することで十分だろう。



ただし、この平成という時代の”愚衆’の海とそれが醸成する強権政治の渦中において私の「メメント・モリ」の結びの言葉を再確認しておきたい。






            「私は決してあきらめない」





付け加えるならこの度の選挙、原発という人類の作り出した罪悪を子孫の世代、あるいは他の動物たちや自然から追放したいとする、自分のみならず他者への存在に思いを及ぼす大乗的と言える運動が負けたわけではない。



そのような人間としてのあるべき想念を持ち得ない自愛的烏合の衆の方が大乗的想念を持つ衆より数が多かったというだけの話だ。



その意味において人間として私たちは永遠に勝ち続けるだろう。




                            
                 ◉
      






「あちら側の神経系とこちら側の神経系はどうやらどこかでぷっつりと切れている公算が大きい」



今年の夏前にいささかショックを覚える出来事があった。



6月のことだが、夏用のカーテンを作るために工務店の業者を呼んだ。



30代半ばの劇作家の三谷幸喜を小振りにしたような、感じのよい営業の青年がやって来た。

仕事もなかなか誠実で、持って来た資料の中に好みのデザインがないと言うと、わずかな賃金の工事のために暑い最中、大きな重い見本帳を何度も持って来てくれた。

そして二週間後に無事取り付けは完了した。



その日、お礼にと、近くのレストランで昼をごちそうし、四方山話をしたのだが、その折にふと原発のことに話を振ってみた。



「ところであなたのような勤め人は原発なんてどのように考えてるのだろうね」



青年は「えっ」と浮かぬ顔をした。



それからちょっと口ごもって言う。



「原発ってどうなってるんですか?」



「あれっ、知らないの?今福島の人が一つの市の人口の6万人くらい家や土地や仕事を失って全国に逃げているんだけど」



「へーっそんなことがあるんですか」



私は呆然とした。

あまりの無知に一瞬この青年はウソをついているのではなかと疑ったが、そのような青年ではない。



彼は中堅の大学も出て、都内各所に店舗を張る中堅どころの工務店の営業マンである。



頭も良いし、人間的にもすこぶる感じが良い。



それだけにこの”おそるべき”と言って差し支えない無知にはいささかショックを覚え、一瞬しばらく会話が途絶えた。



「あのう、たとえば君たち、お勤めをしている仲間で原発問題とかが話題になったりすることはないの?」



私は気を取り直してあたらな質問をした。



「えー、そういうのぜんぜんないですねぇ」



「ぜんぜんって、まったく話題にならないということ?」



「そうですね、これまで一度も話になったことはありませんね」



悪気もなく彼は淡々と答える。



「じゃどういう話をするの?」



「やっぱり仕事の話が多いですね。

あいつが大口の注文を取ったとか、

下請けはあそこがちゃんとした仕事をするとか、

だけどここ数年はどの会社もよくないですから、仕事の話をしていても暗くなることが多いですけど」





                          
                  ◉





その青年と別れてのちもいささかショックは長引いた。



そのショックとは、このような普通に常識的な会話の出来る青年が、人間の生き方の根幹にかかわる原発問題に関してまったく無関心だったということもあるが、それ以上に、そういう信じ難い人たちがこのような状況下の日常に暮らしてるということをまったく知らなかった私自身の無知にもいささかショックを受けていたのである。



思うにこの青年が置かれているポジションはおそらく企業国家日本という国の就労者におけるマジョリティ層を形成しているという見方が出来るだろう。

ということは日本で暮らすマジョリティを形成する人々は原発問題に無関心ということも出来る。

いやというより、何かを無意識に遮断しているのかも知れない。

意識的に、あるいは無意識に”耳を塞ごうとしている”のかも知れない。

「原発」その言葉は最終ステージの不治の癌のという言葉のように、もう”聞きたくもない”忌語であるのかも知れない。



そして何よりもこの青年とその仲間たちにとって彼らの関心は「原発よりメシの種」なのである。



私はその青年に会って以降、原発問題はこの日本においては広がりを見せないだろうと感じていた。

なぜなら青年はマジョリティ層を確実に形成する一人であるからだ。

つまり今回の選挙の争点のトップが雇用や経済で、原発問題が下位に来ていることは普通のことであり、なんら不思議なことではないのである。



かりに山本太郎が杉並区の選挙に出て、28パーセントの得票があったとするなら、案外それは大出来で、件の青年ショックがいまだに気持ちの中にくすぶっている私としては原発問題を、そして福島をわがことして考えているのは10人に1人、つまり10パーセントくらいではなかろうかと思う。



(日本の)世の中とはそういうもの、とたかをくくるつもりはない。

だが自分の隣に普通の生活を営んでいる人間の”神経系”というものは、あんがい神経系の異なる人々のそれとは繋がらず、ぷっつりとどこかで切れているのではないか、との思いを強くする、今回の選挙結果ではあった。


     

 

2014/02/04(Tue)

おめは敵だがら潰すわげにはいがね、という大人(たいじん)の思想。

今年99歳になるジャーナリストむのたけじが最近新聞紙上で興味深いことを語っていた。



ご承知のように彼は戦後すぐの1948年に秋田県で週刊新聞「たいまつ」を創刊。

1978年の休刊に至るまで反戦の立場から言論活動を続けた人で、最近も著作を著すなどいまだに現役である。

そこには単なる頭でっかちの左翼的反戦論ではなく、戦争体験を踏まえたリアリティがある。



そのように反骨の人であり、とうぜん反戦のみならず保守的な地方自治に対しても歯に衣着せぬ記事を書き続けた。



その彼がそのたいまつ16周年目に際しての著作を上梓したおり、地元の有力者から料亭に来いとの声がかかる。



不審を抱きながら呼ばれた料亭に行ってみるとそこには敵対陣営とも言える地元の有力者、元市長や市議長や商工業者らが居並んでいた。



なんとそれは敵陣営が開いた「出版記念パーティ」だったのである。



その席で元市長は言った。



「おめは敵だがら潰すわげにはいがね」



大した言葉だと思う。



そこには「敵ながらあっぱれ」という大人(たいじん)の寛容がある。



昔、地方にはそのように懐の深い人物がいたものだ。



その「敵だがら潰すわげにはいがね」という言葉はあのフランスの哲学者ヴォルテールの言った「私はあなたの意見には反対だが、それを主張する権利は命をかけて守る」という言葉と重なり合う。



”他者の権利を守る”というのは、人間の持つべき基本的矜持であり、特に為政者においては国家を健全に運営する上において必要不可欠な”思想”でもある。



かつて国を牽引する政治家というものはその為政者としての最低の矜持(思想)を維持していたと思う。



だが戦後はじめて一党支配を手中におさめた安倍政権、いや安倍 晋三という人物はこの為政者が保持すべき基本的矜持をかなぐり捨てた最初の首相となったと私は考えている。



百歩譲って秘密保護法の制定は、それは彼のひとつの政治的”信念”の顕現として甘受するとしても、その秘密保護法を評定する第三者機関であるべき諮問委員会に秘密保護法の推進論者を推挙し、あるいは公共放送のNHKの会長人事に手を突っ込むなど、そこにはその最低の”思想”がすっぽりと抜け落ちているのである。



この公共放送に対する圧力は早くもNHK内部において自主規制というかたちで現れており、私の友人のディレクターがこれまで根気よく取材を重ねてきた福島の子供の甲状腺検査に関するレポート制作の継続も、つい最近中止に追い込まれている。



この戦後初めての一党独裁の流れの中で、いま私たちは長らく堅持してきた民主主義すら危うい局面に立たされているのである。



私たち年長者は、そして表現者たるものは、いま世の中はしたり顔の”評論”のみに安住できない局面にさしかかっているということを自覚すべきだろう。





そのひとつの試金石がこのたびの都知事選における意思決定であると私は位置づけている。



「おめは敵だがら潰すわげにはいがね」



禁じ手を駆使して狡猾ともいえるさまざまな不公平な工作を労している国家の長たる安倍晋三には、このかつての大人(たいじん)の言葉というものが国家を健全に保つ上での為政者の持つ信念であるべきことを、あらためて問いかけたい。


     

 

2014/02/03(Mon)

Twitter拡散のお願い。

さきほど志のある新聞社の記者と話していて、恐ろしいことが起こりつつあることを知った。


安倍政権がNHK支配などを含むマスコミの政権批判を押さえ込むため、新聞など大メデイアに対する税制優遇(低減税率の適用)を持ち出しているという。

とうとう金(それも私たちの税金)で言論を封じ込めるところまで来ているわけだ。

私は今日乞われて細川のホームページにメッセージを寄せたが、原発問題も大事だが表現の自由に介入するところまで来ている安倍政権の強権の歯止め役になってもらいたいと書いた。





以下にそのメッセージを要約するのでTwitter拡散をお願いしたい。





【藤原新也、細川護煕への応援メッセージ】一党支配後のNHKや秘密保護法諮問会議のへの政権の意図的介入など、安倍政権の強権の乱用はBBCなど海外のメディアでさえ眉をひそめるほどです。今回の都知事選に自民党推薦者が勝利するなら、この強権志向にさら拍車がかかるとの危惧を抱きます。

     

 

2014/01/31(Fri)

都知事選に対する私の見解(Catwalkより転載)



いつだったか、私は小泉元首相が原発推進反対を打ち出したおり、彼の原発に関する考え方には違和感がある、とこのトークで述べている。



その折には理由については触れなかったのだが、ここでそれを明らかにするなら、私が彼の原発論に違和感を持つのはそれがきわめてポリティカル&エコノミカルなものであるということである。



ご承知のように、原発災害というのは市井の人々の生活(のみならず生物全域)を根底から破壊に導くという点において忌避されるべきもの、という大前提が不可欠である。



その災害に直面した人々(&動植物)の悲惨についてはまさに地獄と言える様相を呈し、広島の原爆症がいまだに尾を引いている例からも明らかなように、これから10年20年のスパンで放射能との因果関係すら証明できない疾病がとくに子供の世代に多く顕在化する可能性を秘めてもいる。



そして未来にわたる疾病のみでなく、すでに福島という現場では人間生活を根底から崩壊にみちびくさまざまな出来事がすでに起きてもいる。



そういったヒューマンな観点から原発災害を見つめる、という人間として普通の視点が小泉の原発廃止論にはすっぽりと欠け落ちているのである。



つまり彼の原発廃止論は「コスト論」であり、代替のエネルギー政策を求めることによって新たな産業を作り出し、それを成長戦略に結びつけるという意味においてきわめて「エコノミカル」なものなのである。



確かに原発推進から反対に回ったという意味では大きな転換ではあるが、彼の原発論とは基本的に首相の現役であったころ推し進めた郵政民営化や製造業への派遣労働自由化などの延長線上にある政治マターであると言える。



つまりきわめて”政治家的”発想の原発論と言わざるを得なく、またそれがヒューマニティに依拠した情緒論ではなく、実務論であることによって一定のリアリティを得ているという側面があるわけだ。




しかしまたそれも原発反対論のひとつであることには間違いはない。



そういった原発論をひっさげた小泉が細川護煕を担ぎ出した。



私は細川という人は個人的には存じ上げていないが、佐川の1億円でも簡単に敵の権謀術数に嵌められてしまったことが示しているように政治家には不向きな育ちのよい腹に魂胆のない人だと感じている。










さて、私は原発反対、あるいは段階的消滅を表明する候補者を値踏みする材料として、それでは3.11以降において原発問題に関わらず震災地にどのような関わりを持ってきたかということが非常に重要なことだと思っている。



その意味において細川は植栽の専門家宮脇昭とともに「瓦礫を生かす森の長城プロジェクト」を立ち上げ、瓦礫問題に立ち向かっており、自分の作品も販売して支援活動に使っている。



この「瓦礫を生かす森の長城プロジェクト」とは読んで字のごとし、土に還る瓦礫を選別し、仙台石巻は言うに及ばず、潮かぶりで使い物にならない膨大な表土を混ぜ、高さ22メートル、幅100メートル、南北300キロの森の防波堤を作り、そこに塩害に強いシイ、シダ、カシなどを植樹する(種、苗によって)というきわめて理にかなった復興プロジェクトである。



その土盛りの中の瓦礫は4.7パーセントだが、宮脇によればその瓦礫によって土の中に隙間が出来、エアーレーション効果が生まれ、非常に樹の育ちが良いという。

私は当初震災地でその話を聞いた時、こういった理想というものは得てして瓦礫利権によって潰される可能性があると危惧していたが、確かにそういった抵抗もあるものの、そのプロジェクトは岩沼市の先年希望ヶ丘構想として持続しており、南北10キロではあるがすでに3万本の植樹を終え、年に7〜8万本の植樹がなされる。



震災地に言及するや易し、それではお前はいままで何をやってきたのかという視点で今回の候補を眺めるなら、細川はこのプロジェクトの牽引役をやって来たという点において私は評価をしているのである。



同じ原発反対を標榜する宇都宮は確かに日弁連の代表として過去に福島の学校の年間線量基準の見直しを求める声明を出しているが、私のように現場に日参する者にあっては、どうも震災地の現場では彼の痕跡は見えないという点において細川の後塵を拝しているの感を否めない。



と言って私は宇都宮は得がたい人だとは思っている。

とくにブラック企業などの暗躍による若者の奴隷制度の改善を尽くすにはこの人が適任だと思っている。そういう意味で前回の都知事選には私は宇都宮に一票を投じた。



だが私個人は今回の都知事選は原発ワンイシューという意識が非常に強い。

首都防災や雇用や福祉問題、オリンピック運営などはどのみち誰が知事になっても手をつけざるを得ない問題であり、そのことを選挙政策として敢えて声高に標榜する必要もなかろうと考えているのである。



だがこのたびの都知事選に原発が争点になっていることはある意味で国原発政策を転換させる千載一遇のチャンス(当然即転換とはならないが機運を作り出すという意味において)であり、このチャンスは逃すとある意味で原発異論は氷河期に入らないとも限らない。





それからもう一点、安倍首相のNHKの経営委員や会長選出の関与による露骨な公共放送の私物化政策。
あるいは秘密保護法の諮問会議の座長に読売グループの渡辺恒雄以下自分の子飼いの委員を指名する、などが象徴するように、阿倍の他者の存在を顧みないルール破りは底なしである。

戦後はじめて野党という対抗勢力がほぼ消滅したという異常事態の中において、万能感を得た阿倍は歴代の首相の中においてもっともアンフェアーで危険な首相になりつつあると考えている。



そういった阿倍政権の暴走に何らかの楔(くさび)を打つ意味においても桝添に勝たしてはならないと思っている。

おそらく今回の都知事選に自民党推薦の舛添が勝利をおさめるあかつきにはこの暴走はさらにエスカレートするだろう。



その意味において小泉が反原発を打ち出し、自民党内に不思議なねじれを生じさせ、かつ育ちのよい細川を担ぎ出したことは千載一遇とも言えるチャンスを作り出したとも言える。



先にも述べたようにその小泉の原発論はポリティカルにしてエコノミカルであり、ヒューマンプロジェクトである「瓦礫を生かす森の長城プロジェクト」に関わる細川とは同じ反原発であっても私は別のものだと思っている。

つまりこと原発に関しては両者は「同床異夢」とも言うべき関係だ。



だがそれがかりに同床異夢であったとしても小泉の”夢”を”利用”しない手はないのである。

しかしまた前向きに考えるなら細川のエコヒューマニズム的脱原発論と小泉のコスト論的脱原発論が一体化して、脱原発論としてはそれはより完成形に近いとも言える。

選挙は勝つことがすべてであり、どれだけ票を取ろうと負ければ無意味に等しい。



そういった戦術的な意味において私はこの小泉、細川のタッグに勝ってもらいたいと思うわけだ。



かりに宇都宮に勝ちの目があれば私は宇都宮に投票してもよいと思っているが、どうも宇都宮が大波乱を起こすような機運は感じられない。

しかし宇都宮に勝ちの目が出る機運があれば宇都宮に投票してもいいと思っている。

目的を達成するなら手段を選ばずだ。


今現在の予想では残念ながら舛添が大きくリードしており、ことによると細川は3番手になるかも知れないとの評もある。



だがこの同床異夢コンビは”大化け”する一厘の可能性を秘めていなくはない。



その一厘の大化けに賭けてみたいと思っているというのが1月31現在の私の心境である。






     

 

2014/01/27(Mon)

福島からさらに東京へとはびこる鈍感サバイバルへの覚え書き(Cat Walkより転載)。


一昨日の夕方から福島に一泊、朝には東京に帰るという慌ただしい日程で福島はいわきに行って来た。



福島の子供達の甲状腺検査の件で以前にもトーク(13年9月17日)で触れた福島の「たらちね」代表の鈴木薫さんと「子供を放射能から守るネットワーク」代表の千葉由美さん、それにNHKのディレクターも交え、小さな新年会を持った。



会食の中では福島の学校給食の地産地消問題が出た。



昨今、こういった原発がらみの話はますます福島と東京などそれ以外の地域との温度差というか、情報格差が広がっており、福島において学校給食を地産地消に切り変えることを問題視する市民団体の動きや報道は福島ではなされているが、それ以外の地域では他人事であり、多くは知らないのではなかろうか。



この子供を人身御供にして、まやかしの”安全”の既成事実を積み上げて行こうとする力学は、昨年来加速がついている国→県→市町村などの地方自治体の思惑である「福島にはもう放射能問題は存在しない」かのような風潮をつくり出す象徴でもあるわけだが、福島の公的機関が実情を無視してまでそのような動きに出るのは、当然出費を押さえ込もうとする国の息がかかっていることと、地域産業と地方自治体の利害関係、あるいは福島の人口減少の食い止め、などさまざまな問題や思惑が絡み合ってのことである。



言っておくがセシウム137の半減期が30年であることは今では原発被災国家の日本人の多くが知っているわけだが、まだ福島第一原発事故から3年しか経っていないのである。



かりにあの気休めと膨大な税金の無駄使いの除染作業などがあったとしても、いまだ福島県内のみならず関連被災地の農産物やその周辺海域の海産物はけっして安全とは言えず、そんな中まるで子供をモルモットにしたかのような給食の地産地消化は、きわめて姑息な政治的な動きと為政者の鈍感さの上に成り立っているわけだ。



そしてこの動きが政治的であるのは3・11以前の福島県内の子供の給食の地産率は3〜40パーセントであったにもかかわらず、今それを100パーセントにしょうとしているところにも現れている。

逆に原発事故を利用してさらに地産地消を盛り上げようとしているわけだ。



しかし為政者というものは時にそういうものであり、それ以上の問題は大多数の母親たちの間にちょうど学級の中の生徒間に生じる同調圧力のようなものが生じはじめていることだ。

そのお上の方針になし崩し的に洗脳され、今やこの給食問題に異を唱える母親はマイノリティとして他の母親から白眼視されるような奇妙な差別構造が出来上がりつつあるらしい。



「子供を放射能から守るネットワーク」代表の千葉由美のお子さんは小学生だが、原発問題以降ずっと子供に弁当を持たせて登校させた。

しかしこの給食の地産地消化”運動”に至る過程で、とうとう弁当を持って行く子は彼女の子供たった一人になった。



マスクをしていてさえ、白い眼で見られるというから福島の多く人々はこの3年の原発問題の中でその精神が屈折し、安全よりも鈍感を選ぶことが(精神衛生的)サバイバルとなっているのかとさえ思える、そういう不可思議な住民感覚が生まれているのである。





                               ◉





被爆地帯の福島でさえ、こういった痛感停止と”鈍感サバイバル”がはびこりつつあるわけだから、この東京で”もう原発問題はなかった”かのような風潮が蔓延するのはある意味で不自然でもなく、今回の東京都知事選において原発問題が大きな争点にならないのもまた自然の理なのかも知れない。

先のトークで細川さんは原発問題に対する都民のスタンスを見誤ると票読みを誤ると言ったのもそのことだ。



そういった警戒を促すトークは各紙の世論調査前に述べたわけだが、ここのところ出はじめたマスコミの調査を見ると案の定、予測した通りの結果が出ている。



つまり平成日本人の愚かさとは見えないものに対する想像力より、目の前に見える餅が先ということであり、原発問題より自分の老後や雇用がさしあたっての”お餅”であるわけだ。



東京が急激な高齢化社会を迎えることと相まって「東京を高齢者対策世界一の都に」という歯の浮いたお題目を掲げる舛添要一が一歩リードしているわけだが、ここから先は藤原船長の毒舌なしには実情に肉薄できないようである。





                             ◉





この舛添要一という人物、人相から判断するなら彼の人相は前回に取り上げた田母神より格段に悪い。

田母神は自衛隊という閉鎖空間で威張っている間に大脳皮質が劣化し、世間全体が自衛隊と思い込むまで思考が単細胞化しただけの話だが、舛添には澆薄(ぎょうはく)の相つまり自己本位にして冷酷非情の相が色濃く出ており、さらには空音(そらね)の相、つまり虚言癖の相も出ている。

そして澆薄は泥舟となった先の自民党からいち早く逃げ出す保身に現れ、空音は”母親の介護”という局面に現れている。



私の地元の福岡県に帰ると舛添の母親介護のウソは常識となっており、舛添の親族ですら母親の介護を人任せにして、その美味しいところだけを持って行っているということでみな憤慨しているのである。



写真家である私が言うまでもなく、誰が見ても舛添の人相が良いと思う人は稀だろうが”母の介護”という人相にまったく似合わないイメージ(もとは本人がばらまいたものだが)を得たことで、その人相とのミスマッチと相まって「あのひとは冷たそうに見えるが本当は”いいひと”なんだ」と言う刷り込みが定着してしまったわけだ。



”悪相なのに本当はいい人だった”というのは”吉相だが案の定いいだった”人よりずっと好感度が上がるのである。



彼の好感度は無責任な浮衆によって作られるイメージというものがいかにいい加減かという見本のようなものだが、そういった浮衆による根拠のない思い入れが都知事という実権に結びつくということであれば嘘から出た真であり前知事の猪瀬と似たり寄ったりということになる。



そういう意味では情報化社会における今の為政者とはかつての為政者とは異なり、実態を伴わない虚像であり、虚像である方がより多くの票を獲得できると倒錯世界になっているのかも知れない。



次回は細川、小泉、宇都宮に触れる。

     

 

2014/01/20(Mon)

海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」と釣り船の衝突事故から見えて来る人間の視覚の不確かさ。。(Cat Walkより転載)

20140120.jpg

先日の瀬戸内海での海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」と釣り船の衝突事故に関してどう思うかと二件ほど投稿をいただいていた。

こういった題材は船や海になじみのない方には興味を覚えないかも知れぬとそのままにしていたが、昨日ひとつの検証写真が発表され、思うところもあり、一応私は”船長”でもあるしやはり見解は述べておこうと思う。

とは言ってもこういった海難事故というものは目撃した者はいず、結論を導き出すのは大変難しく、これはあくまで、これまでにもたらされた少ない情報をもとに長年船の舵をとってきた私個人の推理であるとお断りしておく。

海難事故にかかわらず日ごろ身の回りで起こる何事かを推理する上でこういった頭の体操は役に立つこともあるだろう。

さてこの海難事故に関し、これまでもたらされた情報は上記の写真と釣り船に乗っていた生存者の以下の証言。

「並走して走る釣り船は速度を上げ、大型船を追い抜た。追い抜いたあとに、後ろを振り向くと今度は大型船が速度を上げ近づいて来て、さらに左方向に船首を向け、その結果釣り船と大型船は大型船の後方で衝突した」

もうひとつの情報は輸送艦「おおすみ」の航跡記録の発表である。

航跡記録によると、そこには釣り船の乗組員の証言とまったく異なる航跡が描かれている。

つまり30数キロで航行をしていた輸送艦「おおすみ」は釣り船を視認してから急激に減速し、10数キロまで速度を落としている。

こういった8000トン級の大型船というものはかりに30キロの速度で走っていても停船するまで数キロを要するからスクリューを逆回転させ急ブレーキをかけたということだろう。

つまりこの3つの情報から今回の海難事故に関してどのような推測が成り立つかということだ。

その前に言っておきたいのは以前あった外房の勝浦での漁船と自衛艦の場合でもそうだが、数千トンの大型船とわずか10トン程度の漁船や釣り船の衝突事故は、ほぼ全部と言って過言ではないほど小型船に非があると私は考えている。

ただし前回や今回のように国家事業体である海上自衛艦船が一般船と衝突し、国民が死んだとなるとなかなか小型船側に非があるとは言えないのが実情であり、その意味では自衛艦の乗組員は歯がゆい思いをしているのではなかろうか。

私のこれまでの経験においても今回の釣り船がそうであるというのではないが、横断禁止区域を平気で横断したり、大型船に異常接近したり、酒盛りをしたり、居眠り運転をしたりと最近とくに釣り船やプレジャーボートのマナーが大変悪くなっており、こいつらは果たしてちゃんと勉強して免許をとったのかと疑わせるような航行をしている輩が目立つ時代なのである。

さらに言えばプロである漁船ですら早朝は居眠り運転をしていて一直線にこちらに向って来る者もいる。

そんなバカ船団の中を突っ切らなくてはならない昨今の大型船は非常に神経を尖らせているのが実情なのである。

私も時に大型船の行き来する航路を横切ることもあるが、同じ方向に走るか、あるいは並走して走るのは危険だから、大型船の速度を視認しながらその前を横切るに十分な時間がある場合は横切るし、時間がない場合はその場で停船し、大型船が通り過ぎて約200メートルほど離れてからその航跡を過る。

直後に過ると大型船の引き波は巨大で、普通の波と異なる鋭角波だからそこに突っ込むのは危険なのである。

おおすみのように8000トンもある場合は直後の引き波は2メートルは立つ。

それも自然の波とは異なり急角度の三角波として近づいて来るので、最低でも200メートル後方の方で過らなくてはならない。

しかし巨大な船というのはそれなりに魅力的なもので、近づいて並走しまじまじとその見上げるほどの威容な姿を眺めて楽しむこともある。

しかし、それでも50メートルくらいの距離を取らなくてならない。

何千、何万トンもの大型船は磁石のように吸引力があるからだ。

つまり後尾に立つ引き波もそうだが、大型船の周辺には複雑な水流が生じているのである。

たとえば大型船の前半分には並走する小型船を吸引するのではなく、押し戻す水流が生じ、逆に大型船の後ろ半分においては吸引の水流が発生するのである。

相手の大きさにもよるが、馬力のある小型船なら水流に干渉されてもそれを乗りきる力があるが、一般に大型船の起す水流に干渉されない最短の距離が50メートルくらいと考えたらよい。

ちなみに私は船を2艇所有しており1艇が17フィート、他艇は42フィートだが、17フィートの方はアメリカの海難救助艇にも使われるボストンホエラーという銘柄のもので17フィートにしては普通の倍の100馬力の船外機を付けているために、先に言った二メートルの引き波をも乗りきる力がある。おそらく日本のヤマハのSVRだと転覆するだろう。

さて、今回生き残った釣り人の、並走して走る釣り船は速度を上げ、大型船を追い抜た。追い抜いたあとに、後ろを振り向くと今度は大型船が速度を上げ近づいて来て、さらに左方向に船首を向け、その結果釣り船と大型船は大型船の後方で衝突した、との証言だが、今回明らかになった大型船の航跡記録の30キロ台で航行しており、小型船が接近して来てからは警笛を鳴らすとともに船足を10キロ台に落としている記録とはまったく相反している。

このような矛盾はなぜ起こるのだろうか。

それはひとつには海上には陸地のように自分の動きや位置関係を視認する基準がなく、かりに動く二隻の船がいた場合、二隻の船の相互の速度というものは二隻の船の速度の相関関係でしか認識できないからである。

だから錯覚が起きやすい。

つまり輸送艦「おおすみ」が10数キロ程度の船足で釣り船に近づいたことは確かなわけで、にもかかわらず後方からグングン近づいて来たように見えたとするなら、その釣り船はエンジンを吹かしているにも関わらずほとんど停船に近い状態であった公算が大きいのである。

ましてや操縦者は速度メーターを視認する立場にあり、自船の速度は数値で認識できるが、同乗者は感覚がたよりである。

その証言が錯覚ではないかというひとつの推測が成り立つのが、上に取り上げた写真である。

釣り船を陸に揚げたところ、スクリュー(ペラ)が上を向いていた。

ごくたまにこういうことは起こりうる。

つまりかなりの速度で海上を走っていて、流木などの視認を怠り、その上を走った場合(流木はその90パーセントが水面から隠れているので、視認が難しいが、しっかり前を見張っていれば見つけるのはそんなに難しくはない)、スクリューに激突する。

こういった場合シャフト(スクリューの心棒)が破損しないようにするため一定の力が働くとスクリューは上向きにベント(折れる)する仕組みになっている。

シャフトが破損するとそこから船内に水が入り沈没する危険性がありそれを回避するためだ。

写真を見ると写真を撮った人は立った目線で写真を撮っている。

その目線の高さはほぼ赤い船底塗料の横線と考えて良いだろう。

その視線と船底の横線を結ぶ直線を基準とすると、かりにこのスクリューを横から見た場合60度くらいの上向きの角度となっている。

このスクリューの角度というのは船の姿勢に大きく干渉する。

かりに船外機(外付けのエンジンとスクリュー)の場合、走りはじめにあっては水の抵抗を少なくするために船首を上げることが多い。

その船首を揚げるにはスクリューを上向きにする必要がある。

つまり上向きのスクリューは上部に水の抵抗をつくり出すから、当然その反対側の船首は持ち上がるわけだ。

逆にスクリューを下向きにすると、船首は下がる。

そういう船とスクリューの慣性を利用し、走りはじめには船首を上げ水の抵抗を最小限にし、速度が出て来てから(プレーニングに入るという)スクリューをもとの位置に戻し、船首を下げる。

しかしいくら船首を上げたいからと言って、釣り船の写真のように極端な角度でスクリューを上げることはあり得ない。

かりにこの角度のスクリューでエンジンを吹かした場合、船首が極端に持ち上がって(つまり船が立って)不安定で危険な状態となる。

しかし、釣り船の乗組員の証言から推測出来るのは、この状態で釣り船はエンジンを最大に吹かした可能性があるということだ。

大型船の警笛が5回も鳴った。

後ろを見ると大型船が近づいて来る。

釣り船はエンジンを全開にする。

音だけは勇ましい。

だが船足はさっぱり上がらず、船首が大きく持ち上がるばかりだ。

その船首が持ち上がったのを波のせいと錯覚することもあるだろう。

ほどんど動かないと言ってよい状態で釣り船は船首を大きく上げる(おそらくほぼ30〜40度くらいの角度。大波を越える場合、これくらいに傾くこともある)。

きわめて近い距離で大型船がその半分を過ぎたとき、水流の吸引が働きはじめる。

釣り船はほぼ”立った”状態で大型船に吸い寄せられ、船壁に接触する。

その際、当然操縦者は舵を外側に切ろうとするが、スクリューが立った状態ではかえってふらつきが激しくなるだけだ。

写真を見ればお気づきのように、これくらいの小さな船には舵板はついていない。

船の方向取りはスクリューを左右に振ることによってなされるわけだ。

だがこのスクリューの角度ではいくら舵を切っても船首がふらつくだけで、よっぱらいのようになってしまう。

船長はいくらエンジンを吹かしても船が立つばかりで前に進まず、大型船が近づいて来たから舵を切ろうとしても船がふらつくばかりで大変慌てただろう。

きわめて不安定な角度の小型船は横からの大きな力が働かなくとも横転する可能性がある。

言っておくがこの程度の小型船であっても姿勢が正常に保たれていれば大型船の船壁に接触しょうとそんなに簡単に転覆するものではない。

スクリューの角度からするなら慌ててエンジンを全開する釣り船はアシカのように立っていたと推測できるのである。

大型船の船壁についた傷の高さは、釣り船のその危険な角度で立ち上がった船首によるものかもしれない。

釣り船の乗組員が大型船が10数キロの遅い船足で迫って来たにもかかわらず、すごいスピードで近づいて来たと証言したのは、おそらく釣り船がその時、エンジンを全開にし、大きなエンジン音を轟かせていたが故に、釣り船も相当の速度で走っていたと錯覚したとも考えられるわけだ。

このように海というのは基準点がないからこそ、錯覚が起きやすい時空なのである。

それはあるいはパラダイムを失った文明の中で生きる現代人の中で起こりうる不明とちょっと似ていなくもない。

なにはともあれ不運が重なり、二名の海の好きな人が命を落としたことは同じ海人として慚愧の思いがある。

ご冥福をお祈り申し上げる。


     

 

2013/12/03(Tue)

自からの情報(思考)の管理すら出来ない政治のプロが他者に向けての機密の管理など出来るわけがない。(Cat Walkより転載)




「特定秘密保護法」の施行に関して賛成の意を唱える識者やマスコミは私の知るかぎりどこにもいないようだが、私個人はこの法案に無条件で反対というわけではない。



残念ながら愚かな人間の歴史は戦争の歴史でもあり、この先も戦争は起こりうるだろう。

日本も保証の限りではない。



そういった歴史的事実の中において、国というものはある意味で仮想された敵を想定することによって存立していると言えなくもない。



さしずめ、近年の日本国にあって仮想される敵はチベットやトルキスタンやウズベキスタンをおそるべき虐殺手法で占領弾圧している中国となる。



異常とも言える早さで高度成長を成した漢民族の中華思想は近年ますます肥大化しており、北方の占領を果たしたこの国は版図を南に拡大しょうとしていることはご承知の通りだ。



こういった国際情勢の中、国を守るための「機密保護」は必要不可欠であることは言うまでもない。



問題はこういった国是の強化が官憲の強権と結びつき、秘密保護の名目で都合のいいように汎用化し、言論や表現の自由まで介入してくることだ。



今はその具体例が示されない時期であるがゆえに抽象的な議論にならざるを得ないが、懸念すべきは権力がこの「秘密保護法」という”大鉈”を持つことによってより支配的な力を持っていると自からを過信し、その過信が市民生活を踏みにじることである。

これは戦前の軍機保護法が軍の機密のみならず一般人や表現者の表現の自由まで敷衍し、恐怖政治を敷いた例を見ればその怖さがよくわかる。



このことはすでに一党独裁という権力を手にした自民党内の例の石破の「デモはテロ」発言や「どんどん前に進めば良いんです!!」と自民党の部会でアジテートする町村清和会会長と物腰にすでに現れていると言える。





                  ◉





もう一点非常に怖いのは何が守るべき秘密かということがわからないという点である。



私が房総で懇意にしている白土三平さんが書いた少年忍者を主人公にした漫画「ワタリ」に「死の掟(おきて)」という話が出てくる。



この実録マンガの中では下層の忍者たちは掟を破ると支配者から殺されてしまうのである。



ところがその掟の中身とは何なのか、支配者以外は誰も知らないのだ。



「その掟を知らねば掟の守りようがないではござりませぬか」



忍者たちは見えない掟に恐れおののき、疑心暗鬼になり、支配者に結果的に服従することを強いられる。



つまり何が秘密であるかを知らせない、ことが支配をするための要諦なのである。



その掟がさだかでないと今回の秘密保護法はあの忍者の時代を彷彿とさせる。



掟がさだかでないことはあの「ワタリ」のような疑心暗鬼を生み、人々や表現者の行動を萎縮させるわけだ。





                  ◉





だが一歩譲ってその掟や秘密が国防に特化するであったとしても何が守るべき機密で何が守らなくてもよい情報であるかという的確な判断は非常に難しいと個人的には思う。



この夏に岩国基地を訪れたとき、感じたのもそのことだった。



私は岩国取材で軍事のプロにおいてさえ、その情報が守るべき機密に属するものなのか、あるいはそうでないのか、的確な仕分けをすることは余程の直感と塩演算能力がないと難しいのではないかとその場で感じた。



1日を費やして岩国の海難救助艇を取材してのち、私は救助隊員十名とその上官そして広報部を交え、懇談(質問取材)に入った。



私はそこで私が救助艇に乗った感想を述べ、疑問に思っていることなどの質問を並べたのだが、当然「それは機密に属することなのでお答えできません」という横槍がお目付役とおぼしき上官の方から随所に入るわけである。



いかに人命救助のための機器であろうと、それは戦時においては”人を殺さない”兵器なのである。

そこに機密が存在することは言うまでもない。



岩国から帰京してのちに広報から電話があり、あの件に関しては書かないでほしいという数件の質問に対する答えをここで書くことは日本国民である以上謹慎すべきだと思っている。



だがそのように用心深く、機密のマニュアルを守ったかに見える軍事のプロが果たして、この取材において機密を守り得たのかと思い起こすに、どうもそうではないように思えるのだ。



それはこのトークですでに開示しているこの世界一と言われる荒天時での着水能力に関する2つのデータである。



そのひとつは着水時の飛行速度が●●キロ(この速度は機密に属すると個人的に判断するので、公開サイトでは記さない。一般の飛行機は210キロ前後)であること。

そしてもうひとつは着水時の機体の角度が上向き●度(同様に機密であると判断するので公開サイトでは記さない)であること。



私はそのふたつのデータが機長の口から出たとき、一瞬上官の様子をちらりとうかがった。

だが、上官は口をはさむことはなかった。



重ねて言うが戦時においてはこの海南救助艇はひとつのれっきとした兵器である。



この世界でも例を見ない3メートルから4メートルの荒天時の荒波に着水することのできる水陸両用飛行機の、そのふたつの機能は船に長年馴染んでいる私としては、これは機密事項ではないかと判断したのだ。



そのふたつのデータはさまざまなコンピューター上の演算と実実験との積み重ねの上に出た貴重なデータであり、かりに仮想敵国でモノマネ天国の中国が同じ海南救助艇を作ろうと思えばそのもっとも琴線となるデータを開示したことになる。



つまり荒天時の着水が時速●●キロがもっとも適切な速度であるということはそのような構造着水時に揚力を持たせるために着水時にプロペラ部の風圧を下方に向ける機構の開発ことによって果たされるわけだ。



また着水角度が機首を上向きにして●度の意味は機体は前後半々で●度に折れ曲がっているということであり、着水時には機首を●度上向きにして、機体後半部分を水面に平行にするということである。



これ以上の角度だと機首がさらに上がり、当然5メートルや6メートルの波にも対応できそうだが、そのことを質問するとこの実験の結果●度が限界点であることがわかったという。



これは私個人はあきらかに軍事機密だと思った。



ところが軍事のプロがその情報の管理を誤っている。



この一例を見ても、戦時において瞬時に何が機密であるべきで何が機密でないかという的確な判断を下せるような人間は余程の天才的な演算能力のある人ではないかと思う。



ところが時間が切迫しているとは言えないこの平和時においてさえ”政治のプロ”であるべき石破氏は情報の取捨選択の判断を誤り、自からを、そして母体である自民党を苦しめ、仮想敵に利を与えることになったわけだ。



こういった似非政治のプロ集団に「特定機密保護法」のような宝刀を持たせた場合、それを的確に使いこなすかと言えばただただそれは怪しい。

それこそ戦前のように気違いに刃物になる公算もありうるだろう。







                   ◉







ところで、なんでもありの世の中、ここ数日間の懸念材料がふと頭をよぎる。



6日の参議院での「特定秘密保護法案」の成立の前日、あるいは前々日などに、猪瀬東京都知事の事務所の家宅捜索、さらには突然の逮捕などなきよう切に願うものである。



     

 

2013/12/02(Mon)

自己弁護のために民主主義という矜持を利用するな。

デモはテロと本質的に同じ素っ頓狂発言は当然のごとく炎上し、さっそく石破はお詫びと訂正を入れたらしい。



お詫びしたとしても彼がそのような偏狭な考えを持っていたことはすでに披瀝されてしまっているわけであり、彼の日頃の発言を聞くともう少し大人だと思ってたが、どうもそうではないようだ。



というより今回の子供染みた発言を聞くと、なぜか彼がキャンディーズフリークだったころのあの20歳の童顔が思い浮かぶ。



デモとは異なるものの、スーちゃんの横に坐るくらい入れ込んでいた石破青年(少年)はおそらくキャンディーズのライブの折りにはフリークたちのあの気持ちの悪い一斉のかけ声(コール)と熱狂唱和ししたであろうことは想像に難くない。



ひょっとしたら彼は自からのその”我を忘れた熱狂”を大声のデモに重ね合わせ、その忘我の危険性を指摘したのかも知れないが、言っておくが原発デモや秘密法案デモは、キャンディーズコールと同じくらい大きな声を出したとしてももっと理性的であり、なによりも天下国家のことを憂えての行動であり、天下国家とは隔絶したオタク世界のコールとは本質的に異なる。





ただしそうは言うものの、今回の石破の発言はそれなりの一定の功績はあると言わねばならないだろう。



「特定秘密法案」なるものが施行された場合、それによってどのように一般市民やジャーナリズムの表現の自由が制限されるのか、ということは実際にそれが施行されてみなければわからないというもどかしさの中で、反対運動が起きているわけだが、少なくとも、彼のその勇み足的発言によって(デモさえテロと見なしてしまうという)権力側の本音が透けて見えたからである。



訂正、謝罪など”その場凌ぎ”のことでどうでもいいことであり、彼のその発言(本音)には極端に言えば自分と異なる思想や意見を持った者はテロリスト(犯罪者)として許さないという公権力の怖さが顔を覗かせている。





私はあなたの意見には反対だ、 だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。





とフランスの哲学者ヴォルテールは言ったが、石破の言う「民主主義として望ましい」とは本来このことであり、民主主義という矜持は自己弁護のために使うものではない。







  Next >  TALK一覧ヘ