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物理学会誌に松川さんの摩擦本のレビューを頼まれていたのだが筆が進むあまり大幅に分量超過してしまった。掲載されるのは以下拙文の短縮バージョンだが、ver.0も没にするのは悔しいのでここで公開。
岩波の「物理の世界」シリーズの一冊である。読者もご存知の通り、本シリーズはA5版でたいてい100ページ程度の分量であるから、良くも悪くも「物理のデパート」的である---あるいは「物理のドンキホーテ」の方がよりぴったりくるかもしれない。(俺はドンキホーテなど行かんと憤慨される向きには三井アウトレットパークでも阪急メンズ東京でも何でもよい。田崎晴明氏の日記を参照すべし。http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/d/0303.html#02 )あたかもドンキホーテに分け入るかのごとく、どの本も気軽に読めるよう工夫してあるのが特徴であり、手に取って眺めれば楽しく、しかも意外な発見があったりする。本書も例外ではなく、摩擦研究の要点がレオナルド・ダ・ビンチまでさかのぼって簡潔にまとめられ、なおかつ最新の研究成果まで概観できるようになっている。例えば評者自身もいくつか知らなかった実験について学ぶことが出来た。
さて、本書の主題である「摩擦の物理」とは何か。摩擦とは二つの物体が接触しつつ相対運動する現象全般を指し、その際に物体間に働く力を摩擦力と呼ぶ。「摩擦の物理」の主要な部分は「摩擦力の定量的な記述」である。例えば、地震は岩石の剪断破壊であり、破壊面(断層)には摩擦力が働く。この摩擦力は地震に対してはブレーキとして働くので、その特性を知ることが地震学の重要課題となっている。(本書3.5節では地震の文脈での摩擦についてポイントを絞り紹介することに成功している。)
では摩擦力をどのように記述するか。何かを現象論的に記述するには変数をうまく選ぶ必要がある。摩擦力はどんな変数で記述するのが便利なのか?この基本的問題が本書2−3章で論じられる。まず、「たいていの物質で摩擦力は法線方向にかかる力に比例する」という実験事実がある(クーロン・アモントンの第二法則)。そうなると次のターゲットはその無次元比例係数(摩擦係数)である。摩擦係数は荷重には依存しないが、すべり速度に依存するし、非定常状態では時間について対数的に進行する遅い緩和過程に支配されることもよく知られている。これらの実験的事実とその定量的表現が第3章で詳しく紹介される。この法則は「速度・状態依存摩擦法則」と呼ばれ、摩擦に関するほぼ唯一の現象論と言ってよい。その意味では第2章と第3章が「摩擦の物理」の主要部分をなす。
巨視的現象論である「速度・状態依存摩擦法則」の微視的基礎は実はさほど分かっているわけではない。現時点での標準的理解とその問題点は第3章に説明されている。詳しくは本書を読んで頂けばよいのだが、その物理は真接触部位のクリープ(熱的活性化過程で駆動される変形)である。真接触部位では一軸圧縮状態になっているから様々な原子論的過程を経由してネッキングを起こし、接触面積がゆっくりと増大する。同様に、剪断方向に力がかかれば粒界滑りなどによりずるずるとすべる。これらの過程では駆動力と変形速度の間にアレニウス則が成り立つ。これが摩擦力の滑り速度依存性をもたらすのである。
なお上では第二法則だけに触れたが、実はクーロン・アモントンの名が冠せられた法則は三つある。その第一法則は「摩擦力は見かけ接触面積には依存しない」というものである。これはより強い言明である「摩擦力は真接触面積に比例する」に置き換える事ができる。第二法則まで合わせた微視的モデルによる説明は本書第2章に与えられている。つまり真接触部位の存在が分かってしまえば第一法則はほとんど不要である。第三法則は「静止摩擦力は動摩擦力よりも大きく、動摩擦力はすべり速度に依存しない」というものだが、前述の通り摩擦力は滑り速度に依存するので、これはもちろん誤りである。しかも実は「静止摩擦」はここでいうほど単純なものではない。(i) 外部からの駆動力が非ゼロであればクリープによって摩擦面はわずかながらもすべるので、概念的には結局動摩擦と変わるところはない。(ii) 静止摩擦も結局すべらせて計る量であるからすべり速度に依存する。つまり、クリープを考慮すれば静止摩擦・動摩擦という厳然とした区別はつけ難く、むしろ定常状態・非定常状態という区別こそが本質的であると評者は考えている。(もちろんクリープが無視出来るようなある極限操作を考えれば静止摩擦も意味のある概念になり得る)。
クリープまで考えれば、本書p.18で述べている「摩擦現象の場合、最大静摩擦力という運動を引き起こすための閾値が存在し、摂動と応答は比例関係に無い」という言明も再検討が必要になる。摩擦という一見マクロな現象もクリープという原子論的・熱的プロセスに支配されているのだから、たとえばセミマクロな系ならば摩擦力の揺らぎは測定可能であろう。実際、原子間力顕微鏡などを用いてナノスケールでの摩擦がその場観察できるようになってきていることは本書第4章で詳しく解説されている通りである。そのような系では線形応答理論も適用可能であるし、揺らぎの定理に代表される様々な非平衡統計力学の関係式も成り立つであろう。このようなナノ摩擦は現在工学系の実験が先行しているが、非平衡統計力学分野の研究者の参入により今後大きな発展を見せるかもしれない。
本書は100ページ強の小冊子であるから、カバーされていない重要な話題があるのは当然の事である。たとえば摩耗についてはほとんど触れられていない。摩耗が著しければ、面どうしの接触というよりは、二つの面で挟まれた摩耗物が単純剪断を受けるというモデルの方がより適切であろう。このような摩耗物の存在が摩擦特性にもたらす影響は実験による経験則はあるものの、評者の知る限り理論はほとんど無い。このような摩耗物系のレオロジーは実は粉体のレオロジーとも密接に関係しており、摩擦・摩耗と粉体物理が出会うべき重要な学際分野と言える。
評者の知る限り、物理屋が日本語で書いた摩擦の教科書は(同じ筆者による培風館の本を除けば)これ以外には無い。(もちろんトライボロジー分野ではたくさんある)。その意味で、摩擦に興味を持つ物理の学生が最初に読むべき本として本書を推薦できる。原子間力顕微鏡の発表が1986年、マクロの摩擦でクリープの重要性が指摘されたのが1994年であることを考えると、本書のような内容を持った教科書がもう少し早く出ていてもよかったとは思う。ただし空間不均一なすべりダイナミクスのその場観察が2000年代に入ってから次々発表されるようになり、本書ではその研究成果もよく解説されている(第5章)。
「摩擦の物理も面白いけど、私は同僚との摩擦で疲れた」とこぼしていた某教授がいたが、社会物理学・経済物理学がネットワーク理論とともに隆盛を誇る昨今、社会間・人間間相互作用における摩擦の研究も次の研究課題として面白いかもしれない。本書を読みながらそのとっかかりについてあれこれ想像するのもまた楽しかろう。