お邪魔致します。
どうもこんにちは。
こういう雰囲気何かお姫様ですね。
エンターテインメントの世界で半世紀以上活躍する2人のレジェンド。
大切な音楽を持ち寄り語り合います。
テレビ女優第1号として放送が始まった当初からキャリアをスタート。
61年間にわたって第一線で活躍を続けるテレビ界のスーパースターです。
その道のりには知られざる葛藤がありました。
俳優そしてシンガーソングライターの先駆けとして社会現象を起こした映画・音楽界の革命児。
今なお全速力で走り続けるまさに生きる伝説です。
栄光の先にあったのは…支えたのは昔からの仲間そして歌でした。
テレビ・映画・音楽界の歴史を築いてきた2人。
その歩みは日本の戦後史そのものでした。
そして…選んだのは同じ曲でした。
え〜!うそ〜!うそ本当に?心に残る音楽を通して2つの人生を見つめます。
黒柳徹子さんは昭和8年東京・乃木坂で生まれました。
すげえな。
すごいでしょ。
これが幼児期ですか。
赤ん坊の時なんです。
あのね父と母が出会ったのは「第九」だったんです。
ダイク?「第九」。
このベートーベンの「第九」。
ああカーペンターじゃなくて。
カーペンターじゃなくてねベートーベンの「第九」ね。
それで父がその時今のN響のコンサートマスターをしていまして。
で母が音楽学校の生徒で。
当時は暮れに「第九」をやったんですって。
徹子さんの父守綱さんは若くから活躍していたバイオリニストでした。
母の朝さんは音楽学校の声楽科に通う学生。
音楽の道を歩んだ2人がコンサート会場で出会います。
それで全部終わった日に父が「お茶飲みに行かない?」って言ったらしいのよ。
そしたら母も「うん」って言って。
まだ生徒だからぼんやりしてて。
で乃木坂っていう所に行って。
こんなお皿の上にねサクランボがいっぱいあったんだって。
父がね「サクランボ好き?」って言ったんだって。
そしたら母がね「大好き」って言いながらね「こんなおいしいもの誰でも好きさ」と思ったんだって。
母がおかしいんだけど母がそう言うんだけど。
それで食べてるうちに話ししてるうちに時間がなくなって「もうおうちへ帰れないよ」って父が言って。
なんと…「じゃあ僕んとこ来る?」みたいな。
それで結婚の話になったらしいのよ。
すごい早いですね。
早いですよ当時としては。
メッチャ早いですね。
うん情熱的なの。
それで私がそれからすぐ生まれたもんですから「ザーネルザーネルビンデルビーデル」ってさドイツ語で母は私の事を育てたもんですから…この「第九」はもうすごくやっぱり聴くと何か懐かしい思いがします。
もうあれだな。
生まれる前から両親が聴いてるからDNAの中にもう音楽の記憶があるんだろうね。
おなかにいた時から母もずっと歌ってたでしょうからね。
鼻歌か何かで。
父はハンサム母きれい。
だからよその方がうちへいらっしゃると「あらお父様もお母様もおきれいなのにねえ」って私を見るのよ。
それどういう事?きれいじゃないですか。
いやいや小さい時ね。
すると母がね「でも素直なだけが取り柄ですの」って言ったから私は素直が一番いいんだなってずっと思ってたの長い事。
で顔がどうとかなんて事は全然思わなかったの。
素直ですよですから私ね。
子どもの頃から常識にとらわれない行動や特徴的な話し方をしていた徹子さん。
変わった子だと言われる事もありました。
そんな徹子さんの人柄を母の朝さんは大切に育てます。
徹子さんは活発で個性あふれる少女に成長していきました。
加山雄三さんは徹子さんの4年後昭和12年に横浜で生まれました。
え〜これ?そう。
「St.LouisBlues」なんですが。
いいわね。
何か母が子守歌を一生懸命歌うとね黙って聴いてたと思ったら「ファ〜」って泣くんだって。
あなたが?なんぼ歌っても泣くんだって。
僕はどう考えてもメロディーがすごいマイナーで悲しくなるような。
・「ねんねんいい子だねんねしな」みたいな。
そう。
それがどうもDNAの中で拒絶反応だったんだと思うんですよ。
それで泣いてばっかりいるからこの子は何で泣くんだろうと。
それで「St.LouisBlues」をしょうがないからジャンジャカかけたらすやすやと寝たと。
だから子守歌がこれの方がいいんだって事が分かって。
いいわね。
こんな中で寝られるっていう事はよっぽど好きなのね。
好きっていうか明るい状態。
リズムがチャッチャッチャッチャッってこういう感じがよかったのね。
周りが騒いでるそうするとね寝られる。
「ただいま」。
加山さんの父は上原謙さん。
昭和を代表する二枚目俳優です。
母の小桜葉子さんも俳優。
加山さんは芸能一家に生まれました。
音楽好きだった父の聴くクラシックやジャズの音色に囲まれて育ちました。
時代背景としては早いんじゃないかなと思いますよね。
日本でジャズを自分のうちでレコードかけられるっていう事はね。
だからやっぱり徹子さんと同じように我が家は音楽がすごかったですからね。
そうだねやっぱりね。
何かそういうところは共通点があるのでうれしいですよ。
加山さんはピアノやスキー水泳を楽しむ音楽とスポーツが大好きな少年に成長します。
両親の愛と音楽に包まれて人生を歩み始めた徹子さんと加山さん。
しかし2人が小学生の頃日本は激動の渦にのみ込まれます。
太平洋戦争の激化です。
何かワンワンワンってラジオで鳴ってね。
「関東地区関東地区警戒警報発令」って。
そうよ。
大本営発表とか言うんでしょ。
・「タンタンタ〜ンタンタンタ〜ンタンタンタンタ〜ン」ってあのメロディーでいわゆる情報を流すじゃないですか。
そんなの全部頭の中に残ってますからね。
警戒警報はだけど空襲警報っていったらみんな防空ごうに入る。
でねラジオで言ってるのにサイレンも鳴ってるのに隣組のおじさんの人でバケツたたいて「空襲警報」って叫ぶおじさんがいてね。
親切なんだけどね。
もう分かってるのにガンガンってやってうるさいなって思ったんだけど。
親切な人だったんだと思う。
でもみんな防空ごう入ってね。
焼け野原となった日本に復興のつち音が響き始めた頃2人の心に刻まれた音楽がありました。
「かえり船」というね昭和21年だと思うんですけど。
僕がだから9歳ぐらいですかね。
何かこう糸の巻いてある木の丸い…あるじゃないですか糸巻きのこういうの。
それをねこうゴムを通すんですよ。
片っぽは割り箸をボッと折ったのに引っ掛けて。
カタカタうん。
こうやってグルグルグルグル巻いて走らせるとねこう走るのね。
カタカタカタカタ。
そうカタカタって。
それがまあ戦車。
それをじゅうたんを真ん中ちょこっと膨らまして坂の所を登らせたりなんかして遊んでる時にラジオからこれがよ〜く流れてた訳。
この歌を聴くとその情景がバッと出てきて。
フワ〜ッと昔に戻ってね。
ある時ね聴いてたら涙がポロポロこぼれたんですよ。
やっぱりこういう悲しいメロディーは悲しいんですね。
そうだねうん。
・「霞む故国よ小島の沖じゃ」やっぱりね引き揚げ船っていうのはねすごい印象に残ってるんですよ。
うちのおじが2人とも中国の方に大陸に出兵してましたからね。
でおばあちゃんは「絶対に生きてる」って言ってねもう言い張ってんの。
そしてね玄関にね「ただいま帰りました」ってねおじさんが帰ってきた時にねみんなでもうワンワン泣きながらね「足ついてるよね」とか言ってたのを…。
帰ってらしたの?よかったねえ。
無事帰ってきたんですよ。
玄関でこうやって敬礼してるのがすごい印象に残ってます。
私の父はねシベリアの捕虜になったんですけど運よくね何かバイオリンが弾けるという事が分かったらねソビエトからすぐバイオリンが支給されて捕虜収容所全部をバイオリン弾いて慰問するようにって言われたんですって。
だからすごく帰ってきたの遅かったですよね。
戦争が終わってから4〜5年たってました。
ああそうですか。
・「銅鑼の音」徹子さんは11歳の時青森に疎開し終戦を迎えます。
そして終戦後出征した父の消息も分からない時期に心に残る歌と出会いました。
いやこれはやっぱり何かシンクロするな。
私はね青森に疎開してたんですよね。
家族疎開してたんですけどそれで戦争が終わったんですけど…そしてある日ね…青物市場ですから急ごしらえのステージみたいの作って何かやるらしいっていうので私もござ持って隣の子たちと一緒に一番前にこうやって座って何だろうねって思って見てたの。
そしたらアコーディオン持ったおじさんが今のやつを弾いた訳。
・「花咲き花散る宵も」って。
その時に私…ほかの子は銀座知らないけど私は知ってるけど「銀座知ってる」って言ったらみんなに悪いじゃない。
だから私は知らないふりして銀座は知らないって感じで。
でもずっと聴いてた時に銀座知ってる銀座知ってるって。
父との思い出とかそういうのでね。
まあ父と1年に一度銀座へ行ってねいろんな…資生堂行ってアイスクリーム食べてみたいな。
おもちゃも買ってもらって。
そういうので「あ〜銀座知ってる」って思ったんだけどみんなには言わないで「知ってるよ」なんて言われねえだってねそういうふうに思って。
秘密にしとかねばなんねえと思ってでまあ聴いてたのよ。
疎開先の青森で聴いた東京の歌。
徹子さんは当時シベリアに抑留されていた父との思い出を心によみがえらせました。
その数日後旅一座の座長が徹子さんの疎開先の家を訪ねてきます。
そんなね…その時もう戦後でしたからねそんなさ女学校1年生か2年生の子見て「座長にしてお返ししますから」っていうのも大胆な話だと思ったんですけど。
でもちょっと面白いのかなと思ったんでしょうね親もね。
うちの母もね子どもの意見を尊重する人なので「どうする?」って聞くのよ。
でもやっぱり「行かれないです」って言って断ったね。
だからもしかして行ってればね女座長に…。
なっちゃった。
子どもの頃からやっぱりオーラが違ってたんだな絶対。
見せられない。
そういうのあると思うんだな。
見せられない。
見せられない?見せられない。
だってしょっちゅうあの何て言うの肥だめ落ちて。
肥だめってね変な所にあるのよ。
畑の真ん中みたいな所に。
雪の降ってる時なんか落っこったり。
いとこからもらったセーラー服1枚しかない。
1枚しか洋服なくて。
その1枚でずっと過ごしてました毎日。
徹子さんは疎開先から戻ると東京の女学校に通います。
当時徹子さんはオペラの名作「トスカ」に憧れ歌手になる事を夢みていました。
そして通っていた教会で初恋と巡り会います。
すごい歌詞だと思いません?いい。
いいですよね。
すごくいい。
自分の母親がお友達よりも誰よりも一番話分かってくれる人っていうのがね。
賛美歌いっぱいありますけど…。
でもこのメロディー僕好きだな。
いいでしょ。
一番いい。
教会では必ずこれを歌いたくなりますよね。
そうですねいいですよね。
教会の副牧師に片思いした徹子さんは週4回も通ってオルガンを弾きました。
とにかくその副牧師と会いたくて私はねオルガン弾いてた訳。
ませてるんだな。
そうそうそう。
それでね私覚えてなかったんですけど先生が広島の方に出張に行くのでっつって私が東京駅まで送りに行ったんですって。
「何もお土産ございませんけどこれでも」って箱の中にあげたんだって何か。
私としてはねお金がないから野原ほっつき歩いてフワフワしたきれいな綿みたいなものがあったから植物で。
これあげようと思って箱の中に入れて先生にあげた訳。
牧師さんに。
そしたら牧師さんも「どうもありがとう」ってもらって帰ったの。
そしたらそれがなんとねカマキリの卵だったらしいのよ。
これが。
フワフワが。
全部ふ化しちゃって。
あら。
先生が電話で「大変でした」って。
広島に着いた頃ふ化しちゃって箱の中からワーワーワーワーカマキリの子どもが出てきて「大変なもの頂いたんだと分かりました」って言われてすごく驚いたの。
笑えるなこれ。
へえ〜。
もらった方はたまげたでしょうそりゃあ。
なんていう子だろうと。
でも開けた時きれいだったから。
私は綿みたいなものをあげたんだから。
きれいな。
でも私カマキリっていうのがあんなね綿みたいなきれいなフワフワのものだって知らなかったの。
そしたらさ後にねその副牧師が信者のおねえさんの大きい人と結婚してもうすごいがっかりしちゃったんだけどね。
やっぱり大人じゃないと駄目なんだなんて。
高校生ぐらいでしたけどね。
いいなあって思ったんだけど残念でしたねあれは本当に。
そんな訳でがっかりした。
アハハハハ!加山さんはスポーツや船造りを趣味にしながらたくましく成長していきます。
その一方で14歳の時にはピアノで初めての作曲をするなど音楽の才能を発揮します。
そして17歳の時ある楽器と出会いました。
いや〜懐かしい。
これはねもうカントリーウエスタンっていうのでね。
まあスキーに団体で行ったんですよ。
スキー担いでね。
合宿みたいなものですけど。
そこへねあるやつがねギター持ってきたのね。
でギターっていうのはその時初めて僕は見た。
それが今の「IDon’tHurtAnymore」っていうのをね弾いて歌ったの。
・「Idon’thurtanymore」って。
すっごい憧れちゃってね。
そりゃそうよね。
いいねこれはって。
それまではそんなカントリーなんて知らない。
ギターも知らない。
教えろ教えろでね。
みんな引っ張りだこになったんですよ。
ところがね何か知らないけど弦がこんな高いから高い所なんてのはものすごい力入れないと押さえられない。
これはギタリストっていうのはすごい握力があるんだなと思ったけど考えてみたらさネックがこうやってそってただけの事だった。
古いので?そう古いの。
聞いたら質流れですねそれ。
500円で買ってきたって。
それが最初のギターとの出会いカントリーミュージックとの出会い。
それ以来カントリーに魅せられてまあギターに魅せられてもうジャカジャカ。
スリーコードさえ覚えりゃできるみたいなのがカントリー。
でそれにのめり込んでいったらそういうのばっかり集まってきて。
みんなそれやりたいのがいる訳ですよ。
同じ学校の中にもやっぱりそういうのがいたらいつの間にか「ベース俺は弾く」とか言って「じゃあ俺ドラムやりてえ」とか。
でバンドが出来たの。
カントリー・クロップスってね。
クロップスって収穫物。
俺たちは田舎で取れたから田舎者だみたいな感じで。
でそういう名前付けて。
で一応6人編成でちゃんとフィドルってこれが入ったのが出来たの。
いまだにつきあいありますけどもね。
それが僕らバンドでもってやる楽しみの原点なの。
高校1年の時。
すごい。
いまだに集まりゃ同じ曲歌ってますよみんな。
「Jambalaya」とか。
進化はしないの全然。
・「GoodーbyeJoe」ってやってたらね…。
・「マ〜ヒョ〜」ツーコードしかないんですよ。
・「ラララリ〜ンジャララ〜ラ〜ラリン」・「ララリ〜ンラララ〜」なんつってね。
どうしてそういうガシャガシャ音しか聞いた事がないのかしらないけどね歌おうと思うとそういうふうになるのね。
カントリーはそういう感じでいいんですよ。
・「ミャホ〜フフ〜」何言ってんだか分からない。
懐かしいわでもね。
誰でもできるような雰囲気と。
それで何かペッタンコに潰れたような声で歌うとかね。
「ウェ〜」とか。
・「フェフェフェ〜ンフェフェフェ〜ンミヒョマヒョ〜」そうそう。
すぐ乗るし。
これも時代背景だと思う。
懐かしい。
本当懐かしい。
ギター仲間そして音楽は生涯の親友となり後の加山さんを支える事になります。
徹子さんはその新しいテレビの世界に19歳で飛び込みます。
NHKの俳優養成所に入ったのです。
映画が主流の時代テレビ女優という全く新しい存在への挑戦。
しかしその道のりは平たんなものではありませんでした。
初めの1年の間は通行人のようなものやって下さいって言われて。
一番印象に残ってるのは笠置シヅ子さんの「買い物ブギー」で。
笠置さんこの時大全盛だったんですよね。
それで全部生放送だから。
パラシュートスカートっていうのはいてね歌ってらっしゃるの。
一番最初?一番最初はね。
でも歩いていったら踊ってる人がいるから見るじゃんこうやって。
見て。
「あ〜!」って上の方から副調室からディレクターがねあんまりキョロキョロ前を見ないでやってる人をね。
す〜っと行けとす〜っと。
用事ありげにすっと前の方に行ってでもなるべく画面の中には残っているようにゆっくり行けっていうふうに言われたの。
「そんなのって全然できない」なんて思って。
こうゆっくり歩いてったらさもう忍者みたいになっちゃって。
「後ろの人はい今のお嬢さん帰っていいよ」って言われて。
そのころ本当に私降ろされてましたからね。
それで私「申し訳ありません」って言ったらね今でも忘れない。
大スターでしたねあのころ笠置シヅ子さん。
それがね「大変でんな」って私におっしゃったんですよ。
その時生まれて初めて聞いた関西弁だったと思うんですけど「大変でんな」っておっしゃったんで「申し訳ございません」って。
当時テレビは生まれたばかり。
タレントに求められる能力は今とは異なるものでした。
徹子さんの独特の存在感や話し方はテレビ向きではないと思われたのです。
もうねテレビも「あっ君来ちゃったの」って。
「何となく後ろに君が来てると何か目立つからちょっとどいて」って1年は本当に。
でもね全然めげないの私そういう時。
報われない毎日。
しかし徹子さんは前を向き努力を続けました。
そして徹子さんの才能に気付く人物が現れます。
売れっ子作家飯沢匡にこう声をかけられます。
その言葉に救われた徹子さんは飯沢が書いたラジオ番組「ヤン坊ニン坊トン坊」に出演。
自分らしさを存分に発揮します。
「お前は何だ。
化け物か!?こら返事をしろ!」。
番組は大ヒットしました。
これをきっかけに上品でかつ親しみやすい徹子さんの魅力が認められテレビの仕事も増えていきます。
「では女性軍の最後を飾って歌って頂きます美空ひばりさん」。
徹子さんは週に何本ものレギュラー番組を抱える人気タレントとなったのです。
そして昭和36年後にテレビ界の伝説となる番組が誕生します。
音楽バラエティー番組「夢であいましょう」。
坂本九渥美清など当時ほとんど無名だった若いキャストによる歌とコメディーが視聴者を魅了。
多くのスターを輩出しました。
また名物コーナー「今月の歌」で永六輔中村八大の2人が生み出した曲が次々とヒットしました。
「夢であいましょうは」末盛憲彦さんっていうNHKきってのディレクターがですね生放送でショーやるからちっちゃいスタジオでやるからどんどんどんどん彼は変えたい訳よセットを。
だけどそんな場所はないから。
しまっとくとこもないから。
全部上から出したり横から出したり何日間も彼は寝ないで考えてる訳。
ず〜っと考えてる訳。
うわ〜かわいそう。
大変でしたよスタジオの中がね。
「どいてどいて」とかさ。
生放送でドッタンバッタンって物が倒れたりなんかして。
私なんかしまいに…そう言うぐらい物音してたっていうね。
あのねすごいおかしかったんだけど北島三郎さんがゲストでいらしてね。
「帰ろかな」って何かお歌いになって。
「今月の歌」を北島さんお歌いになってね。
「夢であいましょう」って…「北島さんすごい」と思ったのはね・「夢で〜あいましょう〜」ってね「函館」みたいにお歌いになった時すごいなって思いましたよ。
ああいうものでも個性というのは出るんだなと思ってね。
でも生放送だからあそこまでたどりつくまでが大変だから。
終わりのとこまで行くと「あ〜よかった」っていう感じがありましたよ毎週毎週。
まあ生放送の頃はね本当にひどい事いっぱいありましたしね。
当時ね「終わり」って書いたフリップこういうのに「終わり」って書いたのその辺どこにも落っこってたんですよ。
それはねいよいよこれ以上放送やってらんないってなった時に出すのこうやってカメラの前に。
私もNHKでしたから割とね「出します」って。
「しょうがない出しましょう。
じゃあ出しますよいいですね」。
でねプロデューサーとかまだいなかったから。
ディレクターが上にいるだけで。
ディレクターに相談もしないで。
もうできないんだから下でみんなが。
カメラの前にバッて「終わり」って出すと「終わり」って出ちゃって「しばらくお待ち下さい」ってなってNHKの放送それで終わりってしょっちゅうでしたよ。
今思うとあの「終わり」のフリップを知ってる人はごく少ないと思いますよ。
アハハハハ…。
敗戦から立ち上がり高度経済成長を迎えた時代。
日本には若さと夢がありました。
テレビの黎明期。
関わった人々は手探りしながらその若い力によって新しい文化の礎を作りました。
全て当たり前だと思ってやってましたよね。
後で考えたらとんでもない事やってるなって…。
でも私今に比べると活気はあったと思いますよね。
全体に?そうね集中力と活気…。
情熱持って何かいいもの作ろうっていうさ感じはありましたよね。
視聴率とかって事を当時言わないからね誰もね。
だって自分信じてこれはいいと思ってやるんでしょ。
全てのアイデアとそこに出てくる人たちというものの何かこう連係プレーみたいなものでそれで見てる人の心を捉えてもう一回また次もどんなんなるんだろうって見たいなと思う事をずっと維持する。
でやっぱり「継続こそ力なり」になってくると思うんですよね。
そうだと思いますねええ。
・「夢であいましょう」「夢であいましょう」が始まる1年前の昭和35年。
加山さんは大学を卒業し役者の道へ進みます。
東宝から大型新人として鳴り物入りでデビュー。
映画初出演も果たします。
翌年には「若大将シリーズ」がスタート。
・「……かっぱの子」歌も歌いエンターテイナーとしての才能を発揮します。
そして…。
この曲でシンガーソングライター加山雄三が誕生しました。
大学の3年生ぐらいの時に作った作詞作曲の…。
あっ自分の曲なの?そう自分の曲です。
これは自分でね多重録音って事をねまあ一番最初に日本でやったのは僕だと思うんですよ。
うちのおやじがねワイヤーレコーダーってテープレコーダーのもう一つ前にね録音装置で髪の毛みたいな針金に録音するっていう機械だったのね。
それを高校時代におやじがどっかで手に入れてきた。
で初めて「あ〜あ〜」とか言って録音して「何だよ自分の声ってこんな声なんだ。
面白え」とか言ってその翌年に今度はテープレコーダーが出来た。
2つ録音する機械があると片っぽに録音しといてそれを流して一緒にもう一回やると2つ入る訳ですよ。
すごいうん。
コーラス自分でデュエットできちゃって。
「あっ面白え」。
で今度はピアノも入れてギターも入れてって一人でやると多重録音ってなる。
それをとにかくねものすごいエンジョイしてた訳。
それで出来上がった曲これ詞つけちゃおうかなとか言って自分で詞をつけて歌ったのが残っててそれを映画の中で「歌う曲ないか」って言われてそのままウクレレで弾いたんですよ。
そうやって生まれた曲なんです。
だから自分の作った歌初めて多分その映画の中で使ってもらえたんじゃないかなと思います。
テープレコーダーというものが出来てから世の中変わりましたよね。
なかったですからね。
だから自分の声を初めてNHKで「あなたの声はこういう声です」って聞かされた時にワーワー泣いて。
めったに泣かないんですけどワーワー泣いてね「これ私の声じゃないです。
こんな声じゃないです。
NHKの機械は壊れてます」って。
調整のおじさんの所へ行って「NHKの機械は壊れてます」って言ったら「壊れてない」って言うのよ。
みんなそう思いますよ。
自分の声聞いた時「こんな声かよ俺は」ってショックを受けますからね。
みんな私のものまねする人がね「私黒柳徹子ですけど」って。
「そんな鼻声か?」って私は思うんですけどみんなものまねする人がそうやるところを見ると「黒柳徹子です」って言うとそうかなって思うんですけど。
やっぱり自分で聞いてる声とは違うのね。
分かんないもんですよね。
この曲は後に日本語の歌詞をつけて発売されヒットします。
加山さんは当時日本にはほとんどいなかったシンガーソングライターとして活躍を始めたのです。
そしてデビューから5年後あの大ヒット曲を生み出します。
(拍手と歓声)「幸せだなあ」「僕は君といる時が一番幸せなんだ」「僕は死ぬまで君をはなさないぞいいだろう」
(拍手と歓声)「恋は紅いバラ」になったじゃないですか「DEDICATED」が。
25万枚かな売れたんですよね。
そしたらば亡くなられましたけどワタナベプロの創始者の渡辺晋さんが僕の所へ来て「加山君あの曲はものすごくいい。
あれと同じコード進行でいいからもっといい曲書いてよ」って。
そんな事言われたって俺注文されて作るっていうのはやった事ないし全然分かんないなと頭の中で思って「ああそうですか」って言ったきりまるっきりやる気なくて「明日までに作ってきてくれ」ってその前日。
しょうがねえなってピアノに向かって同じコードタンタンタララン…「タ〜ララ」を「タラララ」にすればいいなと。
で同じようなコード進行でちょっと変えなきゃなとかそれで生まれたのが今の曲で1時間半ぐらいでまとめちゃったんですよ。
その曲が?はい。
「君といつまでも」が。
そうなのへえ〜。
アレンジがやっぱりうまいんだな。
曲っていうのはアレンジ次第ですから本当に。
レコーディングが関西だったんですよ。
毎日放送のスタジオか何かで。
出来てきたやつ聴いたらびっくり仰天するぐらいサ〜なんて。
編曲がいいんだ。
俺の曲こんななっちゃってんだって。
すげえ〜と思ってね。
それで歌って間奏になったら「タラララ」ってものすごいいいメロディーだからそこで「いや〜幸せだなあ」って言ったら「それいきましょう!」って。
偶然おっしゃったの?「幸せだなあ」は。
そう。
「幸せだなあ」って言ったら「それいいですからそのままいきましょう」って。
当時そういう間奏でセリフを言うっていうのはエルビス・プレスリーが得意だったの。
そうなのへえ〜。
いろんなのに入ってるんですよ。
それをちょっと心得てたもんでそこでチョコチョコチョコっと言ったらそれが大ブームになっちゃってね。
これは大変でしたよね。
「君といつまでも」の売り上げは300万枚を超えます。
日本中を若大将加山雄三ブームが席けんしました。
何か信じられないなと思う事の方が多かったね。
電車で通ってたの最初はね。
撮影所に。
ホームに止まってると何だ僕の歌を歌いながら通り過ぎるやつがいるんですよ。
「何で俺の歌知ってるんだ?」とかね。
そういうショックってすごいですよね。
「何でこんなに知ってんだ?みんな聴いてんのかな」とかね。
そんなもんだったんですよ最初はね。
このあともヒット曲を次々と発表。
加山さんは国民的スターに駆け上がり役者としても引っ張りだこになりました。
しかし加山さんの心の中にはずっと拭えないある危機感がありました。
いつやめようかなとそればっかり考えてましたよ。
「若大将」の時でも?「若大将」やっても駄目でしたね。
何か要するに…スター俳優の息子として鳴り物入りでデビュー。
俳優として下積みもなく実力に自信の持てない中で人気だけはどんどん膨らんでいきます。
父を見てきた加山さんは人気商売の怖さを知っていました。
心の中に不安が常に住み着くようになります。
一方トップスターとして活躍していた徹子さん。
その心にも徐々に迷いが生まれます。
売れっ子タレント黒柳徹子として毎日が目まぐるしく過ぎ去っていく。
これは本当に私のやりたい事なのか…。
スターとして華々しく活躍していた2人の人生に荒波が押し寄せます。
その時2人が見つけた自分の生きる道とは…。
次週レジェンド2人の旅路を見つめます。
2014/05/15(木) 23:00〜23:45
NHKEテレ1大阪
ミュージック・ポートレイト「加山雄三×黒柳徹子 第1夜」[字]
加山雄三&黒柳徹子、人生の10曲▽キャリア50年以上、芸能界のレジェンドが音楽のポートレイトを語る▽若大将「幸せだなぁ」誕生秘話▽黒柳徹子、爆笑胸キュン初恋物語
詳細情報
番組内容
加山雄三と黒柳徹子「人生の10曲」を語る第1夜 ▽キャリアは50年以上、芸能界のレジェンド二人が音楽のポートレイトを語る ▽若大将「僕は〜、幸せだなぁ」誕生秘話 ▽黒柳徹子、爆笑&胸キュンの初恋物語、そのお相手とは? ▽NHK「夢であいましょう」 ▽テレビの青春時代、笑いと涙のエピソード ▽「かえり船」「東京ラプソディ」「買物ブギー」「君といつまでも」ほか。
出演者
【出演】加山雄三,黒柳徹子,【語り】ヒロ寺平
ジャンル :
音楽 – その他
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
バラエティ – トークバラエティ
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