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2014-05-20

3月15日の福島第一原発 吉田所長の退避指示を巡る朝日新聞と門田隆将本の大きな違い

 本日(20日)、朝日新聞が以下のようなスクープ記事を出しました。


 私の記憶が正しければ、吉田所長の単独インタビューを、NHKも朝日新聞も大手メディアはどこもとれていないはずです。

 それで、非公開の政府調査委員会が聴取したものを入手したのでしょう。

 世間ではあまり知られていないのでしょうけど、唯一ジャーナリズムで単独彼にインタビューした人がいます。ノンフィクション作家の門田隆将氏です。本『死の淵を見た男』(2012年、PHP)になっています。

 とはいえ、書籍なのでいくら売れてもたいして一般には知られていないはず。

 とはいえ*2、吉田所長が亡くなったときにはNHKニュースに「会ったことがある人」としてゲストコメンテーターに呼ばれていたので、メディアの間では有名なのでしょう。

 で、3月15日の、第一原発の作業員のほとんどが第二原発に退避したという話は、残った人が50人ほどしかいなかったということですでに「フクシマ・フィフティーン」として知られています。(実際は69人)

本当に吉田所長の命令に違反していたのか?

 ところが、朝日新聞によれば、吉田所長は「退避ではなく待機命令」を出したのに、みんな逃げてしまい、彼らは期せずして50人になってしまったということになります。

 一方の門田本では、吉田所長が退避命令を出しています。

 これは、今も原発で作業にあたったであろう東電や関係会社の社員たちの名誉にかかわる話です。

 朝日新聞ではこうしています。長い引用になりますが、その内容の正否について比較が重要となるので引用させていただきます。

 吉田調書や東電の内部資料によると、15日午前6時15分ごろ、吉田氏が指揮をとる第一原発免震重要棟2階の緊急時対策室に重大な報告が届いた。2号機方向から衝撃音がし、原子炉圧力抑制室の圧力がゼロになったというものだ。2号機の格納容器が破壊され、所員約720人が大量被曝(ひばく)するかもしれないという危機感に現場は包まれた。

 とはいえ、緊急時対策室内の放射線量はほとんど上昇していなかった。この時点で格納容器は破損していないと吉田氏は判断した。

 午前6時42分、吉田氏は前夜に想定した「第二原発への撤退」ではなく、「高線量の場所から一時退避し、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機」を社内のテレビ会議で命令した。「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」

 待機場所は「南側でも北側でも線量が落ち着いているところ」と調書には記録されている。安全を確認次第、現場に戻って事故対応を続けると決断したのだ。

 東電が12年に開示したテレビ会議の録画には、緊急時対策室で吉田氏の命令を聞く大勢の所員が映り、幹部社員の姿もあった。しかし、東電はこの場面を「録音していなかった」としており、吉田氏の命令内容はこれまで知ることができなかった。

 吉田氏の証言によると、所員の誰かが免震重要棟の前に用意されていたバスの運転手に「第二原発に行け」と指示し、午前7時ごろに出発したという。自家用車で移動した所員もいた。道路は震災で傷んでいた上、第二原発に出入りする際は防護服やマスクを着脱しなければならず、第一原発へ戻るにも時間がかかった。9割の所員がすぐに戻れない場所にいたのだ。

 その中には事故対応を指揮するはずのGM(グループマネジャー)と呼ばれる部課長級の社員もいた。過酷事故発生時に原子炉の運転や制御を支援するGMらの役割を定めた東電の内規に違反する可能性がある。

 吉田氏は政府事故調の聴取でこう語っている。

 「本当は私、2F(福島第二)に行けと言っていないんですよ。福島第一の近辺で、所内にかかわらず、線量が低いようなところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fに着いた後、連絡をして、まずはGMから帰ってきてということになったわけです」

 第一原発にとどまったのは吉田氏ら69人。第二原発から所員が戻り始めたのは同日昼ごろだ。この間、第一原発では2号機で白い湯気状のものが噴出し、4号機で火災が発生。放射線量は正門付近で最高値を記録した。(木村英昭)

一方、門田本では248頁からこのシーンが出てきます。

吉田所長は15日午前4〜5時頃に、協力会社の社員たちに対して


「皆さん、今やっている作業に直接、かかわらいのない方は、いったんお帰りいただいて結構です。本当に今までありがとうございまっした」緊対室の廊下に出た吉田は大声でそう叫んだ。(略)最期が近づいていることを誰もが肝に銘じた。免震重要棟から一歩外へ出るということは、放射能汚染の中に「出ていく」ということである。しかし、その危険を冒してでも、今は、ここから「離れる」ことのほうが重要だったのである」(249、50P)

と指示している。

そして、吉田所長は門田氏に対して以下のように話し、少数を残して撤退しようとしたことを明らかにしている。(一部)


「私はあの時、自分と一緒に”死んでくれる”人間の顔を思い浮かべていたんです」

「何人を残して、どうしようかというのを、その時に考えましたよね。ひとりひとりの顔を思い浮かべてね。(略)」

「(略)極論すれば、私自身はもう、どんな状態になっても、ここを離れられないと思ってますからね。その私と一緒に死んでくれる人間の顔を思い浮かべたわけです。これは、発電班の連中よりも、特に復旧班なんですよ、水を入れたりする復旧班とか、消火班とかですね」(252頁)

問題の午前6時台。

再掲になりますが、朝日では、6時42分に吉田所長は


「高線量の場所から一時退避し、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機」を社内のテレビ会議で命令した。「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」 待機場所は「南側でも北側でも線量が落ち着いているところ」と調書には記録されている。

としています。

一方の門田本


吉田所長の「指示」が飛んだ。

「各班は、最少人数を残して退避!」

(略)

「(残るべき)必要な人間は班長が指名すること」

(略)

(*以下は吉田の部下の伊沢氏の話として)

「この時点で技術系の人間ではない人たちも含めて免震重要棟には大勢の人(注=六百人以上)が残っていました。吉田さんは、技術系以外の人は早く退避させたかったと思います。しかし、外の汚染が進んでいましたから免震重要棟から外に出すことができなくなっていたんです。でもこの時、もうそんなことを言っていられない状況が生まれたわけですから、最小限の人間を除いて、二F(福島第二原発)への退避を吉田さんが命じたんです。退避を命じることができたことで、吉田さんがある意味、ほっとしただろうと思ったのは、私自身が当直帳として部下たちと一緒に中操に籠もっていて、同じような立場にいたからだと思います」

(268頁)

 

 退避のシーン朝日新聞では、


 吉田氏の証言によると、所員の誰かが免震重要棟の前に用意されていたバスの運転手に「第二原発に行け」と指示し、午前7時ごろに出発したという。自家用車で移動した所員もいた。道路は震災で傷んでいた上、第二原発に出入りする際は防護服やマスクを着脱しなければならず、第一原発へ戻るにも時間がかかった。9割の所員がすぐに戻れない場所にいたのだ。

 と、吉田所長の意に反して誰かが第二に逃げるように指示したように読めます。

 門田本ではこのシーンはこうです。

 

 退避する人たちが全員マスクをつけていくと、残って作業をする人間のマスクがなくなってしまう。それなれば、「現場に近づくこと」ができなくなる。

 残る人間のために一部のマスクは隠された。絶対数が足りなくなるため、多くの人が奪い合いとなった。

 マスクを確保できない人間は、ハンカチを口にあててバスに飛び乗ったり、駐車場に置いてある通勤用の自家用車に分乗していった。(273頁)

「本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ」の真意

 このように、朝日新聞と門田本ではだいぶずれがありますよね。

1) 門田本では、吉田所長は1エフからの退避を明快に指示しています。少なくとも、指示を受けた人たち(残った人たちも含めて)はみんな、2エフ以外に、南相馬市だとか、双葉町だとか、現状がどうなっているか全く分からない場所に退避しろという指示とは考えていません。1エフからの退避=2エフしか選択肢がなかったの現実でしょう。

2)免震棟の外に行くこと自体が危険だった。わざわざ放射能的には安全の免震棟を出て、どこに放射能値が低いところがあるかなんて分からない状態で、南でも北でもいいからとにかく敷地内にいろ、という命令を出したなんてありうるのか。

3)外が汚染されている状態で600人がマスクやタイベックを使って一時的に外にでて、またすぐに戻ってきたら、足りないマスクなどがさらに足りなくなって、その後の作業ができなくなる。

 「本当は私、2F(福島第二)に行けと言っていないんですよ。福島第一の近辺で、所内にかかわらず、線量が低いようなところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fに着いた後、連絡をして、まずはGMから帰ってきてということになったわけです」

 この吉田所長の言葉も、「 と言ったつもりなんですが、」に、朝日記事の文脈では、逃げた人たちへの批難めいたニュアンスがありますが、門田本の文脈から読むと、単に事実を淡々と伝えているだけです。

 たとえば「と言ったつもりなんですが(みんな私の気持ちを分かってくれていて、すぐに連絡がつくようにバラバラにならずに2Fに全員が移動してくれた。それで事態が落ちついたので)2Fに着いた後、…」とすると、全然逆の話、吉田所長がみんなを信頼して、その行動に答えてくれた600人をたたえる言葉になります。


 ちなみに、朝日新聞の記事からは、この判断ミスが致命的だったような印象を持たせますが、記事にもあるように、一度、2Fに退避した人たちのほとんどが翌日には1Fには戻ってきて、また復旧作業をしています。朝日新聞では彼らが残っていれば止められたような書き方ですが、その後も血の出る(文字通り血尿を出しながら)復旧作業によって、とりあえず今のところ、「日本が三分割」という最悪の事態が避けられたことを、彼らの名誉のためにも記したいと思います。


 とはいえ(*3回目)、政府がこの調書を公開しないのはよくないことだと私も思います。

 なんで「とはいえ」を何回も使ったかというと、なにかへ誘導したいときに「とはいえ」というのを使いたがるんですよね、物書きって。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日

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