銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者


 

設定資料:自由惑星同盟軍の階級

 
前書き
原作人物やオリキャラが作中の同盟軍においてどのようなポジションにいるかの参考設定資料です。ヤン艦隊メンバーやビュコック提督って神様みたいな存在なんですよ。 

 
―将官―

元帥
特に功績の大きい大将に授けられる階級。現役軍人が授けられることは珍しく、退役後や死後の追贈が多い。追贈を加えても士官学校でも同期から1人も元帥を出していない期の方が多く、6人も元帥を出した730年マフィアは空前絶後の存在といえる。
補職:統合作戦本部長、宇宙艦隊司令長官
主な就任者:ヤン・ウェンリー(士官学校卒。任官時32歳)、アレクサンドル・ビュコック(兵卒出身。任官時73歳)

大将
通常の最高階級。統合作戦本部・宇宙艦隊司令部など軍中央の主要機関のトップ。士官学校出身者でも大将に昇進できる者は同期のトップ2~3人程度。
補職:統合作戦本部長、宇宙艦隊司令長官、国防委員会事務総長、後方勤務本部長、技術科学本部長、地上軍総監、統合作戦本部次長、統合作戦本部幕僚総監、宇宙艦隊副司令長官、宇宙艦隊総参謀長、国防委員会部長職・主要方面管区司令官
主な任官者:チュン・ウー・チェン(士官学校卒。任官時37歳)、ヤン・ウェンリー(士官学校卒。任官時30歳。最終階級元帥)、アレクサンドル・ビュコック(兵卒出身。任官時71歳)

中将
軍中央では主要機関の次長、実戦部隊では正規艦隊司令官や複数星系を統括する方面管区司令官。数十万から数百万の人員を擁する巨大組織のトップなので、高度な政治力がないと務まらない。士官学校出身者でも中将に昇進できる者は同期のトップ10人程度。
補職:正規艦隊司令官、方面管区司令官、首都防衛司令官、宇宙艦隊副司令長官、宇宙艦隊総参謀長、統合作戦本部次長、後方勤務本部次長、技術科学本部次長、国防委員会事務次長、国防委員会部長職、地上軍副総監、士官学校校長、地上部隊の集団軍司令官。
主な任官者:ダスティ・アッテンボロー(士官学校卒。任官時30歳)、ワルター・フォン・シェーンコップ(専科学校卒。任官時35歳)、アレックス・キャゼルヌ(士官学校上位卒業。任官時38歳)、ウィレム・ホーランド(士官学校上位卒業?任官時32歳)、ヤン・ウェンリー(士官学校卒。任官時29歳。最終階級元帥)

少将
軍中央では主要機関の部長職、実戦部隊では分艦隊司令官や正規艦隊参謀長。軍中央や実戦部隊の大幹部である少将には、組織運営能力に加えて政治的な能力も必要になってくる。士官学校出身者で少将に昇進できる者は1~2%程度。派閥の後押し無しで少将になるのは難しい。
補職:正規艦隊副司令官、正規艦隊参謀長、分艦隊司令官、方面管区参謀長、巡視艦隊司令官、主要星系警備司令官、宇宙艦隊副参謀長、宇宙艦隊総司令部主任参謀、専科学校校長、地上部隊の軍団長、統合作戦本部部長職、後方勤務本部部長職、技術科学本部部長職、国防委員会部次長職。
主な任官者:フョードル・パトリチェフ(士官学校卒?。任官時30代後半)、ヤン・ウェンリー(士官学校卒。任官時29歳。最終階級元帥)、ダスティ・アッテンボロー(士官学校卒。任官時28歳。最終階級中将)

准将
軍中央では主要機関の部長職、実戦部隊では戦隊司令官や分艦隊参謀長。数千から数万の人間を動かす立場であるため、視野の広さに加えて組織運営能力に長けていなければならない。将官への門はとても狭く、士官学校出身者で准将に昇進できる者は5%程度。花形部署を歩いて30代で任官したエリートと大佐の階級で年功を重ねて50代で任官したベテランが共存している階級。下士官からの叩き上げで准将に昇進するのは奇跡に近い。
補職:分艦隊参謀長、戦隊司令官、正規艦隊副参謀長、方面管区副参謀長、星系警備司令官、主要惑星警備司令官、地上部隊師団長、主要基地司令官、統合作戦本部部長職、後方勤務本部部長職、技術科学本部部長職、宇宙艦隊総司令部主任参謀、国防委員会部次長職。
主な任官者:アンドリュー・フォーク(士官学校首席卒業。任官時26歳)、ヤン・ウェンリー(士官学校卒。任官時27歳。最終階級元帥)、ワルター・フォン・シェーンコップ(専科学校卒。任官時32歳。最終階級中将)

―佐官―

大佐
軍中央では主要機関の課長職、実戦部隊では群司令や大型艦艦長、地方部隊では惑星警備隊司令や基地司令、艦隊司令部では主任参謀。将官ポストが極端に少ない同盟軍では高級幕僚や実働部隊指揮官として活躍する。業務処理能力・組織管理能力・視野の広さが高いレベルで均衡していなければならない。士官学校出身者は40歳前後で大佐に昇進するが、准将への昇進が難しいため、50前後で退職して民間に天下りする者が多い。ただ、軍高官や政治家による若手士官の青田買いが横行している同盟軍では有望な士官が功績を立てやすいポストを優先的に与えられて20代半ばで大佐に任官する者も少なくなく、士官学校卒業者の間でも昇進速度の格差が激しい。下士官兵からの叩き上げで特に優秀な者は50歳前後で大佐に昇進して定年まで勤める。
補職:分艦隊参謀長、戦隊参謀長、群司令、戦艦艦長、正規艦隊主任参謀、方面管区主任参謀、星系警備参謀長、惑星警備司令、星間巡視隊参謀長、基地司令、師団参謀長、旅団長、空戦隊司令、統合作戦本部課長職、後方勤務本部課長職、技術科学本部課長職、国防委員会課長職。
主な任官者:ワルター・フォン・シェーンコップ(専科学校卒。任官時30歳。最終階級中将)

中佐
軍中央では主要機関の課長補佐職、艦艇では戦艦や巡航艦の艦長、地方部隊では惑星警備副司令や基地副司令、艦隊司令部では参謀。業務処理能力だけでは務まらず、管理能力と広い視野が求められる。士官学校出身者は35歳前後の働き盛りに中佐に任官するが、昇進が速い者は20代の半ばから後半で任官する。下士官兵からの叩き上げは業務能力が高いが、管理能力と視野に欠けるため、中佐への昇進は難しいが、優秀な者は40代から50代で中佐に昇進する。
補職:戦艦艦長、巡航艦の艦長、隊司令、艦隊参謀、地上軍連隊長、地上軍大隊長、空戦大隊長、統合作戦本部課長補佐職、後方勤務本部課長補佐職、技術科学本部課長補佐職部、国防委員会課長補佐職。
主な任官者:オリビエ・ポプラン(専科学校卒。任官時28歳)、ヤン・ウェンリー(士官学校卒。任官時25歳。最終階級元帥)、アンドリュー・フォーク(士官学校首席卒業。任官時24歳。最終階級准将)

少佐
軍中央では主要機関の部員、艦艇では大型艦の副長や小型艦の艦長、艦隊司令部では副官や参謀。大佐や中佐の下で実務を取り仕切る中間管理職。艦艇の分隊長として乗員の生活管理にあたるため、業務能力に加えて管理能力も必要になる。士官学校出身者は若さと経験が均衡する30歳前後で少佐に任官するが、昇進が速い者は20代前半から半ばで任官する。下士官兵からの叩き上げは30代から50代で少佐に昇進するが、ほとんどは50歳前後で昇進してそのまま定年を迎える。
補職:戦艦副長、巡航艦の副長、駆逐艦艦長、支援艦艦長、艦隊参謀、司令官副官、地上軍大隊長、空戦大隊長、統合作戦本部部員、後方勤務本部部員、技術科学本部部員、国防委員会部員。
主な任官者:フレデリカ・グリーンヒル(士官学校次席。任官時25歳)、コステア(専科学校卒。任官時46歳。最終階級大佐)、ヤン・ウェンリー(士官学校卒。任官時21歳。最終階級元帥)

―尉官―

大尉
軍中央では主要機関の部員、艦艇では小型艦の副長や各部門長、艦隊司令部では副官や参謀。少佐とともに大佐や中佐の下で実務を取り仕切る。統率力と業務知識が問われる地位。士官学校出身者はひと通りの経験を積んだ25歳前後で大尉に昇進するが、昇進が速い者は22歳か23歳頃に任官して軍中央の主要機関に勤務する。下士官兵からの叩き上げは30代から50代で少佐に昇進するが、50歳前後で昇進してそのまま定年を迎える者が多い。
補職:駆逐艦副長、支援艦副長、大型艦の各部門長、艦隊参謀、司令官副官、地上軍中隊長、空戦中隊長、統合作戦本部部員、後方勤務本部部員、技術科学本部部員、国防委員会部員。

中尉
艦艇では各部門の主任士官。士官学校出身者は少尉任官から1年で自動的に中尉に昇進し、優秀な者は副官や参謀として艦隊司令部に勤める。下士官兵からの叩き上げは30代から40代で中尉に昇進するが、40歳前後で昇進する者が多い。
補職:小型艦の各部門長、大型艦の各部門主任士官、艦隊参謀、司令官副官、地上軍小隊長、空戦小隊長。
主な任官者:ユリアン・ミンツ(兵卒出身。任官時17歳)

少尉
艦艇では各部門の主任士官。士官学校卒業者や幹部養成所修了者が最初に任官する階級。予備士官教育を受けた専門技術者も最初に少尉の階級を得る。20歳そこそこで任官する士官学校卒業者にとっては見習い期間に等しい。下士官兵から叩き上げた者は20代から30代で任官して即戦力として活躍する。
補職:小型艦の各部門主任士官、地上軍小隊長、空戦小隊長。
主な任官者:ワルター・フォン・シェーンコップ(専科学校卒。任官時22歳。最終階級中将)

―下士官―

准尉
艦艇では各部門の主任士官を補佐する。本来は士官と下士官の中間に立つ准士官として士官を補佐する立場だが、下士官兵からの士官登用が多い同盟軍では下士官の最上位となっている。30代から40代で任官する者が多いが、優秀な者は20代で准尉に任官して、幹部候補生養成所を経て士官へと昇進していく。
主な任官者:ワルター・フォン・シェーンコップ(専科学校卒。任官時20歳。最終階級中将)

曹長
艦艇では各部門の主任士官を補佐するとともに、艦内の生活単位である班の長として下士官兵をまとめる。業務経験豊富で下士官兵に睨みがきくため、下級部隊では部隊運営の要となる。30代から40代で任官する者が多いが、優秀な者は20代で任官して幹部候補生養成所を経て士官へと昇進していく。
主な任官者:ワルター・フォン・シェーンコップ(専科学校卒。任官時19歳。最終階級中将)

軍曹
曹長と同じく艦艇では各部門の主任士官の補佐と班長を務め、下士官兵を束ねる立場。ある程度業務経験を積んだ20代後半から30代半ばに任官する者が多いが、優秀な者は専科学校や志願兵の出身者なら20歳前後、兵役出身者なら20代半ばで任官する。

伍長
艦艇では各部門の主任士官を補佐する。専科学校出身者が最初に任官する階級。18歳で任官した専科学校出身者は知識はあるものの経験が足りないために見習い期間となる。経験を積んで昇進してきた志願兵や兵役の出身者は即戦力。
主な任官者:ワルター・フォン・シェーンコップ(専科学校卒。任官時18歳。最終階級中将)

―兵卒―

兵長
上等兵の中でさらに優秀な者が選抜され、下士官の代理を務める。兵長になった者は兵役や志願兵の任期が満了した時に伍長に志願する権利が与えられる。

上等兵
一等兵の中で優秀な者が選抜され、下士官を補佐して兵を取りまとめる。上等兵になった者は兵役や志願兵の任期が満了した時に伍長に志願する権利が与えられる。

一等兵
訓練期間を終えた二等兵が任官する。一人前の兵。

二等兵
訓練期間中の徴集兵、志願兵。新兵。 
 

 
後書き
 原作の記述を元に自衛隊・旧軍の制度を参考にして作成しました。あくまで本作中の設定であって、原作の一つの解釈にすぎないことを明記いたします。 

 

設定資料:自由惑星同盟の政治制度

概要
自由惑星同盟は数百の星系政府からなる連邦国家である。立法府の同盟議会、行政府の最高評議会、司法府の最高裁判所による三権分立体制を採用している。同盟議会議長が国家元首を兼ね、最高評議会議長は同盟議会代議員から選出される。

A.自由惑星同盟議会
自由惑星同盟の立法府にして国政の最高機関。代議員は一期3年で全員が改選される。定数は約1600。小選挙区制で星系を単位として1000万人あたり1選挙区が設置されるが、人口が1000万に満たなくても必ず1選挙区は置かれる。最高評議会の議長以下の評議員人事は同盟議会の承認を得なければならない。全議席が小選挙区で選出されるため、戦争の勝敗や政治家の不祥事などが引き起こす”風”に左右されやすく、政権が不安定になりがちという制度的欠点を抱える。

①同盟議会議長
立法府の長で同盟代議員から選ばれる。任期は次の代議員選挙まで。自由惑星同盟の国家元首を兼ねるが、儀礼的な存在に留まっている。ルドルフに簒奪された銀河連邦の反省から、最高評議会議長との兼職は禁じられている。

B.自由惑星同盟最高評議会
自由惑星同盟の行政府。政令制定・予算案作成・官僚人事・外交などを担当する。議長以下の評議員は全員同盟議会代議員から選ばれる。評議会の下には国務、国防、財政、法秩序、天然資源、人的資源、経済開発、地域社会開発、情報交通の九委員会と書記局が置かれている。評議会のトップは議長。議長以外の評議員は各委員会の委員長と書記局の長を兼ねる。

①最高評議会議長
行政府の長で同盟代議員から選ばれる。任期は代議員と同じ3年。評議員の指名権、条約締結権、同盟軍の最高指揮権を始めとする強力な権限を持つが、すべて同盟議会の承認を得なければ行使できない。同盟議会の最大会派から選出される慣例になっているが、連立政権が常態化している近年は他会派から選出されることも多い。戦時体制下で元首権限を代行しているため、一般には(事実上の)元首と認識されている。

②最高評議会副議長
評議員の中から選ばれて議長不在時に代理を務める。国務・国防・財務の三委員長のうちの1人が指名されることが多い。

③国務委員長
自由惑星同盟を構成する各星系政府間の調整を担当する国務委員会の長。評議員の中では最も序列が高く、議長と副議長が同時に欠けた場合の議長権限継承順位筆頭にある。

④国防委員長
軍事行政を担当する国防委員会の長。最高指揮官たる議長の下で同盟軍全軍を統括する。5000万人の巨大組織の頂点に立ち、財政支出の過半を占める巨額の軍事予算の配分権を持つ国防委員長は絶大な権力を持つ。議長権限継承順位第二位。

⑤財政委員長
財政・金融を担当する財務委員会の長。他の委員会への予算配分権を握っており、国防委員長に次ぐ権力を持っている。戦時立法の「臨時資金調整法」に基づく金融統制の責任者。財政規律重視派の人物が就任すると、軍事予算を削減しようとして国防委員長と対立が生じる場合がある。議長権限継承順位第三位。

⑥法秩序委員長
司法行政を担当する法秩序委員会の長。全国レベルの警察組織である国家保安局、国家捜査局、麻薬取締局を統括するとともに各星系・各惑星の地方警察の間の調整も行う。議長権限継承順位第四位。

⑦天然資源委員長
天然資源行政を担当する天然資源委員会の長。戦時立法の「資源活用促進法」に基づく資源統制の責任者として経済界に影響力を持つ。議長権限継承順位第五位。

⑧人的資源委員長
教育行政や労働・福祉行政を担当する人的資源委員会の長。同盟の教育行政は星系ごとの独立性が高く、人的資源委員会は調整機関としての役割が大きい。議長権限継承順位第六位。

⑨経済開発委員長
産業行政を担当する経済開発委員会の長。戦時立法の「平和協力法」に基づく産業統制の責任者として経済界に影響力を持つ。議長権限継承順位第七位。

⑩地域社会開発委員長
開発行政を担当する地域開発委員会の長。惑星開発事業や社会基盤整備事業を統括しているため、利権にありつきやすい。議長権限継承順位第八位。

⑪情報交通委員長
情報行政や交通行政を担当する情報交通委員会の長。メディアの監督者だが、監督権が公視されることはほとんどない。メディア出身者が就任することが多い。議長権限継承順位第九位。

⑫最高評議会書記局長
最高評議会の事務を担当する書記局の長。評議員中では最下位だが、直接議長を補佐するポストであるために側近中の側近が指名される。議長権限継承順位第十位。

各委員会は評議員の委員長の他、代議員から選ばれる副委員長と委員、事務総長や各部部長以下の事務局の官僚で構成されている。委員長と副委員長と委員は委員会の意思決定及び事務局の監督にあたり、事務局は行政事務を担当する。

C.星系政府
自由惑星同盟を構成する星系共和国の政府。首長は星系首相。独自の議会・法律・政府を持つ。

D.惑星政府
星系国家を構成する惑星の政府。首長は知事。 
 

 
後書き
原作の記述を基に作成しました。原作の解釈の1つにすぎないことを明記いたします。 

 

設定資料:自由惑星同盟宇宙軍の部隊編制

【宇宙艦隊】
自由惑星同盟軍の連合艦隊。特定区域の警備を目的とする星間巡視艦隊や警備艦隊と異なり、同盟領全域及び他国領を行動範囲とする。一〇万隻を越える艦艇戦力を保有している。

編制
・宇宙艦隊司令部
・十二個正規艦隊
・司令部直轄部隊

司令部
・司令長官:元帥~大将
・副司令長官:大将~中将
・総参謀長:大将~中将
・副参謀長:中将~少将
・各主任参謀:少将~准将
・司令長官副官:大佐~少佐

【正規艦隊】
「第○艦隊」と番号が付けられている自由惑星同盟軍の主力戦闘部隊。戦闘部隊の他に後方支援集団、航空支援集団、陸戦支援集団を保有し、単独で作戦行動する能力を持っている。同盟領全域及び他国領を行動範囲とする。軍艦・巡航艦・駆逐艦を中心とする一万~一万五〇〇〇隻の艦艇を保有している。

編制
・正規艦隊司令部
・四~五個分艦隊
・後方支援集団
・航空支援集団
・陸戦支援集団
・司令部直轄部隊

司令部
・司令官:中将
・副司令官:少将
・参謀長:少将
・副参謀長:准将
・各主任参謀:准将~大佐
・司令官副官:少佐~大尉

【分艦隊】
正規艦隊所属の任務部隊。常時編制ではあるが、名目上は「複数の戦隊を集めた臨時編成の任務部隊」という建前になっているため、第八艦隊の第一分艦隊、第二分艦隊といった呼び方をされる。戦闘部隊の他に航空支援集団、後方支援集団、上陸支援集団から派遣された部隊を指揮下に収める。単独で作戦行動する能力を持ち、分遣されて陽動や周辺地域制圧に従事することもある。軍艦・巡航艦・駆逐艦を中心とする二〇〇〇~三〇〇〇隻の艦艇を保有している。単独行動が可能なため、第十三艦隊のように分艦隊規模の独立任務部隊も存在している。

編制
・分艦隊司令部
・三~四個戦隊
・後方支援戦隊
・〇~一個航空戦隊
・〇~一個揚陸戦隊
・司令部直轄部隊

司令部
・司令官:少将
・副司令官:准将
・参謀長:准将~大佐
・副参謀長:大佐~中佐
・各主任参謀:大佐~中佐
・司令官副官:大尉~中尉

【戦隊】
正規艦隊の主力戦闘部隊。単独行動する能力を持たず、分艦隊の傘下に入って戦闘に従事する。軍艦・巡航艦・駆逐艦を中心とする六〇〇~七〇〇隻の艦艇を保有している。後方支援集団、航空支援集団、陸戦支援集団を保有する戦隊規模の独立任務部隊も存在しているが、戦闘力は戦隊に劣る。

編制
・戦隊司令部
・一~二個戦艦群
・二~三個巡航群
・三~四個駆逐群
・〇~一個揚陸群
・〇~一個航空群
・司令部直轄部隊

司令部
・司令官:准将
・副司令官:大佐
・参謀長:大佐
・各主任参謀:中佐~少佐
・司令官副官:大尉~中尉

【戦艦群】
三〇~四〇隻の戦艦からなる宇宙戦部隊。火力・装甲ともに最強。

編制
・群司令部
・戦艦三〇~四〇隻

司令部
・司令:大佐
・副司令:中佐
・首席幕僚:中佐

【巡航群】
三〇~四〇隻の巡航艦からなる宇宙戦部隊。火力・装甲・速度のバランスが良い。

編制
・群司令部
・巡航艦三〇~四〇隻

司令部
・司令:大佐
・副司令:中佐
・首席幕僚:中佐

【駆逐群】
一二〇~一六〇隻の駆逐艦からなる宇宙戦部隊。戦闘力は打撃隊に劣るが小回りがきく。

編制
・群司令部
・三~五個駆逐隊

司令部
・司令:大佐
・副司令:中佐
・首席幕僚:少佐

【駆逐隊】
三〇~四〇隻の駆逐艦からなる宇宙戦部隊。火力・装甲は弱いが、機動性に優れる。

編制
・隊司令部
・駆逐艦三〇~四〇隻

司令部
・司令:中佐
・副司令:少佐
・首席幕僚:少佐

【航空戦隊】
一二〇~一六〇隻の攻撃母艦、四二〇~五六〇隻の駆逐艦、一万二〇〇〇~一万七〇〇〇機の単座型戦闘艇からなる正規艦隊の航空戦闘部隊。近接戦闘に投入される。

編制
・戦隊司令部
・三~五個航空群
・三~四個駆逐群
・司令部直轄部隊

司令部
・司令官:准将
・副司令官:大佐
・参謀長:大佐
・各主任参謀:中佐~少佐
・司令官副官:大尉~中尉

【航空群】
三〇~四〇隻の攻撃母艦と三〇〇〇隻前後の単座型戦闘艇からなる航空支援部隊。航空戦隊の指揮下で運用されることが多い。

編制
・群司令部
・攻撃母艦三〇~四〇隻
・三〇~四〇個飛行隊

司令部
・司令:大佐
・副司令:中佐
・首席幕僚:中佐

【後方支援集団】
六〇〇~七〇〇隻の輸送艦・工作艦からなる正規艦隊の後方支援部隊。

編制
・集団司令部
・四個~五個支援群
・司令部直轄部隊

司令部
・司令官:准将
・副司令官:大佐
・参謀長:大佐
・各主任参謀:中佐~少佐
・司令官副官:大尉~中尉

【支援群】
一二〇~一六〇隻の輸送艦・工作艦からなる後方支援集団傘下の後方支援部隊。

編制
・群司令部
・三個~五個支援群

司令部
・司令:大佐
・副司令官:中佐
・参謀長:中佐

【支援隊】
三〇隻~四〇隻の輸送艦もしくは工作艦からなる後方支援部隊。

編制
・隊司令部
・輸送艦もしくは工作艦三〇~四〇隻

司令部
・司令:中佐
・副司令:少佐
・首席幕僚:少佐

【揚陸戦隊】
四二〇~五六〇隻の揚陸艦、三〇~七〇隻の航空母艦、三〇隻~七〇隻の巡航艦、七万~一〇万の地上部隊からなる上陸戦闘部隊。

編制
・戦隊司令部
・三~四個揚陸群
・一~二個航空群
・一~二個巡航群
・司令部直轄部隊

司令部
・司令官:准将
・副司令官:大佐
・参謀長:大佐
・各主任参謀:中佐~少佐
・司令官副官:大尉~中尉

【揚陸群】
一二〇~一六〇隻の揚陸艦、二万二〇〇〇~三万二〇〇〇人の地上部隊からなる上陸戦闘部隊。

編制
・群司令部
・三~五個揚陸隊

司令部
・司令:大佐
・副司令:中佐
・首席幕僚:中佐

【揚陸隊】
三〇~四〇隻の揚陸艦と六〇〇〇~八〇〇〇人前後の地上部隊からなる上陸戦闘部隊。

編制
・隊司令部
・揚陸艦三〇~四〇隻

司令部
・司令:中佐
・副司令:少佐
・首席幕僚:少佐 
 

 
後書き
 原作の記述を元に自衛隊・米軍の制度を参考にして作成しました。あくまで本作中の設定であって、原作の一つの解釈にすぎないことを明記いたします。 

 

設定資料:自由惑星同盟統合軍・地上軍の部隊編成 ※作成途上

○統合軍

方面管区
複数星系を統括する軍管区。複数の軍種を地域別に統合した統合軍である。

編制
・方面管区司令部
・数個星系警備軍
・管区地上軍
・管区警備艦隊

司令部
・司令官:大将~中将(管区警備艦隊・管区地上軍のいずれかの司令官を兼務)
・副司令官:中将~少将(管区司令官が兼ねていない管区警備艦隊もしくは管区地上軍のいずれかの司令官を兼務)
・参謀長:少将
・副参謀長:准将

星系警備管区
一星系を統括する軍管区。複数の軍種を地域別に統合した統合軍である。

編制
・星系警備管区司令部
・数個惑星警備軍
・星系地上軍
・星系警備艦隊

司令部
・司令官:少将~准将(星系警備艦隊・星系地上軍のいずれかの司令官を兼務)
・副司令官:准将~大佐(管区司令官が兼ねていない星系警備艦隊・星系地上軍のいずれかの司令官を兼務)
・参謀長:准将~大佐
・副参謀長:大佐~中佐

惑星警備管区
複数星系を統括する軍管区。複数の軍種を地域別に統合した統合軍である。

編制
・惑星警備司令部
・惑星地上軍
・惑星警備艦隊

司令部
・司令官:准将~大佐(警備艦隊もしくは地上軍の司令官を兼務)
・副司令官:大佐~中佐(警備司令官が兼ねていない警備艦隊もしくは地上軍の司令官を兼務)
・参謀長:大佐~中佐

○地上軍

地上軍方面軍
5万人~50万人の守備部隊。

編制
・地上軍数個軍団

司令部
・司令官:大将~少将
・副司令官:中将~准将

地上軍星系軍
5000~5万人の守備部隊。

編制
・地上軍数個旅団

司令部
・司令官:少将~大佐
・副司令:准将~中佐

地上軍惑星軍
2500~1万2500人の守備部隊。

編制
・地上軍数個連隊

司令部
・司令:准将~中佐
・副司令:大佐~少佐

地上軍軍団
2万5000~7万5000人の部隊。

編制
2~6個師団

司令部
・軍団長:少将
・副軍団長:准将
・参謀長:准将

地上軍師団
1万~1万5000人の部隊。

編制
・2~3個旅団

司令部
・師団長:准将
・副師団長:大佐
・参謀長:大佐

地上軍旅団戦闘団
4000~6000人の部隊。

編制
・2~3個連隊

司令部
・旅団長:大佐
・副旅団長:中佐
・参謀長:中佐

地上軍連隊
2000~3000人の部隊。

編制
・2~3個小隊

指揮官
・連隊長:大佐~中佐
・副隊長:中佐~少佐

地上軍大隊
800~1200人の部隊。

編制
・3~5個大隊

指揮官
・大隊長:少佐
・副隊長:大尉

地上軍中隊
200~300人の部隊。

編制
・4~6個小隊

指揮官
・中隊長:大尉
・副隊長:中尉~少尉

地上軍小隊
30~50人の部隊。

編制
・3~5個分隊

指揮官
・小隊長:中尉~少尉 
 

 
後書き
 原作の記述を元に自衛隊・米軍の制度を参考にして作成しました。あくまで本作中の設定であって、原作の一つの解釈にすぎないことを明記いたします。 

 

第一章 始まりの地 エル・ファシル
  第一話:逃亡者の末路 新帝国暦50年(宇宙暦848年) ハイネセン市

「旧領土民はバーラトから出て行けー!」
「帝国は祖国をかえせー!」
「自由惑星同盟バンザーイ!」

 旧自由惑星同盟軍の軍服を着用した男達の怒声が人通りの少ないハイネセンの街角に響く。手押し車に積み込んだ巨大なスピーカーから流れる大音声の旧自由惑星同盟国歌「自由の旗、自由の民」バックミュージックに車道の真ん中を練り歩く彼らはバーラト星系を中心とする旧自由惑星同盟中核地域で強い力を持つ極右組織「自由祖国戦線」のメンバーだ。かつては自由と平等の総本山と謳われたハイネセンもいまや極右組織の闊歩するところとなっている。

 かつてのハイネセンは銀河の半分を支配する自由惑星同盟の首都として繁栄したが、宇宙暦八〇一年にローエングラム朝銀河帝国に併合されると著しく衰退した。ハイネセン市街の三割を消失させたルビンスキーの火祭りからの復興が遅れたこと、新領土行政府が帝国の主権が及ばないバーラト自治区統治下のハイネセンを避けるように交通・流通網の再編を進めたこと、帝国の主権が及ばない自治区であったためにアレクサンデル・ジークフリード帝の御世に三次にわたって行われた新領土開発事業の対象外であったこと、バーラト自治区の政権を担った旧イゼルローン共和政府系与党「八月党」の力不足などが主な理由にあげられる。

 十五年前の立憲制度・議会制度の導入に伴ってバーラト自治区が廃止されて正式に帝国領に編入された後もハイネセンはかつての繁栄を取り戻すことができず、新領土の一辺境惑星に落ちぶれている。人口は往時の四割まで減少し、失業率も全国屈指の高さを誇る。

 自由惑星同盟時代の繁栄への郷愁、経済的窮乏への不満などがハイネセン住民の排他的な気質を育み、旧同盟良識派と言われるリベラリストを中心とした八月党が十一年前の総選挙の大敗をきっかけに崩壊すると、旧同盟の極右政党でバーラト自治区時代には活動を禁じられていた統一正義党の流れを汲む勢力が急速に台頭した。旧領土(新帝国本土、旧ゴールデンバウム朝領土)住民への憎悪を露わにする新興極右勢力も乱立している。彼らはそれぞれに民兵組織を持ち、旧領土住民や対立勢力構成員に暴力を加えていた。民兵組織の中には犯罪組織と結託してマフィア化するものも少なくなく、帝国の官憲も手をこまねいている。貧困と暴力に支配された犯罪都市。それが今のハイネセンだ。

 自由祖国戦線のデモ行列を横目に片手で杖をつき、もう片方の手で本を抱えて足を引きずりながら歩道を歩いていた老人がいる。小柄で痩せている上に背中も曲がっていて見るからに貧弱な容姿だが、この世の不幸を一身に背負ったかのような陰気な表情がさらにみすぼらしい印象を与えていた。片手に杖を持ち、もう片方の手で本を抱えている。

 老人が車道をチラッと見て小さくため息をつくと、行列の中から、行列の中から2人の男が飛び出して駆け寄ってきた。一人が飛び蹴りをして老人を転倒させると、もう一人が地面に押さえ込む。続いて七~八人が行列の中から出てきて老人を取り囲み、罵声を浴びせながら足蹴にして小突き回す。通行人は遠巻きに見ているだけで誰も助けようとしない。騒ぎを聞きつけてやってきた警官数人が割って入ろうとすると、デモ隊は一斉に警官に跳びかかって乱闘が始まった。

 警官を数で圧倒して袋叩きにしていたデモ隊だったが、十五分ほど経って武装警察部隊がやってくると形勢は逆転する。デモ隊のメンバーは次々と警棒で殴り倒され、地面に倒れたところに手錠をかけられて拘束された。半分ほどが拘束されるとデモ隊は戦意を失って散り散りになり、後にはうつ伏せで倒れている血まみれの老人が残されていた。

 一人の警官が「大丈夫ですか?」と老人に声をかけるが返事はない。警官は顔色を変えて携帯端末を取り出して何やら話している。救急車を呼んでいるのだろうか。

 老人は激しい暴行を受けたものの辛うじて意識は失わずにいた。体中に走る激しい痛みに返事もできないだけだ。両目からは涙が流れている。

「なんでこんな目に…」

 こう思うのは生まれてから何度目だろう。今年で八〇歳になるこの老人、エリヤ・フィリップスの人生は不運の連続だった。自由惑星同盟が健在だった宇宙暦七六八年に生まれた彼は十八歳でハイスクールを卒業して二年間のアルバイト生活の後に徴兵された。エル・ファシル星系警備艦隊司令官アーサー・リンチ少将の旗艦グメイヤに配属されたのが転落の始まりだった。

 エル・ファシルに帝国軍が迫ってくると、恐怖に駆られたリンチ少将は民間人を保護するという任務を放棄して直属の部下を連れて逃走した。リンチ少将の旗艦の乗員だったエリヤもわけのわからないうちに共に逃走することになったが、帝国軍の警戒網に引っかかって捕虜になってしまう。捕虜収容所ではエリヤ達は看守からも他の捕虜からも「卑怯者」と蔑まれていじめ抜かれたが、いつか祖国に帰るという希望を支えに耐え抜き、九年目に捕虜交換でようやく帰国を果たした。しかし、本当の地獄はここから始まる。

 捕虜収容所から生還した者は普通なら勇者と賞賛されて一階級昇進と一時金を受け、他にも様々な恩典に浴することができるが、守るべき民間人を見捨てて逃亡した卑怯者はその例外だった。エリヤは犯罪歴と同等に扱われる不名誉除隊処分を受け、恩典にも浴することができなかった。

 ネットでエル・ファシルの逃亡者リスト」なる写真付きのリストが出回り、エリヤも吊るし上げの対象になった。外を歩くたびに通行人から罵声を浴びせられた。数少ない友人には絶縁を言い渡された。極右組織の構成員に街角で殴られて土下座させられた。リンチを受けて骨折したのに冷笑を浮かべた警官に「お前が悪い」と言われて被害届を受け付けてもらえないこともあった。家の壁には「卑怯者」「非国民」と落書きされた。近所の店はエリヤとその家族に物を売らなくなり、遠くの店でコソコソ買い物するしか無かった。家族には毎晩「なんで帰ってきたんだ。死ねばよかったのに」と罵られた。仕事を探しても、「エル・ファシルの逃亡者」と知れた途端に落とされた。七九九年の帝国軍侵攻に際して志願兵として軍に再入隊してようやく仕事にありついたが、そこでもさんざんいじめられて四か月で逃げ出した。

 仕事に就けず家にも帰れなくなったエリヤはすっかり身を持ち崩してしまい、置き引き、万引き、違法な商売の下働きなどで小銭を稼いでその日暮らしをするようになった。同盟が滅亡した頃にはエル・ファシルの逃亡者への差別はだいぶ薄れていたが、酒や麻薬にどっぷり漬かってしまっていたエリヤはまっとうな暮らしに戻ることはできず、つまらない犯罪で刑務所に出入りを繰り返した。やがて重度のアルコール中毒と麻薬中毒に苦しむようになり、何度か精神病院に入院した。自殺未遂も経験している。

 長く苦しい治療の果てにアルコール中毒と麻薬中毒を克服した頃には六〇歳を過ぎていて、エリヤに残されていたのは乱れた生活やリンチの後遺症でボロボロになった肉体と、知識や経験をまともに積み重ねてこなかった頭脳のみ。福祉施設に収容され、現在は十字教の救貧院で生活している。一般的な収入がある人々から見れば救貧院の生活は貧しかったが、エリヤにとってはようやく得た安息だった。救貧院の老人達はいずれも苦労をしすぎて心を閉ざしてしまった人々であり、職員達は哀れみはあったものの一人の人間としての興味を入院者に抱くことはなかったから、他人と親しく接することはなかったが、人間と接することがもはや苦痛でしかなかった彼にとってはむしろ快適だった。

 刑務所で身につけた読書の習慣のおかげで、一人でも充実した時を過ごすことができる。最近はローエングラム朝の建国者である獅子帝ラインハルトや自由惑星同盟末期の英雄ヤン・ウェンリー元帥といった同時代の英雄の活躍を記した本がお気に入りだった。それでも、外に出て本の外の世界に触れると惨めな自分を思い知らされる。

「エル・ファシルで逃げなければ良かった」
「いっそ死ねば良かった」

 エル・ファシルで逃げて汚名を負ってから不遇の六〇年を生きたエリヤ老人は泣き続ける。涙のせいか、傷の痛みのせいか。次第に目の前がぼんやりとしていく。 

 

第一章 始まりの地 エル・ファシル
  第二話:夢の始まり ???年?月?日 ??????

「おい!」

 いきなり後ろから右肩を強く叩かれた。うつ伏せで倒れていたはずだったのにいつの間にか立ち上がっていたらしい。傷の痛みもない。どういうことなのだろう。

「おいってば!」

 もう一度肩を叩かれて振り向くと、旧同盟軍の軍服を着た男が立っていた。二十代前半ぐらいだろうか。一瞬ビクッとしてしまったが、俺に暴行を加えてきた男と違って敵意は感じられない。背は高いがひ弱そうだ。優しそうな顔をしていて、極右団体に所属しているような人間とは雰囲気が明らかに違う。何者なんだろうか?最近は旧同盟軍の軍装が流行っているのか?嫌だな。軍服も軍人も大嫌いなんだけどな。ひどい目にあったから。

「どうしたんだよ。ジロジロ見るなよ」

 若い男は困った様子で俺を見ている。なんでお前が困っているんだ?俺も事情が飲み込めなくて困ってるんだぞ。それにしても空が真っ白だな。早朝か?こんな時間になるまで倒れていたのか?誰も救急車呼ばなかったのかな。まあ、痛みがないからいいけど。

「あと一時間で出発だってさ。早くシャトルに乗ろうぜ」

 出発?シャトルに乗る?何のことかさっぱりわからない。

「なあ、エリヤ。いつにもまして間抜け面だぞ。どうしたんだよ?」

 俺をファーストネームで呼んだ。何者だ、こいつ?自慢じゃないけど、この六〇年、ファーストネームで呼んでくれるような相手はいなかったぞ。孫のような年齢の知り合いもいない。馴れ馴れしくされる筋合いがない相手に馴れ馴れしくされると警戒してしまう。他人にとっての俺は無視しなければ侮蔑するしかないような存在だからな。

「おい、何か言えよ」

 黙ってる俺を見て、若い男はますます困惑した表情になった。なんでお前が困るんだ。俺の方がもっと困ってる。とにかく状況を把握しようと思い、若い男を無視してあたりを見回す。

 宇宙港にあるような建物が沢山並んでいた。それも相当大きな宇宙港らしく数百隻のシャトルが並んでいる。よく見ると全部濃緑に塗装されている。旧同盟軍の色だ。なんだここは?まるで昔の同盟軍の軍港みたいじゃないか。地上車もたくさん停まっていて、全部濃緑色に塗られている。さらに見回すと、案内板が目に入った。

『エル・ファシル』

 エル・ファシル?!どういうことだ?夢でも見てるのか?

「早く行こうぜ。あのパン屋の子可愛かったよな。せっかくいい感じになってたんだから、気になるのもわかるよ。でも、その子のために残るわけにもいかないだろ?俺らも軍人なんだから、命令が優先だよ」

 パン屋の子…。ああ、そういうこともあったっけ。警備艦隊の基地の近くのパン屋で働いてた女の子と仲良くなって、休みの日に遊びに行ったこともあったっけ。もう六〇年前の話だ。女の子といい感じになったのがあれで最後だったなんて、あの時は思わなかった。

 あれ?残るわけにもいかない?俺らも軍人?
 
 もう一度案内板を見る。やっぱり『エル・ファシル』だ。

「んーと、つまり、俺はエル・ファシルから、逃げようとしてるの?」
「そだよ。今さら聞くことじゃないだろ。ほんと、ぼんやりしすぎだよ」
「俺って確かグメイヤの乗組員だったよね?リンチ司令官の旗艦の」
「あたりまえだろ。今日のおまえ、ちょっとおかしいよ」

 若い男は呆れたように答える。ということはまさか…。ありえないとは思うけど。思うけど念の為に自分の体を見た。同盟軍の軍服を着ている。顔を触った。ツヤツヤした肌。頭を触る。ふさふさした髪。指を動かす。リンチの後遺症で曲げにくくなってた左手の指がすんなり曲がる。右腕をまくる。志願兵だった時に他の兵士に押し付けられたタバコの跡がない綺麗な腕。「あーあー」と声を出す。しわがれてない声。体が若い頃に戻っている!ポケットをまさぐる。携帯端末が出てきた。骨董品のような旧式だ。日時表示を見る。

『788 5/15 5:50』

 七八八年五月。ここは六〇年前のエル・ファシルなのか!?すべてのつまづきの元。一生消えない「逃亡者」のレッテルを貼られた場所。俺はなんでここにいる?夢なのか?思い切り頬をつねった。痛い。右足で左足を思い切り踏んだ。痛い。痛すぎて涙が滲んでくる。随分とリアルな夢だな。ここで逃げなければどうなるんだろうか。逃げなければ有り得たはずの人生を経験できるのか。夢でもいい。エル・ファシルの逃亡者と呼ばれない人生を生きられるのなら。

「エリヤ、いい加減に…」
「逃げねえよ!」

 俺は反射的に叫ぶと若い男を振りきって駆け出し、乗り物を探した。人が乗ったまま停まってるのがいい。すぐに走り出せる。パトロール用と思しきエアバイクに跨ってタバコを吸っている男を見つけた。これだ!

「貸せや!」

 素早く近づいて男の服を掴んで地面に引きずり落とすと、エアバイクに乗り込んで全速力で走りだす。大騒ぎになっているが、そんなのは知ったことじゃない。出発まで時間がないのなら、リンチ少将の部下が追いかけてくる心配もないだろう。

 宇宙港を抜けて山道に入る。案内標識を頼りにエル・ファシルの市街地を目指す。この夢が六〇年前のエル・ファシルそのままなら、「エル・ファシルの英雄」ヤン・ウェンリーが市内で民間人脱出の指揮をとっているはずだ。かつての俺は彼の存在を知らなかった。上官に言われるままに逃げて捕虜になった。夢の中の俺は全てを知っている。人生は何一つ思い通りにならなかった。せめて夢の中では思い通りにしてやろうと思った。 

 

第一章 始まりの地 エル・ファシル
  第三話:戸惑いの朝 宇宙暦788年5月15日 エル・ファシル市

 エアバイクで山道を抜けた頃にはすっかり日が高くなっていた。目の前には平原が広がり、田畑と住宅が点在している。何の個性もない郊外の風景なのに美しいと思った。こんな気持ちで風景を見るなんて何十年ぶりだろうか。俺は逃亡者じゃない。そう思うだけで世界が光り輝いて見える。さらにエアバイクを走らせると、どんどん田畑が少なくなって家が増えていく。やがて家も減ってビルが増え、気がついた頃にはビルばかりになっていた。この辺りがエル・ファシル市の中心街だろう。ほとんど人通りがないのは外出禁止令が出ているからだろうか。頭上で轟音が鳴る。見上げると軍用シャトルが列を成して飛び立っていた。思わず顔や腕を触り、目をこすった。確かに俺はここにいる。あの中に自分がいないことを確認してホッとした。

 ここで重要な事に気づく。俺はエル・ファシルの英雄ヤン・ウェンリーがこの街のどこにいるか知らない。エアバイクを停めて、どうすればヤンと一緒に脱出できるか思案していると、中年の男が近づいてくる。なんだかすごい殺気を感じる。これは近寄っちゃいけない人だ。逃げようと思ってエンジンを掛けようとしたけど、男が俺に掴みかかる方が一瞬早かった。

「どういうことだぁ!!おらぁぁぁ!!」

 夢の中でも俺は絡まれるのか?ていうか、こいつは何怒ってるんだ?

「ありゃどういうことだぁぁぁぁぁ!!説明しろぉぉぉ!!!」

 男は空を指差す。その先には飛び立っていく軍用シャトルの列。ああ、あれに腹を立ててたのか。気にすることないのに。どうせあいつら逃げ切れないんだから。ヤンに着いて行けばあんたも俺も無事に帰れるんだから。

「大丈夫ですよ。大丈夫ですから…」
「何が大丈夫だ!!!てめえのお仲間がみんな逃げてんだろがぁぁ!!!!」
「いや、ですから…」

 男はますます逆上する。勘弁してくれと思った時に男女数人が走り寄って来た。ヤバイ、リンチだ…。逃亡者じゃなくてもそういう運命なのか?泣きたくなる。

「やめろよ。この子に言ってもしょうがないだろ」
「ここにいるってことは置いてかれたんでしょ?坊やだって被害者よ」
「泣きそうじゃないか。かわいそうに」

 他の人達は口々に男をなだめる。あれ、なんか雰囲気が違う。ここって殴られる場面じゃないのか?これまでの人生になかった戸惑っていると、人の良さそうなおばさんが声をかけてくる。

「大丈夫?」
「は、はい…」
「みんなびっくりしてるのよ。いきなり味方が逃げちゃうものねえ」
「まあ、そうですよね…」

 なんか気の抜けた返事になってしまう。この人達と不安を共有できてないからだろうか。

「ごめんね。あなたも不安でしょうに」
「別に…」
「軍の人達も酷いよね。避難計画を若い中尉さん一人に押し付けるわ、ミドルスクール出て間もない子まで置いてけぼりにするわ」

 いや、全然不安じゃないよ。あいつら捕まるから。あと、俺は六十二年前にハイスクール卒業してんだぞ。この夢の時間軸では二年前ってことになるけど。

「不安なんかないですよ。あと、ハイスクールとっくに出てます」

 空気が凍り付き、周囲の視線が一斉に俺に向く。まずい、変なこと言ってしまった。よく考えたら、この人達は未来の展開がわからないんだ。どうしよう、何とか切り抜けなきゃ。

「あ、いや、だからですね。ぼ、ぼ、僕は軍人なんです。市民の皆さんのふ、不安をなくすのが仕事、仕事なのに不安がってちゃいけないでしょ」

 声が震えてるのがわかる。ところどころ言葉がつっかえる。皆の視線がまだ俺から離れない。俺は深呼吸した。

「ぐ、軍人の仕事って市民を。市民を守ることでしょう?当たり前の。当たり前の仕事をするだけなのに。どうして不安になるんですか?」

 エル・ファシルにいることに不安がないのは本当だ。捕虜交換で帰った後に経験した迫害の数々を思い出す。人格を根底から否定する罵倒。そこにいるからという理由だけで振るわれた暴力。それに比べたら恐ろしいことなんかない。仮に「エル・ファシルの英雄」がいなかったとしても。帝国軍から逃げられなくて死んでも、逃げて生き残るよりはマシだ。

「逃げた人達の方がずっと不安じゃないですか?だって、市民を守らずに逃げたって一生言われるんですよ?それに比べたら、ここに残るなんて全然不安じゃないですよ」
「もしかして、君は自分の意志で残ったの?置いて行かれたわけじゃないの?」
「はい。逃亡者になりたくないから残りました。胸を張って帰るために残りました」

「良く言った!」
「えらい!」

 おばさん達の拍手が鳴り響く。歓声が飛ぶ。この騒ぎを見て人が集まってくる。おばさん達が興奮気味に説明するたびに「おお!」と歓声をあがる。逃亡者と言われるのはやだって正直に言っただけだぞ。なんでこんなにみんなはしゃいでるんだ。居心地悪いな。

 皆が次々と俺に握手を求めては褒めそやす。笑顔で握手してる手をブンブン振る女の子もいた。俺なんかと握手して気持ち悪くないのか?捕虜交換で実家に帰ったら、俺が触った場所すべてに妹が消毒スプレー噴きかけてたんだぞ。それぐらい気持ち悪い奴なんだぞ、俺って。

 三十歳前後の大柄な男が握手を求めてくる。俺が手を差し出すと、男は分厚い手で力強く握りながら話しかけてきた。

「君もこれから星系政庁に行くんだろ?私達は住民代表でね。今から行くところなんだ。君も一緒に行かないか?」
「星系政庁?」
「そうだよ。君も戦災対策本部に行くつもりだったんだろ?」

 知らなかった。適当に話を合わせる。

「え、ええ。そうです。何か役に立てないかと思って」
「あの若い中尉も苦労してるだろうからね。きっと力になれるよ」
「なんて人でしたっけ?」
「中華系っぽい名前だったなあ。なんだったか」
「ヤン…?」
「それだ!ヤン中尉だ!」

 やはりエル・ファシルの英雄がいたのか!本当にあの時のままだ!心の底から喜びが沸き上がってくる。逃亡者にならずに帰れるんだ。あんなみじめな思いはしなくて済むんだ。

「どうするんだい?」
「行きます!」
「ありがとう。私はこういう者だ」

 男は名刺を差し出す。

『民主平等党 エル・ファシル市議会議員 内科医師 フランチェシク・ロムスキー』

 市議会議員でお医者さんか。若いのに先生って呼ばれる仕事を二つもやってるなんて凄いな。こんな偉い人にいきなり声かけられるなんて夢みたいだ。まあ、夢なんだけど。

「エル・ファシル警備艦隊所属、エリヤ・フィリップス一等兵です!」

 偉い人に失礼のないように精一杯胸を張って敬礼する。元気だね、とロムスキー先生は目を細める。周りの人達もクスクス笑う。張り切りすぎて痛い奴と思われたかな。

「照れてる。かわいいー」
「エリヤくんていうんだー」

 そんな女の子達の声も聞こえてくる。なんなんだよ。本当は気持ち悪いとか思ってんだろ。わかってんだぞ。六〇年前だってハイスクール行ってるような子にかわいいって言われるような年じゃねえぞ。だから、人前に出るのやなんだよ。勘弁してくれよ。

「ははは、人気者だね。行こうか」

 ロムスキー先生はのんきに笑うと歩き出した。彼の仲間と思しき数人がそれに続く。俺もその後を追う。目指すは星系政庁。そこにエル・ファシルの英雄ヤン・ウェンリーがいる。 

 

第一章 始まりの地 エル・ファシル
  第四話:言葉の魔術師 宇宙暦788年5月15日 エル・ファシル星系政庁

「良くも俺たちを騙してくれたな!」
「出発を引き伸ばしたのはこういうことか!」
「ヤン・ウェンリー出てこい!」

 エル・ファシル星系政庁前では軍の責任を追求する怒声が飛び交ったいた。警官が群衆と庁舎の間に肉体の壁を作っているが、一歩間違えば群衆が暴徒と化しかねない雰囲気がある。さっき俺に掴みかかった男が何百人もいるような状況だ。軍人が出てこないのは群衆を刺激したくないからだろうか。

「参ったね。予想以上だ」

 ロムスキー先生はため息をつく。

「なんでみんなヤン中尉に怒っているんですか?悪いのは逃げた人達だけでしょう?中尉はみんなが逃げられるよう頑張ったじゃないですか」
「脱出の準備はとっくにできていたんだ。けど、中尉がまだ早いと言って出発に反対した。その結果がこれだ。みんなを騙して司令官が逃亡するまで時間稼ぎしたと受け取られても無理は無い」
「先生もそう思ってるんですか?」
「い、いや。そんなことは…。正直言うと、ちょっとだけ考えた…」
「そんなわけないでしょう!」

 つい大声を出してしまう。騒いでいる人達の視線が俺たちに集まる。

「見ろよ。軍服着た奴がいるぞ」
「俺達を見捨てておいて良くもノコノコと」
「許せねえな」

 冷静に考えたらここにいる軍人はリンチ少将に見捨てられた者だけなのだが、群衆はパニックになってそこまで頭が回らないのだろう。軍人というだけで怒りをぶつける対象になってしまう。それがエル・ファシルの英雄に対する怒りや俺に対する非好意的な声に繋がっている。この混乱をエル・ファシルの英雄はどうやって切り抜けたんだろう。

 急に大きなチャイム音が流れ、庁舎前のスクリーンから放送が流れた。騒いでいた群衆は静まり返る。

「只今より緊急戦災対策副本部長ヤン・ウェンリー中尉の緊急会見が始まります。手近なソリビジョン、端末をごらんください」

 政庁庁舎の壁に据え付けられた大きなスクリーンが明るくなった。エル・ファシルの英雄ヤン・ウェンリーが映し出される。記憶の中の彼と全く同じだ。すべてを見抜いているかのような瞳。何者にも動じない落ち着いた表情。夢だから変なふうに変わっている可能性も考えたけど、ちゃんと作りこまれているようで安心した。

「司令官の逃亡についてどうお考えですか?」
「軍は市民を見捨てたという声がありますが!?」
「脱出を延期なさったのは中尉の判断ですよね?司令官の逃亡との関係を疑われても仕方がないのではないですか?」

 記者の厳しい質問が飛び交うが、ヤン・ウェンリーは答えない。こほんと小さく咳払いをしてから、穏やかな口調で語り始める。

「明日の正午に脱出します。市民の皆さんは今から準備を始めてください」
「明日ということですが、護衛無しの脱出になるのですか?」
「そうです」
「司令官の逃亡の翌日に脱出を決定された理由は?」
「最初からそのつもりでした」
「中尉は司令官が逃亡するのをご存知だったのですか!?」
「知りませんでしたが、予想はしていました」

「予想していただと!」
「やっぱり奴らのために時間稼ぎをしていたのか!」

 報道陣からも怒声が飛ぶ。しかし、ヤン・ウェンリーはまったく動じずに言葉を続けた。

「心配いりません。司令官が帝国軍の注意を引きつけてくれます。レーダー透過装置など付けずに悠々と脱出できますよ」

 司令官を囮にするという大胆すぎる発言にどよめく報道陣。

「そ、それは司令官を囮にされるということですか…?」
「そう受け取っていただいてかまいません。私の任務は市民の皆さんを無事に脱出させることです。必要な手は打ちました。以上です」

 そう言うとヤンはさっさと退席し、放送は終わった。騒いでいた市民はすっかり静まり返る。映像では何度も見た場面だった。その時は当たり前のことを言っているように聞こえた。実際、俺は司令官に従って帝国軍の捕虜になったんだから。

 しかし、実際にその場で見るとヤンの凄さがわかる。司令官の逃亡に激怒する市民に対し、あらかじめそれを予測していたこと、おかげで安全に逃げられるという見通しを述べ、事態が全て掌にあることを示し、不安を一瞬にして取り除いてのけたのだ。朝食のメニューについて話すかのようなのんびりとした口調も安心感を与える。

 俺の知るヤンは不可能を可能にする用兵の魔術師と言われていた。しかし、目の前のヤンは言葉の魔術師と言うべき存在だった。背筋に戦慄が走る。言葉ひとつで世界を変えてしまう。英雄とはこういう存在なのか。

「顔色が悪いけど、どうしたんだい?」

 ロムスキー先生の声で我に返った。

「だ、大丈夫です」
「そうか。騒ぎが落ち着いたことだし、対策本部行こうか」
「は、はい…」

 ロムスキー先生とその仲間の後について政庁庁舎の中に入る。正直気が重い。ヤンの前に立って平常心を保てる自信がなかったからだ。あの時代の同盟に生きた俺にとっては、ヤンは偉人の中の偉人だ。戦えば百戦百勝。策を立てたら百発百中。癖のある男達も彼を見るとことどごく膝を屈する。リアルタイムでヤンを知らない世代は「八月党のゴリ押しによる過大評価」「ヤンの実力ではなくてユリアンの筆が凄い」などと言うが、そんなのは戯言だ。獅子帝自ら率いる十四万隻の大軍を一個艦隊で押し返したことも知らないのだろう。ヤンは生きている間から神話の中の存在だったのだ。そして今、ヤンの凄さをこの目で見た。あんな偉大な存在の前に俺ごときが立っていいのかと思う。

 ロムスキー先生が受付で名前を名乗って対策本部への取り次ぎを頼む。係員に「そちらの方は?」と聞かれると、先生は俺のことを紹介する。

「彼は警備艦隊の兵士だ。この星から逃げることを潔しとせずに市民とともに残ることを選んだ。力になりたいと言ってくれている」

 なんですか、その模範的若者は。晒し者にする気ですか。やめてください。恥ずかしい。

 係員は目を丸くして「待ってください」と上ずった声で言うと、端末で何やら話している。しばらくすると作業服を着た男二人が走ってきて、「ちょっとお話を伺いたいのですが」と言う。彼らは俺とロムスキー先生を別室に通し、先生の仲間は部屋の前で待つことになった。

 二人は政庁の課長やら参事官やら、とにかく偉い人らしい。俺とロムスキー先生にいろいろ聞いてくる。俺が何者か、なんでこの星に残ったか、など。街で俺が何を言ったのかをロムスキー先生が語ると、目を輝かせていちいちうなづく。話が終わると、男の一人が言った。

「フィリップス一等兵。これから記者会見を開こうと思うんだ。出席してくれないか?」
「僕が記者会見…?」
「そうだ。逃走を潔しとせず、この星に留まった勇敢な若者を皆に紹介しようと思ってね」

 この人目が悪いのか?メガネかけてるのに。度数が合ってないのかな?俺がそんな立派な奴じゃないぞ。ロムスキー先生が立派だから、俺まで立派に見えてるだけだぞ?

「勇敢な若者って僕のことですか…?」
「他に誰がいるんだね。君が語った覚悟は本当に素晴らしかったよ。ロムスキー議員から聞いてるだけでうれしくなった。実際に聞いた人達はもっとうれしかったろう。エル・ファシルのみんなに同じ気持ちを共有して欲しいんだ」
「そんな特別なことは言ってないですよ。当たり前のことを言っただけで…」
「勇敢な上に謙虚なんだね。ますます気に入った。でも、今の我々にはその当たり前が何より嬉しいんだ。市民はリンチ司令官の逃亡に大きなショックを受けている。見放されたのかと絶望している。ヤン中尉の会見で落ち着いたが、もうひと押し欲しい。逃げることを拒んで市民のために残った君がいる。それ自体が我々は見放されていないという力強いメッセージになる」

 逃亡者って言われるのが怖いだけだよ。あの地獄を知ってたら、誰だって逃げないよ。特別なことしたわけじゃないんだってば。

「みんな希望がほしいんだ。信じたい。大丈夫と誰かに言って欲しい。ただ1人、自分の意志で残った君にしか言えない言葉だ。君の言葉はみんなに力を与える」
「何を言えばいいんですか。そんな立派なこと言えませんよ」
「ありのままの気持ちを語って欲しい。街で覚悟を示した時のようにね」

 いやだから、あれは覚悟じゃなくて。もっと汚いもんだよ。蔑まれたくないってだけだよ。

「頼む、引き受けると言ってくれ!」

 そんな目で見ないでくれ。期待しないでくれ。断れないじゃないか。

「やります。やらせてください」
「ありがとう。今から軽く打ち合わせをしよう。2時間後に会見を開く」

 恐ろしいことになってしまった。ジュニアスクールの学芸会の芝居より大きな舞台に立ったことがない俺が記者会見でエル・ファシルの三〇〇万人に向けてメッセージを送るなんて。いくら夢だからって、無茶苦茶にも限度がある。 

 

第一章 始まりの地 エル・ファシル
  第五話:自分じゃない自分がいる 宇宙暦788年5月15日 エル・ファシル星系政庁

 記者会見場には報道陣が並んでいた。三〇〇万人しか住んでいないど田舎のエル・ファシルでも記者やらカメラマンやらは結構いるんだなあとどうでもいいことを考えている。どうでもいいことを考えて気を逸らさないと、プレッシャーで死にそうになる。

「それでは、只今より会見を始めます。こちらはエリヤ・フィリップス一等兵。自分の意志でエル・ファシルに留まった勇敢な若者です」

 司会者が俺を紹介する。別人の紹介をされてるみたいだな。みんな失望しないかな。大丈夫かな。

「はじめまして。エリヤ・フィリップスといいます」

 ペコリと頭を下げる。記者達から質問が飛んでくる。変な受け答えにならないように気をつけなきゃ。

「フィリップス一等兵はなぜエル・ファシルに留まることを選んだのですか?」
「逃げたくなかったからです」

 よし、つっかえないで喋れた。いいスタートだ。

「逃げたくなかったというのはどういうことでしょうか?」
「僕たちは軍人ですよね。市民を守るのが仕事なのに自分だけ助かろうと思って逃げたら、卑怯者って言われるでしょう?それが嫌なんです」

 スラスラと言葉が出てくる。さんざん卑怯者と言われた。辛かった。だから、二度と言われたくない。その思いが舌を滑らかにする。

「軍人のプライド、ということでしょうか?」
「違います。怖いんです。逃げちゃいけないところで逃げたら、一生前を向いて歩けなくなる。人から責められ、自分で自分を責めて。自分はなんて酷い人間なんだと思いながら生きるなんて怖くてたまらないですよ」

 帝国の収容所での白眼視。捕虜交換で帰ってからネットに書き込まれた中傷の数々。家族や友達からの拒絶。逃亡者と知れるたびに受ける罵倒、暴力。どんな目にあってもひたすら頭を下げ続けるしかなかった。やれと言われたら土下座だってした。靴だってなめた。辛い思い出が頭をよぎり、しぜんと言葉に力がこもる。

「フィリップス一等兵は帝国軍は怖くないのですか?」
「あいつはエル・ファシルで市民を見捨てて逃げた卑怯者だって一生後ろ指さされることに比べたら、全然怖くありません」

 優しかった家族が、友達が怖い顔で責めてくる。どこに行っても糾弾に脅えないといけない。救貧院に収容されるまで、安らかに眠れる日は一日たりともなかった。生物的には生きていても、社会的には死んでいた。それに比べたら、怖いものなんか何もない。

「リンチ司令官達についてはどう思いますか?」
「かわいそうだと思います。死ぬまで逃げたって言われるから」

 リンチ司令官達が逃げたせいで俺も逃亡者と呼ばれることになったけど、不思議と怒りは感じていない。逃げたらどうなるかわからなかったんだから。すべての人に卑怯者と罵られて、終わることのない後悔の中で生きたはずだ。同じ苦しみを味わったであろう仲間と感じる。

「フィリップス一等兵の受け答えは落ち着いてらっしゃいますね。不安は感じていないんですか?」
「市民を見捨てずに済んだ。胸を張って帰れる。そう思えば不安なんて全然ありません」

 やっと六〇年間の後悔を取り返したんだ。恥じることなど何一つない。人目を恐れる必要もない。不安なんてあるわけないじゃないか。

「脱出は明日の正午ですが成功すると思いますか?」
「はい。無事に帰れると信じています」

 はっきりと言い切ると、「おおっ」と大きな声があがった。割れるような拍手。たくさんフラッシュが焚かれる。音と光の洪水に気絶しそうだ。

「フィリップス一等兵の記者会見を終わります」

 司会者がそう告げてようやく終わった。頭がクラクラするが、何とか倒れずに退席することができた。

 記者会見が終わると控室に入り、ソファーで横になって休む。今日一日分の気力体力を使い果たした感じだ。しばらくすると、俺に記者会見に出るように言った参事官のおじさんが入ってきた。俺は慌てて立ち上がろうとしたが、参事官は首を横に振って「いいよ」のジェスチャーをしたので横になったままでいた。

「お疲れ様。良くやってくれた」
「あれで良かったんですか…?」

 恐る恐る聞いてみる。がっかりさせたんじゃないかと不安だ。

「期待以上だよ。対策本部にも勇気づけられたって市民の声が沢山届いてる。特に無事に帰れると信じているって言い切ったところが反響大きくてね。内容も良かったけど、落ち着きがあったのも良かったね。あれで安心したって人も多いんだ」
「いや、もうビビってビビって頭のなかが真っ白でしたよ」
「謙遜しなくてもいいさ。演劇部か弁論部でもやってたんだろ」
「いえ…」
「仕込みじゃないかって言う記者もいたよ。絵になりすぎてたんだとさ。あんないい役者を咄嗟に用意するような芸当が我々に出来ると思っていたのか、君が政府をそこまで評価していたとは思わなかったと言ってやったがね」

 参事官は上機嫌で笑った。どう反応していいかわからず戸惑う。自慢じゃないけど、ジュニアスクールの頃からいつも「何言ってるかわからない」って言われてたんだぞ。台本にして一行以上喋るとつっかえるから、学校の劇ではセリフの無い役しかもらったことがなかったんだぞ。喋りでべた褒めされるなんて、自分じゃないみたいだな。

「ところでヤン中尉が君に助手になって欲しいって言ってるんだが、お願いできるかな。調子良くなってからでいいけどね」
「ヤ、ヤ、ヤン中尉が!!!!」

 今度はあの偉大なヤン・ウェンリーに名指しで求められてしまった。もう、本当に無茶苦茶だ。夢って自覚しながら夢を見てると、ついていくのが大変だよ。

「疲れてるなら私から断っておくが」
「元気になりました!元気です!」

 俺は跳ねるように立ち上がり、声を張り上げた。あんな偉大な存在の前に俺ごときが立つなんて畏れ多い。嫌でも自分の卑小さを思い知らされるだろう。できれば避けたいが、身近で見てみたいというミーハー根性もある。俺って本当に小者だな。情けなくなる。ヤンみたいな超越した人ならこんな下らないこと考えないんだろうな。俺が自分の小物ぶりを脳内で嘆いていると、参事官が開いたままのドアの方を向いて、「引き受けてくださるそうですよ、中尉」と言う。のっそりと人が入ってきた。

 中肉中背。収まりの悪い黒髪。しまりのない表情。猫背気味の姿勢。よれよれの軍服。初めて肉眼で見るヤン・ウェンリーは映像や本の中の颯爽とした姿とは似ても似つかなかった。昼に言葉ひとつで市民の不安を抑えてみせた時の不思議な説得力もない。どこからどう見ても「冴えない奴」としか言いようがなかった。

『大勇は怯なるが若く、大智は愚の如し』と何かの本に書いていたのを覚えている。本当の勇者は臆病に見え、本当の知恵者は愚か者のように見えるということだ。全宇宙を相手取って一歩も引かなかった勇気。獅子帝すら手玉に取った知謀。それを冴えない容貌のうちに秘めるヤンの底知れない器量に震えた。本を読んでなかったら、ヤンを見かけで判断して侮っていたかもしれない。教養って大事だな。刑務所で読書の習慣を身につけて良かった。

「よろしく」

 ヤンは息をするのもめんどくさいといった風情で声を出す。そっけないけど、雲の上の人に親しみを示されても困る。意識されてない方がこちらとしてもやりやすい。あり得ないことだけど、ちょっとでも褒められていたら卒倒しているところだった。

「よろしくお願いします!」

 びしっと敬礼して返事をする。ヤンは興味なさそうな顔で俺を見た。ホッとする。これなら何とかやっていけるかもしれない。 

 

第一章 始まりの地 エル・ファシル
  第六話:未知に飛び立つ日 宇宙暦788年5月16日 エル・ファシル星系政庁

 ヤンは俺なんか眼中にないかのようにふらふらと歩いていた。軍人とは思えない歩調だけど、連日の激務で疲れているのだろう。並んで歩くなんて畏れ多い。数歩さがってついていく。

 控室からヤンの部屋は遠いらしく、かなり長い距離を歩いていた。その間、ヤンは一言も言葉を発していない。俺は小心者だ。沈黙に弱い。いつもなら「嫌われてるんじゃないか」と心配するところだが、ヤン相手ならその心配はない。彼は社交辞令を嫌うと本に書いていた。すれ違う人が「見ていたよ」「頑張れよ」と声をかけても、ヤンは一切返事をしない。凡庸な感想だけど、夢の中でもヤンはヤンだ。無茶苦茶な展開の中でもヤンだけはお約束通りに動いてくれるありがたい存在だ。

「私はこれから寝る。荷物を整理しておいてくれ」

 部屋に入ると、ヤンはそう言ってソファーに横になり毛布をかぶった。すぐにスースーと寝息が聞こえてくる。口を挟む隙も与えない早業だった。

「ひどいな、これ…」

 部屋を見回した俺はあまりの惨状に呆れた。弁当やインスタント食品の容器が無操作に床に捨てられていた。書類はわざとぶちまけたかのように部屋中に散らばっている。下着や靴下も脱ぎっぱなし。床が見えない。机の上には本が山のように積まれて塔のようだ。本の塔の間に鎮座する事務用端末は電源がつけっぱなし。いちいち電源を切るのが面倒なのだろう。端末のキーボードの周りにはビニール袋や紙くずが積み重なっている。

 ヤンは整理整頓をしないというのも本で読んだ。かのユリアン・ミンツがヤンの養子になった時も最初に部屋の片付けをしたという。知識としては知っていても、ヤンが散らかした部屋を実際に見るとドン引きしてしまう。単に散らかってるというレベルではない。ゴミ溜めだ。ヤンがさっさと寝てしまったのは正解だった。これを見れば、誰だってツッコミを入れずにはいられないだろう。名将は引き際をわきまえているというが、日常でもヤンの引き際は絶妙だった。

 どこから手を付けていいかわからなかったが、出発は明日の正午だ。迷っている時間などない。まず、机の上を片付けることから始める。紙くずをゴミ袋に放り込んでいると、フライドチキンの食べかすが出てきた。

「うわっ…」

 思わず顔をしかめてしまう。さすがにこれはないと思った。なんか酸っぱい臭いがすると思ったけど、気のせいじゃなかったんだな。この分だと部屋のあちこちに腐った食べかすがあるに違いない。

 普通に考えたら、ここまで部屋を汚くしたのに荷物の整理を他人に押し付け、自分だけさっさと寝てしまうなんて最悪のダメ人間だ。何も知らなかったら、「なんて自分勝手な奴なんだ」と腹を立てたに違いない。しかし、これがヤンであればむしろ当然のことだと納得できる。彼はいつも寝てばかりいたが、いざ戦いになると不眠不休で指揮をとっても判断がまったく狂わなかったそうだ。彼にはこれから脱出船団を指揮するという大仕事が待ち受けている。荷造りなどという些事を他人に委ね、自分の体力を温存するのがヤンの意図なのだ。ヤンにとっては体力も戦時に備えて節約すべき戦力なのだ。なんと合理的なのだろう。俺とは生きる次元が違いすぎる。小物には小物にふさわしい役割がある。ヤンを荷造りなどという些事に煩わされないようにする。それが今の俺が成すべきことだ。頑張らねば、と思った。

 なぜか棚の上にあるパンツ。なぜか弁当の容器の中に鎮座している携帯端末。そういったものを見るたびに心が挫けそうになった。自分は何をしているのかと思った。ユリアン・ミンツもこういう思いを何度となくしたのだろうか。「ヤン神話の伝道者」「八月党にゴリ押しされてる」ぐらいにしか思っていなかったし、彼の間違った判断がハイネセンをあんなふうにしてしまったことを思うと良いイメージは抱けなかったんだけど、ようやく評価される理由を理解できたような気がする。ゴミと荷物をし、貨物として運ぶべき荷物を箱に詰め、手回り品をカバンに詰める。そんな作業をひとり進めていった。

「起きてくださーい」

 女性の声。いつの間に寝てしまっていたのだろう。ぼんやり考えていると、体を揺すられる感触がする。

「もうすぐ出発ですよー」

 出発!?もうそんな時間なのか。驚いて目を開けると、係員っぽい制服を着た若い女性がいた。年齢は俺と同じ二〇歳ぐらい。金髪のショートカット。可愛らしい小顔に黒縁のメガネが良く似合っている。びっくりするぐらい細いけど、病的という感じは全くなくてとても活発そうだ。

「おはようございます。あと二〇分で宇宙港に出発しますよ」

 あと二〇分!?俺が寝てる間に政庁を引き払う準備しちゃったのか?一番忙しい修羅場だったのにずっと寝てたなんて…。まるで役立たずじゃないか。

「どうしてもっと早く起こしてくれなかったんですか…」
「一等兵は疲れているようだから、出発直前まで寝かしておいてくれって中尉がおっしゃったんですよ」
「ヤン中尉が…!?」

 上半身を起こす。今気づいたが、俺はソファーで寝ていたようだ。毛布もかかっている。この部屋にはソファーは一つしかない。俺はヤンと入れ替わりでソファーで寝ていたことになる。つまり、ソファーに寝かせてくれたのは…

「行きますよ。これ、一等兵の荷物。着替えと洗面用具を用意しました」

 小さなカバンを差し出されて我に返る。そういえば、とっさにエアバイク奪って脱走したから、何も持ってなかったんだよな。精一杯の笑顔を作ってお礼を言うと、カバンを受け取る。

「走れます?時間がないんで」
「は、はい!」

 軽やかに翔けていく女性。ついていく俺。誰もいない廊下に二人の足音だけが響く。こんな勢いで走ったのは何十年ぶりだろうか。驚くほど体が軽い。走っても走っても息切れがしない。まともに体が動くという感覚を久々に思い出す。さすが20歳の肉体だ。

「エレベーターは使えません!階段使います!」
「はい!」

 飛ぶように階段を駆け下りていく女性。俺もつられて駆け下りる。女性の身軽さに驚いたが、それについていける自分にも驚きを感じる。ただ走ってるだけなのにすげえ楽しい。いつの間にか顔が笑っているのに気づく。
 階段を降り切ると再び廊下に出た。女性の走るペースが上がっていく。俺もつられてペースを上げる。あっという間にロビーを抜けて玄関を出る。

「あれです!」

 女性が指さした先には小型バスが止まっていた。エル・ファシル星系政庁とこれでお別れとか思うと、感慨深いものがある。たった一日いただけだけど、逃亡者にならなかった人生の初日を過ごした場所だ。これが夢の終点なのか始まりなのかはわからない。夢が続くのならば、俺の人生は未知の領域へと踏み込む。願わくば始まりであって欲しい。そう思った。 

 

第七話:知識の限界、無限の可能性 宇宙暦788年5月下旬 エル・ファシル脱出船団旗艦、駆逐艦マーファ

 エル・ファシルから脱出した船団は一週間近く帝国軍の追撃に怯えながら航行を続けている。俺は成し崩し的にヤンの助手ということになって船団の旗艦である駆逐艦マーファに同乗しているけど、ほとんど口は利いていない。ヤンは艦橋に詰めっぱなしで指揮をとっていて、帰ってくるのは寝る時ぐらいだ。身の回りの世話と言っても着替えの用意とベッドメイクぐらいしかやることがないし、仕事の手助けをする能力もない。そういうわけで俺はとても暇だった。この艦には本来の乗員に加えて民間人が五〇〇人も乗ってるせいか、どこを歩いても人に出くわす。やたらと声をかけられ、写真を撮らせてほしいと言われる。こんな気持ち悪い奴がいるって笑い者にする気なんだろうか。鬱陶しくてたまらないので、食事と助手の仕事の時以外は自室に閉じこもってヤンから借りた本を読んでいた。

 俺が暇なのとは対象的にヤンは多忙を極めている。民間船の船長や軍艦の艦長たちに指示を出し、上がってくる文書に目を通して決裁する一方で不安を訴えてくる民間人に対応する。それらの仕事を全部一人でこなしていたのだ。ヤンがレーダー透過装置を付けなかったのは結果を知っている俺からすれば当然の判断だったが、そうでない人達は不安で不安でたまらなかったようだ。寄せ集めの船団一〇〇〇隻を一人で指揮する苦労は想像を絶する。日に日に疲労の色が濃くなるヤン。

 船団には軍艦も混じっている。その艦長はヤンよりずっと階級が高い中佐や少佐だ。それなのになぜヤンが1人で仕事を背負い込まなければならないのか。食堂で朝食を食べていたマーファの艦長を見た時に怒りが爆発した。

「中尉が艦橋に詰めっぱなしなのに、なぜ艦長が食堂でのんびりしているんですか!?食堂で食べる暇があるなら、中尉を手伝えばいいでしょう?あなたもリンチ司令官みたいに全部中尉に押し付けるんですか!?」

 少佐の階級章を付けた三〇代半ばに見える艦長は意外にもまったく怒りを見せず、参ったなあという感じの顔をした。

「坊や、私達は一隻の艦を指揮する方法しか学んでないんだ。数百隻や数千隻の船団を指揮するノウハウを持っているのは士官学校で参謀教育を受けたヤン中尉しかいなくてね。本来なら提督と参謀数人で指揮するような船団を中尉一人に任せてしまってるのは心苦しいよ。でも、私の能力では中尉の補佐を任されても何もできない。かえって足手まといになってしまう」

 それに…、と言ったところで艦長の表情に苦笑が混じる。

「この艦に乗ってる一八〇人の部下と五〇〇人の民間人の命を預かるのもそれはそれで大変でね。中尉に全部押し付けて自分だけ楽してるわけじゃないのさ」

 変なことを言ってしまった、と思った。俺の他に五人ぐらいの下働きを使っていた麻薬の売人だってまとめるのに苦労してた。それを思えば、一八〇人の乗組員をまとめる艦長の苦労なんて想像を絶するじゃないか。まして、全員の命にかかわることなのだ。歴史の本に登場するのは数百、数千隻もの艦隊指揮する提督とそれを補佐する参謀だけだ。艦長なんて提督や参謀の言うことを聞いてれば務まると思ってた。艦長の苦労なんて考えたこともなかった。自分の想像力の乏しさに泣きたくなる。本を読んで少しは賢くなったつもりだったのに何もわかっていなかった。

「申し訳ありませんでした」
「ははは、いいんだよ。私だって艦長になる前はわからなかった。命令するだけで楽な仕事だって思ってたよ。何でもやってみないとわからないね」

 艦長は手の平を左右に振るジェスチャーをして笑った。食事中に何もわかってない若造に絡まれたのに笑って許してくれる。なんて懐の広い人なのだろうか。自分の視野の狭さが本当に情けない。

「泣かなくたっていいじゃないか。坊やはまだ若い。経験していないことがわからないのは仕方ないよ」

 政庁や船内ではさんざん坊や扱いされてムッと来ていたけど、艦長の坊や扱いには何とも思わなかった。八〇年間生きてきて本も色々読んだけど、この人に比べたら確かに坊やだ。ずっと孤独に生きてきた。人と関わった経験が圧倒的に少ない。知識だけでは駄目だ。ちゃんと経験を積まないといけない。きっちり生きて、喜びも悲しみも知らないといけない。切実にそう思った。

「はい」

 涙を拭いながら答える。夢の中だけどやり直すチャンスをもらったんだ。逃亡者にならなければ、それでめでたしめでたしじゃないんだ。頑張らなきゃ。

「いつか人の上に立った時にこんなこと言ってたおっさんがいたなって思い出してくれたら嬉しいな」
「僕が人の上に…、ですか?」
「まだ二〇歳にもなってないんだろ?この先何があるかわからないよ。もしかしたら、代議員や提督になる日が来るかもしれない」

 そういえば帰った後のことは考えてなかった。頑張ったら結果も付いてくるんだよな。この世界の俺は何をやっても侮蔑される存在じゃないから。評価されて人の上に立つ可能性はあるんだ。さすがに代議員や提督はないだろうけど。

「名前を教えていただけますか?」
「私の名前かい?」
「はい。ご指導いただいたこと、絶対に忘れません」
「大袈裟だね。そんなに畏まって聞くほど大層な名前でもないよ。アーロン・ビューフォート。ただのおっさん」

 ビューフォート艦長に深々と頭を下げる。そういえば、艦長はずっと俺を未成年だと思い込んでいた。いつか再会した時に訂正しよう。目標が一つ出来た。そう思った時、チャイム音が鳴る。

「緊急放送です。当船団は友軍のエルゴン星系巡視艦隊と接触。これより友軍の保護下に入り、エルゴン星系の惑星シャンプールに向かいます」

 食堂は爆発するような歓声に包まれた。手を叩く者、拳を振り上げる者、抱擁し合う者。皆それぞれのやり方で喜びを表す。ビューフォート艦長が俺に向けて両手を上げる。俺も両手を上げてビューフォート艦長の両手にハイタッチした。

 その後は艦内をあげてのどんちゃん騒ぎになった。艦長命令で食料と酒を放出し、皆で生きて同盟領の土を踏める喜びを分かち合う。ずっと前に禁酒治療を受けて酒を断った俺はジュースで乾杯した。アルコール入ってないのにテンションが上がってしまって、人につられてわけもわからず大笑いし、知らない人と肩を組んで歌った。女の子数人と意気投合して端末アドレス交換もした。

 三日後、俺達は艦からシャトルでシャンプールの宇宙港に降り立った。そこで待っていたのは港内を埋め尽くすような数の群衆。エル・ファシルからの避難者を激励する言葉が連ねられた横断幕やプラカード。記者、カメラマン、放送車がズラリと並ぶ。軍隊が整列して俺達のために通路を作り、軍楽隊までいる。あまりもの熱烈な歓迎ぶりに腰が抜けてしまった。これから何が始まるんだろうか。 

 

第二章 英雄エリヤ・フィリップス
  第八話:英雄を作る論理 宇宙暦788年5月23日 惑星シャンプール第一警備艦隊基地

 シャンプールに降り立った翌朝。軍の宿舎の個室に泊まっていた俺はエル・ファシル脱出劇関連の報道を見ていた。ソリビジョンを付けると、どの局もエル・ファシル脱出劇の特番を組んでいた。俺がシャトルから降りてきた時の映像が繰り返し流れる。自分の姿なんて見るのも嫌だ。ソリビジョンを消す。新聞を手に取ると、どの新聞も紙面の大半を使ってエル・ファシル脱出劇を報じていた。俺がシャトルから降りてくる写真が一面を飾っている。

「どうして俺なんだよ。ヤンの画像使えよ。あっちが英雄なんだからさ」

 ぼやきながら新聞をめくる。二面には「若き英雄」「同盟軍人の鑑」などという見出しとともに
ヤン・ウェンリーと俺の紹介記事が並んでいる。記事によると、俺の記者会見が不安になった市民を落ち着かせたおかげで脱出計画が成功したのだそうだ。

『僕たちは軍人ですよね。市民を守るのが仕事なのに自分だけ助かろうと思って逃げたら、卑怯者って言われるでしょう?それが嫌なんです』
『あいつはエル・ファシルで市民を見捨てて逃げた卑怯者だって一生後ろ指さされることに比べたら、全然怖くありません』
『市民を見捨てずに済んだ。胸を張って帰れる。そう思えば不安なんて全然ありません』

記事の中では記者会見で語ったこれらの言葉が引用された。リンチ少将は「市民と部下を見捨てて逃げた卑怯者。同盟軍の恥」と糾弾され、俺は「不当な命令に従わずにエル・ファシルに残って市民保護の任務を全うした。同盟軍人精神の真髄を示した」と賞賛された。

 新聞を放り投げ、携帯端末でネットを見る。ニュース系のコミュニティでは「誰が真のエル・ファシルの英雄か」という議論が繰り広げられていたが、ヤンだけが英雄というのが大勢だった。それ自体は正しいと思う。しかし、「地味なヤンだけでは絵にならないから、爽やかキャラのフィリップスをセットにした」っていう意見が最有力説なのには首を傾げた。
 また、なぜか事件の評価と無関係に俺の画像を貼り付けて評価するコミュニティが乱立し、「かわいい」「見た目ならエリヤが真の英雄」などと書きこまれていた。どうやらネットでは俺はルックスが良いということになっているらしい。ミドルスクールやハイスクールでも外見を評価されたことは一度もなかったのにな。
 アンケート系のサイトでは俺が「弟にしたい男性」の第一位になっていた。ちなみにそのサイトではヤンが「結婚したい男性」の一位になっていたので、あてにならないことは明らかだ。

 ある軍事系サイトで「フィリップス一等兵の行為は服従義務違反、抗命罪、逃亡罪にあたるのではないか」という質問を見かけてヒヤっとした。自分の法的扱いなんてまったく考えていなかった。ある日突然軍法会議に呼び出されたらどうしようと思った。恐る恐る回答を読む。

「現在公開されている情報の範囲ではリンチ少将のエル・ファシル離脱は上位司令部の承認を得た形跡がなく、臨時措置として正当化しうる法的根拠も見当たらず、職務上の命令とはみなし難いと思われる。よってフィリップス一等兵の行為は抗命罪を規定する同盟軍法第八十六条の『上官の職務上の命令に服従しない者』に該当せず、抗命罪は成立しない可能性が高い」

「命令服従義務を規定する同盟軍法第三十三条は『軍人はその職務の遂行に当っては、上官の職務上の命令に忠実に従わなければならない』と言っており、職務上の命令ではない違法な命令への服従義務は課していない。よって服従義務違反は成立しない可能性が高い」

「フィリップス一等兵の離脱には違法な命令の拒否という正当な理由があり、離脱当日に司令官が放棄した任務を引き継いだヤン中尉の指揮下に入って本来の職務を継続したため、逃亡罪を規定する同盟軍法第八十八条の『正当な理由がなくて職務の場所を離れ三日を過ぎた者』に該当せず、逃亡罪は成立しない可能性が高い」

 胸を撫で下ろす。自分のしたことにどんな法的根拠があるかなんて考えたこともなかった。俺にとっての法律は「破ったら警察に捕まる」程度のものだった。ちゃんとやり直すには法律のことも学ばないといけないな。夢の中でも法則を無視して思い通りにすることはできないしね。

 そう思いながらサイトを読んでいると、ドアホンが鳴った。画面を確認すると軍用ベレーをかぶった四〇歳ぐらいの男性の顔が映っている。きつい目つき。大きい鼻。厚い唇。角ばった輪郭。ブロンドの髪。不機嫌そうな表情。

「おはよう。良く眠れたかな?」
「どちら様でしょうか?」
「軍の広報室の者だ。いいかな?」

 この表情と口調ではドアを開けた途端に「貴官の逮捕を執行する」と言われそうだ。なんでこんな人が広報室にいるんだろうか。そもそも、広報室の人が俺に何の用だ?考えていても仕方ないのでドアを開けて中に入れる。背は俺よりちょっと高いぐらいだが、肩幅や胸板の厚みが全然違う。

「統合作戦本部広報室のクリスチアン少佐だ。貴官を担当することになった」

 クリスチアン?どこかで聞いた気がする。どこだっけ。それにしても、少佐なんて雲の上の人が俺の何を担当するんだ?

「担当って何の担当ですか…?」
「スケジュール管理、メディア対応などを担当する」
「ちょっと待って下さい、どういうことです?」
「貴官にはしばらくの間、広報活動に従事してもらうことになった。いずれ正式な命令が出るはずだ。しばらくは取材、番組出演、イベントなどで休む暇もないだろうが、これも軍人の大事な任務だ。頑張ってくれ」

 今朝の報道だけでもうんざりなのにもっと騒がれるのか。俺はただ、白い目で見られずに普通に暮らしたいだけなんだ。

「貴官は卑劣な司令官の不当な命令を拒絶し、任務を全うした。同盟軍人の誇りだ。広報官としての最初の任務が貴官の担当であることを小官は名誉に思う」

 少佐は俺の手を力強く握る。手を握られているのに頭が痛くなった。もしかして、この夢は悪夢なんじゃないか。逃げなくても結局不幸になるってことを教えるための悪夢なんじゃないのか。

 宿舎の食堂で昼食をとりつつ、クリスチアン少佐から今後のスケジュールの説明を受ける。これからハイネセンに向かい、統合作戦本部の顕彰式典に出席。その後しばらくは式典やパーティーの予定が詰まっていて、その合間に取材や番組出演の予定を入れていくのだそうだ。思わず溜息が出る。

「まるで芸能人みたいですね」
「貴官は英雄だ。勘違いするな」
「英雄はヤン中尉だけですよ」
「ヤン中尉達だけでは市民の動揺を抑えることはできなかった。中尉の指示を拒否する船長や単独脱出を試みる市民もいた。脱出作戦は破綻寸前だった。貴官の記者会見がなければ抑えられなかった」

 エル・ファシル市民が司令官の逃亡に怒ってたのは知っていたけど、そこまで深刻なことになってたなんて聞いてないぞ。俺の知らない所で何があったんだ。

「そんなことがあったんですか?今知りました。何が起きていたんですか?」

 クリスチアン少佐は驚きの色をかすかに浮かべたが、すぐに表情を戻す。

「軍がエル・ファシル市民を見捨ててリンチだけを脱出させ、ヤン中尉はそのための時間稼ぎをした。市民はそう誤解した。軍が市民を見捨てることなど有り得ないが、不安に駆られた市民にはわからなかったのだ。自らエル・ファシルに残った貴官がいたおかげで不安を抑えられた」

 俺が自分の意志で残ったことをみんな強調するけど、そんなに重要なのか?出発直前にやってきてちょっと喋っただけだぞ。脱出作戦を成功させたのはヤンと軍艦・民間船の乗組員達だ。その場にいた俺にはわかる。成すべきことをした彼らこそ英雄だ。

「反戦派どもは『軍はエル・ファシルを見捨ててリンチを脱出させた。ヤン中尉のおかげで事なきを得たが、軍の責任は追及すべきだ』などと言う。批判するしか能のない奴らめ!誰のおかげで安全に暮らせると思っているんだっ!」

 バーン、と大きな音がした。少佐がテーブルに右手の拳を叩きつけたのだ。食堂の中にいる人達が一斉にこちらを見るが、少佐はおかまいなしに熱弁を振るい続ける。

「軍が市民を見捨てて軍人だけ逃がそうとするなど有り得ん!あるはずがないのだっ!我々は市民を守る最後の盾だ!平和のために命を賭ける!それが同盟軍人の矜持だっ!命惜しさに市民を見捨てるなど軍人のすることではないっ!卑怯者のすることだっ!軍がそのような真似を許すとでも思っているのかっ!」

 またテーブルに拳を叩きつける音がする。今度は両手の拳。少佐が興奮するのに比例して、周りの人達が引いていくのがわかる。

「貴官は記者会見で敵軍より卑怯者と呼ばれることが怖いと言った。 それこそがまさに名誉ある同盟軍人の精神なのだ。小官は録画で記者会見を見たが、感動に胸が震えた。軍人とは貴官のような精神の持ち主なのだ」

 少佐の目に涙が浮かぶ。賞賛されているはずなのに怖い。この人は今の俺を賞賛したのと同じ口でかつての俺を罵倒できる人だと悟った。そして、自分の立場が見えてきたのが怖かった。

 軍はエル・ファシルを見捨ててリンチ司令官だけを脱出させたと疑われている。置き去りにされたヤンだけを英雄にすると、「軍に見捨てられたのに頑張った」と言われ、「エル・ファシルを見捨てた軍は責任を取れ」という批判を招くかもしれない。俺を持ち上げることで、「軍はエル・ファシルを見捨てていないのにリンチは勝手に逃げた。逃げなかったフィリップス一等兵こそ軍の意思に沿っているのだ」とアピールして疑いを晴らしたいんだ。そして、リンチ司令官達を徹底的に悪者にする。
 俺への賞賛とリンチ司令官達への罵倒が表裏一体であることに気づいた時、背筋に冷たいものが走った。

「リンチ司令官達はどうなるんですか…?」
「帰国したら軍法会議にかけられる。リンチは階級剥奪の上で死刑。その他の者は共謀の程度によって死刑または懲役。任務を放棄して逃げ出した卑怯者にふさわしい末路だ。帰国できたらの話だがな」
「事情を知らなくて司令官の命令に従っただけの人も…?」
「ただ従っただけでも違法行為に加担したことに変わりはない。事情を知らないということは罪を軽くはするが、無罪ではない。軍法会議にはかけられず、不名誉除隊処分。生還した捕虜に認められる一階級昇進無しといったところだ」

 捕虜交換から戻った俺は不名誉除隊処分を言い渡された。不名誉除隊者には退職金が出ない。恩給の支給対象にもならない。不名誉除隊は前科とみなされ、履歴書には必ず書かなければならない。あの時は従っただけで不名誉除隊になるのは理不尽だと思った。従ったことそのものが罪。それが軍隊なのか。

 本では「軍規は絶対」「敵前逃亡は死刑」「命令違反は厳罰」などと書いているが、実際に軍規がどう運用されるのかは知らなかった。自分が所属していた場所がどんな論理で動いていたか全然知らなかったんだ。俺には社会経験が足りない。二〇歳からの九年間を収容所で過ごし、帰った後は社会から排除された。ただ生きているだけだった。

「卑怯者には卑怯者にふさわしい報いを与える。それが軍だ。貴官が卑怯者になることが怖いと言ったのは正しい」

 捕虜交換後の俺は確かに報いを受けた。公式には不名誉除隊処分を受けたが、報いはそれに留まらなかった。世間から白眼視され、みんなに縁を切られ、一生を棒に振ってしまった。それなら英雄になった俺はどんな報いを受けるんだろうか?二階級昇進と世間が飽きるまでの注目だけでは済まないはずだ。社会を動かす論理は逃げた俺を排除し、逃げなかった俺を英雄に祭り上げた。祭り上げられた英雄は祭りが終わったらどこに行くんだろう?夢は覚めたらおしまいだけど、覚めなかったらどんな続きがあるんだろう。そんなことを思った。 
 

 
後書き
※同盟軍法の条文は自衛隊法及び旧陸海軍刑法を参考に作成しました。 

 

第九話:虚像は果てしなく大きく、果てしない高みへ 宇宙暦788年9月 同盟首都ハイネセン

 ハイネセンに着くと、俺は一等兵から兵長に二階級昇進した。厳密には上等兵に昇進した六時間後に兵長に昇進したのだけど。ヤンも大尉に昇進した六時間後に少佐に昇進した。生きている人間には二階級昇進は許されないという建前のおかげだ。特別大きい功績を立てた軍人が一階級昇進した数週間後に再び昇進して事実上の二階級昇進を果たすことはあるけど、それだって特例中の特例だ。エル・ファシル脱出作戦に参加した俺とヤン以外の軍人は全員一階級昇進。俺とヤンがどれだけ特別扱いされているかが良く分かる。

 それからは一日で幾つもの記念式典や表彰式に参加し、合間に番組出演やインタビューをこなすという過密スケジュールだった。授与された勲章は四つ。各種団体から受けた表彰は三十四。特に自由戦士勲章授与は大きく報道された。

 自由戦士勲章は味方を助けるために死んだ者に与えられる同盟軍の最高勲章だ。生きて手に入れられるのは単艦で数十隻の敵艦を突破して生還するような人外ぐらい。俺は人外の域に達していると公式に認められたことになる。自分の虚像がどんどん膨らんでいくのが恐ろしかった。それも軍の都合で膨らまされているのだ。

 表彰が一段落すると、合間にやっていた番組出演やインタビューがメインの仕事になった。気の利いたことも言う頭もなく、勇壮なことを言う胆力もない俺は、できる限り真面目に答えることだけを心がけたのだが、世間は英雄に機知よりも誠意を期待していたらしく、俺の発言は好意をもって受け入れられた。

 軍服を着た俺の笑顔が雑誌の表紙を飾り、街には俺の写真を使ったポスターがあふれた。俺という人間はさっぱり変わっていない。内面は卑屈なままだし、容姿も六〇年前に逃げた時と変わらず冴えないままだ。それなのに何を言っても英雄らしく聞こえ、何をしても英雄らしく見える。俺という人間が「英雄エリヤ・フィリップス」という巨大な虚像に飲み込まれつつある気がした。

「まるで芸能人みたいですね…」

 クリスチアン少佐に見せられたスケジュール表を見てため息をつく。バラエティ番組の予定まで入っている。

「これも任務だ。芸能活動のような浮ついたものではない」
「その浮ついたことをしたくないんですよ。人に見られるの苦手なんです。自分の姿がメディアを通じて大勢の人に見られるなんて想像するだけでゾッとするんですよ」

 人に見られるのが怖くなったのは捕虜交換から帰った後だった。どこに行っても汚物を見るような視線を投げつけられた。同盟が滅んだ後は卑怯者と言われることもなくなったが、すっかり身を持ち崩してしまってやはり汚物のように見られた。黙っていれば何を考えているかわからなくて気持ち悪いと言われた。口を開けば卑屈で気持ち悪いと言われた。笑っても泣いても気持ち悪いと言われた。他人の視線に怯えていた。この夢の中では悪意のない視線を向けられることが多いが、それでも見られている事自体が怖い。

「意外だな」
「え?」
「貴官は華がある。人目を引く振る舞いが板についている。見られることに慣れているとばかり思っていた」

 首を横に振る。華があるなんて言われたことがない。捕虜交換の後はもちろん、捕虜になって逃亡者のレッテルを貼られる前もだ。昔の容姿と今の容姿を比べてもまったく違いはないはずだ。しかし、クリスチアン少佐にそんなことを言っても仕方がない。話が通じるとは思えない。

「考慮しよう」

 怒声で返されると思ったが、少佐はいつもの不機嫌そうな口調でそう答えた。その次の日からメディアへの出演予定が少し減った。落ち着いた番組への出演が中心になり、ウケ狙いの記事を書こうとする軽薄なインタビュアーは来なくなった。パーティーへの出席もパタリとなくなった。

「それはクリスチアン少佐が頑張ってるおかげですよ」

 ヘアメイクのガウリ軍曹が俺の髪をセットしながら言う。二〇代後半の彼女は統合作戦本部広報室に所属しており、メディアに登場する軍人のコーディネートを行う。そう、今の俺には専属のヘアメイクまで付いているのだ。

「その点、ヤン少佐はついてないな。担当のグッドウィン大尉が張り切ってぎっしりスケジュール詰めこんでる。昨日なんてセクシータレントがドッキリ仕掛ける番組まで出てただろ。飯を食う暇もないんじゃないか?」

 ルシエンデス曹長が口を挟む。この小奇麗なおじさんは俺の担当カメラマン。軍のカメラマンとは言っても一般的にイメージされる従軍カメラマンとは違う。軍の広告に使われる写真を専門に手がけていて、前線に出ることはない。軍服を着た人を格好良く撮ることにかけては右に出る者はないそうだ。

「え?軍の広報の仕事では食事と睡眠の時間は必ず確保する決まりじゃないんですか?」

 出演が減る前から食事時間と睡眠時間は長めに取られた。疑問に思った俺がクリスチアン少佐に質問したところ、「決まりでそうなっている」と説明されたのだ。

「まさか。普通はスケジュールぎっしり詰め込むよ。食事は移動中。慢性的な睡眠不足で移動中に寝て補う。旬のうちに出せるだけ出そうって思うのは軍も民間も同じだ」

 知らなかった。ルシエンデス曹長は一〇年以上広報室にいるベテラン。クリスチアン少佐は陸戦隊から広報室に異動したばかり。どちらが正しいかは言うまでもない。

「少佐は部下の待遇改善には人一倍熱心な方ですからね。『部隊は我が家。上官は我が親。同僚は我が兄弟。部下は我が子』という言葉を自分の部隊の標語にしていたそうですし」

 ガウリ軍曹の言葉が意外だった。ちゃんと話したのは初対面の時だけだけど、「良い待遇を求めるなど甘え」と言いそうなイメージがあった。初対面の時のブチ切れも軍隊を我が家だと思ってたからなんだろうな。標語のセンスにはちょっと付いて行けないけど。

「あの人は軍隊を本気で我が家だと思ってるんだろうねえ。初対面の時に『宿舎のシャワーから熱湯が出るようにしたのが一番誇れる仕事だ』と言ってた。五芒星勲章を二度受章したことの方がよほど自慢できると思うんだが。兵隊やったことがない俺にはわからない心理だよ」
「変わった人ですよね」

 ルシエンデス曹長とガウリ軍曹が顔を見合わせて苦笑する。軍人以外の職業が想像できなさそうなクリスチアン少佐とは本来は相性が良くないんだろうけど、けっこう好意的だ。クリスチアン少佐の脳内イメージを「意味不明で怖い人」から「意味不明で怖いけど悪い人じゃない」に修正する。

「でも、結構突き上げられてるみたいだぞ。フィリップスをもっと出せって苦情が来てるって室長がぼやいてた。なにせ、年寄りと女性の心をがっちり掴んでるからな」
「ヤン少佐はハンサムだけど、コメントつまらないからあまり人気ないんですよね。フィリップスくんみたいにまじめにコメントしたら人気出るのに。もったいないですよね」

 ガウリ軍曹のまたまた意外な発言。俺がヤンを知ったのは捕虜交換で帰国した後だ。既に同盟軍最高の名将の評価を確立していたけど、ハンサムという評価は無かった。一般受けするコメントはしなかったのは今と変わりないけど、言葉を飾らないところが誠実さと受け取られて人気を高めていた。同じ人物でも時期によって評価されるポイントは変わる。ある時期に短所と評価されたことが別の時期には長所と評価される。その逆もあるだろう。当たり前のことだけど気付かなかった。ヤンを間近で見た俺はその言動の中にいちいち名将の片鱗を探して感心したけど、今の時点ではまだ名将じゃないんだ。俺と同じように英雄に祭り上げられて戸惑っている若者で、ルックスの良さやコメントの面白さで評価される立場なんだ。ちゃんと生きていくなら、先入観を捨てないといけない。

「偉いさんは明らかにフィリップス兵長を売り出したがってるからなあ。 そんな中で出演を減らすようにしてるクリスチアン少佐も大変だと思うわ。おとといは代議員のパーティーの招待を断ったとかで室長に呼び出されてた。あの代議員、なんて名前だったっけ。ほら、最近売り出し中の若手でさ。俳優みたいな男前。顔は浮かんでくるんだけど、名前が思い出せねえな」
「男前なら国防委員のトリューニヒトさんじゃないですか?」

 ガウリ軍曹が答える。

「それだ、トリューニヒトだ。爽やかイメージが売りのくせに案外根に持つタイプなんだなあって思ったわ」

 やれやれ、といった表情のルシエンデス曹長。俺は気づかないうちに随分とクリスチアン少佐の世話になっていたようだ。あちこち引っ張りまわされて辟易してたけど、あれでもかなりマシになってたのか。クリスチアン少佐の脳内イメージを「意味不明で怖いけど悪い人じゃない」から
「意味不明で怖いけど良い人かもしれない」に修正する。

 会話の中で名前が出たヨブ・トリューニヒトは俺が捕虜交換で帰国した時の最高評議会議長だ。爽やかなイメージを売りに政界に旋風を巻き起こしたが、帝国の侵攻に際して無為無策ぶりを露呈して失墜した。フィーバーの過熱ぶりと有事における無為無策の激しい落差ばかりが印象に残る。ことあるごとにヤンの足を引っ張っていたせいか、八月党はトリューニヒトこそ同盟滅亡の元凶であるかのように喧伝していたが、真に受けるのは八月党の熱烈な支持者ぐらいだろう。「そこまでの大物か?」というのが俺も含めた同時代人の一般的な評価だと思う。だけど、この時点ではヤンよりずっと大物だ。なにせ国政に議席を持っているのだから。

 その大物が俺をパーティーに俺を呼べなかったことに腹を立てているのだ。俺のイメージはどこまで大きくなっていくのだろう。高みに登りすぎて降りられなくなるんじゃないか。はっきりと恐怖を感じた。 

 

第十話:地に足をつけて歩くのが望みだった 788年秋 同盟首都ハイネセン

「エリヤくん、最近ソリビジョン見てないんだって?」

 俺の顔にメイクを施すガウリ軍曹。彼女は最近俺のことをファーストネームで呼ぶようになった。逃亡直前に会った名前を知らない兵士を除けば、初めてこの世界の俺をファーストネームで呼んでくれた人だ。それにつられて、俺も彼らの前での一人称を僕から俺に変えた。他人行儀の相手には「僕」、気楽な付き合いの相手には「俺」を使い分けているのだ。

「ええ。新聞も雑誌もネットも見てません。どこ見ても俺の話ばかりしてるんですよ。耐えられないですよ」

 ソリビジョンや新聞は一切見なくなった。端末でネットを見るのもやめた。真の英雄という称賛。作られた英雄という批判。性格や容姿への批評。そういったものが飛び交う空間に耐えるメンタルは持ち合わせていない。

「英雄って言われる人は仕事柄たくさん見てきたけど、エリヤくんみたいなタイプは初めてね」
「初めてですか?」
「うん。自分に関する報道見ない人なんて初めて。何て言われてるか気になってチェックしてる人ばかりよ。シャルディニー中佐覚えてる?カルヴナの英雄。あの人なんて隙を見ては端末で自分の名前を検索して、批判の書き込み見つけたら反論の書き込みしてた」

 知らない名前だ。同盟軍の英雄なんてたくさんいるからいちいち覚えてられない。自由惑星同盟における軍隊はスポーツ界と並ぶ英雄の供給源だ。超人的な活躍をした軍人は英雄と呼ばれ、メディアに取り上げられてブームを起こす。しばらくしたらブームが終わって次の英雄が出てくる。自由な社会においては軍人の活躍ですら娯楽として消費されるのだ。俺でも英雄になれるんだから、シャルディニー中佐みたいな小心者がたまたま英雄になってもおかしくはない。

「批判されるのは嫌だけど、褒められるのも嫌なんですよ。嫌なものを見たくないだけです。臆病なんですよ」

 身に覚えがない事で褒められると居心地が悪い。俺は自分が軍の都合で作られた英雄だということを知っている。他人の都合で持ち上げられる自分なんか見たくもない。俺が持ち上げられたら持ち上げられるほど、逃亡したリンチ司令官達が卑怯者と蔑まれるのも辛かった。

 俺達がヤンの指揮で脱出に成功したのに対し、彼らが逃げきれずに捕虜になったのも風当たりを強くした。メディアではリンチ司令官を批判する報道が毎日のように流れ、最近は彼の過去の武勲の多くが捏造ではないかという疑惑まで囁かれている。一度失墜すれば、命がけで勝ち得た武勲まで否定されるのだ。ネットはもっと酷かった。リンチ司令官と主要幕僚の詳細な個人情報、彼らの家族への攻撃の呼びかけまで書き込まれていた。かつての自分がリンチ司令官と同じ立場にいたことを思うと恐ろしくなる。

「臆病さを認めるのも勇気だぞ。それも死を恐れず敵に立ち向かう勇気より得難い勇気だ。普通は認めたくなくて虚勢を張る」

 カメラマンのルシエンデス曹長が真面目な口調で言う。お姉さんのように俺に接するガウリ軍曹に対し、曹長は兄貴分のように俺に接する。最近はこの二人以外とはほとんど話していない。クリスチアン少佐とは業務連絡しかしないし、他の人は持ち上げてくるのでなければ、敬意の仮面の中に壁を作って接してくる。

「嘘をつけるほど器用じゃないだけです」
「君は本当にクソ真面目だよな。もっと肩の力抜こうぜ。あんな本ばかり読んでるから、言うことも硬くなるんだ」

 ルシエンデス曹長が指さしたのはテーブルの上に置かれた二冊の本。題名は「同盟軍刑法の基礎知識」「初心者のための経済学講座」。

 最近の俺は政治・法律・経済の基本書ばかり読んでいる。この世界がどのような仕組みで動いているかを把握するためだ。刑務所で読書を覚えてからは文学や歴史の本ばかり読んでいた。自由惑星同盟が滅亡するまでの歴史的経緯、有名人の事跡はほぼ頭に入っている。それらの知識を活かせば、うまくやれると思っていた。エル・ファシル脱出の際のヤンが伝記に書いてあった通りの行動をした時は、知識通りに動いていることに興奮を感じた。
 
 しかし、英雄に祭り上げられて、未来の知識がまったく役に立たないことを理解した。俺はこの世界のことをあまりに知らなさすぎる。俺自身が一人の人間として未熟なら、未来を知っていても何一つ出来やしない。かつての俺は漫然と生きているうちにドロップアウトした。せめて、夢の中ではその過ちを繰り返したくない。

「この世界をもっと知りたいんですよ。俺は本当に何もわかっていない。そう感じることばかりでした」
「まるで別世界から来たようなことを言うな。最初に君を見た時はそういうふうに見えたけど」

 実際、ここは俺にとっては別世界だ。本当の俺はエル・ファシルで逃げて逃げて前科者にまで落ちぶれた老人だ。

「確かにこれまでと比べたら別世界ですよ。生まれつき英雄と呼ばれてたわけじゃないし」
「生まれつきの英雄のように見えるよ。いや違うな、主人公か。世界は自分を中心に回ってるって本気で思ってるような。ベースボールのエースみたいなタイプだな」

 確かに夢の中の自分は主人公だ。しかし、夢の展開が思い通りになることはまずない。殺されることだってある。漫然と見ているだけだからだ。今の俺は夢を見ているという自覚はある。行動次第で状況を動かせることも分かった。状況に流されるだけの現実とは違う。しかし、どう動けばどう変わるのかがわからない。英雄に祭り上げられたことはまったくの予想外だった。

 ゲームの主人公はゲームの中の状況を動かせる唯一の存在だが、ルールを知らなければすぐにゲームオーバーだ。状況を動かせるという主人公のアドバンテージはルールを知って初めて生きてくる。だから俺は世界のルールを学ばないといけない。そして、家族や友達と仲良くやって、普通の就職や結婚もする。現実では得られなかった幸せな人生を夢の中で手に入れるんだ。

「生まれついてのモブキャラですよ。背景に紛れてるのがお似合いです」
「確かにハイスクールの頃の写真ではそんな感じだったな。見た目はほとんど同じなのに雰囲気が違う。オーラがまったく無い。びっくりした」
「エリヤくんは私服がダサいから」
「ほっといてください」

 ガウリ軍曹のツッコミに口先ではむっとしてみせるが、内心は嬉しい。身近に軽口を叩き合える人がいると、心が軽くなる。現実ではそんな相手には恵まれなかった。ルシナンデス曹長やガウリ軍曹との出会いがなければ、今の生活に耐えられなかったかもしれない。
 スケジュールにゆとりがあったのも大きかった。クリスチアン少佐が突き上げの中で頑張ってくれているのだろう。時間のゆとりは心のゆとりにつながる。この三人が俺の担当で本当に良かったと思う。

「それにしても、俺はいつまで英雄やってればいいんでしょうね」
「今週のウィークリー・プリセント・エイジが君の特集を組んだ。あそこはセンスが古いから、ブームに一番最後に食いついてくる。君の賞味期限はもうすぐ終わるな」

 ルシナンデス曹長の予想通り、次の週から急に出演やインタビューの依頼が減り、熱狂の波はあっけなく引いていった。フライングボールにスーパールーキーが現れ、世間の関心はそちらに移っていったのだという。要するに「次の英雄」が見つかったのだ。
 統合作戦本部広報室に呼び出されたのは11月末のことだった。そこで俺は広報活動任務の終了と担当チームの解散を告げられた。あっという間に英雄になった俺はあっという間にただの人に戻ってしまった。

「かんぱーい」

 ガウリ軍曹の乾杯の音頭。彼女とルシエンデス曹長とクリスチアン少佐はワイン、俺はスウィートティーで乾杯をする。

 俺達は統合作戦本部近くのレストランで打ち上げを開いていた。同盟全土に展開している大手のチェーンでいろんなジャンルの料理を安価で提供する良く言えば柔軟、悪く言えば無節操な店だ。ヘルシーなジャパニーズがマイブームのガウリ軍曹。食事にパスタが付いてないと機嫌が悪くなるルシエンデス曹長。味が濃くて油っこくないと食べた気がしないと言う軍隊式味覚を持つクリスチアン少佐。好き嫌いは特にないけど、マカロニアンドチーズがあれば幸せな俺。この四人の妥協が辛うじて成り立つのがこの店だった。

「いい仕事ができたよ。提督にでもなったらまた呼んでくれ。名将に見えるように撮ってやるから」

 顔が赤くなっててご機嫌のルシエンデス曹長。ふた口ぐらいしか飲んでないはずなのに。見かけによらず酒に弱いんだな。

「俺が提督なんかになれるわけないでしょう。ていうか、職業軍人になるつもりないですよ。兵役期間が終わったら民間で就職します」
「貴官は軍人に向いているのにもったいないな」

 肉の塊というよりは脂の塊をナイフで切り分けているクリスチアン少佐の意外な意見。

「まさか。体力無いし、頭悪いし、臆病だし。一番向いてない職業なんじゃないかと」
「貴官は良く飯を食う。良く眠る。きっと良い軍人になる」

 初対面の時に言われた軍人精神云々のことかと思ったら違うのか。しかし、食事量や寝付きの良さを人に褒められたの初めてだぞ。捕虜交換から帰って実家にいた頃はいつも親に「無駄飯食い」って言われてた。寝ていたら、「恥ずかしげもなく良く眠れるな」って嫌味言われたな。ああ、こんな時に嫌なこと思い出した。

「体力は鍛えればいい。頭は勉強すればいい。勇気は訓練と実戦で身に付ければいい。全ての基礎が飯と睡眠だ。つまり貴官は基礎ができている」

 超理論だ。もしかしてこの人の脳みそは筋肉できてるんじゃないか。

「どういうことです?面白そうですねえ」
「私も。少佐が食事と睡眠が基本って言ってる理由、気になってたんですよー」

 興味津々のルシエンデス曹長とガウリ軍曹。まんざらでもないといった顔のクリスチアン少佐で語り始める。

「飯を食わなければすぐへたばるだろう?眠らなくてもやはりすぐへたばる。そんな兵隊が使い物になるか」

 あれ?すげえシンプルなのに説得力があるぞ。

「でも、偉いさんには食べないで戦う兵隊や寝ないで戦う兵隊がいい兵隊だって思ってる人が多いですよねえ」
「それは奴らが臆病者だからだ!」

 何かのスイッチが入ったらしく、急に語気を荒らげるクリスチアン少佐。初対面の時と同じだ。しかし、スイッチを入れた曹長は平気な顔をしている。

「戦場では一瞬の隙が命取りだっ!へたばったら動きが鈍る!判断が遅れる!命を賭けて戦ったことがない臆病者にはそれがわからんっ!飯や睡眠が足りずに生き残れるほど戦場は甘くない!甘く見るにもほどがあるっ!」

 拳をテーブルに叩きつけるクリスチアン少佐。食器が音を立てる。店員や他の客達はドン引きしてるけど、曹長と軍曹は楽しそうに「なるほど」「面白いですねー」などと言っている。俺もなるほどと思った。単純だけどそれゆえにわかりやすい。
 せっかくだから質問してみる。

「つまり、俺は強い兵隊になる素質があるってことですか?」
「兵隊はもちろん、提督や艦長の素質もある」
「良く飯を食い、よく眠ることがですか?」
「そうだ」
「でも、どっちもあまり体使わないですよね。頭脳を使う仕事じゃないですか?」
「貴官は腹が減ってるのに集中を保てるか?眠らずにまともな判断ができるか?頭だって体の一部だぞ?疲れたら動きが鈍る」
「言われてみれば…」
「我が軍の士官学校は体育を重視している。学力があっても、体育科目の成績が悪い者はトップになれん。反戦派どもは旧時代的だ、だから軍人は頭が悪いのだなどと言うが戯言だ。頭を使いこなすにも体力がいる。疲れやすい体では勉強もはかどらん」

 同盟が滅亡すると、士官学校教育批判は同盟軍の敗因を探る人々の定番ネタとなった。その中でも特に体育教育重視は有害図書の閲覧禁止、戦史研究科廃止と並んで、士官教育における反知性主義の典型として強く批判されていた。それに一定の合理性を見出す意見は新鮮だった。

「貴官は飯を食う量が多いだけではない。真面目だ。その上足も速い。きっと良い軍人になれる。兵役満了が近くなったら下士官試験を受けてみるといい。軍には貴官のような人材が必要なのだ」

 クリスチアン少佐の表情が初めて柔らかくなった。どうやら、英雄の虚名抜きで俺を評価しててくれたらしい。ちょっと嬉しくなった。ハイスクール時代に50メートル走のタイムが7秒台前半ぐらいだった俺の足が速いという評価は謎だけど。

「ありがとうございます。でも、やっぱり民間で就職したいですよ」
「軍人は嫌いか?」
「あ、いや、そうじゃなくて。夢だったんです。普通に就職して、結婚して、子供を育てて年を取っていく。ずっと夢見ていました」

 軍隊を何よりも愛している少佐を怒らせてしまったかなと思った。しかし、少佐の表情は柔らかいままだった。

「良い夢だな」
「英雄になんてなりたくなかったんですよ。当たり前に生きて、当たり前に年を取りたかったんです」

 逃亡者になったせいで得られなかった当たり前の人生。老いてからは平凡な家族連れが何よりも眩しく見えた。自分は何をしていたのだろうと涙が出たものだ。

「軍人は軍人である前に市民だ。良き市民こそが強い軍人足り得る。貴官なら良き市民になれるだろう。目上を尊敬し、同輩と助け合い、目下を慈しむ。法律を守り、税金を納め、強い子を育てる。そんな当たり前の市民を目指せ。我ら軍人は市民の当たり前を守るためにこそある。
 短い間だったが、貴官とは任務を共にした仲間だ。貴官が軍服を着ていようといまいと、小官にとっては家族だ。小官には軍人として、家族として貴官を守る義務がある。ルシエンデス曹長やガウリ軍曹もそうだ。苦しい時は小官らを思いだせ」

 少佐の堅苦しいけれど温かい激励に涙が出そうになる。

「ありがとうございます。お世話になりました」

 深々と頭を下げる。これまでの分も含めて礼を言った。少佐はうなづくと、ずっと黙っていたルシアンデス曹長とガウリ軍曹の方を向く。

「貴官らの言う通りだ。ちゃんと話してみるものだな。骨折り感謝する」
「礼には及びません。少佐とフィリップス君が苦手意識持ったままで別れるのもつまらんと思った。それだけです」
「私達も少佐にはいろいろと勉強させていただきました。ちょっとぐらいお返しさせてくださいよ」

 三人が笑い合う。陸戦隊叩き上げの少佐と広報畑の曹長・軍曹は相性が悪そうだけど、かなりいい関係を築いていたみたいだった。

「苦手意識ってどういうことですか?」
「少佐はこういう人だからね。君と何を話していいかわからなくて困ってたんだよ」
「どんな敵であろうと恐れない小官だが、味方の英雄はな。気後れしてしまう。特に貴官は雰囲気があるからな。申し訳ないが、人に見られるのが嫌だと聞いて少し安心した」

 クリスチアン少佐の苦笑。脳内イメージを「意味不明で怖そうだけど良い人かもしれない」から、「良い人」に上方修正した。

 それからはそれぞれの今後の身の振り方についての話になった。クリスチアン少佐は広報官に向いていないことを悟って、陸戦学校教官への転出願いを出したという。ルシアンデス曹長とガウリ軍曹は近日中に次の担当が決まるそうだ。

「で、エリヤくんはどうするの?」
「休暇とって里帰りしようかなって思ってます。エル・ファシル脱出してからずっと広報活動でしょう?そろそろ休みたいですよ」

 確かに、と三人は笑った。 

 

第十一話:本当に俺が失くしたもの 宇宙暦788年12月 惑星パラス パラディオン市

「お疲れ様でした。パラディオン宇宙港に到着いたしました。長旅お疲れ様でした」

 船のハッチが開く。その向こうはタッシリ星系に属する惑星パラス。この星の東大陸にあるパラディオン市が俺の故郷だ。パラスは気候温暖で水が豊富。空気も綺麗。自由惑星同盟に属する惑星の中でもパラスの住みやすさは屈指だが、そのパラスにあってもパラディオンは最高の居住環境を誇っている。

 気候は年間を通じて温暖。空気も水も綺麗。自然豊かで春の桜と秋の紅葉の美しさは筆舌に尽くしがたい。食べ物は何でも美味しいけど、ピーチパイは銀河一。文化的にも恵まれている。ケニーズ通りは演劇の七大聖地の一つ。フライングボールのパラディオン・レジェンズはパラディオンっ子の誇りだ。まさにこの世の天国といえる。

 白眼視に耐えかねて、逃げるように出て行ってから49年。パラディオンの風景画像を端末で見ては、ため息をついたものだ。いつか帰りたいと願いながらついに帰れなかった。夢の中ではあるが、故郷に戻ってきたのだ。

 歩くのももどかしくなり、ハッチに向かって走り出す。係員に「お客様!危ないですよ」と声をかけられるが、そんなのは知ったことではない。懐かしい故郷が待っているのに歩いてなんていられるか。ハッチから出てタラップを駆け下りる。日差しが眩しい。四十九年ぶりのパラディオンの陽光のなんと暖かいことか。地面に足が着いた。パラディオンの土だ。足に力を込めて一歩一歩踏みしめながら歩く。涙が流れる。帰ってきた。俺は帰ってきたのだ。生きていてよかった。

 到着ロビーに入った途端、俺の感動は打ち砕かれる。ものすごい人だかり。報道陣もいる。スーツを着た人たちが並んで「おかえりなさい」の横断幕を持っている。その前には満面の笑顔を浮かべた五〇代ぐらいのやはりスーツを着た男性が立っていた。俺がたじろいでいると、男性は歩み寄ってきて俺を強く抱擁し、「フィリップス君おかえり!君はパラスの誇りだ!」と叫ぶ。報道陣のカメラのフラッシュが一斉に焚かれる。やっと故郷に帰れたのにまだ英雄を続けないといけないのか。そう思うと、頭がクラクラした。

「惑星知事閣下直々のお出迎えなんて凄いな!」

 ビール片手でご機嫌なのは父のロニー。パラディオン市警の警察官だ。最後に会ったのが宇宙暦七九九年。あの時は五十五歳だったから、宇宙暦七八八年という設定の夢の中では四十四歳になる。目の前の父は常勤職に就けない俺を心配し、兵役が満了したら警察官の採用試験を受けるよう勧めてくれた頃の父と同じだ。しかし、俺の顔を見て「なんでお前が俺の息子なんだ」と憎々しげに吐き捨てた姿が重なって見える。

「患者さんからも『エリヤ君のお母さん』って呼ばれるのよ」

 にこにこして父にビールを注ぐのは母のサビナ。看護師をしている。最後に会った時は五十四歳だったから、目の前の母は四十三歳ということになる。目の前の母はドン臭い俺が兵役をまっとうできるのか心配していた頃の母と同じだ。しかし、俺が言い返せないのをいいことにネチネチ嫌味を言っていた姿が重なって見える。

「あんた、ホント男前になったよね。英雄になると顔つきまで変わるのかな」

 俺の顔を感慨深げに見つめる姉のニコール。七九九年の時点では結婚していたが、現時点ではまだジュニアスクールの非常勤教師だ。俺の二歳上だから今は二十二歳。目の前の姉は大人しい俺の保護者を自認していた頃の姉と同じだ。しかし、徹底して俺を無視して歩いていて俺が前にいてもよけずにわざとぶつかった姿が重なって見える。

「クラスでもお兄ちゃん大人気でさー。ちっちゃい頃のアルバム持ってくとみんな大喜びするのよね」

 母の「いいかげんにしなさい」という言葉を聞き流してマフィンをパクパクつまんでるのは妹のアルマ。七九九年の時点ではハンバーガーショップの店員だったが、現時点ではミドルスクールに通っている。俺の五歳下だから今は十五歳。目の前の妹は俺に懐いていて、兵役に就くことが決まった時に大泣きした頃の妹だ。しかし、俺を名前で呼ばず「生ごみ」と呼んで、俺が触った場所に消毒スプレーを吹きかけた姿が重なって見える。

 現実ではとことん冷たかった家族がこの場では逃亡者になる前の暖かい家族に戻っている。嬉しいはずなのになぜか強い違和感を感じた。目の前の暖かい家族と冷たい仕打ちをした家族が重なって見える。もう無理。俺はもうこの人達と笑い合うことができない。俺は勢い良く席を立つと、無言でファミリールームを出た。

「ちょっと、どうしたの?ねえ、エリヤ!?」

 慌てる家族の声を無視して、早足で自分の部屋に入りロックをかける。部屋の電気を消すと、ベッドに入って布団を頭からかぶった。パラディオンの十二月は暖かいのに、俺の体は震えていた。

 到着二日目は忙しかった。朝に市役所を表敬訪問。外壁には「英雄フィリップス兵長凱旋」の垂れ幕が下がり、庁舎のホールには大勢の市民が俺を見るために詰めかけていた。暇人が多いなと思いながら、笑顔を作って手を振ると歓声があがる。名誉市民称号を授与された後、市長と一〇分ほど対談した。

 午後からは母校を訪問し、在校生の歓迎を受ける。存在感皆無の生徒だった俺が初めて学校で主役になって気恥ずかしかった。職員室に行くと、在校中は俺のことなんか歯牙にかけなかった教師達が「君には注目していたんだ」などと言うのには失笑を感じる。

 夕方からは市内のホテルで市主催の祝賀会が開かれた。こういう場に出るのは遠慮したかったけど、父が勝手に俺の出席を承諾したらしく出ないわけにはいかなかった。集まった人達に握手をして回り、写真撮影にも応じた。地元政財界の偉い人に親しげに声をかけられ、にこやかに応対した。こういうのは物凄く苦手なのに、断れずに頑張ってしまう性分が情けない。クリスチアン少佐がいてくれたらと思う。

 三日目からは地元メディアの出演・取材で大忙しだった。父が俺に断りなしで承諾してしまうものだから、休む暇もないほどにスケジュールが詰まってしまう。文句を言おうにも、父の顔を見るたびに記憶の中の怖い顔がちらついて言えない。その間に俺の携帯端末にはミドルスクールやハイスクールの同級生から誘いのメールがたくさん来ていた。そのほとんどが覚えてない名前だ。もともと縁がなかった奴らなんだろう。

 辛うじて覚えてる名前の中には運動部のスターや優等生がいた。目立ってたから覚えてるけど、当時は俺なんか眼中になかったはずだ。なんでこいつらが俺のアドレスなんか知ってるのか不思議だけど、俺と仲が良かったごく数人の誰かが教えたんだろう。会ってみたい気持ちもあるけど、会ったところで話すことがないのもわかっている。迷った挙句、『ミドルスクールの同級生二〇人ぐらいで集まって祝賀会開こうと思うけどどう?』という内容のメールにのみ返信した。

 祝賀会の会場は偶然にも広報担当チームの打ち上げをしたレストランと同じチェーンだった。いろんなジャンルの料理を出し値段も安いから、金をかけずにパーティーをするには手頃なのだ。扉を開けると、笑い声や話し声で溢れかえっていた。既に盛り上がっているようだ。ちょっと引いてしまう。盛り上がってる場所にいると居場所がないように感じてしまうのは地味キャラの悲しさだ。「俺が主役なんだ」と自分に言い聞かせて奥に進む。

「おー、来た来た」

 立ち上がって手を叩いた大男はミロン・ムスクーリ。フライングボール部のスターだった男だ。こいつを覚えているのにはバスケで目立ってた以外にも理由がある。現実の俺が捕虜交換で帰った時にはムスクーリは極右団体に所属していて、俺を街角で何度もつかまえては「卑怯者め!」と罵倒し、岩のような拳で殴りつけたのだ。スポーツマンらしい爽やかな笑顔で俺を歓迎する目の前のムスクーリと、悪鬼のような形相で俺を殴りつける記憶の中のムスクーリが重なる。

「エリヤ、ひさしぶりー」

 手を振ってる丸顔の女の子はルオ・シュエ。彼女はミドルスクールでの数少ない友達だった。捕虜交換で帰ってから連絡したら、「あんたはもう友達じゃない。二度と連絡しないで」って返信が来て着信拒否食らったっけ。

「こっちこっち」

 俺の手を引いて用意された席に連れてってくれたのはフーゴ・ドラープ。信望が厚く、クラス代表を務めた。特別に仲が良かったわけでもないけど、誰にでも分け隔てなく優しい奴だった。捕虜交換で帰ってから街角で見かけて話しかけたら、物陰に連れて行かれて「話しかけないでくれ。お前と話してるとこ人に見られたくないんだよ」って言われたけどな。

 家族と同じだ。目の前のこいつらが俺に冷たい仕打ちをした時のこいつらに見える。体が恐怖で震える。

「顔色悪いけど大丈夫か?」

 ムスクーリは心配そうに俺を見る。曖昧に笑う俺。ルオが俺のコップにビールを注ぐ。今の俺は酒を飲まない。いや、飲めない。逃亡者の汚名を負って生きることに耐えられずに酒に溺れ、アル中で何度も入院して長い断酒治療の末に酒を断ったからだ。あの断酒治療を思えば、酒を飲む気なんてなくなる。だが、怖くてルオがつぐ酒を断れない。

 みんなが口々に俺のエル・ファシルでの活躍を褒め称え、脱出行やメディア出演の話を聞きたがった。何とか説明しようと頑張ったけど、舌が思うように動かなくてしどろもどろになる。

 ダメだ。ここにはいられない。立ち上がって早歩きで店の出口に向かう。追いかけてきたドラープの「やっぱ具合悪いのか?送ろうか?」という声を無視してそのまま店の外に出てタクシーをつかまえて乗った。

 真っ暗な自分の部屋。故郷に帰っても安らげる場所はここだけなのか。逃亡者だった時と同じじゃないか。

「俺のどこが英雄なんだよ。全然変わってねーじゃん」

初日の夜から家族とはほとんど会話がない。父と事務連絡的なやりとりをするぐらいだ。ベッドの上で寝っ転がって端末を見ると、祝賀会に出ていた連中から俺の体調を心配するメールが何通も来ていた。全部削除する。

「今度こそうまくやれると思ってたんだけどなあ…」

 嘘だ。そんなことは思っていなかった。パラディオンの風物を懐かしむことはあったけど、家族や友人を懐かしむことはなかった。彼らのことを思い出すのは、受けた迫害を思い出す時だけだった。彼らと再び良い関係を結べる日が来るとは思えなかった。故郷は風物だけで成り立つものではない。人間関係もひっくるめての故郷だ。

 とっくの昔に俺は故郷をなくしていた。結局のところ、今回の帰郷はそれを確認する作業でしかなかった。 

 

第十二話:一刀両断 宇宙暦788年12月 惑星シャンプール シャンプール基地

 俺は逃げるように故郷を出ると、エルゴン星系のシャンプールに向かった。同盟軍においては准尉以下の下士官兵の人事業務は所属部署を管轄する方面管区司令部もしくは正規艦隊司令部が担当している。エル・ファシル失陥にともなって警備艦隊が廃止された後の俺はその上位にあるシャンプールの第七方面管区所属ということになっていた。広報活動に従事していた時も統合作戦本部広報室への出向という形だった。
 
 現在の立場は「待命」。管区司令部があるシャンプール基地内の宿舎で次の任務を待っている。待命中は仕事をしなくても通常の八割の給与をもらえる。兵長の基本月給は一四四〇ディナールなので俺はその八割の一一五二ディナールを毎月受け取っている。民間人なら到底生活が成り立たないような安月給だが、軍隊にいる間は部隊宿舎に住めて食事も支給されるので不自由なく暮らせた。

 しかし、いくら食うに困らなくても目標も義務もない生活は人間の心を荒ませる。兵役満了後は地元で就職しようと思っていた。さほどレベルの高くないハイスクールの就職コースを出て、これといったスキルも持たない俺が地元以外で正規雇用の職を得るのは難しいからだ。その選択がなくなった今、俺は目標を見失っていた。次の配属先もまだ決まっていない。英雄にはなるべく身近にいてほしくないと思うのが人情らしく、俺を引き取ろうという部署がなかなか見つからないのだ。

 部屋に閉じこもって政治・経済・法律などの本を読んでいたけど三日でやめた。やり直しのための知識を蓄えても、やり直せる場所がなければ虚しいだけだ。暇潰しに携帯端末でネットを見ると、検索サイトのニュース欄に「国防委員会がリンチ少将の戦功捏造疑惑の調査を開始。勲章剥奪か」という見出しが出ている。携帯端末をぶん投げた。

 ハイネセンで英雄をやっていた頃のことを思い出す。目立つのは嫌だった。持ち上げられるのは居心地が悪かった。それでもやるべきことがあった。やり直せるという希望もあった。

「あれが懐かしくなるなんて、我ながら弱ってるな…」

 いつまでもこのままということはない。どこかの部署に配属されて、兵役を継続することになるだろう。兵役が満了したらどうする?地元に帰って就職という選択肢は消えた。ハイネセンに出て非正規雇用で食いつなぐのは論外。そうなると、クリスチアン少佐が言うように兵役満了時に下士官志願することになるんだろうか。かなり狭い門だったはずだけど。職業軍人になる自分が想像できないな。クリスチアン少佐には「軍人に向いている」って言われたけど…。

『短い間だったが、貴官とは任務を共にした仲間だ。貴官が軍服を着ていようといまいと、小官にとっては家族だ。小官には軍人として、家族として貴官を守る義務がある。ルシエンデス曹長やガウリ軍曹もそうだ。苦しい時は小官らを思いだせ』
 
 クリスチアン少佐の言葉が脳裏に浮かぶ。今の俺は苦しいから少佐を思い出してるのかな。俺の頭であれこれ考えても意味が無いな。相談してみよう。軍隊生活が長い少佐の話を聞けば、もっと具体的なイメージが掴めるかもしれない。床に落ちている端末を拾って少佐に職業軍人の道に興味があるというメールを送る。もちろん故郷で起きたことは伏せた。返ってくるかな。

 宿舎の食堂で夕食を食べて、共同浴場の風呂に入ってから部屋に戻ると、少佐から「確認したら返信せよ。小官より説明する」という返信。ファイルがいくつも添付されていた。「下士官選抜要項」やら「幹部養成所案内」やらいう題名のファイルだ。開いてざっと目を通してから「確認しました」と返信すると、携帯端末の着信音が鳴った。クリスチアン少佐からだ。すぐに出る。

「お久しぶりです、少佐」
「うむ。小官は社交辞令は苦手だ。すぐに説明に入りたいが良いか?」
「お願いします」
「我が軍の軍人には士官・下士官・兵がいる。そのうち、兵の過半数は兵役従事者。残りは職業軍人の志願兵。志願兵の身分は不安定だから、安定雇用を望む貴官の要望には沿わないだろう。本来は兵役従事前のミドルスクール卒業者、若年の非正規雇用労働者の受け皿だ。よってこの選択肢は除外される」

 現実の俺は白眼視に耐えかねて故郷を離れると、志願兵となった。当時の同盟軍はラグナロック作戦で侵攻してきた帝国軍を迎え撃つために志願兵を大々的に募集しており、三〇過ぎで何のスキルもない俺でも入隊できたのだ。しかし、エル・ファシルの逃亡者リストは軍隊の中まで流れてきていた。

 同盟軍ではリンチは禁止されているが、それは建前にすぎない。下士官や古参兵からのリンチは風物詩と言っていい。ただでさえドン臭い俺が世間公認の卑怯者の肩書きまで背負っているのだ。毎日のように暴行を受け、人が手足を動かそうとするのを見るだけで怯えるようになった。さんざんに罵倒され、人が口を開こうとしているのを見るだけで怯えるようになった。金や物を脅し取られ、給料を前借りまでして差し出した。食事をさせてもらえず、三日間何も食べられなかった。ロッカーに閉じ込められて勤務に出られなかったことを無断欠勤と報告されて懲罰を受けた。「私は卑怯者です」という言葉をひたすら書き取りさせられたこともあったな。

 ああ、嫌なことをたくさん思い出してしまった。この調子だと、兵として再び勤務することにしたら、帰郷した時のように記憶の中の光景と重なってしまうぞ。身分も安定しないし、志願兵は無しだわ。目指すなら下士官か士官だな。下士官の権力をもってすればリンチを受けることも無いし、士官ともなれば権力者の下士官だって頭を下げてくる。

 ふと少佐に聞いてみたくなった。

「なるほど。ところで少佐は軍隊の中のリンチに関してどう思われますか?」
「言うまでもなかろう」

 声のトーンが不機嫌そうになる少佐。ああ、こういう人にとっては言うまでもないか。兵隊は殴れば殴るほど強くなると思ってるんだろうな。

「我が子を殴る親、弟を殴る兄など話にならん。日頃から身を正していれば、黙っていても兵は懐いてくる。ひとたび突撃すれば、死なせてはならないと奮い立った兵が後に続く。それが上官や古兵の威厳というものだ。兵を殴って言うことを聞かせようというのは臆病だからだ。臆病だから威厳がない。そのような上官になってはいかんぞ。兵に尊敬される上官を目指せ」

 意外だった。少佐のような度胸と腕力が売りのタイプは「拳で言うことを聞かせる」のに肯定的だと思っていた。だけど、否定の仕方も少佐らしく竹を割ったようで、「らしいな」と思った。

「お教えいただき感謝いたします」
「うむ。気になったことはすぐ人に聞く。その率直さは貴官の長所だ。大事にせよ」
「はい」

 人の上に立つ人ってこういう人なんだなあ。俺が少佐になることがあるとしたら、その時にはこの人の足元に手が届いているだろうか。

「では続けるぞ。下士官に任官するに専科学校卒業、 功績による昇進、兵役満了時の下士官試験の3つの経路がある。専科学校が一番簡単だが、受験資格は十六歳から十八歳までだ。残念ながら貴官の年齢では無理だな」

 軍の専科学校は同盟では結構ポピュラーな進学先の一つだ。二年の教育を受けて卒業したら、伍長に任官できる。初任給は地方のヒラ公務員並み。そこそこの大学を出ても、同じぐらいの初任給が出る職に就くのは難しい。しかも、同盟軍は慢性的に士官が不足しているものだから、有能な下士官はどんどん士官に登用される。軍艦の戦術オペレーター、整備主任といった専門職の士官はほとんど下士官出身だ。定年まで勤めれば多額の退職金を手にして恩給生活入りできる。とてもおいしいんだけど、残念なことに俺の学力では手が届かなかった。ミドルスクールでもっと勉強しとけば良かったと思う。

「兵から功績によって昇進するには勤務成績がよほど優秀でないといけない。 だから、この経路での昇進者は熟練の古参志願兵が多い。兵役一年目で経験が浅い貴官では難しかろう」

 俺には仕事ができないという致命的な欠点がある。経験豊富でも難しいというか無理だと思う。

「貴官が目指すとすれば、兵役満了時の下士官試験だ。兵役期間中に上等兵まで昇進した者は志願資格を得る。志願者の中から選抜試験に合格した者が昇進できるが、形だけの試験だから間違いなく通る。小官としてはこれがお勧めだな」

 これはとても魅力的だ。誰でも通るというのがいい。しかし、志願資格を得るには再来年まで兵役を務めなければならない。ドン臭い俺のことだから、根性の悪い下士官に目をつけられるかもしれない。安定した下士官は魅力だけど。でも、無理だ。リンチを受けた思い出が蘇ってくる。

「参考までに士官になる方法も教えていただけますか?」
「いいだろう。士官に任官するには士官学校卒業、幹部候補生養成所修了の二つの経路がある。士官学校の受験資格は専科学校と同じ十六歳から十八歳までだから、やはり貴官の年齢では対象外だ」

 士官学校は同盟では国立中央自治大学、ハイネセン記念大学と並ぶ最難関校だ。受験資格があっても、俺の学力では無理だ。地方のハイスクールの就職コースでも成績悪い方だったからな。となると、幹部候補生養成所か…。

「幹部候補生養成所に入所するには、上官の他に将官を含む士官二名の推薦を受ける必要がある。『勤務成績優秀な准尉または曹長』、あるいは『下士官、もしくは上等兵以上の兵で幹部適性が認められる者』。そのどちらかを満たした者が入所資格を得る。かく言う小官もこの経路で准尉から幹部候補生を経て士官になった」

 つまり、俺は『下士官、もしくは上等兵以上の兵で幹部適性が認められる者』として、士官を狙えばいいんだな。推薦で行けるらしいし。

 士官になれば特別扱いなんだよな。従卒が身の回りの世話をしてくれる。個室に住めるし、食事も専用の士官食堂だ。下士官に敬語使われるのもいいよな。なんかワクワクしてきたぞ。

「貴官が士官を目指すなら、『幹部適性が認められる者』で推薦を受けることになるだろう。何と言っても貴官はエル・ファシルの英雄だ。推薦者はすぐ見つかるはずだが…」

 急に奥歯に物が挟まったようになる少佐。いいところなのにそういうのやめろよ。不安になるじゃないか。

「准尉や曹長なら無試験で入所できるのだが、軍曹以下のものは試験を受けて幹部適性があることを示さねばならん。人物審査と体力検定は貴官なら問題なく通るだろうが…。学力試験が問題なのだ。士官学校の入試と同レベルの問題が出る。だから、『幹部適性が認められる者』の資格で幹部候補生養成所に入る者は滅多におらんのだ」

 俺は肩をがくっと落とした。無理じゃん。

「小官としてはやはり兵役満了後に下士官志願するべきだと思う。士官に興味があるのはわかる。だが、貴官はまだ若い。時間はいくらでもある。焦って無理をすることはない。貴官ならいずれは士官に昇進できる。今はじっくり経験を積んで未来に備えるべきだ。大勢の部下を率いるだけが貢献ではない。下士官として与えられた仕事をコツコツとこなしていく。目立たないが、偉大な貢献だ。黙々と働く下士官たちが士官の活躍を支えるのだ」

 いろいろ勘違いされてるっぽいけど、それは置いとく。置いとくとしても、結局はどん詰まりか。ここまで親身に乗ってもらったのに少佐には申し訳ないな。俺って本当にダメな奴だわ。嫌になる。

「ちょっと時間をいただけますか…」
「ダメだ。今すぐ決めろ」

 ちょ、ちょっと待てよ。なんだよそれ。考える時間ぐらいくれよ。

「考える時間がないと…」
「貴官は無為に耐えかねて小官に相談したのだろう!?さらに無為の時を重ねてどうする!迷うだけ時間の無駄だ!たった二つの選択肢だぞ!片方を選ぶだけだ。一瞬ではないかっ!」

 なんだ、その強引な話の持って行き方は。だけど、これ以上引き伸ばすのは不可能そうな雰囲気だ。仕方ない。考えてもわからない時は…。

「わかりました。では、今からコイントスをします。表が出たら下士官目指して、裏が出たら士官目指します」
「よし!」

 考えても答えが出ない時は選択を天に委ねる。それが俺のやり方だ。ハイスクールのテストで答えがわからなかった時は、シャープペンを倒して答えを選んだものだ。ことごとく外したけどな!

 コインを投げる。床に落ちた。出たのは…、
 表だ!つまり下士官…。
 兵役満了まで勤めあげる。兵として過ごした日々のことを思い出す。

「裏が出ました!士官目指します!」
「よく言った!後は努力をするだけだ!」
「はい!頑張ります!」
「貴官ならできる!貴官も自分を信じろ!」
「ありがとうございました!」
「うむ。夜ももう遅い。今日は寝て明日のために英気を養え」
「はい!」

 携帯端末のスイッチを切る。

「うわあ…、マジで士官目指すのかよ…」

 こともあろうにあのクリスチアン少佐にとんでもない約束をしてしまった。少しでも手抜きをしたら容赦なく詰められそうだ。

「馬鹿すぎるだろ、俺…」

 すごくめんどくさい事になってるはずなのに俺の顔は笑っていた。 

 

第三章 学びの舎シャンプール
  第三章開始時人物設定

主人公
エリヤ・フィリップス 20歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍兵長
役職:第七方面管区司令官付
性格:小心で卑屈。目立つのを嫌がる。
容姿:爽やか、絵になるなどと言われているが、以前は冴えなかったと言われる。
能力:勉強も運動も不得手。前の人生で覚えた読書の習慣が唯一の長所。
略歴。エル・ファシル脱出作戦における活躍で英雄に祭り上げられる。現在、幹部候補生養成所の受験勉強中。前の人生ではアーサー・リンチに従ってエル・ファシルから逃亡したことがきっかけで転落した。
史実:登場せず。

親しい人
エーベルト・クリスチアン 40代 男性 ゲルマン系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:軍隊を家族と考えている。剛直だが人情に厚い好漢。単純明快な物言いを好む。
容姿:背はさほど高くないが、肩幅と胸板が厚い。いかつい顔に不機嫌そうな表情。
能力:勲章受章経験のある勇者。食事と睡眠の重要さを理解していて、部下の待遇改善に熱心。
略歴:陸戦隊出身。エル・ファシルの英雄になったエリヤの広報担当を務めた時に親しくなった。エリヤが職業軍人になるきっかけを作った人物。
史実:救国軍事会議メンバーとしてスタジアムの虐殺を引き起こした。
初出:第八話

ルシエンデス 30代 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍曹長(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:ざっくばらん。
容姿:小綺麗な身なり。
能力:軍服を着た人を撮影すれば、右に出る者はいない。
略歴:統合作戦本部広報室のカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

ガウリ 20代後半 女性 インド系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:気さく。
容姿:小綺麗な身なり。
略歴:統合作戦本部広報室のスタイリストカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

家族
ロニー・フィリップス 44歳 男性 アングロサクソン系
職業:パラディオン市警の警察官(第二章終了時点)
性格:善良でお調子者。
略歴:エリヤの父。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

サビナ・フィリップス 43歳 女性 チェコ系
職業:看護師(第二章終了時点)
性格:心配症でおせっかい。
略歴:エリヤの母。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ニコール・フィリップス 22歳 女性 アングロサクソン系
職業:ジュニアスクールの非常勤講師(第二章終了時点)
性格:しっかり者。
略歴:エリヤの姉。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

アルマ・フィリップス 15歳 女性 アングロサクソン系
職業:ミドルスクールの生徒(第二章終了時点)
性格:甘えん坊の食いしん坊。
略歴:エリヤの妹。前の人生ではエリヤに懐いていたが、逃亡者になると最も激しく拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

同級生
ミロン・ムスクーリ 20歳 男性 ギリシャ系
性格:爽やかなスポーツマン。
容姿:大男。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。元フライングボール部のスター。前の人生では極右団体の構成員。逃亡者になったエリヤを迫害した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ルオ・シュエ 20歳 女性 チャイナ系
容姿:丸顔。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の数少ない友達。前の人生では、逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

フーゴ・ドラープ 20歳 男性 チェコ系
性格:誰にでも優しい。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。信望が厚く、クラス代表を務めた。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

その他知り合い
ヤン・ウェンリー 21歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第二章終了時点)
性格:冷静沈着。責任感が強い。整理整頓ができない。他人の期待通りに振る舞うことを嫌う。
容姿:ハンサムだが、身なりに無頓着なせいで冴えないように見える。
能力:頼りなさそうな風貌とは裏腹に、有能で精力的な指揮官。
略歴:士官学校卒のエリート。エル・ファシル脱出作戦を指揮した真の英雄。メディア受けしないコメントを連発したせいで、人気は盛り上がらなかった。
史実:自由惑星同盟末期最高の名将。生涯不敗を誇った用兵の天才。
初出:第五話

アーロン・ビューフォート 30代半ば? 男性 アングロサクソン系
階級:中佐(第二章終了時点)
性格:度量が大きい。本当の意味での大人。
略歴:エル・ファシル脱出船団旗艦の艦長。エリヤに絡まれたが、大人の対応をして泣かせた。
史実:大親征でビッテンフェルトを迎撃した。
初出:第七話

フランチェシク・ロムスキー 30前後 男性 ポーランド系
職業:エル・ファシル市会議員、内科医師(第二章終了時点)
性格:気さくだがやや軽率。
略歴:エリヤをエル・ファシル星系政庁に連れて行った。
史実:同盟から独立したエル・ファシル独立政府の主席を務めた。
初出:第三話 

 

第十三話:逃げられない逃げたくない 宇宙暦788年12月 惑星シャンプール シャンプール基地

 現在所属してる第七方面管区の司令部に幹部候補生養成所への推薦状を申請すると、司令官ワドハニ中将と幕僚のアッペルトフト大佐、ベナッシ少佐の三人が推薦人になってくれた。しかも、サポートチームまで組んでくれるという。第七方面管区後方部のイレーシュ・マーリア大尉が学力指導、シャンプール基地教育隊の体育教官バラット軍曹が体育指導を担当。その他、必要に応じて科目ごとの担当者が付く。俺はワドハニ中将の従卒として九時から五時まで勤務し、勤務時間外を試験勉強に充てる。

「話がうまく進みすぎて怖いんですよね」

 ルシエンデス曹長と久々に携帯端末で話す。

「ワドハニ司令官も必死なのさ」
「司令官がですか?」
「エル・ファシルは第七方面管区の管轄下だったろ?」
「そうですね」
「エル・ファシルを失陥したせいで司令官の立場はかなり悪くなってる。だから、少しでも点数稼いでおきたいんだろうよ」
「俺が幹部候補生になると点数になるんですか?」
「部下が活躍すれば上司の株も上がるからな。 数年に一人しか受からないような超難関試験の合格者を部下から出したら、司令官の手柄ってことになる。その合格者が知名度抜群の英雄とくれば、手柄が一層際立つってもんだ」
「利用されてるみたいで気分悪いですね」
「君も司令官を利用すればいいんだ。世の中持ちつ持たれつだぜ」

 曹長の言うとおりだ。俺には後がない。士官になれなかったら、兵役満了まで兵を続けることになる。勝ち方を選ぶような贅沢は許されていない使えるものは何でも使うつもりでないとダメなんだ。

 翌日。イレーシュ大尉に呼ばれて学力試験を受けた。士官学校受験と同じ公用語・古典語・数学・社会科学・自然科学の五科目で、現時点の俺の学力を測るのだという。問題文の意味自体がわからないほど高度な問題から、問題文の意味がわかる簡単な問題まであったけど、どれも答えがわからないという点では等しかった。士官学校入試ではミドルスクールレベルの問題が出るけど、俺がミドルスクール卒業したのは六十四年前。ハイスクールに入ったけど、それも卒業したのは六十二年前。当時だって全然勉強ができなかったんだ。今やってできるわけがない。

「これはどういうことかな」

 イレーシュ・マーリア大尉は姓がイレーシュ、名がマーリア。姓、名の順で名乗るのはマジャール系の特徴なのだという。一八〇センチを超える長身の女性だ。栗色の髪、切れ長の目、鼻筋の通った高い花、薄い唇、肌は真っ白で非の打ち所のない美形。目力が異様に強くて怖い印象を与える。そんな彼女が俺を冷たい目つきで見下ろす。片手には俺が書いた答案。

「自分にしては良く出来たほうだと思います」

 シャープペン転がして選んだ答えが思いの外当たっていた。しかし、彼女はその答えが気に入らなかったらしく、目つきがさらに冷たくなる。

「フィリップス兵長。君はハイスクール卒業してたよね?」
「はい」
「徴兵されてからは補給員をやっていたよね?」
「はい」
「書類書いてたよね?計算もしてたよね?」
「はい」
「本当だよね?」
「はい」
「どうして、こんなに間違ってるのかな?9割間違いだよ」
「卒業からだいぶ経ってますから」
「私は君より五、六年ぐらい早く卒業している」

 声のトーンが落ち着いているのがかえって怖い。容赦の無さを感じる。

「君さ、本当に幹部候補生になろうと思ってるの?冗談じゃないよね?」
「はい」
「でも、この学力だとハイスクールの入試だって落ちるよ」
「はい」
「勉強する気ある?」
「はい」
「地獄見るよ。覚悟してね」
「はい」

 美貌と長身と目力がもたらす圧迫感で「はい」以外の返事ができない。クリスチアン少佐とは別の意味で押しが強い。

「ちょっと待ってて」

 何かを決意したらしい大尉は俺に渡した問題集と参考書を全部取り上げると、カバンに入れて部屋を出て走りだした。一〇分ぐらいすると駆け足の音が聞こえてきて、ドアの前で止まる。入ってきたのは本を十冊ぐらい抱えた大尉。まったく立ち止まらずに俺に近づいてきて、本を俺の胸に投げ出すような感じで押し付けた。

「これ、ミドルスクール入学間もない子向けの問題集と参考書。公用語・古典語・数学・社会科学・自然科学の全科目。これが今の君のレベル」
「はい」
「わからないことがあったら聞いてください。何を聞いても私は怒りません。『こんなこともわからないのか』と怒るほど、私は君の学力に期待していません。他の先生達も同じです」
「はい」

 イレーシュ大尉は俺の頭を両手でガチっと挟むと、腰を落として俺と同じ目線になり、俺の目をまっすぐに見つめながらにっこり笑う。

「三ヶ月で仕上げてね」
「はい」

 涙目で答える俺。肉食獣に捕捉された草食獣ってこんな感じなんだろうなと思った。


 三時間後。俺は基地の体育館で体力測定を受けていた。クリスチアン少佐が言っていたように軍人にとって体力は重要な能力だ。兵や下士官はもちろん、指揮官や参謀だって体力を使う。だから、士官学校入試でも体力試験は重視され、合格者には運動部や少年クラブチームで活躍したスポーツマンが多く含まれている。体力が最低基準に満たない者は門前払いを受ける。これは俺が受ける試験も同じだ。

「貴官は本気で取り組んだのか?」

 測定結果を見て渋い顔をするのはバラット軍曹。浅黒い肌、短く刈り込んだ黒い髪、ぎょろりとした大きな目。体格はがっちりしている。猛犬のような印象だ。

「腕立て、腹筋、持久走、懸垂、走り幅跳び、遠投。どれも我が軍の求める最低基準を満たしていない。級外だ。最低でも六級。できれば五級はほしい」

 同盟軍の体力検定級位は特級から六級までの七段階があり、現場に立つ大尉までは級が高いほど昇進に有利になる。昨日読んだ体力検定基準表によると、六級は軍人に要求される最低限の体力なんだそうだ。クリスチアン少佐は『体力検定は貴官なら問題なく通る』と言ってたけど、問題ありまくりじゃねえか。

「取り敢えず六級相当の力を身につけることを目指そう。明日から1日2時間のトレーニング。メニューは新兵体力錬成プログラム級外コースを使用。3か月を目処にする」

 一日二時間のトレーニングか。人生でそんなに体使ったこと無いぞ。ジュニアスクールからハイスクールまでずっとベースボール部だったけど、練習サボりまくってたからな。

「クリスチアン少佐から『フィリップス兵長は根性がある。ビシビシしごいてやってくれ』と言われておる。貴官の根性に期待しているぞ」
「え?軍曹は少佐とお知り合いなんですか?」
「うむ。小官は三年前まで少佐の部下だったのだ。あの頃はまだ大尉であられたが。小官は軍人になって十二年になるが、あの方ほど素晴らしい上官はいなかった」

 軍曹は懐かしそうに目を細める。

「尊敬する上官に貴官のような軍人精神の持ち主の指導を託される。これほど名誉なことは無い。必ず貴官の肉体を精神に釣り合うほど逞しくしてみせる!一緒に頑張ろう!」

 目を輝かせて俺の両手を強く握る軍曹。頭の中で「無理だ。俺なんかが努力したところで」という声がしたけど、すぐに打ち消す。やってもいないのに無理だなんて言ったら、目の前の人に申しわけない。「逃げられない。やるしかない」と思った。

 生まれてこの方、努力なんてしたことなかった。ただひたすら時間をやり過ごしてきた。逃亡者になる前は面白くない授業、上達すると思えない部活、仲良く出来ると思えないクラスメイトをひたすらやり過ごしてきた。逃亡者になった後は罵倒や暴力をひたすらやり過ごしてきた。自分程度が努力して乗り越えられるとは思えなかった。誰かが自分の努力に期待していると思えなかった。英雄としてメディアに出まくってた時も期待はされていたけど、俺という人間に対する期待ではなくて、英雄という虚像に対する期待だった。

 しかし、今は多くの人が俺に期待して支えようとしてくれる。生まれて初めての経験だ。未だかつてない重圧を感じる。今の俺は学力も体力も最低に近い。明日からは自分の無能さに打ちのめされる日々が続くだろう。それでも、期待してくれる人達を失望させるようなことはしたくない。心の底からそう思った。 

 

第十四話:努力の味 宇宙暦789年 惑星シャンプール シャンプール基地

 従卒というのは簡単にいえば召使いだ。上官が執務している間の食事の用意、掃除、お茶くみ、荷物持ちなどをする。基本的に上官に同行しているが、デスクワーク中の雑用は副官が担当することが多く、よほど人使いの荒い上司でなければ従卒は控室で待機させられる。上官が会議に出ている間も従卒にはやることがない。そのため、勤務時間中でも三〇分、一時間と小刻みな空き時間が生じる。通常勤務が終了する夕方五時から消灯の夜十一時までの六時間だけでは、必要な勉強やトレーニングをこなしきれない。従卒勤務の合間の空き時間で勉強時間を確保させるというのが俺の上司である第七方面管区司令官ワドハニ中将の意向だった。

 勤務時間が終わっても従卒は荷物持ちとして上司の官舎まで付き添うのが普通だが、俺はワドハニ中将を司令部の入り口まで送るだけで良い。その後で食堂に行って夕食を摂る。六時から体育館でバラット軍曹の指導のもとで二時間のトレーニング。トレーニングを終えると急いで部屋に戻り、シャワーを浴びる。その後は消灯まで自習。イレーシュ大尉ら家庭教師への質問は携帯端末での会話やメールなどを通して行う。希望すれば直接指導も随時受けられる。

 ワドハニ中将が行事出席や視察などで遠方に行く場合は随行するが、空き時間を自習やトレーニングに充てる。一日で自習に使える時間は三時間から五時間。勉強時間が足りるのか不安になった俺はイレーシュ大尉に消灯時間後も勉強したいといったが却下された。

「勉強は時間より密度だよ。疲れた頭で長時間やっても意味ないよ?」
「君が六時間、七時間も集中できるわけないでしょ」
「勉強できない子に限って、長時間机に向かえば何とかなると思ってるんだよ。
 ぼんやり参考書眺めてるだけじゃ学力付かないのにね」

 立て続けに浴びせられる容赦無い言葉。ただただ恐れ入るしかなかった。

 大尉から渡された問題集と参考書はミドルスクールレベルでは一番簡単なものだったけど、俺にはさっぱり内容がわからなかった。かつての自分がドルスクールの卒業単位を取得して、ハイスクールまで進学したことが信じられない程だった。

 最初のうちは大尉らに側についてもらって言われたとおりに問題を解いた。解き方の流れやポイントを覚えて、自分がなぜ解けなかったか、どうすれば解けたかを考えることを意識するように言われた。勤務中の空き時間は暗記に使う。やがて問題の解き方を自分で考えられるようになり、日ごとに解ける問題が増えていく。解けなかった問題も解答を見ると、「なぜそうなるのか」という筋道が見えるようになった。
 
 これまでの俺にとっての勉強はなんとなく授業を受け、なんとなく問題を解いて、なんとなく頭に残っているものだった。しかし、今は自分が学んでいることの意味を考えながら勉強している。わかるということがこれほど楽しいとは知らなかった。日に日に自分が進歩しているという手応えを感じるのは心地良い。勉強していると時間があっという間に過ぎていき、気が付くと消灯時間になっている。あっという間に日にちが過ぎていく。

「どうでした?」
「正答率九十五%。良くやったね」

 全科目の問題集と参考書をやり終えた俺は理解度を測るためのテストを受けた。正答率が九十二%を超えたら次の段階に進むことになっていたのだ。これで次に進めると思うと、うれしくなってくる。

「それにしても二ヶ月で仕上げるなんてねえ。三ヶ月の予定だったのに。予想以上だよ」
 
 ため息をつくイレーシュ大尉。目力が弱くなったように感じたのは気のせいだろうか。

「トレーニングも頑張ってるみたいだね。最近がっちりしてきてるよ」
「先週、体力検定六級の基準クリアしました」
「そっちも二ヶ月かあ…」

大尉はまたため息をつく。

 トレーニングも勉強に劣らず楽しかった。
 最初にバラット軍曹は俺の遠投のフォームをチェックし、何度も何度も修正をした。それから遠投をすると、距離がぐんと伸びた。驚く俺に軍曹は言う。

「体は正直だ。正しく使ってやれば必ず応えてくれる。鍛えればもっと遠くに投げられるぞ。正しいフォームで鍛えて、しっかり休ませてやる。それだけで面白いように伸びる。トレーニングは楽しいぞ!」

 それから、軍曹は体力検定の全科目とそれに必要な体力をつけるためのトレーニングのフォームを俺に徹底的に叩き込んだ。ペースや運動負荷などは軍曹が調整していたが、「これぐらいのきつさが一番伸びる」「このきつさでは疲れてしまって伸びない」などと調整のたびに感覚的に理解できるよう教えてくれた。

 俺にとっての運動は勉強と同じようになんとなく体を動かすものだった。それが正しい体の使い方、正しいペースや負荷などを理解して運動するようになると、とても意味があることをしている気分になって面白い。きつかった動きがスムーズにできるようになり、数字が伸びていくたびに達成感を感じる。体にどんどん筋肉が付いていくのも気分が良かった。目に見える成果が出ると、やる気が出てくる。

「体や頭を使うってこんなに楽しかったんですね。知りませんでした」

 イレーシュ大尉にしみじみと語る俺。

「君はもっともっと伸びるよ。まだ始まったばかりだから。まだまだ楽しくなっていくよ」

 大尉が言ったとおり、俺の実力はどんどん伸びていった。家庭教師陣の中には成長が早すぎて頭打ちになるのを危惧する声もあったが、俺の実力は伸び悩む気配をまったく見せなかった。

 勉強を始めた頃はどの教科も不得意だったけど、今は得意不得意がはっきりとしてきている。公用語は文法がやや弱いが、読解と論述には自信がある。古典語は東方古典・西方古典ともに散文は得意だけど韻文は苦手だ。数学は一番敬遠していた科目だったが、いざやってみると相性がとても良い。明快な論理性が単純な俺の性格に合っていたんだろう。社会科学は勉強を始める前から唯一興味のあった分野だ。現実では歴史、英雄になってからは法律や経済などの本を読んでいた。下地があったせいか学習はすんなり進んだ。同盟史と法律が特に面白い。自然科学は生物・物理・化学ともに伸び悩んでいる。数学が得意なのに自然科学が苦手というのも妙な話だが、苦手なものは仕方ない。総合すると士官学校の合格圏内に入っている。最後に受けた模擬試験では合格可能性六十八%だった。

 運動能力においてもやはり得意科目と不得意科目ははっきりしていた。持久力科目と瞬発力はよく伸びたが、筋力科目は伸び悩んだ。体力検定の級位は六科目中最低点を取った級に準じる。持久力二科目と瞬発力二科目は全部三級相当まで伸びたが、筋力二科目のうち一科目は四級相当、一科目は五級相当までしか伸びず、総合的には五級相当だった。四級が軍人の平均だから、平均よりやや劣る。筋力科目は伸ばすのに一番時間がかかり、俺のように低い級から短期間で伸びた人間にとっては鬼門なのだそうだ。バラット軍曹は「あと二年あったら三級まで伸ばせたのに」と残念がっていた。

 試験前日に緊張のあまり腹痛を起こし、当日に筆記用具を忘れて会場がある基地内の売店で購入するといったアクシデントがあった。試験場に入って一つしか無い席を見た時、緊張が頂点に達する。今年、幹部適性資格推薦を受けたのは俺一人だったのだ。そのまま心臓が止まってしまいそうだったが、試験が始まって問題用紙を開くと見慣れた問題が出てくると、緊張が嘘のように解けていく。

 学科試験は概ね満足できる出来だったけど、得点を稼げるはずの数学でとんでもない間違いをしたことだけは後悔が残る。小論文は会心の出来だった。面接では事前にイレーシュ大尉と行った模擬面接の内容をど忘れするという悲運に見舞われたが、いざ本番になると言葉がスラスラ出てきた。英雄やってた頃に人前でたくさん綺麗事を喋って慣らしたおかげかもしれない。体力試験ではなんと四級相当の数字が出た。練習しても四級に遠く届かなかった科目が本番でいきなり届いたのだ。俺的には快挙だったが、試験官は大して驚いていなかった。准尉や曹長から無試験で幹部候補生養成所に入ってくるような者はみんな三級や四級程度の体力がある。俺が四級でも有り難みは全くない。

 試験が終わると、急に不安が襲ってくる。出来が良かったと思えた科目も間違いばかりだったように感じ、面接でも調子に乗って変なことを言ってしまったような気がした。「たぶん落ちると思います」とイレーシュ大尉に言うと、困ったねえという表情で首を傾げてから、「大丈夫だと思うけどねえ」と言われた。
 
 同じことをバラット軍曹に言うと、「過ぎたことにくよくよしても仕方ない!一緒に走ろう!汗をかけ!」と言われ、一緒にグラウンドを走ることになった。四〇〇メートルのグラウンドを20周ぐらい走ると、「腹が減っただろう!飯を食おう!」と軍曹はとびっきりの笑顔で言った。
基地の食堂では二人でひたすらバイキングのおかずをモリモリ食べる。

「うまいだろう!」
「はい!」
「体を動かせば気持ちいい!飯を食えばうまい!どんな時でもそれを忘れるな!」
「はい!」

 軍曹の言ってることはわけが分かんなかったけど、俺の心はすっきりと晴れていく。

 試験結果を待っている間の俺は宙ぶらりんな気持ちだった。全部終わってしまって、もう自分には何も出来ないということが寂しかった。従卒としての勤務をこなし、終了後はトレーニングに熱中した。ヘトヘトになってからシャワーを浴び、バラット軍曹と一緒に外出して彼の奢りで民間の食堂でひたすらチキンと米飯を食べる。ひたすら体を動かして頭を空っぽにしてからたらふく食事すると、それだけで幸せな気持ちになる。

 軍曹がクリスチアン少佐の部下だった頃も夜のトレーニングが終わると、部隊のみんなで連れ立って安食堂に行き、少佐(当時は大尉)の奢りでチキンと米をモリモリ食べていたそうだ。まるで運動部みたいだと俺が言うと、「その通りだな」と軍曹は笑った。ただ、こういう部隊は滅多に無いらしい。普通の指揮官は勤務成績の点数ばかり気にしていて、事なかれ主義に流れがちなのだという。「上の評価ばかり気にするような奴に部下が付いてくるものか! 民間で事務員でもやってるのがお似合いだ!」と軍曹は腹を立てていた。

 宙ぶらりんな時は単純な人の存在がありがたい。難しいことを考えるのがバカバカしくなる。
付き合って飯まで食わせてくれる軍曹にはいくら感謝してもし足りない。

 試験が終わって一〇日がたったある日。イレーシュ大尉から呼び出しがあった。試験結果がわかったのだという。来るべき時が来たと思った。心臓がバクバクする。お腹も痛くなってきた。途中で二回トイレに入った。逃げ出したい気分だけど、そうしたところで試験結果は変わらない。イレーシュ大尉がいる部屋の前に着いた俺は扉をノックする。「入れ」と声が帰ってくる。もう引き返せない。俺は覚悟を決めてドアを開けた。 

 

第十五話:イレーシュ大尉の最後の授業 宇宙暦789年 惑星シャンプール シャンプール基地の一室にて

 部屋に入ると、イレーシュ・マーリア大尉は腕組みをしてデスクに座っていた。面白くなさそうな表情で俺を見ている。目付きが鋭いものだから、知らない人には腹を立ててるように見えるかもしれない。

「エリヤ・フィリップス兵長」
「はい」
「第八幹部候補生養成所より試験結果の通知が届いた」

 きたか。奥歯を噛みしめる。

「合格」

 ごうかく、合格…!?本当に?俺があの試験を突破できたのか?
 全然現実感がない。一年間ずっとこのために勉強したはずだったのに。なんかあっけないというか。嬉しがるのが普通なのかな。

「聞こえなかったのかな。もう一度言うよ。合格」
「はい」
「つまらないね。もっと喜んでよ」

 大尉は心底からつまらなさそうに言うけど、この人が面白そうにしているのを見たことがないから、いつも通りなんだろう。

「いや、現実なのかなあと思いまして」

 夢の中なのはわかってるけど、それでもあまりに非現実的なことが起きると、びっくりを通り越して受け入れるのを本能で拒否してしまう。

「現実なんだよ、それが」
「そうなんですか」
「そうなんだよ。それも士官学校の合格基準を大幅に上回っての合格なんだよ。凄いよね。現役で受けてたら戦略研究科行けたかもしれないね。私も行きたかったよ。経理研究科も悪くなかったけどさ」

 なぜか大尉の口調に毒がこもってる。どうしたんだろう?この人は俺が合格したのが気に入らないのかな。

「冗談はやめてくださいよ」
「本気で言ってるんだよ」

 大尉の目がぎらりと光った。ただでさえ強い目力がさらに強くなる。なんなんだよいったい。まずいな。

「私は今から真面目な話をします。真面目な話なので真面目に聞いてください」
「はい」
「今だから言いますが、君と最初に会った時は絶対落ちると思っていました。学力がないのはともかく、それを全然悔しがってなかったでしょ?ああ、この子は向上心ないんだな、ルックス良くて素直なだけの子がたまたま英雄になっちゃっただけなんだなと思っていました。良い子なんだろうけど勉強には期待できないなって」

 ルックス良いとか素直とかはともかく、向上心がない、たまたま英雄になっただけってのは当たってる。勉強なんてできなくて当然って思ってたから、できなくても悔しくならなかった。

「君ね、これまでの人生で頭や体をちゃんと使ったこと一度もなかったでしょ?」
「はい」

 努力しても意味が無いって思ってたけど、今になって思うと努力なんてしたことはなかった。俺にとっての勉強はなんとなく覚えているもの。運動はなんとなく体を動かすものだった。今回のように目標を持って自分で考えて努力することはなかった。

「ちゃんと使えばこれぐらいのことができるんだよ。君はやればできる子です」
「そんなこと…」
「褒めてるんじゃないよ。やればできるなんて何の自慢にもなりません。やらなきゃできないんでしょ?これまでの自分を振り返ってください」

 ぴしゃりとはねつけられる。

「もっと早くやっていれば、君は現役で士官学校に入って上位で卒業できてたかもしれません。国立中央自治大学を出て官僚になってたかもね。ハイネセン記念大学を出て一流企業に就職するのもありかな」

 いくらなんでもそれは大袈裟すぎだ。この三大難関校の現役入学者って合計しても毎年五万人ぐらいしかいないんだぞ?三〇〇〇人に一人ぐらいしか入れない。俺のいたミドルスクールでぶっちぎりに優秀だった奴が三人いた。校内の試験ではこの三人が持ち回りで一位を占め、大天才のように言われていた。そんな奴らですら、一人がハイスクールを出た後でハイネセン記念大学の三年次編入学試験に合格したのみ。あいつらにできないことが俺にできるわけがない。

「さすがにそれはないですよ」
「実際に君は一年で士官学校に合格できる学力を身につけたでしょ?ミドルスクールでちゃんと勉強してたら、今頃どこまで伸びていたことか。現役で入った子たちは五年前の時点で今の君と同じぐらいの学力あったんだよ。つまり、君は五年遅れたんです。その間、現役で入った子たちはもっと先に行ってます」

 確かに俺は一年で受かったけど、大尉達の教え方が良かったんだと思うよ。たぶん、チンパンジーに勉強教えても士官学校合格させることができるんじゃないか。俺、本当に勉強嫌いだったもん。

「現役で入るような人達と比べられても…。物が違いますよ」
「君の能力は彼らと比較してちょうどいいぐらいです。どれほど大きな可能性を君は失ったのか、ちゃんと認識してください。君にはやればできる子じゃなくて、やる子になってほしいんです」
「努力嫌いだったんですよ。ほら、俺怠け者ですし」
「嘘だね。努力大好きでしょ。君ほど楽しそうに勉強する子見たことないもん」

 確かに勉強は楽しかった。でも、それは大尉達が正しい勉強のやり方を教えてくれたからだ。できることがどんどん増えてくのが気持ち良かった。努力ってこんな楽しい物じゃないだろ。やりたくないことをやれるのが努力じゃないのかな。

「それは大尉達の指導が良かったからでしょう?いくら俺が怠け者でも、できるようになったらやる気出ますよ。つまらないことはやりませんよ」
「私達は勉強は指導できても、性格までは指導できません。復習ってつまらないから、普通はほどほどにやって先に進みたがるの。暗記もみんなやりたがらないよ。伸びる喜びがめんどくささに負けちゃうんだね。でも、君は全然苦にしてなかった。自分が伸びるためなら、暗記も復習も喜んでやってたよね。そんな努力好きが今まで努力したことがなかったなんて不思議だよね。どうしてだと思う?」

 怠け者とは何度も言われたけど、努力好きって言うのは初めて言われたぞ。そういえば、クリスチアン少佐も俺のことを根性あるって言ってたっけ。士官学校出た大尉や陸戦隊で鍛えられた少佐は頑張り屋なんていくらでも見てるんだよな。あの二人が言うってことは俺は努力好きってことなのか?でも、そんな人間が二〇年も生きてて努力をしない理由なんて思いつかないぞ。

「良くわかりません。自分が努力好きっていうのもピンと来ないし。努力なんて無駄だと思ってたんですよ。勉強できる奴が良い点取るの見ると敵わないと思ってました。スポーツできる奴が活躍するの見ると自分にはできないって思ってました。頑張ってもできっこないし、やりたいこともなかったんですよ。意味もなく頑張れるほど努力好きじゃないんです、俺は。大尉の見込み違いですよ」
「理由わかってるじゃない」
「え…?」
「人間はなれると思ったもの以上にはなれません。単純な話だけど、士官学校に入ろうと思わない人は入れない。受験しなきゃ入れるわけないよね。なろうと思った人がみんななりたいものになれるわけじゃないけど、それでも最初になろうと思わなければなれないの。君はどうせ敵わないと思って目標を低く設定しすぎてました。人並み以下を目指してたら、人並み以下にしかなれないよ」
「でも、高い目標を設定したらきつくないですか?達成できなかった時のことを思うと…」
「じゃあ聞くけど、学校に通ってた頃と今のどっちがきつい?目標もなければできることが少なくてひたすら時間が過ぎるのを待っていた昔と、高い目標を目指して頑張れば頑張るほどできることが多くなる今。試験落ちたら後悔してた?勉強やトレーニングしても無駄だったって思う?前とは比較にならないぐらいできること増えてるのはわかるよね」

 昔のことを思い出す。受けてもわかる気がしない授業。自分には解けるとは思えない問題。まったく活躍できない体育の授業。ついていけない部活の練習。
 
 今のことを考える。仮に試験に落ちたとしても、俺が努力して身につけた学力や知力は残る。できないことがあっても、努力で何とか出来るかもしれない。昔のような思いはしなくて済む。

「…昔です」
「今回、士官を目指してみてわかったでしょう?できるって楽しいよね。目標を達成するって楽しいよね。君は努力すれば大抵のことは人並み以上にできます。士官になるのはスタート地点に過ぎません。高い目標を見つけて頑張ってね。これからもっともっと楽しくなるよ。以上、マーリア先生の最後の授業でした」

 微笑むイレーシュ大尉。最後の授業…。そうだ、これでおしまいなんだ。試験に合格しちゃったから。大尉ともバラット軍曹とも他の先生達ともお別れなんだ。一度も俺のことを怒らなかった初めての上官ワドハニ中将とも。

「最初の二ヶ月ぐらいはね、いつまで続くのかと思ってましたよ。四ヶ月ぐらいから本物だって気づいて、半年過ぎる頃には絶対に合格してほしいと思ったね。努力が報われてほしい。努力を信じられるようになってほしい。君を見るたびに祈るような気持ちになったよ」

 何て答えればいいんだろうか。「ありがとうございます」も「すみません」も嘘っぽく聞こえる。この人とこれだけ長く話すのはたぶん最後なのに。肝心なところでしっくりくる言葉が出てこない。
 くそっ、なんで涙が出てくるんだ。泣くとこじゃないだろ、ここは。何か、何か言わなきゃ。

「そして、ようやく合格してくれた。私は嬉しくて嬉しくてたまらないのです。今すぐ踊り出したい気分です。それなのに君は全然嬉しそうじゃありません。私一人が喜んでたらバカみたいでしょう?がっかりですよ」

 ふぅーと息を吐いて肩を落とす大尉。

「しかし、たまにはバカになってみるのもいいかもしれません」

 大尉は立ち上がると、ゆっくりと俺に近づいてくる。目はいつにもまして危険な輝きを放つ。 思わず後退りしてしまう。大尉が正面に立った。大尉の長身を見上げる俺。本能が”逃げろ”とささやくが、足が動かない。両手をギュッと握られる。強く握られすぎて手が痛い。大尉はきれいな顔をくしゃっと崩して笑う。いつもの整いすぎた笑顔とはぜんぜん違う笑顔。

「エリヤくん、合格おめでとー!!!!」

 握った俺の両手をブンブン上下に振って子供のようにはしゃぐ大尉。
 ああ、そうか。こういう時は言葉なんていらないんだ。笑えばいいんだ。

「あー、わらったわらったー!!!!かわいー!!!!」

 大尉のテンションがさらに上がる。つられて俺もどんどん嬉しくなっていく。自分が試験に受かったって実感はまだないけど、こうして喜んでくれる人がいる。それがとても嬉しい。やっぱり努力して良かった。大尉の最後の授業、素晴らしかったです。

 ドンドンとドアを叩く音がする。大勢の人の気配がする。

「大尉、まだですかー?」
「いい加減待ちくたびれましたよー」
「エリヤ君を独り占めにするのもほどほどにしてくださいねー」
 大尉はしまった、という顔になってぺろっと舌を出す。
「あー、ごめん!みんな入ってきていーよー」

 ドアが開くと、部屋の中にワッと人がなだれ込んできた。
 バラット軍曹、『よく食べるねー』っていつもニコニコしてた食堂の給養員さん、俺のために家庭教師を引き受けてくれた人達、廊下とかでがんばれよーと声をかけてくれた人達。
 あっという間にもみくちゃにされる。

「おう、良くやったな!」
「まさか本当に合格しちゃうなんて思わなかったよ!」
「フィリップス君すげーわ」
「次は提督目指そうぜ!」

 何を言おうかなんて思わなかった。ただ笑っていた。笑ってるだけで楽しかった。次も頑張ろう。何を頑張るかは後で考えるけど、また頑張ろう。そして笑おう。そう思った。 

 

第四章 行ったり来たり
  第四章開始時人物設定

主人公
エリヤ・フィリップス 22歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍士官候補生
役職:第八幹部候補生養成所所属
性格:小心で卑屈。素直で真面目な優等生。努力を楽しめる。自己評価は低い。
容姿:爽やか、絵になるなどと言われているが、以前は冴えなかったと言われる。
能力:学力、運動能力ともに高い。コミュニケーションは苦手で友達が少ない。
略歴:士官学校に匹敵すると言われる幹部候補生養成所の入学資格試験に合格。現在は第八幹部候補生養成所で勉学に励んでいる。前の人生ではアーサー・リンチに従ってエル・ファシルから逃亡したことがきっかけで転落した。
史実:登場せず。

親しい人
エーベルト・クリスチアン 40代 男性 ゲルマン系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:軍隊を家族と考えている。剛直だが人情に厚い好漢。単純明快な物言いを好む。
容姿:背はさほど高くないが、肩幅と胸板が厚い。いかつい顔に不機嫌そうな表情。
能力:勲章受章経験のある勇者。食事と睡眠の重要さを理解していて、部下の待遇改善に熱心。
略歴:陸戦隊出身。エル・ファシルの英雄になったエリヤの広報担当を務めた時に親しくなった。エリヤが職業軍人になるきっかけを作った人物。
史実:救国軍事会議メンバーとしてスタジアムの虐殺を引き起こした。
初出:第八話

イレーシュ・マーリア 27歳 女性 マジャール系(姓が前、名が後に来る)
階級:自由惑星同盟軍大尉(第三章終了時点)
役職:第七方面管区後方部(第三章終了時点)
性格:とっつきにくい外見とは裏腹に思いやりがある。
容姿:180センチを越える長身。非の打ち所のない美形。眼力が異常に強い。不機嫌そうな表情。
能力:対人観察力が高い。熱心な教育者。
略歴:士官学校卒のエリート。幹部候補生養成所を受験するエリヤの学力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

バラット 男性 タイ系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第三章終了時点)
役職:第七方面管区シャンプール基地教育隊体育教官(第三章終了時点)
性格:単純熱血。太っ腹。
容姿:がっちりした体格。猛犬のような印象。
能力:トレーニング指導のプロ。
略歴:陸戦隊出身でクリスチアンの元部下。幹部候補生養成所を受験するエリヤの体力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ルシエンデス 30代 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍曹長(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:ざっくばらん。
容姿:小綺麗な身なり。
能力:軍服を着た人を撮影すれば、右に出る者はいない。
略歴:統合作戦本部広報室のカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

ガウリ 20代後半 女性 インド系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:気さく。
容姿:小綺麗な身なり。
略歴:統合作戦本部広報室のスタイリストカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

家族
ロニー・フィリップス 46歳 男性 アングロサクソン系
職業:パラディオン市警の警察官(第二章終了時点)
性格:善良でお調子者。
略歴:エリヤの父。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

サビナ・フィリップス 45歳 女性 チェコ系
職業:看護師(第二章終了時点)
性格:心配症でおせっかい。
略歴:エリヤの母。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ニコール・フィリップス 24歳 女性 アングロサクソン系
職業:ジュニアスクールの非常勤講師(第二章終了時点)
性格:しっかり者。
略歴:エリヤの姉。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

アルマ・フィリップス 17歳 女性 アングロサクソン系
職業:ミドルスクールの生徒(第二章終了時点)
性格:甘えん坊の食いしん坊。
略歴:エリヤの妹。前の人生ではエリヤに懐いていたが、逃亡者になると最も激しく拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

同級生
ミロン・ムスクーリ 22歳 男性 ギリシャ系
性格:爽やかなスポーツマン。
容姿:大男。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。元フライングボール部のスター。前の人生では極右団体の構成員。逃亡者になったエリヤを迫害した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ルオ・シュエ 22歳 女性 チャイナ系
容姿:丸顔。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の数少ない友達。前の人生では、逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

フーゴ・ドラープ 22歳 男性 チェコ系
性格:誰にでも優しい。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。信望が厚く、クラス代表を務めた。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

その他知り合い
ヤン・ウェンリー 23歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第二章終了時点)
性格:冷静沈着。責任感が強い。整理整頓ができない。他人の期待通りに振る舞うことを嫌う。
容姿:ハンサムだが、身なりに無頓着なせいで冴えないように見える。
能力:頼りなさそうな風貌とは裏腹に、有能で精力的な指揮官。
略歴:士官学校卒のエリート。エル・ファシル脱出作戦を指揮した真の英雄。メディア受けしないコメントを連発したせいで、人気は盛り上がらなかった。
史実:自由惑星同盟末期最高の名将。生涯不敗を誇った用兵の天才。
初出:第五話

アーロン・ビューフォート 男性 アングロサクソン系
階級:中佐(第二章終了時点)
性格:さっぱりした性格。本当の意味での大人。
容姿:30半ばに見える。
略歴:エル・ファシル脱出船団旗艦の艦長。エリヤに絡まれたが、大人の対応をして泣かせた。
史実:大親征でビッテンフェルトを迎撃した。
初出:第七話

フランチェシク・ロムスキー 30前後 男性 ポーランド系
職業:エル・ファシル市会議員、内科医師(第二章終了時点)
性格:気さくだがやや軽率。
容姿:大柄。
略歴:エリヤをエル・ファシル星系政庁に連れて行った。
史実:同盟から独立したエル・ファシル独立政府の主席を務めた。
初出:第三話 

 

第四章 行ったり来たり
  第十六話:友達がいない理由。敬意と好意の違い 宇宙暦790年 惑星シャンプール スィーカル市 第8幹部養成所

 自由惑星同盟軍の士官ポストは約三五〇万にのぼるが、そのすべてを年間五〇〇〇人程度の士官学校卒業生で賄うことは不可能であり、参謀教育を受けていないと務まらない上級職以外の士官ポストはほぼ下士官兵からの昇進者及び、民間から徴用された専門技術者が占めている。各部隊から幹部候補生推薦を受けた有能な下士官兵に士官教育を行うのが全国で二十五箇所ある幹部候補生養成所だ。俺が入所した第八幹部候補生養成所は惑星シャンプール南大陸のスィーカル市にあり、第七方面管区に所属する部隊から推薦された者を教育している。

 幹部候補生は全員男女別の四人部屋か三人部屋に住み、部隊組織に編成されて生活している。男子部屋一つと女子部屋一つで最小生活単位となる七~八人の班、五班で学級に相当する三〇人前後の小隊、候補生宿舎の同じフロアにある小隊が集まって中隊、同じ棟にある中隊が集まって大隊を構成する。候補生全員が部隊の役職に就き、教官である士官と助教である下士官(小隊は中尉、中隊は大尉、大隊は少佐。小隊と中隊の助教は軍曹、大隊の助教は曹長)の指導を受けながら運営に関わることで士官に必要なリーダーシップとコミュニケーション能力を養う。養成所においては日常生活も士官教育の一環なのだ。士官学校も同じシステムを採用している。

 一日のスケジュールも軍隊らしく規則正しい。朝六時に起床し、点呼の後で小隊ごとに担任教官に率いられてランニング。朝のひんやりした空気の中で走ると眠気はあっという間に吹き飛ぶ。七時から朝食。起き抜けのごはんほどおいしいものはない。八時に朝礼。同盟の国歌『自由の旗、自由の民』が流れる中、国旗に敬礼する。愛国心が大して強いわけでもない俺でも厳粛な気持ちになるのだから不思議だ。

 八時二〇分からは午前の授業。学科では指揮法や教育指導技術を学ぶことで部隊運営の基本を修得し、同盟軍の組織制度や軍事関連法規を学ぶことで軍隊を広い視野で理解し、戦術理論や戦史を学ぶことで用兵の基礎を知り、艦船や武器や通信装置などの基本性能を学ぶことでハードに関する理解を深め、管理職たる士官に必要な基礎知識をひと通り学ぶ。候補生に推薦されるような下士官は優れた専門技術を持っているが、それだけでは士官は務まらないのだ。

 白兵戦技や射撃術などの実技教育、フライングボールや水泳などの体育も大事だ。『士官は体を張れないと部下に信用されない。士官は戦士でなければならない』とリーダーシップ論の授業で言ってた。これまで読んだ歴史の本では『陣頭指揮をとる士官は戦死のリスクを考えない愚か者。後方で部下に指示を出していればいい』と書いていて、同盟軍士官教育の実技・体育重視を反知性主義と批判していた。俺も以前は本の記述を鵜呑みにしていたが、クリスチアン少佐やバラット軍曹の話を聞いていると同盟軍の士官教育が合理的に見えてくる。

 十二時になったら昼食。授業で頭を使った後に食べるごはんほどおいしいものはない。午後の授業は十三時から十六時三十分まで。内容は午前と同じだ。

 十六時四十五分から十七時四十五分までは自主学習の時間。自主的に勉強やトレーニングを行うが、行事の練習にあてられることも多い。各部隊の構成員全員が参加する定例運営会議もこの時間帯に開かれる。

 十八時から二十時までは夕食と入浴の時間。一日の課業を終えてから食べるごはんほどおいしいものはない。食後のお風呂で汗を流すと生き返った気分になる。唯一の休息時間だが、各部隊の隊長・副隊長はそうもいかない。隊長と副隊長が参加する隊長会議はこの時間帯に開かれるからだ。二〇時からは自習時間。小隊ごとに自習室に集まって予習復習に励む。二十三時に消灯だが、希望すれば24時まで自習時間を延長できる。

 学科の勉強はまったく問題なかった。予習復習を欠かさず、自習時間も毎日延長していたおかげで常に上位をキープできていた。授業が理解できる、試験で上位を取れるというのは生まれて初めての経験だ。生活態度でも良い評価を受けているおかげで養成所の中では優等生扱いされることが多い。みんなにできる奴と思われると、本当にできる気になってくる。俺って本当に単純だ。

 体育の成績は良くない。フライングボールやバスケットボールなどの団体競技がどうしようもなく苦手だった。基本動作は自主活動時間に練習したおかげで上手にできるようになったけど、連携プレイがまったくできない。これまでの人生でチームワークの経験が皆無だったことが尾を引いている。水泳は苦手どころかまったくできない。もともとは泳げたんだけど、現実で志願兵として軍隊に入った時に手足を縛られてプールに投げ込まれてから水が怖くなってしまった。できないことができるようになる喜びを知っただけに、できたことをできなくされてしまったのを自覚するのは一層悔しい。団体競技と水泳の失点を持久走と短距離走の好成績で埋め合わせている。

 実技の成績はわりと良い。同盟軍人が修得すべき白兵戦技の基本といえば徒手格闘術・戦斧格闘術・ナイフ格闘術の三つだが、日常的に鍛錬しているのは陸戦科出身者ぐらいだ。砲術科や飛行科といった戦闘職種でも白兵戦技の鍛錬はあまりしない。彼らに必要なのは実戦に耐えうる体力であって、白兵戦技の技量ではないからだ。養成所の全校白兵戦技トーナメントで陸戦科出身者を何人も破って準決勝まで進出した二〇代半ばの通信科出身者がいたが、この人は勤務をさぼってまで白兵戦技の鍛錬に励んでいたという変人だから例外である。体力の鍛錬には熱心だけど、白兵戦技の鍛錬にはあまり熱心ではないというのが一般的な同盟軍人だ。だから、未経験の俺でも真面目に練習して基本動作を徹底的に体に叩きこむことで良い成績が取れた。射撃も同様だ。後述するが、良い指導役に恵まれたことも大きかった。

 一番の問題は対人関係だった。各地の部隊から集まってきた候補生達は最初の数週間で打ち解けて仲良しグループを形成していったが、俺は見事にその動きから取り残されていたのだ。同じ部屋に住む三人の候補生は悪い人たちではなかったけど、明らかに俺を敬遠している。俺の部屋と同じ班になっている隣の女子部屋の四人もよそよそしい。小隊でも俺は浮いていた。

 エル・ファシルから脱出してから、身近にかまってくれる相手がいる生活に慣れてしまっていた俺にとっては、今の孤立はどうしようもなく寂しい。嫌われているわけではない。成績や生活態度では一目置かれているし、失敗しても厳しい目では見られない。小隊対抗フライングボール大会で味方の足を引っ張って敗戦を招いた時なんてどれだけ白い目で見られるか覚悟してたのに、妙に優しくて拍子抜けしたほどだ。

 思えばこれまでの俺は他人に対して積極的にはたらきかけたことがなかった。仲の良かった人はみんな向こうから話しかけてきてくれた人だった。

「おまえさんに遠慮してるんだろうよ」

 カスパー・リンツは手にしたスケッチブックに書き込みながら言う。脱色した麦わらのような髪に青緑色の瞳を持つこの男はこの養成所で俺に話しかけてくる唯一の存在だ。現実ではローゼンリッター連隊長やバーラト自治区地上軍司令官を歴任した高名な陸戦指揮官で俺なんかが口をきけるはずもない超大物だが、今は弱冠二〇歳の幹部候補生にすぎない。もっとも、この年で幹部候補生に推薦された事実そのものがリンツの非凡さを示しているといえるが。

「そうかなぁ」

 リンツからもらったマフィンを口の中でもぐもぐさせながら俺は答えた。画家志望のリンツは軍人になった今でも絵の道を諦めていなかったようで暇を見ては絵の練習をしている。どういうわけかリンツは俺を絵のモデルとして気に入っていて、モデルの報酬として白兵戦技と射撃術のコーチを引き受けてくれていた。今はマフィンを食べる俺の姿をスケッチしている。

「考えてみろ。おまえさんは士官学校入試並みの試験を突破して入った変わり種でしかも英雄様だ。成績も素行も優秀。年齢もだいぶ離れてる。敬して遠ざけたくもなるさ」
「よくわかんないや」
「できない奴は嫌われるが、できすぎる奴も嫌われる。非難する隙がなかったら敬遠するしかない。おれもさんざん経験した」
「そうなん?」

 リンツが敬遠されるなんて意外だ。俺に話しかけてることからもわかるように気さくな性格。顔はハンサム、スポーツ万能、絵も歌もうまい。どこにいても人気者になれることは間違いないのに。

「なにせ亡命者だからな。無能なら笑い者、有能なら生意気と言われる。生意気じゃなかったら敬遠される。これが自由の国の素晴らしい現実さ。まあ、アーレ・ハイネセンは『自由・自主・自立・自尊』と言ってるから、差別する自由も認めてるんだろう」

 考えが浅かった。無邪気に「リンツはいい奴だからみんなに好かれるだろう」と思ってた。思えば同盟が滅亡する前の俺も亡命者を心のどこかで見下していた。あからさまに差別はしなかったけど、帝国から転がり込んできた居候みたいに思ってた。彼らが権利を主張するのをソリビジョンなんかで見ると、「居候のくせに生意気だ」って感じたものだった。彼の優れた能力も俺のような人間に隙を見せないために必死で身につけたものだったのかもしれない。

「ごめん」
「敬遠されるのも悪くないぞ。敬意は払われてるからな」

 俺が敬遠されてるのはある意味自業自得だけど、リンツはそうではない。笑い者や嫌われ者になるぐらいならせめて敬遠されたいと思って努力したのだとしたら、どうしようもなく切ない。

「俺は敬意より好意がほしいよ。凄い奴と思われて敬遠されるより、馬鹿な奴と思われてもいいから好かれたい」
「本音を言うと俺もそうだ」

 リンツが白い歯を見せて笑う。

「ここを修了したらローゼンリッターに志願するつもりだ。隊員は全員亡命者だから、偏見を気にせずに済む。あそこなら自分が自分でいられるかもしれないと思うんだ」

 ああ、なるほど。リンツはそういう理由でローゼンリッターに入ったんだ。亡命者にとってのローゼンリッターって偏見を気にしなくていい場所なんだな。本で読んだだけではなんで隊員の団結力が異常に強いのか理解できなかったけど、自分が自分でいられる唯一の場所だったとすると理解できる。命を賭けてもローゼンリッターと仲間を守りたいと思うだろう。

 君が欲しかったものはきっとローゼンリッターで見つかるよ、と心のなかでつぶやく。リンツの未来はわかっても、自分の未来がわからないのが俺だ。いつか努力しても敬遠されない場所、馬鹿な奴と思われても好かれる場所に辿り着けるのだろうか。深い霧の中で見えない未来を手探りする作業はとても魅力的に思えた。 

 

第十七話:新米士官 宇宙暦791年 マルアデッタ星系 惑星ヤロヴィト ポリャーネ補給基地

 七九一年二月、第八幹部候補生養成所を修了した俺は正式に少尉に任官した。職種は補給科。兵卒だった頃は補給員だったから、そのまま補給科の士官になったのだ。配属先はマル・アデッタ星系の惑星ヤロヴィトにあるポリャーネ補給基地の会計課。

 マル・アデッタ星系は現実では自由惑星同盟軍宇宙艦隊とアレクサンドル・ビュコック元帥終焉の地となったが、今の時点では一辺境星系に過ぎない。同盟中核地域とフェザーンを結ぶ航路上に位置しているが単なる通過点でしか無く、帝国との前線とも遠く離れていて軍事的にも経済的にも重要ではない。そんな片田舎にあってマル・アデッタ警備管区所属の星間巡視艦隊に食料や弾薬を補給するのがポリャーネ補給基地の役割だった。

 戦闘とも武勲とも無縁の後方基地勤務。エル・ファシルを脱出してからの波乱に満ちた軍人生活が嘘のような平和な職場だ。俺の肩書きは会計課給与係長。補給員としての仕事なんてまともにやった経験がないのにいきなり基地職員二千二百三十六人の給与計算責任者になったのだ。しかも、後方職種に女性を多く配置する同盟軍らしく、八人の部下は全員女性。主任を務めるポレン・カヤラル曹長は三十六歳、シャリファー・バダヴィ軍曹は二十九歳。どちらも俺なんかよりずっとキャリアが長い。
 女性は男性よりも仕事ができない者に冷たい傾向があると聞く。幹部候補生養成所を卒業して少尉に任官した者は士官学校卒業者と違って即戦力として期待されているから、仕事のできない俺がどれほど白い目で見られるかは想像に難くない。

 どうすればいいかさんざん悩んだが、着任前日にカヤラル曹長とシャリファー軍曹に会って仕事がまったくできないことを打ち明け、一から指導してくれるよう頭を下げて頼むことにした。隠そうとしてもどうせバレるんだから、さっさと頭を下げた方がいい。

 基地内の喫茶店にカヤラル曹長とシャリファー軍曹を呼び出す。丸々と太っていて大衆食堂のおばさんといった感じの曹長とガリガリに痩せてメガネをかけていてミドルスクールの公用語教師といった感じの軍曹。どっちも「なんの用だ」と言わんばかりの表情だ。威圧感が半端ない。呼び出したのは失敗だったかと思ったけど、今さら言わないわけにもいかない。言うしかない。

「僕は徴兵されてから補給員の仕事をほとんどしてなくて、会計のことも全然わからないんです。ご迷惑とは思いますが、一から指導していただけませんでしょうか」
「つまり、仕事がわからないから教えてくれっておっしゃるんですか?」

 問い返すカヤラル曹長の声にトゲが感じられるのは俺の錯覚ではないだろう。仕事できない上司なんて邪魔なだけだもんな。

「そうです。わからないから教えていただきたいのです。お願いします」

 テーブルに手をついて頭を下げる。仕事で失敗して頭を下げるぐらいなら、今ここで下げた方がいい。了承してもらえなくても、俺が仕事ができないということは理解してもらえるだろう。俺抜きで仕事を進めることを考えるのなら、それでいい。その間に一人で勉強する。

「顔を上げてくださいよ。エル・ファシルの英雄にそこまでされたら断れないでしょう。ねえ、軍曹」
「ええ。全力で少尉をお助けしないといけませんね」

 馬鹿にされるのを覚悟していたが、意外にも二人は快諾してくれた。その後、三人でお茶を飲んでケーキやパフェを食べながら、どのように俺の教育を進めていくか話し合った。店を出る時に俺が全員分支払おうとすると、曹長と軍曹は「いいですよ。私達が払います」と言ってくれた。ケーキ二つとパフェ一つとホットケーキ一つを食べた俺が一番金使ってるはずなのに払ってくれるなんて、いい人達だなと思った。

 次の日に着任した俺は猛勉強を始めた。二人から渡されたマニュアルを熟読して業務知識や作業手順を頭に叩き込む。側についてもらってアドバイスを受けながらひと通りの作業をして、給与係の業務を流れとして把握する。チェックを受けながら作業をして、一つ一つの作業の正確性を高めていく。二人の仕事ぶりを側について観察し、どうしてそうするのかを質問する。学んだことはその場で全部メモを取る。受験勉強の時と同じように知識を叩き込んで流れを掴んでから手を動かして慣らしていくことを徹底した。
 
 毎朝早めに出勤してその日にするべき仕事の内容を予習し、部下が帰った後も残ってその日にした自分の仕事をチェックして復習をする。俺が一人前に仕事できるようになるまでは軍曹と曹長が係員をまとめて給与係を取り仕切った。自分の仕事があるのに俺を指導してみんなを取り仕切ってくれるなんて、いくら感謝してもし足りない。頑張って一人前に仕事できるようにならなきゃと思う。

 作業をこなすだけが管理職の仕事ではない。俺も自分の手で部下を取り仕切れるようにならないといけない。給与係を取り仕切る曹長と軍曹を見てそう思った。二人から助言を受けながら係員の仕事ぶりを見てそれぞれの作業の得意不得意や業務知識の程度などを把握するように務めた。また、直接会話をして性格や人間関係を把握しようとした。対人関係が苦手な俺だったけど、幸いにも係員達はエル・ファシルの英雄としてソリビジョンで見た俺に興味があったらしく、積極的に話しかけてきてくれたし、聞けば何でも話してくれたから知りたいことを質問するだけでよかった。ここまで好意的に接されると拍子抜けするぐらいだ。英雄の虚名もたまには役に立つ。

 俺が業務を習得して給与係の状況を把握していくにつれて曹長と軍曹の担当していた仕事は少なくなっていき、三ヶ月が過ぎた頃には彼女らは本来の主任の仕事に戻って俺が給与係の仕事を1人で取り仕切れるようになっていた。

 初めて人を使ってみたけど、こんなにうまくできるとは思わなかった。カヤラル曹長とシャリファー軍曹が部下で良かったと思う。幹部候補生養成所で『部隊の能力は下士官の質で決まる』と習ったけど、それを実地で体感できた。業務能力と統率力を兼ね備えたこの二人がいなければ、俺は何もできないままに給与係を混乱に陥れていたと思う。係員六人もみんな真面目で人柄が良いし、無能な俺には申し訳ないぐらい良い部下を持てた。指揮しているというより育ててもらっている感じだ。こういう部下ばかりだったら楽なのにな。



「この花、フィリップス少尉が持ってきたんだってね」

 俺が窓際に飾ったローズマリーの鉢植えを指して言ったのは会計課長のコズヴォフスキ大尉。俺の直接の上司にあたる。ふさふさの白髪に黒縁のメガネをかけている初老の男性だ。いかにも人が良さそうで軍人というより田舎の村役場の職員っぽい。

「邪魔でしたか?」
「いや、部屋の雰囲気が柔らかくなったよ。君は細かいところに気が利くね」

 最近、気が利くと言われることが多い。おととい、給与係のシェイ上等兵のお父さんの誕生日にレストランの食事券を渡した時もそう言われた。感謝してたからあげただけで特別なことはしてないんだけどな。お父さんの誕生日と好物も彼女が言ってたのを覚えてただけでわざわざ調べたわけでもない。何も考えずにしたいと思ったことをしただけだから、気が利いてるわけではないと思う。

「給与係も本当にまとまり悪くて、前任の係長も苦労してた。だけど、今は一致して君を支えようという空気がある。あの給与係をあそこまでまとめられるなんて大したものだ」
「最初からみんなで支えてくれて助かりましたよ。苦労どころか楽させてもらってありがたいぐらいです。部下に恵まれました」

 前任の係長がどんな奴か知らないけど、カヤラル曹長とシャリファー軍曹を部下に持っているのにまとめられないなんてどんだけ無能なんだ。あの二人がいたら、寝てたってまとめられると思うぞ。

「部下は上官次第で有能にも無能にもなる。部下が頑張っているのは、上官たる君が頑張ったからだ」
「俺があまりに頼りないから、部下が頑張るしか無いんですよ、きっと」
「若い子が頑張ってる姿見たら応援したくなっちゃうのかな。あれとか」

 コズヴォススキ大尉は俺のデスクの方を見て目を細める。大きなクッキー缶の中にクッキーやチョコレートやマフィンがぎっしり詰まっている。給与係のみんなが持ち寄ったお菓子だ。恥ずかしくなって頭をポリポリとかいてしまう。

「みんなが持ってきてくれて食べろ食べろって言うんですよ。子供扱いされてるみたいで…」
「童顔だもんねえ。ソリビジョンで見るよりずっと幼くて驚いたよ」

 反応に困ったのでとりあえず笑ってみると、反比例するように大尉の表情が曇る。

「君は有能で人柄もいい。できればずっとうちの課にいてほしかったんだが…」

 ずっといてほしかったって、どういうことだ。それって俺がいなくなること前提で言ってるのか?出ていかなきゃいけないようなまずいことでもしたのか?
 
「どういうことですか?」
「なかなか言い出せなかったんだが、この話が本題なんだ。難しい話だから場所を変えるけどいいかい?」
「はい」

 大尉の後について会計課の部屋を出る。難しい話ってなんなんだろう。足を一歩踏み出すたびに不安が大きくなっていく。大尉が立ち止まったのは基地司令室の前。

「コズヴォフスキ大尉、ご苦労だった。エリヤ・フィリップス少尉には私から話そう」

 司令室の主である基地司令オロンガ大佐に敬礼する大尉。基地司令が直接話すような大事になってるのか。俺の不安は頂点に達して腹痛を引き起こす。

「エリヤ・フィリップス少尉。宇宙艦隊司令部への転属命令が出ている。七月末日までに出頭せよとのことだ」
「う、宇宙艦隊司令部ですか!?」
「そうだ」

 宇宙艦隊司令部って言えば同盟軍の実戦部隊の中枢だ。士官学校卒のエリートの中でも特に優秀な人材が集まってる。なんで俺がそんなところに呼ばれるんだ?動揺で声が震えてしまう。

「ど、どういうことですか…?」
「小官にもわからない。秋に大規模な出兵があると聞いているから、その関係だとは思うが」

 いくら大規模な出兵があると言っても、宇宙艦隊司令部には俺なんか必要ないだろ。俺より経験豊富な補給士官なんていくらでもいるじゃないか。さっぱり理解できない。

「辞退はできないんですか…?」
「小官の権限の及ぶ範囲であれば受け入れることもできるのだが…。」

 二〇〇〇人を超える部下を率いる基地司令の権限すら及ばない雲の上から出た命令なのか。そんな世界の住人がなぜ俺の人事なんかに介入するんだろうか。宇宙艦隊トップの司令長官はシドニー・シトレ大将。ナンバー二の副司令長官はラザール・ロボス大将。いずれも今年就任したばかりでそれぞれ六個正規艦隊を指揮下に置いて宇宙艦隊を二分する存在だ。この二人のどちらかの周辺ということになるのかな。考えるだけで気が遠くなりそうだ。

「了解しました」

 一礼して基地司令室を出て、会計課の部屋に向かう。ドアを開けると俺のデスクの周りに給与係員が集まってコーヒー片手にお菓子をつまんでいるのが見えた。一人が俺に気づいて手を振る。彼女たちにどう別れを告げるか考えるだけで気が重かった。 

 

第十八話:エル・ファシルの英雄再び 宇宙暦791年7月26日 同盟首都ハイネセン 宇宙艦隊副司令長官執務室

 宇宙艦隊副司令長官ラザール・ロボス大将は今年で五十三歳。リスクを厭わず大胆に仕掛けていく用兵に定評があり、四年前のドーリア星域会戦で中央突破からの背面展開を成功させて帝国軍を全面敗走に追い込んだ手腕は用兵芸術の極致と言われる。幕僚としての評価も高い。国防委員会や統合作戦本部の要職を歴任し、対人関係の調整や政治家相手の折衝に優れた手腕を発揮した。大雑把で不注意なのが唯一の欠点だが、それすら将兵には愛嬌と受け取られている。宇宙艦隊司令長官シドニー・シトレ大将とは二十年以上にわたるライバルであり、切磋琢磨しあって共に同盟軍を代表する将帥に成長し、今年の春に同時に大将に昇進して宇宙艦隊の指揮権を分かち合った。ロボスとシトレが同盟軍の両雄であることを疑う者はいないだろう。

 というのが出版物やネットで得たロボス大将の情報。俺の記憶を付け加えるなら、二年後の七九三年に元帥に昇進して宇宙艦隊司令長官に就任するが、七九六年の帝国領侵攻作戦「諸惑星の自由」で完敗を喫して二〇〇〇万人の将兵を戦死させた責任を取って引退。そのまま療養生活に入り、四年後に死去している。自由惑星同盟滅亡の要因は主なものだけを数えても十を下らないが、誰が検証してもロボスの敗戦が最上位に来るのは間違いないだろう。最悪の愚将の汚名を未来永劫負っても仕方がない人物だ。

 名将という現在の評価と愚将という未来の評価。どっちがロボスの本質なのかを考えながら執務室に入ろうとすると、俺と入れ替わるように若い士官が出ていった。年齢は俺と同じぐらいだろうか。なかなかの美男子だ。「宇宙艦隊副司令長官のオフィスともなると、容姿も一流の人材が揃ってるんだな」と感心しながらインターホンを鳴らす。すぐに「入れ」と返事が返ってきた。聞くだけで声の主の風格が伝わってくる。緊張しながら中に入る。

 広々とした執務室の奥に鎮座しているロボス大将を見た瞬間、名将という現在の評価に軍配を上げざるを得ないことを理解した。どっしりとした肥満体はまるで岩山のようで将帥たるにふさわしい風格がある。眼には鋭気を宿し、口元はキリリと引き締まっている。一見するだけで目の前の人物が衆に抜きん出た存在であることは明らかだった。俺がデスクの前まで進むと、大将は笑顔で頷いて立ち上がって俺の方に歩み寄ってきた。意外と背が低いのに驚く。俺も背が低いけど、大将はもっと低い。

「よく来たな、フィリップス少尉」

 ロボス大将は俺の肩を叩きながら親しげに声をかける。思わず恐縮してしまう。

「貴官のことは前から聞いていた。エル・ファシルでの活躍は言うまでもない。第三管区司令部では従卒の仕事をしながら一生懸命勉強して試験に合格したそうだな。幹部候補生養成所では模範的な学生だったと聞いている。ポリャーネ補給基地のオロンガ司令も素晴らしい勤務ぶりだと褒めていた」

 現在の同盟軍には元帥がおらず、八人の大将が全軍五〇〇〇万の頂点に立っている。その一人が一介の少尉でしかない俺についてそこまで知っていることに驚く。エル・ファシルのことなら報道やネットで知ることはできるが、それ以降はしっかり調べないとわからない。ロボス大将は俺の何に興味を持ったんだろうか。

「小官のことをご存知だったんですか?」
「私のような立場だと、自分の仕事だけを考えているわけにはいかないのだ。未来のために優れた人材を育てる必要がある。貴官のような優秀な若者に興味を持つのは当然だろう」

 この人は駆け出しの補給士官でしかない俺に何を期待しているのだろうか。大将ともなれば、俺なんかより優れた人材はいくらでも目にとまるはずだ。あまりに不可解で混乱してしまう。

「我が軍は十月に大々的な攻勢に打って出る。あれを見たまえ」

 ロボス大将が壁のスクリーンを指すと、星図が浮かび上がった。エルゴン星系からイゼルローン回廊に至る宙域だ。一番左側には青で塗りつぶされたエルゴン星系、一番右側には赤で塗りつぶされたイゼルローン回廊。その間にある星系は全部イゼルローン要塞と同じ赤色で塗りつぶされている。

「三年前のエル・ファシル陥落で我が軍の前線はエルゴンまで後退した。第七方面軍は総力をあげて防衛にあたっているが、星系外周部の防衛基地群は今年の三月に突破され、最近はシャンプールの近くまで敵の哨戒部隊が進出している。貴官が二月にシャンプールを離れてから、戦況は急速に悪化している」

 シャンプールは受験勉強に励んだ第七方面管区司令部や士官教育を受けた第八幹部候補生養成所がある惑星だ。俺が少尉に任官してマル・アデッタ星系の基地で給与係の仕事をしてる間にとんでもないことになってたのか。

「占領された三十五星系からの避難民は一億人近い。エルゴンが陥落したらさらに二億人が加わるだろう。それだけは絶対に阻止しなければならん。大攻勢をかけて前線をイゼルローン回廊の手前まで一気に押し戻す。それが今回の作戦の目的だ」

 宇宙艦隊副司令長官から軍事情勢を説明されるというぶっ飛んだシチュエーションに頭がクラクラしてしまう。最近は筋の通った出来事ばかり起きていたから忘れかけていたが、やはりこれは夢なのだ。そうとでも思わないと、ロボス大将が俺に作戦を説明する理由がわからない。困惑する俺をよそにロボス大将はスクリーンに向かってスッと腕を伸ばして人差し指を突き出し、左から右に向けて線を書くように腕を動かすしぐさを二回した。それに合わせてスクリーン上に二本の線が浮かび上がる。

「今回の作戦では宇宙艦隊から六個艦隊を動員する。エルゴンに集結した後で二手に分かれてシトレ司令長官はドーリア方面から、私はエル・ファシル方面からそれぞれ三個艦隊を率いて帝国軍を排除しながら進軍し、イゼルローン回廊の手前で合流する」

 六個艦隊を動かすという壮大な作戦にただただびっくりするだけだ。しかし、それを俺が聞かされる理由がわからない。補給士官の少尉にできる仕事なんて、軍艦の補給部門の主任士官か基地の係長ぐらいだぞ。わざわざ宇宙艦隊副司令長官が説明するような仕事じゃない。

「貴官にはエル・ファシル奪還の指揮をとってもらう。エル・ファシルの英雄エリヤ・フィリップスがエル・ファシルを取り戻すのだ!」

 ロボス大将がスクリーンに向けて伸ばしていた腕が急に俺の方を向き、人差し指がまっすぐに俺を指差す。いつの間にか鋭くなっていた大将の目が俺の目をしっかりと見据える。俺がエル・ファシル奪還の指揮…!?どんどん大きくなっていく話についていけない。こんな感覚は英雄に祭り上げられた時以来だ。

「エル・ファシルからの避難民五〇〇〇人が奪還作戦への参加を志願している。我が軍は彼らを義勇兵として受け入れ、近日中にエル・ファシル義勇旅団を結成する予定だ。貴官が旅団長だ」

 俺が五〇〇〇人の指揮官だって!?旅団長って言えば普通は大佐だぞ!?むちゃくちゃだ!!

「小官が旅団長ですか!?無理ですよ。少尉になったばかりなのに」
「義勇兵部隊の役職と軍の階級は関係ない。仮に一介の民間人が旅団長になったとしても問題ない」
「しかしですね、少尉になったばかりなんですよ。経験が無いですよ。いきなり五〇〇〇人を指揮しろって言われても…」

 なんで俺が選ばれるんだよ。八人の部下を使うのもやっとなのに、いきなり五〇〇〇人も指揮できるわけないじゃないか。こんなことになるんなら、ずっとポリャーネ基地の給与係で仕事していたかったよ。

 目をつぶって給与係のみんなと別れた時のことを思い出す。

 カヤラル曹長は「少尉がおなか空かせちゃいけないから」と言って、クッキーとチョコレートのでっかい詰め合わせ袋を三個も渡してくれた。袋は全部曹長が手縫いで作った袋。ハイネセンに向かう船の中で泣きながら食べた。

 シャリファー軍曹は公用語教師っぽい外見そのままの堅物だったけど、最後の最後に「一つだけお願いしたいことがあります」と真面目な顔でお願いされた。ドキドキして何をすればいいか聞き返すと、笑って「少尉のほっぺたを触らせてください。一度触ってみたかったんです」と言われて拍子抜けしたものだ。嬉しそうに俺のほっぺたを指でつついたり、つまんで引っ張ったりしてたなあ。

 他の係員とも一緒に写真撮ったり、プレゼントもらったりしたなあ。もうすぐ出発って時に給与係で一番年下のネイサン一等兵が俺の手を握ったまま泣き出しちゃったの見て悲しくなって、俺も涙ボロボロ流して一緒に泣いてた。あれを見た通りすがりの人達はどう思ってたのかな。

 まずい、よりによってこんな時に涙がこぼれてきそうになる。そんな俺をロボス大将の声が現実に引き戻す。

「貴官に指揮をとってほしいというのは志願者からの要望なのだ。いきなり大任を任されて不安なのはわかる。だが、そこで不安を感じるような者こそ指揮官にふさわしい。功名心に燃えて不安を忘れる者には指揮官は任せられん。誰に貴官のことを聞いても、褒め言葉以外の言葉は聞いたことがなかった。実際に会ってみて、その理由がわかった。貴官以外の指揮官は考えられん。志願者に代わってお願いしたい。義勇旅団の指揮をとってくれんか」

 優しく語りかける声が心に染み入る。大将ともあろう人がここまで俺を気にかけていてくれるのかと思うと心が揺れる。旅団長なんてできるとは思えないけど、できないと突っぱねるのも申し訳ない。どうしよう…。

「指揮官に必要なのは部下が安心して命を預けられるという信頼だ。エル・ファシルの人々が命を預けるのは英雄であるエリヤ・フィリップスだけだ。幕僚はこちらで用意する。貴官にできないことは全部彼らがやる。不安になる必要はない」

 それは軍の都合で作られた英雄像だ、と思ったけど。それでも違うとは言えなかった。一つ一つの言葉に力を込めて強調するロボス大将には妙な説得力があった。

「ハイスクールの劣等生が一年で士官学校合格レベルの学力を身につけ、幹部候補生養成所ではベテラン下士官達と競い合って優秀な成績で卒業し、補給基地でもまったく仕事ができない状態から部下の心を掴んでみせた。君は常に努力で不可能を可能にしてきた。ハイスクールにいた時の貴官は少尉となった自分を想像していたか?今の貴官には五〇〇〇人を率いる自分を想像できないかもしれん。しかし、二ヶ月後の貴官はそれを現実にしていると私は信じる」

 この人は俺がどれだけ努力してきたか知ってるんだ。知っていてできると言ってるんだ。ここまで言われてできないなんて言えない。ここまで信じてくれる人を裏切るなんてできない。

「わかりました。引き受けさせていただきます」
「良く言ってくれた。エル・ファシルの人達もきっと喜ぶぞ」

 ロボス大将はにっこり笑ってポンと俺の肩を叩く。難しい仕事だけど、俺をちゃんと見てくれている人ができると言ってくれたんだ。できるように頑張らないといけない。ロボス大将の期待に応えてみせると心に誓った。 

 

第五章 エル・ファシルを取り戻せ
  第五章開始時人物設定

主人公
エリヤ・フィリップス 23歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少尉、義勇軍大佐
役職:エル・ファシル義勇旅団長
性格:小心で卑屈。素直で真面目な優等生。努力を楽しめる。自己評価は低い。
容姿:爽やか、絵になるなどと言われているが、以前は冴えなかったと言われる。
能力:学力、運動能力ともに高い。コミュニケーションは苦手だが、人に協力を頼むのはうまい。
略歴:第八幹部候補生養成所卒業後、補給基地勤務を経て、エル・ファシル義勇旅団長を務める。前の人生ではアーサー・リンチに従ってエル・ファシルから逃亡したことがきっかけで転落した。
史実:登場せず。

親しい人
エーベルト・クリスチアン 40代 男性 ゲルマン系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:軍隊を家族と考えている。剛直だが人情に厚い好漢。単純明快な物言いを好む。
容姿:背はさほど高くないが、肩幅と胸板が厚い。いかつい顔に不機嫌そうな表情。
能力:勲章受章経験のある勇者。食事と睡眠の重要さを理解していて、部下の待遇改善に熱心。
略歴:陸戦隊出身。エル・ファシルの英雄になったエリヤの広報担当を務めた時に親しくなった。エリヤが職業軍人になるきっかけを作った人物。
史実:救国軍事会議メンバーとしてスタジアムの虐殺を引き起こした。
初出:第八話

イレーシュ・マーリア 28歳 女性 マジャール系(姓が前、名が後に来る)
階級:自由惑星同盟軍大尉(第三章終了時点)
役職:第七方面管区後方部(第三章終了時点)
性格:とっつきにくい外見とは裏腹に思いやりがある。
容姿:180センチを越える長身。非の打ち所のない美形。眼力が異常に強い。不機嫌そうな表情。
能力:対人観察力が高い。熱心な教育者。
略歴:士官学校卒のエリート。幹部候補生養成所を受験するエリヤの学力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

カスパー・リンツ 21歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍少尉(第四章終了時点)
性格:気さくだが、やや屈折している。
容姿:脱色した麦わらのような髪に青緑色の瞳を持つ美男子。
能力:白兵戦技と射撃術の達人。絵と歌がうまい。
略歴:幹部候補生養成所時代の唯一の友人。
史実:ワルター・フォン・シェーンコップの片腕。ローゼンリッター最後の連隊長。
初出:第十六話

バラット 男性 タイ系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第三章終了時点)
役職:第七方面管区シャンプール基地教育隊体育教官(第三章終了時点)
性格:単純熱血。太っ腹。
容姿:がっちりした体格。猛犬のような印象。
能力:トレーニング指導のプロ。
略歴:陸戦隊出身でクリスチアンの元部下。幹部候補生養成所を受験するエリヤの体力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ルシエンデス 30代 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍曹長(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:ざっくばらん。
容姿:小綺麗な身なり。
能力:軍服を着た人を撮影すれば、右に出る者はいない。
略歴:統合作戦本部広報室のカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

ガウリ 20代後半 女性 インド系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:気さく。
容姿:小綺麗な身なり。
略歴:統合作戦本部広報室のスタイリストカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

家族
ロニー・フィリップス 47歳 男性 アングロサクソン系
職業:パラディオン市警の警察官(第二章終了時点)
性格:善良でお調子者。
略歴:エリヤの父。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

サビナ・フィリップス 46歳 女性 チェコ系
職業:看護師(第二章終了時点)
性格:心配症でおせっかい。
略歴:エリヤの母。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ニコール・フィリップス 25歳 女性 アングロサクソン系
職業:ジュニアスクールの非常勤講師(第二章終了時点)
性格:しっかり者。
略歴:エリヤの姉。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

アルマ・フィリップス 18歳 女性 アングロサクソン系
職業:ミドルスクールの生徒(第二章終了時点)
性格:甘えん坊の食いしん坊。
略歴:エリヤの妹。前の人生ではエリヤに懐いていたが、逃亡者になると最も激しく拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

同級生
ミロン・ムスクーリ 23歳 男性 ギリシャ系
性格:爽やかなスポーツマン。
容姿:大男。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。元フライングボール部のスター。前の人生では極右団体の構成員。逃亡者になったエリヤを迫害した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ルオ・シュエ 23歳 女性 チャイナ系
容姿:丸顔。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の数少ない友達。前の人生では、逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

フーゴ・ドラープ 23歳 男性 チェコ系
性格:誰にでも優しい。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。信望が厚く、クラス代表を務めた。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

その他知り合い
ラザール・ロボス 53歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍大将(第五章開始時点)
役職:宇宙艦隊副司令長官(第五章開始時点)
性格:豪放で大らか。社交的な性格。
容姿:小柄でどっしりとした肥満体。将帥にふさわしい威厳の持ち主。
能力:リスクを厭わず、大胆に仕掛ける用兵に定評がある。対人調整や政治的な折衝にも長ける。人の心に入り込むのがうまい。雑務が苦手。
略歴:同盟軍きっての名将。エル・ファシル義勇旅団結成の仕掛け人。
史実:帝国領侵攻に失敗して、同盟軍を壊滅に追い込んだ愚将。
初出:第十八話

ヤン・ウェンリー 23歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第二章終了時点)
性格:冷静沈着。責任感が強い。整理整頓ができない。他人の期待通りに振る舞うことを嫌う。
容姿:ハンサムだが、身なりに無頓着なせいで冴えないように見える。
能力:頼りなさそうな風貌とは裏腹に、有能で精力的な指揮官。
略歴:士官学校卒のエリート。エル・ファシル脱出作戦を指揮した真の英雄。メディア受けしないコメントを連発したせいで、人気は盛り上がらなかった。
史実:自由惑星同盟末期最高の名将。生涯不敗を誇った用兵の天才。
初出:第五話

アーロン・ビューフォート 男性 アングロサクソン系
階級:中佐(第二章終了時点)
性格:さっぱりした性格。本当の意味での大人。
容姿:30半ばに見える。
略歴:エル・ファシル脱出船団旗艦の艦長。エリヤに絡まれたが、大人の対応をして泣かせた。
史実:大親征でビッテンフェルトを迎撃した。
初出:第七話

フランチェシク・ロムスキー 30前後 男性 ポーランド系
職業:エル・ファシル市会議員、内科医師(第二章終了時点)
性格:気さくだがやや軽率。
容姿:大柄。
略歴:エリヤをエル・ファシル星系政庁に連れて行った。
史実:同盟から独立したエル・ファシル独立政府の主席を務めた。
初出:第三話 

 

第五章 エル・ファシルを取り戻せ
  第十九話:おもちゃの兵隊とお人形の司令官 宇宙暦791年9月 惑星ハイネセン 宇宙艦隊司令部F棟 エル・ファシル義勇旅団司令部

 宇宙暦七八九年八月八日。自由惑星同盟軍宇宙艦隊司令部は『エル・ファシル義勇旅団』結成を正式に発表。俺が義勇旅団長に就任したのは言うまでもない。副旅団長は民間人のマリエット・ブーブリル。参謀長カーポ・ビロライネン大佐以下八人の参謀は司令部から派遣された現役軍人。義勇旅団を構成する各連隊・大隊・中隊・小隊の長には民間人が起用され、現役軍人の顧問の補佐を受ける。義勇旅団に参加した者は役職に応じて臨時に義勇軍階級を授けられた。俺は義勇軍大佐、ブーブリルとビロライネンは義勇軍中佐といった具合だ。宇宙艦隊副司令長官直々に与えられた任務に興奮していた俺だったが、初日から自分の甘さを思い知らされた。

「これはどういうことですか!私達を戦力として期待していないということですか!?」
「いや、期待していないと言っていませんよ。しかしですね、二ヶ月の訓練では限度があるのです。我々としても民間人の皆さんをむやみに危険に晒すことはできないんですよ」
「納得いきません!私達がどれだけ耐えてきたと考えてらっしゃるのですか!?命を惜しむとでも思っているのですか!?」

 司令部全体に聞こえるんじゃないかと心配になるような大声で怒鳴り散らしているのは義勇旅団司令部の中で唯一の民間人にして女性である副旅団長のマリエット・ブーブリル。今年で三十二歳になるが上品で優しげな美貌を持ち、四~五歳は若く見える。元従軍看護師で勲章をもらったこともあるというが、世間的な知名度は皆無に近く公的な肩書きもエル・ファシル退役軍人連盟青年部副部長に過ぎない。俺が言うのもなんだけど、どうして副旅団長に選ばれたのかさっぱり理解できない。

 そんな彼女が腹を立てているのは、エル・ファシル奪還作戦に正規軍二個旅団九〇〇〇人が参加することを知ったからだ。義勇旅団が主力になるとばかり思っていたらしい。必死でなだめるのは今年で三〇歳になる参謀長のカーポ・ビロライネン大佐。いかにも神経質で気難しそうなビロライネンはブーブリルとは逆に五歳は老けて見える。士官学校卒のエリート参謀でロボス大将の腹心と言われる切れ者だ。

「皆さんの思いは理解しているつもりですよ。だから、軍としても可能な限りのサポートを…」
「サポートじゃないでしょ!お守りじゃないんですか!!」
「サポートですよ。あくまで主役は義勇旅団の皆さんであるということは心得ているつもりです」
「だったら二個旅団もいらないでしょ!」

 興奮したブーブリルはテーブルを勢い良く叩きつけた。容姿からは想像も付かないヒステリックぶりに会議室の人々はすっかり引いてしまっている。彼女が切れ長の目を見開いて一同を見回すと、みんな視線を逸らす。まいったなあと思いながら眺めていると、ブーブリルはいきなり俺の方に振り向く。まずい、目が合ってしまった。

「あんた、旅団長でしょ。なんか言いなさいよ!」
「あ、いや、小官から言うことは特に…」
「おとなしく座ってろって言われてんの?やっぱ、見た目だけのお飾り旅団長なの!?」

 あんただって見た目がいいだけのお飾り副旅団長じゃねえかと思ったけど、さすがに口にはしない。初対面の時はニコニコしてて凄く感じ良かったのにな。

「副旅団長、旅団長に対して失礼ではありませんか」

 苦々しげな表情を浮かべてたしなめるビロライネン。ふんと鼻を鳴らすブーブリル。この先やっていけるのか不安になった。

 最初の会議から三週間が過ぎ、義勇旅団は出征に向けてテキパキと動き出しているが、俺の気分はどん底まで沈んでいる。

 副旅団長のブーブリルは相変わらずだ。会議で無理難題を言ってはみんなを困らせている。俺のことをあからさまに嫌っているらしく、会議ではしつこく絡んでくるし、裏でもいろいろ悪口を言っているようだ。最近は顔を見るだけで嫌な気分になる。俺と彼女は義勇旅団の広告塔的役割を務めていて、一緒に番組に出演することも多い。控室では俺の方を見ることすらしないのに、一旦カメラの前に出たら満面の笑顔を見せて親友のように振る舞ってのけるのだから大したものだと思う。

 参謀長のビロライネン大佐は俺を棚上げしようという態度を隠そうともしない。俺とブーブリルが出席しない参謀だけの会議で全部決めてしまって、司令部全体会議では事後報告のみ。行進訓練と整列訓練ばかりで基礎体力訓練が皆無に近いこと、見栄えはいいけど信頼性に欠ける装備ばかり揃えていることなどに疑問を感じるけど、口を挟める雰囲気ではない。

 日常業務だって最初のうちは型通りとはいえ報告をしてから書類の決裁を求めたが、最近は面倒くさくなったのか書類をポンと渡すだけだ。部隊視察はビロライネンがきっちりコースを組んで俺の裁量の余地は一ミクロンもなく、まるでツアーのようだ。メディアに出演する際もビロライネンが事前に作った文案通りに発言するだけで完全にスピーカーと化している。

 たまりかねて「何か仕事をさせてほしい」と頼んだら、「参謀に全部任せるのが司令官の仕事です」とやんわり断られ、「部隊運営を勉強したいから教えてほしい」と言ったら無視された。せめて部隊の状況を把握しようと参謀の一人に頼んで取り寄せた人事関係や経理関係の書類を読んでいたら、怒った顔のビロライネンに取り上げられて「そんなことはしなくていい」と言われた。

 ロボス大将とはあれからほとんど話していない。副司令長官の司令部と義勇旅団の司令部は別の建物だから、日常的な接触がない。週に一度は義勇旅団司令部に来て俺やブーブリルやビロライネンや参謀たちと昼食をとるけど、ロボス大将と付き合いが長いビロライネン達を差し置いて話しかけるほど厚かましくもなれない。ロボス大将から親しげに話しかけられてもビロライネンの目が気になって、無難な答えを返してしまう。

 気が付くと、義勇旅団司令部の中ですっかり浮き上がってしまっていた。ビロライネン大佐を始めとする参謀陣は自分達だけで固まってしまっているし、ブーブリルとの関係も最悪だ。昼食に行く時だっていつも一人。ポリャーネ補給基地での日々が嘘のようだ。携帯端末でメールを送っても、クリスチアン少佐やイレーシュ大尉やバラット軍曹からはなかなか返事が来ない。三人とも今度の出兵に参加するそうだから忙しいのだろう。リンツもローゼンリッターに入隊したばかりで忙しいようだ。ルシエンデス曹長、ガウリ軍曹、ポリャーネ補給基地の給与係のみんなのように今回の出兵に関係ない人達とのメールでガス抜きをしている状態だ。

 あまりにすることがないので執務中でも携帯端末を使ってネットを見ていた。俺を暇にさせておくのは良くないと思ったビロライネンが仕事を回してくれることを期待していたんだけどまったく咎められなかった。下手にやる気を出さずにおとなしくしててくれるなら、むしろありがたいぐらいに思っているのかもしれない。

 小心者で他人にどう思われてるかが気になってしまう俺はつい、「エル・ファシル義勇旅団」「エル・ファシル義勇旅団 エリヤ・フィリップス」などの単語で検索してしまう。エル・ファシルの英雄として持ち上げられていた時は自分を見失ってしまいそうでネットを見ることができなかったが、今回はお飾りなのがわかってるから安心して見ることができた。ネットの情報は玉石混交であまり信用のおけるものではないのは、俺の起用が「女性人気目当て」と言われてる時点で良くわかる。だから、わりと穏当な話を参考にするぐらいだけど、それでもうんざりするような話がたくさん流れていた。

 第一にエル・ファシル避難民問題。三〇〇万人もの避難者の受け入れ先を見つけるのは難しかったらしく、エル・ファシル脱出船団がシャンプールに着いた時も俺やヤンのように上陸できたのはごくわずかで大半が船の中に留め置かれていた。先行きへの不安が怒りに転じ、暴動が発生した船すらあったという。今でも避難民の七割が各地の仮設宿舎でわずかな支援金を頼りに暮らしていて、先の見えない避難生活の中で心身を病んでしまう者も少なくないそうだ。避難先の地域に馴染めずに苦しむ者も多いらしい。ブーブリルが言う「ずっと耐えてきた」「命なんか惜しくない」というのは綺麗事ではなくて、避難民としての本音が幾分か含まれていたのかも知れない。

 エル・ファシルを始めとする各星系の避難民問題はかなり深刻な社会問題と化していて、ちょっと検索しただけでも避難民問題を扱う本がたくさんあった。大手出版社が出した『検証-エル・ファシルの英雄は誰を助けたか』という本の題名が胸にぐさっと刺さる。著名な反戦派系ジャーナリストで避難民問題の第一人者のパトリック・アッテンボローという人が書いたそうだ。あの時、一緒に逃げた人達がどうなったかなんて全然知らなかった。俺のように落ち着き先を見つけて普通に過ごしてると思ってた。勉強に忙しくて社会問題にまったく興味を持たなかった自分が恥ずかしくなる。

 第二にエル・ファシル義勇旅団の結成の背景。今回の作戦のメインは敵の大拠点があるドーリア星系ルートを攻略するシトレ司令長官で、ロボス大将が攻略するエル・ファシル星系ルートはサブに過ぎないらしい。そして、エル・ファシル義勇旅団の結成はついでに過ぎないエル・ファシル奪還作戦に世間の注目を集めて、自分の功績を大きく見せようとするロボスの画策だというのだ。反戦派系メディアが流している話だから眉に唾を付ける必要はあるけど、統合作戦本部にいるルシエンデス曹長にそれとなく聞いてみたところ、「シトレがメインでロボスがサブなのは周知の事実」「義勇旅団のおかげでエル・ファシルが注目されてるのは確か」「いろいろ噂があるけど、ロボス大将の考えは俺にはわからん」という答えが返ってきた。

 反戦派系電子新聞に掲載されたパトリック・アッテンボローの署名記事では避難民の貧困と義勇旅団結成を同一線上の問題として扱い、貧困と不適応という二つの問題を解決するために志願兵として軍に入る避難民が少なくないこと、義勇旅団への参加者募集時に提示された支援金増額と優先的就職斡旋の内容などが詳細に記され、「経済的弱者である避難民の弱みに付け込んで、宣伝に利用しようとしたのではないか」と締めくくられていた。

 反戦派の軍批判を真に受けすぎるのは良くないけど、それでも義勇旅団の宣伝ばかりやらされてる今の自分の立場、義勇旅団の見栄えばかり飾り立てようとするビロライネン大佐らのやり方を思うと、『義勇旅団は宣伝の道具』という主張に説得力を感じる。

「結局、エル・ファシルを脱出した時と同じ宣伝用のお人形か。進歩ないな、俺も」

 アッテンボローの記事を読み終えた俺は官舎のベッドに横になってため息をつく。英雄として持ち上げられてた頃はルシエンデス曹長やガウリ軍曹が話し相手になってくれたけど、今は誰もいない。窒息する思いがする。早く終わって欲しい。そして、また普通の仕事に戻りたいと真っ白な天井を見ながら願った。 

 

第二十話:横を向いて歩こう 宇宙暦791年9月 惑星ハイネセン 宇宙艦隊司令部F棟 エル・ファシル義勇旅団司令部

 メディアに出る以外の仕事をほとんど与えられず義勇旅団司令部でネットを見て暇を潰していた俺だったが、九月に入ると忙しくなった。打ち合わせという名目で宇宙艦隊司令部や統合作戦本部や国防委員会事務局や陸戦総監部などを訪問しては幹部と面会するようになったのだ。もちろん、参謀長ビロライネン大佐の仕込みである。義勇旅団の体裁が整ってきたから、メディア向けの広報活動と併行して軍内部向けの広報活動も開始したのだ。

 毎日のように提督やら部長といった肩書きを持った人達と会って懇ろな言葉をかけられると、ただただ恐れ入るしか無い。国防委員長バンジャバン、統合作戦本部長フラナリー大将、宇宙艦隊司令長官シトレ大将といった軍部の頂点に立つVIPと会った時などは魂が消し飛ぶんじゃないかと思ったほどだ。向こうは大物だけあって完璧な礼儀をもって接してくれるんだけど、俺のような小さな人間にはそれが絶大なプレッシャーになるのだ。メディアで不特定多数向けに話す時とはまた違った難しさがあった。

 部隊視察に出向くことも多くなった。訓練の様子を見学し、隊長以下の幹部が出席する部隊のミーティングにゲストとして出席し、義勇兵と歓談した。視察の様子は写真と映像で記録されて、エル・ファシル義勇旅団公式サイト内のページ『日刊義勇旅団』に掲載される。

『日刊義勇旅団』は義勇旅団の活動状況を知らせるページだが、俺とブーブリルの動静に部隊の活動状況を絡めて写真入りで伝える『義勇旅団の一日』の他に司令部の参謀陣が執筆する『今日の司令部』、日替わりで各部隊の長が執筆する『部隊紹介』、義勇兵のインタビュー記事、エル・ファシルの風物紹介コラム、エル・ファシルの郷土料理のレシピなどが毎日更新で掲載されるという凝った作りになっている。制服姿の俺とブーブリルが笑顔で敬礼しているでっかい画像が表紙になってることと、第一面にいつも俺とブーブリルの写真を使っていることを除けば素晴らしい作りだ。

 実際、アクセス数はかなりのものだ。ネットでも話題を呼んでいて、『日刊義勇旅団を語ろう』なんてコミュニティも作られているほどの人気を誇っている。広報の専門家が作っているのかと思ったら、ビロライネン大佐が編集長らしい。あれだけ仕事してるのにこんなものまで作ってしまうんだから、さすがはロボス大将の懐刀だ。好きになれない人だけど。

『日刊義勇旅団』の人気は俺の立場に意外な影響を与えた。参謀達は相変わらず俺を軽視しているが、彼らと交流が薄い総務、会計、管理、通信、医務といった司令部要員は廊下ですれ違うたびに声をかけてくれるようになった。昼食に誘われることも多くなり、これまでのように一人寂しく食べることもなくなった。彼らが興味を持っているのが『日刊義勇旅団』の一面で格好良く映ってる旅団長であって、俺という人間でないことはわかっている。それでもかまってくれる人がいるのはありがたい。

 孤独に生きることと孤独に慣れることは違う。俺はエル・ファシルで逃亡してからの六〇年間を孤独に生きてきたが、それでも孤独に慣れることはできなかった。覚悟があって孤独になったのなら慣れることもできたのかも知れないが、俺の孤独はそうではない。一人でいるのが心細くてたまらなくて、人に好かれて孤独から脱出しようと努力しては気持ち悪がられた。今はそれなりに他人に尊重してもらえる立場だけど、一人でいると心細くなってしまうことには変わりない。だから、他人に対して強く出れない。今回の義勇旅団のように気が乗らなくても、期待通りに振る舞おうとしてしまう。我ながら情けないと思うけど、こればかりはどうしようもない。

「あの人、最近良く食堂で見かけるけど、最近うちの司令部に転属してきたんですか?」

 俺の視線の先にいるのは一人で食事をしている同年代ぐらいの若い士官。すらりとした長身でなかなかの美男子だ。線が細すぎる気もしないでもないけど、それがいいという人も多そうだ。宇宙艦隊司令部で何度か見たことがあるが、最近は義勇旅団司令部の食堂で見かけるようになった。いつも一人で食事していたから気になってた。

「いや、副司令長官の司令部の方ですよ。最近はうちの司令部との連絡係をしてるようですね。ご存知なかったんですか?」
「あ、いや。そちらは参謀長に任せてるんです。参謀長はもともと副司令長官の司令部に所属してましたから」

 答えたのは俺と一緒に食事していた通信課の三人のうちで一番若いチャイ曹長。司令部の仕事をまったくさせてもらっていないことがバレないよう、慌てて取り繕う。司令部の書類は全部副官が俺に取り次ぐ建前だが、実際はビロライネン大佐に取り次がれている。俺は参謀達が処理した書類にサインするだけだ。だから、副官に取り次がれた後の書類の流れを知らない人は俺がちゃんと仕事をしているものと勘違いしていた。

「あっちの人が『あいつ使えねえ』ってぼやいてました」

 ギクッとなる。ビロライネン大佐があの手この手で俺を有能そうに演出しても、わかる人にはわかってしまうのか。

「士官学校卒業した秀才なのにまったく仕事できなくて、使い走りしかさせてもらえないとか。あの通りの美形だから女の子達も最初は喜んでたんだけど、今では見向きもしないそうです。あれじゃきれいなだけのお人形だって。任官して半年ちょっとしか経ってないのに立派に部隊を率いてらっしゃる旅団長とは大違いですよ」

 ああ、彼のことか。自分のことを言われているみたいで胸が痛くなる。ロボス大将やビロライネン大佐から見た俺はきれいかどうかはともかくお人形なんだろう。他人事とは思えない。反射的に席を立った俺が早足で近寄っていくと、彼は気配を感じたのかこっちを向く。彼の前に立った俺は精一杯の笑顔を作って声をかける。

「俺達と一緒にごはん食べませんか?」

 彼は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑顔を作ってうなづいた。ちょっとぎこちない感じがする。笑顔を作るのが下手なのかな。なんか親近感を感じた。


「また、アンドリューか。この一時間でその名前を口にするのは何度目だ…?」

 クリスチアン少佐の呆れたような声。俺の携帯端末に久しぶりに少佐から通信が入ってきて話している最中なのだ。

「すみません」
「いや、仲が良いことだと思ったのだ。貴官には同年代の友人がほとんどいないからな。小官らのような年長者とばかり付き合っていては、僚友との付き合いができなくなってしまうのではないかと心配していた」
「ほんと、申し訳ないです」
「貴官は小官にとっては子供のようなものだ。親が子供の心配をするのは当たり前だろう。申し訳なく思うことなどない」
「本当に感謝しています」
「貴官は素直で真面目だ。指導すればするほど伸びる。上官にとっては本当にかわいくてたまらんが、僚友とは兄弟のように付き合い、部下は子のように可愛がることも大事だ。親にかわいがられても兄弟や子に疎まれるようでは良き家族にはなれん」

 少佐の言うとおり、これまでの俺は年長者に可愛がられるばかりで同年代の人間と対等な付き合いをしたことはほとんどなかった。幹部候補生養成所では二歳下のリンツと仲良くしていたけど、リンツの方は俺を弟分扱いしていたフシがある。対等の友人といえるのはおそらくアンドリューが初めてだ。

「確かに少佐のおっしゃる通りです。対等の相手との付き合いは考えたことがありませんでした。アンドリューには良い経験させてもらってます」
「軍に入って間もない頃に知り合う僚友というのは良いものだ。一緒に磨き合ってお互いを高め合っていく真の兄弟だ。アンドリューは貴官にとってはそのような友になるかもしれん。大事にせよ」
「はい!」
「明日の朝5時から新兵どもをかわいがってやらねばならんから、今晩はここまでだ。またアンドリューの話を聞かせてくれ。その話をしている時の貴官は本当に楽しそうだからな」
「ありがとうございました!」

 高揚した気持ちで携帯端末を切ると、ベッドに横になった。久々に敬愛する少佐と話せたということと、仲良しのアンドリューの話を他人に聞かせることができたということが嬉しくてたまらない。

 アンドリュー・フォーク中尉は俺の二歳下だ。士官学校を首席で卒業した後、ロボス大将の司令部にスカウトされて作戦課で勤務している。同盟軍では軍幹部や政治家が有望な若手士官を取り込んで派閥に組み込む行為が横行していた。

 派閥に入った士官は統合作戦本部や国防委員会や宇宙艦隊司令部などの軍中枢機関に配属され、戦時には戦艦艦長や正規艦隊参謀などの戦功を立てやすいポストに優先的に起用されて出世街道を驀進していく。将官ポストが少ない同盟軍では士官学校卒のエリートでも大半が大佐止まりだが、派閥に入って戦功を重ねたら二〇代で大佐、30代で将官になれる。ビロライネン大佐がその好例だ。アンドリューもロボス大将の司令部に入って出世コースの入り口に入ったが、いきなりつまずいてしまった。

「ロボス大将の司令部って本当に凄い人ばかりでさ。三日で自信なくしちゃった」
「学校だったら課題が与えられるよな。わからなくても先生がちゃんと指導してくれる。でも、司令部は違うんだ。課題は自分で作らないといけないし、わからなければ見放される。しんどいよ」
「幕僚には全体を見渡す目、どんな時でも冷静になる心が必要なんだって。何をすれば伸びるのかって聞いたら、『技術や知識みたいに努力だけで伸ばせるものとは違う。人に聞いてるうちは伸びない』って言われたよ」
「早く一人前になって尊敬するロボス大将の役に立ちたい。足手まといの自分が情けなくなる」

 アンドリューのぼやきはいつも俺にグサグサと突き刺さった。努力して与えられた課題をこなすことにはそれなりに自信があった。しかし、義勇旅団のように課題すら与えられない場所ではどうしようもなく無力になってしまうことがわかった。俺は何も期待されないお人形の旅団長、アンドリューは期待に応える方法がわからないという違いはあるものの本質的には同じだ。もちろん、士官学校を首席で卒業したアンドリューとハイスクールの劣等生あがりの俺ではモノが違う。

 アンドリューは三大難関校の一角で同盟全土から学力・運動能力共に抜群の人材が集まる士官学校の一学年五〇〇〇人中の首席だけあって、学力はもちろん実技や体育も桁外れだ。宇宙艦隊司令部の体育館で白兵戦技の組み手を試しにやってみたら手も足も出なかった。どんな姿勢で射撃しても楽々と的のど真ん中を射抜いてしまう。どっちも幹部候補生養成所ではそれなりに自信のあった科目だけにショックだった。リーダーシップにおいても士官全体の生徒代表である生徒総隊長を務めていたから、幹部候補生養成所で棟の副代表の大隊長補佐を務めた程度の俺とは格が違う。

「まるで漫画の優等生みたいだね。勉強はいつも学年一番、スポーツをすれば運動部のエース、生徒会やボーイスカウトではいつもリーダーって感じ」と言ったら、「ミドルスクールまでそうだったけど」とあっさり返されてびっくりしたものだ。こんなスーパーマンでも手も足も出ないんだから、参謀の世界ってどんな魔境なのかと思う。俺のように技術や知識を磨いてルーチンワークをこなす叩き上げ士官には想像もつかない。そこで生き残ったビロライネン大佐が優秀なのは当然だ。かのヤン・ウェンリーは二十九歳で少将になるまで参謀一筋だったけど、あの性格で出世街道驀進できたんだから用兵以外の能力も人間離れしていたのだろう。

 士官教育を受けてみて初めて分かった。歴史の本の中では無能扱いされている提督でも俺のような凡人のレベルでは物凄く優秀であり、そういった提督を手玉に取れる獅子帝ラインハルト配下の名将やヤン艦隊の諸提督は超人集団なのだ。

 歴史の本の中ではアンドリュー・フォークは有名人だ。ロボスが大敗した七九六年の帝国領侵攻作戦「諸惑星の自由」の立案者にして最大の戦犯。救国軍事会議に加担して統合作戦本部長クブルスリーの暗殺未遂を起こし、最後はヤン・ウェンリー暗殺に加担した。歴史に残した負の業績は絶大だ。能力においては要領良くロボスに媚びて出世し、常識では考えられないような作戦指導をして二〇〇〇万人を戦死させた最低最悪の無能。人格においては傲慢で自己中心的で自己認識が完全に狂っているにもかかわらず上昇志向が異常に強く、狂人としか言いようがない。

 しかし、俺の見たアンドリューは能力はずば抜けているし、人格もまともというかとても良い奴だ。あれだけ優秀なのにおごったところが全くなくて、いつも自分の至らなさを気にかけている。ずっとリーダーをやってきただけあって社交性が高い。義勇旅団司令部の食堂で俺と一緒に食べるようになったら、あっという間に司令部要員の人達と仲良くなって、ファーストネームで呼ばれるぐらい親しまれてる。射撃や白兵戦技の指導を頼んだら、快く引き受けてくれた。ロボス大将にスカウトされた時の感激を語り、それなのに期待にこたえられない未熟な自分に苛立つ姿は本当にまっすぐで眩しくすら感じる。狂人どころか良い奴すぎて失敗するタイプなんじゃないかとすら思う。

 俺は能力でも人間性でもアンドリューには及ばないが、年齢が近くて壁にぶち当たっているという点で強い親近感を感じている。アンドリューの方もそうみたいだ。だから、いろいろと悩みを話してくれるのだろう。ロボス大将は本の中では愚将と言われていたけど、俺が見た印象では凄い人だった。俺を利用しようとしているけど、そのような狡猾さも含めて凄い人だ。アンドリューも本の評価と実際に見た印象が全然違う。

 彼らに何が起きて本で言われているようなことをやってしまったのか、あるいは俺が逃亡者にならずに済んだように彼らも俺が見た印象のままの人生を送るのか。先のことはわからないけど、せっかくできた友達と大事に付き合いたいと思った。 

 

第二十一話:茶番の幕を引くのは誰か 宇宙暦791年秋 惑星エル・ファシル

 宇宙暦七九一年十月八日、自由惑星同盟軍は「自由の夜明け」作戦を開始した。ハイネセンを出発した同盟軍六個艦隊はエルゴン星系からドーリア方面を攻略する宇宙艦隊司令長官シトレ大将、エル・ファシル方面を攻略する副司令長官ロボス大将の二手に分かれて順調に進撃していた。エル・ファシル義勇旅団はロボス大将直率艦隊の第二十六揚陸隊所属の強襲揚陸艦二十七隻に分乗していたが、エル・ファシルの到着するまではまったく出番がなく、他部隊の活躍を船内のスクリーンで見物しているだけであった。

 衛星軌道上から艦砲射撃、地上の防空基地群を粉砕する艦隊主力、大気圏に突入した強襲揚陸艦から降下する陸戦隊のシャトル、勇壮な歩兵部隊の突撃、敵兵を蹂躙する装甲部隊の姿などが義勇兵の目を楽しませ、ただでさえ旺盛な彼らの戦意はさらに高まった。副旅団長のマリエット・ブーブリルは自ら銃を持って突撃したいと言い出している。看護師とはいえ勲章を受章したほどの戦歴がある彼女にしてこれだから、実戦経験が乏しい民間人出身者の浮わつきぶりはもっと酷い。エル・ファシル全土を義勇旅団だけで制圧できると息巻く大隊長もいるそうだ。参謀長達も頭が痛いことだろう。

 俺にとっては、義勇兵の高揚も参謀長達の頭痛も他人事でしか無かった。司令官が自分の部隊のことを他人事と思っているなど無責任の極みなのだが、メディアに出て喋ったり、人と会ったりするだけで部隊運営にはまったく関与していないのだから、責任の持ちようもない。司令部で大人しく座ってる間にさっさと終わってくれたらいいぐらいにしか思っていない。一日も早くちゃんとした仕事をさせてほしい、努力を求められて結果を出せば評価してされる場所に行きたい。しかし、今回の任務はどこまでも俺の期待を裏切ってくれる。エル・ファシル攻略が予想外に長引きそうなのだ。

 エルゴン星系からイゼルローン方面に向かう航路はドーリア方面、ダゴン方面、エル・ファシル方面の三つに分かれている。そのうち最も重要なのはドーリア星系からアスターテ星系を経由する航路だ。通行が容易な上に有人惑星が多く、寄港地にも事欠かない。ダゴン星系からティアマト星系を経由する航路はそれに次ぐ。ヘルベルト大公が大軍の利を生かせずにダゴンで敗北したことからもわかるように難所ではあるが、アスターテ星系を迂回してエルゴン星系に行けるため、第二のルートとして有用である。エル・ファシル星系からアスターテ星系を経由する航路は最も重要度が低い。ドーリア方面航路と競合関係にあるためだ。更に言うと、重要性が低いエル・ファシル方面の十一恒星系の中でもエル・ファシル星系は航路の要所から微妙に外れている。

 敵の主力は主要航路のドーリア方面に陣取り、手薄なエル・ファシル方面の敵軍もデリバ・カルデラ星系に集結していて、エル・ファシル星系の守備戦力は艦艇五〇〇~六〇〇隻と地上部隊一個師団程度だろうと思われていた。しかし、実際は二個正規艦隊三万隻と地上部隊十四個師団という大戦力がエル・ファシル星系に集結していたのだ。ロボス大将がエル・ファシル奪還の重要性をアピールしすぎたせいで、帝国軍も勘違いして死守するつもりになってしまったのかもしれない。

 帝国軍の意図がどこにあったにせよ、ロボス大将の方針が崩れたのは確かだった。衛星軌道上に陣取る敵艦隊はロボス大将の巧妙な用兵によって分断された後に撃破されたものの残存勢力の一部が惑星エル・ファシルの地上部隊と合流し、二〇万を越える大軍が市街地や山岳地帯に拠って抵抗した。このままではエル・ファシル方面を攻略後にシトレ大将と合流してイゼルローン回廊入り口を確保すると言う当初の予定に支障をきたしかねない。エル・ファシル奪還を最重要課題とアピールしていたからで、封鎖の上で放置して先に進むのは世論が許さないだろう。かくして、惑星エル・ファシルをめぐる戦いは地獄の様相を呈する事になる。

 ロボス大将率いる三個艦隊が衛星軌道上から市街地や山岳地帯に地図の書き換えが必要になるだろうと思われるほどに苛烈な砲撃を浴びせ、本国からの増派を受けて八〇万まで増強された地上軍部隊がしらみつぶしに敵陣地を掃討していく。洞穴の一つ一つを焼夷弾で敵兵ごと焼き払い、ビル一つ道路一本を巡って敵味方の死体の山が築かれた。もはや、この惑星に義勇旅団というロマンが介在できる余地はどこにもなかった。

 義勇兵は衛星軌道上の揚陸艦の中にずっと留まっていて、決して地上の地獄に放り込まれることがない立場だったが、そのことがかえって彼らの気持ちを沈ませた。自分たちの故郷を取り返すという大義名分のために、まったく関係ない人々同士が凄惨な戦いを繰り広げているという事実は、自分達が戦士ではなくてお客さんにすぎないということを思い知らせるには十分すぎた。義勇兵は完全にやる気を無くして黙りこんでしまう者と、お客さんであることに耐え切れない者に分かれた。司令部には連日、出戦志願者の嘆願書が届けられた。涙を流して「戦死させてくれ」と俺に直訴してきた者、絶望して自殺未遂を図る者もいた。エル・ファシル義勇旅団の大義は完全に失われていた。

 義勇旅団の出番は惑星エル・ファシル攻防戦開始から一ヶ月が過ぎ、組織的抵抗がほぼ潰えた頃にようやくやってくる。砲撃で破壊しつくされたエル・ファシル市内を行進し、半壊した星系政庁庁舎に立て籠る帝国軍司令官に降伏を勧告する。それが最初にしておそらくは最後になるであろう義勇旅団の任務だった。

「自由惑星同盟エル・ファシル義勇旅団旅団長エリヤ・フィリップスより、銀河帝国エル・ファシル方面軍司令官ミヒャエル・ジギスムント・フォン・カイザーリング中将閣下に申し上げます。小官は軍人として貴官の一ヶ月にわたる勇戦に心底より敬意を払うものであります。しかしながら、今や貴官は我が軍の完全なる包囲下にあり、食料も弾薬も尽き果て、これ以上の抗戦は不可能であるのも事実です。貴官と部下の方々には勇者にふさわしい名誉ある待遇を約束します。二時間以内にご返答ください。賢明な判断を期待しております」

 義勇旅団五一二〇人と正規軍四六〇〇人が取り囲み、戦車砲や火砲の砲口が一斉に向けられている星系庁舎に向けて、ビロライネン参謀長が作った文面をそのまま帝国語で読み上げる。敵将がどのような選択をしようとも、ここで戦いが終わることは確定している。格好良いけど大勢には何一つ影響しない儀式。おもちゃの兵隊を率いるお人形の司令官が演じる茶番にふさわしい幕引きだ。俺にとってのすべての始まりだったエル・ファシル星系庁舎が舞台というのもあまりにできすぎている。

 三年前にここのスクリーンでヤン・ウェンリーの記者会見を見たことを思い出した。あの時の俺はこの夢を見始めたばかりでただただ戸惑うばかりだった。あの時、庁舎にいた人達が義勇旅団の中にいたら、この茶番をどんな気持ちで眺めているんだろう。

 そんなことを思っていると、ボロボロになったスクリーンに初老の軍人の顔が映る。おそらく敵の司令官だろう。端整な顔に美しい髭を生やしていて、「老紳士」という言葉を体現するかのような人物だ。この苛烈な地上戦を指揮した闘将とは思えない。庁舎を包囲している義勇軍や正規軍の兵士達も俺と同じような感想を持ったらしく、ささやきの声でざわついている。

「銀河帝国エル・ファシル方面軍司令官ミヒャエル・ジギスムント・フォン・カイザーリングです。敗軍の将にお心遣いいただいたこと、かたじけなく思います。しかしながら小官は皇恩を蒙ること厚く、一命をもって報いる以外の途を知りません。貴官の配慮には感謝しますが、帝国軍人として受け入れることはできないということをお伝えします」

 外見にふさわしく、まったく訛りのないきれいな同盟語で敵将は拒絶の意を示した。静かではあるが毅然とした態度で降伏を拒絶する敵将を見て、強い後悔が心の中に広がっていく。孤立無援で奮戦した彼の最期が俺のせいで茶番になってしまった。エル・ファシル義勇旅団の存在自体が茶番だったけれど、その幕引きがこういう形だったことに苦い思いがする。

 惨めな思いでスクリーンを見ていると、カメラが次第に引いていって部屋全体が映しだされた。部屋の壁には皇帝の大きな肖像画が掛かっていて、敵将の他に部下とおぼしき軍服姿の人間が一〇人ほど映っている。全員が体の何処かに傷を負っていた。一人はバイオリンを手にしている。

「皇帝陛下に敬礼っ!」

 敵将が張りのある声で叫んで肖像画に向かって敬礼すると、部下も全員それにならう。これほど整然とした敬礼は生まれて初めて見た。この期に及んでもまだ彼らが秩序を保っているということに感動を覚える。

「国歌斉唱っ!」

 その声を合図にバイオリンを持っていた人物が演奏を始めると荘厳な帝国国歌の旋律が流れ、全員が演奏に合わせて朗々とした声で歌う。帝国国歌は幹部候補生養成所で帝国語の授業を受けた時に聴いたことがあるけど、今聴いている歌はその何倍も美しく感じられた。今、彼らが歌っている歌の歌詞を理解できたというだけで帝国語を勉強した意味があると思える。自分の目に涙が浮かんでくるのがわかる。

「ジーク・カイザー!」

 敵将の声に唱和して全員が皇帝を讃えた瞬間、スクリーンの中が閃光で満たされて爆音が轟き、政庁庁舎は大爆発とともに炎に包まれた。帝国軍司令官ミヒャエル・ジギスムント・フォン・カイザーリング中将の壮烈な自爆をもって、茶番から始まった惑星エル・ファシル攻防戦は終結したのだ。

「総員、勇敢なる敵将に敬礼!」

 俺は敬礼のポーズを取ると、政庁庁舎を囲む兵士達は俺にならって敬礼する。なぜそのような命令を出したのかはわからないけど、そうするのが自然であるように思われた。これが俺が義勇旅団長として自分の意思で発した最初で最後の命令だった。 

 

第二十二話:期待されることの重さ 宇宙暦791年12月下旬 惑星ハイネセン

 反攻作戦「自由の夜明け」は同盟軍の完勝に終わり、帝国の占領下にあった三十五の有人星系と百九十三の無人星系を奪還し、イゼルローン回廊に至る通路を確保。同盟軍史上でも稀に見る一方的大勝利に国民は熱狂し、凱旋したシドニー・シトレ、ラザール・ロボスの両大将は歓呼の声で迎えられた。

 義勇旅団も英雄と讃えられ、数々の勲章や表彰を受けた。俺は中尉に昇進し、共和国栄誉章など三つの勲章を授与された。エル・ファシルに投入された地上軍八十九万人のうち三万人が死亡するという激戦にあって、まったく血を流さなかった俺が英雄扱いされるのは本当に心苦しい。普段ならメディアの話題を一人でかっさらえるような華々しい武勲を立てた本物の英雄が大勢いたおかげで俺が目立たずに済んだのが救いだ。

『総員、勇敢なる敵将に敬礼っ!』

 俺の号令を受けて、炎の中に消えていった敵将に敬礼する兵士達の映像がソリビジョンで流れている。またか、とうんざりした気分になってチャンネルを変えた。お飾りの俺が司令官らしく振舞っているのを見ると恥ずかしくなってしまう。降伏勧告を読み上げる場面と自爆した敵将への敬礼を命じる場面ばかり流れ、敵将が皇帝の肖像画に敬礼して帝国国歌を歌う場面、「ジーク・カイザー」と叫ぶ場面などがカットされているのには腹が立った。これではまるで俺が主役で敵将が引き立て役じゃないか。

 ソリビジョンのチャンネルを変えようと思ったタイミングで携帯端末からメール着信音が鳴る。見てみると、差出人は妹のアルマ。題名は『今、ソリビジョン見てるよ。お兄ちゃんかっこ良かった』。ムカついて即座に受信拒否リストにぶち込む。3年ぶりにこのタイミングでこの内容のメールを送ってくるというのがあいつらしい間抜けぶりだ。なにせ、勉強できない俺よりもっと成績が悪かったからな。携帯端末を変えて連絡を絶った俺のアドレスをどうやって知ったのかちょっと気になったけど、兄を「生ごみ」と呼んで消毒スプレーかけるような奴のことなんて考えても時間の無駄だ。すぐに意識の外に追放して他の人達のことを思い出す。

 今回の作戦は六個正規艦隊と地上軍八〇個師団を動員した大作戦だけあって、俺と親しい人もたくさん参加した。少佐に昇進していたイレーシュ大尉は第三艦隊所属の駆逐艦の艦長として初の指揮官職を経験した。バラット軍曹はエル・ファシル攻防戦に参加して重傷を負ったものの命に別状はなく、名誉戦傷章を授与された。ローゼンリッターに入ったリンツはエル・ファシル攻防戦で帝国軍の装甲擲弾兵連隊長を捕虜にした功績で中尉昇進が内定している。アンドリューはちょっとずつ仕事に慣れてきて、ロボス大将の参謀長ロックウェル中将に初めて褒めてもらえたそうだ。

 クリスチアン少佐は重装甲歩兵大隊長としてドーリア方面の諸星系を転戦して武勲を重ね、次の人事では中佐昇進が確実だという。彼のような下士官からの叩き上げのほとんどは少佐以上には昇進できない。中佐以上の階級の軍人に割り当てられるポストの数は少佐の階級を持つ軍人に割り当てられるポストと比べるとかなり少ないからだ。叩き上げ軍人が少佐と中佐の間にある壁を突破するには、優秀な現場指揮官に留まらない何かを持っていなければならない。クリスチアン少佐が戦場の勇者というだけに留まらない評価を受けているのは言うまでもないだろう。

「小官は陸戦科だから次のポストは連隊長だ。書類仕事やら渉外やらが多くてなぁ。もちろん命じられたらどのような職でも引き受けるが、本音を言うとオフィスは小官の性には合わん」

 いつも前向きな少佐が珍しく弱気になっている。昇進したのに落ち込んでいる人なんて初めて見たけど、前線で体を張ってきたことを誇りにしている少佐らしいといえば少佐らしい。

「喜んでらっしゃるとばかり思っていたので意外です」
「軍人がみんな昇進を喜ぶと思ったら間違いだ。階級が上がれば上がるほど現場から遠くなる。職務によってはこれまで磨きあげてきた技能がまったく役に立たなくなる。それが嫌で昇進を辞退する者も多いのだぞ」

 少佐に言われてみて義勇旅団のことを思い出す。少尉の給与係長から義勇軍大佐の義勇旅団長になったけど、全然嬉しくなかったな。せっかく仲良くなった給与係のみんなと離れ離れになってしまったし、頑張って覚えた給与計算のスキルも役に立たなかった。正規軍での階級は少尉のままだったけど、仮に正規軍大佐に昇進して旅団長になったとしても嬉しくなかっただろうなあ。

「そう言われてみると、昇進ってあまり嬉しくないかもですね。分不相応なポストに就いてもみんな迷惑するし」
「昇進したら、自分が新しい階級にふさわしいかどうか悩むのがまともな軍人というものだ。昇進したくて上に媚びるなど言語道断だっ!」

 上に媚びたわけじゃないけど、ロボス大将に褒められたのが嬉しくて出来もしない旅団長職を引き受けてしまった自分が情けない。能力不相応な地位は重荷でしかなかった。ビロライネン参謀長の画策で持ち上げられれば持ち上げられるほど恥ずかしくなった。

「その点、貴官は立派だ。義勇旅団長に任命されて見事に五〇〇〇人を統率してみせた。まっすぐに背筋を伸ばし、凛とした声で降伏を勧告する貴官には将帥の風格があった。敵将カイザーリング中将も敵ながら見事な最期だった。死にゆく敵将を敬礼で送る貴官に心が震えるほどの感動を覚えた。やはり貴官こそが真の軍人精神の持ち主だ」

 クリスチアン少佐は感極まって涙を浮かべている。参謀長ビロライネン大佐の演出のおかげで俺がお飾りだということは世間には知られていない。ブーブリルとともに義勇旅団を率いて勇敢に戦ったことになっている。馬鹿馬鹿しいお芝居が少佐のような純粋な人を感動させているのを見ると、騙しているようで申し訳ない気持ちになる。俺を本当の英雄だと思っている人達の視線を恥じること無く受け止められる日が来るのだろうか。実力に不相応な期待を受けるのが本当に辛い。



 ガウリ軍曹はシトレ大将に随行してヘアメイクを担当していたが、最近ハイネセンに帰還した。コンビを組んでいるカメラマンのルシエンデス曹長は胃腸を壊したために奪還されたばかりのドーリア星系の軍病院で入院している。「パスタばかり食べてるからよ」と軍曹は言っていたけど、だったら俺との食事場所にパスタ専門店を選ぶのはどういうことなのかと思う。

「エリヤ君が元気で帰ってきてくれてホッとした。自分が担当した人が亡くなるって辛いもん」
「ありがとうございます」
「シャルディニー中佐が亡くなった時はショックだったよ。エリヤくんに万が一のことがあったら、立ち直れなかったよ」
「カルヴナの英雄でしたっけ?ネットの書き込みが気になって携帯端末にかじりついてた人」
「うん。エル・ファシルで戦死したの。新聞とか見てなかった?」
「忙しいんでなかなか見れませんでした」

 シャルディニー中佐という人がカルヴナで何をして英雄になったか知らなかったし、エル・ファシル攻防戦に参加していたことも知らなかった。まったく縁がない人だったから、戦死したところで感慨の抱きようもない。

「あと二年で定年だったのに。英雄にならなきゃ良かったのかもね」

 あと二年で定年ってことは六〇過ぎてたのか。今年で五〇歳ぐらいのガウリ軍曹が以前担当してたってことは、50代で英雄になったわけだ。ネットの書き込みを気にしてたっていうから、てっきり若い人だと思ってた。でも、英雄にならなきゃ良かったってどういうことだろうか。

「何かあったんですか?」
「あの人、専科学校出てからずっと地上軍の基地警備隊を転々としていたの。五十五歳でやっと少佐に昇進してそのまま六十五歳の定年まで勤めるって誰もが思ってたんだけど、カルヴナで活躍して英雄になった時からおかしくなっちゃってさ」

 地上軍は宇宙軍と比べると地味だが、その基地警備隊ともなるとさらに地味だ。そんな部署でどうやって英雄と言われるような功績を建てたのかは知らないけど、何十年も地道に勤めてきた人がいきなり脚光を浴びておかしくなってしまうというのは想像しやすい。

「空挺連隊の連隊長に抜擢されてから、ストレスで体を悪くしてたみたい。裏方の基地警備隊から花形の空挺部隊を任されてプレッシャーだったんでしょうね。真面目な人だったから。軍医に休養を勧められたけど、無理を言って今回の出兵に参加したの。そして、無理な突撃をして戦死。シャルディニー中佐は周囲の期待に殺されちゃったんでしょうね」

 ガウリ軍曹の声の震えから、沈痛な思いが伝わってくる。真面目一筋に生きてきて初老に差し掛かった人が英雄になったおかげで周囲に期待されてプレッシャーに苦しんだあげくに不幸な死を遂げるなんて、どうしようもなくやりきれない。シャルディニー中佐と面識がない俺でさえそう思ったのだから、付き合いがあったガウリ軍曹の無念は想像するに余りある。

 数日後、「一人で行く覚悟が無いから付き添ってほしい」というガウリ軍曹と一緒にハイネセン郊外にある故シャルディニー中佐の自宅を訪ねた。俺達を出迎えたのは六〇過ぎの小柄な婦人だった。中佐の未亡人であるこの婦人は俺達の訪問に物凄く恐縮していて、申し訳ない気持ちになってしまう。未亡人の話によると、この家は故人が少佐に昇進した時に購入したものなのだという。士官は転勤が多く、普通は官舎か民間の賃貸住宅に住む。シャルディニー夫婦が家を購入したのは老後の住まいとするためだった。

 未亡人は俺達をリビングルームに通すと、分厚いアルバムを持ってきて長い長い思い出話を始めた。ミドルスクールの同級生でプロポーズの時の格好がとてもダサくて笑ってしまったとか、長男を出産した時に立ち会ったら緊張のあまり失神してしまったとか、最年長の孫が難関ジュニアスクールに合格した時にはしゃぎすぎて転んで怪我をしたとか、未亡人の話から伺える故人の人物像はお人好しのおっちょこちょいと言った感じだった。

 アルバムの中の故人の写真もいかにも呑気そうなおじさんといった感じで、英雄らしい雰囲気はどこにも無い。整然はまったく知らない人だったけど、こんな人が英雄になったばかりに死んでしまったと思うと悲しくて悲しくてたまらなくなる。隣のガウリ軍曹にハンカチを渡されて、自分が泣いていることに気づいた。俺達が帰る時、未亡人は何度も何度も礼を言っていた。

「エリヤくん、一緒に来てくれてありがとうね」
「いい話聞けてよかったですよ。こちらこそ軍曹に感謝です」
「あなたは長生きしてね」
「俺が?」
「うん。死ぬってこういうことだよ。悲しいよ」
「死なないですよ」
「心配になっちゃうんだよ。期待に応えようと努力するところは凄く偉いよ。でもね、頑張りすぎて死んじゃうんじゃないかって心配になる。エリヤくんがみんなに期待されてるところ見てると怖くなるよ」
「でも、期待されないってつまらないですよ」

 期待されるのは辛い。英雄なんて呼ばれると息が詰まりそうになる。期待されるにふさわしい力がない自分が情けなくなる。しかし、期待されないのは地獄だ。かつての俺はエル・ファシルでリンチ司令官に従って逃亡したことがきっかけですべての人から見放された。誰も俺に期待しなくなり、頑張っても拒絶されるだけだった。誰にも見てもらえない暗闇の中で俺はゆっくりと腐っていき、酒や麻薬に救いを求めた。

 この夢の中では俺に期待してくれる人や頑張りを見てくれる人がいる。暗闇で生きてきた俺が求めてやまなかった光がこの世界には満ちている。ずっと光を浴びていたい、暗闇に戻りたくない。その思いが俺を他人の期待を裏切ることを恐れる人間にしてしまった。お人形であることを期待されても裏切れない。

「期待に応えるだけだったら、いつまでも他人の都合に振り回されるだけだよ?やりたいこととかないの?」

 やりたいことか。前は故郷で就職して平穏に暮らしたいと思ってたけど、その平穏な生活の中で何をしたいかなんて考えてなかったな。今は与えられた役割を果たすために努力をして、みんなに認められて…。あれ、もしかして…。

「どうやら無いみたいです…」
「立派なことじゃなくていいんだよ。毎日おいしいごはん食べたいとか、かわいい女の子と仲良くしたいとか。そういうのでいいの」
「それも…」
「良く考えたら、エリヤくんは欲が薄かったね。強いの食欲ぐらい?たくさん食べれたら味はどうでもいいって感じだから、ある意味薄いか」
「そうっすね。俺、自分のものは何も欲しくないんですよ」
「これから探しな。まだまだ時間あるよ」

 ガウリ軍曹に背中をポンと叩かれる。

「どうやって探せばいいんでしょうね…」
「エリヤくん、私のこと好き?」

 一瞬返答に困るけど、まさかそういう意味ではないだろうと思い直して答える。

「好きですよ」
「クリスチアン少佐は?ルシエンデス曹長は?」
「好きです」
「背の高い家庭教師のお姉さんは?熱血体育教師のお兄さんは?」
「好きです」
「絵が上手な陸戦隊の子は?補給基地でかわいがってくれたお姉さん達は?」
「好きです」
「男前のアンドリュー君は?」
「好きです」
「じゃあさ、今言った人達と一緒に何をしたいか考えてみて。一緒にごはん食べるとか、遊びに行くとか」
「ああ、なるほど!」
「今言った人達、都合さえ合えば大抵のことには付き合ってくれるんじゃないかな」

 ガウリ軍曹はにっこり微笑む。なんか、凄くワクワクしてきた。みんなの顔を思い浮かべ、一緒に食べたいものや一緒に行きたい場所や一緒にやりたい遊びを考えるのはとてもとても楽しかった。 

 

第六章 机上の戦場
  第六章開始時人物設定

主人公
エリヤ・フィリップス 24歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中尉
役職:駆逐艦アイリスⅦ補給長
性格:小心で卑屈。素直で真面目な優等生。努力を楽しめる。自己評価は低い。
容姿:爽やか、絵になるなどと言われているが、以前は冴えなかったと言われる。
能力:学力、運動能力ともに高い。コミュニケーションは苦手だが、人に協力を頼むのはうまい。
略歴:お飾りのエル・ファシル義勇旅団長を務めた後、第一艦隊所属の駆逐艦アイリスⅦの補給長となる。前の人生ではアーサー・リンチに従ってエル・ファシルから逃亡したことがきっかけで転落した。
史実:登場せず。

親しい人
アンドリュー・フォーク 21歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中尉(第五章終了時点)
役職:宇宙艦隊総司令部参謀(第五章終了時点)
性格:真面目で謙虚。社交性が高い。
容姿:長身でハンサム。
能力:士官学校を首席で卒業した秀才。リーダーシップ、運動能力も高い。白生戦技、射撃術も達人級。
略歴:エリヤの友人。ロボス大将に引き立てられたが、なかなか芽が出ずに悩んでいる。エル・ファシル義勇旅団長を務めていた頃に親しくなった。
史実:帝国領侵攻作戦を立案して同盟軍を壊滅に導き、テロリストとしても同盟の足を引っ張った愚劣な人物。
初出:第二十話

エーベルト・クリスチアン 40代 男性 ゲルマン系
階級:自由惑星同盟軍中佐(第五章終了時点)
役職:元重装甲歩兵大隊長(第五章終了時点)
性格:軍隊を家族と考えている。剛直だが人情に厚い好漢。単純明快な物言いを好む。
容姿:背はさほど高くないが、肩幅と胸板が厚い。いかつい顔に不機嫌そうな表情。
能力:勲章受章経験のある勇者。食事と睡眠の重要さを理解していて、部下の待遇改善に熱心。
略歴:陸戦隊出身。エル・ファシルの英雄になったエリヤの広報担当を務めた時に親しくなった。エリヤが職業軍人になるきっかけを作った人物。
史実:救国軍事会議メンバーとしてスタジアムの虐殺を引き起こした。
初出:第八話

イレーシュ・マーリア 29歳 女性 マジャール系(姓が前、名が後に来る)
階級:自由惑星同盟軍少佐(第五章終了時点)
役職:第三艦隊所属の駆逐艦艦長(第五章終了時点)
性格:とっつきにくい外見とは裏腹に思いやりがある。
容姿:180センチを越える長身。非の打ち所のない美形。眼力が異常に強い。不機嫌そうな表情。
能力:対人観察力が高い。熱心な教育者。
略歴:士官学校卒のエリート。幹部候補生養成所を受験するエリヤの学力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

カスパー・リンツ 22歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍中尉(第五章終了時点)
性格:気さくだが、やや屈折している。
容姿:脱色した麦わらのような髪に青緑色の瞳を持つ美男子。
能力:白兵戦技と射撃術の達人。絵と歌がうまい。
略歴:幹部候補生養成所時代の唯一の友人。
史実:ワルター・フォン・シェーンコップの片腕。ローゼンリッター最後の連隊長。
初出:第十六話

バラット 男性 タイ系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第三章終了時点)
役職:第七方面管区シャンプール基地教育隊体育教官(第三章終了時点)
性格:単純熱血。太っ腹。
容姿:がっちりした体格。猛犬のような印象。
能力:トレーニング指導のプロ。
略歴:陸戦隊出身でクリスチアンの元部下。幹部候補生養成所を受験するエリヤの体力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ルシエンデス 30代 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍曹長(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:ざっくばらん。
容姿:小綺麗な身なり。
能力:軍服を着た人を撮影すれば、右に出る者はいない。
略歴:統合作戦本部広報室のカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

ガウリ 30前後 女性 インド系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:気さく。
容姿:小綺麗な身なり。
略歴:統合作戦本部広報室のスタイリストカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

家族
ロニー・フィリップス 48歳 男性 アングロサクソン系
職業:パラディオン市警の警察官(第二章終了時点)
性格:善良でお調子者。
略歴:エリヤの父。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

サビナ・フィリップス 47歳 女性 チェコ系
職業:看護師(第二章終了時点)
性格:心配症でおせっかい。
略歴:エリヤの母。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ニコール・フィリップス 26歳 女性 アングロサクソン系
職業:ジュニアスクールの非常勤講師(第二章終了時点)
性格:しっかり者。
略歴:エリヤの姉。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

アルマ・フィリップス 19歳 女性 アングロサクソン系
職業:ミドルスクールの生徒(第二章終了時点)
性格:甘えん坊の食いしん坊。
略歴:エリヤの妹。空気の読めないメールを送っては、エリヤをいらだたせる。前の人生ではエリヤに懐いていたが、逃亡者になると最も激しく拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

同級生
ミロン・ムスクーリ 24歳 男性 ギリシャ系
性格:爽やかなスポーツマン。
容姿:大男。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。元フライングボール部のスター。前の人生では極右団体の構成員。逃亡者になったエリヤを迫害した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ルオ・シュエ 24歳 女性 チャイナ系
容姿:丸顔。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の数少ない友達。前の人生では、逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

フーゴ・ドラープ 24歳 男性 チェコ系
性格:誰にでも優しい。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。信望が厚く、クラス代表を務めた。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

その他知り合い
ラザール・ロボス 54歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍大将(第五章終了時点)
役職:宇宙艦隊副司令長官(第五章終了時点)
性格:豪放で大らか。社交的な性格。
容姿:小柄でどっしりとした肥満体。将帥にふさわしい威厳の持ち主。
能力:リスクを厭わず、大胆に仕掛ける用兵に定評がある。対人調整や政治的な折衝にも長ける。人の心に入り込むのがうまい。雑務が苦手。
略歴:同盟軍きっての名将。エル・ファシル義勇旅団結成の仕掛け人。
史実:帝国領侵攻に失敗して、同盟軍を壊滅に追い込んだ愚将。
初出:第十八話

カーポ・ビロライネン 31歳 男性 フィンランド系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団参謀長(第五章終了時点)
性格:真面目だが、他人の心情への配慮に欠けるところがある。
容姿:神経質で気難しそうな容姿。実年齢より5年は老けて見える。
能力:実務能力は極めて優秀。情報宣伝にも長けている。
略歴:ロボス大将の懐刀。エル・ファシル義勇旅団ではエリヤを棚上げして、実権を掌握した。
史実:帝国領侵攻作戦の情報主任参謀。
初出:第十九話

マリエット・ブーブリル 33歳 男性 フランス系
階級:義勇軍中佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団副旅団長(第五章終了時点)
性格:外面は良いが、自己中心的で気性が激しい。自己顕示欲が強い。
容姿:上品で優しげな美貌の持ち主。実年齢より5年は老けて見える。
能力:カメラの前では、嫌いな相手に対しても親友のように振る舞える演技の達人。
略歴:元従軍看護師で勲章も持っているが、世間的な知名度は低い。エル・ファシル義勇旅団ではトラブルメーカーだった。
史実:登場せず。
初出:第十九話

ヤン・ウェンリー 24歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第二章終了時点)
性格:冷静沈着。責任感が強い。整理整頓ができない。他人の期待通りに振る舞うことを嫌う。
容姿:ハンサムだが、身なりに無頓着なせいで冴えないように見える。
能力:頼りなさそうな風貌とは裏腹に、有能で精力的な指揮官。
略歴:士官学校卒のエリート。エル・ファシル脱出作戦を指揮した真の英雄。メディア受けしないコメントを連発したせいで、人気は盛り上がらなかった。
史実:自由惑星同盟末期最高の名将。生涯不敗を誇った用兵の天才。
初出:第五話

アーロン・ビューフォート 男性 アングロサクソン系
階級:中佐(第二章終了時点)
性格:さっぱりした性格。本当の意味での大人。
容姿:30半ばに見える。
略歴:エル・ファシル脱出船団旗艦の艦長。エリヤに絡まれたが、大人の対応をして泣かせた。
史実:大親征でビッテンフェルトを迎撃した。
初出:第七話

フランチェシク・ロムスキー 30前後 男性 ポーランド系
職業:エル・ファシル市会議員、内科医師(第二章終了時点)
性格:気さくだがやや軽率。
容姿:大柄。
略歴:エリヤをエル・ファシル星系政庁に連れて行った。
史実:同盟から独立したエル・ファシル独立政府の主席を務めた。
初出:第三話 

 

第六章 机上の戦場
  第二十三話:補給士官の戦い 宇宙暦792年春 第一艦隊所属の駆逐艦アイリスⅦ

「抜き打ちで調理室のゴミ箱を漁って回ってるんだよ。そんで、使える食材が見つかったらわざわざ担当者呼び出してお説教するの。将官がすることじゃねえわ」
「第一艦隊も大変そうだな。その点、ロボス閣下は細かいことにこだわらないから…」
「あー、はいはい。ロボス閣下えらいよね」
「ちゃんと聞けよ」
「だって、アンドリューはロボス閣下の話になると長いもん」
「ごめんごめん。でも、あの『切れ者ドーソン』がいる時に補給長だなんて、エリヤもついてないな」
「まったくだよ」

 携帯端末の向こうのアンドリューに愚痴を吐き出してすっきりした俺はマフィンに手を伸ばす。今日はこれで五個目だ。イライラしていると甘い物が欲しくなる。

 現在の俺は第一艦隊に所属する駆逐艦アイリスⅦの補給長を務めている。艦内の経理、物資管理、給食などの責任者だ。部下は下士官の主任3人と兵15人。給与係長の時と比べると部下の数は倍以上に増えていて権限もかなり大きくなっているが、ルーチンワークの管理がメインであることには変わりない。補給士官としては一般的かつ地味な仕事で武勲とは無縁だったけど、俺の性にはとても合っていた。業務はすぐ覚えられたし、部下もすぐに懐いてくれた。上司である艦長・副長や同僚である航宙長・砲術長・船務長・機関長もみんな穏やかな年配者で俺のことを可愛がってくれた。5月にイゼルローン回廊への出撃を控えてる第一艦隊はここ数週間、ずっと宇宙空間での訓練に明け暮れていて補給部門も大忙しだったけど、義勇旅団と比べたら天国のような職場だった。それが一変したのはあのドーソンがうちの艦隊に来てからだ。

 第一艦隊後方主任参謀クレメンス・ドーソン准将は今年で42歳。統合作戦本部から出向してきた業務管理のプロフェッショナルで『切れ者ドーソン』の異名を取っているらしい。本来なら大佐が務める主任参謀を准将のドーソンが務めているのは後方部門が弱い第一艦隊へのテコ入れなのだそうだが、使えないから飛ばされたんじゃないかと俺は疑っている。「将兵の栄養状態改善のため」と自ら作成した献立表を配布して各艦の給食主任の不評を買ったのを皮切りに、「消費電力を5%減らすための節電法」「虫歯を防ぐ歯の磨き方」といった通達を出しまくっている。しかも、通達が守られているかどうかを確認するために自ら抜き打ち検査するものだから、第一艦隊の補給長達は気の休まる暇がない。最近は「食糧の消費状況を把握する」と言って自ら各艦の調理室のゴミ箱を調べて回っていた。使える食材が出てきたら、補給長と給食主任はたっぷり絞られて始末書を書かされるという。みんなピリピリして、すっかり空気が悪くなってしまった。

 俺が読んだ歴史の本ではドーソンは後に元帥・統合作戦本部長まで出世したけど、政治家に媚びる以外能がないと言われていた。第一艦隊後方主任参謀を務めていた時にダストシュートを漁って「じゃがいも数十キロが無駄に捨てられていた」と発表して、「じゃがいも士官」とバカにされた
そうだ。将来の元帥の有名な逸話が作られる歴史的瞬間に立ち会っているわけだが、全然うれしくない。この夢の中では何人もの歴史上の有名人に会っているけど、だいたいは本の中の評価と実際に見た印象が大きく食い違っていた。ロボス大将やアンドリューはその好例だ。しかし、ドーソンに関してはだいたい本の通りである可能性が高そうだ。

「エリヤも他人に腹を立てることがあるんだな。安心した」

 おかしそうに笑うアンドリュー。どこまでも呑気な奴だ。

「そりゃそうだよ。俺をなんだと思ってんだ」
「いやさ、いつも人に遠慮しすぎなんじゃないかって思ってたんだよね。でも、こんだけ怒れたら心配いらないな」
「平穏を妨げられて怒らずにいられるほど心広くねえよ」

 本日六個目のマフィンに手を伸ばしかけたところで部屋に据え付けられているTV電話が鳴った。こんな時間になんだろうと思って通話スイッチを押すと、給食主任アルネ・フェーリン軍曹の顔が映る。

「補給長、後方主任参謀がお見えになりました。調理室の検査だそうです」

 ついに来たか、と思った。まさか、業務時間外の夜8時に来るとは思わなかったけど。

「わかった。今から行く」

 軍曹に返事した後でアンドリューに検査が来たことを伝えて携帯端末を切る。素早く軍服に着替えて調理室に向かう。調理室の扉を開けると、中にはフェーリン軍曹と作業服姿の男がいた。ヘルメットを目深に被ってロール状に巻かれたビニールシートを抱えているその男は俺を確認すると早足で歩み寄ってくる。身長は俺と同じぐらい。つまり、平均よりやや低い。

「責任者のフィリップス中尉だな。小官は後方主任参謀ドーソンだ。これより検査を行う」

 初めて直に見たドーソン准将は「一分の隙もない」という印象だった。背筋は「中に棒が入ってるんじゃないか」と錯覚するぐらい真っ直ぐに伸び、口ひげは綺麗に整っていて、作業服はしわ一つなく、靴もピカピカに磨かれている。今の格好は自分でゴミ箱を漁るためなんだろうけど、これから汚れ仕事をするのに身なりをきっちり整えてくるあたりに人となりが伺える。しかし、ドーソン准将以外の司令部の人間が誰も来ていないように見えた。どこかで待機していんだろうか。

「お疲れさまです」
「うむ。ご苦労」

 俺の敬礼に敬礼で応えると、ドーソン准将は調理室の隅に行ってビニールシートを広げると、その上にゴミ箱の中身をぶちまけ始めた。他の誰かが来る様子はない。まさか、本当に1人で来たのか…?旗艦とアイリスⅦの距離はかなり離れてるから、常識的に考えてシャトルの操縦役ぐらいは連れてきてるはずだけど。

「ところで閣下はお一人で来られたのですか?」
「うむ。他の者は勤務時間外だからな」

 ドーソン准将は振り向かずにゴミを仕分けしながら答える。司令部から公用でやってきたはずの将官が随員を1人も連れてきていないという事態にびっくりした。この時間に旗艦から1人でシャトル操作してアイリスⅦまでゴミ漁りに来たのか。作業着姿のドーソン准将がビニールシート抱えてシャトル操作してる姿を想像してちょっとおかしくなる。

「お手伝いしましょうか?」
「これは小官の仕事だから、貴官が手伝う必要はない」

 またも振り向かずに答えるドーソン准将。ビニールシートの上を見ると、仕分けられたゴミが整然と並べられている。無駄に時間かけて自己満足で並べているのかといえばそういうわけでもなく、かなりの早さで手を動かしている。俺が同じ早さで手を動かしたら、ぐちゃぐちゃになってしまうのは間違いない。良くわかんないけど、なんか凄い。

 仕分け終えたドーソン准将は最後にじっくりと並べたゴミを見渡してから、大きくゆっくりと頷いて俺の方を向く。

「フィリップス中尉」
「はい」
「ゴミの中から使える食材は一つも見当たらなかった」

 使える食材をまったく残さずに鼻を明かしてやろうと思っていたけど、ドーソン准将が黙々とゴミを漁る姿を見ているうちにそういう気持ちは失せてしまっていた。クソ真面目にこんなくだらないことをやっている彼に毒気を抜かれてしまったのかもしれない。

「貴官は小官の気持ちを良くわかっておる」

 わからねえよ。その謎の情熱はどこから来てるんだよ。

「あ、ありがとうございます…」

 ドーソン准将はビニールシートの上のゴミを手際良くゴミ箱に戻し、素早くビニールシートを巻いて抱え、再び俺の方を向いて背筋をまっすぐに伸ばした。

「明日も早い。早く寝なさい」

 そう言うと、ドーソン准将は俺に敬礼して颯爽と調理室から出て行った。なんなんだ、この人は。まったくわけがわからなかった。

 その後もドーソン准将は相変わらずジュニアスクールの生活指導のような通達を出しまくり、1人で抜き打ち検査に駆け回っては第一艦隊の補給部門のみんなに迷惑をかけていた。正直言って鬱陶しかったけど、調理室のゴミ箱を漁っていた時の姿を思い出すと妙におかしくて、ドーソン准将本人にはあまり腹が立たなくなった。


 宇宙暦792年5月6日。昨年の「自由の夜明け」作戦で奪還した航路を通ってイゼルローン回廊に到達した同盟軍四個艦隊51400隻は帝国軍のイゼルローン要塞駐留艦隊と衝突する。五度目のイゼルローン攻防戦の始まりだった。

 同盟と帝国の国境には通行困難な危険宙域が広がっており、わずかにイゼルローン回廊とフェザーン回廊の二航路のみ通行可能だ。フェザーン回廊には中立国フェザーンが存在していて艦隊が通ることは許されていない。現実の歴史では7年後の宇宙暦799年に帝国がフェザーン回廊を通って同盟に侵攻するが、現時点で軍事使用できるのはイゼルローン回廊のみである。そのイゼルローン回廊には帝国軍の巨大要塞が陣取っていて、帝国領への侵入を防ぐ防衛拠点と同盟領に進入する攻撃拠点を兼ねていた。帝国軍は敗北してもイゼルローン要塞に逃げ込んで回廊の確保に務めれば、領土が失われることはない。だが、同盟軍が敗北すれば辺境宙域はたちまち敵の攻撃に晒らされる。昨年までは広大な同盟領が敵の占領下にあったが、これとて致命的な大敗の結果というわけではない。同盟軍が小規模戦闘で敗北して後退するたびに敵は前進して同盟領を奪取した。それが積もり積もって35有人星系と193無人星系を失い、一億近い避難民を出すに至った。負けたら後がないと言う緊張感が倍近い総兵力を持つ帝国軍と互角に戦えるほどに同盟軍を強くしたが、負けが許されない戦いを強いられ続けるというのはきつい。

 現在の同盟軍の総兵力は宇宙軍・地上軍・警備隊を合わせて5000万を越えるが、これは15歳から74歳までの生産年齢人口100億の0.49%、20歳から64歳までの現役世代人口87億の0.57%に過ぎない。「現役世代が軍隊に徴用されているせいで熟練労働者が不足して社会システムが弱体化がしている」という反戦派の主張は統計的裏付けがない暴論だ。真の問題は常に防衛戦を強いられている同盟社会が終わりのない戦時体制下に置かれていることにある。現在は国家の財政支出の5割から6割、GDPの1割が軍事支出に占められている。「資源活用促進法」「平和協力法」「臨時資金調整法」の三法によって資源や資金は優先的に軍需部門に配分され、技術研究投資も軍事関連が優先された結果、民需部門の成長は停滞した。一方、軍事支出は国家の財政支出の5割から6割、GDPの1割を占めていて減少する気配はない。民需部門の停滞によって生じた税収減少分を戦時国債で補填することで確保された軍事予算を軍需部門に投入し、民需部門のさらなる停滞を招くという悪循環が同盟経済を蝕んでいる。帝国軍に四六時中備えなければならない現状では戦時体制を解除することもできない。イゼルローン回廊を確保して帝国軍の侵攻を完全に阻止しなければ、この悪循環を止めることはできない。だから、イゼルローン要塞攻略は同盟の悲願なのだ。

 というのがアンドリューが研究論文のコピー、統計資料、参考図書リストなどを示しながら教えてくれたイゼルローン要塞攻略の意義。歴史の本に書かれていた「同盟の国是である帝国打倒を成し遂げるために、侵攻路となるイゼルローン回廊を確保する必要があった」という説明よりずっと説得力がある。歴史では主戦派はイデオロギーに固執するあまり戦いを続けて社会の弱体化に向き合おうとしなかった人々で、反戦派は戦いをやめて社会を守ろうとした現実的な人々だとされている。しかし、主戦派も彼らなりの方法で社会の弱体化に向き合おうとしていたのだ。

 俺が知る歴史では今回のイゼルローン攻防戦も同盟軍の敗北に終わることになっている。しかし、実際に自分の目でいろんな物を見た印象と本に書かれていることがこれだけ食い違っていると、この世界は歴史と違った展開になるんじゃないかと思えてくる。そもそも、今の俺は第一艦隊に所属する6~7000隻の駆逐艦の1つの補給長でしかない。仮にこの世界が完全に歴史通りに展開したとしても、俺の力ではどうしようもない。与えられた職務に全力を尽くしつつ、アイリスⅦが安全でいてくれることを願うばかりだ。欲を言えば味方に勝って欲しいけど、それは提督や幕僚に任せるしかない。俺がヤン・ウェンリーや獅子帝ラインハルトの部下だったら勝利を信じて疑わずにいられるんだろうけど。

「補給長!」

 事務室のデスクでぼんやり考え事をしていた俺を現実に引き戻したのは、補給主任ランブラキス曹長の声だった。彼女は食料以外すべての補給物資を管理している。

「ああ、ごめん。戦闘要員の着替えの用意は済んだ?」
「はい。戦闘服、下着、靴下。すべて用意完了しました」
「ビーム用エネルギーパックのスペアの引き渡しは?」
「完了しています」
「タンクベッドは?」
「完了しました」
「ご苦労様」

 ランブラキス曹長が退出すると、入れ替わるように給食主任のフェーリン軍曹が俺のデスクの前に立つ。

「戦闘配食の用意完了しました」
「ご苦労様。もうすぐ戦闘開始だ。持ち場に着くように」
「了解しました」

 フェーリン軍曹が俺に背を向けた瞬間、けたたましく警報が鳴り響き、戦闘開始を伝える艦内放送が流れた。

「本艦は現時刻をもって戦闘状態に突入した!総員戦闘配置に就け!」

 艦長のいつになく緊迫した声に身が引き締まる。64年前にリンチ少将とともにエル・ファシルから逃亡して帝国軍の追撃を受けたのが俺の唯一にして最後の実戦経験だ。今回が事実上初めての実戦といえる。4年かけて一等兵から中尉に昇進したのに一度も実戦経験していなかったというのがいかにも俺らしい。

「始まったね」

 脇の机で端末を操作している経理主任シャハルハニ軍曹に声をかけた後、手元の端末を操作して業務管理プログラムを戦闘バージョンに切り替える。この端末では艦内の各部署の物資の充足状況と倉庫の備蓄状況をリアルタイムで把握し、必要に応じて担当者に補充指示を出すことができる。端末を使って経理主任の補佐を受けながら、アイリスⅦの後方支援を指揮する。砲塔にエネルギーパックを送り、機関や電測に整備部品を送り、食事や着替えを十分に用意し、休息用のタンクベッドを確保する。それが俺の戦いだ。初めてのまともな実戦に軽い興奮を覚えながら、補給長の戦場である端末の画面に意識を集中した。 
 

 
後書き
 軍事支出の対財政支出比、対GDP比は総力戦であるWW2の各国戦時経済統計及びアメリカ合衆国の過去80年間の軍事支出統計を参考に算出しました。財政支出の5~6割、対GDP1割という数値は朝鮮戦争からベトナム戦争にかけての時期のアメリカ合衆国と近い数値です。

 労働人口の計算は世界各国の生産年齢人口及び現役世代人口統計を参考にしました。銀英伝の世界は平均寿命が90歳なので生産年齢人口の上限を現在使用されている指標より10歳引き上げています。 

 

第二十四話:武器は端末とペン。弾丸は紙。戦場はデスク 宇宙暦792年5月~初夏 イゼルローン回廊及び惑星ハイネセン第一艦隊基地

 宇宙暦792年5月6日午前6時45分。同盟軍宇宙艦隊51400隻と帝国軍イゼルローン要塞駐留艦隊13000隻は戦闘状態に突入した。要塞を背に布陣する敵に対し、味方は横一列に並んで4倍近い数で敵を押し潰そうとしているように見える。用兵素人の俺には難しいことは良くわからないが、敵艦がビームを放ったらたちまちその何倍ものビームを叩きつけられて爆散するのを見ると、味方が圧倒的有利なのは間違いない。俺が乗っているアイリスⅦも格好良く言えば味方と連携して、意地悪な言い方をすれば味方の尻馬に乗って2隻の敵艦を撃沈していた。砲塔や操艦を担当する人達は今頃大忙しだろう。補給担当の俺は戦闘が長引かないと出番がない。しばらくは高見の見物だ。
 
 8時50分。2時間にわたって4倍の同盟軍の攻勢を防いだ帝国軍は後退を開始した。要塞主砲トゥールハンマーの射程に引きずり込むつもりなのだろう。過去4回のイゼルローン要塞攻防戦で帝国軍が用いた戦術だ。シトレ大将もそれを察知したのか、全軍に後退を命じる。俺にだってわかることなんだから、シトレ大将がわかってるのは当然だろう。歴史の本ではこの後で突入して要塞にイゼルローン要塞に肉薄するはずなんだけど、今のところはそういうそぶりはない。砲撃でこちらを牽制しつつ陣形を保ってゆっくり後退していた帝国軍が一斉に方向転換を始める。

 これで今の戦闘は終わったのかな。戦闘が中断されている時間が補給部門の出番だ。各部署からの物資補充要請を受け付けたり、戦闘に参加した人達に食事や着替えを配ったりしなければならない。ほっぺたを手でピシっと叩いて気合いを入れた瞬間、急にスクリーンの画面が切り替わってシトレ大将が映った。

「全艦、全速前進!敵の尻尾に食らいつけ!」

 シトレ大将の叱咤が轟いた瞬間、後退していたアイリスⅦは急速前進を開始した。艦が大きく揺れる。再び宇宙空間に切り替わったスクリーンを見ると、すべての味方艦が敵めがけて全速で突進している。呆気にとられていると、味方はあっという間に敵に追いついて突入した。5万隻の総突撃に思わず息を飲んでしまう。同盟軍は敵ともつれ合いながらも要塞方向へとグイグイ押し込んでいく。要塞外壁に据え付けられた砲塔や銃座が一斉に対空砲火を放ち、同盟軍の前進を阻止しようとする。味方の攻撃飛行隊のスパルタニアンと敵の要塞航空隊のワルキューレが要塞上空でドッグファイトを展開している。敵味方入り乱れた混戦状態のため、要塞主砲トゥールハンマーは使用できない。歴史の本に書かれていた通りの光景が目の前で展開されていた。手に汗握る熱戦、一進一退の攻防だ。この後も本に書いてた通りに展開するとしたら、無人艦の突撃で錯乱した要塞守備隊がトゥールハンマーを発射して駐留艦隊ごと同盟軍を吹き飛ばすことになる。でも、これほど激しい戦いがあらかじめ決められたかのような決着を迎えるとも思えない。

 敵の要塞駐留艦隊、対空砲火、要塞航空隊と味方の艦隊、攻撃飛行隊が入り乱れる混戦をかいくぐるように数隻の味方艦が要塞に突進して行く。どれも駆逐艦や巡航艦で強襲揚陸艦は含まれていない。要塞内部に陸戦隊を突入させる目的で無いのは明らかだ。まさか…。

 味方艦はまったく速度を緩めずに要塞に突っ込んで衝突する。大爆発が起き、要塞は衝撃で激しく揺れた。間髪を入れず第二陣、第三陣が要塞に突っ込んでいき、衝突するたびに外壁が爆発した。本に書いてあった通り、シトレ大将は無人艦を特攻させたのだ。閃光に包まれて激しく揺れる要塞は陥落寸前であるように見える。このままいけば、トゥールハンマーを発射される前に決着が着くんじゃないか。いや、それ以前に敵の指揮官がトゥールハンマーを発射できるとも限らない。このまま勝ってほしいと願う。第一、トゥールハンマーを撃たれたらアイリスⅦも無事ではいられない。

「補給長、あれを見てください!」

 隣のデスクからスクリーンを眺めていた経理主任シャハルハニ軍曹が叫ぶ。イゼルローン要塞の外壁に白い輝きが生じ、どんどん大きくなっていく。嘘だろ、おい。ここまで忠実に歴史をトレースするなよ。一気に血の気が引いていくのがわかる。

「きました!」

 シャハルハニ軍曹が悲鳴をあげる。要塞主砲トゥールハンマーから放たれた巨大な光の柱は混戦を演じていた両軍を貫き、多数の艦艇を一瞬にして消滅させた。すさまじい衝撃波を受けてアイリスⅦが大きく揺れる。再び要塞の外壁に白い輝きが生じる。第二射だ。シャハルハニ軍曹はデスクの下に隠れているが、俺は身動きを取れずに固まっている。二射目のトゥールハンマーは第一射より大きな揺れをアイリスⅦにもたらした。艦内の照明が暗くなり、大きな警報音の後に複数の区画の破損を伝える放送が流れ、廊下から慌ただしく駆けていく複数の足音が聞こえる。今の衝撃波で艦体が損傷したようだ。この様子だと死者が出たかもしれない。顔なじみの乗員の顔をいくつか思い浮かべて無事を祈る。デスクの上の端末の画面を見ると、艦体や電子機器の修理部品の請求が多数来ている。端末に向かって緊急度が高い部署に承諾の返事を送った後、倉庫にいる補給主任ランブラキス曹長に補充指示を出す。打ちのめされてる場合じゃない。俺は俺の戦いをしなければ。席に着いた俺はキーボードを叩き始めた。

 5月7日。第五次イゼルローン要塞攻防戦は自由惑星同盟軍の撤退をもって終結した。戦死者と行方不明者の合計は約50万人。過去4度の攻防戦と比較すると遥かに損害は少なく、イゼルローン要塞を陥落寸前まで追い詰めたこともあって、シトレ大将は敗将であるにもかかわらず凱旋将軍のような扱いを受けた。年内の元帥昇進も取り沙汰されている。

 一方、アイリスⅦは乗員93人中2人が死亡、15人が重傷を負った。後になって知ったことだが、アイリスⅦの所属する第1艦隊の第3分艦隊はトゥールハンマーで半数近い艦艇を失っており、生還できたのはかなりの幸運だったようだ。しかし、生き残ったからといって喜んでばかりはいられない。各部署の責任者は戦闘中の記録及び部下の勤怠評価に所見を付して提出することが義務付けられている。死傷者、機材の破損状況、需品の消耗状況に関しても報告しなければならない。これらの文書が艦、隊、戦隊、分艦隊、艦隊と各単位ごとに集約され、最終的には統合作戦本部と国防委員会のもとに集められて作戦や人事配置などを検討する材料となる。公式に発表される死傷者数や破損艦艇数もこれらの報告類がもととなっていた。宇宙空間で敵艦と戦っていた軍人達は、今度は机上で書類相手の戦いに赴かねばならない。

 現実の人生とこの世界で暮らした人生を合わせれば84年になるが、その間に作った文書を全部合わせても、ハイネセンに帰還してからの一ヶ月で作った文書の数には及ばないんじゃないかと思えた。一度戦いが起きると、こんなにたくさんの文書が必要になるのかと驚かされた。戦闘状況や部署の状態を伝える報告書の他に、上級司令部が独自に指定したテーマに関するレポートも書かなければならなかった。まるで学校の宿題みたいだな、とため息が出てしまう。そして、学校においては宿題をたくさん出す教師が一番鬱陶しい。戦隊司令部、分艦隊司令部、艦隊司令部のそれぞれがテーマを指定してレポートを書くように求めてきたけど、艦隊司令部が指定してきたテーマは格段に多かった。「タンクベッドの適切な設定温度。25度と26度の違い」「マーマイトの残食についてどう思うか」「77.3キロのジャガイモが投棄されていた問題について」などという無駄に細かいテーマばかり指定してくる。こんなテーマで補給責任者に報告書を書かせようとする人間はこの世に一人しかいない。そう、「切れ者ドーソン」こと後方主任参謀クレメンス・ドーソン准将閣下だ。彼のことは鬱陶しいと思うけど、嫌いにはなりきれない。それでもこんなくだらないレポートを書かされるとげんなりしてしまう。

 アイリスⅦが所属している第3分艦隊第17機動戦隊の第55駆逐隊には30隻の駆逐艦が所属していたが、イゼルローン要塞攻防戦で12隻を失った。損失分の補充の目処は立っておらず、今日の第55駆逐隊補給長会議も空席が目立っていて寂しい限りだ。これといった議題もなかったため、議長のスローン大尉はさっさと会議終了を宣言した。会議が始まる際に配られたお茶が冷めないほどの早業である。その後、いつものように茶飲み話が始まった。むしろ、こちらの茶飲み話がメインと言っていいだろう。駆逐艦の補給長はほとんどが下士官からの叩き上げで平均年齢も高い。その中でも第55駆逐隊の補給長は特に平均年齢が高く、過半数が50代でそれ以外はほぼ40代後半、30代が1人、20代は俺だけという有様だ。今日の茶飲み話でもドーソン准将の出した宿題が話題になったが、年寄りが多いだけあって実にのんびりとしたものだった。

「まったく。後方主任参謀殿も仕事熱心なものだね」

 タバコ片手に他人事のように言うのは来年で定年を迎えるスローン大尉。39年間補給一筋に生きてきたベテランだ。

「ああいう方が上にいる時に要望書出すとすぐ通るんですよ。現場のことを熱心に知ろうとなさってますからな」

 髪も髭も真っ白でガリガリに痩せていて、鶴を思わせる風貌のチャイ中尉はドーソン准将の仕事熱心ぶりを褒める。先ほど懐から取り出した小瓶から紅茶が入った手元のカップに琥珀色の液体を注いでいたような気がしたけど、気のせいだろう。

「現場のことを知ろうとしすぎるのも考えものじゃないですか?窮屈でたまらないですよ」

 ドーソン准将のレポートに苦労させられてる俺としては、愚痴の1つも言いたくなってしまう。

「フィリップス中尉はいちいち真面目に対応するからいけないんです。『上に政策あれば下に対策あり』と昔の人は言っています。上の言うことを適当に聞き流すのも必要です。我々に求められているのは権限の範囲内で最善を尽くすことであって、上の顔色を見ることじゃあありません。あっちが知りたがっているなら、こっちは教えたいことを教えてやるぐらいに思っていればいいんです」

 年齢は俺の2.5倍近くて軍歴は10倍近いチャイ中尉の言葉には、内容の是非を超えた部分で説得力を感じてしまう。だけど、俺が彼のような老獪さを身につけるには7回ぐらい生まれ変わる必要がありそうだ。

「まあ、若いうちはああいうのに腹が立つのも仕方ない。私も30年前はそうだった。上司が馬鹿に見えて仕方なくて、ガンガンやり合ったもんだ。反発しながら上との付き合い方を覚えていくのもいいと思うよ。全力で殴り合わないと見えないものもあるからね」

 俺を見つめるスローン大尉は孫を見るかのような優しい視線を俺に向ける。年齢では俺の父より十歳年長な程度で親子でも十分に通用する年齢差で、現実では俺の方が20年以上長く生きているのだけど、風格では祖父と孫と言って良いぐらいの差がある。こういう人に諭されるのも悪い気分ではない。

「全力で殴り合うなんて小官にはとても…」
「ドーソン准将のレポート、全部真面目に書いて提出したじゃないか。最近は良くやり合ってるみたいだし」
「やり合ってなんかいませんよ。いびられてるんですよ」

 ドーソン准将のレポートを馬鹿馬鹿しいと思いつつもきっちり調べて意見も書いて提出したら、直々の呼び出しを受けてびっしりと赤ペンで修正やコメントが書き込まれて突き返された、全件再提出を命じられた。一週間かけて書き直して再提出したら、また赤ペンでびっしり修正やコメントが書き込まれて突き返された。5日かけて書きなおして再提出すると、また赤ペンの書き込みで埋め尽くされて突き返された。ドーソン准将のような業務管理のベテランから見れば、若くて経験が足りない俺が書いたレポートの内容なんて間違いだらけでイライラするのかもしれない。だけど、ここまでしつこく突き返され続けると悪意を感じてしまう。俺のことが嫌いなんだろうか。

「ドーソン准将はエリートに嫌われるタイプですから、フィリップス中尉とうまくいかないのも無理もないかもしれませんね」

 いつの間にか懐から取り出した小瓶から直接琥珀色の液体を飲んでいるチャイ中尉。俺の他に14人の補給長がこの部屋にいるけど、誰一人として「勤務時間中なのにいいのか」という突っ込みはしない。できるわけがない。さらに言うと琥珀色の液体にびっくりしてとっさに突っ込めなかったけど、発言の内容もなかなかに衝撃的だ。ドーソン准将はむしろエリート的なんじゃないのか?だから、エリートとはかけ離れた気質のヤンやアッテンボローとはうまくいななかったんじゃ?

「どういうことでしょうか?」
「ドーソン准将は若くて頭が良くて真面目な人の反骨心を掻き立てるタイプなんですよ。だから、士官学校を出たエリートさんとは喧嘩になる。しかし、小官のような現場組は上にも下にも良い顔をして楽することばかり考えてるから、どうってことないんですな」

 俺は若いけど頭は良くないし、大して真面目でも無いぞ。士官学校出てないからエリートでもない。でも、楽をしようとも、上にも下にも良い顔しようとも思ってなかった。真面目に仕事に取り組んだら、全部丸く収まると思ってた。ドーソン准将のような人はそれを丸く収めてくれないから困るんだ。

「いや、でも現場に顔出されると鬱陶しくありません?」
「ああいう方は現場に顔を出さない人らと違ってこちらの事情に興味を持ってるから、ごまかし方心得てたら付き合いやすいんですよ。取り巻きを大勢連れ歩いてるわけでもありませんしね」

 ドーソン准将に反発したつもりはなかったんだけど、補給長たちから「やり合ってる」って見えてるってことは無意識のうちに反発してたんだろうか。ドーソン准将もそれを悟って腹を立てているのかもしれない。補給長達のように「ドーソン准将は付き合いやすい」と言い放てる老獪さを身に付けられるようになるまで、何年かかるんだろうか。真面目に仕事に取り組んで、上司や部下や同僚と仲良くやるだけでは限界があるようだ。軍人の仕事は本当に奥が深いと思った。 

 

第二十五話:カルトッフェルの休日 宇宙暦792年7月 惑星ハイネセン 射撃場及びじゃがいも料理店「バロン・カルトッフェル」

 ハイネセンに帰還して二ヶ月ほど過ぎた休みの日。俺とイレーシュ少佐は軍が経営している射撃場でスコアを競っていた。最近、射撃の腕が上がってきたような気がした俺は他人に見せたくなり、射撃の名手であるイレーシュ少佐を誘ったのだ。第五方面管区司令部で生まれて初めてハンドガン射撃をした時、俺は的にかすりもしなかったのに彼女は真ん中辺りにビシバシ当てていた。今なら人に見せられる程度にはうまくなってるから、撃ってるところを見てもらってアドバイスでも貰おうと思っていた。

「また俺の勝ちですね」
「ハンドガンで5連敗、ライフルで4連敗。悔しいなあ。君相手にこんな敗北感味わされるなんて思わなかったよ」

 イレーシュ少佐は幅の広い肩をがっくりと落として大きくため息をついた。180センチを越えるスラリとした長身に彫刻のような美貌を持つ彼女であるが、クールそうな印象に反して感情表現はかなりストレートである。

「まだやります?」
「いや、いいよ。何度やっても君には勝てなさそうだ」

 無念そうに首を振る彼女を見て、こんな顔もするんだなあと新鮮な気持ちになり、口元が緩んでしまう。

「ニヤニヤしないでよ。ムカつくね」
「あ、すいません」

 調子に乗りすぎたかと思って慌てて謝る。最近の俺は人と会った後に「はしゃぎすぎたかな」と不安になることが多い。理由はわからないけど、前と比べてだいぶ生意気になっているように感じる。

「なんかさあ、前よりかなりガキっぽくなってない?」
「あ、いや、もしかしたら、そうかも…」
「前の君だったら、『最近、射撃がちょっとうまくなった』なんて理由で人を誘ったりなんかしなかったよね」
「まあ、確かに…」
「『ちょっとはうまくなってきたから、見てください』なんて殊勝なこと言って呼び出しといて、一方的に叩きのめすとか。ずいぶん洒落た真似ができるようになったね」
「いや、まさか、ここまでだなんて…」
「私がここまで下手だったなんて思わなかったってこと?」
「そうじゃなくて…」

 ヤバい、言えば言うほどドツボにはまっていく。叩きのめすつもりなんて無かったんだ。5回やって1回ぐらい競り合って「うまくなったね」って褒めてもらえたらいいなって思ってた。圧勝するなんて予想してなかった。でも、「自分がこんなにうまくなってるとは思わなかった」なんて言ったら嫌味すぎる。どうしよう。頭を抱えていると、彼女は目を細めて優しく微笑む。

「今の方がずっといいよ。ガキっぽくてかわいいよね」
「勘弁して下さい。これでも結構気にしてるんですから。ただでさえ子供っぽい顔なのに内面まで子供になったらたまんないですよ」
「褒めてるんだよ。前の君は他人の言うことを素直に聞きすぎてた。素直なのはいいことだけど、素直すぎるのは怖いね。嬉しい時は笑って、悔しい時は悔しがって、頭にきたらちゃんと怒る。それができなきゃガキ以前。君は成長したんだよ。やっとガキになった」
「本当に褒めてるんですか…?」
「うん。人間って赤ん坊からいきなりおじいさんにはなれないでしょう?」
「ええ、まあ…」
「赤ん坊から子供になって、子供から少年になって、少年から青年になって…。そうやって一つ一つ成長していくの。君もそうやって一歩一歩大人に近づけばいいんだよ」

 子供になったのも成長なのか…。すごく微妙だけど、スローン大尉やチャイ中尉みたいな大人になった自分は想像できないから、子供になれただけでも喜んでいいのかな。

「腕の見せびらかし方だけは立派な大人だけど」

 マジで怒ってる。そんなつもりがなかったんです。お願いだから許してください。


 一時間後。射撃場から歩いて10分の距離にあるじゃがいも料理専門店「バロン・カルトッフェル(じゃがいも男爵)」。俺の前に置かれた大皿にはりんごのジャムがたっぷりかかった分厚いカルトッフェルクーヘン(じゃがいものクーヘン)が何枚も積まれている。

「いや、もうホントごめんね。まさかあそこで泣いちゃうとは思わなかったんだよ」

 イレーシュ少佐は両手を合わせて拝むように謝っている。2枚目のカルトッフェルクーヘンが皿に積まれた時点でもう怒りは解けてたんだけど、必死で謝る彼女がものすごくおかしくてむくれてみせてたら、いつの間にか5枚積まれていた。粘ったらもっと増えそうだけど、これ以上増やしても仕方がない。カットフェルトルテ(じゃがいものトルテ)、じゃがいものアイスクリームなども食べたい。もういいだろう。

「わかってくれたらいいんです」

 にっこり笑ってみせると、イレーシュ少佐の顔がパッと明るくなった。年齢も貫禄もずっと上の人に対して失礼な感想だけど、こういうところがすごくかわいいと思う。

「それにしても、4年前は銃の持ち方も知らなかった子がこんなに上達するなんてねえ。信じられないよ」
「少佐の『君は努力すれば大抵のことは人並み以上にできます』という言葉を励みに頑張ったんです」
「覚えててくれたんだ」
「忘れるわけないでしょ。あの日に少佐から頂いた言葉、今でも全部そらで言えますよ」
「泣かせること言わないでよ。ホント、君ってかわいいなあ」

 やめてください。誰にも遠慮せずに好きなように笑ったり怒ったりできて、時には意地悪も言える。かわいいなんて言葉を恥ずかしげもなく口に出せてしまう。そんなあなたの方がずっとかわいいじゃないですか。俺には言えないですよ。

「あ、いや、でも。ここ1年近くストレス溜まってたから、トレーニングで解消してたんですよ。射撃だけじゃなくて、ナイフも戦斧も徒手格闘も前よりはちょっとはできるようになりました」
「君のちょっとって、まともに銃を構えられなかった人がめちゃくちゃちっこい的に全弾命中させちゃう腕になる程度のちょっとだよね」
「いや、もう本当にちょっとなんですよ」

 あわてて話題を変えようとした俺だったが、変な方向に飛び火してしまったようだ。まいったなあ。面と向かって褒められるの苦手なんだよ。恥ずかしくなる。

「義勇旅団の司令官をやった後、イゼルローン攻防戦に参加したんだから、そりゃストレス溜まるわ」
「最近はじゃがいも参謀のおかげで本当にトレーニングがはかどりますよ」
「ああ、ドーソン准将かあ。最近、国防委員会に『食べられるじゃがいもが調理室のゴミ箱に77キロも捨てられていた』なんて内容の分厚いレポート提出したんだってね。読まされる人がかわいそうになるよ」
「レポートを書くためのデータ取りに使われた俺ら第一艦隊の人間だってかわいそうです」
「でも、じゃがいも参謀ってうまいこと言ったもんだね」
「でしょ?」

 ドーソン准将に何度もレポートを突き返された俺だったが、一番苦労したのはじゃがいも投棄問題に関するレポートだった。他のレポートが受理されても、このレポートだけは何度も突き返された。補給長会議でその話題をふられた時に「じゃがいも参謀殿」と呼んだらスローン大尉を始めとするベテラン達に大受けして、今ではアイリスⅦが所属する第三分艦隊全体に広まっている。第一艦隊全体に広まるのも時間の問題だろう。現実のドーソン准将のあだ名「じゃがいも士官」のパクリなんだけどね。

「ああいう細かい人に目をつけられると後が大変だよ。ささいな恨みも忘れないから。戦艦の艦長してた時に士官学校の同期で自分より席次が一つだけ上だった人が副長として配属されてくると、徹底的にいびったんだって」
「その話、もう少し早く知りたかったです」
「ドーソン准将が君みたいな生意気の正反対にいる子をどうしていじめるのかわかんないけど、英雄として目立ってるのが気に入らなかったのかな」
「英雄なんて全然ありがたいもんじゃないですよ」
「エル・ファシル攻防戦、ひどかったからねえ。あんな戦場で民間人ばかりの義勇旅団が良く生き残れたよね」
「いや、まあ大変でした」

 大変だったのは確かだ。イリーシュ少佐が思っているのとはまったく違う意味で。彼女は軍の公式発表通りに俺達があの激戦を戦い抜いて苦労したと思い込んでるが、実際はあの激戦が終わるまでまったく出番がなかったことによるモラルの崩壊が一番の問題だったのだ。真相を言ったところで誰も得をしないから黙ってるけど。

「地獄のエル・ファシルから戻ってきたら、今度は配属された第一艦隊がイゼルローンでトゥールハンマーの直撃食らう。生還したらドーソン准将に目を付けられる。ホント、ついてないね」

 端から見ると、俺って危ない橋をたくさん渡ってるのか。エル・ファシルでは苦労してないし、イゼルローンでも見ているだけで終わっちゃったから危ない目にあったって自覚はあんまりない。デスクワーカーの俺にとっては、ドーソン准将のことを抜きにしてもハイネセンに戻ってからが一番大変だったな。

「レポート全部出しちゃったから、じゃがいも参謀とも縁が切れました。しばらく出征は無いだろうし、のんびりやりますよ」
「ドーソン准将も少将に昇進するって噂だから、第一艦隊からは出て行くんじゃない?次にあの人が行く部署はご愁傷さまだけど。細かいことは現場に任せて全体を見渡すのが司令部の仕事だから、司令部と現場の違いがわからない上司に来られると迷惑なの」

 イレーシュ少佐は今は駆逐艦の艦長をしているけど、もともとは士官学校の経理研究科で後方幕僚教育を受けたエリートだ。艦長の職は腰掛け程度でいずれはまたどこかの司令部の幕僚になるだろう。全体を見渡す幕僚的な思考をする人から見ると、幕僚のくせに現場にばかり目が向いているドーソン准将は鬱陶しいということか。チャイ中尉が言っていた通り、「若くて頭が良くて真面目な人の反骨心を掻き立てる」「士官学校を出たエリートさんとは喧嘩になる」んだな。俺とうまくいかない理由が良くわからないけど。

「少佐は幕僚畑だから他人事じゃないんでしょうね。俺は現場畑だから関係ないですけど」
「君だって幕僚になるかもよ?」
「まさか。士官学校出てないし」
「アレクサンドル・ビュコック中将って知ってる?第五艦隊司令官」
「ええ、まあ」

 アレクサンドル・ビュコック提督を知らない旧同盟人などいるはずもない。俺の記憶の中では自由惑星同盟軍史上ただ一人兵卒から元帥になった人物にして、最後の宇宙艦隊司令長官である。獅子帝ラインハルト自ら率いる大軍相手に奮戦して旗艦ブリュンヒルドに肉薄したものの力尽きた。獅子帝が戦場で斃した敵将は数知れないが、全軍に敬礼を命じて敬意を表したのはビュコック提督ただ一人だ。ヤン・ウェンリーを除けば最も獅子帝を苦しめた同盟軍提督であり、その壮烈な最期と相まって同盟滅亡後も長く語り継がれた。こんなところで伝説の英雄の名前が出てくることに驚きを感じるが、良く考えたら現時点のビュコック提督はまだ伝説の存在ではない。

「あの人って志願兵から砲術畑一筋にコツコツ頑張って50半ばで大佐になった人なの。叩き上げで大佐まで行く人って滅多にいないからそれだけでも凄いことなんだけど、能力を認められて艦隊運用担当幕僚に起用されて将官の道が開けたの。60歳で准将になって今年の春に66歳で中将に昇進したから、将官になってからは士官学校卒のエリート並みの昇進速度ね。50過ぎまで現場一筋だった人が途中でエリートコースに乗ることもあるってこと。だから、君が幕僚になることも可能性としては有り得るんだよ。今の君の昇進速度は士官学校卒業者と殆ど変わらないし」

 伝説の英雄を俺を比べられてもなあ。そんなの例外中の例外じゃないのか。

「よほど凄い武勲立てたんじゃないんですか?」
「砲術士官って軍艦の砲塔の指揮官だよ?砲術長になっても1つの軍艦の砲塔全体の責任者。補給長の君とおんなじで武勲なんて立てようがないよ。砲術長から出世したら艦長になれるけど、それでも艦隊の中では一万数千分の一だね。そういう立場で武勲なんてそうそう立てられないよ。幕僚にならなくても武勲を立てられるのって陸戦隊と空戦隊ぐらいかな。艦艇乗りや後方部門で叩き上げて将官になった人はみんな幕僚経験して、大部隊を動かす能力を示してからコースに乗ってるね。階級は武勲に対して与えられるって勘違いしてる人多いけど、本当は能力に対して与えられるものだからね。将官にふさわしい能力がない人を昇進させて部隊が全滅したら元も子もないでしょ?」

 どんなに現場で優秀でもせいぜい軍艦1つぐらいしか動かせない。大佐なら軍艦数十隻の打撃隊を指揮する可能性はあるけど、それだって数千隻を動かす分艦隊や一万隻以上を動かす艦隊の幕僚とは比較にならない。だから、現場でどんなに優秀でも幕僚を経験して大部隊を動かす能力を示さないと将官になれないわけか。幕僚になってアンドリューやビロライネン大佐みたいなスーパーエリートに引けをとらない活躍ができる叩き上げなんて、ビュコック提督みたいな超人ぐらいだろう。俺には無縁だってことがはっきりとわかった。最初からわかってたけど。スローン大尉やチャイ中尉のような補給の古強者でも尉官どまりだもんな。

「そんなもんなんですね。勉強になります」
「今さら言っても仕方ないけど、君はやはり士官学校出ておくべきだったと思うよ」
「どうしてです?」
「だって、今の君と同格の士官ってみんな年上でしょ?現場だと20代後半だってあまりいないよね」
「そうですね」
「士官学校出て幕僚になったら、同格の士官はみんな同年代だよ。職場に同年代の友達がいないとしんどいね。喜びも苦しみも分かち合えるのって年が近い仲間だけだからさ。士官学校の同期の絆が強いのも同じような立場で同じような苦労してるからだよ」

 言われてみると、俺の同年代の友達ってアンドリューぐらいだな。でも、あいつは幕僚だから現場の俺と同じような苦労を分かち合えるわけじゃない。クリスチアン中佐も俺に同年代の友達がいないことを心配してた。尊敬する二人から同じ心配をそれぞれの視点でされるってことは、今の俺の人間関係がよほどまずいってことなのかな。

「出てないものは今さら仕方ないですよ。そもそも、ミドルスクールやハイスクール行ってた頃も同級生の友達少なかったし。同年代の友達がいないのは慣れてます」
「慣れないでほしいよ。君が幕僚になったらっていうのもまあ、同年代の子と仲良くしてほしいっていう私の願望なんだけど」

 今の俺には同年代の友達はアンドリューぐらいしかいない。だけど、同年代の友達が少なくても、イレーシュ少佐やクリスチアン中佐のようにそれを心配してくれる人がいる俺の人間関係はそんなに悪くないんじゃないかと思う。でも、彼女らが心配するってことは俺にはわからない問題があるんだろう。心配をかけずに済む日は来るのかな。幕僚になるような能力がない自分が申し訳なく感じる。 

 

第二十六話:じゃがいもの見方 宇宙暦792年冬 惑星ハイネセン 第一艦隊司令部

 じゃがいも参謀ことクレメンス・ドーソン准将はかねてからの噂通り、少将に昇進して第一艦隊後方主任参謀の職を離れた。イゼルローン攻防戦で大損害を受けた第一艦隊は当分の間前線には出られない。幕僚たちは損失見積りや補充計画などの作成で大忙しだろうが、現場が忙しくなるのはずっと先のはずだ。現場に口を出したがるじゃがいも参謀もいなくなる。今年の2月にアイリスⅦの補給長に着任したばかりの俺が忙しい部署に異動させられる可能性は低い。しばらくはのんびりできるはずだったのに。どこで読み違えてしまったんだろうか。考えるたびにため息が出てしまう。

「フィリップス中尉、参謀長からまたご指名だぞ」

 気の毒そうな表情を浮かべて俺に1ダースに及ぶ文書作成指示のメモを渡したのは、現在の直接の上司である第一艦隊司令部総務部総務課長ハシュバータル少佐だ。メモには作成する文書の内容案と注意事項がきれいな字でびっしり記されている。指示内容は詳細にわたっているが簡潔で読みやすく、メモを書いた人物が有能であることは一目瞭然だ。念入りなことにメモを書いた日時が秒単位まで記されている。作成者の氏名の署名は全部同じ。

『参謀長クレメンス・ドーソン』

 少将に昇進したドーソンは第一艦隊の参謀長に就任して、俺の予想を見事に裏切ってくれた。その一週間後、俺は司令部の一般事務を担当する総務部総務課に転属を命じられた。艦隊司令部には作戦部、後方部、情報部、人事部、総務部、経理部、通信部が設置されており、参謀長の監督下で司令部の業務を分担している。作戦部と後方部と情報部と人事部は主任参謀とも呼ばれる部長の下で参謀がそれぞれの分野における分析・計画・監督を担当する幕僚部門だ。それに対し、総務部と経理部と通信部は管理業務を担当する。イレーシュ少佐が言うには前者と後者の違いは民間企業における企画部門と事務部門の違いなのだという。そして、駆逐艦補給長から司令部総務課への転属は末端支店の総務課長から本社の総務課勤務への転属のようなものだから、栄転と思って素直に喜んでいいのだそうだ。しかし、俺は楽しく仕事したいだけで出世したいわけではない。司令部なんてただでさえ激務なのに、仕事を増やすのが大好きなドーソン少将が取り仕切るとなれば最悪だ。栄転でもありがたくない。

 切れ者と呼ばれていただけあって、ドーソン少将の実務能力は相当なものだった。指示は簡潔で的確、部署間の連絡は迅速かつ正確に行われるようになり、文書の流れが滞ることも無くなった。フットワークが格段に早くなり、どんな些細な問題でも司令部にすぐ解決に乗り出してくれるため、現場の一部では歓迎されているようだ。ドーソン少将の指揮のもとで司令部機能は飛躍的に強化され、第一艦隊の再編成もかなり早く進んでいる。彼が優秀なのは疑いないが、仕事ができる上司が仕えやすい上司とは限らない。

 ドーソン少将は他人に仕事を任せるということができず、何でも自分で指示しようとする。普通の上司は責任者に指示を出して任せるだけだが、彼は頭越しに指示を出すことが多い。文書作成を指示する時も総務部長に指示を出して任せきりにするのが筋なのに、総務部長と総務課長の頭越しに俺宛てのメモを書いて指示を出す。いちいち細かく指示されたら、ストレスが溜まってしまう。有能な彼から見たら、他人の仕事なんて雑でたまらないのだろうけど、過剰なまでに正確を求めすぎるのも問題だと思う。

 現場に足を運び、熱心にメモを取ってどんな細かい情報でも拾おうとするだけならいい。しかし、気を配りすぎて、いちいち全部に対処しようとするのは問題だ。艦長レベルで処理できるはずの問題に参謀長自ら指示を出すなんてことも珍しくない。下の人間の提案を積極的に聞き入れようとするのはいい。しかし、アピールするために何の役にも立たない提案を持ち込むような人間の言うこともいちいち真面目に聞き入れてしまうため、司令部は毎日くだらない議論に忙殺されている。こんな司令部で勤務している自分の身が悲しくなってしまう。

「やっぱ、俺、嫌われてるんですかね…」
「じゃがいも参謀殿に?」
「ええ。言われたとおりに文書作ると、びっしり手直しが入るんですよ。俺の作る文書が酷いのがわかってるなら、最初から書かせなければいいのに。上手に書ける人はいくらでもいるじゃないですか」
「頭蓋骨にじゃがいもが詰まってる人の考えることは小官にはわからんなぁ」

 俺が言い出した「じゃがいも参謀」と言う呼び名は既に第一艦隊全体に広まっていた。今、俺が愚痴っている相手のハシュバータル少佐もその呼び名を使っている一人だ。ドーソン少将は司令部での人望をすっかりなくしてしまっていて、無意味な提案をして点数稼ぎに励む人間以外は近寄ろうとしない。

「補給長やってた時にレポート提出したら、何度も再提出させられたんですよ。他の補給長は全然手直しさせられずに受け取ってもらえたのに」
「現場にいた貴官に言うのもなんだが、現場の人の書くレポートってあまり面白くない。若い人は細かい指摘ばかりで全体が見えてないし、ベテランは体裁ばかり整えて『出せばいいんだろ、出せば』って態度が露骨でな。まともに読む気になるのは20本に1本ぐらいだ」
「ベテランの人って文章力凄いのにレポートはつまらないんですか?」
「書式に則った文章は上手だぞ。短い文章に必要な情報を詰め込む技術は芸術的といっていい。だけど、自分なりの視点が必要な文章は書けない。書く気がないといった方が正しい。力の抜き方を心得てるから、本来の仕事と関係ないところでは力を使わないんだな」
「手を抜いても再提出させられないなんて凄いですね」
「明らかに手抜きしてるのに突っ込む隙だけは見せないレポートなんて、再提出させても面白くなる見込みが無いだろ」
「うちの軍のベテランって、本当に煮ても焼いても食えないですね…」
「人間は30年も軍隊にいたら、妖怪になっちまうってことさ」
「妖怪だったら、あの参謀長も怖くないんでしょうね」
「立場が離れすぎてるってのもあるわな。雲の上と雲の下じゃ喧嘩のしようもないから、案外うまくやれるのさ。司令部の参謀と駆逐艦の乗員が喧嘩する理由なんて思いつかないだろ?たまに顔合わせた時にニコニコしてるだけでうまくいく」
「ああ、なるほど」
「じゃがいも参謀殿も遠くから見たら、仕事熱心で気配りができる人材に見えるだろうよ」

 でも、俺が補給長やってた時は遠くから見てたけど、そんな良い人には見えなかったぞ。レポートでさんざん苦しめられたしね。他の人から見たらどうなるのかな。


 終業後、日課のトレーニングを終えて官舎に帰った俺は携帯端末をアンドリューにかけてみた。アンドリューが出ると、ドーソン少将について自分が思うことを話して意見を聞いてみる。

「じゃがいも参謀をどう思うかって?」
「その呼び名、ロボス閣下の司令部にも広まってるの?」
「うん。うまいこと言う人がいるよね。うちの司令部でも大流行りだよ」

 あの真面目なアンドリューが口にするぐらい広まってたのか。言い出したの、俺なんだよなあ。

「君らは遠くから笑ってるだけで済むからいいよね」
「うちは苦笑いって感じかな。閣下は雑な人だから、お仕えしてるうちにみんな細かくなっちゃうの。ロックウェル参謀長なんて『うちの大将にじゃがいもの爪の垢を煎じて飲ませたい』ってぼやいてたね。そしたら、コーネフ副参謀長が『粉ふき芋のゆで汁を召し上がっていただいたらいいじゃないですか』って言ってさ。みんな笑ったよ」
「ホント、ロボス閣下の司令部はいつも楽しそうだね。うらやましいわ。うちはひどいもんだよ」
「でも、じゃがいも参謀は仕事はできるんでしょ?」
「うん。指示書とか見ると本当によく書けててさ。あれだけ読みやすく配慮された文章書ける人が、なんで部下に配慮できないのかって不思議になるぐらい」
「へえ、そんな凄いなら読んでみたいな。来年からロボス閣下の副官になる予定なんだけど、なかなか文章が上達しなくて不安なんだよ」
「副官になるんだ。おめでとう」

 最初に知り合った時は仕事が覚えられなくて悩んでたのに、今は秘書役の副官に指名されるほどになったんだなあ。やっぱ、アンドリューは凄いや。

「なるだけじゃだめだよ。ちゃんとお役に立てないと。副官に指名されたのは嬉しいけど、プレッシャーも大きいよ」
「出世しても実力が伴わなかったらしんどいからね」

 義勇旅団にいた頃を思い出す。まったく部隊運営の仕事をさせてもらえなかったけど、今になって思うとそれで正解だった。ちゃんと仕事をしようとしたら、実力が伴わなくてあの時よりずっと落ち込んでいたかもしれない。ブーブリルや義勇兵を統率するなんて無理だっただろうし。シャルディニー中佐のように期待に殺されていたかもしれない。

「そうそう。幕僚ってむやみに昇進したがる人が多いんだけど、あれは良くないね。早く出世し過ぎると、無理して失敗しちゃうから。士官学校を首席で出た人は早死することが多いんだよ。20代で大佐や将官になると、プレッシャーも凄いんだろうなあ」

 まったくその通りだ。歴史の中のアンドリュー・フォークは26歳で准将になって失敗した。けど、今話してるアンドリューはその心配はないだろうな。プレッシャーに向き合いながら力をつけていくはずだ。

「俺はその点大丈夫だね。10年後ぐらいに大尉に昇進しておしまいだから」
「正規艦隊司令部勤務の24歳中尉ってエリートじゃん。エリヤと同い年の士官学校卒業者もそれぐらいのポジションだよ」
「ただの事務職だよ」
「総務課でしょ?事務方のエリートコースだよ。現場あがりでも準エリートみたいな人じゃないと配属されない。そもそも、士官学校出てない事務職が20代前半で士官やってるだけで普通じゃないよ」
「英雄の名前のおかげだよ。それがなかったら士官やってない」

 英雄にならなかったら、幹部候補生養成所を受験しようとは思わなかった。第三方面管区司令部が受験勉強を支援してくれることもなかった。中尉に昇進できたのも英雄の名前のおかげだ。英雄としての評価抜きでは何も成し遂げられなかった。悲しいけど、それが今の俺の実力だ。

「エリヤは他人のことは良く見えるのに、自分のことは見えないのな」
「どういうこと?」
「たとえばさ、じゃがいも参謀のことはとても良く観察してると思ったよ。好きじゃない相手なのにちゃんと良い面を見ようとしてるよね。それに他の人の視点を取り入れながら多角的な評価を試みてる」
「普通、他人の事って気にならない?」
「気にするのと見るのは違うよ。気になりすぎて相手がちゃんと見えないことだってある」
「なるほどなあ」
「なんでそこまで自分を過小評価したがるのかは知らないけど、冴えなかったのってハイスクールまでだろ?今のエリヤは誰もが認める優等生なんだから。自分ではそう思ってなくても、他人にはそう見える。それはちゃんと受け止めなきゃね」

 他人にはそう見える、それはちゃんと受け止めろ、か。子供の頃からリーダー経験豊富なだけあって、人間関係を良くわかってるんだな。俺が現実でエル・ファシルの逃亡者になってからの60年間をどんな思いで生きてきたかを教えてみたら、彼は何と言ってくれるのか聞いてみたい気がする。この世界で光を浴びれば浴びるほど、自分があの暗闇の60年間を引きずっていることを痛感した。最初からこの世界で生まれてたら良かったな。そうしたら、素直に自分を好きでいられたかもしれない。

「ありがとう」
「好きじゃない人にもちゃんと興味持つっていいことだと思う。ドーソン少将とも仲良くなれる日が来るといいな」
「そりゃねえわ」
「ないよなあ」
「適当こいてんじゃねーよ」

 端末の向こうでアンドリューのあっはっはという笑い声が聞こえた。こいつと話してると、クリスチアン中佐やイレーシュ少佐が同年代の友達は大切っていう理由が良く分かる。立場が近かったらもっと楽しいんだろうな。ロボス大将の副官就任が内定してる彼と、艦隊司令部の総務課でドーソン少将にこき使われてる俺では立場が違いすぎるのが残念だ。

 年が明けて793年を迎えた。第一艦隊司令部は相変わらずドーソン少将に苦労させられている。うんざりしつつもアンドリューがロボス大将の副官に就任したらどんなお祝いをしようかを考えつつ、朝から晩まで書類を作っていた。そんなある日、いつものように朝早く司令部に出勤すると総務部長から呼び出された。まず「俺より早く来る人がいるんだな」と思ったが、その次に上司の上司である総務部長に呼び出されたことを不思議に思った。訝しむながら総務部長室に入る。

「おめでとう、フィリップス中尉」

 笑顔で俺を迎える総務部長アントネスク中佐。彼に祝福される覚えなんてないんだけど、どういうことだろうか。

「君の大尉昇進が内定した」
「え…!?」

 今の俺はものすごい間抜け顔をしていたはずだ。なんでこのタイミングで昇進するんだ?

「憲兵司令官副官への就任も内定している」
「ええええーっ!!」

 やばい、声に出してしまった。大尉昇進だけでもびっくりなのに、憲兵司令官副官就任なんて聞かされて驚きを隠せるほどの冷静さは俺にはない。憲兵司令官と言えば、同盟軍の軍事警察のトップだ。記憶の中ではローエングラム朝銀河帝国のウルリッヒ・ケスラー元帥が憲兵総監だった。その秘書役を務める副官はエリート中のエリートといえる。どうして俺がそんな要職に抜擢されたんだろうか。さっぱり理解できなかった。 

 

第七章 じゃがいも副官
  第七章開始時人物設定

主人公
エリヤ・フィリップス 25歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍大尉
役職:憲兵司令官副官
性格:小心で卑屈。素直で真面目な優等生。努力を楽しめる。仕事熱心。自己評価は低い。
容姿:子供っぽい容姿。身長は平均よりやや低い。爽やか、絵になるなどと言われているが、以前は冴えなかったと言われる。
能力:業務経験の乏しさを努力で補っている。コミュニケーションは苦手だが、人に協力を頼むのはうまい。射撃の達人。
略歴:第一艦隊所属の駆逐艦アイリスⅦの補給長、第一艦隊司令部経理部勤務を経て、憲兵司令官ドーソン中将の副官に抜擢される。前の人生ではアーサー・リンチに従ってエル・ファシルから逃亡したことがきっかけで転落した。
史実:登場せず。

重要人物
クレメンス・ドーソン 43歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中将(第七章開始時点)
役職:憲兵司令官(第七章開始時点)
性格:異常なまでに神経質で几帳面。
容姿:エリヤと同程度の身長。ひげがトレードマーク。
能力:抜群の実務能力を持つ。陣頭指揮を好み、現場に口を出したがる。
略歴:第一艦隊の後方主任参謀、艦隊参謀長を歴任。エリヤを副官に抜擢した。
史実:自由惑星同盟軍の末期状態を象徴する無能な指導者。
初出:二十三話

親しい人
アンドリュー・フォーク 23歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍大尉(第七章開始時点)
役職:宇宙艦隊司令長官副官(第七章開始時点)
性格:真面目で謙虚。社交性が高い。
容姿:長身でハンサム。
能力:士官学校を首席で卒業した秀才。リーダーシップ、運動能力も高い。白生戦技、射撃術も達人級。
略歴:エリヤの友人。ロボス大将に引き立られて、副官に登用された。エル・ファシル義勇旅団長を務めていた頃に親しくなった。
史実:帝国領侵攻作戦を立案して同盟軍を壊滅に導き、テロリストとしても同盟の足を引っ張った愚劣な人物。
初出:第二十話

エーベルト・クリスチアン 40代 男性 ゲルマン系
階級:自由惑星同盟軍中佐(第五章終了時点)
役職:元重装甲歩兵大隊長(第五章終了時点)
性格:軍隊を家族と考えている。剛直だが人情に厚い好漢。単純明快な物言いを好む。
容姿:背はさほど高くないが、肩幅と胸板が厚い。いかつい顔に不機嫌そうな表情。
能力:勲章受章経験のある勇者。食事と睡眠の重要さを理解していて、部下の待遇改善に熱心。
略歴:陸戦隊出身。エル・ファシルの英雄になったエリヤの広報担当を務めた時に親しくなった。エリヤが職業軍人になるきっかけを作った人物。
史実:救国軍事会議メンバーとしてスタジアムの虐殺を引き起こした。
初出:第八話

イレーシュ・マーリア 30歳 女性 マジャール系(姓が前、名が後に来る)
階級:自由惑星同盟軍少佐(第五章終了時点)
役職:第三艦隊所属の駆逐艦艦長(第五章終了時点)
性格:とっつきにくい外見とは裏腹に思いやりがある。
容姿:180センチを越える長身。非の打ち所のない美形。眼力が異常に強い。不機嫌そうな表情。
能力:対人観察力が高い。熱心な教育者。
略歴:士官学校卒のエリート。幹部候補生養成所を受験するエリヤの学力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

カスパー・リンツ 23歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍中尉(第五章終了時点)
性格:気さくだが、やや屈折している。
容姿:脱色した麦わらのような髪に青緑色の瞳を持つ美男子。
能力:白兵戦技と射撃術の達人。絵と歌がうまい。
略歴:幹部候補生養成所時代の唯一の友人。
史実:ワルター・フォン・シェーンコップの片腕。ローゼンリッター最後の連隊長。
初出:第十六話

バラット 男性 タイ系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第三章終了時点)
役職:第七方面管区シャンプール基地教育隊体育教官(第三章終了時点)
性格:単純熱血。太っ腹。
容姿:がっちりした体格。猛犬のような印象。
能力:トレーニング指導のプロ。
略歴:陸戦隊出身でクリスチアンの元部下。幹部候補生養成所を受験するエリヤの体力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ルシエンデス 30代 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍曹長(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:ざっくばらん。
容姿:小綺麗な身なり。
能力:軍服を着た人を撮影すれば、右に出る者はいない。
略歴:統合作戦本部広報室のカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

ガウリ 30前後 女性 インド系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:気さく。
容姿:小綺麗な身なり。
略歴:統合作戦本部広報室のスタイリストカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

家族
ロニー・フィリップス 49歳 男性 アングロサクソン系
職業:パラディオン市警の警察官(第二章終了時点)
性格:善良でお調子者。
略歴:エリヤの父。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

サビナ・フィリップス 48歳 女性 チェコ系
職業:看護師(第二章終了時点)
性格:心配症でおせっかい。
略歴:エリヤの母。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ニコール・フィリップス 27歳 女性 アングロサクソン系
職業:ジュニアスクールの非常勤講師(第二章終了時点)
性格:しっかり者。
略歴:エリヤの姉。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

アルマ・フィリップス 20歳 女性 アングロサクソン系
職業:ミドルスクールの生徒(第二章終了時点)
性格:甘えん坊の食いしん坊。
略歴:エリヤの妹。空気の読めないメールを送っては、エリヤをいらだたせる。前の人生ではエリヤに懐いていたが、逃亡者になると最も激しく拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

同級生
ミロン・ムスクーリ 25歳 男性 ギリシャ系
性格:爽やかなスポーツマン。
容姿:大男。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。元フライングボール部のスター。前の人生では極右団体の構成員。逃亡者になったエリヤを迫害した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ルオ・シュエ 25歳 女性 チャイナ系
容姿:丸顔。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の数少ない友達。前の人生では、逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

フーゴ・ドラープ 25歳 男性 チェコ系
性格:誰にでも優しい。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。信望が厚く、クラス代表を務めた。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

その他知り合い
ラザール・ロボス 55歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍大将(第七章開始時点)
役職:宇宙艦隊司令長官(第七章開始時点)
性格:豪放で大らか。社交的な性格。
容姿:小柄でどっしりとした肥満体。将帥にふさわしい威厳の持ち主。
能力:リスクを厭わず、大胆に仕掛ける用兵に定評がある。対人調整や政治的な折衝にも長ける。人の心に入り込むのがうまい。雑務が苦手。
略歴:同盟軍きっての名将。エル・ファシル義勇旅団結成の仕掛け人。
史実:帝国領侵攻に失敗して、同盟軍を壊滅に追い込んだ愚将。
初出:第十八話

カーポ・ビロライネン 32歳 男性 フィンランド系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団参謀長(第五章終了時点)
性格:真面目だが、他人の心情への配慮に欠けるところがある。
容姿:神経質で気難しそうな容姿。実年齢より5年は老けて見える。
能力:実務能力は極めて優秀。情報宣伝にも長けている。
略歴:ロボス大将の懐刀。エル・ファシル義勇旅団ではエリヤを棚上げして、実権を掌握した。
史実:帝国領侵攻作戦の情報主任参謀。
初出:第十九話

マリエット・ブーブリル 34歳 男性 フランス系
階級:義勇軍中佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団副旅団長(第五章終了時点)
性格:外面は良いが、自己中心的で気性が激しい。自己顕示欲が強い。
容姿:上品で優しげな美貌の持ち主。実年齢より5年は老けて見える。
能力:カメラの前では、嫌いな相手に対しても親友のように振る舞える演技の達人。
略歴:元従軍看護師で勲章も持っているが、世間的な知名度は低い。エル・ファシル義勇旅団ではトラブルメーカーだった。
史実:登場せず。
初出:第十九話

ヤン・ウェンリー 25歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第二章終了時点)
性格:冷静沈着。責任感が強い。整理整頓ができない。他人の期待通りに振る舞うことを嫌う。
容姿:ハンサムだが、身なりに無頓着なせいで冴えないように見える。
能力:頼りなさそうな風貌とは裏腹に、有能で精力的な指揮官。
略歴:士官学校卒のエリート。エル・ファシル脱出作戦を指揮した真の英雄。メディア受けしないコメントを連発したせいで、人気は盛り上がらなかった。
史実:自由惑星同盟末期最高の名将。生涯不敗を誇った用兵の天才。
初出:第五話

アーロン・ビューフォート 男性 アングロサクソン系
階級:中佐(第二章終了時点)
性格:さっぱりした性格。本当の意味での大人。
容姿:30半ばに見える。
略歴:エル・ファシル脱出船団旗艦の艦長。エリヤに絡まれたが、大人の対応をして泣かせた。
史実:大親征でビッテンフェルトを迎撃した。
初出:第七話

フランチェシク・ロムスキー 30前後 男性 ポーランド系
職業:エル・ファシル市会議員、内科医師(第二章終了時点)
性格:気さくだがやや軽率。
容姿:大柄。
略歴:エリヤをエル・ファシル星系政庁に連れて行った。
史実:同盟から独立したエル・ファシル独立政府の主席を務めた。
初出:第三話 

 

第七章 じゃがいも副官
  第二十七話:小心者と小市民との付き合い方 宇宙暦793年春 惑星ハイネセン 憲兵司令部

 民主共和制の自由惑星同盟は立法の同盟議会、行政の同盟最高評議会、司法の同盟裁判所の三権分立制度を採用し、それぞれが牽制し合う仕組みになっている。国家元首と首相を兼ねて独裁権力を手中にしたルドルフ・フォン・ゴールデンバウムが銀河連邦を簒奪した故事から、同盟議会議長が国家元首となって行政の長たる最高評議会議長の突出を抑えていた。戦時体制下で力を強めて国家元首の権限の一部を代行している最高評議会議長は”事実上の元首”とも言われるが、建前だけでも分離している意味は大きい。行政部門においては各委員長の指名によって代議員から選ばれた委員が意思決定と監督、官僚組織の事務総局が行政実務をそれぞれ司って権力の分散が図られる。地方政府においても権力分散は徹底していた。権力の集中が生む強い指導力より独裁回避を選ぶという信念のもとに同盟の政治体制は構築された。しかし、軍隊は例外だ。

 軍事においては軍事組織を素早く正確に動かすことが何よりも大事だ。権限が分散されていたら、調整に手間取って動きが鈍くなってしまう。判断が1秒遅れると部下が死ぬ。補給が一週間遅れると部隊が死ぬ。だから、指揮官に権限を集中して指揮系統を一本化することで組織を素早く動かそうとする。だが、何万もの人員を抱える軍事組織を動かすためには、一人では処理しきれないほど膨大な作業や情報を処理しなければならない。その処理を助けるのが司令部だ。司令部の幕僚スタッフ、事務スタッフ、技術スタッフらはそれぞれの専門知識に応じて処理を分担し、指揮官が軍隊組織を素早く動かせる環境を整える。指揮官と作業を分担する司令部スタッフに対し、副官は指揮官個人の手足として作業を補助する。スケジュール調整、各部署との連絡、決裁を求める者の取り次ぎ、文書整理、資料収集、来客応対などが主な仕事だ。組織の構造や内部ルールに精通していなければ務まらない。信念より協調性、創造性より信頼性が求められる。

 バーラト自治区主席としてエル・ファシル逃亡兵の名誉回復を拒否したフレデリカ・グリーンヒル・ヤンは好きになれないけど、それでも「コンピュータのまたいとこ」と言われるほどの記憶力と処理能力によってヤン・ウェンリーを補佐した名副官だったことは疑いない。そして、副官が最も俺に向いていない仕事であろうこともまた疑いない。

 俺の大尉昇進と副官抜擢は、中将昇進と憲兵司令官就任が内定していたじゃがいも参謀こと第一艦隊参謀長クレメンス・ドーソン少将の推薦によるものだった。自分を嫌っているとばかり思っていた人物に大抜擢を受けた俺はかなり戸惑った。将来有望なエリートでもなければ、気に入られてるわけでもない俺が副官に抜擢される謂われはない。裏で何かを企むようなタイプとは思えないけど、理由がわからないのは怖い。だから、憲兵司令部に着任して最初の打ち合わせをした際に思い切って聞いてみた。

「なぜ、小官を副官にご指名いただいたのでしょうか?」
「貴官は小官の心を良くわかっておる」

 初対面の日とまったく同じセリフが返ってくる。俺の感想もあの時とまったく同じ。わからねえよ。

「どういうことでしょうか…?」
「貴官は上司に敬意を払うことを知っている。最近の若い奴は生意気でいかん。特にあのアッテ…」

 実名を危うく口にしかけたところでドーソン中将は口をつぐむ。確かに若くて頭が良い人には反発されるだろうな。俺の場合は鬱陶しく思ってるだけでドーソン中将の能力には敬意を持っている。嫌われてさえいなければ、素直に尊敬できたかもしれない。

「しかし、本当に小官でよろしいのですか?」

 副官は司令官と一心同体の存在だ。それを扱いやすいって理由だけで選ぶのはまずいんじゃないんだろうか。もっと有能でもっと気に入ってる人物を選ぶべきじゃないか。そういう思いを込めて問い直す。

「貴官以外は考えられん」

 むしろ、俺以外を考えた方がいいんじゃないのか。義勇旅団の時に能力に見合わない出世をするとひどい目に遭うというのをさんざん思い知らされた。正直言うと辞退したい。大尉昇進を返上してもいい。ここはストレートに切り込まないと伝わらないのか。

「もっと有能で信頼できる人の方がよろしいのでは。小官に務まるかどうか」
「最も有能で信頼できる人材だから貴官を選んだのだ」

 ドーソン中将は何を言ってるんだ、という表情を浮かべる。俺もきっと同じような表情をしていたに違いない。

「どんな細かいことでも気がついたら耳に入れること、指示を素早く正確に実行すること。貴官にその2つを期待している。以上だ」

 彼ほどの実力者なら、部下にもかなり高い水準を要求するはずだ。そんな人物の副官が俺に務まるのだろうかと思うとため息が出てしまう。


 俺が与えられた最初の仕事は憲兵司令部の主要幹部の人事情報収集だった。まずは部下がどういう人間か把握しようというのだろう。2日で必要な資料を揃えて提出したところ、ドーソン中将に怪訝な顔をされた。これでは足りないということか。最初からしくじってしまった。

「申し訳ありません、司令官閣下。あと1日お時間をいただけたら、ご期待に添える資料を用意いたします」
「いや、これで十分だが…」
「何か問題が?」
「なんでこんなものまで用意したのだ?」

 ドーソン中将が指したのは6年前の惑星アンシャル攻防戦の戦闘詳報。ハマーフェルド大佐のファイルに挟んだやつだ。どうしてこれが怪訝な顔をされるか良くわからないけど、説明しておくか。

「ハマーフェルド大佐は五芒星勲章を持ってらっしゃいましたよね」
「そうだが」
「あの方はアンシャル攻防戦の活躍で五芒星勲章を受章なさいました。誇りにしている勲章の由来を知っていれば、付き合いもしやすいのではないかと考えて用意しました」
「これは今回が初めてか?」
「いえ、ポリャーネ補給基地にいた頃からの習慣ですが」

 腕を組んでなにやら考えていたドーソン中将だったが、少し経ってから口を開いた。

「第一艦隊司令部メンバーの勲章の由来も覚えたのか」
「覚えております」

 どうして、わかりきったことを聞くんだろうか。人付き合いするならそれぐらい当たり前じゃないのか。

「今後、勲章保持者の人事情報を小官に提出する際は必ず戦闘詳報を付けるように」

 ドーソン中将はメモ帳を取り出して何やら書き込むと、しきりに頷いていた。


 俺の集めた情報で憲兵司令部の主要幹部の人柄を把握したドーソン中将は、今度は憲兵司令部の各部署の発行した公文書を集めさせる。読むたびに頷きながらメモ帳に何やら書き込んでいた。ひと通り公文書を読み終えると、今度は各部署の会計書類を俺に集めさせてやはりメモ帳に書き込む。その次に部署も階級もバラバラの十数人をリストアップして個別に呼び出し、文書を示しながら「この文面はどういう意味か」「この経費の具体的な用途は何か」などと質問をぶつけた。呼び出された者が答えられずにいると、文書の中の矛盾をネチネチ指摘していく。ドーソン中将が指摘していくたびに呼び出された者の顔から血の気が引いていく。それと同時に全ての部署に監査を入れて不正を暴き出し、ドーソン中将は綱紀粛正を大義名分に憲兵司令部を掌握した。指示通りに情報を集め、各方面との連絡にあたった俺から見てもびっくりするほど鮮やかな手際だった。

 しかし、憲兵司令部を掌握した後のドーソン中将は良くなかった。何種類もの内部告発窓口を設置する一方で、自ら現場に顔を出して偏執的に情報を集めて憲兵司令部に関することはどんな些細な事でも知ろうとした。責任者の頭越しに現場に指示を出し、憲兵司令官が中隊長になったと揶揄されるほどだ。他人の悪口やら無意味なアイディアやらを吹き込んで点数稼ぎをする悪い取り巻きが現れる一方で、骨のある人間の反発を受けた。第一艦隊の時とまったく同じだ。

 軍人による犯罪の通報窓口を各地の憲兵本部に設置して、市民から通報があればすぐ捜査に乗り出すというフットワークの軽さで憲兵司令部の世間的な評価は高まっているものの内部の士気は著しく低下している。副官の俺はただのメッセンジャーなのに「ドーソンの懐刀」などという根も葉もない噂を立てられて、冷たい視線で見られるようになってきた。憲兵司令部の主要幹部はしょっちゅうドーソン中将の叱責を受けているのに、なぜか俺だけが一度も叱責されていないというのも話をややこしくしている。俺自身にも叱責されない理由がさっぱり理解できないのに、贔屓されているように言われるのは不本意だ。どうにかして空気を良くしないと、俺の神経が耐え切れなくなってしまう。

 針の筵の中でドーソン中将を観察して解決の糸口を考えていると、いろんなことに気づいた。まず、根は悪い人間ではないらしいということ。ニュースで残酷な悪党を見ると憤慨し、不幸な事件を見ると打ちのめされたかのような顔をする。障害者や戦災遺児の支援を呼びかける街頭募金を見かけると、必ず紙幣を何枚も募金箱にねじこむ。専属運転手から聞いた話では、毎朝小さな娘に見送られて家を出て、車の中から手を振っているのだそうだ。

 他人に腹を立てる時は「俺を馬鹿にした」「生意気」という理由で腹を立て、他人を褒める時は「まじめ」「善良」といった彼好みの価値観に沿っているという理由で褒める。そして、他人から受けた善意も悪意もいかに小さくとも忘れない。要するに根っからの小市民。優しかった頃の父はそんな感じだった。悪意が怖くて怒れないってことを除けば、俺もこういう性格だ。小市民にもなれない小心者というべきだろう。

 つまらない取り巻きが集まってくる理由も見えてきた。情報に貪欲なドーソン中将はくだらない話にも真剣に耳を傾けて、人の悪口や自己アピールなんかもメモ帳に記録して情報として認識してしまう。そして、くだらないことを盛んに吹き込んでくる人間を善意の情報提供者として重用してしまう。情報を掌握することで憲兵司令部を掌握したドーソン中将だったが、情報にこだわりすぎて人望を得られない。彼の優秀さは欠点の裏返しなのだ。チャイ中尉の『あっちが知りたがっているなら、こっちは教えたいことを教えてやるぐらいに思っていればいいんです』という言葉の意味がようやく分かった。そして、自分がやるべきことも。

 次の日から、折を見て憲兵司令部の人間の良い話をドーソン中将の耳に入れるようにした。A中佐は夫婦仲が良い、B大尉は犬を4匹も飼っている、C少佐は勲章とともに与えられた報奨金を全額傷痍軍人救済募金に寄付した、といったいかにもドーソン中将の善意や同情を刺激しそうな話を選んだ。副官として各部署と連絡を取る俺のもとにはいろんな情報が集まる。いい話を集めるのはたやすいことだった。その他にD大佐は雨の中で捜索活動を指揮したせいで風邪を引いてしまった、みたいなドーソン中将好みのまじめな人物の話も耳に入れるようにした。

 ある日、俺が難病に苦しむ娘の治療費を稼ぐために進んで残業しているある少佐の話をすると、ドーソン中将は見舞いに行きたいと言い出した。俺の手配で見舞いに行ったドーソン中将はあまりの娘の衰弱ぶりに涙を流し、少佐に「力になれることはないか」と語る。この時から憲兵司令部の人々のドーソン中将に対するイメージは好転し、それに気を良くしたドーソン中将も「君のところの猫は元気かね」などと部下に声をかけるようになり、職場の空気はだいぶ良くなった。反骨精神の強い人は「つまらない偽善」と反発し、くだらないことを言って取り入ろうとする人もまだまだ多かったが、これまでまじめで素直な人がドーソン中将に親しむようになり、現在はこの三者でバランスがとれている。俺に対するみんなの視線もだいぶ柔らかくなったような気がする。向いてない仕事だから、せめてみんなと仲良くやりたい。これまでの職場ではそう心がけてきた。これからもそうありたいと願う。 

 

第二十八話:副官が覗いた政治の端っこ 宇宙暦793年秋 惑星ハイネセン 憲兵司令部

 憲兵司令官副官の朝は早い。ドーソン中将が出勤する1時間前に憲兵司令部の司令官室に到着し、自分の端末を開いてメールをチェックして、スケジュールの変更や追加、その他の連絡の有無を確認する。それから、4人の副官付と打ち合わせをして今日のスケジュールと業務の流れを確認。副官付というのは副官の補佐役として雑務を担当する士官や下士官。20代の若手から選ばれることが多く、必ず女性が含まれる。女性の副官付の選考基準は容貌だと言われているが、憲兵司令官副官付のバイオレット中尉、メイ・リン軍曹がともに能力で選ばれたことは疑いない。美人なのはたまたまだろう。

 ドーソン中将が出勤してくると、俺は当日のスケジュールを読み上げる。会議、来客、行事出席といった予定がびっしり詰まっているが、詰め過ぎると不測の事態に対応できなくなる。移動時間などを考慮しつつ、余裕を持たせて組まなければならない。憲兵司令官ともなると、会う相手もVIPばかりだ。予定が狂えば何人ものVIPに迷惑をかけてしまうことになる。スケジュール管理は本当に緊張する仕事だ。おかげでトイレに行く回数が倍に増えた。その他、「あの件はどうなっている」といった求めに応じて報告を行い、資料を手渡す。

「メヒアス中佐夫人の件、手配は済んだか?」
「キキョウの花束とティーセットが誕生日当日に届くように手配しました」
「キキョウの花言葉は何と言ったか」
「『変わらぬ愛』『気品』『誠実』です」
「いつもながら貴官は花に詳しいな」
「好きなんですよ」
「なるほど」
「来月、本人もしくは配偶者が誕生日を迎える者のリストです。目を通しておいてください」
「今月の倍か」
「我が司令部はどういうわけか4月生まれが多いですから」
「まあいい、合間を見てバースデーカードを書いておこう。貴官の言うように直筆であることが大事なのだからな」
「恐れいります」

 このようにいつどのような報告を求められるかわからない副官は、ありとあらゆる事項を頭の中に叩き込んでおかないといけない。ドン臭い俺には本当にきつい。

 始業時刻前から多忙な副官だが、始業後はさらに忙しくなる。ドーソン中将のもとには各部署からの連絡事項がひっきりなしに舞い込み、ドーソン中将から各部署への連絡も随時行われる。執務室にいる時は司令部スタッフが何人も決裁を求めにやってくる。ドーソン中将宛ての超高速通信やメールも次々と届く。それらの取り次ぎは全部俺が行う。会議がある時は会議資料の用意、会議室の準備、議事録作成、後片付け。来客があれば出迎え、取り次ぎ、案内、見送り。外出する際は随行する。出張の際は交通手段や宿泊の手配も行う。ドーソン中将はフットワークが軽い。ただでさえ多い副官の仕事がさらに多くなる。

「現地刑法違反ゼロキャンペーンの成果はまずまずだが、リューカス星系の違反者だけは急増しているな。困ったものだ」
「去年末の星系共和国公衆倫理法改正で第十七条、第十九条、第二十四条、第三十条の適用範囲が飛躍的に拡大しています。あのトリプラ星系よりずっと厳しい内容です」
「貴官は星系法まで勉強しているのか」
「そうでなければ閣下のお役に立てないと思いまして」
「そうか。トリプラより厳しいとなれば、現地司令部の責任ではないな。注意を喚起しよう。資料を作成してくれ」
「了解しました」

 合間合間に業務に関する打ち合わせも行う。多忙なドーソン中将は打ち合わせに時間を割くことができない。そのため、副官は必要な情報を頭の中で整理して的確に伝える必要がある。軍隊組織の構造やルール、関連法規に通じていなければ、ドーソン中将がどのような情報を必要としているかを見極めることはできない。特にドーソン中将は情報に貪欲な人物だ。気が休まる時がない。最近は一日で食べるマフィンの数が増えた。大雑把な俺には細かい仕事はストレスなのだ。

 業務時間が終了してドーソン中将が帰宅すると、副官控室で副官付の士官・下士官達と本日の業務の整理及び明日のスケジュール作成にとりかかる。しかし、多忙なドーソン中将が終業時間と同時に帰宅することは珍しく、ほぼ毎日終業時間後に会議やら懇親会やらに参加している。俺が同行するのは言うまでもない。朝から晩まで仕事漬けでヘトヘトになってしまう。

 今、ドーソン中将と会食しているのは国防副委員長マルコ・ネグロポンティ。改革市民同盟幹事長ヨブ・トリューニヒトの側近で、国防委員会における代理人として動いている。ドーソン中将を憲兵司令官に推薦したのは、トリューニヒトの意を受けたネグロポンティだった。かねてから軍規粛正を主張していたトリューニヒトは、規律に厳しいことで知られるドーソン中将に白羽の矢を立てたのだ。

「これが統合作戦本部の裏帳簿のコピーだ。憲兵隊には徹底的に追及してほしい」
「国民の血税の無駄遣いは許せませんからな。小官にお任せあれ」
「君の手腕に期待しているぞ」

 ちなみに現在の統合作戦本部長は改革市民同盟と対立する進歩党に近いシドニー・シトレ元帥。実にわかりやすい構図といえる。主戦派の改革市民同盟と反戦派の進歩党という政界の対立構図は軍部にも持ち込まれており、宇宙艦隊司令長官ロボス大将を頂点とする派閥は改革市民同盟、統合作戦本部長シトレ元帥を頂点とする派閥は進歩党と親しい関係にある。改革市民同盟、進歩党ともに一枚岩というわけでもなく、党内新興勢力のトリューニヒト派はロボス大将と親しい党内主流派と対立していた。進歩党内部にもシトレ元帥と対立する勢力が存在している。

 自由惑星同盟軍は文民によるコントロールが徹底しているために政治家の介入を招きやすく、軍事作戦や幹部人事が政局に左右されることも珍しくない。軍人の側も自分の構想を実現するために政治家を積極的に利用している。今回は軍規粛正を名目に軍部への影響力を拡大したいトリューニヒト派と、軍規違反を徹底的に取締りたいドーソン中将の思惑が一致したことになる。憲兵司令官の副官ともなると、こんな生臭い事情も耳に入ってくる。

「軍隊はね、お金がないと動かないの。そして、お金を出すのは政治家なんだよね」

 アンドリューがそう言ったのを聞いたことがある。当たり前といえば当たり前の話だけど、補給や会計の経験がある俺にはとても重い言葉だ。

「どんなに素晴らしい作戦を立てても、お金がなければ実現できない。政治家からお金を出してもらうのも軍人の大事な仕事なんだ」

 彼が仕えているロボス大将は同盟軍きっての用兵の名人だが、政治家から予算を引き出す名人でもある。ロボス大将は予算を引き出して出兵して戦功を重ねることで軍部の最高実力者に成り上がった。ライバルのシトレ元帥も似たようなものだ。ドーソン中将が軍規粛正を実現するために政治家と仲良くするのも無理もないかもしれないけど、それでもアンドリューほど積極的に肯定できない。政治家に限らず、有名人と付き合うとその敵対者から無条件で嫌われる。悪目立ちせず誰にも嫌われずに過ごしたい俺にとっては、政治家は避けて通りたい存在だった。



 9月のとある休日の昼下がり。俺とドーソン中将はじゃがいも料理専門店「バロン・カルトッフェル」で一緒に食事をしていた。ドーソン中将から初めてプライベートで誘われたのだ。上司と仲良くなれば、職場での居心地も良くなる。じゃがいも参謀からじゃがいも料理店に誘われるというのもなかなか洒落がきいていていい。

「貴官は少し食べ過ぎではないか」

 ドーソン中将は、4皿目のブラートカルトッフェルン (ジャーマンポテト)に手を伸ばそうとする俺を困った顔で見ている。

「大丈夫ですよ。次はアプフェル・カルトッフェル・アオフラオフ(りんごとジャガイモのグラタン)と田舎風カルトッフェルンザラート(ポテトサラダ)行きます。あと、カルトッフェルズッペのおかわりを」
「そうじゃなくて…」
「デザートもおいしいんですよ」

 ため息をついて首を横に振るドーソン中将。何がそんなに悲しいんだろうか。ここの料理は美味しいんだから、もっと楽しそうにすればいいのに。うまい飯を食うだけで人間は幸せになれるんですよ。

「貴官はこの店に来たことがあるのか?」
「ええ。友人に連れてってもらったんです」

 俺をこの店に連れてってくれたイレーシュ・マーリア少佐は先生というか姉貴分というか、とにかく俺より偉い存在なんだけど、説明がめんどくさいから友人ということにしておく。

「ロボス提督の副官をしてるフォーク大尉だったか」
「いえ、それとは別の人です」
「貴官は友達が多いのだな。大いに結構」
「ほんと、俺なんかに付き合ってくれて感謝のしようもないですよ」
「家族とは仲良くしているのか?」
「いや、まあ、それなりに…」

 家族とはもう5年近く連絡を取っていない。数日前、マフィンの箱を買って帰る途中に転んでぐじゃぐじゃに潰してしまい、悲しんでいたところに妹のアルマから『おいしいマフィンのお店できたの知ってる?』という題名のメールが来た。ムカついて受信拒否リストにぶち込んでやった。マフィンばっか食べてるから、豚みたいに太って間の抜けたメールをよこすようになるんだろう。それにしても、どこから俺のアドレス探りだしてくるんだろうか。部署が変わるたびにアドレス変えてるのにな。

「仲良くしないといかんぞ。家族とは一生の付き合いだ」

 しまった、ドーソン中将は家族が仲良くしてる話が好きなんだった。慌てて話題を変える。

「閣下の末の娘さんは来年からジュニアスクールでしたね」

 そう言った瞬間、急にドーソン中将の表情がパッと明るくなり、せきを切ったように娘のことを喋り出した。こうなると、この人は止まらない。話を聞いているだけで愛情が伝わってきて心が洗われるような気持ちになる。ニコニコしながらドーソン中将の話に頷いてると、俺達のテーブルに近づく人の気配を感じた。

「やあ、クレメンス」

 声がした方向を見ると、人懐っこそうな笑顔を浮かべた男性が軽く右手を上げながら歩み寄ってくる。綺麗に撫で付けられた髪に甘いマスク。白いシャツにグレーのニットカーディガンを羽織り、細身のパンツを履いている。靴はやや古びているが品の良いカジュアルシューズ。質素な服装だがセンスの良さを感じる。年齢は30代だろうか。見覚えのある顔だ。この人物は…。

「トリューニヒトさん、お待ちしておりました」
「クレメンス、いつもヨブと呼んでくれと言ってるじゃないか」

 男性は立ち上がったドーソン中将の肩をポンポン叩きながら、気さくに笑いかけた。俺も慌てて立ち上がって敬礼する。

「はじめまして、エリヤ・フィリップス君。どうしても君に会いたくて、足を運ばせてもらったよ」

 蕩けるような笑顔を俺に向ける男はヨブ・トリューニヒト。38歳の若さで幹事長を務める改革市民同盟のプリンス。現在はドーソン中将と組んで軍規粛正を進めている。現実の歴史では最高評議会議長を務め、旧同盟人・旧帝国人を問わず嫌悪の対象となった。そんな人物の来訪に度肝を抜かれてしまった。 

 

第二十九話:陽だまりのような彼 宇宙暦793年9月 ハイネセン市、じゃがいも料理店「バロン・カルトッフェル」

 ヨブ・トリューニヒトは国立中央自治大学を首席で卒業した後、徴兵されて統合作戦本部総務課に二年間勤務して兵長まで昇進した。22歳で法秩序委員会事務総局に入って警察官僚の道を歩み、29歳の時に国家保安局公安課副課長で退官すると改革市民同盟から同盟代議員選挙に出馬し、初当選を果たした。現在の当選回数は三回。政治家としては若手だが、存在感は大きい。俳優のような端整な美貌にスポーツで鍛え上げた長身を持ち、ベストドレッサー賞政治部門で毎年優勝争いを演じるほどのファッションセンスを兼ね備えている。煽情的な弁舌で対帝国強硬論を展開して主戦派からは熱烈な支持、反戦派からは強烈な反感の対象となっている。視聴者受けする容姿と派手なパフォーマンス、バラエティー番組にも気軽に出演する気さくなキャラクターからメディアでは引っ張りだこだ。

 反戦派からは「見かけだけで中身が無い」と揶揄されるが、元官僚だけあって政策議論に強く、治安問題と国防問題では改革市民同盟随一の論客とされる。豊富な資金力を背景に若手議員のリーダー格となり、多くの財界人や官僚や報道人や知識人がブレーンとなっている。前政権では情報交通委員長として初入閣を果たし、現在は38歳の若さで党幹事長を務めて飛ぶ鳥を落とす勢いだ。長老支配が続いている主戦派では、反戦派のジョアン・レベロやホワン・ルイ、過激派のマルタン・ラロシュに対抗しうる数少ない若手指導者と目されている。

 ヨブ・トリューニヒトに対する現在の評価は賛否両論だが、彼が政界屈指の実力者であることを否定する者はいないだろう。一方、後世の評価はかなり微妙だ。宇宙暦796年の「諸惑星の自由」と名付けられた帝国領侵攻作戦が大失敗に終わった後の政局を収拾するまでが頂点で、救国軍事会議のクーデターを防げず、ヤン・ウェンリーをクーデター疑惑で召還した間に帝国軍の攻撃を受け、銀河帝国亡命政権を後援したために獅子帝ラインハルト・フォン・ローエングラムの侵攻を招き、戦争指導を放棄した挙句に獅子帝を討ち取る寸前だったヤン・ウェンリーに降伏を命じるなど、為政者としては無能としか言い様がない。

 獅子帝が攻めてくるまでのトリューニヒトは物凄く有能な指導者に見えていた。帰国後にさんざんいじめられたおかげで主戦派嫌いになった俺ですら、彼が率いる国民平和会議に投票したことがあるぐらいだ。しかし、今になって思えば軍部・警察・メディアが三位一体でトリューニヒトをゴリ押ししていたおかげでみんな勘違いしていたに過ぎなかったと思う。ヤン・ウェンリーやユリアン・ミンツなどは「何があっても傷つかない保身の天才」「エゴイズムの権化」と恐れていたそうだが、トリューニヒトを敵視するあまりの過大評価ではないだろうか。トリューニヒトの無能は旧同盟、帝国本土のいずれでも軽蔑されていた。町内会長選挙でも当選はおぼつかなかっただろう。ヤン・ウェンリーの後継者たる八月党が崩壊した後に旧同盟領で隆盛を極めた極右勢力だって、トリューニヒトを再評価しようとはしなかった。さて、俺の目の前にいるヨブ・トリューニヒトは現在の評価、俺の評価、ヤン達の評価のうちのいずれに近い人物なのだろうか。

「ここのポムフリット(ポテトフライ)は本当に絶品でね。フランクフルターヴルスト(フランクフルトソーセージ)をかじりながらつまむとたまらないんだよ」

 トリューニヒトは満面の笑みを浮かべ、ポムフリットとフランクフルターヴルストを次々と口に放り込んでいる。上品な容姿に似合わないがっつきぶりに好感を抱いてしまう。うまそうに飯を食う奴に悪人はいない。

「どうしたんだい、エリヤ君。私が食事しているのがそんなに不思議かい?」

 油でベトベトの口元を緩めて人懐っこそうに笑いかけるトリューニヒトと、ソリビジョンで見る気取った姿とは全然違う。

「いや、随分おいしそうに召し上がってらっしゃると…」
「そりゃ、ここの料理はおいしいからね。何と言っても帝国仕込みだ。我が国の食文化は素晴らしいが、じゃがいも料理とソーセージでは帝国に一日の長がある」
「この店、ご存知だったんですか?」
「クレメンスにこの店を教えたのは私だよ。ハイネセン広しといえど、本物のじゃがいも料理とソーセージを食べさせてくれるのはここだけさ」

 三大難関校の一角で高級官僚養成校と名高い国立中央自治大学を首席で卒業し、警察官僚を経て政治家になったエリートの中のエリートがこんな庶民的な店を知ってるなんて意外だった。

「トリューニヒト先生はこの店を気に入ってらっしゃるんですか?」
「ここの主人は帝国からの亡命者で、かつてはローゼンリッターに所属していたんだ。ローゼンリッターのことは知ってるよね?」

 同盟末期に生きてローゼンリッターを知らない者などいるはずもない。帝国からの亡命者とその子弟だけで編成され、第8強襲空挺連隊に匹敵する地上軍最精鋭部隊だ。ヤン・ウェンリーやユリアン・ミンツの私兵として活躍し、シヴァ星域の決戦では獅子帝の旗艦ブリュンヒルドに突入して皇帝親衛隊と激しく戦った。

「ええ。幹部候補生養成所の友人がいますから」
「帝国の圧制から逃れて自由のために戦う戦士。それがローゼンリッターだ。ここの主人も素晴らしい戦士だったが、瀕死の重傷を負って引退せざるを得なかった。退職金をもとに店を開いて、今では我々においしい料理を食べさせてくれる。故郷の味を懐かしんで食べに来る亡命者も多い」

 この店にそんな由来があったなんて知らなかった。カウンターの方をチラッと見る。でっぷり太ってきれいに頭が禿げ上がった主人は根っからの料理人といった風情で、軍隊とは遠い世界の住人に見える。

「そうだったんですね。知りませんでした」
「この店は同盟の民主主義の象徴だ。誰もが専制と戦う自由を持っていること、専制打倒の大義の前ではすべての人間が平等であるということを教えてくれる。私は帝国の専制を憎むが、国民は憎んでいない。彼らは我らと同じ専制の被害者だからだ。この店では同盟で生まれた人間も帝国で生まれた人間もみんな笑顔で同じ料理を食べている。その光景を見るたびに専制を打倒して、すべての人間が笑顔で同じ食卓を囲める世界を作らなければならないという思いを強くする」

 ソリビジョンの中のトリューニヒトが扇動的な言葉で帝国への憎しみを煽って群衆を熱狂させるのを見ると、俺みたいな小心者は引いてしまう。しかし、目の前のトリューニヒトは静かだが力強い口調でゆっくりと語りかけてくる。言葉の一つ一つが俺の心に深く響く。すべての人間が笑顔で同じ食卓を囲める世界。青臭い理想だけど、誰にも省みられずに孤独にもがいた60年の暗闇を生きた俺にはとてつもなく素晴らしい理想に思えた。

「ま、いつもそんな難しいこと考えているわけじゃないけどね。いつもは何も考えないでガツガツ食べてる」

 真剣な面持ちから一転してくだけた雰囲気になり、軽くウィンクをしてみせるトリューニヒト。とても気さくな人だ。態度も面構えも偉そうなネグロポンティと同じ政治家とは思えない。

「なんか、イメージ変わりました」
「失望させてしまったかな?」
「いえ、なんか親しみやすい人だなって。政治家ってもっと近寄りがたいって思っていました」
「ははは、帝国の貴族じゃあるまいし。私もエリヤ君も同じ人間だよ。現に同じ食卓を囲んで、同じ物を食べているじゃないか」

 言ってることは凄く当たり前なんだけど、この笑顔で言われるとまったくその通りって思ってしまう。

「トリューニヒト幹事長」
「どうした、クレメンス」
「お口が汚れてますぞ」
「ああ、気が付かなかった。ありがとう」

 ずっと黙っていたドーソン中将に口元が油でベトベトのままになってることを指摘されたトリューニヒトは、軽く頭を掻いてから慌ててナプキンで口を拭く。大物政治家とは思えないお行儀の悪さがおかしくて笑ってしまった。

「エリヤ君」

 トリューニヒトが真顔になって俺を見ている、しまった、あまりに親しみやすいせいで気を抜いてしまった。相手がとんでもなく偉い人だってことを忘れていた。

「やっと笑顔を見せてくれたね」

 心の底から嬉しそうな笑顔になって俺を見るトリューニヒト。本当に表情がよく変わる。イレーシュ少佐みたいだ。素直に感情を出せるって羨ましいな。

「どうもすいません…」
「なかなかいい笑顔するじゃないか。ソリビジョンではいつも真顔だから新鮮だよ」

 どう反応すればいいんだろう。人に好意を示したい時は笑ってみせるけど、もともとあんま笑わないんだよな。トリューニヒトみたいな笑顔を作れたらいくらでも笑うんだけど。人に見せれるような笑顔作れないからなあ。

「あ、ありがとうございます…」
「そんなに固くならなくていいのに。もっとリラックスしていいんだよ」
「は、はい…」

 まともに喋れない自分が悲しくなる。アンドリューみたいに初対面の人といきなり打ち解けられる社交性が欲しくなる。

「クレメンス、何でもできる子なのに人付き合いだけは不器用っていうのも面白いね。君が気に入るわけだ」
「小官は器用な奴は好かんのです。隙あらば手を抜こうとするし、叱ったら反省せずに口答えしますからな。それに比べて、フィリップス大尉は真面目で素直です。あれだけ才能があるのに努力を怠らず、能力を鼻にかけることもない。良い人材を見付けました」

 トリューニヒトとドーソン中将が何やらニコニコ笑って話してるけど、何を言ってるのかさっぱりわからない。ドーソン中将って俺のことを気に入らなかったんじゃないのか?フィリップス大尉って別の人じゃないのか?こんなに褒められるようなことをした覚えはないぞ。

「クレメンスがエリヤ君を副官にした時は驚いた。英雄に裏方仕事なんかできないと思っていたからね」
「フィリップス大尉ほど骨惜しみしない者はそうしういませんよ。裏方こそ本領でしょう。久々に人を育てる楽しみを思い出しました。憲兵司令部には真面目な若手士官が多い。フィリップス大尉ほどの逸材はそうそうおりませんが、ひとかどの人材には育つと思っております」

 話を整理すると、この二人の間では俺は優秀ってことになってるのか?日々至らないことばかりでいつ叱られるかビクビクしてるぐらいなのに。

「エリヤ君」

 戸惑ってる時にいきなりトリューニヒトに名前を呼ばれてびっくりしてしまった。

「は、はい!」
「クレメンスは私の大事な友人だ。今後も片腕として助けてほしい」
「か、片腕ですか…」

 普通は大物政治家からこんなに大きな期待をかけられたら、感激してしまうだろう。しかし、俺は小心者だ。期待の大きさにビビってしまう。

「今の君の立場なら両腕と言った方がふさわしいかな。これまでと同じようにやってくれたらいいよ」

 両腕!?一本増えてるじゃねえか。この人はどれだけ俺を高評価してるんだ。優しすぎて誰でも優秀な人材に見えてるんじゃないのか?うかつに「はい」と答えて、期待にこたえられなかったら申し訳ない。でも、頼まれて「はい」と言わないのはもっと申し訳ないな。

「はい。できるかどうかはわかりませんが、頑張ってみます」
「今まで通りでいいんだよ、今まで通りで。そんなに畏まらなくても」

 苦笑して手を振るトリューニヒト。俺が気負い過ぎないように気を遣ってくれてるのか。大物政治家だけあって、気配りが半端ないな。

「彼は本当に真面目だねえ、クレメンス。見てるだけで嬉しくなってしまう」
「幹事長にお褒めいただいて、小官も鼻が高いです」

 気に入られたってことなのかな。とにかく、喜んでもらえて良かった。あれだけ気さくに接してくれた人に悪印象を与えてしまっては申し訳ない。

「エリヤ君、今日は楽しかった。機会があったらまた一緒に食事をしよう。マカロニアンドチーズがおいしい店を知ってるんだ」
「小官も楽しかったです。わざわざお越しいただいてありがとうございました」

 トリューニヒトは立ち上がると、微笑みながら俺に手を差し出した。俺が手を握ると、トリューニヒトも手を握り返す。大きくて温かい手だ。トリューニヒトが手を離した時、ちょっと寂しい気持ちになった。彼といる時間が終わってしまうのが寂しかった。トリューニヒトはパンツのポケットから二つに折られた封筒を取り出してドーソン中将に渡す。

「今度のパーティ会場だ」
「そろそろ、お始めになるのですな」
「思いの外、準備に時間がかかってしまった。待たせてしまってすまないね」
「仕方ないでしょう。手続きというものがあります」
「主役は君だ。よろしく頼む」
「お任せください」

 パーティーなんか開くんだ。国防委員会がドーソン中将を表彰でもするのかな。軍規粛正キャンペーン、結構成果出てるみたいだから。ネグロポンティ国防副委員長から話が行くのが筋だけど、トリューニヒトとドーソン中将は仲良しみたいだから、直接話した方がいいのかな。

「クレメンス、エリヤ君。期待している」

 そう言うと、トリューニヒトは伝票を全部持ってカウンターに向かった。俺とドーソン中将が食べた分も払ってくれるらしい。この目で直に見たヨブ・トリューニヒトは本当に気さくでいい人だった。微妙に抜けてるところもほっとする。主戦派だけど帝国憎しで凝り固まってるわけじゃなくて、帝国国民の気持ちも思いやってる。暖かい太陽のような人というのが自分の目で見た印象だった。もちろん、いい人だから政治手腕があるとも限らない。実際、最高評議会議長になった後のトリューニヒトは失策続きだった。権謀術数の世界では人柄の良さは失敗を招くかもしれない。それでも、次の選挙で改革市民同盟に入れるぐらいはいいかなと思った。 

 

第三十話:サイオキシンの記憶 宇宙暦793年9月~794年3月 ハイネセン市、憲兵司令部

 トリューニヒトとの会食から2日経った休み明けの9月13日の始業時刻。いつも通り、ドーソン中将に今日のスケジュールを説明していたが、どこか様子がおかしい。いつもは一言一句も聞き漏らすまいと言った表情で耳を傾けてメモも取っているのに、今日は上の空で聞いているのか聞いていないのかわからない。彼が落ち着きが無いのはいつものことだけど、それとは様子が明らかに違う。10時から国防委員会、国家警察局との定例連絡会議があるが、今日はせいぜい打ち合わせ程度のはずだ。ドーソン中将なら寝ていたって切り抜けられるだろう。何があったのだろうか。

「フィリップス大尉、これを見たまえ」

 ドーソン中将が俺に差し出したのは、トリューニヒトが別れ際に「今度のパーティー会場だ」と言って手渡した封筒。ペーパーナイフで開封された跡があるが、テープで綺麗に封印し直されている。ドーソン中将が一度開封した封筒の中身を人に見せる時の癖だ。いかにも几帳面な彼らしい。会議が始まる前に軽くパーティーの打ち合わせをしようってことなのかな。受け取ってテープをゆっくり剥がし、中に入っている紙を取り出して目を通す。

「これは…」

 軽く目を通しただけだが、紙には途方も無い内容が書き込まれていた。自由惑星同盟と銀河帝国の憲兵隊による合同捜査。目的は両軍内部に組織された合成麻薬サイオキシンの密売組織摘発。敵国憲兵隊との合同捜査、同盟・帝国の軍隊を股にかけた麻薬密売組織の存在のいずれも俺の想像力をはるかに超えている。

「貴官はサイオキシンを知っているか?」

 サイオキシン。一時の快楽と引き換えに人間の心身を破壊する最悪の合成麻薬。忘れるはずもない。現実の俺はサイオキシン中毒だったのだから。家族からも友人からも見捨てられ、逃げるように入った軍隊でもいじめ抜かれ、心身ともにボロボロになった俺はバーラトの和約に伴う軍縮の影響で兵士の職も失って路頭に迷った。敗戦後の不景気の中で不名誉除隊の前歴を持つ俺が就職できるはずもなく、失業保険も生活費の足しにならなかった。

 その日暮らしの不安から逃れるために酒や麻薬に手を出すようになり、最終的にサイオキシンに辿り着く。サイオキシンを摂取すると気持ちが高揚して疲れがきれいに吹き飛び、自分は世界で最も幸せな存在だと思えた。薬が切れると気持ちが落ち込んで自分がこの世で最も惨めな存在のように感じられ、悪寒や吐き気や咳などにも苦しめられた。最初は幸せな気分になるために摂取していたサイオキシンだったが、次第に禁断症状の苦しみから逃れるために摂取するようになる。耐性がついてどんどん摂取量が増えていき、サイオキシンの購入費を得るためには何でもした。お金が手に入らない時は売人に媚び諂って薬を恵んでもらおうとした。理性も尊厳も投げ捨ててサイオキシンに溺れた。エル・ファシルで逃げたのは「命令に従っただけ」とも言える。しかし、サイオキシンは言い訳のしようもない。自分自身の弱さと愚かさゆえに作った汚点だ。

「知っています」

 動揺を悟られないように答える。今の俺は自由惑星同盟軍の大尉だ。経歴には一点の曇りもなく、心身ともに健康。前科持ちの麻薬常習者なんかじゃない。サイオキシンを恐れる必要なんか無い。

「国家麻薬取締局はサイオキシンが帝国辺境の生産地からイゼルローンとフェザーンを経由して我が国に流れてきていると推測していたが、帝国内務省の協力によってその裏付けが取れた。フェザーン経由のFルートは未だ実態がつかめないが、イゼルローン経由のIルートは軍人の組織的関与が見られる」
「どのレベルの関与なのですか」
「将官級が関わっている可能性が高い」
「将官ですか…?」
「前線で息のかかった部隊同士を接触させて取引し、補給組織を使って流通させる。将官の権限を行使しなければ難しかろう」
「我が軍にはサイオキシン中毒に苦しむ兵士が数多くいます。退役軍人のサイオキシン絡みの犯罪も後を断ちません。将官が軍隊を動かして麻薬を運び、兵士を食い物にするなどあってはならないことです」

 拳を強く握りしめ、口調が強くならないように精一杯抑制する。サイオキシン中毒に苦しむ同盟軍人は少なくない。一瞬の油断が命取りになる戦場で戦う軍人は極度のストレス状態に置かれ、敵襲に備えているだけで激しく消耗する。疲れきった心身を癒すためにサイオキシンに手を出してしまう。中毒患者の末路は貧民街で嫌というほど見てきた。正気を失って暴れだす者、衰弱して骸骨のように痩せ細った者、収入を全部サイオキシンに注ぎ込んで子供を餓死させた者、サイオキシンを使ったセックスに耽溺して奇形児を生んだ者、禁断症状に苦しんで自ら命を絶った者などの姿が脳裏に浮かぶ。あの地獄を忘れることなどできない。

「昨日、サイオキシン中毒から更生した若者の体験談を読んだ。涙が止まらなかった。貴官の言うとおり、あってはならんことだ」

 ドーソン中将は些細な善行を喜び、些細な悪事に怒る人だ。こんな時にはそれがありがたく感じる。

「何が何でも検挙しましょう」

 自分の中にある感情が怒りなのか恐怖なのかは良くわからない。しかし、あの地獄を二度と見たくないという気持ちだけは本物だ。軍隊に入って暖かい日差しの下で生きられるようになったのに、サイオキシンが作り出す地獄に再び引きずり込まれてはたまらない。一秒でも長く夢を見ていたい、日差しを浴びていたいと思う。


 帝国憲兵隊との合同捜査は当然のことながら、極秘裏に進められた。建前の上では同盟と帝国が連携することなどありえない。同盟にとっての帝国は憎き専制、帝国にとっての同盟は反乱軍であって、交渉など国是が認めないからだ。捜査対象が軍内部に巣食う犯罪組織で将官の関与も疑われるというのも問題だ。慎重に扱わないと軍の威信を決定的に傷つけてしまう。憲兵隊選りすぐりの腕利きを集めた特別捜査チームが編成され、ドーソン中将が自ら指揮を取った。フェザーンには憲兵隊幹部が駐在武官として出向し、同じように駐在武官となった帝国憲兵隊幹部と定期的に連絡を取り合っている。

 ドーソン中将はいつにもまして精力的に動きまわった。彼は俺が資料として渡したサイオキシンの健康被害の悲惨さを訴える写真集、更生した中毒患者の手記、自殺した中毒患者の遺族の悲しみを綴った本、密売組織の残虐さを批判する本などを読んで大いに感情を揺さぶられ、サイオキシンを世界から追放しなければならないと思うようになっていた。サイオキシンの害を科学的に分析した本、中毒患者を生み出す社会構造を研究した本なんかには関心を示さなかったけど、善意に支えられた行動力がドーソン中将の強みなのだから仕方ない。

 トップが動くと、副官の仕事も多くなる。会議を開いて情報共有と意思一致を徹底し、政治家や官庁幹部と会って協力を引き出し、現場を訪れては檄を飛ばす。その一方で日常業務も手を抜かない。「体をいくつ持っているんだ」と言われるほどにドーソン中将が動き回ったおかげで副官の俺を通した連絡事項も格段に多くなり、体が3つ欲しくなるぐらい忙しくなった。仲の良い人達と連絡する暇もない。

 クリスチアン中佐が率いる連隊は前線に配属され、イレーシュ少佐が艦長を務める駆逐艦はずっと演習に出ていて、俺に連絡する暇もないようだ。アンドリューに至っては、上司である宇宙艦隊司令長官ロボス大将が10月初めにタンムーズ星系で帝国軍宇宙艦隊司令長官ツァイス元帥率いる3個艦隊を大破したという記事を読んで前線に出ていたことを知った始末だ。ドーソン中将が幕僚に仕事を割り振ってくれたら俺ももっと楽になるんだけど、陣頭指揮で細かく指示を出すというスタイルで評価されてきたのだから、とやかく言うことでもない。無能な俺にできるのはまじめに頑張ることだけだ。

 アンドリューが戦力は頭数と運動量の掛け算だと言っていた。どんなに頭数が多くても動かなければ戦力にならない。逆に頭数が少なくても動きが多ければ戦力として機能する。優れた戦術家は敵の運動量を抑えて、味方の運動量を多くして、相対的な戦力の優位を作り出す工夫をするのだそうだ。人の半分しか能力がない俺でも人の倍動けば、人並みの仕事量になるかもしれない。

 年が明けて794年を迎える。世間はタンムーズ星系会戦の功績で元帥に昇進した宇宙艦隊司令長官ロボスと大将に昇進した宇宙艦隊総参謀長グリーンヒルのコンビを「リン・パオ、トパロウルコンビの再来」ともてはやし、気の早い主戦派マスコミは「次はイゼルローン攻略だ」などとはしゃいでいたが、俺は相変わらず副官の仕事で忙しかった。サイオキシン密売組織の捜査は佳境に入っていて、第十五方面司令官マヘシュ・プラサード中将、後方勤務本部次長兼中央支援集団司令官シンクレア・セレブレッゼ中将、第六艦隊参謀長マシュー・リバモア少将ら将官十数人が捜査線上に浮上している。帝国側でもやはり10人を越える将官をリストアップしているらしい。

 宇宙艦隊司令部は2月末にイゼルローン回廊の同盟側出口周辺にあるヴァンフリート星系への出兵を発表した。目的はヴァンフリート星系に展開して同盟領辺境星域への侵攻態勢を取る帝国軍宇宙艦隊の撃破。帝国軍は昨年末にツァイス元帥の後任として宇宙艦隊司令長官に就任したミュッケンベルガー元帥の指揮のもと、タンムーズの大敗の雪辱を果たそうとしている。一方、憲兵司令官ドーソン中将は今回出兵する艦隊・地上部隊・後方支援部隊付属の憲兵隊に司令部勤務の若手憲兵士官58人を派遣する方針を発表した。前線勤務の経験を積ませる狙いがあるという。

 3月3日。憲兵司令部の一室に佐官級の憲兵士官6人が集められていた。いずれもヴァンフリート出兵参加組で俺以外の5人は憲兵司令部の若手士官でも最優秀の人材だ。サイオキシン密売特別捜査チームのメンバーでもある。ドーソン中将は全員が集まったのを確認すると、コホンと咳払いをして、勿体ぶった口調で話し始めた。

「本作戦は軍服を着た麻薬密売人どもを一掃し、軍規の尊厳を明らかにする聖戦である。我が軍の将来はこの一戦にかかっている。憲兵隊選りすぐりの貴官らであれば、成功疑いなしと信じておる」

 6人を満足そうな目で見回したドーソンはもう一度コホンと咳払いをして、胸を反り返らせる。

「ナイジェル・ベイ中佐!第八艦隊後方支援集団憲兵隊長を命ず!同集団司令官クセーニャ・ルージナ准将を拘束せよ!」
「ハッ!」

 名前を呼ばれたベイ中佐は一歩前に進み出て元気良く返事をする。

「ジェラード・コリンズ中佐!第六艦隊第二分艦隊憲兵隊長を命ず!同分艦隊司令官クレール・ロシャンボー少将を拘束せよ!」
「ハッ!」

 ドーソン中将は次々と士官を呼び出して、拘束命令を与える。今回の若手憲兵士官58人の前線派遣は、本命はサイオキシン密売Iルート同盟側組織の要となっている将官の拘束命令を受けた6人を目立たないように送り込むためのカムフラージュなのだ。5人目への命令が終わったら俺の番になる。

「エリヤ・フィリップス少佐!ヴァンフリート4=2基地憲兵隊長代理を命ず!後方勤務本部次長兼中央支援集団司令官兼同基地司令官シンクレア・セレブレッゼ中将以下の全司令部要員を拘束せよ!」
「ハッ!」

 俺は本日付で少佐に昇進し、憲兵司令官副官の職を離れた。拘束命令を執行する6人のうち、俺1人だけが少佐。しかも、拘束対象が司令部全員というアバウトさだ。セレブレッゼ中将率いる後方支援チームがIルートの流通中枢であることまでは判明していたが、将官8人のうちの誰が関与しているかまでは特定できなかった。数人の佐官が関与している形跡もある。だから、全員拘束した後で取り調べようというのだ。

「なお、すべての拘束命令執行は遠征軍総司令部の戦闘終結宣言と同刻とする」

 同盟と帝国の憲兵隊の合同捜査の総仕上げの将官拘束命令という未曾有の任務に緊張してしまう。お腹も痛くなってきた。部隊を指揮するのも今回が初めてだ。自分に務まるのだろうか。自分がサイオキシン密売組織に感じているのは怒りではなくて恐怖なのだろうか。4=2基地には知り合いが何人か配属されてるけど、今回の任務では頼りにできない。プレッシャーで人間を物理的に潰せるなら、今の俺は紙のように薄くなるまで潰せるだろうと思った。 

 

第八章 薔薇と憲兵
  第八章開始時人物設定

主人公
エリヤ・フィリップス 26歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少佐
役職:ヴァンフリート4=2基地憲兵隊長代理
性格:小心で卑屈。素直で真面目な優等生。努力を楽しめる。仕事熱心。自己評価は低い。
容姿:子供っぽい容姿。身長は平均よりやや低い。爽やか、絵になるなどと言われているが、以前は冴えなかったと言われる。
能力:事務処理能力が高く、法律に通暁している。コミュニケーションは苦手だが、対人関係に細やかな気配りを見せる。射撃の達人。
略歴:前憲兵司令官副官。ヴァンフリート4=2基地司令部メンバーの拘束命令を受けている。前の人生ではアーサー・リンチに従ってエル・ファシルから逃亡したことがきっかけで転落した。
史実:登場せず。

重要人物
クレメンス・ドーソン 44歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中将(第七章終了時点)
役職:憲兵司令官(第七章終了時点)
性格:異常なまでに神経質で几帳面。わかりやすい善を好み、わかりやすい悪を嫌う小市民的な心情の持ち主。
容姿:エリヤと同程度の身長。ひげがトレードマーク。
能力:抜群の実務能力を持つ。陣頭指揮を好み、現場に口を出したがる。政治力も極めて高い。
略歴:憲兵司令官として、綱紀粛正に手腕をふるる。現在は帝国憲兵隊と合同でサイオキシン麻薬組織壊滅作戦を展開している。
史実:自由惑星同盟軍の末期状態を象徴する無能な指導者。
初出:二十三話

ヨブ・トリューニヒト 39歳 男性 オランダ系
職業:自由惑星同盟軍代議員(第七章終了時点)
役職:改革市民同盟幹事長(第七章終了時点)
性格:気さくで人懐っこく、人の心にすっと入り込んでいく。
容姿:俳優のような美貌。スポーツで鍛え上げた長身。人懐っこい笑顔。卓越したファッションセンス。
能力:巧みな話術の持ち主。派手なパフォーマンスを用いた大衆煽動のみならず、個人を対象とした人心掌握にも優れる。
略歴:主戦派の若手指導者。ドーソン中将と親しく、エリヤに関心を持っている。
史実:自由同盟末期の最高評議会議長。保身の怪物という評価と、単なる無能という評価がある。同盟滅亡後も暗躍を続けた。
初出:二十九話

親しい人
アンドリュー・フォーク 24歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第七章終了時点)
役職:宇宙艦隊司令長官副官(第七章終了時点)
性格:真面目で謙虚。社交性が高い。
容姿:長身でハンサム。
能力:士官学校を首席で卒業した秀才。リーダーシップ、運動能力も高い。白生戦技、射撃術も達人級。
略歴:エリヤの友人。ロボス大将に引き立られて、副官に登用された。エル・ファシル義勇旅団長を務めていた頃に親しくなった。
史実:帝国領侵攻作戦を立案して同盟軍を壊滅に導き、テロリストとしても同盟の足を引っ張った愚劣な人物。
初出:第二十話

エーベルト・クリスチアン 40代 男性 ゲルマン系
階級:自由惑星同盟軍中佐(第五章終了時点)
役職:元重装甲歩兵大隊長(第五章終了時点)
性格:軍隊を家族と考えている。剛直だが人情に厚い好漢。単純明快な物言いを好む。
容姿:背はさほど高くないが、肩幅と胸板が厚い。いかつい顔に不機嫌そうな表情。
能力:勲章受章経験のある勇者。食事と睡眠の重要さを理解していて、部下の待遇改善に熱心。
略歴:陸戦隊出身。エル・ファシルの英雄になったエリヤの広報担当を務めた時に親しくなった。エリヤが職業軍人になるきっかけを作った人物。
史実:救国軍事会議メンバーとしてスタジアムの虐殺を引き起こした。
初出:第八話

イレーシュ・マーリア 31歳 女性 マジャール系(姓が前、名が後に来る)
階級:自由惑星同盟軍少佐(第五章終了時点)
役職:第三艦隊所属の駆逐艦艦長(第五章終了時点)
性格:とっつきにくい外見とは裏腹に思いやりがある。
容姿:180センチを越える長身。非の打ち所のない美形。眼力が異常に強い。不機嫌そうな表情。
能力:対人観察力が高い。熱心な教育者。
略歴:士官学校卒のエリート。幹部候補生養成所を受験するエリヤの学力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

カスパー・リンツ 24歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍中尉(第五章終了時点)
性格:気さくだが、やや屈折している。
容姿:脱色した麦わらのような髪に青緑色の瞳を持つ美男子。
能力:白兵戦技と射撃術の達人。絵と歌がうまい。
略歴:幹部候補生養成所時代の唯一の友人。
史実:ワルター・フォン・シェーンコップの片腕。ローゼンリッター最後の連隊長。
初出:第十六話

バラット 男性 タイ系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第三章終了時点)
役職:第七方面管区シャンプール基地教育隊体育教官(第三章終了時点)
性格:単純熱血。太っ腹。
容姿:がっちりした体格。猛犬のような印象。
能力:トレーニング指導のプロ。
略歴:陸戦隊出身でクリスチアンの元部下。幹部候補生養成所を受験するエリヤの体力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ルシエンデス 30代 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍曹長(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:ざっくばらん。
容姿:小綺麗な身なり。
能力:軍服を着た人を撮影すれば、右に出る者はいない。
略歴:統合作戦本部広報室のカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

ガウリ 30前後 女性 インド系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:気さく。
容姿:小綺麗な身なり。
略歴:統合作戦本部広報室のスタイリストカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

家族
ロニー・フィリップス 50歳 男性 アングロサクソン系
職業:パラディオン市警の警察官(第二章終了時点)
性格:善良でお調子者。
略歴:エリヤの父。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

サビナ・フィリップス 49歳 女性 チェコ系
職業:看護師(第二章終了時点)
性格:心配症でおせっかい。
略歴:エリヤの母。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ニコール・フィリップス 28歳 女性 アングロサクソン系
職業:ジュニアスクールの非常勤講師(第二章終了時点)
性格:しっかり者。
略歴:エリヤの姉。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

アルマ・フィリップス 21歳 女性 アングロサクソン系
職業:ミドルスクールの生徒(第二章終了時点)
性格:甘えん坊の食いしん坊。
略歴:エリヤの妹。空気の読めないメールを送っては、エリヤをいらだたせる。前の人生ではエリヤに懐いていたが、逃亡者になると最も激しく拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

同級生
ミロン・ムスクーリ 26歳 男性 ギリシャ系
性格:爽やかなスポーツマン。
容姿:大男。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。元フライングボール部のスター。前の人生では極右団体の構成員。逃亡者になったエリヤを迫害した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ルオ・シュエ 26歳 女性 チャイナ系
容姿:丸顔。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の数少ない友達。前の人生では、逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

フーゴ・ドラープ 26歳 男性 チェコ系
性格:誰にでも優しい。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。信望が厚く、クラス代表を務めた。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

その他知り合い
ラザール・ロボス 56歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍元帥(第七章終了時点)
役職:宇宙艦隊司令長官(第七章終了時点)
性格:豪放で大らか。社交的な性格。
容姿:小柄でどっしりとした肥満体。将帥にふさわしい威厳の持ち主。
能力:リスクを厭わず、大胆に仕掛ける用兵に定評がある。対人調整や政治的な折衝にも長ける。人の心に入り込むのがうまい。雑務が苦手。
略歴:同盟軍きっての名将。タンムーズ星域会戦で帝国軍に大勝して、元帥に昇進した。
史実:帝国領侵攻に失敗して、同盟軍を壊滅に追い込んだ愚将。
初出:第十八話

カーポ・ビロライネン 33歳 男性 フィンランド系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団参謀長(第五章終了時点)
性格:真面目だが、他人の心情への配慮に欠けるところがある。
容姿:神経質で気難しそうな容姿。実年齢より5年は老けて見える。
能力:実務能力は極めて優秀。情報宣伝にも長けている。
略歴:ロボス大将の懐刀。エル・ファシル義勇旅団ではエリヤを棚上げして、実権を掌握した。
史実:帝国領侵攻作戦の情報主任参謀。
初出:第十九話

マリエット・ブーブリル 35歳 男性 フランス系
階級:義勇軍中佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団副旅団長(第五章終了時点)
性格:外面は良いが、自己中心的で気性が激しい。自己顕示欲が強い。
容姿:上品で優しげな美貌の持ち主。実年齢より5年は老けて見える。
能力:カメラの前では、嫌いな相手に対しても親友のように振る舞える演技の達人。
略歴:元従軍看護師で勲章も持っているが、世間的な知名度は低い。エル・ファシル義勇旅団ではトラブルメーカーだった。
史実:登場せず。
初出:第十九話

ヤン・ウェンリー 26歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第二章終了時点)
性格:冷静沈着。責任感が強い。整理整頓ができない。他人の期待通りに振る舞うことを嫌う。
容姿:ハンサムだが、身なりに無頓着なせいで冴えないように見える。
能力:頼りなさそうな風貌とは裏腹に、有能で精力的な指揮官。
略歴:士官学校卒のエリート。エル・ファシル脱出作戦を指揮した真の英雄。メディア受けしないコメントを連発したせいで、人気は盛り上がらなかった。
史実:自由惑星同盟末期最高の名将。生涯不敗を誇った用兵の天才。
初出:第五話

アーロン・ビューフォート 男性 アングロサクソン系
階級:中佐(第二章終了時点)
性格:さっぱりした性格。本当の意味での大人。
容姿:30半ばに見える。
略歴:エル・ファシル脱出船団旗艦の艦長。エリヤに絡まれたが、大人の対応をして泣かせた。
史実:大親征でビッテンフェルトを迎撃した。
初出:第七話

フランチェシク・ロムスキー 30代 男性 ポーランド系
職業:エル・ファシル市会議員、内科医師(第二章終了時点)
性格:気さくだがやや軽率。
容姿:大柄。
略歴:エリヤをエル・ファシル星系政庁に連れて行った。
史実:同盟から独立したエル・ファシル独立政府の主席を務めた。
初出:第三話 

 

第八章 薔薇と憲兵
  第三十一話:食えない薔薇 宇宙暦794年3月 ヴァンフリート星系4=2基地

 ヴァンフリート星系第四惑星第二衛星の通称はヴァンフリート4=2という。無人星系においては中心となる恒星のみ固有名詞を与えられ、惑星や衛星の呼称は番号で呼ばれる場合が多い。地表は氷と岩石と亜硫酸ガスで覆われ、大気はきわめて希薄。重力は惑星ハイネセンの四分の一の0.25G。俺が現在勤務している基地はそんな不毛の惑星の南半球にあった。

 ヴァンフリート4=2基地は来るべきイゼルローン要塞攻略戦の後方支援を目的として設置された。補給・通信・医療・整備の各機能を完備し、数十万人分の被服・燃料・糧食・武器・弾薬を収納できる倉庫群、数千隻の輸送船が停泊可能な宇宙港、軍事用シャトル数万基が発着可能な巨大滑走路といった設備も持ち、数万隻の軍艦に対する後方支援が可能だ。方面管区司令部が置かれてるような基地でも、これだけの規模の支援能力を持つ基地は少ない。ヴァンフリート4=2に降り立った俺は基地の大きさに驚いたが、100日そこそこで建造されたという話を聞いてさらに驚いた。チーム・セレブレッゼの実力は後方支援業務経験者なら誰でも知っているが、実際に目の当たりにすると圧巻としか言いようがない。

 分艦隊及び星系管区警備艦隊より大きな単位の部隊には、輸送艦・補給艦・整備工作艦・作業工作艦・病院船などの補助艦艇からなる後方支援集団が付属している。司令部の後方担当幕僚が作成した後方支援計画に従い、各艦の補給責任者と協力して補給・輸送・整備・医療・工兵等を担当する実働部隊だ。中央支援集団は国防委員会直轄部隊で全軍の後方支援組織の中心に位置している。全軍の後方支援計画の作成及び監督を行う後方勤務本部を後方支援における統合作戦本部とすると、中央支援集団は宇宙艦隊に匹敵する存在といえる。現在の中央支援集団司令部は歴代最強メンバーと言われ、司令官の名前から「チーム・セレブレッゼ」と称されていた。そのチーム・セレブレッゼの最高幹部である将官8人の誰かがサイオキシン麻薬組織の幹部というのは前代未聞のスキャンダルだろう。ヴァンフリート4=2の基地憲兵隊長代理として赴任した俺だが、自由惑星同盟史上最高の後方支援集団司令部メンバー全員に対する拘束命令の執行が真の任務だ。

 中央支援集団司令官と後方勤務本部次長を兼ねるシンクレア・セレブレッゼ中将は今年で48歳。現在はヴァンフリート4=2基地において、ヴァンフリート星域に展開する宇宙艦隊の後方支援を指揮している。現在の同盟軍の後方支援システムを構築した人物で、国防研究所研究員時代に発表した数々のロジスティックス理論は民間分野でも応用されていた。後方支援組織の運用にも卓越した力量を示し、セレブレッゼ中将が後方支援を指揮すると物資の流れは整然とした旋律を奏でて、時計の針のような正確さと疾風のような迅速さで前線に行き渡ると言われる。自由惑星同盟軍にはドーソン中将を始めとする優秀な後方幕僚が大勢いるが、彼らの優秀さはあくまで既存のシステムの運用者・管理者としての優秀さだ。セレブレッゼ中将は効率的な後方支援システムを構築してその運用管理ノウハウを簡易なマニュアルに落としこむ才能に長けていて、別格の存在といえる。彼に比肩する才能を持つのは統合作戦本部後方参謀部長アレックス・キャゼルヌ准将ぐらいだが33歳と若く、経験の点で及ばない。名実ともに自由惑星同盟軍の後方支援の第一人者というのが現時点におけるシンクレア・セレブレッゼ中将に対する一般的な評価だ。

 一方、俺が現実で読んだ歴史の本ではセレブレッゼ中将はヴァンフリート4=2基地の戦闘で若き日の獅子帝ラインハルトに捕らえられて准将から少将に昇進するきっかけを作った人物、あるいはアレックス・キャゼルヌ以前の後方支援の第一人者として名前が上がるぐらいで、具体的な業績や人柄についてはほとんど触れられていない。軍事の専門書にはもっと詳しく触れられていたのかもしれないが、俺が読んだのは一般向けの人物伝や戦記ばかりだったのだから、セレブレッゼ中将の業績など些末事なのだ。もっとも、かつての俺が軍事の専門書を読んでも、セレブレッゼ中将の業績は理解するのは不可能だっただろう。軍人としての実務経験を積んで初めて理解できるようになった。歴史の本の中で「大将になった事自体がおかしい」と評されていたドーソン中将の真価もやはり実務経験を積んだ後に理解できた。

 現実の俺は何も学ばず何も経験せず、ただ時間をやり過ごして80年を生きた。自分の身の回りのこともまったく理解できなくて、何もせずに状況をただ受け入れるだけだった。だからこそ、理解できることが増えるのは喜びに感じる。かつてと比べ物にならないぐらい、俺に見える世界は広がった。しかし、世の中には理解できない方が良かったこともある。現在の俺の頭痛の種、シェーンコップ中佐がその好例だ。

 ワルター・フォン・シェーンコップ中佐の有能さを疑う者は誰一人として存在しない。18歳で同盟軍陸戦学校を卒業して伍長に任官し、22歳で幹部候補生養成所を卒業して少尉に任官して亡命者部隊ローゼンリッターの小隊長となり、30歳の現在では中佐まで昇進してナンバー2の副連隊長を務めている。白兵戦技検定・射撃検定・体力検定のすべてにおいて最高ランクの特級にあり、勇猛さも群を抜き、自由惑星同盟軍最強の戦士の一人と目される。地上戦指揮官としても卓越した力量を持ち、大部隊の組織的運用と少数精鋭部隊による強襲戦術の両方に長けている稀有な人物だ。部隊運営能力も高く、彼が指揮する部隊では規律が隅々までいきわたり、装備の手入れも行き届き、報告書や命令書は簡潔にして明快だ。部下を心酔させるカリスマ性、若手を育成する指導力も最高水準で備えている。下士官からの叩き上げであるにも関わらず凡百の士官学校卒業者を凌ぐ昇進速度を誇り、将来の地上軍を担う存在として期待される。しかし、人格的には危険極まりないという評判だ。上位者に対する服従心、国家に対する忠誠ともに稀薄だが、反骨精神は旺盛。言動や女性関係が奔放であるにもかかわらず、一度も処罰されたことがない用心深さも持つ。

 歴歩の本を読んだ時はヤン・ウェンリーに仕える前のシェーンコップ中佐が危険視される理由がわからなかった。しかし、4=2基地に赴任して、軍規を取り締まる憲兵の立場で関わるようになって初めてシェーンコップの扱いづらさが理解できた。こんな人間を4年も部下として使ったという一点においてヤン・ウェンリーは偉大であると言っていい。10年近く彼の片腕を務めたという一点においてリンツは尊敬されるべきだ。まあ、リンツは幹部候補生養成所時代から尊敬すべき人間だったが。煮ても焼いても食えないというのが、俺がシェーンコップ中佐に対して抱いた印象だった。

「憲兵隊長代理殿、本日は何の御用でしょうか」

 貴族的な美貌に優雅な物腰を持つシェーンコップ中佐はうやうやしく一礼した。礼節を完璧に守りながら嘲弄の意を明確に伝える振る舞いはいつもと全く同じだ。彼はことさらに俺だけを軽視しているわけではなく、万人に等しくこんな態度を取るらしい。この基地で一番偉いセレブレッゼ中将を怒らせたことも一度ではないそうだ。怒れば狭量に見られ、見過ごしておくにも我慢ならないというギリギリのラインを一歩も踏み外さないから腹が立つと言っていた人がいたけど、俺はあまり腹が立たない。貫禄の差が圧倒的すぎて、軽視されて当たり前のような気がするのだ。

「シェーンコップ中佐。当方の調査では、貴官は当基地に着任されてからの40日間で12人の女性と関係をお持ちになったそうですね。事実に相違ないでしょうか?」
「事実に反しておりますな」
「どの点に相違があるでしょうか」
「昨晩、13人目と関係を持ちました。事実関係の把握には正確を期していただきたいものです」

 しまった、と思った。シェーンコップ中佐は他人の言葉の中にある誤りを決して見逃さない。見つけた誤りを細かく指摘して自分のペースに持ち込んでいく。いつも引っかかってるのに何ら対策を打ち出せない頭の悪さが悲しくなってしまう。

「申し訳ありません」
「ご理解いただけましたか。有り難いことです。ところで、憲兵隊長代理殿は小官が13人の女性と関係を持ったことが事実であるということを確認されたかったのでしょうか?」
「何ぶんにも相手がある話なので、中佐ご本人のお話も伺っておきたかったのです」
「石橋を叩いて渡ると評判の憲兵隊長代理殿らしいですな。それでは失礼いたします」

 シェーンコップ中佐はわざとらしく頭を下げると、くるりと背を向けて憲兵隊長室から出ていこうとした。

「あ、待ってください!まだ話終わってないんです!」

 俺が慌てて呼び止めるとシェーンコップ中佐は再びこちらを向いてニヤリと笑う。完全にあっちのペースにはまってしまってる。俺って本当馬鹿だ。

「シェーンコップ中佐の女性関係に関して苦情が何件も入っているんです」
「ほう、そのようなつまらない苦情にも対処せねばならないとは。憲兵隊長代理殿のご苦労お察しします」

 あんたのせいだと突っ込む気も起きない。実のところ、俺だって異性交際なんて勝手にやればいいと思ってる。だから最初のうちは苦情が来ても放置していたんだけど、シェーンコップ中佐と寝た女性同士がさや当ての末に殴り合いをしたと聞いて釘の一本も差しておくことにしたのだ。差さる相手でないのはわかっているけど、せめて差すふりぐらいはしないと立場上まずい。

「一昨日の晩にマルグリット・ビュッサー伍長とエルマ・カッソーラ軍曹が殴り合いの喧嘩をいたしまして。それで…」
「それはいけませんな。戦友同士仲良くしないと」
「ええ、おっしゃるとおりです…」

 シェーンコップ中佐は俺の言葉を遮って、他人事のようにとぼけてみせる。「基地内の風紀がどうこう」みたいに言っても鼻で笑われるのは火を見るより明らかだったから、「喧嘩は良くない」の線で攻めてみようとしたけど、やはり歯が立たなかった。

「憲兵隊長代理殿が両人の仲直りをご希望ならば、不肖ながらこのワルター・フォン・シェーンコップ、仲立ちの労を厭いませんぞ。何と言っても平和が一番ですからな」

 どうしてそういう話になるんだ。この人に口で勝てる気がしない。体ではもっと勝ち目ないけど。

「仲直りは当人同士の問題ですから、小官には何とも言いかねるのですが、もうちょっとこう、貴官が女性関係を控えめにしていただけたら、喧嘩の種も無くなるんじゃないかと思うんですよね…」
「憲兵隊長代理殿は喧嘩に心を痛めておられるということなのですな」
「まあ、そういうことです」
「他でもない憲兵隊長代理殿の仰せであれば、微力を尽くしましょう」

 え!?これでいいの?なんかあっけないけど、納得してくれたなら良かった。

「ありがとうございます」
「小官としたことが、女性はアフターケアを怠れば嫉妬するということをすっかり失念しておりました。今後はこのようなことがないように努力いたしましょう」
「そ、そっちの努力ですか…」
「まさか、双方の合意のもとに成り立つ自由恋愛をやめろなどと言うために小官を呼び出したわけでもないでしょう。基本法令集と国防関連法令集を判例も含めて暗記しておられると評判の憲兵隊長代理殿であれば、自由恋愛を禁止する規定が我が国に存在しないことはご存知でしょうからな」

 法律を盾に反論を封じられてしまった。この人は俺が法律を暗記してることまで利用してくる。「憲兵隊長代理殿、宇宙軍基地服務規則第45条では何と言いましたかな」などと聞かれ、条文に一般的解釈を付けて答えると、「では、小官の行動の正当性は服務規則が保障してくださってるわけですな」と返されるといったやりとりは日常茶飯事だった。

「おっしゃるとおりです…」
「自由恋愛にかまけて軍規を蔑ろにしたというのであれば、お叱りも甘受いたしましょう。しかし、小官は任官より今日に至るまで一度も軍規違反を犯したことはありません。不勉強なそこらの憲兵ならいざ知らず、軍規に通じておられる隊長代理殿が法的根拠無く小官の自由恋愛に介入しようとなさるのであれば、法を枉げたとの誹りは免れんでしょうな。隊長代理殿がそのようなことをおっしゃるとは夢にも思いませんが」

 軍隊において嫌いな人間を攻撃する手段として最もポピュラーなのは、軍規違反を探して処分に追い込むことだ。訓告や口頭注意といった軽微な処分であっても、度重なれば昇進や昇給の面で不利になる。不良軍人のレッテルを張られて周囲から忌避されることもありうる。処罰対象となる違反事項は軍刑法・服務規則・倫理規程・訓令といった多岐にわたる規律関連法令の中に無数に規定されており、その気になれば真面目な人間相手でも1つか2つぐらいには引っ掛けることができる。軍隊で他人に嫌われるリスクは果てしなく大きいのだ。しかし、シェーンコップ中佐は軍規に引っ掛けようとする敵に事欠かないにも関わらず、一度も処罰を受けたことがない。ルールを知り尽くし、合法性を完全に確保して感情論以外の反論を封じた上で好き勝手に振る舞ってのけるのがシェーンコップ中佐の恐ろしいところだった。

「まったく、貴官のおっしゃるとおりです」
「憲兵隊長代理殿はいつも物分かりが良くて助かります。それでは失礼いたします」

 にやりと笑って敬礼すると、シェーンコップ中佐は部屋から退出した。背中が汗でびっしょりになっているのがわかる。彼と会うたびに、肉食獣のいる檻の中に放り込まれたかのようなプレッシャーを感じる。これが格の違いと言うことなのだろう。好き嫌いの対象にもならないほどに次元が違う。こんな存在と出くわすのは人生で初めてだった。

 その三日後。俺は苦虫を何十匹も噛み潰したような顔をした4=2基地憲兵隊副隊長ファヒーム少佐に説教されていた。

「隊長代理、あんなことを言われては困りますな」

 ファヒーム少佐は50代後半のベテラン憲兵だ。短い白髪に鋭い目つき。横柄で口やかましく、容姿も性格も世間がイメージする憲兵のイメージそのままの人物。階級が同じ上に30歳ほど年下の俺の補佐役に回されたのが不満らしく、何かと突っかかってくる。しかし、今回に限っては完全に俺が悪い。

「いや、まさかああなるとは思わなくて…」
「シェーンコップ中佐がどういう人間かご存知でしょう?今回の件に限らず、隊長代理は彼に対して弱腰すぎます。このままでは憲兵がローゼンリッターに舐められてしまいますぞ」
「ほんとごめんなさい」
「憲兵隊長代理殿がお許しになったと言われておおっぴらに女性を口説かれては、隊内の風紀維持に務める憲兵の立場がありませんぞ」

 隠れ蓑のはずの憲兵隊長代理の仕事でここまで苦労するとは思わなかった。シェーンコップ中佐以外の面倒事も多い。クリスチアン少佐やリンツなどの旧知がいるから、拘束命令執行までは楽に過ごせると思っていたけど甘かった。こんな有様で今後もやっていけるんだろうか。司令部の規律維持強化という名目で最重要拘束対象の将官8人に憲兵を貼り付けて監視下に置くことには成功したが、拘束命令を執行する前にストレスで死んでしまうかもしれない。 

 

第三十二話:建前の使い方 宇宙暦794年3月21日 ヴァンフリート星系4=2基地

 憲兵隊は軍警察とも呼ばれ、軍隊内の秩序維持に専従する部隊だ。そのせいか、あら探しに熱心で弱い者いじめが大好きというイメージを持たれることが多い。そういう側面があることは否定しない。規則違反の摘発実績が憲兵の人事評価の中で大きなウエイトを占めているため、規則にやかましくて少しでも違反があれば、許されざる大罪を犯したかのように責め立てるような者が有能な憲兵とみなされがちだ。年度末になると隊内を見まわる憲兵の数が倍に増え、普段は摘発されないような違反まで摘発されるという笑えない光景が展開される。しかし、規則違反の摘発だけが憲兵の仕事ではない。軍隊の中で起きた交通事故や盗難事件の処理、軍施設や占領地の交通整理、揉め事の仲裁といった日常的な治安維持活動も行う。私的制裁、捕虜虐待、民間人への暴行などの取り締まりも憲兵が担当している。本来の憲兵は軍隊の平穏な日常を守り、まじめな軍人や市民を不良軍人の暴力から守る尊い仕事のはずなのだ。

「スライマーニー少尉が勤務中にミネラルウォーターを飲んでいたことはわかりました。しかし、小官にはそれのどこが問題なのかわかりかねるのです。説明いただけませんでしょうか」
「勤務中に水を飲むなど、怠慢の極みではありませんか。整備小隊長ともあろう者がこれでは部下に示しがつかないでしょう。憲兵隊長代理もそう思われませんか?」

 俺がいれたコーヒーに目もくれずに背教者を糾弾する審問官のごとく糾弾の言葉を吐くのはダヴィジェンコ曹長。輸送車両を整備していた時に3分ほど休んでミネラルウォーターを飲んでいた整備小隊長スライマーニー少尉の行為が職務怠慢にあたるのだそうだ。憲兵隊にはこの種の「情報提供者」がしょっちゅうやってくる。

「小官の知る限り、整備任務中に水を飲むことを禁ずる規定は存在しないはずですが」
「職務怠慢ではありませんか。整備員の気の緩みは事故につながります。厳罰に処して軍規の厳正を明らかにすべきです」

「職務怠慢」「風紀を乱す」などはこの種の情報提供者が大好きな言葉だ。他人の行動を強引なこじつけで悪事のように言い立てて、点数稼ぎをしようと思っているにすぎないのだが、それに乗っかって処罰を下す憲兵が少なくない。いくら摘発実績が欲しいからといっても、このような手合いと結託して処罰対象でない行動に軽々しく処罰を下すなど、本当に情けない。軍規の番人たる誇りはどこに捨てたのかと悲しくなる。

「整備員の義務と責任、禁止行為は同盟軍整備員服務規則に規定されています。これから全文読み上げますので、スライマーニー少尉の行動がどの義務条項に違反するか、どの責任条項に違反するか、どの禁止行為に該当するか、ご指摘ください。法律の世界では条文と実際の運用が必ずしも一致しないこともあります。『この条文はこう解釈できるのではないか』という疑問がありましたら、小官が一般的な解釈と代表的な適用例を説明して、貴官の解釈が成り立つかどうか、二人で話し合っていきましょう」
「あ、いや…」
「小官の記憶が誤っているかもしれません。ご指摘いただけると助かります」

 人の意見を聞く際には必ず根拠を求める。自分が意見を述べる際には必ず根拠を提示する。相手に根拠を求められた場合は説明の手間を惜しまない。説明するまでもなくわかりきってるようなことでも、手続きとしての説明を必ず行い、自分と相手がどのような根拠に基づいて動いているかを明確にする。ルール遵守と説明責任の徹底がドーソン中将から学んだ仕事のスタイルだ。

「いえ、小官ごときが憲兵隊長代理に指摘できることなど…」

 ダヴィジェンコ曹長の表情からは先ほどまでの勢いが消し飛び、目は前後左右にふらふらと泳ぎ、声はやや震えている。俺は彼の目にしっかりと視線を合わせた。

「貴官はスライマーニー少尉が職務怠慢であると告発なさってるんですよね。しかし、小官には根拠がわかりません。だから、指摘をいただければと思っているのです」

 軍隊ほどルールの遵守が求められる組織はない。何をするにもルール上の根拠を厳格に要求され、少しでも根拠が怪しいと追及を受ける。軍人に結果オーライで勝手な行動を許してしまうと、取り返しの付かないことになってしまうからだ。ドーソン中将は自らの行動の根拠を明示することで信頼性を高め、他人の行動の根拠を厳格にチェックすることで組織をコントロールする名人だった。細かい情報でも求めて現場に足を運んだのは、より確実な根拠を求めていたからだった。アイリスⅦや第一艦隊司令部にいた頃にドーソン中将に何度もレポートを書き直しさせられたが、今思えば根拠の明示を徹底する勉強だったのだろう。あの時に根拠の集め方と提示の仕方を学んだ。愚直なまでに根拠を求める姿勢が説得力を生む。ダヴィジェンコ曹長を「くだらないことを言うな」と叱って追い返すだけでは意味が無い。

「え、ええと…」

 落ち着かない様子のダヴィジェンコ曹長はテーブルの上のコーヒーを一息に喉に流し込む。俺はテーブルポットを手にとって、空になった彼のコーヒーカップにすかさずコーヒーを注ぐ。これは徴兵される前のコーヒーショップのバイトで身につけた習慣だ。帝国での捕虜収容所生活、帰国後の迫害、数度の服役、サイオキシン中毒、自殺未遂などを経て何も考えられなくなった頭でも、これだけは忘れなかった。

「指摘いただけないのでしょうか?」
「う、ううう…」
「指摘はできないということでしょうか?」

 問い詰めると、ダヴィジェンコ曹長は声を出さずに軽く頷く。ようやく言質が取れた。

「我々憲兵隊は皆さんの情報提供に支えられて活動しています。貴官が協力したいという気持ちはありがたいです。しかし、軍規に反していない行為は処罰できないのです。貴官はスライマーニー少尉を厳罰に処して軍規の厳正を明らかにすべきとおっしゃいましたが、軍規に反していない行為を厳罰に処したら、誰も軍規を信じなくなってしまいます。憲兵の仕事は厳しく罰を与えることではありません。皆さんに軍規を信じていただけるよう努力するのが仕事です」

 俺が言っているのは建前だ。しかし、建前を大事にしなければ自分勝手がまかり通ってしまう。気に食わないからといって罪もない人間を告発し、むかついたといって新兵を殴り倒すような輩を処罰する根拠になるのは建前なのだ。ルールで動いている場所では、建前を愚直に守ることが力となる。ドーソン中将は憲兵司令官に着任すると、俺が集めた資料から公文書や会計の不正などを暴き出して、不正は許さないという建前を貫くことで憲兵司令部を掌握した。エル・ファシルを脱出した時にネットで自分の行動が合法であることを知ってホッとした時から、軍人の行動には建前が必要なことは知っていたが、それを押し通すことがこれほど強い力を発揮するとは思わなかった。基本法令集と国防基本法と軍刑法は幹部候補生養成所時代に全文暗記したけど、副官になってからは他の法律や軍の内規も勉強するようになった。ルールの建前と実際の運用を理解しなければ、ドーソン中将の副官は務まらないと思ったのだ。決してルールを踏み外さないシェーンコップ中佐のような相手には通用しない手法だけど、今の俺の立場ならそういう相手と対立する理由はない。理由がないことをしたら、建前が使えなくなる。

「こちらを見てください」

 俺が指さした先には、私的制裁追放のスローガンと匿名相談窓口のアドレスが書かれたポスターと、大隊ごとの相談受理数及び摘発数のグラフが貼られている。

「現在、当基地の憲兵隊は一丸となって私的制裁追放キャンペーンに取り組んでいます。協力したいという気持ちをお持ちなら、憲兵隊がどのような情報を求めているかもご理解いただけると助かります」

 俺は着任すると私的制裁追放の方針をぶち上げて相談窓口を設置し、憲兵隊を動かして3日かけて広大な4=2基地内にポスターを貼って回った。あまりにたくさん貼り過ぎたせいで苦情が来たほどだ。大隊、中隊、小隊ごとに相談受理数と摘発数のノルマを設定し、朝礼のたびに檄を飛ばした。基地の中では歓迎する声もあるが、やり過ぎだという声の方が大きい。特に中央支援集団司令部からの批判は激しかった。以前からパワーハラスメントの噂がささやかれていた中央支援集団司令部を憲兵隊が重点監視対象に指定し、憲兵を常駐させたからだ。

「フィリップス少佐は功績を焦っているのではないか」
「じゃがいもの威光を笠に着て威張りおって」
「勇み足にも程がある」

 このような声があちこちでささやかれている。生意気で鼻持ちならないエリート、暴走気味の理想主義者というのが中央支援集団司令部での俺の評判だろう。老練な憲兵である副隊長ファヒーム少佐も俺のやり方を快く思っていない。嫌われるのは辛いけど、それでもあえて強硬にやらざるを得ない理由があった。中央支援集団司令部メンバー全員の拘束が俺の本当の任務だ。4=2基地の憲兵隊内部にもサイオキシン麻薬組織の協力者がいる可能性を考慮して、ファヒーム少佐にすら本当のことは知らせていない。

 誰の協力も得ずに中央支援集団司令部を監視下に置き、総司令部の戦闘終結宣言が出ると同時に拘束命令を執行できる態勢を整えておかなければならない。司令部内部にいる麻薬組織メンバーの警戒を逸らす必要もある。これらの問題を解決するために私的制裁追放キャンペーンをぶちあげてブラフにしたのだ。中央支援集団司令部に堂々と憲兵を送り込み、なおかつ麻薬密売が露見していないと思わせる一石二鳥。もちろん、こんな作戦を俺一人で思いつくはずがない。出発前にドーソン中将と相談して練り上げた。純粋に俺のアイディアといえるのは、司令部のパワーハラスメントに関する情報提供を歓迎して、憲兵隊以外の人間も情報提供者として監視網に組み込むぐらいだ。

 ドーソン中将は悪口や自己アピールを真剣に聞き入れて貴重な情報としたため、そういう話を持ち込むつまらない人間が集まって憲兵司令部の空気が悪くなった。俺が空気を良くしようと思って憲兵司令部メンバーの良い話をするように務めると、ドーソン中将が良い話を聞きたがっていると思った人達が集まった。他人が良い話を持ち込んでくることまでは予想外だったけど、この経験から下は上が喜ぶ情報を敏感に察知して持ち込んでくるということを学んだ。摘発実績がほしい憲兵のもとに、規則違反の情報を持ち込む人間が集まるようなものだ。この手段で集まる情報は玉石混交だが、今回のように情報網を作ること自体に意味がある場合は有効だろう。実際、変な取り巻きができる弊害があったドーソン中将の情報収集手法も他人の粗を大小漏らさず知りたい場合には有効だった。だから、憲兵司令部の不正を洗い出すことができた。

 ブラフとして始めた私的制裁追放キャンペーンだったけど、やる気は十分以上にあった。現実で故郷を追い出された後に志願兵として軍に入った時に受けたリンチは俺を廃人同然の状態にした。除隊が半年遅れていたら殺されるか自殺に追い込まれるかしていただろう。今の俺が士官になっているのも元はといえば、兵役を満期まで勤めるのが怖かったからだ。私的制裁を批判する時は言葉に熱がこもってしまう。どうも、俺は酷い目に遭ったことを思い出すと、必要以上に感情が入ってしまうようだ。エル・ファシル脱出前日の記者会見の時もそうだった。嫌われるのが怖い俺が今回の任務でなんとか悪役を演じていられるのもサイオキシン中毒の記憶のおかげだ。メディアの前で思ってもいないことをぺらぺら言ってた英雄や義勇旅団長をやってた時とは気合が違う。

「そろそろ、失礼してよろしいでしょうか…」
「お疲れ様でした。今後とも憲兵隊への協力をお願いします」

 顔から血の気を失って足元がふらついているダヴィジェンコ曹長のためにドアを開ける。曹長が出て行くと俺も廊下に出て、彼の背中に向かって軽く敬礼をする。曹長とすれ違うように廊下の向こうから悠然と歩いてくる人影が見えた。こんな場所を貴族のような優雅な足取りで歩く人間はこの世でただ一人。ワルター・フォン・シェーンコップ中佐だ。俺に気づくと、お出迎えご苦労といった感じで軽く手を上げる。シェーンコップ中佐は最近は2日に1回ぐらい憲兵隊長室にからかいに来る。俺が出したコーヒーを三杯ぐらい飲んで帰って行くけど、一体何を考えているんだろうか。リンツに聞いたところによると、「コーヒーをただで飲めるから」らしいが、ローゼンリッターの司令部と逆方向の憲兵隊本部までわざわざ来る理由になるんだろうか。この人の考えることは本当にわからない。

 今回の任務は何かと精神的ストレスが多い。今日3月21日の未明から同盟軍と帝国軍は戦闘状態に入り、基地の中も戦時支援体制に移行してピリピリしている。これから、もっとストレスが多くなるだろう。この基地のある第四惑星宙域は同盟軍の勢力圏のど真ん中で、戦闘に巻き込まれる可能性は低い。そもそも、こんな大規模な後方基地は戦闘が起きることが想定される場所には作られない。

 現実ではヴァンフリート4=2は激戦地になっているが、帝国軍のミュッケンベルガー元帥がグリンメルスハウゼン中将を主戦場から隔離するために配置したのがきっかけだった。北半球に陣取ったグリンメルスハウゼン艦隊と南半球のヴァンフリート4=2基地駐留部隊の間で遭遇戦が始まり、やがて上空に帝国軍と同盟軍の主力がなだれ込んで混戦となった。偶然から始まった戦闘は偶然の連続で展開し、誰も状況を把握できないままに不本意な戦いを強いられ、惰性で長期戦に突入してうやむやのうちに終結した。戦記では「これほど必然性と無縁な展開に終始した戦いはなかった」と評されている。

 ミュッケンベルガー元帥がなぜ敵の勢力圏の奥深くにわざわざグリンメルスハウゼン中将を配置したのか、グリンメルスハウゼン中将はなぜすんなり第四惑星宙域まで辿りつけたのかなど、発端からして不明なのだ。いくつもの説が存在したが、どれも無理があって定説となるには至らなかった。戦記を読んだからこそわかる。あんな偶然は何度も起きるものではないと。仮に戦いが起きるならシェーンコップ中佐は頼りになる存在だけど、今回は単なる困った人で終わるだろう。役に立たないであろう現実の戦いのことは頭から追い払い、シェーンコップ中佐に飲ませるコーヒーを用意するために部屋に入った。 

 

第三十三話:不安に耐える戦い 宇宙暦794年3月24~27日朝 ヴァンフリート星系4=2基地

 宇宙暦3月24日。ヴァンフリート星系で同盟軍と帝国軍が交戦状態に入ってから3日が経っていた。各部隊は連携を欠いたまま個別に戦闘を展開しており、総司令部は十分に戦況を把握できていないという。帝国軍もやはり連携を欠いており、戦域全体が無秩序な混戦状態に突入しているらしい。後方支援業務の調整もうまくいっておらず、各艦隊・分艦隊から入ってくる要請を総司令部がそのまま後方基地へ伝達している。4個艦隊もの大兵力に対する後方支援ともなると、高度な業務処理能力を持っていなければおぼつかない。補給要請がバラバラに入ってきたら、処理すべき業務量は何倍にも跳ね上がる。しかも、通信状態が悪くて連絡も遅れがちだ。後方支援要員は24時間体制で連絡が入り次第物資を送り届ける準備を整えている。

 4=2基地の中央支援集団司令部の負担は想像を絶するものであったが、シンクレア・セレブレッゼ中将の手腕によって破綻を免れていた。膨大な要請を素早くかつ適確に処理していくセレブレッゼ中将の指揮は大軍を寡兵で撃退する名将の用兵を彷彿とさせ、同盟軍最高の後方支援指揮官の名にふさわしい。セレブレッゼ中将を補佐する副司令官カルーク少将と参謀長ラッカム少将、各部門の責任者を務める工兵団司令官シュラール工兵少将、衛生業務集団司令官オルランディ軍医少将、通信業務集団司令官マデラ技術准将、整備業務集団司令官リンドストレーム技術少将、輸送業務集団司令官メレミャーニン准将らの手腕も同盟軍最高峰の後方支援のプロだけのことはある。彼らの拘束命令を受けている俺でも感嘆せずにはいられなかった。

 全機能をフル稼働させた4=2基地は慌ただしい雰囲気に包まれていたが、全員が忙しかったわけではない。この基地には後方支援要員の他に2万人ほどの警備・戦闘要員が所属している。全員が単一の部隊というわけではなく、連隊・大隊規模の雑多な地上軍部隊で構成されている。基地警備にあたる二個連隊と憲兵隊以外は必要に応じて前線に投入される予備部隊だ。艦隊戦が決着しそうにない現状では彼らの出番は無く、後方支援部門の喧騒とは無縁でいられた。第百七十七歩兵連隊長エーベルト・クリスチアン中佐もその一人である。

「今回の戦いはどうなるんでしょうね。こんなぐだぐだした展開の戦いは初めてなんで予想付かないですよ」
「不安か?」
「ええ、なんか落ち着かないですよ」

 中央支援集団司令部を監視しながら拘束のタイミングを待つというのは精神力の必要な任務だった。私的制裁追放キャンペーンを大げさに展開しているせいで俺に敵意を向ける人間も多い。ファヒーム少佐を始めとする古参の憲兵は俺の行動をスタンドプレーとみなして反発しているし、シェーンコップ中佐も厄介な相手だ。早く戦いが終わってくれないとただでさえ乏しい精神力が尽きてしまいそうだ。

「貴官は実戦経験が乏しいからな。待つことに慣れてないのも無理はないが、いずれ慣れないといかんぞ」

 クリスチアン中佐は盛大に勘違いをすると、分厚いステーキにドスンとフォークを突き刺してガブリとかじる。中佐は俺の本当の任務を知らないから、勘違いをするのは当然だけど。

「実戦で一番難しいのは待つことだ。不安に押しつぶされそうになる。それに比べたら、戦闘なんて楽なものだな」
「そうなんですか?」

 敵を待つだけでストレスになるというのは幹部候補生養成所の授業で習った。発散するために違法賭博や麻薬に手を出す兵士が多い。しかし、死の恐怖はもっと強いのではないだろうか。どっちも実戦では経験したことないけど。

「不思議なものでな、長い間戦場にいると、敵と出会うことを願うようになるのだ。敵が出てくればこれ以上待つ必要がなくなるからな。死ぬのがわかっているのに敵を求めて突撃する者さえいる。不安に苦しむぐらいなら、死んだ方がマシと思うのだ」

 そういえば、エル・ファシル義勇旅団の時も待つのに耐え切れなくて出戦を志願する義勇兵がたくさんいたなあ。「戦って死にたい」と泣いて直訴してくる人もいた。当時は故郷を取り戻す戦いでお客さん扱いされるのが辛かったんだろうと思ったけど、出番を待つ不安も大きかったのかな。最初で最後の出動命令が出ると、義勇兵の顔は明るくなった。誰が見てもおまけ扱いとわかる命令を喜ぶ理由がいまいちわからなかったけど、不安が消えてほっとしたのかもしれない。メディアが報じる義勇旅団の活躍を事実だと信じてるクリスチアン中佐には言えないけど。

「心当たりはあります」
「エル・ファシルか」

 背筋がひやりとした。気づいていたのか。

「あのリンチも敵の攻撃を待つ間の不安に耐えられなかったのかもな。エル・ファシル本星に逃げこんですぐに敵の攻撃を受けたら立派に戦って死ねたかもしれん」

 ホッとするとともに後ろめたさを感じた。クリスチアン中佐は俺の実戦経験の乏しさを心配してくれているのに、俺は隠し事をしている。そもそも、現実においてどのように生きていたかを誰にも言えない時点で、すべての人に隠し事をしてると言える。中佐のように公明正大に生きられない自分が情けなくなる。今の俺は逃亡者ではないが、卑怯者だ。

「公明正大に生きるって難しいですね。一時の不安に耐えられなかっただけで、リンチ司令官のように踏み外してしまいますから」

 リンチ司令官のことは他人事ではない。現実の俺は不安から逃れるために酒や麻薬に溺れて、挙句の果てにサイオキシンにまで手を出したのだ。彼のせいで人生を踏み外してしまったけど、それでも恨む気にはなれなかった。クリスチアン中佐の意見を聞いた今は親近感さえ感じる。

「誰もが貴官のようには生きられんからな」
「俺が、ですか…?」
「うむ。貴官は公正な男だ。原理原則を踏み外すことはなく、誰に対しても誠心誠意接する。他人を好き嫌いと別の角度で見ることができる。貴官の真価は人格にこそあると小官は思う」

 俺が原理原則を踏み外さないのは自分の判断を信じるのが怖いからだ。他人に誠心誠意で接するのは期待を裏切るのが怖いからだ。他人を好き嫌いと別の角度で見ようとするのは自分の好き嫌いを信じるのが怖いからだ。公正とは正反対の存在だろう。

「怖いんですよ。自分を信じるのも他人を裏切るのも。公正なんかじゃないです」
「動機はどうあれ、貴官が公正であろうと努力しているのは事実だ。真似事であっても貫き通せば本物になる。救われる者も多いだろう。それで十分ではないか」
「俺は本物になれるんでしょうか…?」
「小官にはとっくの昔に本物になっているように見えるがな。今回の私的制裁追放キャンペーンも実に貴官らしい。勇み足が過ぎてだいぶ疎まれているようだが、原理原則と対話を大事にする態度は立派だ。今度も押し通せ」
「ありがとうございます」

 ブラフで始めたキャンペーンだけど、まったく手は抜いていない。私的制裁の基準を明確にすることで言い逃れを防ぎ、説明を求められたらどこにでも出向いた。匿名相談窓口には面会窓口と通信窓口とメール窓口があったが、いずれにもメンバーの一人として参加して、相談者の声を聞くことで対応の改善をはかった。自分で相談窓口に入って生の声を聞くというのはドーソン中将から学んだ手法だ。憲兵隊長室を訪れた人にはコーヒーをいれるけど、これは俺の趣味というか習慣みたいなものだ。

「シェーンコップのようなふざけた奴をまともに相手するなんて、小官にはできんからな。30秒が限界だ」

 クリスチアン中佐は苦々しげに吐き捨てる。堅物のクリスチアン中佐と根っからふざけきったシェーンコップ中佐は水と油だろう。まあ、シェーンコップ中佐と相性が悪くない軍人なんて滅多にいないだろうけど。

「ローゼンリッターはならず者の集まりだが、シェーンコップは桁が違う。あれほど権威を尊ばない奴は見たことがない。あいつがローゼンリッターの指揮権を握ったらどれほど恐ろしいことになるか。能力があるからといって、軍人精神の欠片も無い者を引き立てたら取り返しがつかなくなるぞ」

 現実の歴史ではシェーンコップはローゼンリッターを率いてハイネセン市で蜂起し、政府に囚われたヤン・ウェンリーを救出した。国家への忠誠心を持たない指揮官と特殊戦能力を持った精鋭部隊の結合はクリスチアン中佐が危惧した通りの結果を引き起こしたことになるが、この世界ではどうなるのだろうか。


 シェーンコップ中佐は副連隊長の他にローゼンリッター第一大隊長も兼任している。第一大隊の首席幕僚たる運用訓練主任を務めるのはカスパー・リンツ大尉。自他ともに認めるシェーンコップ中佐の片腕であり、現実の歴史では最後のローゼンリッター連隊長を務めた。俺の幹部候補生養成所時代の唯一の友人でもある。

「そういや、副連隊長がおまえさんのこと褒めてたよ」
「俺を!?」

 リンツはマフィンを食べている俺をスケッチしながら驚くべき発言をした。シェーンコップ中佐が俺のどこを褒めるんだろうか。見当がつかない。

「コーヒーいれるのうまいって」

 そこを褒められるなんて意外だ。シェーンコップ中佐は俺がいれるコーヒーを飲んでも味の論評はしないで、俺が自分で飲むコーヒーに砂糖とミルクをたっぷり入れるのをからかってたから。でも、あの人に褒められるような能力や人格は持ってないから、褒めどころといえばそこしかないんだよな。

「徴兵される前はコーヒーショップでバイトしてたからね」

 実のところ、コーヒーをいれるのは好きだったけど、上達したのはこちらの世界に来てからだ。ちゃんとした道具を揃え、カフェのマスターにコツを教えてもらい、職場の人に飲んでもらって感想を聞いて、最近になってどうにか人に飲ませられるレベルになった。

「『人間なにかとりえがあるものだ』と言ってたぜ」
「それ、褒められてんのかな…」
「あの人は素直じゃないからね」

 伝記によると、シェーンコップは女性とコーヒーには妥協しない人だったそうだ。イゼルローン要塞がカール・グスタフ・ケンプ大将とミュラー大将に攻撃された際に、迎撃の指揮を取りながら当番兵にコーヒーの味を細かく注文して司令官代理のキャゼルヌを呆れさせたという逸話がある。コーヒーだけは認めてもらえたということか。

「それにしても、シェーンコップ中佐はしょっちゅう俺の部屋にコーヒー飲みに来るんだけど暇なのかな。リンツも最近は良く来るよね。ローゼンリッターの仕事はどうなってんの?」

 シェーンコップ中佐は2日に1回の割合でコーヒー飲みに来て、リンツは今週に入ってから毎日俺をスケッチに来ている。二人とも要職のはずなのに何してるんだろうか。

「部下に任せてチェックだけして、責任は自分が取る。副連隊長流の人材育成法だな。あの人の理想は指揮官が細かく指示しなくても、全員がやるべきことをわきまえて動ける組織だから」
「シェーンコップ中佐ほどの人なら、全部自分で指示した方がてっとり早そうなのに」
「部下にも高いレベルを求めてるんだよ。全部自分で細かく指示しないと動けない部下と、大雑把な指示で思い通りに動く部下。どっちの方が部隊の動きが良くなると思う?」
「後者かな。短い指示で動けるから、伝達速度が速くなる。伝達速度の早さは部隊の動きの早さにもつながるね」
「そういうこと。副連隊長の指揮能力がいかに高くても、部下がそれについていけなかったら無意味だからな」

 シェーンコップ中佐が指揮する部隊の精鋭ぶりは有名だ。戦闘に強いのはもちろん、規律の維持、命令書や報告書の作成、物資の管理といった部隊運営業務の質も高い。あの性格でどうやって部下を育ててたのか想像つかなかったけど、大胆に仕事を任せて自分は後見に徹して経験積ませてたわけか。リンツもそうやって育てられた一人と。シェーンコップ中佐は凄いなあ。めんどくさい人だけど。

「うちの司令官とは真逆だね」
「セレブレッゼ中将か?」
「いや、ドーソン中将」
「ああ、じゃがいも閣下ね。最近は評判良いらしいけど」
「そうなの?」
「憲兵司令官になってから、人を使えるようになったってさ」

 そういう評判はちらほら耳にしてたけど、もともとドーソン中将に好意的な人ばかり言ってたからあまり信用してなかった。でも、相性悪そうなローゼンリッターの人まで言ってるってことはわりと一般的な評価なのかな。

「憲兵司令部は優秀な人多いからね。ベイ中佐とか、コリンズ中佐とか」
「副官が特に優秀らしいよ」
「ああ、ハラボフ大尉ね」

 俺の後任としてドーソン中将の副官を務めるユリエ・ハラボフ大尉は士官学校を上位で卒業した若手女性士官だ。歩くデータベースと言われるほどの知識量に「耳と手が4つある」と言われるほどの処理能力を誇る逸材でありながら、能力を鼻にかけずに謙虚に学ぶ姿勢を持っている。細かいことによく気が付き、人当たりも良い。副官になるために生まれてきた人物といえるだろう。徒手格闘の達人だからボディーガード代わりにもなるし、美人だから目の保養にもなる。引き継ぎの時に妙につっかかってきたのが鬱陶しかったけど、俺の雑な仕事を引き継がされてイライラしてたんだろうな。でも、彼女が特に優秀というのは頷ける評価だ。

「いや、前任の副官」
「俺!?」
「じゃがいも閣下は良く出来た副官を持ったおかげで変わったという評判だぞ」
「ドーソン中将が頑張った時にたまたま俺が副官だっただけだよ。嫌になるぐらい副官の仕事向いてなかったし」
「まあいいや。とにかく世間はそう見てるってこと覚えとけよ。そして、おまえさんの評判は4=2基地の連中の警戒を招くに十分ってこともな。なんせ、おまえさんは他人のことは良く見えるのに自分のことは全然見えない変わった目を持ってるから」

 警戒されてるというのは感じる。どうやら俺は過大評価されやすいたちらしいというのは、エル・ファシルの英雄として騒がれてた頃に気づいた。義勇旅団の頃なんてまったく仕事していないのに有能な指揮官ということになっていて、実像と虚像の乖離がひどいことになっていた。最近は収まってたと思ったけど、有能な副官という虚像が一人歩きして警戒を招いたら面倒なことになる。私的制裁追放キャンペーンに入れ込むことで警戒を逸らす工夫はしていたけど、別の工夫も必要かもしれない。思案していると、リンツはスケッチブックを畳んで立ち上がった。

「そろそろ帰る」
「あー、お疲れ様」
「あまり長居すると連隊長殿がうるさいんでな」

 ローゼンリッター連隊長のヴァーンシャッフェ大佐は上に忠実で部下には厳格な人物だ。中佐になるまでは寛大で気前も良かったが、大佐になると人が変わったという。リンツに言わせれば将官に昇進するための点数稼ぎということだが、俺から見たら上層部の好意を獲得することで立場が微妙なローゼンリッターの立場を確保しようとしているように見える。前線で戦うリンツとオフィスで仕事している俺の視点の違いでそう見えるのかもしれない。いずれにせよ、ヴァーンシャッフェ大佐とシェーンコップ中佐の仲が良くないことは容易に想像できる。

 3月25日から通信状態がさらに悪化して、総司令部からの連絡がまったく入ってこなくなった。連絡途絶は戦場では珍しくないことだとクリスチアン中佐は言っていた。連絡が途絶すること無く司令部が常に戦況を把握できるなど、創作の世界の話なのだという。しかし、ずっと後方のオフィスで働いてきた俺にとって、連絡手段が使用できないなど初めての経験だ。唯一前線で戦った二年前のイゼルローン要塞攻防戦でも連絡が途絶することはなかった。胸の中に漠然とした不安が生じたが、明日になれば回復しているだろうと考えて通常通りの仕事を続けた。

 26日になっても連絡が途絶したままだった。不安のあまり集中力を失った俺は、シェーンコップ中佐に出すコーヒーの砂糖の量を間違えて笑われてしまった。不安に怯えているのは俺だけではない。基地の中にも動揺が広がり、中央支援集団司令部は昼からずっと幹部会議を開いて対応を協議している。同盟軍の勢力圏のど真ん中にある4=2基地が戦場になることは考えられないが、同盟軍宇宙艦隊が敗北して前線を突破されていたら話は別だ。基地撤収、最悪の場合は進駐してくる敵との交戦も有り得るかもしれない。こんな時に軍規の番人たる憲兵隊のトップが不安に揺れていてはいけない。憲兵隊の中隊長級以上の幹部を招集して夕方から深夜まで緊急会議を開き、司令部が撤収を決断した場合や敵と交戦した場合の対応を取り決めた。会議が終わって部屋に帰ると、一人で司令部メンバー拘束計画を検討し、撤収時と交戦時それぞれの修正プラン準備にとりかかる。修正プランが完成した時には既に夜が明けていた。

「これを使う必要がなければいいんだけど…」

 机の上に置かれた憲兵隊の撤収時及び交戦時対応プランのファイルと、端末の中の拘束計画修正プランを交互に眺める。

「長い一日になりそうだな…」

 宇宙暦794年3月27日7時。窓の外に広がるのはいつもの暗い空。一睡もしていない俺の目にはどうしようもなく不吉に見える。不安に苛まれながら朝食代わりのマフィンを口に突っ込み、牛乳で流し込むと部屋を出て仕事に向かった。 

 

第三十四話:誰か、勝てると言ってください 宇宙暦794年3月27日~4月6日朝 ヴァンフリート星系4=2基地

 宇宙暦794年3月27日。2日ぶりに総司令部からヴァンフリート4=2基地に入ってきた通信は驚くべき情報をもたらした。

『一万隻を越える敵艦隊がヴァンフリート4=2に進軍中。進軍速度等から26日の夜に上陸した可能性が高いと推測される』

 その報を聞いた時、俺の頭は真っ白になった。なぜ、安全地帯のヴァンフリート4=2に突如として敵の大軍が出現するのだろうか。現実で読んだ戦記の展開そのままの事態が進行している。イゼルローン要塞攻防戦の時と違い、どう見ても必然性皆無の偶然が再現されていることに驚愕した。もしかして、あらかじめ運命は決められていて、俺達はそれに乗せられているんじゃないか。そんな非論理的な考えが頭をよぎる。

 不穏な事態が進行していると思いつつもかろうじて平穏を保っていた4=2基地はパニックに陥った。あるものは絶望のあまり悲観論を口走り、ある者は敵が接近するまで連絡を寄越さなかった総司令部に怒りをぶちまけ、ある者は興奮して帝国軍を叩きのめしてやると息巻いた。

 敵の目的は4=2基地破壊にあると判断したセレブレッゼ中将はローゼンリッターに偵察を命じて、敵軍の正確な位置を把握しようと務めた。特殊戦能力を持つローゼンリッターはこのような状況では最も頼りになる部隊だ。連隊長ヴァーンシャッフェ大佐自らが偵察部隊を率いたのは、情報収集の精度を重視したからだろう。セレブレッゼ中将の対応は常識の範囲内では最善だったと言って良い。中央支援集団司令部は昨日と同様に幹部を招集して会議を開いて対応を協議し、4=2基地に駐留する各部隊も個別に幹部を招集して会議を開いている。

 憲兵隊は昨日の会議で取り決めたとおり、交戦を想定した対応プラン通りの行動に移る。基地内の巡回を強化して、混乱の沈静に務めた。パニックに陥った者を発見したら、医務室へ連れて行って落ち着くまで隔離し、悪質な者は営倉に放り込んだ。危機対応は初めてだったが、老練な副隊長ファヒーム少佐の助けを得て何とかやり通し、夕方までには4=2基地は落ち着きを取り戻した。こういう時にはベテランの経験が頼りになる。俺一人で指揮したら、かえって混乱を拡大したかもしれない。不測の事態に慣れていないし、部隊指揮の経験も無い。現実で読んだ戦記に書かれていたような不可解な偶然が起きたことにも驚いていた。クリスチアン中佐に指摘された実戦経験の乏しさがこんなに早く露呈するとは思わなかった。エル・ファシル義勇旅団長だった時に無理を言って一小隊でも指揮して戦っておくべきだったなんて不毛な後悔をするほどに困り果てていた。

 27日21時15分。ヴァーンシャッフェ大佐の偵察部隊が消息を絶ち、副連隊長シェーンコップ中佐らが探索に向かった。単に連絡が通じないだけなら良いが、偵察部隊が敵に発見されていたら取り返しのつかないことになる。探索任務の成否に4=2基地の命運がかかっていると言っても過言ではない。基地に残っている俺達は祈るような思いで偵察部隊とシェーンコップ中佐の帰りを待ちわびた。

 28日に入ると、シェーンコップ中佐らとの連絡も通じなくなった。彼らを探すための部隊を新たに派遣しようという案も出たが、何度も部隊を出したら敵に見つかりやすくなるという理由で却下されている。30日になってもシェーンコップ中佐らからの連絡は入らない。何の情報もないままに見えない敵を待ち続けていると、不安は果てしなく大きくなっていく。いつもこんな不安に耐えている実戦部隊の人達の凄さが初めて実感できたような気がする。そして、エル・ファシルを脱出した時に不安を感じていた人の気持ちもようやく理解できた。先が見えないということは本当に恐ろしい。

 31日の午前2時頃ににようやくシェーンコップ中佐らは4=2基地に帰還した。偵察部隊は壊滅し、生き残ったヴァーンシャッフェ大佐も重傷を負っていて、即座に基地病院に運び込まれたという。ベッドの中で知らせを受けた俺は不安が恐怖に変わっていくのを感じ、毛布を頭からかぶって強引に眠りについて現実逃避をはかった。こういう時は、どんな状況でも眠りにつける自分の体質に感謝したくなる。

 午前7時30分。重苦しい空気に包まれた食堂で朝食をとっていると、大きなチャイム音の後にアナウンスが流れた。基地にいる者は今すぐ担当部署に集合し、8時にセレブレッゼ中将の緊急放送が始まるまで待機せよとの内容だ。ただならぬ雰囲気に食堂がざわめき、みんな食事をそこそこに切り上げて駆け足で自分の部署に向かった。俺も落ち着いていられず、ピラフとスープをお代わりした後にデザートのプリンを平らげて、食後のコーヒーを飲み干してから走って憲兵隊本部に向かう。

 俺が憲兵隊本部に到着した時には、既に本部直轄部隊の500人が広間に集結していた。8時を回ると、スクリーンが明るくなって、やや青ざめたセレブレッゼ中将の顔が映る。放送の内容は驚くべきものだった。偵察部隊が帝国軍陸戦部隊の攻撃で壊滅したこと、重傷を負ったヴァーンシャッフェ大佐はシェーンコップ中佐に救出されて帰還したものの間もなく死亡したこと、敵に捕獲された偵察車両のナビゲーションデータから4=2基地の位置が知られた可能性が高いこと、一週間以内に総攻撃が行われる可能性が高いことなどを述べ、特別警戒態勢への移行宣言で締めくくった。ヴァーンシャッフェ大佐の死も戦記で読んだとおりだ。どこまで戦記で起きた展開をトレースするのだろうか。俺の困惑をよそに広間に集まった憲兵達の顔からは不安が消え去っていた。

『不思議なものでな、長い間戦場にいると、敵と出会うことを願うようになるのだ。敵が出てくればこれ以上待つ必要がなくなるからな。死ぬのがわかっているのに敵を求めて突撃する者さえいる。不安に苦しむぐらいなら、死んだ方がマシと思うのだ』

 一週間前に聞いたクリスチアン中佐の言葉を思い出す。敵の出現が憲兵達を不安から解放してくれたのだ。他の人々もそうであったらしい。この世の終わりが迫っているかのような重苦しい雰囲気に包まれていた4=2基地は放送が終わるとたちまち活気を取り戻し、迎撃体制構築に向けて動き出した。

 基地警備部隊に前線部隊の予備として待機している地上軍部隊を加えると、4=2基地には2万人ほどの実戦部隊が駐留している。しかし、いずれも連隊・大隊規模の部隊で指揮系統が一本化されているわけではない。この規模の基地なら本来は准将か少将の警備司令官がいて、戦時には全部隊を一括して指揮下に入れるものだが、どうしたことか現在の4=2基地警備司令官は空席だった。セレブレッゼ中将以下の将官8人はいずれも後方支援の専門家で実戦経験は乏しい。連隊長を務める大佐4人が現在の4=2基地にいる最高位の実戦部門指揮官であったが、いずれも2個連隊以上の兵力を指揮した経験はない。現実の歴史ではヤン・ウェンリーのもとで10万を超える地上戦部隊を率いて勇名を馳せることになるワルター・フォン・シェーンコップも現時点では1個大隊の運用経験しか持っていない。

 結局、基地トップのセレブレッゼ中将が全軍をまとめて指揮することになった。経験者がいないなら、せめて最も権威がある者に指揮系統を一本化しようという次善の策である。13万人に及ぶ後方支援要員も武装して戦闘配置につくことになったが、戦力としてはあてにできない。セレブレッゼ中将自ら指揮する2万の地上戦部隊が10万以上と推定される敵の地上戦部隊を相手にどこまで持ちこたえられるかが焦点となる。

 一方、憲兵隊に所属する8個憲兵中隊は、基地司令部に3個中隊、工兵団司令部・衛生業務集団司令部・通信業務集団司令部・整備業務集団司令部・輸送業務集団司令部にそれぞれ1個中隊が分散配備されて、各司令部の警備部隊と協力する。警備の名目で将官の監視を継続し、万が一各司令部を放棄する事態に陥ったら保護の名目で身柄を確保するための布石である。副隊長ファヒーム少佐は憲兵隊をまとめて運用しなければ戦力にならないという理由で分散配備に反対した。現状において俺が最優先すべき任務は将官8人の身柄確保だが、事情を知らない少佐が反対するのは当然だろう。拘束計画の交戦時修正プランを使うのは不本意だったが、事ここに至ってはやむを得ない。

 セレブレッゼ中将の主導で中央支援集団司令部は各部隊の担当区域が決定し、必要な物資を配分していった。工兵団は塹壕を掘り、簡易トーチカを構築した。通信業務集団はセレブレッゼ中将の司令部と各部隊の指揮官を結ぶ指揮情報システムを手早く構築し、その運用試験に余念がない。整備業務集団はすべての装備を徹底的に手入れして稼働率を高めて、兵力の劣勢を補おうと努力していた。衛生業務集団は負傷者の収容・治療体制を整えている。同盟軍最高の後方支援集団の活躍によって、ハード面の戦闘準備は瞬く間に進んでいった。

 一方、実戦部隊の指揮官は迎撃計画を作成してシミュレーションを重ねている。部隊単位の準備は順調に進んでいたが、部隊間の連携には不安があった。2個連隊の基地警備部隊を除くと、必要に応じて前線に投入される予備部隊で兵種も運用思想も武装もバラバラだった。指揮官達はいずれも経験豊富で有能だったが、それがかえって連携体制の構築を妨げた。専門とする兵種の指揮に強い自信とそれを裏付ける実績を持つ彼らは、それゆえに視野が限定されてしまっており、他兵種の指揮官との意思疎通が捗らなかったのだ。ローゼンリッター連隊長代理に就任したシェーンコップ中佐は広い視野を持つ数少ない指揮官だったが、それゆえに視野が狭い他の指揮官に苛立っているように見える。

 4=2基地に存在する最大の部隊単位は大佐や中佐が指揮する連隊だが、これは同一兵種で構成される。複数兵種の統合運用は旅団戦闘団長や師団長などが担当して、連隊長は自兵種の指揮に専念するのが本来の姿だ。彼らの視野が自兵種に限定されているのは問題ない。司令官として各部隊間の調整にあたるべきセレブレッゼ中将がその役目を果たしていると言いがたいのが問題だった。実戦指揮に関する経験も知識も乏しかった彼は、各部隊の指揮官が自らの経験と知識に基づいて出した意見をすり合わせることができず、手をこまねくばかりだった。副司令官のカルーク少将と参謀長のラッカム少将は優秀な後方幕僚であったが実戦経験は乏しく、この方面でセレブレッゼ中将を補佐することはできなかった。

 シェーンコップ中佐の報告によると元ローゼンリッター連隊長で帝国に逆亡命したリューネブルク帝国軍准将が敵の地上戦部隊指揮官を務めているらしい。リューネブルクは30そこそこで連隊長に就任しただけあって特殊部隊の指揮には卓越した力量を持っていたが、複数兵種を運用する能力は未知数である。しかし、逆亡命して准将に昇進してから3年が経っており、一個艦隊の陸戦部隊のトップを務めているからにはそれなりの運用経験を積んでいると考えるべきだろう。同盟軍の内情にも通じていて厄介な相手である。指揮下の10万の過半数は地上戦専門部隊で構成されているはずだ。指揮官も戦力も圧倒的に劣勢。心細いと言う他ない。

「今回の戦いはどうなるとお考えでしょうか」

 憲兵隊長室にコーヒーを飲みに来たシェーンコップ中佐に見通しを聞いてみたことがあった。情けない話だけど、ベテランの言葉を聞いて安心しようと思ったのだ。

「戦闘なら予想もできますが、ギャンブルはわかりませんな。なにせ小官は軍人ですから」

 苦笑して答えるシェーンコップ中佐。要するに勝算はないということだ。聞かなかったことにして、シェーンコッップ中佐が部屋から退出した後にクリスチアン中佐の第百七十七連隊司令部に通信を入れて同じ質問をしてみた。

「勝てると思わなければ勝てる戦いも勝てん。だから、小官はどのような状況であろうと必ず勝つとしか答えられん」

 いかにも歴戦のクリスチアン中佐らしい重厚な答えを聞いて安心した。本当にどうしようもなく情けないけど、誰かに勝てると言って欲しかったのだ。クリスチアン中佐が勝てると言わなければ、勝てると言ってくれる人が見つかるまで聞いて回っていただろう。エル・ファシル脱出前日の記者会見を思い出す。

『脱出は明日の正午ですが成功すると思いますか?』
『はい。無事に帰れると信じています』

 俺がそう言った瞬間、報道陣は歓声をあげて手が痛くなるんじゃないかと思えそうなほどの拍手をした。当時はなんで彼らがあんなにはしゃいでいたのかわからなかったけど、今の俺にはわかる。彼らは俺を信じたんじゃなくて、俺を信じたかったのだ。帰れると言い切ってくれるなら、誰でも良かったのだ。生きて帰りたいと痛切に願う。戦死はむろん、捕虜になるのも嫌だ。現実では捕虜収容所で9年過ごしたが、死なないだけマシというぐらい酷い場所だった。良い夢だったのにここで終わってしまうのかと思うと、悲しくなってくる。


 4月6日午前1時。ベッドの中に入って眠りにつこうとしたところに大きなチャイム音が鳴り響いた。何度も聞いた音だが、この時間に訓練放送などするわけもない。ついに来たかと身構える。

「敵軍が現在当基地に向けて進軍中!到着予想時刻は5時間後!これより戦闘態勢に移行する!総員、すみやかに戦闘配置に着け!繰り返す…」

 心の準備ができていたとは言いがたかったけど、その時が来てみると驚きはあまり感じなかった。すぐに着替えて基地司令部に全速力で向かう。憲兵隊はこれまでに戦闘態勢移行時の集合訓練を重ねていたから、今さら指示を出す必要はない。廊下では大勢の人が配置に付くべく駆けまわっている。人生初の地上戦の幕が開けようとしていた。 

 

第三十五話:小心者たちの戦い  宇宙暦794年4月6日午前6時~夕方頃 ヴァンフリート星系4=2基地

 宇宙暦794年4月6日朝。既に4=2基地の戦闘配備は完了している。地上戦部隊は装甲服を着用して基地の周囲に築かれた簡易陣地に拠り、後方支援要員は気密服を着て基地の中に籠もって帝国軍を待ち構えていた。俺は警備という建前から装甲服を着用して基地司令部の中央司令室に詰めて、セレブレッゼ中将以下の将官3人を監視している。中央司令室に至る通路は3個憲兵中隊が固めていた。

 6時22分。地平線の彼方に帝国軍の地上戦部隊が現れた。地上からは戦闘車両、空からは地上攻撃機の大軍が津波のように押し寄せてくる。司令部のスクリーンで見ても息が詰まるような迫力だ。直に見ている前線の将兵達のプレッシャーは想像に難くない。あれと戦って生き残らないといけないのかと思うと、絶望的な気持ちになった。セレブレッゼ中将が所在なげにきょろきょろしているのがさらに不安をかきたてる。

 敵との通信回線が開く。戦いが始まる前には降伏や和議の勧告、あるいは大義名分の宣伝を目的として両軍の指揮官の間に回線が一時的に開かれる慣例が戦場にはあるのだ。司令官のセレブレッゼ中将がマイクを持って何か言おうとしたその時、シェーンコップ中佐が回線に割り込んで第一声を放った。

「帝国軍に告ぐ。むだな攻撃はやめ、両手をあげて引き返せ。そうしたら命だけは助けてやる。いまならまだまにあう。お前たちの故郷では、恋人がベッドを整頓して、お前たちの帰りを待っているぞ」

 このあまりにふざけきった宣戦布告に中央司令室は凍りつき、みんな呆気に取られたような顔をしている。帝国軍も同じ顔をしているであろうことは想像に難くない。怒りに顔をひきつらせたセレブレッゼ中将は指揮卓に据え付けられた通信端末のスイッチを入れると、シェーンコップ中佐を呼び出す。

「シェーンコップ中佐!いまの通信は何ごとだ。回線が開いたら、まず帝国軍の通信を受けてみるべきではないか。妄動にもほどがあるぞ!」

 軍人というより大学教員といった方がふさわしい風貌のセレブレッゼ中将らしくもない怒号に、中央司令室のスタッフは顔を見合わせた。シェーンコップ中佐の返答がよほど気に入らなかったのか、セレブレッゼ中将はワナワナと震えている。

「どこが紳士的だ。どこが平和的だ。けんかを売っているにひとしいではないか」

 端末に顔を近づけて怒鳴り散らすセレブレッゼ中将を見ていると、帝国軍ではなくて自分に喧嘩を売っていることに腹を立てたのではないかと感じる。普段ならインテリらしくすましている彼が成り振りかまわずに怒声を放っている。

「とにかく、これ以後、基地司令官の職分を侵すような言動はいっさい、厳につつしんでもらおう。貴官は貴官の責務さえ果たしていればよい。異存はないな」

 セレブレッゼ中将は端末から顔を離して姿勢を正すと、厳しく釘を差した。周囲の視線から、自分がいかに取り乱していたかに気づいたのかもしれない。通信端末のスイッチを乱暴に切ったセレブレッゼ中将は、どしんと椅子に腰を落とす。シェーンコップ中佐の行為に体面を傷付けけられたのは分かるが、いつもの彼ならここまで怒りを露わにしないはずだ。司令官が平常心を失っているような状況でまともに戦えるのだろうかと思うと、不安が募ってくる。他の人達も同じように思っているらしく、中央司令室の空気は重苦しい。セレブレッゼ中将の動揺ぶりを白日のもとに曝したシェーンコップ中佐の行為を少し恨みたくなった。

 戦術スクリーンの左側では青い点が横一列に並んで峡谷を塞ぎ、右側では青い点に数倍する赤い点が縦列を作っている。青い点は味方部隊、赤い点は敵部隊を示していた。戦況を把握するために抽象化された画像ではあるが、敵の圧力を感じさせるには十分だ。赤い点が動き出すと、ズラッと居並ぶオペレーターのもとに各部隊や情報衛星から膨大な情報が入ってきた。前線が動き出すと同時に司令部もまた動き出す。オペレーターが手元の端末に転送してきた情報を元に幕僚は分析を行い、それを分析をもとに司令官は指示を出す。前線の戦いでは弾が飛び交い、司令部の戦いでは情報が飛び交う。どちらも分析と判断を誤れば前線の兵士が死ぬことに変わりはない。

 青い点と赤い点がぶつかりあって数を減らし、しばらくすると赤い点が後ろに下がる。赤い点が後方で数を増やしながら縦列を組み直している間に、青い点は横列を整える。やがて、赤い点の縦列が再び青い点の横列に向かって突き進んでいく。同盟軍は地の利を活かして数に優る帝国軍の攻撃を三度にわたって撃退したが、消耗も激しい。戦闘継続が不可能になるほどの損害を受けた部隊も出ている。敵は損害を補充できるが、味方はそうではない。消耗戦に持ち込まれたら、いずれは突破されるだろう。

 不利な時ほど指揮官の力量が試されるが、残念ながらセレブレッゼ中将は優れた指揮官とは言いがたかった。座っていられないのか、立ち上がって指揮卓に手をついて不安そうに周囲を見回し、オペレーターの報告を聞くたびに顔色を悪くしている。判断も遅れがちで幕僚に何度も促されてようやく指示を出すという有様だ。せめて、大人しく椅子に座っていて欲しい。見ているだけで不安になる。幕僚はオペレーターから送られる情報をそのままセレブレッゼ中将に送って指示を求めるだけに終始し、まったく補佐の任を果たしていなかった。この人達の指揮を受けて無事に帰れるとは思えない。不安で心臓が激しく鼓動し、お腹が痛くなってくる。背中は汗でびっしょり濡れていた。涙が流れていないだけでも俺にしては上出来だ。

「貴官はいかが思われるか」

 不安そうな表情で質問してきたのは副司令官にして補給業務集団司令官を兼ねるエマヌエーレ・カルーク少将。今年で53歳になる彼は企業の重役を思わせる恰幅の良い人物で同盟軍最高の補給管理専門家と言われているが、この場においてはカカシの方がまだ役に立つんじゃないかと思えるぐらい役に立っていない。戦闘配置が決定された時に理由をつけて本来の執務場所たる補給司令所を閉鎖して、補給業務集団司令部の要員ごと基地司令部に移ってきたが、幕僚ではないから何の仕事もしていない。

 俺も司令室では仕事をしていないけど、一応は通路を守る憲兵三個中隊の指揮官だ。他の各集団司令部に分遣している憲兵中隊と連絡も取り合っている。生きて帰れるか怪しい状況ではあるが、将官全員の身柄確保という最低限の任務を投げ捨てる訳にはいかない。俺と同じ場所にいるのに俺より仕事をしていないカルーク少将は稀有な存在といえるだろう。

「さあ、小官にはわかりかねます」

 俺に聞くなよと思いながら、表情を出さないように答える。司令部に憲兵を入れたことに文句垂れまくってたあんたにこんな時だけ頼られても困る。

「地獄のエル・ファシルを経験された貴官でもわかりかねるか」

 そもそも俺はエル・ファシル奪還戦では何もしていないのだが、世間では地獄の戦いをくぐり抜けたことになっている。持ち出されたくないことを持ちだすカルーク少将にイラッとしたけど、真実を知らないのだから仕方ないと自分に言い聞かせる。

「何があるかわからないのが戦いというものですから」
「なるほど。さすがはあの地獄を生き抜いただけのことはある。貴官がこの戦いの指揮官であればどう切り抜けるか」
「高度の柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処することになろうかと思います」
「その場になってみないとわからないということだな、なるほどなるほど」

 曖昧な言葉でお茶を濁しているだけなのにいちいち感心しないでほしい。そもそも、カルーク少将の指揮能力は俺なんかとは比べ物にならないほどに優秀なはずなのだ。実戦指揮と後方支援指揮では勝手が違うのかもしれないが、組織を動かすという点では共通しているのではないか。世間では後方支援は計画通りに遂行するだけの仕事と言われているが、駆逐艦の補給長として後方支援の末端指揮官を務めた経験から言うと、トラブルによって計画が狂わされることの方が多い。通常業務を管理する能力に加えて危機管理能力を持たないと、後方支援指揮官は務まらない。セレブレッゼ中将といい、カルーク少将といい、危機管理能力に長けた超一流の指揮官がどうしてこんなグダグダになってしまうのか俺には理解できない。

「このままでは、完全に制空権を握られてしまう。どうする気だ、シェーンコップ中佐!?」

 震え声で質問をするセレブレッゼ中将の声が聞こえる。今度の相手はシェーンコップ中佐だ。さっきからずっとこの調子で前線指揮官に電話をかけまくっては、一喜一憂している。妨害電波が飛び交う地上戦の戦場では有線通信が司令部と前線をつなぐホットラインとなる。それをこんな下らないことに使わないでほしい。みっともねえからやめろよ、と思う。そもそも、制空権確保は防空部隊の担当だ。心配ならそっちに指示出せばいいじゃないか。

「おのれ、シェーンコップめ。増長しおって。だから、ローゼンリッターなど信用できんのだ!」

 セレブレッゼ中将はシェーンコップ中佐の返答によほど腹が立ったのか、叩きつけるように電話を切った後で罵倒した。相手に聞かれないように言ってるところが格好悪いが、口に出すこともできずに心の中で悪口を言うだけの俺ほど小心ではないと言えないこともない。

「状況はどうなっておるんだ!?」

 今度は傍らの幕僚に状況報告を求める。もはや、何でもいいから人と喋っていないと不安でたまらないのかもしれない。気持ちはよく分かるんだけど、司令官なんだからもっとしっかりしてほしい。

「状況はさらに悪化。好転の見込みなし」

 幕僚はやけくそ気味に声を張り上げて現実を叩きつける。司令官のあまりの醜態にイライラしていたのだろうか。打ちひしがれたようになったセレブレッゼ中将の手が再び電話に伸びる。

「どうなのだ、シェーンコップ中佐、今後の予測は」

 またも震え声で質問。さっき罵倒したことも忘れて現金なものだと思う。俺だって内心で罵倒した次の瞬間に機嫌を直してニコニコするのは珍しくないから人のことは言えないけど、司令官ともあろう者が俺と同レベルではまずいんじゃなかろうか。

 どうやら、今度もシェーンコップ中佐の返事が気に入らなかったらしく、電話を叩きつけるように切った。ほとんどの指揮官は電話がかかってくるなりいきなり切ってしまうようになっており、何度かけても返事してくれるシェーンコップ中佐はまだセレブレッゼ中将に対して親切と言える。ちなみにクリスチアン中佐にかけたらきつい説教を食らったらしく、しおれきったような顔になって二度目の電話はかけていない。

「司令官閣下、もうおやめになりませんか。あなたらしくもない」

 怒りで顔をひきつらせて何か言おうとしたセレブゼッゼ中将を、うんざりしたような声で制止したのは参謀長のエイプリル・ラッカム少将。48歳の彼女はセレブレッゼ中将と士官学校の同期で、30年近い付き合いになる盟友だ。小太りでそこらのおばさんのような容姿の彼女は、強烈な個性が揃っているチーム・セレブレッゼにおいては欠かせない調整役だ。目の前の醜態からは信じがたいが、セレブレッゼ中将はリーダーシップが強い反面、自負心が強すぎて妥協を嫌う面があるらしい。それゆえに実力もプライドも超一流の部下達としょっちゅう衝突しているという。部下同士の衝突も絶えない。その衝突の中からチーム・セレブレッゼの強力なエネルギーが生まれると評されているが、激しすぎると崩壊を招くだろう。その制御がラッカム少将の役割だった。実戦の素人である彼女は今回の戦いでは十分な活躍ができているとは言い難いが、それでも動揺を見せずに参謀長としての責務を果たそうとしているのはさすがだった。

「エイプリル、すまん…」

 ラッカム少将の一喝にうなだれるセレブレッゼ中将。さすがに長年の盟友の言葉は効いたようだ。二人の間に結ばれた絆の強さを感じる。士官学校の同期ってこういうのがあるんだな。イレーシュ少佐が俺に士官学校に入るべきだったと言った理由が実感をもって理解できた気がする。

「シンクレア、あなたは攻めには強いけど、守りに回ると弱くなる。士官学校の頃からそうでしたよね。戦術シミュレーションでも攻め一辺倒で守りは考えない。おかげで随分と勝ち点を稼がせていただきましたとも。あなたがいなかったら、士官学校の卒業順位が百位は落ちていましたわ」
「君がいなかったら、私は首席で卒業できたんだがな」
「なんて図々しい。戦術シミュレーションで全勝したって、トップクラスの優等生を15人も抜けるわけがないでしょう」
「勘弁してくれよ」

 士官学校時代のことを持ちだされて恥ずかしそうに頭をかくセレブレッゼ中将。彼の醜態で沈みきっていた中央司令室の空気はラッカム少将の言葉で一気に和んだ。名参謀の真骨頂を見たように思う。

 どうにか落ち着きを取り戻したセレブレッゼ中将であったが、相変わらず戦況に対応しきれなかった。幕僚陣もやはり実戦の要領がつかめないのか、十分な補佐ができずにいる。帝国軍は損害をものともせずに波状攻撃を続け、戦術スクリーンでは青い点が数を減らしながら左側に押し込まれていく。前線部隊は後退を重ねながら必死で戦線崩壊を防いでいたが、既に限界に達していた。

「第二十八山岳連隊は損害甚大につき戦闘継続を断念。第五トーチカ群を放棄するとの報告あり」
「第八十七独立高射大隊は敵に降伏した模様」
「第百十一歩兵連隊より通信が入りました。死亡した連隊長アーナンド中佐から指揮を引き継いだ副連隊長ユー少佐が退却の許可を求めています」
「通信業務集団司令部より報告。通信業務集団基地に敵が侵入し、戦闘状態に入ったとのこと」

 相次ぐ凶報に中央司令室の空気は凍りついた。戦術スクリーンの中では青い点の作っていた横陣は糸のように細くなり、ついに切れて散り散りになる。数えきれないほどの赤い点が青い点を飲み込み、一気に基地めがけて殺到する。確定的になった破滅の前に中央司令室にいる誰もが為す術を知らずに呆然となっていると、巨大な爆発音が鳴り響き、司令室が揺れた。

「こちら、第四中隊。Jブロックの外壁が敵の砲撃によって破壊されました。気圧差による強風のため、現時点では敵が進入するには至っていませんが、風が止み次第進入してくるものと思われます」

 ついに敵が4=2基地司令部に侵入してくる。現在の戦力で敵を撃退できる見込みはない。一週間ぐらい前からもしかしたら死ぬんじゃないかとぼんやりと思っていたが、それが現実となったことを覚って血の気がスーッと引いていく。中央支援集団傘下の各集団の司令部に分遣した憲兵中隊との連絡は既に途絶していた。任務を達成できないまま、こんな場所で死ぬのかと思うとどうしようもなく怖かった。もう一度会いたかった人の顔、もう一度行きたかった場所の光景が次々に脳裏に浮かぶ。なぜか故郷パラディオンの実家と家族の顔が浮かんできた時、静かだが力強い声が俺を現実に引き戻した。

「シンクレア、指揮権を私に預けてもらえますか?」

 中央司令室にいた全員の視線が参謀長ラッカム少将に集中する。

「君が迎撃の指揮をとるというのか?」
「ええ、さっきも言ったでしょう。守りは私の方が強いって。経験も戦力も足りない私達には元から勝ち目のない戦いでしたが、やられっぱなしというのも面白くありません。せめて一矢は報いましょう」
「最後まで君には迷惑をかけっぱなしだったな」
「お礼は天国でしてもらいますわ。天国でラ・コロンヌのマドレーヌが食べられるかどうかは知りませんけど」

 セレブレッゼ中将に向かってにっこりと微笑むラッカム少将の顔に救われたような思いがした。そうだ、死ぬならきっちり戦って後悔のないように死のう。現実の人生のように何もせずに後悔にまみれるなんて繰り返したくない。

「楽しい夢だったな。ここで終わっちゃうのが残念だけど」

 誰にも聞こえないようにつぶやくと、副隊長ファヒーム少佐と基地司令部に詰めている三個憲兵中隊の隊長三人を携帯端末で呼び出し、最後の打ち合わせをすることを伝えた。 
 

 
後書き
セレブレッゼ中将の描写は殊更に貶める捏造ではなく、原作とアニメに忠実であることを明記しておきます。 

 

第三十六話:俺が初めて越えた死線 宇宙暦794年4月6日18時~ ヴァンフリート4=2基地司令部ビル

 宇宙暦794年4月6日18時。ヴァンフリート4=2基地の司令部ビルのJブロックに帝国軍が進入してきた。6個警備中隊1354人、3個憲兵中隊731人、前線から後退してきた実戦要員882人、武装した後方支援要員1584人の計4551人が司令官臨時代理ラッカム少将に率いられて司令部ビルに立てこもっているが、戦闘訓練を受けているのは警備中隊と実戦要員を合わせた2236人のみ。一方、司令部ビルの周囲に展開している敵の実戦要員は2万と推定される。外部にいる実戦部隊の一部から合流の連絡があったが、まだ到着していない。到着したところで焼け石に水でしかないが。

 俺は中隊長デュロン大尉とともに1個憲兵中隊を率いて、中央司令室に至る3つの通路を抑えている。基地から脱出できる見込みが無くても、中央司令室にいる将官3人を最後まで目の届く範囲に置いておくことで任務に対する義理を果たそうと思ったのだ。ローゼンリッター連隊長代理のシェーンコップ中佐が腹心のブルームハルト中尉と1個小隊を貸してくれたのは嬉しい誤算だった。サービスということらしいのだが、誰に対するサービスなのかは良くわからない。

 残りの2個憲兵中隊は副隊長ファヒーム少佐の指揮下で警備についている。憲兵隊は伝統的に陸戦部門からの転属者を多く受け入れており、ファヒーム少佐もその1人だ。若い頃に中隊の下士官兵を取り仕切る中隊先任曹長を務めた経験があり、実戦では俺よりずっと頼りになるだろう。仲は良くなかったけど、彼の経験には随分助けられた。最後の打ち合わせでもいつものように意見が対立して、礼を言う機会を逸してしまったのが少し残念だ。

 火砲の轟音が鳴り響き、司令部ビルが大きく揺れる。Jブロック以外の場所にも突破口を開こうとしているのだろう。死の恐怖に動悸、冷や汗、息苦しさなどがこみ上げてくる。後悔のないように死にたいという思いが俺の正気をギリギリで保たせていた。

「こちら、Kブロックの第二警備中隊。多数の敵の進入を確認。戦闘状態に入ります」
「第五歩兵中隊はPブロックを放棄して、Lブロックに後退します」

 手元にある野戦用携帯端末からは、敵の前進と味方の後退を伝える通信がひっきりなしに入ってくる。司令部から送られてくる簡易戦術図では味方を示す青のブロックが敵を示す赤にどんどん塗りつぶされている。迎撃を指揮するラッカム少将はブロック放棄以外の指示はほとんど出していない。守りに自信があると言ってたわりには諦めが早過ぎるんじゃないかと思わないでもないけど、敵を引きずり込みながら戦力を集中しようとしているのかも知れない。

 司令部ビル内の戦闘が始まった2時間後には21階まで制圧されていた。中央司令室がある24階まで敵が上がってくるのも時間の問題だろう。1個中隊よりやや大きい程度の規模まで減少したファヒーム少佐の部隊は、他の部隊とともに22階で戦っている。

「こちら司令部。22階にいる部隊は後退して、23階に集結してください」

 野戦用携帯端末からラッカム少将の指示が飛ぶ。21階を放棄してから5分も経っていないのにまた放棄というのはさすがに早過ぎるんじゃないかと感じる。21階の放棄指示は20階を放棄した7分後に出た。後退が完了していないうちに新たな放棄指示を出しているせいで、かなりの兵が取り残されて戦力を無駄にしてしまっている。ラッカム少将の指揮は素人の俺から見ても拙劣に見えた。名参謀も指揮官としては無能だったということなのだろうか。一矢を報いようと彼女は言ったけど、このままでは何もできないうちに死んでしまいそうだ。一つ下の階で激戦が展開されていると思うだけで心臓が高鳴り、身震いがする。手元のビームライフルを強く握ると少しだけ震えが収まった。

「こちら司令部。23階にいる部隊は後退して、24階に集結してください」

 今度は22階を放棄してから3分後の指示。あまりに早すぎる。まだ22階で戦っている部隊も多いはずなのに何を考えているんだろうか。いずれにせよ、これ以上の後退は無いはずだ。この階の中央司令室を失ったら組織的抵抗ができなくなる。ここが俺の死に場所になるだろう。

「中隊長、戦闘準備」

 不安で喉が詰まりそうだが、かろうじて声を絞り出して中隊長のデュポン大尉に指示を出す。本来の指揮官を尊重すると言う名目でデュポン大尉に指揮を委ねているが、実戦ができないことを隠す言い訳であるのは言うまでもない。

「了解いたしました!」

 俺よりちょっと年長のデュポン大尉は張りのある声で答えると、きびきびと部下に指示を出している。彼は俺が役割分担をわきまえて指揮に口を出そうとしないと勘違いしているらしく、申し訳なくなるぐらいに張り切っていた。通路の奥から銃声が聞こえてくると、デュポン大尉が直接率いる2個憲兵小隊は射撃の構えを取った。あの向こうでは味方が必死の戦いを続けているのだろう。最初で最後の戦いの始まりが近づくにつれて、胸の高鳴りがどんどんひどくなっていく。

「隊長代理殿!」

 デュポン大尉の叫び声で、自分が駆け出していたことに気づいた。視界に敵と揉み合う味方の背中が近づいてくる。緊張に耐え切れなくなった俺は無意識のうちに飛び出してしまっていたのだ。戻ろうと思っても足が止まらない。クリスチアン中佐に指摘された弱さが最悪の場面で顔を出してしまった。

「総員突撃!隊長代理殿を死なせるな!」

 号令とともに大勢の駆け足の音がする。整然と敵を迎え撃つ用意をしていたデュポン大尉の部隊だったが、俺を救おうと突撃を開始したのだ。4=2基地の憲兵隊の最高指揮官は俺だから、デュポン大尉にどんな作戦があっても、俺が動いたらご破算にして従うしかない。残り数十分の命だからどんな死に方をしようと関係ないはずなのに、忠実な部下を巻き込んでしまったことに強い自己嫌悪を感じた。

 胸の中に広がっていく後悔を振り払うようにひたすら走り続け、気が付くと敵中に躍り込んでいた。大部隊が押し寄せてきたとばかり思っていたのに、意外と数が少ない。足を止めずにビームライフルを構えて引き金を引く。銃身から光の束が迸るたびに敵が倒れていった。こんな心理状態でも体で覚えた技術は裏切らないらしい。3メートルほど先にいる敵兵3人が俺に銃口を向けたが、一瞬で全員を仕留める。後に続くデュポン大尉らの援護もあって、一時的に敵を押し戻すことに成功した。ここまで来たら、今さら後戻りなどできない。俺は前方に向かって走りながら、ひたすら敵を撃ち倒し続けた。

 俺とデュポン大尉率いる憲兵は突撃を続けたが、やがて分厚い敵兵の壁に阻まれた。どれだけ撃ち倒しても敵は減るどころか数を増やしていく。俺の周囲にいた味方は1人、2人と倒れていき、気が付くと5人しか残っていない。デュポン大尉の姿もいつの間にか見えなくなっている。ビームライフルのエネルギーも切れかけていて、これ以上の戦闘継続は不可能だろう。ビームライフルは実弾武器と比べると動き続けている相手には狙いをつけにくいという欠点があるが、数を揃えて撃ちまくって動ける範囲を狭くしてやればどうということはない。装甲服の肩に敵のライフルから放たれた光線がかする。

「あーあ、もうおしまいか」

 あれほど死ぬのが怖かったのに、本当に死が迫ったら意外とあっさりしたものだった。あまりに怖がりすぎて、いざとなったら白けてしまったのかもしれない。敵の射撃が今度はヘルメットにかする。次に当たったらおしまいだな。何度も何度も都合よくかするわけもない。アンドリュー、クリスチアン中佐、イレーシュ少佐、ドーソン中将、ルシエンデス曹長、カウリ軍曹、リンツ、ヨブ・トリューニヒト、シェーンコップ中佐、その他これまで世話になった人達…。いろんな人の顔が脳裏に浮かんでは消えていく。もう会えないと思うと寂しい。

「こちらにおられましたかっ!」

 後ろから聞こえるファヒーム少佐の声が俺を現実に引き戻す。ちらっと後ろを見ると、ファヒーム少佐を先頭に数十人の兵士が援護射撃をしながらこちらに向かってくる。敵も応戦しているが、援軍の射撃の前にバタバタとなぎ倒されていった。憲兵の射撃技術ではここまで命中させることはできないはずだ。不思議に思っていたが、ファヒーム少佐の横にいる人物の顔を見て納得がいく。シェーンコップ中佐の腹心であるライナー・ブルームハルト中尉。つまり、この階にいたローゼンリッターの小隊が憲兵と一緒に援軍に来たのだ。

「司令部より後退命令が出ております!早く25階まで後退してください!」
「後退命令!?」
「10分前に出ました!この通路以外の我が軍は撤収完了しておりますぞ!」

 ちらっと時計を見ると、23階の放棄命令が出てから11分が経っている。驚くべきことにラッカム少将は1分で中央司令室放棄を決定したらしい。いったい何を考えているんだろうか。いや、我を忘れて突撃して命令を聞き逃した俺が言っていいことではないな。

「ブルームハルト中尉、隊長代理殿の援護をお願いしたい。我らは敵を食い止める」
「了解しました。エーゼルシュタイン軍曹、貴官の分隊はここに残ってファヒーム少佐らを援護せよ」
「不要だ。ローゼンリッター1人は一般兵10人にまさる。隊長代理殿の力になってもらいたい。我らの指揮官なのでな」
「憲兵だけで大丈夫ですか?」
「貴官らが後退するまでの時間ぐらいは稼いでみせる。いざとなれば、これを…」

 ファヒーム少佐は手に乗せた何かを見せると、ブルームハルト中尉は大きく頷いから敬礼をした。何を手に乗せているのか、この角度からは見えない。ただ、二人の表情から少佐が命を賭けるつもりであるのはわかった。何かとつっかかってきて鬱陶しい人だったけど、気づいてみたら世話になりっぱなしだったな。

「ファヒーム少佐、あなたには本当に…」
「次に指揮官を務められる際は、いたずらに勇を好まれませぬよう」

 礼を言おうとする俺を遮って一言だけ言うと、ファヒーム少佐はビームライフルを構えて銃撃戦に加わった。いたずらに勇を好むな、か。俺がなんで後退命令を聞き逃したのかわかっていたんだな。それなのに助けに来てくれた。

「行きましょう」

 ブルームハルト中尉に促された俺はファヒーム少佐に敬礼すると、ローゼンリッターと一緒に中央司令室に向かって走り出す。せいぜい残り数十分の命だけど、今の少佐の背中を死ぬまで忘れたくないと思った。しばらく走っていると、廊下に50人ほどの敵が集まっているのが見える。ローゼンリッターの半数がトマホークを抜いて突撃し、残り半数が援護射撃をすると、たちまち敵は蹴散らされていく。倍近い敵に躊躇なく突っ込んでいく勇気、あっさり蹴散らしていく桁違いの強さのいずれもこの世のものとは思えない。ローゼンリッターに守られながら25階に上がる階段の最初の段に足を乗せた瞬間、俺達が来た通路の方向から大きな爆発音が聞こえた。何が起きたのかは考えるまでもない。泣きそうになったけど、辛うじてこらえた。 

 

第三十七話:死線の果てに見た獅子 宇宙暦794年4月6日夜 ヴァンフリート4=2基地司令部ビル

 ファヒーム少佐らの犠牲で24階を脱出して25階に上がる階段を最上段まで登ったところで、下から大勢の人間の足音が駆け上がってくる足音が聞こえた。振り向くと、階段を埋め尽くすような数の敵兵が押し寄せている。

「フィリップス少佐、ここは小官達に任せて上へ!」

 ブルームハルト中尉はゼッフル粒子散布器を取り出してスイッチを入れると、トマホークを抜く。部下達もそれにならってトマホークを抜いて登ってくる敵に立ち向かう。俺は深々と頭を下げると、25階の廊下に出て駆け出した。任務達成どころか生存も絶望的になってしまったが、せめて最後まで命令を貫く努力をして、やるだけのことはやったと思って死にたい。さっきのような真似をしてしまったら、死んでも死にきれない。せめて、この建物にいる3人の将官のうちの1人でも確保しよう。

 25階だとすぐ敵が乗り込んでくるかもしれないと思って30階まで上がる。エレベーターが止まっていたので階段を使った。装甲服を着て駆け上っているのに疲れを感じない。どんなに鍛えられた人間でも装甲服を着たまま動けるの2時間が限度だそうだが、まだまだ余裕があるみたいだ。人気のない場所を探していると、女子トイレが視界に入った。こんな場所に誰かが隠れているとは思えないけど、念のためにハンドガンを構えて警戒しながら侵入する。

 ポケットからメモ用紙を取り出して「故障中」と書いて一番奥の個室の扉に貼り付けてから、中に入って鍵を掛ける。個室に入って落ち着いた俺は、野戦用携帯端末でセレブレッゼ中将、カルーク少将、ラッカム少将の三人との交信を試みた。全員にそれぞれ十回ほど通信を送ったが、返事がない。これで終わりにしようと思ってセレブレッゼ中将に十一回目の通信を送ったところ、反応が返ってきた。

「司令官閣下、聞こえますか?こちらはエリヤ・フィリップス少佐です」
「今、どこにいる?」
「30階です」
「私は27階だ。早く来てくれ」
「27階のどちらですか?」
「資材課の近くだ。とにかく早く来てくれないか」

 不安に駆られてシェーンコップ中佐に電話した時のような弱々しい声。司令部ビルに敵が突入してくるまではセレブレッゼ中将の弱さを不甲斐ないと思っていたけど、取り乱して突撃してしまった今では共感に近いものを感じる。あんな状況で落ち着いていられる方がまともじゃない。

「了解いたしました。これからお迎えに上がります」
「おお、待っているぞ」

 セレブレッゼ中将の声に生気が戻った。司令部に憲兵を入れた俺に対して非好意的だった彼だけど、喜んでもらえると嬉しくなる。これまでの敵の勢いから考えると、もうすぐ30階まで到達するだろう。1人で27階まで下りるのは不可能に近いけど、司令官を助けに行って死ぬのなら格好は付く。最後に使う武器となるであろうハンドガンを握り締めて階段を下りた。

 29階から降りる途中で何回か敵と遭遇したが、どの敵も2人から5人程度の小集団に過ぎず、物陰に隠れてやり過ごすことができた。24階で遭遇した敵に比べると、数もやる気も比べ物にならないぐらい少ない。散発的に銃声が鳴っていて、戦闘も続いているようだ。階段で28階から27階に降りると、出会い頭に2人組の敵兵に出くわす。緩慢な動作でビームライフルを構えようとする敵の手をハンドブラスターで撃ちぬく。ライフルを落とした敵に間合いを詰めながら接近して、右側の敵の首に右腕を引っ掛け、左側の敵の手首を掴んで同時に転倒させた。いずれも同盟軍のオフィシャルな徒手格闘テクニックだが、こんなに鮮やかにきまったのは、0.25Gという低重力のおかげだろう。床に転がっている敵に何発かハンドブラスターを撃ちこむと、資材課のある区画を目指して全力で廊下を走り抜ける。

 資材課がある区画は通常照明が壊れたのか、非常用の薄暗い赤色灯が灯っていてとても視界が悪い。この辺りでも散発的に銃声が聞こえていた。セレブレッゼ中将を探していると、帝国軍の装甲服を着た人物が同盟軍の気密服を着た人物をハンドブラスターで狙っているのが見える。気密服を着た人物は敵兵を見ているが、何の反応も示していない。こんな時だけど、同盟軍の仲間を放っておく訳にはいかない。俺はハンドブラスターを抜くと、敵兵に向けた。

「銃を捨てて手を上げろ」

 俺が帝国語で勧告すると敵は俺の方を向いたが、ハンドブラスターを捨てようとしない。俺の帝国語が下手くそすぎて伝わらないんだろうか。

「もう一度言う。銃を捨てて手を上げろ」

 念のために再度勧告したけど、相変わらず敵はハンドブラスターを手離さない。言葉が通じるまで話し続けるのもめんどくさいから、さっさと手でも撃ち抜いてしまおうと思って引き金に手をかけた瞬間、敵はピュッと鋭く腕を振った。右手に何かがぶつかって鋭い痛みが走り、ハンドブラスターを落としてしまう。重いものがぶつかったような感触からして、ハンドブラスターを投げつけられたみたいだ。右手の痛みを堪えながら構えを取ろうとすると、いつの間にか間合いを詰めてきた敵のタックルを受けて転倒してしまった。

 敵はあっという間にマウントポジションを取った。薄暗い照明のせいで顔ははっきりと見えないが、端整な顔立ちをした若者のようだ。貴族の子弟だろうか。同盟軍ではマウントポジションからの抜け方もオフィシャルテクニックとして教えている。不意を突かれたけど、まだまだ逆転の余地はあるはずだ。隙を見て手足の自由を確保してマウントポジションを抜けようと試みた。しかし、相手は左腕と足を巧みに使って俺の手足を完全に抑えこみ、まったく隙を見せようとしない。ローゼンリッターと双璧をなす精鋭と言われる第8強襲空挺連隊屈指の徒手格闘の達人と組み手をした時以来の経験だ。敵は俺のこめかみに拳を浴びせかけてくる。装甲服の防御力を持ってしても、脳を揺さぶられたらダメージは避けられない。腕の関節や首といった装甲服の接合部にも拳を打ち込まれた。敵の攻撃は俺の肉体ではなくて意志を打ち砕こうとしているかのように鋭く正確だ。放つ者の強靭な意志を体現したかのような拳が一発入るたびに俺はぶざまに悲鳴をあげる。

「殺される…」

 そう確信した時、涙が流れた。さっきは敵の銃撃に晒されても全然怖くなかったのに。ああ、そうか。怖いのは死ぬことじゃなくて、無力なことなんだ。今の俺は徹底的に無力感を味わわされている。ボーっと見てるだけでちっとも助けてくれない気密服の人の存在も無力感をかきたてる。

「大丈夫か!」

 公用語の叫びか聞こえると同時に複数の光条が俺の上を通り過ぎて行った。敵は俺を解放すると素早い動きで銃撃をかわしながら、さっき俺に投げつけたハンドブラスターを拾って応射する。芸術的なまでに動きに無駄がない。この人物は徒手格闘のみならず、射撃にも長けているようだ。貴族の子弟とばかり思ってたけど、帝国の特殊部隊に所属する近接戦闘全般のプロフェッショナルなのかも知れない。

「味な真似をしてくれるな。だが、貴族の飼い犬ごときがローゼンリッターに勝てると思うなよ」

 上半身を起こすと、同盟軍の装甲服を着た3人の男がビームライフルを構えている。助かった。いかに目の前の敵が近接戦闘の天才であっても、ローゼンリッターの隊員3人を敵に回しては勝ち目がない。敵がジリジリと後退すると、その後方から驚くほど背が高い人影が走り寄ってきた。帝国軍の装甲服を着ている。

「ラインハルト様!」

 ラインハルト?そういえば、獅子帝ラインハルトは現実の歴史ではヴァンフリート4=2基地攻防戦に参加してたっけ。盟友のジークフリード・キルヒアイスは長身で知られていた。つまり、あの徒手格闘の達人は…。

「キルヒアイス!」

 何度もソリビジョンで聞いた声だ。獅子帝ラインハルト・フォン・ローエングラム。人類史上、唯一武力による人類世界の統一を成し遂げた不世出の覇王。同盟末期からローエングラム朝にかけての時代を生きた俺には忘れようもない英雄。戦争の天才というよりは闘争の天才で、勝負と名のつくもので人に遅れを取ることはほとんどなかった。近接戦闘にかけても天才的な技量を持ち、政敵から差し向けられた刺客を何度と無く撃退したという。盟友ジークフリード・キルヒアイスはラインハルトをも上回る近接戦闘能力を持ち、現実の歴史では同盟末期からローエングラム朝成立に至る動乱期における最強の戦士の一人と評されていた。

 この時間軸ではラインハルトはミューゼル姓を名乗る帝国の高級士官の一人、キルヒアイスはその副官にすぎないはずだが、それでも俺ごときの最期を飾るには豪華すぎるキャストだろう。現時点では簒奪の機会が巡ってくるかどうかもわからない。だが、政戦両略の天才にして皇帝の寵愛も深い彼が栄達してゴールデンバウム朝の重臣になる可能性はきわめて高い。こんな大物が俺の人生に幕を引いてくれるなら格好もつくというものだ。そこまで考えて、ひとつの可能性に思い当たる。彼を殺したら、もっと格好がつくんじゃなかろうかということだ。戦いに敗れて任務も達成できないまま死んでしまっても、将来を嘱望される皇帝の寵臣を道連れに殺せば帳尻は合うかもしれない。そんな誘惑にかられた俺は痛む体を必死で動かして、ラインハルトの投擲で叩き落とされたハンドブラスターに手を伸ばす。

「一人が二人に増えても同じことだ。ホイス、シュレーゲル。行くぞ」
「了解です、ウィンクラー中尉」

 ローゼンリッターの3人はトマホークを構えると、同時にラインハルトとキルヒアイスに飛びかかった。キルヒアイスはトマホークを抜いて応戦し、ラインハルトはハンドブラスターで援護射撃をする。何の打ち合わせもしていないのにすばらしく息の合った連携だ。本当の意味で一心同体となっている2人に見とれてしまいそうになるが、この機を逃せばラインハルトを殺せなくなる。腕の痛みが酷く、意識も朦朧としていたが、辛うじてハンドブラスターを握ってラインハルトに狙いをつける。当たっても当たらなくても笑って死ねる。思い残すことはない。

「今だ」

 引き金を引こうとした瞬間、頭がグラグラして手の力が抜けてハンドガンを落としてしまった。こめかみを殴られたのが響いていたのだろう。飛びかかったローゼンリッターの3人はラインハルトの銃撃で勢いを殺され、キルヒアイスの斬撃であっという間に物言わぬ死体となる。彼らの美しい戦いぶりに体が震えた。死の恐怖とかそういうものとはまったく別の震え。一瞬、神という言葉が頭のなかをよぎる。彼らは俺なんかが行き掛けの駄賃に手を出していい存在ではないということを思い知り、唇を強く噛みしめる。

「クソっ…」

 心の底から悔しさが込み上げてきた。人生をどこか他人事のように感じていたから、こんなことになってしまったのではないか。逃亡者にならなかった人生というアナザーワールドではなく、メインワールドとしてこの世界を捉えるべきではなかったか。失敗続きだった人生のやり直しではなく、本当の人生として生きるべきだったのではないか。自分はこの世界で出会った人達に不誠実に向き合っていたのではないか。そんな思いが涙となって両目からあふれ出す。

 ラインハルトとキルヒアイスは確実に俺を殺すはずだ。残り数十秒の人生だけど、格好良く死ぬぐらいなら格好悪く生きたかった。格好悪くて馬鹿で不誠実な俺だったけど、そんな俺にもこの世界は結構優しかった。

 頭が再びグラグラ揺れて、意識が薄れていき、上半身がバタンと倒れて視界が真っ暗になる。殺される瞬間に意識が無いなんて、なんか俺らしい。俺は俺を最後まで好きになれなかったけど。

「ラインハルト様は既に武勲を立てられました。撤退命令も出ています。この場所に留まる意味はありません」
「お前の言う通りだ。欲張ってもしかたがない」

 そんな声がかすかに聞こえたが、朦朧とした頭では何を言っているのか理解できなかった。 

 

第九章 憲兵の休日
  第九章開始時人物設定

主人公
エリヤ・フィリップス 26歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少佐
役職:憲兵司令部付
性格:小心で卑屈。素直で真面目な優等生。努力を楽しめる。仕事熱心。自己評価は低い。
容姿:子供っぽい容姿。身長は平均よりやや低い。爽やか、絵になるなどと言われているが、以前は冴えなかったと言われる。
能力:事務処理能力が高く、法律に通暁している。管理職としては公正。コミュニケーションは苦手だが、対人関係に細やかな気配りを見せる。射撃の達人。実戦経験が浅いのが難点。
略歴:ヴァンフリート4=2基地司令部メンバーの拘束命令を受けるも、戦闘に巻き込まれて重傷を負って入院中。前の人生ではアーサー・リンチに従ってエル・ファシルから逃亡したことがきっかけで転落した。
史実:登場せず。

重要人物
クレメンス・ドーソン 44歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中将(第七章終了時点)
役職:憲兵司令官(第七章終了時点)
性格:異常なまでに神経質で几帳面。わかりやすい善を好み、わかりやすい悪を嫌う小市民的な心情の持ち主。
容姿:エリヤと同程度の身長。ひげがトレードマーク。
能力:抜群の実務能力を持つ。陣頭指揮を好み、現場に口を出したがる。政治力も極めて高い。
略歴:憲兵司令官として、綱紀粛正に手腕をふるる。現在は帝国憲兵隊と合同でサイオキシン麻薬組織壊滅作戦を展開している。
史実:自由惑星同盟軍の末期状態を象徴する無能な指導者。
初出:二十三話

ヨブ・トリューニヒト 39歳 男性 オランダ系
職業:自由惑星同盟軍代議員(第七章終了時点)
役職:改革市民同盟幹事長(第七章終了時点)
性格:気さくで人懐っこく、人の心にすっと入り込んでいく。
容姿:俳優のような美貌。スポーツで鍛え上げた長身。人懐っこい笑顔。卓越したファッションセンス。
能力:巧みな話術の持ち主。派手なパフォーマンスを用いた大衆煽動のみならず、個人を対象とした人心掌握にも優れる。
略歴:主戦派の若手指導者。ドーソン中将と親しく、エリヤに関心を持っている。
史実:自由同盟末期の最高評議会議長。保身の怪物という評価と、単なる無能という評価がある。同盟滅亡後も暗躍を続けた。
初出:二十九話

親しい人
アンドリュー・フォーク 24歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第七章終了時点)
役職:宇宙艦隊司令長官副官(第七章終了時点)
性格:真面目で謙虚。社交性が高い。
容姿:長身でハンサム。
能力:士官学校を首席で卒業した秀才。リーダーシップ、運動能力も高い。白生戦技、射撃術も達人級。
略歴:エリヤの友人。ロボス大将に引き立られて、副官に登用された。エル・ファシル義勇旅団長を務めていた頃に親しくなった。
史実:帝国領侵攻作戦を立案して同盟軍を壊滅に導き、テロリストとしても同盟の足を引っ張った愚劣な人物。
初出:第二十話

エーベルト・クリスチアン 40代 男性 ゲルマン系
階級:自由惑星同盟軍中佐(第九章開始時点)
役職:第百七十七歩兵連隊長(第九章開始時点)
性格:軍隊を家族と考えている。剛直だが人情に厚い好漢。単純明快な物言いを好む。
容姿:背はさほど高くないが、肩幅と胸板が厚い。いかつい顔に不機嫌そうな表情。
能力:勲章受章経験のある勇者。食事と睡眠の重要さを理解していて、部下の待遇改善に熱心。
略歴:陸戦隊出身。エル・ファシルの英雄になったエリヤの広報担当を務めた時に親しくなった。エリヤが職業軍人になるきっかけを作った人物。ヴァンフリート4=2基地の戦いで奮戦した。
史実:救国軍事会議メンバーとしてスタジアムの虐殺を引き起こした。
初出:第八話

イレーシュ・マーリア 31歳 女性 マジャール系(姓が前、名が後に来る)
階級:自由惑星同盟軍少佐(第五章終了時点)
役職:第三艦隊所属の駆逐艦艦長(第五章終了時点)
性格:とっつきにくい外見とは裏腹に思いやりがある。
容姿:180センチを越える長身。非の打ち所のない美形。眼力が異常に強い。不機嫌そうな表情。
能力:対人観察力が高い。熱心な教育者。
略歴:士官学校卒のエリート。幹部候補生養成所を受験するエリヤの学力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ワルター・フォン・シェーンコップ 30歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍中佐(第九章開始時点)
役職:ローゼンリッター連隊長代理(第九章開始時点)
性格:言動と女性関係は奔放。大胆不敵で反骨精神旺盛。服従心、忠誠心とともに希薄。危険人物の中の危険人物。
容姿:貴族的な美貌。優雅な物腰。
能力:大部隊の組織的運用と少数精鋭部隊による強襲戦術の両方に長ける。部隊運営能力、指導力も高い。部下を心酔させるカリスマも持つ。身体能力、戦闘技術、勇猛さを兼ね備えた自由惑星同盟軍最高の戦士でもある。政治的な駆け引きも巧みで付け入る隙がない。
略歴:ヴァンフリート4=2基地で知り合った。エリヤをからかうのを楽しんでいたが、司令部ビルの戦闘では腹心のブルームハルトを援軍につけてくれた。
史実:同盟末期最高の地上部隊指揮官。ヤン・ウェンリーの事実上の私兵隊長として活躍した。
初出:第三十一話

カスパー・リンツ 24歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍大尉(第八章終了時点)
役職:ローゼンリッター第一大隊運用訓練主任(第八章終了時点)
性格:気さくだが、やや屈折している。
容姿:脱色した麦わらのような髪に青緑色の瞳を持つ美男子。
能力:白兵戦技と射撃術の達人。絵と歌がうまい。
略歴:幹部候補生養成所時代の唯一の友人。ローゼンリッター幹部シェーンコップ中佐の片腕。
史実:ワルター・フォン・シェーンコップの片腕。ローゼンリッター最後の連隊長。
初出:第十六話

バラット 男性 タイ系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第三章終了時点)
役職:第七方面管区シャンプール基地教育隊体育教官(第三章終了時点)
性格:単純熱血。太っ腹。
容姿:がっちりした体格。猛犬のような印象。
能力:トレーニング指導のプロ。
略歴:陸戦隊出身でクリスチアンの元部下。幹部候補生養成所を受験するエリヤの体力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ルシエンデス 30代 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍曹長(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:ざっくばらん。
容姿:小綺麗な身なり。
能力:軍服を着た人を撮影すれば、右に出る者はいない。
略歴:統合作戦本部広報室のカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

ガウリ 30前後 女性 インド系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:気さく。
容姿:小綺麗な身なり。
略歴:統合作戦本部広報室のスタイリストカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

家族
ロニー・フィリップス 50歳 男性 アングロサクソン系
職業:パラディオン市警の警察官(第二章終了時点)
性格:善良でお調子者。
略歴:エリヤの父。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

サビナ・フィリップス 49歳 女性 チェコ系
職業:看護師(第二章終了時点)
性格:心配症でおせっかい。
略歴:エリヤの母。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ニコール・フィリップス 28歳 女性 アングロサクソン系
職業:ジュニアスクールの非常勤講師(第二章終了時点)
性格:しっかり者。
略歴:エリヤの姉。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

アルマ・フィリップス 21歳 女性 アングロサクソン系
職業:ミドルスクールの生徒(第二章終了時点)
性格:甘えん坊の食いしん坊。
略歴:エリヤの妹。空気の読めないメールを送っては、エリヤをいらだたせる。前の人生ではエリヤに懐いていたが、逃亡者になると最も激しく拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

同級生
ミロン・ムスクーリ 26歳 男性 ギリシャ系
性格:爽やかなスポーツマン。
容姿:大男。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。元フライングボール部のスター。前の人生では極右団体の構成員。逃亡者になったエリヤを迫害した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ルオ・シュエ 26歳 女性 チャイナ系
容姿:丸顔。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の数少ない友達。前の人生では、逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

フーゴ・ドラープ 26歳 男性 チェコ系
性格:誰にでも優しい。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。信望が厚く、クラス代表を務めた。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

その他知り合い
ラザール・ロボス 56歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍元帥(第七章終了時点)
役職:宇宙艦隊司令長官(第七章終了時点)
性格:豪放で大らか。社交的な性格。
容姿:小柄でどっしりとした肥満体。将帥にふさわしい威厳の持ち主。
能力:リスクを厭わず、大胆に仕掛ける用兵に定評がある。対人調整や政治的な折衝にも長ける。人の心に入り込むのがうまい。雑務が苦手。
略歴:同盟軍きっての名将。ヴァンフリート星域の戦いでは精彩を欠いた。
史実:帝国領侵攻に失敗して、同盟軍を壊滅に追い込んだ愚将。
初出:第十八話

シンクレア・セレブレッゼ 48歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍中将(第八章終了時点)
役職:中央支援集団司令官、後方勤務本部次長(第八章終了時点)
性格:パワフルで自負心が強く、妥協を嫌う。攻勢に強いが、守勢には極端に弱い。
容姿:学者のような風貌。
能力:後方支援システムの構築と運営に卓絶した力量を持つ。リーダーシップにも長けていて、後方支援のプロ集団チーム・セレブレッゼを築き上げた。
略歴:同盟軍後方部門の司令塔。ヴァンフリート4=2基地攻防戦では、慣れない実戦指揮で醜態を見せた。ラインハルトに捕らえられそうになったが、エリヤが注意を引きつけたおかげで助かった。
史実:ヴァンフリート4=2基地の戦いで帝国軍の捕虜となった。
初出:三十五話

エマヌエーレ・カルーク 53歳 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第八章終了時点)
役職:中央支援集団副司令官(第八章終了時点)
性格:臆病で無責任。
容姿:企業の重役を思わせる恰幅の良さ。
能力:同盟軍最高の補給専門家。危機管理能力に長けた超一流の指揮官。
略歴:セレブレッゼ中将の片腕。ヴァンフリート4=2基地攻防戦では、口実を付けて戦闘に参加しなかった。
史実:登場せず。
初出:三十五話
出:三十五話

エイプリル・ラッカム 48歳 女性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第八章終了時点)
役職:中央支援集団参謀長(第八章終了時点)
性格:温和でユーモアがある。
容姿:小太り。そこらのおばさんっぽい。
能力:コミュニケーション能力が高い。対人関係の調整に長けている。
略歴:セレブレッゼ中将とは士官学校以来の盟友。ヴァンフリート4=2基地攻防戦では、セレブレッゼ中将に代わって指揮を取ったが、拙劣に過ぎて敗北した。
史実:登場せず。
初出:三十五話

ファヒーム 死亡時は50代後半 男性 アラブ系 故人
階級:自由惑星同盟軍少佐(第八章終了時点)
役職:ヴァンフリート4=2基地憲兵副隊長(第八章終了時点)
性格:横柄で口やかましいが、仕事には誠実。
容姿:短い白髪、鋭い目つき。
能力:実務に長けたベテラン。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で取り乱して突出したエリヤを救出した。時間稼ぎのために踏みとどまって戦い、壮烈な戦死を遂げる。
史実:登場せず。
初出:三十五話

カーポ・ビロライネン 33歳 男性 フィンランド系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団参謀長(第五章終了時点)
性格:真面目だが、他人の心情への配慮に欠けるところがある。
容姿:神経質で気難しそうな容姿。実年齢より5年は老けて見える。
能力:実務能力は極めて優秀。情報宣伝にも長けている。
略歴:ロボス大将の懐刀。エル・ファシル義勇旅団ではエリヤを棚上げして、実権を掌握した。
史実:帝国領侵攻作戦の情報主任参謀。
初出:第十九話

マリエット・ブーブリル 35歳 男性 フランス系
階級:義勇軍中佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団副旅団長(第五章終了時点)
性格:外面は良いが、自己中心的で気性が激しい。自己顕示欲が強い。
容姿:上品で優しげな美貌の持ち主。実年齢より5年は老けて見える。
能力:カメラの前では、嫌いな相手に対しても親友のように振る舞える演技の達人。
略歴:元従軍看護師で勲章も持っているが、世間的な知名度は低い。エル・ファシル義勇旅団ではトラブルメーカーだった。
史実:登場せず。
初出:第十九話

ヤン・ウェンリー 26歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第二章終了時点)
性格:冷静沈着。責任感が強い。整理整頓ができない。他人の期待通りに振る舞うことを嫌う。
容姿:ハンサムだが、身なりに無頓着なせいで冴えないように見える。
能力:頼りなさそうな風貌とは裏腹に、有能で精力的な指揮官。
略歴:士官学校卒のエリート。エル・ファシル脱出作戦を指揮した真の英雄。メディア受けしないコメントを連発したせいで、人気は盛り上がらなかった。
史実:自由惑星同盟末期最高の名将。生涯不敗を誇った用兵の天才。
初出:第五話

アーロン・ビューフォート 男性 アングロサクソン系
階級:中佐(第二章終了時点)
性格:さっぱりした性格。本当の意味での大人。
容姿:30半ばに見える。
略歴:エル・ファシル脱出船団旗艦の艦長。エリヤに絡まれたが、大人の対応をして泣かせた。
史実:大親征でビッテンフェルトを迎撃した。
初出:第七話

フランチェシク・ロムスキー 30代 男性 ポーランド系
職業:エル・ファシル市会議員、内科医師(第二章終了時点)
性格:気さくだがやや軽率。
容姿:大柄。
略歴:エリヤをエル・ファシル星系政庁に連れて行った。
史実:同盟から独立したエル・ファシル独立政府の主席を務めた。
初出:第三話 

 

第九章 憲兵の休日
  第三十八話:病床で考える偶然の意味 宇宙暦794年4月14日 ヴァンフリート4=2基地病院

 信じられないことだが、ヴァンフリート4=2基地は占領を免れた。セレブレッゼ中将がダメ元で出した救援要請を受けた同盟軍第五艦隊が4=2付近に姿を現し、衛星軌道上からの攻撃されることを恐れた敵は攻略を断念して撤退したのだ。戦場は宇宙空間に移り、現在は4=2から離れた宙域で艦隊戦が続いている。

4=2基地の同盟軍は曲がりなりにも勝利を収めたことになるが、人的にも物的にも大損害を被った。基地施設は深刻な損害を受けて、後方基地としての機能をほぼ喪失している。倉庫群が破壊されて備蓄物資の大半が灰燼に帰した。整備業務集団司令官リンドストレーム技術少将の戦死が確認され、参謀長ラッカム少将と輸送業務集団司令官メレミャーニン准将が戦闘中に行方不明になり、佐官級の幹部も多く失われた。総司令部は4=2基地の放棄を決定して、現在は司令官セレブレッゼ中将の指揮のもとで撤収作業が行われている。

 現在の俺は4=2基地病院に入院して、ハイネセンへの移送を待つ日々だ。ラインハルトとキルヒアイスは撤退命令を聞いて立ち去ったおかげで何とか命は助かったもののかなり危険な状態だった。医療班が駆けつけた時の俺は脳震盪による意識障害を起こしていて、医師の質問にもまともに答えられなかった。吐き気、頭痛、手足のしびれなども併発しており、医療班の到着が遅れたら後遺症が残っていた可能性もあったという。肘関節や鎖骨も酷く損傷していて、こちらは全治3ヶ月と診断されている。絶対安静が解けたのは、ヴァンフリート4=2基地攻防戦が終結した8日後の4月14日だった。

 俺の指揮下にあった基地憲兵隊は8個中隊のうち5個中隊が壊滅し、副隊長と中隊長3人が戦死、中隊長2人が重傷という致命的な損害を被った。入院中で指揮を取れない俺は隊長代理を解任され、新たに任命された隊長代理が3個憲兵中隊の増援とともに4=2基地にやってきている。中央支援集団司令部メンバーの拘束命令も新任の隊長代理が引き継いだ。最重要拘束対象だった8人の将官のうちの3人が戦闘で失われてしまっており、俺の任務は完全に失敗したことになる。暴走してファヒーム少佐とデュポン大尉を死なせたことも含め、後悔ばかりが残る任務だった。

 しかし、任務失敗にも関わらず俺の立場は悪くなっていない。それどころか、中佐昇進の話まで出ていた。中央支援集団司令官にして4=2基地司令官でもあるシンクレア・セレブレッゼ中将のおかげだ。ラインハルトにレーザーブラスターを突きつけられていた気密服の人物は彼だった。姓名と階級を名乗るよう迫られていたが、俺がラインハルトと戦ったおかげで捕虜にならずに済んだそうだ。俺の後に駆けつけたローゼンリッターのウィンクラー中尉、ホイス曹長、シュレーゲル軍曹の3人はラインハルトとキルヒアイスに敗死していたため、俺がセレブレッゼ中将救援の功績を独占することになってしまったのだ。

 セレブレッゼ中将は俺に大きな恩を感じているらしく、基地病院で一番良い個室に入れてくれた。基地病院で最も優秀な医師が担当医となり、入院中の食事のメニューは専属の栄養士が作成している。実のところ、セレブレッゼ中将が適切な応急措置をして、撤収中とはいえまだまだ敵がうろついている27階まで医療班を素早く呼んでくれなかったら、後遺症が残った可能性が高いのだ。俺が五体満足でいられるのはセレブレッゼ中将のおかげとしか言い様がないので、VIP待遇には居心地の悪さを感じてしまう。多くの部下を死なせた挙句に自分一人が功労者扱いで厚遇されるなんて許されるのだろうか。


「貴官は武勲を樹てたのだ。恥じることなどあるまい」

 肘の関節を壊されて両腕を使えない俺のためにセレブレッゼ中将から差し入れられたりんごを剥いてくれているのは第百七十七歩兵連隊長クリスチアン中佐。第百七十七歩兵連隊は最も奮戦した部隊の一つだったが、陣頭で指揮していた彼は大した傷も負うことなく生き延びた。

「俺は無茶な突撃や不必要な警告をして二度も死にかけたのに、運がいいだけで生き延びてしまいました。セレブレッゼ中将を助けたっていうのも本当にたまたまです。失敗ばかりなのに運を評価されるのは心苦しいんです」
「馬鹿なことを言うな。運も能力だ。流れ弾で死ぬ奴もいれば、弾幕を何度くぐり抜けても死なない奴もいる。ちょっとしたミスで死ぬ奴もいれば、ミスしても相手がもっと酷いミスをしたせいで死なずに済む奴もいる。その違いは明らかだ。一度や二度なら偶然だが、何度も重なれば立派な能力だ」
「失敗しかしていないのに評価されるって嫌じゃないですか?」

 運が能力だとしても、それは評価されるべき能力なのだろうかと思う。評価というのは努力に対して与えられるべきではないだろうか。俺は最初の人生で努力せずに失敗し、今の人生で努力で道を切り拓いてきた。二つの人生の差って、努力の有無の差ではないか。クリスチアン中佐には言えないことだけど。

「戦場に出た時点で命を賭けているだろう。命を賭ける以上に評価すべきことがどこにある。努力だけで生き延びられるほど戦場は甘くない。運だけで生き延びられるほど甘くもないがな。使えるものは何でも使わないと生き延びられん。戦って生き延びたこと、それ自体に価値があるのだぞ。死んでしまっては、国のために戦えなくなってしまう」
「なるほど…」
「武勲を重ねるには生き延びないといかん。実力で生き延びることもあれば、ミスをしたのに運で生き延びることもある。武勲が多い奴はみんな運も実力もあると思ってよろしい。今回の戦いに納得がいかなければ、次の戦いで納得のいく武勲を樹てろ。それができるのも貴官の運のおかげだ。だから、運は能力なのだ」

 生き延びて武勲を重ねることに意味があるということか。だから、運も能力だと。たくさんの戦場を経験したクリスチアン中佐らしい考えだな。ずっとデスクワークだった俺とは世界が違う。でも、これも実戦を経験したからこそ聞けた話だ。付き合いが長い相手でも立場の変化によって、聞ける話が違ってくるって面白いな。

「貴官はセレブレッゼ中将を捕虜にしようとしていた敵に警告をした理由が自分でもわからないと言っていたな」
「ええ。いきなり撃ったところで敵う相手ではないと思ったんですが、良く考えたら警告して勝率が上がるわけでもないですよね。本当に良くわからないんですよ」

 実のところ、ラインハルトに警告する必要なんてなかったのだ。あれはいきなり撃っても構わない場面だった。普段ならそう判断するはずなのに、あの時判断が狂った理由は自分でも良くわからない。

「敵の運が貴官の判断を狂わせたということかもな」
「それはちょっと理屈になっていないような」
「戦場を動かしているのは理屈ではなくて偶然だぞ?偶然に対処する能力が実力で、偶然を味方につける能力が運だ。貴官と戦った相手はローゼンリッターを一瞬で倒すほど強かったのだろう?よほど激しい戦いを生き抜いた猛者のはずだ。ならば、偶然を味方につけるぐらいはしてのける。そうでなければ、そこまで強くなる前に死んでいる」

 ラインハルトは戦争の天才だったが、幸運に恵まれてきたのも事実だ。不敬罪の無いローエングラム朝では、口の悪い研究者はラインハルトのことを運が良かっただけとか、出会った敵は急に馬鹿になるとか言っていた。人類世界を武力で征服した覇王の天才を疑うなんてくだらないことを言うものだと思っていた。しかし、クリスチアン中佐の話から考えてみると、ラインハルトは運が良かったおかげで激戦を生き延びて濃密な経験を積んで、天才を開花させることができたのかもしれない。非論理的な推論だけど、幾多の激戦を生き延びる運がある彼を、修羅場を踏んだ経験がない俺程度の運では殺せないということなのだろう。クリスチアン中佐の話は非論理的だけど、それだけに経験から得た実感にとても良く馴染む。まさに人生の先輩という感じだ。


「もらえる物はもらっておけば良いではありませんか」

 りんごを勝手に取ってかじりながら朗らかに笑っているのは、ローゼンリッター連隊長代理のシェーンコップ中佐。彼が腹心のブルームハルト中尉と一個小隊を貸してくれたおかげでなんとか生き残れた。今回の戦いでは最もお世話になった人の一人と言っていい。

「大して活躍もしていないですよ。俺の戦いぶり、ブルームハルト中尉から聞いてないんですか?」
「あの時の隊長代理殿の任務は司令部防衛。司令官を救ったことでその3割ぐらいは達成したでしょう。負け戦の中の殊勲にご不満でも?」
「本当に格好悪かったんですよ。部下を無駄死にさせてしまいましたし。あと、俺はもう隊長代理ではありませんよ」
「格好良く戦えば司令部を守り切れましたか?部下を無駄死にさせない指揮が今のあなたにできましたか?隊長代理殿は随分とご自分を高く評価してらっしゃるのですな」

 シェーンコップ中佐の皮肉が突き刺さる。確かに俺1人が格好良く戦ったところで大勢に影響はなかった。俺の能力でまともな指揮ができるわけもなかった。

「おっしゃるとおりです…」
「取れない責任まで取る必要はありません。器量にふさわしい範囲で責任をお取りになればよろしい。取るべき責任を取ろうとしない輩よりは殊勝な心がけですがね」

 勝敗に責任を持てるような器量ではないということか。わかっているけど、シェーンコップ中佐に真向から言われると心に重く響く。海千山千の彼の口から時折放たれる真剣な言葉はこの上なく鋭い刃となる。

「まあ、隊長代理殿は別の責任も負っておいでのようでしたしな。勝敗までは負うのは酷でしょう」

 首筋に刃を突きつけられたような思いがした。彼が何の理由もなく、たっぷりと含みを持たせるような言葉を吐くとも思えない。今回の任務は公にできるような任務ではない。憲兵司令部のみならず、最高評議会や帝国憲兵隊まで絡んでいる一大秘密作戦なのだ。司令部メンバーの拘束も別の名目で行うことになっていた。だからこそ、副隊長のファヒーム少佐にすら内容は明かせなかった。シェーンコップ中佐に尻尾を掴まれるわけにはいかない。

「憲兵は軍規の番人です。楽な仕事ではないですよ。10万人以上の後方支援要員を擁する大基地ですしね」
「その程度の仕事はあなたなら朝飯前でしょう。私的制裁キャンペーンをぶち上げて、パワハラの噂にかこつけて司令部を監視下に置いてのけたあなたにならね」

 背中に冷や汗が流れる。シェーンコップ中佐のペースに乗せられたら、言わなくていいことまで言わされかねない。

「一罰百戒と言うじゃないですか、パワハラの証拠が見つかれば…」
「あなたが司令部を監視下に置いて何をなさろうとしていたのか、小官はとても興味があったんですよ。憲兵が派遣された基地司令部、補給業務集団司令部、工兵団司令部、衛生業務集団司令部、通信業務集団司令部、整備業務集団司令部、輸送業務集団司令部。これらを全部抑えれば、憲兵だけで基地機能を制圧できますからな。一方、司令部の側は点数稼ぎしようとする連中の目に縛られて動きがとれない。まあ、うまくやったものです」

 シェーンコップ中佐はどこまで掴んでいるんだろうか。これ以上口を開くことはできない。この油断ならない人物が現役将官の麻薬密売関与という同盟軍史上屈指のスキャンダルの一端でも掴んだら、どんなことになるか予想もつかない。彼が軍の威信なんてものを尊重する気が全くないことは周知の事実だ。ああ、こんなことを考えてる俺って、まるで悪役みたいだな。

「一兵でも惜しい時に善意でブルームハルトと一個小隊を貸すほど、小官が甘い人間だと思われていたら心外です」

 獲物を取って食べる猛獣のような笑みをシェーンコップ中佐は浮かべる。要するに監視だったということか。ブルームハルトだけじゃない。司令部と逆方向なのに理由もなくコーヒーを飲みに来ていたシェーンコップ中佐と、俺をスケッチに来ていたリンツも。

「偉いさんの弱みの一つも見つかったら面白かったんですがね。どうあがいても、よそ者のローゼンリッターは差別される存在です。足を舐めたくなかったら、恐れられるしかないんですよ。どんな方法を使ってもね」

 かつて、リンツから聞いた話を思い出した。亡命者は無能なら笑い者、有能なら生意気と言われ、生意気じゃなかったら敬遠されるという話だ。有能な亡命者集団のローゼンリッターは生意気と言われるか、敬遠されるしかないのだろう。ワルター・フォン・シェーンコップという稀代の危険人物も亡命者として、ローゼンリッターの一員として足を舐めずに生きる道を模索した結果として生まれたのかもしれない。しかし、そんな立場であれば、こんなことを言うのは無防備ではないだろうか。

「しかし、こんな話を俺にしてもいいんですか?シェーンコップ中佐の立場で言うには、あまりにも不穏当に過ぎませんか?」
「あなたは不穏当なんて理由では動かんでしょう。ご自分の強さがどこにあるか、あなたは良くご存知のはずだ」

 俺は無言でシェーンコップ中佐の言葉に頷いた。彼相手にはごまかしは一切通用しないことを改めて確認させられる。俺の本当の目的も全部見抜いた上で今の話をしていた可能性だってある。

「まあ、全部小官の勘違いかもしれませんがね。若いエリートが功を焦って先走った結果、たまたま基地機能を制圧できるように憲兵を配置してしまった可能性だってあるかもしれません。なにせ、フィリップス少佐はお若いですからなあ。エル・ファシルの英雄として何かと注目される立場では、功績がほしくなるのも無理もないでしょう。ご苦労のほど、お察しいたしますぞ」

 そういうことにしといてやるよと言わんばかりのわざとらしい口調でそう言うと、シェーンコップ中佐は人好きのする笑みを浮かべて立ち上がった。

「ああ、でも。フィリップス少佐がいれたコーヒーがうまかったというのは本当です。再び陣を並べることがあったら、ぜひ飲ませていただきたいものですな」

 うやうやしく一礼すると、シェーンコップ中佐は颯爽とした足取りで病室を出て行った。さんざん翻弄されたけど、それでも格好いいと思ってしまう。この人には何度負けても気持ちよく負けられる。そんな気がした。 

 

第三十九話:生き残った者にできることとするべきこと 794年5月~6月 ハイネセン市、ハイネセン第二国防病院

 俺が病院船に乗ってハイネセンに帰還したのは4月末の事だった。ヴァンフリート星系を巡る戦いは双方ともに決め手を欠いたまま続いていたが、4=2基地を失った同盟軍の補給難は深刻化している。宇宙艦隊総司令部が撤退を検討しているとの報道も流れていた。緒戦で部隊を掌握しきれずに混戦を招いてしまった宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボス元帥の手腕に疑問符を投げかける向きもあるようだ。中佐に昇進して作戦参謀を務めるアンドリューの心労も絶えないことだろう。それに比べると、俺の立場は実に呑気なものだった。

 現在の俺はすべての責任から解放されて、憲兵司令部付の肩書きで給料を受け取りつつ、ハイネセン第二国防病院で入院生活を送っている。実戦では足を引っ張るばかりだったのに偶然セレブレッゼ中将を救ったことで中佐昇進が取り沙汰され、達成できなかった任務も別の人間が引き継いで完了した。セレブレッゼ中将以下の中央支援集団司令部メンバーはハイネセンに撤収する船団の中で査問会召喚という名目で拘束されて、非公式の取り調べを受けている最中だ。

「貴官の責任ではない。今回の任務では4=2基地での戦闘を想定していなかった。武装憲兵抜きであれだけの戦いをしてのけたのだ。良くやったといっていい」

 見舞いに来たドーソン中将はそう言ってくれたけど、それでも気持ちは晴れない。もっとうまくやれたのではないか、死なずに済む部下もいたのではないか。そんな悔いが頭の中でぐるぐる回り続けている。

「良くやったではダメなんですよ。自己満足のために戦ったわけではありませんから」
「本当に貴官は真面目だな。戦闘経過報告も見たが、あれでいいのか?せっかくの武勲に傷がつくやもしれぬぞ?」
「真実を正しく伝えるのが指揮官の責務であろうと、小官は考えます」

 4=2基地に入院している間にブルームハルト中尉の協力を得て、俺の無謀な突撃のせいでファヒーム少佐やデュポン大尉らが死んだ戦闘の経過報告を作成した。それとは別にラインハルトにボコボコにされた戦闘の経過報告も作成している。俺の犯したミス、そのせいで犠牲になった人達の立派な戦いぶりなどを余さず記した。

「しかしだな、これでは昇進選考が不利になる。当事者は全員貴官の昇進を推していることだし、考え直したらどうだ」

 失敗を隠した方が昇進選考で有利になるのではないか、関係者と口裏を合わせることもできるだろうとドーソン中将は示唆している。とかく情に流されがちなのが彼の美点であり、欠点でもある。好み次第で規則を必要以上に厳しく解釈して重い処分を下したり、必要以上に甘く解釈して軽い処分で済ませたりしようとする。麻薬組織のようにわかりやすい悪と戦う時には素晴らしい行動力を発揮できるが、身内の悪に甘くなってしまう。現在の憲兵司令部は馴れ合いがひどいという批判も多い。馴れ合いの風潮を創りだした俺が心配するのも図々しいかもしれないが、だからといって受け取るべきでない好意を受け取るのは良くないだろう。

「小官は昇進したくて軍人をやってるわけじゃありません。閣下の好意はありがたいですが、誰もが納得できる功績をあげた時にお受けしたいと思います」
「そのようなことを言われたら、何が何でも昇進してもらいたくなるではないか。貴官には困ったものだ」

 苦笑まじりにため息をつくドーソン中将を見ていると、本当に良い人だなあと思う。欠点は多いけど、この人の部下で良かった。いろいろと良い勉強もさせてもらった。じゃがいも参謀というあだ名を広めたことにちょっと罪悪感を感じる。

「やはり、自分の功績で昇進したいですから。今回の戦いの功績は小官を生かしてくれた人達の功績です」

 クリスチアン中佐もシェーンコップ中佐も功績は功績だと言ってくれたけど、いくら考えても死んだ人の功績まで自分のものにするのは筋違いであるように思った。そこは譲るべきでない一線だろう。

「そういえば、貴官は病院船に乗っている間に、音声入力端末を病室に持ち込んでずっと戦死者全員の叙勲推薦書を作っていたそうだな」
「生きている人が死んだ人に対してできることって、彼らのことをずっと覚えていることぐらいじゃないかって思いました。勲章は軍が死んだ人の功績を永遠に覚えているという証です。彼らの名前が忘れられないようにすることで、彼らの犠牲で生き延びた無能な指揮官としての責任を取り続けます。それに…」

 俺の無謀な突撃で死んだ副憲兵隊長ファヒーム少佐、中隊長デュポン大尉、憲兵65人。俺を殴っていたラインハルトの注意をひきつける形で死んだローゼンリッターのウィンクラー中尉、ホイス曹長、シュレーゲル軍曹の3人。彼らの叙勲推薦書をヴァンフリート4=2からハイネセンに戻る病院船の病室でずっと作り続けた。彼らに対して何ができるかを考え続けた末の結論だった。偽善かもしれないけど、しないよりはマシだろう。

「勲章には年金が付きますよね。受章者が死亡している場合は、遺族が受給権を相続します。年金が出て遺族の暮らしが楽になれば、彼らの心残りも少しは減らせるかもしれません」
「それが貴官なりの責任の取り方ということか」
「ええ。何が起きても他人事のつもりで生きてきましたが、これからは自分がやったことにしっかり向き合いたいと思います」

 英雄と呼ばれても、オフィスで仕事をしていても、与えられた役割をこなすだけでどこか他人事のように捉えていた。それがヴァンフリート4=2における失敗につながったのではないかと思う。取り乱した俺の突撃に中隊長として付き合ったデュポン大尉、俺の失策をわかっていながら文句を言わずに敵を足止めしてくれたファヒーム少佐、激戦に身を投じて偶然をも味方につけるほどの強者となったラインハルトとキルヒアイス。彼らは与えられた役割にしっかり向き合って生きていた。そんな人々ばかりがいる戦場で他人事気分の俺に何もできるわけがない。あの時に感じた悔しさを二度と感じたくないと思う。


 5月5日、宇宙艦隊司令長官ロボス元帥は総旗艦アイアースで記者会見を開き、ヴァンフリート星系で帝国軍を打ち破って失地回復の意図を挫いたと述べ、46日の長期に及んだ戦闘の終結を宣言した。同盟軍は百万人を超える戦死者を出すという近年稀に見る苦戦を強いられたものの、昨年10月のタンムーズ星系会戦において獲得した戦略的優位が揺らぐことはなかった。緒戦における部隊掌握の失敗、混戦の隙を縫って同盟軍勢力圏に深く入り込んだ敵艦隊による4=2基地への奇襲を許すなど、同盟軍随一の用兵家らしからぬ失点を重ねたロボス元帥であったが、辛うじて面目を保ったといえる。統合作戦本部が今年の秋を目処にイゼルローン要塞攻略作戦を検討しているという報道も流れていた。

 ローゼンリッター連隊長代理のワルター・フォン・シェーンコップ中佐は4=2基地を巡る戦いの功績を評価されて大佐に昇進し、第十三代連隊長に就任した。30歳での大佐昇進は士官学校上位卒業者に匹敵する早さで、下士官からの叩き上げとしては異例である。腹心のカスパー・リンツ大尉は少佐、ライナー・ブルームハルト中尉は大尉にそれぞれ昇進し、連隊幕僚として引き続きシェーンコップの補佐にあたる。

 第百七十七歩兵連隊長エーベルト・クリスチアン中佐も昇進して大佐となった。4=2基地が第五艦隊到着まで持ちこたえたのはローゼンリッターや第百七十七歩兵連隊を始めとする実戦部隊の奮戦によるところが大きく、指揮官達は軒並み昇進の栄に浴していた。艦隊戦の勝敗が明確でなかったため、4=2基地防衛戦で活躍した人々の功績がクローズアップされたという事情もあるようだ。

 ハイネセン第二国防病院に入院中の俺のところにも再度中佐昇進の打診が来たが、3月に少佐に昇進したばかりの自分が功績に見合わない昇進をするのは不本意だという理由で辞退した。内示が出る段階まで進んでいなくて助かった。棚ぼたで昇進することに納得出来ないという他に、2か月そこそこで中佐に昇進することへの危惧もある。幹部候補生養成所を出てからの俺はほぼ1年に1階級のペースで昇進していて、どの職でも十分な経験を積んでいない。アンドリューのように士官学校でみっちり勉強したエリートなら経験の乏しさを豊富な知識で補えるが、幹部候補生あがりの俺はそうもいかない。経験も知識も持たずに昇進していきなり能力を発揮できるのは、シェーンコップ中佐やリンツのような天才ぐらいのものだろう。

 同盟軍には士官学校を卒業していない軍人が容易に越えることができないガラスの天井が中佐と少佐の階級の間に存在している。同盟軍士官の補職の区分方法は数十種類にのぼるが、その1つに階級による区分がある。その区分では少尉と中尉を初級職、大尉と少佐を中級職、中佐と大佐を上級職、将官を高級職としてグループ化される。初級職は中央官庁の係長級、中級職は課長補佐級、上級職は課長級、高級職は局長級以上に対応する。軍隊では階級が上がれば上がるほど専門技術の比重が下がって管理能力の比重が上がっていく。専門技術の高さだけで務まるポストの限界は現場責任者の中級職までと言っていい。兵や下士官から叩き上げた士官は専門技術に長けているが、幕僚教育を受けていないために管理能力の素養を欠く者が多い。

 そもそも、階級は補職にふさわしい能力に対して与えられるのが原則であって、武勲に対する褒賞ではない。戦時に軍人の昇進が早くなるのは司令部や部隊の幹部ポストの増加に経験と知識を十分に積んだ人材の増加が追いつかないために、次善の策として見込みがありそうな人材を昇進させてポストを埋めているからだ。武勲は見込みがある人材を選ぶ基準の1つにすぎない。叩き上げであるにもかかわらず上級職に補職される中佐に昇進できる者は、幕僚教育を受けていないにもかかわらず高い管理能力を持つと見込まれた者に限られる。正直言って、初級職や中級職の経験も十分に積んでおらず、抜群の才能があるわけでもない自分に中佐以上の上級職が務まるとは思えない。4=2基地の戦闘であれだけの失態を犯した人間が上級職に適任であるとみなされること自体がおかしいのだ。

「ちょっと頑固すぎない?」

 俺の昇進に対する考えを呆れ顔で聞いているのはアンドリュー。宇宙艦隊総司令部作戦副課長の彼はヴァンフリート星系出兵の戦後処理で忙しいはずなのに、こまめに見舞いに来てくれている。参謀の仕事はよほどストレスが多いのか、今年に入ってからびっくりするぐらいやつれていた。彼のことを陰気そうと言う人に会ったこともある。中身は変わっていないけど、体を悪くしていないか心配だ。

「筋は通さなきゃいけないでしょ。俺なんかが中佐になるようじゃけじめ付かないよ」
「エリヤは堅苦しすぎるから、彼女できないんだ」
「ほっとけ。そういうアンドリューはタチヤーナさんとはどうなってんの?うまくいってないんでしょ」
「ああ、最近別れたよ。前線って敵の妨害電波で通信できなくなるでしょ?だから一ヶ月や二ヶ月連絡できないこともザラなんだけど、民間人にはなかなかわかってもらえなくてさ」

 アンドリューは苦笑しながら、やれやれという感じで手を振る。軍人と民間人の恋愛は難しい。アンドリューが言ったような事情の他に、転勤が多くて遠距離恋愛になりがち、民間と軍隊文化のギャップの大きさなども理由にあげられるだろう。だから、軍隊生活をわかっている職業軍人やその子女との恋愛が必然的に多くなる。

「いい加減、職場で彼女探そうぜ。宇宙艦隊司令部なら、かわいい子いくらでもいるでしょ」
「士官学校時代にえらい目にあったからさ。共通の知り合いが多い子と別れたら、めちゃくちゃ気まずいよ、本当に」
「わかるわかる。俺は職場以外の人とは付き合い無いからさ。気まずくならないように彼女作んないわけ」
「エリヤって一度も彼女いたことないじゃん。見栄張ってんじゃねーよ」
「誰もがアンドリューみたいに簡単に彼女作れるわけじゃないんだよ。ほら、俺は格好悪いし、背も低いし、口下手だし、気も利かないし。もてなくて当然」
「背が低い以外、全部違うじゃねーか。君のルックスと性格で女の子と縁がないって、よほどのことだよ。生き方考え直した方がいい」

 アンドリューは人が良いせいか、他人を過大評価する傾向がある。馬鹿な俺でも、自分がもてない理由ぐらいはわかっているつもりだ。俺のような奴がもてる方がおかしい。

「生き方変えても、俺が俺であるかぎりはどうしようもないよ。顔は整形できても、人間性はできないしさ」
「相変わらず自己評価低いねえ。そんで、いつも仕事や勉強やトレーニングの話しかしないだろ。あと、食べ物か。だからもてないの」
「楽しいじゃん」
「軍隊入る前のエリヤが何して暮らしてたのか、まったく想像付かねえよ。昔は勉強も運動も全然やらなかったんだろ?」
「何もしてなかったんだよ、文字通り」
「頭も運動神経も良くてクソ真面目なのに何もしてなかったっつーのが謎だわ。周囲の大人が何もやらせなかったっつーのも」
「できない子にやらせてもしょうがないだろ。大人だって暇じゃないんだし」

 両手を広げて、大げさにやれやれというジェスチャーをしてみせるアンドリュー。こういう友達がいれば、趣味が少なくても楽しくてたまらない。ヴァンフリート4=2で死ななくて良かった。あそこで死んだ人達に助けられた命のおかげでこうしてアンドリューと楽しく話していられる。生きていて良かったと何度も何度も頭の中で呟き、ファヒーム少佐達にあらためて感謝した。 

 

第四十話:平凡に逃げてはいけない 794年7月1日 ハイネセン市、ハイネセン第二国防病院

 794年7月1日の昼下がり。ハイネセン第二国防病院の中央棟3階ロビーの大きな窓からは初夏の強い日差しが注ぎ込んでくる。外では初夏の緑が日光に照らされて眩しく見えた。入院してもうすぐ3か月。最近はリハビリも佳境に入ってきて、退院のめども見えている。俺は入院中に仲良くなったハンス・ベッカー少佐、ダーシャ・ブレツェリ少佐、グレドウィン・スコット大佐の3人とお茶を飲みながらおしゃべりをしていた。

「一週間後に退院ですか。おめでとうございます、フィリップス少佐」
「これからが大変ですよ。体力がだいぶ落ちてしまいましたんで、鍛え直さないといけません。仕事の勘も取り戻さないと」
「ははは、鍛錬や仕事の心配をしているところがあなたらしい。しかし、寂しくなりますねえ」
「ベッカー少佐が退院なさったら、一緒にバロン・カルトッフェルに行くって約束したじゃないですか。これでお別れじゃないですよ」
「それはわかっていますが、一日でもあなたの顔を見れないと寂しくてね」

 ハンス・ベッカー少佐はおどけたような口調でそう言うと、緑茶が入ったカップに手を伸ばす。彼の故郷ではグリューナーテーというのだそうだ。垂れ目でお調子者のベッカー少佐は今年で29歳。もともとは帝国軍の大尉であったが、昨年の初めに姪を連れて亡命してきた。イゼルローン回廊周辺の航路知識を見込まれて同盟軍少佐に任官し、航法幕僚として対帝国の第一線に立っている。見た目に似合わない苦労人の彼は第五艦隊に所属する分艦隊の航法責任者として参加したヴァンフリート4=2宙域の会戦で重傷を負って、俺と同じ病棟で入院中だ。狭い4=2宙域で素早い戦力展開に尽力した手腕を評価されて、近日中に中佐に昇進する予定だ。

「俺の写真でも持っていきます?ベッカー少佐になら何枚でも差し上げますよ」
「いや、結構ですよ。フィリップス少佐の写真はネットでいくらでも見れますから」

 悪戯っぽい表情でベッカー少佐は笑う。俺が嫌がるのがわかっていて言っているからたちが悪い。ベッカー少佐といい、シェーンコップ大佐といい、帝国にはこういう人しかいないのだろうか。五世紀にわたる専制政治はかくも人心を荒廃させてしまったのかとため息が出る。専制は滅ぼされなければならないという思いを新たにした。

「でも、やっぱり本物が一番ですよ。写真だと爽やかすぎて嘘くさいんですよね」

 ココアを一気に飲み干したダーシャ・ブレツェリ少佐が目を輝かせてここぞとばかりに乗ってくる。俺より1歳下の彼女は中央支援集団司令部に幕僚として勤務していたが、4月6日のヴァンフリート4=2基地司令部ビル攻防戦で負傷して入院している。士官学校ではダスティ・アッテンボローと熾烈な首席争いを演じた挙句、伏兵のネイサン・マホニーに首席をかっさらわれて三位に甘んじた秀才だ。軍人一家の生まれで、父も母も二人の兄もみんな現役軍人。ブレツェリ家で初の士官学校卒業者として一家の期待を担っているが、性格は変の一言に尽きる。俺のファンだというのが変だし、人に褒められるのが気持ち良いと言い切れる性格も変だ。今、ここに集まっている4人が仲良くなったのは、彼女の後先考えない強引さのおかげといっていい。4=2基地にいた頃は全く縁がなかったのに、入院してから仲良くなるなんて奇妙なめぐり合わせだ。

「子供っぽくて悪かったね」
「可愛いってことですよ」
「やめてくれないかな、恥ずかしくなる」
「恥ずかしがってるところも可愛いです。まあ、フィリップス少佐はどんな顔でも可愛いですけど」

 彼女はいつもこの調子だ。ほうっておくとペースに巻き込まれてしまう。4=2基地にいる間にシェーンコップ大佐の爪の垢でも煎じて飲んでおけば良かった。

「可愛いよねえ。私もフィリップス君みたいな息子が欲しかったよ。うちのは生意気で生意気で。三次元チェスの相手をしようともしない」

 グレドウィン・スコット大佐は目を細めて感慨深げに笑う。4=2基地の戦闘で行方不明になった輸送業務集団司令官メレミャーニン准将の参謀長を務め、一時は意識不明の重体に陥っていたが現在は順調に回復している。正確な年齢は聞いていないが、40代後半といったところだろう。口うるさい妻と反抗期真っ盛りの子供3人に悩まされていて、退院したくないなどと言っている。三次元チェスを趣味としていて、病棟では目についた人を片っ端から誘っては一局始めるせいで看護師によく叱られていた。4=2基地に赴任する直前に妻に無断で高価な三次元チェス盤を買ってしまったのも退院したくない理由の1つらしい。

「いや、それは大佐が悪いんじゃ…」
「限られた人生、好きなことをやって何が悪い」

 スコット大佐はブラックのコーヒーに軽く口をつける。意識不明の重体から回復した彼にそう言われると、とても説得力が感じられた。ベッカー少佐とブレツェリ少佐はしょうがねえなあ、という表情でスコット大佐を見ている。

「まあ、しかし、フィリップス君と三次元チェスができなくなるのは寂しいな。ネット対戦ならできないこともないが、やはり対面で打たないと面白くない」
「俺がいるじゃないですか」
「ベッカー君はいかん、強すぎる。行方がわからんからこそ、勝負は面白い」
「ルール覚えたばかりのフィリップス少佐をボコボコにして、ご満悦のあなたが何言ってんですか」
「勝負の厳しさを教えているのだよ。これもまあ、年長者の義務だな」
「スコット大佐がお子さんに嫌われてる理由がわかりましたよ。ちっちゃい頃から三次元チェスで大人げなくボコボコにしてたんでしょう?」
「君は子供の頃から空気を読まずに大人を言い負かして嫌われるタイプだな。私にはわかる」

 スコット大佐とベッカー少佐の低次元な言い争いがおかしくて、思わず顔が緩んでしまう。ブレツェリ少佐の視線を感じて慌てて真面目な表情を作った。実のところ、この人生が始まってから職場以外の場所でできた人間関係はこれが初めてだ。思い返すと、この6年間はずっと職場しか見ていなかった。人を評価する基準も軍人としての評価を第一にしていた。親しい人とプライベートの話をすることもあまりなかった。入院して仕事から離れたおかげでいい経験ができたと思う。

「お二人の言い争いもあと一週間で見れなくなると思うと寂しいですよ」
「私もフィリップス少佐の顔をあと一週間で見れなくなると思うと寂しいです」
「ブレツェリ少佐、そういうの本当にやめてよ。なんかやりにくい」

 ストレートに好意をぶっ込んでくるタイプは初めてなので、対応に戸惑ってしまう。これまで付き合ってきた人達は好意を示す時も自然体だった。いつも人を見上げてばかりの俺が見上げられてみると、居心地悪く感じる。

「そういう受け答えはいけませんぞ、フィリップス少佐。こういう時はにっこり笑ってありがとうと言わねば」
「ベッカー少佐の言うとおりだ。君は三次元チェスも弱いが、女性にも弱い」
「お、お二人ともなに言ってるんですか!?」

 いつの間にかスコット大佐とベッカー少佐は休戦したらしく、ニヤニヤしながら俺を見ている。恥ずかしくて顔が赤くなるのが自分でも分かった。

「昨日もお見舞いに来た女の子を怒らせてましたな」
「なかなか可愛らしい子だったのに。もったいないことをするものだ」
「あ、あれは…」

 二人は連携してさらなる攻勢をかけてくる。普段は喧嘩ばかりしてるくせに、こんな時だけはがっちり手を組むから始末に負えない。

「へえ、彼女ですか?興味ありますねえ」
「いや、そういう関係じゃなくて…」
「じゃあ、どういう関係です?」

 とどめにブレツェリ少佐まで参戦してきた。彼女はまったく遠慮せずに突っ込み入れてくるから、俺が対抗できる余地は完全になくなった。最初からなかったけど。諦めて白旗を揚げる。

「職場の同僚なんだよ」

 昨日、俺が怒らせてしまったのは俺の後任として憲兵司令官ドーソン中将の副官を務めているユリエ・ハラボフ大尉。「歩くデータベース」「耳と手が4つある」と言われるほど優秀な女性だが、俺とはあまり仲が良くない。向こうが一方的に俺を嫌っている感じだ。昨日はドーソン中将の使いとして、退院後の任務に関する簡単な連絡事項を伝えに来てくれた。その帰りにちょっとした喧嘩になってしまったのだ。

「で、その副官さんとどうして喧嘩になったんです?」

 ブレツェリ少佐の大きな目が野次馬根性でギラギラと輝き出したのがわかる。慎重に言葉を選んで事実を簡潔に伝えないと、とんでもない誤解を受けかねない。とっくの昔に誤解されてるかもしれないが。

「副官の仕事はどんな感じかって質問したの。自分の後任だから気になるでしょ?。彼女が俺より優秀なのはわかってるけど、それでも意識しちゃうじゃん。俺は気が小さいからさ」
「それでそれで?」
「あなたの後任を務めるのは大変ですってため息ついてた。俺が雑な仕事してるせいで苦労させてごめんって謝ったら、すごい怖い顔になって、唇をぐっと噛んで目に涙を浮かべて俺を睨んでた。気になってどうしたのって聞いたら、あなたにはわかりませんって叫んで早足で出て行っちゃったんだ。ほんと、どうしちゃったのかなあ」

 面白そうに聞いていた三人の表情からどんどん血の気が引いていく。ブレツェリ少佐の目に浮かんでいた興味の色も驚きの色に変わっている。みんな、何を驚いているんだろうか。そんなにまずかったんだろうか。

「君ねえ、それ最悪だよ」
「ですなあ。天然もほどほどにしないと」

 苦々しげな表情で俺を見るスコット大佐にベッカー少佐が同意する。ブレツェリ少佐は何も言わずに首を横に振っている。俺がハラボフ大尉に言ったことってそこまでまずいことなのか?

「どこがまずかったんでしょうか…?」
「わからんのか?」
「もう、本当にわからなくて…」

 三人は顔を見合わせて、心の底から困ったような表情を浮かべて黙りこくった。どんどん空気が気まずくなっていく。重苦しい沈黙を破ったのはベッカー少佐だった。

「たぶんですね、彼女はフィリップス少佐に敵わないと思っていたんですよ。そんな相手に雑な仕事してごめんって言われたらどう思います?自分がいくら頑張っても、フィリップス少佐の雑な仕事にも及ばないのかって思いませんか?」
「いや、そんなことは…」
「自己評価が低いのは結構ですが、度が過ぎると人を傷つけますよ」
「でも、実際、俺なんて…」
「勉強すれば何でもすぐ覚えるし、練習すれば何でもすぐできるようになるでしょう?あなたにとっては大したことないことでも、他の人には難しいんですよ」
「当たり前のことを徹底してるだけで、難しいことは全然…」
「あなたのアプローチは平凡で愚直かもしれません。しかし、基本も徹底できれば、それはもはや平凡とも愚直ともいえません。天才と変わらんのではないでしょうか」
「俺は本物の天才を見たことがありますよ。あれと比べたら、俺なんてもう」

 ラインハルト・フォン・ミューゼルとジークフリード・キルヒアイスのことを思い出す。あの二人は偶然すら味方につけるほどに隔絶した存在だった。

「今のあなたと比べるべきなのはハラボフ大尉でしょう。彼女は何をやらせても、基本動作を徹底的に反復練習して自分のものにしてしまうような怪物なんでしょうか」
「怪物って…。俺はただの…」
「平凡に逃げるのはやめませんか。あなたが自分を低く評価してたら、あなたより劣った人はどうすればいいんです?平凡に劣る自分は何なのかと思いませんか?ハラボフ大尉はあなたの後任になるぐらいですから、そりゃまじめな人でしょう。プライドだって高いはずだ。そんな人がいくら努力しても追いつけない相手に、平凡に劣ると言われたらどうします?」

 自分よりハラボフ大尉が優秀だと俺は思っていたけど、ハラボフ大尉がそう思っていなかったとしたら。確かに俺の言葉に深く傷つくだろう。俺が他人に下す評価が相手の自己評価と一致することが少ないのはわかっていたけど、それが俺自身の受ける評価に関しては一致すると何の疑いもなく思っていた。高い評価を受けても、本当は低く評価しているんだろうと思い込んで自己評価に一致させようとしていた。

「傷つくでしょうね…」
「あなたがなんで自己評価を低くすることにこだわってるのかは知りません。やりたいなら好きにやればいいですよ。しかし、他人に認められたら、内心はどうあれ表面では受け入れるべきです。あなたを高く評価することで救われる人がいるんですからね。ハラボフ大尉のように」
「はい…」

 内心はどうあれ、表面では受け入れろってことか。それで救われる人がいるなら、そうするべきなんだろうな。俺の自己評価を万人が共有する必要はない。幹部候補生養成合格を伝えられた日にイレーシュ少佐に努力を信じられるようになってほしいと言われた。努力を信じられるようになったおかげでいろんなことができるようになったけど、自分を信じることはできなかった。次に必要なのは自分を信じることなのかもしれないな。できなくても、信じるふりをする。

「フィリップス少佐」

 ブレツェリ少佐が何かを決意したような声で俺を呼んだ。まっすぐな視線で俺を見つめる彼女から、ただならぬ雰囲気を感じた。

「はい」

 彼女の視線にたじろぎながらもしっかりと目を見つめて、力強く返事をする。何を言われるんだろうか。

「本当に可愛いですね」

 そんな真面目な表情で何を言ってるんだと腰が砕けそうになったが、内心はどうあれ表面では受け入れると今決めたんだ。体から抜けていった力を全力で再結集して答える。

「あ、ありがとう…」

 俺が礼を言うと、ブレツェリ少佐の顔がパッと明るくなった。やられた、と思うと同時に初めて彼女をかわいいと思ってしまった。ちょっとだけだけど。ベッカー少佐とスコット大佐はうんうんと頷いている。退院までの一週間、俺はこの三人から徹底的に褒め殺しを受け、恥ずかしさに耐えながらお礼を言い続けた。遊ばれてる気がしないでもなかったけど、俺の更生に協力してくれているんだろうと好意的に捉えることにした。 

 

第四十一話:向き合うべき時 794年7月9日 ハイネセン市、地球教カーニーシティ教会近くの路上及び憲兵司令部

 7月9日。ハイネセン第二国防病院を退院した俺は、その足で新しい任務を受けるべく憲兵司令部に向かった。ハイネセンの街並みに強い日差しが容赦なく照りつける。一歩歩くたびに俺の体にむわっとした熱気が絡みつき、汗が流れる。夏は一年で一番好きな季節だけど、蒸すようなハイネセンの暑気には辟易してしまう。それに比べ、故郷パラディオンの夏のなんと過ごしやすいことか。ハイネセンは良い街だが、やはりパラディオンには及ばない。 スタンドで買ったアイスキャンディーを舐めながら、歩道をゆっくりと歩いていると、女の子がすいませんと言って近寄ってビラを差し出してきた。反射的に受け取って、ビラに目を通す。

『人はなぜ傷つけ合うのでしょうか?人はなぜ分かち合うことができないのでしょうか?』

 そんな見出しの後に、戦災遺族や非正規労働者や障害者や亡命者などの生活苦を訴える文章、社会保障費の削減額や失業率上昇や自殺者数の増加を示すグラフなどが並び、最後はこう締めくくられていた。

『人はすべて仲間です。仲間はお互いに助け合うことができるはずです。貧困と憎悪を追放するために手を取り合いましょう。子供に愛情を、若者に希望を、壮年に安心を、老人に尊敬を、すべての弱い者に保護を。人類は一つ、懐かしき地球から生まれた仲間-平等と平和のための地球教団主教委員会』

 地球教団の文字を見た瞬間、俺の周囲の空気が急に冷えたように感じた。地球教団は帝国・同盟・フェザーンの三か国にまたがる多国籍宗教団体だ。人類発祥の地である帝国領太陽系の第三惑星地球に総本山を置き、地球をシンボルとして全人類の精神的統合と平等を唱えている。ラグラングループ率いるシリウス軍の攻撃で荒廃して内戦状態に陥った地球を再統一した宗教勢力をルーツに持ち、宇宙暦開始以前から続く長い歴史がある。宇宙暦600年代後半から急速に帝国内で教勢を拡大し、30年ほど前から同盟に進出した。現在は同盟国内で1000万人を超える信徒を獲得したと推定される。

 同盟国内の教会組織は億単位の信徒を擁する十字教や楽土教などの大教団とは比較にならないほど小さいが、強大な帝国内の教会組織からフェザーン回廊を経由して支援を受けることができるため、宣教力と資金力は相当なものだ。最近は地球の下の平等を旗印に掲げて広範な慈善活動を展開し、貧困層や亡命者や退役軍人などの社会的弱者を中心に勢力を拡大している。多少排他的な面はあるものの、他の宗教団体と比較して問題となるほどではない。

 地球教団はまっとうな新興宗教というのが同盟社会の一般的な見方だろう。しかし、俺は後に地球教団が歩んだ歴史を知っている。全宇宙の経済を支配するフェザーン自治領を隠れ蓑に同盟と帝国の勢力を均衡させて戦乱を長期化させるべく暗躍してきた地球教団であったが、獅子帝ラインハルトの征服戦争によって挫折を余儀なくされた。人類社会の分裂策に固執した地球教団はラインハルトの統一帝国を瓦解させるべく、帝国要人を標的としたテロ活動を展開する。宇宙暦799年から801年までの二年間に地球教団が手がけた謀略はヤン・ウェンリー暗殺、三度にわたるラインハルト暗殺未遂、皇后ヒルデガルド暗殺未遂、新領土総督ロイエンタール元帥の反乱など多数にのぼる。帝国は公敵宣言をもって応じ、軍務尚書オーベルシュタイン元帥と憲兵総監ケスラー上級大将の指揮によって地球教団は根絶された。

 ヤン・ウェンリー暗殺に関わったことから後継勢力のイゼルローン共和政府とその後身のバーラト自治区政府与党八月党にも嫌悪され、地球教団は最悪のテロ組織として歴史に残った。ヨブ・トリューニヒトら同盟主戦派政治家に対する政界工作やサイオキシン麻薬密売関与なども取り沙汰されたが、討伐を受けた地球教総本部が自爆した際に資料が失われてしまい、オーベルシュタインやケスラーらが教団組織の壊滅を優先したことから捜査は行われていない。

 俺個人の評価は現在の公式評価とも、歴史の評価とも異なる。地球教団はローエングラム朝とヤン・ウェンリー系勢力と敵対したが、一般市民を無差別に攻撃したわけではない。彼らのテロは指導者を対象とするに留まっていた。帝国と同盟の勢力を均衡させようと目論んでいたことに関しても、ローエングラム朝によって同盟が滅ぼされた後の社会的混乱で割りを食った俺が批判する理由はない。ラインハルトを不世出の覇王として尊敬はしているが、その治世が俺にとって住み良いものであったかどうかはまた別の話だ。

 ラインハルトの治世は政治改革と軍事行動に忙殺され、統一戦争によって家族や職を失った人々への救済は遅れがちだった。偉大な覇王であっても時間と資金の制約を逃れることはできない。救済が遅れたのはラインハルトの責任とはいえないが、膨大な数の失業者や戦災遺族が苦しむことになったのは事実だ。彼らの受け皿となったのが、旧同盟軍人や急進的共和主義者や宗教指導者などが結成した数々の反体制組織だった。地球教団もその一つに含まれる。早い段階で総本部を失った地球教が活動を継続できたのも失業者や戦災遺児の取り込みに成功したことが大きい。もともと、地球教団は慈善活動に優れた実績を持っている。ローエングラム朝の統一事業によって疎外された人間を拾い上げるのはお手のものだった。

 非合法化された地球教団がハイネセンの貧民街に構えた地下教会には、俺も何度と無く世話になった。彼らが提供する炊き出し、古着、無料医療などが無ければ、混乱期のハイネセンで生き延びることはできなかったかもしれない。恩義を盾に地球教団への入信やテロ活動への協力を求められたら、断ることはできなかっただろう。実際、世話になった別の組織が爆弾テロを行った際に協力したことはある。俺の立場から地球教団を非難すべき点があるとしたら、信徒にサイオキシンを使用していたことぐらいだが、世話になった身としては矛先が鈍ってしまう。

「どうかなさったんですか?」
「あ、いや、何でもないですよ」

 俺の回想はビラをくれた女の子の言葉によって中断された。年齢は10代後半だろうか。化粧っけのない顔に手入れされていない髪の毛。よれよれのTシャツを着て、色あせたジーンズを履いている。「地球に帰ろう、人類は一つ」と書かれたたすきをかけていた。言っちゃ悪いけど、いかにもこういう活動にのめり込みそうな感じがする。

「あ、もしかして、エリヤ・フィリップス少佐ですか?」
「ええ、そうですが」
「私、エル・ファシルの出身なんですよ。こんなところでエル・ファシルの英雄にお会いできて嬉しいです」
「あ、ありがとう…」

 声を弾ませる女の子に一瞬たじろいでしまう。自分が作られた英雄だという現実を突きつけられたからかもしれない。

「フィリップス少佐が義勇旅団を率いてエル・ファシルを取り返してくださらなかったら、故郷に帰れませんでした。本当にありがとうございます」

 俺はエル・ファシル奪還戦では何もしなかった。それなのに宣伝上の理由から活躍したことにされて、昇進と勲章を与えられた。彼女が礼を述べるべきは俺ではなく、実際に地上戦を戦って地獄を見た人達だ。彼女の純粋な憧憬の視線に耐え切れずに目を逸らしてしまう。

「今は近くの教会で奉仕活動をしながら、大学入学を目指して勉強してるんですよ」
「えらいね」

 冷や汗をかきながら辛うじて声を絞り出し、笑顔を作って返事をする。こんな真面目な女の子を騙している自分がどうしようもなく醜く感じる。

「あの戦いでエル・ファシルはすっかり荒れ果ててしまって、仕事が無いんです。教団が手を差し伸べてくれなかったら、一家全員死んでいるところでした」

 彼女の口から語られるエル・ファシルの現状に言葉を失ってしまった。エル・ファシル奪還戦の政治的価値を高めようとするロボス大将の画策は帝国軍の激しい抵抗を招いて、全土が焦土と化した。その後どうなったかはメディアでもほとんど報じられていなかったせいで知らなかったけど、そこまで酷いことになっているとは思わなかった。政治が不幸にした人々が宗教の差し伸べた手で生き延びる。前の人生のハイネセンで起きたことが今のエル・ファシルでも起きていた。

「ハイネセンの教会に住み込んで奉仕活動をしているエル・ファシルの人はたくさんいるんですよ。この近くのカーニーシティ教会にも。エル・ファシルの英雄がお越しになったら、みんな喜ぶと思います。時間があったら来てくださいね」

 そう言うと、彼女は懐から別のビラを取り出して俺に押し付けるように渡す。礼拝式の案内に教会の住所と連絡先が書かれていた。

「行きたいのはやまやまなんですが、忙しくて…。申し訳ないです」
「フィリップス少佐のような偉い人は忙しいですものね。時間がある時にお願いします」
「う、うん」

 もはや、俺の羞恥心は彼女と相対することに耐えられなかった。軽く頭を下げると、早足で歩いて逃げるようにその場を去った。走らなかったのは人通りが多かったからに過ぎない。彼女と会う前に左手に持っていたアイスキャンディーはいつの間にかなくなっている。歩いて憲兵司令部まで行くつもりだったけど、こんな心理状況では街を眺める余裕もない。タクシーをつかまえて乗り込んだ。


 面会予定時間よりだいぶ早く憲兵司令部に着いた俺は、副官のユリエ・ハラボフ大尉を呼び出してその旨を伝えた。憲兵司令官への面会は必ず副官の取り次ぎを受けなければいけない。副官がスケジュール管理を担当しているからだ。ハラボフ大尉が現れた瞬間、ちょっと身構えてしまった。仕事に私情をまじえないのは常識だけど、それでも気後れするのは避けられない。

「司令官との面会は当初の予定通り、13時からとなります」

 先日怒らせてしまったにも関わらず、何事もなかったかのような様子できちんと取り次ぎをしてくれた。表情にも怒りの様子は微塵もなく、柔らかい微笑みを浮かべている。23歳の彼女は誰が見ても、無駄がないという印象を受けるだろう。すっきりした目鼻出ちに細くて長い手足。徒手格闘の達人らしく、体の動きにも無駄がない。作成する文書も簡潔明瞭で無駄な修飾は一切しない。だからこそ、手と耳が4つずつあると言われるような仕事が可能なのだろう。

「了解しました。ところで…」

 先日のことを謝ろうと声をかけようとすると、ハラボフ大尉は俺が言葉を続ける隙も与えずにクルッと振り向いて早足で部屋を出て行った。あまりに無駄のない動きに感嘆すら感じたが、謝れないままでいるのは困る。5分ほどすると、再びハラボフ大尉が待合室に入ってきた。手にはコーヒーとマフィンを持ち、傍らには副官付のエマ・バーモンド曹長を伴っている。

「面会までお時間がありますので、お茶を飲みながらお待ちください。おかわりなさる場合は、こちらの者にお申し付けください」

 ハラボフ大尉はコーヒーとマフィンをテーブルに置くと、バーモンド曹長を指した。一連の動作もまるで流れるような感じで、どんな鍛錬をしたらこんな動きができるのかと思ってしまう。

「ありがとう。ところでお見舞いに来てくれた時の…」
「私からはお話することはありません」

 微笑みは崩さないまま、ぴしゃりと鞭を打つような口調で俺の言葉を遮ったハラボフ大尉はまたクルッと振り向いて早足で部屋を出て行った。謝罪は受け付けないということか。さっきの地球教徒の女の子の件で沈んでいた気分がさらに深く沈む。心を落ち着かせようとコーヒーを飲むと、砂糖とクリームをたっぷり入っていた。何の注文もしていなかったのに、俺好みの味になっている。なかなかいい仕事するじゃないか。俺なんか意識する必要ないだろうに。

「バーモント曹長、ハラボフ大尉の仕事ぶりはどうだい?」

 彼女は俺が副官だった頃から副官付を務めていた。最も俺とハラボフ大尉を比較しやすい立場だ。

「頑張ってはいらっしゃいますが…。空回りしてますねえ」
「そうなの?」
「フィリップス少佐のスタイルを真似ようとなさってるのですが…。そんなことは誰にもできませんから」

 そんな大したことないと言いかけたけど、辛うじて押しとどめた。俺を真似ようとしてできなかったとしたら、あの言葉には傷つくだろうな。本当に申し訳ないことをした。

「着任された時はフィリップス少佐を尊敬している、近づけるように頑張りたいって張り切ってたんですよ」
「俺を尊敬…?」
「そりゃあ、副官の仕事をする人なら誰だって少佐を尊敬しますよ。でも、日に日に表情が暗くなって、連絡事項以外の話はしなくなりました」

 後悔がどんどん胸の中に広がっていく。俺の存在がそこまで彼女を追い詰めていたなんて、想像もしていなかった。俺を尊敬していると言っていた子の自信を奪ってしまった。

「副官を交代するって話も出てるんですよ」
「だめだ、それはだめだ!」

 思わず大声をあげてしまった。バーモンド曹長は驚きの表情を浮かべて俺を見ている。

「君から見たら、ハラボフ大尉は仕事はできるかい?俺との比較じゃなくて」
「ええ、できる人だと思います」
「気配りは?」
「とても細かいです」
「努力は」
「心配になるほど頑張ってらっしゃいます」
「じゃあ、辞める必要ない。仕事、気配り、努力が全部できる人ってそんなにいないよね?」
「まあ、そうですよね」
「俺が戻ってきて副官をやるわけにはいかない。だから、彼女が自分と俺を比べないで済むように気を使ってくれるとうれしい」
「わかりました」
「これは彼女には言わないでね。言ったら傷つくから」

 うなずくバーモンド曹長に俺もうなずき返した。しばらくすると、ハラボフ大尉が部屋に入ってきて面会時間が来たことを告げる。いつかこの真面目で繊細な人が自信を取り戻してくれたらと思いながら、立ち上がって後についていった。


「貴官が退院してくるのをずっと待っていたのだぞ」

 ドーソン中将は上機嫌で俺を迎えてくれた。執務机の横に貼ってある6月のカレンダーは1日から昨日までばつ印が付けられ、今日の日付には退院と書かれて二重丸で囲まれていた。地球教徒の子とハラボフ大尉の件で弱っていた俺の心では、胸の奥から込み上げてくるものを抑えきれない。

「長い間、お待たせして申し訳ありませんでした」

 涙をこらえながら、背筋を伸ばして敬礼をする。ドーソン中将も立ち上がって敬礼を返す。3か月ぶりの憲兵司令官のオフィスは書類がきちんと整頓されていて、掃除も行き届いていた。物の配置も良く考えられている。ハラボフ大尉がどれだけ頑張っていたかは一目瞭然だ。彼女を傷つけてしまったことに改めて心が痛む。

「怪我は完全に治ったか?」
「はい。後遺症も残らずに済みそうです」
「そうか、それは良かった」
「実はお話が…」

 嬉しそうにうなずくドーソン中将にハラボフ大尉のことを話した。バーモンド曹長に話したのと全く同じ内容だ。

「閣下は真面目な部下はお好きですよね?」
「うむ」
「無駄口を言わない素直な部下もお好きですよね」
「そうだな」
「であれば、ハラボフ大尉は得難い人材であると思います。長い目で見ていただけないでしょうか」
「うーむ、しかしだな…」

 ドーソン中将は口髭を触りながら唸っている。

「閣下に長い目で見ていただいたおかげで今の小官があります。同様の御配慮を彼女にも頂ければ幸いです」
「貴官がそれほどに言うのなら、そうしよう」
「ありがとうございます」
「頭を上げたまえ。そんなに下げなくても貴官の気持ちは十分伝わった」

 困ったような声が聞こえて、頭を上げる。ドーソン中将はまいったなあという顔をしていた。

「まあい、次の任務の話に移ろう」
「ハラボフ大尉からは重要任務とだけ聞いておりました。詳細は閣下が口頭で伝えると」
「うむ。貴官でないと務まらない任務だ」

 ドーソン中将の表情が急に引き締まる。どれほど重要な任務だろうか。体中に緊張が走る。

「任務の内容を伝える前に、貴官に我が国と帝国の憲兵隊の合同捜査の結果を伝えておこう」

 秘密捜査だったから、憲兵司令部の外で経過を話すわけにはいかない。だから、入院している俺のもとには情報がまったく来なかった。中央支援集団司令部メンバーが拘束されて3か月、関与している他の将官が拘束されて2か月。取り調べは一段落しているに違いない。結果ということは、そろそろ軍法会議に告発するのかな。

「先に結果だけを言うと、捜査は打ち切りになった。今回の件に関しては、軍事法廷も刑事法廷も開かれない」
「ど、どういうことですか、それは!?」

 信じがたい結果に上官の前ということも忘れて、声を荒らげてしまった。軍隊を使って麻薬取引をしていたような連中が告発されないなんて、そんな馬鹿なことがあってたまるか。

「小官だって悔しいのだ。だが、最高評議会の決定は覆しようがない」
「最高評議会ですか…」

 自由惑星同盟の最高行政府である最高評議会。それがストップをかけてきたら、憲兵司令部がいくら頑張っても手も足も出ない。民主主義国家であるかぎり、シビリアン・コントロールは絶対なのだ。

「貴官には今回の件の事件の幕引きをしてもらう。任務地はフェザーン」

 最高評議会の次はフェザーンだって!?。話がとてつもなく大きくなっていく。一体何が起きているんだろうか。捜査結果の詳細を説明し始めたドーソン中将の話を聞きながら、自分が容易ならざるものに足を踏み込んだような気分になっていた。 

 

第十章 力とは何か
  第十章開始時人物設定

主人公
エリヤ・フィリップス 26歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少佐
役職:憲兵司令部付
性格:小心で卑屈。素直で真面目な優等生。努力を楽しめる。仕事熱心。自己評価は低い。
容姿:子供っぽい容姿。身長は平均よりやや低い。爽やか、絵になるなどと言われているが、以前は冴えなかったと言われる。
能力:事務処理能力が高く、法律に通暁している。管理職としては公正。コミュニケーションは苦手だが、対人関係に細やかな気配りを見せる。射撃の達人。実戦経験が浅いのが難点。
略歴:ヴァンフリート4=2基地の戦闘で重傷を負って入院していたが、ようやく退院した。フェザーン派遣命令を受ける。前の人生ではアーサー・リンチに従ってエル・ファシルから逃亡したことがきっかけで転落した。
史実:登場せず。

重要人物
クレメンス・ドーソン 44歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十章開始時点)
役職:憲兵司令官(第十章開始時点)
性格:異常なまでに神経質で几帳面。わかりやすい善を好み、わかりやすい悪を嫌う小市民的な心情の持ち主。露骨にえこひいきをする。
容姿:エリヤと同程度の身長。ひげがトレードマーク。
能力:抜群の実務能力を持つ。陣頭指揮を好み、現場に口を出したがる。政治力も極めて高い。
略歴:憲兵司令官として、綱紀粛正に手腕をふるう。エリヤをフェザーンに派遣した。
史実:自由惑星同盟軍の末期状態を象徴する無能な指導者。
初出:二十三話

ヨブ・トリューニヒト 39歳 男性 オランダ系
職業:自由惑星同盟軍代議員(第七章終了時点)
役職:改革市民同盟幹事長(第七章終了時点)
性格:気さくで人懐っこく、人の心にすっと入り込んでいく。
容姿:俳優のような美貌。スポーツで鍛え上げた長身。人懐っこい笑顔。卓越したファッションセンス。
能力:巧みな話術の持ち主。派手なパフォーマンスを用いた大衆煽動のみならず、個人を対象とした人心掌握にも優れる。
略歴:主戦派の若手指導者。ドーソン中将と親しく、エリヤに関心を持っている。
史実:自由同盟末期の最高評議会議長。保身の怪物という評価と、単なる無能という評価がある。同盟滅亡後も暗躍を続けた。
初出:二十九話

親しい人
アンドリュー・フォーク 24歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第七章終了時点)
役職:宇宙艦隊司令長官副官(第七章終了時点)
性格:真面目で謙虚。社交性が高い。
容姿:長身でハンサム。
能力:士官学校を首席で卒業した秀才。リーダーシップ、運動能力も高い。白生戦技、射撃術も達人級。
略歴:エリヤの友人。ロボス大将に引き立られて、副官に登用された。エル・ファシル義勇旅団長を務めていた頃に親しくなった。
史実:帝国領侵攻作戦を立案して同盟軍を壊滅に導き、テロリストとしても同盟の足を引っ張った愚劣な人物。
初出:第二十話

エーベルト・クリスチアン 40代 男性 ゲルマン系
階級:自由惑星同盟軍中佐(第九章開始時点)
役職:第百七十七歩兵連隊長(第九章開始時点)
性格:軍隊を家族と考えている。剛直だが人情に厚い好漢。単純明快な物言いを好む。
容姿:背はさほど高くないが、肩幅と胸板が厚い。いかつい顔に不機嫌そうな表情。
能力:勲章受章経験のある勇者。食事と睡眠の重要さを理解していて、部下の待遇改善に熱心。
略歴:陸戦隊出身。エル・ファシルの英雄になったエリヤの広報担当を務めた時に親しくなった。エリヤが職業軍人になるきっかけを作った人物。ヴァンフリート4=2基地の戦いで奮戦した。
史実:救国軍事会議メンバーとしてスタジアムの虐殺を引き起こした。
初出:第八話

イレーシュ・マーリア 31歳 女性 マジャール系(姓が前、名が後に来る)
階級:自由惑星同盟軍少佐(第五章終了時点)
役職:第三艦隊所属の駆逐艦艦長(第五章終了時点)
性格:とっつきにくい外見とは裏腹に思いやりがある。
容姿:180センチを越える長身。非の打ち所のない美形。眼力が異常に強い。不機嫌そうな表情。
能力:対人観察力が高い。熱心な教育者。
略歴:士官学校卒のエリート。幹部候補生養成所を受験するエリヤの学力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ダーシャ・ブレツェリ 25歳 女性 スロベニア系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第十章開始時点)
性格:強引で後先を考えない。ストレートに好意をぶっこんでくる。
容姿:丸顔で目が大きく、可愛らしい感じ。
能力:士官学校を三位で卒業したエリート。
略歴:ヴァンフリート4=2宙域の会戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。エリヤのファンだった。
史実:登場せず。
初出:第四十話

ハンス・ベッカー 29歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍少佐(第十章開始時点)
性格:お調子者。人をからかうのが好き。遠慮無くものを言う。
容姿:垂れ目。背が高い。
能力:航路知識が豊富。
略歴:ヴァンフリート4=2宙域の会戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。平凡に逃げてはいけないと、エリヤをたしなめる。
史実:登場せず。
初出:第四十話

ダーシャ・ブレツェリ 25歳 女性 スロベニア系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第十章開始時点)
性格:強引で後先を考えない。ストレートに好意をぶっこんでくる。
容姿:丸顔で目が大きく、可愛らしい感じ。
能力:士官学校を三位で卒業したエリート。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。エリヤのファンだった。
史実:登場せず。
初出:第四十話

グレドウィン・スコット 四十代後半 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十章開始時点)
性格:大人げない。三次元チェス狂。恐妻家。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。エリヤに三次元チェスを仕込んだ人物。
史実:帝国領侵攻作戦で輸送艦隊を率いたが、キルヒアイスに襲撃されて戦死。
初出:第四十話

ワルター・フォン・シェーンコップ 30歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍中佐(第九章開始時点)
役職:ローゼンリッター連隊長代理(第九章開始時点)
性格:言動と女性関係は奔放。大胆不敵で反骨精神旺盛。服従心、忠誠心とともに希薄。危険人物の中の危険人物。
容姿:貴族的な美貌。優雅な物腰。
能力:大部隊の組織的運用と少数精鋭部隊による強襲戦術の両方に長ける。部隊運営能力、指導力も高い。部下を心酔させるカリスマも持つ。身体能力、戦闘技術、勇猛さを兼ね備えた自由惑星同盟軍最高の戦士でもある。政治的な駆け引きも巧みで付け入る隙がない。
略歴:ヴァンフリート4=2基地で知り合った。エリヤをからかうのを楽しんでいたが、司令部ビルの戦闘では腹心のブルームハルトを援軍につけてくれた。
史実:同盟末期最高の地上部隊指揮官。ヤン・ウェンリーの事実上の私兵隊長として活躍した。
初出:第三十一話

カスパー・リンツ 24歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍大尉(第八章終了時点)
役職:ローゼンリッター第一大隊運用訓練主任(第八章終了時点)
性格:気さくだが、やや屈折している。
容姿:脱色した麦わらのような髪に青緑色の瞳を持つ美男子。
能力:白兵戦技と射撃術の達人。絵と歌がうまい。
略歴:幹部候補生養成所時代の唯一の友人。ローゼンリッター幹部シェーンコップ中佐の片腕。
史実:ワルター・フォン・シェーンコップの片腕。ローゼンリッター最後の連隊長。
初出:第十六話

バラット 男性 タイ系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第三章終了時点)
役職:第七方面管区シャンプール基地教育隊体育教官(第三章終了時点)
性格:単純熱血。太っ腹。
容姿:がっちりした体格。猛犬のような印象。
能力:トレーニング指導のプロ。
略歴:陸戦隊出身でクリスチアンの元部下。幹部候補生養成所を受験するエリヤの体力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ルシエンデス 30代 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍曹長(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:ざっくばらん。
容姿:小綺麗な身なり。
能力:軍服を着た人を撮影すれば、右に出る者はいない。
略歴:統合作戦本部広報室のカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

ガウリ 30前後 女性 インド系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:気さく。
容姿:小綺麗な身なり。
略歴:統合作戦本部広報室のスタイリストカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

家族
ロニー・フィリップス 50歳 男性 アングロサクソン系
職業:パラディオン市警の警察官(第二章終了時点)
性格:善良でお調子者。
略歴:エリヤの父。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

サビナ・フィリップス 49歳 女性 チェコ系
職業:看護師(第二章終了時点)
性格:心配症でおせっかい。
略歴:エリヤの母。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ニコール・フィリップス 28歳 女性 アングロサクソン系
職業:ジュニアスクールの非常勤講師(第二章終了時点)
性格:しっかり者。
略歴:エリヤの姉。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

アルマ・フィリップス 21歳 女性 アングロサクソン系
職業:ミドルスクールの生徒(第二章終了時点)
性格:甘えん坊の食いしん坊。
略歴:エリヤの妹。空気の読めないメールを送っては、エリヤをいらだたせる。前の人生ではエリヤに懐いていたが、逃亡者になると最も激しく拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

同級生
ミロン・ムスクーリ 26歳 男性 ギリシャ系
性格:爽やかなスポーツマン。
容姿:大男。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。元フライングボール部のスター。前の人生では極右団体の構成員。逃亡者になったエリヤを迫害した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ルオ・シュエ 26歳 女性 チャイナ系
容姿:丸顔。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の数少ない友達。前の人生では、逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

フーゴ・ドラープ 26歳 男性 チェコ系
性格:誰にでも優しい。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。信望が厚く、クラス代表を務めた。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

その他知り合い
ラザール・ロボス 56歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍元帥(第七章終了時点)
役職:宇宙艦隊司令長官(第七章終了時点)
性格:豪放で大らか。社交的な性格。
容姿:小柄でどっしりとした肥満体。将帥にふさわしい威厳の持ち主。
能力:リスクを厭わず、大胆に仕掛ける用兵に定評がある。対人調整や政治的な折衝にも長ける。人の心に入り込むのがうまい。雑務が苦手。
略歴:同盟軍きっての名将。ヴァンフリート星域の戦いでは精彩を欠いた。
史実:帝国領侵攻に失敗して、同盟軍を壊滅に追い込んだ愚将。
初出:第十八話

ユリエ・ハラボフ 23歳 女性 チェコ系
階級:自由惑星同盟軍大尉(第九章終了時点)
役職:憲兵司令官副官(第九章終了時点)
性格:生真面目で繊細。自分を追い込んでしまうところがある。
容姿:すっきりした目鼻立ちの美人。手足が長く、スタイルが良い。身のこなしには無駄がない。
能力:士官学校を上位で卒業したエリート。仕事ぶりは丁寧で細かい。簡潔明瞭で無駄がない文書を作る。徒手格闘の達人。
略歴:エリヤの後任の副官。努力が空回りして、ドーソン中将の不興を買う。エリヤの無神経な言葉に深く傷つき、口もきかない間柄になっている。
史実:登場しない。
初出:第四十一話

シンクレア・セレブレッゼ 48歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍中将(第八章終了時点)
役職:中央支援集団司令官、後方勤務本部次長(第八章終了時点)
性格:パワフルで自負心が強く、妥協を嫌う。攻勢に強いが、守勢には極端に弱い。
容姿:学者のような風貌。
能力:後方支援システムの構築と運営に卓絶した力量を持つ。リーダーシップにも長けていて、後方支援のプロ集団チーム・セレブレッゼを築き上げた。
略歴:同盟軍後方部門の司令塔。ヴァンフリート4=2基地攻防戦では、慣れない実戦指揮で醜態を見せた。ラインハルトに捕らえられそうになったが、エリヤが注意を引きつけたおかげで助かった。
史実:ヴァンフリート4=2基地の戦いで帝国軍の捕虜となった。
初出:三十五話

エマヌエーレ・カルーク 53歳 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第八章終了時点)
役職:中央支援集団副司令官(第八章終了時点)
性格:臆病で無責任。
容姿:企業の重役を思わせる恰幅の良さ。
能力:同盟軍最高の補給専門家。危機管理能力に長けた超一流の指揮官。
略歴:セレブレッゼ中将の片腕。ヴァンフリート4=2基地攻防戦では、口実を付けて戦闘に参加しなかった。
史実:登場せず。
初出:三十五話
出:三十五話

エイプリル・ラッカム 48歳 女性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第八章終了時点)
役職:中央支援集団参謀長(第八章終了時点)
性格:温和でユーモアがある。
容姿:小太り。そこらのおばさんっぽい。
能力:コミュニケーション能力が高い。対人関係の調整に長けている。
略歴:セレブレッゼ中将とは士官学校以来の盟友。ヴァンフリート4=2基地攻防戦では、セレブレッゼ中将に代わって指揮を取ったが、拙劣に過ぎて敗北した。
史実:登場せず。
初出:三十五話

ファヒーム 死亡時は50代後半 男性 アラブ系 故人
階級:自由惑星同盟軍少佐(第八章終了時点)
役職:ヴァンフリート4=2基地憲兵副隊長(第八章終了時点)
性格:横柄で口やかましいが、仕事には誠実。
容姿:短い白髪、鋭い目つき。
能力:実務に長けたベテラン。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で取り乱して突出したエリヤを救出した。時間稼ぎのために踏みとどまって戦い、壮烈な戦死を遂げる。
史実:登場せず。
初出:三十五話

カーポ・ビロライネン 33歳 男性 フィンランド系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団参謀長(第五章終了時点)
性格:真面目だが、他人の心情への配慮に欠けるところがある。
容姿:神経質で気難しそうな容姿。実年齢より5年は老けて見える。
能力:実務能力は極めて優秀。情報宣伝にも長けている。
略歴:ロボス大将の懐刀。エル・ファシル義勇旅団ではエリヤを棚上げして、実権を掌握した。
史実:帝国領侵攻作戦の情報主任参謀。
初出:第十九話

マリエット・ブーブリル 35歳 男性 フランス系
階級:義勇軍中佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団副旅団長(第五章終了時点)
性格:外面は良いが、自己中心的で気性が激しい。自己顕示欲が強い。
容姿:上品で優しげな美貌の持ち主。実年齢より5年は老けて見える。
能力:カメラの前では、嫌いな相手に対しても親友のように振る舞える演技の達人。
略歴:元従軍看護師で勲章も持っているが、世間的な知名度は低い。エル・ファシル義勇旅団ではトラブルメーカーだった。
史実:登場せず。
初出:第十九話

ヤン・ウェンリー 26歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第二章終了時点)
性格:冷静沈着。責任感が強い。整理整頓ができない。他人の期待通りに振る舞うことを嫌う。
容姿:ハンサムだが、身なりに無頓着なせいで冴えないように見える。
能力:頼りなさそうな風貌とは裏腹に、有能で精力的な指揮官。
略歴:士官学校卒のエリート。エル・ファシル脱出作戦を指揮した真の英雄。メディア受けしないコメントを連発したせいで、人気は盛り上がらなかった。
史実:自由惑星同盟末期最高の名将。生涯不敗を誇った用兵の天才。
初出:第五話

アーロン・ビューフォート 男性 アングロサクソン系
階級:中佐(第二章終了時点)
性格:さっぱりした性格。本当の意味での大人。
容姿:30半ばに見える。
略歴:エル・ファシル脱出船団旗艦の艦長。エリヤに絡まれたが、大人の対応をして泣かせた。
史実:大親征でビッテンフェルトを迎撃した。
初出:第七話

フランチェシク・ロムスキー 30代 男性 ポーランド系
職業:エル・ファシル市会議員、内科医師(第二章終了時点)
性格:気さくだがやや軽率。
容姿:大柄。
略歴:エリヤをエル・ファシル星系政庁に連れて行った。
史実:同盟から独立したエル・ファシル独立政府の主席を務めた。
初出:第三話 

 

第十章 力とは何か
  第四十二話:ルールの中で戦うということ 794年7月9日 ハイネセン市、憲兵司令部

 ヴァンフリート星系での戦闘終結後に拘束された将官7人の供述と帝国側から提供された資料によって、同盟軍内部に根を張っていたサイオキシン麻薬組織の構造が明らかになりつつあった。組織が結成されたのは30年ほど前。捕獲した帝国軍艦に積まれていたサイオキシンの中毒性に目を付けた同盟軍人Aが捕虜を逃がして、帝国側組織と連絡を持ったのが始まりだったという。強度の緊張状態に晒されている前線の軍人は常に強い快楽を求めている。麻薬は酒・賭博・セックスなどと並ぶ友だ。Aによって構築されたイゼルローン回廊経由のIルートから流れてきたサイオキシンが同盟軍内部に蔓延するまで、さほど長い時間はかからなかった。Aは僚友や部下を仲間に引き入れて組織を拡大していき、同盟軍内部のサイオキシン中毒患者は飛躍的に増大していく。

 事態を憂慮した憲兵隊は何度も摘発を試みたが、Aの組織は売人や下級幹部の間の横の連絡を絶って直属の上司以外と接することがないように系列化されており、逮捕者から有力な情報を引き出すことはできなかった。有力な情報を持っていると目された逮捕者がことごとく獄中で不自然な病死や自殺を遂げたのも組織の全容解明を妨げていたが、これは組織の手によるものであったことが判明している。Aとその部下達は表の世界でも着実に階級を上げて軍の要職に就き、正規の命令系統を悪用して軍隊を麻薬取引のために動かせるような権力を得た。表と裏の両方から軍隊に隠然たる影響力を行使する一大マフィアの誕生である。

 統合作戦本部首席監察官や国防委員会情報部長を歴任して大将まで昇進したAが10年前に退役すると、帝国側資料で「グロース・ママ」と呼ばれる幹部が新たな最高指導者に就任する。後方支援部門のエリートだったグロース・ママは立場を利用して軍の輸送組織を手中に収めて、従来はメンバーの手によって行われていたサイオキシンの輸送体制を改革した。軍の輸送艦は補給物資に紛れ込んだサイオキシンのコンテナをそれと知らずに輸送させられ、組織のメンバーは同盟領内のどこにいても商品を受け取ることができるようになった。グロース・ママが最高指導者に就任した時期と、同盟軍内部のサイオキシン中毒患者数が急増した時期はちょうど重なっている。

「しかし、あのラッカム少将が麻薬組織のボスだったなんて想像もつきませんでした」

 グロース・ママこと中央支援集団参謀長エイプリル・ラッカム少将の小太りで主婦みたいな容貌を頭の中で思い浮かべた。彼女と一緒にいた時間はそれほど長くないが、ユーモアに富んだ親しみやすい人柄には好感を持っていた。落ち着きを失っていたセレブレッゼ中将を諌めたのも見ている。あんな人格者が麻薬組織のボスだなんて、誰が想像できるだろうか。

「貴官の目でも悪党に見えるような人物なら、ボスにもなれなかっただろうな」

 ドーソン中将の口調に嫌味がまじる。彼は他人の間違いに気づいたら、嫌味たっぷりに指摘してくる。悪気があるわけでもないし、指摘自体は間違ってないから俺はあまり気にしないけど、腹を立てる人も多い。それはともかく、長年にわたって摘発の手を逃れてきた大犯罪者が俺にもわかるような尻尾を出しているわけもないという指摘は正しい。

「閣下のおっしゃるとおりです」
「ラッカムとその片腕のメレミャーニンは戦闘に乗じて行方をくらましたというわけだ。奴らは本当に悪運が強い。常識外の奇襲が無かったら、貴官に拘束されていたのだからな」
「残念です」

 同盟軍の勢力圏のど真ん中にあるヴァンフリート4=2宙域は安全地域とみなされていた。だから、大きな後方基地が置かれていたのだ。そんな場所に敵が一個艦隊もの大兵力を送り込んで来ることなど、誰も想像していなかった。軍事の専門家であればあるほど、あの戦闘が起きた理由が理解できないはずだ。俺が前の人生で読んだ戦記によると、ヴァンフリート星系の戦いの帝国側総司令官のミュッケンベルガー元帥は正統派の用兵家で奇策は使わないと評価されていた。ラッカム少将もクリスチアン大佐の言う偶然を味方につける能力の持ち主だったのだろうか。

「せめて、総司令部からの連絡がもう少し早ければ撤収できたものを。聞けば、二日前から敵の移動を察知していたのに警告すら出さなかったそうではないか。通信波で所在がばれる危険があるなどと言い訳しておるらしいが、怠慢としか言いようが無い。ロボス元帥は部下を甘やかし過ぎと言われているが、ここまで酷いとは思わなかった。小官が司令官なら、このような怠け者は司令部から叩き出しておるところだ」

 苦々しげにドーソン中将は吐き捨てた。敵の進駐を知らされた二日前から総司令部との連絡が途絶していたけど、こういう事情があったのか。常識外の敵の用兵に味方の怠慢。状況がすべてラッカム少将に味方していた。今になって思えば、司令部ビルにおける拙劣な迎撃指揮も状況を最大限に利用して、逃げ延びようとしたラッカム少将の策だったのかもしれない。俺が読んだ戦記や人物伝には彼女の名前はまったく出てこなかった。英雄名将がひしめくあの時代にあって、後方支援部隊の参謀長程度では名前を残せるはずもないから、それは当然のことだ。司令官のセレブレッゼ中将だって、ラインハルト・フォン・ローエングラムやアレックス・キャゼルヌの伝記の片隅に名前が出るだけなのだから。ラッカム少将のような歴史に名を残していない怪物がまだまだ宇宙に潜んでいるのかもしれないと思うと恐ろしくなる。

「セレブレッゼもセレブレッゼだ。腹心中の腹心が麻薬の売人に成り下がっていたことに気づかなかったとは。30年以上の付き合いなのに何を見ておったのか」
「セレブレッゼ中将は組織とは関係なかったんですか?」
「拘束された中央支援集団の将官5人はいずれも組織と関係ないことが判明した。戦死したリンドストレーム技術大将も無関係だ」

 組織と関係があったのは行方をくらましたラッカム少将とメレミャーニン准将だけだったということか。いろいろ良くしてくれたセレブレッゼ中将や戦死して二階級特進したリンドストレーム技術大将が無関係だったのには安心したけど、巨悪を取り逃がしてしまったことは悔やまれる。

「他の司令部メンバーの関与は?」

 佐官級の人物が麻薬組織に関与している可能性もささやかれていたはずだ。だから、俺は司令部メンバー全員拘束という命令を受けていた。知っている人間、たとえば入院したおかげで拘束を免れたブレツェリ少佐あたりが関わっていたらと思うと不安になる。

「佐官級、尉官級の関与者の名前が記されているリストだ。目を通したまえ」

 部隊や基地ごとに分けられた関与者リストには、百人近い佐官や尉官の名前が記されている。これだけの士官が麻薬組織に関与していたなんて恐ろしい話だ。中央支援集団司令部の項目を見ると、十数人の名前が載っている。俺と仲が良い人は一人もいない。全員が戦闘中に行方不明になっていた。結局、中央支援集団司令部に潜んでいた麻薬組織のメンバーは一人も拘束されなかったことになる。

「さすがにこれはがっくりきますね。何のために4=2基地にいたのか」
「君の無念はわかる。だが、ここまでわかっているのに捜査を打ち切らざるを得ない我々も無念なのだ」

 ドーソン中将は説明を続ける。捜査が進むにつれて、Aとラッカム少将が築き上げた組織の規模が当初の予想を遥かに上回るものであることがわかってきた。拘束者リストから漏れていた多数の将官が捜査線上に浮上し、軍中枢の高官の名前もあがっていた。組織の幹部の中には軍を退いた後に政治家に転身した者もいて、疑惑は政界まで波及しつつあった。同盟軍が消えてなくなりかねないほどの巨大疑獄に恐れをなした最高評議会は、国防委員会の反対を押し切って捜査打ち切りを決定。同盟・帝国の二国の憲兵隊による秘密合同捜査は表に出ることなく終結した。

 麻薬組織の幹部達への告発は行われず、全員が依願退職することとなった。彼らが拠点としていた部隊や基地は改編の名目で人員を総入れ替えされる予定だ。30年かけて同盟軍内部に張り巡らされた麻薬密売のネットワークは解体されたが、誰一人として公的な処罰は受けていない。軍人としてのキャリアを失ったものの、依願退職扱いで階級と勤続年数に応じた退職金と年金を与えられ、民間への再就職斡旋を受けることもできる。既に退役している者は何のペナルティもなく、民間での地位を保っていた。あまりに理不尽な結末に涙が滲んでくる。

「サイオキシン中毒になった兵士達は未来を失ってしまいました。それなのに組織の幹部は罪を問われること無く、兵士を食い物にして得たお金を持って第二の人生を謳歌しています。そんなことが許されていいのでしょうか?」
「許されていいはずがない。だが、我々は軍人だ。政府の決定には従わなければならない」

 民主国家ではシビリアンコントロールが鉄則だ。軍人は国民の代表たる政府に助言を行うことはできるが、それ以上の介入は許されていない。内心がどうであろうと、政府の決定に公然と異議を差し挟むことは許されない。軍隊はあくまで民主政治を守るための道具であって、自らの意思で行動してはならないのだ。政府の決定に軍隊が異議を唱えて独自の動きを始めたら、国家が軍隊に乗っ取られてしまう。それはわかっているけど、明らかに政府が間違っている時でも従わなければならないのだろうか?

 前の人生の俺は市民を守るという軍人のルールを踏み外したことですべてを失った。今の人生の俺はルールの原理原則を貫くことで信用を得た。ルールを守ることで自分が守られるということを何よりも痛感している俺にとって、ルールを踏み外す政府は自分を守らない存在だ。そして、ルールの枠組みの中で生きることによって守られる人間すべてを守らない存在だ。そのような政府にも軍人は従うべきなのだろうか?軍人は市民を守るべき存在ではないのか?

「政府が間違っていても、従わなければいけないんですか?」
「間違っているかどうかを決めるのは政府だ」
「政府だってルールに従わなければいけないでしょう?政府がルールを破ったら、どうすればいいのでしょう?」
「政府に従うというのが我々の守るべき至上のルールだ。それ以上は考える必要はない」
「しかし…」
「くどいぞ!」

 必死に食い下がる俺に耐え切れなくなったのか、ドーソン中将は怒りを爆発させた。

「フィリップス少佐、我々の仕事は政府の決定の範囲内でルールを守ることだ。ルールの解釈は政府が行う。我々に許されているのは、軍人としての立場からの助言と、有権者としての投票権を行使することまでだ」

 ドーソン中将は早口で彼らしい原則論を展開する。しかし、原則を踏みにじる相手にもそれが通用するのだろうか。

「貴官の信念を通したいのなら、政府に助言できるような立場になることを目指すべきではないか。実績を上げて、階級を上げて、政治家と親しくなって、政府の信頼を獲得するよう努力すべきではないか。違うか?」
「ルールの範囲内で戦うべきということですか?」
「そうだ。だから、小官はトリューニヒト幹事長と親しくしている。今回の秘密合同捜査もあの方の尽力のおかげで実現したのだ」

 そういえば、ドーソン中将に秘密捜査開始を伝えるメモを渡したのはトリューニヒトだった。憲兵司令部は国防委員会の指示で動いていたが、国防副委員長のネグロポンティはトリューニヒトの腹心だ。今回の捜査打ち切りは国防委員会が最高評議会決定に屈した形になっているが、その実はトリューニヒトが最高評議会に敗北したということなのか。

「小官とあの方は信念を同じくしている。だからこそ、小官は期待した。今回は力が及ばなかったが、これで終わりではない。いずれ、あの方はもっと強くなる。その時こそ、正義が実現する」

 トリューニヒトといえば、後世の評価では信念を持たない機会主義者、美辞麗句を弄ぶ煽動家と言われている。しかし、この目で見たトリューニヒトはそのようなイメージとは全然違っていた。人物伝や戦記が伝える評価が一面的なものでしか無いことは、今の人生で何度と無く経験している。切り取られた範囲においては正しいが、切り捨てられたものもだいぶ多い。トリューニヒトを機会主義者、煽動家と断じる後世の歴史は何を切り捨てたのだろうか。彼とドーソン中将が共有する信念、実現しようと考える正義とはどのようなものなのだろうか。

「トリューニヒト幹事長の信念とはいかなるものなのでしょうか?」
「貴官と同じだ。貴官ならあの方がなさろうとしていることを理解できるはずだ」

 俺の信念と同じ?俺には好き嫌いはあっても、信念と言えるほどのものはないぞ?トリューニヒト幹事長やドーソン中将ほどの人なら、もっと立派な信念があるんじゃないか?

「捜査の話はここまでだ。今からフェザーンでの任務について話そう」

 ドーソン中将は俺の思考を断ち切るかのように言葉を続けた。

「任務内容はある人物との面会。滞在期間は3日」
「どのような人物なのですか?」
「帝国が派遣した使者だ。その人物との面会をもって、捜査は完全な幕引きとなる」
「小官が同盟を代表して、帝国の使者と面会するということになるのでしょうか?」
「そうだ」
「帝国を代表しているからには相当な大物でしょう。小官の格では釣り合わないのではないでしょうか?」
「先方が貴官を使者として派遣するように要請してきたのだ」
「あちらが!?」

 俺を帝国の大物が指名してきただって?同盟では帝国の提督の名前ですら元帥や上級大将クラスを除けばほとんど知られていないし、帝国でも同盟の中将以下の提督はほとんど知られていないはずだ。一介の少佐を帝国が認知しているなんて思えない。一体どういうことなのだろうか。

「先方の事情はわからないが、貴官が来ることに意味があるらしい。交渉ではなくて面会と言っているから、とにかく貴官に会いたいのだろう」
「どうして小官なのでしょうか」
「わからん。交渉にあたっているトリューニヒト幹事長からは、先方が貴官との面会を希望しているとしか聞いていない」
「了解しました」

 ドーソン中将は俺の返事に満足そうにうなずくと、デスクの中から紙袋を取り出した。

「今回の任務にあたってはこれを使用してもらう。開けたまえ」

 紙袋を受け取って中を開けてみると、身分証とクレジットカード、衣服、帽子が入っていた。身分証の名義はイアン・ホールデン。生年月日も住所もでたらめだ。衣服も帽子も普段の俺なら着用しないようなデザイン。

「これはいったい?」
「非公式の使者なのでな。偽名を使ってくれ。貴官は顔が知れてるから、多少変装してもらわねばならん。後の手はずは退室後にハラボフ大尉に聞くように」
「はい」

 帝国の使者との面会だなんて、途方も無い大任だ。ヴァンフリート4=2での中央支援集団司令部メンバー拘束とは比較にならない。しかも、先方からの指名という。途方も無い大任に心臓が激しく鼓動し、お腹が痛くなり、冷や汗が背中を伝っているが、深呼吸をして必死で心を落ち着ける。緊張している場合ではない。今度こそは成功させて、期待に応えなければならない。 

 

第四十三話:フェザーンで甘味を食べながら 宇宙暦794年7月28日 フェザーン中心街

 宇宙空間は広大であるが、どこでも自由自在に航行できるわけではない。恒星風、恒星フレア、宇宙線、磁気嵐といった宇宙天気が不安定な宙域では、宇宙船の命とも言うべき計器類が不調を来たしてしまう。有人惑星から遠すぎる宙域では無補給の長期航行を強いられる。小惑星帯やブラックホールのある宙域では操船に苦労する。航路として使用できる宙域はそれほど多くなかった。特に同盟領と帝国領の間にはサルガッソー・スペースと呼ばれる広大な航行不可能宙域が広がっており、イゼルローン回廊とフェザーン回廊という二つの安全宙域のみが人類世界を二分する二大国を結んでいる。現在の同盟領に銀河連邦の衰退期に放棄された植民星が多数含まれていることから、全盛期には他にも航路が通じていた可能性も指摘されているが、現時点ではこの二回廊を除く航路の存在は確認できていない。

 イゼルローン回廊にイゼルローン要塞が置かれていて、同盟と帝国の軍事衝突が絶えることはない。もう一方のフェザーン回廊は中立国フェザーン自治領の支配下にあって、二国を結ぶ唯一の安全な交易路だった。フェザーン自治領は公式には帝国の傘下にあって、自治領元老院によって選出された一代領主の自治領主は公爵に匹敵する宮廷序列を認められる代わりに貢納義務を負う帝国諸侯ということになっている。数千に及ぶ帝国諸侯の中では自治領主は少数派ではあるものの、稀少な存在というわけでもない。

 ゴールデンバウム朝の初代皇帝ルドルフは皇室の藩屏たる世襲貴族はゲルマン系でなければならないという信念を持っていて、非ゲルマン系の地方指導者を粛清してゲルマン系の貴族領主に入れ替えていった。しかし、さすがのルドルフも非ゲルマン系の地方指導者を粛清し尽くすことはできず、自治領主の肩書きと一代限りの貴族特権を認めることで妥協した。ほとんどの自治領は初代領主の死後に解体されて皇帝直轄領や世襲貴族領に編入されていったが、一部は寡頭制に移行して互選で自治領主を選出することを帝国に認めさせて自治権を保った。地球教総大主教の自治領となっている地球もその一つだ。フェザーン自治領の特異さは自治領という統治形態ではなく、その経済力にある。

 投資ファンド経営者として名を馳せた地球出身のレオポルド・ラープは財政再建に取り組んでいたコルネリアス一世の経済諮問会議のメンバーとなって信任を得ると、フェザーン回廊に経済特区を設立することを提案した。同盟との交易を停滞している帝国経済のカンフル剤にしようというのである。賛同した帝国政府首脳はラープをフェザーン自治領主に任命して帝国通商代表を兼ねさせると、同盟との通商協定交渉にあたらせた。絶対悪である帝国との通商協定締結に難色を示した同盟政府に対し、ラープは帝国ではなくフェザーン自治領を協定の対象とするという妥協案を示して締結にこぎつける。その後、ラープは両国政府と交渉してフェザーン回廊を通した経済活動に有利な法律を次々と制定させ、フェザーン企業は帝国と同盟の両方で経済活動を認められた唯一の存在となり、フェザーン籍を持つ者は帝国と同盟をフリーパスで移動できる唯一の存在となる。

 フェザーン回廊の排他的管理権と全宇宙における経済活動の自由を保障されたフェザーン自治領の将来性は誰が見ても明らかだっただろう。対外交易を望む同盟と帝国の企業は相次いでフェザーンに拠点を移し、投資家も先を争うように資金を投下した。大部分が岩砂漠に覆われた不毛の惑星の狭いオアシスはあっという間に人類世界の流通と金融の中心に発展し、帝国と同盟の政府が気づいた時にはフェザーン自治領の経済力は手が付けられないほどに巨大化していた。現在のフェザーン自治領は経済力を背景に二大国のどちらにも掣肘されない地位を保ち、中立の利を活かして外交交渉の仲介も行っている。現在は二年前に就任したアドリアン・ルビンスキーが自治領主を務めていた。

 フェザーンといえば、誰もが極端に自由化された経済と極端な功利主義を思い浮かべるだろう。しかし、俺が前の人生で読んだ歴史の本では別の顔が描かれていた。初代自治領主のレオポルド・ラープが経営していた投資ファンドは、地球教団の出資によって設立されたフロント企業だった。地球教団はラープを使ってフェザーン回廊に経済特区を設立して、経済界の覇権を握ることで帝国や同盟に対抗するつもりだったと言われている。しかし、巨大化したフェザーン経済は自治領主とそのバックにいる地球教団のコントロールできる範囲を遥かに超えていた。フェザーンのビジネスマン達は国境を超えてひたすら己の利益を追求し、自由競争という名のカオスがフェザーン社会を支配した。

 地球教団にできることは自治領主に命じて帝国と同盟の勢力均衡を図り、両国の和平を考える者を排除することぐらいだった。自治領主はダミー企業を使って同盟と帝国の経済に影響力を浸透させていったが、市場においては自治領主ですらプレイヤーの一人でしか無い。フェザーンの企業は同盟と帝国の国債を購入し、軍需物資を売りつけることで巨大な経済的利益を得たが、彼らが統一された意思のもとに動くことはない。それが経済を武器とするフェザーン自治領主の限界だった。

 やがて、ラインハルト・フォン・ローエングラムの台頭によって地球教の勢力均衡政策は破綻し、五代自治領主ルビンスキーは帝国の銀河統一を促進することでフェザーンの生き残りを図ったが失敗に終わる。ラインハルトの手でフェザーン自治領は解体されて、ローエングラム朝の帝都となった。経済を武器にして策謀を弄んだが大勢を動かせなかったというのが歴代の自治領主とその背後にいる地球教団に対する一般的な評価になるだろう。

 前の人生の俺は一度もフェザーンに行ったことがない。強いて繋がりを見出そうとしたら、宇宙暦801年のルビンスキーの火祭りで大火傷を負ったことぐらいだろう。しかし、これはルビンスキーの個人的なテロであって、フェザーンとはまったく関係ない話だ。一般的な評価以上のことを知らない俺の目には、フェザーンはどのように映るのだろうか。宇宙暦794年7月28日午前6時、俺は生まれて初めてフェザーンの土を踏んだ。


 イアン・ホールデンの偽名を名乗っている俺は、憲兵司令部から派遣されてきた三人の護衛とともに家族旅行の名目で入国した。44歳のフヴァータル大尉がホールデン一家の父親役、38歳のヴァシリチェンコ中尉が母親役、22歳のモンテス曹長が姉役を務め、俺は末っ子ということになる。俺より年下で老け顔でもないモンテス曹長の弟役という設定は気に入らないが、これも任務だから仕方がない。それよりもっと重大な問題があった。

 フェザーン中心街のホテル・メルキュール。そのクローゼットの前で俺は呆然としていた。鏡の中に写っている俺の顔はオレンジ色に染めた髪を女の子みたいなふわふわした感じにセットされ、眉毛は細く整えられ、マスカラを付けられたまつ毛はきれいにカールし、目元にバッチリ付けられたアイシャドーはただでさえ大きな目をもっと大きく見せ、薄い唇はリップとグロスでぷっくりつやつやしている。服装も酷いものだ。上半身は白と灰色の淡いボーダーのカットソーに薄いベージュの七分袖ニットカーディガンを羽織り、下半身にはオリーブ色でふくらはぎの真ん中辺りまでの長さのクロップドパンツを履いている。足にはくるぶしまでの長さしか無い短い靴下。用意されている靴はコットンのサマーシューズ。なんていうか、さすがにこれは酷いんではなかろうか。涙が滲んでくる。

「似合ってらっしゃいますよ」

 顔のメイクを担当したお姉さん役のモンテス曹長は俺の気持ちも知らずににこにこしている。似合っているかどうか以前の問題だということをわかっていない。

「フィリップス少佐だとわからないようにという目的は達してるよな。出回ってる画像はみんな爽やかスポーツマンぽいから」

 お父さん役のフヴァータル大尉の呑気な論評に皆が頷く。

「服を選んだのってハラボフ大尉でしたっけ。あの人らしく、ちゃんと計算されていますね」

 お母さん役のヴァシリチェンコ中尉が言うとおり、この服装は全部ドーソン中将の副官のハラボフ大尉が買い揃えたものなのだ。どういう名前の服かも知らなくて、全部モンテス曹長に聞いて知ったほど、俺とは無縁な種類の服だ。髪型やメイクもハラボフ大尉の指示。俺とわからないようにするという目的は確かに達しているかもしれない。しかし、こんなふわふわした格好にする必要がどこにあるのだろうか。彼女が俺に抱いている怒りの大きさを痛感させられる。

「仕上げはこれね」

 モンテス曹長は嬉しそうな声で俺の頭に大きめの帽子をかぶせる。これはキャスケットというのだとさっき知った。だめだ、こんな格好で外に出るなんてあってはならないことだ。俺の私服はジャージかTシャツが基本で、季節によってTシャツの袖が長くなったり短くなったり、上にジャンパーを羽織ったりする程度の変化しか無い。アンドリューに「ハイスクールの運動部員」と言われたことがある。

「ホテルに入るまでの格好でいいんじゃないかな。こういう任務は目立っちゃいけないって言うでしょ?ほら、パーカーとジーンズって目立たないし」
「普通の格好でしょ」

 必死の懇願はモンテス曹長にあっさり却下される。すがるような目でフヴァータル大尉とヴァシリチェンコ中尉を見るも、助け舟は出なかった。しかし、外に出ないわけにはいかない。面会前日の今日はフェザーンの下見をしなければならないのだ。すべてを諦めた俺は力なくうなずいた。


 ホテルの外に出た俺達4人はフェザーン中心街をゆっくりと歩く。人が多すぎて気を抜くと流されてしまいそうになる。ハイネセンの中心街も人が多いのが嫌で滅多に行かないけど、この街はそれよりひどい。やはり、俺には故郷のパラディオンの中心街ぐらいがちょうどいい。人混みのせいでこの格好があまり人に見られずに済むのは唯一の救いだ。

「それにしても凄い街だね、父さん」
「宇宙で一番賑やかな街だからな。何度来てもこの街はいい」

 親子という設定になってるのでフヴァータル大尉のことを父さんと呼んでいる。親子の会話みたいなものは60年以上やっていないから、ついぎこちなくなってしまう。

「ファッションの都だもんね。おしゃれな人ばっかりで面白い」

 モンテス曹長は声を弾ませてフヴァータル大尉に話しかけた。彼女はファッションが好きらしく、客船の中でもずっとファッション誌を読んでいた。そんな人の目から見たら、おしゃれな人が多いのかもしれない。しかし、俺から見たら、とんでもない色彩の服、遠い過去からタイムスリップしてきたような服、デザインが奇抜すぎて服としての機能が果たせなさそうな服、未来に知己を求めた方が良さそうな服など、本当に変な服装の人ばかりだ。これに比べたら、俺の格好なんてそんなに変じゃないような気がしてきた。このファッションの多様性も自由惑星同盟より自由と言われるフェザーン自治領の気風の現れかも知れない。

 かねてからの予定通り、フェザーンで一番うまいスイーツを食べさせてくれると言われているカフェレストラン「ジャクリーズ」に入る。フェザーン出発が決まった当日にドーソン中将に頼んで予約を入れておいてもらった。フェザーンは何々の都という称号を千個以上持っていると言われるような街で、スイーツの都の称号も持っている。かのユリアン・ミンツは街を歩いて電子新聞を読んだだけでフェザーンの豊かさを理解したと言われるが、やはり俺は俺なりのやり方で理解したい。

「ケーキ、一番上から五番目まで。あと、オニオンスープとボイルドソーセージ三本とピラフ」
「え…?」

 俺が注文すると、フヴァータル大尉とヴァシリチェンコ中尉とモンテス曹長は驚いたような表情を浮かべて顔を見合わせる。

「どうしたの?」
「それ、全部食べるの…?」
「母さん達の分も一緒に頼むわけ無いじゃん。自分で食べる分は自分で頼まなきゃ」

 ヴァシリチェンコ中尉は俺の返事を聞いて首を傾げていた。首を傾げたくなるのは俺の方だ。何が不思議なんだろうか。注文の品が来ると、さっそく口をつける。まずはラズベリーケーキ。うまい。あっという間に全部平らげてしまった。その次はモンブラン。うまい。さすがはフェザーンだ。オニオンスープをすする。甘さの余韻が残る舌にしょっぱい味が染みわたる。最初に頼んだ品を食べ終えると、今度は六番目から十番目のケーキを注文した。他にピザ二枚とポタージュ。それを食べ終わったら、十一番目から十五番目のケーキとトーストとグラタンとオニオンスープを注文する。

「イアン…」
「どうしたの、姉ちゃん」
「いや、どうしてそんなに食べられるのかなあって…」
「俺はケーキと一緒に必ず温かいものを頼んでるよね。それがコツなんだ」
「えっ?」
「ずっと甘い物ばかり食べてると、舌が甘さに慣れちゃうでしょ。そうすると、せっかくのスイーツがおいしくなくなっちゃう。だから、ときおりしょっぱい物や脂っこい物を食べて、舌から甘さを消すわけ」
「そ、そうなの?」
「舌に甘さを残さないことが大事なの。いつも、新鮮な気分でスイーツを口に入れたいでしょ」
「は、はい…」
「姉ちゃんもやってみたらいいよ。あんま食べてないでしょ」

 ベイクドチーズケーキを口の中でもぐもぐさせながら、モンテス曹長の疑問に答えた。あまり納得してもらえていない感じなのはどうしてだろう。俺にしては珍しく役に立つことを言ったつもりなのに。

「そんなに食べたら太らないか?」
「平気平気、スイーツは別腹だから太らない」
「だが、スイーツ以外でも結構食べているだろう」
「でもないよ。父さんは気にしすぎじゃない?」

 フヴァータル大尉は何を疑問に思っているのだろうか。俺の体格を見たら、一目瞭然だろうに。ピザにかじりつく俺を見て、ヴァシリチェンコ中尉は目を細めた。

「その格好、似合ってるねえ」
「母さん、いきなりどうしたのさ」
「いや、似合ってるって思って」
「変なの」

 噛み合ってない気がするけど、家族の会話ってこういうものなのかな。まだ家族と仲が良かった頃もあんま会話噛み合ってなかったもんな。父は微妙に空気読めてなくて、母はやたらと心配性で、姉のニコールは言葉がきつくて、妹のアルマは脳天気に物を食べてばかりだったっけ。あれ、なんで家族のことを懐かしく思い出したんだ?彼らが俺に何をしたのか、忘れるはずもないのに。特にアルマ、俺が焼いたアップルパイを目の前でゴミ箱に捨てられたことは忘れないぞ。食べてもらえたら、許してもらえると期待してたんだ。二度と料理できなくなるぐらいショック受けたんだぞ。

「大丈夫、イアン?」
「何が?」
「どうして泣いてるの?」

 モンテス曹長に指摘されて、自分の目から涙が流れていることに気づいた。ナプキンで拭いても拭いても流れてくる。遠い昔の悲しみを今の甘味で忘れようと思って一心不乱にスイーツを食べ続けた。

 二十二種類のケーキを食べ終えた俺は他の三人とともに店を出た。メニューを制覇したいという俺のわがままに付き合わせてしまったことは申し訳ないが、しかしこれはフェザーンを理解する上ではどうしても必要なことだったのだ。スイーツというのは一種の嗜好品である。スイーツが凝っているかどうかは、フェザーン社会の経済的・精神的余裕を示すバロメーターになる。スイーツを食べている客層も社会を分析する上で参考になる。フェザーンにおいてスイーツを楽しむ余裕がある階層は、フェザーン経済において最も有力な消費層を形成しうるはずだ。三人にそう説明すると、目の付け所が違う、さすがだなどと感心された。もちろん、全部後付けである。フェザーンはスイーツの都に恥じない街だということがわかったのは収穫だったといえよう。

 帰りはバスか無人タクシーを使おうと思って店から5メートルほど離れた場所にあったバス停を見ると、ホテル・メルキュール前に停まるバスがあるようだ。時計と時刻表を見比べたら、今から5分後に到着することになっているらしい。10分遅れの15分後に到着したら御の字だと思って待つ。遠くからバスが近づいてくるのを確認した時、意外な早さに驚いて時計を見たらちょうど5分で到着していた。バスが時間通りに到着するなんてことがあるんだ。

「凄いね、父さん」
「何が凄いんだい?」
「だって、時刻表通りにバスが来るんだよ」
「フェザーンではそれが当たり前さ」
「バスやリニアカーが時刻表通りに到着するなんて、ネットのジョークネタだと思ってた」
「時刻表通りに到着しない同盟のバスやリニアカーの方がジョークかもしれんよ」

 フヴァータル大尉の答えになるほどと思ってしまった。フェザーンの公共交通が凄いんじゃなくて、同盟がおかしいという見方か。まあ、確かに必ず遅れてくるなら時刻表の意味ないもんな。国が違えば常識も違う。当たり前だけど、それだけに大事なことだ。明日は帝国の使者との面会。常識の違いを肝に銘じないといけないと思いながら、バスに乗り込んだ。 

 

第四十四話:国境を越えて託された思い 宇宙暦794年7月29日 フェザーン市、「コーフェ・ヴァストーク」マラヤネフカトゥルム店

 帝国側の使者、ループレヒト・レーヴェから送られてきたメールで待ち合わせ場所に指定されていたのは、「コーフェ・ヴァストーク」マラヤネフカトゥルム店。「コーフェ・ヴァストーク」は帝国、同盟、フェザーンの三か国に展開するフェザーン資本のコーヒーチェーン。マラヤネフカトゥルムはフェザーン最大のオフィス街ジファーラ地区の外れにある超高層ビル。見るからにビジネスマンが多そうな場所にこんなふわふわした格好で行ったら浮いてしまうんじゃないかと不安だったが、いざビルに来てみるとそうでもなかった。有名企業がたくさん入居しているはずなのに服装がきっちりしている人はあまりいない。ネクタイをしている人は半分もおらず、明らかに私服としか思えないような格好の人も多い。Tシャツにハーフパンツ、素足でサンダルなんて人までいる。ハイネセンのオフィスビルではネクタイを締めてる人の方が多く、まして私服同然の格好の人なんてまず見かけない。あらためて、フェザーン人の服装に関する自由な考え方に驚く。

 一階にあるコーフェ・ヴァストークの店内に足を踏み入れ、カウンターの若い男性店員に帝国語で声をかける。フェザーン自治領は名目上は帝国の主権下にあるので、公用語も帝国語なのだ。同盟公用語を話せないフェザーン人なんているはずもないが、やはり帝国語の方が無難だろう。

「ループレヒト・レーヴェさんはどちらの席においででしょうか?」
「イアン・ホールデン様でございますね。ただ今ご案内いたします」

 店員は俺の格好に驚く様子を一かけらも見せずに丁寧に応じると、伝票を持ちながら歩き出した。ちらっと店内を見ると、ラフな格好の客が多い。きっちりした格好の方が浮いていたに違いない。席と席の間の通路は広めで何かあっても動きが取りやすい。場所選び一つをとっても、ループレヒト・レーヴェは用意周到な人らしい。

「こちらでございます」

 店員は店の奥まで歩いて行くと、角の席を指し示す。そこに座っていたのは30歳前後と思われる黒い髪の男性。俺に気づいて席から立ち上がろうとしていた。精力的な面構えに広い肩幅。白いワイシャツの上にダークグレーのジャケットを着ているが、ネクタイは付けていない。俺が言うのもなんだけど、あまり軍人っぽく見えない。内務省の警察官僚、あるいは司法省の検察官あたりだろうか。

「イアン・ホールデンさんですね。はじめまして、ループレヒト・レーヴェです」
「はじめまして」

 俺が帝国語で挨拶すると、ループレヒト・レーヴェは笑顔を浮かべて手を差し出してきた。俺も手を差し出してしっかりと握手をする。レーヴェの手は大きいけれどそんなに厚みはなくて柔らかい。軍人らしくないという第一印象を裏切らない手だ。

「それにしても、意外とかわ…、いやお若いですな」

 意外そうな表情をレーヴェは浮かべる。予想はしていたけど、実際に言われてみるとちょっと傷ついてしまう。レーヴェが悪いわけではない。俺の顔と服装を選んだハラボフ大尉が悪い。動揺を見せないように笑顔を作る。

「良く言われます」
「仲介者から憲兵司令官の側近中の側近と聞いておりましたので、もっと年配の方かと。失礼いたしました」
「あなた方の側から僕を直接指名いただいたそうですが、名前以外の情報は伝わっていなかったのでしょうか?」

 同盟全軍で数十万人もいる少佐の一人にすぎない俺を名指ししてくるぐらいだから、帝国側はかなり俺のことを深く調べているものとばかり思っていた。しかし、憲兵隊における立場ですら交渉を仲介した人間に教えられたみたいだ。名前程度しか知らないなら、なぜ俺を指名したのだろうか。

「我々はあなたの本名も存じておりません。ヴァンフリート4=2基地の麻薬組織メンバーの逮捕権を持っていた人物と会いたいという要望を伝えました」
「そういうことでしたか」
「あれほどの大任を任される人物であれば、かなりの重鎮であろうと予想しておりました。交渉にあたっていた貴国の政治家が将来の我が軍を背負って立つエリートだと言っていたと仲介者から聞いていたこともあって、知らず知らずのうちに先入観を抱いてしまっていたようです。先入観は軍人が最も忌避すべきものですが、なかなか逃れることができません。お恥ずかしい限りです」

 非を認めるレーヴェの率直さに好ましいものを感じた。有能であればあるほど、プライドが邪魔をして自分の非を認めることができないものだ。彼のようないかにもやり手と言った雰囲気の人物にしては珍しい率直さと言える。良くできた人だと思った。

「いえ、こちらもあなたが警察官僚か検察官だとばかり思っていました。先入観というのは怖いですね。4=2基地でも先入観に惑わされて、組織の最高指導者を取り逃がしてしまいました。真実を見抜く目がないことをこれほど悔やんだことはありません」
「官僚に見えると言われることはあまり無いので新鮮です。弁護士に見えるとは良く言われますが」

 爽やかに笑ってみせるレーヴェの顔を見て、自分が彼を警察官僚や検察官と勘違いした理由がわかった。率直に非を認めたことからも伺えるように、何よりも公正さを重んじて生きているように見えるのだ。他人の命を預かる軍人は自分の判断に自信を持たなければ務まらないから、しぜんとプライドも高くなる。プライドを保とうとして、公正さを欠いてしまう者も少なくない。プライドより公正さを優先できるレーヴェが弁護士に見えるのも無理は無い。

「僕は若く見えると言うより、幼く見えると良く言われます。内面の未熟さが外見に反映されているのかもしれません」
「グロース・ママを取り逃がしたのはあなたの責任ではありません。本日はそのことを伝えに参りました」

 レーヴェの表情から笑みが消えて、眼光が鋭くなる。電光に打たれたかのような緊張が体に走る。

「僕の責任ではないと言うのは、どういうことでしょうか?」
「捜査情報が漏れていたのです。我が国の憲兵隊の中に組織に内通していた者がおりました」

 グロース・ママとはサイオキシン密輸Iルートの同盟側組織のトップだったエイプリル・ラッカム少将のこと。彼女は俺が中央支援集団司令部の拘束命令を受けていたことを知っていたのかな。いや、漏れたのは帝国側の捜査情報だから、捜査の手が中央支援集団司令部に伸びている程度の情報しか持っていなかった可能性のほうが高いか。帝国軍の憲兵隊と合同捜査をしていたけど、捜査情報を完全に共有していたわけではない。容疑者を拘束する手段みたいな技術レベルの情報は共有する必要もない。

「だから、ヴァンフリート4=2に帝国軍が進駐してきたのを奇貨として逃亡を図ったんですね。恥を晒すようですが、我が軍の勢力圏のど真ん中にあるあの基地で戦闘が起きるとは夢にも思っていませんでした。油断としか言いようがありませんね。僕は想定外の戦闘に慌てふためいていたのに、ラッカムは逃亡に利用することをとっさに思いついていました。認めたくはありませんが、自分の器量はラッカムに遥かに及びませんでした」
「あの場所で戦闘が起きるなんて、誰も思っていなかったでしょう。起きるように仕組んだ者以外は」

 起きるように仕組んだ?ヴァンフリート4=2基地攻防戦は偶然起きた戦闘ではなくて、起きるべくして起きた戦闘だということなのか。しかし、誰が何のために。

「どういうことでしょうか」
「敵の勢力圏のど真ん中に一個艦隊を配置するなど、用兵の常識では有り得ません。全滅してくださいと言っているようなものですから。そして、一個艦隊もの大戦力が自軍の勢力圏を長駆するのを見過ごすのもやはり有り得ません。有り得ないことを起こしたのは、グロース・ママとその手先です」
「しかし、一個艦隊を動かすとなると、総司令官の判断になるんじゃないですか?今回の事件を担当して大抵のことには驚かなくなりましたが、宇宙艦隊司令長官が敵国の麻薬組織のボスに便宜を図るなんてさすがに有り得ないでしょう?」
「我が軍の宇宙艦隊総司令部の幕僚に、ヴァンフリート4=2に艦隊を配置するよう総司令官を誘導した者がいました。ヴァンフリート4=2が敵の勢力圏外であるかのように偽装する工作が行われた形跡もあります。総司令官は幕僚の意見をあまりお疑いにならない方です。誘導に乗って4=2宙域に艦隊を移動させました」

 ミュッケンベルガーの用兵のミステリーの謎が思わぬところで解けた。ヴァンフリート4=2の戦闘は彼の気まぐれな用兵で起きた遭遇戦じゃなくて、幕僚の誰かが意図的に起こしたものだったのだ。だから、前の人生でも今の人生でも発生した。しかし、それでは説明がつかないこともある。同盟軍総司令部が敵艦隊の移動を察知した時点で4=2基地に連絡を入れていたら、戦闘が起きる前に中央支援集団は安全な場所まで撤収していただろう。同盟軍の誰かが自軍の勢力圏内を横断する敵艦隊を見つけていたら、喜んで攻撃を仕掛けていたはずだ。総司令部の怠慢や通信の混乱が起きなかったら、4=2基地の戦いも起きなかった。

「総司令部の怠慢で4=2基地への連絡が遅れなかったら、あるいは通信が混乱して我が軍が円滑に動けない状況に陥っていなかったら、誘導者が意図した4=2基地攻撃は空振りに終わったはずです。あまりに偶然に頼りすぎた策ではないでしょうか?」
「これは憶測ですが、そちらの総司令部にグロース・ママの手先がいたのではないでしょうか。通信が混乱して同盟軍が動けないことを帝国側の組織に伝えた者、4=2基地への連絡を握り潰した者が。それが誰であるかは我々には知る由もありませんが、帝国側組織の者が数回にわたってそちらの組織に連絡を入れた形跡はあります」

 同盟軍の宇宙艦隊総司令部の幕僚の中に麻薬組織のメンバーがいたことは今回の捜査でわかっていた。取り調べでは組織の実態解明を目的としていたし、ヴァンフリート4=2基地の戦闘がラッカムを逃がすための策略だと想像していた者もいなかった。麻薬組織のメンバーがヴァンフリート星系の戦いでどんな動きをしたのかを検証は行われていなかった。偶然と思っていたことが全部仕組まれたことだったら、前と今の人生の4=2基地の戦いが同じ展開になるのはむしろ当然だろう。前の人生でも同盟と帝国の憲兵隊が合同で麻薬組織を取り締まろうとしていて、内通者からの情報でそれを知ったラッカムが帝国側組織と図ってグリンメルスハウゼン艦隊を4=2基地に差し向けて逃亡した。そう考えると、やるせない気持ちになる。

「4=2基地の戦闘では部下が大勢死にました。僕を逃がすために死んだ者もいます。偶然起きた戦闘での死なら諦めもつきます。しかし、仕組まれた戦闘で死んだのなら…」

 わずかな憲兵とともに押し寄せてくる敵を迎え撃って俺を逃がしてくれたファヒーム少佐の背中、俺の突撃に巻き込まれて倒れたデュポン大尉らの最期が脳裏に浮かぶ。怒りとも悲しみともつかない感情で胸が詰まり、涙が滲んできた。こんなくだらない策略のために彼らは死んだのか。いや、彼らだけではない。4=2基地の戦闘では三万人の戦死者が出た。生き延びたものの怪我の後遺症で体が不自由になった者もいる。俺だって死にかけたし、後遺症が残ってもおかしくなかった。兵士達をサイオキシン中毒者にして荒稼ぎして、捜査の手が伸びてきたら敵に味方を攻撃させて屍の山に紛れて逃亡する。どこまで自分勝手な連中なのだろう。

「あなたの無念はお察しします。私を派遣なさった方がヴァンフリート4=2基地の麻薬組織メンバーの拘束命令を受けたあなたを指名したのもそういう理由です」
「レーヴェさんを派遣された方というのはどういう方なのでしょうか?」
「ヴァンフリート4=2に進駐した艦隊を指揮なさっていた方です」

 前の人生では皇帝フリードリヒ四世の腹心だったグリンメルスハウゼン子爵がヴァンフリート4=2に進駐した帝国軍艦隊の司令官だったはずだ。前の人生と今の人生のヴァンフリート4=2の展開は全く同じだった。地上部隊の指揮官も同じリューネブルク准将とラインハルト・フォン・ミューゼル准将だった。そう考えると、レーヴェを派遣したのはグリンメルスハウゼン子爵なのだろうか。確証がないのに断定する訳にはいかないが。

「その方はなぜ僕を指名されたのでしょう?」
「結着を付けさせるためと言っておりました。私とあなたの両方に」
「レーヴェさんにも?」
「私はヴァンフリート4=2に進駐した艦隊に潜んでいる麻薬組織メンバーの拘束命令を受けていました。今の主の知遇を頂いたのもその時でした」

 レーヴェが使者となった理由がようやく分かった。薄々感じてはいたけど、彼は憲兵隊で捜査に関わった人間だった。しかし、わからないことがある。

「憲兵のあなたがなぜ艦隊司令官の指示で動いていらっしゃるのでしょうか?そして、なぜ私にこの話を聞かせようとなさるのでしょうか?あなたが捜査情報をご存知なのはわかります。しかし、憲兵隊の上司に無断で他人に伝えて良いものなのでしょうか?」
「憲兵隊は捜査を打ち切りました。ヴァンフリート星系の戦いが終わった直後のことです。捜査記録は破棄されて、捜査自体が無かったことにされました。拘束された者も全員即時釈放されています。捕虜になったグロース・ママとその配下は移送中に事故で全員死亡」

 あまりにも酷い結果に頭がクラクラしてしまう。捜査記録を破棄して、容疑者を全員釈放して無かったことにするって同盟よりずっとひどいんじゃなかろうか?この調子なら、捕虜になったラッカム達も事故を装って自由の身になったのだろう。同盟は捜査を打ち切ったけど、麻薬組織のメンバーを軍から追放している。拠点になっていた部隊も徹底的に再編されたから、組織が再起できる見込みはない。それに引き換え、帝国の憲兵隊は何をしているのだろうか。どんな事情があるにせよ、これは納得できない。

「差し支えなかったら、打ち切られた理由をお聞かせいただけませんでしょうか。ちょっと納得がいかないのです」
「捜査を指揮しておられた憲兵総監は急病を理由に辞職して、翌日にお亡くなりになりました。後任の総監はすぐに捜査打ち切りを決定しています。どうやら、虎の尾を踏んでしまったようです」

 帝国の憲兵総監を務めるのは上級大将か大将。序列も結構高かったはずだ。そんな大物がいきなり辞職して次の日に死亡、後任が捜査打ち切りを決定って怪しんでくださいと言わんばかりに怪しい。

「一体、何が起きているのですか…?」
「組織の背後にいる政府高官の摘発。それが憲兵隊の最終目標でした。最有力の門閥貴族で現職閣僚でもあるその人物は何度も大きな疑獄事件に関係しましたが、そのたびに追及の手を逃れています。今回もまんまと逃げられてしまいました」

 同盟政府は社会的な悪影響を恐れて、捜査を打ち切った。しかし、帝国では一人の高官が自分のエゴのために事件を憲兵総監ごと闇に葬ってしまったのだ。どちらも理不尽だとはいえ、レーヴェの感じている怒りが俺より大きいことは想像に難くない。それなのに言葉が激しくなることもなく、淡々と言葉を続けている。驚くほどの自制心に尊敬の念すら感じた。

「憲兵総監はお亡くなりになる直前に、今の私の主に捜査記録のコピーを託されました。真相を知ったのも捜査記録を見せていただいたおかげです。あの方がおられなかったら、何も知らないまま辺境に飛ばされるところでした」
「ということは、レーヴェさんの主は力のあるお方なのですか?組織の背後にいる高官からあなたを守れるぐらいの力が」
「皇帝陛下より厚い信任をいただいているお方です」

 破棄されそうな捜査記録を保管し、レーヴェや俺に事件の真相を教えようとした善意の持ち主。憲兵総監を死に追いやることができるような権力者でも手を出せないほどの皇帝の信任が厚い人物。一体何者なんだろうか。

「立派な方なのですね」
「世の中にはびこる不正とそれを正す力がない自分に憤りながら、真実を残そうと尽力されてきた方です。不正を正す力を持つ者が現れる日のために」

 前の人生で読んだ歴史の本によると、ゴールデンバウム朝の門閥貴族の腐敗ぶりは酷いものだったという。無能なのに政府や軍部の高官の地位を占めて、民衆から搾り取った富で放蕩の限りを尽くし、宮廷の中で陰湿な謀略を巡らしていたという。そんな人々の中にあって、レーヴェの主は自分の限界を知りながらも絶望することなく、未来を信じて戦い続けた。後に続く者の捨て石となるために。なんと気高い精神の持ち主なのだろうか。名前を知りたいと思ったけど、好奇心で聞いてはいけないような気がした。

「4=2基地の戦闘で多くの人が死んだのに、捜査は打ち切られてラッカムも逃げ延びてしまいました。正義はどこにあるのか、わからなくなってしまいます。しかし、レーヴェさんの主のお話を聞いて、世の中も捨てたものではないと思いました。主のもとに戻られましたら、よろしくお伝えいただけると幸いです」
「承知しました」

 レーヴェは頷くと、上着のポケットの中から小さな紙の包みを取り出して俺に差し出した。

「これは何ですか?」
「憲兵隊の捜査記録データが入っている補助記録メモリです。そちらの憲兵隊に役立てていただきたいと主は申しておりました」
「わかりました。あなたのご主君の志、決して無にはいたしません」
「主は憲兵総監閣下から託された捜査記録を読み、ご自分が麻薬組織の策略に利用されたことに落胆して病にかかってしまいました。もって年内いっぱいでしょう。あなた方に主が託したのはデータだけではありません。志も託されたとそうお考えください」

 未来のために戦い続けて、報われる日を見ることなく世を去ろうとしている人物から、最後の志を託されたことに心が震えるような思いがした。顔も名前も知らない人だけど、その熱い心は十分に伝わった。涙を抑え切れなくなるほどに。

「はい」

 手で涙を拭いながらレーヴェに返事をする。ずっと穏やかな表情を保ったままの彼の前で泣くなんてみっともないけど、格好つけられるほど強くもない。格好悪くても、そこから始めるしかない。自分の無力を自覚しながらも戦い続けたレーヴェの主のように。

「私はオーディンに戻って、主が亡くなるまで精一杯お仕えするつもりです。亡くなられた後は辺境に行くことになるでしょう。一度虎の尾を踏んでしまった者が中央に戻れる見込みはありません。ですから、私の志もあなた方に託しましょう。国は違えど、不正を正そうという気持ちは変わらないはずです」

 同盟軍の辺境星系の基地は能力も意欲も低い人物や上層部から忌避された人物の吹き溜まりとなっている。帝国軍でも事情はそれほど変わらないはずだ。獅子泉の七元帥の一人で憲兵総監や内務尚書を歴任したウルリッヒ・ケスラー元帥のような名将ですら、ラインハルトの元帥府に招かれるという幸運がなければ辺境勤務で一生を終えるところだった。公正で誠実で剛毅なレーヴェがケスラー元帥のような幸運に恵まれてほしいと願う。ケスラー元帥は軍人というより弁護士に見えたそうだが、レーヴェもそんな感じだ。ケスラー元帥もレーヴェも憲兵だったし、年齢も近そうだ。性格も似ている。ケスラー元帥は前の人生でヴァンフリート4=2に進駐したグリンメウスハウゼン子爵に仕えていた時期がある。じつに共通点が多い。違うところといえば、髪の色ぐらいだけど。

 そういえば、俺は髪を染めている。レーヴェが髪を染めていないという保証もない。瞳の色だって、俺と同じようにカラーコンタクトをはめていてもおかしくはない。組織の背後にいる高官の手先に狙われているだろうから、変装をする必然性は俺より高いはずだ。ケスラー元帥はあまりメディアに出なかったから、容貌に関しては特徴的な髪の毛の色以外の印象があまりない。ループレヒト・レーヴェという名前も間違いなく偽名だろうし。もしかして…、と思ったけど確証はない。彼が何者であろうと、立派な人物であるのは間違いない。彼とその主を決して忘れたくない、託されたものをしっかり受け継ぎたいと思った。 

 

第四十五話:ヨブ・トリューニヒトの目指すもの 宇宙暦794年8月初旬 ハイネセン市、カンサイ風お好み焼き店「ヨッチャン」

 お好み焼きは小麦粉を生地、野菜、肉、魚介類、麺類などを具材とするパンケーキの一種だ。生地に混ぜ込んで鉄板で焼くカンサイ風と、生地の上に具材を載せて薄焼き卵で覆って焼き上げるヒロシマ風があり、ソースやマヨネーズなどで味付けをして食べる。安価でボリューム満点なために、庶民の味として親しまれてきた。主食、おかず、おやつなど多種多様な食べ方が可能な汎用性の高さも人気のもとだろう。

「お好み焼きを好んで食べる人達の間では、焼き方、入れる具材、食べ方によって激しい対立が生じている。それもこの食べ物が無限の可能性を含んでいるからだろうね。我が国では自由と多様性を大事にする民主主義の精神が食べ物にも息づいている」

 俺と憲兵司令官ドーソン中将と改革市民同盟幹事長ヨブ・トリューニヒトはカンサイ風お好み焼き店「ヨッチャン」で同じ鉄板を囲んでいた。トリューニヒトはコテを持ってお好み焼きを焼いて食べながら、俺とドーソン中将を相手に熱っぽく語り続けている。宇宙暦が始まる以前に遡るお好み焼きのルーツから説き起こし、具材の比較、カンサイ風とヒロシマ風の違い、お好み焼きを愛した偉人のエピソード、主食派とおかず派とおやつ派の仁義無き戦いなどに及ぶ話は実にスケールが大きくて面白かった。話し続けている間もコテを持つ彼の手は休み無く動き続けて、お好み焼きを焼き続けている。テーブルに置かれている白米の丼は、彼がおかず派に属していることを雄弁に語っていた。

「人類は1700年の時を費やしても、ついに主食派、おかず派、おやつ派の対立を解消することはできなかった。対立する者同士はお互いを邪道と罵り合い、同じお好み焼きを愛する同胞であるはずなのに憎み合うことをやめられなかった。しかし、憎み合っていても共存していかなければならない。なぜなら、我が国は民主主義国家だからだ。エリヤ君はクリストフ・フォン・ランツフートを知っているかい?」

 クリストフ・フォン・ランツフートは元の名をクリストファー・シャンクリーといい、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムが軍籍にあった頃からの同志だった。ルドルフが政界に転じた後も軍に留まって昇進を続け、軍人の立場から銀河連邦簒奪に手を貸した。ゴールデンバウム朝が成立すると、シャンクリーはランツフート公爵に叙せられて、名前をゲルマン風のクリストフに改めている。初代軍務尚書となったが、宇宙暦318年に不敬罪で処刑された。ルドルフ第一の忠臣と言われていたランツフート公爵の唐突な処刑の背景は未だに判明しておらず、銀河帝国史上屈指の謎の1つとされている。

「知っています」
「主食派のルドルフ・フォン・ゴールデンバウムは、お好み焼きを白米と一緒に食べる者を徹底的に弾圧した。ランツフートの処刑もお好み焼きと白米を一緒に食べたのが露見したからという説がある」
「お好み焼きの食べ方をめぐる争いって本当に深刻なんですね。初めて知りました」
「ま、これは今考えついた話だけどね」

 ソースや青海苔が付いたままの口元に微笑みを浮かべたトリューニヒトを見て、全身からへなへなと力が抜けていく。彼にはノリを重視して適当なことをポンポン言ってしまう悪癖があるけど、人懐こい笑顔を見せられたら腹を立てるのが馬鹿らしくなってしまう。トリューニヒトの真価は煽情的なパフォーマンスではなく、えも言われぬ愛嬌にある。これは今の人生になって初めて知ったことだ。知った時にはすっかり彼の愛嬌に心を掴まれてしまっていたけれど。

「いかにもありそうな話だろう?」
「え、ええ…」
「ルドルフがお好み焼きを食べたかどうかは知らないが、臣下や国民に自分の食べ物の好みを押し付けようとしたのは事実だ。主食派とおかず派が対立しながらも共存して、同じ鉄板で焼いたお好み焼きを食べることができる。それが民主主義の素晴らしさと私は思うね。君もそう思うだろ、なあ、クレメンス」

 トリューニヒトは砕けた調子でドーソン中将に同意を求める。

「まあ、幹事長のおっしゃる通りですな。小官はどうあっても、お好み焼きをおかずに白米を食べるなど承服いたしかねますが」
「ははは、君は本当に頑固だな。そこが君の良い所だが」
「恐れ入ります」

 大らかなトリューニヒトと几帳面なドーソン中将。正反対の二人が共有する信念っていったい何なのだろうか。退院当日にドーソン中将の話を聞いた時からずっと気になっている。フェザーンから帰った俺はトリューニヒトに食事の誘いを受けてドーソン中将とともにこの店に来たんだけど、まったく本題に入ろうとしない。まさか、お好み焼きを語るために俺達を呼んだわけでもないだろう。

「クレメンス、エリヤ君」

 俺の思考はトリューニヒトの声で中断された。表情から砕けた感じが消えて、静かな厳粛さが漂っている。ついに来たかと思い、体が緊張で硬くなる。

「すまなかった」

 トリューニヒトの口から出てきたのは謝罪の言葉。しかし、俺は彼に謝罪される覚えなど無い。

「どういうことでしょうか?幹事長に迷惑をかけられた覚えはないですよ」
「フィリップス少佐の言うとおりです。幹事長はできるだけのことをなさいました」
「私の力が及ばなかったせいで君達の苦労を無にしてしまった。君達だけではない。憲兵や4=2基地で死んだ者すべての苦労を台無しにしたのは私だ」
「幹事長の尽力がなかったら、ここまで戦えませんでした。フェザーンで使者に会って4=2基地の戦いの真相を理解できたのも幹事長のおかげです。本当にありがたいと思っています」

 国防委員会を動かして帝国憲兵隊との秘密合同捜査を実現させたのはトリューニヒトだった。最終的に捜査は打ち切られてしまったが、最高評議会が危機感を覚えるところまで粘ってくれた。ルーブレヒト・レーヴェとの会見を実現させるための交渉にあたったのもトリューニヒトだ。この事件に関しては、感謝の気持ちあるのみだ。

「犯罪者どもは軍を追い出されただけで大手を振って歩いている。奴らが麻薬取引で得た汚れた金を没収することもできなかった。馬鹿を見たのは巻き込まれた人達だけだ。理不尽だと腹を立てる資格も私にはない。ただただ、力不足を恥じるばかりだよ」

 憲兵隊は麻薬組織の幹部達の秘密口座、彼らが汚れた金を綺麗にするために使ったマネーロンダリングルートも抑えていたが、捜査が打ち切りになったために手出しできなかった。麻薬取引の拠点になった部隊は徹底的に改編されて、もともと所属していた人達はバラバラに転属された。中央支援集団も徹底的に改編されて、司令官のセレブレッゼ中将は辺境の第十六方面管区司令官に左遷されている。

「セレブレッゼ中将は本当にお気の毒です」
「後方勤務本部の次期本部長から一転して辺境送りだからね。落胆して辞職するかもしれない。辺境に送られるというのはそういうことだ」

 俺の士官としてのキャリアは辺境の補給基地から始まった。下士官から叩き上げて目立った功績のないまま年齢を重ねていった者と、不名誉な事情で中央から飛ばされてきた者が勤務している士官の大半を占めており、のんびりしていたけど出世や活躍とは無縁な職場だった。セレブレッゼ中将のようなトップエリートにとって、辺境に飛ばされるということは辞めたかったらどうぞと言われているに等しい。盟友だったラッカムのエゴで死地に追いやられて、生き残ったと思ったらこれでは可哀想過ぎる。

「しょせん、世の中はこんなものなのかなんて割り切りたくはありません。帝国の使者から、何度も何度も理不尽な思いをしながら、不正を正す力を持つ者が現れる日を夢見て戦い続けた人の話を聞きました。世の中はそんなに捨てたものではないと教えてくれたその人や4=2基地で死んでいった人達に恥じないように生きたいと思いますが、自分がそこまで強くなれるのかどうか自信がありません」

 フェザーンから帰る途中、いろんなことを考えていた。4=2基地での失敗を繰り返さないように実戦経験を積みたい、ラッカムのような悪党が再び現れた時に戦えるようになりたい、レーヴェとその主のような強い心がほしい、二度とこんな悔しい思いはしたくない。

「エリヤ君、悔しかったかい?」
「はい」
「私も悔しい」

 そう言うと、トリューニヒトは俺の顔を見る。

「エリヤ君、強くなりたいかい?」
「はい」
「私も強くなりたい」

 短い言葉から万感の思いを感じる。歴史が伝えるエゴイストでもなければ、俺が知っている好人物でもないトリューニヒトを初めて見たような気がする。

「クレメンス、エリヤ君。我々はもっと強くならなければならない。それぞれの場所で信頼を得て、立場を強めていこう。我々の言葉に耳を傾けてくれる者の数を増やそう。信頼と数が我々の力となる」

 ああ、なるほど。トリューニヒトの行動の根底には、信頼の強さと耳を傾ける者の数が力になるという考えがあるのか。攻撃的なパフォーマンスで人目を引き、冗談と本音をちゃんぽんにした軽妙な会話で親しみを覚えさせるのは耳を傾けさせるため。マメに人に会って一緒に食事をするのは信頼を得るため。人間関係で政治を動かそうとしてるんだ。しかし、トリューニヒトは得た力で何をしたいのだろうか?

「トリューニヒト幹事長は何のために強くなりたいとお考えなのでしょうか?」
「ルールは公正に適用され、不正が許されることはなく、献身は必ず報いられ、みんなが同胞意識を持って信頼し合い、助け合い、分かち合いながら前進する。そんな社会を作りたいと思っている」

 トリューニヒト自身の口から語られた元警察官僚らしい理想にドーソン中将が大きく頷く。ドーソン中将がトリューニヒトを支持した理由、俺と同じ理想と言った理由が理解できた。前の人生で逃亡者として迫害されて私刑がまかり通る恐ろしさを知り、同盟滅亡後の混乱期のハイネセンで秩序が崩壊したカオスの恐ろしさを知った。今の人生でルールの公平な適用こそが弱い者を暴力から守り、強い者の自分勝手を防ぐことを知った。ルールの建前を愚直に貫くことによって得られた信頼が最強の武器であることを知った。そんな俺にとって、トリューニヒトが提示する秩序ある社会像は魅力的に見える。ドーソン中将よりやや遅れて控えめに頷いた。

「今後は私がエリヤ君の昇進を全力でサポートしよう。自力でもいずれ将官になれる人材と見込んではいるが、それまで待ってもいられない。早く昇進して私の力になってほしい」
「はい!」

 俺が自力で将官になれるというのは大袈裟すぎると思った。経験が浅いうちに昇進するのも怖い。だけど、彼のような人に力になってほしいと言われるのは凄く嬉しい。感激で胸が熱くなった。

「これまで通り、ルールの中で正しく戦いなさい。そうして得られた信頼が君の力、ひいては私の力になる」
「頑張ります!」
「中佐昇進、受けてくれるね?自信がないなんて言わせないよ」

 中級職の少佐から上級職の中佐への昇進は怖い。戦艦の艦長、駆逐隊の司令、艦隊司令部の課長などが務まる自信がない。しかし、期待には応えたい。これまでの俺は昇進して新しいポストに就くたびに務まるかどうか不安になったものだけど、終わってみるとひと通りの仕事を回せるようになっていた。上級職でもやってみたら、案外できてしまうのかもしれない。じんわりと汗が滲んでいる手のひらを握りしめ、緊張でガチガチに固くなっている自分を奮い立たせた。 

 

第十一章 新米参謀と常勝の獅子
  第十一章開始時人物設定

主人公
エリヤ・フィリップス 26歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中佐
役職:宇宙艦隊総司令部後方参謀
性格:小心で卑屈。素直で真面目な優等生。努力を楽しめる。仕事熱心。自己評価は低い。
容姿:子供っぽい容姿。身長は平均よりやや低い。爽やか、絵になるなどと言われているが、以前は冴えなかったと言われる。
能力:事務処理能力が高く、法律に通暁している。管理職としては公正。コミュニケーションは苦手だが、対人関係に細やかな気配りを見せる。射撃の達人。実戦経験が浅いのが難点。
略歴:フェザーンから帰還した後、宇宙艦隊総司令部に赴任。イゼルローン遠征軍に参加する。前の人生ではアーサー・リンチに従ってエル・ファシルから逃亡したことがきっかけで転落した。
史実:登場せず。

重要人物
クレメンス・ドーソン 44歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十章終了時点)
役職:憲兵司令官(第十章終了時点)
性格:異常なまでに神経質で几帳面。わかりやすい善を好み、わかりやすい悪を嫌う小市民的な心情の持ち主。露骨にえこひいきをする。
容姿:エリヤと同程度の身長。ひげがトレードマーク。
能力:抜群の実務能力を持つ。陣頭指揮を好み、現場に口を出したがる。政治力も極めて高い。
略歴:憲兵司令官として、綱紀粛正に手腕をふるう。
史実:自由惑星同盟軍の末期状態を象徴する無能な指導者。
初出:二十三話

ヨブ・トリューニヒト 39歳 男性 オランダ系
職業:自由惑星同盟軍代議員(第十章終了時点)
役職:改革市民同盟幹事長(第十章終了時点)
性格:気さくで人懐っこい。ノリ重視で適当な事をポンポン言ってしまう。お好み焼きはご飯と一緒に食べる
容姿:俳優のような美貌。スポーツで鍛え上げた長身。人懐っこい笑顔。卓越したファッションセンス。
能力:巧みな話術と人の心をとろけさせる愛嬌の持ち主。派手なパフォーマンスを用いた大衆煽動のみならず、個人を対象とした人心掌握にも優れる。
略歴:主戦派の若手指導者。ドーソン中将の後ろ盾として、サイオキシン密売組織壊滅作戦を進めた。自分の力不足を無念に思い、エリヤに協力を求める。
史実:自由同盟末期の最高評議会議長。保身の怪物という評価と、単なる無能という評価がある。同盟滅亡後も暗躍を続けた。
初出:二十九話

親しい人
アンドリュー・フォーク 24歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部作戦参謀(第十一章開始時点)
性格:真面目で謙虚。社交性が高い。
容姿:長身でハンサム。
能力:士官学校を首席で卒業し、着実に実績を重ねている秀才参謀。リーダーシップ、運動能力も高い。白生戦技、射撃術も達人級。
略歴:エリヤの友人。ロボス大将が最も信頼する腹心。エル・ファシル義勇旅団長を務めていた頃に親しくなった。イゼルローン遠征軍では作戦立案の中心となる。
史実:帝国領侵攻作戦を立案して同盟軍を壊滅に導き、テロリストとしても同盟の足を引っ張った愚劣な人物。
初出:第二十話

エーベルト・クリスチアン 40代 男性 ゲルマン系
階級:自由惑星同盟軍中佐(第九章開始時点)
役職:第百七十七歩兵連隊長(第九章開始時点)
性格:軍隊を家族と考えている。剛直だが人情に厚い好漢。単純明快な物言いを好む。
容姿:背はさほど高くないが、肩幅と胸板が厚い。いかつい顔に不機嫌そうな表情。
能力:勲章受章経験のある勇者。食事と睡眠の重要さを理解していて、部下の待遇改善に熱心。
略歴:陸戦隊出身。エル・ファシルの英雄になったエリヤの広報担当を務めた時に親しくなった。エリヤが職業軍人になるきっかけを作った人物。ヴァンフリート4=2基地の戦いで奮戦した。
史実:救国軍事会議メンバーとしてスタジアムの虐殺を引き起こした。
初出:第八話

イレーシュ・マーリア 31歳 女性 マジャール系(姓が前、名が後に来る)
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部人事参謀(第十一章開始時点)
性格:とっつきにくい外見とは裏腹に思いやりがある。社交性も結構高い。
容姿:180センチを越える長身。非の打ち所のない美形。眼力が異常に強い。不機嫌そうな表情。
能力:対人観察力が高い。教育指導能力に優れる。
略歴:士官学校卒のエリート。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。イゼルローン遠征軍に人事参謀として参加している。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ダーシャ・ブレツェリ 25歳 女性 スロベニア系
階級:自由惑星同盟軍少佐(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部後方参謀(第十一章開始時点)
性格:強引で後先を考えない。ストレートに好意をぶっこんでくる。口も体も人一倍よく動く。
容姿:丸顔で目が大きく、可愛らしい感じ。ショートカット。
能力:士官学校を三位で卒業したエリート。人の能力を冷徹に見定めることができる。
略歴:ヴァンフリート4=2宙域の会戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。イゼルローン遠征軍に後方参謀として参加している。
史実:登場せず。
初出:第四十話

ハンス・ベッカー 29歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十一章開始時点)
役職:第八艦隊第三分艦隊航法主任参謀(第十一章開始時点)
性格:お調子者。人をからかうのが好き。遠慮無くものを言う。
容姿:垂れ目。背が高い。
能力:航路知識が豊富。
略歴:ヴァンフリート4=2宙域の会戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。イゼルローン遠征軍に分艦隊参謀として参加している。
史実:登場せず。
初出:第四十話

グレドウィン・スコット 四十代後半 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章開始時点)
役職:第九艦隊後方支援集団所属の輸送群司令(第十一章開始時点)
性格:大人げない。三次元チェス狂。恐妻家。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。イゼルローン遠征軍に輸送群司令として参加している。
史実:帝国領侵攻作戦で輸送艦隊を率いたが、キルヒアイスに襲撃されて戦死。
初出:第四十話

ワルター・フォン・シェーンコップ 30歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章開始時点)
役職:ローゼンリッター連隊長(第十一章開始時点)
性格:言動と女性関係は奔放。大胆不敵で反骨精神旺盛。服従心、忠誠心とともに希薄。危険人物の中の危険人物。
容姿:貴族的な美貌。優雅な物腰。
能力:大部隊の組織的運用と少数精鋭部隊による強襲戦術の両方に長ける。部隊運営能力、指導力も高い。部下を心酔させるカリスマも持つ。身体能力、戦闘技術、勇猛さを兼ね備えた自由惑星同盟軍最高の戦士でもある。政治的な駆け引きも巧みで付け入る隙がない。
略歴:ヴァンフリート4=2基地で知り合った。エリヤをからかうのを楽しんでいたが、司令部ビルの戦闘では腹心のブルームハルトを援軍につけてくれた。
史実:同盟末期最高の地上部隊指揮官。ヤン・ウェンリーの事実上の私兵隊長として活躍した。
初出:第三十一話

カスパー・リンツ 24歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍少佐(第十一章開始時点)
性格:気さくだが、やや屈折している。
容姿:脱色した麦わらのような髪に青緑色の瞳を持つ美男子。
能力:白兵戦技と射撃術の達人。絵と歌がうまい。
略歴:幹部候補生養成所時代の唯一の友人。ローゼンリッター連隊長シェーンコップ中佐の片腕。
史実:ワルター・フォン・シェーンコップの片腕。ローゼンリッター最後の連隊長。
初出:第十六話

バラット 男性 タイ系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第三章終了時点)
役職:第七方面管区シャンプール基地教育隊体育教官(第三章終了時点)
性格:単純熱血。太っ腹。
容姿:がっちりした体格。猛犬のような印象。
能力:トレーニング指導のプロ。
略歴:陸戦隊出身でクリスチアンの元部下。幹部候補生養成所を受験するエリヤの体力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ルシエンデス 30代 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍曹長(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:ざっくばらん。
容姿:小綺麗な身なり。
能力:軍服を着た人を撮影すれば、右に出る者はいない。
略歴:統合作戦本部広報室のカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

ガウリ 30前後 女性 インド系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:気さく。
容姿:小綺麗な身なり。
略歴:統合作戦本部広報室のスタイリストカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

家族
ロニー・フィリップス 50歳 男性 アングロサクソン系
職業:パラディオン市警の警察官(第二章終了時点)
性格:善良でお調子者。
略歴:エリヤの父。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

サビナ・フィリップス 49歳 女性 チェコ系
職業:看護師(第二章終了時点)
性格:心配症でおせっかい。
略歴:エリヤの母。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ニコール・フィリップス 28歳 女性 アングロサクソン系
職業:ジュニアスクールの非常勤講師(第二章終了時点)
性格:しっかり者。
略歴:エリヤの姉。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

アルマ・フィリップス 21歳 女性 アングロサクソン系
職業:ミドルスクールの生徒(第二章終了時点)
性格:甘えん坊の食いしん坊。
略歴:エリヤの妹。空気の読めないメールを送っては、エリヤをいらだたせる。前の人生ではエリヤに懐いていたが、逃亡者になると最も激しく拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

同級生
ミロン・ムスクーリ 26歳 男性 ギリシャ系
性格:爽やかなスポーツマン。
容姿:大男。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。元フライングボール部のスター。前の人生では極右団体の構成員。逃亡者になったエリヤを迫害した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ルオ・シュエ 26歳 女性 チャイナ系
容姿:丸顔。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の数少ない友達。前の人生では、逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

フーゴ・ドラープ 26歳 男性 チェコ系
性格:誰にでも優しい。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。信望が厚く、クラス代表を務めた。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

その他知り合い
ラザール・ロボス 56歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍元帥(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊司令長官(第十一章開始時点)
性格:豪放で大らか。社交的な性格。
容姿:小柄でどっしりとした肥満体。将帥にふさわしい威厳の持ち主。
能力:リスクを厭わず、大胆に仕掛ける用兵に定評がある。対人調整や政治的な折衝にも長ける。人の心に入り込むのがうまい。雑務が苦手。
略歴:同盟軍きっての名将。ヴァンフリート星域の戦いでは精彩を欠いた。イゼルローン遠征で失地挽回を目指す。
史実:帝国領侵攻に失敗して、同盟軍を壊滅に追い込んだ愚将。
初出:第十八話

アレックス・キャゼルヌ 33歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍准将(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部後方部長(第十一章開始時点)
能力:後方支援システムの構築と運営にかけては、セレブレッゼ中将に匹敵する技量を持つ。部下の能力を見極める眼力と仕事の割り振りは天才的。会議を通して自分の考えを徹底するスタイル。
略歴:統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥の腹心。失脚したセレブレッゼ中将の代わりに、同盟軍後方部門の司令塔となった。イゼルローン遠征軍の後方支援を統括する。
史実:同盟末期最高の後方支援専門家。ヤン・ウェンリーの後方支援を担当した。
初出:第十八話

ヤン・ウェンリー 26歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章終了時点)
役職:宇宙艦隊総司令部作戦参謀(第十一章開始時点)
性格:冷静沈着。責任感が強い。整理整頓ができない。他人の期待通りに振る舞うことを嫌う。
容姿:ハンサムだが、身なりに無頓着なせいで冴えないように見える。
能力:作戦能力は天才的だが、あまり積極的ではない。
略歴:士官学校卒のエリート。エル・ファシル脱出作戦を指揮した後も着実に出世している。統合作戦本部長シトレ元帥の腹心。
史実:自由惑星同盟末期最高の名将。生涯不敗を誇った用兵の天才。
初出:第五話

ユリエ・ハラボフ 23歳 女性 チェコ系
階級:自由惑星同盟軍大尉(第九章終了時点)
役職:憲兵司令官副官(第九章終了時点)
性格:生真面目で繊細。自分を追い込んでしまうところがある。
容姿:すっきりした目鼻立ちの美人。手足が長く、スタイルが良い。身のこなしには無駄がない。
能力:士官学校を上位で卒業したエリート。仕事ぶりは丁寧で細かい。簡潔明瞭で無駄がない文書を作る。徒手格闘の達人。
略歴:エリヤの後任の副官。努力が空回りして、ドーソン中将の不興を買う。エリヤの無神経な言葉に深く傷つき、口もきかない間柄になっている。
史実:登場しない。
初出:第四十一話

シンクレア・セレブレッゼ 48歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十章終了時点)
役職:第十六方面管区司令官(第十章終了時点)
性格:パワフルで自負心が強く、妥協を嫌う。攻勢に強いが、守勢には極端に弱い。
容姿:学者のような風貌。
能力:後方支援システムの構築と運営に卓絶した力量を持つ。リーダーシップにも長けていて、後方支援のプロ集団チーム・セレブレッゼを築き上げた。
略歴:同盟軍の後方支援システムが麻薬組織に悪用された責任を問われて、辺境に左遷された。
史実:ヴァンフリート4=2基地の戦いで帝国軍の捕虜となった。
初出:三十五話

エマヌエーレ・カルーク 53歳 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第八章終了時点)
役職:中央支援集団副司令官(第八章終了時点)
性格:臆病で無責任。
容姿:企業の重役を思わせる恰幅の良さ。
能力:同盟軍最高の補給専門家。危機管理能力に長けた超一流の指揮官。
略歴:セレブレッゼ中将の片腕。ヴァンフリート4=2基地攻防戦では、口実を付けて戦闘に参加しなかった。
史実:登場せず。
初出:三十五話
出:三十五話

エイプリル・ラッカム 48歳 女性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第十章終了時点)
性格:温和でユーモアがある。
容姿:小太り。そこらのおばさんっぽい。
能力:麻薬組織の指導者として、卓越したリーダーシップを発揮した。帝国、同盟両軍を手玉に取る策士。
略歴:グロースママの異名で知られる麻薬組織の最高指導者。軍の後方支援システムを私物化して、麻薬流通網として悪用していた。帝国軍と同盟軍を操ってヴァンフリート4=2基地の戦闘を引き起こし、混乱の中で逃亡に成功した。
史実:登場せず。
初出:三十五話

ループレヒト・レーヴェ(偽名) 三十前後? 男性 ゲルマン系
性格:誠実で公正。正義感が強い。鋼のような自制心を持つ。
容姿:精力的な面構えに広い肩幅。黒い髪。法曹関係者っぽい容姿。
略歴:帝国軍の憲兵。ある要人の使者としてフェザーンでエリヤに面会し、帝国憲兵隊が集めた麻薬組織の資料を渡す。
史実:登場せず
初出:四十四話

ファヒーム 死亡時は50代後半 男性 アラブ系 故人
階級:自由惑星同盟軍少佐(第八章終了時点)
役職:ヴァンフリート4=2基地憲兵副隊長(第八章終了時点)
性格:横柄で口やかましいが、仕事には誠実。
容姿:短い白髪、鋭い目つき。
能力:実務に長けたベテラン。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で取り乱して突出したエリヤを救出した。時間稼ぎのために踏みとどまって戦い、壮烈な戦死を遂げる。
史実:登場せず。
初出:三十五話

カーポ・ビロライネン 33歳 男性 フィンランド系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団参謀長(第五章終了時点)
性格:真面目だが、他人の心情への配慮に欠けるところがある。
容姿:神経質で気難しそうな容姿。実年齢より5年は老けて見える。
能力:実務能力は極めて優秀。情報宣伝にも長けている。
略歴:ロボス大将の懐刀。エル・ファシル義勇旅団ではエリヤを棚上げして、実権を掌握した。
史実:帝国領侵攻作戦の情報主任参謀。
初出:第十九話

マリエット・ブーブリル 35歳 男性 フランス系
階級:義勇軍中佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団副旅団長(第五章終了時点)
性格:外面は良いが、自己中心的で気性が激しい。自己顕示欲が強い。
容姿:上品で優しげな美貌の持ち主。実年齢より5年は老けて見える。
能力:カメラの前では、嫌いな相手に対しても親友のように振る舞える演技の達人。
略歴:元従軍看護師で勲章も持っているが、世間的な知名度は低い。エル・ファシル義勇旅団ではトラブルメーカーだった。
史実:登場せず。
初出:第十九話

アーロン・ビューフォート 男性 アングロサクソン系
階級:中佐(第二章終了時点)
性格:さっぱりした性格。本当の意味での大人。
容姿:30半ばに見える。
略歴:エル・ファシル脱出船団旗艦の艦長。エリヤに絡まれたが、大人の対応をして泣かせた。
史実:大親征でビッテンフェルトを迎撃した。
初出:第七話

フランチェシク・ロムスキー 30代 男性 ポーランド系
職業:エル・ファシル市会議員、内科医師(第二章終了時点)
性格:気さくだがやや軽率。
容姿:大柄。
略歴:エリヤをエル・ファシル星系政庁に連れて行った。
史実:同盟から独立したエル・ファシル独立政府の主席を務めた。
初出:第三話 

 

第十一章 新米参謀と常勝の獅子
  第四十六話:初心者参謀と天才参謀 宇宙暦794年8月中旬 ハイネセン市、宇宙艦隊総司令部

 宇宙暦794年8月2日。統合作戦本部はイゼルローン要塞に対する六度目の出兵を正式決定した。動員されるのは第七艦隊、第八艦隊、第九艦隊の三個正規艦隊36900隻。宇宙艦隊総司令官ロボス元帥が自ら遠征軍の総指揮をとり、総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将以下宇宙艦隊総司令部の参謀に統合作戦本部や後方勤務本部からの出向者を加えた86名の参謀がこれを補佐する。宇宙艦隊総司令部のビルに設置された遠征軍総司令部には大勢の人間が出入りして、昼夜を問わず出兵の準備に動き回っている。

 先月の末に中佐に昇進したばかりの俺も参謀の一人として総司令部入りすることが決まった。総司令部に設置される七つの部のうち、参謀部門は作戦指導を担当する作戦部、情報活動を担当する情報部、兵站業務を担当する後方部、人事管理を担当する人事部の四つ。俺が所属しているのは後方部企画課。ずっと事務処理をやってきた俺にとって、初めての参謀勤務だった。

 後方参謀及び人事参謀と事務員は世間では混同されることが多い。かくいう俺も前の人生では、ヤン・ウェンリーの後方参謀だったアレックス・キャゼルヌを優秀な事務屋と勘違いしていたものだ。軍人になってもしばらくは艦隊司令部の総務部、経理部と後方部、人事部の仕事の違いが良くわからなかった。司令部のスタッフは全体の管理調整を担当するゼネラル・スタッフと特定の専門業務を担当するスペシャル・スタッフに分けられる。後方部の参謀は調達、保管、輸送、配分など兵站全般の管理や調整を担当するゼネラル・スタッフ、総務部や経理部のスタッフは事務を専門とするスペシャル・スタッフといえる。第一艦隊総務部にいた頃の俺はスペシャル・スタッフに分類される。副官も司令官の秘書業務を担当するスペシャル・スタッフだ。

 同盟軍参謀業務教本によると、ゼネラル・スタッフたる参謀の主な役割は、自分の担当分野に関する研究を行ってデータを蓄積すること、対話や文書によるコミュニケーションを通じて各部門と意見を調整すること、研究や調整によって得られた知見を元に指揮官にとるべき行動を提案して判断を助けること、指揮官の命令を計画書や命令書の形式にして現場に伝達すること、現場と接触して指揮官の命令の実施状況を監督することの5つが挙げられる。

 チームワークで分析と検討を積み重ねて、指揮官の耳や目や口や手となる参謀に必要な資質は勤勉さ、忍耐強さ、情熱、忠誠心、協調性、対話能力、文章力、知識などだろう。ひらめきより努力、尖った天才より協調的な秀才であることが参謀に求められる。要するにアンドリューみたいな人間が理想の参謀。ドーソン中将はやや…、いやかなり偏屈なところを除けば最高の参謀だろう。前の人生で読んだ本では、士官学校上位卒業者を参謀として重用したことを同盟軍が敗北した理由にあげていた。しかし、実際に参謀になってみて、学力、体力、リーダーシップのバランスが高いレベルで取れている上位卒業者を参謀にするのは理に適っていると思える。

 後方部企画課は補給計画全般の調整と監督を担当する。後方部は他の部と比べて調整と監督の機能が要求される傾向が強いが、企画課はその最たるものといえるだろう。他の後方参謀や下級部隊が提出してくる補給計画を理解できる知識、こまめに連絡を取って関係を保とうとする熱心さ、相手と意思疎通する対話能力と文章力が問われる。俺は熱心さだけは人並み以上にあるつもりだ。対話能力や文章能力も悪くはないと思う。問題は補給計画の知識が全く無いことだった。2年前に務めていた駆逐艦の補給長の仕事は事務がメインで、後方参謀が作成するような補給計画に関わったことは無かった。現時点の俺は事務経験しか積んでおらず、後方参謀としては使いものにならない。今のままでは会議で発言することも他部門との調整にあたることもできない。

 後方部長のアレックス・キャゼルヌ准将も企画課長のカルロス大佐も俺にはまったく期待していないらしく、連絡と文書作りしかできないにも関わらず、冷たい目で見られずに済んでいる。86人もいる遠征軍総司令部参謀の中には、参謀見習いみたいな若手や記念参加としか思えないようなロートルなど、明らかに戦力外の人も少なくない。俺が参謀に起用されたのも参謀の世界を覗いてこいってことなんじゃないだろうか。

 実際、数百万人もの将兵の後方支援を担っているだけあって、後方部には優れた才能がひしめいていた。自分の考えをわかりやすく他人に伝えることに長けた人、簡潔明瞭な文章を素早く作成することに長けた人、問題点を洗い出して改善策を提示することに長けた人、細部への目配りが行き届いている人、膨大なデータを脳内に蓄えて自由自在に引き出せるコンピュータのような人など、とんでもなく優秀な人ばかりだ。同じ空気を吸っているだけで勉強になる。その中で特にずば抜けていると思えるのは、やはりキャゼルヌ准将だろう。

 遠征軍総司令部の後方部長アレックス・キャゼルヌ准将は今年で33歳。統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥の腹心である彼は、後方勤務本部次長と中央支援集団司令官を兼ねていたシンクレア・セレブレッゼ中将が失脚した後に同盟軍の後方支援部門の理論的指導者となった。中央支援集団司令部がヴァンフリート4=2基地の戦いで壊滅したおかげで、セレブレッゼ中将が構築した同盟軍の後方支援システムは崩壊の危機に瀕していた。現在の後方勤務本部長と中央支援集団司令官はいずれも管理能力と調整能力に長けた有能な人物だが、新しいシステムを構築できるほどの理論は持ち合わせていない。既存のシステムの有能な運用者は少なくないが、新しいシステムを構築できるほどの理論と構想力を持ち合わせた人材はそうそう現れるものではないのだ。士官学校在籍中に書いた組織工学に関する論文が注目を浴びて大企業の経営企画部門にスカウトされた経歴を持つ理論家のキャゼルヌ准将は、ポストセレブレッゼ体制を背負って立つ存在であった。

 前の人生の歴史では、アレックス・キャゼルヌはヤン・ウェンリーの下で後方支援と事務処理を一手に担い、その死後はイゼルローン共和政府やバーラト自治区政府の閣僚を歴任した。ヤン・ウェンリー系勢力の指導者には評価が難しい人物が多いが、キャゼルヌに関しては誠実で有能な軍官僚という評価で一致している。官僚という言葉には一般的に事務処理のプロフェッショナルと言うイメージが強く、キャゼルヌも山積していた事務を一日で片付けた、病欠したらたちどころにイゼルローン要塞の事務が滞ったなどといった逸話に事欠かない。

 しかし、事務処理能力が高いだけでは単なる事務員以上の存在にはなれないことを司令部勤務を経験した今の俺は知っている。軍官僚、すなわち軍中央や艦隊司令部に勤務する参謀は司令官を助けて業務全般を計画し、事務員を始めとする大勢の専門家の監督指導にあたる立場だ。伝記作家は歴史の専門家ではあるが、軍事の専門家ではない。キャゼルヌの事務屋としての側面に注目してしまうのは仕方ないことだ。軍事の専門家として頂点を極めたヤン・ウェンリーが同時代を生きた軍人達の評伝を執筆していたら面白いことになっていたんじゃないかと思うが、彼が提督にもなっていない今の時間軸で言ってみても仕方のないことだ。伝記作家があまり注目しなかった参謀としてのキャゼルヌには驚かされることばかりだった。

 キャゼルヌ准将が俺にまったく期待していないのは明らかだったが、干されたわけではなかった。それどころか、結構な量の仕事を与えられた。後方業務の知識が無い俺でも頑張ればギリギリで処理できる量と難易度。いい意味で仕事に忙殺されているおかげで自分の無能を嘆く暇もない。全力で取り組んでいるおかげで達成感もある。俺が特に優しくしてもらっているわけではない。後方部には俺以外にも士官学校を出て間もないのに親のコネで総司令部に突っ込まれた某提督の娘、退役前の箔付けに後方参謀の肩書きをもらった経理一筋40年の老中佐のように参謀の仕事が全くできない人がいたけど、干されること無くやり甲斐を持って頑張っているようだ。キャゼルヌ准将は有能な参謀にもその人物が頑張ればギリギリ処理できるような仕事を与えていた。要するに参謀の能力の見極めと仕事配分が絶妙なのだ。信用している部下にはたくさん仕事を与えて、信用していない部下には書類のコピーすら頼まないドーソン中将とは真逆のスタイルといえる。

 個別に細かい指示を出すことをほとんどせずに、会議を頻繁に開いて議論をすることで自分の意見を浸透させていくスタイルも独特だった。またまたドーソン中将を引き合いに出してしまうが、彼は議論を好まない。彼ぐらいの能力があれば他人の意見を聞かなくても良い仕事ができるし、どんな仕事でも部下の自主性に委ねずに自分で細々と指示を出す方が概ねうまくいく。議論に費やす時間があるなら、直接指示を出した方が早いと考えるタイプだ。ドーソン中将が特に独善的というわけではなく、やり手が効率重視で仕事をすると大抵はこうなる。エル・ファシル義勇旅団の参謀長だったビロライネンもそうだった。

 議論を重ねる踏むキャゼルヌのやり方は迂遠に見えるが、それでも高い業務能率を達成できているのは仕事配分の妙だろう。議論を通じて参謀の適性を見極めているのかもしれない。セレブレッゼ中将もしょっちゅう部下と言い争っていたのに、会議を開くのが好きだったという。彼らは目の前の効率より、ずっと遠いところを見据えているのだと思う。ドーソン中将の緻密で迅速な仕事ぶりには感嘆の念を禁じ得ないが、キャゼルヌ准将はそれより一段高いレベルで参謀業務を捉えている。世の中には本当に凄い人がたくさんいるものだとため息が出てしまう。

 これだけ褒めちぎってはいるものの俺がキャゼルヌ准将と親しいということは全くない。業務上の連絡以外では一言も交わしていない。後方参謀の仕事がまったくわからない俺は議論でやりあうこともない。仕事とプライベートは厳密に分ける性質らしく、職場で誰かと特別親しくするということが無いのだ。組織のトップと参謀スタッフをまとめる上級参謀という違いはあるかも知れないが、スタッフを公私ともに気心の知れた仲間で固めているロボス元帥、信頼しているスタッフとそうでないスタッフの扱いが露骨に違うドーソン中将とは違っていて興味深い。

 今回の遠征では知っている人が何人も従軍する予定だ。総司令部には数少ない俺の同年代の友達でロボス元帥の腹心として頭角を現してきたアンドリュー・フォーク中佐が作戦参謀、幹部候補生受験でお世話になったイレーシュ・マーリア中佐が人事参謀、最近トリューニヒトから期待の若手として紹介されたジェイミー・ウノ中佐が後方参謀として所属している。入院していた時に仲良くなったハンス・ベッカー中佐は第八艦隊第三分艦隊の航法主任参謀、グレドウィン・スコット大佐は第九艦隊後方支援集団所属の輸送隊群司令を務めている。幹部候補生養成所の同期で唯一の友達だったカスパー・リンツ少佐、ヴァンフリート4=2基地で知り合ったローゼンリッター連隊長のワルター・フォン・シェーンコップ大佐やライナー・ブルームハルト大尉らは陸戦要員として参加する。

 総司令部の廊下を歩いていると、キャゼルヌ准将と話しながら歩いているヤン・ウェンリーを見かけた。エル・ファシル脱出から6年ぶりに見かけた彼はやっぱり冴えなかった。おさまりの悪い黒髪のくせ毛も猫背気味の姿勢も大学生のような童顔もあの時のままだ。ほとんど容姿が変わっていないのに驚かされる。エル・ファシル以降はこれといった功績を立てていないが、シドニー・シトレ元帥の引き立てによってエリートコースを歩いている。今は確か大佐だったはずだ。総司令部の作戦参謀らしいけど、作戦部と後方部の連絡は別の人がやっているし、各部門の主要参謀を集めた会議にも出席しない俺が顔を合わせる機会はない。エル・ファシル以来、接点を持たずに生きてきた彼に声をかけようかどうか迷っていると、トントンと肩を叩かれた。

 振り向くと、ダーシャ・ブレツェリ少佐の丸っこい顔が視界に入る。入院していた時に知り合った彼女の存在は意図的に忘れようと務めているのに、同じ後方部だから顔を合わせないわけにはいかない。朝っぱらから気分が暗くなる。

「あ、おはよう」

 俺が挨拶をしても、ブレツェリ少佐からは何の反応もせず黒目がちの大きな目で俺を見ている。挨拶が返ってこないのはわかりきっているけど、総司令部着任から二週間近くも続くとへこんでしまう。

「ブレツェリ少佐、そろそろ勘弁してよ」

 懇願するように許しを乞うた俺に対し、ブレツェリ少佐は首を軽く横に振る。なんてしつこい人なのだろうか。ショートカットで口も体も人一倍良く動く彼女はさっぱりした性格に見えていたのに、とんだ勘違いだった。彼女はポケットから取り出したメモを俺に渡すと、その場から立ち去っていく。徹底して俺と口をきこうとせず、念の入ったことに口頭で済むような連絡もわざわざ筆談で行うほどだ。チームワークで仕事をする参謀にとっては、人間関係を良好に保つのも大事な義務だ。ブレツェリ少佐に妥協するつもりがない以上、俺の方から折れるしかないのだろうか。考えるだけで憂鬱な気持ちになった。 

 

第四十七話:押しに弱い俺と押しが強い彼女 宇宙暦794年11月初旬 イゼルローン回廊、イゼルローン遠征軍総旗艦アイアース

 宇宙暦794年10月13日。自由惑星同盟宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボス元帥に率いられたイゼルローン遠征軍は、通常は二週間以上かかるバーラト星系からイゼルローン回廊への道程をわずか12日で踏破。意表を突かれた帝国軍は有効な対応ができず、第九艦隊副司令官ライオネル・モートン少将に率いられた同盟軍先鋒部隊はイゼルローン回廊の同盟領側出口を制圧下に置いた。春のヴァンフリート星系出兵では精彩を欠いたロボス元帥であったが、得意とする機動戦で帝国軍の出鼻をくじいて、幸先の良いスタートを切ることに成功した。

 10月半ばから11月にかけて、勢いに乗ってイゼルローン要塞まで押し込もうとする同盟軍と、緒戦の劣勢を挽回しようとする帝国軍は来たるべき本戦に備えて少しでも有利な場所を取ろうと回廊のあちこちで前哨戦を展開していた。2000隻から3000隻前後の分艦隊、600隻から800隻前後の戦隊、100隻から150隻前後の隊群、20隻から30隻前後の隊などの各部隊単位の小戦闘が休みなく続いている。数で優る同盟軍がじわじわと前進してはいるものの、帝国軍もまだまだ余力を残しており、イゼルローン要塞まで到達するのはもう少し先になりそうだ。

 遠征軍総司令部のスタッフ達は回廊全域で戦っている各部隊間の調整、来たるべき要塞攻略の準備などで多忙をきわめている。そんな彼らが激務の合間の息抜きに訪れるのが総旗艦アイアースの士官サロンだ。おおらかなロボス元帥は勤務時間中の自主休憩を認めている。そのため、どの時間帯にもテーブルを囲んでお茶を飲みながらくつろいでいるスタッフの姿がちらほら見られた。ロボス元帥や総参謀長のグリーンヒル大将が取り巻きを引き連れて顔を見せることもある。

「エリヤ、それはね。率先して自主休憩を取ることで、他の者が遠慮無く休めるように配慮なさってるんだよ。その気配りがロボス閣下の素晴らしいところなのさ」

 目を輝かせて語るのは二歳下の親友のアンドリュー・フォーク中佐。現在は遠征軍総司令部の作戦参謀を務めている。少尉に任官してから現在に至るまでずっとロボス元帥の司令部で働いている生粋のロボス派だ。三年前に知り合った頃は見るからに健康的だったのに、最近は血色が悪くなり、肉付きもかなり薄くなった。まだ24歳なのに4、5歳は老けて見える。心配になって、無理に士官サロンまで誘った。

「本当にロボス元帥のことが好きなんだねえ」

 総司令部人事参謀のイレーシュ・マーリア中佐はアンドリューを眺めてしみじみと語る。冷たい感じの美貌と180センチを超える長身にぞんざいな口調が相まって凄まじい威圧感を放っているが、根は優しい。なんせ、俺のような馬鹿に親身になって受験勉強を指導して、幹部候補生養成所に合格させてくれた人だ。初対面のアンドリューは彼女の強烈な眼力にやや怯え気味だが、いずれは睨まれてるんじゃなくて優しい目で見られているのだと理解できるだろう。

「それはもう。士官学校出た時からずっとお世話になってますから。閣下との最初の出会いは三年生の春の…」
「うんうん、フォーク中佐の気持ちはよく分かるよ。恩返ししようって頑張ったんだね。えらいよね」
「イゼルローン回廊に着いた夜にロボス閣下からお誘いを頂いたんですよ。『後で私の部屋に来なさい。秘蔵のウイスキーを一緒に飲もう』って。閣下と二人きりで飲めるなんて、もう本当に…」
「わかるわかる。感激したんでしょ」

 アンドリューは空気が読める奴だけど、ロボス元帥の話になると止まらなくなるのが玉に瑕だ。イレーシュ中佐は初対面なのにアンドリューの扱い方をわかってきている。これといった武勲が無く、軍中央での勤務経験も少ないにも関わらず、教育指導能力を評価されて士官学校卒業者の平均より5年ほど早く中佐に昇進しただけのことはある。チームワークで仕事をする参謀の世界では、イレーシュ中佐のような人材は重宝される。俺が直接知っている名参謀のドーソン中将やキャゼルヌ准将も抜群の教育指導能力の持ち主だった。

「アンドリューはバーラト星系からイゼルローン回廊までの行軍計画を立案して、迅速な行軍を実現させた立役者。本戦のイゼルローン要塞攻略でも作戦案が採用される。今やロボス元帥が最も信頼する参謀だよね。俺もアンドリューみたいな参謀になりたいよ」

 イレーシュ中佐に話の腰を折らせ続けるのも申し訳ないので、アンドリューに花を持たせつつ話題を変えることにした。アンドリューみたいな参謀になりたいというのはお世辞ではなくて本音だ。副官は上司を助けることだけを考えていれば良かったけど、参謀は全体のことを考えなければいけない。事務能力に加えて、全体に目を配る視野の広さと積極的に動きまわる行動力が求められる。自分が担当している分野以外の業務知識も豊富に必要だ。それらを備えた参謀の中で若くして頭角を現し、五百万人を超える遠征軍の行軍計画立案を任されているアンドリューは雲の上の存在のように思えた。

「コーネフ少将やビロライネン准将に比べたら、俺なんてまだまだだよ。イゼルローン要塞の攻撃案だって、ホーランド少将が同じ案を出してなかったら、通らなかったんじゃないかなあ」
「ホーランドねえ」

 ホーランド少将の名前がアンドリューから出ると、イレーシュ中佐はいつになく刺を含んだ口調で応じる。ここまで誰かに対して嫌悪感を露わにすることは珍しい。そういえば、イレーシュ中佐とホーランド少将は同じ31歳だから、士官学校では同期だったはずだ。

 同盟軍の若手士官の中で最優秀の3人を挙げろと言われたら、誰もがその中の1人に必ずウィレム・ホーランド少将の名前を挙げるだろう。大胆かつ機動的な用兵に定評があるホーランド少将は、突破機動や迂回機動の指揮に抜群の力量を示して数多の武勲に輝いた。特に二年前のマグ・メル星系会戦と昨年のタンムーズ星系会戦では、高速機動部隊を指揮して勝利を決定づける活躍をしている。大言壮語癖で一部の顰蹙を買っているものの、覇気を隠し切れないのだろうと好意的に受け止める者も多い。将来の同盟軍を背負って立つ存在であることは疑いない。

 前の人生の歴史におけるホーランド少将は第六次イゼルローン攻防戦の功績で中将に昇進。第十一艦隊を率いて参加した795年の第三次ティアマト会戦で第五艦隊司令官ビュコック中将の制止を振り切って独断で戦闘を開始して、獅子帝ラインハルトの前に敗死した。最後の失敗によって評価を著しく落とし、反目したビュコックが不朽の英雄として後世に語り継がれる存在になったことから、愚将の汚名を後世に留めた。士官学校の同期から見たウィレム・ホーランドとはどのような人物なのだろうか。

「確か、ホーランド少将とは士官学校の同期でしたよね」
「うん、そうだよ」
「どんな方だったんですか?」
「私が卒業した第226期の首席だよ。とにかく嫌な奴でさ。自信家で傲慢で目立ちたがりで、自分が世界の主役かなんかだと勘違いしてたね。他人のことなんて、引き立て役としか思ってなかった」
「そんな人でも首席になれるんですか?どんなに勉強ができても、リーダーシップが欠けていたら首席にはなれないですよね?」
「士官学校でリーダーになれる子って、フォーク中佐みたいに凄い気配りができる子か、そうでなかったらホーランドみたいに凄い自己中心的な子なんだよね」
「自己中心的って、リーダーシップとは一番程遠いんじゃないですか?」
「ホーランドみたいに自分にできないことはないって本気で信じてるような子にズバッとできるって言われたら、本当にできそうな気になっちゃうの。だから、競技大会ではいつも主将、学生隊ではいつも隊長。ぐいぐい引っ張って欲しいタイプとは相性抜群なんだろうね。エリヤ君みたいな」
「俺がですか!?」

 幸か不幸か、ホーランド少将みたいな上司を持ったことはなかった。ああいう人から見たら、俺みたいにとろくて気が小さい部下はイライラするんじゃないだろうか。相性が良いとはとても思えない。

「うん。君ってとても押しに弱いじゃん。あの子とか」

 イレーシュ中佐は自分のことを棚にあげて、俺の隣に座っているダーシャ・ブレツェリ少佐を指さす。ブレツェリ少佐、いやダーシャは両手でカップを持って、入っているココアにふうふうと息を吹きかけて冷まそうとしている。

「いや、ダーシャは特別ですよ」
「しかし、その手があったなんて思わなかったよ。私もやってみようかな」
「やめてください」

 今の俺とダーシャはファーストネームで呼び合う仲だった。ファーストネームで呼ばなければ、一切返事をしないという暴挙に出た彼女に屈服させられたのだ。まさか、二週間も返事をしないとは思わなかった。目の前にいる俺に対して、わざわざ携帯端末のメールを使って業務連絡をしてきたのを見た時、完全に心が折れてしまった。

「なかなかかわいい子じゃないの。君に彼女ができる日が来るなんて思わなかったよ」
「まったくです。女っ気が全然なかったエリヤがいきなりブレツェリ先輩捕まえちゃうとは思いませんでした。びっくりですよ」
「ああ、ブレツェリ少佐はフォーク中佐の1期上の先輩だったね」
「ええ、風紀委員会のブレツェリ先輩と有害図書愛好会のアッテンボロー先輩の戦いは下の学年でも語り草でしたよ」
「じゃがいも閣下と言い、ブレツェリ少佐と言い、エリヤ君は風紀委員みたいな人に本当に好かれるねえ」
「エリヤが尻に敷かれてるところが目に浮かぶようです」

 さっきまでイレーシュ中佐にびびっていたはずのアンドリューがいつの間にか生気を取り戻している。こういう話題になると急に元気になりやがって。なんて現金な奴なんだ。まあでも、やつれてるよりはずっといいか。

「彼女じゃありませんってば」
「エリヤの言うとおり、まだ友達ですよ。今は」
「そうだよね、ダーシャ」
「今はね」

 ダーシャはココアを冷ますのを諦めたらしく、カップをテーブルに置いて話に割り込んできた。それにしても、猫舌なのにどうしていつもホットココアを飲もうとするのか、俺にはまったく理解できない。

「今は、なんだね」
「なるほど、今は、そうだということですね」

 イレーシュ中佐とアンドリューが足並みを揃えて、「今は」を強調している。ハンス・ベッカー中佐とグレドウィン・スコット大佐もそうだったが、俺の周りにいる人間はなんでこういう時だけ呼吸がぴったり合うのだろうか。しかも、目の前の二人は今日が初対面じゃないか。

「ええ、今は、です」

 ダーシャもはっきりと、「今は」に力を込めて二人に返事をする。だから、意味深にそこを強調するなよ。どういうつもりなんだ。

「エリヤ君の指導係してるんだっけ?だったら、今は無理かもしれないね」
「はい。キャゼルヌ准将に言われまして」

 ファーストネームで呼び合うようになって一週間が過ぎた頃、一緒にキャゼルヌ准将に呼び出された。そして、「最近、仲がいいようだから」という理由で組まされることになったのだ。現在はダーシャの助手をしつつ、指導を受ける日々である。

「この子、馬鹿だけど素直だから長い目で見てあげてね」
「エリヤの受験勉強を指導したのってイレーシュ中佐でしたっけ?」
「うん、もう6年も前だよ。最初は本当に酷くってね。今だから言うけど、ジュニアスクール卒業レベルの勉強も怪しかったの。それが今じゃ私と肩を並べて参謀やってるんだよ。信じられないでしょ」
「私もいつか、『参謀の仕事を全然知らなかったのに、今じゃ名参謀だよ。信じられないよね』って言えるよう頑張ります」
「見込みある?」
「イレーシュ中佐もご存知とは思いますが、頭悪いですよね。事務スタッフの思考と参謀スタッフの思考の違いがまだ理解できてないみたいで、ちょっとイライラします」
「容赦ないねえ」

 イレーシュ中佐は面白そうにダーシャを見つめている。入院していた頃のダーシャは愛嬌のある容貌もあって馬鹿っぽく見えたけど、実際は士官学校を三位で卒業しただけあってなかなかの切れ者だった。それもカミソリのような切れ方だ。言いにくいこともズバズバ言う。仕事中は第一艦隊の後方主任参謀だった頃のドーソン中将に何度もレポートを書き直しさせられた時を思い出すような厳しい指導を受けている。

「でも、中佐のおっしゃる通り素直ですよね。目の前のことに全力で取り組んで、どんなに面倒なことでも手を抜こうとしません。人並みの知識があれば、人並み以上の能力を発揮するんじゃないでしょうか。キャゼルヌ准将もそう見込んで私に指導を任せたんだと思います」

 真面目な顔で語るダーシャにイレーシュ中佐は満足そうにうなずき、アンドリューは感心したような顔をしている。ダーシャが俺に対してここまで冷静な評価を下しているとは思わなかった。

「そうそう、よく見ているね。だから、エリヤ君は強引なタイプと相性がいいの。じゃがいも閣下もそうだよね。あの人の強引な指導がエリヤ君の事務能力を引き出した。ブレツェリ少佐は何を引き出せるのかな。とても楽しみだよ」
「期待に背かないよう頑張ります」

 今日のダーシャは妙に発言が優等生っぽい。イレーシュ中佐の前ではダーシャは優等生っぽくなって、アンドリューはおとなしくなる。イレーシュ中佐は誰に対してもお姉さん的に振る舞う。アンドリューは目上に弱いけど、恋愛絡みの話になると元気になる。俺と仲が良いという以外に何の共通点もないこの三人が一堂に会したのは初めてだ。俺には見せない顔が見れて、とても興味深い。いつか一人前の参謀になったら、この三人の優秀な参謀としての顔も見ることもできるだろう。そういう未来を思い浮かべるのは結構楽しかった。 

 

第四十八話:読めるだけでは動かせない 宇宙暦794年11月初旬~下旬 イゼルローン回廊、イゼルローン遠征軍総旗艦アイアース

 緒戦でイゼルローン回廊の出口を素早く制圧してから、優位に戦いを進めていた同盟軍だったが、11月に入ってからの数日間は苦戦を強いられていた。同盟軍の分艦隊がほぼ同数の敵に敗れたという報告が連日のように総司令部に入り、11月6日には第七艦隊所属の第四分艦隊が全滅と言っていいほどの惨敗を喫した。司令官ラムゼイ・ワーツ少将と参謀長マルコム・ワイドボーン大佐が戦死し、生還した艦艇は三百隻にも満たない。11月14日には総司令部直轄の高速機動集団が総兵力の三分の二を失って潰滅した。

「またやられたか!」
「二千八百隻のうち、九百隻が生還か。ワーツ少将の時に比べたら、損害が少なく済んだな」
「指揮権を引き継いだ副司令官のアラルコン准将の健闘の賜物だろう」
「キャボット少将は意識不明の重体だそうじゃないか。40年近く戦場を渡り歩いて一度も不覚を取ったことが無い古強者がこんなことになるとは」
「兵卒から叩き上げた歴戦のワーツ少将と若手参謀随一の秀才ワイドボーン大佐のコンビでも歯が立たなかった相手だ。アッシュビーが帝国に生まれ変わったのかもしれんね」
「勘弁してくれよ。これ以上仕事が増えたらたまらん」

 俺は正体不明の強敵の話で盛り上がっている後方参謀達を横目に、兵站状況の分析書を書いていた。現在の味方と敵の戦力分析及び戦況予測、各宙域の特徴、兵站線の現状、想定される兵站組織の運用、兵站支援に使用される兵力などの要素に関して述べた上で考察を行う。各部隊が必要とする補給量、現時点で達成されている補給水準、利用可能な補給手段、補給を制約する条件に関する分析。要求される輸送量、利用可能な輸送手段、実現可能な輸送量、想定される輸送経路、輸送路襲撃の可能性と必要な警備戦力に関する分析。各要素が兵站状況に与える影響、想定される問題、総司令部の方針の長所と短所を指摘。最後に兵站業務を滞り無く実行できるか否か、実行できない場合はどのようにするべきか、他部門と後方部門がどのように連携するか、総司令官は兵站に関するどの要素に大きな配慮を示すべきか、後方部の立場からはどのような作戦方針が望ましいか、兵站業務を実施する上で避けられない制約は何か、などを提言して締めくくる。

 俺が書いたのは補給計画全般の調整にあたる後方部企画課の立場からの分析書であって、運用課や輸送課や補給課などに所属する後方参謀はそれぞれの立場からの分析書を作成する。これらを集約して検討し、後方部全体の分析が作成される。兵站状況は戦況によって変化するため、ちゃんとした分析を書くにはつねに前線から送られてくる情報に敏感でなければならない。戦況を理解する必要があるから、作戦業務や情報業務に関する素養も必要となる。計算能力、分析力、説明能力が必要なのは言うまでもない。

 戦況が変動すれば、要求される補給量などが著しく変化する。正体不明の強敵のせいで兵站状況を把握するだけでも一苦労だ。何度も何度も分析書を書かされ、調整に出向くことも多くなる。軍隊が動けば動くほど参謀の仕事量も増えるのだ。事務仕事のおかげで与えられた課題を分析することには慣れているが、現在進行形で動いている状況の把握と分析にはなかなか慣れることができない。高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対処する思考こそが参謀には求められる。そういう思考が苦手な俺がダーシャに頭が悪いと言われるのも仕方ない。それでも、職務に精励していれば気が紛れた。正体不明の強敵に感じている恐怖を忘れることができた。


 強引に中央突破してきた敵に旗艦を破壊されて指揮系統が崩壊したワーツ少将の部隊、巧妙な機動で半包囲状態に追い込まれて側面と背後から攻撃されて壊滅したキャボット少将の部隊などの戦闘記録画像を見た時、数千隻の艦隊がこうもあっさりと消えてなくなるのかと恐ろしくなったものだ。軍人になって初めて理解したことだが、戦略的優位無しで補給が万全な同数の敵を戦術手腕だけで壊滅に追い込むのは至難の業だ。特に同盟軍の正規艦隊に所属する部隊は全軍五千万の頂点に立つ精鋭で、指揮官も参謀も最優秀の人材が選ばれている。宇宙暦790年代後半から800年代初頭にかけての戦乱では大勢の名将が活躍したが、兵力的にほぼ互角で補給が万全な状態の同盟軍正規部隊に真っ向勝負を挑んで壊滅に追い込んでみせたのは、獅子帝ラインハルト・フォン・ローエングラムしかいない。かのウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ、ジークフリード・キルヒアイス、ウォルフガング・ミッターマイヤー、オスカー・フォン・ロイエンタールですら、撃破はできても壊滅にまでは追い込めなかっただろう。

 前の人生の歴史の第六次イゼルローン攻防戦では、ラインハルトは分艦隊を率いて二十回以上も出戦して華々しい勝利を収めている。俺が見た戦闘画像の中でワーツ少将やキャボット少将の部隊をあっさり壊滅に追い込んだのもおそらくはラインハルトだろう。これほどの軍事能力の持ち主がこの宇宙に何人もいるとは思えない。ゴールデンバウム朝時代の帝国軍では、少将が数千隻単位の分艦隊を率いた。ヴァンフリート4=2基地の戦いで俺を半殺しにしたラインハルトはセレブレッゼ中将を捕虜にできなかったものの、何らかの武勲を立てて数千隻を率いる少将に昇進したのではないだろうか。五百万の同盟軍の中で、俺だけが恐るべき敵指揮官の正体を知っている。しかし、その事実は何一つ状況を打開する役には立たない。

 俺が持っているラインハルトに関する知識は伝記や戦記から得たものだ。なにせ歴史上で唯一人類世界を武力統一した英雄にして当時の政権の創始者だから、すべての図書館に「ラインハルト帝専門コーナー」が設けられるほどの本が出版されていた。市販されている本を読んだだけでも、彼の性格、活躍、用兵は概ね知ることができた。第六次イゼルローン攻防戦で何をしたかも知っている。しかし、俺にはラインハルトを先回りしてその活躍を封じることはできない。

 かつての俺は、図書館で歴史の本を読むたびに「なぜああしなかったのか、自分ならこうするのに」という想像をめぐらせて、負けた側の司令官や参謀の無能を罵ったものだ。歴史の成り行きを知っていれば、先回りして成功できると思っていた。今の人生が始まると、ヤン・ウェンリーに従えば絶対に助かるという前の人生の知識を使ってやり直しに成功した。先回りして前の人生で失敗した要因を片っ端から潰していけば、良い人生が送れるものと信じていたが、実際に軍人になってみると、自分ができることがあまりにも少ないことに気付かされた。

 軍隊という組織の中では、俺は一つの部署のスタッフに過ぎず、自分の生死すら指揮官に委ねざるを得ない立場だった。ほんの少しの期間だけ指揮官を務めたが、戦う戦場も指揮すべき部下も選べず、生死も遥か雲の上の事情に左右される程度の存在でしかない。ささやかながらも軍人としての知識と経験を積んで、かつての自分はアマチュアの後知恵でしかないことを思い知った。ラインハルトに負けた同盟の司令官や参謀は俺なんかより、よほど有能で経験も豊かだ。俺が指摘できる程度の問題点に関する配慮は完璧になされている。歴史の本ではホーランド少将とアンドリューが立てたイゼルローン攻略作戦はラインハルトの手で失敗することになっているが、実際に作戦計画書を読んでもどこに穴があるのかさっぱり分からない。

 ホーランド少将率いるミサイル艇部隊は要塞に肉薄した後にラインハルトの分艦隊に側面を突かれて敗北している。しかし、作戦計画書の中では情報参謀によって襲撃を受けそうなポイントが指摘され、作戦参謀が作った対応策が盛り込まれていた。参謀の仕事をやってみて、作戦計画がいかに緻密に作られているかが理解できるようになった。数十人の参謀が頭脳を結集して想定できる可能性を片っ端から検討して練られた案の穴を探すのは容易ではない。そもそも、俺は半人前の後方参謀で作戦計画には関与していない。だが、関与できる立場だったとしても、修正、もしくは実行中止を求めて受け入れられるほど説得力のある指摘はできないと思う。

 前の歴史でラインハルトがホーランド少将襲撃に成功したのも、おそらくは情報参謀や作戦参謀でも想像がつかないような死角から襲撃したからだろう。しかし、「想像もつかない死角から襲ってくる敵がいるから、作戦中止した方がいい」なんて言って誰も聞くわけがない。どこに参謀達が想像していない死角があるのか、その死角からの攻撃を防ぐ方法はないのか、その死角の存在は作戦を中止しなければならないほどの脅威なのか、などを理路整然と説明できない予言者を相手にする軍人などいないのだ。ヤン・ウェンリーの天才をもってすれば、ラインハルトが狙う死角を見つけることができるかもしれないが、上司でも同僚でもない俺に「想像もつかない死角があるから探してください」と言われて、やる気になったりはしないだろう。そんな筋が通ってない話を信じて動くような人間だったら、ヤン・ウェンリーは名将の声価を確立する前に敗死していたはずだ。

 優秀な参謀が数十人がかりで練り上げた作戦を自分一人のひらめきであっさりひっくり返す。精強な同盟軍正規部隊を戦術の妙だけで壊滅に追い込む。そんな芸当ができる相手を本に書かれている程度の知識で先回りして太刀打ちできると思えない。いや、むしろ本で読んだからこそ、太刀打ちできるとは思えないというべきだろう。ラインハルトが二十五年の生涯で成し遂げた軍事的偉業の数々を知った上でなお、先回りできると思っている軍人なんて、リン・パオやブルース・アッシュビーのような不敵さとひらめきを兼ね備えた天才ぐらいではなかろうか。常勝の声価を確立した後のラインハルトに対抗する責任を負わされたヤン・ウェンリーやアレクサンドル・ビュコックの感じたプレッシャーを想像するだけで恐ろしくなる。俺が彼らと同じ立場に立たされたら、気絶して二度と起き上がれないに違いない。


「帝国軍にえらくこざかしい指揮官がいるようだ。先日からの敵の優勢は、そいつひとりの功に負うているのではないか」

 キャボット少将の高速機動集団が壊滅した翌日の将官会議の席上で総司令官ロボス元帥は苦々しげにそう言っていたという。たかだか一個分艦隊ではあるであるにも関わらず、ラインハルトの戦果はロボス元帥にも無視し得ないレベルに達していたのだ。

 同盟軍は整備された教育制度と実力本位の昇進制度によって選抜された得られた質の高い人材によって、帝国軍の物量に対抗してきた。実力で選ばれた同盟軍指揮官の指揮能力が身分で選ばれた帝国軍指揮官のそれに優っているという認識があったからこそ、前線の将兵達は安心して戦うことができた。帝国軍の分艦隊司令官や艦長の質はここ数年で著しく向上していると言われている。分艦隊レベルの戦いで一方的な敗北を重ねたら、同盟軍の人材面の優位が失われたという認識を将兵に与えかねない。イゼルローン要塞攻略に向けて動いている総司令部には人的にも時間的にも余裕がなかったが、ラインハルトの分艦隊に対処する必要があった。ロボス元帥の命令で総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将が対策を練ることになった。

 11月19日。同盟軍は総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将の立てた作戦にもとづき、ラインハルト率いる分艦隊三千隻を誘い出して一万隻で包囲した。八百隻を失ったラインハルトは命からがら包囲網を突破してイゼルローン要塞に逃げ込み、連敗続きでふさぎ込んでいた同盟軍将兵の溜飲を大いに下げた。

「これでイゼルローン攻略に専念できるよ」

 久々に士官サロンにやってきたアンドリューは肩の荷が下りたようにため息をつくと、ローストグリーンティーを口にした。もともとアンドリューは濃いブラックコーヒーを好んでいたが、胃に悪いということで最近はローストグリーンティーを飲んでいるのだ。胃に気を使わないといけないぐらい強烈なストレスの中でイゼルローン攻略作戦に取り組んでいるアンドリューにとっては、ラインハルトの分艦隊の敗北は朗報だっただろう。

「あの分艦隊、本当に迷惑だったよね。損害が多くなると、後方参謀の仕事が急増するからさ。グリーンヒル総参謀長には感謝しなきゃね」

 ヤンが包囲作戦の提案者なのは「ヤン・ウェンリー元帥評伝」読んで知ってるけど、実現に動いたのは名目上の提案者であるグリーンヒル大将だ。後方部の仕事を急増させたラインハルトを前線から追い払ったことには実際感謝している。兵力を出し惜しんでラインハルトを取り逃がした責任者でもあるが、倍の兵力を投入したとしてもラインハルトが敗死するところが想像できないから、気にしても仕方がない。

「作戦立てたのはヤン大佐だよ。エリヤと一緒にエル・ファシルで活躍した英雄。覚えてるよね?」

 アンドリューの口からヤン・ウェンリーの名前が出て、少し身構えた。前の人生ではアンドリュー・フォークはヤン・ウェンリーに対抗意識を燃やしたあげくに無謀な帝国侵攻作戦を立案したと言われていたからだ。

「う、うん、お、覚えてるよ」
「俺と同じ作戦参謀なんだけどさ。全然仕事しない人なんだよね」
「そ、そうなんだ」
「あの人はシトレ元帥派だから、ロボス閣下のためには働きたくないのかなあって思ってた。ロボス閣下とは話さないし、作戦部長のコーネフ少将とも口をきかないで、同じシトレ元帥派のグリーンヒル総参謀長やキャゼルヌ後方部長とばかり話していたし」

 アンドリューの口調からは悪意は感じられず、困ったものだといった感じだったが、ヤンに対してはあまり好意的でないようだ。ロボス元帥や作戦部長コーネフ少将を蔑ろにしているのを派閥意識と思っているらしい。ロボス元帥には義勇旅団で酷い目にあったけど、とても感じの良い人という印象は変わっていない。コーネフ少将に直接会ったことはないけど、アンドリューの話を聞く限りではユーモアがある人のようだ。仕事をしないのはまだしも、ロボス元帥らを蔑ろにしてシトレ派の参謀とばかり話しているのは弁護のしようもない。人間の好き嫌いは仕方ないけど、せめて体裁ぐらいは繕ってほしい。

「それは良くないね」
「まあ、でもロボス閣下のために働いてくれて良かったよ。これを機に作戦部に溶け込んでくれるといいんだけど」
「作戦部の参謀ってほとんどロボス元帥派だっけ?」
「そうだよ。ロボス閣下は理想の用兵を実現するために、作戦参謀は身内で固めてるから」

 ちょっとヤンに対する評価を訂正した。ロボス元帥派の参謀達はアンドリューの話を聞く限りでは、わりとアットホームな雰囲気らしい。そんな中に他派閥の人間が放り込まれたら、さぞやりにくいことだろう。ヤンの態度は大人気ないけど、同情すべき点は多いように見えた。

「ヤン大佐はシトレ元帥派でしょ?君らはみんな仲良しだから、入りにくいんじゃないかな」
「別に気にしてないのに。一緒に仕事してる間は仲間なんだからさ。グリーンヒル大将も俺達とは仲良くしてるし」

 アンドリューが気にしなくても、ヤンは気にするだろう。仲良しグループにも平気で入っていけるグリーンヒル大将のコミュニケーション能力が異常に高いだけで、普通の人は入っていいと言われても尻込みしてしまうものだ。かく言う俺も転校したばかりの頃に、幼馴染同士で固まった仲良しグループに遊びに誘われたけど、びびって断ったことがある。全銀河を敵に回して戦った英雄ヤン・ウェンリーにも俺と同じような面があることが分かって、ちょっとうれしい。

「まあ、そんな簡単じゃないよ。俺だって転校した頃は結構苦労したもん。周りがみんな仲良しだと、疎外感感じるんだよね」
「へえ、そんなもんなんだ」
「ああ、アンドリューは学校ではずっと中心にいたからわかんないのかな。知らない人ともすぐ仲良くできちゃうし」
「そうだね」
「ヤン大佐は親の仕事の都合で通信教育だけで義務教育済ませたらしいよ。だから、人見知りしちゃうのかもね」
「なるほどなあ」
「チームワークで仕事する参謀が人見知りなのはまずいけど、悪気はないと思うよ」
「うん、わかった。ありがとう」

 ラインハルトの動きを見ると、今の人生と前の人生の歴史はほぼ同一の流れを歩んでいるように見える。しかし、アンドリューはヤンへの対抗意識なんてまったく持ってない。ロボス派と仲良くしていないのを気にしているだけだ。どうも、二つの歴史の間には微妙な違いがあるらしい。たとえば、前の歴史でラインハルトの捕虜になったセレブレッゼ中将は、今の歴史では辺境に左遷されたものの健在だ。この微妙な違いが良い方向に作用して、アンドリューの立てた作戦でイゼルローン要塞が陥落してくれることを願った。 

 

第四十九話:獅子の獅子による獅子のための戦争 宇宙暦794年12月上旬 イゼルローン回廊、イゼルローン遠征軍総旗艦アイアース

 宇宙暦794年11月19日の戦闘で大きな損害を被ったラインハルト分艦隊が前線から退くと、戦況は再び同盟軍に傾いた。連日のように局地戦で勝利を重ね、前線をイゼルローン要塞に向けて押し出していく。もともと戦力が少ない帝国軍の不利は覆し難く、次第に抵抗も弱まっていった。前哨戦における帝国軍の目的は、要塞前面に決戦までに同盟軍を少しでも疲弊させておくことにある。イゼルローン要塞を巡る攻防において決定的な役割を果たすのは要塞主砲トゥールハンマーであって、艦隊戦力ではない。艦隊戦の勝敗にこだわる必要を持たない帝国軍は後退を重ね、12月1日には同盟軍はイゼルローン要塞の前面に到達した。司令室のメインスクリーンには、青く輝くイゼルローン要塞とそれを取り巻く無数の光点が映っている。三万隻の同盟軍に対し、帝国軍は二万隻と推定される。

「砲撃開始!」

 司令室にロボス元帥の鋭い声が響くとともに同盟軍は砲撃を開始した。帝国軍も即座に応射し、数万の光条が虚空を切り裂き、艦艇の爆発によって生じた光が暗闇を照らす。

 同盟軍はD線と言われるトゥールハンマーの射程限界ラインぎりぎりで巧みに艦隊を動かして、突出してきた敵を叩こうとしている。少しでもタイミングを誤れば、たちまちトゥールハンマーの一撃で全軍敗走に追い込まれる危険があった。同盟軍の高い艦隊運用能力があって初めて可能となる戦術といえる。要塞を背に迎え撃つ帝国軍は、トゥールハンマーの直撃を受けない位置を確保しつつ同盟軍を射程内に誘い込もうとしている。D線を巡る両軍の駆け引きがイゼルローン要塞攻防戦の最大の見せ場と言われる。しかし、今回に限っては前座に過ぎない。

 司令部の戦術スクリーンには、同盟軍主力を示す青い点の塊と帝国軍主力を示す赤い点の塊がぶつかり合う合間を縫って、高速で移動する少数の青い点が映っている。ウィレム・ホーランド少将率いるミサイル艇部隊だ。帝国軍の索敵視野の死角を巧みについて、何重にも張り巡らされた防衛線をすり抜けていくホーランド少将の鮮やかな用兵には感嘆を禁じ得ない。指揮官の卓越したリーダーシップ、参謀が練り上げた緻密な行動計画、指揮官の思い通りに動けるよう鍛えられた将兵が三位一体となって初めて可能になる用兵だ。これだけの動きができる部隊を作り上げたというだけでも、ホーランド少将とそのスタッフの優れた力量は明らかだった。

 ホーランド少将が全く抵抗を受けずに要塞に肉薄すると、メインスクリーンの画像が切り替わって要塞表面を映し出す。要塞外壁に数千発ものミサイルが叩きつけられて巨大な爆発が起きると、司令室では大きな歓声がわいた。敵は浮遊砲台を繰り出して応戦を試みたが、ミサイルの雨に一方的に叩き潰されていく。艦隊主力を後退させてホーランド少将に対応しようとすれば、同盟軍主力が並行追撃を仕掛けて要塞に殺到しようとするのは目に見えている。帝国軍もまったくの無策だったわけではない。情報参謀達が頭脳を結集して、防衛線の穴を徹底的に洗い出して潰していったはずだ。ただ、今回は穴を見つけようという同盟軍の情報参謀達の努力がそれを上回ったのだろう。ホーランド少将の用兵と総司令部の参謀の衆知がイゼルローン要塞を圧倒していた。

「頼む、勝ってくれ」

 ミサイルの衝撃で激しく揺れるイゼルローン要塞を見ながら、手を強く握りしめてそう祈った。司令室にいる他の参謀達も俺と同じ気持ちだろう。イゼルローン要塞を攻略できたら、辺境星域が帝国軍の襲撃に晒されることもなくなる。帝国軍の襲撃に備えて臨戦態勢を取る必要もなくなり、軍事費の負担を大きく減らせる。これまでの攻防戦で散っていった将兵達の犠牲がようやく実を結ぶ。ラインハルトさえ出てこなければ、ここで勝負が決まるのだ。

 要塞の外壁が露出して同盟軍の勝利を誰もが確信したその時、ホーランド少将の部隊が閃光に包まれ、ミサイル艇が次々と火球と化していった。死角から出現した二千隻ほどの帝国軍部隊が側面攻撃を仕掛けてきたのだ。今回の作戦を立案した参謀達は要塞周辺にいる艦隊が襲撃してくる可能性を考慮して、想定される襲撃ポイントを徹底的に洗い出して対策も練っていた。それゆえにホーランド少将は一方的に要塞を攻撃できたのだが、参謀達でも発見できなかったポイントからの奇襲を受けたのだ。防御力の弱いミサイル艇の艦列を突破した敵は速度を落とさずに前進を続け、帝国軍主力と対峙していた同盟軍主力に十時方向から突入していった。

「二時方向に回頭して、攻撃回避せよ」
「いけません、そちらはトゥールハンマーの射程に入ってしまいます」

 距離をとって陣形を広げて、十時方向の敵を半包囲しようとするロボス元帥を、総参謀長のグリーンヒル大将が制止した。勝利寸前だった同盟軍は、側面からの思わぬ伏兵にたちまち突き崩されていく。総司令部の参謀達が考えうるあらゆる可能性を検討して練り上げた作戦の死角をいともたやすく見つけ出すような真似ができるのは、ラインハルト・フォン・ミューゼルしかいない。前の人生の歴史とまったく同じ展開になってしまったことを覚り、血の気が引いていく。

「ええい、ならば、あの敵を正面から打ち破るまでだ。全軍、十時方向の敵に向かえ」
 
 ロボス元帥は後退して帝国軍主力から距離を取りつつ、十時方向の敵を迎え撃つよう指示した。後退したことで同盟軍の正面は危険宙域とトゥールハンマーの射程範囲に挟まれた狭い宙域に限定されてしまっている。同盟軍は細く長く展開することを余儀なくされ、ラインハルトの部隊の十五倍の兵力を有していたにも関わらず、その大半が遊兵と化している。ラインハルトは巧みな集中砲火と艦隊機動で、自軍とほぼ同数の同盟軍正面部隊を苦しめていた。

 歴史の本を読んだ時は、天才ラインハルトに同盟軍が負けるのは当然の成り行きだと思っていた。しかし、今の俺はロボス元帥の優れた指揮能力、総司令部の参謀達の優秀な頭脳、同盟軍正規部隊の精強さを知っている。ロボス元帥率いる正規部隊の精鋭三万隻を、わずか二千隻で翻弄しているラインハルトの用兵を「天才だから当然」と片付ける気にはなれない。別次元の存在が起こした奇跡にただただ畏れを感じていると、帝国軍の他の艦隊が細長く伸びきっていた同盟軍の艦列に向かって押し寄せてきた。分断された後に殲滅される同盟軍を想像して背筋が寒くなった。

 しかし、グリーンヒル大将はヤン大佐の進言を受けて、帝国軍の艦隊がトゥールハンマーの射程内に入り込んだ隙に予備兵力を投入して戦況を立て直すことに成功。ラインハルトの天才が作り出した戦況は、もう一人の天才ヤンによって覆されてしまう。その後、数日にわたって同盟軍と帝国軍は戦闘を続けたが、決め手を欠いたまま、消耗戦に突入していった。

「ミサイルがない?食料が足りない?ああ、そうか。費えばそりゃなくなるだろうよ。で、俺にどうしろと言うんだ!?」

 ひっきりなしに舞い込んでくる補給要請に苛立った後方部長のアレックス・キャゼルヌ准将が、通信を切った後でそう吐き捨てた。初日のミサイル艇突撃で一気にイゼルローン要塞を攻略するつもりだったのに、失敗した後も撤退せずに戦闘を継続していたせいで、事前に立てた補給計画がすっかり狂ってしまっていた。物資の充足状況や備蓄状況はかなり悪化している。キャゼルヌ准将がいかに優秀な後方参謀でも物資を無から生み出すことはできない。各部署から殺到してくる補給要請に優先順位を着けて、後回しになる部署には我慢してもらう必要がある。

 後方参謀の判断一つで医薬品を与えられない負傷者、食事にありつけない兵士、部品不足で稼働できない艦艇、弾薬不足で戦闘できない部隊などが出てくる。戦場での物資不足は命にかかわる。後方参謀が優先順位を低くつけたせいで、死に追いやられる兵士もいる。多くの兵士が死ぬことがわかっていても、補給量を抑えなければならないことだってある。全軍の補給計画を立てる後方参謀は、兵士達の生死に責任を持つ存在なのだ。

 高級指揮官と参謀は自分の目が直接届かない範囲にいる人間の生死にも責任を持つという共通点がある。だからこそ、高級指揮官になる者には参謀経験が求められるのだろう。目の前の人間に対してのみ責任を持つ立場だった俺には、参謀に課せられた責任はあまりに重い。しかし、その重さをわずかでも経験したことは大きな糧になるはずだ。4=2基地の失敗から指揮経験を欲していた俺に、あえて参謀をやらせようとした人事担当者の意図がようやく分かったように思う。

 12月6日。同盟軍はヤン大佐の立てた作戦にもとづき、混戦状態に陥っていた戦線を整理して挟撃態勢を作り上げる。イゼルローン要塞の右側面に火線を構築して、帝国軍に集中砲火を浴びせた。トゥールハンマーの射程内に押し込まれた帝国軍は、左側面からの波状攻撃によって大損害を被った。この攻撃において特筆すべき活躍をしたのはホーランド少将である。三度にわたって帝国軍に突入して陣列を掻き乱し、崩れたところに激しい砲撃を浴びせて大打撃を与えた。帝国軍を戦線崩壊寸前まで追い込んだものの、二つの小部隊の奮戦によって同盟軍の攻勢は食い止められた。

 12月9日。7日から8日にかけての攻勢が失敗して、総司令部の参謀達の意見は撤退に傾いていた。これ以上戦闘を継続しても、戦果を見込めないことは明らかだったが、ロボス元帥は決断できずにいた。二年前の第五次イゼルローン攻防戦では同盟軍は五万隻を動員したが、今回は三万六千九百隻の動員に留まった。春のヴァンフリート星系出兵の苦戦が議会の心象を悪くして、イゼルローン攻略作戦の予算を削られてしまったためだ。少ない戦力でのイゼルローン攻略を強いられたロボス元帥は、議会と有権者を納得させられるだけの戦果を収めて、評価を取り戻そうとしていると言われていた。そんな彼が撤退を決断したのは、二千隻程度の帝国軍部隊が同盟軍の退路を断つべく動き始めたという報を受けた時だった。

 戦術スクリーンには少数の赤い点が青い点が少ない宙域を転々として、恐ろしい速度で同盟軍の勢力圏を移動しているのが見える。帝国軍と入り乱れて戦っていた同盟軍の各部隊の指揮官達は突破しようとする敵を阻止しようと殺到したが、逆撃を受けてことごとく跳ね返された。このような芸当ができる帝国軍人は、ラインハルト以外にはいないだろう。意地になった同盟軍は全軍総出でラインハルトを阻止しようと追いかける形になり、ラインハルト以外の帝国軍部隊は後退して、いつの間にか混戦状態は解消されている。しかも、トゥールハンマーの射程のど真ん中だ。前の歴史では第六次イゼルローン攻防戦はトゥールハンマー発射によって決着が着いた。不吉な予感が胸の中に広がっていく。

「見ろ!イゼルローン要塞を!」

 司令室にオペレーターの悲鳴が響く。イゼルローン要塞に白い光点が浮かび、どんどん輝きを増していくのが見えた。血の気がスーッと引いていき、膝ががくがくと震え出し、お腹がきゅっと痛くなった。周りの人の顔にも恐怖の色が浮かんでいる。慌ててダーシャの顔を探そうとあたりを見回した時、メインスクリーンが眩しく輝いて、巨大な衝撃波が司令室を激しく揺らした。

「第二射、来ます!」

 オペレーターの悲鳴が再び司令室に響いた。再びメインスクリーンが輝いて司令室を光で満たす。大きな揺れが来て、バランスを崩した俺は仰向けに床に倒れてしまった。照明が赤色の非常灯に切り替わり、火災発生を伝える艦内放送が流れる。

 痛む頭をさすりながらゆっくり立ち上がって司令室の中を見回すと、ロボス元帥の周りに参謀が集まっている。アンドリューは元帥の側にいた。キャゼルヌ准将は忙しく端末を操作している。ヤン大佐はベレー帽を顔に乗せていて、寝ているように見える。イレーシュ中佐は腕組みをして、司令室全体を睨んでいるかのようだ。ダーシャはどこだろうと思って歩き出すと、腕に掴まれるような弱い感触があった。びっくりして振り向くと、不安げな顔のダーシャが立っている。どうしていいかわからず、ただ彼女と顔を見合わせていた。ラインハルトのラインハルトによるラインハルトのための戦いとしか言いようが無い第六次イゼルローン攻防戦はこうして終わりを告げた。

 12月10日。同盟軍イゼルローン遠征軍総司令部は正式に作戦中止を表明して、撤退を開始した。同盟軍の戦死者は75万人、帝国軍の戦死者は36万人。一度は要塞外壁を吹き飛ばしたものの、撤退の判断が遅れた挙句に敵に倍する死者を出してしまっては、お世辞にも健闘とは言えないだろう。ヴァンフリート星系出兵で落ちたロボス元帥の評価がさらに落ちることは疑いない。数々の作戦案を立案したヤン大佐、行軍計画を成功させたアンドリュー、帝国軍を戦線崩壊寸前に追い込んだホーランド少将ら若手エリートの活躍は数少ない明るい材料といえる。キャゼルヌ准将を中心とする新しい後方支援体制が円滑に機能したことも明日につながる成果だ。

 12月24日にハイネセンに帰還した俺は、4日後の28日に遠征軍司令部後方部から第十一艦隊司令部後方部への転属を命じられた。第十一艦隊司令官の交代に伴う人事異動の一環であり、年明けに着任することとなる。帝国軍が来年の2月か3月を目処に出兵してくるという情報が入っていた。ここしばらく前線に出ていなかった第十一艦隊が迎撃の任にあたることはほぼ確実視されている。疲れを癒やす暇もない。4月から7月まで入院してた分も働けってことなのかもしれないと思った。 

 

第十二章 参謀の本領
  第十二章開始時人物設定

主人公
エリヤ・フィリップス 27歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中佐
役職:第十一艦隊後方参謀
性格:小心で卑屈。素直で真面目な優等生。努力を楽しめる。仕事熱心。自己評価は低い。
容姿:子供っぽい容姿。身長は平均よりやや低い。爽やか、絵になるなどと言われているが、以前は冴えなかったと言われる。
能力:事務処理能力が高く、法律に通暁している。管理職としては公正。参謀としては未熟。対人関係に細やかな気配りを見せる。射撃の達人。実戦経験が浅いのが難点。
略歴:イゼルローン遠征から帰還後、ドーソン中将の招きで第十一艦隊の後方参謀となる。前の人生ではアーサー・リンチに従ってエル・ファシルから逃亡したことがきっかけで転落した。
史実:登場せず。

重要人物
クレメンス・ドーソン 45歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十二章開始時点)
役職:第十一艦隊司令官(第十二章開始時点)
性格:異常なまでに神経質で几帳面。わかりやすい善を好み、わかりやすい悪を嫌う小市民的な心情の持ち主。露骨にえこひいきをする。
容姿:エリヤと同程度の身長。ひげがトレードマーク。
能力:抜群の実務能力を持つ。陣頭指揮を好み、現場に口を出したがる。政治力も極めて高い。
略歴:憲兵司令官から第十一艦隊司令官に転任。ティアマト星域出兵に参加する予定。
史実:自由惑星同盟軍の末期状態を象徴する無能な指導者。
初出:二十三話

ヨブ・トリューニヒト 40歳 男性 オランダ系
職業:自由惑星同盟軍代議員(第十二章開始時点)
役職:国防委員長(第十二章開始時点)
性格:気さくで人懐っこい。ノリ重視で適当な事をポンポン言ってしまう。お好み焼きはご飯と一緒に食べる。
容姿:俳優のような美貌。スポーツで鍛え上げた長身。人懐っこい笑顔。卓越したファッションセンス。
能力:巧みな話術と人の心をとろけさせる愛嬌の持ち主。派手なパフォーマンスを用いた大衆煽動のみならず、個人を対象とした人心掌握にも優れる。
略歴:主戦派の若手指導者。昨年の内閣改造で国防委員長に就任して、影響力を拡大している。
史実:自由同盟末期の最高評議会議長。保身の怪物という評価と、単なる無能という評価がある。同盟滅亡後も暗躍を続けた。
初出:二十九話

親しい人
アンドリュー・フォーク 25歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十二章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部作戦参謀(第十二章開始時点)
性格:真面目で謙虚。社交性が高い。
容姿:長身でハンサム。最近は過労のせいかやつれ気味。
能力:士官学校を首席で卒業し、着実に実績を重ねている秀才参謀。部隊運用能力に優れ、行軍計画立案に力量を示す。リーダーシップ、運動能力も高い。白生戦技、射撃術も達人級。
略歴:エリヤの友人。ロボス大将が最も信頼する腹心。エル・ファシル義勇旅団長を務めていた頃に親しくなった。
史実:帝国領侵攻作戦を立案して同盟軍を壊滅に導き、テロリストとしても同盟の足を引っ張った愚劣な人物。
初出:第二十話

ダーシャ・ブレツェリ 26歳 女性 スロベニア系
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十二章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部後方参謀(第十二章開始時点)
性格:強引で後先を考えない。ストレートに好意をぶっこんでくる。口も体も人一倍よく動く。
容姿:丸顔で目が大きく、可愛らしい感じ。ショートカット。
能力:士官学校を三位で卒業したエリート。人の能力を冷徹に見定めることができる。
略歴:ヴァンフリート4=2宙域の会戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。ファーストネームで呼ばなければ返事をしないという奇策を用いて、エリヤとファーストネームで呼び合う仲になった。
史実:登場せず。
初出:第四十話

エーベルト・クリスチアン 40代 男性 ゲルマン系
階級:自由惑星同盟軍中佐(第九章開始時点)
役職:第百七十七歩兵連隊長(第九章開始時点)
性格:軍隊を家族と考えている。剛直だが人情に厚い好漢。単純明快な物言いを好む。
容姿:背はさほど高くないが、肩幅と胸板が厚い。いかつい顔に不機嫌そうな表情。
能力:勲章受章経験のある勇者。食事と睡眠の重要さを理解していて、部下の待遇改善に熱心。
略歴:陸戦隊出身。エル・ファシルの英雄になったエリヤの広報担当を務めた時に親しくなった。エリヤが職業軍人になるきっかけを作った人物。ヴァンフリート4=2基地の戦いで奮戦した。
史実:救国軍事会議メンバーとしてスタジアムの虐殺を引き起こした。
初出:第八話

イレーシュ・マーリア 32歳 女性 マジャール系(姓が前、名が後に来る)
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部人事参謀(第十一章開始時点)
性格:とっつきにくい外見とは裏腹に思いやりがある。社交性も結構高い。
容姿:180センチを越える長身。非の打ち所のない美形。眼力が異常に強い。不機嫌そうな表情。
能力:対人観察力が高い。教育指導能力に優れる。
略歴:士官学校卒のエリート。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。イゼルローン遠征軍に人事参謀として参加している。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ハンス・ベッカー 30歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十一章開始時点)
役職:第八艦隊第三分艦隊航法主任参謀(第十一章開始時点)
性格:お調子者。人をからかうのが好き。遠慮無くものを言う。
容姿:垂れ目。背が高い。
能力:航路知識が豊富。
略歴:ヴァンフリート4=2宙域の会戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。イゼルローン遠征軍に分艦隊参謀として参加している。
史実:登場せず。
初出:第四十話

グレドウィン・スコット 四十代後半 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章開始時点)
役職:第九艦隊後方支援集団所属の輸送群司令(第十一章開始時点)
性格:大人げない。三次元チェス狂。恐妻家。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。イゼルローン遠征軍に輸送群司令として参加している。
史実:帝国領侵攻作戦で輸送艦隊を率いたが、キルヒアイスに襲撃されて戦死。
初出:第四十話

ワルター・フォン・シェーンコップ 31歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章開始時点)
役職:ローゼンリッター連隊長(第十一章開始時点)
性格:言動と女性関係は奔放。大胆不敵で反骨精神旺盛。服従心、忠誠心とともに希薄。危険人物の中の危険人物。
容姿:貴族的な美貌。優雅な物腰。
能力:大部隊の組織的運用と少数精鋭部隊による強襲戦術の両方に長ける。部隊運営能力、指導力も高い。部下を心酔させるカリスマも持つ。身体能力、戦闘技術、勇猛さを兼ね備えた自由惑星同盟軍最高の戦士でもある。政治的な駆け引きも巧みで付け入る隙がない。
略歴:ヴァンフリート4=2基地で知り合った。エリヤをからかうのを楽しんでいたが、司令部ビルの戦闘では腹心のブルームハルトを援軍につけてくれた。
史実:同盟末期最高の地上部隊指揮官。ヤン・ウェンリーの事実上の私兵隊長として活躍した。
初出:第三十一話

カスパー・リンツ 25歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍少佐(第十一章開始時点)
性格:気さくだが、やや屈折している。
容姿:脱色した麦わらのような髪に青緑色の瞳を持つ美男子。
能力:白兵戦技と射撃術の達人。絵と歌がうまい。
略歴:幹部候補生養成所時代の唯一の友人。ローゼンリッター連隊長シェーンコップ中佐の片腕。
史実:ワルター・フォン・シェーンコップの片腕。ローゼンリッター最後の連隊長。
初出:第十六話

バラット 男性 タイ系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第三章終了時点)
役職:第七方面管区シャンプール基地教育隊体育教官(第三章終了時点)
性格:単純熱血。太っ腹。
容姿:がっちりした体格。猛犬のような印象。
能力:トレーニング指導のプロ。
略歴:陸戦隊出身でクリスチアンの元部下。幹部候補生養成所を受験するエリヤの体力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ルシエンデス 40代 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍曹長(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:ざっくばらん。
容姿:小綺麗な身なり。
能力:軍服を着た人を撮影すれば、右に出る者はいない。
略歴:統合作戦本部広報室のカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

ガウリ 30代 女性 インド系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:気さく。
容姿:小綺麗な身なり。
略歴:統合作戦本部広報室のスタイリストカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

家族
ロニー・フィリップス 51歳 男性 アングロサクソン系
職業:パラディオン市警の警察官(第二章終了時点)
性格:善良でお調子者。
略歴:エリヤの父。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

サビナ・フィリップス 50歳 女性 チェコ系
職業:看護師(第二章終了時点)
性格:心配症でおせっかい。
略歴:エリヤの母。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ニコール・フィリップス 29歳 女性 アングロサクソン系
職業:ジュニアスクールの非常勤講師(第二章終了時点)
性格:しっかり者。
略歴:エリヤの姉。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

アルマ・フィリップス 22歳 女性 アングロサクソン系
職業:ミドルスクールの生徒(第二章終了時点)
性格:甘えん坊の食いしん坊。
略歴:エリヤの妹。空気の読めないメールを送っては、エリヤをいらだたせる。前の人生ではエリヤに懐いていたが、逃亡者になると最も激しく拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

同級生
ミロン・ムスクーリ 27歳 男性 ギリシャ系
性格:爽やかなスポーツマン。
容姿:大男。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。元フライングボール部のスター。前の人生では極右団体の構成員。逃亡者になったエリヤを迫害した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ルオ・シュエ 27歳 女性 チャイナ系
容姿:丸顔。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の数少ない友達。前の人生では、逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

フーゴ・ドラープ 27歳 男性 チェコ系
性格:誰にでも優しい。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。信望が厚く、クラス代表を務めた。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

その他知り合い
ラザール・ロボス 57歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍元帥(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊司令長官(第十一章開始時点)
性格:豪放で大らか。社交的な性格。
容姿:小柄でどっしりとした肥満体。将帥にふさわしい威厳の持ち主。
能力:リスクを厭わず、大胆に仕掛ける用兵に定評がある。対人調整や政治的な折衝にも長ける。人の心に入り込むのがうまい。雑務が苦手。
略歴:同盟軍きっての名将。第六次イゼルローン攻防戦では精彩を欠いた。
史実:帝国領侵攻に失敗して、同盟軍を壊滅に追い込んだ愚将。
初出:第十八話

アレックス・キャゼルヌ 33歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍准将(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部後方部長(第十一章開始時点)
能力:後方支援システムの構築と運営にかけては、セレブレッゼ中将に匹敵する技量を持つ。部下の能力を見極める眼力と仕事の割り振りは天才的。会議を通して自分の考えを徹底するスタイル。
略歴:統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥の腹心。失脚したセレブレッゼ中将の代わりに、同盟軍後方部門の司令塔となった。イゼルローン遠征軍の後方支援を統括する。
史実:同盟末期最高の後方支援専門家。ヤン・ウェンリーの後方支援を担当した。
初出:第十八話

ヤン・ウェンリー 26歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章終了時点)
役職:宇宙艦隊総司令部作戦参謀(第十一章開始時点)
性格:冷静沈着。責任感が強い。整理整頓ができない。他人の期待通りに振る舞うことを嫌う。
容姿:ハンサムだが、身なりに無頓着なせいで冴えないように見える。
能力:作戦能力は天才的だが、あまり積極的ではない。
略歴:士官学校卒のエリート。エル・ファシル脱出作戦を指揮した後も着実に出世している。統合作戦本部長シトレ元帥の腹心。
史実:自由惑星同盟末期最高の名将。生涯不敗を誇った用兵の天才。
初出:第五話

ユリエ・ハラボフ 23歳 女性 チェコ系
階級:自由惑星同盟軍大尉(第九章終了時点)
役職:憲兵司令官副官(第九章終了時点)
性格:生真面目で繊細。自分を追い込んでしまうところがある。
容姿:すっきりした目鼻立ちの美人。手足が長く、スタイルが良い。身のこなしには無駄がない。
能力:士官学校を上位で卒業したエリート。仕事ぶりは丁寧で細かい。簡潔明瞭で無駄がない文書を作る。徒手格闘の達人。
略歴:エリヤの後任の副官。努力が空回りして、ドーソン中将の不興を買う。エリヤの無神経な言葉に深く傷つき、口もきかない間柄になっている。
史実:登場しない。
初出:第四十一話

シンクレア・セレブレッゼ 48歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十章終了時点)
役職:第十六方面管区司令官(第十章終了時点)
性格:パワフルで自負心が強く、妥協を嫌う。攻勢に強いが、守勢には極端に弱い。
容姿:学者のような風貌。
能力:後方支援システムの構築と運営に卓絶した力量を持つ。リーダーシップにも長けていて、後方支援のプロ集団チーム・セレブレッゼを築き上げた。
略歴:同盟軍の後方支援システムが麻薬組織に悪用された責任を問われて、辺境に左遷された。
史実:ヴァンフリート4=2基地の戦いで帝国軍の捕虜となった。
初出:三十五話

エマヌエーレ・カルーク 53歳 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第八章終了時点)
役職:中央支援集団副司令官(第八章終了時点)
性格:臆病で無責任。
容姿:企業の重役を思わせる恰幅の良さ。
能力:同盟軍最高の補給専門家。危機管理能力に長けた超一流の指揮官。
略歴:セレブレッゼ中将の片腕。ヴァンフリート4=2基地攻防戦では、口実を付けて戦闘に参加しなかった。
史実:登場せず。
初出:三十五話
出:三十五話

エイプリル・ラッカム 48歳 女性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第十章終了時点)
性格:温和でユーモアがある。
容姿:小太り。そこらのおばさんっぽい。
能力:麻薬組織の指導者として、卓越したリーダーシップを発揮した。帝国、同盟両軍を手玉に取る策士。
略歴:グロースママの異名で知られる麻薬組織の最高指導者。軍の後方支援システムを私物化して、麻薬流通網として悪用していた。帝国軍と同盟軍を操ってヴァンフリート4=2基地の戦闘を引き起こし、混乱の中で逃亡に成功した。
史実:登場せず。
初出:三十五話

ループレヒト・レーヴェ(偽名) 三十前後? 男性 ゲルマン系
性格:誠実で公正。正義感が強い。鋼のような自制心を持つ。
容姿:精力的な面構えに広い肩幅。黒い髪。法曹関係者っぽい容姿。
略歴:帝国軍の憲兵。ある要人の使者としてフェザーンでエリヤに面会し、帝国憲兵隊が集めた麻薬組織の資料を渡す。
史実:登場せず
初出:四十四話

ファヒーム 死亡時は50代後半 男性 アラブ系 故人
階級:自由惑星同盟軍少佐(第八章終了時点)
役職:ヴァンフリート4=2基地憲兵副隊長(第八章終了時点)
性格:横柄で口やかましいが、仕事には誠実。
容姿:短い白髪、鋭い目つき。
能力:実務に長けたベテラン。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で取り乱して突出したエリヤを救出した。時間稼ぎのために踏みとどまって戦い、壮烈な戦死を遂げる。
史実:登場せず。
初出:三十五話

カーポ・ビロライネン 33歳 男性 フィンランド系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団参謀長(第五章終了時点)
性格:真面目だが、他人の心情への配慮に欠けるところがある。
容姿:神経質で気難しそうな容姿。実年齢より5年は老けて見える。
能力:実務能力は極めて優秀。情報宣伝にも長けている。
略歴:ロボス大将の懐刀。エル・ファシル義勇旅団ではエリヤを棚上げして、実権を掌握した。
史実:帝国領侵攻作戦の情報主任参謀。
初出:第十九話

マリエット・ブーブリル 35歳 男性 フランス系
階級:義勇軍中佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団副旅団長(第五章終了時点)
性格:外面は良いが、自己中心的で気性が激しい。自己顕示欲が強い。
容姿:上品で優しげな美貌の持ち主。実年齢より5年は老けて見える。
能力:カメラの前では、嫌いな相手に対しても親友のように振る舞える演技の達人。
略歴:元従軍看護師で勲章も持っているが、世間的な知名度は低い。エル・ファシル義勇旅団ではトラブルメーカーだった。
史実:登場せず。
初出:第十九話

アーロン・ビューフォート 男性 アングロサクソン系
階級:中佐(第二章終了時点)
性格:さっぱりした性格。本当の意味での大人。
容姿:30半ばに見える。
略歴:エル・ファシル脱出船団旗艦の艦長。エリヤに絡まれたが、大人の対応をして泣かせた。
史実:大親征でビッテンフェルトを迎撃した。
初出:第七話

フランチェシク・ロムスキー 30代 男性 ポーランド系
職業:エル・ファシル市会議員、内科医師(第二章終了時点)
性格:気さくだがやや軽率。
容姿:大柄。
略歴:エリヤをエル・ファシル星系政庁に連れて行った。
史実:同盟から独立したエル・ファシル独立政府の主席を務めた。
初出:第三話 

 

第十二章 参謀の本領
  第五十話:じゃがいもとパンの間に架ける橋 宇宙暦795年1月下旬 ハイネセン市、第十一艦隊司令部

「攻めてきた敵を撃破しても、イゼルローン要塞に逃げ込まれる。戦力を回復したら、要塞から出てきて辺境星域で暴れまわる。その繰り返しだ。防ぐだけでは埒があかないということに、諸君はそろそろ気づくべきではないか」

 スクリーンには、拳を振り上げて熱弁を振るっている軍服姿の男性が映っている。プロスポーツ選手を思わせるような逞しい長身。ブロンドの髪を短く刈り上げ、眉は太くて鼻は高く、鋭気がみなぎっているかのような顔立ちの美男子だ。小柄で童顔の俺とは対照的である。

「根本的な解決はただ一つ、イゼルローン要塞を落とし、帝国領に攻め込み、オーディンを攻略して、専制政治を打倒する。銀河を自由と民主主義の名のもとに統一するのだ。戦いを終わらせるのは武力だけだ。専制との間に妥協は成り立たない」

 男性は分厚い胸を張り、朗々とした美声でスタジオの聴衆とスクリーンの向こうの視聴者に向けて訴える。彼の言葉と態度には人を惹きつける力があった。生まれながらにして世界の主役たるべき資格を持つ存在。スポットライトを浴びるために生まれてきた男。そんな印象を受ける。

「このウィレム・ホーランドの頭脳の中には、帝国を打倒する戦略がある。奇しくも次の戦場はかのブルース・アッシュビーが大勝利を収めたティアマト星域だ。この手で専制者の軍勢を完膚なきまでに叩きのめし、余勢を駆ってイゼルローンに雪崩れ込むのだ!」

 ホーランド提督が右の拳を真っ直ぐに突き上げると、聴衆が拍手する音が鳴り響いた。イレーシュ中佐が言ってた通り、こういう人に自信満々にズバッと言い切られたら、何でもできそうな気になってしまうかもしれない。生まれながらのスターとしか言いようがないホーランドの英姿に見とれていると、スクリーンが真っ暗になった。俺の背後から忌々しげな舌打ちが聞こえる。

「ふん、若僧が出しゃばりおって」

 スクリーンのリモコンを手にしながら、不快そうな表情を浮かべているのは新任の第十一艦隊司令官クレメンス・ドーソン中将。主戦派の有力者だが、生真面目な性格ゆえに大言壮語をする人間とは相性が最悪なのだ。ホーランドが公然とドーソン中将の悪口を言いふらしているのも心象を悪くしていた。

「しかし、ホーランド少将は才能のある方です。多少のことは大目に…」
「才能を鼻にかけて秩序を害う奴など、百害あって一利無しだ。組織に天才など必要ない」

 秩序を重んじるドーソン中将らしい意見。秩序と才能のどちらを重んじるかは、組織論の永遠の課題である。組織の構成員の9割以上は弱くて無能で臆病で怠惰な凡人だ。規律で縛って、教育訓練で型にはめて、秩序を作らなければ、凡人をまとめることはできない。しかし、凡人がまとまっているだけでは現状維持に終始するのみで強い組織は作れない。組織を強くするには優れた才能が欠かせないが、そのような人物はしばしば凡人と足並みを揃えられずに秩序を害う。どんなに才能があっても、圧倒的多数派の凡人の協力無しに組織を運営することはできない。秩序を害うほどに尖った才能は必要ないというのは極端ではあるが、一つの答えではあるかもしれない。数十人の秀才のチームワークを一人で打ち破れるような天才の存在を考慮しなければの話だが。

「トリューニヒト国防委員長も私と同じ考えだ。だからこそ、あのホーランドではなくて、私が司令官に選ばれた。それを逆恨みしおって!」

 昨年のイゼルローン攻防戦における武勲に加えて、宇宙艦隊司令長官ロボス元帥の推薦を得たホーランド少将は、空席だった第十一艦隊司令官への就任がほぼ内定していた。ところが昨年末の内閣改造で国防委員長に就任したばかりのヨブ・トリューニヒトが異を唱えて、ドーソン中将を強く推薦したのだ。武勲を鼻にかけて軍の秩序を蔑ろにしがちなホーランド少将に対する軍高官の反感は強く、選考会議ではドーソン中将を支持する者が圧倒的多数だったそうだ。ロボス元帥の影響力低下が著しいこともドーソン中将の第十一艦隊司令官選出を後押しした。ロボス派の首都防衛司令官ロックウェル中将、第二艦隊司令官パエッタ中将らもドーソン中将支持に回ったと言われる。

「ホーランド少将は今年で32歳。憧れのアッシュビー元帥と同じ年齢での中将昇進を目指して、今回の出兵では期するところがあるようです。よりいっそう奮起なさることでしょう」
「奮起してこれかね。ビュコック中将もさぞ頭が痛いことだろうな」

 第十一艦隊司令官に就任できなかったことで中将昇進もふいにしたホーランド少将は、新たな武勲を立てる機会を求めて、今回の出兵参加が決まっているアレクサンドル・ビュコック中将の第五艦隊に転属している。英雄ブルース・アッシュビー元帥の再来を自認する彼としては、何が何でも今年のうちに中将に昇進しておきたいのだろう。メディアに出ているのも世論の支持を得て、昇進に弾みを付けるためだろう。しかし、あまりに露骨過ぎてかえって軍高官の反感を買うばかりだった。

「ビュコック中将は老巧の方。ホーランド少将の鋭気を制御できるやもしれません」
「あのビュコック中将と生意気なホーランドがうまくやれるものか」

 ドーソン中将の言葉には幾分、いやかなりの悪意が含まれていたが、事実に反しているわけではない。士官学校出身のエリートから疎外されがちな叩き上げ士官は、強烈な反骨精神と戦闘精神を持ち合わせているタイプ、上昇志向が異常に強くて出世するためには何でもするタイプ、温和で敵をまったく作らないタイプのいずれかでなければ栄達はおぼつかない。ビュコック中将は一番目の典型で、権威主義者と冒険主義者に対しては持ち前の毒舌を遺憾なく発揮する。前の歴史では栄光に目が眩んで全軍を危機に陥れたアンドリュー・フォークを激しく叱責して、転換性ヒステリー発症に追い込んだ。ホーランド少将と相性が悪いのは俺だってわかっている。

「ですが、ビュコック中将の老練さとホーランド少将の才能が調和できれば、あるいは」
「ビュコック中将の頑固さとホーランドの生意気さが不和を起こす可能性の方がはるかに高いだろうな」

 ドーソン中将は哀れみと冷笑が入り混じった視線で俺を見ている。馬鹿なことを言うと思っているのだろう。人の悪口と言うのは、聞いていてあまり気分の良いものではない。だから、誰かが悪口を言い出すと、つい打ち消したくなってしまう。前の人生で悪意に晒されすぎて、耐性が低くなっているのかもしれない。ドーソン中将は優れた人だが、人の好悪が激しすぎるのが玉に瑕だ。

「下水道の中を覗いても美を見出すことができるのは美点と言えるが、軍人は何よりも現実を見据えねばならん。貴官は他人に甘すぎる。もっと短所にも目を向けるべきだろう」

 あなたは他人の短所ばかり見ているじゃないか、と思ったけど、口には出さない。俺が他人に甘すぎるという指摘自体は正しいし、短所に目を向けられるがゆえにドーソン中将は有能なのだ。イゼルローン遠征軍の総司令部で働いてみて、参謀というのはどんな細かいことにも目を配らなければならないのかと驚かされた。司令官が指揮に専念できるよう、参謀はどんな小さな問題点でも徹底的に洗い出して優先順位をつけて、対策を練らなければならない。細かいことにうるさい人間こそ、参謀に向いている。

「気をつけます」
「貴官はいつもそう言っておるが、一向に改まらんな」
「申し訳ありません」
「謝って改まるものでもあるまいが、まあいい。貴官の分析書を見せてもらおう」
「了解しました」

 ドーソン中将に促された俺は、兵站状況分析書を取り出した。俺の意見じゃないのにな、とため息が出る。本来は後方部全体でまとめた分析書を司令官に提出するのだが、ドーソン中将は後方部長のバーミンダ・シン大佐を嫌っていて、口をきこうともしない。後方参謀の中で意見を求められるのは、自分のスタイルを理解している俺とジェレミー・ウノ中佐だけで、他の者には実施面に関する補佐のみを求める。これではまずいということで、シン大佐以下の後方参謀に頼まれた俺は、自分が作成した分析書に彼女らの意見を盛り込む形で後方部の意見を伝えることになっていた。

「それにしても、さすがは貴官だ。参謀になってから、5か月程度でこれだけの分析書を作り上げるとはな」

 後方部のベテラン参謀達の意見なんだから当然じゃないかと、満足そうに頷くドーソン中将に心の中で突っ込みを入れる。後方参謀達の意見を俺の言い方で書き換えて提出しているだけなのだ。ドーソン中将に意見を通しやすくするには、無駄だと思っても気づいたことは全部書き連ねる、書式は完璧に守る、誤字脱字は絶対にしないといったコツが必要である。これは小役人的なテクニックであって、プロ意識が強い参謀には馴染まない。俺が小者だからこそ掴めたコツといえる。

「着眼点は悪くないが、やはりまだまだ未熟だ」

 ドーソン中将はそう言いながら、赤ペンで修正点を書き込んでいく。分析書を出すたびに厳しく修正される。後方部の参謀よりドーソン中将の方が明らかに能力が高いのが、問題をややこしくしていた。第十一艦隊司令部の後方参謀の能力は、イゼルローン遠征軍総司令部の後方参謀と比べても、遜色はないだろう。2、3人ほどを除けば、キャゼルヌ准将の下でも立派に務まると思う。ドーソン中将が有能すぎるだけだ。これなら、参謀に任せずに自分で仕切ってしまった方が早いと考えるのも納得できてしまう。

 彼は作戦、情報、後方、人事のすべての参謀業務に豊富な経験を持っている。驚くべきことに作戦、情報、人事に関しても事実上自分で取り仕切っていた。高い能力とそれに比例したプロ意識を持つ参謀がそんなやり方を面白く思うはずもない。自分で全部やった方が早いと思ってるドーソン中将も下働きに甘んじることを潔しとしない参謀を嫌っている。各部隊からの報告は参謀に整理させずに直接自分で目を通す。計画を作成するにあたっての方針を提示する際は細かい注文をたくさん付けて、自分で事実上の原案を作ってしまう。参謀から提出される分析にも正確性と詳細さばかりを求め、独創性を発揮することを望まない。

 第十一艦隊の参謀は大半が前司令官時代から勤務していた者で、ドーソン中将が連れてきたのは俺を含む数人の子飼いだけに過ぎない。司令官が交代から出兵までの間がほとんどなく、参謀を全員入れ替えてしまえば、部隊を掌握しきれない恐れがある。だから、ドーソン中将は第十一艦隊の参謀をほとんど留任させて、俺を含む子飼い数人のみを連れてこざるを得なかった。元から第十一艦隊にいた参謀とドーソン中将が対立するのは火を見るよりも明らかだった。このような状態で艦隊を指揮させるなどバクチだが、トリューニヒトには推薦を強行せざるを得ない事情があった。

 軍部におけるトリューニヒト派は、主戦保守のロボス派と反戦リベラルのシトレ派の二大派閥に挟まれた新興派閥である。ロボス派の体育会的な気風にもシトレ派のリベラルな気風にも馴染めない若手参謀士官、現場を省みない二大派閥に不満を抱く下士官兵出身の叩き上げ士官を取り込んで勢力を急速に拡大しており、求心力が低下しているロボス派から寝返る者も日を追うにつれて増えていた。しかし、新興派閥ゆえに結束力に欠けている。ロボスとシトレの二元帥に匹敵する声望を持つ現役軍人の指導者が必要だった。ドーソン中将は憲兵司令官に就任して以来、著しく声望を高めている。国防委員会の軍官僚に強い支持を受けている彼が武勲を立てれば、宇宙艦隊総司令部を掌握するロボス元帥、統合作戦本部を掌握するシトレ元帥の対抗馬に浮上することも可能だろう。

 軍内の派閥政治なんて、自分には縁がない世界だと思っていた。イゼルローン攻防戦に参加してから、何々派だの、誰が誰を支持しているだの、そういう話を聞かされることが多くなって、いささか食傷している。俺自身もトリューニヒト派ということになっている。これだけトリューニヒトやドーソン中将と仲良くしておいて、今さら派閥に属していないなどと言う気はない。明らかに俺は派閥にどっぷり浸かっている。ただ、派閥に属することで生じる誤解が嫌なのだ。アンドリューがヤン・ウェンリーの人見知りを、ロボス元帥のために働く気がないのかと解釈したような。

 司令官の執務室を退出すると、扉の向かいの壁に腕組みをした男性が寄りかかっているのが見えた。左手には大きな紙袋を抱えている。めんどくさい人に会ってしまった。さっさと通りすぎようと思ったが、俺が歩き出す前に男性は俺に気づいて歩み寄ってきた。

「やあ、フィリップス中佐。昼ごはんは食べたかな?」
「いや、まだですが」

 早く行ってくれないかなあと思った。彼が話しかけてくる時は決まって厄介事を持ち込んでくるのだ。最初のうちは緊張感がまったく無い声とぼんやりした表情に騙されたものだが、もう油断はしない。

「じゃあ、これをあげよう」

 そう言うと、男性は紙袋を俺の胸に投げ出すように押し付けてきた。反射的に受け取ってしまう。

「何ですか、これは?」
「チャーリーおじさんの店が今日は特売日でね」

 袋の中を覗くと、パンがぎっしり詰まっていた。焼きたての香ばしい匂いが俺の鼻をくすぐる。チャーリーおじさんの店は、第十一艦隊司令部の近くにある個人経営のパン屋だ。この店のパンは安くてうまくてボリュームがある。これを全部食べていいのだと思うと、顔が自然にほころんでくる。

「マフィンは、マフィンは入ってますか!?ブルーベリージャムのマフィンですよ?」
「もちろん入っているとも。私が忘れるはずもないだろう」

 袋の中をまさぐってみる。確かな手応えを感じて取り出した。ブルーベリージャムのマフィンだ。

「ありがとうございます!」
「礼には及ばないよ。礼を言わないといけないのは私だ」
「と申しますと?」
「いやね、これから君が書く分析書に、私の意見が間違いなく盛り込まれることへのお礼さ」

 しまった、と思った。要するに俺が次にドーソン中将に提出する兵站状況分析書に彼の意見も加えろということなのだ。兵站状況分析には、人事部の彼と重なり合う事柄も多い。しかし、後方部の仕事だけでも忙しくてたまらないのに、違う部署の依頼なんて引き受けたくない。俺が他の部署の依頼も引き受けると知られたら、作戦部や情報部にも頼られかねないからだ。それなのに毎度毎度この調子で引っ掛けられてしまう。

 第十一艦隊人事部長チュン・ウー・チェン大佐。パン屋の二代目と言われるおっとりした容姿。身のこなしにも表情にも喋り方にもまったく緊張感がなく、俺の知る限りでは最も軍服が似合わない人物。そんな彼は今の俺にとって最大の頭痛の種だった。 

 

第五十一話:英雄と天然の狭間に 宇宙暦795年2月2日~18日 ハイネセン市第十一艦隊司令部及びティアマト星系

 795年2月2日。最終調整を終えた第十一艦隊は出兵を待つばかりとなっていた。整備状態、補給状態ともに極めて良好。各艦、各部隊の連携にも不安はない。連日、汚れた作業服を身にまとって現場を訪れる司令官の姿に、将兵の士気は否が応にも高まっている。司令官交代直後で調整時間が足りなかったにも関わらず、宇宙艦隊総司令部が算出した最終戦力評価は、精鋭と名高い第五、第十の両艦隊と遜色ない。

 最後の打ち合わせを終えた俺は第十一艦隊司令部を出て、近くのコーヒーチェーン店「コーフェ・ヴァストーク」でケーキセットを注文した。このチェーンはコーヒーもケーキもはっきり言っておいしくないんだけど、深夜まで営業しているから良く使っている。俺以外にも軍服姿の客は結構多い。私服の客の何割かもおそらくは軍人だろう。ケーキセットが来るまで暇をつぶそうと、バッグから三冊の文庫本を取り出す。「実録銀河海賊戦争Ⅸ ウッド提督VS海賊の神様」「嫌いになれない彼女」「サードランナー4巻」のどれにしようか迷っていると、人の気配を感じた。顔を上げると、よれよれの背広とコートを着た人物が俺のテーブルに近寄ってくる。

「やあ」

 だらしない服装にふさわしい緊張感のない声で第十一艦隊人事部長チュン・ウー・チェン大佐は呼びかけてきた。正直言って苦手な相手だが、妙な愛嬌があって邪険にはしにくい。立ち上がって敬礼をしようとすると、チュン大佐は右手を軽くあげて手のひらを上下に振って、座るように促す。俺が座ると、チュン大佐は向かいの席に無造作に腰掛けた。バランスを崩したらしく、一瞬上体が大きくよろめく。本当にこの人は軍人なんだろうか?

「なかなかいい趣味じゃないか」

 チュン大佐は俺が持っている文庫本に興味を示す。よりによって、この人に恥ずかしい物を見られてしまった。「実録銀河海賊戦争」は昨年までデイリー・ハイネセンに掲載されていたライトな歴史小説、「嫌いになれない彼女」はベストセラーの若い女性向け恋愛小説、「サードランナー」は泣き虫の天才投手が主人公の青春小説。いずれも軍人が読むような本ではない。

「あ、いや、その…」
「軍人らしくないのが君の長所だな。筋金入りの軍人というのはどうも苦手だ」
「あ、ありがとうございます」

 たぶん褒められているのだろうけど、彼に言われると同類扱いされてるようで微妙な気分になる。写真ではとても軍人らしく引き締まった感じに写るのに、実物では子供っぽく見えてしまう。ポリャーネ補給基地や駆逐艦アイリスⅦで勤務していた頃は、民間企業の事務職みたいな人ばかりだった。しかし、階級が上がるにつれて、軍人らしい人が多くなっていった。屈強な人や鋭そうな雰囲気のある人を見ると、小心者の悲しさで気後れがしてしまう。軍人らしく見えないというのは悩みの種だ。

「『銀河海賊戦争』は君の趣味、『嫌いになれない彼女』と『サードランナー』は姉妹か彼女の趣味といったところかな」
「友達ですよ、友達」

 銀河海賊戦争以外の二冊はダーシャから借りた。銀河海賊戦争は彼女のお父さんがはまっていると聞いて買った。勉強になるような本しか読まなかった俺だったが、最近はダーシャの影響で小説にも手を出すようになっている。

「そういえば、君はブレツェリ大佐の娘さんと親しかったね」
「いや、だから友達なんですって」
「しかし、君はそんな彼女に少なからず好意を抱いていると」
「いや、そんなことは。嫌いという意味じゃなくて、好意はありますが、それは…」

 チュン大佐のすべてを見通しているかのような口調に慌ててしまう。好意を持っていることは事実だけど、友達としてのそれであって、それ以上ではない。ていうか、何をこんなに動揺してるんだ、俺は。

「ハムチーズベジタブル二つ、ホットカフェオーレ一つ」

 俺が頭を抱えているのを横目に、チュン大佐は店員をつかまえてサンドイッチと飲み物を注文していた。いつもながら、とんでもないマイペースだ。勝てる気がしない。それにしても、彼がパン以外の食べ物を口に入れているところを見たことがない。よく見ると、胸元にパンくずが付いている。ここに来る前にもパンを食べていたのか。

「ああ、私としたことが」

 俺の視線に気づいたチュン大佐はネクタイで口元を拭く。そこじゃないだろ、と思ったけど、口にはしない。こうも突っ込みどころが多いと、かえって何も言えなくなってしまう。

 前の歴史のチュン・ウー・チェンは紛れも無い英雄だった。宇宙艦隊総参謀長としてアレクサンドル・ビュコック元帥とともに落日の同盟軍を背負って戦い、知謀の限りを尽くして帝国軍を苦しめ、民主共和制の再興をヤン・ウェンリーに託して散っていった。マル・アデッタ会戦での壮烈な最期は旧同盟人の涙を誘わずにはいられない。高潔な人格者、冷静沈着な知将というイメージを持っていたのだが、実物は全く違っていた。

 チュン・ウー・チェン大佐は今年で32歳。士官学校を上位で卒業して、宇宙艦隊総司令部や正規艦隊司令部の参謀職を歴任している。アレックス・キャゼルヌ准将のように一つの参謀部門に特化したスペシャリストではなく、ドーソン中将のように作戦、情報、後方、人事のすべてに経験を積んだゼネラリストだ。この年で大佐というのは、かなりの昇進速度である。30代のうちに確実に将官昇進を果たせるだろう。将官になれるのは士官学校卒業者の上位5%程度に過ぎない。英雄にふさわしい立派な経歴の持ち主だ。

 人を外見で判断してはいけないのはわかる。わかるんだけど、チュン大佐の外見には、その建前を裏切りたくなりそうに思わせるものがある。「パン屋の二代目」「とろいおのぼりさん」と言われる鈍そうな容貌、結婚していることが信じられないようなだらしない身なり、空気をまったく読まないマイペースな言動。ドーソン中将に疎まれているのも、統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥の派閥に属しているせいだけではないだろう。どこをどう見ても警戒すべき要素がないのに、気が付くとあっちのペースに巻き込まれている。ローゼンリッターのワルター・フォン・シェーンコップ大佐とは、別の意味で掴み所がない。同盟末期の英雄って、曲者しかいないんじゃなかろうか。

「いよいよ、明後日出発だね」
「そうですね」
「しばらくはチャーリーおじさんの店のパンも食べられなくなる」
「買いだめして船に持ち込んだらいいんじゃないでしょうか」
「ああ、なるほど。君は賢いな」

 アドバイスをすると、寂しげだったチュン大佐の表情が明るくなり、無邪気に目を輝かせた。本当に良くわからない人だ。

「いえ、それほどでも…」
「謙遜することはないさ。君が一番好きなブルーベリージャムのマフィン、あれは実にうまい。私はレーズンブレッドが一番好きだけどね。サンドイッチはきゅうりと卵のサンドかな。君はベーコンレタストマトサンドが好きだったか。好き嫌いの少ない私だが、トマトだけは小さい頃からどうも苦手で」
「チュン大佐は今回の出兵の見通しについて、どのようにお考えですか?」

 脈絡なく話題を変えていくチュン大佐のペースに巻き込まれないように、無理やり仕事の話に持ち込んだ。ダーシャの話を蒸し返されたりしたらたまらない。

「負けはないと思うよ。今回は敵を撃破する必要はない。第四艦隊と第六艦隊が到着するまで粘れば、敵は帰っていく」
「粘れるんでしょうか」
「第五艦隊のビュコック提督と第十艦隊のウランフ提督は歴戦の勇将。我が艦隊のドーソン提督は実戦経験が乏しいが、今のところはそんなに不安はないかな」

 前の歴史では第三次ティアマト会戦は、第十一艦隊司令官ウィレム・ホーランド中将の暴走で全軍壊乱の危機に陥ったが、ビュコック中将とウランフ中将の活躍で盛り返して痛み分けに持ち込んだ。今回はホーランドはビュコック中将配下の分艦隊司令官で、ドーソン中将が代わりに第十一艦隊を指揮している。展開がさっぱり読めない。

「実戦経験が乏しいというのは、不安材料にはなりませんか?」
「ドーソン提督の愛弟子なのに、ずいぶんはっきり言うね」
「小官はドーソン閣下から事実を見据える態度を学びました。問題点を問題点と指摘しなければ、閣下からお叱りを受けます」
「なるほどね」

 チュン大佐は俺の言葉に感心しているが、これは口からでまかせだ。ドーソン中将が自分の実戦経験の乏しさを問題視しているのは事実である。だからこそ、必死で艦隊のパフォーマンス向上に取り組んだ。すべてを自分で取り仕切ったのも、欠点を自覚して用心を重ねたからだろう。しかし、気が小さいものだから、自分では認めている欠点でも、他人から指摘されると腹を立ててしまう。

「全部、ご自分で仕切ろうとなさるのも不安です。司令部の雰囲気が悪すぎるなあって」

 確かにドーソン中将は司令官としても有能だった。短期間で艦隊のパフォーマンスを飛躍的に向上させ、演習でもなかなかの指揮ぶりを見せた。第十一艦隊の動きは、録画映像で見たウランフ中将の第十艦隊にもひけを取らなかった。違う人が同じようなことをしたら、第十一艦隊の活躍を確信したと思う。しかし、ドーソン中将は俺と同じ小心者だ。平時では手際が良くても、戦場ではどうなるかわからない。能力と実績を兼ね備えたロボス元帥が昨年のイゼルローン遠征でラインハルトに手玉に取られたところを見ているだけに、不安になってしまう。

「そんな司令官、珍しくもないよ」
「そうなんですか?」

 意外な言葉に驚く。司令官ってロボス元帥のように参謀に策を練らせて、自分は指揮に専念するのが普通だと思っていた。

「参謀より司令官の方が階級が高いだろう?」
「ええ、まあ」
「階級って業務経験と比例するからね。自分より業務をわかってない参謀の言うことを聞きたがらない司令官も多いのさ」
「ああ、確かに小官がドーソン閣下だったら、小官みたいな参謀の言うことは聞きたくないかもしれません」
「実際、それでうまくやっている司令官もいるね。第二艦隊司令官のパエッタ提督とか」
「ということは、パエッタ中将のような活躍を期待してもいいんでしょうか!?」

 興奮のあまり、声がうわずってしまう。第二艦隊司令官パエッタ中将は同盟軍屈指の戦術家だ。二度にわたって正規艦隊の参謀長を務めるなど、参謀業務にも豊富な経験を持っている。前の歴史ではヤン・ウェンリーを用いなかったことで評価を落としたが、天才ラインハルト以外の提督相手に遅れを取ったことはなく、今の名将という評価に誤りはないだろう。そんな人物とドーソン中将のスタイルが同じというのは希望が持てる。

「気が早いね、そんなに焦らなくてもパンは無くならないよ」

 いつの間にか、チュン大佐の注文したサンドイッチがテーブルに置かれていた。

「いや、すいません。なんか嬉しくなってしまって」
「それにしても、君は面白いな」

 あなたに言われたくないと内心で突っ込む。俺ってかなりつまらない奴だぞ。真面目だけがとりえで、趣味も少ない。生活ぶりだって地味なものだ。トリューニヒトみたいに話題が豊富なわけでもなく、チュン大佐みたいな天然でもない。

「小官ほどつまらない人間はそうそういないですよ」
「ドーソン提督の実戦経験不足が不安だとか、自分が司令官だったら自分のような参謀の言うことは聞かないとか、そんな話を他派閥の私にストレートに言うところが面白い。そして、私がストレートに答えたくなってしまうのも面白い」
「それって面白いんでしょうか?」

 チュン大佐が何を面白いと感じているのか、さっぱりわからない。彼の考えることなんて、俺には何一つわからないけど。

「パフェは好きかい?」
「はい、好きですが」
「これはどうかな。新メニューの桃のパフェ」
「おいしそうですね」
「食べてみるかい?おごるよ」
「ありがとうございます!」
「礼には及ばないよ。こちらこそ礼を言いたいぐらいさ。君が出兵中に書く分析書に私の意見を盛り込んでくれたお礼」

 やられた、と思った。ていうか、おごられなくても、頼まれたら引き受けるつもりになっている。参謀達がドーソン中将に抱いている不満が収まるなら、俺の分析書に彼らの意見を書き加えるぐらいどうってことはない。最近は作戦参謀や情報参謀にも頼まれるようになった。それでも、チュン大佐のペースに巻き込まれてしまったことがちょっと悔しくなるのだ。


 2月18日。同盟軍の第五艦隊、第九艦隊、第十一艦隊はティアマト星系に展開した。総兵力は三万三千九百隻。対する帝国軍は三万五千四百隻。同盟軍の総司令官ロボス元帥は後方に控えて、第四艦隊と第六艦隊の到着を待っている。財政規律堅持を理由とした進歩党の反対で補正予算案の可決が遅れ、第四艦隊と第六艦隊の動員が遅れたためだった。

 第十一艦隊司令官ドーソン中将は、旗艦ヴァンドーズの司令室で第五艦隊司令官アレクサンドル・ビュコック中将及び第九艦隊司令官ウランフ中将と通信回線を開いて最後の打ち合わせを行っている。

「では、総司令官が到着するまでは、先任たるわしが指揮をとるということで良いかな?」
「異存はありません」
「間断なく小規模攻撃を仕掛けて主導権を確保しつつ、第四艦隊と第六艦隊が到着するまで前線を維持する。ウランフ中将、ドーソン中将、よろしく頼むぞ」
「承知しました」

 ドーソン中将はビュコック中将に敬礼をする。強い反骨精神の持ち主でシトレ派に属するビュコック中将と、権威主義者でトリューニヒト派に属するドーソン中将の仲は決して良いとはいえない。しかし、二人とも私情を任務に優先させるような人間ではない。統合作戦本部の参謀チームは第六次イゼルローン攻防戦の戦闘分析から、数千隻規模の奇襲戦術における帝国軍の技量を極めて高いものと判断。いくつもの対策を練り上げて全軍に周知した。間断ない小規模攻撃で主導権を握り続けるというのも奇襲対策の一つである。前の歴史では第十一艦隊の暴走で足並みが乱れてラインハルトの奇襲を許したが、今回は三個艦隊の司令官が協力態勢を築いている。付け入る隙を見つけるのは難しいはずだ。

「砲撃開始!」

 ドーソン中将の合図とともに数千本の光条が虚空を切り裂き、第十一艦隊は他の二艦隊とともにゆっくりと前進を開始した。メインスクリーンには砲撃しながら前進してくる敵艦隊が映っている。汗がにじんでいる拳を強く握りしめた。第三次ティアマト会戦の幕開けである。 

 

第五十二話:経験の力、そして参謀にできること 宇宙暦795年2月18日 ティアマト星系、第十一艦隊旗艦ヴァンドーズ

 795年2月18日16時にティアマト星域で開始された戦闘は、きわめて平凡な形で推移した。横一列に並ぶ両軍の艦隊が距離を取りつつ、互いに砲戦を応酬している。どんな優れた用兵家でもいきなり奇策を使ってくるわけではない。最初は正攻法で仕掛けて、お互いの出方を伺いながら主導権確保に務める。提督と参謀にとっては様子見のつもりで仕掛けた攻撃でも、一瞬にして艦艇数十隻を破壊し、将兵数千人の命を奪うことができる。数千の砲撃が飛び交い、爆発とともに人命を奪っていく探り合いだ。

「こちら、第三分艦隊。一時方向と十時方向に敵部隊確認。司令部の判断請う」
「一時方向の敵は第二十二戦隊、十時方向の敵には残りの全戦力を持って対応せよ」
「こちら、後方支援集団。第十一輸送隊群より、十一時方向より彗星出現との報告あり。司令部の判断請う」
「後方支援集団は速度を20パーセント緩めつつ、進路を二時方向に転換して回避行動を取れ」

 ドーソン中将は前線から飛び込んでくる様々な報告を聞いては、迅速に指示を下していく。戦闘が始まる前は想像もしていなかったほどの水際立った指揮ぶりに驚かされた。歴戦のビュコック提督やウランフ提督ともぴったり足並みが揃い、整然と火線を構築している。第十一艦隊は正面の敵と比較にならないほどに良い動きを見せている。精鋭の同盟軍正規部隊であっても、指揮官に人を得なければ良い動きはできない。前の歴史における戦下手の評判とは、いったい何だったのだろうか。

 事前にどれだけ綿密な計画を立てても、実際に戦ってみないとわからないことは多い。戦闘中には一兵卒から提督に至るまでの全階層で偶発的な事故、不確実な情報や通信が引き起こす誤解、肉体的精神的疲労、思いもかけない感情的変化、とっさの判断の誤りといったトラブルに間断なく見舞われる。刻一刻と移り変わる戦況を確実に把握して、すべてに的確な対応をするのは、どんな名将であっても不可能だ。誤解と誤断の連続の中で生じた綻びが戦場を次なる段階へと導く。両軍は砲戦を交わしながら距離を詰めていき、遠距離戦闘から中距離戦闘の段階に移行していった。

 第十一艦隊旗艦ヴァンドーズの司令室にあるメインスクリーンの中では、敵味方のビーム砲とミサイルが乱れ飛び、各艦のエネルギー中和磁場と強弱を競い合っている。砲火が集中して中和磁場が崩壊した艦は、白熱した火球となって真空に消えていく。敵艦より先に中和磁場をぶち破れるほどの砲火を叩き込めるか否かが生死を分ける。味方艦の爆発に巻き込まれてる艦、味方の誤射で破壊される艦も少なくはない。個艦レベルの運命は偶然に左右される部分が大きいのだ。ヴァンドーズの周囲でも砲撃が飛び交い、数隻の味方艦が爆発してメインスクリーンを照らしだした。

「艦長、旗艦が前に出すぎている。天頂方向へ艦首を四十度回頭の後、後退せよ」

 ドーソン中将はヴァンドーズの艦長に後退を指示する。艦隊旗艦は指揮通信機能が充実している。撃沈されてしまえば、仮に司令官以下の全員が退避して健在な艦に司令部を移動できたとしても、指揮系統が著しく弱体化してしまう。しかし、後方に下がり過ぎると、戦況を把握できなくなってしまう。通信の阻害、不正確な報告、報告と状況変化の時間差などによって生じる情報の不完全性は、現在の技術をもってしても克服することができない。陣頭に立って自らの目で戦場を見渡して、五感をフルに働かせてはじめて、戦況の変化に対応できる。陣頭指揮と旗艦の安全の兼ね合いは本当に難しい。

 偉そうに解説をしている俺だが、決して暇なわけではない。戦闘中の参謀には命令文の起案、作成、伝達という大事な仕事がある。また、命令が実行されているか否かの確認を通じて、各部隊の状況把握に努める。進言を好まないドーソン中将の参謀であっても結構忙しいのだ。プロ意識の強い参謀の中には、書記官的な役割のみを求められることを潔しとしない者も多いが、それでも今はドーソン中将に命じられた仕事を粛々とこなしている。

「やあ」

 戦闘中とは思えないのんびりとした声に振り向くと、人事部長チュン・ウー・チェン大佐が俺の背後に立っていた。

「ご苦労様です」
「どうだい?」
「どうって、何がです?」
「初めての艦隊参謀。総司令部と艦隊司令部じゃ、仕事も全然違うからね。特に戦闘中の仕事は全然違う」
「思ったほど難しくなくて、拍子抜けしています。司令官閣下が正確な指示をくださるおかげですが」

 チュン大佐のような実力派参謀にとっては、ドーソン中将のやり方は面白くないかもしれない。しかし、経験が浅い俺には、ドーソン中将の有能さが頼もしく思えた。慣れない実戦指揮に取り乱していたセレブレッゼ中将とは正反対の頼れる指揮官だ。

「戦艦の艦長を二年間務めた他に実戦指揮経験がないのに、ここまでやれるとはね。参謀経験のおかげかな。参謀畑出身の指揮官は戦術能力が高い人が多いから。いい意味で意外だよ」
「長くお仕えしてきましたが、指揮なさったところは初めて見ました。参謀としての仕事ぶりは知っていましたが、指揮官もできるとは。あの方の優れた能力にはいつも驚かされます」
「私は君に驚かされているけどね」
「どういうことでしょう?」
「ドーソン提督をそんなに褒める人って君ぐらいだろう」
「今回の戦いで武勲を立てられたら、みんなわかるようになりますよ」

 ドーソン中将の高い実務能力は誰もが知っている。しかし、どれほど有能であっても武勲がなければ、軍隊の中で尊敬されることはない。持っている高ランク勲章の数と軍人から受ける尊敬の度合いはほぼ比例する。武勲を立てて昇進したにも関わらず、希望の勲章を貰えずに失望したという話も珍しくない。俺が子供っぽい容姿と浅い業務経験にも関わらず、滅多に舐められないのも、エル・ファシルやヴァンフリート4=2で獲得した勲章のおかげだ。特にエル・ファシル脱出作戦で与えられた最高勲章の自由戦士勲章の着用者は、階級に関係なく先に敬礼を受けられるという最高級の礼遇を受ける。ドーソン中将がこの戦いで武勲を立てたら、実力にふさわしい尊敬を受けるようになるはずだ。

「えらいね、君は」
「そうですか?」
「それだって、なかなか良く出来てる」

 チュン大佐が指したのは、俺の手元の端末に映っている先ほど送信した命令文の下書き。ひと仕事終えたところだから、チュン大佐のおしゃべりに付き合う余裕もある。ドーソン中将は仕事中の私語は好まないが、指揮に忙殺されているためにこちらに注意は向いていない。ウノ中佐らトリューニヒト派の参謀2、3人がこちらをちらっと見てるけど、何も言ってこないから問題はないだろう。

「第一艦隊にいた頃から、司令官閣下に手取り足取りご指導いただきましたから。憲兵司令部では副官もしておりましたし」
「私が君を指導していたら、ドーソン提督のように褒めてもらえたのかな。初めて、あの人が羨ましくなった」
「ところで大佐は今回の戦いにどんな見通しを持っておいでですか?」

 照れくささに耐え切れなくなって、話題を無理やり変えた。ハンス・ベッカー中佐に褒められても否定するなと言われてからは、あまり謙遜しないようにしている。それでも、やはりむずむずしてしまう。特にチュン大佐のような邪気がまったくない人に褒められた時は。

「敵軍の動きが良くないね。二ヶ月前のイゼルローン攻防戦で動かした精鋭を休ませてるのかな。皇帝の在位三十周年記念なんて理由で、質の低い部隊を指揮させられるミュッケンベルガー元帥がかわいそうになる」
「勝てるでしょうか?」
「90パーセントってところかな。あの部隊の動き次第だ」

 チュン大佐が指差したのは、戦術スクリーンの右上方にいる一万隻にやや足りない敵部隊。現在はビュコック中将の第五艦隊と交戦している。

「ああ、なんか他の部隊より動きがいいですよね。今のところ、第五艦隊に押され気味なようですが」
「将兵の練度自体はそれほど高くない。指揮官が優秀なんだろう」
「戦術スクリーンだけでわかるんですか?」
「練度の高い部隊は敵が動いたら、指示を待たずに自分の判断で反応できるんだ。しかし、この部隊は第五艦隊の動きに反応するまでのタイムラグがほんの少しだけある。指揮官の指示だけで動いている部隊だね」

 俺が戦術スクリーンの情報を見ても、動きが良いぐらいしかわからなかった。しかし、チュン大佐は敵の練度と指揮官の能力まで読んでいる。これほどの実力差を見せつけられると、感動すら覚える。

「第五艦隊の前衛はホーランド少将の分艦隊。指揮官も将兵も我が軍では最優秀。そんな相手と指揮能力だけで渡り合ってる。目が離せないよ」
「押されてるんじゃないんですか?」
「あの部隊とホーランド少将の部隊は一時間ほど戦ってるけど、ずっと一定の距離を保っている。距離を空けながら戦ってるね。接近戦では練度の差が露骨に出る。それにホーランド少将は接近戦が得意だ。敵の指揮官は接近戦に持ちこまれないように戦っている。老練というべきだろう」

 帝国軍の中将は一万隻前後の艦隊を指揮する。ラインハルトはイゼルローン攻防戦の武勲で確実に中将に昇進しているはずだろう。あの部隊の指揮官がラインハルトだとすると、何か仕掛けてくる可能性が高い。前の歴史の第三次ティアマト会戦でもホーランドを引っ掛けて、同盟軍を敗北寸前まで追い込んだ。

「負ける可能性はありませんか?」
「私が気づくぐらいだ。ビュコック提督とモンシャルマン参謀長もとっくに気づいてるさ。それに…」

 チュン大佐は戦術スクリーンを再び指差す。ドーソン中将の第十一艦隊とウランフ中将の第九艦隊。いずれも有利に戦いを進めている。

「こちらの敵は崩れかけている。あの部隊だけが奮戦しても、他の部隊が負けたらそれまで。逃げるしかない」
「しかし、昨年のイゼルローン攻防戦では、敵の一個分艦隊に戦況を覆されてしまいました。用心した方がよろしいのではないでしょうか」

 昨年のイゼルローン攻防戦では、完璧だったはずの作戦がラインハルトの天才に覆されて、三万隻が二千隻に翻弄された。どんな戦況であっても、敵にラインハルトがいる可能性がある限りは不安になる。それだけのインパクトがあの戦いにはあった。統合作戦本部の研究チームが講じた奇襲対策はあるし、隙を見せなければ負けはしないと思う。それでも不安を拭い去れない。

「さっき、私は90パーセント勝てるって言ったね?」
「はい」
「残りの10パーセントがあるとしたら、あの部隊がうちの艦隊に向かって来た場合。ドーソン提督の指揮ぶりはなかなかだが、ビュコック提督とウランフ提督と比べると経験が少ない。やはり、我が軍の弱点はうちの艦隊ということになる。参謀経験豊富なだけあって、ドーソン提督の戦術能力は高い。だけど、偶然を味方につける能力は経験を積まないと身につかない。老練なあの部隊の指揮官と直接戦ったら、何が起きるかわからない」
「偶然を味方につける能力、ですか?」

 ヴァンフリート4=2基地の戦いの後、クリスチアン大佐に聞いた言葉を思い出す。

『戦場を動かしているのは理屈ではなくて偶然だぞ?偶然に対処する能力が実力で、偶然を味方につける能力が運だ。貴官と戦った相手はローゼンリッターを一瞬で倒すほど強かったのだろう?よほど激しい戦いを生き抜いた猛者のはずだ。ならば、偶然を味方につけるぐらいはしてのける。そうでなければ、そこまで強くなる前に死んでいる』

 偶然を味方につける能力。それがラインハルトと俺の勝敗を分けた。エリート参謀のチュン大佐が叩き上げのクリスチアン大佐と同じ言葉を口にしたことに驚いた。

「そう。戦いの中には何度も転換点がある。そして、その転換点は偶然やってくるんだ。戦場は偶然の連続だからね。経験を積めば、どの偶然が勝利につながる転換点になりうるのかがわかるようになる。普通は勝機に見えないような偶然でも、ベテランには勝機に見える。多くの戦いを経験して、偶然を知り尽くしたベテランのみが持つ能力さ」
「運とは違うんですか?」
「傍から見れば、運に見えるかもしれないね。しかし、経験が浅い者には見えない運だ。経験を積んで初めて、勝ちにつながる運だと理解できる。それが経験の強さだよ」

 要するにチャンスを見抜く能力なのか。多くの戦場を経験して、無数のチャンスを掴んだり逃したりして身につけた眼力。ヴァンフリート4=2基地の時も戦い慣れてない相手なら、銃を向けられただけで諦めてしまっただろう。戦い慣れていたラインハルトは、すぐに撃たなかった俺のミスを利用して、奇襲を仕掛けて逆転に成功した。同じようなことが第十一艦隊に起きたら、とんでもないことになる。

「仮にあの部隊と第十一艦隊が衝突した場合、チュン大佐ならどうすれば勝てるとお考えですか?」
「わからない」
「え?」
「戦場に身を置いている指揮官にしかわからない感覚というものがあるんだよ。一歩引いて見詰めている参謀には、戦場で起きる偶然の流れをつかめない。ビュコック提督ぐらいの経験があっても、参謀の立場ではできない。参謀にできることがあるとしたら、衝突させない策を講じる。衝突したらなるべく早く手を引かせる。敵が偶然の中から勝機を拾い上げる前にね」

 要するにラインハルトかもしれないあの指揮官とドーソン中将を戦わせるなってことか。チュン大佐はラインハルトの天才ぶりを知らない。それなのに戦術スクリーンから得た情報だけで戦うべきでないと判断した。俺が前の人生で得た知識より、チュン大佐が参謀として身につけた能力のほうがよほど正確な答えを出せる。やはり、今の俺には能力が足りない。

「勉強になりました。ありがとうございます」
「心配はいらないと思うがね。こちらに向かおうにも、ビュコック提督率いる第五艦隊を振りきるのは難しいだろう。それに老練な指揮官なら、引き際も知っている」
「でも、やっぱり心配なんですよ。司令官閣下は優れた方なんですが、いまいち頼りないところがあって。だから、支え甲斐もあるのですが」
「よほど、君はドーソン提督が好きらしいね」
「いや、まあいろいろとお世話になりましたから」

 チュン大佐はニコッと笑うと、ズボンのポケットからサンドイッチを取り出して食べ始めた。ビニールに入っていないむき出しのサンドイッチをそのままポケットに突っ込んでいたのだ。まあ、この程度なら今さら驚くことではない。

「私も君には世話になった。これが毎日食べられるのも君のおかげだ。君がいなければ、ハイネセンに帰るまでチャーリーおじさんの店のパンにありつけないところだった」
「いえ、感謝には及びません。大佐にブルーベリージャムのマフィンを買っていただきましたから」
「対応策を考えておくよ」
「えっ?」
「私はあまり心配していないが、君は心配なんだろう?戦闘中の人事部は他の部ほど忙しくない。君の心配を軽くするぐらいの暇はある」
「い、いいんですか!?」
「あまりあてにされても困るけどね。この状況からあの部隊がどうやって第五艦隊を振りきって、うちの艦隊に向かってくるかはわからない。私はリン・パオやアッシュビーじゃないからね。衝突した場合に素早く手を引く方法を考えよう」

 夕食のメニューを考えるかのようなのんびりした口調でそう言うと、チュン大佐は俺から離れてデスクに戻っていく。参謀は想定される問題に優先順位を付けて、高い順から対策を講じる。理論と計算を積み重ねて仕事をする参謀は、優先順位の低い可能性への対策を後回しにする傾向が強い。策を練る時間は有限だからだ。たまたま手が空いていたチュン大佐が、自分でも優先順位が低いと思っている可能性への対策を講じてくれるというのは望外の幸運といえる。最悪の結果は避けられるかもしれない。しかし、ここであることに気づいた。

 チュン大佐は人事参謀、俺は後方参謀。どちらも作戦に関する権限は持っていない。作戦部にはドーソン中将と話せる参謀がいない。参謀長と副参謀長はどちらもドーソン中将と不仲だから、彼らを通して進言することもできない。それ以前にドーソン中将は参謀の提案を聞き入れるつもりがない。俺のようにドーソン中将と話せる参謀でも、提案が聞き入れられることはない。そもそも、俺やウノ中佐らは手足として重用されているのであって、ブレーンとしては期待されていないのだ。

 これではチュン大佐が策を考えついても、ドーソン中将に聞き入れさせることができない。あのチュン大佐が可能性が低いと言ってるから、策が必要になる可能性は低いとは思う。それでも、やっぱり不安になる。あの部隊の指揮官がラインハルトであれば、武勲目当てに何らかの手で第五艦隊を振り切って第十一艦隊に突っ込んできかねない。そうなれば、ドーソン中将は実戦ができないという評判を払拭できない。どうすればいいんだろうか。

 途方に暮れながら、デスクの上を見るとぐしゃぐしゃになったサンドイッチが置いてあった。ベーコンレタストマトサンドイッチだ。チュン大佐はトマトを食べられない。おそらく、俺のためにポケットに入れて持ってきて、気づかないうちにデスクに置いてくれたんだろう。腹ごしらえをしながら、チュン大佐の策を活かす方法を考えていた。 

 

第五十三話:破竹のじゃがいも 宇宙暦795年2月18日 ティアマト星系、第十一艦隊旗艦ヴァンドーズ

 戦闘開始から12時間が過ぎた現在、帝国軍の戦線は崩壊しつつあった。艦列にはところどころ穴が空き、砲撃の勢いも時間を追うごとに落ちている。正面からの砲戦だけで敵がこうも崩れるのは珍しい。帝国軍総司令官のミュッケンベルガー元帥は堅実な手腕の持ち主だったが、それゆえに精鋭を手堅く運用してくる同盟軍には打つ手がなかったのかもしれない。ウランフ提督率いる第九艦隊は艦載機部隊を発進させて、格闘戦に移行している。第十一艦隊も徐々に敵艦隊との距離を詰めて、格闘戦に持ち込むタイミングをはかっているところだろう。第五艦隊は正面の敵を攻めきれていないが、このまま戦局が推移すればいずれは撤退に追い込めるだろう。同盟軍の勝利が確定するのも時間の問題と思われた。

「前方十一時方向に、グライスヴァルト艦隊旗艦クヴァシルを確認!」

 司令室のメインスクリーンに、ひと目でそれと知れるグライスヴァルト艦隊の旗艦クヴァシルの威容が映っている。門閥貴族出身の提督が好みそうな重厚長大な艦体は紫色に塗装されていた。悪趣味な上に悪目立ちして実戦向きとは思えないが、亡命者のベッカー中佐から、門閥貴族は戦争を名誉心と冒険心を満足させるゲームの一種と捉えていると聞いたことがある。旗艦も自己アピールの道具としか考えていないのだろう。

「第十六戦隊は十一時方向に急速前進。他の部隊は艦載機部隊の出動準備」

 ドーソン中将の指示を受けて、ストークス准将率いる第十六戦隊がクヴァシルに殺到していく。周囲の敵艦は必死でクヴァシルを守ろうとするが、火力と機動力に優れた艦艇で構成されている第十六戦隊の勢いに抗しえず、次々と撃沈されていく。

「第十六戦隊より報告!クヴァシルを射程内に捉えました!」
「他の艦に構うな。クヴァシルに砲撃を集中せよ」

 ドーソン中将の声が上ずっている。帝国軍で個人の旗艦を所有できるのは大将以上の提督に限られる。グライスヴァルト提督は侯爵家の当主で大将の階級を持っている。さほど有能ではないが30年を越える戦歴を誇り、同盟軍に名を知られている数少ない帝国軍の提督だ。ティアマト星域に展開する敵の中では、ミュッケンベルガー元帥に次ぐ大物だろう。歴戦の提督でもそうそう巡り会えない巨大な武勲を目前にしたドーソン中将が興奮するのは当然といえる。俺なら興奮しすぎて気絶してしまうかもしれない。

「頼む、沈んでくれ」

 クヴァシルに向けて乱れ飛ぶビームやミサイルを眺めながら、必死で祈り続ける。ここまで来たら取り逃がすことは考えられないが、なんせドーソン中将は小心者だ。びびって詰めを誤ってしまっては一大事である。クヴァシルの中和磁場は第十六艦隊の攻撃を受け止めている。普通の戦艦ならとっくに撃沈されているはずだが、帝国軍の旗艦は機動性を犠牲にして防御力を高めていた。集中砲火を浴びせても、突破は容易ではない。中和磁場が攻撃を受け止めきれなくなって崩壊する前に誰かが救援に来れば、グライスヴァスト提督を取り逃がしてしまう。

「まだ沈まないのか」

 猛攻撃を浴びているのに、クヴァシルは一向に沈む気配がない。戦術スクリーンに視線を向けると、全速力でこちらに向かっている八千隻前後の敵予備部隊が見えた。数分後にはクヴァシルに到達するぐらいの距離にいる。速度と距離から推測するに、ミュッケンベルガー元帥は第十一艦隊がクヴァシルを確認する前に手を打っていたようだ。ドーソン中将もそれに気づいて、他の艦に構わずにクヴァシルにのみ砲撃を集中するように指示したのだろう。

「もしかして、クヴァシルは不沈艦なんじゃないか」

 そんな錯覚に駆られて、背筋が寒くなる。迫り来る敵の予備部隊に耐え切れなくなって、戦術スクリーンからメインスクリーンに視線を移動する。砲撃を浴び続けたクヴァシルの中和磁場が弱まり始めていた。一本のビームが遂に中和磁場を貫き、クヴァシルの艦体に到達する。分厚い装甲に受け止められてほとんど打撃を与えられなかったが、中和磁場が破れるということを知って勇気づけられた。中和磁場を貫く砲撃の数は秒を追うごとに増加し、クヴァシルの装甲に穴を穿つ。衝撃に耐えかねた艦体は大きくひしゃげ、数本のビームが貫通すると同時に巨大な火球となって消滅した。

「クヴァシル、撃沈しました!!!」

 オペレーターの絶叫とともに司令室は歓声に包まれた。俺も思わずデスクから立ち上がって、わーっと叫びながら両手を大きく叩く。参謀の大半はドーソン中将と不仲だったが、それでも滅多にない巨大な武勲に歓喜している。司令室が初めて一体となったように思えた。ドーソン中将だけはあまり顔色が変わっていない。落ち着いているのではなくて、放心しているのだろう。大将クラスの旗艦を撃沈するなんて、数年に一度あるかないかの武勲なのだ。3年前のタンムーズ会戦以来となる。ドーソン中将の武名は否が応にも高まるだろう。どれだけ長い時間が経ったかと思って時計を見ると、第十六戦隊がクヴァシルを射程内に収めてから五分しか経っていなかった。

「まだ、戦闘が終了したわけではない。気を緩めるな」

 ドーソン中将はすぐにいつもの神経質そうな表情に戻り、指示を飛ばし始める。気が小さいから、どれだけうまくいっていても安心できないのだ。むしろ、うまくいき過ぎて恐怖すら感じているのではなかろうか。小心者の俺には良く分かる。しかし、付き合いが浅い人には名将らしい周到さに見えるに違いない。一度成功すれば、内心と関係なく他人は好意的解釈をしてくれる。エル・ファシルの英雄になった時に経験したことだ。今の俺は名将クレメンス・ドーソンが誕生する瞬間を目の当たりにしているのかもしれないと思った。

 戦術スクリーンを見ると、第九艦隊と交戦している敵は既に戦列を維持できなくなっている。第五艦隊と交戦していた敵は後退を始めている。練度が低いせいか、各艦が速度を揃えられずに雑然と退いている。艦列は不揃いで特に両翼の後退が遅れていた。第十一艦隊の正面では、遅れて到着した敵の予備部隊がグライスヴァルト艦隊の残兵の退却を援護している。もはや同盟軍優位は動かないだろう。チュン大佐の意見を聞きたくなって、彼のデスクに向かった。手ぶらでは何だから、缶コーヒーを持っていく。

「やあ」

 人事部長チュン・ウー・チェン大佐は食事の真っ最中だった。デスクの上に直にパンが置かれているが、もはやこの程度では驚く俺ではない。飲み物の缶が何本か倒れ、中身がこぼれて書類にしみを作っているが、想像の範囲内だ。デスクにケチャップやマヨネーズが付いているのにはちょっと引いた。どんな食べ方をすれば、こんなことになるんだろうか。かのヤン・ウェンリーが「彼よりは私のほうがずっとましだろう」と評した行儀の悪さを再確認させられた。

「あ、どうも」
「パンが欲しいのかい?」
「いえ、そういうわけではなくて」
「遠慮しなくていいさ。君のおかげで食べられるパンだ。胸を張って受け取るといいよ」

 そう言うと、チュン・ウー・チェンは胸ポケットからぺしゃんこになったクロワッサンを取り出した。せめて、デスクの上に置かれているクロワッサンにしてほしかったけど、人がくれる食べ物は好き嫌い関係なしに喜んで受け取るのが俺の流儀だ。前の人生で妹のアルマにあげた食べ物を目の前で捨てられた悲しみを、他人に味わわせるわけにはいかない。

「ありがとうございます。ごちそうになります」
「うんうん。好き嫌いがないのはいいことだ。かく言う私も好き嫌いはないんだが、娘が偏食でね。人参を食べたがらない。困ったものだよ」

 突っ込みどころが多すぎて、どう突っ込めばいいのかわからなかった。前にトマトが食べられないと言ったのをはっきり聞いてるし、パン以外の物を食べているのを見たことがない。あと、娘がいるというのも初めて聞いた。家庭を持ってるのにこんなにだらしないなんて、奥さんは何をしてるんだろうか。様々な疑問が頭の中で渦巻いていたが、チュン大佐ののんびりした声によって現実に引き戻された。

「戦術スクリーンが面白いことになっているよ」

 言われたとおりに戦術スクリーンを見てみると、突出したホーランド少将の部隊がいつの間にか凹形陣に誘い込まれている。もたもた後退していたはずの敵がホーランド少将を半包囲下に置いて、猛攻を加えていることに驚く。

「これはどういうことですか?」
「さっき、この部隊は指揮官の能力だけでもっているって言ったよね?」
「ええ、まあ」
「わざと指示を遅らせて、隙を見せたんだろう。ホーランド少将が乗ってきたと見るや、指示を飛ばして瞬く間に凹形陣を組んで反撃に打って出たってところかな」
「そんな真似ができるんですか?」
「この指揮官の指示に従えば、絶対に生き残れる。そう信じられてる指揮官ならできる。将兵を自分の指示に依存させてるわけさ。円熟の極みだね」

 やはり、あの部隊の指揮官はラインハルトなのだろうか。彼なら練度の低い将兵を操ってみせることなどたやすいはずだ。チュンは老練な用兵と思っているようだが、ラインハルトは天才的なひらめきによって百戦錬磨のベテラン以上の答えを導き出すことができる。ホーランド少将は前の歴史と同じように、ラインハルトの罠に引っかかって死んでしまうのだろうか。

「ああ、さすがはビュコック提督だ。後続がすぐにカバーにやってきたね」
「敵の指揮官がさらなる策を打ってくる可能性はあるでしょうか?」
「この段階では低いんじゃないかな。ほら」

 第五艦隊の後続部隊がホーランド少将を救援に来ると、敵部隊は素早く囲みを解いて後退した。今度は整然と艦列を整えている。後続部隊は敵を追撃しようとせず、大損害を被ったホーランド少将のカバーに徹していた。

「ホーランド少将に一撃を加えて、追撃の勢いを殺すのが目的だったのさ。ビュコック提督もそれを察知して深追いを避けた」

 ほっと胸を撫で下ろす。あの部隊と第十一艦隊が衝突する可能性は限り無く低くなった。敵予備部隊もじきに後退するだろう。このまま戦いが終われば、グライスヴァルト提督の旗艦を撃沈したドーソン中将が間違いなく戦功第一となる。

「勝ちましたね。予備部隊の指揮官は用兵下手そうですし」
「無駄な攻撃が多いね。ちょっと手を出したらすぐ引っ込める。何をしたいのかわからないね」

 第十一艦隊と戦っている敵予備部隊は、最初はごく普通に艦列を整えて戦っていたのに、途中から戦い方が変わった。六百隻前後の戦隊規模、百隻前後の打撃隊群規模の攻撃を立て続けに仕掛けてきては、すぐに後退している。ヒット・アンド・アウェイのつもりにしても、ドーソン中将の素早い対応によって、蚊に刺されたほどの打撃も与えられていない。

「援護に徹するには、血の気が多すぎるんでしょうね。投入戦力が少なさすぎる上に、攻撃を加える場所も不規則です。我が艦隊と比べて疲労が少ないおかげで良い動きをできていますが、いつまでもつことやら」
「戦力を集中して突入しても、跳ね返されるのは目に見えてるからね」
「もう心配する必要はなさそうです。いろいろと相談に乗っていただき、ありがとうございました」
「礼には及ばないよ。これから君が書く報告書に、私の意見が盛り込まれたことへのお返しさ」
「ああ、そうでしたね」

 前の歴史と違って、第三次ティアマト会戦は同盟軍の完勝で終わりそうだ。ドーソン中将は大きな武勲を立てて、ホーランド少将も痛手を被ったもののビュコック中将の援護で大事には至らなかった。事前にビュコック中将の指示で深追いをしないことになっているから、ドーソン中将が暴走する心配もない。無意味な抵抗を続けている敵予備部隊が諦めて退けば、戦いは終わる。緊張が解けて、疲労がどっと襲ってきた。

「大丈夫かい、顔色悪いけど」
「戦いから目が離せなくて、休んでいられなかったんですよ」
「それはいけないね。平時と戦闘中では蓄積される疲労が格段に違う。16時間も休んでなかったら、頭がまともに働かないだろう。参謀はいつも頭脳を万全の状態に保っておかなきゃいけないよ」
「次からは気をつけます。それにしても…」

 指揮卓のドーソン中将に視線を向ける。第十一艦隊がここまで戦えたのは、彼の優れた指揮の賜物だろう。自分の目と耳であらゆる情報を把握して、自分の頭で判断を下し、中級指揮官の頭越しに指示を飛ばすことも厭わず、個艦レベルの指揮にすら介入した。グライスヴァルト提督が前に出過ぎていたのは幸運だったが、それとてドーソン中将の努力に対する報奨と思える。

「参謀の小官が疲れきっているのに、不眠不休で指揮をとっている司令官閣下は本当に凄いです」
「ああ、そういえばドーソン提督は休んでないんだね。憲兵司令官だった時もそうだったのかい?」
「ええ、あまりお休みにならないですよ。休むように言っても、集中が切れるからとおっしゃるんです。仕事中毒というか、なんというか」

 チュン大佐は腕を組んで、何事かを考えているようだった。

「どうかなさいましたか?」
「ちょっと気になることがあってね。君はデスクに戻って、居眠りでもしててくれ」
「わかりました」

 足元がふらついて、世界がゆらゆら見える。眠気も酷く、意識を保つのがやっとだ。やっとのことでデスクに戻ると、そのまま突っ伏してしまった。勝ちが確定する瞬間を見届けられないのが残念だ。次の戦いではちゃんと休憩を取るようにしようと誓った。 

 

第五十四話:パン屋さんのプロ意識 宇宙暦795年2月19日 ティアマト星系、第十一艦隊旗艦ヴァントーズ

 背後から体を揺さぶられる振動で目が覚めた。意識がぼんやりして、もやがかかったような感じがする。なかなか顔を上げられずにいると、さらに強く体を揺すられた。何事かと思って慌てて顔を上げて後ろを見ると、チュン・ウー・チェン大佐が立っていた。視界がゆらゆらして、どういう表情をしているのか良くわからない。

「フィリップス中佐、起きたか」
「あ、どうも。戦い、終わりましたか…?」
「兵站業務管制システムを起動。個艦級、隊級、隊群級の補給要求達成率及び輸送隊、輸送隊群級の輸送要求達成率の集約を開始」
「えっ?」

 どうして、そんなデータを集約する必要があるのだろうか。寝起きでぼんやりした頭ではさっぱり理解できない。

「兵站業務管制システムを起動。個艦級、隊級、隊群級の補給要求達成率及び輸送隊、輸送隊群級の輸送要求達成率の集約を開始と言っている。アクセス権を持っている後方参謀の君にしかできないことだ」

 チュン大佐はいつになく強い口調でデータ集約を繰り返し要求した。理由は分からなかったけど、端末を操作してシステムを急いで起動した。そして、言われた通りにデータ集約を開始する。

「これは…」
「予想通りだ。補給水準と輸送水準が著しく低下している」
「何が起きたのでしょうか?」
「これが敵の狙いだよ」
「と言いますと?」
「説明は後にする。これをプリントアウトして、ドーソン提督に見せなさい。正常な決断をできる状態なら、後退を決断されるはずだ」
「わかりました!」

 補給水準と輸送水準の達成率が既に戦闘継続困難な水準にまで達していた。後方参謀が各部隊の後方部署から集約したデータは、指揮用の端末に随時送られ続けている。それに加え、ドーソン中将は各部隊から直接報告を送らせていた。どうして、こんなことも把握できなかったのだろうか。端末のプリントアウトボタンを押し、プリンターが数字の記載された紙を吐き出している間に戦術スクリーンを眺める。敵予備部隊との戦闘は依然として続いている。チュン大佐が言った敵の狙いという言葉の意味がわからないが、これ以上の戦闘継続は危険だ。プリントアウトが完了すると、俺は紙を握りしめて立ち上がり、ふらつきが残る足でドーソン中将の元へ向かう。

「敵が後退を開始しました!」

 ドーソン中将に声をかけられる距離まで来たところで敵予備部隊の後退を告げるオペレーターの声が聞こえた。ここでドーソン中将も後退を決断してくれるだろうか。前線を維持できたら、それで勝ちなのだ。

「追撃の必要なし。全軍、陣形を再編しつつゆっくりと後退せよ」

 ドーソン中将は俺の期待通り、後退を指示した。グライスヴァルト提督の旗艦を撃沈できたことといい、この戦いの彼はよくよく武運に恵まれている。このデータも必要なくなったかな、と胸を撫で下ろして踵を返すと、チュン大佐が駆け寄ってきた。

「どうなさったんですか、大佐?」
「これではいかん。全速後退しなければ。提督のもとに行って、全速力で距離を取るように…」

 チュン大佐がそう言った瞬間、オペレーターの叫び声が聞こえた。

「敵が突進してきます!」

 後退する態勢は一瞬のフェイクに過ぎなかった。いつの間に戦力を集中できる態勢を作っていたのか、これまでの散漫な攻撃とは密度と速度が格段に違う。ドーソン中将の方を見ると、さっきまでのてきぱきした指揮ぶりが嘘のように虚ろな表情になっている。指示ももたもたしていて、完全に後手後手に回っている。敵のフェイクで緊張が一瞬途切れ、疲労が襲ってきたのだろう。その瞬間に逆撃を受けて、精神的に機先を制されてしまった。頼れる指揮官が無力になってしまい、メインスクリーンの中の戦場に身一つで放り出されたような気持ちになる。

「しっかりしなさい」

 俺の肩に手をかけるチュン大佐の顔からは、いつものひょうひょうとした表情は消えていた。

「し、しかし…」
「参謀が落ち着きを失ってどうする。指揮官の心が乱れている時ほど、冷静にならないといけない」
「無理ですよ、小官には」
「君にしかできないことがある。務めを果たすんだ」
「あなたがすればいいじゃないですか。何をすべきかわかっているんでしょう?」
「あれを見なさい」

 ドーソン中将の周りに参謀長を始めとする3、4人の参謀が集まって何かを言っているようだ。見かねていろいろとアドバイスをしているのだろう。しかし、ドーソン中将はできない、無理だという言葉を繰り返している。 

「提督と付き合いが長ければわかるだろう?」
「ああ、確かに」

 苦境に陥った小心者は、自分が何もできないような気持ちにとらわれてしまう。他人にできると言われると、自分の気持ちを否定されたように感じて、何もできないと言い張りたくなる。どんなに誠実で適切なアドバイスでも、いや、誠実で適切だからこそ聞き入れられない。ミドルスクールやハイスクールに通っていた頃の俺も良くそういう考えに陥ったものだ。アドバイスの通りにできてしまえば、できないという自分の判断が間違っていたことになる。無力さを強調して何もしないことで、自分の正しさを証明しようとする。実に情けないが、小心者とはそういう生き物なのだ。

「私が何かを言っても、提督を追い詰めて意固地にさせてしまうだけさ」
「もう打てる手はないのでしょうか?」
「ある」
「教えてください。小官にできることなんでしょう?」
「提督に落ち着きを取り戻すように言うこと」
「それだけですか?」
「ああ、それだけだよ。疲労で判断が鈍っているとはいえ、今よりはましになるだろう。戦術上のアドバイスをしても聞くような人じゃない。正面の敵を撃破するのは無理でも、第五艦隊と第九艦隊が救援に来るまで持ちこたえれば、それで十分」
「わかりました」

 するべきことを理解した俺は再びデスクから立ち上がった。歩きながらメインスクリーンに視線を向けると、味方の艦艇が砲撃のシャワーに打ち砕かれてみるみる数を減らしていた。恐怖で全身が震えそうになる。今の俺はチュン大佐の言葉だけを頼りに正気を保っていた。参謀に囲まれながら、下を向いてぶつぶつ言っているドーソン中将が視界に入る。

「司令官閣下、失礼します」

 俺が声をかけても、ドーソン中将は返事をしない。自分のことで頭がいっぱいなのだ。そんな相手に何を言うべきか、俺は良く知っている。

「小官も閣下のおっしゃる通りだと思います。もうできることはありません」
「おい、君、何を言ってるんだね!?」

 激昂する参謀長のダンビエール少将をよそに言葉を続けた。

「閣下はベストを尽くされました。誰がやってもこれ以上のことはできなかったはずです」
「貴官の言う通りだ、小官にはもう何もできん」

 俺の言葉に頷くドーソン中将。ダンビエール少将らの殺気のこもった視線に空気が冷えるような思いがしたが、今必要なのは彼らのアドバイスではなくて俺の言葉だ。そう自分に言い聞かせて、辛うじて踏みとどまる。

「誰が閣下を批判できるというのでしょうか。できるとしたら、それは閣下の苦労を知らぬ者だけでしょう」
「そうだ、その通りだ」

 ドーソン中将の目に生気が戻る。もうひと押しだ。

「そのまま指揮をおとりになれば良いのです。それが閣下の正しさを証明するでしょう」
「うむ、貴官はよく分かっておるな。小官は何一つ間違いなど犯しておらん」

 いつもの神経質な表情に戻ったドーソン中将は、指揮卓に戻って端末を操作し始めた。もう一度戦況を把握し直そうというのだろう。まったく意見を聞き入れられなかったダンビエール少将らは、怒気を漂わせながら席に戻っていく。俺が媚びているとでも思ったのだろう。しかし、今のドーソン中将は肯定の言葉だけが欲しかったのだ。否定されたままでは、無為に逃げ込みつづけていたに違いない。俺はチュン大佐のもとに向かった。

「助言いただき、ありがとうございました」
「なに、いつものお礼さ。戦いが終わってハイネセンに帰ったら、ジャンベリー社の春のパン祭りが始まってる頃だね。今年は七種のジャムブレッドが目玉だそうだよ」
「それは楽しみですね」
「もちろん、君は全種類食べるよね」
「ええ、まあ」

 この人は自分がパンしか食べないからと言って、他人もそうであると無条件に信じてるんだろうか。いや、七種のジャムブレッドは全部食べるけど。

「ひと仕事しておなかもすいただろう?これを食べなさい」

 そう言うと、チュン大佐はズボンのポケットから、潰れたバターブリオッシュロールを取り出した。ありがたく受け取って口に運ぶ。

「それにしても、大佐はどうやって敵の奇襲を察知なさったのですか?」
「ドーソン提督が不眠不休で指揮してるって話を君がしてたろ?」
「そうでしたね」
「人間って疲れたら、判断が鈍るよね?ドーソン提督も例外じゃない。まして、参謀の意見を聞かないで全部自分で指示を出してるんだ。普通の提督の何倍も消耗するよ。そこで指示の出る間隔を測っていたのさ。そうしたら、明らかに遅くなってる。対応すべき事項もだいぶ見落としていた。補給や輸送に関しても対応しきれてないんじゃないかと思った。敵の攻撃より緊急性が低いから、無意識に後回しにしたんだろうね」
「オフィスでの仕事ぶりもあんな感じでしたが、全然判断に狂いはありませんでしたよ」

 一年ほど副官として側で仕えたが、ドーソン中将が疲労で判断を狂わせるところなんて見たことはなかった。普段からあまり眠らないし、徹夜だって平気でしていた。ずっと若くて体も鍛えてる俺の方が先にへたばることだってあった。

「オフィスの仕事はある程度の不測の事態が起きるとはいえ、基本的にはスケジュールに沿ってるだろ?。しかし、実戦指揮官の仕事はすべてが不測の事態。スケジュールは狂うためにある。指示一つ出すにも消耗の度合いは格段に違うね」
「しかし、司令官閣下も参謀として実戦を経験されていたはず。オフィスと実戦の違いに気づかなかったのでしょうか?」
「部隊の行動すべてに責任を負う指揮官と、自分の担当業務だけに責任を負う参謀では全然違うよ。責任者の椅子って座ってるだけで疲れるんだ。ドーソン提督に限らず、参謀出身の指揮官は責任者の近くにいた経験が長いせいで誤解しがちなんだけど」

 そういえば、ヴァンフリート4=2基地の憲兵隊長代理も結構疲れる仕事だったな。最終的な決裁は全部隊長代理に回ってきた。部下が解決できない揉め事の調停、内外から持ち込まれてくる提案の採否決定、他部署との渉外なんかも全部俺の責任だった。基地司令部ビルの戦闘では、部下を指揮するプレッシャーだけで死にそうな思いをした。

「そういうことだったんですね。それにしても、あそこで奇襲されるとは不運でした」
「もともと、あれが予備部隊の狙いだったんじゃないかな。無意味に見える攻撃も全部、あの奇襲に向けた伏線だったのさ」
「あの攻撃がですか?」
「ドーソン提督は手抜きのできない人だろ?だから、全部自分で指示したがる」
「そうですね」
「だから、あの無意味な攻撃にもいちいち自分で対応した。いや、対応させられたんだね。ドーソン提督の処理能力に負荷をかけて疲労を誘い、判断を狂わせるのが目的だったんだろう。そして、頃合いを見て後退するふりをして、緊張が途切れた瞬間に襲いかかった。まさか、こんな方法で奇襲を仕掛けてくるとは思わなかったね。去年のイゼルローン攻防戦と言い、帝国軍の戦術能力はおそろしく向上しているようだ」

 敵予備部隊の指揮官の狙いがようやく分かった。戦闘に勝つ最も楽な方法というのは、敵の指揮官の心理的平衡を崩すことである。火力をもって兵力を破壊するのは難しいが、機動や策略をもって心理的平衡を破壊するのは容易だ。この場合は疲労させることで心理的平衡を崩し、奇襲をもって完全な破壊を目論んだのだろう。ラインハルトが今回の戦いに参加していたとしたら、第五艦隊と戦っていた部隊より、こっちの予備部隊の指揮官である可能性が高い。戦術家としてのラインハルトは奇襲を得意としているからだ。しかし、一つ疑問がある。

「うちの参謀はどうして司令官閣下の疲労に気づかなかったんでしょうか?チュン大佐も考えて初めて気づきましたよね?」

 俺はドーソン中将の性格は良く知っているが、それが指揮官としてどう作用するかまではわからなかった。疲労状態には気づかなかった。俺が気づかないならともかく、キャリアが長い他の参謀がどうして気づかないのか不思議に思った。

「親密な相手でないとそこまで踏み込んで考えられないからね。気づきにくいと思うよ。ドーソン提督に反感を持ってる人なら、あえて本人を見ないことで仕事に徹しようとするだろう。気づいていたとしても、親しくなかったら言い難いだろう。言ったところで聞き入れられないのもわかってるしね。敵だからこそ、かえってクリアに評価できることもある」
「参謀が把握できない理由はわかりました。しかし、把握してるのに指摘しないのはまずくありませんか?勝敗がかかっているのに」
「確実に聞き入れてもらえない進言は、どんなに正しくても言わない方がマシなのさ」

 聞き入れられなくてもあえて言うのがプロというものだと思っていた。歴史の本では、度量の狭い上司に聞き入れられないのを承知で正しい進言をした参謀は有能と言われている。チュン大佐の言葉はそれとは反するものだ。

「却下された提案が再び採用される可能性は低い。一度下した却下の判断の誤りを認めることになるからね。親しくない相手の提案なら尚更だ。だったら、通せそうな人が同じ提案をする可能性に賭けるか、代わりに提案してもらう方がいい。正しいからこそ、却下されて選択肢から外させるわけにはいかない」
「おっしゃるとおりです」

 情けない話だけど、素直に誤りを認められて、なおかつ親しくない相手の意見も聞ける指揮官なんて滅多にいない。有能であればあるほどプライドが邪魔するし、個性が強ければ強いほど人間の好き嫌いも激しいからだ。能力も個性も抜群のドーソン中将を見ていれば良く分かる。

「どんな指揮官にでも信用されるのが最善だけど、グリーンヒル大将みたいな人格者じゃないと無理だからね。だから、私は次善の策として新しい指揮官に仕える配属されるたびに君みたいな人と付き合うわけさ。採用されない提案に意味は無いというのがモットーでね」

 そういえば、ヤン・ウェンリーが先のイゼルローン攻防戦で作戦案を提出する時は、いつもドワイト・グリーンヒル大将を通していた。アンドリューはロボス元帥に直接言わないことを問題視していたけど、何が何でも自分の作戦案を採用させようというヤンなりのプロ意識の表れだったのかもしれない。前の歴史では、ヤンが上司に対して強く進言しないことをプロ意識の欠如と批判する歴史家が多かった。しかし、これも自分の案を選択肢から除外させないヤンの配慮だったのかもしれないと思った。

「本当に勉強になります。自分は参謀というものを甘く考えすぎていたかもしれません」
「なに、私なんて手遅れになってから策を思いつく程度の参謀だよ」

 チュン大佐が肩をすくめてデスクに戻っていった後、戦術スクリーンを眺めて真っ青になった。戦況がとんでもなく悪化している。敵部隊は第十一艦隊の前衛を突破して、恐るべき速度でヴァントーズのいる本隊を一直線に目指していた。

「第一分艦隊、損害甚大につき戦闘継続不能!」
「第二十二戦隊より司令官ナウマン准将が重傷につき、副司令官ポンテ大佐が指揮を引き継ぐとの報告あり!」

 次々と入ってくる凶報を伝えるオペレーターの声は、とっくに落ち着きを失っていた。司令室の参謀や専門スタッフも危機感と恐怖で青ざめている。自分の正しさを証明するという目的を見出したドーソン中将だけが活力を保っていた。しかし、疲労は隠し難く、指示も遅れがちになっている。ヴァントーズの周囲では味方艦が球形陣を作っていたが、敵部隊の集中砲火の前にみるみる打ち減らされていく。

「エネルギー中和磁場全開!」

 艦長の指示が飛び、ヴァントーズの周囲にエネルギー中和磁場が張り巡らされた。エネルギーパックを激しく消耗するため、敵の攻撃が直撃する危険がある時しか全開にすることはできない。艦長の指示はもはやヴァントーズが安全ではないという事実を示すものであった。このまま死ぬんじゃないか。そう思った瞬間、体が震えだした。もはや、俺にできることはない。第五艦隊と第九艦隊が来援するまで、味方が持ちこたえることを祈るしかない。

 ヴァントーズの至近にいた戦艦プルートーの艦体が炸裂して、閃光がスクリーンを満たした瞬間、司令室が激しく揺れた。立ったままスクリーンを見ていた俺は無様に横転した。立ち上がろうにも体が震えて起き上がれない。敵は数分以内にヴァントーズを射程内に捉えるだろう。数時間前に葬り去ったクヴァシルと同じ運命をたどることになるとは、夢にも思わなかった。

 十か月前にヴァンフリート4=2で死にかけてから、前向きに生きる気持ちが生まれてきた。アンドリュー・フォークやダーシャ・ブレツェリとは、この先も一緒に歩いて行きたかった。エーベルト・クリスチアンやマーリア・イレーシュやクレメンス・ドーソンには、俺が成長していく様子を見ていてもらいたかった。ワルター・フォン・シェーンコップやカスパー・リンツの行く末を見たかった。ヨブ・トリューニヒトやループレヒト・レーヴェとの約束を果たしたかった。ユリエ・ハラボフには許して欲しかった。チュン・ウー・チェンとはもっともっと仲良くなりたかった。

 こんなところで死にたくなかった。敵の指揮官がラインハルト、もしくはそれに次ぐ能力を持った軍事的才能の持ち主であろうとも、負けを認めて死を受け入れるのは耐え難い。そう思った瞬間、オペレーターの絶叫が司令室に響いた。

「第九艦隊です!第九艦隊が到着しました!」

 この瞬間、2月19日9時36分をもって、俺にとっての第三次ティアマト会戦は終結した。ドーソン中将と第十一艦隊は敗北寸前まで追い込まれたもののギリギリで生き残った。 

 

第十三部 政治に触れるということ
  第十三章開始時人物設定

主人公
エリヤ・フィリップス 27歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中佐
役職:第十一艦隊後方参謀
性格:小心で卑屈。素直で真面目な優等生。努力を楽しめる。仕事熱心。自己評価は低い。
容姿:子供っぽい容姿。身長は平均よりやや低い。爽やか、絵になるなどと言われているが、以前は冴えなかったと言われる。
能力:事務処理能力が高く、法律に通暁している。管理職としては公正。参謀としては未熟。対人関係に細やかな気配りを見せる。射撃の達人。実戦経験が浅いのが難点。
略歴:イゼルローン遠征から帰還後、ドーソン中将の招きで第十一艦隊の後方参謀となる。第三次ティアマト会戦では死にかけたが、九死に一生を得る。前の人生ではアーサー・リンチに従ってエル・ファシルから逃亡したことがきっかけで転落した。
史実:登場せず。

重要人物
クレメンス・ドーソン 45歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十三章開始時点)
役職:第十一艦隊司令官(第十三章開始時点)
性格:異常なまでに神経質で几帳面。わかりやすい善を好み、わかりやすい悪を嫌う小市民的な心情の持ち主。露骨にえこひいきをする。
容姿:エリヤと同程度の身長。ひげがトレードマーク。
能力:抜群の処理能力と行動力の持ち主。精力的で優秀な戦術能力を持つ指揮官だが、参謀を使えないという欠点がある。陣頭指揮を好み、現場に口を出したがる。政治力も極めて高い。
略歴:第十一艦隊司令官。第三次ティアマト星域会戦で帝国軍の宿将を討つ大功をたてたが、敵の奇襲にあって旗艦を撃沈されかける。
史実:自由惑星同盟軍の末期状態を象徴する無能な指導者。
初出:二十三話

ヨブ・トリューニヒト 40歳 男性 オランダ系
職業:自由惑星同盟軍代議員(第十三章開始時点)
役職:国防委員長(第十三章開始時点)
性格:気さくで人懐っこい。ノリ重視で適当な事をポンポン言ってしまう。お好み焼きはご飯と一緒に食べる。
容姿:俳優のような美貌。スポーツで鍛え上げた長身。人懐っこい笑顔。卓越したファッションセンス。
能力:巧みな話術と人の心をとろけさせる愛嬌の持ち主。派手なパフォーマンスを用いた大衆煽動のみならず、個人を対象とした人心掌握にも優れる。
略歴:主戦派の若手指導者。昨年の内閣改造で国防委員長に就任して、影響力を拡大している。
史実:自由同盟末期の最高評議会議長。保身の怪物という評価と、単なる無能という評価がある。同盟滅亡後も暗躍を続けた。
初出:二十九話

親しい人
アンドリュー・フォーク 25歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十三章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部作戦参謀(第十三章開始時点)
性格:真面目で謙虚。社交性が高い。
容姿:長身でハンサム。最近は過労のせいかやつれ気味。
能力:士官学校を首席で卒業し、着実に実績を重ねている秀才参謀。部隊運用能力に優れ、行軍計画立案に力量を示す。リーダーシップ、運動能力も高い。白生戦技、射撃術も達人級。
略歴:エリヤの友人。ロボス大将が最も信頼する腹心。エル・ファシル義勇旅団長を務めていた頃に親しくなった。過労でやせ細っているのをエリヤに心配されている。
史実:帝国領侵攻作戦を立案して同盟軍を壊滅に導き、テロリストとしても同盟の足を引っ張った愚劣な人物。
初出:第二十話

ダーシャ・ブレツェリ 26歳 女性 スロベニア系
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十二章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部後方参謀(第十二章開始時点)
性格:強引で後先を考えない。ストレートに好意をぶっこんでくる。口も体も人一倍よく動く。
容姿:丸顔で目が大きく、可愛らしい感じ。ショートカット。
能力:士官学校を三位で卒業したエリート。人の能力を冷徹に見定めることができる。
略歴:ヴァンフリート4=2宙域の会戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。ファーストネームで呼ばなければ返事をしないという奇策を用いて、エリヤとファーストネームで呼び合う仲になった。
史実:登場せず。
初出:第四十話

エーベルト・クリスチアン 40代 男性 ゲルマン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十三章開始時点)
役職:第四方面管区地上軍教育集団司令(第十三章開始時点)
性格:軍隊を家族と考えている。剛直だが人情に厚い好漢。単純明快な物言いを好む。政治を嫌っている。
容姿:背はさほど高くないが、肩幅と胸板が厚い。いかつい顔に不機嫌そうな表情。
能力:勲章受章経験のある勇者。食事と睡眠の重要さを理解していて、部下の待遇改善に熱心。
略歴:陸戦隊出身。エル・ファシルの英雄になったエリヤの広報担当を務めた時に親しくなった。エリヤが職業軍人になるきっかけを作った人物。ヴァンフリート4=2基地の戦いで奮戦した。
史実:救国軍事会議メンバーとしてスタジアムの虐殺を引き起こした。
初出:第八話

チュン・ウー・チェン 33歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十三章開始時点)
役職:第十一艦隊司令部人事部長(第十三章開始時点)
性格:超マイペースで他人の視線をまったく気にしない。パンばかり食べている。
容姿:パン屋の二代目と言われるおっとりした容姿。緊張感皆無で軍人らしくない。身なりに無頓着。
能力:分析力と洞察力が高い。参謀経験豊富なプロフェッショナル。他人を自分のペースに巻き込むコミュニケーション術を持つ。
略歴:士官学校卒のエリート。第十一艦隊司令部でエリヤと親しくなった。第三次ティアマト会戦で全軍崩壊を回避する策を出した。
史実:自由惑星同盟軍最後の宇宙艦隊総参謀長。覇王ラインハルトに敢然と立ち向かった英雄。
初出:第五十話

イレーシュ・マーリア 32歳 女性 マジャール系(姓が前、名が後に来る)
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部人事参謀(第十一章開始時点)
性格:とっつきにくい外見とは裏腹に思いやりがある。社交性も結構高い。
容姿:180センチを越える長身。非の打ち所のない美形。眼力が異常に強い。不機嫌そうな表情。
能力:対人観察力が高い。教育指導能力に優れる。
略歴:士官学校卒のエリート。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。イゼルローン遠征軍に人事参謀として参加した。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ハンス・ベッカー 30歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十一章開始時点)
役職:第八艦隊第三分艦隊航法主任参謀(第十一章開始時点)
性格:お調子者。人をからかうのが好き。遠慮無くものを言う。
容姿:垂れ目。背が高い。
能力:航路知識が豊富。
略歴:ヴァンフリート4=2宙域の会戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。イゼルローン遠征軍に分艦隊参謀として参加した。
史実:登場せず。
初出:第四十話

グレドウィン・スコット 四十代後半 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章開始時点)
役職:第九艦隊後方支援集団所属の輸送群司令(第十一章開始時点)
性格:大人げない。三次元チェス狂。恐妻家。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。イゼルローン遠征軍に輸送群司令として参加した。
史実:帝国領侵攻作戦で輸送艦隊を率いたが、キルヒアイスに襲撃されて戦死。
初出:第四十話

ワルター・フォン・シェーンコップ 31歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章開始時点)
役職:ローゼンリッター連隊長(第十一章開始時点)
性格:言動と女性関係は奔放。大胆不敵で反骨精神旺盛。服従心、忠誠心とともに希薄。危険人物の中の危険人物。
容姿:貴族的な美貌。優雅な物腰。
能力:大部隊の組織的運用と少数精鋭部隊による強襲戦術の両方に長ける。部隊運営能力、指導力も高い。部下を心酔させるカリスマも持つ。身体能力、戦闘技術、勇猛さを兼ね備えた自由惑星同盟軍最高の戦士でもある。政治的な駆け引きも巧みで付け入る隙がない。
略歴:ヴァンフリート4=2基地で知り合った。エリヤをからかうのを楽しんでいたが、司令部ビルの戦闘では腹心のブルームハルトを援軍につけてくれた。
史実:同盟末期最高の地上部隊指揮官。ヤン・ウェンリーの事実上の私兵隊長として活躍した。
初出:第三十一話

カスパー・リンツ 25歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍少佐(第十一章開始時点)
性格:気さくだが、やや屈折している。
容姿:脱色した麦わらのような髪に青緑色の瞳を持つ美男子。
能力:白兵戦技と射撃術の達人。絵と歌がうまい。
略歴:幹部候補生養成所時代の唯一の友人。ローゼンリッター連隊長シェーンコップ中佐の片腕。
史実:ワルター・フォン・シェーンコップの片腕。ローゼンリッター最後の連隊長。
初出:第十六話

バラット 男性 タイ系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第三章終了時点)
役職:第七方面管区シャンプール基地教育隊体育教官(第三章終了時点)
性格:単純熱血。太っ腹。
容姿:がっちりした体格。猛犬のような印象。
能力:トレーニング指導のプロ。
略歴:陸戦隊出身でクリスチアンの元部下。幹部候補生養成所を受験するエリヤの体力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ルシエンデス 40代 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍曹長(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:ざっくばらん。
容姿:小綺麗な身なり。
能力:軍服を着た人を撮影すれば、右に出る者はいない。
略歴:統合作戦本部広報室のカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

ガウリ 30代 女性 インド系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:気さく。
略歴:統合作戦本部広報室のスタイリストカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

家族
ロニー・フィリップス 51歳 男性 アングロサクソン系
職業:パラディオン市警の警察官(第二章終了時点)
性格:善良でお調子者。
略歴:エリヤの父。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

サビナ・フィリップス 50歳 女性 チェコ系
職業:看護師(第二章終了時点)
性格:心配症でおせっかい。
略歴:エリヤの母。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ニコール・フィリップス 29歳 女性 アングロサクソン系
職業:ジュニアスクールの非常勤講師(第二章終了時点)
性格:しっかり者。
略歴:エリヤの姉。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

アルマ・フィリップス 22歳 女性 アングロサクソン系
職業:ミドルスクールの生徒(第二章終了時点)
性格:甘えん坊の食いしん坊。
略歴:エリヤの妹。空気の読めないメールを送っては、エリヤをいらだたせる。前の人生ではエリヤに懐いていたが、逃亡者になると最も激しく拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

同級生
ミロン・ムスクーリ 27歳 男性 ギリシャ系
性格:爽やかなスポーツマン。
容姿:大男。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。元フライングボール部のスター。前の人生では極右団体の構成員。逃亡者になったエリヤを迫害した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ルオ・シュエ 27歳 女性 チャイナ系
容姿:丸顔。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の数少ない友達。前の人生では、逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

フーゴ・ドラープ 27歳 男性 チェコ系
性格:誰にでも優しい。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。信望が厚く、クラス代表を務めた。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

その他知り合い
ラザール・ロボス 57歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍元帥(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊司令長官(第十一章開始時点)
性格:豪放で大らか。社交的な性格。
容姿:小柄でどっしりとした肥満体。将帥にふさわしい威厳の持ち主。
能力:リスクを厭わず、大胆に仕掛ける用兵に定評がある。対人調整や政治的な折衝にも長ける。人の心に入り込むのがうまい。雑務が苦手。
略歴:同盟軍きっての名将。ヴァンフリート星域、イゼルローン遠征の相次ぐ失敗で声望を落としている。
史実:帝国領侵攻に失敗して、同盟軍を壊滅に追い込んだ愚将。
初出:第十八話

アレックス・キャゼルヌ 34歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍准将(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部後方部長(第十一章開始時点)
能力:後方支援システムの構築と運営にかけては、セレブレッゼ中将に匹敵する技量を持つ。部下の能力を見極める眼力と仕事の割り振りは天才的。会議を通して自分の考えを徹底するスタイル。
略歴:統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥の腹心。失脚したセレブレッゼ中将の代わりに、同盟軍後方部門の司令塔となった。イゼルローン遠征軍の後方支援を統括した。
史実:同盟末期最高の後方支援専門家。ヤン・ウェンリーの後方支援を担当した。
初出:第十八話

ヤン・ウェンリー 27歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章終了時点)
役職:宇宙艦隊総司令部作戦参謀(第十一章開始時点)
性格:冷静沈着。責任感が強い。整理整頓ができない。他人の期待通りに振る舞うことを嫌う。
容姿:ハンサムだが、身なりに無頓着なせいで冴えないように見える。
能力:作戦能力は天才的だが、あまり積極的ではない。
略歴:士官学校卒のエリート。エル・ファシル脱出作戦を指揮した後も着実に出世している。統合作戦本部長シトレ元帥の腹心。
史実:自由惑星同盟末期最高の名将。生涯不敗を誇った用兵の天才。
初出:第五話

ユリエ・ハラボフ 24歳 女性 チェコ系
階級:自由惑星同盟軍大尉(第九章終了時点)
役職:憲兵司令官副官(第九章終了時点)
性格:生真面目で繊細。自分を追い込んでしまうところがある。
容姿:すっきりした目鼻立ちの美人。手足が長く、スタイルが良い。身のこなしには無駄がない。
能力:士官学校を上位で卒業したエリート。仕事ぶりは丁寧で細かい。簡潔明瞭で無駄がない文書を作る。徒手格闘の達人。
略歴:エリヤの後任の副官。努力が空回りして、ドーソン中将の不興を買う。エリヤの無神経な言葉に深く傷つき、口もきかない間柄になっている。
史実:登場しない。
初出:第四十一話

シンクレア・セレブレッゼ 49歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十章終了時点)
役職:第十六方面管区司令官(第十章終了時点)
性格:パワフルで自負心が強く、妥協を嫌う。攻勢に強いが、守勢には極端に弱い。
容姿:学者のような風貌。
能力:後方支援システムの構築と運営に卓絶した力量を持つ。リーダーシップにも長けていて、後方支援のプロ集団チーム・セレブレッゼを築き上げた。
略歴:同盟軍の後方支援システムが麻薬組織に悪用された責任を問われて、辺境に左遷された。
史実:ヴァンフリート4=2基地の戦いで帝国軍の捕虜となった。
初出:三十五話

エマヌエーレ・カルーク 54歳 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第八章終了時点)
役職:中央支援集団副司令官(第八章終了時点)
性格:臆病で無責任。
容姿:企業の重役を思わせる恰幅の良さ。
能力:同盟軍最高の補給専門家。危機管理能力に長けた超一流の指揮官。
略歴:セレブレッゼ中将の片腕。ヴァンフリート4=2基地攻防戦では、口実を付けて戦闘に参加しなかった。
史実:登場せず。
初出:三十五話
出:三十五話

エイプリル・ラッカム 49歳 女性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第十章終了時点)
性格:温和でユーモアがある。
容姿:小太り。そこらのおばさんっぽい。
能力:麻薬組織の指導者として、卓越したリーダーシップを発揮した。帝国、同盟両軍を手玉に取る策士。
略歴:グロースママの異名で知られる麻薬組織の最高指導者。軍の後方支援システムを私物化して、麻薬流通網として悪用していた。帝国軍と同盟軍を操ってヴァンフリート4=2基地の戦闘を引き起こし、混乱の中で逃亡に成功した。
史実:登場せず。
初出:三十五話

ループレヒト・レーヴェ(偽名) 三十前後? 男性 ゲルマン系
性格:誠実で公正。正義感が強い。鋼のような自制心を持つ。
容姿:精力的な面構えに広い肩幅。黒い髪。法曹関係者っぽい容姿。
略歴:帝国軍の憲兵。ある要人の使者としてフェザーンでエリヤに面会し、帝国憲兵隊が集めた麻薬組織の資料を渡す。
史実:登場せず
初出:四十四話

ファヒーム 死亡時は50代後半 男性 アラブ系 故人
階級:自由惑星同盟軍少佐(第八章終了時点)
役職:ヴァンフリート4=2基地憲兵副隊長(第八章終了時点)
性格:横柄で口やかましいが、仕事には誠実。
容姿:短い白髪、鋭い目つき。
能力:実務に長けたベテラン。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で取り乱して突出したエリヤを救出した。時間稼ぎのために踏みとどまって戦い、壮烈な戦死を遂げる。
史実:登場せず。
初出:三十五話

カーポ・ビロライネン 34歳 男性 フィンランド系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団参謀長(第五章終了時点)
性格:真面目だが、他人の心情への配慮に欠けるところがある。
容姿:神経質で気難しそうな容姿。実年齢より5年は老けて見える。
能力:実務能力は極めて優秀。情報宣伝にも長けている。
略歴:ロボス大将の懐刀。エル・ファシル義勇旅団ではエリヤを棚上げして、実権を掌握した。
史実:帝国領侵攻作戦の情報主任参謀。
初出:第十九話

マリエット・ブーブリル 36歳 男性 フランス系
階級:義勇軍中佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団副旅団長(第五章終了時点)
性格:外面は良いが、自己中心的で気性が激しい。自己顕示欲が強い。
容姿:上品で優しげな美貌の持ち主。実年齢より5年は老けて見える。
能力:カメラの前では、嫌いな相手に対しても親友のように振る舞える演技の達人。
略歴:元従軍看護師で勲章も持っているが、世間的な知名度は低い。エル・ファシル義勇旅団ではトラブルメーカーだった。
史実:登場せず。
初出:第十九話

アーロン・ビューフォート 男性 アングロサクソン系
階級:中佐(第二章終了時点)
性格:さっぱりした性格。本当の意味での大人。
容姿:30半ばに見える。
略歴:エル・ファシル脱出船団旗艦の艦長。エリヤに絡まれたが、大人の対応をして泣かせた。
史実:大親征でビッテンフェルトを迎撃した。
初出:第七話

フランチェシク・ロムスキー 30代 男性 ポーランド系
職業:エル・ファシル市会議員、内科医師(第二章終了時点)
性格:気さくだがやや軽率。
容姿:大柄。
略歴:エリヤをエル・ファシル星系政庁に連れて行った。
史実:同盟から独立したエル・ファシル独立政府の主席を務めた。
初出:第三話 

 

第十三部 政治に触れるということ
  第五十五話:心配する俺と心配される俺 宇宙暦795年3月上旬 ハイネセン市

 第十一艦隊司令官ドーソン中将は執務室のデスクでふんぞり返っていた。胸には先日のティアマト星域の会戦における武勲によって授与されたハイネセン記念特別勲功大章が光っている。勲章はひと目で功績を示す便利なものであるが、日頃から着用している者はまずいない。ランクの高い勲章ほど作りが凝っていて重量がある。俺は十個近い勲章を持っているが、式典の際に全部着用すると重みでよろけてしまう。壊れたり紛失したりする可能性だってある。だから、普段は略綬と呼ばれるリボンを着用して勲章の代わりとする。ドーソン中将がわざわざ勲章を着用している理由はわかっていた。見せびらかしたいのだ。

「フィリップス君」
「はい」
「戦場で武勲を立てることこそが軍人の本分だと、小官は思うのだ」
「もっともです」
「やはり、軍人たる者、武功勲章の一つも持たねば一人前とはいえん」
「おっしゃるとおりです」

 参謀勤務の功績によって勲章が授与されることはほとんどない。実務能力を高く評価されていたドーソン中将であったが、武勲に乏しい上に細かいことにうるさいせいで、実戦部隊の人間からは軽視されがちだった。ドーソン中将も武勲を誇りにして規律を軽視する実戦部隊の気風を「武勲を鼻にかけるならず者」と嫌い、「軍人の本分は規律を守ること。武勲は二の次」といつも言っていた。それが武勲を立てた途端にこの変わり身だ。まったくもって現金としか言いようがない。

「まあ、しかし、また燃料税が上がるそうだな。ジョアン・レベロが財務委員長になってから、次々と増税法案が通っている。財政再建のためとはいえ、庶民には迷惑な話だ」

 ドーソン中将はデスクの上に置いてあった新聞をわざとらしく広げてみせる。日付は三日前。彼の勲章授与式の記事が書かれたページが俺に見えるようになっている。褒めて欲しくてたまらないのに、恥ずかしくて自分からは言い出せないのだろう。本当に人間が小さい。こういう人だとわかっていても、頭が痛くなる。

「困りますね、本当に」

 俺に流されると、ドーソン中将は新聞を置いて、同盟軍礼服の仕立て案内冊子を手にとった。

「貴官は礼服を新調したかね?」
「いえ、4年前に士官に任官した時から、ずっと同じ礼服を使っておりますが」
「そうか。小官は最近、礼服を新調してな。来年は上の子供の大学受験があるから、出費は避けたいのだが、着る機会が多いと古いままというわけにもいかん。まったく困ったものだ」

 同盟軍の制服には、モスグリーンのジャケットとベレー帽の常装の他に、白い背広風の礼装、モスグリーンの作業服などがある。基本的には軍から貸与される官品であるが、自費購入も可能だ。長期航海で替えの制服が多数必要になる艦艇勤務者には、追加で自費購入する者が多い。士官クラスだと体型に合った制服の方が見栄えがいいということで、自費で軍指定の業者に仕立てさせることが奨励されている。高級士官の礼服なんかはほぼオーダーだが、滅多に仕立て直すようなものではない。ドーソン中将は勲章を授与されたから礼服を新調したと、遠回しにアピールしてるのだ。

「最近、勲章を授与されましたからね」
「うむ、そうなのだ」

 ドーソン中将の目が喜びに輝く。これ以上知らん振りをしても、遠回しなアピールが延々と続くだけだ。俺の方から折れるしか無い。勲章を授与された当日にお祝いを言ったから十分じゃないかと思うが、ドーソン中将はそうは思わないのだろう。帝国の宿将グライスヴァルト提督の旗艦を撃沈するという大功に、すっかり舞い上がってしまっている。これでは名声が上がるどころか、馬鹿にされるんじゃないだろうか。口の悪いビュコック中将あたりの耳に入ったら、何と言われるかは想像に難くない。黙っていても尊敬されるような実力があるんだから、どっしり構えていて欲しいと思う。



 さんざんドーソン中将の勲章自慢を聞かされて、ほうほうの体で司令官執務室を退出してから二時間後。所要で宇宙艦隊総司令部を訪れた俺は、士官食堂でアンドリュー・フォークと昼食をとっていた。俺はローストポーク、パン、サラダ、スープのセットにジャンバラヤ大盛りとアップルパイ。アンドリューはクラムチャウダーとクロワッサン。彼と一緒に何かを食べるのは、昨年のイゼルローン攻防戦以来だ。

「アンドリュー、また痩せた?」
「いやあ、最近は体重量ってないからわかんないな」
「去年は確か58キロだったよね?」
「そうだったっけ」

 アンドリューの身長は184センチ。体重58キロでもだいぶ危ないのに、それより痩せたら一大事だ。

「ちゃんとごはん食べてる?そんだけしか食べてなかったら、体もたないでしょ?」
「エリヤが食べ過ぎなんじゃ」
「目の周りのくまも酷いじゃん。あんま寝てないでしょ」
「みんな寝ないで仕事してるのに、俺一人だけ寝てたら申し訳ないじゃん」

 ロボス元帥の司令部メンバーは団結が強いことで知られている。上下関係が親密で職場外でも集団行動を好む。失敗を恐れずに行動する姿勢が何よりも評価され、オーバーワークを誇る気風がある。そのため、他の司令部に比べて仕事時間が長くなる傾向があった。自分一人だけ寝てたら申し訳ないというアンドリューの気持ちは理解できる。

「倒れちゃったら、もっと申し訳ないことになるよ。睡眠を一時間惜しんだら、一週間働けなくなるって過労死防止キャンペーンで言ってたでしょ?」
「でも、遠征終わったばかりだから、なかなか休めないんだよ。グランド・カナル事件もあったしさ」
「ああ、そうだったね」

 第三次ティアマト会戦終了後、同盟軍は国境地域の警備部隊を増強して帝国軍の再侵攻に備えたが、輸送計画のミスから補給難に陥ってしまった。そこで百隻ほどの民間船が雇われて緊急輸送を行った。しかし、護衛にあたっていた十隻の軍艦のうち、九隻はロボス元帥の「敵の餌食にならないように、無理な行動をしないこと」という訓令を口実に危険宙域の手前で引き返してしまい、巡航艦グランド・カナルだけが残ったのである。

 輸送船団は不運にも哨戒にあたっていた帝国軍の巡航艦二隻と遭遇してしまう。グランド・カナルは一隻で立ち向かい、輸送船団を脱出させることに成功したが、自らは撃沈されて乗員全員が殉職した。同盟軍は殉職者全員に最高勲章の自由戦士勲章を授与して、英雄に祭り上げることでこの不祥事を乗り切ろうとしている。しかし、護衛が離脱する根拠となった訓令を出したロボス元帥の責任を追及する声は高まる一方だった。第三次ティアマト会戦は第十一艦隊が終盤で大損害を被ったものの、総体的には同盟軍の勝利と言って良く、総司令官を務めたロボス元帥の威信低下に歯止めがかかったかに思われた。しかし、グランド・カナル事件で台無しになってしまったのである。

「悪いことは重なるものだね、本当に。ロボス閣下も最近は体の調子が悪いみたいなんだ。心配だよ」
「俺はアンドリューの方が心配だけどね。去年からびっくりするぐらい痩せていってる」
「一年に一階級昇進してるからね。その分だけ責任ある仕事を任されるようになる。勉強しながら、仕事しなきゃいけない。休む暇がないんだよ」

 アンドリューは去年のイゼルローン攻防戦の功績で大佐に昇進している。士官学校首席卒業とはいえ、25歳で大佐というのは破格の出世だ。士官学校卒業者で最も出世が早い者でも27前後で大佐、30前後で准将というのが相場である。経験を積む暇もないうちに出世して仕事の難易度がどんどん上がっていくなんて、想像するだけで恐ろしい。ロボス元帥はアンドリューならできると見込んで引き立ててるんだろう。しかし、その期待がいつかアンドリューを潰してしまうのではなかろうか。

「士官学校卒の25歳って普通は大尉やってる年頃だよ。そんで、小型艦の副長か、大型艦の科長か、司令部でヒラ参謀ってとこだよね。それなのにアンドリューは大佐で宇宙艦隊総司令部の作戦課長。全軍の行軍計画の責任者だもん。ロボス元帥が期待してるのはわかる。でも、期待しすぎなんじゃないかって思うんだ」
「俺じゃ若すぎて務まらないってこと?」
「違うよ。アンドリューは経験足りない分、必死で努力してるよね?」
「他に取り柄がないからね」
「でもさ、努力すると体力使うじゃん。アンドリューは体を削って必死で期待にこたえようとしてるように、俺には見えるんだ。見てて怖くなるよ」
「うちの司令部では怠けていられないよ。知恵がないなら体を使え、時間がないなら早く走れというのがロボス閣下のモットーだからね」
「俺のとこは現場に足を運べ、ルールに厳格であれがモットーなんだよね。文化が違うんだろうなあ」

 ロボス元帥の司令部とドーソン中将の司令部は、怠けるのを嫌う空気があるという点では良く似ている。だが、積極性が評価されるロボス元帥の司令部に対し、ドーソン中将の司令部では厳密さが評価される。体育会系の真面目さと風紀委員の真面目さの違いというべきだろうか。だから、肉体的負担は後者の方が少なく、精神的な負担は前者の方が少ないと思われる。

「面白いよね。ロボス閣下の司令部にしか勤めたことがないから、エリヤの話は勉強になるよ」
「うちに来る?アンドリューなら大歓迎だよ」
「やだよ。ドーソン提督は俺みたいな無神経な奴、嫌いだろ」
「まあ、確かにね」

 アンドリューが無神経とは思わないが、ドーソン中将の神経質と合わないのは火を見るより明らかだ。日の当たる場所でまっすぐに生きてきたアンドリューと、他人や常識を意識しながら恐る恐る生きてきたドーソン中将は決定的に合わないだろう。

「エリヤの司令部なら来てもいいよ」
「俺の司令部に来たら、有給休暇を全部消化するように命令するわ」
「えー、参謀長にしてくれないの?」
「いや、真面目な話、君にはしばらく休んでてほしいよ。不健康を通り越して、病人って感じだもん」
「ひっでえなあ」
「ドーソン提督が戦闘中に過労になったとこ見てるからさ。神様みたいに仕事ができるあの人でも、判断が鈍っちゃうんだよ。参謀はいつも頭を万全な状態に保っておかなきゃ。いざという時に判断が狂ったら、ロボス元帥にも迷惑かけちゃうよ?」

 完全にチュン・ウー・チェン大佐の受け売りだが、ロボス元帥の期待に応えて一直線に走る以外の生き方を知らないアンドリューには一番必要なことだろう。できれば、直接引き合わせて、諭してもらいたいぐらいだ。

「ありがとう、エリヤ」
「お礼はいいから、俺が言ったこと考えといてよ。次に会った時はベッドの上とか、そんなことになるのは嫌だから」
「わかったよ」

 どこまでわかったのか怪しいもんだけど、それでもありがとうとか、わかったとかいう言葉を聞くだけで嬉しくなる。きっと、俺が単純だからなんだろう。しかし、こういう言葉を言えるうちは大丈夫なんじゃないかと根拠なく思っていた。



「確かに根拠が全く無いな」
「大佐もそう思われますか」

 勤務が終わって家に帰った俺は、クリスチアン大佐と久しぶりに携帯端末で話している。昨年春のヴァンフリート4=2基地の戦いの功績で大佐に昇進した彼は、現在は第四方面管区地上軍教育隊司令として、新兵教育にあたっていた。

「まあな。しかし、貴官らしくて良いではないか。少し安心した」
「何か心配事があったんですか?」
「うむ。貴官は最近、政治に近寄り過ぎていると思っていたのだ」
「政治、ですか?」

 心当たりはありすぎるほどある。しかし、ストレートに認めるのは怖かった。

「上官を通じて、トリューニヒト国防委員長と親しくしているそうではないか。小賢しい処世術を覚えたのではないかと気を揉んでおったのだ」
「それは事実です。しかし、出世目当ての処世術とかそういうのではないですよ。俺がそういう人間じゃないのはご存知でしょう?」
「では、何だ?」

 クリスチアン大佐の声が重い鉄球のように感じられた。後ろめたいことは何一つ無いはずなのに、どうして気後れしてしまうのだろうか。

「助けてほしいと言われたんですよ。理想を実現するために」
「本気で言っているのか?」

 トリューニヒトと話した時は、期待されたことが心の底から嬉しかったはずだ。それなのにクリスチアン大佐のシンプルな問いかけにその気持ちを伝えることが恥ずかしく感じる。

「ええ、本気です」
「政治家というのは、目的のためならいくらでも嘘をつける連中だぞ?」

 俺と話した時のトリューニヒトの言葉には嘘はなかったと思う。あれが嘘だったとしたら、騙されてしまっても仕方ない。しかし、それをクリスチアン大佐に伝えることはためらわれた。自分が道化になっているような気がしたからだ。

「肝に銘じておきます」
「ならば良い」

 深く詰められることなく返されてホッとする。クリスチアン大佐の言葉は軍隊一筋に生きてきたがゆえにシンプルで重厚だ。今の自分には、それと対峙出来るだけの信念は無い。

「心配をおかけして申し訳ありません」
「小官が心配しすぎているだけかもしれん。貴官は真面目で公正だが、どこか頼りないところがあるからな。つい世話を焼きたくなる」

 クリスチアン大佐の声に苦笑が混じった。この人はいつも一点の曇り無く親身だ。だから、安心できる。

「ありがとうございます」
「大佐ともなると、誰が何とか派やらいう話がやたら耳に入ってきてな。鬱陶しくてたまらんのだ。そういうことにばかり目ざとい輩を見ると、軍人をやっているのか、政治をやっているのか、問い詰めたくなる」

 彼らしい派閥への反感だ。軍内政治にさぞ辟易しているのだろう。中佐に昇進した時にあまり嬉しがっていなかったのも、階級が高くなれば必然的に政治に巻き込まれることを予感していたからかもしれない。

「確かに俺も中佐になってから、そういう話をやたら耳にするようになりました。最近は人の顔を見るたびに、どこの派閥かって反射的に考えてしまいますよ。知らず知らずのうちに染まってしまったみたいです」
「貴官が派閥で他人への態度を変えるような男とは思わん。だが、貴官に対する他人の態度が変わってくることが心配でな」
「と言いますと?」
「小官のところにも、貴官を紹介してほしいなどという者が頻繁にやって来るのだ。奴らから見れば、貴官はトリューニヒトとドーソン中将のお気に入りなのだそうだ。貴官を通してどちらかに取り入れば、将来が安泰になるとでも思っているのだろう。まったく、浅ましいことだ」

 トリューニヒトとドーソン中将のお気に入りというのは、客観的に見ても否定はできない。彼らの派閥のメンバーとみなされても仕方ないぐらいに付き合いは深い。しかし、俺を通して彼らに取り入ろうとする人間がいること、そんな人間がハイネセンから遠く離れたクリスチアン大佐の周囲にまでいることなどは、想像もしていなかった。トリューニヒトのお気に入りという虚像が歩き始めている。

「大佐と出会った頃のことを思い出します。あの時はエル・ファシルの英雄という虚像が果てしなく大きくなっていくことに恐ろしさを感じていました。英雄の虚像に大勢の人が群がってきた時に、俺という人間に向き合ってくれたのはあなたとルシエンデス曹長とガウリ軍曹だけでした」
「トリューニヒトも英雄の虚像に群がった者の一人だったな」

 言われてみて思い出した。当時、国防委員だったトリューニヒトは俺をパーティーに呼ぼうとしたが、クリスチアン大佐に断られた。そのことを根に持って統合作戦本部の広報室に抗議をしたとかいう話を聞いて、心が狭いと思ったんだ。

「今、思い出しました」
「記憶力の良い貴官らしくもないな。まあ、政治家と付き合うのは良い。だが、決して心を許すな。奴らは虚像しか見ない。友には決して成り得ない」

 クリスチアン大佐が政治家に何を見ているのかはわからない。しかし、政治的な理由でエル・ファシルの英雄という虚像を作り上げたあの騒動に、何か考えるところがあったのかもしれない。とっくにトリューニヒトに心を掴まれてしまっている俺は手遅れかもしれないけど。理性で彼を疑っても、感情が彼を信じるだろう。

「わかりました」
「政治というのは汚水溜めのようなものでな。避けて歩くに越したことはない。貴官には一点の曇りもなく生きてほしいと願っている。貴官のようなまっすぐな男は政治などに関わるべきではないのだ」

 前の人生の俺はエル・ファシルの逃亡者の汚名に押し潰されて、暗闇を這いずり回りながら、80年を無為に生きた。今の人生では日の当たる場所を生きているが、それでも地獄の地上戦を引き起こしたエル・ファシル義勇旅団という幻想の罪の一端を背負っている。クリスチアン大佐が思うほど、俺はまっすぐではない。しかし、まっすぐに生きてほしいという願いには、できる限り応えたいと思った。 

 

第五十六話:未来に向かう道は過去から続いている 宇宙暦795年4月3日 ハイネセン市エルビエアベニュー

 宇宙暦795年4月3日13時。ハイネセン市営鉄道のチャーチストリート駅西口。ダーシャ・ブレツェリは俺を見つけると、にこにこして駆け寄ってきた。やや緩めでふわっとした素材のブラウス、やや短めのスカート。全体的にふわふわした感じが丸顔のダーシャに似合っている。

「待った?」
「全然」

 人と待ち合わせる時は、必ず20分前には到着することにしている。一方、ダーシャはいつもギリギリだ。彼女は頭が良いのに、時間の使い方はあまりうまくない。本当は9時か10時に待ち合わせたかったのに、休日は必ず昼近くまで寝ている彼女に合わせてこの時間になった。

「どう?」
「どうって何が?」
「今日の私の格好」
「かわいいんじゃないの」

 俺がそう答えると、ダーシャは不機嫌そうにむくれた。かわいいと言ってるのに、何が不満なんだろうか。彼女なら何を着てもかわいらしいと思う。それに服よりも大きな胸の方を意識してしまう。

「だから、どうかわいいのさ」

 知るかよ、と思ったけど、怖くて言えない。なんでいちいちこんな事を聞いてくるんだろうか。仕事には無駄がないのに、プライベートではいつもこの調子だ。悪い奴じゃないんだが、面倒くさい。

「いや、なんていうか。ダーシャらしいというか」

 曖昧に答えてお茶を濁そうとしたが、ダーシャは許してくれなかった。結局、歩きながら、俺がモテない理由だの、今着ている服を選んだ理由だのをさんざん聞かされることになった。そこから、現在身に着けてるアイテムの説明に話が及んでいくのがいつもの展開である。俺が聞いているかどうかはわりとどうでもいいらしく、ある程度一方的に喋ったら満足してしまうのが唯一の救いだろう。

 階層社会のゴールデンバウム朝では、服装を見れば身分がわかるようになっている。平民は質素な服装を強いられ、貴族は格式にふさわしい高価な服を着なければ後ろ指を差される。例外は軍人と官僚、貴族社会に出入りするビジネスマンぐらいである。だから、ファッションはきわめて保守的で多様性に欠けている。一方、自由惑星同盟はどのような服装をしようと自由だから、ファッションも多種多様だ。そのため、宇宙のファッション市場は自由惑星同盟とフェザーンを中心に動いていた。

 三千万の人口を擁する同盟の首都ハイネセンは、フェザーンに匹敵するファッションの都である。市内にある四つのファッション街は、それぞれの個性を持ったファッションを発信している。今日の目的地、エルビエアベニューは、清潔感があるスタンダードなファッションの発信地として知られている。どうやら、自分の私服のセンスが相当危ういらしいと気づいた俺は、ファッション好きのダーシャに私服選びのアドバイザーを頼んで、この街に連れてきてもらったのだ。蛇足ではあるが、ダーシャから予習用として渡されたファッション雑誌によると、去年のフェザーン行きに際して、憲兵隊のユリエ・ハラボフ大尉が用意した変装用の服は、フェミニンでありながら性別を選ばないファッションで知られるスペイシースクエアの街の系統らしい。

「いや、みんな凄くおしゃれだね。こんな安物の服で歩いていいのかな?」
「気後れする?」
「うん、俺がいていい場所じゃないような気がするよ。軍服着てくれば良かった」
「だから、ちゃんとした服を買わなきゃいけないの。どこに行っても気後れしないためにね」

 ダーシャの言うことはもっともだ。こんな街を歩いていると、服なんて着れればいいという考えは三秒で吹き飛んでしまう。着て歩けなければ意味が無いのだ。

「でもさ、本当に俺に似合う服があるのかな。自分がこの街を歩いてる人みたいになれるとは思えない」
「私が選ぶから大丈夫。エリヤはスタイルがいいから、何でも似合うよ」
「ほんとかなあ」

 今はダーシャを信じるしかない。格好悪くてごめんなさいと街行く人々に心の中で謝りながら、ひたすら彼女の後を付いていく。おしゃれな人々の洪水に押し流されそうな今の俺にとって、彼女の存在だけが命綱だった。やがて、バカラプラザに辿り着く。数多くのファッション専門店が入居しているこの高層ビルは、エルビエアベニューの総本山ともいうべき存在であった。俺が入っていいのだろうか。そう思うと、緊張でお腹が痛くなってきた。

「どうしたの?入らないの?」
「あ、いや、ちょっと腹痛が…」
「馬鹿なこと言わないの」

 ダーシャは俺の訴えを無視して、バカラプラザにすたすたと入っていく。こんなところに置いて行かれたら、遭難してしまう。慌てて彼女の後を付いて行った。導かれるがままに混雑するバカラプラザの中を無我夢中で歩き、エスカレーターに乗る。やがて、ダーシャはある店の前に立ち止まった。

「エリヤ、この先は全部私に任せといて!」

 未だかつて無いほどの烈気を目に宿しているダーシャに対し、無言で頷く以外の選択は俺にはなかった。この先も何も、最初から全部任せているのだから。だだっ広い店の中はさながら服のジャングルと言った風情だった。これだけ服があったら、何を着ていいのかわからなくなってしまう。

「まずはボトムスだね」

 そう言うと、ダーシャは服のジャングルの中へ分け入っていった。何をしていいかわからずに途方にくれている時、何をするべきかを知っている参謀の存在が最後の希望となる。第三次ティアマト会戦でチュン・ウー・チェン大佐から学んだ参謀の助言の大切さを改めて思い知らされた。しばらくすると、ダーシャは五本ほどズボンを持って戻ってきた。

「全部試着して!」

 言われるがままに試着室に入り、ズボンを履いたらダーシャに見せる。いろいろと角度を変えながら、敵の隙を探す提督のような目で下半身を見つめられると恥ずかしくなってしまう。ダーシャが見終わると、次のズボンの試着。それを五本分終えると、ダーシャはちょっと考えこんで、インディゴブルーのジーンズを掴んで俺に差し出す。

「これにしよ!」

 よりによって、試着した中で一番履きたくないズボンだった。ぴったりしすぎていて、似合わないんじゃないかと思ったのだ。

「ちょっとぴっちりしすぎじゃない?」
「そんなことないって。スキニーは定番だよ。エリヤみたいに足が細くて長いと良く似合うの」
「まあ、ダーシャがそう言うんなら、そうなんだろうな」

 彼女が似合うというのなら、きっと似合うのだろう。わからない時はプロに任せるのが一番なのだ。自分でなんでもやろうとしてはいけないということを軍隊で学んだ。いくらするのかな、と思って値札を見る。

「118ディナール!?」
「どうかしたの?」
「高すぎない?だって、ジーンズでしょ」
「この質だったら、むしろ安いよ」
「俺、40ディナール以上のズボン、買ったこと無いけどなあ」
「だから、ださいんじゃん」

 一部の隙もない正論の前に完全敗北を喫した俺は、このズボンを買うことに決めた。しかし、ズボン一本でこの値段だと、ファッション好きな人は破産してしまうのではなかろうか。

「パーカー?持ってるから買う必要ないよ」
「エリヤの持ってるパーカーって、どうせダボッとした安物でしょ?」
「まあ、そうだけど」
「体にフィットしたの着なきゃ格好悪いよ」
「はい」

「この柄、派手すぎない?」
「全然。よく似合ってるよ」
「色もちょっと明るすぎるし、俺のキャラじゃないっていうか」
「エリヤってどういうキャラだったっけ?」
「地味で暗くて、そして…」
「これからは明るくて元気なキャラを目指そうね」
「はい」

 この調子でダーシャに選んでもらった服を買っていき、最終的にズボン三本、カジュアルシャツ二着、長袖カットソー二着、七分袖カットソー一着、半袖カットソー三着、パーカー二着、カーディガン一着、ジャージ上下一着、シューズ一足、ブーツ一足を購入した。合計1233ディナール。中佐の月給と勲章の年金を合わせて、毎月5000ディナール以上の収入があり、軍人三点セットの酒もギャンブルも女遊びも嗜まず、家庭も持っていない俺には余裕で払える額だ。しかし、服を買うのにこれだけ払うという事実に、クレジットカードを取り出す手が震える。ダーシャの方を見ると、拳をグッと握って親指を上げている。

「ありがとうございました」

 店員の声を背にした俺達は店を後にした。買った服は配送料を払って、後で家まで送ってもらうことになっているため、手には何も持っていない。実に便利な世の中である。

「あー、いい買い物したねー。楽しかった」

 心の底から楽しそうに笑うダーシャを見て、本当にいい奴だと思った。自分の服だろうが、他人の服だろうが、服を選ぶのが楽しくてたまらないのだ。これまでの俺は親しい人達の軍人としての側面しか見てこなかったが、去年入院してダーシャ、ベッカー中佐、スコット大佐らと知り合ってからは、プライベートの側面にも目を向けるようになってきている。これまで見なかった面を見つけるのはとても面白い。

「本当に助かったよ。君がいなかったら、どうなることかと思った」
「私の方こそ、お礼を言わなきゃいけないよ」
「なんで?」
「私は胸が大きいからさ、服を選べないのよね」
「そうなの?」

 胸が大きいのは良いことだと、何の疑いもなく思っていた。テレビには胸が大きいタレントが大勢出てくる。母も姉も妹も胸が小さくて、いつも胸が大きい人を羨ましがっていたのを覚えている。プライベートでの付き合いがあるイレーシュ中佐やガウリ軍曹もさほど胸が大きいわけではないし、軍隊の先輩と思って付き合っていたから、こういう話題はしなかった。だから、胸が大きい人の意見を聞くのはこれが初めてだ。

「体にフィットした服を着たら、胸が目立っちゃうでしょ?ミドルスクールの頃から、ジロジロ見られることが多いのよ。エリヤも私と初めて会った時は胸に視線が行ってたよね。だから、胸が目立つ格好はしたくないんだ」
「ご、ごめん」

 気づかれてたことを知って、軽く落ち込んだ。エル・ファシルの英雄だった頃の俺には、賞賛の視線ですら居心地悪く感じられたものだ。好奇の視線なら、なおさら傷つくはずだ。服装の評価を聞かれて、服より胸が気になるなどと内心で思った自分が恥ずかしくなった。

「でも、目立たないようにゆるゆるの服を着たら、太って見えちゃうのよ」

 実際、俺も最近まではダーシャは太っていると思っていた。彼女は顔が丸っこくてぷっくりしている。入院中はサイズが大きめのパジャマを着ていたし、軍服だって大きめのを着ていた。二週間前にふとしたことから体重を教えられて、太っているどころか身長あたりの平均より軽いことに驚いたものだ。彼女は自分より6、7センチほど背が高い俺の方が体重が軽いことにショックを受けていたようだが。

「だから、好きなように服を選べるって嬉しいわけ。エリヤは細くて姿勢いいから、何を着ても似合うしさ」

 でも、俺は身長低いし、などとは言えなかった。結構気にはしているけど、ダーシャの苦労に比べたら、平均より2、3センチ低いぐらいどうってことはない。ファッションが好きで好きでたまらないのに、好きな服を選べないのはさぞ辛かっただろう。

「俺で良ければ、また付き合うよ」
「え、いいの、本当に!?」
「いいよ、俺のセンスで服選んでも、この街を堂々と歩けるような格好できないもん。全部、君が選んでくれた方がいい」
「ありがとう、本当にありがとう」
「いいって、いいって。助け合いは大事だろ」
「今日はおごるよ。食べたい物あったら、何でも言って」
「だからいいって」

 大喜びするダーシャを嬉しさ半分困惑半分の気持ちで眺めながら、一緒にバカラプラザを出たところで不意に声をかけられた。

「エリヤ?」

 振り向くと、俺と同年代ぐらいの男が立っていた。体格は平均的で目が小さくて鼻が低い。服装もこの街に違和感なく馴染む程度にはおしゃれだが、個性は強くない。印象が薄いというのが彼から受けた印象だった。

「どなたでしょうか?」
「エリヤだよな?エリヤ・フィリップス」
「そうですが」

 男はさらに困惑したような表情になったが、俺だって困っている。ファーストネームで俺を呼ぶ人間なんて、家族を含めてもこの広い宇宙ではせいぜい十人ちょっとだ。俺には男兄弟がいないから、目の前の男は友人ということになるはずだが、まったく記憶にない。

「フィリップス君の同級生とか?」
「ええ、そうなんですよ」

 見かねてダーシャが出した助け舟に、男はホッとした様子で応じる。もっとも、ミドルスクールやハイスクールの同級生だって、俺をファーストネームで呼ぶような相手はほとんどいない。いたとしても、前の人生で逃亡者の汚名を着た俺を迫害する側に回った。どのみち、思い出す必要は無いだろうと思い、足を踏み出す。

「ミドルスクールの三年度で同じクラスだったリヒャルト・ハシェクだよ。もう8年も会ってないから、忘れちゃったのかな。エリヤもいろいろあったみたいだし」

 その名前を聞いた俺は足を止める。彼は捕虜交換で帰国した後の俺とは会っていない。だから、彼からは迫害を受けなかった。しかし、ここで再会できるとは思わなかった。彼が今の人生で出現する可能性をまったく考えていなかった。

「あーっ、リヒャルトか!!」
「そうだよ、なんで忘れんだよ。ひっでえなあ」
「ごめん、もう会えないかと思ってたから」
「おい、大袈裟だな。それになんで泣いてんだよ」
「いや、だって、本当にもう会えないと思ってた」
 
 リヒャルト・ハシェクはミドルスクール時代の数少ない友人の一人だった。前の人生では、ハシェクは軍の通信科学校に進んで下士官となり、796年の帝国領侵攻作戦「諸惑星の自由」で戦死している。だから、797年2月の捕虜交換式で帰国した俺と会えなかった。死んでしまって二度と会えないものと思っていたし、迫害にも関わっていなかったから、顔を忘れてしまっていた。しかし、よく考えれば、今の時間軸では生きていて当然の人間なのだ。当然なのはわかっているのに、涙が止まらない。

「いったい、どうしたんだよ。俺の顔を忘れてるかと思えば、今度は泣き出しちゃって。アルマちゃんは覚えててくれたのに」
「アルマ?」
「うん。ついさっき、そこで会ったよ。あっちから声かけてきてくれてさ。エリヤは全然変わってないけど、アルマちゃんは…」

 もはや、ハシェクの言葉が耳に入らない。妹のアルマがすぐ近くにいる。その事実に全身の血が凍り付き、激しい動悸がした。いつも自分の後ろを付いてきていた甘えん坊の妹が、悪鬼のような形相で憎しみをぶつけてきた恐怖はまだ拭い去れていない。メールなら削除すればなかったことにできる。しかし、本人がすぐ近くにいれば、直接的な接触の可能性がある。前の人生と今の人生はだいぶ前に道を違えたはずだったのに、再び交わり始めているのだろうか。二度と会えないと思っていたハシェクとの再会、そしてアルマが至近距離にいるという事実がそんな錯覚を呼び起こした。

「どうしたの、エリヤ。顔色悪いけど」

 今の光に満ちた人生の象徴とも言えるダーシャが心配そうに俺の顔を見る。彼女と暗闇の中にあった前の人生の象徴とも言えるアルマがすぐ近くにいることに、本能的な恐怖を覚えた。

「行こう、ダーシャ」
「え、どうしたの?妹さんが近くにいるなら…」
「いいから、来い!」

 そう叫ぶと、俺は強引にダーシャの手を引っ張って走りだした。アルマに見つかる前にここを離れなければいけない。

「ねえ、本当にどうしちゃったの!?」

 ダーシャの問いを無視して、ひたすら夕暮れ時のエリビエアベニューの長い長い歩道を駆け抜けた。今の人生で得たものを手放すまいという思いが、俺の足を急がせた。 
 

 
後書き
原作の記述を元に1ディナールは現在の1米ドルと同等に近い価値があると計算しました。 

 

第五十七話:人が派閥を作る理由 宇宙暦795年4月5日 ハイネセン市、国防委員会委員長執務室

 昼食時の第十一艦隊司令部の士官食堂で最も勢いがあるのは、艦隊司令官クレメンス・ドーソン中将を中心とするグループだ。士官食堂の中央に陣取っていて、人数も一番多い。それに次ぐ勢いがあるのは、参謀長アンリ・ダンビエール少将を中心とするグループ。士官食堂の窓際に陣取り、ドーソン中将のグループに次ぐ人数を擁している。その他には3、4人の小グループが多数散在し、1人で食べている者も見受けられる。要するにドーソン中将派とダンビエール少将派が第十一艦隊司令部の二大勢力であった。

 今年の初めにドーソン中将や俺が着任した時は、前司令官時代から参謀長を務めていたダンビエール少将のグループが最大勢力だった。俺を始めとするドーソン中将のグループは、大勢で食堂の中央に陣取って談笑しているダンビエール少将らを窓際の席から眺めていたものだ。しかし、第三次ティアマト会戦が終わると、武勲を立てたドーソン中将と見るべき功績がなかったダンビエール少将の立場が逆転してしまった。ダンビエール少将のグループからは、ドーソン中将のグループに転じる者、離脱して小グループを作る者が相次ぎ、食堂の中央から窓際に追いやられている。

 俺には他のグループと昼食をとるという選択肢は存在しない。第十一艦隊司令部における俺の立場を支えているのは、ドーソン中将を支持する人々の好意、そしてドーソン中将と協調して仕事を進めたい人々の期待である。第三次ティアマト会戦でメンツを潰してしまったダンビエール少将のグループは俺を敵視している。他の小グループと一緒に昼食をとれば、ドーソン中将のグループに亀裂が入ったのではないかと勘ぐられる。昼食を一緒にとる相手の選択一つにも、こんなにも気を使わなければならないという事実に気が滅入る。昼食が権力分布を示すという構図は、ジュニアスクールの給食の時間からまったく変わっていない。

 ドーソン中将がヨブ・トリューニヒト国防委員長派であるのに対し、ダンビエール少将がシドニー・シトレ統合作戦本部長派であるという事実を踏まえると、第十一艦隊司令部の昼食グループをめぐる問題はさらにややこしくなる。一緒に昼食をとる相手の選択が、軍部の最高実力者であるトリューニヒトとシトレのいずれを支持するかという踏み絵になるからだ。ドーソン中将のグループに加わる者はトリューニヒト、ダンビエール少将のグループに加わる者はシトレへの支持を明確にしたことになる。いずれのグループにも加わらない者はロボス元帥の支持者、派閥抗争に関与しない者、トリューニヒトやシトレ元帥に好意的ではあるものの支持を明確にしたくない者など様々であった。第十一艦隊司令部の士官食堂は、軍部の最高実力者の代理戦争の場と化していた。

 このような抗争は第十一艦隊司令部に限ったことではない。どこの司令部の士官食堂でも、同じような抗争が展開されている。派閥の領袖同士の駆け引きだけが権力闘争ではない。各艦隊、各部隊、各艦、各基地レベルで各派の支持者が主導権を奪取すべく争っている。軍隊に所属している以上、派閥争いと無縁ではいられない。ワルター・フォン・シェーンコップのように己の力のみで生きていける者は滅多にいない。強者の庇護を得られなければ生きていけない大多数の者は直接間接を問わず、派閥の傘に入らざるを得ないのだ。それはわかっていても、窮屈さを感じずにはいられない。



 宇宙暦795年4月5日。ドーソン中将の書簡を携えた俺は、国防委員会に赴き、委員長のヨブ・トリューニヒトと面会していた。トリューニヒトは俺をソファーに座らせて、書簡にじっくり目を通す。俺の目の前には、トリューニヒトの秘書官が用意したコーヒーとマフィンが置かれていた。コーヒーは俺の好み通り、砂糖とミルクがたっぷり入っている。マフィンは俺が大好きなフィラデルフィア・ベーグルのドライフルーツ入りマフィン。トリューニヒトの気配りが嬉しくなる。彼が国防委員長になってから、国防委員会職員の応接態度が格段に親切になったと言われるのも当然だろう。

「しかし、さすがはクレメンスだ。司令部のスタッフ人事は司令官の専管事項とはいえ、随分思い切った決断をする」
「協調できない以上は、排除して争いの根を絶つしかないと司令官閣下はお考えになったのでしょう」

 俺がトリューニヒトに渡した書簡には、ドーソン中将が作成した第十一艦隊司令部の人事案が記されていた。前司令官時代から勤務している参謀長ダンビエール少将以下のスタッフを解任し、後任にドーソン中将と近い人物やトリューニヒト派の人物をあてるという露骨な粛清人事だ。ダンビエール少将らを留任させても、司令部内の対立が収まる可能性は低い。だったら、全員解任して、せめて対立だけは収めようという策だ。本来なら司令官が交代した時に行うべきだった参謀の入れ替えがティアマト星系への出兵で遅れていた。遅れていた人事を施行するという大義名分を盾に取れば、司令官の横暴という批判も避けられるだろう。

「しかし、案を作ったのは君だね?」

 トリューニヒトの指摘に冷やりとする。ドーソン中将に粛清人事を進言したのは俺なのだ。第十一艦隊司令部でも知っている者はほとんどいないが。

「協調できないなら排除するという発想はクレメンスにはない。対立そのものをなくそうという発想がない。ただ、対立者を言い負かそうとするだけだ。彼は空気が悪くなることを恐れていないからね。君以外のクレメンス派の参謀もそうだ」

 俺はもともと悪意に弱い。それが自分に向けられたものでなくても、怖くなってしまう。他人がなぜ悪意の応酬に耐えられるのか、さっぱりわからなかった。ダンビエール少将と相容れないにも関わらず、排除せずにただ発言力を弱めようとするドーソン中将のやり方だと、どんどん空気が悪くなってしまう。対立の根本的な原因を解決しないと、第十一艦隊司令部の険悪な空気を払拭するのは難しいと思ったのだ。

「委員長閣下のおっしゃる通り、小官の案です」
「職場の和を重んじるんだね」
「そんな大層なものじゃなくて、居心地がいいに越したことはないかなと。空気が悪いと、不必要に神経使っちゃっいますし」
「君は4年前に任官してから、いつも職場の空気に心を砕いてきた。ポリャーネ補給基地給与係、駆逐艦アイリスⅦ補給科、第一艦隊司令部総務課、憲兵司令部副官、ヴァンフリート4=2基地憲兵隊、イゼルローン遠征軍総司令部、そして第十一艦隊司令部。対立を徹底的に回避しようという君の態度は、何らかの強い信念に裏打ちされているように見える」

 俺に信念なんてものはない。ただ、怖いだけだ。誰かと対立して、悪意を向けられることが。他人同士が対立して、悪意が飛び交うことが。前の人生で悪意に晒され続けて、すっかり弱くなってしまった。

「信念ではないですよ。怖いんです」
「対立が怖いのかい?」
「ええ、怖いんです」
「君がなぜそんなに対立を怖れるのか、私には分からないな。もちろん、私もなるべく対立はしたくないが、生きていれば仕方ないと思うよ」

 そういう感覚の方がおそらくはまともなのだろう。前の人生で酷い目にあったから、なんて言えるはずもない。

「小官にも良くわかりません」
「まあ、自分のことも完全にわからないのが人間だからね。私だって自分が何でそうするのかわからないことは良くある」

 トリューニヒトははにかむように微笑んだ。この人は知ったかぶりをしない。わからないこと、できないことは率直に認める。その率直さが好感を呼ぶのだ。

「しかし、動機がよくわからなくても、行動が一貫していれば、それはもう自分のスタイルと言える。対立を避けるためなら、何でもするというのが君のスタイルなのは間違いない」
「スタイルですか?そんな大層なものじゃ…」
「仮にそれが逃げであっても、徹底的に逃げ続けたら大したものさ。逃げるのは楽だと言われるが、それは一度も逃げた経験が無い人の意見だね。何であろうと、徹底するのは難しい」

 一時の恐怖にかられてエル・ファシルから逃げ出したリンチ司令官は、前の人生では収容所で酒浸りになっていた。捕虜交換でも帰国しなかったはずだ。自責の念から逃げきれなかっただろうと思う。彼に従って逃げた俺も逃げきれずに、逃亡者の汚名に付きまとわれた。だから、逃げるのが楽ではないということは、身に沁みてわかっている。しかし、挫折した経験がまったく無さそうなトリューニヒトがそれを知っているというのは不思議だ。

「小官の案は逃げと言われるかもしれません。ダンビエール少将らを使いこなそうとせずに、スタッフをイエスマンで固める逃げだと。しかし、小官には他の方法は思いつきませんでした」
「イエスマンで固めて、何が悪いんだい?」
「いや、なんか、いろいろ言われるじゃないですか」
「私はクレメンスに司令官としての仕事を求めた覚えはあるが、意見の合わない部下を使うことを求めた覚えはない。彼のスタイルなら、イエスマンで固めた方がずっと力を発揮できるだろう。君もそう思ったんじゃないのか?」

 ドーソン中将は直言を聞き入れることができない。それは世間一般からすれば、非難されるべきことだろう。しかし、俺は彼の部下であって、評論家ではない。できないことを求めるぐらいなら、できる範囲内で最大限の結果を出してもらう。できる範囲内であっても、ドーソン中将は十分な結果を出せる人なのだ。必要なのは結果が出せるようにサポートすることであって、直言して対立を引き起こすことではない。そう思ったから、ドーソン中将に仕えている間は一度も対立前提の直言はしなかった。

「私はクレメンスが変わることは期待していない。今のままでいい。今のままで十分に力のある男なのだから。君も同じように考えた。だからこそ、対立を避けて彼の長所を活かす方法を考えた。それは絶対的に正しい」
「小官は他の方法を知りませんでした」
「イエスマンと言っても、媚を売って取り入ろうとする者は君の作った案には入ってないね。忠実で協調性に富んだ者ばかりだ。このメンバーなら、一致してクレメンスを支えてくれるだろう」
「ダンビエール少将達が悪いのではありません。ただ、相性が…」
「わかっている。全員に良いポストを用意しよう。友人クレメンスの要望だからな、聞き入れないわけにはいかない。友人の要望は大事にしなくてはな」

 トリューニヒトはわざとらしく、友人の要望を強調した。本当に人が悪い。書簡の文案を作ったのが俺だということがわかって言っている。

「ありがとうございます」
「人類がまだ地球にいた頃にアメリカやイギリスという国があった。銀河連邦、ひいては我が国はその国の制度から多くの物を引き継いだ。参謀システムもその一つだ。司令官の方針を実現するために補佐するのが参謀の務め。司令官は参謀の選任に大きな裁量を認められる。司令官は信頼できる者や必要な能力を持つ者を参謀に選び、司令官が交代すれば参謀も交代する。イエスマンが必要なら、堂々とイエスマンを選ぶのが正しい」

 トリューニヒトが語る通り、同盟軍の参謀システムは司令官本位主義だ。前の歴史では、同盟軍が腐敗した最大の原因の一つに挙げられている。司令官がイエスマンを参謀に登用して、馴れ合いが横行したことが用兵を誤らせたと言われる。しかし、実際に参謀を経験してみて、このシステムの長所を感じることが多かった。

「批判も多い制度ですが、司令官の能力を十二分に発揮できるという点で優れていると思います。参謀は優秀なだけでは務まりません。司令官との信頼関係が必要です。十分な情報と時間を与えられない戦場で、信頼出来ない参謀の意見に自分の部隊の命運を賭けるなんて、怖くてできないんじゃないでしょうか。情報と時間が足りない時に不安を打ち消すのは、信頼関係ですから」

 去年のイゼルローン攻防戦で総指揮をとった名将ロボス元帥と、全軍を敗北の淵から救った軍略の天才ヤン・ウェンリー大佐。協調できれば最強のコンビであったはずの二人の間に存在しなかったのは信頼関係だ。ロボス元帥の体育会系的な気質とヤン大佐の内向的な気質は合わなかった。ロボス元帥としては肚が見えない参謀の策に全軍の命運を委ねるわけにはいかなかったし、ヤン大佐も信頼出来ない上官のために積極的に策を練る気にはなれなかっただろう。良い悪いではなくて、そういうものなのだ。前の歴史でヤンが第十三艦隊発足から暗殺されるまでの四年間をほぼ同じスタッフで戦ったのも、まさしく信頼関係の問題だったろう。彼らが参謀業務を担ってくれている限り、ヤンは安心して指揮に専念できた。

「参謀ポストを全部信頼できる者で埋められるほど、顔が広い司令官はそうそういないけどね。就任要請を受けた者が必ず受け入れるとも限らない。ロボス元帥のように子飼いを多く抱えている司令官なんて、滅多にいないからね。普通は数人程度を自分で選んで、残りは統合作戦本部の人事参謀部に推薦を依頼することになる。有力派閥の二流三流の人材を押し付けられることだってある。信頼できる者を参謀にするにも、思い通りの用兵をするには、人脈を築いて派閥政治に手を染めて、参謀を自由に選べる立場にならなければならない。それが我が軍の現実だ」
「政治に手を染めないと、信頼できる仲間も得られないって嫌な現実ですね」

 トリューニヒトの言っていることは現実だ。しかし、嫌なものは嫌だ。否定できるかどうかと好き嫌いは違う。政治に巻き込まれたら、居心地が悪くなってしまう。アンドリューらロボス派で固められたイゼルローン遠征軍総司令部の作戦部が、シトレ派のヤンにとって居心地が悪かったように。対立派閥の牙城でも友人の家にいるかのように振る舞えるグリーンヒル大将の社交性の高さが普通じゃないのだ。

「私もそう思うよ。では、もっと嫌な現実の話をしよう。エリヤ君は帝国軍の参謀システムを知っているかい?」
「はい。参謀は統帥本部から派遣されてくるんですよね。そして、司令官が独走せずに軍中央の方針を守るように作戦指導を行います。軍中央が前線部隊を統制するには最適ですが、司令官と参謀が牽制し合って作戦行動の円滑を欠いてしまう欠点があります。人類が西暦を使っていた頃にあったドイツという国にルーツがあるシステムと聞きました」
「良く勉強しているね」
「早く委員長閣下のお役に立ちたいと思いまして」

 トリューニヒトは嬉しそうな笑顔を見せる。真っ白な歯が眩しい。ロボス派のアンドリューに教えてもらったというのは言わない方がいいんだろうな。もちろん、口頭で聞いただけじゃなくて、アンドリューに教えられた書籍や論文もちゃんと読んだんだけど。

「なら、もちろん元帥府についても知っているね?」
「元帥に任命された者が開ける個人オフィスです。普通の司令部のように参謀、副官、専門スタッフなどを置くことができますが、任命権はすべて元帥が持っています。元帥府の参謀に正規軍の指揮官を兼ねさせることで、実戦部隊を事実上元帥府に所属させることもできます」
「うんうん、その通りだ。この制度のことを君はどう思うかな?」
「軍閥を形成してくださいと言わんばかりの愚かな制度だと思います。いつか、この制度を悪用して簒奪を試みる者が現れるのではないでしょうか」

 前の人生で読んだ歴史の本では、元帥府制度はラインハルト・フォン・ローエングラムの簒奪に道を開いたと書かれていた。元帥府を開いたラインハルトは腹心を正規艦隊の指揮官に任命して、十八個艦隊のうちの九個艦隊を事実上の私兵とした。元帥府に集った人材に指揮された艦隊がゴールデンバウム朝を打倒する武器となったのだ。ラインハルト以前に元帥府制度を悪用して簒奪を試みた軍人は一人もいない。この事実を不可思議に思った後世の歴史家は、門閥貴族の覇気の無さに理由を求めた。

「私はそうは思わないな」

 トリューニヒトの答えに驚いた。俺は前の人生でゴールデンバウム朝が簒奪された歴史を知っていて、トリューニヒトは知らない。そういう差があったとしても、常識的に考えて元帥府制度は物凄く危険なはずだ。国立中央自治大学を首席で卒業して、警察官僚を経験した後に政界に転じた彼がその程度のこともわからないとは思えない。

「どういうことでしょうか…?」
「軍隊は指揮官だけでは動かせない。参謀が補佐しないとね」
「それは存じています」
「帝国の参謀士官は、統帥本部や軍務省での勤務経験が豊富な者が多い。軍中央の意図を理解できる人材を参謀に任命しないと、派遣しても役に立たないからね」
「それは初めて知りました」

 制度に関する知識はあっても、その運用実態を知るのは難しい。特に同盟軍と帝国軍では制度設計が根本的に違っている。両軍の参謀の性格の違いは分かっても、どのように任命されるかまでは考えが及ばなかった。それにしても、トリューニヒトは本当に博識だ。どこでこんな話を知ったんだろう。

「いざ元帥府を開いて、好きなように参謀を選べるようになっても、やはり統帥本部や軍務省での勤務が長い人材から選ぶことになってしまうんだ。司令官が参謀を選ぶ我が国と違って、ずっとお気に入りの参謀と付き合うことはできないから、元帥府に所属する部隊の参謀は、元帥より軍中央の顔色を気にする者で固められる。軍中央の意向に反した部隊運用をしたくても、参謀がストップをかけるわけだ。元帥府の参謀長なんて、軍務省や統帥本部の幹部から選ばれることが多いんだよ。パイプ役としてね。元帥府顧問の肩書きで退役した大物参謀が迎えられることもある。どこかで聞いた話だと思わないかい?」

 楽しそうに笑うトリューニヒトにつられて、笑ってしまった。要するに元帥府の参謀は軍中央からの監視役であり、パイプ役という名の天下り先でもある。まるで同盟の役所と民間企業の関係みたいだ。簒奪に協力するなんてとんでもない。もしかして、元帥府制度も天下り先がほしい軍官僚がでっち上げたのかもしれないなどと、つまらないことを考えてしまった。元帥府に入れば階級も上がる。いくら非効率な帝国であっても、軍務省や統帥本部のポストを無制限には増やせないはずだ。上のポストが詰まっていれば、昇進もかなわない。元帥府の設置はポストや昇進が欲しい軍官僚には福音といえる。

 そういえば、ラインハルト・フォン・ローエングラムの元帥府の幹部は大半が生粋の指揮官で、参謀歴が長い人はほとんどいなかった。軍中央から派遣された参謀には、簒奪の相談なんてできるはずもない。配下の名将達の参謀も影が薄い。ミッターマイヤー元帥に仕えた四人の分艦隊司令官が獅子泉の七元帥に次ぐ知名度を誇る一方で、ディッケル参謀長は一冊の伝記も残っていなかった。ロイエンタール元帥の参謀長なんて名前も覚えていない。ラインハルトの部下に見るべき参謀が少ない理由が理解できた。軍中央に忠誠を誓う参謀の掣肘をいつどうやって排除したのかはわからないけど。

「帝国軍の司令官って窮屈なんですね。それにしても、委員長閣下の博識ぶりには驚きました」
「私の友人には亡命者もいるんだ。門閥貴族や高級軍人のね」
「そういうことだったんですね」
「対立を嫌う君は派閥政治も苦手だと思う。しかし、派閥を作れない組織では、参謀を自由に選ぶこともできない。軍中央から押し付けられた参謀で戦うなんて息が詰まるだろう?」
「おっしゃるとおりです」
「帝国軍にも派閥はあるが、権力目当ての一時的な同盟みたいなものだ。我が軍の派閥のような強い結びつきはない。同志は得られないし、先輩の薫陶を受けることもできなければ、優れた後輩を引き立ててやることもできない。君だってクレメンスの派閥に属したことでかなり恩恵を受けている。才能を開花できたのは、彼が君を選んで引き立てたからだ。それはわかるよね?」

 確かにドーソン中将の下にいなければ、艦艇の補給士官や辺境基地の事務職を転々としていたことだろう。レベルの高い仕事に挑戦させてもらうことはなかったし、今親しくしている人のほとんどと出会う機会もなかった。目の前にいるヨブ・トリューニヒトとも出会えなかった。ドーソン中将が政治に関わって派閥を形成していく過程で、俺も多くのものを得た。確かにトリューニヒトの言うとおりだった。

「はい」
「クレメンスが君を選んだのも理想の組織を一緒に作っていける部下が欲しかったからだ。ロボス元帥やシトレ元帥が派閥を作ったのも打算だけではなく、理想の組織を作りたかったからだと私は思うよ。ロボス元帥派には明朗快活で上下関係に厳しい者が多い。シトレ元帥派には反骨精神が強く自由を好む者が多い。いずれも領袖の性格を反映している。自分と近い性質を持った者のための組織を彼らは作りたかったのではないだろうか」

 アンドリューから聞いたことがある。ロボス元帥は理想の用兵を実現するために、参謀を自分の手で育てているのだと。自分好みの性格の人間、自分に必要な能力を持った人間を集めるために派閥を作るのだとしたら、その気持ち自体は否定できない。俺だって自分にとって居心地がいい組織で暮らしたい。頼りになる部下が欲しい。しかし、その思いを実現するために政治をしなければならないのなら、やはり避けて通りたい。

「エリヤ君、政治はゴミ溜めだ。溜まっているのは人間の欲望、憎悪、嫉妬、劣等感など、実に汚らしいものばかりだ。触れば手が汚れる。手を洗っても匂いは取れない。遠くにいても腐臭が鼻につく。しかし、人間がいる場所には必ず政治がある。誰かが片付けなければならない。ゴミ溜めを片付けなければ、作れない居場所がある」

 クリスチアン大佐は政治は汚水溜めだ、避けて通れと言った。トリューニヒトは政治はゴミ溜めだ、しかし誰かが片付けなければならないと言った。クリスチアン大佐は俺が曇り無く生きることを願っていた。トリューニヒトは俺に何を願うのだろうか。いや、それ以前に彼に問いたいことがある。

「委員長閣下は政界や軍部で派閥を作ってらっしゃいますよね」
「否定はしないよ」
「居場所を作りたいとお考えなのでしょうか?」
「そうだね」
「それはどのような居場所なのでしょうか?」

 問うた瞬間、秘書官が室内に入ってきた。

「委員長閣下、次のご来客がお見えになっています」
「そうか。ありがとう」

 面会時間の終わりを告げた秘書官に礼を言うと、トリューニヒトは机の上のメモ用紙に何やら書き込む。それから、俺を手招きした。

「今日は多めに面会時間を取っておいたが、時間が足りなかったようだ。君とはまだまだ話したいことがある」

 そう言うと、トリューニヒトは俺の手にメモ用紙を握らせた。

「続きを聞きたかったら、この場所に来てくれ。来るも来ないも君の自由だ。私一人でも十分に楽しめる場所だから、気遣いは無用だよ」
「承知しました」

 部屋を退出した後、トイレに入ってメモ用紙を開く。

『ウッドリバー街 十二丁目 四番地 アリューシャンビル4F ティエラ・デル・フエゴ 20:00 私服で』

 行かないという選択など最初からなかった。好奇心に手綱を付けることはできない。俺がトリューニヒトに最後に投げかけた問いの答えを知りたかった。 

 

第五十八話:凡人民主主義 宇宙暦795年4月5日 ハイネセン市、ウッドリバー街「ティエラ・デル・フエゴ」

 ヨブ・トリューニヒトはこの半年で急速に勢力を拡大している。昨年11月にドゥネーヴ派を離脱し、オッタヴィアーニ派やヘーグリンド派を離脱した中堅・若手の代議員とともに、自らの派閥『フリーダム・アンド・ユニオン』を結成。世代交代と政治改革を旗印に、改革市民同盟の次期党代表候補に名乗りをあげた。12月の内閣改造で国防委員長に就任すると、三年ぶりの軍事予算増額を勝ち取って、軍人や軍需産業の間で支持を広げている。経済政策の転換を望む財界非主流派、官界の綱紀粛正を求める若手官僚、強い指導者を待望する主戦派言論人などがブレーンに加わり、政界再編の旗手として注目される存在だった。

 今、俺はそのトリューニヒトとともにウッドリバー街の『ティエラ・デル・フエゴ』にいる。薄暗い照明、薄汚れたテーブル、もうもうと立ち込めるタバコの煙、延々と流れる三十年前のポピュラーソング。客のほとんどはくたびれた背広や汚れた作業服を身にまとった中年男性。メニューは全部手書き。無節操なまでに多種多様な料理と酒は、どれも信じられないぐらい安い。気鋭の政治家が来るような店とは思えないような場末感だった。

「ヨブの旦那、ずいぶんとご無沙汰でしたねえ」
「最近、仕事が忙しくてね」
「ああ、年度初ですからねえ。旦那のとこみたいな堅い会社は大変でしょう」
「宮仕えも楽じゃないよ。来週のカーライルステークスで一発当てて、楽隠居と洒落込みたいもんだ」
「エンドレスピークの銀行レースでしょ?家を抵当に入れて全額ぶち込んでも、小遣いになりゃしないんじゃないですかね」
「チャーリー、私がそんなせこい勝負をすると思っているのかい?男なら大穴一点買いに決まっているだろう」
「だから、勝てねえんですよ」
「勝算はあるさ。君がエンドレスピークを一点買いしてくれたら、間違いなく大穴が来る。なにせ、君が買った馬はいつも外れるからね」

 安物のスーツに身を包み、古ぼけたジャンパーを羽織り、常連客と気さくに競馬の話をするトリューニヒトは、驚くほど店に馴染んでいた。会社とか、宮仕えとか言っているのはどういうことだろう?

「坊主、ヨブの旦那みたいな大人になるんじゃないぞ。博打で勝てなくなっちまうからな」
「ひどいな、チャーリー。この子は博打なんかしないよ」
「なるほど、旦那が反面教師になってるってわけですか」
「そういえば、君の子供はみんな博打嫌いだったね」
「ひっでえなあ。まあ、相変わらず憎たらしそうで何よりでさあ」

 常連客は苦笑すると、足をふらつかせながら席に戻っていった。かなり酒が入ってるらしい。いくら知り合いだと言っても、政治家相手に随分と遠慮がない。他の客も店のマスターもトリューニヒトの存在に緊張している様子は全く無い。

「委員…、いや、ヨブさん。これはどういうことなんですか?」
「どうしたんだい?」
「この店の人達が小…、いや、俺を気にしてないのはわかるんです。最後にテレビに出たのは四年近く前だし、ネットで出回ってる画像も今の俺とは…」
「全然似てないね。学生みたいな格好だ」

 曖昧にごまかそうとしたのに、トリューニヒトにストレートに突かれて、少しへこんでしまった。今日の俺は無地のカットソー、ボーダー柄のプルオーバーパーカー、チノパン、カジュアルシューズ。ウッドリバー街は庶民の街だ。手持ちの服はおしゃれすぎて、学生風にまとめなければ街に溶け込めないと判断した。成功しているのはいいことなのだが、26にもなってそう見える自分の容姿に微妙な気持ちを感じずにはいられない。気を取り直して、何事もなかったかのように話を続ける。

「ヨブさんは今も毎日のようにテレビに映ってますよね?」
「そうだね」
「どうして、ここの人達はテレビで騒がれてる話題をあなたに振らないんでしょうか?」

 非公式の面会なので、トリューニヒトのことは「ヨブさん」と呼び、一人称は「俺」にするようにと言われている。それでごまかせるとは思えなかったのが、どうやらごまかせてしまっているらしいことに面食らっていた。

 6年近く前、エル・ファシルの英雄としてメディアにもてはやされていた俺が故郷のパラディオンに戻ると、家族や知り合いはみんな脱出行の裏話を聞きたがった。軍隊で知り合った人もやはり脱出行の裏話に強い興味を示した。大抵の人はメディアで騒がれていることの裏側を知りたがる。ティエル・デラ・ブエゴの客が誰も知りたがろうとしないのは不自然に感じた。

「彼らは私が政治家だってことを知らないからね」
「そうなんですか…?」
「そうとも。この店では、堅い勤めをしているヨブで通ってる」
「いや、でも、テレビとか見てるのに気づかないんですか?」
「だって、彼らは政治ニュースなんて見ないからね。たまに目についてもすぐ忘れる。興味ないから」

 あっさりと切り捨てるトリューニヒトの言葉に驚いた。有権者の大半が政治に興味を持っていないのは事実だ。ここの客のように政治ニュースにすら興味を示さない人がいるのも想像の範囲内ではある。しかし、政治家はその事実を認めてはいけない立場にあるはずだ。自分を支えてくれる有権者を見下すことになる。

「何を驚いたような顔をしてるんだい?彼らの方が多数派であることぐらい。君だって知っているだろう」

 知っている。しかし、それは彼の立場では言ってはならないことだ。良い人に見えるトリューニヒトも内心では有権者を見下していたのだろうか。衆愚政治家という前の歴史の評価のほうが正しいのだろうか。

「働いて食べて寝て起きる。人と出会って関わる。子供を産み育てる。余暇に体を休めて趣味を楽しむ。そのどれもが人生を賭けるに値することだ。普通は日々の営みをこなすだけで精一杯だろう。そんな中で社会や国家まで見つめる余裕を持てる者はどれほどいるのだろうか。政治に興味を持つことが正しくて、持たないことは正しくないのか。日々の営みに忙殺されるのは悪いことなのか。君はどう思う?」

 政治に興味を持たなければならないというのは、民主主義国家で生きる以上は大前提であるはずだ。ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムも有権者の無関心に付け込んで、銀河連邦を簒奪した。だから、政治に興味を持たなければならないと学校で習った。

「しかし、それではルドルフみたいな悪人を止めることができないのではないでしょうか?」
「なぜ、そう思う?」 
「有権者が政治に興味を持たなかったせいで、ルドルフの本性を見抜けませんでした。もっと興味を持っていたら、騙されずに済んだと思うのです」
「ルドルフに投票した人達は何も考えずに騙されたのかな?真剣に考えて投票した人はいなかったのかな?興味を持っていれば、ルドルフに投票しないと言い切れる理由はあるのかな?」

 トリューニヒトの口調は柔らかいが、問いかけの内容はこの上なく重い。俺がこれまで当たり前のように信じていたことの正当性が問われている。経済は長期にわたって停滞し、治安は悪化の一途をたどり、道徳や規律は失われ、希望を持てなかった銀河連邦末期。その時代に俺が生きていたら、ルドルフに投票せずにいられたんだろうか。

「自分にはわかりません」
「社会を良くしようと真剣に願って投票した人もいたはずだ。興味を持って考え抜いた末に、ルドルフしか選べなかった人もいたんじゃないか。ルドルフの登場に警鐘を鳴らした共和派政治家なんて、きつい言い方をすると、当時の社会的混乱を収拾できずに警鐘を鳴らしてるだけの人達だよ。真面目に考えた結果、そんな無能者に投票する有権者がいたら、そちらに驚きを感じるね」
「興味を持ったからこそ、ルドルフに投票したのではないかとお考えなのですか?」
「私にはそうとしか思えない」

 興味を持ったからこそ、ルドルフに投票したのではないかとトリューニヒトは言う。だとしたら、政治に興味を持ってもルドルフを止められないということになる。興味を持っても持たなくてもルドルフを止められないとしたら、政治に興味を持つべき理由はどこにあるのだろう。そもそも、民主政治自体に致命的欠陥があるということになりはしないか。

「おっしゃるとおりだとすると、政治に興味を持つ意味がないように思えてきます」
「政治はゴミ溜めなんだよ。日々の営みに忙殺されてなお、ゴミ溜めに興味を持つ方がおかしい」

 トリューニヒトの言葉は政治に興味を持つなと言っているように聞こえて、ちょっとイラッとした。建前を平然と踏みにじるような行為は好きになれない。

「昼にお話を伺った時は、『政治はゴミ溜めだ、しかし誰かが片付けなければならない』とおっしゃったのに、今は政治に興味を持つべきでないとおっしゃっているように聞こえます。矛盾しているのではないでしょうか」
「矛盾はしていない。日々の営みに忙殺されている人々がゴミ溜めに興味を持たずとも、安んじて暮らせるように片付ける。それが政治家の仕事だと私は思うよ」
「それなら、民主主義である必要がどこにあるのでしょうか?専制君主に全部任せてしまっても、結果は同じじゃないですか?何のために参政権があるんですか?」

 俺は民主主義の絶対的な信奉者というわけではない。前の人生の半分以上はローエングラム朝銀河帝国の治世で暮らしている。民主主義でも専制政治でも、俺が良い目を見られないことには変わりがなかった。しかし、現在の自分が民主主義のルールで生きている以上は、それに忠実でありたいと思う。いや、ルールから外れて生きていけるほど、自分が強くないと言った方が正しいか。

「真剣に政治を考えている人達だけで、世の中を動かさないようにするためじゃないかな。政治のことなんかどうでも良くて、その時々の気分や目先の損得勘定で投票する。そんな有権者を多数派にするためだろう」
「それでは間違った政治をすることになります」
「ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムは間違いを許さない人物だった。そんな彼に間違いのない政治を有権者が期待した結果、少しでも間違っていると思われたものは世の中から抹消されていった。人間なんて間違いだらけの存在だろう。間違いを無くそうとする事こそがルドルフに至る道じゃないかな?」

 確かにルドルフは間違いの無い政治を目指した。その結果、劣悪遺伝子排除法によって、障害者や意欲に欠ける者を抹殺するに至った。政治に間違いを許さない姿勢がルドルフの暴走を招いたのではないかというトリューニヒトの指摘は正しい。ルドルフに間違いがあるとしたら、それは人間が間違った存在であることを許せなかったことだ。

「間違いのない政治を目指したら、人間が間違わないことを目指すしか無いでしょうね。それが無理なのはわかります。俺だって、間違わずに生きるのは無理です」
「世の中の人間の大半は凡人だよ。目先の損得やその場の空気に流されて、間違いばかりを起こす。欲が深いくせに無欲に見られたい。怖くて逃げたいのに逃げたと思われたくない。愚かなのに馬鹿と言われたくない。私もそんな間違った凡人の一人だ」

 俺が知る限り、トリューニヒトは最も凡人からかけ離れた存在だ。容姿、頭脳、カリスマ、運の全てに恵まれ、エリートコースを突っ走って官僚になった後、政治家に転身して成功した。今や政権に手が届くところまで来ている。前の歴史でも最高評議会議長就任後は危機管理能力の無さを露呈したが、それを差し引いても非凡な人物ではあった。八月党が下した保身とエゴイズムの怪物という評価は同時代人の感想として大袈裟に過ぎると思うが、それでも凡人でないことは敵対者ですら認めていた。

「あなたが凡人とは思えませんが」
「昔は私もそう思っていたよ。自分は人とは違う、選ばれた存在だと思っていた」
「違うのですか?」
「今になって思えば、選ばれたと思っていたこと自体が私の凡人たるゆえんだったのだろうね」

 トリューニヒトの表情に陰りがまじる。見覚えのある表情だ。前の人生のハイネセンのスラムで出会った人々が同じような表情をしていた。人生に疲れきって、夢を見ることを諦めた敗北者の顔。あの頃に鏡を見たら、俺も同じ顔をしていたことだろう。公式に知られている限り、トリューニヒトは挫折らしい挫折を経験していない。歴史においても、数多くの失策を犯しながら、キャリアに傷が付いたのはバーラトの和約後に最高評議会議長の座を追われた時だけだ。それとて、後を継いだジョアン・レベロの背負った苦労を思えば、うまく身を保ったと言える。そんな人物がなぜこんな表情をできるのだろうか。トリューニヒトには何かがある。俺には計り知れない何かが。

「あなたは何を諦められたのですか?」
「非凡であることを諦めた。それで良かったと思うよ。万人に強くあれ、間違いを犯すな、意識を高く持て、政治を真剣に考えろと強要せずに済んだのだから」

 トリューニヒトの過去の言葉を思い出す。

『この店では同盟で生まれた人間も帝国で生まれた人間もみんな笑顔で同じ料理を食べている。その光景を見るたびに専制を打倒して、すべての人間が笑顔で同じ食卓を囲める世界を作らなければならないという思いを強くする』

『ルールは公正に適用され、不正が許されることはなく、献身は必ず報いられ、みんなが同胞意識を持って信頼し合い、助け合い、分かち合いながら前進する。そんな社会を作りたいと思っている』

 ようやく、トリューニヒトの考えが見えてきた。彼は万人に弱くても構わない、間違いを犯しても構わない、意識が低くても構わない、政治を真剣に考えなくても構わないと言いたいのだ。人間の弱さをそのまま認めるというのがトリューニヒトの根底にある。とすると、彼がどのような居場所を作ろうとしているのかも見えてくる。 

「あなたが作ろうとなさっているのは、弱くて間違いを犯す凡人のための居場所ですね。そして、凡人のささやかな欲望や自尊心を満たすための政治」

 俺の答えにトリューニヒトは笑みを浮かべると、大きく頷いた。

「目先の損得や気分で左右されて間違いを犯す凡人のためにこそ、民主主義はある。間違いを無くすのではなく、間違いながら進んでいく。政治のことを考えず、日々の営みに流されていても暮らしていける。アーレ・ハイネセンが唱える『自由、自主、自律、自尊』の理念は凡人には重すぎる。正しい政策やイデオロギーを選択しようとする者や、万人に政治意識の高さを求めて間違いのない政治を目指そうとする者の顔を見る政治は、ルドルフに至る道だ」

 徹底した凡人目線のトリューニヒトの考えは、徹底した強者目線のルドルフのアンチテーゼ足り得るだろう。自由であることを至上として、強者しか持ち得ない自主性と自律心と自尊心をすべての人に求めるアーレ・ハイネセンへのアンチテーゼでもある。ルドルフの強者の自由、ハイネセンの万人の自由に対する第三の極、凡人の平等だ。歴史が評するところの理念無き政治屋とは正反対の極めてラディカルな思想を聞かされたことに興奮を感じる。危険領域に入っているのは明らかだったが、好奇心を強く刺激された俺は質問を続けた。

「いつも、あなたは個人主義を批判して、愛国心と自己犠牲を賞賛してらっしゃいますよね。それも凡人のための居場所作りと関連があるのですか?」
「もちろんだとも。凡人は弱い。助け合わなければ、踏みにじられてしまう。愛国心は悪党の最後の拠り所という言葉がある。その言葉はある意味では正しい。誇るべき能力も愛すべき人も頼れる絆も持たない者でも、同盟国民というだけで同胞を得て、誇りを持てる。誇りを持てば、努力せずとも強くなれる」

 トリューニヒトの主張は全体主義に近いが、目的はあくまで凡人の幸福であって、国家を強くすることが目的ではない。国家単位で村を作る共同体主義と言うべきだろうか。それもぬるま湯のような村である。アーレ・ハイネセンの信奉者であるヤン・ウェンリーがトリューニヒトと生理的に合わなかった理由が理解できたような気がする。

「大多数の凡人はそれで良いと思います。では、少数の非凡な者はどうなるのでしょうか?凡人のための居場所では、窮屈な思いをさせられるのでは」
「それは仕方がない。少数の非凡な者が多数の凡人に非凡であることを強いる場所より、非凡な者が凡人に合わせることを強いられる場所の方が暮らしやすいと思うよ。突き抜けた個性に多数の凡人が振り回されるなど、悪夢だろう」

 凡人のためなら、出る杭を打つことも辞さない。トリューニヒトはあっさりとそう言ってのけた。彼にとって、天才は打つべき杭でしかない。凡人の俺には居心地が良さそうだが、割り切りが良すぎて剣呑なものを感じる。政治家というより、宗教家や思想家のそれに近い。

「ホーランド提督の第十一艦隊司令官起用に反対された本当の理由がようやく理解できた気がします」
「彼は非凡すぎる。私の構想にはそぐわない」

 ドーソン中将の第十一艦隊司令官起用は、自派の勢力を拡大するための手段に過ぎないと思っていた。しかし、今になって理念的な背景が理解できた。ドーソン中将は有能な人だが、非凡な人ではない。スキルの習熟度が桁外れに高いだけで、非凡な発想は何一つ持っていない。徹底的に平凡なアプローチを重ねて、あらゆるスキルに習熟するに至った。言わば凡庸さを極め切った存在である。トリューニヒトの理念に合致した人材だ。

「ところでエリヤ君、君にとって必勝の戦略とはどういうものかね?」
「必勝の戦略ですか?」
「そう、君が提督ならどのような必勝の戦略を用意するか」

 これまで参加した戦闘、仕えた指揮官を思い出してみる。ヴァンフリート4=2基地攻防戦のセレブレッゼ中将、イゼルローン攻防戦のロボス元帥、第三次ティアマト会戦のドーソン中将。それぞれの長所と短所、自分に真似できる長所と真似できない長所を比較検討する。

「自分は業務経験が浅いので、参謀との意思疎通を大事にします。指揮経験が浅いので、分艦隊司令官との意思疎通を大事にするとともに、訓練と規律を徹底して将兵が思い通りに動くようにします。戦力が足りないと不安なので、多くの予算と最新装備と訓練された兵員を回してもらえるよう、国防委員会にお願いします」
「君らしい平凡さだね」
「自分の能力と権限の範囲内で必勝を期するなら、これ以上の手は考えつきません」
「その発想こそ、私が求めているものなんだよ。誰にでも理解できる用兵、誰にでも理解できる部隊運営。自分の長所を良く理解して、コミュニケーションと管理を軸に据えているのも素晴らしい」
「ありがとうございます」

 ラディカルな理念を聞かされて、恐れを感じていたところでいきなり褒められると、裏があるのではないかと身構えてしまう。小心者の悲しさだ。

「クレメンスに仕えている間、君は一度も直言をしなかった。欠点を改めようとせず、その平凡さを大事にした。結果として、君は誰よりも良くクレメンスを補佐できた。他人を変えようとせずに、長所を目に向ける。凡人を凡人のままで活かそうとする。私はそんな君のあり方を高く評価しているつもりだ」

 ドーソン中将に仕えて二年四ヶ月。仕事ぶりを評価されたことは少なくない。特にどんな内容でも一枚の紙にまとめる文章力と、記憶力の良さは良く褒められた。忠誠心が厚いとも良く言われた。しかし、ドーソン中将への向き合い方を褒められたのは初めてだ。嬉しくなって警戒心が溶けていく。俺って本当に現金だ。

「第十一艦隊司令部からは外れてもらう」
「どういうことですか?」

 喜んできたところでいきなり落としてくる。天まで持ち上げられてから、いきなりハシゴを外された気分だ。

「クレメンスと話し合った結果だよ。優秀な書記官というのが君に対する一般的な評価だが、むしろ管理者にこそ適正があるように思える。しかし、クレメンスの下ではスタッフワークを伸ばせる機会がない。どうしても自分の手で育てたい気持ちはあったが、君の可能性を限定したくないと気持ちもあり、彼は悩んでいたんだよ」

 ドーソン中将がそんなことで悩んでいたとは思わなかった。国防委員長に相談するぐらい、俺の育て方をちゃんと考えてくれてたなんて、嬉しいやら申し訳ないやら、どんな表情をしていいかわからない。

「次の任地はエル・ファシル星系。三度目の赴任ということになる」
「エル・ファシルですか!?」
「そうだ。現状は知っているだろう。君の手でケリを着けるんだ」

 エル・ファシルとは長い因縁がある。光に満ちた今の人生の始まり、そして偽りの英雄伝説の始まりでもあった。俺はエル・ファシルの現状に少なからず責任を負っている。長きにわたる因縁にケリを付ける時が来たのかもしれない。 

 

第十四章 エル・ファシル海賊戦争
  第十四章開始時人物設定

主人公
エリヤ・フィリップス 27歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中佐
役職:エル・ファシル警備隊所属の第千三百六十七駆逐隊司令
性格:小心で卑屈。素直で真面目な優等生。努力を楽しめる。仕事熱心。自己評価は低い。大食い。甘党。
容姿:子供っぽい容姿。身長は平均よりやや低い。爽やか、絵になるなどと言われているが、以前は冴えなかったと言われる。
能力:事務処理能力が高く、法律に通暁している。管理職としては公正。参謀としては未熟。対人関係に細やかな気配りを見せる。射撃の達人。実戦経験が浅いのが難点。
略歴:国防委員長ヨブ・トリューニヒトのお気に入り。第十一艦隊からエル・ファシル警備艦隊に転属。初めて艦艇部隊の指揮をとる。
前の人生ではアーサー・リンチに従ってエル・ファシルから逃亡したことがきっかけで転落した。
史実:登場せず。

重要人物
クレメンス・ドーソン 45歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十三章開始時点)
役職:第十一艦隊司令官(第十三章開始時点)
性格:異常なまでに神経質で几帳面。わかりやすい善を好み、わかりやすい悪を嫌う小市民的な心情の持ち主。露骨にえこひいきをする。
容姿:エリヤと同程度の身長。ひげがトレードマーク。
能力:抜群の処理能力と行動力の持ち主。精力的で優秀な戦術能力を持つ指揮官だが、参謀を使えないという欠点がある。陣頭指揮を好み、現場に口を出したがる。政治力も極めて高い。
略歴:第十一艦隊司令官。第三次ティアマト星域会戦で帝国軍の宿将を討つ大功をたてたが、敵の奇襲にあって旗艦を撃沈されかける。
史実:自由惑星同盟軍の末期状態を象徴する無能な指導者。
初出:二十三話

ヨブ・トリューニヒト 40歳 男性 オランダ系
職業:自由惑星同盟軍代議員(第十四章開始時点)
役職:国防委員長、改革市民同盟トリューニヒト派領袖(第十四章開始時点)
性格:気さくで人懐っこい。ノリ重視で適当な事をポンポン言ってしまう。自分を凡人と言い、凡人のためなら、非凡な者の芽を摘むことも厭わないと断言する。お好み焼きはご飯と一緒に食べる。
容姿:俳優のような美貌。スポーツで鍛え上げた長身。人懐っこい笑顔。卓越したファッションセンス。
能力:巧みな話術と人の心をとろけさせる愛嬌の持ち主。派手なパフォーマンスを用いた大衆煽動のみならず、個人を対象とした人心掌握にも優れる。
略歴:主戦派の若手指導者。凡人のための世界を作るという理想を持つ。自分の派閥を立ち上げて、政界再編の台風の目と言われる。エリヤをエル・ファシルに派遣した。
史実:自由同盟末期の最高評議会議長。保身の怪物という評価と、単なる無能という評価がある。同盟滅亡後も暗躍を続けた。
初出:二十九話

親しい人
アンドリュー・フォーク 25歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十三章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部作戦参謀(第十三章開始時点)
性格:真面目で謙虚。社交性が高い。
容姿:長身でハンサム。最近は過労のせいかやつれ気味。
能力:士官学校を首席で卒業し、着実に実績を重ねている秀才参謀。部隊運用能力に優れ、行軍計画立案に力量を示す。リーダーシップ、運動能力も高い。白生戦技、射撃術も達人級。
略歴:エリヤの友人。ロボス大将が最も信頼する腹心。エル・ファシル義勇旅団長を務めていた頃に親しくなった。過労でやせ細っているのをエリヤに心配されている。
史実:帝国領侵攻作戦を立案して同盟軍を壊滅に導き、テロリストとしても同盟の足を引っ張った愚劣な人物。
初出:第二十話

ダーシャ・ブレツェリ 26歳 女性 スロベニア系
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十四章開始時点)
役職:エル・ファシル警備艦隊所属の巡航艦艦長(第十四章開始時点)
性格:強引で後先を考えない。ストレートに好意をぶっこんでくる。口も体も人一倍よく動く。ファッション好き。
容姿:丸顔で目が大きく、可愛らしい感じ。ショートカット。胸が大きい。
能力:士官学校を三位で卒業したエリート。人の能力を冷徹に見定めることができる。
略歴:ヴァンフリート4=2宙域の会戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。エリヤのために服を選ぶほどに付き合いが深まっている。エル・ファシル警備艦隊に転任した。
史実:登場せず。
初出:第四十話

エーベルト・クリスチアン 40代 男性 ゲルマン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十三章開始時点)
役職:第四方面管区地上軍教育集団司令(第十三章開始時点)
性格:軍隊を家族と考えている。剛直だが人情に厚い好漢。単純明快な物言いを好む。政治を嫌っている。
容姿:背はさほど高くないが、肩幅と胸板が厚い。いかつい顔に不機嫌そうな表情。
能力:勲章受章経験のある勇者。食事と睡眠の重要さを理解していて、部下の待遇改善に熱心。
略歴:陸戦隊出身。エル・ファシルの英雄になったエリヤの広報担当を務めた時に親しくなった。エリヤが職業軍人になるきっかけを作った人物。政治に引き込まれるエリヤを危惧している。
史実:救国軍事会議メンバーとしてスタジアムの虐殺を引き起こした。
初出:第八話

アーロン・ビューフォート 47歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第二章終了時点)
役職:エル・ファシル警備艦隊所属の第二百九十九駆逐群司令
性格:さっぱりした性格。本当の意味での大人。
容姿:実年齢より数年若く見える。
略歴:エル・ファシル脱出船団旗艦の艦長。エリヤに絡まれたが、大人の対応をして泣かせた。現在はエル・ファシル警備艦隊で勤務している。
史実:大親征でビッテンフェルトを迎撃した。
初出:第七話

チュン・ウー・チェン 33歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十三章開始時点)
役職:第十一艦隊司令部人事部長(第十三章開始時点)
性格:超マイペースで他人の視線をまったく気にしない。パンばかり食べている。
容姿:パン屋の二代目と言われるおっとりした容姿。緊張感皆無で軍人らしくない。身なりに無頓着。
能力:分析力と洞察力が高い。参謀経験豊富なプロフェッショナル。他人を自分のペースに巻き込むコミュニケーション術を持つ。
略歴:士官学校卒のエリート。第十一艦隊司令部でエリヤと親しくなった。第三次ティアマト会戦で全軍崩壊を回避する策を出した。
史実:自由惑星同盟軍最後の宇宙艦隊総参謀長。覇王ラインハルトに敢然と立ち向かった英雄。
初出:第五十話

イレーシュ・マーリア 32歳 女性 マジャール系(姓が前、名が後に来る)
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部人事参謀(第十一章開始時点)
性格:とっつきにくい外見とは裏腹に思いやりがある。社交性も結構高い。
容姿:180センチを越える長身。非の打ち所のない美形。眼力が異常に強い。不機嫌そうな表情。
能力:対人観察力が高い。教育指導能力に優れる。
略歴:士官学校卒のエリート。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。イゼルローン遠征軍に人事参謀として参加した。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ハンス・ベッカー 30歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十一章開始時点)
役職:第八艦隊第三分艦隊航法主任参謀(第十一章開始時点)
性格:お調子者。人をからかうのが好き。遠慮無くものを言う。
容姿:垂れ目。背が高い。
能力:航路知識が豊富。
略歴:ヴァンフリート4=2宙域の会戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。イゼルローン遠征軍に分艦隊参謀として参加した。
史実:登場せず。
初出:第四十話

グレドウィン・スコット 四十代後半 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章開始時点)
役職:第九艦隊後方支援集団所属の輸送群司令(第十一章開始時点)
性格:大人げない。三次元チェス狂。恐妻家。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。イゼルローン遠征軍に輸送群司令として参加した。
史実:帝国領侵攻作戦で輸送艦隊を率いたが、キルヒアイスに襲撃されて戦死。
初出:第四十話

ワルター・フォン・シェーンコップ 31歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章開始時点)
役職:ローゼンリッター連隊長(第十一章開始時点)
性格:言動と女性関係は奔放。大胆不敵で反骨精神旺盛。服従心、忠誠心とともに希薄。危険人物の中の危険人物。
容姿:貴族的な美貌。優雅な物腰。
能力:大部隊の組織的運用と少数精鋭部隊による強襲戦術の両方に長ける。部隊運営能力、指導力も高い。部下を心酔させるカリスマも持つ。身体能力、戦闘技術、勇猛さを兼ね備えた自由惑星同盟軍最高の戦士でもある。政治的な駆け引きも巧みで付け入る隙がない。
略歴:ヴァンフリート4=2基地で知り合った。エリヤをからかうのを楽しんでいたが、司令部ビルの戦闘では腹心のブルームハルトを援軍につけてくれた。
史実:同盟末期最高の地上部隊指揮官。ヤン・ウェンリーの事実上の私兵隊長として活躍した。
初出:第三十一話

カスパー・リンツ 25歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍少佐(第十一章開始時点)
性格:気さくだが、やや屈折している。
容姿:脱色した麦わらのような髪に青緑色の瞳を持つ美男子。
能力:白兵戦技と射撃術の達人。絵と歌がうまい。
略歴:幹部候補生養成所時代の唯一の友人。ローゼンリッター連隊長シェーンコップ中佐の片腕。
史実:ワルター・フォン・シェーンコップの片腕。ローゼンリッター最後の連隊長。
初出:第十六話

バラット 男性 タイ系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第三章終了時点)
役職:第七方面管区シャンプール基地教育隊体育教官(第三章終了時点)
性格:単純熱血。太っ腹。
容姿:がっちりした体格。猛犬のような印象。
能力:トレーニング指導のプロ。
略歴:陸戦隊出身でクリスチアンの元部下。幹部候補生養成所を受験するエリヤの体力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ルシエンデス 40代 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍曹長(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:ざっくばらん。
容姿:小綺麗な身なり。
能力:軍服を着た人を撮影すれば、右に出る者はいない。
略歴:統合作戦本部広報室のカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

ガウリ 30代 女性 インド系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:気さく。
略歴:統合作戦本部広報室のスタイリストカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

家族
ロニー・フィリップス 51歳 男性 アングロサクソン系
職業:パラディオン市警の警察官(第二章終了時点)
性格:善良でお調子者。
略歴:エリヤの父。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

サビナ・フィリップス 50歳 女性 チェコ系
職業:看護師(第二章終了時点)
性格:心配症でおせっかい。
略歴:エリヤの母。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ニコール・フィリップス 29歳 女性 アングロサクソン系
職業:ジュニアスクールの非常勤講師(第二章終了時点)
性格:しっかり者。
略歴:エリヤの姉。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

アルマ・フィリップス 22歳 女性 アングロサクソン系
職業:ミドルスクールの生徒(第二章終了時点)
性格:甘えん坊の食いしん坊。
略歴:エリヤの妹。空気の読めないメールを送っては、エリヤをいらだたせる。前の人生ではエリヤに懐いていたが、逃亡者になると最も激しく拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

同級生
ミロン・ムスクーリ 27歳 男性 ギリシャ系
性格:爽やかなスポーツマン。
容姿:大男。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。元フライングボール部のスター。前の人生では極右団体の構成員。逃亡者になったエリヤを迫害した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ルオ・シュエ 27歳 女性 チャイナ系
容姿:丸顔。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の数少ない友達。前の人生では、逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

フーゴ・ドラープ 27歳 男性 チェコ系
性格:誰にでも優しい。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。信望が厚く、クラス代表を務めた。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

その他知り合い
ラザール・ロボス 57歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍元帥(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊司令長官(第十一章開始時点)
性格:豪放で大らか。社交的な性格。
容姿:小柄でどっしりとした肥満体。将帥にふさわしい威厳の持ち主。
能力:リスクを厭わず、大胆に仕掛ける用兵に定評がある。対人調整や政治的な折衝にも長ける。人の心に入り込むのがうまい。雑務が苦手。
略歴:同盟軍きっての名将。ヴァンフリート星域、イゼルローン遠征の相次ぐ失敗で声望を落としている。
史実:帝国領侵攻に失敗して、同盟軍を壊滅に追い込んだ愚将。
初出:第十八話

アレックス・キャゼルヌ 34歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍准将(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部後方部長(第十一章開始時点)
能力:後方支援システムの構築と運営にかけては、セレブレッゼ中将に匹敵する技量を持つ。部下の能力を見極める眼力と仕事の割り振りは天才的。会議を通して自分の考えを徹底するスタイル。
略歴:統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥の腹心。失脚したセレブレッゼ中将の代わりに、同盟軍後方部門の司令塔となった。イゼルローン遠征軍の後方支援を統括した。
史実:同盟末期最高の後方支援専門家。ヤン・ウェンリーの後方支援を担当した。
初出:第十八話

ヤン・ウェンリー 27歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章終了時点)
役職:宇宙艦隊総司令部作戦参謀(第十一章開始時点)
性格:冷静沈着。責任感が強い。整理整頓ができない。他人の期待通りに振る舞うことを嫌う。
容姿:ハンサムだが、身なりに無頓着なせいで冴えないように見える。
能力:作戦能力は天才的だが、あまり積極的ではない。
略歴:士官学校卒のエリート。エル・ファシル脱出作戦を指揮した後も着実に出世している。統合作戦本部長シトレ元帥の腹心。
史実:自由惑星同盟末期最高の名将。生涯不敗を誇った用兵の天才。
初出:第五話

ユリエ・ハラボフ 24歳 女性 チェコ系
階級:自由惑星同盟軍大尉(第九章終了時点)
役職:憲兵司令官副官(第九章終了時点)
性格:生真面目で繊細。自分を追い込んでしまうところがある。
容姿:すっきりした目鼻立ちの美人。手足が長く、スタイルが良い。身のこなしには無駄がない。
能力:士官学校を上位で卒業したエリート。仕事ぶりは丁寧で細かい。簡潔明瞭で無駄がない文書を作る。徒手格闘の達人。
略歴:エリヤの後任の副官。努力が空回りして、ドーソン中将の不興を買う。エリヤの無神経な言葉に深く傷つき、口もきかない間柄になっている。
史実:登場しない。
初出:第四十一話

シンクレア・セレブレッゼ 49歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十章終了時点)
役職:第十六方面管区司令官(第十章終了時点)
性格:パワフルで自負心が強く、妥協を嫌う。攻勢に強いが、守勢には極端に弱い。
容姿:学者のような風貌。
能力:後方支援システムの構築と運営に卓絶した力量を持つ。リーダーシップにも長けていて、後方支援のプロ集団チーム・セレブレッゼを築き上げた。
略歴:同盟軍の後方支援システムが麻薬組織に悪用された責任を問われて、辺境に左遷された。
史実:ヴァンフリート4=2基地の戦いで帝国軍の捕虜となった。
初出:三十五話

エマヌエーレ・カルーク 54歳 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第八章終了時点)
役職:中央支援集団副司令官(第八章終了時点)
性格:臆病で無責任。
容姿:企業の重役を思わせる恰幅の良さ。
能力:同盟軍最高の補給専門家。危機管理能力に長けた超一流の指揮官。
略歴:セレブレッゼ中将の片腕。ヴァンフリート4=2基地攻防戦では、口実を付けて戦闘に参加しなかった。
史実:登場せず。
初出:三十五話
出:三十五話

エイプリル・ラッカム 49歳 女性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第十章終了時点)
性格:温和でユーモアがある。
容姿:小太り。そこらのおばさんっぽい。
能力:麻薬組織の指導者として、卓越したリーダーシップを発揮した。帝国、同盟両軍を手玉に取る策士。
略歴:グロースママの異名で知られる麻薬組織の最高指導者。軍の後方支援システムを私物化して、麻薬流通網として悪用していた。帝国軍と同盟軍を操ってヴァンフリート4=2基地の戦闘を引き起こし、混乱の中で逃亡に成功した。
史実:登場せず。
初出:三十五話

ループレヒト・レーヴェ(偽名) 三十前後? 男性 ゲルマン系
性格:誠実で公正。正義感が強い。鋼のような自制心を持つ。
容姿:精力的な面構えに広い肩幅。黒い髪。法曹関係者っぽい容姿。
略歴:帝国軍の憲兵。ある要人の使者としてフェザーンでエリヤに面会し、帝国憲兵隊が集めた麻薬組織の資料を渡す。
史実:登場せず
初出:四十四話

ファヒーム 死亡時は50代後半 男性 アラブ系 故人
階級:自由惑星同盟軍少佐(第八章終了時点)
役職:ヴァンフリート4=2基地憲兵副隊長(第八章終了時点)
性格:横柄で口やかましいが、仕事には誠実。
容姿:短い白髪、鋭い目つき。
能力:実務に長けたベテラン。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で取り乱して突出したエリヤを救出した。時間稼ぎのために踏みとどまって戦い、壮烈な戦死を遂げる。
史実:登場せず。
初出:三十五話

カーポ・ビロライネン 34歳 男性 フィンランド系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団参謀長(第五章終了時点)
性格:真面目だが、他人の心情への配慮に欠けるところがある。
容姿:神経質で気難しそうな容姿。実年齢より5年は老けて見える。
能力:実務能力は極めて優秀。情報宣伝にも長けている。
略歴:ロボス大将の懐刀。エル・ファシル義勇旅団ではエリヤを棚上げして、実権を掌握した。
史実:帝国領侵攻作戦の情報主任参謀。
初出:第十九話

マリエット・ブーブリル 36歳 男性 フランス系
階級:義勇軍中佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団副旅団長(第五章終了時点)
性格:外面は良いが、自己中心的で気性が激しい。自己顕示欲が強い。
容姿:上品で優しげな美貌の持ち主。実年齢より5年は老けて見える。
能力:カメラの前では、嫌いな相手に対しても親友のように振る舞える演技の達人。
略歴:元従軍看護師で勲章も持っているが、世間的な知名度は低い。エル・ファシル義勇旅団ではトラブルメーカーだった。
史実:登場せず。
初出:第十九話

フランチェシク・ロムスキー 30代 男性 ポーランド系
職業:エル・ファシル市会議員、内科医師(第二章終了時点)
性格:気さくだがやや軽率。
容姿:大柄。
略歴:エリヤをエル・ファシル星系政庁に連れて行った。
史実:同盟から独立したエル・ファシル独立政府の主席を務めた。
初出:第三話 

 

第十四章 エル・ファシル海賊戦争
  第五十九話:ダーシャと一緒に歩く因縁の街 宇宙暦795年5月初旬 エル・ファシル市

 俺が最後に惑星エル・ファシルに降り立ったのは、四年前の秋のことである。衛星軌道上から三個艦隊が浴びせかける艦砲射撃、航空軍部隊による爆撃、50万の地上軍部隊によるしらみ潰しの掃討攻撃によって、エル・ファシルを守る帝国軍地上部隊が壊滅状態に陥った後、その司令官であるミヒャエル・ジギスムント・フォン・カイザーリング中将に儀礼的な降伏勧告を行う目的で、半壊したエル・ファシル星系政庁に赴いた。丁重に降伏を拒絶した後に部下と国歌を唱和して、ジーク・カイザーを叫びながら爆炎の中に消えていった闘将と、お飾りの義勇旅団長だった自分の身を引き比べた時に感じた惨めな思いは今でも忘れられない。

「勉強していたつもりだったけど、思っていたよりずっと酷いね…」
「あれから、四年も経っているのに」

 俺と一緒にエル・ファシルに赴任したダーシャ・ブレツェリは、市街地の惨状に唖然としていた。今もなお壊れたまま放置されているビル、昼間だと言うのにシャッターが閉まったままの商店、ひび割れが酷い道路、生気のかけらも感じられない通行人。かつてこの惑星を襲った戦火の痛手は、今もなお癒えていない。前の人生で見た同盟滅亡後のハイネセンを思い出す。

「七年前はどうだったの?」
「こういう言い方は変だけど、人が生きている感じのする街だったね」
「そっか…」

 七年前にリンチ司令官の逃亡に憤り、俺の記者会見に賞賛を送り、ヤン・ウェンリーの指揮にてきぱきと従って奇跡の脱出作戦を成し遂げた人々の面影は、目の前の荒廃した街には残っていない。三年間の疎開生活、戦火で破壊された故郷、復興事業の停滞がエル・ファシル住民の心を打ち砕いてしまったように見える。

「わかったろ、俺は英雄なんかじゃない。その本が書いてることが正しい」

 その本とは、ダーシャが手にしている『検証-エル・ファシルの英雄は誰を助けたか』の文庫版。士官学校時代には風紀委員として、権力批判の書籍を持ち込もうとする有害図書愛好会のダスティ・アッテンボローやヤン・ウェンリーと争った彼女だったが、意外なことに政治信条はきわめてリベラルだった。反戦派ジャーナリストの中で最もラディカルと言われ、有害図書問題や士官学校の首席争いで激しく衝突した宿敵ダスティ・アッテンボローの父でもあるパトリックの本の愛読者である。リベラルな彼女が有害図書愛好会を敵視した理由は、「ルールはルールだし、あいつらのひねくれた根性が気に食わないから」だそうだ。

「エリヤは悪くないよ」
「悪くなくても、ろくなものじゃないよ。誰の力にもなれなかった英雄なんてね」
「次に頑張ればいいよ。帳尻なんて、後から合わせればいいの」
「そうかな」
「私は颯爽とした英雄エリヤ・フィリップスより、真面目で不器用なあなたの方がずっと好きだよ」

 にっこりと笑うダーシャにドキッとして息が止まりそうになった。こういう不意打ちがあるから、本当に油断ならない。

「なに赤くなってるのさ。本当に可愛いなあ、もう」

 君の方が可愛いだろ、と内心で思ったけど、照れくさくて口には出せない。ごまかすために話題を強引に転換する。

「君の友達の陸戦部隊の子って、エル・ファシル奪還戦に参加してたんでしょ?何か聞かなかったの?」
「あの子、仕事の話はしないからねー。エリヤみたいな仕事人間とは違うから」
「どうせ、俺はつまんない奴ですよ」
「エリヤが可愛いって話ばかりしてたよ」

 ごまかすつもりが藪蛇を突付いてしまった。ダーシャはもともと、メディアの中の英雄エリヤ・フィリップスを爽やかすぎて嘘臭いと嫌っていた。「陸戦部隊の子」はそんなダーシャが俺のファンになるきっかけを作った人物なのだそうだ。女性なのに陸戦隊員でしかも俺の熱烈なファンだなんて、よほど変わり者に違いない。そんな奴には関わらないに限る。

「海賊退治がうまくいったら、エル・ファシルの人達の力にちょっとはなれるかな」
「なれるよ、きっと」

 エル・ファシル星系の首星である惑星エル・ファシルは宇宙暦788年に帝国に占領されて、791年の奪還戦で焦土と化した。インフラは完全に破壊され、主要産業だった農業と林業は壊滅状態に陥った。二大政党の改革市民同盟と進歩党がいずれも緊縮財政と公共事業縮小を推進していたために、十分な復興予算が付かなかったことがエル・ファシルの復興を遅らせた。税収減によって財政難に陥ったエル・ファシル星系政府は、地方財政健全化を推進する地域社会開発委員会の勧告を受け、公債発行額を抑えて予算規模を縮小しようと試みた。その結果、地方税の引き上げ、警察官を含む公務員の解雇、福祉予算の削減、公共施設の売却などが実施され、エル・ファシル星系の経済と治安は完全に崩壊した。

 GDPは占領前の八割にも満たず、失業率は全国でも最悪の19%に達した。わずかな求人も大半が同盟最低賃金ぎりぎりで、生計を立てていくには厳しい。職を求めてエル・ファシルを離れる者が相次ぎ、占領前に三百万を数えた人口は二百五十万まで減少している。犯罪率は占領前より倍増して、反比例するように検挙率は急落した。多重債務、家庭崩壊、薬物乱用、アルコール中毒などの社会問題が深刻化。麻薬密売業者、人身売買業者、臓器売買業者、違法賭博業者、売春斡旋業者、詐欺師といった犯罪者が希望を失ったエル・ファシルの住民を食い物にしようと群がった。宗教団体、反体制組織なども急速に支持を広げている。そんなカオスの中、宇宙海賊がエル・ファシル方面航路での活動を活発化させていた。

 宇宙海賊とは数隻から数十隻の編隊を組んで、星間航路を通行する貨物船や旅客船を襲撃して略奪を行う非合法武装集団だ。乗っ取った艦船の売却、奪った積み荷の売却、人質の身代金などを主な収入源にしており、違法品の密輸や麻薬密売を兼業することもある。シンジケートを結成して組織的に海賊行為をはたらく者もいれば、血縁者や友人知人などの縁で結ばれた海賊もいる。反体制組織、民間警備会社などが資金集めに海賊行為に乗り出すケースも少なくない。元航宙士、退役軍人、元技術者といった専門家が中核を成しており、同盟軍正規艦隊にひけをとらない練度を有する海賊集団も存在するという。

 自由惑星同盟の国防委員会が毎年発行する国防白書では、帝国軍と宇宙海賊が二大仮想敵とされている。経済の生命線とも言える星間航路の安全は、星間国家にとっては死活問題であった。宇宙海賊との戦いは警戒活動がメインで、戦闘が発生しても両軍合わせて数十隻から数百隻の規模に留まる。数万隻の大艦隊同士が衝突する対帝国戦争と比較すると、世間の注目度は格段に低い。しかし、海賊から星間航路を警備する巡視艦隊や警備艦隊の合計人員は、対帝国戦に従事する正規艦隊の合計人員より多かった。

 エル・ファシル星系で活動する海賊集団の総勢力は艦艇約千六百隻、構成員は戦闘要員と支援要員を合わせて約二十万人と見積もられる。一方、エル・ファシル星系警備艦隊の総戦力は艦艇六百四十三隻、将兵七万八千人。単純な数では警備艦隊が劣勢にあるが、すべての海賊集団が団結して立ち向かってくることは有り得ない。広大なエル・ファシル星系全体に数隻から数十隻単位の小集団で活動している海賊を、百二十隻前後の群や三十隻前後の隊に分かれて掃討するのが警備艦隊の任務となる。

「七年前にエル・ファシル警備艦隊で勤務していた時は一等兵だった。リンチ司令官の旗艦で補給員をしてた。それが今や駆逐艦三十三隻を指揮する中佐の駆逐隊司令。我ながら信じられないよ」
「二十七歳で中佐って士官学校上位と同じぐらい早いもんね」

 今の俺の肩書きはエル・ファシル警備艦隊第二百九十九駆逐群所属の第千三百六十七駆逐隊司令。普通の士官学校卒業者は三十五歳前後、下士官からの叩き上げはよほど優秀な人が五十を過ぎてから就任するようなポストだ。第二百九十九駆逐群副司令を兼ねているから、普通の駆逐隊司令よりやや格が高い。ちなみにダーシャは中佐に昇進して、エル・ファシル警備艦隊第百八十七巡航群所属の巡航艦「ノヴァ・ゴリツァ」艦長の辞令を受けている。

「やっぱ、エリートに見えるのかな」
「あれ、まだ気にしてるの?」
「まあね。ずっと、自分が非エリートだと思ってたから」

 あれというのは、エル・ファシルに向かう船の中で起きたちょっとした事件のことだ。泥酔した中年の曹長に絡まれて、「士官学校のエリート様には、俺らの気持ちなんかわかんねえよ」と言われて、半日ほどへこんでいた。前の人生では一等兵より高い階級に昇進できなかったし、下士官や古参兵にさんざんこき使われた。その経験が染み付いてるせいで、自分が下っ端に思えてならない。

「エリヤを士官学校卒って勘違いしてる人多いからね」
「どうしてなのかなあ」
「勉強家で体を動かすのも好き。真面目で人当たりがいい。士官学校でいい成績取るタイプ」
「勉強嫌いだったし、運動も苦手だったよ。付き合いも悪かった」
「それ、何年前の話?」

 今の人生が始まったのは七年前だった。しかし、公式にはハイスクールを出るまでってことになるのかな。

「十年前」
「いい加減、そんな昔のことは忘れなよ」

 ばっさり切り捨てられてしまった。前の人生のことを覚えているのは俺だけだ。長年にわたって植え付けられた負の自己評価を払拭するのは難しい。秘密を持っているのがこんなに辛いこととは思わなかった。どうせ人生をやり直すなら、過去の記憶は消して欲しかった。そうしたら、素直に自分を好きになれたかもしれない。

「忘れられないよ。過去に戻って変えるわけにもいかないだろ」
「私は覚えてないから」
「なんだよ、それ」
「過去のエリヤがどんな子だったかは知らないってこと」
「関係ないだろ」

 ダーシャが知ってるか知らないかじゃなくて、俺が知ってることが問題なんだ。俺自身の問題なんだから。

「前に見せたジュニアスクール時代の写真、覚えてるよね」
「ああ、あの写真ね」
「成績表も見せたよね」
「覚えてるよ」

 写真の中のダーシャは本当に太っていて、ださい服装と髪型も相まってとても不格好に見えた。成績表もかなり悪く、俺よりちょっとマシ程度だった。今とは全然違っていて、本当に驚いたものだ。

「私のこと、馬鹿で不細工って思う?」
「そんなわけないじゃん。どっからどう見ても秀才で…、」
「で?」
「か、可愛い…」
「でも、昔は馬鹿で不細工だったよ?」

 いきなり、何を言い出してるんだろうか。昔のことなんて関係ない。あったとしても、むしろ誇るべきことじゃないか。彼女の努力に尊敬の念を感じても、馬鹿だの不細工だのとは思わない。

「関係ないよ。頑張って今のようになったんでしょ。生まれつき頭良くて可愛い子より凄いよ。あれ見た時、ダーシャには敵わないって思った」
「そういうこと。もともとはできない子だったエリヤも十年かけて、士官学校の秀才にひけを取らないレベルまで来たんだよ。だから、私としては素直に尊敬させてほしいんだけど」

 本当にダーシャには口で勝てる気がしない。いや、俺が口で勝てる相手なんて、この世にはいないか。

「指揮官やるんなら、そのエリートっぽい見た目を生かした方がいいよ。他人を見て合わせるだけじゃなくて、自分をどう見せるかも考えなきゃ」
「そうなのかなあ」
「ファッションって自分の見せ方なんだよね。それを意識して欲しかったから、ちゃんとした服を買えってうるさく言ったのよ」

 ファッション好きのダーシャがうるさく言ってたのは、俺のださい私服に我慢ならなかったからとばかり思っていた。自分の見せ方を考えろって意味があったとは思わなかった。

「ありがと。考えてみる」

 そう答えると、ダーシャは優しげに微笑んだ。彼女は感情表現が本当に豊かだ。笑顔だけでも十パターン以上あって、眺めているだけでも飽きない。特に話したいことがなくても、適当に話題を振ってどんな表情をするのか見たくなる。エル・ファシルに向かう船ではずっと彼女の客室にいて、二人で取り留めのない話をしていた。たまに話が途切れることもあったけど、それはそれで面白かった。シャワーを浴びる時もベッドに入る時もずっと一緒だった。これほど同じ人とべったりしてたのは人生で初めてだと思う。アルマと仲が良かった頃は結構べたべたしてたけど、五歳も年が離れてたからずっと一緒ってわけにはいかなかったし。



「はい、着きました」

 ダーシャに言われて、俺達が第二百九十九駆逐群の司令部に着いたことに気づいた。彼女と話していると、本当に時間を忘れてしまう。第百八十七巡航群の司令部に向かう彼女と手を振って別れると、中に入って受付の女性にアポイントメントを取っていたことを伝える。しばらくして副官がやってきて、俺を群司令室まで案内した。

「エリヤ・フィリップス中佐、只今着任いたしました」
「うん、良く来たね」

 第二百九十九駆逐群司令アーロン・ビューフォート大佐は生粋の駆逐艦乗りだ。駆逐艦長や駆逐隊司令を歴任して、駆逐群司令に先日就任した。これといった武勲はないが、長年航路保安に従事して、豊富な対海賊戦闘の経験を持つベテランだ。今年で47歳になるが、5年は若く見える。日に焼けたような浅黒い肌に黒っぽい髪。身長は低いものの体は引き締まっている。表情は活き活きとしていて、全身に活力がみなぎっているような印象を受けた。

「お久しぶりです。まさか、エル・ファシルで再会するとは思いませんでした」
「あの時の坊やがこんなに大きくなるとは思わなかった」
「とっくに成人してたんですけどね」
「ソリビジョンで見て知ったよ。悪いこと言っちゃったなあって思ってたけど、また会えて良かった」

 七年前にエル・ファシルから脱出した時、当時少佐だった彼は脱出船団の旗艦マーファの艦長を務めていた。イラッとして突っかかった俺の無礼を咎めないで、艦長の仕事の難しさを語って聞かせてくれた。自分の大人気なさが恥ずかしくなって、泣き出してしまったのも懐かしい思い出だ。大人というのがビューフォート大佐に抱いたイメージだった。

「あの時の優しい艦長さんの副司令を務めることになるなんて、夢にも思いませんでした」
「私もあの時の可愛らしい坊やが自分の補佐役になるなんて、夢にも思わなかった」

 口を大きく開けて、真っ白な歯をむき出しにして笑うビューフォート大佐につられて笑ってしまった。

「あれから七年、本当に長かったですよ。エル・ファシルに戻ってきて、あなたとまた会えました。生きていて良かったです」
「相変わらず、君は大袈裟だね」
「実際、三回ほど死にかけましたよ」
「ああ、二月のティアマト会戦では、第十一艦隊の旗艦が撃沈される寸前だったよね」
「ええ。あれからもう三ヶ月が過ぎました」

 あの時は味方艦の爆発の衝撃で揺れた旗艦ヴァントーズの床に倒れこんで、震えて起き上がれなくなっていた。第九艦隊が来なければ、確実に死んでいただろう。こうしてビューフォート大佐と話していると、生きている喜びがふつふつと沸き上がってくる。

「ま、見ての通り、私はただのおっさんだ。大した能はないけど、年食ってるおかげでちょっとは経験がある。わからないことがあったら、気兼ねしないで聞いてね」
「これからもご指導お願いします」
「偉そうなこと言っちゃったけど、私も先日着任したばかりなんだ。群司令の職も初めてでね。初めて同士、一緒に部隊を作り上げていこうじゃないか」
「はい!」

 士官に任官してから四年。今回が初めての艦艇指揮となる。艦長経験もないのにいきなり三十三隻もの駆逐艦を指揮することになったが、ベテランのビューフォート大佐の指導を受けられるのが幸いだった。三十三隻の駆逐艦、千五百五十五人の将兵を統率していけるのか。不安と期待が俺の中で混じり合っていた。 

 

第六十話:ひとつひとつ積み重ねて 宇宙暦795年7月上旬 エル・ファシル星系

 第千三百六十七駆逐隊の現状は、初の戦闘指揮官職に意気込んでいた俺の出鼻を挫くには十分だった。将兵の気持ちは緩みきっていて、無断欠勤や遅刻が多い。装備類は手入れがいい加減。部署間の連携はまったく成り立っていない。アルコール、ギャンブル、性風俗に過度にのめり込む者、多額の借金を抱える者も多い。軍規違反者の摘発件数は少ないが、まともな取締りが行われていないせいだろう。基地の外で犯罪を犯して現地警察に逮捕される者の異常な多さがそれを裏付けている。部隊内部では暴力事件や盗難事件が頻発しているようだが、対策が行われた形跡はない。

 この部隊の首脳である二人の副司令、八人の幕僚は長い経験から手の抜き方しか学んでこなかったようなロートルか、そうでなければ任期を無事に終えてハイネセンに戻ることしか考えていない事なかれ主義のエリートだった。二人の副司令を除く駆逐艦艦長三十一人の中にも見るべき人物はいない。初日の訓示で俺が抱負を述べた時も幹部達の反応は鈍く、やる気が見られなかった。怠惰と無気力が第千三百六十七駆逐隊を覆い尽くしているのがはっきりと分かる。さまざまな改善案を用意していたが、今のままでは徹底されないのは明らかだった。まずは俺の威信を確立する必要がある。

 最初に駆逐隊司令部と各駆逐艦の文書と帳簿を集めた。連日夜遅くまで司令室にこもってチェックすると、ミスの隠蔽、帳簿操作といった不正の証拠が山のように出てくる。良くこんな文書が通ったと感心してしまうほどに書式不備も酷い。一段落すると、特に不正が酷かった副司令一人、幕僚二人、艦長二人を個別に呼びつけた。最初はふてぶてしい表情だったが、俺が証拠となる文書を示して問題点を細かく指摘していくと、顔色がどんどん悪くなっていった。最後に免職もしくは停職に相当することを伝えて進退を問う。免職処分を受ければ、退職金は支給されず、軍人年金も大幅に減額される。停職処分から復帰しても、給与等級が下げられ、進級リストの順番も大きく落とされてしまい、軍人としての未来は事実上閉ざされる。結局、五人全員が辞表を提出した。

 残った幹部達も大半は何らかの不正をはたらいていた。彼らは俺に不正の証拠を握られていること、今回はたまたま不問に付されただけに過ぎないことを理解して、すっかり震え上がってしまった。俺のところに機嫌伺いに来る者も現れる始末だ。ドーソン中将が憲兵司令部を掌握する時に用いた手段の模倣であったが、自分でも驚くほど鮮やかに事が運んでしまった。

 幹部を掌握すると、今度は軍規違反の取締りを強化に乗り出す。各艦の艦長に摘発成績が優秀であれば勤務評価に大幅な加点を行うこと、部下の軍規違反を隠蔽したら重い処分を下すことを伝えた。不正の証拠を握られている者は俺の機嫌を取ろうと考え、不正をはたらいていなかった者は本来の真面目さを発揮し、必死になって部下の取締りに励んだ。私的制裁、パワハラ、セクハラ、麻薬犯罪に限っては、匿名記名を問わず密告を受け付け、摘発と同時に密告網を形成することで防止を試みた。警備艦隊の憲兵隊と協力して、素早く処分を下せる体制も整えた。その結果、緩みきっていた軍規は急速に引き締まっていったのである。これも憲兵隊で学んだ手法だった。

 厳しくするだけでは、将兵はついてこない。艦単位、全隊単位の勤務成績優秀者表彰制度を作り、優秀者は月一回の全体朝礼で俺自ら表彰することとした。また、暇を見ては各艦からの要望書に目を通し、自分の目で現場を視察して直接将兵と話して、シャワーが壊れている、クーラーの効きが悪いといった生活上の細かい要望を聞いて行った。そして、俺の決裁で片付く事項に関してはすぐに解決に乗り出し、上位者の決裁が必要な事項に関しては申請書を書いて提出した。指揮官はちゃんと自分達を見ていてくれると思わせることができれば、部下はやる気を出す。また、要望という形で部隊の問題点に関する情報を得ることもできる。これは目下の人間の力を引き出すことに長けたクリスチアン大佐、イレーシュ中佐、トリューニヒト国防委員長達から学んだ。

 軍務がもたらす強い緊張は、軍人の心身を激しく消耗させる。軍隊特有の濃密な人間関係も大きなストレスをもたらす。疲れた心を癒やそうとする軍人にとって、酒、ギャンブル、性風俗がもたらす快楽は最大の友である。サイオキシン麻薬の軍隊への浸透は昨年の密売組織壊滅作戦によって食い止めることができたが、覚せい剤、コカイン、ヘロイン、マリファナといった伝統的な麻薬は今でも根強い人気を誇っている。依存症に陥る者、多額の借金をする者も少なくない。私的制裁もストレス発散手段という側面が大きかった。ストレスを発散できずに精神を病んでしまい、病気退職や自殺に至るケースも多発している。将兵の士気を高水準で維持するには、メンタルケアへの配慮も欠かせない。

 精神疾患を甘えと断じた初代皇帝ルドルフの遺訓が生きている帝国軍と違って、同盟軍はメンタルケアに大きな配慮を示している。各部隊にはカウンセリングルームが設けられ、部隊内から選ばれてトレーニングを受けた相談員が将兵の相談相手になる。大きな部隊には臨床心理士や精神科医が配属されて、本格的なメンタルケアに従事する。十字教や楽土教といった既成宗教の聖職者も軍属に採用されて、メンタルケアの一翼を担う。精神疾患の治療支援制度も充実していた。しかし、人事評価への影響や他人への漏洩を恐れて相談制度の利用を避ける者、相談制度や治療支援制度を利用した同僚を甘えていると非難する者が多く、軍の配慮が結果に結びついているとは言いがたい。

 メンタルケアに関わる制度を安心して利用できる雰囲気作りが重要と感じた俺は、相談の事実を人事評価に反映させないこと、相談内容の漏洩には厳罰をもって応じることを明示し、メールや端末通話による相談窓口も設置した。相談員と臨床心理士、精神科医の連携体制も整備した。メンタルケアと深い関わりがあり、深刻さにおいては同等の借金問題に関しては、法務士官による相談窓口を別に設けた。各艦の艦長、副長、科長といった管理者向けのマニュアルを作り、上官の立場からのメンタルケアもできるように務めた。これらの手法はポリャーネ補給基地の私的制裁撲滅キャンペーンの経験に、メンタルケアの専門家から学んだ知識を加えて考えた。



 宇宙暦795年7月。俺は第千三百六十七駆逐隊所属の全艦を率いて、惑星エル・ファシル近辺の宙域で上司のビューフォート大佐が率いる駆逐隊を相手に演習を行っていた。

「なかなかやるじゃないか。これなら、私の指導は必要なかったかな」
「この状況でそれを言いますか」

 俺は開戦から二時間で総戦力の五割を失い、統裁官の星系警備艦隊司令官フラック准将によって敗北判定を受けたのだ。まさか、ここまで完膚なきまでに叩き潰されるとは思わなかった。

「あんなにまずい用兵をしたのに、二時間持ちこたえたじゃないか。思ったより三十分長かった」
「用兵下手なのには違いないでしょう。微妙な褒め方をしないでくださいよ」

 ビューフォート大佐は陣形を整えて正攻法で挑んできた俺の攻撃をのらりくらりと防いでいる間に、いつの間にか別働隊を使って俺の背後を取ってしまった。そして、前後からの挟撃で俺の駆逐隊を全面敗北に追い込んだのだ。

「二ヶ月であれだけ部下を掌握できるなんて大したものだよ。部隊の動きもとても良かった」
「もしかしたら勝てるんじゃないかって、ちょっとは思ってたんですよ」
「用兵なんて、経験積んだらいずれうまくなる。フィリップス君はまだ若い。焦る必要はない」
「戦術シミュレーションもめちゃくちゃ弱いんですよ。センス無いのかもしれません」

 昨年の夏に初めて参謀になった時、用兵の基本を学ばなければいけないということで、対戦型の戦術シミュレーションに挑戦した。結果は十五戦十五敗。アンドリューを相手にした時なんて、兵力二倍のハンデを付けてもらっておきながら、いつの間にか包囲殲滅されるという醜態を晒したものだ。

「戦術シミュレーションか。懐かしいね。初めて駆逐隊司令になった時にやらされた」
「どうだったんですか?」
「一回しか負けなかったね」

 ヤン・ウェンリーは士官学校時代にマルコム・ワイドボーンを戦術シミュレーションで破ったそうだ。ワイドボーンは昨年の11月に戦死するまで、作戦の天才と言われていたほどの用兵能力の持ち主である。ドーソン中将は第十一艦隊の分艦隊司令官相手に戦術シミュレーションで連勝した。ビューフォート大佐もほとんど負けていない。つまり、戦術シミュレーションの結果は用兵センスの有無を示していることになる。

「夢のないこと言わないでください。へこんじゃうじゃないですか」
「単独哨戒できるようになるのは、しばらく先だね」

 現在の俺は用兵経験が浅いため、哨戒活動に出る際は必ずビューフォート大佐の指揮下に入っている。海賊と遭遇したことも何度かあったけど、俺ひとりでは対処できる自信がなかった。他の駆逐隊は単独で哨戒活動に出ることが許されている。第二百九十九駆逐群に所属している四人の駆逐隊司令のうち、俺だけが独り立ちできない。

「ほんと、足引っ張ってるようで申し訳ないです」
「君は良くやってるよ。他の駆逐隊にもいい刺激になっている」
「あんまり、適当なこと言わないでくださいよ」
「なんせ、君が来てから、びっくりするぐらい予算が通りやすくなった。実戦では足手まといでも、十分貢献しているよ」
「また、微妙な褒め方をしますね」
「いや、本当に助かってる。指揮官にとって一番の敵は、有能な敵将じゃなくて予算不足なんだよね。ここ数年は減らされてばかりだった。予算が足りてるなんて夢のようだ」

 予算が通りやすい理由はわかっている。俺がトリューニヒトと太いパイプを持っているおかげだ。部隊が得られる予算は政治家との関係に大きく左右される。だから、政治家と親しい軍人は予算配分を通じて強い影響力を持つことができた。統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥はここ数年間の財政政策をリードしてきたジョアン・レベロ、宇宙艦隊司令長官ロボス元帥は改革市民同盟主流派の領袖にしてサンフォード政権の黒幕と言われるラウロ・オッタヴィアーニとそれぞれ親しい関係にある。

「世知辛い話ですね」
「戦闘に長けた指揮官はいくらでもいるけど、いるだけで予算が降ってくる指揮官なんてそうそういない。派閥に強いパイプ持ってる人が部隊にいるといないじゃ、天地の違いだよ」

 エル・ファシルに来るまで、派閥で重用されてる軍人は他の軍人に嫌われるものとばかり思っていた。しかし、派閥の威を借りて威張り散らすような真似をしなければ、かえって歓迎されるみたいだ。ないないづくしの軍隊においては、予算を引っ張ってくれる存在はありがたいということなのだろう。トリューニヒトが政治は汚いけど、それでも必要だと言っていた意味が良く分かる。そして、軍隊において政治を避けようとするクリスチアン大佐の生き方がとてつもなく難しいことも。

「派閥とのパイプじゃなくて、自分の能力で評価されるようになりたいですよ」
「人脈も能力のうちだと思うけどね。何の能もないのに、偉い人に気に入られるわけがないんだから」

 実際、俺には何の能もないと思うんだけど、それを言うわけにはいかない。何の能もない人間でも大事にするトリューニヒトやドーソン中将の人の良さを間抜けと勘違いする人がいるかもしれないからだ。

「用兵ができたらかっこいいじゃないですか」
「何でも自分一人でできるようになる必要はない。戦争は団体競技だ。上司がいて、同僚がいて、部下がいる。君は人と関係を結ぶのが上手だから、用兵が下手でもいい指揮官になれるよ」
「頑張ります」
「じゃ、これから部隊のみんなを呼んで、演習の反省会始めようか。きっついこと言うから、心の準備しといて」

 哨戒に出るたびにビューフォート大佐は要所要所で俺のもとに通信を入れて部隊の動かし方、警戒の仕方などをアドバイスしてくれる。課題を与えて突き放すドーソン中将の指導になれた俺には、手取り足取り教えようとするビューフォート大佐の指導は新鮮に感じた。反省会でも俺の用兵のどこがいけなかったのか、丁寧に指摘することだろう。彼の教えを吸収して、早く単独で哨戒できるようになりたいと思った 

 

第六十一話:与えるべきもの 宇宙暦795年8月初旬 エル・ファシル星系

 宇宙戦といえば、多くの人は正規艦隊同士がぶつかり合う対帝国戦争を思い浮かべることだろう。有利な決戦地への誘導、敵の機動の妨害、敵戦力の漸減などを意図した分艦隊や戦隊単位の前哨戦の後、両軍の艦隊主力が決戦地に集結して決戦が行われる。数万隻の艦艇が整然と陣形を組んで砲撃を交わし合い、一度に数十万人の命が失われる主力決戦は戦争の華だ。しかし、対帝国作戦は敵味方両軍の予算や戦力の都合からせいぜい年二回。同じ艦隊が二回続けて前線に出ることは無い。はっきり言うと年一回の出兵に備えて訓練を重ねるのが正規艦隊の仕事だ。

 しかし、宇宙海賊やその他の脅威から星間航路を保安する任務もまた宇宙戦である。数十隻から数百隻単位の小集団で広大な宙域を哨戒して、脅威を発見次第排除する。単独での排除が困難であれば、近い宙域で哨戒にあたっている味方部隊に応援を依頼する。個々の戦闘の規模は対帝国戦争とは比較にならないほど小さく、先制の利と数の多さでほぼ勝敗が決まってしまうため、戦術の妙を示す余地も少ない。地味なことこの上ないが、戦闘が生じる機会は多い。航路保安にあたる警備艦隊や巡視艦隊は一年中作戦活動を行い、いつ遭遇するかわからない敵との戦闘に備えている。

 任務の質の違いは、指揮官に求められる用兵の違いにも通じていた。対帝国戦争に従事する正規艦隊の下級指揮官には大部隊の一員として高級指揮官の意図を実現する用兵、高級指揮官には部下に細部を委ねて大局的見地から大部隊を動かす用兵が求められる。一方、航路保安に従事する警備艦隊の下級指揮官には小部隊を独自の判断で動かす用兵、高級指揮官には広大な宙域に分散した小部隊の動きを調整して哨戒体制を作り上げる用兵が求められる。

 現在の俺の立場は警備艦隊の下級指揮官にあたるが、小部隊用兵の経験はまったく持っていない。ポリャーネ補給基地の給与係長、エル・ファシル義勇旅団長、駆逐艦アイリスⅦ補給長、ヴァンフリート4=2基地憲兵隊長代理など、四度の管理職経験を持つ俺だったが、完全なお飾りだったエル・ファシル義勇旅団長を除くと、自分より経験豊かな部下に依存した組織運営を行ってきた。しかし、今回は能力がそこそこでも性格的に頼りない部下しかいない。用兵を任せられる部下がいない以上、自分が用兵能力を身につける以外の道はない。

 上司のビューフォート大佐と一緒に哨戒活動に出て実地で学び、待機中は駆逐隊を徹底的に訓練した。訓練というのは部下を鍛えあげるためだけにあるものではない。それを指揮する者も鍛えあげるのである。教師が生徒を指導することで経験を積んで、自らの能力を向上させていくようなものだ。ビューフォート大佐が長年の経験から作り上げた訓練マニュアルを使って指揮下の駆逐隊を訓練することで、ビューフォート流の用兵を身に付けていくのだ。

 訓練は厳しくなければならない。知的能力と違って、動きというのは限界まで心身を追い込まないと向上しない。バラット軍曹から体力トレーニングを受けた経験や幹部候補生養成所で射撃や近接格闘を習得した経験から学んだことだ。しかし、厳しいだけでは嫌になってしまう。自分の能力が向上したという喜びが無ければいけない。これは幹部候補生養成所を受験した時に学力の向上がさらなる学習意欲を生んだ経験から学んだことだ。確実に能力が向上するような訓練を行い、厳しく追い込みながら向上する喜びを与えていく必要がある。

「通信部門成績最優秀者 上等兵 ソフィア・ロペラ君 貴官が9月上半期の通信訓練において示した成績は顕著にして部隊の模範とするに足るものである。賞与金ならびに休暇を贈り、これを表彰する 第千三百六十七駆逐隊司令 中佐 エリヤ・フィリップス」

 表彰状を受け取ったロペラ上等兵に対し、俺は笑顔で手を差し出した。

「良く頑張りましたね。現在は第一級航宙通信士の試験に取り組まれていると聞きました。あなたならきっとできると信じています。頑張ってください」

 ロペラ上等兵が俺と握手をかわすと、ホール内は拍手で包まれた。このように各部門ごとに選出された訓練成績優秀者を第千三百六十七駆逐隊の将兵全員の前で表彰し、賞与と休暇を与える。また、訓練成績が優秀な艦の表彰も行い、乗員全員に休暇を与えて、次の優秀艦が選ばれるまで食事にデザートを追加する。式典の最後に国歌「自由の旗、自由の民」を流して全員で唱和する。将兵がどんな報奨を喜ぶか、どんな演出をすれば表彰を受けた者が格好良く見えるかを考えた結果、このようなスタイルに落ち着いた。

 表彰を受けているレベルに達していないが訓練成績が良い者には勤務評定で配慮を示す。頻繁に部隊を視察して、成績が向上している者に声をかけて皆の前で賞賛する。成績が伸び悩んでいる者にアドバイスをする。賞賛やアドバイスを与える者は、事前に名簿を目を通して選んだ。「自分はちゃんとあなたを見ている」という気持ちを示すことがいかに人を喜ばせるかは、ロボスやトリューニヒトと話した時に知った。結果を褒められるより、努力を見ていると言われる方が嬉しいのだ。



「練度も士気も高い。装備は新しい。第千三百六十七駆逐隊はいい部隊だよ。本当にいい部隊だ」

 ビューフォート大佐はいい部隊という言葉を繰り返した。わざわざ強調した理由はわかっている。続きは聞きたくない。時間がこのまま止まってくれたらいいのに。

「なのに、実戦に弱すぎる」
「わかっていますよ。指揮官の責任でしょう」

 今の人生で仕事ぶりを面と向かって批判されるのは、実は初めての経験だ。手取り足取り丁寧に教えてくれるビューフォート大佐は、文句の付け方も丁寧だった。何も言わずに文書に赤ペンで修正を加えて突っ返してくるドーソン中将とは対照的だ。

「努力しているのはわかっているんだよ。定型的な部隊行動の指揮はかなり上達している。攻撃、防御、機動のいずれも悪くない。ただ、びっくりするほど柔軟性に欠けてる」

 定型的な行動は得意なのに柔軟性がない軍人は、小説では主人公の踏み台にされると決まっている。ものすごく残念な評価を受けているのは明らかだった。

「柔軟性ってどうやって身につければいいんでしょうか…?」
「わからないねえ」

 とても情けない質問をしているのは自分でも良く分かる。ビューフォート大佐が困惑するのも無理はない。

「用兵って他の業務みたいにマニュアルを読み込んで、動作を体で覚えていくだけじゃ覚えられないんですね…」
「まあ、用兵って、四六時中発生する偶発的な事態への対処だからね。求められる判断速度、それに反比例するように不確実で量も少ない情報。いずれもデスクワークの危機管理とは格段に違う。判断に必要な時間が乏しいと人は焦る。質量ともに不確実な情報も焦りを生む」
「気が小さいってことなんでしょうね」
「わかってるじゃないか。慎重って言い換えをしない率直さは君の美点だよ。いい加減な判断をするのが怖いんだね。自信がないから」

 気が小さい、自信がないというのはまったくもってその通りだ。反論のしようもない。俺が原理原則にこだわるのも安心できるからだ。原理原則は使う者に自信を、逆らう者に後ろめたさを与える。俺のような小心者は誰かが正しいと言ってくれないと、自分の判断に自信を持てない。その通りですと言って、首を縦に振る。

「ウィレム・ホーランド提督を知ってるかい?」
「知っています。有名な方ですから」
「これまで二十人以上の上官に仕えてきたけど、あれほどの自信家はいなかったよ。あの人の指揮を受けたら、どんな大敵相手にも負けるはずがないと思えた。戦うのが楽しくてたまらなかった」

 ホーランド少将がイゼルローン攻防戦で見せた用兵は素晴らしい物だった。空前絶後の天才ラインハルトさえいなければ、イゼルローンを攻略出来ていたはずだ。二月のティアマト星域会戦では精彩を欠いて評価に陰りが出ているものの屈指の用兵家であることは疑いない。そんな人物に対する元部下の証言というのはとても新鮮だった。

「ホーランド提督に仕えるまでは、戦いなんて自分と関係ないところで始まって、関係ないところで終わるものだと思っていた。生き残れたら運が良かっただけってね」

 俺にとっての戦いもそんなものだった。勝敗は雲の上にいる提督達が決めるもの。自分がいくらベストを尽くしても勝つ時は勝つし、負ける時は負ける。これまで参加した戦いは全部そうだった。

「しかし、それは間違いだった」
「違うんですか?」
「戦いというのは流されるがままにするものじゃない。自分を信じて流れを引き寄せる。そうしないと生き残れない。指揮官に一番必要なのは自信だということを、ホーランド提督が率いる駆逐群で戦って初めて知った」
「偶然の中から勝機を拾い上げる能力というものがあると聞いたことがあります。数えきれない戦いを経験したベテランにしか身につけられないと。流れを引き寄せるというのも同じことなのでしょうか」
「同じことなのかな。ただ、私の見解はちょっと違う。経験が豊富なことは流れを引き寄せるための必要条件であっても、十分条件とはいえない。戦歴数十年のベテランだって、ほとんどは慣れに頼って漫然と戦ってるだけだよ。君の部隊のベテランを思い浮かべてみるといい」

 四十年以上の軍歴を誇るオルソン少佐、ダルレ少佐、バディオーリ少佐らの顔が頭の中に浮かぶ。ベテランだけあって技能はかなり高い。実戦の呼吸も心得ている。しかし、ルーチンワークとして軍務をこなしているといった感じで、積極性にも粘り強さにも欠けている。偶然の中から勝機を見い出せるような存在とは思えない。

「確かにそうですね」
「実戦経験を積んで自信を身につけることもあるだろう。しかし、大抵は経験を積んでも流されることに慣れるだけ。流れの動かせるだけの自信は身につかない」
「どうすれば、身につくのでしょうか?」
「とにかく結果を出すことだね。自分の用兵の正しさを確信して、流れを動かす資格があると思えるようになることさ。勝利は人を強くするよ。勝てなければ、技能は伸びても自信は持てないままだ。私だってホーランド提督の下で勝利を経験しなかったら、今頃は手癖で軍務をこなして、生き残ったら幸運に感謝するだけの存在だっただろう」

 ビューフォート大佐は三十年近い軍歴を誇るベテランだ。それが十年そこそこの軍歴しか持っていないホーランド少将の下で戦うまで、自信の大切さを理解できなかったというのは奇妙に思える。しかし、それも自信に満ちたホーランド少将と出会って、平凡な指揮官を比べることができるようになって初めて理解できたのかもしれない。前の歴史で宇宙を統一したラインハルト・フォン・ローエングラムとその麾下の名将たちはいずれも若かった。用兵経験、技能の高さでは門閥貴族出身のベテラン提督に及ばなかったはずだ。にも関わらず、常勝を誇ったのは勝利を重ねて、戦いの流れを動かせるという自信を持ったからなのかもしれない。同盟軍と勝敗が曖昧な戦いを重ねていたベテラン提督は用兵技術に長けていても、流れを動かす力は持っていない。

「小官でも結果を出せるんでしょうか。今のままじゃできると思えなくて」
「出させてみせるよ。有能な部下を使わないと勝てないというのでは、私の用兵もたかが知れている。軍人である以上、部下は選べない。どんな部下を使っても勝てるようにならなければ、キャリアもここまでだ」

 欲が薄そうなビューフォート大佐がキャリアアップに意欲を見せているのは意外だった。自分の分をわきまえていて、任務を着実にこなしつつ、波風を立てずに定年まで暮らすことを望んでいるようなイメージがあった。

「大佐は上を目指しておられるのですか?」
「そりゃそうさ。本来の私の器量なら50代半ばで中佐、65歳の定年間際に大佐に昇進して花道を飾るのがせいぜいだったろう。しかし、七年前のエル・ファシル脱出作戦で君やヤン・ウェンリーのおこぼれに預かって思いがけず中佐に昇進し、ホーランド提督の下でに付いていささか用兵がわかるようになった。今は47歳で大佐。定年まで18年ある。士官学校を出ていない私には分不相応かも知れないが、一度ぐらい閣下と呼ばれてみたい」

 ビューフォート大佐のような叩き上げにとっては、階級を上げるのは至難の業である。現場責任者たることを期待される彼らは、大きな武勲を立てられる正規艦隊の指揮官および参謀、有力者の引き立てを受けられる軍中央のオフィス勤務といったポストとは縁がない。俺が持っている中佐の階級ですら得られずに定年を迎える者が多いのだ。望外の出世を果たしたビューフォート大佐が将官の地位を望むのも無理は無い。

「変な質問をしてしまいました。申し訳ありません」
「中央勤務が長いエリート、特にシトレ派の人は、階級を上げたい、勲章がほしい、予算がほしい、昇給がほしいという私みたいな者のささやかな夢に理解が薄くて困るんだ。無頓着でいられるほど恵まれた立場は羨ましいよね」

 自分のことを言われているようで、心底から申し訳ない気持ちになった。七年前のエル・ファシル脱出行で一等兵から兵長に二階級昇進を果たし、四年前に少尉に任官して、現在は中佐の階級にある。周囲にいるのは20代や30代で佐官の階級を得た士官学校卒のエリートばかり。兵役あがりのつもりでいたのに、いつの間にか望まずとも昇進できるエリートの思考に染まってしまっていたらしい。誰に対しても気配りができるという評価は、俺が軍隊で生きていく上で最大の財産となっている。他人が求めている物を軽く見ることがあってはならない。

「気を付けます」
「いやいや、君はかなり理解があるよ。おかげでうちの部隊は予算に困らずに済んでいる。シトレ派の人にこんなことを頼んでたら、説教食らってたところだ」
「尽くせるべストは尽くしたいですから。部隊を運営してみると、少しでも多くの予算が欲しいという気持ちが分かります」
「上は予算を節約しろ、少ない人数で部隊を回せ、民主主義のために頑張れとうるさい人ばかりでね。君のような物分かりがいいエリートに頑張ってもらわないと、上が予算獲得に失敗したツケを現場の将兵の血で贖うことになる」
「はい」
「部隊が欲しがっているのは予算と勝利。将兵が欲しがっているのは昇進と昇給と名誉と福利厚生。それらを与えられる指揮官になってほしい。期待しているよ」

 ビューフォート大佐の表情からはいつもの冗談めかした感じが消えていた。ずっと地方の警備艦隊で勤務してきた彼は、地方部隊が置かれた現状にいろいろと思うところがあるのだろう。将官への昇進を望んでいるのも部隊や将兵が望むものを与えられる力を求めてのことなのかもしれない。



 地方部隊の窮状の元凶は緊縮財政路線だった。150年にわたる対帝国戦争は国家財政を破綻寸前に追い込んでいた。国家の財政支出の5割から6割を占める軍事予算を戦時国債で賄い、その利払いが国家予算を圧迫するという悪循環に陥っている。多くの専門家が数年以内に同盟政府はデフォルトに追い込まれると警告していた。財政再建を行わなければ、同盟は戦わずして崩壊する。その危機感に押されて登場したのが、経済学者にして進歩党代議員のジョアン・レベロだった。

 32歳の若さでテルヌーゼン大学経済研究所教授に就任したレベロは、タネ・マフタ星系政府やポートロコ星系政府の財政顧問に就任して、財政改革の指導にあたった。破綻状態だった両星系政府の財政再建に成功した彼は一躍脚光を浴びる。進歩党から代議員に当選すると、財政問題の論客として同盟議会で活躍。財政再建重視の立場から、帝国との和平と軍縮を訴えており、反戦派から絶大な支持を受けている。

 反戦派の進歩党と主戦派の改革市民同盟は長年にわたって政権争いを展開してきたが、791年の総選挙で極右勢力が台頭したことに危機感を抱いて以来、連立政権を組んできた。連立政権下で財務委員長に就任したレベロは財政再建を望む世論と連立政権が有する圧倒的議席数の後押しを受けて、聖域とされた国防予算にメスを入れることに成功。財務委員長の職を退いた後も最高評議会議長の諮問機関である財政諮問会議の委員として、緊縮財政を推進してきた。昨年の内閣改造で財務委員長に再び就任している。

 改革市民同盟主流派と近い宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボス元帥は連立政権に対して強く出ることができず、進歩党に近く軍隊の自制を望む良識派の立場から軍縮を支持していた統合作戦本部シドニー・シトレ元帥は、国防予算の減額に同意した。皮肉なことに国防予算の減額は政治家を通して国防予算の配分に影響力を行使できる彼らの軍部に対する支配力を強める。乏しい予算を巡って争う各部隊や各機関の長に現状維持をちらつかせて支持を集め、減額をちらつかせて批判を封じることで二大派閥体制を盤石とした。このような状況において優先的に予算が配分されるのは、シトレとロボスの二元帥でも無視し得ない政治力を持つ軍中央の機関や正規艦隊である。政治力に乏しい警備艦隊や辺境基地などの地方部隊は減額ではなくてゼロ査定と言われるほどの予算減に見舞われた。

 少将が指揮官を務める分艦隊規模の部隊とされていたエル・ファシル星系警備艦隊は、人件費削減と少数精鋭化の大義名分で准将が指揮官を務める戦隊規模に縮小された。訓練予算を確保できなかったがゆえに練度が低下し、福利厚生予算の乏しさゆえに士気が低下した。このような警備艦隊の著しい戦力低下もエル・ファシル方面の宇宙海賊の勢力増大に大きく寄与している。

 地方部隊の戦力低下はエル・ファシルに留まらない全国的な現象だった。統合作戦本部が提唱する地方部隊の少数精鋭化路線によって、多くの軍人が退役に追い込まれた。将兵のモラルは地に落ちて、各地で民間人に対する非行が報告された。犯罪者と結託して軍の物資を横流しする者、宇宙海賊に情報を流す者なども現れた。軍人の非行を嫌うシトレ元帥は厳格な取締りを命じたが、何ら効果はあがらなかった。地方部隊のモラル崩壊の間隙を縫って宇宙海賊の活動が活発化した。退役した地方部隊の軍人の参加、給与削減で生活に困窮した軍人によって横流しされた地方部隊の装備によって、宇宙海賊の戦力は向上していた。

 軍部におけるトリューニヒト派の勢力増大を招いた要因はいくつもあるが、国防予算減額に同意した上に中央偏重の予算配分を行った二大派閥に対する地方部隊の反感はその中でも重要な要因であろう。トリューニヒトはレベロとの駆け引きに勝利して数年ぶりの国防予算増額を勝ち取ると、二大派閥に冷遇されていた地方部隊に気前良く配分して支持を広げた。中央にあって地方部隊の現状を憂える者もトリューニヒト支持に回り始めている。

 前の歴史では、軍拡を訴えるトリューニヒトは精神論者、軍隊の自制を訴えて軍縮を支持する良識派に連なるシトレ元帥は現実主義者と言われていたが、それは軍中央や正規艦隊で勤務するエリートの視点だったようだ。地方部隊にとっては、シトレ元帥は過酷な予算案を押し付けておきながら、モラル向上を求める精神論者。トリューニヒトは予算難という地方部隊の現実に向き合ってくれる人物だった。シトレ元帥とレベロが公私にわたる親友関係であったのも地方部隊のシトレ元帥に対する反感を強めていた。

 トリューニヒトが俺をエル・ファシル警備艦隊に派遣した理由がようやくわかったような気がする。中央勤務が長かった俺に地方部隊が置かれた窮状を見せ、俺がどのように向き合うかを試したかったのだろう。トリューニヒトが凡人といったのは、警備艦隊の軍人のように民主主義の理念にはまったく興味がなく、生活の安定と組織内での地位向上を求め、困窮すればあっという間に非行に走る人々だ。彼らの姿は前の人生の俺の姿でもある。エル・ファシルの現状は凡人のための政治という言葉に、強い現実感を与えてくれた。 

 

第六十二話:有能と無能の決定的な分かれ目 宇宙暦795年9月2日 エル・ファシル星系、惑星ゲベル・バルカル周辺宙域

 エル・ファシル方面航路で活動している海賊組織は大小合わせて三十を超えると言われている。彼らは常に離合集散を繰り返しているため、実態は容易に掴めない。しかし、五つの大組織が飛び抜けた勢力を有していることは誰もが認めるところだろう。その一つ「ヴィリー・ヒルパート・グループ」の幹部三人がエル・ファシル星系政府に投降を申し出てきたのは、宇宙暦795年6月のことだった。星系政府及び星系警備艦隊の代表者と幹部三人の間で降伏条件をめぐる交渉が進められ、8月末に合意に達した。

 宇宙暦795年9月2日。エル・ファシル星系警備艦隊司令官ジェフリー・フラック准将は幹部達の投降を受け入れるべく、惑星ゲベル・バルカルの第一衛星周辺宙域に向かっていた。指揮下の戦力は二個巡航群、二個駆逐群、二個支援隊を合わせて四百四十五隻。警備艦隊の三分の二、ヴィリー・ヒルパート・グループが保有する戦闘艦艇の二倍以上にあたる。仮に今回の交渉がヴィリー・ヒルパート・グループの罠であったとしても、力ずくで突破出来るだけの戦力だ。

 残る三分の一は警備艦隊副司令官と第三百四十六駆逐群司令を兼ねるリャン・ダーユー大佐に率いられて、惑星エル・ファシルに留まっている。万が一、フラック准将が敗れても帰還してリャン大佐と合流すれば、隣接星系から援軍が来るまで十分に持ちこたえられるという寸法だ。慎重なフラック准将らしい布陣といえる。

 俺が率いる第千三百六十七駆逐隊はフラック准将に従って、ゲベル・バルカルに向かう最中であった。これまでは多くてもせいぜい三十隻程度の敵しか相手にしたことがなかった。数百隻規模の戦闘が想定される任務に従事するのはこれが初めてだ。二月に参加したティアマト星域の会戦と比べるとはるかにささやかではあるが、あの時は参謀だった。駆逐艦三十三隻の運命が自分の判断一つで決まると思うと、心がそわそわして落ち着かない。

「心配しすぎではありませんか」
「初めての艦艇指揮だからね。いくら心配してもし足りないよ」

 駆逐隊首席幕僚スラット少佐に対し、務めて穏やかな口調を作って答えた。あんたが頼りないからだ、とは言わない。首席幕僚は司令の代わりに心配して、注意を喚起すべき立場のはずだが、情報の収集や分析に心を砕いている様子は見られない。いちいち指示を出して、懸念材料を洗い出させなければいけない。

「今回は戦闘になる可能性は低いでしょう。万が一戦闘が起きたとしても、相手は小勢。我が方の勝利は間違いありません」

 万が一に備えるのが指揮官と幕僚の務めのはずではないか。あまりに無責任な首席幕僚の言葉にイラッときたが、顔に出ないようにどうにか抑えた。業務知識、処理能力の点では不足がない。あからさまに手抜きをするわけでもなく、反抗的でも無い。ただ、向上心というものをまったく持ちあわせておらず、いい仕事をしよう、自分を高めようという意識が完全に欠如しているのである。

「首席幕僚のおっしゃる通りです」

 情報幕僚のメイヤー大尉がスラット少佐に同調する。第千三百六十七駆逐隊の幕僚はいずれもスラット少佐と同レベルだった。イゼルローン遠征軍や第十一艦隊の司令部にいた参謀であれば、言われずとも自分から情報を集めていたはずだ。しかし、目の前にいる連中は指示を出さなければ動こうとしない。動く必要性を感じているようにも思われない。獅子帝ラインハルト・フォン・ローエングラムは無能者より怠け者をより憎んだという。仕事をやってもできない人間より、やらない人間の方が発揮できる能力は低い。生まれつき怠惰な俺には、彼らがこうなってしまう理由がわかるだけに、責める気持ちにもなれない。

 たとえば、スラット少佐は下士官から三十年近くの歳月を費やして少佐まで昇進した叩き上げである。彼のようなキャリアの持ち主にとって、少佐から中佐の間の壁は果てしなく分厚い。飛び抜けた能力があるわけでもない彼が努力したところで上を望むのは難しい。賞賛を得られるほどの結果も出せない。昇進や名誉と無縁なところで、職人的なやり甲斐を見出すこともできなかったのだろう。自分の限界が分かってしまったら、向上心も消え失せてしまう。

 メイヤー大尉は士官学校を卒業しているが、席次は後ろから数えた方が早かったそうだ。士官学校卒業者が同盟軍人五千万人のうちで十数万人しかいないエリートといっても、軍中央や正規艦隊司令部での勤務が多いトップエリートはごく一部に過ぎない。大半は軍艦の艦長、隊や群といった下級部隊の指揮官、地方部隊の参謀、基地司令を歴任。四十代前半で大佐に昇進し、五十歳前後で早期退職制度を利用して軍を退く。出世競争を勝ち抜いて将官に昇進できるのは、同期中の二十人に一人と言われる。メイヤー大尉のように士官学校の卒業席次が低く、能力が抜群に高いわけでもなく、出世競争を勝ち残れる自信が無い者は、やはり向上心を持てないだろう。

 俺は軍中央や正規艦隊での勤務歴が多い。そういう職場では、士官学校の卒業席次が最低でも中の上、向上心も能力も並外れて高く、軍務にやり甲斐を見出していた者が大半を占める。叩き上げ士官や下士官の知り合いも中央で勤務するだけあって、抜群の向上心と能力を兼ね備えていた。ほんのわずかな期間だけ地方の補給基地にいた時は、職務に慣れていなかったせいで周囲の人間がみんな優秀に見えた。いつも上を見上げるばかりだった俺だったが、エル・ファシル星系警備艦隊に配属されて初めて、他人の向上心や能力の欠如に頭を抱える経験をした。

 三十年近く戦場で生き抜いたスラット少佐、三大難関校の一つである士官学校を卒業したメイヤー大尉。資質において水準以下であるとは到底思えない。根っから怠惰というわけでもないだろう。結局のところ、彼らに欠けているのはベストを尽くそう、上を目指そうという気持ちだ。俺は資質に欠けているが、向上心だけは強かった。そして、向上心が報いられる環境に身を置くことができた。スラット少佐やメイヤー大尉らと自分を比較して、ようやく自分が有能扱いされる理由が理解できた。向上心をもって仕事に取り組むこと自体が得難い能力なのだ。そして、向上心を持ち続けられる環境にあったことは幸運である。前の人生の俺は向上心を持てる環境にいなかった。

「そうかもね。ありがとう」

 微笑んで、心にもない感謝の言葉を述べる。スラット少佐とメイヤー大尉が席に戻ったのを見計らうと、指揮卓の端末を使ってこっそり情報収集作業を始めた。これまでの俺は部下に支えられてきた。ヴァンフリート4=2基地の戦いでは失敗を重ねたにも関わらず、部下の犠牲で生き延びた。俺が頼れる指揮官だったら、彼らは死なずに済んだかもしれない。頼りない部下を眺めながら、今の自分は彼らにとって頼れる指揮官なのだろうかと考えた。



 エル・ファシル星系第四惑星ゲベル・バルカルは巨大なガス状惑星だった。周囲には巨大な磁気圏が形成されていて、宇宙船の電子機器を狂わせる放射線帯を作っている。周囲を取り巻く87個の衛星も宇宙船の航行を困難にしていた。艦艇運用の経験が乏しい俺としては、最もやりにくい宙域だ。計器異常が報告されると胸が不安で高鳴り、衛星の脇を通り過ぎるたびに冷や汗をかいた。

 俺の心配をよそに第千三百六十七駆逐隊は一隻の落伍艦も出さずに、ゲベル・バルカル周辺宙域を航行中である。警備艦隊の将兵はエル・ファシル星系全体の地形を知り尽くしていた。航宙経験が豊富な各艦の艦長は危なげない運用を見せてくれた。幕僚は駆逐隊全体の行動をうまく調整している。部隊の航宙能力が信頼できる水準に達していることは、数少ない好材料といえる。他の部隊が衛星周辺をくまなく索敵しているが、宇宙海賊が展開している様子はない。

「目標宙域に到達。周囲を警戒しつつ待機せよ」

 上官のビューフォート大佐からの指示が指揮卓に据え付けられたスクリーンを通して伝えられる。

「了解しました」

 敬礼して了解の意を示した後、指揮下にある全駆逐艦の艦長との間に回路を開き、ビューフォート大佐が下したのと同様の指示を伝える。警戒を命じるだけなら誰でもできるが、末端まで警戒を徹底させるのは難しい。将兵が人間である以上、長時間の緊張状態は心身に大きな負担を強いるからだ。

 俺が旗艦としているパタゴニア83号司令室のメインスクリーンには、エル・ファシル星系警備艦隊に向かって航行している三十隻ほどの小型艦艇が映っている。あれがヴィリー・ヒルパート・グループからの投降者らしい。

「意外と少ないですねえ。投降してくる幹部三人が率いる艦艇は百隻は下らないと聞いていたのですが。どうしたことでしょうか」
「降伏を嫌がる部下が多かったのかもしれんな」
「そんなものでしょうか」
「海賊行為は相当長く食らい込まれる。死刑判決を受ける可能性だってある。いくらこちらが恩赦を約束しても、信用しきれないだろうよ」

 パタゴニア83号の通信長ボー中尉の疑問に艦長ガリツィオス少佐が答えているのを聞きながら、苦い気持ちになる。恩赦を条件に宇宙海賊の降伏を認めれば、血を流さずして宇宙海賊の勢力を削げるが、犯罪者への断罪を望む世論の反発を買う。銀河連邦軍で海賊対策に従事していたルドルフ・フォン・ゴールデンバウムは、降伏を申し入れてきた宇宙海賊を宇宙船ごと焼き殺して世論の拍手喝采を浴びている。世論を恐れた政府によって恩赦が撤回されて投降者が重罰に処される事例、功績に目が眩んだ軍人が約束を破って投降者を処刑してしまう事例も少なくない。世論に押されて約束を反古にする政府や軍の姿勢が、宇宙海賊の根絶を困難にしていた。

「あれって、軌道警備隊の快速艇じゃないですか?」
「新世代型と言われるミーティア級か。予算不足のせいでバーラトとその周辺の警備隊にしか配備されていない。あんな代物を海賊が持っているとは、世も末だな」

 軌道警備隊というのは、衛星軌道を警備する惑星警備隊所属の艦艇部隊のことだ。航路警備を担当する星系警備艦隊に対し、惑星周辺宙域の警備を担当する。警察部隊としての性格が強く、小型快速艇を主力としていた。数隻から数十隻のグループでの奇襲及び一撃離脱を基本戦術とする海賊にとって、快速艇の索敵能力と速度は魅力的である。軌道警備隊からの横流し、国防予算削減で経営難に苦しんだ軍用艦艇製造メーカーとの闇取引によって、多数の旧式快速艇が海賊の手に渡っているのは周知の事実だった。しかし、軍でも配備が進んでいない新世代型を所有する海賊はこれまで確認されていない。容易ならぬ事態といえる。

 ヴィリー・ヒルパート・グループの投降者が発光信号を出すと、警備艦隊は艦列を空けて迎え入れる。事前に暗号を打ち合せていたのだろう。通信傍受を避けるために発光信号を使用するというのも隠密行動の基本だ。投降者の船団を取り囲むように展開した警備艦隊が周囲を警戒しつつ、帰還するために方向転換した時、百隻程度の船団が出現した。いずれも戦闘能力を有する小型艦艇だ。出現方向からして、投降者を追ってきたヴィリー・ヒルパート・グループの部隊らしい。警備艦隊司令官フラック准将はいつでも逆撃を加える事ができる態勢を取りつつ、ゆっくり後退するよう全軍に指示する。接近してきたら、四倍の戦力をもって叩き潰すだけのことである。

「無事に終わりそうですな」
「エル・ファシルに帰還するまでは、気を抜かないようにね」

 表情が緩んでいるスラット少佐にやんわりと釘を刺す。緊張感を持続できないというのは彼に限ったことではなく、第千三百六十七駆逐隊全体の通弊だ。訓練を通して動きはかなり良くなった。士気も以前とは比べ物にならないほど高い。しかし、精神的持続力の根本的な欠如はどうしようもなかった。頑張る動機、頑張れば報われるという経験のいずれも持たない彼らに多くを求めるのは酷というものだろう。指揮官に足りないものを部下が補うのと同様に、部下に足りないものは指揮官が補うべきだ。

 緩んだ空気を引き締め直そうと指揮卓の端末を叩いて、全艦の艦長との間の回線を開いた瞬間、船が大きく揺れた。無様にも椅子から床に転げ落ちてしまう。立ち上がってメインスクリーンを見ると、投降した船団が爆発を起こしていた。単なる事故ではなく、爆薬でも満載してたんじゃないかと思えるような大爆発だ。衝撃波で多数の艦艇が破壊され、衝撃波によって警備艦隊の艦列が大きく乱れた。その隙にヴィリー・ヒルパート・グループの追撃部隊が突進してくる。

「あれは!」

 司令室にいる者全員がスクリーンを見て、絶句していた。二時方向、七時方向、十時方向にある衛星群の中から、それぞれ百隻ほどの新手が躍り出てきたのだ。どうやら、衛星の海中に潜んでいたらしい。衛星の周囲に展開する敵の存在を気にするあまり、内部に潜んでいるとは予想できなかった。

 警備艦隊は陣形を再編する間もなく、四方向からの奇襲を受けて大混乱に陥った。敵の小型艇は航行困難な宙域を自由自在に飛び回り、動きが取れずにいる警備艦隊の艦艇を血祭りにあげていく。ヴィリー・ヒルパート・グループは多く見積もっても二百隻程度の戦力しか持っていなかったはずだ。それなのに四百隻もの戦力を展開している。唖然とした俺は、現実とは思えない光景が映っているスクリーンをまじまじと見詰めていた。

「司令、一体どうすれば…」

 スラット少佐の縋るような声によって、現実に引き戻された。周囲の視線はすべて俺に集中している。指揮卓の端末からは、指示を請う各艦の艦長からの通信が入っていた。次に発する言葉でこの部隊の命運は決まることを理解した俺は、必死で平静な表情を作り、何を言うべきなのか思案する。

 ふと、七年前のことを思い出した。帝国軍来襲の不安に怯えた人達に囲まれて、全員の視線が自分に向いた時はどうしようか焦ったものだ。あの時の自分が言った言葉が頭のなかに浮かんでくる。

『ぐ、軍人の仕事って市民を。市民を守ることでしょう?当たり前の。当たり前の仕事をするだけなのに。どうして不安になるんですか?』

『逃げた人達の方がずっと不安じゃないですか?だって、市民を守らずに逃げたって一生言われるんですよ?それに比べたら、ここに残るなんて全然不安じゃないですよ』

『はい。逃亡者になりたくないから残りました。胸を張って帰るために残りました』

 あの時は答えを知っていたから、不安じゃないと断言できた。その態度が周囲に安心を与えた。今は人前で喋るのは苦にならないし、メディアに出た経験もある。あの時よりずっとうまくやれるはずだ。背筋を伸ばし、胸を張って全員を見る。

「大丈夫だよ。いつも訓練している通りにやろう。凄いことをしよう、かっこいいことをしようなんて思う必要はない。それで大丈夫」

 声が上ずるのを必死で抑え、低く穏やかな声色を作って、全員に語りかけた。本音を言えば、まったく大丈夫とは思っていない。不安で心臓が高鳴り、腹がきゅっと痛み出す。背中は汗でびっしょり濡れていて、体中が震えている。とんでもないことになってしまった。しかし、今さら後に引くことはできない。落ち着きを取り戻した司令室の指揮卓に陣取った俺は、幕僚達に指示を出し始めた。 

 

第六十三話:策士VSプロフェッショナル 宇宙暦795年9月2日 エル・ファシル星系、惑星ゲベル・バルカル周辺宙域~惑星ワジハルファ周辺宙域

 澄ました顔で部下に落ち着くよう指示をしたものの、この場を切り抜ける方策は何一つ持ち合わせていなかった。そんな時にするべきことは決まっている。上官に指示を請うのだ。

「戦術管制システムの計画管理39を開いて」
「了解しました」

 第二百九十九駆逐群司令ビューフォート大佐に指示されたとおりに、戦術管制システムの計画管理39を開く。戦術スクリーンに現座標からゲベル・バルカル宙域の外に脱出するための経路が浮かび上がってくる。

「これは?」
「逃げるってことだよ」
「逃げるんですか?」
「それがどうかしたのかい?」
「いえ、味方の援護とか、そういうのは…」

 あまりにあっさりと逃げると言い切られてしまい、面食らってしまった。

「奇襲を受けたら、その場に踏みとどまらない。可能な限り速やかに離脱した後に態勢を立て直す。用兵の鉄則だよ」
「そうでした」
「第二百九十九駆逐群はフォーメーションDをとる。戦力を集中して紡錘陣を組み、敵の手薄な部分から一点突破。攻撃を集中するポイント、突破のタイミングはこちらで指示する。君はいつもどおりにやってくれたらいい」

 指示を与えられてやるべきことがはっきりすると、不安は幾分収まった。第二百九十九駆逐群の一翼を担ってフォーメーションを整え、戦況の推移を把握しつつ、必要に応じて部下に指示を飛ばす。それぞれ十二隻を率いる筆頭副司令オルソン少佐と次席副司令アントネスク少佐が前面に立って戦い、俺が直接率いる九隻が臨機応変に両副司令の部隊を援護する。他の駆逐隊との連携も意識しなければならない。

 投降を装った無人艦の爆発によって生じた混乱をさらに拡大すべく、宇宙海賊は上下左右から警備艦隊に突入していた。こうなると、小型艇による奇襲と一撃離脱を得意とする宇宙海賊の独壇場である。警備艦隊の艦列はズタズタに切り裂かれ、艦艇は立ち直る時間も与えられずに撃沈されていった。航行困難な宙域で包囲下に陥った警備艦隊は驚くべき速度でその数を減らしていった。

 俺が率いている第千三百六十七駆逐隊も既に三十三隻中七隻が撃沈されている。八隻目が俺の乗っているパタゴニア83号になってもおかしくはない。気絶しそうになるほどの恐怖を感じたが、ビューフォート大佐から飛んでくる指示を頼りに、目の前の状況への対処を続けることで自分を何とか保った。

「第百八十七巡航群旗艦セイントイライアス、撃沈された模様。群司令アラビ大佐の生死は不明」
「第五百五十五駆逐群より通信が入りました。過半数の艦艇を失い、戦線崩壊しつつあり。至急来援を請うとのこと」

 オペレーターは絶え間なく凶報を伝える。何度、通信を遮断しようと思ったかわからない。警備艦隊司令官フラック准将に従ってこの宙域にやって来た二個巡航群、二個駆逐群、二個支援隊のうち、現時点で組織的な戦闘を継続できているのは第二百九十九駆逐群のみであった。即座に後退することを決めて、味方を援護せずに戦力集中に専念したビューフォート大佐の判断が功を奏したのだろう。爆発の影響が少ない位置にいたのも幸いだった。それでも四方からの間断ない攻撃を凌ぎつつ、戦力を集中して陣形を整えるのは至難の業である。包囲を突破できる態勢が整った時、第二百九十九駆逐群は戦力の三割を失っていた。

「全砲門開け!一時方向に砲撃を集中!」

 ビューフォート大佐の指示で第二百九十九駆逐群の全艦は敵戦力が手薄な一時方向に砲撃を集中した。二十隻程度の敵は散開して砲撃を避け、敵部隊と衛星によって形成された包囲網に穴が空いた。

「今だ!全艦、全速前進!」

 紡錘陣を組んだ第二百九十九駆逐群は一斉に突入して、敵の包囲網を突き破った。そして、衛星群の隙間を縫うように全速航行を続けて、ゲベル・バルカル宙域からの脱出を図る。密集した衛星の作り出す重力場、放射線帯がもたらす計器異常が操艦を困難なものとしていた。俺は艦長や航宙士の経験が無く、操艦のことはまったくわからない。メインスクリーンに衛星が映るたびに、重力場に絡め取られてしまうんじゃないかと不安になる。実際、操艦を誤って脱落する艦もいた。

「速度を落としませんか」
「不要だ。今は離脱を優先する」

 不安に駆られた俺はビューフォート大佐に速度を落として安全航行をするよう提案したが、一瞬にして却下された。航宙科出身のビューフォート大佐は俺なんかよりずっと操艦をわかっている。その彼が大丈夫というのなら、大丈夫なのだろう。俺の部下の航宙能力も低くはない。ここは航宙のプロ達を信じるべきだった。



 ゲベル・バルカル宙域を脱出した第二百九十九駆逐群は惑星ワジハルファに近い宙域まで到達すると、逃れてきた味方艦を収容するために停止した。現在残っている戦力は九十八隻。俺の指揮下にあった駆逐艦も二十四隻まで減少している。障害物が少ないこの宙域では、駆逐艦と比較して火力・装甲に優る小型艇は不利となる。倍以上の敵が追撃してきても十分に対抗できると、ビューフォート大佐は言っていた。

「こちら、第百八十七巡航群所属、巡航艦ノヴァ・ゴリツァです。当艦は貴隊への合流を希望します」

 聞き慣れた声と艦名に安堵する。ノヴァ・ゴリツァは俺の友達のダーシャ・ブレツェリ中佐が艦長を務めている艦だった。第百八十七巡航群は壊滅していたが、彼女はどうにか逃げ延びたようだ。ゲベル・バルカル宙域で戦っていた最中は目の前の敵と戦うのに必死でダーシャのことを気にする余裕もなかった。安全な場所に来てから心配するだなんて、我ながら本当に虫がいい思考をしている。

「第二百九十九駆逐群だ。貴艦の合流を歓迎する」

 ビューフォート大佐はダーシャの要望を受け入れ、ノヴァ・ゴリツァを指揮下に収めた。ゲベル・バルカル宙域から逃れてきた他の艦もビューフォート大佐の指揮下に入り、ワジハルファ宙域の警備艦隊は二百十一隻に達している。警備艦隊司令官フラック准将、第百八十七巡航群司令アハビ大佐の戦死が確認された。第三百一巡航群司令ビセット大佐、第五百五十五駆逐群司令ペラエス大佐は重傷を負って指揮を取れない状態だ。数時間前は四百四十五隻を数えた部隊が半数以下まで減少しているという事実に、愕然とさせられる。

「これより、惑星エル・ファシルに帰還する。リャン大佐と合流すれば、エルゴン星系から援軍が来るまで十分に持ちこたえられる」 

 留守を守る警備艦隊副司令官リャン・ダーイー大佐は、二百隻を越える戦力を有している。ビューフォート大佐が率いる戦力と合わせれば、四百隻の小型艇に負けることはない。星系警備艦隊とは別の指揮系統に属するものの、軌道警備隊だって健在だ。惑星エル・ファシル以外の有人惑星の安全確保を諦めざるを得ないが、この状況ではどうしようもない。

「それにしても、リャン大佐からの返事が来ないですね」
「通信が遅れるなんて基地局が少ない辺境では珍しくもないけど、こんな時ぐらいはちゃんと通じてほしいもんだね」

 超光速通信の通じやすさは基地局の数と密度に比例する。人口密集地域のバーラト星系とその周辺では基地局も密集していて、通信の途絶や遅れが生じることは少ない。軍用通信の基地局の数は民間のそれと比べると、人口に左右される度合いは小さい。しかし、近年の国防予算削減の煽りで主要航路から外れた地域の通信基地は縮小されていた。エル・ファシルもその例外ではない。広大な宙域に小部隊をバラバラに展開させる航路警備においては、強力な通信機能は不可欠だ。通信基地の縮小も海賊活動の活発化の要因となっていた。

 第二百九十九駆逐群以下の残存戦力はエル・ファシルへと向かう。ようやく惑星エル・ファシルの警備艦隊司令部と通信が通じたのは、日をまたいだ9月3日の午前2時の事だった。交信を終えたビューフォート大佐は、即座に残存部隊の幹部全員を第二百九十九駆逐群の旗艦に召集した。

 司令を失った第百八十七巡航群、第三百一巡航群、第五百五十五駆逐群の副司令、第二千二百三十支援隊と第二千二百二十八支援隊の司令、そして第二百九十九駆逐群副司令の俺の顔を見回したビューフォート大佐は、彼らしくもない重々しい口調で口を開く。

「エル・ファシル星系警備艦隊司令部から悪い知らせだ。副司令官リャン・ダーイー大佐が第一小惑星帯で海賊の襲撃を受けて戦死した」

 警備艦隊司令官に続いて、副司令官まで戦死するという事態に会議室は騒然となった。一体、何が起きているのだろうか。

「副司令官がなぜ第一小惑星帯まで出ていたのでしょう?」

 第五百五十五駆逐群副司令メイスフィールド中佐の疑問はもっともだ。エル・ファシルの警備艦隊司令部で留守を守っていたリャン大佐が第一小惑星帯まで出張ってくる理由がわからない。

「ゲベル・バルカル宙域からの救援要請に応じて、援軍に向かう途中で待ち伏せされたそうだ」
「あの通信状態で良く届きましたな」
「海賊の中には、軍の通信を偽装して民間船の油断を誘う者がいる。プロの軍人を騙せるレベルの名人がいたということだろうね」
「まさか…」
「まさか、という言葉がどれだけ無意味か。私達はゲベル・バルカル宙域で経験したばかりじゃないか。降伏してきたはずの相手が爆薬を大量に積んだ無人船だった。念入りに索敵をしたはずだったのに、敵は衛星の海中に潜んでいた。二百隻しかいないはずのヴィリー・ヒルパート・グループが四百隻もの戦力を動かしていた。今回の相手に限っては、何でもありと思ったほうがいいよ」
「失礼しました」

 ビューフォート大佐とメイスフィールド中佐の問答を聞いて、改めて今回の敵がとんでもない策士であることを思い知らされた。二百隻の戦力を持っていたリャン大佐を戦死に追い込んだということは、ゲベル・バルカル宙域以外にも相当数の敵がいるということだろう。

「警備艦隊司令部からの通信というのも敵の罠である可能性は考えられませんか」

 今度は第百八十七巡航群副司令パトリチェフ中佐が疑念を呈する。確かに今回の敵は何でもありだ。リャン大佐が戦死したというのも偽情報でもおかしくない。

「その懸念はもっともだ。あれだけの詭計を弄してくる敵なら、偽の通信ぐらいは使うだろう。しかし、この通信に関してはその心配はない」
「確認なさったということですか?」
「相手の通信士に頼んで、警備艦隊司令部にいる私の友人を三人呼び出してもらい、彼らにごくプライベートな質問をぶつけた。全部正解だったよ」
「なるほど」
「彼らが全員敵に内通している可能性もあるけど、そこまでは考えたくないな」
「まったくですな」

 ビューフォート大佐が肩をすくめてみせると、パトリチェフ中佐は巨体を揺らして陽気に笑った。張り詰めていた司令室の空気がやや柔らかくなる。

「予定どおりエル・ファシルに向かう。いや、向かわざるをえない。この宙域から無補給で移動できる有人惑星の中で、艦艇の補給及び整備機能を有する基地があるのはエル・ファシルだけだからね」
「我々はエル・ファシルに誘導されているということはありませんか?第一小惑星帯が機雷で封鎖されている可能性もあります」
「その可能性は低いね」

 俺の懸念をビューフォート大佐はあっさり否定した。

「敵はおそらく機雷敷設能力を持っていない。持っていたら、私達はゲベル・バルカルから生きて出られなかっただろうね」

 言われてみるとその通りだ。ゲベル・バルカル宙域に入った警備艦隊は、念入りに周囲を警戒しながら奥に進んでいった。機雷原を発見していたら、さっさとエル・ファシルに引き返していただろう。襲撃作戦に機雷原を盛り込むとしたら、無人船が爆発してから、俺達が脱出するまでの短時間で敷設を完了する必要がある。それができなかったということは、敵は機雷敷設能力を持っていないのだ。宇宙における機雷戦は物量が物を言うため、正規軍の戦術とされている。数隻から数十隻単位で民間船を襲撃する海賊とはそぐわない。機雷戦のプロを味方に付けていたら、ゲベル・バルカル宙域に投入していたはずだ。

「敵にはとんでもない策士がいるのは間違いない。しかし、機雷の件でわかるように、全知全能ではないようだ。ゲベル・バルカル宙域でも各部隊がバラバラに動いていて、統制はとれていなかった。偽装投降、無人船の自爆攻撃、衛星海中からの奇襲、偽通信による誘き出し。いずれも宇宙海賊が使う戦術だ。切れ者だが、発想は海賊の域を出ていない。そこに私達の勝機がある」

 小柄なビューフォート大佐の姿が大きくなったように見えた。俺以外の出席者も同じように感じたらしく、目を見張っている。

「ゲベル・バルカル宙域では海賊のフィールドに引きずり込まれて、一杯食わされてしまった。私達は軍人だ。軍人の戦いをすれば、海賊に負けたりはしない」

 全員が一斉にうなずく。敗軍の中にあって、確信をもって語る指揮官の何と心強いことだろうか。奇襲を受けてから、ビューフォート大佐は一度も読みを外していない。彼が勝利を確信しているのは、必勝の策を持っているからに違いない。七年前のエル・ファシル脱出作戦ではヤン・ウェンリー、今回の作戦ではビューフォート大佐。エル・ファシルでの俺は、指揮官に恵まれる星回りらしい。今回も指揮官を信じて戦おうと思った。 

 

第六十四話:エル・ファシル危機 宇宙暦795年9月上旬 惑星エル・ファシル、エル・ファシル市

 惑星ゲベル・バルカル周辺宙域で宇宙海賊の奇襲を受けて敗走したエル・ファシル星系警備艦隊は、9月4日に惑星エル・ファシルに到着した。第一小惑星帯で戦死したリャン・ダーイー大佐指揮下の部隊と合わせても三百隻程度。一方、惑星エル・ファシルを取り巻くように展開している宇宙海賊は八百隻を超えると推定される。正面きっての戦闘であれば、火力と装甲に勝る警備艦隊は二倍の海賊にも拮抗しうる。しかし、それはあくまで一つの戦場に限った話だ。軽々しく動いて隙を見せるわけにはいかない。

「こんな時だというのに、軌道警備隊の小型艇部隊が動けないとはね」

 エル・ファシル警備艦隊司令官代行を務めるアーロン・ビューフォート大佐は、早朝に起きた軌道警備隊基地の燃料タンク爆発事故の報告書を読んでため息をついていた。この星系においては、警備艦隊司令官は星系警備管区の司令官も兼ねて、治安維持に責任を負う。第二百九十九駆逐群の幕僚では治安業務に対応できないため、各司令部から人員を集めて、ゲベル・バルカル星系で司令官とともに消滅した警備管区司令部を再編成していた。俺は星系警備管区参謀長代行として、治安業務に疎い司令官代行を補佐している。艦艇部隊の指揮は副司令官代行に就任したフョードル・パトリチェフ中佐が担当していた。

「復旧まで何日かかる見通しでしょうか」
「最低でも二週間だって。巡視艦隊が到着するの待ったほうが早いね」
「軌道警備隊が健在なら、警備艦隊と合わせて四百隻。もっと楽な戦いができたのですが」
「過ぎたことだ。仕方ないさ」

 そう言い捨てると、ビューフォート大佐は爆発事故の報告書をデスクの上に放り出して、別の報告書を手に取る。

「東部のカッサラ市では、昨日深夜から暴徒と警察部隊が交戦中。暴徒の数は増加の一途をたどり、鎮静化する気配無しだそうだ。市政府から介入要請が来てるよ」
「発端はフライングボールの応援団同士の乱闘でしたよね。どうして、こんなに熱くなれるのでしょうか」
「拳で乱闘してる連中の気持ちならわからんでもないよ。でも、ライフルをスタジアムに持ち込んで観戦するような連中の考えることはわからんね」

 フーリガンの乱闘自体はこの国では珍しくもない事件だ。しかし、警察部隊と銃撃戦を展開して、軍に介入要請が来るレベルとなると、自由惑星同盟二百六十年の歴史においても両手の指で数えられるほどしか起きていない大事件である。

「エル・ファシル全域で買い占め騒動が起きています。便乗値上げする商店も後を絶たないそうです」
「そっちへの対応は星系政庁の仕事だな。とは言え、買い占め騒動が暴動に発展する可能性も十分にある。地上部隊の警戒レベルを引き上げておかないといけないね」
「未確認情報ですが、エル・ファシル市内の商店が襲撃されたという報告が入っています」
「やれやれ、随分と短気なことだね。トイレットペーパーがなくなってから暴れても遅くはないだろうに」
「ネットで危機感を煽る書き込みが大量に現れているみたいです」
「暴動を煽る書き込みもたくさんあるみたいだ。ネットのアクセス制限も検討しなきゃいけないね」

 惑星エル・ファシルの生産設備のほとんどは四年前の地上戦で破壊されてしまい、現在では生活必需品の多くを外部に頼っている。海賊によって星間流通が遮断された途端にパニックが起きるのは止むを得ないことだった。それをネットのデマが助長している。非常用の備蓄があるという事実も、一度パニックに陥った人々を落ち着かせるほどの説得力は持たない。

「ダメ押しにこいつだ。星系警備司令部の他、星系政庁、市政庁、星系議会事務局、主要政党の事務所、星系警察本部、惑星警備隊司令部、主要マスコミ三社にまで送りつけられている。過激派の連中はなかなかの働き者だね。うちの部下にも見習って欲しいもんだ」

 ビューフォート大佐が手に持ってヒラヒラさせた紙は、自由惑星同盟からの離脱を唱える反体制組織「エル・ファシル解放運動」から送られてきたテロの予告状。

「よくもこれだけの事件がこのタイミングに重なったものですね。偶然とは思えません」
「偶然と思える方がおかしいよ」

 警備艦隊の敗北と前後して発生した惑星エル・ファシルの動乱。同じ人物が裏で糸を引いていることは明らかだった。エル・ファシル星系警備艦隊司令官は、星系警備管区の司令官も兼ねている。司令官代行のビューフォート大佐はこの動乱に対処しなければならない立場だった。俺は星系警備艦隊参謀長代行を兼任して、調整や渉外にあたっている。

「ところで地上部隊の追加派遣要請の返事はどうだい?」
「エルゴンの第七方面管区司令部は、第十空挺師団を含む三個師団を追加で派遣してくれるそうです」

 俺の返答にビューフォート大佐は満足そうにうなずいた。万が一エル・ファシル全土が動乱状態に陥ったら、星系警備管区司令部管轄下の地上部隊では対処できない。今の俺達は海賊対処用の艦艇戦力と治安維持用の地上戦力の両方を必要としていた。

「あの第十空挺師団を動かすとは、随分と奮発してくれたね」
「国防委員長閣下によろしく、と言われました」
「ああ、そういうことか」
「そういうことです」

 軍部の中で勢力を急拡大している国防委員長ヨブ・トリューニヒトと繋がりを持ちたがる者は多い。以前はそういう人々が面倒くさくてたまらなかったが、人も金も物も足りないエル・ファシル警備艦隊では贅沢は言ってられなかった。彼らの望み通りに「よろしく言う」ことで仕事がしやすくなるのなら、それに越したことはない。

「君が実務を全部引き受けてくれるおかげで、私は司令官の業務に専念できる。ずっと駆逐艦一筋だったから、そういうの苦手なんだよね。本当に助かるよ」
「俺は用兵ができません。人それぞれ、得意不得意はあります。それを補うための組織でしょう」

 ビューフォート大佐は戦場では頼もしい存在であったが、オフィスではまったくもって頼りなかった。事務仕事は遅くて下手。細かいことに目を配るのが苦手。交渉事も面倒くさがる。現場一筋の叩き上げ士官には多いタイプだ。七年前のエル・ファシル脱出作戦の際に足手まといになるからといって、指揮官のヤン・ウェンリーを手伝わなかったのもうなずける。

「ゲベル・バルカル宙域での用兵は悪くなかったよ」
「あれは大佐のご指示のおかげです」

 決して謙遜しているわけではない。表面上では落ち着き払っていたものの、内心は恐怖に震えていた。ビューフォート大佐の指示にすがりついて、どうにか生き残れたのだ。

「言われた通りのことさえできれば、今は十分だよ。自分の判断で動けるようになるのはその先のこと。君はまだ若い。焦らずに一つ一つ階段を登っていけばいいよ」

 その言葉に勇気づけられた俺は、敬礼をするとビューフォート大佐の執務室を退出した。星系政庁や警察の幹部との調整、対応マニュアルの作成、星系警備司令部管轄部隊の引き締めなど、やるべきことはいっぱいあった。



 ビューフォート大佐と俺が防衛体制の構築に奔走していた間も惑星エル・ファシルの治安情勢は悪化する一方だった。フーリガンの乱闘に始まるカッサラ市の暴動は若年層を中心とする不満分子に火を付け、三日後には全都市の三分の一が動乱状態に陥っていた。どこから手に入れたのか、暴徒は武器弾薬を豊富に持っていて、容易に鎮圧できなかった。現場の部隊からは実弾の使用許可を求める声が相次いでいたが、ビューフォート大佐と俺は、重ねて暴動鎮圧用の非致死性武器のみで戦うよう指示した。民間人に対して実弾を使用したら、軍と市民の間に決定的な亀裂を生みかねない。

 海賊によって星間流通が停止しても、しばらく持ちこたえられるだけの備蓄は用意されていた。しかし、航路を遮断されて孤立したという恐怖がデマを生み、デマが現実を侵食していく。エル・ファシル星系政庁は備蓄の一部を放出して、物資が潤沢であることを示してデマを打ち消そうとしたが、かえって逆効果となった。市民は自分達が脳内で作りだした物資不足への対処を求めて、連日のように星系政庁へと押し寄せた。七年前にリンチ司令官が逃亡したことに怒った市民が星系政庁に押し寄せた光景そのままである。この群衆がいつ暴徒に転じるかと思うと、不安で不安でたまらなくなる。

 エル・ファシル解放運動によるテロは現時点ではまだ起きていないが、油断は禁物だ。ブラフに踊らされるより、警戒を緩めてテロを起こされる方がずっと恐ろしい。それに解放運動は暴徒や海賊と違い、明確に同盟の現体制を敵視している。星系政府や軍の施設を直接襲撃してくる可能性があった。暴動やテロに備えるために必要なのは、第一に人員である。兵士を大量に動員して、標的になりそうな重要施設を警備させる。捜査員を大量に動員して、潜伏しているテロリストを探し出す。優秀な一人より、無能者十人の方が役立つ類の任務である。

 暴動やテロに立ち向かうべく戦っているといえば聞こえはいいが、本当に格好良いのは体を張って警戒にあたっている人達だ。ビューフォート大佐や俺のような上層部は、縄張り意識の強い政庁や警察の幹部を相手に会議を重ね、乏しい人員と物資をやり繰りし、消極策に不満を抱く現場の部隊をなだめ、政治家や市民からの突き上げに耐えなければならない。頭を下げてばかりで格好悪いことこの上ない。

「どのような方策があるのか、聞かせてもらえないかな」
「警備司令部の方針は既に述べたとおりです。警備を固めて外の海賊と内の暴動に備えつつ、第七方面管区からの救援を待ちます」
「自分達の力で状況を打開しようとは思わないのかね。君はエル・ファシルの英雄だろう?」
「ロムスキー先生、必ず救援はやって来ます。信じてください」

 こんな無茶を言ってくる連中を相手にしつつ、必要な人員と物資を集めて脱出計画を形にするという仕事を一人でやってのけた七年前のヤン・ウェンリーに改めて尊敬の念を抱かされる。千隻からの船団を幕僚を使わずに指揮するというドーソン中将みたいなこともやってのけた。前の歴史においては、用兵しかできない天才型軍人と評されていたが、本来は実務型だったのかもしれない。

 周辺宙域に展開する八百隻の海賊。地上で暴れまわっている暴徒。姿の見えない反体制組織。パニック状態に陥った市民。まるでエル・ファシルを取り巻く矛盾が一気に噴出したかのような有様だ。緊縮財政による警備艦隊の戦力低下が海賊を活発化させた。復興の遅れに対する不満が暴動を拡大させた。エル・ファシル解放運動は同盟建国期から続く集権派と分権派の対立の中で結成されたオーソドックスな反体制組織だが、不況の中で勢力を拡大していた。市民があっさりとパニック状態に陥ったのは、公式発表よりネットのデマを信じこんでしまうほどに、行政が信頼を失っていたためだ。

 敵は警備艦隊の殲滅を狙っているものとばかり思っていた。そうであれば、ビューフォート大佐が言うとおり、海賊の戦術しか使えないという敵の限界に乗じることもできただろう。しかし、海賊は戦おうとせずに航路遮断に徹して、不満分子を扇動することで地上に動乱状態を引き起こした。海賊が主なのか、地上の動乱を扇動している連中が主なのか、さっぱり見えてこなかった。いずれが主でも、全力で対応せざるを得ないことには変わりない。一歩対応を間違えば、エル・ファシルの動乱は内乱に発展しかねない。



 警備艦隊がエル・ファシルに戻ってから一週間ほど経過した9月11日早朝。第七管区巡視艦隊から、間もなくエル・ファシルに到着するという連絡が入った。敵が仕掛けてきた偽の通信の可能性を考慮して、幾重ものチェックを行った結果、本物であることが確認された。

「これで一息つけるね」
「本当に長い一週間でした。非対称戦は神経をやられます」
「神経を攻めてくるのがああいう連中の得意技だからね。正直者の君にはきついだろう」

 正面戦力で対抗できない相手に対して、ゲリラやテロといった手段で対抗する非対称戦の本質は神経戦である。いかに強大な戦力を持った正規軍であっても、四六時中見えない敵の奇襲に備えていたら、神経が参ってしまう。自分で自分を守ることができない市民にとっては、見えない敵への恐怖がもたらす緊張は極めて大きい。正規軍を心理的に翻弄して戦力を低下させ、市民の不安を煽り立てて社会秩序を破壊する。海賊と暴徒と反体制組織を裏側で操っている人物は、まさしく非対称戦の教科書通りの戦いをしていた。

「たった一週間でこの有様です。サンタ・マルタ星系なんてどんなことになっているんでしょうね。想像したくもないですよ」

 自由惑星同盟を構成する数百の星系共和国の政情は多種多様だ。俺が生まれたタッシリのように政治的に安定している星系もあれば、サンタ・マルタのように数十年にわたってテロ組織との戦いが続いている星系もある。対帝国戦争が始まる以前は、内戦状態に陥った星系だってあった。同盟はもともとアーレ・ハイネセンの長征グループと、銀河連邦衰退期に中央のコントロールを離れたロストコロニーの寄り合い所帯である。対帝国戦が始まると、帝国からの亡命者がそれに加わった。現在は反帝国の大義名分によって、一枚岩になっているかのように見えるが、内紛の火種が消えたわけではない。

「まあ、私は君が想像したくもないというサンタ・マルタの生まれなんだけどね」
「司令官代行はトリプラ星系の生まれだったはずでは」
「ああ、履歴書にはそう書いてたっけ。まあ、色々あるんだよ。色々とね」

 逆鱗に触れてしまったかと思って、ひやりとした。しかし、彼はにこやかな表情を保ったまま語り続ける。

「いずれにせよ、エル・ファシルを内戦に突入させた無能者のレッテルは貼られずに済みそうだ。巡視艦隊と地上部隊の戦力は、強力な抑止力になる。流通が回復すれば、市民感情も落ち着く。後のことは私じゃない誰かさんに頑張ってもらおう」
「巡視艦隊からの連絡については、いかがいたしましょうか」
「君の意見は?」
「公表すれば、市民や将兵は安心するでしょう。動乱を引き起こしている勢力も大人しくなる可能性が高いです。しかし、安心した隙に付け入られる可能性もあります。どれだけ司令部が注意を促したところで、解放感を抑制するのは難しいでしょう」
「これから星系政府に伝えるつもりだが、我々は専門家としてどのように助言するべきだろうか」
「付け入られるリスクを考慮に入れても、公表を進言すべきと考えます。将兵や市民の不満を抑える手段は他にはありません」

 俺の意見を聞いたビューフォート大佐は腕を組んで考えこんでいる。参謀の仕事は意見を述べるまで。決断は指揮官が行わなければならない。

「あと一日抑えるのも難しいかな」
「昨日、地上部隊から三件の反乱未遂が報告されました。エル・ファシル市を警備している大隊にも、反乱の兆しが見られます。物資不足への対応を求めるデモは、昨日の時点で制御不能な規模に達しています」
「とっくに臨界点を超えてるってわけか」

 ビューフォート大佐はすぐに星系政府に巡視艦隊到着が近いことを伝えて、公表するように進言した。星系政府は協議に入り、三十分後に公表を決定。星系政府と警備司令部の合同記者会見が開かれて、巡視艦隊到着間近の報はエル・ファシル全土に伝えられた。記者会見から二十分後、星系政庁を退出しようとするビューフォート大佐と俺のもとに、司令官代行臨時副官を務めるコレット中尉が凄まじい勢いで駆け寄ってきてメモを渡した。二人で目を通す。

「エル・ファシル市内の十四箇所で同時に爆破テロか」

 きたか、と思った。予告状を出した後、ずっと沈黙を守っていたエル・ファシル解放運動がついに動き出したのだ。公表すべきと言った自分の判断の甘さに思わず舌打ちしてしまう。

「陽動だね、それは。Bマニュアルに従って対処するよう、各部隊に伝達。警備司令部に戻るまでは、携帯端末を通して指揮を取る」

 指示を受けて再び走りだしたコレット中尉の後ろ姿が見えなくなると、ビューフォート大佐は笑って俺の方を向いた。

「これで良かったかな」
「十分です」
「私は駆逐艦一筋で生きてきた。治安は門外漢だ。実質上の指揮官は君ということになる。憲兵隊仕込みの手腕に期待するよ」
「はい」
「気にすることはないよ。公表しなければ、どこかの部隊が反乱していた。エル・ファシル市民が暴動を起こしていたかもしれない。敵はどっちに転んでも構わないように手を打ってたんだよ。つくづく嫌らしい連中だね」

 ビューフォート大佐のおどけた口調に安心させられた。逆境にあって明るさを失わない指揮官の存在は本当に心強い。おかげで小心な俺でも取り乱さずに戦える。彼のような人を本当の指揮官と言うのだろう。気を取り直して携帯端末を開いて簡易指揮システムを立ち上げた途端、ビューフォート大佐の携帯端末が鳴り出した。

「うんうん、わかった。これからそちらに向かう」

 何やら端末で話してうなずいた後、ビューフォート大佐は再び俺の方を向いた。

「軌道上で警戒にあたっていたパトリチェフ中佐からの報告。この星を取り巻いていた海賊が集結して、衛星軌道に接近しているってさ」
「解放運動の動きと連動したものでしょうね。油断も隙もないとはこのことです」
「海賊八百隻と正規軍三百隻。戦力的には五分だけど、味方はこの一週間の動乱で浮き足立っている。なかなかどうして、楽をさせてくれない敵さんだ」
「司令官代行が直接指揮をお取りになるのですか?」
「もちろんだとも。地に足の着いた戦いでは、私は何の役にも立たないからね」 

 ビューフォート大佐の本領は宇宙空間での艦艇戦闘にある。地上戦闘で役に立たないという言葉はもっともだ。しかし、彼が海賊を迎撃するとなると、誰が対テロ指揮をとるかは自明だった。

「フィリップス中佐、君を地上における臨時指揮官に任命する。空の上で戦ってる私達が帰る場所に困らないように頼むよ」

 臨時とはいえ、一惑星の治安を預かるという未曾有の大任に膝が震える。冷静でなければいけないのに、体がそれを拒否する。こういう時、小心な自分がつくづく嫌になってしまう。自己嫌悪に陥っている俺の肩を、ビューフォート大佐は強く叩き、白い歯を見せて笑った。不思議なことに体から震えが引いていく。表情を引き締めて敬礼をすると、対テロ指揮を取るべく炎上するエル・ファシル市内へと向かう。手早くテロリストを鎮圧し、エル・ファシル内戦を阻止するために。 

 

第十五章 内なる戦い
  第十五章開始時人物設定

主人公
エリヤ・フィリップス 27歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中佐
役職:エル・ファシル警備艦隊参謀長代行、エル・ファシル臨時保安司令官
性格:小心で卑屈。素直で真面目な優等生。努力を楽しめる。仕事熱心。自己評価は低い。大食い。甘党。
容姿:子供っぽい容姿。身長は平均よりやや低い。爽やか、絵になるなどと言われているが、以前は冴えなかったと言われる。
能力:事務処理能力と危機管理能力が高く、法律に通暁している。部隊運営能力は高いが、用兵は下手。管理職としては公正。参謀としては未熟。対人関係に細やかな気配りを見せる。射撃の達人。
略歴:国防委員長ヨブ・トリューニヒトのお気に入り。エル・ファシル警備艦隊がゲベル・バルカル星域の戦いで壊滅した後、警備艦隊参謀長代理に就任。臨時保安司令官として、エル・ファシル解放運動のテロ部隊を迎撃する。前の人生ではアーサー・リンチに従ってエル・ファシルから逃亡したことがきっかけで転落した。
史実:登場せず。

重要人物
クレメンス・ドーソン 45歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十三章開始時点)
役職:第十一艦隊司令官(第十三章開始時点)
性格:異常なまでに神経質で几帳面。わかりやすい善を好み、わかりやすい悪を嫌う小市民的な心情の持ち主。露骨にえこひいきをする。
容姿:エリヤと同程度の身長。ひげがトレードマーク。
能力:抜群の処理能力と行動力の持ち主。精力的で優秀な戦術能力を持つ指揮官だが、参謀を使えないという欠点がある。陣頭指揮を好み、現場に口を出したがる。政治力も極めて高い。
略歴:第十一艦隊司令官。第三次ティアマト星域会戦で帝国軍の宿将を討つ大功をたてたが、敵の奇襲にあって旗艦を撃沈されかける。
史実:自由惑星同盟軍の末期状態を象徴する無能な指導者。
初出:二十三話

ヨブ・トリューニヒト 40歳 男性 オランダ系
職業:自由惑星同盟軍代議員(第十四章開始時点)
役職:国防委員長、改革市民同盟トリューニヒト派領袖(第十四章開始時点)
性格:気さくで人懐っこい。ノリ重視で適当な事をポンポン言ってしまう。自分を凡人と言い、凡人のためなら、非凡な者の芽を摘むことも厭わないと断言する。お好み焼きはご飯と一緒に食べる。
容姿:俳優のような美貌。スポーツで鍛え上げた長身。人懐っこい笑顔。卓越したファッションセンス。
能力:巧みな話術と人の心をとろけさせる愛嬌の持ち主。派手なパフォーマンスを用いた大衆煽動のみならず、個人を対象とした人心掌握にも優れる。
略歴:主戦派の若手指導者。凡人のための世界を作るという理想を持つ。自分の派閥を立ち上げて、政界再編の台風の目と言われる。エリヤをエル・ファシルに派遣した。
史実:自由同盟末期の最高評議会議長。保身の怪物という評価と、単なる無能という評価がある。同盟滅亡後も暗躍を続けた。
初出:二十九話

親しい人
アンドリュー・フォーク 25歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十三章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部作戦参謀(第十三章開始時点)
性格:真面目で謙虚。社交性が高い。
容姿:長身でハンサム。最近は過労のせいかやつれ気味。
能力:士官学校を首席で卒業し、着実に実績を重ねている秀才参謀。部隊運用能力に優れ、行軍計画立案に力量を示す。リーダーシップ、運動能力も高い。白生戦技、射撃術も達人級。
略歴:エリヤの友人。ロボス大将が最も信頼する腹心。エル・ファシル義勇旅団長を務めていた頃に親しくなった。過労でやせ細っているのをエリヤに心配されている。
史実:帝国領侵攻作戦を立案して同盟軍を壊滅に導き、テロリストとしても同盟の足を引っ張った愚劣な人物。
初出:第二十話

ダーシャ・ブレツェリ 26歳 女性 スロベニア系
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十五章開始時点)
役職:エル・ファシル警備艦隊所属の巡航艦艦長(第十五章開始時点)
性格:強引で後先を考えない。ストレートに好意をぶっこんでくる。口も体も人一倍よく動く。ファッション好き。
容姿:丸顔で目が大きく、可愛らしい感じ。ショートカット。胸が大きい。
能力:士官学校を三位で卒業したエリート。人の能力を冷徹に見定めることができる。
略歴:ヴァンフリート4=2宙域の会戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。エリヤとは暇があれば一緒にいるほどに深い仲。ゲベル・バルカル星域の戦いでは辛くも生き延びる。
史実:登場せず。
初出:第四十話

エーベルト・クリスチアン 40代 男性 ゲルマン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十三章開始時点)
役職:第四方面管区地上軍教育集団司令(第十三章開始時点)
性格:軍隊を家族と考えている。剛直だが人情に厚い好漢。単純明快な物言いを好む。政治を嫌っている。
容姿:背はさほど高くないが、肩幅と胸板が厚い。いかつい顔に不機嫌そうな表情。
能力:勲章受章経験のある勇者。食事と睡眠の重要さを理解していて、部下の待遇改善に熱心。
略歴:陸戦隊出身。エル・ファシルの英雄になったエリヤの広報担当を務めた時に親しくなった。エリヤが職業軍人になるきっかけを作った人物。政治に引き込まれるエリヤを危惧している。
史実:救国軍事会議メンバーとしてスタジアムの虐殺を引き起こした。
初出:第八話

アーロン・ビューフォート 47歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第二章終了時点)
役職:エル・ファシル警備艦隊司令官代行
性格:沈着にして大胆。苦境でも軽口を叩ける明るい性格。部下に対しては手取り足取り指導する。
容姿:身長は低いが体は引き締まっていて、全身に活力がみなぎっている。実年齢より5年は若く見える。
能力:航路保安のベテランで対海賊戦の経験が豊富。航宙科出身で機動的な用兵に長ける。指導力も高い。管理能力には欠けている。
略歴:現在のエリヤの上官。ゲベル・バルカルの戦いで警備艦隊が壊滅した際に撤退戦の指揮をとり、帰還後は警備艦隊司令官代行として防衛の指揮をとる。
史実:大親征でビッテンフェルトを迎撃した。
初出:第七話

チュン・ウー・チェン 33歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十三章開始時点)
役職:第十一艦隊司令部人事部長(第十三章開始時点)
性格:超マイペースで他人の視線をまったく気にしない。パンばかり食べている。
容姿:パン屋の二代目と言われるおっとりした容姿。緊張感皆無で軍人らしくない。身なりに無頓着。
能力:分析力と洞察力が高い。参謀経験豊富なプロフェッショナル。他人を自分のペースに巻き込むコミュニケーション術を持つ。
略歴:士官学校卒のエリート。第十一艦隊司令部でエリヤと親しくなった。第三次ティアマト会戦で全軍崩壊を回避する策を出した。
史実:自由惑星同盟軍最後の宇宙艦隊総参謀長。覇王ラインハルトに敢然と立ち向かった英雄。
初出:第五十話

イレーシュ・マーリア 32歳 女性 マジャール系(姓が前、名が後に来る)
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部人事参謀(第十一章開始時点)
性格:とっつきにくい外見とは裏腹に思いやりがある。社交性も結構高い。
容姿:180センチを越える長身。非の打ち所のない美形。眼力が異常に強い。不機嫌そうな表情。
能力:対人観察力が高い。教育指導能力に優れる。
略歴:士官学校卒のエリート。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。イゼルローン遠征軍に人事参謀として参加した。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ハンス・ベッカー 30歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十一章開始時点)
役職:第八艦隊第三分艦隊航法主任参謀(第十一章開始時点)
性格:お調子者。人をからかうのが好き。遠慮無くものを言う。
容姿:垂れ目。背が高い。
能力:航路知識が豊富。
略歴:ヴァンフリート4=2宙域の会戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。イゼルローン遠征軍に分艦隊参謀として参加した。
史実:登場せず。
初出:第四十話

グレドウィン・スコット 四十代後半 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章開始時点)
役職:第九艦隊後方支援集団所属の輸送群司令(第十一章開始時点)
性格:大人げない。三次元チェス狂。恐妻家。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。イゼルローン遠征軍に輸送群司令として参加した。
史実:帝国領侵攻作戦で輸送艦隊を率いたが、キルヒアイスに襲撃されて戦死。
初出:第四十話

ワルター・フォン・シェーンコップ 31歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章開始時点)
役職:ローゼンリッター連隊長(第十一章開始時点)
性格:言動と女性関係は奔放。大胆不敵で反骨精神旺盛。服従心、忠誠心とともに希薄。危険人物の中の危険人物。
容姿:貴族的な美貌。優雅な物腰。
能力:大部隊の組織的運用と少数精鋭部隊による強襲戦術の両方に長ける。部隊運営能力、指導力も高い。部下を心酔させるカリスマも持つ。身体能力、戦闘技術、勇猛さを兼ね備えた自由惑星同盟軍最高の戦士でもある。政治的な駆け引きも巧みで付け入る隙がない。
略歴:ヴァンフリート4=2基地で知り合った。エリヤをからかうのを楽しんでいたが、司令部ビルの戦闘では腹心のブルームハルトを援軍につけてくれた。
史実:同盟末期最高の地上部隊指揮官。ヤン・ウェンリーの事実上の私兵隊長として活躍した。
初出:第三十一話

カスパー・リンツ 25歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍少佐(第十一章開始時点)
性格:気さくだが、やや屈折している。
容姿:脱色した麦わらのような髪に青緑色の瞳を持つ美男子。
能力:白兵戦技と射撃術の達人。絵と歌がうまい。
略歴:幹部候補生養成所時代の唯一の友人。ローゼンリッター連隊長シェーンコップ中佐の片腕。
史実:ワルター・フォン・シェーンコップの片腕。ローゼンリッター最後の連隊長。
初出:第十六話

バラット 男性 タイ系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第三章終了時点)
役職:第七方面管区シャンプール基地教育隊体育教官(第三章終了時点)
性格:単純熱血。太っ腹。
容姿:がっちりした体格。猛犬のような印象。
能力:トレーニング指導のプロ。
略歴:陸戦隊出身でクリスチアンの元部下。幹部候補生養成所を受験するエリヤの体力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ルシエンデス 40代 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍曹長(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:ざっくばらん。
容姿:小綺麗な身なり。
能力:軍服を着た人を撮影すれば、右に出る者はいない。
略歴:統合作戦本部広報室のカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

ガウリ 30代 女性 インド系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第二章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第二章終了時点)
性格:気さく。
略歴:統合作戦本部広報室のスタイリストカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

家族
ロニー・フィリップス 51歳 男性 アングロサクソン系
職業:パラディオン市警の警察官(第二章終了時点)
性格:善良でお調子者。
略歴:エリヤの父。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

サビナ・フィリップス 50歳 女性 チェコ系
職業:看護師(第二章終了時点)
性格:心配症でおせっかい。
略歴:エリヤの母。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ニコール・フィリップス 29歳 女性 アングロサクソン系
職業:ジュニアスクールの非常勤講師(第二章終了時点)
性格:しっかり者。
略歴:エリヤの姉。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

アルマ・フィリップス 22歳 女性 アングロサクソン系
職業:ミドルスクールの生徒(第二章終了時点)
性格:甘えん坊の食いしん坊。
略歴:エリヤの妹。空気の読めないメールを送っては、エリヤをいらだたせる。前の人生ではエリヤに懐いていたが、逃亡者になると最も激しく拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

同級生
ミロン・ムスクーリ 27歳 男性 ギリシャ系
性格:爽やかなスポーツマン。
容姿:大男。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。元フライングボール部のスター。前の人生では極右団体の構成員。逃亡者になったエリヤを迫害した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ルオ・シュエ 27歳 女性 チャイナ系
容姿:丸顔。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の数少ない友達。前の人生では、逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

フーゴ・ドラープ 27歳 男性 チェコ系
性格:誰にでも優しい。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。信望が厚く、クラス代表を務めた。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

その他知り合い
ラザール・ロボス 57歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍元帥(第十五章開始時点)
役職:宇宙艦隊司令長官(第十五章開始時点)
性格:豪放で大らか。社交的な性格。
容姿:小柄でどっしりとした肥満体。将帥にふさわしい威厳の持ち主。
能力:リスクを厭わず、大胆に仕掛ける用兵に定評がある。対人調整や政治的な折衝にも長ける。人の心に入り込むのがうまい。雑務が苦手。
略歴:同盟軍の二大派閥の一つ、ロボス派の領袖。ヴァンフリート星域、イゼルローン遠征、グランド・カナル事件といった相次ぐ失敗で声望を落としている。
史実:帝国領侵攻に失敗して、同盟軍を壊滅に追い込んだ愚将。
初出:第十八話

シドニー・シトレ 58歳 男性 アフリカ系
階級:自由惑星同盟軍元帥(第十五章開始時点)
役職:統合作戦本部長(第十五章開始時点)
性格:厳格で軍人の非行を何よりも嫌う。
容姿:二メートル近い長身の黒人。
略歴:同盟軍の二大派閥の一つ、シトレ派の領袖。財務委員長ジョアン・レベロの盟友。地方部隊の削減を進めている。
史実:イゼルローン攻略を実現したが、ロボスの帝国領侵攻失敗に巻き込まれて引退を余儀なくされた。同盟末期を支えた人材を多く育てた名指導者。
初出:第六十一話

ジョアン・レベロ 60歳 男性 ポルトガル系
職業:自由惑星同盟軍代議員(第十五章開始時点)
役職:財務委員長(第十五章開始時点)
能力:経済学者出身の財政専門家。聖域だった国防予算の削減に踏み切った豪腕。
略歴:進歩党の重鎮。財務委員長や財政諮問会議委員として、緊縮財政を主導してきた。
史実:自由惑星同盟最後の最高評議会議長。良心的な政治家として破滅を回避しようとしたが、晩節を汚した。
初出:第六十一話

アレックス・キャゼルヌ 34歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍准将(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部後方部長(第十一章開始時点)
能力:後方支援システムの構築と運営にかけては、セレブレッゼ中将に匹敵する技量を持つ。部下の能力を見極める眼力と仕事の割り振りは天才的。会議を通して自分の考えを徹底するスタイル。
略歴:統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥の腹心。失脚したセレブレッゼ中将の代わりに、同盟軍後方部門の司令塔となった。イゼルローン遠征軍の後方支援を統括した。
史実:同盟末期最高の後方支援専門家。ヤン・ウェンリーの後方支援を担当した。
初出:第十八話

ヤン・ウェンリー 27歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十一章終了時点)
役職:宇宙艦隊総司令部作戦参謀(第十一章開始時点)
性格:冷静沈着。責任感が強い。整理整頓ができない。他人の期待通りに振る舞うことを嫌う。
容姿:ハンサムだが、身なりに無頓着なせいで冴えないように見える。
能力:作戦能力は天才的だが、あまり積極的ではない。
略歴:士官学校卒のエリート。エル・ファシル脱出作戦を指揮した後も着実に出世している。統合作戦本部長シトレ元帥の腹心。
史実:自由惑星同盟末期最高の名将。生涯不敗を誇った用兵の天才。
初出:第五話

ユリエ・ハラボフ 24歳 女性 チェコ系
階級:自由惑星同盟軍大尉(第九章終了時点)
役職:憲兵司令官副官(第九章終了時点)
性格:生真面目で繊細。自分を追い込んでしまうところがある。
容姿:すっきりした目鼻立ちの美人。手足が長く、スタイルが良い。身のこなしには無駄がない。
能力:士官学校を上位で卒業したエリート。仕事ぶりは丁寧で細かい。簡潔明瞭で無駄がない文書を作る。徒手格闘の達人。
略歴:エリヤの後任の副官。努力が空回りして、ドーソン中将の不興を買う。エリヤの無神経な言葉に深く傷つき、口もきかない間柄になっている。
史実:登場しない。
初出:第四十一話

シンクレア・セレブレッゼ 49歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十章終了時点)
役職:第十六方面管区司令官(第十章終了時点)
性格:パワフルで自負心が強く、妥協を嫌う。攻勢に強いが、守勢には極端に弱い。
容姿:学者のような風貌。
能力:後方支援システムの構築と運営に卓絶した力量を持つ。リーダーシップにも長けていて、後方支援のプロ集団チーム・セレブレッゼを築き上げた。
略歴:同盟軍の後方支援システムが麻薬組織に悪用された責任を問われて、辺境に左遷された。
史実:ヴァンフリート4=2基地の戦いで帝国軍の捕虜となった。
初出:三十五話

エマヌエーレ・カルーク 54歳 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第八章終了時点)
役職:中央支援集団副司令官(第八章終了時点)
性格:臆病で無責任。
容姿:企業の重役を思わせる恰幅の良さ。
能力:同盟軍最高の補給専門家。危機管理能力に長けた超一流の指揮官。
略歴:セレブレッゼ中将の片腕。ヴァンフリート4=2基地攻防戦では、口実を付けて戦闘に参加しなかった。
史実:登場せず。
初出:三十五話
出:三十五話

エイプリル・ラッカム 49歳 女性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第十章終了時点)
性格:温和でユーモアがある。
容姿:小太り。そこらのおばさんっぽい。
能力:麻薬組織の指導者として、卓越したリーダーシップを発揮した。帝国、同盟両軍を手玉に取る策士。
略歴:グロースママの異名で知られる麻薬組織の最高指導者。軍の後方支援システムを私物化して、麻薬流通網として悪用していた。帝国軍と同盟軍を操ってヴァンフリート4=2基地の戦闘を引き起こし、混乱の中で逃亡に成功した。
史実:登場せず。
初出:三十五話

ループレヒト・レーヴェ(偽名) 三十前後? 男性 ゲルマン系
性格:誠実で公正。正義感が強い。鋼のような自制心を持つ。
容姿:精力的な面構えに広い肩幅。黒い髪。法曹関係者っぽい容姿。
略歴:帝国軍の憲兵。ある要人の使者としてフェザーンでエリヤに面会し、帝国憲兵隊が集めた麻薬組織の資料を渡す。
史実:登場せず
初出:四十四話

ファヒーム 死亡時は50代後半 男性 アラブ系 故人
階級:自由惑星同盟軍少佐(第八章終了時点)
役職:ヴァンフリート4=2基地憲兵副隊長(第八章終了時点)
性格:横柄で口やかましいが、仕事には誠実。
容姿:短い白髪、鋭い目つき。
能力:実務に長けたベテラン。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で取り乱して突出したエリヤを救出した。時間稼ぎのために踏みとどまって戦い、壮烈な戦死を遂げる。
史実:登場せず。
初出:三十五話

カーポ・ビロライネン 34歳 男性 フィンランド系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団参謀長(第五章終了時点)
性格:真面目だが、他人の心情への配慮に欠けるところがある。
容姿:神経質で気難しそうな容姿。実年齢より5年は老けて見える。
能力:実務能力は極めて優秀。情報宣伝にも長けている。
略歴:ロボス大将の懐刀。エル・ファシル義勇旅団ではエリヤを棚上げして、実権を掌握した。
史実:帝国領侵攻作戦の情報主任参謀。
初出:第十九話

マリエット・ブーブリル 36歳 男性 フランス系
階級:義勇軍中佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団副旅団長(第五章終了時点)
性格:外面は良いが、自己中心的で気性が激しい。自己顕示欲が強い。
容姿:上品で優しげな美貌の持ち主。実年齢より5年は老けて見える。
能力:カメラの前では、嫌いな相手に対しても親友のように振る舞える演技の達人。
略歴:元従軍看護師で勲章も持っているが、世間的な知名度は低い。エル・ファシル義勇旅団ではトラブルメーカーだった。
史実:登場せず。
初出:第十九話

フランチェシク・ロムスキー 30代 男性 ポーランド系
職業:エル・ファシル市会議員、内科医師(第二章終了時点)
性格:気さくだがやや軽率。
容姿:大柄。
略歴:エリヤをエル・ファシル星系政庁に連れて行った。
史実:同盟から独立したエル・ファシル独立政府の主席を務めた。
初出:第三話 

 

第十五章 内なる戦い
  第六十五話:一つ終わって一つ始まる 宇宙暦795年9月11~12日 惑星エル・ファシル、星系警備艦隊司令部

 テロリストは恐怖を植え付けて、譲歩を強いることを目的としている。姿が見えなければ見えないほど、戦果が派手であれば派手なほどに、敵に与える恐怖は大きくなる。そのため、テロリストは隠密行動が取りやすい少人数による奇襲を基本としている。暗殺や爆発物を好んで用いるのは、少人数でも大きな戦果を見込める手段だからだ。交通機関やライフラインや政府施設や繁華街を好んで目標にするのは、少人数でも大きな戦果を見込める目標だからだ。何も考えずにひたすら破壊のための破壊を行う存在と思っていては、彼らの思う壺である。動機は不可解な信念に基づいていても、実行にあたってはきわめて合理的なのがテロリストなのだ。

 どんな場所においても、攻撃すれば大きな戦果が見込めるポイントは限られている。エル・ファシル市内でテロの対象となる可能性が高いポイントでは、数日前から軍や警察が厳戒態勢を敷いていた。どんな戦闘組織であっても、構成員の経験や武装の問題で使用できる戦術は限られている。エル・ファシル解放運動が得意とする戦術に関しては、軍や警察が豊富なデータを蓄積している。テロリストとの戦闘においては、陽動に引っかかって注意をよそに向けないこと、奇襲を受けても落ち着いて対処すること、敵の姿を正確に把握することなどを徹底すれば、数的に優位な軍や警察が有利となる。

 9月11日10時8分。俺は臨時保安司令官として星系警備司令部の司令室に陣取り、右隣に臨時副官シェリル・コレット中尉、左隣に臨時参謀長カジミェシュ・イェレン中佐を従えて、エル・ファシル解放運動のテロ部隊を迎え撃とうとしていた。戦術スクリーンには、抽象化されたエル・ファシル市街が地図が映しだされている。アラート音が鳴り、最重要警戒ポイントの一つエル・ファシル発電所が赤く点滅した。メインスクリーンには猛スピードで発電所の正面ゲートを突き破る巨大なトレーラー六台が映っている。まるで映画のワンシーンのような派手な攻撃に息を呑む。

「こちら、エル・ファシル発電所です!トレーラー六台が正面ゲートに向けて突進してきます!」
「こちら、司令部。無人トレーラーを使った陽動は敵の常套手段である。他のゲートから侵入してくる敵に備えるように」

 指示を出し終えると、今度は第一宇宙港が赤く点滅する。メインスクリーンは宇宙港の監視カメラの映像に切り替わり、ビームライフルを持った5、6人の人影を映し出す。数日前から閉鎖されているターミナルビルに侵入してくる者がまっとうな目的を持っているはずもない。

「こちら、第一宇宙港!ターミナルビルのセンサーが侵入者を確認!」
「こちら、司令部。侵入者を急ぎ排除せよ。宇宙港警備本部は侵入経路の確認を急げ」

 俺の出した指示は極めて常識的で何の独創性もない。しかし、陽動や奇襲によって絶えず揺さぶりをかけてくるテロリストに対しては、基本の徹底こそが有効である。手堅く戦うことが治安戦の秘訣なのだ。

「こちら、星系政庁!正面広場に二発の砲撃!迫撃砲によるものと思われます!」
「こちら、恒星間通信センター!通用口付近で侵入者と交戦中!」

 今度は二箇所が同時に赤く点滅する。指示を出そうとマイクに向かうと、またアラート音が鳴った。これで五ヶ所が同時にテロ攻撃を受けたことになる。エル・ファシル解放運動が攻撃を仕掛けてくるのは予想していたが、こんな大規模になるとは思わなかった。上空ではビューフォート大佐が二倍以上の海賊を相手に戦っている。未曾有の非常事態に直面していることを、あらためて理解した。

 緊張のあまり、腹が痛くなってくる。熟考するには少なすぎる時間、判断材料とするには不確実すぎる情報、恐ろしく動きが早い敵。すべての要因が敗北に至る道を示しているように見えて、心の中を不安で満たしていく。状況の進展に付いて行けずに傍観している臨時参謀長イェレン中佐の真っ青な顔、事態を理解しているのかいないのか良くわからないコレット中尉のぼんやりした顔も不安をさらにかきたてた。

「慌てる必要はない。できないことをやろうと思う必要もない。できることを一つ一つやっていこう」

 頭を横に振ると、マイクを通してエル・ファシル市内の全軍に語りかけた。一語一語噛みしめるような力強い口調で、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぎだす。

「今後数時間の戦闘に、この惑星、ひいては同盟全体の未来がかかっている。だからこそ、平常心を保たなければならない。頭に蓄えた知識、手に染み付いた技能、心に刻んだ経験を信じよう」

 平常心を保て。自分の知識と技能と経験を信じろ。そう口に出すたびに心が落ち着いていく。手元のデスクの上にあるマフィンを手にとって一口かじり、脳に糖分を補給した。七年前のエル・ファシルの光景を思い出した。あの時の俺は右も左もわからなかった。

「昨日までの積み重ねが今日を作る。今日の頑張りが明日を切り開く。君達が人間として、軍人として重ねてきた日々の営み。その延長にこそ勝利の道があると、私は信じている」

 型にはまった思考しかできない人間が危機に直面して、いきなり状況を打開できる奇策を思いついたり、未来を正しく予測して切り抜けたりなんてできるはずもない。そんな俺が頼れるのは、エル・ファシルを脱出してからの七年間に積み重ねた努力だけだった。俺は俺を信じたかった。部下も自分自身を信じられない指揮官を信じて戦うことはできない。部下まで俺の不安に巻き込むわけにはいかない。

『次に指揮官を務められる際は、いたずらに勇を好まれませぬよう』

 ヴァンフリート4=2基地で戦死したファヒーム少佐の最期の言葉が脳裏に浮かぶ。あの時の俺は不安から逃れるために突撃して、ファヒーム少佐らの犠牲で辛うじて生き延びた。指揮官の不安は部下の命を奪う。あの時の過ちを繰り返すわけにはいかない。不安を振り払うと、コレット中尉から受け取ったメモに目を通しながら、立て続けに指示を出していく


 9月12日13時。エル・ファシル解放運動との交戦が始まってから二十三時間、五度目の攻撃が終了してから、七時間が経過していた。長期戦になると、圧倒的な戦力を持つ軍と警察が有利になる。市内に展開したテロ部隊は次々と制圧されていき、残った者も包囲網を突破して市外に脱出しようとしている。ビューフォート大佐率いる警備艦隊は倍以上の海賊相手に大勝を収めた。味方の勝利が揺るぎないものとなりつつあったものの、まだまだ油断はできない。敵の策がこれで尽きたとも思えない。

「巡視艦隊司令官より、エル・ファシル保安司令官代理宛てに通信が入っております」

 オペレーターの言葉に司令室が緊張に包まれる。普通に考えれば到着の知らせだろうが、延期、いや中止ということも有り得る。九月に入ってから入ってくる通信は悪い知らせばかりだった。その事実が俺も含めた警備管区司令部の軍人を悲観論者にしている。

「繋いでくれ」

 自分でもびっくりするぐらい疲れきった声で、オペレーターに取り次ぎを指示する。スクリーンに第七管区巡視艦隊司令官ホールマン少将が現れた。地下の司令室にこもって徹夜で指揮を取り続けた俺の目には、少将の禿げ頭も光り輝いて見える。

「こちら、第七管区巡視艦隊。間もなく、惑星エル・ファシル衛星軌道上への展開を開始する。受け入れ体制の準備を願いたい」

 その瞬間、司令室は弾けるような歓声に包まれた。左右を見回すと、コレット中尉はつまらなさそうに視線を逸らし、イェレン中佐は顔に喜色を浮かべて視線を合わせる。両手を上げてハイタッチの姿勢を取ると、イェレン中佐もそれに応じ、手の平を力強く叩き合わせた。それを見たスタッフは次々と俺に駆け寄ってきて、ハイタッチを求める。自らの総指揮で勝ち取った初めての勝利は、たまらない味だった。

 ホールマン少将率いる第七管区巡視艦隊二千九百八十隻は惑星エル・ファシルの衛星軌道上に展開すると、海賊の残存部隊の掃討に取り掛かった。上陸部隊のシャトルが上空を埋め尽くす光景は、各地で猛威を振るっていた暴徒の闘志を打ち砕くには十分であった。こうして、9月2日から10日にわたって続いた惑星エル・ファシルの動乱は終結した。



 第七管区司令部によってエル・ファシル保安司令官に任命された第三十四師団長ガンドルフィ准将に業務を引き継いだ俺は、その足で士官食堂に向かった。長時間の指揮で疲れきっていたが、神経が高ぶっていて眠気は感じない。何かを腹に入れてから、眠るなり他のことをするなりしようと思ったのだ。他の士官も俺と同じことように思っていたらしく、激戦の直後であるにも関わらず、士官食堂は大勢の客で賑わっていた。

 最初にダーシャ・ブレツェリを探したが、食堂の中には見当たらない。不安になって携帯端末でメールを送ると、「これから寝る」という返事が返ってきた。彼女は瞬発力がある反面、スタミナに欠けている。眠気が勝利の興奮をあっさり吹き飛ばしてしまったのだろう。次にビューフォート大佐を探すと、端っこの席に数人で座っていた。

「やあ、エル・ファシルの英雄」
「司令官代行も今日からそう呼ばれますよ」

 警備艦隊司令官代行ビューフォート大佐と軽口で挨拶を交わし合った。思えば上官とこういう関係になるのは初めてである。ドーソン中将は冗談を言うような人でもないし、部下が冗談を言うのも良く思わないだろう。

「私のようなただのおっさんが英雄なんて呼ばれたら、視聴者が怒るんじゃないか?英雄というのは、君みたいに画面映えする容姿を持っていなければならないと昔から決まっている」
「統合作戦本部にはどんな人でも格好良く撮れるカメラマンと、どんな人でも格好良く見せるスタイリストがいるんですよ。おかげで俺も視聴者の怒りを買わずに済みました」

 七年前のエル・ファシル脱出作戦で英雄に祭り上げられた俺には、カメラマンのルシエンデス曹長とスタイリストのガウリ軍曹が付けられた。この二人には随分と世話になった。軍隊に入って初めて親しくなった相手でもあり、今でも付き合いが続いている。

「エル・ファシルの英雄とは懐かしい響きですな。ヤン・ウェンリー准将、いや当時は少佐でしたな。あの方と仕事でご一緒したことがありました」
「ほう、パトリチェフ中佐もヤン准将を知っているのか」
「エコニアの捕虜収容所で二週間だけ上司と部下の関係でした。職を解かれてハイネセンに帰還する道中の二ヶ月も同行させていただきました」
「所長が横領で逮捕された収容所だったか。捕虜の反乱がきっかけで露見したんだったね」

 警備艦隊副司令官代行のフョードル・パトリチェフ中佐とヤン・ウェンリーの仲を知っている者は、それほど多くない。ヤンは着実に昇進を重ねて27歳にして准将の階級を得ていたが、エル・ファシルの英雄、シトレ元帥派のホープといった立場にばかり注目が集まっていて、彼自身についてはあまり知られていない。俺が二人の関係を知っているのは、前の歴史を知っているからだ。そこではエコニア収容所で起きた事件は、同盟末期最高の名将ヤンとその腹心パトリチェフが出会うきっかけとして後世に記憶されていた。

「あの時はいろいろと大変でしたが、思い出してみるとなかなか楽しかったですなあ。機会があれば、またあの方とご一緒したいものです」
「エル・ファシル脱出の際にヤン准将が旗艦にしたのは私の船でね。同じ人間とは思えなかった。軍歴二十年の私が一艦の指揮でもいっぱいいっぱいだったのに、士官学校を出て一年ちょっとのヤン准将は千隻の大船団を一人で指揮していた。天才とはああいう人のことを言うんだろうね」
「いやあ、そんな凄い人には見えませんでしたよ」

 パトリチェフ中佐とビューフォート大佐のヤン評ははっきりと分かれている。世に出る前のヤンを天才と呼んだビューフォート大佐の評価、後にヤンの腹心中の腹心となるパトリチェフが語る「凄い人に見えない」という評価のいずれも興味深いものがある。

「一人でスタッフ十数人分の仕事をできる人なんて見たこと無いよ。統合作戦本部あたりには、ああいう人がゴロゴロいるのかもしれないけど」
「統合作戦本部は知りませんが、少なくとも宇宙艦隊総司令部には滅多にいませんよ」
「ああ、そういえば、君は去年のイゼルローン遠征で参謀やってたんだね」

 ビューフォート大佐とパトリチェフ中佐の会話に割り込む。一人で十数人分の仕事を処理できる軍人なんて、ドーソン中将ぐらいしか見たことがない。それも長年の経験と何でも自分で仕切りたがる性格の賜物であって、中尉になって間もない頃からそんな能力を持っていたヤンとはわけが違う。

「ええ。軍中央では一人で普通のスタッフ何人分もの仕事を処理するのではなく、一人分の仕事を最速の速度と最高の質で処理することが求められます」
「そうなんだねえ」
「なるほど」

 俺の言葉に二人は納得したようにうなずいた。ビューフォート大佐は航宙科学校を卒業してからずっと地方部隊で勤務してきた。パトリチェフ中佐は士官学校卒業者ではあるが、砲術士官や艦長としての勤務が長く、中央勤務とは縁が無い。三人の中で学歴が最も低い兵役出身者の俺が一番中央勤務に詳しいというのも妙な話である。

「フィリップス中佐から見たヤン准将はどんな人だったんだね。エル・ファシル脱出作戦の時は一緒にいたはずだが」

 パトリチェフ中佐の質問に少し考えこむ。ヤンと直接接した期間はそれほど長くない上に、軍隊のことを良く知らなくて、前の人生で読んだ本の評価をそのまま引きずっていた頃だ。先入観を抜きに評価すると、「冴えない奴」ということになるだろう。しかし、そのまま言えば角が立つ。言葉を選ばなければならない。

「掴み所の無い人でした」
「なるほど」
「同じ人を見ても、受ける印象は人それぞれ。面白いね」

 曖昧にお茶を濁しただけなのに、妙に感心されてしまった。詳細な説明を求められたら困る。話の矛先を変えなければならない。

「凄い人には見えないとパトリチェフ中佐はおっしゃいましたよね。なぜそのようにお感じになったんですか?」
「切れ者にも勇者にも見えない。それどころか、軍人にも見えない。普通の人だった」

 前の歴史でヤンが成し遂げた偉業を知らない人から見れば、普通の人という評価は正しい。彼程度にだらしない人なんて、いくらでもいる。彼程度の読書家も珍しい存在ではない。ユリアン・ミンツが書いた伝記によると、エコニアでのヤンは持ち前の知略を発揮する機会がなかったそうだ。だとすれば、エル・ファシルの英雄という先入観に惑わされずに、ヤンを普通の人と評価したパトリチェフは公正と言っていい。

「整理整頓ができない。時間を守れない。正直すぎて見栄を張れない。老人に頭が上がらない。三次元チェスも弱い。頼りないところだらけだったよ」

 ヤンの駄目なところをあげていくパトリチェフは、どこか嬉しそうに見える。

「だから、助けたくなるんだろうなあ。あの老人もそう思っていたはずさ。私もヤン准将の人徳のおこぼれで助かったようなものさ。足を向けて寝られんね」

 あの老人というのは、収容所長の陰謀からヤンとパトリチェフを救った捕虜の顔役のことだろう。前の人生で俺が暮らしていた帝国の捕虜収容所ではコストを省くために、顔役を頂点とする自生的な秩序に管理を依存していた。自生的な秩序に依存した管理体制は、同盟の収容所も同じだ。捕虜の集団の中で頭角を現して、顔役になるような人物が只者であるはずもない。収容所に赴任して間もないヤンが顔役の好意を獲得したというのは、驚くべきことである。前の歴史でもヤンは並み居る曲者の心を掴んできたが、微妙に頼りないところが親切心をくすぐったのかもしれないと思った。

「ああ、頼りないというのは感じました。従卒みたいに身の回りの世話をしていたんですが、大雑把な方でした」
「そりゃ、フィリップス中佐と比べたら、誰だって頼りないんじゃないかね」

 パトリチェフ中佐の意外な言葉に驚く。俺ほど頼りにならない奴なんて、そうそういるもんじゃないぞ。ヤンと違って、人の親切心をくすぐれないけど。

「そんなに頼りになりそうに見えます?」
「いつも落ち着いていて、喋りがうまい。デスクワークから白兵戦までこなす。何をしても絵になる。同じエル・ファシルの英雄でも、ヤン准将とは大違いさ」

 誰のことを言ってるんだろうかと、パトリトェフ中佐の言葉に耳を疑ってしまった。物凄く頼りになりそうじゃないか。

「いつも不安だらけですよ。戦場に出たら敵は怖いし、味方の目も気になります。昨日からのテロ部隊との戦いだって、緊張しすぎて何がなんだかわかりませんでしたよ」
「そうなのかい?落ち着いて指揮していたように見えたけど」

 ビューフォート大佐も何か勘違いしているらしい。

「情報も時間もなかったし、対テロ作戦の指揮も初めてでしたが、迷っていられませんでしたからね。無我夢中で指揮をとっていたら、いつの間にか戦いが終わってました」

 謙遜でも何でもない。正直な気持ちだ。ビューフォート大佐のような歴戦の勇士と俺ではものが違う。

「なんだ、君も私と同じか」

 その言葉にパトリチェフ中佐らテーブルを囲んでいる全員が驚いて、ビューフォート大佐の方を一斉に向く。

「戦況の変化に付いていくのが精一杯でね。まったくわけのわからない戦いだったよ」

 二倍以上の敵を斜めに突破して分断した後に、時間差で各個撃破して壊滅に追いやった指揮官のセリフとはとても思えない。

「計算通りに戦いを進めたものとばかり思っていました」
「そんなことできるわけないだろう。主導権を握ったからと言って、時間も情報も足りないことには変わりない。先手を打ち続けて、勝機が巡ってくるのを待つしかなかった。まあ、運が良かったね。百パーセント予想した通りの戦果を得ることは決して無いのに、二百パーセントの戦果を得ることはある。用兵って奥が深いよ」

 あまりにも正直過ぎるビューフォート大佐の回答に腰が抜けてしまう。しかし、戦場が絶え間ない偶然の連続にとって構成されるのであれば、計算通りにできるわけがないというのは、むしろ当然のことかもしれない。

「マスコミの前では言わない方がよろしいでしょうなあ。計算通りに勝ったことにしなければ困る人も多いでしょうから」

 パトリチェフ中佐が苦笑しながら言う。

「完全に終わったわけでもないのに、マスコミの心配なんて気が早過ぎないかい?」
「エル・ファシル星系は第七方面管区の直轄下に入りました。最高評議会も緊急対策本部を作って、正規艦隊派遣も視野に入れた対応を検討しているようですな。あとはハイネセンの偉い人達に任せて、傍観者に徹しても許されるんじゃありませんかね」
「たかだか一星系の動乱に正規艦隊を動かすって?フェザーン方面航路に治安出動する第一艦隊をこちらに差し向けるわけにもいかないだろう」
「国防委員長がもう一個艦隊動員するように閣議で提案したそうですよ。そんな予算、どこにもありゃしないのに」

 正規艦隊は一個あたり艦艇一万数千隻、兵員百数十万人という桁外れの戦力を持っている。それだけに動員するだけでも多額の予算を必要とする。一度の出兵で動員される艦隊が三個から四個艦隊の範囲に留まるのも予算の制約によるところが大きい。国防予算は対帝国戦に重点的に投入されているため、正規艦隊を治安出動させる予算を確保するのは不可能に近い。第一艦隊の動員だって、航路の安定を望むフェザーンが費用の半分を負担して、ようやく実現にこぎつけたのだ。トリューニヒトの提案は却下されて当然である。

「しかし、エルゴンからイゼルローンに至る航路はエル・ファシル方面航路と似たりよったりだ。正規艦隊でも投入して海賊を掃討しなければ、帝国軍が攻めてきても迎撃できないぞ」

 ビューフォート大佐と同じ理由でイゼルローン方面航路への正規艦隊投入を主張する者がいないわけでもなかったが、財政難を理由に却下されてきた。極右思想を持つネットユーザーの中には、「イゼルローン方面航路の宇宙海賊を放置しているのは、帝国に媚びる反戦派の陰謀」などと書き込んでいる者もいるが、さすがにそれはこじつけが過ぎるというものだろう。

「動員されるとしたら、第四艦隊か第六艦隊でしょうな。どちらの司令官も航路保安に強い人物です。どちらにせよ、我々には関係のない話ですがね」

 航路保安を担当する地方部隊は叩き上げが多いが、星系管区や方面管区の司令部には士官学校を卒業したエリートが多い。同盟軍の出世コースといえば、ほとんどの人は軍中央機関や正規艦隊のポストを渡り歩くコースをイメージするだろうが、星系管区や方面管区のポストを歴任しながら階級を上げて将官に至るコースも用意されている。第四艦隊司令官パストーレ中将と第六艦隊司令官ムーア中将は、航路保安で実績を重ねて、方面管区司令官を経験した後に正規艦隊司令官に就任した。幕僚にも航路保安に強い人材が多い。

「いっそ、どっちかが第七方面管区の司令官になってくれたらいいのにね。今の司令官は正規艦隊が長かったから、地方がわからないんだよ。宇宙の航路警備、地上の治安対策をセットにした包括的海賊対策は、地方に長くいた人じゃないとできないからね」

 同じ中将ポストではあるが、正規艦隊司令官の用兵と方面管区司令官の用兵は異なる。ビューフォート大佐が嘆くとおり、パストーレ中将かムーア中将が第七方面管区の司令官だったら、エル・ファシル方面の海賊対策もかなりマシになっていたかもしれない。

 理想の第七管区司令官人事について話し合っているビューフォート大佐とパトリチェフ中佐を横目にパフェを食べようとすると、食堂に据え付けられたスクリーンからニュース速報を知らせるチャイム音が流れた。どんなニュースかは知らないが、この十日間にエル・ファシルで起きた事件と比べると大したことはないだろう。そう思って何気なくスクリーンに視線を向ける。

「本日15時頃、エルゴン星系の惑星シャンプールにある第七方面管区司令部が襲撃されました。被害状況及び犯人の詳細は不明」

 画面には第七方面管区司令部ビルが炎上しながら崩落する様子が映し出されている。六年前の俺は第七方面管区司令官ワドハニ中将の従卒を務めながら、幹部候補生養成所の受験勉強に励んでいた。努力する楽しみを教えてくれた懐かしいビルの惨状に気が遠くなっていく。

 シャンプール基地のど真ん中で多くの部隊に取り囲まれて鎮座している司令部ビルにテロリストが到達するなど、常識では考えられない。しかし、シャンプールに駐屯する地上部隊二十個師団のうち、第七方面管区司令部の警備戦力と予備戦力を兼ねる三個師団は、すべてエル・ファシルに派遣されている。また、第七方面管区司令部はこの十日間、エル・ファシル動乱への対処に忙殺されていて、警戒が甘くなっていた。ハイネセンの情報機関もやはりエル・ファシルに目が向いていた。

 9月2日のゲベル・バルカル宙域の戦いに始まるエル・ファシル動乱は、すべて第七方面管区司令部襲撃のための壮大な陽動に過ぎなかったのだ。辺境星系に過ぎないエル・ファシルと複数星系の防衛を統括する方面管区司令部では、政治的な価値は比べ物にならない。同盟史上でも稀に見る大規模テロの前に、勝利の興奮は吹き飛んでしまっていた。 

 

第六十六話:対テロ総力戦体制 宇宙暦795年9月12日~10月 惑星エル・ファシル~惑星ハイネセン

 宇宙暦795年9月12日。エルゴン星系惑星シャンプールの第七方面管区司令部はテロリストの攻撃によって陥落。情報は錯綜しており、被害状況、犯人ともに不明。主要マスコミは報道特番を組んで、巨大な司令部ビルが崩落する画像を繰り返し流した。ネットでは、眉唾ものではあるが刺激的な情報が書き込まれている。最高評議会議長ロイヤル・サンフォードは、テロが発生から二時間後に国家非常事態宣言を議長権限で発令した。士官食堂から部屋に戻った俺は眠ることもできずに、テレビを眺めていた。

 画面には同盟議会が映しだされている。現在は戦時特別法に基づく最高評議会議長への非常指揮権の付与動議、三百億ディナールの対テロ臨時予算案について話し合われていた。最高評議会議長は同盟軍全軍の最高司令官であったが、通常は議会によって指揮権を制限されている。議会が戦時特別法に基づく非常指揮権付与措置を承認して初めて、完全に指揮権を振るうことができるのだ。予算案については、言うまでもないだろう。統治権力の肥大を嫌う反戦派の抵抗が予想されていたが、最左派の反戦市民連合以外は反対の意向を示していていない。

 議員に向けて演説をする最高評議会議長ロイヤル・サンフォードの声は小さくて抑揚に欠けており、内容もスピーチライターが用意した原稿を棒読みするだけだった。この七十過ぎの太った老人が、未曾有の国難に立ち向かう指導者たるにふさわしいと思っている者は誰一人としていないだろう。閣僚歴、党役員歴ともに豊富で、先例を尊重して他人を立てながら組織を円滑に運営する能力に長けているサンフォードは、最高評議会書記局長か党幹事長であれば、立派に務め上げるだろう。しかし、リーダーシップは今ひとつだ。このような人物の指導で悪魔のように狡猾なテロリストに立ち向かうことを思うと、心細さを禁じ得ない。

 サンフォードが退屈な演説を終えて、型通りの拍手を背に演壇を降りると、国防委員長ヨブ・トリューニヒトが代わって演壇に登る。原稿は持っていない。若くてハンサムな彼が演壇に立つと、老齢で風采が上がらない議長の演説は前座でしか無かったように錯覚してしまう。

「市民諸君。今日、我々の祖国が暴力による挑戦を受けた。犠牲となった人々は、祖国のために命を捧げてきた兵士だった。そして、誰かの父親であり、母親であり、兄であり、弟であり、姉であり、妹であり、友人であり、隣人だった人々だ。卑劣で残虐な暴力は、国家から兵士を、市民から家族や友人を永遠に奪い去った」

 犠牲者が統計の数字ではなくて顔のある人々であることを、トリューニヒトはしんみりとした調子で語りかけてくる。抑制されてはいるものの、力強い声と相まって心に染み入っていく。サンフォード議長とはまるで違う。

「第七管区司令部ビルの崩落は、単に一つのビルが破壊されたという以上の意味を持っている。我々の家族や友人が取り巻いた炎の中で生きながら焼かれていき、ビルの崩落に巻き込まれて生き埋めになったのだ」

 テレビで流れた司令部ビル崩落の映像の中で、どれほど多くの人が死んでいったかをトリューニヒトは強調した。今日一日でうんざりするほど繰り返し見せられた映像だ。嫌でも脳内にイメージが浮かび上がってくる。

「テロリストはこのような暴挙を行うことができるのか。誰かにとって大切な家族であり、友人である人々を殺すことに心の痛みを覚えなかったのか。なぜ、我々の家族や友人は殺されなければならなかったのか。そう思うたびに悔しさと悲しみが湧き上がってくる」

 トリューニヒトの問いかけに沈痛な思いがにじんでいるように聞こえて、うるっときてしまった。親しい人がテロの犠牲者になっていたら、泣いてしまっていたかもしれない。そう思われる名調子だ。

「テロリストは家族や友人を殺すことで、我々が恐れをなして屈服するとでも思っているのかもしれない。しかし、それはとんだ思い違いだ。愛する者を奪った相手に屈服する者がこの世のどこにいるというのだろうか。怒りや悲しみはあっても、恐怖するいわれなどない。我々を屈服させようというテロリストの企みは、既に失敗に終わっている」

 シンプルだけど正しい。俺だってダーシャやアンドリューを殺されたら悲しい。殺した奴の言うことなんか聞きたくない。

「我々は誇り高き自由の民だ。ゴールデンバウムのくびきですら、我々を縛ることはできなかった。まして、テロリストなどに何ができるというのか。暴力で我々を支配しようと言う者に屈してはならない。我々の父親、母親、兄、弟、姉、妹、友人、隣人を殺そうとする者を許してはならない。自由の砦、我らが祖国、自由惑星同盟に殺人者や脅迫者の居場所など、寸土たりとも存在しない」

 自分達が自由の民であることを強調する一方で、テロリストを殺人者、脅迫者と断じるトリューニヒトの口調は、やや熱を帯びてきている。いつの間にか、彼の目も強い輝きを放っていた。一言一句足りとも聞き逃すまいと、画面を食い入るように見詰めた。

「暴力への抵抗。それは自由の本質である。アーレ・ハイネセンが長征一万光年の旅に出発してから三百三十二年にわたって、自由と暴力の戦いは続いてきた。暴力でビルを打ち砕くことはできても、我々の精神を打ち砕くことはできない。それは歴史が証明している。自由とそれを求める意思より強いものはないのだ」

 さらに言葉に熱がこもった。トリューニヒトはテロリストとの戦いは自由と暴力の戦いなのだと強い調子で語る。彼の言葉を聞いていると、まるで自分も強くなったような気分になってくる。

「我々の力を祖国の旗のもとに結集しよう。自由を守るために戦おう。家族や友人が暴力に脅かされることのない世界のために」

 トリューニヒトが顔を紅潮させて、大きく力強い美声で戦いを呼びかけると、議場は大きな拍手に包まれた。ほとんどの議員は与党反主流派のトリューニヒトに非好意的なのに、それでも心からの拍手を送らざるを得ない。議員たちの気持ちは良く分かる。内容よりも何よりも彼の演説は耳に心地良い。一種の音楽みたいなものだ。いつもの気さくなトリューニヒトも魅力的だけど、演説をしている時のトリューニヒトも魅力的だった。

 同盟議会は最高評議会議長への非常指揮権付与、対テロ臨時予算案を反戦市民連合を除く全会派の賛成で可決。これはトリューニヒトの名演説とは関係ないだろう。与党第二党で反戦派最大勢力の進歩党が反対の意思表示をしなかった時点で趨勢は決まっていた。テロの続報は気になるが、さすがにそろそろ寝ないとまずい。もう四十時間以上も起きているのだ。テレビを消そうとすると、ニュース速報を知らせるチャイム音が流れた。ぼんやりする頭でテロップを見る。

『二十三時頃、帝国軍艦隊がイゼルローン回廊からティアマト星系に侵入』

 指揮通信機能が集中している司令部ビルが完全に破壊されたことによって、エルゴン星系からイゼルローン星系に至る辺境星系の警備を統括する第七方面管区の機能は著しく弱体化した。司令官も未だ生死不明のままだ。副司令官を兼ねる巡視艦隊司令官ホールマン少将はエル・ファシルの動乱収拾にあたっていて、すぐには動けない。ティアマト星系に侵入した敵艦隊の数は不明であるが、組織的な抵抗は困難だろう。まだまだ、自由惑星同盟の悪夢は終わりそうになかった。



 第七管区司令部陥落から二週間。三万隻を越える戦力を有する帝国軍はほとんど抵抗を受けずに進軍を続けたが、エルゴン星系で宇宙艦隊司令長官ロボス元帥率いる同盟軍三個艦隊と遭遇した。エルゴン星系を攻略されたら、イゼルローン側の辺境星系は戦わずして帝国の手に落ちるだろう。ロボス元帥の判断ミスから敵の左翼部隊の側面奇襲を受けて、一時は全軍潰走の危機に陥ったものの、第十艦隊司令官ウランフ中将の奮戦によって痛み分けに持ち込み、どうにか進軍を食い止めた。

 一方、一世紀ぶりの非常指揮権を手中にしたロイヤル・サンフォードのもと、同盟社会は対テロ総力戦体制に突入していった。軍の地上部隊と警察の治安警備部隊は総動員されて、政府施設、軍事基地、核融合発電所、エネルギー備蓄基地、通信センター、空港、ターミナル駅、大規模港湾といった重要施設の警備にあたった。すべての宇宙港は軍の統制下に置かれて、惑星間の航行は大きく制限されている。デマの蔓延を防ぐため、すべての通信手段は中央情報局の統制下に置かれることとなった。報道は所轄官庁である情報交通委員会の統制下に入っている。

 政府の措置は同盟憲章に定められた個人の権利を大きく制限するものであったが、テロリストによる方面管区司令部陥落と辺境星系失陥の危機という事態に衝撃を受けた市民はこれを受け入れた。同盟軍は百五十年の長きに渡る対帝国戦争を通じて、社会の守護者というイメージを市民の意識に深く植え付けている。現在の社会で安住している大多数の者にとって、第七方面管区司令部ビルの崩壊は日常の崩壊だったのだ。対帝国戦争と不景気は強い閉塞感をもたらしていたが、日常が続くことを疑う者はいなかった。テロリストの攻撃は漠然と社会が共有していた秩序信仰に大きな一撃を加えたのである。

 秩序の敵であるテロリストを滅ぼさなければ、日常を取り戻すことはできない。そういう市民感情がテロリストへの報復を求める世論を急速に広げていった。テロにタイミングを合わせたかのような帝国軍の侵攻も追い風となった。低迷していたサンフォードの支持率は驚異的な高水準に跳ね上がった。メディアには右派論客の統一正義党代表マルタン・ラロシュ、愛国作家連盟専務理事エイロン・ドゥメックらが連日登場して、テロリストとそれに同情的な人々を激しく攻撃した。政治に無関心と見られていた有名人も競って愛国的な発言を行い、ネットはサンフォード支持とテロリスト糾弾の書き込みで埋め尽くされた。一方、政府に対して懐疑的な者、テロリストに同情的な者はたちまち吊し上げにあった。テロの六日後に政府の強権化を憂慮する共同声明を出した反戦派作家二十四名は世論の批判を浴びて、声明撤回に追い込まれている。

 警察と情報機関の総力を上げた捜査にもかかわらず、同盟社会の憎悪を一身に集めるテロリストの正体は未だ判明していない。テロ組織のエル・ファシル解放運動や宇宙海賊のヴィリー・ヒルパート・グループと関係していることは明らかだったが、どちらの線からも有力な情報は得られなかった。具体的な犯人を求める世論に応えるように、マスコミは、亡命者、新興宗教、退役軍人といったイメージの悪い社会的少数者、各惑星の自治権拡大を求める分権主義者、各星系共和国において同盟からの離脱を唱える分離主義者といった反体制派などが事件に関与しているかのような報道を繰り返していた。

 久々にハイネセンの土を踏んだ時、かつてのように英雄に祭り上げられて、反テロ宣伝に利用されるんじゃないかと身構えていた。しかし、第七方面管区司令部陥落とそれに続く帝国軍侵攻、対テロ総力戦争という大きな渦の中では、俺がエル・ファシルで立てた功績はちっぽけなものだった。現在の英雄はテロとの戦いを指揮するサンフォード議長、オピニオンリーダーにのし上がったラロシュやドゥメックらであって、他の英雄は必要とされていなかった。

 英雄にこそならなかったものの、軍はエル・ファシル動乱で活躍した者の功績を正当に評価してくれている。アーロン・ビューフォート大佐は念願の准将、俺とフョードル・パトリチェフ中佐は大佐への昇進を果たして、勲章も獲得した。駆逐隊首席幕僚スラット、駆逐隊情報幕僚メイヤー、臨時保安参謀長イェレン、臨時保安司令官副官コレットらあまり頼りにならなかった部下達もみんな一階級ずつ昇進した。ダーシャ・ブレツェリ中佐は勲章のみで昇進はしていない。

「ジェネラル・テレビジョンが地球教に名誉毀損で訴えられたって」

 ベッドに潜っている俺の隣でダーシャは携帯端末をいじっていた。たぶん、ネットニュースを見たのだろう。ジェネラル・テレビジョンは特にひどい飛ばし報道をしている。訴えられたとしたら、いい気味だ。

「へえ、何やらかしたの?」
「脱会トラブルを扱った番組の最後に、第七方面管区司令部ビルの崩落映像に『地球は我が故郷、地球を我が手に』ってテロップを付けた映像を挿入したみたい」
「ああ、今の情勢でそれやったらアウトだよね」

 今はテロリストと繋がりがあると思われるだけで、社会生命が絶たれかねない。エル・ファシル解放運動を二十年前に脱退して組織と完全に縁を切った元幹部が経営する会社が、テロの二日後にすべての取引先から取引停止を告げられたという事件も起きている。訴訟を起こすという地球教の対応は妥当だろう。

「これ凄いよ。エリューセラ民主軍が例のテロへの支持を撤回」
「ジュニアスクールの卒業式の会場にゼッフル粒子をばらまいて、二百人の児童もろとも市長を爆殺したような連中が世論を気にするなんて。ほんと、凄いことになってるね」

 同盟のテロリストにとって、地方の治安を統括する方面管区司令部は憎たらしい存在だ。テロで陥落したら、両手をあげて歓迎するはずだと思ってた。しかし、実際はほとんどの組織が黙殺、あるいは不支持を表明している。支持を表明した組織も次々と撤回していた。あまりの非道ぶりに「全人類の敵」と言われたエリューセラ民主軍まで撤回に追い込まれる空気が恐ろしくなる。

「凄いことというか、怖いことって言ったほうがいいかな」
「怖い?」
「いや、だって。社会全体があのテロリストを憎まないといけないって流れじゃん。ちょっとでも同情的なことを言うと、袋叩きにされるでしょ。エリューセラ民主軍まで空気に流されてるのが怖いよ」

 前の人生で俺が捕虜交換から帰った時のことは忘れられない。帝国領侵攻で空前の大敗を喫して正規艦隊主力を失ったことに衝撃を受けた人々は、団結を強めなければ帝国に滅ぼされると信じ込んだ。過激な反帝国発言や愛国発言がもてはやされ、団結を乱す非国民とみなされた者への迫害は苛烈を極めた。エル・ファシルで市民を見捨てて逃げたという汚名を背負った俺は格好の迫害の対象だった。しかし、最初からすべての人が俺を迫害したわけではない。俺が故郷に戻って間もない頃は、同情を示す人も少しはいたが、嫌がらせにあって同情を示すのをやめていった。一番熱心に弁護してくれた姉のニコールは、右腕を骨折して入院した日から、俺を視界に入れるのも嫌がるようになった。今の空気はあの頃の空気と似ている。

「意外ね。エリヤは空気に流されるのが怖くないタイプだと思ってた」
「荒んだ空気に流されるのは嫌だよ」

 前の人生で経験したことなんて、話せるわけもない。正直な話、前の人生の記憶がだいぶ邪魔に感じてきていた。嘘がない関係を誰とも築けないというのは、とても寂しかった。特にダーシャのような素直な相手には、申し訳なく感じてしまう。

「可愛いなあ、もう」

 ダーシャは笑って俺の髪をくしゃっと撫でた。今のセリフのどこが可愛いんだろうか。なんか恥ずかしくなってしまう。

「さ、そろそろ行かなきゃ。準備しよう」

 照れているのがばれる前に無理やり話題を変えて、ベッドから上体を起こして背を向ける。今日はエル・ファシルからハイネセンに戻ってから、宇宙艦隊総司令部付の肩書きで待機していた俺達が新しい辞令を受ける日なのだ。

「えー、まだ早いじゃん」
「軍隊は十分前行動です。定時ギリギリは遅刻だよ」
「もうちょっとのんびりしようよ」

 ダーシャは甘ったるい声でそう言うと、背後から俺の首に両腕を回して、グッと体重をかけて引っ張ってきた。ちょっとだけ心が動いたが、気を取り直して立ち上がる。彼女の腕は俺の首からするっと離れていった。

「はい、早く着替えてね」

 クローゼットを開けた俺は、ダーシャの軍服と下着を手早く取り出して、ベッドに放り投げた。それから、自分の軍服と下着を取り出して手早く着用する。今日でこんな朝も終わりかと思うと少し寂しいが、仕事だから仕方がない。

 市民の怒りはテロリストだけでなく、宇宙海賊にも向けられていた。もともと、宇宙海賊は市民に憎まれている。星間国家にとって、各惑星を結ぶ流通路は生命線だ。近年の同盟では宇宙海賊の活動が活発化して、星間流通の停滞を引き起こした。民間船の警備コスト、高額な航路保険料などの安全保障費用が物価を押し上げた。生活を圧迫する宇宙海賊への怒りは日増しに高まっていたが、先日のテロにエル・ファシルの海賊組織が協力していたことで頂点に達したのだ。

 クブルスリー中将率いる第一艦隊がフェザーン方面航路に治安出動することはだいぶ前から決まっていたが、世論の後押しを受けてイゼルローン方面航路にも正規艦隊が出動されることが決定した。二方面の海賊を一挙に掃討しようという一大治安回復作戦だ。テロリスト、そして宇宙海賊。795年後半の同盟軍は治安を脅かす内なる敵との戦いに全力を尽くすことになる。俺とダーシャ、ビューフォート准将はイゼルローン方面に出動する艦隊に転属することが決まっていた。 

 

第六十七話:熱狂の果ての治安出動 宇宙暦795年10月~796年2月 イゼルローン方面辺境星域

 対帝国戦以前の同盟軍は来るべき帝国との対決に備えて鍛えられていたとはいえ、あまり輝かしい存在ではなかった。ダゴン星域会戦以前の国防白書が宇宙海賊と分離主義者に対して多くのページを割いて、帝国に関しては形式的な記述に留まっていたことからも伺えるように、国内の敵に備える治安軍の性格を強く帯びた軍隊であった。

 アーレ・ハイネセンの長征に従ったグループが建国したバーラト星系共和国と、銀河連邦から分離したロストコロニーにルーツを持つ十二の星系共和国の連邦として発足した自由惑星同盟は、当初から中央集権派と地方分権派の対立に悩まされてきた。各地に散在するロストコロニーの参加、中核十三星系の植民星の正規加盟国昇格によって、加盟国が増加するにつれて、両派の対立も深刻になっていく。指導的な地位を独占してきたバーラト星系共和国に反発して、連邦からの離脱を望む星系も後を絶たなかった。そんな中で同盟軍は常に中央政府の側に立って、地方と対立した。正規艦隊は頻繁に治安出動して、自治権拡大や分離独立の動きを押さえ込んだ。建国からダゴン星域会戦までの同盟拡大期は黄金の一世紀と言われるが、絶え間ない分裂の危機を高度経済成長によって辛うじて乗り切った内紛の一世紀であったと指摘する歴史家も少なくない。

 対帝国戦争は中央集権派と地方分権派の対立に終止符を打ち、同盟軍の武力は外敵に向けられることとなった。地方に突きつけられた中央政府の剣は、帝国から市民を守る盾に生まれ変わった。市民は軍を社会の守護者として信頼しているが、地方抑圧に奔走した過去が忘れ去られたわけではない。期待と恐怖という相反する感情が市民の軍隊観を形成している。軍隊に批判的な反戦派もその例外ではない。市民の守護者たる役割を期待するがゆえに苦言を呈し、再び武力を国内に向けることを恐れるがゆえに警鐘を鳴らすのだ。対帝国戦争が始まってから、正規艦隊の治安出動が分艦隊規模の分遣に留められてきた最大の理由は予算不足であったが、市民が軍に対して潜在的に抱いている恐怖心の影響も大きい。

 これらの経緯を踏まえると、二個正規艦隊を動員した海賊討伐作戦「終わりなき正義」があっさり決定されたのは、驚くべきことといえる。主戦派はもちろん、反戦市民連合を除く反戦派もこれを支持した。エルファシル動乱、第七方面管区司令部陥落、帝国軍侵入に至る陰謀の衝撃は、現在の社会に安住していた人々の心を大きく揺るがせた。社会秩序に大きな一撃を加えた見えない敵がもたらした恐怖は、治安出動への忌避感情をあっさり吹き飛ばして、平時では受け入れられないような大規模作戦の実行を可能にした。極限まで追い詰められた者に残された選択肢は、必死の反撃以外にはない。テロリストと宇宙海賊は勝ち過ぎたのだ。



 宇宙暦795年10月14日。自由惑星同盟はフェザーン方面航路とイゼルローン方面航路に巣食う宇宙海賊を掃滅べく、「終わりなき正義」作戦を発動した。宇宙戦力としては二個正規艦隊二万六千三百隻、地上戦力としては八十四個師団。後方支援要員と合わせて六百万を越える将兵が動員される。治安出動としては、ダゴン星域会戦以降では最大の規模となる。

 フェザーン方面はシトレ派の重鎮として知られる第一艦隊司令官ネイサン・クブルスリー中将が担当する。宇宙艦艇部隊と地上部隊の統合運用に長けていて、帝国軍相手の正規戦、海賊相手の非正規戦の両方に豊かな実績を持っている。ノブレス・オブリージュの意識が強いシトレ派らしく、軍人が民間人や捕虜を苦しめることを何よりも嫌っていて、対海賊作戦に不可欠な地域住民の支持も期待できた。そんなクブルスリー中将の起用は、誰もが順当と認めるところだろう。

 イゼルローン方面の担当は同盟軍で最も勢いがある提督と言われる第十一艦隊司令官クレメンス・ドーソン中将だ。憲兵司令官を務めていた時に示したリーダーシップから、治安に強い指揮官と評されている。今年二月のティアマト星域会戦の活躍によって、実戦指揮能力に対する評価も高まった。官僚組織の動かし方を熟知していて、地方政府及び警察との連携にも不安はない。対海賊作戦は未経験だが、適性は十分といえる。

 俺は第十一艦隊に所属する第一分艦隊の司令官フィリップ・ルグランジュ少将の行政担当副参謀長として、イゼルローン方面の作戦に従事していた。分艦隊の参謀長は准将もしくは大佐と定められていて、准将が参謀長を務める時のみ大佐の副参謀長を置く。大佐である俺が副参謀長になるのは順当な人事と言えるが、行政担当という呼称が付くとそうは言えなくなる。この分艦隊には、作戦担当副参謀長も置かれていた。正規艦隊だって副参謀長を二人も置いたりはしない。まして、副参謀長が置かれないことも多い分艦隊に、二人も副参謀長が置かれるというのは異例の人事であった。

 第一分艦隊司令官ルグランジュ少将は、第十一艦隊の副司令官でもある。同盟軍の将官には珍しく、どの派閥にも属していない。大佐から将官に至る狭き門を突破するには、並外れた能力に加えて派閥の後押しが不可欠となる。しかし、ルグランジュ少将の実力は誰もが認めざるを得ないものだった。指揮官としても参謀としても高い適性を持ち、どんなポストを任せても抜群の結果を出してきた。有能な人物は能力に比例してプライドも高くて、とかく周囲と摩擦を起こしがちな傾向があるが、ルグランジュ少将は誰とでもうまく付き合える協調性を持っていた。このような人物なら、派閥の色が付いてない方がかえって使いやすい。どの派閥の実力者も競ってルグランジュ少将を助っ人として迎え入れて、重要な仕事を任せた。身内びいきが強いドーソン中将は、第十一艦隊に四つある分艦隊の司令官も全員仲間で固めようとしたが、ルグランジュ少将だけは交代させなかった。

 同盟軍では司令官が参謀を指名するシステムになっている。無派閥でありながら広い人脈を持つルグランジュ少将は、第一分艦隊の参謀を自分の腹心で固めていた。いずれも選びぬかれた逸材が揃う最強チームに呼ばれた俺は、腰が抜けるほどに驚いた。しかも、現職の副参謀長を作戦担当にして、二人目の副参謀長にするというのだ。ルグランジュ少将と俺は、面識がないに等しい。第十一艦隊の参謀を務めていた時も接点は無かった。

 ルグランジュ少将ほどの人に指名されるというのは光栄なことだ。しかも、わざわざ俺のために席を作ってくれたという。普通の人間なら手放しで大喜びするところだが、悲しいかな俺は小心者である。ルグランジュ少将が俺の何を見込んで指名したのかわからずに困惑してしまった。期待に応えられなかったらどうしよう、司令部の参謀達と仲良くできなかったらどうしようと、ネガティブな事ばかり考えてしまう。返事を保留して、いろんな人に相談した。

「なぜ即答せんのだ。任務であれば、どこにでも赴くのが軍人の気概というものだろう。まして、望まれて行くのだ。これ以上の名誉がどこにあるか」

 クリスチアン大佐には一喝された。俺が幹部候補生養成所を受験するか、兵役満了後に下士官推薦を受けるか迷った時に、「迷うのは時間の無駄」と喝破されたことを思い出した。

「勉強するつもりで行ったらいいんじゃない?名将の仕事ぶりを間近で見れる機会なんて滅多にないよ?」

 今年から統合作戦本部の人事参謀部に転じたイレーシュ中佐は、いかにも教育指導のプロらしい意見である。

「あんな人に呼ばれるなんてすげーじゃん。派閥を越えて認められてるってことだろ。すげーなあ、ほんと」

 エルゴン星域会戦の功績で准将昇進が内定しているアンドリュー・フォークは、自分が指名されたかのように喜ぶばっかりで、俺がどうするべきかについての意見は言ってくれなかった。

「呼ばれたことがないから分からんのですが、ありがたいことなんでしょうなあ」

 亡命者のハンス・ベッカー中佐はピンと来ない様子だった。彼は参謀だが、呼ばれたことがないということだった。コネが無いおかげで、適任者が見当たらないポストの穴埋めにしかい起用されない参謀は少なくない。申し訳ない気持ちになり、必死で謝った。

 他の人にもいろんな人に聞いたけど、みんなに引き受けろと言われた。ダーシャには、こんなことで悩んでると知られるのが恥ずかしくて聞けなかった。結局、悩んだ末に五回コイントスをして引き受けることに決めた。



 海賊は数隻から数十隻の小集団単位で行動する。総勢数百隻に及ぶ大組織でもまとまって行動することはほとんどない。民間船は機械化が進んでいるため、巨大な船でも乗員は少ない。数十隻もあれば、どんな大船団でも制圧するには十分な戦力である。軍隊相手なら駆逐隊にも対抗できないが、そもそも宇宙海賊は民間船を狙うものだ。軍隊と戦ったところで金になるわけでもない。だから、民間船を制圧するには十分で、なおかつ軍隊から逃げるのに有利な小集団での行動が合理的となる。エル・ファシル動乱のように数百隻単位の集団で艦隊戦を挑んでくることは珍しい。小集団で移動して民間船を襲撃する機会を伺って、軍隊を発見したら全力で逃げる。いなくなったら、また民間船を襲撃する機会を待つ。そんな集団を相手にするには、帝国軍相手の正規戦とは異なる用兵が求められる。

 まず、作戦範囲となる宙域を細かく区切って、一つの区域ごとに百二十隻前後の駆逐艦からなる駆逐群、あるいは三十隻前後の巡航艦からなる巡航群を配備する。それだけの戦力があれば、海賊と戦って敗北することはまずない。複数の宙域を担当する遊撃部隊も用意する。宙域担当部隊が海賊を捕捉したら遊撃部隊を呼び寄せて、方面巡視艦隊や星系警備艦隊と協力して包囲網を作って潰していく。

 海賊の行動範囲は拠点を中心とした円の範囲とほぼ重なっている。どんなに優秀な艦艇を使っていても、整備や補給を受けずに動き続けることはできない。数隻や数十隻程度で行動する海賊は、小惑星、無人惑星、過疎の有人惑星など、人目につきにくい場所に最低限の機能を備えた拠点を作る。小さい組織でも数か所、大組織になると数十か所の拠点を持っているのが普通だ。その他、複数の組織が共同で使用する海賊都市のような大拠点も存在する。艦艇部隊で戦力を削るのと同時に、地上部隊で拠点を潰して行動範囲を狭めていく。そうすれば、海賊は逃げ場を失って追い詰められていくという寸法だ。

 このような作戦では、何より地元の協力が不可欠となる。広大な宙域を正規艦隊の戦力のみで抑えるのは不可能だ。方面巡視艦隊や星系警備艦隊と連携しつつ、海賊を包囲していかなければならない。広大な宇宙に身を潜めている海賊との戦いで最も大きな力になる情報を得るには、地元の警察や住民を使うのがベストだ。海賊の協力をあぶり出す際も、地元住民は大きな戦力となる。トラブルを起こして反感を買えば、どれだけ強大な戦力を持っていても、海賊に傷一つ付けられなくなる。将兵の行動を厳しく取り締まって地元に迷惑をかけないこと、不祥事を起こしたらすぐに謝罪や補償を行うこと、地元の官憲と友好関係を築くことなどを徹底する必要がある。

「そういうわけで、市警察の要求に応じて速やかに犯人を引き渡すべきでしょう。こちらで犯人を処罰しようとしたら、隠蔽しようとしていると勘ぐられかねません」
「軍務中の犯罪は軍に優先的な裁判権があるのだぞ。軍人の不始末は軍が付けるべきであろう」
「ケースバイケースです。軍に優先権はありますが、それを放棄することは認められています」

 俺がいくら説明をしても、司令官のルグランジュ少将、参謀長のエーリン准将、作戦担当副参謀長クィルター大佐らは首を傾げている。警備任務中に非協力的な民間人を殴り倒した軍曹の処遇について、市警察に引き渡すように主張する俺と、あくまで軍法に則って処罰すべきというルグランジュ少将らの意見が分かれているのだ。

「しかし、この場合は軍法に照らした方が処罰は重くなる。加害者がより重い処罰を受けた方が満足すると思うが」
「誰が裁くかが問題なのです。地元で起きた事件は地元で裁きたいと言うのが住民感情なのです」
「我らが裁いて軍規の厳正を明らかにして、初めて信頼が得られるのではないか」

 彼らは加害者の軍曹をかばっているわけではない。むしろ、軍規を厳しく適用して、非行を許さない姿勢を軍として示すべきという立場だ。軍人としての立場では、それは正しい。しかし、地域社会が絡んでくると話は違ってくる。治安戦は軍と警察と住民が三位一体となる総力戦だ。軍人としての筋を通すだけではうまくいかない。

「この戦いは我々だけの戦いではありません。地元の官憲や住民と一体となった戦いです。何もかもこちらの一存で進めてしまえば、彼らは疎外感を抱いてします。作戦は全員参加が原則というのは、皆さんには言うまでもないでしょう。彼らを友軍として扱ってください」
「なるほど、友軍か。友軍への配慮と言うのであれば、フィリップス大佐の言う通りだ」

 ルグランジュ少将がそう言うと、他の参謀達もうなずく。第一分艦隊には疑問があれば、解消するまで徹底的に話し合うというルールがあった。話し合いによって情報の共有をはかり、お互いの信頼を深めていくべきというのがルグランジュ少将の考えだった。部署ごとの対立もこの部隊では少ない。話し合いによって他部署の立場を理解することで、部隊全体に視野を広げることができる。

 イゼルローン遠征軍で上官だったアレックス・キャゼルヌ准将も会議好きだったが、彼の場合は自分の考えを理解させるための会議だった。ルグランジュ少将の会議は、部下と一緒に部隊を作っていくための会議である。全員で一緒に考えようという上官に出会うのは初めてだった。ルグランジュ少将が名将と言われるのも納得である。どんなつまらないことを言っても馬鹿にされずに聞いてもらえると思うと、やる気が出てくる。また、他人の意見を聞いて自分自身の見識を磨くことができる。そうやって、部下の中から忠誠心と能力を引き出していくわけだ。

 前の歴史で読んだ本では、ルグランジュ少将は中将に昇進した後にヤン・ウェンリーと戦って敗死している。勝敗が定まってからも配下の将兵は頑強に抵抗して、ヤンを困らせたという。本を読んだ時には良く理解できなかったが、今ならわかる。ルグランジュ少将が指揮をすれば、部下は喜んで命を差し出すだろう。つくづく俺は上官運がいいと思う。ドーソン中将、キャゼルヌ准将、ビューフォート准将、そしてルグランジュ少将といずれも名将ばかりだ。仕えているだけで勉強になる。

 しかしながら、ルグランジュ少将も完全無欠というわけではない。さっきの話し合いからもわかるように、視野が軍事の視点から一歩も出ていない。しかし、その非政治的な性格ゆえに派閥抗争から超然としていられるのも確かである。政治がわかる軍人はたくさんいるが、ルグランジュ少将ほどのプロフェッショナルは他にいない。政治がわからないというのは、非難されるべきことではないだろう。誰かがその欠点を補えばいい。

「私は政治が分からないのだ。治安をやるのに政治がわからなくてはいかんだろう。だから、貴官を呼んだ」

 まったく付き合いのない俺を行政担当副参謀長に指名した理由を聞いた時、ルグランジュ少将はそう答えた。

「小官の他にも政治がわかる人はいくらでもいるでしょう。閣下は顔が広いですし」
「治安戦の教本に信頼関係が大事だと書いてあった。政治や治安がわかる者は、人間関係に難がある者が多い。そういうわけで人と対立したことがないと評判の貴官がふさわしいと思った。ドーソン提督と連絡する時も貴官を通せばやりやすいしな」

 俺の知っている政治ができる軍人を思い浮かべて納得がいった。ドーソン中将、ベイ大佐などは政治や治安に強いが、彼らは強引なことができるがゆえに有能たり得る人物だ。俺はどちらとも親しいが、それでも癖が強すぎるとは思う。ロボス元帥の下で政治家との折衝を担当しているアンドリューは例外だが、彼は治安がわからないから、今回の作戦では適任ではない。それはともかくとして、ここまで見込まれたら、無能な俺でもできるかぎりのことをせずにはいられない。そういうわけで第一分艦隊では、柄にもなく他人に真っ向から反対意見を言う役割を負っているのだ。



「終わりなき正義」作戦の開始から四ヶ月。第十一艦隊はドーソン中将の指揮のもと、イゼルローン方面航路から海賊を排除していった。フェザーン方面のクブルスリー中将率いる第一艦隊も目覚ましい戦果をあげている。両艦隊の優れた作戦計画もさることながら、海賊討伐が圧倒的な世論の支持を得ていたことも大きい。市民は先を争って海賊情報を通報した。赦免を条件に海賊を裏切る協力者も続出している。百四十億の市民の監視によって丸裸にされた海賊など、単なる烏合の衆でしか無い。

 テレビでは毎日のように、捕虜となって連行される海賊、軍艦に追い立てられて撃沈される海賊船、海賊の拠点に突入する地上部隊の映像が流れた。二年前のタンムーズ星域会戦以来、快勝を経験していなかった同盟市民は、第十一艦隊と第一艦隊の活躍に大喜びした。マスコミはドーソン中将とクブルスリー中将を並べて、「ウッド提督の再来」と讃えた。気の早い者は、「統合作戦本部長シトレ元帥と宇宙艦隊司令長官ロボス元帥は任期満了を前に勇退し、クブルスリー提督とドーソン提督に地位を譲るのではないか」「次期統合作戦本部長はクブルスリー提督、次期宇宙艦隊司令長官はドーソン提督に内定か」などと騒ぎ立てている。

 しかし、対海賊戦の圧勝は思わぬ余波をもたらしていた。連戦連勝におごった前線では軍規の弛緩が甚だしく、不祥事も多発している。噂では降伏した海賊をその場で処刑した者、無実の民間人を海賊の協力者と決めつけて殺害した者などもいるらしい。追い詰められた海賊の一部がアスターテ星系に集結して、イゼルローン回廊の帝国軍と連絡を取っているという情報が入っていた。帝国軍の侵攻が間近に迫っていると判断した政府は即座に三個艦隊を動員して、イゼルローン方面に向かわせている。熱狂と緊迫をよそに、俺の所属している第一分艦隊は、アンシャル星系の宇宙海賊掃討を終えようとしていた。 

 

第六十八話:カーニバルは終わった 宇宙暦796年2月~4月上旬 イゼルローン方面辺境星域~惑星ハイネセン

 世論の圧倒的な支持のもとに、国内の敵を一掃するかに見えた対テロ総力戦体制は思わぬところでつまずいた。2月5日にアスターテ星域で三個艦隊が半数に満たない敵に壊滅させられたという知らせは、報復に熱狂する市民に強烈な冷や水を浴びせた。正規艦隊の四分の一が消滅するという同盟軍史上でも稀に見る惨敗に、最高評議会議長ロイヤル・サンフォードの強い指導者というイメージは失墜してしまった。政府は奮戦した第二艦隊副参謀長ヤン・ウェンリー准将や戦隊司令官ポルフィリオ・ルイス准将らを英雄として顕彰することで善戦したように見せかけようとしたが、あまりに見え透いていて、市民を白けさせている。一度気持ちが冷めてしまうと、これまで見過ごしていたあらも気になってくるものだ。

 最初に市民の目についたのは、テロ捜査の停滞だった。情報機関と警察の総力をあげた捜査にも関わらず、第七方面管区司令部襲撃の実行犯をなかなか特定できずにいた。エル・ファシル解放運動、ヴィリー・ヒルパート・グループ、カッサラ暴動の煽動者グループなどのメンバーの供述から浮上した「先生」と呼ばれるフィクサーが鍵になっていると見られ、帝国の関与も濃厚であったが、未だ手がかりは掴めていない。苛立った市民は捜査機関の無能を激しく批判した。風向きが変わったことを察知したマスコミは、自分達が飛ばし報道で無関係の人間を犯人扱いしたことを棚に上げて、捜査機関の怠慢や過失を盛んに報道している。

 対テロ総力戦の二本目の柱である宇宙海賊討伐にも懐疑的な視線が向けられ始めた。第一艦隊と第十一艦隊の快進撃の水面下では、深刻なモラル低下が生じていた。将兵による暴行、窃盗、強姦などの犯罪が多発して、地域住民を失望させた。捕虜の処刑や虐待、故意に民間人を巻き込んだ作戦行動も多く報告されていた。マスコミの報道の影響もあって、地域の官憲や住民は日を追うごとに非協力的になり、作戦行動にも支障をきたすようになった。

「ヤム・ナハルなんかでこんなに足止めを食うとは思わなかったな」
「当初の想定では、一週間で作戦完了するはずだったんですが」
「民間人の支持が無いと、こうも苦戦するとは。驕兵必敗とはまさにこのことだ」

 司令室のスクリーンに映っているのは、ようやく平定を終えたヤム・ナハル星系の星図である。宙域は狭く障害物も少ない。一つの有人惑星と三つの無人惑星はいずれも地形が平坦だった。これほど海賊が隠れにくい星系もそうそう無いはずなのに、思いのほか手こずってしまった。第一分艦隊司令官のルグランジュ少将が嘆きたくなる気持ちもわかる。

「こんな報道が飛び交っていては、小官だって軍に疑いを抱きたくなってしまいますよ」
「うむ、まったく軍の恥晒しとしか言いようがない。我が部隊にこのような不届き者がいないのは幸いだ」

 俺がルグランジュ少将に見せた新聞には、第一艦隊に所属する分艦隊の将兵が十一人の民間人を殺害したという疑惑が報じられている。司令官サンドル・アラルコン少将は否認しているものの、限りなくクロに近いというのが一般的な見解だった。うちの分艦隊はかなり不祥事が少ないが、いつこのような事件が起きるかわかったものではない。

「クブルスリー中将が更迭の意向を示しているのが幸いです」
「あの人は非戦闘員への暴力には容赦しないからな。こういう時は心強い」
「これで軍に対するイメージが良くなってくれたら、こちらとしても助かります」
「貴官の前で言うことではないが、うちの司令官は…」

 言葉を濁したルグランジュ少将に対し、手のひらを下に向けてひらひらさせて曖昧な同意を示す。ドーソン中将も軍規には厳しいけど、クブルスリー中将の厳しさとは違う種類の厳しさである。クブルスリー中将は倫理を正すためなら頭を下げることも厭わないが、ドーソン中将はそれができない。秩序の守り手である自分が頭を下げたら、秩序が崩れてしまうと思っているのだ。

「やはり、貴官を副参謀長に選んで良かった。どういうわけか、治安に強い者は人に頭を下げない傾向がある。さっさと頭を下げれば、それで済むことも多いだろうに」
「ルールを破ると面倒だと思わせるには、守らせる側の人間が面倒な人間になるのが一番なんです。面倒な相手の言うことはしぶしぶ聞いてしまうでしょう?」
「ああ、確かに貴官の言うとおりだ。士官学校の風紀委員が付き合いやすい奴だったら、毎日でも門限を破りたくなる」
「閣下は門限を破る側だったんですか?」
「まあ、若かったしな」

 ルグランジュ少将は口を大きく開けて、愉快そうに笑った。プラチナブロンドの髪を角刈りにしていて、顔の輪郭も角張っている彼は見るからに強面だが、感情表現が素直で愛嬌に富んでいる。そして、物分かりもいい。面倒な人間じゃないと務まらない治安には一番不向きだろう。そんなことを思っていると、ルグランジュ少将の指揮卓に据え付けられた端末に連絡が入ってきた。

「ふむ、わかった。その件はフィリップス大佐に任せよう」

 しばらく何事かを話した後にそう言うと、ルグランジュ少将は端末を切った。

「次の戦地になるムシュフシュ星系の政府から、民間人居住地域の半径二十キロ以内に立ち入らないで欲しいという申し入れがあった。随分と嫌われたものだ」
「困りましたね。民間の宇宙港が使えないと、補給と整備に差し支えます」
「交渉は貴官に任せる。あちらの窓口は星系政府の第一国務次官だそうだ」

 思わずため息が出てしまう。大きな基地がない辺境星系では、民間のインフラを利用しなければ補給も整備もままならない。受け入れを拒絶されたら、作戦行動ができなくなる。少し前まではどこに行っても歓迎されたのに、変われば変わるものだ。

「たった一か月でこうも空気が変わるなんて思いませんでした」
「テロ一つで変わる程度の空気だ。会戦一つで変わっても不思議はない」

 言われてみればその通りだ。去年九月のテロのショックは一日にして空気を一変させてしまった。同じことがアスターテ星域の敗戦のショックで起きてもおかしくはない。三個正規艦隊壊滅というのは、それだけの大事件だ。

「確かに閣下のおっしゃるとおりです」
「しかし、こうも空気に左右されるとは、民主主義というのは難儀な体制だな」

 前の歴史でルグランジュ少将がクーデターを起こして軍事独裁政権を作ろうとして非業の死を遂げたことを思い出して、ぎょっとしてしまった。あの当時の世情は帰ってきたばかりの俺から見ても切羽詰まっていた。民主主義に失望するのも無理はなかったかもしれない。しかし、どんな世情であろうとも、彼のような人には幸福に長生きして欲しかった。

「めったなことをおっしゃらないでください」
「そんな怖い顔をすることもないだろう」

 ルグランジュ少将は首を傾げている。

「あ、いや、最近流行ってるじゃないですか。反民主主義みたいのが。小官のような小心者には怖いんですよ」
「ああ、マルタン・ラロシュみたいなやつか。馬鹿馬鹿しい、あんなのルドルフの猿真似だろう」

 マルタン・ラロシュは数年前から台頭してきた極右勢力の指導者だ。791年総選挙において彼の統一正義党が同盟議会の第四党になったことが、主戦派の改革市民同盟と反戦派の進歩党の連立政権樹立に繋がった。大手マスコミには黙殺されてきたが、去年のテロをきっかけに顔を出すようになり、過激な言動で視聴者の人気を博した。軍部でも支持者が増えている。一言で言うと、民主主義を無くしてしまおうというルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの亜流だ。

「ラロシュを最高評議会議長にしようという空気になって、民主主義そのものが無くなるなんてことになったら嫌ですよ。そういうことだって起き得るでしょう」
「貴官は心配症だな」

 俺が本当に心配しているのはルグランジュ少将のことなのだ。しかし、自分で口に出してみてわかったが、こんなに世間が空気で動くのなら、何かの拍子でラロシュが議長になってしまってもおかしくない。前の歴史では797年総選挙でトリューニヒト率いる国民平和会議に惨敗して表舞台から消えたが、今回も同じような展開になるとは限らない。ラロシュに逆風を吹かせた極左の反戦市民連合もカリスマ指導者ジェシカ・エドワーズを得ていない現時点では、単なる弱小政党だ。

「小心ですから」
「はっはっは。あいつが政権を取ってラロシュ朝銀河帝国を作ろうなんて言い出したら、私と貴官でクーデターを起こして民主主義を復活させればいいじゃないか」
「そういう冗談はやめてください」

 背中が冷や汗でびっしょり濡れてしまう。前と今の歴史は違うのに、俺は何を恐れているのだろうか。何はともあれ、大事なのはまだ見ぬ未来じゃなくて、目の前にある現在だ。ムシュフシュ星系との交渉をどう進めようか、思案することにした。

 結局、ムシュフシュ星系との交渉は成功して、何とか海賊の平定を終えることができた。第一分艦隊は複数の星系を転戦して、三月末にイゼルローン回廊手前のティアマト星系まで到達した。第十一艦隊に所属する四つの分艦隊の中で、第一分艦隊が平定した星系、獲得した捕虜、拿捕もしくは破壊した海賊船は最も多い。途中からは気が重くなる戦いだったが、どうにか全うすることができた。



 4月10日。イゼルローン方面航路の宇宙海賊討伐を終了した第十一艦隊は、半年近い遠征を終えてハイネセンに帰還した。41の有人星系と195の無人星系を平定し、滅ぼした海賊の総勢力は四万隻以上。巨大な武勲を立てた第十一艦隊に対して、世間の目は冷ややかであった。第十一艦隊が遠征中に引き起こした不祥事の数々は、同盟軍に対する市民の信頼を失わせるには十分なものであった。いかに武勲が多くとも、同盟国内の戦いで民間人相手に非行をはたらくようではどうしようもないということだ。すっかり人気を失ってしまったサンフォード政権が俺達を英雄として扱ったことも、悪印象を与えてしまっている。

 第十一艦隊司令官ドーソン中将は海賊討伐の任務を成功させたものの、不祥事が多発したことで評価を落としてしまった。任を真摯に受け止めようとするクブルスリー中将と比べると、明らかに見劣りがすると世間ではみなされた。結局、ドーソン中将とクブルスリー中将の昇進は見送られ、勲章授与のみとされる見通しだ。

 武勲の量だけなら、第十一艦隊と第一艦隊からは大量の昇進者が出るはずだった。しかし、軍人の昇進というのは多分に政治的事情に左右される。数々の非行から世論の反発を買った両艦隊に昇進を大盤振る舞いするというのはいかがなものかという意見が続出し、現在も議論が続いている。戦果が最も多く、不祥事が最も少なかった第一分艦隊の主要メンバーは全員昇進確実と言われている。俺が昇進すれば准将になるが、将官人事というのはいろいろとややこしい思惑が絡む。俺と一緒に副参謀長を務めたクィルター大佐は、すっかり舞い上がって礼服を新調したそうだが、いかがなものかと思う。サンフォードが受けている逆風は俺達にも吹いているのだ。

 最高評議会議長ロイヤル・サンフォードは、テロ捜査、海賊討伐、対帝国戦のすべてにおいて期待を裏切ったとみなされて、テロ直後の熱狂の反動も手伝って、呼吸をしているだけで批判の的にされる存在に成り果てた。海賊討伐作戦「終わりなき自由」作戦終結後に、対テロ総力戦の勝利宣言を行って非常指揮権を返上することで、戦勝を誇示しようとしたが、かえって反発を買った。対テロ総力戦の間に強大な権限を与えられた軍、警察、情報機関が引き起こした数々の不祥事の責任を問われ、与党議員からも激しい攻撃を受けている。弾劾訴追の動きまで出ている有様だ。

 一方、国防委員長ヨブ・トリューニヒトは、アスターテ星域の惨敗と海賊討伐部隊の不祥事にも関わらず、ほとんど声望を落としていなかった。テロ初日の演説以降は裏方に徹していたため、世間ではサンフォードが軍事を主導していると見られていた。責任を追及できる材料があるとしたら、治安戦のベテランが揃っていた第四艦隊や第六艦隊を起用せずに、子飼いの第十一艦隊を起用したことぐらいだろう。しかし、サンフォードに対する悪印象が強すぎて、相対的に小さいトリューニヒトの責任が問われることはほとんどなかった。表舞台から姿を消している間に、改革市民同盟内部での多数派工作に精を出し、軍需産業や各種圧力団体の支援も取り付けて、政治基盤を飛躍的に強化した。

 トリューニヒトは軍部での多数派工作も熱心に行っていた。予算獲得に期待を寄せる国防委員会の軍官僚、地方重視の姿勢を歓迎する地方部隊幹部、二大派閥に不満を抱く若手士官を中心に支持を拡大し、ロボス派からの離脱者も取り込んでいる。次代の指導者候補と目される第十一艦隊司令官ドーソン中将は海賊討伐の任務を成功させたものの、不祥事が多発したことで指導者としての資質を疑問視された。ロボス派から寝返った首都防衛司令部ロックウェル中将、第二艦隊司令官パエッタ中将らは、年齢的に次代の指導者にはなり得ない。有力な指導者候補不在が不安材料といえよう。

 対テロ総力戦体制では、財務委員長ジョアン・レベロの役割は小さかった。失点が全くなかった彼の評価は相対的に向上して、総力戦の中で肥大化した軍隊と警察の権限縮小を訴えたことでさらに高まり、サンフォード政権の良心とみなされた。対テロ総力戦の支出でさらに苦しくなった財政を切り回す手腕を持つ唯一の人物としても期待が集まる。次期議長にふさわしい指導者を問う世論調査では、トリューニヒトをリードして第一位となった。数カ月後には進歩党委員長に就任して、反戦派の最高指導者として来年の総選挙で政権獲得を目指す。

 二年前のヴァンフリート星域の戦いから精彩を欠いていた宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボス元帥は、去年のエルゴン星域の戦いで完全に名声を失墜させてしまった。往年の果断は短絡に、寛容は無責任に取って代わられたと評される。二月に帝国軍が侵入してきた際には、能力を不安視する声が相次ぎ、第二艦隊司令官パエッタ中将に指揮権が与えられるという屈辱を味わった。結果としてアスターテ星域の敗戦の責任を負わずに済んだが、今年で任期満了となる司令長官職の再任は絶望視されている。有力な指導者候補を持たないロボス派の求心力は急落し、離脱する者も日を追うごとに増えていた。

 統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥の推進した少数精鋭による地方防衛戦略は、地方部隊の戦力低下を招いてエル・ファシル動乱のきっかけとなったという批判を浴びた。海賊討伐作戦で巻き返しをはかったものの、不祥事の多発によってさらに苦しい立場に追い込まれた。アスターテ星域出兵において、ロボス元帥の宇宙艦隊総司令部を外して作戦指導を行ったことで敗戦の責任を問われることとなり、今年で任期満了となる本部長の再任の可能性は皆無と見られている。ただ、宇宙艦隊総参謀長グリーンヒル大将、第一艦隊司令官クブルスリー中将、第十艦隊ウランフ中将といった次代の指導者候補を抱えているため、派閥の求心力は落ちていない。

 去年のエルファシル動乱と第七方面管区司令部陥落に始まる対テロ七か月戦争は、この社会をすっかり塗り替えてしまった。大きく変動した政界と軍部の勢力図は、来年の総選挙、確実な統合作戦本部長と宇宙艦隊司令長官の後任問題などをめぐって、まだまだ大きく動くことだろう。経済面では、七か月続いた惑星間航行の制限が流通を停滞させて全国的な物価高を引き起こしている。財政赤字の拡大、各分野における熟練労働者の不足も大きな不安材料だ。フェザーン中央銀行総裁は同盟経済の先行きに対し、重大な懸念を示した。

 軍人は政治や経済に大きく左右される職業だ。前の人生で起きたような大変動があれば、無事ではいられない。春の陽気は暖かく、窓の外では桜の花が咲き誇っている。ベッドの中では、ダーシャが気持ちよさそうに寝息を立てていた。世界はこんなにも綺麗なのに、政治や経済はどうしてあんなに混沌としているのだろうか。時間がこのまま止まればいいのにと願わずにはいられなかった。 

 

第十六章 提督エリヤ・フィリップス
  第十六章開始時人物設定

主人公
エリヤ・フィリップス 28歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍准将
役職:第三十六戦隊司令官
性格:小心で卑屈。素直で真面目な優等生。努力を楽しめる。仕事熱心。自己評価は低い。大食い。甘党。
容姿:子供っぽい容姿。身長は平均よりやや低い。爽やか、絵になるなどと言われているが、以前は冴えなかったと言われる。
能力:事務処理能力と危機管理能力が高く、法律に通暁している。部隊運営能力は高いが、用兵は下手。管理職としては公正。参謀としては未熟。対人関係に細やかな気配りを見せる。射撃の達人。
略歴:国防委員長ヨブ・トリューニヒトのお気に入り。エル・ファシル危機、海賊討伐作戦「終わりなき正義」で大功を立てて、二十代の若さで将官に至った。前の人生ではアーサー・リンチに従ってエル・ファシルから逃亡したことがきっかけで転落した。
史実:登場せず。

重要人物
クレメンス・ドーソン 46歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十六章開始時点)
役職:国防委員会防衛部長(第十六章開始時点)
性格:異常なまでに神経質で几帳面。わかりやすい善を好み、わかりやすい悪を嫌う小市民的な心情の持ち主。露骨にえこひいきをする。
容姿:エリヤと同程度の身長。ひげがトレードマーク。
能力:抜群の処理能力と行動力の持ち主。精力的で優秀な戦術能力を持つ指揮官だが、参謀を使えないという欠点がある。陣頭指揮を好み、現場に口を出したがる。政治力も極めて高い。
略歴:海賊討伐作戦「終わりなき自由」において、イゼルローン方面の海賊を一掃することに成功。ウッド提督の再来ともてはやされたが、指揮下の部隊が不祥事を起こした責任を問われて、第十一艦隊司令官を事実上更迭された。
史実:自由惑星同盟軍の末期状態を象徴する無能な指導者。
初出:二十三話

ヨブ・トリューニヒト 41歳 男性 オランダ系
職業:自由惑星同盟軍代議員(第十六章開始時点)
役職:国防委員長、改革市民同盟トリューニヒト派領袖(第十六章開始時点)
性格:気さくで人懐っこい。ノリ重視で適当な事をポンポン言ってしまう。自分を凡人と言い、凡人のためなら、非凡な者の芽を摘むことも厭わないと断言する。お好み焼きはご飯と一緒に食べる。
容姿:俳優のような美貌。スポーツで鍛え上げた長身。人懐っこい笑顔。卓越したファッションセンス。
能力:巧みな話術と人の心をとろけさせる愛嬌の持ち主。派手なパフォーマンスを用いた大衆煽動のみならず、個人を対象とした人心掌握にも優れる。
略歴:主戦派の若手指導者。凡人のための世界を作るという理想を持つ。自分の派閥を立ち上げて、政界再編の台風の目と言われる。対テロ総力戦では表に立たずに、ひたすら多数派工作に精を出していた。来年の総選挙での政権獲得を狙っている。
史実:自由同盟末期の最高評議会議長。保身の怪物という評価と、単なる無能という評価がある。同盟滅亡後も暗躍を続けた。
初出:二十九話

親しい人
アンドリュー・フォーク 26歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍准将(第十六章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部作戦参謀(第十六章開始時点)
性格:真面目で謙虚。社交性が高い。
容姿:長身でハンサム。最近は過労のせいかやつれ気味。
能力:士官学校を首席で卒業し、着実に実績を重ねている秀才参謀。部隊運用能力に優れ、行軍計画立案に力量を示す。リーダーシップ、運動能力も高い。白生戦技、射撃術も達人級。
略歴:エリヤの友人。ロボス大将が最も信頼する腹心。エル・ファシル義勇旅団長を務めていた頃に親しくなった。過労でやせ細っているのをエリヤに心配されている。
史実:帝国領侵攻作戦を立案して同盟軍を壊滅に導き、テロリストとしても同盟の足を引っ張った愚劣な人物。
初出:第二十話

ダーシャ・ブレツェリ 27歳 女性 スロベニア系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十六章開始時点)
性格:強引で後先を考えない。ストレートに好意をぶっこんでくる。口も体も人一倍よく動く。ファッション好き。
容姿:丸顔で目が大きく、可愛らしい感じ。ショートカット。胸が大きい。
能力:士官学校を三位で卒業したエリート。人の能力を冷徹に見定めることができる。
略歴:ヴァンフリート4=2宙域の会戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。ほぼエリヤの官舎に住み着いてるぐらいに仲が深まっている。
史実:登場せず。
初出:第四十話

エーベルト・クリスチアン 40代 男性 ゲルマン系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十三章開始時点)
役職:第四方面管区地上軍教育集団司令(第十三章開始時点)
性格:軍隊を家族と考えている。剛直だが人情に厚い好漢。単純明快な物言いを好む。政治を嫌っている。
容姿:背はさほど高くないが、肩幅と胸板が厚い。いかつい顔に不機嫌そうな表情。
能力:勲章受章経験のある勇者。食事と睡眠の重要さを理解していて、部下の待遇改善に熱心。
略歴:陸戦隊出身。エル・ファシルの英雄になったエリヤの広報担当を務めた時に親しくなった。エリヤが職業軍人になるきっかけを作った人物。政治に引き込まれるエリヤを危惧している。
史実:救国軍事会議メンバーとしてスタジアムの虐殺を引き起こした。
初出:第八話

アーロン・ビューフォート 48歳 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍准将(第十六章開始時点)
性格:沈着にして大胆。苦境でも軽口を叩ける明るい性格。部下に対しては手取り足取り指導する。
容姿:身長は低いが体は引き締まっていて、全身に活力がみなぎっている。実年齢より5年は若く見える。
能力:航路保安のベテランで対海賊戦の経験が豊富。航宙科出身で機動的な用兵に長ける。指導力も高い。管理能力には欠けている。
略歴:エル・ファシル危機の功績で念願の准将に昇進した。
史実:大親征でビッテンフェルトを迎撃した。
初出:第七話

チュン・ウー・チェン 34歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十六章開始時点)
性格:超マイペースで他人の視線をまったく気にしない。パンばかり食べている。
容姿:パン屋の二代目と言われるおっとりした容姿。緊張感皆無で軍人らしくない。身なりに無頓着。
能力:分析力と洞察力が高い。参謀経験豊富なプロフェッショナル。他人を自分のペースに巻き込むコミュニケーション術を持つ。
略歴:士官学校卒のエリート。第十一艦隊司令部でエリヤと親しくなった。
史実:自由惑星同盟軍最後の宇宙艦隊総参謀長。覇王ラインハルトに敢然と立ち向かった英雄。
初出:第五十話

イレーシュ・マーリア 33歳 女性 マジャール系(姓が前、名が後に来る)
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十六章開始時点)
性格:とっつきにくい外見とは裏腹に思いやりがある。社交性も結構高い。
容姿:180センチを越える長身。非の打ち所のない美形。眼力が異常に強い。不機嫌そうな表情。
能力:対人観察力が高い。教育指導能力に優れる。
略歴:士官学校卒のエリート。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ハンス・ベッカー 31歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十六章開始時点)
性格:お調子者。人をからかうのが好き。遠慮無くものを言う。
容姿:垂れ目。背が高い。
能力:航路知識が豊富。
略歴:ヴァンフリート4=2宙域の会戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。
史実:登場せず。
初出:第四十話

グレドウィン・スコット 四十代後半 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍准将(第十六章開始時点)
役職:第二業務集団司令官(第十六章開始時点)
性格:大人げない。三次元チェス狂。恐妻家。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で負傷。ハイネセン第二国防病院に入院していた時にエリヤと知り合った。
史実:帝国領侵攻作戦で輸送艦隊を率いたが、キルヒアイスに襲撃されて戦死。
初出:第四十話

フィリップ・ルグランジュ 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十六章開始時点)
性格:感情表現が素直で愛嬌に富む。物分かりが良く、冗談を好む。
容姿:プラチナブロンドの髪を角刈りにしていて、顔の輪郭も角張っている強面。
能力:指揮官としても参謀としても有能だが、治安や政治には疎い。協調性が高く、誰とでもうまく付き合える。全員で話し合いながら部隊を運営していくため、配下の結束力は高い。
略歴:同盟軍では珍しい無派閥の将官。海賊討伐作戦「終わりなき正義」では、自分の欠点を補うためにエリヤを登用。大功を立てて、中将に昇進した。
史実:前の人生では救国軍事会議のクーデターに参加して敗死している。
初出:第四十話

フョードル・パトリチェフ
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十六章開始時点)
性格:気さく。正直。
容姿:巨漢。
能力:勇猛な駆逐部隊指揮官。
略歴:エル・ファシル危機では警備艦隊副司令官代行を務め、ビューフォートとともに海賊を大破した。
史実:ヤン・ウェンリーの副参謀長。司令部のまとめ役として活躍した。
初出:第六十五話

ワルター・フォン・シェーンコップ 32歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍大佐(第十六章開始時点)
役職:ローゼンリッター連隊長(第十六章開始時点)
性格:言動と女性関係は奔放。大胆不敵で反骨精神旺盛。服従心、忠誠心とともに希薄。危険人物の中の危険人物。
容姿:貴族的な美貌。優雅な物腰。
能力:大部隊の組織的運用と少数精鋭部隊による強襲戦術の両方に長ける。部隊運営能力、指導力も高い。部下を心酔させるカリスマも持つ。身体能力、戦闘技術、勇猛さを兼ね備えた自由惑星同盟軍最高の戦士でもある。政治的な駆け引きも巧みで付け入る隙がない。
略歴:ヴァンフリート4=2基地で知り合った。エリヤをからかうのを楽しんでいたが、司令部ビルの戦闘では腹心のブルームハルトを援軍につけてくれた。
史実:同盟末期最高の地上部隊指揮官。ヤン・ウェンリーの事実上の私兵隊長として活躍した。
初出:第三十一話

カスパー・リンツ 26歳 男性 ゲルマン系 亡命者
階級:自由惑星同盟軍中佐(第十六章開始時点)
性格:気さくだが、やや屈折している。
容姿:脱色した麦わらのような髪に青緑色の瞳を持つ美男子。
能力:白兵戦技と射撃術の達人。絵と歌がうまい。
略歴:幹部候補生養成所時代の唯一の友人。ローゼンリッター連隊長シェーンコップ中佐の片腕。
史実:ワルター・フォン・シェーンコップの片腕。ローゼンリッター最後の連隊長。
初出:第十六話

バラット 男性 タイ系
階級:自由惑星同盟軍軍曹(第三章終了時点)
役職:第七方面管区シャンプール基地教育隊体育教官(第三章終了時点)
性格:単純熱血。太っ腹。
容姿:がっちりした体格。猛犬のような印象。
能力:トレーニング指導のプロ。
略歴:陸戦隊出身でクリスチアンの元部下。幹部候補生養成所を受験するエリヤの体力指導担当。エリヤに努力の楽しさを教えた人物の一人。
史実:登場せず。
初出:第十三話

ルシエンデス 40代 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍准尉(第十六章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第十六章終了時点)
性格:ざっくばらん。
容姿:小綺麗な身なり。
能力:軍服を着た人を撮影すれば、右に出る者はいない。
略歴:統合作戦本部広報室のカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

ガウリ 30代 女性 インド系
階級:自由惑星同盟軍曹長(第十六章終了時点)
役職:統合作戦本部広報室付(第十六章終了時点)
性格:気さく。
略歴:統合作戦本部広報室のスタイリストカメラマン。エル・ファシルの英雄になったエリヤを担当した時に親しくなった。
史実:登場せず。
初出:第九話

家族
ロニー・フィリップス 52歳 男性 アングロサクソン系
職業:パラディオン市警の警察官(第二章終了時点)
性格:善良でお調子者。
略歴:エリヤの父。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

サビナ・フィリップス 51歳 女性 チェコ系
職業:看護師(第二章終了時点)
性格:心配症でおせっかい。
略歴:エリヤの母。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ニコール・フィリップス 30歳 女性 アングロサクソン系
職業:ジュニアスクールの非常勤講師(第二章終了時点)
性格:しっかり者。
略歴:エリヤの姉。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

アルマ・フィリップス 23歳 女性 アングロサクソン系
職業:ミドルスクールの生徒(第二章終了時点)
性格:甘えん坊の食いしん坊。
略歴:エリヤの妹。空気の読めないメールを送っては、エリヤをいらだたせる。前の人生ではエリヤに懐いていたが、逃亡者になると最も激しく拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

同級生
ミロン・ムスクーリ 28歳 男性 ギリシャ系
性格:爽やかなスポーツマン。
容姿:大男。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。元フライングボール部のスター。前の人生では極右団体の構成員。逃亡者になったエリヤを迫害した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

ルオ・シュエ 28歳 女性 チャイナ系
容姿:丸顔。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の数少ない友達。前の人生では、逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

フーゴ・ドラープ 28歳 男性 チェコ系
性格:誰にでも優しい。
略歴:エリヤのミドルスクール時代の同級生。信望が厚く、クラス代表を務めた。前の人生では逃亡者になったエリヤを拒絶した。
史実:登場せず。
初出:第十一話

その他知り合い
ラザール・ロボス 58歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍元帥(第十六章開始時点)
役職:宇宙艦隊司令長官(第十六章開始時点)
性格:豪放で大らか。社交的な性格。
容姿:小柄でどっしりとした肥満体。将帥にふさわしい威厳の持ち主。
能力:リスクを厭わず、大胆に仕掛ける用兵に定評がある。対人調整や政治的な折衝にも長ける。人の心に入り込むのがうまい。雑務が苦手。
略歴:同盟軍の二大派閥の一つ、ロボス派の領袖。エルゴン星域会戦の失態で評価が地に落ちてしまった。アスターテ星域会戦では指揮を取らせてもらえないという屈辱を味わう。
史実:帝国領侵攻に失敗して、同盟軍を壊滅に追い込んだ愚将。
初出:第十八話

シドニー・シトレ 59歳 男性 アフリカ系
階級:自由惑星同盟軍元帥(第十六章開始時点)
役職:統合作戦本部長(第十六章開始時点)
性格:厳格で軍人の非行を何よりも嫌う。
容姿:二メートル近い長身の黒人。
略歴:同盟軍の二大派閥の一つ、シトレ派の領袖。財務委員長ジョアン・レベロの盟友。地方部隊の削減、海賊討伐作戦、アスターテ星域会戦などの指導がことごとく裏目に出て、地位が危うくなっている。
史実:イゼルローン攻略を実現したが、ロボスの帝国領侵攻失敗に巻き込まれて引退を余儀なくされた。同盟末期を支えた人材を多く育てた名指導者。
初出:第六十一話

ジョアン・レベロ 61歳 男性 ポルトガル系
職業:自由惑星同盟軍代議員(第十六章開始時点)
役職:財務委員長(第十六章開始時点)
能力:経済学者出身の財政専門家。聖域だった国防予算の削減に踏み切った豪腕。
略歴:進歩党の重鎮。財務委員長や財政諮問会議委員として、緊縮財政を主導してきた。対テロ総力戦での役割が小さかったことから、声望を高めている。次期政権に最も近い存在。
史実:自由惑星同盟最後の最高評議会議長。良心的な政治家として破滅を回避しようとしたが、晩節を汚した。
初出:第六十一話

マルタン・ラロシュ 男性 フランス系
職業:自由惑星同盟軍代議員(第十六章開始時点)
役職:統一正義党代表(第十六章開始時点)
能力:過激な言動で人気を集めている。
略歴:勢いを増している極右勢力の指導者。民主主義を無くそうとしているとみなされる。ルドルフ大帝の精神的末裔。
史実:登場せず。
初出:第六十八話

ロイヤル・サンフォード 七十過ぎ 男性 アングロサクソン系
職業:自由惑星同盟軍代議員(第十六章開始時点)
役職:最高評議会議長(第十六章開始時点)
能力:政務、党務の双方に豊かな経験を持つ。先例を尊重して他人を立てながら組織を円滑に運営するのがうまい。リーダーシップには欠ける。
略歴:最高評議会議長。改革市民同盟主流派に属する。非常指揮権を手中にして、対テロ総力戦の指揮をとった。市民の期待を裏切る成果しか出せなかったことから、一時的に急上昇した支持率は地に落ちてしまった。
史実:自由惑星同盟末期の最高評議会議長。選挙のために無用の出兵をして国を滅ぼしたとされる。
初出:第六十六話

アレックス・キャゼルヌ 35歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍准将(第十一章開始時点)
役職:宇宙艦隊総司令部後方部長(第十一章開始時点)
能力:後方支援システムの構築と運営にかけては、セレブレッゼ中将に匹敵する技量を持つ。部下の能力を見極める眼力と仕事の割り振りは天才的。会議を通して自分の考えを徹底するスタイル。
略歴:統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥の腹心。失脚したセレブレッゼ中将の代わりに、同盟軍後方部門の司令塔となった。イゼルローン遠征軍の後方支援を統括した。
史実:同盟末期最高の後方支援専門家。ヤン・ウェンリーの後方支援を担当した。
初出:第四十六話

ヤン・ウェンリー 28歳 男性 チャイナ系
階級:自由惑星同盟軍少将(第十六章終了時点)
性格:冷静沈着。責任感が強い。整理整頓ができない。他人の期待通りに振る舞うことを嫌う。
容姿:ハンサムだが、身なりに無頓着なせいで冴えないように見える。
能力:作戦能力は天才的だが、あまり積極的ではない。
略歴:統合作戦本部長シトレ元帥の腹心。アスターテ星域会戦で活躍して、少将に昇進した。
史実:自由惑星同盟末期最高の名将。生涯不敗を誇った用兵の天才。
初出:第五話

ネイサン・クブルスリー 男性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十六章開始時点)
性格:ノブレス・オブリージュの意識が強く、軍人の非行に厳しい。
能力:宇宙艦艇部隊と地上部隊の統合運用に長けていて、正規戦と非正規戦の両方に豊かな実績がある。
略歴:シトレ派の重鎮。海賊討伐作戦「終わりなき自由」において、フェザーン方面の海賊を一掃することに成功。ウッド提督の再来ともてはやされた。指揮下の部隊の不祥事に対して真摯な対応を行う。
史実:同盟末期の統合作戦本部長。トリューニヒト派との確執に嫌気が差して辞任した。
初出:第六十七話

ユリエ・ハラボフ 25歳 女性 チェコ系
階級:自由惑星同盟軍大尉(第十六章開始時点)
性格:生真面目で繊細。自分を追い込んでしまうところがある。
容姿:すっきりした目鼻立ちの美人。手足が長く、スタイルが良い。身のこなしには無駄がない。
能力:士官学校を上位で卒業したエリート。仕事ぶりは丁寧で細かい。簡潔明瞭で無駄がない文書を作る。徒手格闘の達人。
略歴:憲兵司令官副官を務めた後は不遇が続き、現在は辺境に飛ばされている。エリヤの無神経な言葉に深く傷つき、口もきかない間柄になっている。
史実:登場しない。
初出:第四十一話

シンクレア・セレブレッゼ 50歳 男性 フランス系
階級:自由惑星同盟軍中将(第十章終了時点)
役職:第十六方面管区司令官(第十章終了時点)
性格:パワフルで自負心が強く、妥協を嫌う。攻勢に強いが、守勢には極端に弱い。
容姿:学者のような風貌。
能力:後方支援システムの構築と運営に卓絶した力量を持つ。リーダーシップにも長けていて、後方支援のプロ集団チーム・セレブレッゼを築き上げた。
略歴:同盟軍の後方支援システムが麻薬組織に悪用された責任を問われて、辺境に左遷された。
史実:ヴァンフリート4=2基地の戦いで帝国軍の捕虜となった。
初出:三十五話

エマヌエーレ・カルーク 55歳 男性 スペイン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第八章終了時点)
役職:中央支援集団副司令官(第八章終了時点)
性格:臆病で無責任。
容姿:企業の重役を思わせる恰幅の良さ。
能力:同盟軍最高の補給専門家。危機管理能力に長けた超一流の指揮官。
略歴:セレブレッゼ中将の片腕。ヴァンフリート4=2基地攻防戦では、口実を付けて戦闘に参加しなかった。
史実:登場せず。
初出:三十五話

エイプリル・ラッカム 50歳 女性 アングロサクソン系
階級:自由惑星同盟軍少将(第十章終了時点)
性格:温和でユーモアがある。
容姿:小太り。そこらのおばさんっぽい。
能力:麻薬組織の指導者として、卓越したリーダーシップを発揮した。帝国、同盟両軍を手玉に取る策士。
略歴:グロースママの異名で知られる麻薬組織の最高指導者。軍の後方支援システムを私物化して、麻薬流通網として悪用していた。帝国軍と同盟軍を操ってヴァンフリート4=2基地の戦闘を引き起こし、混乱の中で逃亡に成功した。
史実:登場せず。
初出:三十五話

ループレヒト・レーヴェ(偽名) 三十前後? 男性 ゲルマン系
性格:誠実で公正。正義感が強い。鋼のような自制心を持つ。
容姿:精力的な面構えに広い肩幅。黒い髪。法曹関係者っぽい容姿。
略歴:帝国軍の憲兵。ある要人の使者としてフェザーンでエリヤに面会し、帝国憲兵隊が集めた麻薬組織の資料を渡す。
史実:登場せず
初出:四十四話

ファヒーム 死亡時は50代後半 男性 アラブ系 故人
階級:自由惑星同盟軍少佐(第八章終了時点)
役職:ヴァンフリート4=2基地憲兵副隊長(第八章終了時点)
性格:横柄で口やかましいが、仕事には誠実。
容姿:短い白髪、鋭い目つき。
能力:実務に長けたベテラン。
略歴:ヴァンフリート4=2基地攻防戦で取り乱して突出したエリヤを救出した。時間稼ぎのために踏みとどまって戦い、壮烈な戦死を遂げる。
史実:登場せず。
初出:三十五話

カーポ・ビロライネン 35歳 男性 フィンランド系
階級:自由惑星同盟軍大佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団参謀長(第五章終了時点)
性格:真面目だが、他人の心情への配慮に欠けるところがある。
容姿:神経質で気難しそうな容姿。実年齢より5年は老けて見える。
能力:実務能力は極めて優秀。情報宣伝にも長けている。
略歴:ロボス大将の懐刀。エル・ファシル義勇旅団ではエリヤを棚上げして、実権を掌握した。
史実:帝国領侵攻作戦の情報主任参謀。
初出:第十九話

マリエット・ブーブリル 37歳 男性 フランス系
階級:義勇軍中佐(第五章終了時点)
役職:エル・ファシル義勇旅団副旅団長(第五章終了時点)
性格:外面は良いが、自己中心的で気性が激しい。自己顕示欲が強い。
容姿:上品で優しげな美貌の持ち主。実年齢より5年は老けて見える。
能力:カメラの前では、嫌いな相手に対しても親友のように振る舞える演技の達人。
略歴:元従軍看護師で勲章も持っているが、世間的な知名度は低い。エル・ファシル義勇旅団ではトラブルメーカーだった。
史実:登場せず。
初出:第十九話

フランチェシク・ロムスキー 30代 男性 ポーランド系
職業:エル・ファシル市会議員、内科医師(第二章終了時点)
性格:気さくだがやや軽率。
容姿:大柄。
略歴:エリヤをエル・ファシル星系政庁に連れて行った。
史実:同盟から独立したエル・ファシル独立政府の主席を務めた。
初出:第三話 

 

第十六章 提督エリヤ・フィリップス
  第六十九話:ビッグサプライズ 宇宙暦796年5月初旬 惑星ハイネセン、ホテルユーフォニア及び統合作戦本部カフェルーム

 佐官というのは戦記ものでは、一山いくらの存在であるが、最下級の少佐でも駆逐艦艦長、歩兵大隊長に補職され、民間企業であれば、小規模支店長、大規模支店の次長クラスに相当する立派な幹部だ。公務中は身の回りの世話をする従卒が付き、ドライバー付きの公用車を移動に使用できる。尉官よりずっと広くて快適な官舎に住める。士官学校を出ていない士官の大半は少佐でキャリアを終えるが、それでも構わないと思わせる厚遇である。出来の悪い一等兵だった前の人生と比べれば、夢の様な身分だ。

 佐官の最上級は大佐。複数の大型艦、もしくは小型艦の隊を率いる群司令、惑星警備隊司令、歩兵旅団長に補職される。民間企業であれば、取締役を兼任しない本社部長、支社長といったところだ。士官学校を卒業して二十年が過ぎた働き盛りのエリートというのが一般的な大佐。士官学校を出ずに大佐まで昇進できる者は、一般企業で言えばアルバイトやハイスクール卒のノンキャリア社員から本社部長に昇進したに等しい。

 大佐でも一般人から見れば、目もくらむような大幹部であるが、上には上がいる。全軍で五千人程度しかいない将官だ。五千万人の同盟軍将兵の中では一万人に一人、三百五十万の士官の中では七百人に一人。同盟軍士官の大半は下士官兵からの叩き上げと徴用された専門技術者が占めており、士官学校出身者はわずか十三万人程度しかいないエリート中のエリートである。

 そんな彼らでも二十人に一人しか昇進できない狭き門。実績、運、人脈のすべてが飛び抜けた者のみに用意された席。凡人には手が届かない聖域。それが将官である。実際になれるかどうかは別として、一度も「閣下」「提督」と呼ばれたいと思ったことがない軍人がいたら、それはよほどの変人だろう。

 将官の「司令官」は、佐官の「司令」とは比較にならないほどに広いオフィスを構えて、自ら選任した数十人の幕僚を従える専制君主だ。副官が常に付き添って秘書の役割を果たし、高級な公用車に乗って移動する。将官が通り過ぎるたびに、士官や兵士はすべて直立不動で敬礼しなければならない。幕僚職の将官は幕僚や副官を持たないが、王侯に等しい礼遇を受けることには変わりない。軍人であれば、誰もが羨む存在である。

 二十代で将官の階級を得るとなると、アンドリュー・フォークやダスティ・アッテンボローのように士官学校を十位以内の成績で卒業した後に抜群の実績を示した秀才中の秀才、もしくはヤン・ウェンリーのように士官学校の成績は凡庸ながらも誰も真似できないような大功を立て続けに立てた奇才中の奇才ということになろう。そんな逸材が滅多にいるはずもなく、同盟全軍でも二十代の将官は十六人しかいなかった。その十七人目となった人物が士官学校を出ていないというのは、驚天動地の事態だろう。当の本人である俺も仰天した。

 海賊討伐作戦「終わりなき正義」作戦において、第十一艦隊の第一分艦隊行政担当副参謀長として、治安面の調整を担当した功績というのが俺の昇進の理由であった。司令官ルグランジュ少将は中将に昇進し、他の主要メンバーも全員昇進を果たしている。最も不祥事が少なかった部隊だったことが評価されたのだろう。内示が来てないうちから、祝賀会用のホテルを予約していた作戦担当副参謀長クィルター大佐も准将への昇進を果たした。

 周囲にはいずれ将官に昇進できると言われていた。いかにネガティブ思考で自己評価が低い俺といえども、去年の秋に二十七歳で大佐に昇進してからは、数年後に閣下と呼ばれる身分になる日が来るであろうことは予感していた。しかし、二十代のうちにそれが実現するとは思ってもいなかった。

 ヤン・ウェンリー、ダスティ・アッテンボローといった歴史上の英雄と自分が肩を並べるなど、想像するだけで畏れ多い気持ちになる。同盟末期からローエングラム朝建国期の社会で過ごした者にとって、彼らの名前はそれほどに重い。早すぎる将官昇進、歴史上の英雄とリアルタイムで比較される立場が強烈なプレッシャーとなってのしかかってくる。

「第十一艦隊第一分艦隊行政担当副参謀長 大佐 エリヤ・フィリップス 准将に昇任させる 第三十六戦隊司令官を命ずる」

 その辞令書を国防委員会人事部長パヴェレツ中将から受け取ろうとしたら、手が震えて床に落としてしまった。慌てて拾おうとして屈んだら、バランスを崩して転倒してしまった。

 俺だって無為無策だったわけではない。内示を受けてから、心の準備はしていた。将官の知り合いに心構えを教えてもらった。司令官業務の教本も暗記できるぐらい読み込んだ。辞令を受ける当日も腹痛に備えてあらかじめ胃薬を用意していたし、冷や汗をかいても大丈夫なように吸汗性のアンダーシャツを軍服の下に着込んでいた。それなのにこの醜態だ。何と情けないことだろうか。

 パヴェレツ中将は気の毒に思ったのか、准将の辞令を受け取った瞬間に失神してしまった例、人事部長室を出た直後に嬉しさのあまり飛び上がって転んで骨折した例をあげて慰めてくれたが、そんなのが救いになるわけもない。これからやっていけるのだろうかと先が思いやられた。

 辞令を受け取った後は、お祝いのメールや通信が怒涛のように押し寄せてきた。親しい人はもちろん、昔同じ部署にいたというだけでさほど親しくない人、面識がまったくない人からも送られてきている。

「先日、息子は名誉の戦死を遂げました」

 エル・ファシルで駆逐隊を指揮していた時の部下だったメイヤー大尉の母親から送られてきたメールの中にその一文を見つけた時、心に痛みを感じた。先日のアスターテ星域の戦いで戦死したのだという。あまり頼りにならなかったとはいえ、共に戦った者の死はショックだった。メイヤー大尉の一人息子ウィルはまだ六歳だが、軍人になって父の仇を取りたいと言っているそうだ。孫を励まして欲しいという老婦人の申し出に心を打たれた俺は、メイヤー家に直接通信を入れた。

「お父さんは立派な軍人でした。君もお父さんのような軍人になれるよう頑張ってください」

 今年で六歳になるというウィルに励ましの言葉を送る。俺の方を見ようとせずにずっとうつむいていた。父を亡くしたばかりでまだ心が不安定なのだろう。いつか、父の死を正面から受け止められる日がくることを願いたい。

 プレゼントも送られてきていた。同盟軍では軍人個人を指定したプレゼントを軍機関に送っても、受理されることはない。そのため、統合作戦本部や第三十六戦隊司令部に送られた物はことごとく返送された。俺の住所は非公開だから、直接官舎に送られてくることもほとんどない。俺の友人知人を介して送られてきたものがわずかに俺の手元に届いた。

「これ、友達から」

 ダーシャから渡されたのは、フィラデルフィア・ベーグルのマフィン詰め合わせ五箱。俺の大好物だけど、高級品だから気軽に買えるような物じゃない。ダーシャの友達で俺のファンの「陸戦部隊の子」が送り主だった。

「こんなにもらっちゃっていいのかな」
「遠慮無くもらっときなよ。忙しくてお金使う暇ないって言ってたから」
「しかし、顔も名前も知らない子にここまでしてもらうって、申し訳なくないよ」

 ここまで、という中には、ダーシャと俺が知りあうきっかけを作ってくれたというニュアンスも暗に含んでいる。ハイネセン第二国防病院に入院した時に仲良くなれたのも、俺の熱心なファンである彼女がダーシャに布教してくれたおかげなのだ。ダーシャからの伝聞でしか知らない彼女は、俺の写真を携帯端末の待ち受け画像にしているという美的感覚の欠如、恥ずかしいから俺に名前を知られたくないという妙な羞恥心など、かなりの変人ではあることは間違いないが、足を向けて寝られない存在である。

 将官昇進の祝賀会というものも開かれた。幹事は第十一艦隊司令官から、国防委員会防衛部長に移ったクレメンス・ドーソン中将だ。会場はホテル・ユーフォニア。前の歴史では同盟滅亡後にオスカー・フォン・ロイエンタール元帥が新領土総督府を置いた建物だが、現時点では政財界の要人が良く利用する高級ホテルとして知られている。

 会場には、国防委員長ヨブ・トリューニヒトを筆頭に、トリューニヒト派の政治家、財界人、高級官僚が綺羅星のように勢揃いしていた。軍部の要人は、首都防衛司令官ロックウェル中将、国防委員会通信部長ルスティコ中将、地上軍副総監ギオー中将、後方勤務本部弾薬部長ジェニングス准将らトリューニヒト派ばかりで、ロボス派は一人も出席せず、シトレ派は派閥を超えた交友関係を持つ社交の達人グリーンヒル大将のみというという実にわかりやすい顔ぶれである。

 ドーソン中将は大はしゃぎで俺を要人たちに紹介して回った。海賊討伐の際の不祥事から、第十一艦隊司令官を栄転の名目で事実上更迭された彼にとって、自ら抜擢した部下が異例の昇進を遂げたというのは、再評価のきっかけとなる。私が育てた、私のおかげといちいち恩着せがましく言うドーソン中将に、誰もが苦笑気味だった。ちょっとはしゃぎ過ぎじゃないかと思うが、ドーソン中将の引き立てがなければ、俺はここまで来れなかった。純粋な感謝と、しょうがない人だなあという思いで自然と笑顔が浮かんで、「閣下のおかげです」と相槌を打った。

 巻き返しを狙うドーソン中将と、政界再編に向けて力を誇示したいトリューニヒトによる政治的セレモニーの性格が強い一次会に対し、二次会は俺と親しい人だけの小じんまりとしたものだった。ドーソン中将自身も顔を出さずに、トリューニヒト派色が薄い前第十一艦隊司令官副官のリーカネン大尉が幹事代理として取り仕切っている。組織内の空気を読むことに長けたドーソン中将らしい配慮である。

 ダーシャ、ルシナンデス准尉、ガウリ曹長、イレーシュ大佐、スコット准将、ベッカー中佐、ビューフォート准将、チュン・ウー・チェン大佐、ルグランジュ中将らハイネセン組はもちろん、クリスチアン大佐やバラット曹長のように遠方から休暇を取って駆けつけてくれた人もいた。その他、過去に勤務していた職場で親しく付き合ってくれた人も来てくれている。パトリチェフ大佐、リンツ中佐らは、アスターテで壊滅した第四艦隊と第六艦隊の残兵から編成された第十三艦隊の演習航海に参加していて来れなかった。トリューニヒト派と対立を深めるロボス派に遠慮したのか、アンドリュー・フォーク准将が祝文を送ってくれるに留まったのは残念であった。



 祭りが終わったら、次は現実に直面する番だ。俺が率いることになる第三十六戦隊は、一個戦艦群、二個巡航群、三個駆逐群、一個揚陸群の合計六百五十四隻からなる宙陸両用部隊である。その幕僚を自分で選任する必要があった。佐官の司令は幕僚を選べないが、将官の司令官は選ぶことができる。部隊の能力を十全に引き出せる幕僚チームを作らなければならない。

 最初に選ぶべきは幕僚チームを統括する参謀長だ。司令官が常に主要事項を把握できるように絶え間なく報告を行い、方針策定を助ける。ゼネラルスタッフである参謀に指示を出して、司令官の出した方針を実現できるように業務を進めさせる。幕僚チームの各部門が連携して動けるように調整を行う。業務能力、リーダーシップの両面で司令官を助ける存在だ。参謀長次第で幕僚チームの方向性、ひいては部隊の方向性が決まる。

 俺が求めている参謀長は、第一に信頼できること。士官に任官してから五年しか経っていない俺は、業務経験が極めて浅い。幕僚チームの知識と経験に大きく依存することになる。事務的な関係に留まらず、俺のパートナーになり得る人物が望ましい。第二に作戦能力に長けていること。俺が積んできた経験は後方業務に偏っていて、作戦経験は皆無に近い。参謀長には、俺が持っていない作戦能力を補ってもらう必要がある。第三に性格がきつくないこと。これは完全に俺の好みだ。司令官、参謀、専門スタッフと激しくやり合いながら、業務の質を高めていく参謀長もいるが、とげとげしい空気が苦手な俺にはストレスになる。

 付き合いがある人間の中で戦隊参謀長になりうる大佐は、ダーシャ・ブレツェリ大佐、イレーシュ・マーリア大佐、ナイジェル・ベイ大佐、ジェレミー・ウノ大佐の四人である。信頼性と性格ならダーシャとイレーシュ大佐は抜群だが、前者は後方畑、後者は人事畑で作戦経験に乏しい。ベイ大佐は情報畑だが作戦経験もそこそこある。しかし、上昇志向が強くて性格がきつい。ウノ大佐は後方畑で作戦経験に欠ける。理想の参謀長はアンドリューだけど、彼は俺と同格の准将だ。

「というわけで、みんな帯に短し、たすきに長しなんですよ。ちょうどいい人がなかなか見つかりません」
「私も勤務地が変わるたびに、新しいパン屋を見つけるのに苦労したものだよ。堅過ぎもなく、柔らか過ぎない。濃過ぎもなく、薄くもない。そんなパンを売っている店は滅多にないからね」

 俺は統合参謀本部のカフェルームで、作戦参謀部企画課長チュン・ウー・チェン大佐と話していた。チュン大佐は形が崩れたサンドイッチをかじりながら、俺の話を聞いている。そんなにパンの味が気になるんなら、ポケットにじかに突っ込んでぐしゃぐしゃにするのはやめた方がいいんじゃないかと思ったが、突っ込んだら負けな気がする。

「俺は治安と後方の経験しかないですからね。作戦屋の知り合い少ないんですよ。士官学校出てたら、同期の友達から作戦やってる奴を引っ張ってくれば良かったんでしょうけど」
「だから、私に同期の作戦屋を紹介して欲しいということなんだね」
「ええ。直接の知り合いにいい作戦屋がいないなら、これから知り合いになろうかと思いまして」

 参謀長の人選に悩んだ俺は、苦肉の策として親しい人に作戦屋の大佐を紹介してもらうことにしたのだ。何人かと直接会ってみて、一番信用できそうな人を参謀長に選ぼうと考えた。チュン大佐の次は、人事参謀部補任課長イレーシュ大佐に頼みに行く予定である。

「それなら、ちょうどいい人がいるよ」
「どんな人です?」
「第七艦隊と第九艦隊で作戦参謀をそれぞれ二年、統合作戦本部の作戦参謀部に一年、宇宙艦隊総司令部の作戦参謀を一年経験している」

 今年で三十四歳になるチュン大佐の同期ということは、勤務歴は十四年になる。そのうち六年を作戦畑、しかも正規艦隊で過ごしているというのは魅力的である。

「他の参謀経験は?」
「情報を三年、人事と後方をそれぞれ二年。分艦隊副参謀長を一年やってるね」

 心の中で手を打った。作戦だけでなく、他の経験も積んでいる。副参謀長というのは参謀長とともに幕僚チームのまとめ役になる存在だ。参謀業務全般に通じていて、まとめ役の経験もあるとなれば、願ってもない人材である。

「性格はどうです?」
「まあ、悪くはないんじゃないかな」
「動かせるポジションの人ですか?」

 これほどの経歴を持つ人材なら、現在の勤務先でも重宝されてるはずだ。わざわざ俺なんかのところに行く必然性もない。どれだけ優秀でも、すぐに異動できる立場でなければ意味が無い。

「もうすぐ飛ばされるらしいよ」
「紹介してください!」

 優秀でなおかつ飛ばされる寸前と来れば、いつでも俺の参謀長になれるということだ。興奮を隠し切れず、大声を出してしまう。何事かと驚いた周囲の人が一斉に俺を見る。チュン大佐はまったく気にせずに、冷めたカフェオーレに口をつけた。

「そんなに慌てる必要はないよ。君の目の前にいるから」
「えっ?」
「私では参謀長には不足かい?」

 サンドイッチはいらないのか、と言うような口調でチュン大佐はとんでもない発言をした。彼が信頼性、作戦能力、人柄のすべてを満たす人物なのはわかっている。それなのにあえて除外したのは、前の歴史で民主共和制に殉じた英雄の中の英雄を自分の部下にすることが畏れ多かったからだ。チュン・ウー・チェンといえば、アレクサンドル・ビュコックの参謀長というイメージが俺の中には染み付いている。

「あ、いや、不足ではないですよ。むしろ、もったいないと…」
「先日のアスターテの敗戦があったろう?作戦参謀部の幹部全員の首を飛ばせって話になっててね。次のポストはどこかの方面管区の部長職か、星系警備管区の参謀長あたりだろう」

 うろたえる俺を無視して、チュン大佐は淡々と話している。こういう時の左遷先に指定されるのは、主要航路から外れていて海賊の脅威も少ない辺境管区と相場が決まっている。航路保安で功績を立てて、失敗を償う機会も与えられない。三個艦隊が壊滅したアスターテ星域の会戦では、統合作戦本部が宇宙艦隊総司令部を棚上げして作戦指導を行った。作戦参謀部全体で敗戦責任を償えということなのだろう。

「申し訳ありません」

 チュン大佐は知らないだろうが、第十一艦隊の人事部長だった彼を統合作戦本部に転任させたのは、俺の差し金だった。ドーソン中将と相性が悪い参謀を全員格上のポストに転出させて、みんなが満足できる結果にしようと思ったけど、チュン大佐については裏目に出てしまったようだ。

「まあ、ドーソン提督のせいじゃないよ。運がなかった」

 シトレ派と言っても、アレックス・キャゼルヌ少将のようなシトレ元帥の側近から、チュン大佐のように交友関係で何となくシトレ派に分類されている者まで様々だ。派閥との繋がりが緩い者は、自由だが保護も薄い。一度左遷されてしまえば、浮かび上がるのは難しい。宇宙艦隊の采配も振るえる人物を自分のせいで失脚させてしまうのは心苦しかった。

「参謀長をお願いできますか」
「よろこんで引き受けましょう、フィリップス閣下」

 立ち上がって敬礼するチュン大佐は、穏やかな笑顔を浮かべていた。行儀の悪い人なのに、敬礼は妙に端正だ。俺も立ち上がって敬礼する。伝説の英雄を部下にしたという事実に、手が震えていた。俺なんかの下にいるのはもったいなさすぎる大物参謀長を得て、提督エリヤ・フィリップスはスタートを切った。 

 

第七十話:チーム・フィリップス誕生 宇宙暦796年5月上旬 惑星ハイネセン、第三十六戦隊司令部

 思いがけず伝説の英雄チュン・ウー・チェン大佐を参謀長に迎えてしまった俺は、第三十六戦隊司令部の幕僚チーム編成を進めていた。俺なりの人事案はあったが、参謀長であるチュン大佐との相性も重要だ。寝ても覚めても人事のことばかり考えていた。そんなある日、第十六方面管区司令官シンクレア・セレブレッゼ中将から通信が入ってきた。

「フィリップス君、将官昇進おめでとう」
「ありがとうございます」

 セレブレッゼ中将とは、ほんの短い間だけ縁があった。二年前のヴァンフリート4=2基地司令部ビル攻防戦で、ラインハルト・フォン・ミューゼルの捕虜になりかけたセレブレッゼ中将は、俺が注意を逸らしたおかげで助かった。そして、ラインハルトに殴られて死にかけた俺は、セレブレッゼ中将の迅速な措置によって助かった。俺がハイネセン第二国防病院に入院した後は交流が途絶えていたのに、どうして今になって連絡してきたんだろうか。

「幕僚を探しとるそうだね」
「はい」
「自分のチームを作るのは難しいだろう?」

 そう語りかけてくるセレブレッゼ中将の髪とひげには、白いものが混じっていた。彼が率いていた最強の後方支援チーム「チーム・セレブレッゼ」が、二年前のヴァンフリート4=2基地攻防戦で崩壊したことを思い出す。どんな気持ちが今の言葉にこもっているのか、つい考えてしまう。

「なかなか、思い通りにはいきません。最高の人材を集めようと思っているんですが」
「そうだろう、私が最初にチームを作った時もそうだった。私も幕僚もみんな未熟だった。最高といえる人材はいなかったな」
「でも、中将のチームは最強と言われていたじゃないですか」
「最初から最強だったわけではない。私もチームも一緒に成長していった。チームは育つものと考えるべきだ」

 セレブレッゼ中将の言葉は、俺の中にずっしりと響いた。どれほど苦労してチーム・セレブレッゼを築き上げたのか。その崩壊をどんな気持ちで眺めていたのか。彼の心中を思うと、やりきれない気持ちになった。

「そんなに暗い顔をするんじゃない」
「申し訳ありません」
「一つだけ偉そうにアドバイスをするとしたら、最初から完全なメンバーを揃えようとは思わないことだ。一緒に成長したい仲間を選んで、一歩ずつ完全に近づいていきなさい」
「一緒に成長したい仲間ですか?」
「そうだ。二年前の君は少佐だった。それが今や提督だ。君が成長したように、他人も成長する。誰と一緒に成長していきたいか、誰となら未来を共に出来るか。良く考えることだ」

 一緒に成長していきたい仲間、未来を共にしたい仲間。セレブレッゼ中将の言葉が頭の中をぐるぐる巡る。俺にとって、誰がそのような仲間なのだろうか。

「ありがとうございます。ゆっくり考えてみます」

 俺の返事にセレブレッゼ中将は満足げにうなずいた。チームを育てた経験がある人の言葉は心強い。ルグランジュ中将やドーソン中将の話も後で聞いてみよう。経験が足りないなら、先人に学ぶことだ。

「小官もチームを新しく作り直しているところでな。貴官の苦労が他人事とは思えなかった。だから、二年ぶりに連絡を入れたくなったわけだ」
「チームを作り直しておられるということは、つまり…」
「そうとも。再起にはチームが必要だ。それも最強のチームが」

 そう語るセレブレッゼ中将の声からは、辺境に左遷されてもなお衰えない覇気が感じられた。普通に考えればセレブレッゼ中将の未来は、現在の任期を全うして、もう一期辺境の方面管区司令官を務めた後に予備役編入といったところだ。再起の可能性はほとんどない。そして、辺境に流れてくる人材の質は低い。教育指導の環境にも恵まれていない。それなのに再起を夢見て、最強のチームを作ろうとしている。そんなセレブレッゼ中将の情熱に心打たれずにはいられなかった。

「頑張ります!」
「この歳になって、人を育てるのがこんなに面白いとは思わんかったよ。五十過ぎまでその場しのぎしかしてこなかった年寄りが眼の色を変えて仕事に取り組む。将来に見切りを付けていた若者が自分の可能性を思い出す。なんと愉快なことか」
「参謀教育を受けていない現場組からも、参謀を採用なさったんですか?」
「辺境は人材が少ない。あるものは何でも活用せんとな。兵役あがりの若者を数年で提督にしてのけたドーソンには敵うまいが、兵卒あがりの老人参謀ぐらいは作れるさ」

 愉快そうに笑うセレブレッゼ中将を見て、俺はようやく理解した。この人の真価は実務能力でもなければ、ロジスティックス理論でもない。強いチームを作るリーダーシップだ。彼にとって、人材は作るものであって、探すものではない。凡人であろうと、最強のプロフェッショナルに育て上げる。そんな人だからこそ、未熟なチームを最強のチームに育て上げた。そして、再び最強のチームを作り上げるだろうことを確信した。

「期待しております」
「いつか、中央に戻ってきたら期待以上のチームを見せたいものだな」

 セレブレッゼ中将は敬礼をすると、通信を切った。心がたぎってくるのを感じる。スクリーンを通じて、セレブレッゼ中将の覇気を吹きこまれたからに違いない。端末を立ち上げると、急いで人事方針を作り上げて、チュン大佐と話し合った。

「一緒に成長したい仲間、ですか」
「ど、どうかな…?」

 感銘を受けた様子もなく、のんびりとパンをかじっているチュン大佐を見ていると、自分がとてつもなく恥ずかしいことを言ってるような気がした。

「いいんじゃないですか。最初から完成形を求められるよりは、やりやすいでしょう」
「だよね!」
「私も同じです」
「何が?」
「まだ三十代前半。これから成長していく人間と見ていただいた方が気楽です」

 その言葉を聞いて、はっとなった。俺のイメージの中のチュン大佐は、宇宙艦隊の采配を振るって獅子帝ラインハルトに立ち向かった偉大な英雄だった。マイペースな性格もあって、最初から完成された存在だと考えていた。しかし、良く考えたらまだ三十代前半なのだ。いかに才能があっても、知っていることより学ぶべきことの方がはるかに多い年齢である。英雄チュン・ウー・チェンも未熟だが、努力すれば成長する。英雄視するあまり、当たり前のことを忘れてしまっていた。

「わかった。気をつける」
「では、方針が決まったところで打ち合わせをしましょうか」

 そう言うと、チュン大佐は分厚いファイルを取り出した。参謀長の次に重要なのは、「作戦」「情報」「後方」「人事」の四部門の部長である。主任参謀とも呼ばれる彼らは、各部門の参謀の指導や調整にあたるとともに、関連分野の専門スタッフとの調整も担当する。

「ずいぶん詳しく調べたね」
「まあ、それが参謀の仕事です」

 ファイルの中身は部長候補者の資料だった。統合作戦本部人事参謀部から渡された資料の他、入手できる限りの資料が添付されている。手書きの補足もびっしり付いていた。チュン大佐の調査能力に驚かされる。

「情報部長はハンス・ベッカー中佐に任せたい。これは譲れないな」
「彼は亡命者でしたね」
「そうだね」

 情報部は情報の収集と分析にあたる。敵の弱点を探すとともに、自軍の死角を無くす役割を担う。指揮官の耳や目とも言うべき情報部長は、ハンス・ベッカー中佐と決めていた。三年前に姪を連れて亡命してきた彼は、イゼルローン回廊の航路知識を買われて航法参謀を務めてきた。二年前にハイネセン第二国防病院に入院した時に知り合ってから、付き合いが続いている。この病院はダーシャ・ブレツェリ大佐やグレドウィン・スコット准将と知り合った場所でもある。

「もともと、情報畑なんですね。そして、信頼関係もある」

 帝国軍にいた頃のベッカー中佐は情報畑だった。情報活動には、他人を出し抜く狡猾さ、他人に信用される誠実さという二つの相反する属性が必要となる。情報畑の人間は、油断ならない曲者と正直な好人物の両極端に分かれる傾向があるのもそのためだ。ずけずけと物を言い、嘘をつけない性格のベッカー中佐は後者に属する。

「情報活動は人の繋がりだからね。それにチームワークの要としても期待できる」
「では、ベッカー中佐で決まりですね」

 そう言うと、チュン大佐は冷め切ったカフェオーレをすすりながら、ファイルのページをめくった。最近気づいたことだが、チュン大佐は猫舌らしい。熱い飲み物を飲んでるのを見たことがない。

「セルゲイ・ニコルスキー中佐を人事部長に考えてる」

 部隊の人的資源を管理する人事部は、部隊が必要とする人材を調達して適材適所に配置し、個人単位の教育訓練を通じて能力の向上に務める。長身で逞しい肉体を持ち、体育教師を思わせる風貌のセルゲイ・ニコルスキー中佐に人事部長を任せるつもりだった。ヴァンフリート4=2基地で憲兵隊長を務めていた時に仕事の関係で知り合った。個人的な交際は薄かったが、部隊の人員を数字ではなくて一人の人間として捉えるところと、部下にも同僚にも上官にもはっきりと物を言えるところに好感を持っていた。

「実績は申し分ありませんが、第二輸送業務集団の人事部長は結構な激務です。動かせるのですか?」
「司令官のスコット准将はいい人だからね。ニコルスキー中佐には司令部の後見人というか、引き締め役を担ってもらえればと思ってる」

 数日前、ニコルスキー中佐を譲ってくれるかどうか、ダメ元でスコット准将に打診したら、意外な好感触が返ってきた。俺が彼の元を月二回訪れて、三次元チェスの相手をしてくれるなら応じるというのだ。そんな話、公にはできないが。

「動かせるなら、ニコルスキー中佐で決まりですね。動かせなかった場合の第二第三の候補も選定はしておきましょう」

 確実に動かせる自信はあった。スコット准将は仕事中も部下と対局してるほどの三次元チェス狂である。対局するといえば、大抵の頼みは聞いてくれる。第十一艦隊で勤務していた頃は、対局するたびに高いケーキをおごってもらったものだ。

「問題は作戦と後方なんだ。作戦は知り合いが全然いない。後方は知り合いが多すぎて目移りする」

 作戦部は平時は部隊単位の教育訓練を通じて作戦行動に必要な戦力の整備に努め、戦時は状況に応じた作戦案を練る。高い作戦能力を持つチュン・ウー・チェン大佐は、参謀長として全分野にわたる采配をふるう立場だ。作戦だけに専念するわけにはいかない。作戦専任の参謀も別に必要になるが、優秀な作戦屋を手放す指揮官はそうそういない。

「閣下はお若いですから、作戦参謀も若手を選んだ方がいいでしょう。ずっと同じ作戦参謀を使い続けないと、用兵の継続性が保てません」
「確かにどの提督も若い作戦屋を育てようとしてるね」

 提督は自分が現役でいる間、ずっと使い続けられる作戦参謀を欲している。戦場での手足に等しい作戦参謀が自分より先にいなくなったら、頭の中に思い描いた用兵を実現できなくなってしまうからだ。だから、優秀な士官学校上位卒業者に自分の用兵を教え込んで作戦参謀にする。

「閣下と面識がある二十代から三十代前半の若手を中心に、候補を絞り込んでおきます」
「後方はどういう人がいいのかな」

 部隊の物的資源を管理する後方部は、部隊が必要とする物資の調達、管理。輸送、分配を行う。後方部門に知り合いが多い俺は、誰を選ぶべきか迷いに迷っていた。誰を選んでもうまくいきそうな気になることもあれば、誰を選んでも失敗しそうな気になることもある。

「後方はキャゼルヌのような天才でない限りは、経験と人脈のある者がいいでしょう。調整業務が多いですから」
「確かに後方ほどよその部署と顔を合わせる参謀はいないなあ」
「経験豊かな三十代後半から四十代の者、それ以下の年齢でも顔が広い者を中心に、候補を絞り込んでおきます」
「よろしく頼むね」

 これまで、資料の収集と分析は全部自分の手でやって来た。それが参謀に指示を出すだけで済んでしまう。これからは参謀を上手に動かすのが俺の仕事になるのだ。気を引き締めないといけない。

「次は副官です。これは早めに決めてしまってください」

 副官は自分自身で務めたことがあるからわかるが、記憶力が良くて、頭の回転が早くて、性格が細かい人が向いている。俺は准将だから、大尉か中尉を副官に選べる。頭の中に浮かんだのは、俺の後任としてドーソン中将の副官を務めたユリエ・ハラボフ大尉。俺を意識しすぎてドーソン中将の不興を買った彼女は任期を全うした後、トリューニヒト派に誘われることもなく国防委員会情報部に移り、テロ捜査の際に起きた不祥事に巻き込まれて、辺境に飛ばされてしまった。副官という言葉を聞くと、俺のせいで不幸になった彼女のことを思い出してしまう。

「参謀長はどういう人がいいと思う?」
「シェリル・コレット大尉ではいかがでしょうか」

 作戦と後方では人物の傾向を述べていたチュン大佐が、いきなり個人名をあげたことにびっくりした。しかも、俺が全く評価していない人物だ。一体どういうつもりなのだろうか。

「理由を聞かせてくれる?」
「閣下がエル・ファシル臨時保安司令官として戦った時の戦闘詳報に添付されたメモ。あれを書いたの彼女でしょう?」
「まあ、そうだけど」

 昨年の9月に俺がエル・ファシル解放運動のテロ部隊を迎え撃った時、中尉だったシェリル・コレットは俺の臨時副官を務めた。指示を出すだけでいっぱいいっぱいになっていた俺は、彼女から渡されたメモで情報を得て指揮をしていたが、情報量があまりに少なすぎて不満だった。俺ならもっと詳細に書く。仕事が雑というのが彼女に対する評価だった。

「作戦参謀部であの戦いを分析した際に読ませてもらいました。驚くほど要点だけをきれいに抜き出したメモでしたね」
「情報量が少なすぎなかった?」
「平時ならそうですが、あの状況では正解です。詳細すぎると指揮官自身の情報処理能力が追いつかなくなります」

 俺はオフィスでしか副官を務めたことがない。判断までに余裕があるから、可能な限りメモに情報量を詰め込むのが正解だった。一枚の紙になるべく多くの情報を詰め込めるような文章術を磨いてきた。しかし、判断に余裕が無い戦場の副官は別ということなんだろうか。

「彼女は俺の頭に合わせてくれたってことなのかな?」
「そういうことです。閣下なら、真っ先に彼女を副官に選ぶと思っていました」

 チュン大佐の指摘を受けて、考えこんでしまう。俺より実戦に詳しい彼がここまで評価するのなら、有能と判断してもいいのだろう。しかし、やはりコレット大尉は副官にしたくない。

「別の人にお願いしたいなあ」
「やはり、これがネックですか」

 チュン大佐が示したコレット大尉の資料には、「シェリル・コレット 旧姓リンチ」と書かれていた。

「これは…」
「コレット大尉は、エル・ファシルから逃亡して捕虜になったリンチ少将の娘ですよ。翌年に士官学校に入学しました。当時の校長がリベラルなシトレ元帥だったおかげで、合格を取り消されずに済んでいます」

 そんな話、初めて聞いた。そもそも、コレット大尉の身の上には興味がなかった。能力があると言われても副官にしたくなかったのは、外見の問題だった。彼女は太っていて背も大きい。普段はぼんやりした感じで、人と目を合わせようとしない。見ていると、妹のアルマを思い出すのだ。しかし、そんなことをチュン大佐に言えるはずがない。

「初めて聞いたよ」
「エル・ファシル警備艦隊にも自ら志願したそうです」

 俺は今の人生では逃亡者にならずに、日の当たる場所を歩いている。逃亡者になった人とその関係者に思いを馳せることは無かった。前の人生で俺と家族を襲ったような波がコレット大尉に襲いかかっていたとしたら、やりきれない気持ちになる。

「帝国じゃないんだから、父の罪を子供を被ることもない。経歴は問題ない。コレット大尉にしよう」

 エル・ファシルの逃亡者の家族としての苦労には同情を感じる。父の汚名をそそぐための努力は立派だと思う。エル・ファシルの英雄の副官になれば、少しは報われるかもしれない。容姿への嫌悪感を我慢しないと使えない副官というのも困り物だが、逃亡者とその関係者に辛く当たるような真似はしたくなかった。

「それにリンチ司令官の気持ちもわかるんだよ。俺があの人の立場なら、逃げずにいられるかどうか自信持てない。だから、家族が苦労するのは理不尽だと思う」

 俺の言葉にチュン大佐は興味深そうな表情を見せた。洞察力のある彼でも、俺の言葉が逃亡者としての経験から出ていることはわからないだろう。アルマのことと言い、コレット大尉のことと言い、前の人生で逃亡者だったという記憶からは逃れられないらしい。エル・ファシルの英雄が逃亡者の娘を副官にするという妙なめぐり合わせになってしまった。



 俺とチュン大佐は一週間かけて、幕僚を選んでいった。まずは参謀部門の長だ。作戦部長代理は宇宙艦隊総司令部にいたクリス・ニールセン少佐。人間関係のストレスで体を悪くした彼を見かねたアンドリュー・フォークの仲介で移籍した。基本に忠実な部隊運用をする若手の作戦屋だ。後方部長は第十一艦隊司令部にいたリリー・レトガー中佐。ドーソン中将の子飼いだが、人格は円満で調整能力に長けている。その次は専門スタッフ部門の長。通信部長マー・チェンシン技術中佐、経理部長シビーユ・ボルデ中佐、衛生部長アルタ・リンドヴァル軍医少佐、法務部長フェルナンド・バルラガン少佐など、有能な専門家を揃えた。

 参謀や専門スタッフは過去に勤務した部署で知り合った人を基本に選んだ。ドーソン中将やルグランジュ中将が推薦してくれた人も若干名加わっている。人格、能力ともにバランスの取れた人選ができたつもりだ。意外なところでは、俺とほとんど面識がない宇宙艦隊総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将が、士官学校副校長を務めていた頃の教え子エドモンド・メッサースミス大尉を推薦してくれた。恩師に似て、気さくでコミュニケーション能力が高い。士官学校上位卒業者でもあり、統合作戦本部や宇宙艦隊総司令部あたりで勤務していてもおかしくない秀才だ。彼を推薦したグリーンヒル大将の意図は不明だが、一緒に育っていく仲間になれそうだ。

 不本意な人事が無かったといえば嘘になる。その最たるものがエリオット・カプラン大尉だ。改革市民同盟代議員でトリューニヒト派幹部のアンブローズ・カプランの甥にあたる。士官学校を出てはいるものの成績は最後尾。勤務態度も勤務成績も良くないのに、統合作戦本部や正規艦隊での勤務歴が多いのは、ひとえに伯父の威光の賜物だろう。俺と同い年ということをやたら意識しているっぽいのも鬱陶しかった。そんな人物でも代議員直々の頼みとあれば受け入れないわけにはいかない。

 紆余曲折を経て、俺の幕僚チームは発足した。最強のチームになれるか、ごく平凡なチームに終わるかは分からない。でも、ごく一部を除いたら、一緒に成長していきたい仲間を選んだつもりだ。みんなで頑張って成長していきたいと思った。 

 

第七十一話:魔術の種と参謀の視点 宇宙暦796年5月下旬 惑星ハイネセン、第三十六戦隊司令部会議室

 宇宙暦七九六年五月十四日、難攻不落と言われていたイゼルローン要塞は、第十三艦隊司令官ヤン・ウェンリー少将の手によって陥落した。過去に数万隻に及ぶ攻略軍が派遣されること六度、ことごとく跳ね返してトータルで数百万に及ぶ同盟軍将兵の人命を奪った難攻不落の要塞を攻略したのが、二十九歳の青年提督率いる六四〇〇隻の艦隊であったという事実は、誰もを驚愕させるものであった。しかも、味方に一人も犠牲を出さなかったというのだ。

 第十三艦隊が偽情報でイゼルローン要塞から駐留艦隊を誘き寄せると、帝国軍人に偽装したローゼンリッターを保護を求めるふりをして要塞内部に潜入。隙を見て要塞司令官のシュトックハウゼン大将を拘束して守備隊を無力化させたローゼンリッターは、第十三艦隊を引き入れてイゼルローン要塞を占拠した。駐留艦隊司令官ゼークト大将は、要塞主砲トゥールハンマーの直撃を受けて戦死。芸術としか言いようがない手際だった。

 昨年のエル・ファシル動乱に始まる一連のテロ事件。第七方面管区司令部襲撃の実行グループを特定できず、海賊討伐も不祥事が続出してすっきりしない結果に終わった対テロ総力戦。そして、二月のアスターテ星域における惨敗。衝撃的な事件が続いて、安全保障に不安を抱いていた市民は、数十年に及ぶ国防上の懸案をあっありと解決してのけた若き英雄に熱狂した。

 新聞、雑誌といったメディアの紙面には、連日のように「魔術師ヤン」「奇跡のヤン」の文字が躍った。テレビを付けると、どこかのチャンネルで必ずヤンの顔が映し出されている。ネットはヤンを賞賛する書き込みで埋め尽くされた。ビジネスマンの商談の導入、主婦の井戸端会議といった場面においても、ヤンの偉業は誰もが共有できる話題として好まれた。同盟に生きる者がヤンの名前を耳にしない日も、ヤンの顔を見ない日もない。それほどにヤン・ウェンリーフィーバーは大きかった。

 我らが第三十六戦隊はそのような世間の喧騒をよそに粛々と部隊を作り上げる、というわけにはいかなかった。軍人だからこそ、同盟軍史上空前の偉業に興奮せずにはいられないのである。今日の参謀会議の席上においても、当然のようにイゼルローン攻略の話題が出てくる。

「まさか、あの要塞が落ちる日が来るとは思いませんでしたよ。いやはや、奇術の種というのは尽きないものですねえ」

 嘆息混じりに言うのは、戦隊情報部長ハンス・ベッカー中佐。亡命者である彼は、第四次と第五次のイゼルローン攻略戦では帝国軍、第六次では同盟軍として戦っている。攻守両方を経験した彼の言葉は重い。会議室は粛然となる。

「こんな簡単なトリックに引っかかるなんて、帝国軍も大したことないですよね」

 ヘラヘラした顔と口調で空気の読めない発言をする人事参謀のエリオット・カプラン大尉に、参謀達は何言ってんだこいつ、と言わんばかりの視線を向けた。俺と同い年の彼は、伯父であるアンブローズ・カプラン代議員のコネで第三十六戦隊の参謀になった。人事資料を見た時点で頭痛がして、本人を見たら心臓も痛くなった。

 俺と同い年で士官学校を卒業していて、統合作戦本部や正規艦隊での勤務歴が多ければ、最低でも少佐には昇進しているはずだ。それなのにまだ大尉。しかも、進級リストではだいぶ下位にいる。過去に何かやらかしたらしく、一度降等されている。仕事もできないというか、やる気がまったく感じられない。何もしないだけなら無視できるのだが、カプラン大尉は空気を読まない発言が多く、存在感だけは無駄に大きい。

「奇術の種なんて、意外とつまらんものさ。しかし、種明かしされてから、つまらんと言ってみるのも芸がないな」

 ベッカー中佐はカプラン大尉の方を見て、微妙に毒のこもった言葉を投げかけた。自分が失言をしたらしいことに気づいたカプラン大尉は気まずそうに視線をそらす。調子がいいわりに気が小さいという微妙な性格をしている。妹のアルマもこんな奴だった。

「我々は攻める側しか経験したことがありませんが、守る側から見たイゼルローン要塞とは、いかなるものだったのでしょうか?」

 作戦参謀のエドモンド・メッサースミス大尉がベッカー中佐に質問をする。

「月並みな表現だけど、絶対的な安心感があった、ってとこかねえ」
「その安心感が油断を生んだのでしょうか?」
「勘違いしないでくれよ。安心と油断は違うぜ。要塞を信じていたから、守る側も命を賭けられた。戦うからには、最高の武器と防具に命を預けたいと考えるのが兵士ってもんだ。イゼルローンが信頼できん要塞なら、第五次か第六次で陥ちてただろうよ。物理的ではなく、心理的にな。外壁に穴をぶち開けられても、兵士どもが持ち場を離れなかったってことは、忘れんでもらいたいね」

 第五次ではシトレの無人艦特攻、第六次ではホーランドのミサイル攻撃がイゼルローン要塞の外壁に大きな穴を開けた。遠くから見ている俺からもはっきりと分かるぐらい、要塞が大きく揺れた。中にいる兵士の不安は想像するまでもない。それでも兵士たちは砲台を動かし続けた。だからこそ、逆転するまでもちこたえられたとベッカー中佐は言いたいのだろう。

「では、油断はなかったと?」
「油断してたから負けたんだ、というのはいい答えだな。わかりやすくて、みんなが納得するいい答えだ。士官学校の答案なら、それで正解だろうさ」

 ベッカー中佐の口調には、やや皮肉が混じっている。質問者のメッサースミス大尉は士官学校の上位卒業者なのだ。

「では、なぜイゼルローン要塞は落ちたのでしょう?」
「戦闘の詳細は今後明らかになるだろうが、今の段階で俺が思いつく理由は二つ。一つ目は要塞情報部の問題。正面から戦って落ちたら、指揮官や将兵が油断したってことになるだろう。しかし、詐欺にひっかかったんなら、話は別さ。要塞司令官のシュトックハウゼン大将は拠点防衛のオーソリティだが、詐欺の専門家じゃあない。詐欺対策は情報部の仕事だ。情報参謀が注意を促さなかったのか、という疑問はあるな。促しても耳を傾けてもらえなかったという可能性はあるが」

 情報の専門家であるベッカー中佐らしい意見に全員がうなずく。後方業務と治安業務がメインだった俺には無い視点だ。

「情報部に不備があったとしたら、それはどのようなものであるとお考えですか?」

 なおもメッサースミス大尉は質問を続ける。経験は浅く、思考が柔軟とも言いがたいが、好奇心が強いのは長所だ。第三十六戦隊の幕僚会議では、メッサースミス大尉の質問に対して、他の参謀が説明するという形で意見を述べる流れができあがっていた。結成当初は俺が質問役をやるつもりだったが、その必要もなくなった。

「古巣だから擁護するわけでもないが、帝国の情報参謀もそんなに無能じゃない。判断材料が十分にあれば、ヤン提督の仕掛けたトリックにも気づいただろう。気づいていれば、注意を促すはずだ。何らかの理由で判断材料を十分に得られなかった、あるいは司令官と要塞情報部の意思疎通がうまくいってなかったんだろうな。どちらもそんなに珍しいことじゃあない」

 参謀はデータに基づいて思考するものだ。質量共に充実したデータがなければ、どんなに優秀な参謀であっても正しい答えを導き出せない。そして、正しい答えを導き出せても、それを聞いてもらえなければ意味が無い。いや、すぐに聞いてもらえなければ意味が無いというのが正確だろうか。

 司令官は信頼している参謀の言葉にはすぐ納得するが、信頼していない参謀の言葉にはなかなか納得しない。司令官に納得してもらおうと説明している間に、せっかくの提案が賞味期限切れになってしまうなんて良くあることだ。しかし、司令官としても自分が納得出来ない言葉に、おいそれと部隊の命運を預けるわけにはいかない。だからこそ、司令官と参謀の信頼関係は大事なのだ。

「担当者が交代したか何かで、情報部の活動が一時的に停滞していた。あるいは司令官と情報部の間に確執があった。そこを突かれた可能性が高いと思う。ヤン提督は作戦屋らしいから、いい情報屋が付いてたんだろう。要塞情報部の内部情報を探り出し、信頼できる情報かどうかを精査した上で、ヤン提督の詐欺は成功すると太鼓判を押した情報屋がね」
「第十三艦隊のムライ参謀長が情報畑だったね。優秀な人だよ」
「なるほど、情報屋を参謀長に起用したわけですか」

 参謀長チュン・ウー・チェン大佐がヤンの参謀長の名前をあげると、ベッカー中佐は満足気な表情になって、首を縦に軽く振った。そして、若い情報参謀のブルートン少佐やルンベック大尉らに語りかける。

「指揮官がこういう情報がほしいと言ったら、雑多な情報の中から必要なものを引っ張りだして、信頼性を精査した上で提示する。地道で退屈で独創性を働かせる余地なんて無い作業だ。しかし、指揮官と作戦屋のアイディアとうまく噛み合えば、ヤン提督とムライ参謀長のような奇跡だって起こせる。俺達もフィリップス提督と奇跡を起こせるように取り組んでいきたいもんだな」

 ベッカー中佐の言葉に情報参謀達は顔を紅潮させている。地道な情報活動が奇跡を起こすというのは、地味な情報屋にとってはグッとくるフレーズだろう。一緒に奇跡を起こそうと言われた俺も心が熱くなる。彼に情報を任せて良かったと思う。

「なるほど、一つ目の理由は完全に理解出来ました。二つ目の理由もお聞かせ願えませんか」

 みんなの興奮がやや引いてきたタイミングで、メッサースミス大尉がまた質問をする。空気を読めるのも彼の長所である。あのドワイト・グリーンヒル大将の推薦だけあって、コミュニケーション能力が抜群に高い。

「二つ目は結束力の問題。こちらの方がより致命的かもしれん。帝国軍というのは、相互の信頼関係が薄い軍隊なんだ。貴族と平民はもちろん、貴族でも門閥貴族と下級貴族、平民でもブルジョワと貧困層では価値観がまったく違う。平民将校はブルジョワ、下士官兵は貧困層が多いから、平民同士でも話が通じない。門閥貴族の将校はブルジョワの将校を成り上がりと嫌う。ブルジョワの将校は門閥貴族の将校を家柄だけの無能と嫌う。その対立に下級貴族も加わる。上下左右、みんな話が通じない」
「帝国で過ごしたことがないから、いまいちピンとこないのだが、そんなにも階級同士の断絶は酷いのか?」

 これは人事部長セルゲイ・ニコルスキー中佐の質問。人事管理を担当する彼にとって、帝国軍の将兵の信頼関係というのは興味深いテーマだろう。

「食べ物、衣服、教育、金銭感覚など、あげればきりはないが全部違うのさ。共通点が無さすぎて、コミュニケーションのとっかかりが掴めない。そんな連中を、司令官が皇帝の権威を振りかざしてようやくまとめているのが帝国軍という軍隊だ。だから、司令官一人抑えられただけで五〇万人が浮足立ってあっという間に降伏してしまう。仮に部隊をまとめられる指揮官がいても、強硬策には出られんだろうけどね。同盟軍を追い払っても、何かの間違いで門閥貴族のシュトックハウゼンを死なせてしまったら、どういう目に合うかはお察しくださいってとこさ」
「いろいろと考えさせられる話だな。我が軍でも人事がうまくいっていない部隊では、十分に起こり得ることだ。人事部も気を付けねば」

 俺は結構人事管理には気を使っているつもりだった。第千三百六十七駆逐隊ではうまくやれたと思う。しかし、一五〇〇人程度の駆逐隊と九万人近い戦隊では、管理すべき人員の数が格段に違っている。俺の目が届かない部分は、人事参謀に補ってもらわなければならない。

 俺が人事に出した方針は、「私的制裁、パワハラ、セクハラ、麻薬使用の根絶」「勤務成績優秀者表彰制度の充実」「将兵の借金問題の迅速な発見と解決」「各部隊の相談員の質の向上」「メンタルケア制度を安心して利用できる雰囲気作り」の五つだった。人事参謀に期待しているのは、俺の方針を実現するためのアイディアを出すこと、俺の方針を各部隊に周知して指導していくこと、俺の目や耳となって各部隊の人事業務状況を把握することだ。

 ニコルスキー中佐と人事部は良くやってくれていた。俺が方針を示すと、必要なマニュアル類をあっという間に作成してくれた。俺もマニュアル作りには自信があったが、プロの参謀がチームを組んで作ると完成度が全然違う。俺が持っていない発想もふんだんに盛り込まれている。方針の周知や指導もしっかりしている。人員が過剰な部署と不足している部署、各部隊に不足している人材を良く把握して、適切な配置が行えるよう努力してくれている。自分の目と耳と手足が何倍にも増えたようで心強い。

「作戦部としては、第十三艦隊の部隊運用に注目したいところです。編成して間もない部隊が四〇〇〇光年を二十四日という速度で移動。一隻の脱落者もなし。通常の行軍ではなくて、隠密行動です」

 作戦部長代理クリス・ニールセン少佐は第三十六戦隊の部隊運用を担当している。第十三艦隊の部隊運用に注目するのは当然だろう。参謀長のチュン大佐は作戦全般の指導、ニールセン少佐と作戦部には部隊単位の訓練、作戦計画を担当している。俺とチュン大佐の方針を実現するために必要な戦力と作戦案を準備するのが彼らだ。作戦はチームで作り上げるものなのである。

「副司令官フィッシャー准将の仕事だね。第十三艦隊の部隊運用は、彼が実質上取り仕切っている」
「参謀ではなくて、副司令官がですか?」

 作戦参謀ではなくて、副司令官が部隊運用を担当している。そのチュン大佐の言葉に、ニールセン少佐は少々驚いているようだ。

「ヤン提督は部隊指揮の経験をほとんど持っていない。だから、作戦指導に専念して、運用はベテランのフィッシャー准将とそのスタッフに任せているんだろうね。見方によっては、フィッシャー准将が事実上の指揮官といえるかもしれない」
「珍しいスタイルですね…」
「帝国ではそういうスタイルもあるらしいよ。司令官はお飾りの門閥貴族、副司令官にはベテランを選んで、副司令官を事実上の司令官にすることがあるそうだ」

 チュン大佐がそう言うと、ベッカー中佐がうなずく。

「しかし、それでは指揮官が二人いるようなものです。指揮系統が混乱しませんか?」
「メンバーを聞いた時には、私もそれを懸念したよ。若いエリートの司令官と叩き上げの副司令官って、衝突してもおかしくないからね」

 二人の会話にギョッとなってしまう。俺の副司令官ゲンナジー・ポターニン大佐は四十三年の戦歴を誇るベテランだ。衝突はしていないが、親密とも言いがたい。二等兵あがりの俺が八年で将官になっているのに、同じ二等兵あがりの彼は六〇過ぎでようやく大佐。お互いに意識せずにはいられない。

「小官もそう思います」
「今のところはうまくいっているみたいだよ。ヤン提督は人の仕事にあまり口出ししない。フィッシャー准将は自己主張が少ない。だから、衝突せずに済んでるんだろう。人事の妙だね」
「これだけの運用を成し遂げているということは、小官が心配するようなことにはなっていないのでしょう。愚問でした」
「統合作戦本部の戦闘分析を早く見たいね。ニールセン少佐らには、得るものが多いだろうから」
「まったくです」

 ニールセン少佐はアンドリューの推薦だけあって、とても純朴な性格だ。ロボス元帥の下で用兵の基本を習得しているし、年齢もまだまだ若い。作戦部長代理の地位でリーダー経験を積んで、成長していって欲しい。

「後方部にとっては、つまらない戦いかなあ。物と金があまり動かないから」

 腕を組んでそう言うのは、後方部長のリリー・レトガー中佐。四〇近い彼女はさほどやり手というわけではないが、協調性に富んでいる。ドーソン中将の子飼いの一人で、他人に弱みを見せたがらないボスの代わりに頭を下げる役割を担ってきた。シトレ派やロボス派とも話ができる人物だ。各部署の調整にあたることが多い後方業務には、うってつけの人材である。ドーソン中将が第十一艦隊司令官を更迭された時に、後方勤務本部入りの話を断って、格下の戦隊司令部に来てくれた。

「レトガー中佐が面白がるような戦いがしょっちゅう起きてたら、国防予算が大変だよ」
「言われてみれば、そうですねえ」

 冷めたカフェオーレを飲み終えたチュン大佐が間延びした声でそう言うと、レトガー中佐も緊張感の無さを競っているかのようなのんびりした口調で応じる。

「参謀長の意見はどうだい?」

 ずっと黙っていた俺は四部門の意見が出揃ったのを見計らって、参謀長のチュン大佐に総括を頼む。最後に全体を統括する彼の視点からの意見を聞くのだ。

「戦術的には見るべきもののない戦いですが、運用面では参考になります。幕僚チームの人選と運営、第四艦隊と第六艦隊の残存人員を手早くまとめ上げた人事管理、イゼルローン要塞の隙を見ぬいた情報活動、迅速で隠密性の高い艦隊運用。ヤン提督の魔法は、閣下と我々が今やっているのと同じ実務の積み重ね上に成し遂げられたのです」

 その言葉に安心させられた。ヤン・ウェンリーが奇略をもってイゼルローンを陥落させてから、俺と彼を比較する意見をあちこちで見かけるようになった。「フィリップスはヤンのような奇策を使えないからダメだ」「そもそも、あいつは対帝国戦で戦功が無い。ひいきで出世しただけ」「ヤンに勝てるのは顔ぐらい」という否定的な意見もあれば、「フィリップスもヤンには負けていられないはずだ。どんなマジックを繰り出してくるか楽しみだ」などと贔屓の引き倒しみたいな意見も見られる。

 自分がヤンと比較されるなどおこがましいと思っている。ヤンに及ばないと言われても、当たり前のことだから、気分が悪くなったりはしない。しかし、俺の悪口を言うために、わざわざヤンを引き合いに出してくる人間が多いのには閉口した。トリューニヒト派が勢力を拡大するにつれて、反発も大きくなってきた。トリューニヒト派で一番目立っている俺に対する風当たりも強い。特に将官昇進は激しい反発を生んでいる。早く実績をあげなければいけないと、少し焦っていた。チュン大佐の言葉で心が軽くなった。

 俺の隣で黙々と会議の議事録を作っている副官のシェリル・コレット大尉は、鈍そうな外見とは裏腹に仕事はとても早い。エル・ファシル解放運動と戦った際に感じた不満もチュン大佐の言うとおり、俺の勘違いだったようだ。オフィスでの仕事では詳細なメモを作ってくれる。やや仕事が荒いが、副官になったばかりで完璧というわけにもいかないだろう。不満があるとすれば、妹に似た容姿と愛想の無さぐらいである。

 通信部、経理部、衛生部、法務部などの専門スタッフ部門の人間は今の会議には出席していないが、彼らの仕事ぶりにも満足していた。特に衛生部長アルタ・リンドヴァル軍医少佐は、医学的な見地からメンタルケアの指導に取り組んでいる。彼女は俺が第千三百六十七駆逐隊司令だった時に、部隊のメンタルケア対策に協力してくれた精神科医だった。

 俺のチームは順調に動き出している。先日、初の合同訓練も終えた。一個戦艦群、二個巡航群、三個駆逐群、一個揚陸群といった大部隊が俺の指揮でまともに動くかどうか不安だったけど、まずまずの動きを見せてくれた。この部隊の最大の弱点は俺の指揮能力だ。チュン大佐が作ってくれた計画に基づき、一年かけて大部隊の指揮運用に慣れていこうと思う。 

 

第七十二話:彼女と一緒に過去と現在と未来を見詰めて 宇宙暦796年7月上旬 惑星ハイネセン、エリヤ・フィリップス宅

 むっとするような暑さで目が覚めた。体は汗でべたついている。寝ぼけまなこで窓の方に目をやると、カーテン越しからもはっきりとわかる強い日差しが部屋の中を照らしていた。ハイネセンの夏は蒸し風呂のような暑さだ。朝でさえこんなに蒸し暑いのだから、時間がたてばもっと酷くなるだろう。何年この街で過ごしても、この暑さだけは苦手だ。

 隣ではダーシャ・ブレツェリが俺に背を向けて寝ている。喧嘩したとかそういうわけではなく、寝返りを打っただけだ。彼女は寝相が悪い。俺の上に乗っかってなかっただけでも良しとしなければならない。

「それにしてもおなかが空いたなあ」

 冷蔵庫の中に入っている食べ物を思い浮かべてみる。冷凍食品やレトルト食品の買い置きは無い。お菓子も切らしている。ダーシャが昨日買ってきた特売のキャベツと豚肉しかない。俺は料理を作れない。ならば、答えは一つだ。

「ダーシャ、おはよう」

 声をかけるけど、反応は返ってこない。

「ねえ、起きてよ。朝ごはん作って」

 今度は彼女の右肩に手を掛けて体を軽く揺すってみたが、それでも反応はない。

「まいったな、あの手を使うか」

 肩から離した手をダーシャのうなじにぴったり当てて、そこから背骨に沿ってすーっと背中を撫で下ろしていく。手のひらを通して伝わってくるなめらかな感触が心地良い。尾骨に差し掛かったあたりで体がびくっと動いた。彼女は背中が弱いのだ。

「起きた?」

 返事はないが、脈はある。もう一度うなじに手を当てて背中を撫で下ろした。ダーシャの体がぶるぶると震える。

「そういうのやめてよね」

 思いきり不機嫌そうな声が聴こえる。作戦成功だ。ダーシャは目を覚ました。

「おなかすいたんだ。朝ごはん作ってよ」
「やだ」
「なんでさ」
「太りたくないから」

 本当の理由はわかっている。単に起きたくないだけだ。ダーシャは朝が物凄く弱い。本人はそれを恥ずかしがってるらしく、なかなか認めようとせずに、今のような言い訳を繰り返す。

「全然太ってないじゃん」

 そう言うと、俺は自分の体をダーシャの背中にぴったりくっつけた。そして、右手を彼女の腹に当ててへそ周りを軽く撫でる。引き締まっていて、まったく肉が付いていない。どこが太っているというのか。寝言もたいがいにして欲しい。

「これから太るかもしれない」

 ああ言えばこう言うとは、まさに今のダーシャだ。空腹というのは人間から自制心を奪う。だから、軍隊は補給を絶やしてはならないのだ。後方畑なのにそんな大事なことも忘れてしまったのか。

「変な言い訳しないの」

 むっと来た俺はダーシャのへそ周りに当てた手を下腹部に移動して撫で回した。腹がこんなにまっ平らだったら、太る心配なんかいらないだろう。起きたくないというのはわかるが、もう少しマシな言い訳を思いついてほしいものだ。

「ああ、もう。わかったよ、わかったよ。作ればいいんでしょ」

 物凄く嫌そうにダーシャは言った。俺を空腹にさせるということが、どういう意味を持つのか。それをわかってくれたらいいんだ。これで朝食にありつけると思うと、うれしくてたまらない。

 二〇分後、俺とダーシャはキッチンで一緒に食事を取っていた。テーブルの上にはダーシャが作った豚肉とキャベツの炒め物に、俺がいれたアイスコーヒー。ダーシャはいつもココアを飲んでいるが、今日はたまたま切らしていた。

「せっかく作ったんだから、もっと味わって食べてよね」
「いや、だって。おいしいもん」

 俺の食生活は質より量だ。できればいい物を食べたいが、お腹いっぱい食べたいという気持ちがそれに勝る。もともと雑な味覚に軍隊仕込みの食習慣が加わって、とにかく食べられたら何でもいい人になってしまっていた。それに加えて、今は空腹という最高の調味料がある。ダーシャが目の前にいる。何を食べたっておいしいに決まっている。

「しょうがないなあ、もう」

 ダーシャは苦笑しながら細い肩をすくめて、ソリビジョンに目をやった。今は朝のニュースが流れている。最近は気が滅入る事件ばかりだったが、俺やダーシャぐらいの立場になれば、世情と無縁ではいられない。ニュースを見て、何が起きているかを把握しておく必要はあった。

「国防委員長ファンクラブの白頭巾がまたやらかしたんだって」

 ダーシャの声には、あからさまな不快感が漂っていた。同盟議会テルヌーゼン区補選で起きた選挙妨害事件のニュースが流れている。反戦市民連合のジェシカ・エドワーズ候補の公開演説会に、極右過激派の憂国騎士団が殴り込み、重傷者三人を含む二十二人が負傷したという。国防委員長ファンクラブの白頭巾とダーシャが揶揄する通り、国防委員長ヨブ・トリューニヒトと憂国騎士団の関係は公然の秘密とされていた。

「これだけ暴れても、逮捕者無しだって。警察が主戦派に味方してるんだよ。エドワーズさんが当選するのが怖いんだね」

 テルヌーゼン区の補選には、トリューニヒト派の元警察官僚が立候補していた。それに対し、反戦派最左翼の反戦市民連合はジェシカ・エドワーズを擁立している。輝くような美貌、火を吹くような弁舌を持つ彼女は、四月のアスターテ会戦で戦死したラップ少佐の婚約者である。戦没者慰霊祭でヨブ・トリューニヒトを糾弾したことから、イゼルローン攻略で高揚する主戦論に歯止めをかける存在として、反戦派に期待されていた。一方、ヨブ・トリューニヒトはテルヌーゼン補選を自派の力だけで戦い抜いて、来年の総選挙に向けて弾みを付けたいと考えている。反戦市民連合、トリューニヒト派のいずれにとっても、負けられない選挙であった。

 ルールの中で正しく戦え、そうやって得た信頼が力になる。トリューニヒトはお好み焼き屋「ヨッチャン」でそう語った。ドーソン中将とともにサイオキシン麻薬組織を帝国憲兵隊との合同捜査によって壊滅させようとした人が、暴力集団の憂国騎士団を使っていることに、割り切れないものを感じてしまう。トリューニヒトのような良い人でも、政治に手を出したら、手を汚さざるを得ないのだろうか。そう思うと、クリスチアン大佐の言うとおり、政治に近づかないのが正しいようにも思える。

 俺の周囲には、憂国騎士団に同情的な人が多い。憂国騎士団の行動部隊には、緊縮財政と組織の合理化によって職を失った退役軍人や元警察官が大勢在籍しているからだ。白頭巾で暴れ回る行動部隊の中に、明日の自分や同僚を見ているというわけだ。前の人生で極右組織にさんざん迫害された思い出がある俺は、憂国騎士団をあまり好きになれなかったが、エル・ファシルで見た地方部隊の惨状を思うと、同情的とはいえなくても嫌いになるのは難しい。憂国騎士団に何のためらいもなく厳しい評価を下せる軍人は、ダーシャやチュン大佐のような反戦派寄りの人ぐらいだろう。

「エドワーズさんには頑張ってほしいなあ。士官学校時代はあんまいい思い出がなかった人だったけど」

 ダーシャは士官学校で風紀委員を務めていた関係上、ヤン・ウェンリーを取り巻く人脈とは仲が良くない。ジェシカ・エドワーズとは、戦史研究科廃止反対運動をめぐって、いろいろあったのだそうだ。しかし、リベラルなダーシャは個人的な確執より、反戦派のイデオロギーを優先するつもりらしい。

「そうかな。政治家にならない方が幸せな気がするよ」

 俺はジェシカ・エドワーズが前の歴史でたどった運命を知っている。テルヌーゼン区補選で勝利して代議員になった彼女は、帝国領侵攻作戦「諸惑星の自由」が無残な失敗に終わり、厭戦気分が漂う中で急進反戦派の指導者として台頭した。七九七年総選挙では、反戦市民連合が第三党に躍進する立役者となっている。過激主戦派のマルタン・ラロシュが失墜し、穏健反戦派のジョアン・レベロ率いる進歩党が大きく議席を減らした後は、ヨブ・トリューニヒトに唯一対抗できる指導者と言われたが、クーデターを起こした救国軍事会議によって殺害された。今の歴史が前の歴史と同じ展開をたどるとは思えないが、最近はそうとしか思えないような事件が続いている。不安を感じずにはいられない。

「幸せってなに?エリヤが決めること?」

 ダーシャの言葉に微妙なとげを感じた。いい加減なことを言うわけにはいかない。真面目に答えなければ。

「争わずに穏やかに生きること。おなかいっぱい食べること。たっぷり眠れること。仕事に困らないこと。誰にも馬鹿にされないこと。体をこわさないこと。そして…」

 ダーシャの前でこれを言うのは、とてもこっ恥ずかしい。しかし、真面目に答えると決めたからには言わざるを得ない。

「好きな人と一緒にいること、かな」
「やだなあ、なに赤くなってんのよ。ほんと、可愛いなあ」

 大きな目を輝かせて笑っている彼女は、俺が今の言葉に込めた気持ちに気づいているのだろうか。いや、気づかれたら困るな。恥ずかしくなって、顔を合わせられなくなる。

「いや、まあ、それはともかくさ。自分の人生を楽しんだらいいんじゃないかって、俺は思うんだ。他人の運命まで背負っていく生き方って大変そうだよ」
「世の中には二つの考え方があるの」

 いきなりダーシャが真顔になった。俺の体を緊張が走り、無意識に背筋がぴんと伸びる。

「一つは好きな人が殺されたら、憎しみが晴れるまで戦おうという考え方。もう一つは好きな人が殺されたら、誰も失いたくないと思って戦いをやめようという考え方。どっちが正しいかなんて、私が決めることじゃないけど。でも、私は誰も失いたくないと思うよ」

 ダーシャの言葉に考えこんでしまう。俺が好きな人はみんな軍人だ。好きな人が誰かに殺された経験が無かったのは、単なる幸運に過ぎない。好きな人が殺された時、俺は何を望むのだろうか。

「俺にはわからないや。経験が無い。経験もしたくないよ」
「想像できない?」
「想像したくないと言ったほうが正解かな。好きな人が誰かに殺されていなくなるなんて、考えるだけで恐ろしくなっちゃう」

 アンドリュー、クリスチアン大佐、イレーシュ大佐、そして目の前のダーシャ。この中の誰か一人でも殺されてしまったら、俺はどうなってしまうんだろう。前の人生の俺は、誰にも好かれず、誰も好きになることがなかった。俺の目の前で死んでいった人はたくさんいたけれど、辛いと感じたことはほとんどなかった。いや、花言葉の…。あれは関係ない。今となっては、どうでもいい話だ。

「そうだよね。たぶん、エドワーズさんもそう思ってた。でも、その恐怖に向き合うしか無かったんだよ。向き合って、もう誰も失いたくないと思った。だから、戦争を止めるために立ち上がったんじゃないかって」
「誰も失いたくないって気持ちはわかるよ」

 ダーシャの言葉を聞いて、初めて反戦論を唱える人達に共感を覚えたような気がする。彼らの主張がそれなりに理屈の通ったものであることは、これまでの経験でわかっていた。戦時体制下で莫大な軍事費が経済を疲弊させていることを思えば、反戦論にも一定の理屈がある。しかし、誰かが死ぬから戦争をやめようという主張には感情を動かされなかった。平和な時代だって、人間は病気や事故であっさり死ぬ。ラインハルトが銀河を統一した後の時代を生きた俺は、貧困が人を殺した例を嫌というほど知っている。しかし、好きな人をこれ以上失いたくないというのなら共感できる。

「主戦派も反戦派も理屈じゃないんだよ。もちろん、理屈は大事だけど。でも、根っこは感情。理屈だけで主戦論や反戦論を言う人は信用出来ないな」
「俺なんて感情しかないや」

 理屈にも偏らず、感情にも偏らず、バランスの取れたダーシャと比べると、俺は自分の感情ばっかりだ。だから、ヨブ・トリューニヒトを支持している。前の人生の記憶や今の人生の経験から生まれる感情を彼の言葉は揺り動かしてくれる。でも、ダーシャはそんな俺を面白く思ってないんだろうな。トリューニヒトのことも嫌ってるから。

「だから、好きなんだよ」
「そうなの?」
「トリューニヒトは胡散臭くて好きになれないけどさ。でも、トリューニヒトを好きなエリヤは好きだよ」
「どういうこと?」
「イデオロギーや政治的立場に関係なく、好きという感情を優先できるところが好きってこと。トリューニヒトと私をどっちも好きでいられるって、エリヤは気づいてないかもしれないけど、凄いことだよ」
「それ、普通じゃないの?」
「でもないよ。友達同士が政治の話で喧嘩別れするなんて、そんな珍しくもないじゃん。あと、自分が好きな人の悪口を言われて、喧嘩になるとか」

 言われてみると、俺はダーシャと政治のことで喧嘩したことはない。政治的にはリベラルなダーシャと主戦派寄りの俺では全然考えが違う。俺はトリューニヒトのことが大好きだが、ダーシャは嫌っている。正反対なのにまったく喧嘩していない。

「政治なんかでダーシャと喧嘩したくないよ。もちろん、トリューニヒトともね。みんなと仲良くしたいよ」
「私がエリヤのことを可愛いっていうのもね。そういうとこだよ」

 にっこりと笑うダーシャの笑顔にドキッとした。こういう関係になっても、好意をまっすぐにぶつけられると、恥ずかしくなってしまう。

「可愛いって言われる提督って何なんだろうね」
「可愛いから提督になれたんじゃないの?」
「そういう冗談、やめてくれないかな」
「いや、わりと本気だけど」

 弱りきってる俺に、ダーシャはどんどん切り込んでいく。

「エリヤは上にも下にも可愛がられるタイプだからね」
「ちょっと傷つくなあ、それ」

 その評価は今の俺には、ちょっとどころではなく突き刺さる。あちこちでヤンと比較されたあげく、「大した功績もないのに、トリューニヒト派に可愛がられて提督になれた」という評価が定着しつつあるのだ。俺は用兵の才能もスタッフワークもヤンには遠く及ばない。実務能力もおそらくはヤンの方がずっと高い。

 アスターテ星域の会戦で負傷した司令官に代わって、第二艦隊の指揮権を引き継いだヤンは、密かに用意していた作戦案をコンピュータに打ち込んでいたという。その場しのぎのとっさの策は一人でも思いつけるが、艦隊運用の詳細も含めた作戦案というのは、普通は数人の作戦参謀がチームを組んで作るものだ。しかし、ヤンは他の参謀の協力を得ずに一人で必要な分析や計算を行って、戦術コンピュータの回路を開いた第二艦隊麾下の部隊がすぐ行動に移れるほどに、きっちりした作戦命令の体裁まで整えてしまった。

 聞くところによると、第六次イゼルローン攻防戦でラインハルトの分艦隊を追い詰めた作戦案も全部一人で作ったそうだ。膨大なデータを分析して、一万隻の配置図まで自分で作成した。数人の優秀な参謀がチームを組んで行う仕事を、ヤンは一人でやってのけてしまう。実務の天才としか言いようがない。エル・ファシル脱出作戦の時もそうだったが、ヤンはやろうと思えば何でも一人でできてしまう。提督として俺が勝てる部分なんて一つもない。

「そう?ダンビエール少将の受け売りだけど」

 最悪じゃねえか。ダンビエール少将って言えば、第三次ティアマト会戦で俺が面子を潰してしまった人だぞ。本人は気づいてないだろうけど、第十一艦隊参謀長から転出したのは俺の差し金だ。俺を恨んでも許される人物のベストファイブに間違いなく入る。今は第十艦隊の第二分艦隊司令官を務めていた。ダーシャはその副参謀長である。

「あの人、俺のこと嫌ってるでしょ」
「そんな感じ、全然なかったけど?」

 嘘だ、絶対に嘘だ。俺がドーソン中将の自尊心をくすぐる言葉を吐いた時、ダンビエール少将がどんな顔をしていたか良く覚えている。彼は自分に取り入ろうとする部下には、例外なく最低の勤務評価を付けると噂されるほどの硬骨漢だ。あの時の俺の行為を許すはずもない。

「いや、だって。二年前のティアマトでいろいろあったからさ」
「参謀としては認められんが、終わってみれば必要な措置だったと思うって言ってたよ」

 俺がドーソン中将に何を吹き込んだか、ダンビエール少将はダーシャに教えてたのか。最高にかっこ悪いから、あまり人には知られたくなかった。特にダーシャには。

「参謀人事も評価してたね。トリューニヒト派に嫌われてるチュン大佐を参謀長にして、他の参謀も派閥色が薄い人で固めたのは偉いって」
「派閥意識が強い人って、刺々しい感じがして苦手なんだよ。だから、トリューニヒト派もあまり入れなかった」
「誰だって最初から地位にふさわしい実力があったわけじゃない。みんな、地位を得てからそれにふさわしくなるように努力していった。若くして出世したのは幸いだ。力をつける時間がたっぷりあるということだ。焦らずに頑張ればいいんじゃないか。力はいずれついてくる」

 励まされる言葉だ。そういえば、アンドリューもロボス元帥の司令部に入った頃は、仕事についていけずに悩んでいたものだ。それが今では腹心中の腹心だ。ロボス元帥の抜擢を受けてから、自分がそれにふさわしい存在になれるよう成長していったのだ。

「ありがとう、ダーシャ」
「これもダンビエール少将の受け売りだけどね。私にはこんなかっこいいことは言えないよ」

 あれだけ酷い目にあわせたのに、ダンビエール少将は俺のことを嫌ってないのか。嬉しいけど、なんか居心地が悪いな。何ていうか、一方的に借りを作ってしまったみたいな。

「ダンビエール少将っていい人なんだなあ。なんか、申し訳なくなっちゃうよ」
「士官学校時代の教官だったんだけど、本当に公正な人だったよ。ドーソン提督とは大違いでさ」
「ああ、あの二人、同じ時期に教官やってたんだ」
「どっちも規則にうるさいけど、仲は良くなかったね」
「そうだろうね」

 ドーソン中将は規則を守ること自体に意義を見出すタイプだが、ダンビエール少将は規則の裏側にある理念を守ることに意義を見出すタイプだ。うまくいくわけがない。

「エル・ファシルで逃げたリンチ少将の娘さんの受験を認めるか認めないかで、教官の意見が割れた時も対立してたよ」
「ああ、どっちがどういう主張してたか、だいたい想像付いた。たぶん、ドーソン中将は体裁があるから認めるなって言ったんでしょ」
「うん、まあね。当時はエル・ファシルで逃げた人らへのバッシング激しかったからさ」

 当時、英雄と持ち上げられることが怖くてたまらなかった俺は、新聞もネットもテレビも遮断した生活を送っていた。だから、どんなバッシングがあったのかは良く知らない。知ってたら、かなり気分悪かったはずだ。

「士官学校でも受験生の誰がリンチ少将の娘なのかって噂で持ちきりでね。何人かの名前が流れてて、みんなで推理してた」

 ダーシャの士官学校最終年度は、リンチ司令官がエル・ファシルから逃亡した年に重なっている。そして、母方の姓に変わったシェリル・コレットが士官学校を受験した年にも。

「そうそう、エリヤの副官やってるコレット大尉の名前もあがってたよ。私は違う人だと思ってたけど。今思えば、あの時の私は最低だったよ。コレット大尉みたいな子が叩かれるとことか想像したら、ぞっとする。過熱する前にシトレ校長が禁止してくれて良かった」
「彼女のこと知ってるの?」
「受験の時に案内係やったからね」
「どんな子だった?」
「見かけによらず、凄い方向音痴でね。受験する教室があるB棟と正反対の方向のF棟に迷い込んでたの」

 見かけによらずというか、見かけ通りのような気もするが、その迷子っぷりはさすがに酷い。いや、見かけ通りなんて言ってはいけないな。鈍そうなのは見かけだけで、仕事はテキパキしている。見かけによらず、で正しい。

「想像付かないなあ」
「キリッとした子だもんね」
「えっ?」
「背高いでしょ」
「まあ、高いよね」
「ダンスやってるだけあって、姿勢がすっごくいいのよね。それであの顔だから」

 ダンスやってた?姿勢がすごくいい?キリっとした顔?今とは全然別人じゃねえか。俺の副官になってからは、忙しく動きまわってるせいか、妹のアルマを彷彿させる病的な太り方ではなくなっている。不快感はほとんど感じなくなったが、それでもキリッとした感じとは程遠い。人と目を合わせようとしないのは相変わらずだ。一体何があって、今のようになったんだろうか。

「いろいろ苦労したのかな」
「ああいう子には、あまり苦労してほしくないなあ。ほら、エリヤみたいに苦労が似合う子はいいけど、コレット大尉は涼しい顔して乗り切る感じだから」

 そこまで言われるなんて、士官学校入る前のコレット大尉はどれだけかっこ良かったんだろうか。そんな彼女が今のようになってしまった理由はあまり考えたくない。

「そうだね、苦労は良くない」

 前の人生でエル・ファシルの逃亡者として迫害されていた時のことを思い出しながら、噛みしめるように言う。ダーシャもうなずいたところで、インターホンが鳴った。ディスプレイには宅配便の制服を着た男性が映っている。

「すいません、ちょっと待っててください」

 そう返事すると、慌ててハーフパンツを履き、Tシャツを着て玄関に向かった。そして、サインをして荷物を受け取ると、部屋の奥に戻った。

「何の荷物?」
「ダーシャが楽しみにしてたやつだよ」

 俺は包みを開けて、中に入っていた本を取り出してダーシャに見せた。表紙には「憂国騎士団の真実―共和国の黒い霧」と書かれている。熟練労働者不足問題を扱ったパトリック・アッテンボローの「老人が端末を操り、少年が荷物を運んだ時、青壮年はどこにいたのか」と今年上半期の反戦ジャーナリズム大賞を争ったヨアキム・ベーンの力作だ。

「ありがと」
「俺の部屋なのに、君が出るわけにはいかないしね」
「早く同じ官舎に住みたいね。一戸建てがいいなあ」
「ま、それは君のご両親に会ってから。近いうちにハイネセンに戻ってくるんでしょ?」
「うん。お兄ちゃん達も休暇取って、こっちに来るって」
「どんな人達なんだろう。楽しみだなあ」

 ダーシャと知り合ったのは、三年前の初夏だった。あの頃の俺はヴァンフリート4=2基地の戦いで負傷して、ハイネセン第二国防病院に入院していた。俺もダーシャも少佐だったのに、今の俺は准将、ダーシャは大佐。権限と責任は飛躍的に大きくなっている。そして、俺達の関係も一歩先に踏み出すべき時だった。

「私もエリヤの家族に会うの、とても楽しみ」
「あ、いや、そっか。そうだよね」

 ダーシャの前では家族の話はぼかしているけど、そろそろ向き合わなければいけないのだろうか。前の人生で起きたことを思うと、とても気が重い。前の人生の記憶はどこまでも付きまとう。

「エリヤは家族の話、全然しないからさ。気になって気になって」

 気にしないでくれという俺の願いが通じたのか、寝室に置いてあるダーシャの携帯端末が鳴り出した。ダーシャが走って行くのを見て、胸を撫で下ろす。

「ごめんね、バイバイ」

 寝室から申し訳無さのかけらもないような声が聞こえてきた。大した用じゃなかったんだろうか。まるで俺を追及から逃がすためだけにかかってきたようだ。通信を入れた主に感謝しなければならない。そんなことを思っていると、ダーシャは憤然とした表情で戻ってきた。

「どうしたの?なんかあった?」
「例の話。成り行きで属してるだけなのに、冗談じゃないよ。いっそ、ロボス派やめちゃおうかな」

 最近、ロボス派の若手高級士官グループがハイネセンで盛んに動き回っていた。現在、シトレ派、ロボス派、トリューニヒト派の三派が要塞司令官職を巡って争っていた。イゼルローン要塞を手中に収めた派閥は、対帝国戦の主導権を握ることができる。失脚寸前のロボス元帥は自ら要塞司令官を兼ねて、遠からずやってくる帝国のイゼルローン奪回軍を迎え撃って、評価を取り戻そうとしているともっぱらの噂だった。ダーシャとしては、そんな工作の協力なんか御免こうむるということなのだろう。

 俺が第三十六戦隊司令官になって、まだ二か月程度しか経っていない。だいぶ形になってきたとはいっても、俺が用兵に慣れるのはまだまだ先だろう。俺の所属している第十二艦隊は、去年のエルゴン星域会戦で大打撃を受けて再編の途上にある。最近になってようやく定数を回復したばかりだった。ダーシャの所属している第十艦隊もやはりエルゴン星域会戦で打撃を受けて、再編中である。次に出兵があるとしたら、しばらく戦っていない第三、第七、第八艦隊あたりが動員される可能性が高い。個人的には平和な時がしばらく続きそうだった。 

 

第七十三話:心が霧の中にいる 宇宙暦796年7月下旬 惑星ハイネセン、第三十六戦隊司令部~統合作戦本部

 戦隊に所属している艦艇は六〇〇~七〇〇隻、将兵は七万~十万人。戦隊司令官が動かせる人員と予算の規模は人口百万を超える大都市の行政機構、あるいは中規模の惑星警察に匹敵する。地上八階、地下三階の戦隊司令部ビルの写真をそれと知らずに写真を見せられた者は、どこかの市役所と思うに違いない。快適な温度に保たれた司令官執務室でクッションのきいたソファーに腰掛けて、窓から入ってくる陽光を感じながら仕事をしていると、一国一城の主のような気分になってくる。

「そろそろお時間です」
「ありがとう」

 副官のシェリル・コレット大尉の言葉で、自分が宮仕えの身に過ぎないことを思い出す。これから、統合作戦本部に出頭しなければならないのだ。戦隊司令部では主人だが、軍組織全体で見れば統合作戦本部の幹部に呼びつけられる存在にすぎない。人に頭を下げることに慣れてきた俺にとって、その事実はさほど不愉快ではない。

 十分後。コレット大尉を従えて庁舎を出た俺は正面に停まっている公用車に乗り込んだ。国産の高級乗用地上車である。佐官だった頃の公用車は大衆向けの安価な車だった。将官と佐官では車一つをとっても、待遇が全然違うのだ。隣に座っている副官のコレット大尉は俺より五歳若い二十三歳だが、専属ドライバーのジャン・ユー曹長は二十三歳年長の五十一歳。士官になった当初は、年長者の下士官に遠慮を感じたものだ。しかし、いつの間にか命令することに慣れてしまっていた。ダーシャづてに聞いたダンビエール少将の言葉通り、人間は地位を得てからそれにふさわしい存在になっていくものなのだろう。

「新聞くれる?」

 コレット大尉は俺の求めに応じて、クオリティーペーパー三紙とタブロイド三紙を手渡す。クオリティーペーパーは政治や経済を深く掘り下げる記事が多い。発行部数は少ないが、エリート層が好んで購読しているため、社会的影響力は大きい。タブロイド紙はゴシップ記事が多く、政治経済の問題も興味本位で煽り立てる”下品”な新聞だ。社会問題もゴシップネタの一つとして消費するような層が購読しているため、発行部数が多いわりに社会的影響力は乏しいが、政治家の知名度はタブロイド紙とバラエティ番組に登場した回数に比例すると言われているため、無視できない存在だ。

 どの新聞の見出しもテルヌーゼン区補選のジェシカ・エドワーズ勝利を一面トップに持ってきている。次期最高評議会議長の有力候補と言われる国防委員長ヨブ・トリューニヒトの全面的な後押しを受けた元警察官僚と、反戦派の期待の星ジェシカ・エドワーズが対決するテルヌーゼン補選は、政界再編の試金石と言われていた。憂国騎士団の集会乱入事件で世論の同情を集めたエドワーズは、組織力に優る対立候補に大差を付けて国政進出を果たした。このニュースを各紙がどう報じているか、興味深いところである。

 まず、クオリティーペーパーから目を通す。改革市民同盟に近い穏健主戦派の「リパブリック・ポスト」は、急進反戦派の反戦市民連合に属するエドワーズの当選に懸念を示しつつも批判するには至っていない。改革市民同盟の支持者には、党内反主流派のトリューニヒトの敗北を喜ぶ者も少なくなかった。だから、奥歯に物が挟まったような論調になるのだろう。進歩党に近い穏健反戦派の「ハイネセン・ジャーナル」は、エドワーズの当選を歓迎し、進歩党と反戦市民連合の連携に期待を寄せる。反体制色が強い「ソサエティ・タイムズ」は、改革市民同盟と進歩党の二大政党体制打破をエドワーズのカリスマ性に期待していた。

 次に読むのはタブロイド。紙面には「ぶっ殺せ」「ぶん殴れ」といった物騒な言葉が踊り、統一正義党のマルタン・ラロシュの暴言を歓迎している「ウィークリー・スター」は、下品な言葉でエドワーズの人格を攻撃して、「こんな女が代議員になれば国が滅ぶ」と罵った。全宇宙で最も野次馬根性に忠実と言われ、冗談好きで陽気なヨブ・トリューニヒトを支持する「ザ・オブザーバー」は、エドワーズの発言を分析して、「人間が堅すぎる。トリューニヒトに弟子入りして、ユーモアを学ぶべきではないか」と評している。権威と名が付く物に噛み付かずにいられない「アタック・トゥー・ザ・フューチャー」は、「美しいエドワーズの口から紡ぎだされる正論は、ふんぞり返った代議員どもを叩きのめすだろう」と書いている。

「同じニュースを扱っていても、各紙ごとに論調がまったく違うんだよ。だから、複数の新聞を読み比べて、ひとつの事件を多角的に評価しなければならない。新聞の紙面には、購読者の願望が反映されている。あらゆる層の願望を理解することが社会を理解することなのだ」

 そう言って俺に複数の新聞を購読するように勧めたのは、ヨブ・トリューニヒトだった。彼は毎日十一紙の新聞に目を通し、主要な雑誌もすべて購読しているのだそうだ。ニュース番組も秘書に録画させて、寝る前に見ているという。

「俺が反戦派の新聞を読んで、あなたを間違ってると思うかもしれませんよ。それでもいいんですか?」

 そんな俺の問いに、トリューニヒトは笑って答えた。

「構わないよ。そうなったら、私の言葉に力が無かったということだ」
「反トリューニヒト派になって、あなたを批判するようになってもいいんですか?」
「それも構わないさ。主張を違えることがあっても友人は友人だ。考え方が違うぐらいでいちいち絶縁していたら、私はとっくの昔に離婚しているよ」

 片目をつぶって、おどけた表情になったトリューニヒトの言葉に笑ってしまった。トリューニヒト夫人のフィリスは、価値観も趣味もまったくの正反対な上に気性が激しい。お好み焼きとごはんを一緒に食べるかどうかひとつをとっても対立するのだそうだ。それでも仲がいいというのだから、人間関係は面白い。

 そんなトリューニヒトは先月末に、改革市民同盟の次期代表戦への出馬を正式に表明。そして、「共和国再建宣言」と題した政権構想を発表した。

 現職の国防委員長で軍部に支持者が多いトリューニヒトが最も力を入れてるのは安全保障だ。対帝国戦の継続と国防予算の増額を強く訴えるとともに、国民の団結を乱す「内なる敵」への備えが必要であると主張。治安を守る地方部隊の増強、対テロを専門とする情報機関の創設などを掲げている。外敵との戦いに注力しているシトレ派とロボス派に対するアンチテーゼを明確に示したといえる。

 治安政策は警察官僚出身のトリューニヒトにとっては、安全保障と並ぶ大きな柱である。犯罪検挙率の上昇には物量戦術こそ最も有効であるとして、警察官の定員増加、街頭に設置されている防犯カメラの充実、地域住民による防犯パトロールへの公費助成などを主張。また、麻薬犯罪撲滅作戦、性犯罪撲滅作戦、組織犯罪撲滅作戦の三大作戦によって、同盟社会を蝕む病巣を根本から断ち切るとしている。

 経済財政政策に関しては、緊縮財政から積極財政に転換して、大規模な公共投資による景気刺激を狙う。財源は国債発行額の増加で賄うが、景気対策が成功して五%の経済成長を数年間継続すれば、緊縮財政よりも早く財政赤字を圧縮できるとする。

 トリューニヒトは他にも様々な政策を用意している。退役軍人、亡命者、貧困層といった社会的弱者への支援強化。警察官の学校常駐、退役軍人の教官採用、行政当局による監督強化などを通じた教育現場の再建。人員削減で弱体化した行政機構を立て直すための公務員採用数増加。青少年栄誉賞の創設、奉仕活動義務化によるモラルの向上。

 国父アーレ・ハイネセンが唱えた「自由・自主・自律・自尊」のスローガンの影響、そして軍隊と官僚組織を使って全体主義社会を築き上げたルドルフ・フォン・ゴールデンバウムへの忌避感から、同盟社会には行政の影響力拡大を好まない小さな政府志向が深く根付いている。大きな政府を目指すトリューニヒトの政権構想は、きわめて大胆なものといえよう。

 ライバルのジョアン・レベロも近日中に政権構想を発表する予定だ。正統的なハイネセン主義者にして小さな政府志向のレベロが、経済的自由主義と行政機構の合理化を柱とする構想を発表することは間違いない。国民の軍事負担増加、軍隊の影響力増大を回避する手段としての対帝国和平も盛り込まれるだろう。

 テルヌーゼン補選におけるトリューニヒトの敗北は、レベロが政権構想を発表する前に、補選を利用して自らの構想を有権者に印象付けようという戦略の失敗を意味していた。トリューニヒトは穏健主戦派の改革市民同盟では力を伸ばしてはいるものの未だ非主流派であり、過激主戦派の支持はマルタン・ラロシュに集まっている。主戦派を一本化できていないトリューニヒトにとって、テルヌーゼン補選の敗北の痛手は少なくないというのがおおかたの見方であった。

 しかし、トリューニヒトと党内の主導権を争う主流派もそれほど幸福な状況にいるわけではない。収賄疑惑で追及を受けていたマラート・グロムシキン情報交通委員長が辞任に追い込まれた。一〇〇万ディナールを超える資金提供だけであれば、追及を逃れることもできたかもしれない。しかし、未成年女性の性的サービスを提供されていたとなると話は別である。主流派のプリンスだったグロムシキンの失墜は、各方面に大きな影響を与えた。

 イゼルローン要塞攻略の成功は、対テロ総力戦の失敗で支持率が暴落したロイヤル・サンフォード政権が息を吹き返すチャンスとなるはずだった。しかし、攻略直後に浮上したグロムシキンの疑惑がすべてを台無しにした。ヤン・ウェンリーがあまりに容易に要塞を攻略してしまったために、勝利に貢献していないというイメージを持たれてしまったのも、サンフォード政権にとっては計算外だった。勝利によって主戦論は盛り上がったが、政権支持率にはまったく繋がっていない。イゼルローン要塞攻略を主導した統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥の名声のみが高まる結果となった。

 最近の世論調査では、政権支持率は三一・九パーセント。政権与党の改革市民同盟と進歩党の支持率もサンフォードの不人気に引きずられて低迷している。改革市民同盟の国防委員長ヨブ・トリューニヒト、進歩党の財務委員長ジョアン・レベロはいずれも人気のある政治家であるが、彼らの人気は党の支持に結びついていない。政界では、トリューニヒトが政権離脱と新党設立のタイミングを図っているとの観測も流れている。

 一方、野党の統一正義党と反戦市民連合は急速に支持率を伸ばしていた。イゼルローン要塞攻略に熱狂した主戦論者の支持が統一正義党に流れたこと、主戦論の高まりを恐れた反戦派の期待が反戦市民連合の若き新星ジェシカ・エドワーズに集まったこと、六年間続いた二大政党体制に有権者がうんざりして政権交代を強く望んでいることなどが要因としてあげられる。来年の総選挙で過激主戦派の統一正義党と急進主戦派の反戦市民連合に挟撃された連立与党が過半数を割り込む可能性は、現実のものとなりつつあった。

「どこかで見たような展開だなあ」

 新聞を読んでいた俺は思わずひとりごとを漏らしてしまった。幸いにもコレット大尉とジャン曹長には聞かれなかったようだ。前の歴史の本では、支持率低迷に悩んだサンフォード政権が帝国領侵攻作戦「諸惑星の自由」を発動させて、同盟を滅亡に追い込んだと言われていた。帝国のイゼルローン奪回軍への対応が話題になっている現在では考えにくいことであったし、あのアンドリューが諸惑星の自由作戦のような世紀の愚策を提案するとも思えない。

「到着しました」

 ジャン曹長の言葉で我に返る。頭の中から不安を振り払い、コレット大尉とともに車を降りた。これから一仕事しなければいけない。まだ見ぬ未来を恐れる前に、今日やるべきことを大事にしよう。そんなことを思いながら、巨大な統合作戦本部ビルを見上げた。

 地上五十五階、地下八〇階の統合作戦本部ビルは同盟軍の作戦指導の中枢機関である。その三十二階にある監察官室に用事があった。統合作戦本部の監察官は同盟軍全軍を監察し、法令遵守の徹底、情報漏洩防止、不正入札防止などに取り組む。軍人個人の不適切な行動を取り締まる国防委員会の憲兵隊に対し、統合作戦本部の監察官は不適切な職務執行を取り締まるのだ。

「ホーランド次席監察官は外出されてるんですか?」
「はい。急なご用事とかで」
「いつごろお戻りになりますか?」
「さあ?外出先も帰庁時間も伺っておりませんので」

 俺に出頭を命じた次席監察官ウィレム・ホーランド少将は不在との事だった。ぎっちり詰まったスケジュールの合間に時間を作って、統合作戦本部まで出向いてきたのに何の連絡もなく外出してしまうなんてあんまりだ。

「携帯端末に連絡いただけますか?」
「承知しました」

 監察室のスタッフは気乗りのしない顔で携帯端末を取り出し、スイッチを入れる。それから一分ほどしてスイッチを切ると、うんざりした表情で言った。

「電源を切っておられるようです」

 アポを取ってる相手がいるのにいきなり外出。行き先も帰庁時間も明かさない。しかも、携帯端末で連絡することもできない。武勲数知れない名将とは思えない怠慢だ。

「申し訳ありません。最近は良くあることでして」

 口調と表情に含まれた苦味から、スタッフもホーランド少将の怠慢に困り切っていることが伺えた。第五艦隊から統合作戦本部に異動したホーランド少将がやる気を失っているという噂は、だいぶ前から聞いていた。

 ホーランド少将は第六次イゼルローン攻防戦で武勲を立てたにも関わらず、トリューニヒトの横槍で第十一艦隊司令官の座をドーソン中将に奪われた。第三次ティアマト会戦では第五艦隊に属して戦ったものの精彩を欠いてしまい、ドーソン中将が帝国の宿将グライスヴァルト提督の旗艦を撃沈したためにすっかり面目を失った。ハイネセンに帰還した後は、武勲を立てる機会を得ようと必死になって、自らを指揮官に擬した小規模作戦案をあちこちに持ち込んでいたという。

 功を焦って策動するホーランド少将に手を焼いた第五艦隊司令官アレクサンドル・ビュコック中将は、シトレ元帥と相談して統合作戦本部の監察官室に転出させた。部隊の指揮権を奪って、大人しくさせようと考えたのだろう。対テロ総力戦でもホーランド少将の出番はなかった。ドーソン中将が更迭された後の第十一艦隊司令官候補に三人の名前があがったが、その中にウィレム・ホーランドの名前は無かった。二年以上戦場に立っていない彼は、ヤン・ウェンリーの台頭もあって、忘れられた存在になりつつあった。

「わかりました。今日のところは帰ります。次席監察官にもよろしくお伝えください」

 そう言うと、俺はコレット大尉とともに監察官室を退出した。ホーランド少将への怒りはない。チャンスを与えられなければ、人間はいとも簡単にダメになってしまう。ホーランド少将のような名将でも無為には耐えられないのだろう。不幸だと思うけど、功を焦る彼を危うく思ったビュコック中将も正しい。憂国騎士団と言い、ホーランド少将と言い、世の中は白黒で割り切れないことばかりだ。

 せっかく統合作戦本部に来たのだから、せめてカフェルームでフルーツパフェを食べて帰ろうと思った。何もせずに帰ったら、心がささくれてしまう。二階まで降りてカフェルームを覗くと、人影はまばらだった。勤務時間中にこの広い部屋がいっぱいになっているはずもないのだから、当然といえば当然だ。どの席にしようかと見回していると、窓際のテーブルに一人で座っているダーシャを発見した。どんな遠くにいても、ダーシャはすぐわかるのだ。

 足を踏みだそうとすると、ソフトクリームを二つ持った人物がダーシャのテーブルに近づくのが見えた。その人物に気づいたダーシャは手を差し出して、ソフトクリームを受け取る。顔はよく見えないが、髪型やシルエットからして男性っぽい。細身で手足が長くて、やたらとスタイルが良い。俺より背が高そうなのがむかつく。

 ここでにこやかに声をかけられるほど、俺は冷静な人間ではない。ダーシャのテーブルから死角になりそうな場所を見つけて、そこから様子を探る。相手がすぐ去っていく可能性もあるからだ。

 俺の期待を裏切って、相手はダーシャの真向かいに座った。そして、ソフトクリームを舐めながら、何か話している。相手がどういう奴なのか、ダーシャと何を話しているのかを知るためには、もっと近づかなければいけない。しかし、気づかれるわけにもいかない。ああ、俺はいったい何を心配しているんだろうか。

 頭を抱えていた俺の目に信じられない光景が飛び込んできた。ダーシャがテーブルに左手を付いて身を乗り出し、右手を伸ばしてソフトクリームを相手の口元に押し付けたのだ。相手はびっくりしたらしく、上半身をのけぞらせていたが、やがてダーシャの持っているソフトクリームに口を付け始めた。見ていられなくなった俺は、逃げるようにカフェルームから出て行った。

 統合作戦本部を出て、戦隊司令部に戻った後も気分は晴れなかった。不穏な政治情勢、やる気を無くしたホーランド少将、知らない奴といちゃいちゃしているダーシャ。今日はなんかもやもやすることばかりだ。そんなことを思いながら執務室に向かっていると、参謀のエリオット・カプラン大尉がソフトクリームを舐めながら士官食堂から出てくるのが見えてイラッとした。執務室に戻った後、報告に訪れたチュン・ウー・チェン参謀長からチョコクロワッサンを分けてもらって、ちょっと心が落ち着いた。

 課業時間が終わると、すぐに公用車に乗り込んだ。将官は公用車を通勤に使うことが許されているのだ。これは贅沢ではない。将官はどんな時でもすぐ指揮を取れるよう、心身のコンディションを保つ義務がある。公用車は通勤による心身の消耗を避けるための手段なのだ。それに車に乗っている時間は多忙な将官にとって、格好の居眠りタイムにもなる。

 後部座席でうとうとしていると、携帯端末から着信音が聞こえた。寝ぼけ眼で画面を見ると、アンドリュー・フォークの番号が映っている。ここ最近はこちらからメールしても全然返事なかったのに、いきなり通信入れてくるなんて、どういうことなんだろうか。

「ああ、エリヤ。久しぶり」

 一ヶ月ぶりに聴くアンドリューの声は、思いの外元気そうだった。

「いきなり、どうしたの?」
「これから晩ご飯、一緒に食べない?」

 アンドリューから食事に誘ってくるなんて珍しい。この機会を逃せば、忙しい彼と次に会うのはだいぶ先になるだろう。選択肢はひとつだった。

「ああ、いいよ。場所はどうする?」
「もう決めてる。ホテル・カプリコーンのレストラン」
「いいね、あそこはデザートおいしいから」
「今日は俺がおごるよ」

 そのアンドリューの言葉を聞いて、心の中でガッツポーズをした。今日はもやもやする日だったけど、最後にこんなサプライズがあるなんて、世の中捨てたものじゃない。

「ありがと」
「大事な話があってさ」
「おう、なんでも聴くよ」

 顔がにんまりするのが自分でもわかる。アンドリューに会える。最高のジェラートを食べられる。アンドリューと端末で話しながら、素敵な夕食に思いを馳せていた。 

 

第十七章 運命の交差点(仮題)
  第七十四話:友達は家族に勝てない 宇宙暦796年7月下旬 惑星ハイネセン、ホテルカプリコーン

 国防委員会ビルの近所にあるホテル・カプリコーンは、軍人御用達のホテルとして知られていた。レストランでディナーを楽しむ客の中にも軍服姿の者は多い。俺とアンドリュー・フォークもそうだった。

「どうしたの、エリヤ?」
「いや、なんでもないよ」

 久しぶりに会うアンドリュー・フォークは驚くほど痩せ衰えていた。死人のように青ざめた顔色、げっそりと肉の落ちた頬、ぎょろっとした目、老人のようにカサカサの肌。あまりの惨状に目を背けたくなってしまう。

「何を頼む?」
「じゃあ、さくらんぼのジェラート二つ」
「いきなり、ジェラート頼んじゃうの?」
「だって、おいしいじゃん」
「相変わらず食いしん坊だな、エリヤは」

 あっけらかんと言ってのける俺に、アンドリューは苦笑する。表情筋が衰えているのか、口元が歪んでいる。出会った頃の眩しい笑顔との落差に言葉を失ってしまった。

「どうしたの?黙りこんで」
「あ、いや、何でもないよ。ところで大事な話ってなに?」

 こんなに酷い状態のアンドリューと世間話を楽しめる自信は無かった。一刻も早く、アンドリューの力になってやりたかった。

「これを見て欲しいんだ」

 そう言うと、アンドリューはバッグの中からファイルを取り出す。「帝国領侵攻計画試案」という表題が視界に入った瞬間、全身の血が凍りついた。

 前の歴史におけるアンドリュー・フォークは、「同盟滅亡の最大の戦犯」「史上最低の参謀」などと評されていた。そのきっかけとなったのが七九六年の帝国領侵攻作戦「諸惑星の自由」の失敗である。

 功名心に駆られたアンドリュー・フォークが立案したこの作戦は、戦略的必然性は皆無、計画は杜撰、分析は希望的観測というより願望的観測という愚劣なものであった。立案の動機はアンドリュー・フォーク個人の功名心、実施の動機はロイヤル・サンフォード政権の政権浮揚。人類史上最低最悪の作戦の一つに数えられるにふさわしいでたらめぶりと言える。アンドリュー・フォーク本人は、過剰すぎる自信、強すぎる自我、乏しすぎる自制心を持ち、弁舌を用いた自己アピールだけは達者な最低の人格であった。

 でたらめな作戦を最悪の人物が指導したことで、帝国領侵攻は七個正規艦隊、将兵二千万人を失う惨敗を喫した。この敗北で対帝国兵力比が圧倒的不利になったことが、同盟を滅亡に追いやることになる。責任者のアンドリュー・フォークが酷評されるのは止むを得ないだろう。

 しかし、今の人生で俺が知り合ったアンドリュー・フォークはそのような愚劣さとは無縁であるように思えた。聡明で誠実で謙虚で献身的。友人としては最高、参謀としては優秀。自らを引き立ててくれたロボス元帥の恩義に報いることばかり考えていて、功名心のかけらもない。彼が出世のために帝国領侵攻作戦を立てて、自己アピールのために他人をけなし、現実無視の作戦指導を行うなど、想像もできなかった。

 過労はアンドリューの外見だけでなく、人格まで変えてしまったのだろうか。目の前のアンドリューは前の歴史のような狂人に成り果ててしまったのだろうか。そんな恐ろしい想像をしてしまう。

「どうしたの、エリヤ?」
「あ、いや、ちょっとびっくりしてさ」
「しょうがないなあ」
「ごめんね」
「早く読んでよ。面白いから」

 アンドリューの口調はいつもの気安い感じだ。前の歴史の本に書かれていたような狂気はひとかけらも感じられない。しかし、ファイルを開くのはためらわれる。

 今の歴史においても、この時期に帝国領に侵攻すべき必然性は存在しない。イゼルローン要塞を奪回に来る帝国軍を撃破して、回廊の支配権を確固たるものにするのが先決のはずだ。アスターテ星域会戦で喪失した三個正規艦隊の穴埋め、シトレ元帥の少数精鋭戦略によって弱体化した地方部隊の戦力回復にも着手できていない。そんな状況で無謀な帝国領侵攻作戦を提案するなど、正気とは思えない。ファイルの中身を見たら、親友アンドリューの理性を信頼できなくなる。そんな恐怖があった。

「読んでくれないことには、話のしようもないんだけどなあ」

 ここで有無を言わさず席を立つような勇気は俺にはない。断腸の思いでファイルを開く。視線が三行目に到達した時点で驚きを感じ、七行目に到達した時点で圧倒され、十行目あたりからはすっかり引きこまれて夢中になってしまった。

「どう?」

 アンドリューはにっこりと笑いかけてきた。

「凄いね、これ」
「でしょ?」

 彼が得意げになるのもわかる。アンドリューを中心とする宇宙艦隊総司令部の若手参謀が作ったこの作戦案は、前の歴史の帝国領侵攻作戦と比べ物にならないぐらい良く練り上げられている。

「同盟軍の侵攻にタイミングを合わせて、帝国辺境の二十六星系が独立及び自由惑星同盟への加盟を宣言。同盟軍は新規加盟した地域を根拠地とする。これなら、補給に不安はないね」
「オーディンの新無憂宮で宮廷政治に明け暮れている連中が富と権力を独占する。そんな体制に怒りを抱いてるのは平民だけじゃないんだよ」

 ファイルによると、辺境を統治している星系総督、惑星知事、警備隊司令官、貴族領主といった人々は、中央政府に対して強い反感を抱いていた。そこに軍情報部が現在の統治者を星系首相とする星系共和国の建国を持ちかけて、取り込みに成功したのだそうだ。

「中央から辺境を奪回にやってくる帝国軍を封じる策も講じてるんだね」
「奪回軍が編成されるとしたら、指揮官は宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥か副司令長官ローエングラム元帥。どちらも九個艦隊の戦力を持ってる。八個艦隊の同盟軍では苦しいよね。戦わないのが一番だよ」

 ファイルには、ミュッケンベルガー元帥とローエングラム元帥に関する分析も書かれていた。ミュッケンベルガー元帥は大軍の運用経験が豊富な上に、麾下の指揮官もベテランが揃っている強敵。ローエングラム元帥は奇襲に卓越した技量を有する指揮官だが、大軍の運用経験に乏しく、麾下の指揮官も経験が浅いため、ミュッケンベルガー元帥よりは与しやすいが、九個艦隊の戦力は侮りがたい。どちらとも戦うべきではないと分析していた。

「帝都オーディンでクーデターを起こした地上部隊が、ミュッケンベルガー元帥とローエングラム元帥を地上に釘付けにする。良くこんな工作ができたね」
「敗者は命も含めたすべてを失うというのが宮廷政治なの。死にたくないと思った敗者を取り込むのはたやすいよ」

 今年の初めに財務尚書カストロプ公爵が事故死すると、指導者を失った彼の派閥は瓦解した。カストロプ派に属していた要人は、次々と宮廷を追われている。ファイルによると、同盟軍の情報部は先行きに不安を感じた旧カストロプ派の軍高官数人を取り込むことに成功したという。同盟の情報機関が宮廷政治の敗者に接触して、亡命や反乱の手引きをするのは珍しいことではない。同盟の工作員が失脚した大貴族の反乱を援助した例は少なくない。反乱が起きたタイミングを見計らって攻め込んだ例もある。

「帝国内の不満分子を取り込みながら進軍し、艦隊戦力が地上に釘付けになったままのオーディンを包囲して城下の盟を迫るのが最終目的か」
「不平貴族、共和主義者、反戦組織。帝国全土に散らばる彼らを味方につければ、補給路の確保も不安はないよ」
「良くこれだけの人数を取り込めたね」
「情報部が二十年近く費やした工作の集大成だよ」

 アンドリューの作戦案の肝は帝国内部に大勢の内応者を作ることにあった。同盟単独の戦力ではオーディンに進軍できなくとも、内応者も戦力に数えれば可能となる。同盟は帝国内の反体制派を利用して諜報網を築いてきた。その諜報網を通じて武器や資金を流し、蜂起を促そうとしていた。内乱が起きていない国を攻略するのは難しい。どんな小さな国でも戦力を要衝に集中されたら、容易に攻略できない。だから、他国に攻め入る際は内乱を扇動して、戦力の集中を阻害するのが常道である。

「宇宙艦隊総司令部と軍情報部の共同作戦ってことになるのかな」
「そうだね。情報部の工作は表に出せないから、表向きには運用を担当する宇宙艦隊総司令部の作戦ってことになるけど」

 アンドリューが作成した運用案もかなり現実的な数字が並んでいる。プロの軍人が見たら、この案はいけると判断する水準だ。

「具体的な日時を書いてないのが気になるね。あと、内応する人の具体名もない。これは概要なのかな」
「うん。詳細な案を見たいなら、俺達に協力して欲しい」

 これが本題か。概要だけでも十分にエキサイティングだった。詳細案の内容には、強く好奇心をそそられる。しかし、協力って何をするんだろうか。

「何をするの?」
「今、俺達は政界の有力者にこの作戦案を支持してくれるように働きかけてるところなんだ。エリヤにはトリューニヒト派への働きかけをしてほしい」
「今やるの?早すぎない?正規艦隊と地方部隊の強化が先決でしょ」
「何人かトリューニヒト派の代議員に会ったけど、みんな同じこと言ってた。それがトリューニヒト派に共通する見解みたいだね」
「自信があるなら、政治家じゃなくて統合作戦本部に見せればいいでしょ。これだけ良く出来た案なら通るよ」
「本部長のシトレ元帥が通してくれないんだ。あの人の持論は和平だから」
「ああ、なるほど」

 統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥は、「要塞を手に入れて有利になった今こそ、和平を持ちかける好機」と主張していた。イゼルローン要塞攻略作戦を発動したのも、和平の糸口にするためだったと言われる。良く考えたら、そんな人が帝国領への侵攻を認めるはずもない。

「軍令のトップが通してくれないなら、その上に頼むしか無いよね」
「最高評議会を動かすってことか」
「そういうこと」

 宇宙艦隊総司令部が統合作戦本部の頭越しに最高評議会に働きかけて、作戦案を通そうとしている。一歩間違えば、軍部に大きな亀裂を生みかねない行動である。参謀に過ぎないアンドリューとその仲間の若手士官だけでできることではない。裏で大物が糸を引いているはずだ。

「誰が後ろにいるの?」
「仲間はいても、後ろはいないよ」
「宇宙艦隊司令長官のロボス元帥、情報部長のカフェス中将ってとこ?」

 アンドリューは答えない。

「ああ、でもカフェス中将は統合作戦本部を敵に回す覚悟のできる人じゃないよね。ミスター情報部かな。ロボス元帥とあの人が組んだら、シトレ元帥も怖くないだろうね」

 最高評議会を動かすつもりでいることがわかった時点で、協力する気は失せている。アンドリューの頼みであっても、軍のルールを踏み外す片棒を担ぎたくなかった。しかし、誰が裏にいるのかぐらいは知っておきたい。

「アンドリューのためならともかく、知らない誰かのために働かされるのはごめんだよ」
「エリヤの予想通りだよ。ロボス閣下とアルバネーゼ退役大将」

 アンドリューは負けを認めたかのように息を吐いた。度重なる失態で失脚寸前のロボス元帥は、起死回生の機会を伺っている。ミスター情報部こと元情報部長アルバネーゼ退役大将は、対テロ総力戦の失敗で落ちた情報部の威信を取り戻そうとしている。どちらにも帝国領侵攻作戦を強行する理由がある。

「ごめんね、アンドリュー。その二人のためには働けないよ」
「俺より派閥の方が大事なのか?どっちもトリューニヒト派の敵だから」
「二人とも軍の大先輩だよ。敵なんて思ってない」

 この言葉は半分本当で半分嘘だ。ロボス元帥は自分の政治的野心のために、エル・ファシルを地獄に落とした前科がある。個人的には魅力的と思うけど、公人としては相容れないと感じる。

 国防委員会情報部の実質的支配者と言われるアルバネーゼ退役大将は、国防委員会の完全掌握を狙うトリューニヒトと対立する立場にある。そして、憲兵司令部の資料の中でサイオキシン麻薬密売組織の創設者とされるAと同一人物だ。麻薬密売で稼いだ金を使って政界や官界に人脈を作り、最高評議会議長の諮問機関である安全保障諮問会議の委員として、国防政策に大きな影響力を持っている。憲兵隊が麻薬組織を摘発した時、アルバネーゼは最高評議会に圧力をかけて捜査中止命令を出させた。シトレ派。ロボス派といった枠組みが馬鹿らしくなるような大物フィクサーだ。

「じゃあ、どうして」
「俺達の仕事は守るべき手順を守らせる仕事だ。手順を守ることで正当性が生まれる。俺達の命令に納得して死地に赴いてもらうためのね」
「わかってるよ、それは」
「君がわからないわけはないと思う。確認のために言ってる。手順を守らなければ、誰にも信用されなくなってしまう。信用を失ったら、軍人としてはおしまいだ。君は未来を捨てるつもりなのか?元帥にだって、統合作戦本部長にだってなれる才能があるのに」

 アンドリューの作戦案は素晴らしいものだ。正規の手続きで通ったなら、プロの軍人に受け入れられるだけの説得力がある。しかし、不正な手続きで通してしまったら、作戦案の出来とは無関係に信用を失ってしまう。手続きを守らない人間と思われたら、軍組織での将来はない。

「俺の未来はロボス閣下の未来だよ」
「そんなことないだろ。君の才能なら、あの人の引き立てがなくても上に行ける」
「俺はロボス閣下と一緒に上に行きたいんだよ」

 ロボス元帥は確かに魅力的な人だ。エル・ファシル義勇旅団ではひどい目にあった。現在の惑星エル・ファシルの惨状を招いた張本人でもある。それでも、最初に会った時の感激を忘れることはできない。しかし、将来と引き換えにロボス元帥のために泥を被る必要があるとは思えない。

「いいのか、それで」
「構わない。ロボス閣下の司令部は俺の家だから」
「そう言えば、ロボス元帥のチームはみんなとても仲が良かったね」
「そうだね、みんな家族だ」

 爽やかに笑うアンドリューの顔には、出会った頃の快活さの面影があった。

「家族には勝てないや」

 目から涙がこぼれてくる。俺にはアンドリューを止めることができない。彼の心にはロボス元帥とそのチームが深く根をおろしてしまっていて、俺の言葉は届かない。

「ごめんな」
「いいよ、友達だろ」

 済まなさそうに言うアンドリューに、俺は無理やり笑顔を作りながら答えた。

「うん、エリヤは友達だ」
「家には家族がいて、外には友達がいる。それでいいんだよ」

 とっくの昔に家族を無くした俺なのに、アンドリューが家族ともいうべきロボス派を選んだことに心の底から納得できるのが不思議だった。納得しても涙は止まらないのも不思議だった。 

 

第七十五話:泥沼に生きる者の信義 宇宙暦796年8月5日 惑星ハイネセン、国防委員長執務室

 今日は朝から国防委員会に顔を出さなければならなかった。官舎から公用車に乗って、直接国防委員会庁舎に向かう。座席で副官のコレット大尉から渡された新聞に目を通すと、見出しには「帝国領出兵案、明日の評議員会議で決定か」との文字が躍っていた。四日前のことを思い出し、ため息をつく。

「先週、フォーク准将に会ったというのは本当かね?」

 仕事をしていた俺のところにそのような通信を入れてきたのは、首都防衛司令官から統合作戦本部管理担当次長に転じたスタンリー・ロックウェル中将だった。元はロボス派だったが、今では国防委員会防衛部長クレメンス・ドーソン中将と並ぶトリューニヒト派の実力者である。

「本当です。どなたから伺ったんですか?」

 プライベートで友人に会ったことを他人に知られているのは、あまりいい気分ではなかった。どこから漏れたのかが気になる。

「今、ホーランド少将が私のオフィスに来ている」

 その名前を聞いて舌打ちしたい気持ちになった。統合作戦本部次席監察官ウィレム・ホーランド少将は、アンドリュー・フォーク准将のグループに加わって、帝国領出兵案の支持者を募っていた。仕事を放り出して政治工作に奔走するホーランド少将の姿を快く思わない者は多い。面会をすっぽかされた俺としても、あまりいいイメージのない名前だ。

「どんな文脈でその話が出たんですか?」
「妙な話を持ち込まれてるのだが、その説明の最中に何の脈絡もなく出てきた」
「小官が賛同しているとか、そういう話になっているんですか?」
「いや、単に会ったという話だけだ」

 ホーランド少将がロックウェル中将に持ち込んだ妙な話というのは、帝国領出兵案のことだろう。その説明の中で俺とアンドリューが会ったという事実を唐突に持ちだし、俺が関わっているかのような印象付けを狙ったに違いない。ロックウェル中将ほどの人がそんな手に乗るはずもないのに、浅はかとしか言いようがない。

「本当に会っただけですよ。名前を出されるなんて、迷惑としか言いようがないです」
「わかっとる。確認しただけだ」
「慎重な対応、感謝いたします」
「将官ともなると、胡散臭い話に巻き込まれることも多くなる。気を付けなさい」

 そう言うと、ロックウェル中将は敬礼して通信を切った。わざわざ確認を入れてくれたロックウェル中将に感謝するとともに、面識もない俺を勝手に巻き込もうとするホーランド少将にイラっとした。



 国防委員会庁舎に到着した俺は、国防委員長ヨブ・トリューニヒトの執務室に入った。こんな時期に俺を呼び出すなんて、いったいどんな用事だろうか。秘書官が出してくれたコーヒーを飲みながら、向かいに座っているトリューニヒトが口を開くのを待った。

「ホテル・カプリコーンのジェラートはおいしかったかい?」

 その言葉を聞いて、思わず身構えた。出兵案の話だ。

「ご存知でしたか」
「フォーク君がいろいろやっているという話は、私のところにも聞こえてくるからね」

 あれほど派手に動きまわっていたら、トリューニヒトの耳に入るのは当然だろう。軍政のトップとして作戦案にも目を通しているはずだ。

「馬鹿なことをしてくれたものだ。軍人が正規の命令系統を通さずに、直接最高評議会を動かすという前例を作ってしまった。勝っても負けても、軍部の結束に大きな傷が付く」

 トリューニヒトの苦々しげな言葉から、アンドリュー達が最高評議会を動かすのに成功したことを知った。

「申し訳ありません」

 アンドリューにとって、ロボス元帥のチームは家族だった。自分の将来と引き替えにしても構わないぐらいに大事な存在だった。それを悟った俺には、彼を止めることができなかった。

「気にすることはない。君に止められなかったら、誰にも止められなかった。フォーク君一人を止めたところで、他の者が代わりに動いていた。ロボス君の下には、忠臣がいくらでもいるからね」
「それでも、アンドリューだけは止めたかったんです。他の人が同じことをするだけだったとしても、構いませんでした」
「彼のような若者に泥を被らせるとは、ロボス君とアルバネーゼは酷なことをする。いざとなったら、彼の暴走ということにして逃れるつもりなのだろう」
「まさか」

 アルバネーゼ退役大将はともかく、アンドリューを手塩にかけて育ててきたロボス元帥がそんなことをするものだろうか。

「ロボス君は軍人にしておくにはもったいないぐらいの政治家だよ。あの大雑把さも一種の政治的な演出さ。自分は動かずに手駒を使うことで逃げ道を作っておく。ロボス君のカリスマをもってすれば、手駒を思い通りにコントロールするなんて造作も無い」
「そうなんですか?俺の知っているロボス元帥は、豪快で気さくで…」
「彼は好漢だが、それ以前に政治家なんだよ。ロボス派の士官に対して責任がある。責任の前には、いくらでも冷酷になれる」

 トリューニヒトは責任といった。野心ではなくて、責任と。

「野心ではないのですか?」
「政治家は自分で全てを決めているように見えて、実は何も決められない。支持者の期待にこたえる責任がある。ロボス君は支持者に対する責任を果たすために、権力を握り続けなければならなかった。だから、失態を重ねても司令長官の地位に居座り続けた。忠臣の首と引き換えにね」

 トリューニヒトが語るロボス元帥像は、俺が見た豪放な野心家とも、前の歴史が語る無責任な愚将とも異なるものだった。しかし、ロボス元帥の行動を合理的に説明しうる解釈でもある。

「ロボス元帥ほどの人が見苦しいまでに地位にしがみつく理由が自分にはわかりませんでした。衰えて理性的な判断ができなくなってるのではないかと思っていました」
「落ち目になれば、何をやっても悪く受け取られてしまう。戦いには相手というものがある。いかに優れていても、相手がより優れていれば勝てない。武運に恵まれなかっただけで、ロボス君は何も変わっていない。再び武運がめぐって来る時を待ち続けた。そして、今が切り札を切る時と判断したのだ」
「アンドリューがその切り札というわけですか」
「フォーク君は説得に長けている。リーダーシップがある。忠誠心は極めて高い。こういう場面では頼りになる人材だよ。私も彼のような秘書が欲しいものだね」

 トリューニヒトのアンドリュー評を聞くのは実は初めてだ。意外なほど高く評価している。凡人の感情を大事にするトリューニヒトなら、仲間への義理を優先するアンドリューを評価するのは当然かもしれない。そして、そんな忠実な部下をあっさり使い捨てるロボス元帥に恐ろしさを感じた。

「ロボス元帥は恐ろしい人ですね。アンドリューほどの男もあの人にとっては、カードの一枚でしか無いなんて」
「彼は恐ろしい男だが、同時に信義のある男だ。ヴァンフリートのベロフ准将、第六次イゼルローン攻防戦のランドル大佐、エルゴン会戦のマントゥー大佐はいずれもロボス君の代わりに敗戦責任を負わされて軍を去ったが、軍需関係企業の重役に迎えられた。いずれもロボス君の息がかかった企業だ」
「泥を被っても、面倒は見てくれるってことですか」
「使い捨てた部下のフォローを怠ったせいで、秘密を暴露されるなんてことは珍しくない。汚れ役への報酬は奮発するというのは人使いの基本だ。報酬がもたらす生活の安定が口を固くしてくれる。覚えておくといい」

 そういえば、前の歴史でヤン・ウェンリーを査問に掛けた責任を問われたネグロポンティが国防委員長の座を退いたことがあった。その時、査問を命じたトリューニヒトはネグロポンティに国営水素エネルギー公社総裁のポストを用意している。政治家が考えることが同じだとしたら、トリューニヒトは帝国領出兵についてどう思っているのだろうか。

「委員長はロボス元帥の今回の動きについて、いかがお考えですか?」
「政治的には最高の一手だね。イゼルローン要塞攻略でシトレ君が築いた優位を一気にひっくり返してしまった。勝っても負けてもシトレ君は勇退に追い込まれる。私の軍部における発言力も低下は免れない。国防委員長の地位を退くことになるかもね。勝てばロボス君の功績、負ければ彼と私とシトレ君の連帯責任ってことさ」

 前の歴史では、軍令のトップであるシトレ元帥は帝国領侵攻失敗の責任をとって辞任したが、軍政のトップであるトリューニヒトは辞任どころか、声望を高めてサンフォード議長辞任後の暫定政権首班に上り詰めた。保身の達人と言われるトリューニヒトなら、当然のことと思っていた。しかし、良く考えれば、軍政のトップとして連帯責任を負わされる立場にある。トリューニヒトが最高の一手と評するのもうなずける。

「最悪でも、引き分けに持ち込もうということですね。全員が負ければ、ロボス元帥の一人負けにはならない」
「やられたよ。しかも、あのアルバネーゼを味方につけている。軍部の派閥争い程度は鼻にかけないような元老を良くも引っ張り出してきたものだ。ロボス君の手腕には感服する他ない」

 アルバネーゼ退役大将は三年前にトリューニヒトに苦杯を飲ませたほどの実力者だ。政治闘争のパートナーとしては、この上なく心強いだろう。しかし、ロボス元帥に御せるとも思えない。アルバネーゼが黒幕で、ロボス元帥も踊らされているにすぎないという可能性だってある。

「アルバネーゼ退役大将は本当にロボス元帥の味方なのでしょうか?」
「彼は信義に厚い男だ」
「信義ですか?」

 アルバネーゼ退役大将は三十年以上にわたって、同盟軍を麻薬漬けにして荒稼ぎしてきた人物だ。最高評議会を動かして、サイオキシン麻薬組織に対する捜査を中止させる暴挙に出たこともある。情報畑の大物としては、数えきれないほどの謀略に関わってきた。信義とは最も縁遠い人種ではないか。

「逆説的な言い方になるが、謀略の世界は信義の世界だ。信用できない者と一緒に危ない橋は渡れない。利害で結びついた者は利害を理由に裏切る。だから、優れた謀略家は信義を大事にする。謀略飛び交う情報と犯罪の世界で頂点を極めたアルバネーゼほど、信義に厚い男はいない」

 確かに信用できない者はどんなに有能でも謀略の協力者としては不向きである。秘密を漏らされたり、約束を破られたりしたら、命すら危うくなる。三年前にヴァンフリート4=2基地司令部メンバー全員の拘束命令を受けた俺が誰にも真意を明かさずに一人で計画を進めたのも、信用できる協力者がいなかったからだ。前の歴史で銀河最高の謀略家の名をほしいままにしたパウル・フォン・オーベルシュタイン帝国元帥は、誰からも私心なく清廉な人物と評されていた。アルバネーゼ退役大将が無数の謀略に関わったという事実は、彼を信じた無数の協力者の存在を暗示している。

「君も作戦案を見たはずだ。表向きの案では伏せられていても、事情を知る者には情報部とその裏にいるアルバネーゼがロボス君に匹敵する責任を負っていることがわかる。裏切るぐらいなら、最初から味方しないというのがアルバネーゼの流儀だ。切り札まで出している以上、ロボス君と心中する覚悟だろうね」
「情報部は二十年以上にわたって、帝国内に工作をしてきたと聞きました。それがアルバネーゼ退役大将の切り札でしょうか?」
「正確に言えば、今年の初めに死んだ前財務尚書オイゲン・フォン・カストロプ公爵が帝国のエリート層内部に張り巡らせた人脈。サイオキシン麻薬で結ばれた絆だ」
「待ってください。麻薬で結ばれた絆って、どういうことですか?」
「君達が三年前に戦ったサイオキシン麻薬組織の帝国側のボスはカストロプ公爵なんだよ。アルバネーゼとカストロプ公爵は盟友中の盟友だった」

 フェザーンで会った帝国憲兵隊のループレヒト・レーヴェから、最有力の門閥貴族で現職閣僚でもある高官が組織の背後にいたと聞かされてはいた。現役の憲兵総監を死に追いやって、強引に捜査を打ち切らせるほどの実力者だったそうだ。それがカストロプ公爵というのは初めて聞いた。

 帝国の内情がほとんど流れてこない同盟にあっても、オイゲン・フォン・カストロプ公爵の知名度は高い。十五年間も財務尚書の地位にあって、経済財政政策を指導してきた。彼の言葉には、フェザーン株式市場の株価を変動させるほどの重みがある。フェザーン株式市場がくしゃみをすれば、ハイネセン株式市場は風邪をひく。経済紙の紙面に彼の名前が登場しない日はないと言われていた。貴族資産に対する課税の可能性に言及した二週間後に宇宙船事故で死亡して、暗殺の噂もささやかれていた。想像を絶する大物の名前に腰が抜けてしまう。

「アルバネーゼ退役大将とカストロプ公爵が手を組んでいたなんて、雲の上の話ですね。俺なんかには想像もつきませんよ」
「カストロプ公爵は麻薬密売で手に入れた金を見境なくばらまいて、強力な人脈を築き上げた。汚れた金のやり取りという秘密を共有したカストロプ派は、麻薬密売、公金横領、収賄に精を出した。そうやって不正に稼いだ金でさらに支持者を集めて、帝国のアンタッチャブルになりおおせた」

 同盟軍元老と帝国財務官僚トップが長年にわたって麻薬密売に手を染めて、その収益で権力を獲得したというトリューニヒトの話は衝撃的だった。

「しかし、今年の初めに公爵が事故死すると風向きが変わった。反カストロプ派が一斉に立ち上がって、疑惑を徹底追及する動きに出た。後継者は反乱に追い込まれて、カストロプ家は断絶。カストロプ派幹部に対する捜査も始まっている。もちろん、サイオキシン密売についてもね。帝国の権力者がヴァンフリート4=2で死んでいった者達の仇を討ってくれるというわけだ」

 あまりにあっけない幕引きに驚くとともに、麻薬組織の裏でうごめく巨大な力の存在を語ったレーヴェのことを思い出した。怒りを抑えて真相を語っていた彼は、どんな気持ちで今の状況を眺めているのだろうか。

「アルバネーゼは協力者を決して見捨てない。自分の利益のために働いてくれたカストロプ派を救出する機を伺っていた。そこにロボス君が出兵の話を持ちかけた。いや、そもそもカストロプ派そのものがアルバネーゼが帝国に仕掛けた爆弾だったのかもしれないな」
「爆弾?」
「アルバネーゼは麻薬密売ルートを通して、帝国の内部情報を手に入れていた。カストロプ派はアルバネーゼの情報源でもあった。そこから得られる情報があの男を情報部の支配者に押し上げた」

 話し続けて喉が渇いたのか、トリューニヒトは手元の湯のみに入った緑茶を一気に飲み干し、一息つくと、軽く目をつぶった。

「ああ、これは思いつきにすぎないが。麻薬組織結成自体が情報部による工作だったという線も考えられるね。工作資金を稼ぎつつ情報網を構築する。いざという時は内応者として使える。なにせ、麻薬密売という秘密を握っているから、生殺与奪は思いのままだ」
「まさか。味方の兵士を食い物にするようなことを、情報部が組織ぐるみでやるなんてありえないでしょう?」
「敵を欺くには味方から欺けというじゃないか。アメリカ合衆国の中央情報局、ソビエト連邦の国家保安委員会、シリウスのチャオ・ユイルン機関、銀河連邦の連邦保安庁。人類史上に名高いこれらの情報機関だって、味方を犠牲にするぐらい何とも思っていなかった。彼らは協力者には誠実だが、それ以外に対しては冷酷だ」
「そんなこと、あるわけが…」

 口先では否定したものの、トリューニヒトの考察に一定の説得力があることを認めざるを得なかった。歴史上の事件に対する考察なら、面白がって受け入れることができたに違いない。しかし、現在自分が属している軍隊のことなら話は別である。

「ああ、済まない。少し言い過ぎたようだ」

 俺の顔色に気づいたのか、トリューニヒトはすまなさそうに言った。

「ともかく、アルバネーゼが帝国の政界、官界、軍部のエリート層にあまねく信頼できる内応者を抱えているのは事実だ。アルバネーゼが麻薬密売によって築き上げたネットワーク。それが情報部の工作の正体だよ」
「辺境二十六星系の独立もアルバネーゼ退役大将と関係があるんですか?」
「あの辺りは帝国の最貧地域だ。アルバネーゼとカストロプ公爵は大金をばらまいて、貧しい辺境の人々を密輸の協力者に仕立てあげた。もちろん、辺境の貴族領主、地方長官、警備部隊なんかも取り込まれている。彼らもアルバネーゼに協力しなければ未来がない」

 アルバネーゼ退役大将が長年かけて築き上げてきた汚れた人脈。それが今回の出兵案の鍵を握っていたという事実に、頭がクラクラしてしまった。帝国では麻薬密売は死刑だ。組織的な密売に関与していたら、血縁者も連座させられる。内応者が裏切る心配はない。機密保持も内応者自身が命がけで取り組んでくれるだろう。恐れるべきは露見の可能性ぐらいだ。

「露見しなければ、成功するでしょうね。予想以上に捜査が進んでいたら、その限りではありませんが」
「情報部の分析では、二ヶ月から三ヶ月の猶予があるそうだ。捜査当局内部でカストロプ派と反カストロプ派の主導権争いが続いている。秋の人事異動までは決着しないだろうという見通しだ」

 前の歴史において帝国の辺境星系に侵攻した同盟軍は、ラインハルト・フォン・ローエングラムの焦土作戦によって補給難に陥って自滅した。アンドリューの作戦案でも焦土作戦の可能性については触れられていたが、「現政権の指導力では困難。実施しようとした時点で辺境星系が離反する。強行してくれた場合は、内応していない星系の離反も見込めるため、勝機と言える」と分析されていた。内応者の信頼性が問題であったが、それも心配いらない。辺境星系を補給拠点に利用できる。アンドリューの作戦案には、穴が見当たらない。

「ヴァンフリート4=2で捕虜を装って帝国に逃げ込んだエイプリル・ラッカムの一派は、事故死を装ってカストロプ公爵に匿われていた。奴らも動き出すだろうね」

 アルバネーゼ退役大将から麻薬組織を受け継いだ元同盟軍少将エイプリル・ラッカム。同盟軍と帝国軍を操って、ヴァンフリート4=2の混戦を演出したあの恐るべき策士の名前に戦慄を覚えた。アルバネーゼが帝国に対して勝負を仕掛けるなら、腹心中の腹心であるラッカムの知謀を使わないはずがない。

「あのラッカムが今度は味方になるんですか。なんか、釈然としない物を感じますね」
「もっと釈然としない話をしようか。軍を追放された麻薬組織の幹部達は、今どうしているか知ってるかい?」
「いえ、知らないです」
「みんなアルバネーゼの息がかかった企業に再就職した。そのほとんどが軍と取引のある企業だ。将官クラスは軍需企業の経営陣。佐官、尉官、下士官などは、軍から兵站業務や警備業務の一部を請け負う民間軍事会社、軍に技術者を斡旋する人材派遣会社などに高給の職を得た」

 人口に比して常備兵力が極端に少ない同盟軍を補完する存在が民間軍事会社、民間警備会社などと呼ばれる傭兵部隊である。退役軍人を中心とする傭兵部隊は、地方の後方警備や兵站、民間船団の護送などで活躍している。財政難の同盟にあっては、必要な時だけ雇用できる彼らは重宝される存在だった。辺境星系を占領するにあたって、相当数の傭兵部隊が雇用されて後方業務に従事することは間違いない。派遣技術者の需要も多いだろう。

「アルバネーゼ退役大将という人は、本当に信義に厚いんですね。自分のために泥を被った手下達にこんなに大きなビジネスチャンスをプレゼントするなんて」

 不快感を隠す気にもなれない。これではアルバネーゼとその一派の私戦じゃないか。それに軍部掌握の野望を諦めきれないロボス元帥の思惑が絡んでいる。いくら勝算が高い作戦とはいえ、結果オーライで正当な手続きを踏み外すようでは、勝っても禍根を残してしまう。結果オーライの勝利が無責任体制を作り出して、後日の敗北を招いた例なんて枚挙に暇がない。あの真面目なアンドリューが権力者のエゴに利用されるのも許せない。

「委員長、この戦いを止めることはできないんですか?」
「私にもどうしようもない。最高評議会の評議員は合計十一名。そのうち、改革市民同盟の五人、進歩党の三人が賛成に回る」
「反戦派の進歩党からも賛成者が出るんですか?」
「権力を失えば、反戦のイデオロギーも実現できないと思っているのだろう。そして、それは正しい」

 他人事のようなトリューニヒトの口調にイラっときてしまった。

「正しくないでしょう、そんなの!?」
「言ったはずだよ。政治家は自分では何も決められない。支持者に対する責任を果たすために、権力を握り続ける義務があると」
「彼らの都合はわかりました。では、あなたはどうなんですか?反対するんですよね」
「当然だ。軍政のトップとしてこんな戦争は認められない。それに出兵で国防予算を使いきってしまえば、地方部隊の増強もできなくなってしまう」
「評議員を説得してくださいよ!レベロ財務委員長やホアン人的資源委員長に話して、彼らも必死になって反対してくれますよ!」

 トリューニヒトは首を横に振った。

「彼らがそんなことも知らないほど愚かだとでも思っているのかね。わかっているよ。政治家の情報網を甘く見てはいけない」
「じゃあ、他の評議員に話しましょう!真相がわかったら、きっと…」
「彼らもわかっている。彼らもわかっていて、ロボス君とアルバネーゼの思惑に乗っている」
「では、今の話をマスコミに公表して…」

 俺がなおも話し続けようとすると、トリューニヒトは右手を開いて俺の口元に向け、腕をスッと伸ばした。これまで感じたこともない威圧感に、俺は言葉を失った。

「正しい答えがわかっていれば、正しい選択ができる。正しい答えを人に伝えれば、人は正しい選択をしてくれる。そう信じている人を見ると、羨ましくなるね。さぞ幸せな人生を生きてきたのだろう。そう思わないかい、エリヤ君?」

 嘲笑とも諦めともつかないような複雑な思いが、トリューニヒトの言葉には含まれているように感じられた。どう答えていいかわからない。

「権力者のもとには、大勢の人間が望みを叶えてもらおうと集まってくる。そんな人間が目となり耳となって、複数の立場からの情報を持ってきてくれる。正しいだけの答えなら簡単に知ることができる。しかし、そんなことに何の意味があるのかね。我々はその正しい答えをわかっているが、同時にその答えを選べない理由もわかってしまうんだよ。答えがわかってしまうというのは、本当につまらない」

 トリューニヒトは寂しげに微笑んだ。

「私が告発に乗り出したら、マスコミの幹部達は計算するだろう。私に味方するか、アルバネーゼに味方するか。私は答えを知っている。彼らは間違いなくアルバネーゼに付く。いかにマスコミとはいえ、最高評議会と連立与党と軍部と情報機関をすべて敵に回して生き延びられるほど強くはない。そして、アルバネーゼはあらゆる手を使って私を潰しに来る。人脈と金脈を断たれた私は破滅するだろう。君がそういう未来を望むなら、告発する価値もあるかもしれない」
「そんなつもりは…」
「私には支持者に対する責任があるんだ。私に理想を託した者、私に生活の安定を託した者、私とともに高みを目指そうと願った者。私が破滅したら、彼らも破滅してしまう。私にこの話を教えてくれた者にも迷惑がかかる。そんなことはできない」

 トリューニヒトが動けない理由がようやく理解できた。ロボス元帥のために泥をかぶろうとしているアンドリュー、そしてアンドリューを犠牲にしても生き延びようとするロボス元帥と同じだ。政治の世界で生きる彼は支持者を裏切れない。

「君だってそうだ。ダーシャ・ブレツェリ、アンドリュー・フォーク、エーベルト・クリスチアン、イレーシュ・マーリア、クレメンス・ドーソン、アーロン・ビューフォート、第三十六戦隊の幕僚チーム。暴発したら、君に期待をかけている者達がどうなるかを考えたまえ」

 みんなの顔を思い浮かべた。正しさを通すために彼らに迷惑をかけることはできない。俺一人が破滅するならともかく、彼らまで巻き込むわけにはいかない。俺は将官として軍の最高幹部の末席に連なっているが、最高評議会まで動かせるような権力者に比べたら、アリにも及ばない存在だ。

「君はあの男とは違う。暴発するほど愚かではないと信じている」
「では、どうしてこんな話を俺にしたんですか?知っていて簡単に飲み込めるような話ではないですよ」
「第三十六戦隊司令官を辞めてもらうためだ」

 トリューニヒトの言葉に面食らってしまった。意味がわからない。

「どういうことですか?」
「これは私のわがままだが、君にはこんなつまらない戦いに参加してもらいたくない。国防委員会に君のポストを用意する。実戦部隊から離れたくないなら、第一艦隊か第十一艦隊への転籍でも構わない」
「少し考えさせていただけますか?」
「構わない」
「たびたびのご厚意、感謝します。それでは失礼します」

 一礼して席を立ち、執務室のドアに向かって歩き始める。

「我々はいずれもっと強くなる。いずれアルバネーゼの力が落ちる時も来る。今は一つの局面にすぎない。戦いはこれからも続く。今は耐えてくれたまえ」

 振り向いてトリューニヒトに敬礼し、頭を下げてから俺は部屋を出て歩きだした。廊下の大きなガラス窓からは、眩しいばかりの夏の陽光が降り注いでくる。目に映る世界はこんなに美しいのに、政治はなんと汚いことだろうか。歴史の本の中の提督達は英雄のように神々しかったのに、俺ときたら泥沼に浸かりっぱなしだ。ゴールデンバウム朝の帝都オーディンを攻略するという未曾有の大作戦の前だというのに、心は沈みきっていた。