人にはだいたい、表裏がある。
表裏のない人間、いつ見ても同じような人間なんてのは、見ていてちょっと気持ちが悪い。少々の表裏は誰にだってあるから、あんまり気にする人はいない。気にしているとキリがない。少々表裏がある方が人間らしくて良い。
かと言って、あんまりその差が激しすぎるのも気持ちが悪い。人と違うと気持ちが悪いし、悪目立ちしてしまう。
他人の粗を見つけてはこき下ろして喜んでいるような人間。そういう人はそこら中に居る。そういう人間にとって、表裏の激しい人間というのは格好の餌食である。
そして実は、餌食である「表裏の激しい人間」と、それを食らう「他人の粗を見つけてはこき下ろして喜ぶ人間」というのは、表裏の関係にある。
彼らは普段、人格者に擬態して本性を隠している。ジンカクシャモドキが彼らの表の顔だ。でも油断すると本性が現れて、他人のあら探しに夢中になる。人のことに気を取られているうちに、自分の足元を留守にして、ある種の粗が現れる。そうしているうちに、同業者に足元を掬われる。全く業の深い、闘争の世界に彼らは生きているのである。
時折、そんな世界での出来事が、こちら側にいても耳に入ってくる。
「あの人、表ではあんなことを言っているのに、裏ではこんなことをしているらしい」
「実はあの人に、こんなことをされたことがある」
壁に張り付いた耳や障子の隙間から除く目を通して、そして時には当事者の口から、どうやら本当らしいことが語られる。それが本当かどうかは、聞いた人にはわからない。それでも人はだいたい、「火のないところに煙は立たぬ」を感覚的真理としている。
噂をすれば影がさす。これは噂をする側の視点に立ったことわざだ。噂をされる側からすれば、影あるところに噂あり、とでも言おうか。あなたの影が伸びる範囲にいる人はみんな、あなたの噂に通じている。道を歩いて顔を合わせる人はみんな、あなたが何をしているらしいのか知っている。それくらい早く、噂は広まってしまう。人の口に戸は立てられぬ。
主張の激しい裏の顔は抑え込まねばならない。それを諦めるのなら、それが完全に裏の顔であることも諦める必要がある。