ETV特集「発見!謎の金銅製馬具〜古代日本と朝鮮半島の交流史〜」 2014.05.17

今から千数百年前古代日本の姿を想像できるでしょうか。
色鮮やかな衣をまとった飛鳥美人。
きらめきがまばゆい金銅製の装飾馬具。
当時都があった奈良の地には先進的な文化が栄えていました。
その都から遠く離れた九州で去年古代史の常識を覆す大発見がありました。
一番の醍醐味ですか?キラキラと輝く金銅製の装飾馬具が大量に発掘されたのです。
おお!おお〜!え〜!?なるほどなるほど!考古学界を驚かせた国宝級とも言われる大発見。
調べてみると朝鮮半島の国新羅から贈られた可能性が浮かび上がってきました。
しかし謎があります。
新羅は当時倭国と呼ばれていた日本と敵対していました。
それなのになぜこんな宝物を九州に贈ったのでしょうか。
韓国の研究者たちもこの発見に目をみはりました。
海を隔てて向かい合う九州と朝鮮半島。
かつてそこには現代からは想像できないほど多様で豊かなつながりがありました。
今夜は謎の金銅製装飾馬具と共に知られざる古代の歴史を旅します。
東アジアの中で隣り合う日本と朝鮮半島。
今日取り上げるのは古代史です。
卑弥呼がいたとされる3世紀から聖徳太子が活躍した7世紀にかけての古墳時代には多様な交流がありました。
特に海峡を挟んで向かい合う九州から今日は見つめていきます。
こちらが去年豪華な金銅製馬具が出土した九州北部の古墳です。
発掘現場の様子を再現しました。
このL字形の遺構から飾り金具鈴日本でこれまで2例しかなかった馬の冑馬冑鞍や鐙など多数の豪華な馬具が見つかりました。
X線CTなどハイテク機器で分析した結果これらの馬具の中に敵対していた国新羅の技術で作られたものがある事が確実になってきたんです。
研究者の協力を得てこうした馬具をつけた様子を想像で復元してみました。
すると…このとおり。
実にきらびやかで威厳のある騎馬の姿が現れました。
今から見ても高い技術で作られた装飾馬具。
もし新羅から贈られたとするとそれは外交上最高の敬意を示すものでした。
でも古代史の常識では当時倭国と新羅は仲が悪いはずでした。
6世紀末から7世紀にかけて海峡を挟んだ倭国と新羅との関係は最悪でした。
玄界灘に突き出た糸島半島。
ここに当時のヤマト王権は数万の兵を送り込み新羅出兵の準備を進めます。
指揮官は聖徳太子の弟来目皇子。
ここ久米地区はその名前にちなんでいます。
8世紀に成立した「日本書紀」はこの新羅への派兵計画をこう記しています。
「来目皇子が筑紫の地に新羅を攻撃する軍の将軍として赴いた」。
「授けられた軍勢は二万五千人にも上った」。
それにしてもなぜ倭国は新羅を攻めようとしたのか。
それは倭国が鉄の供給を頼っていた朝鮮半島南部の伽耶を新羅が併合してしまったからです。
この時の出兵は来目皇子が病のため亡くなりその後中止になります。
しかし九州は海峡を挟んで対立する新羅への最前線であり続けたのです。
来目皇子の大軍が新羅をにらんだ久米地区から東へ30km。
福岡県古賀市にある…ここが今回の発見の舞台です。
直径20mほどの小さな古墳。
そのすぐそばからあの金銅製の装飾馬具が発掘されたのです。
逆L字形の長さ5.3m幅2.3mの穴。
なぜ古墳の中でなくここに貴重なものを埋めたのか。
古代史の常識では考えられない発見に研究者たちは興奮しました。
美しい鞍が出土しました。
表面に施された鮮やかな金メッキの一部が残っています。
こちらははるか南の島で取れる美しい貝をあしらった…更にこちらをご覧下さい。
人の鎧と馬の冑が見つかりました。
特に馬の頭につける鉄製冑馬冑は極めて珍しい出土品です。
いたいた。
ちょっと足伸ばしますよ。
一応板と物と手を当ててるけど。
当時はまだ金属を精密に加工する事は難しい時代でした。
それなのにここから見つかったのは手間暇をかけた極めて装飾的な品々でした。
てっきり胡か靱の箱だと思っとったら…杏葉とはどんなものなのか。
それはあとでじっくりお見せします。
これらは当時高い技術を誇った新羅系の品に間違いないと確信しました。
今回この現場からは布や漆など崩れやすいものも一緒に見つかりました。
発掘チームは慎重を期すために現場では周りの土をなるべく落とさず塊ごと掘り出す方針にしました。
それを最新鋭の機器が整った九州歴史資料館に運び込みます。
掘り出された品々は全部で200点近く。
土の塊を透視できるX線CTスキャナを駆使して元の姿を探ります。
我々にとってはもちろん現場もそうなんですけど…これはすごくきれいに撮れると思います。
装飾馬具の専門家桃さんはあの杏葉は一体どんな姿だったのか期待していました。
医療用にも使われるCTスキャナは土の塊の中から杏葉の姿を正確に捉える事ができます。
見えてきました。
きめ細かい透かし彫りが施されています。
おお〜。
(桃)ここの所…これが分かりやすいですね。
こっち側とさかの部分が欠損してますけど口ばしがある。
よみがえった見事な2体の鳳凰。
朝鮮半島新羅で見られる技術です。
更にデジタル顕微鏡で表面を数百倍に拡大します。
金メッキの輝きを増すために丁寧に磨きをかけた跡です。
次に分析にかけたのは正体不明の土の塊。
この中に驚くべき発見がありました。
だからもっとむしろですね…一体これは何なのか?九州国立博物館も分析に加わりました。
失礼します。
お邪魔します。
謎の物体を3Dプリンタでパーツごとに復元。
それを組み合わせて元の姿を解き明かします。
おお!おお〜!え〜!?
(桃)なるほどなるほど!そうか!そうだったのか。
なるほどね!グチャグチャになっていた金属片からよみがえったのはこちら。
「雲珠」と呼ばれる最高級の技術で作られた装飾馬具でした。
馬の飾りであるこの雲珠は馬が歩くたびキラキラ輝きを放った事でしょう。
今回の発見は韓国の考古学会にも驚きを持って迎えられました。
新羅の都慶州。
王族たちの古墳が並ぶ町全体が世界遺産に指定されています。
新羅は大陸から伝わった華麗な装飾騎馬文化を発展させていました。
繊細な彫刻が施された金銅製の鞍。
新羅の官営工房では独創的な馬具が次々に作られました。
船原古墳でも見つかった杏葉。
新羅では唐草や竜などさまざまな文様が見つかっています。
ガラスや貝をあしらった高い装飾技術も誇っていました。
新羅の馬具を研究してきたイ・サンイルさん。
新羅でも最高水準の品々が九州の船原で発掘された事に驚きました。
今日は日韓の考古学者お二人をお招きしました。
お二人どうぞよろしくお願いいたします。
まずパクさんこの発見なんですけれども最新の技術によってどんな装飾だったのかとか新羅産だったのではないかなどさまざまな事が分かりつつありますよね。
まずやはりびっくりしたのは非常に金銅製の馬具の比率が高いという事。
それが非常にびっくりで。
やはりもう一つはこれが…藤ノ木に次ぐ第2の発見でもいいと思います。
松木さんはいかがでしょう?やっぱりこれが九州から出たっていうのはほんとに重要な事だと思うんです。
朝鮮半島は朝鮮半島の中の勢力争いがあった。
日本列島も一枚岩じゃないんですこの時期は。
九州と近畿それから関東山陰それから吉備そういった有力な地域にはたくさんの有力者がいましてみんなそれぞれに生き残りと繁栄のためにいろんな政治努力軍事的な努力文化的な努力をしてるというそういうような状態なんですよね。
九州の有力者から見るとヤマトとそれから朝鮮半島の諸勢力というのはこれはもう対等。
だからヤマトの大王に親属するか百済王に服属するかそういうような選択すらありえたようなそんな時代だったんですよ。
今の国家のように領域とか国境とかで考えてはこの時期はいけない時代でネットワークでつながっている。
そしてそのネットワークもいろんなネットワークに属し多元的に勢力関係というものが併存しているというようなそういうような時代です。
九州の首長たちは5世紀前半代から日本列島全体に…例えば山陰北陸あるいは瀬戸内海両岸にネットワークを持ってたわけですね。
それで九州の首長との同盟関係を結んだらある意味では日本の地方の勢力とのネットワークが出来るという。
それが新羅の狙いだったんじゃないかと思います。
ヤマト王権と敵対していた新羅のねらいは九州の豪族を味方につける事だったのでしょうか?その豪族とは一体どんな人物だったのでしょうか?ここ北部九州の人々は弥生時代以来朝鮮半島と交流し稲作の技術などさまざまな文化を取り入れてきました。
玄界灘に古くから伝わる福岡・宗像大社の神事みあれ祭。
氏子たちは海上交通にたけた海の民の子孫です。
実は朝鮮半島との交流で栄えた北部九州の豪族にはヤマト王権からにらまれた過去がありました。
あの装飾馬具が九州にもたらされる半世紀あまり前この地を揺るがす大事件が起きていたのです。
九州の豪族・磐井とヤマト王権との間に勃発した磐井の乱。
(ときの声)当時磐井は北部九州一帯を支配下に置く有力な豪族でした。
その墓と考えられている福岡県八女市の岩戸山古墳。
広大な古墳には石の埴輪がいくつも配置され九州独特の文化をつくり上げていた事がうかがえます。
磐井の力の背景には朝鮮半島との交易で蓄えた富があったと見られます。
この磐井を討とうとしたのはヤマト王権のトップ継体天皇です。
大阪・高槻市にある今城塚古墳に眠ると見られる継体天皇。
今城塚古代歴史館館長の森田克行さんは継体天皇が九州の磐井をライバル視していたのではないかと見ています。
磐井の乱のきっかけは継体天皇が伽耶を救援するため新羅に出兵しようとした事でした。
この時磐井はそれを妨害。
出兵計画を潰してしまったのです。
なぜ磐井は妨害したのか。
「ヤマト王権に反逆を企てた磐井は新羅からの賄賂をもらっていた」。
「日本書紀」にはそう記されています。
ヤマト王権は九州に数万の兵を送り込みます。
2年がかりの長い戦いの末磐井は敗れて命を落とし九州は鎮圧されます。
磐井の息子葛子は父に連座して処刑されるのを恐れ玄界灘に面した糟屋地方をヤマト王権に差し出します。
そこには「屯倉」と呼ばれる中央の施設が設置されました。
15年前福岡県古賀市でまさにその糟屋屯倉と想定される遺跡が発掘されました。
規則正しく並ぶ柱の跡。
たくさんの倉庫を備えた港湾施設があったと見られます。
糟屋屯倉は朝鮮半島と交流してきた北部九州の要衝を押さえるヤマトの拠点でした。
その糟屋屯倉と想定される場所からあの装飾馬具が出土した船原古墳までは僅か4km。
さて改めて装飾馬具を新羅から贈られたと見られる豪族は一体誰だったのでしょうか?その豪族の動きは新羅と敵対していたヤマト王権そして糟屋屯倉の意向に逆らう事にならなかったのでしょうか?謎を解くカギは装飾馬具の不自然な埋められ方にある。
古代の葬送儀礼を研究してきた九州大学教授の田中良之さんはそこから推理を始めます。
田中さんの見立てでは馬具は無造作に置かれた箱の中に収められたままになっているといいます。
通常ありえない埋め方で相当慌てていたのではないかと考えました。
新羅との関係がヤマト王権に見つかるのを恐れて装飾馬具を一時的に隠したのではないか。
それが田中さんの推理です。
古代東アジアの外交を研究してきた…馬具を新羅から贈られたと見られる豪族はこんな人物だったと推理します。
ヤマト王権の拠点である糟屋屯倉に深い関係を持ち新羅から見るとヤマトとのパイプ役が期待できる有力な人物。
実は新羅は隣の百済とも敵対していました。
百済は倭国と結びついており新羅は間に挟まれる構図でした。
その新羅の窮地を救うためヤマト王権に働きかけた人物が北部九州にいたのではないかというのです。
松木さんは磐井の乱についてはどう思われますか?中央に対する地方の反乱というような教科書なんかではそういうような書き方がされてるんですけれどかなり前からそういうような呼び名じゃなくて「磐井の戦争」あるいは「磐井戦争」というように呼ぼうという声も考古学と文献史学の両方からあるんですよね。
「乱」ではなく「戦争」?戦争です。
乱というと反乱をイメージしますよね?そういう事ですか?まだ「反乱」っていう言葉が与えられるほど中央の大王この時代は継体大王ですけれどもそれが完全に全国を押さえきっていない。
磐井は北部九州をある時期はほとんど一手にまとめるぐらいの力を持ってたわけで言えば筑紫を中心とした九州の王とも言えるわけですよ。
だからそれらの勢力同士の争いですよね。
そしてその背後には朝鮮半島の勢力とのそれぞれのつながりがあるので「国際戦争」と言えば言い過ぎかもしれないんだけれども「国際的な背景を持った内戦」そんなふうに表現できるんじゃ…。
それで非常に興味深いのは九州の磐井が倭王権と戦うために新羅と手を結んだというのはこれはやっぱり今の国家とか民族では信じられない事ですね。
今だったらもう日本の政府に反して韓国と結んでるような感じなので今はとてもありえない事ですが古代は今のあれで投影して見るべきじゃないという事ですね。
(松木)あの…実は磐井の墓だと言われるのはこれが岩戸山古墳という福岡県の八女市にある古墳なんですけれどもこれ全長が100m以上もあって。
負けて亡くなったはずの磐井が100m以上の大前方後円墳に葬られてるんですよね。
これはまだですね磐井の戦いが磐井の敗北で終わった後もまだ100%完全に…「日本書紀」なんかにはですね屯倉をこう献上するとかいうような話も出てきますけれども考古学的に見ると磐井の乱の後も九州には各地で大きな古墳あるいは豊かな内容を持った古墳がまだ築かれてるまだ100年近く築かれるわけですよ。
ですから磐井の乱を制圧したからといってヤマトの勢力がここ九州を自分の支配下に治めたという事はこれは言えないわけです。
ただし長い目で見ると徐々にヤマトの力っていうのは浸透していってるんですね。
けれどもこれもいっぺんにザーッと浸透するわけじゃなくてモザイク的に入りこんでいくわけです。
非常に複雑な過程を経て律令成立までの間にですねヤマトの国家的な支配の中に九州も取り込まれていくと。
磐井の戦争あるいは磐井の乱っていうのはその結果じゃなくてその出発点だったというように捉えた方がいいと思います。
北部九州の豪族たちの大きな存在感。
そこに目を付けた新羅は玄界灘に浮かぶ島々にもパイプを持とうとしていた。
韓国のパク・チョンスさんはそう考えます。
壱岐の古墳からも新羅系とみられる精密な馬具が出土しています。
これらは船原古墳の出土品とよく似た高い技術で作られています。
更に中国北朝の高価な陶器も見つかっています。
中国北朝と友好関係にあった新羅を経由して入ってきたとパクさんは考えています。
一方海を隔てた韓国でもこれまでの古代史の常識を塗り替える研究が進んでいます。
日本独自のものと思われてきた前方後円墳。
それが韓国にもあった事が確認されたのです。
韓国南西部かつて倭国と友好関係にあった百済の地域で見つかりました。
中は北部九州の古墳とよく似ています。
積み上げて玄門を構成するんですけど…この石棺を使っているのももう一つの特徴です。
石室の壁にベンガラという鮮やかな赤い塗料が塗られている点も北部九州の古墳と共通しています。
しかも古墳の周りにはひときわ大きな木製の埴輪が並べられています。
こうした風習は当時朝鮮半島にはありません。
パクさんは海を渡ってきた倭人が作ったものと考えています。
これまで韓国で確認された前方後円墳は13基に上ります。
しかし前方後円墳を作ったのは倭人だとする説は当初韓国では受け入れられませんでした。
その理由は韓国における古代史の常識でした。
つまり朝鮮半島から日本へ文化が流れる事はあってもその逆は絶対にないというのです。
前方後円墳が最初に確認されたのは1980年代。
しかし形が日本のものと微妙に異なるためこちらの方が日本のルーツだと韓国の研究者は考えました。
その後調査技術が進むにつれ形がはっきり分からなかった遺跡の中に日本の前方後円墳と極めてよく似たものが次々確認されていきます。
ではなぜ朝鮮半島に前方後円墳が生まれたのか?大きく2つの説に分かれます。
地元の首長が倭国で盛んだった古墳の型式を取り入れたという説。
もう一つは百済に仕えた倭人の有力者の墓という説。
パクさんはこちらを採ります。
パクさんが注目するのは「日本書紀」の5世紀後半の記述。
「百済王が亡くなり当時倭国にいた息子後の東城王が帰国する際九州は筑紫国の兵隊五百人が随行した」。
こうして海を渡った倭人の中には現地に定着し百済に仕えた人もいたのではないか。
その中の有力者が前方後円墳を作らせたのではないかとパクさんは推理します。
日本から朝鮮半島への文化の流れは前方後円墳以外にも見つかっています。
韓国南西部にある島の古墳。
ここで3年前日本でよく見られる甲冑鎧や冑などの武具が出土したのです。
甲冑の持ち主はどんな人物だったのか?パクさんは発掘を担当した友人の考古学者を訪ねました。
鏃は日本の古墳で出土するものとよく似ていました。
更に三角形の鉄の板を組み合わせて作られた古代日本と同じ様式の鎧も見つかりました。
ここに埋葬された人物は倭国の様式の武具に誇りを持っていた事がうかがえます。
こんな特徴ある鉄製の冑も出土しました。
日本の古墳で出土するものと極めてよく似ています。
こうした鎧冑を墓に納めた人物について発掘の担当者はこう推理します。
百済の側がこうした人物を政権内に受け入れていた事をうかがわせる発見もありました。
こちらもやはり古代百済の地域だった韓国南西部の古墳から見つかった倭国の様式の冑。
珍しい事に冑から鎧までフルセットで出土しました。
注目すべきは一緒に見つかった装身具です。
百済王権の中での身分を示す冠や靴が出てきました。
ここからパクさんは倭国出身の軍人で百済王権で高い地位を得ていた人物を想定します。
百済にはかなりの数の倭国出身者がいて甲冑更には前方後円墳を持ち込みそれを百済の側も受け入れていた。
古代海を越えたそんな関係があったとパクさんは考えています。
あの…甲冑特に冑はですね戦場とかあるいは戦場の儀礼の場なんかで冑の形っていうのは非常に重要なんですよ。
これはもう戦国時代だって一緒なんだけれども冑の形によって自分が何者なのかっていう事を示す。
だから自分のアイデンティティを表出するための最たるものなんですよね。
それを倭の冑をかぶっているという事はこれは私は倭人であるっていう事を表明している事じゃないかと思うんです。
ですから倭人としてのアイデンティティを持ちながらアイデンティティを保ちながら朝鮮半島で政治的なあるいはその他の活動をしている人だろうというように思いますね。
「日本書紀」を見ると倭系百済官僚というものが出てくるんですよ。
名前は倭人なのに百済から官職をもらってるんですよ。
それもかなり高い位を。
ですからそのような恐らく倭人でありながら百済王権を支えた存在の一群があったわけですね。
百済だけに前方後円墳がある事とその倭系百済官僚が出現するその直前に現れるわけですね。
非常に私は整合性があると思うんですよ「日本書紀」との。
松木さんこうした韓国での発見について韓国の方たちの研究者の考え日本の研究者はどうご覧になってますか?韓国で前方後円墳が発見された時はですねこれは実は日本の研究者もショックだったんですよね。
「任那日本府」の問題というものがありましてこれは日韓で歴史の古代史の議論をする時にはほんとにこれはもう喉の奥に刺さった骨のようなものでですね…。
非常に問題の多いものなんです。
この問題が絡んでくるだろうなと思ったものですから日本の研究者はですね意外とこう…それを忖度してあまりものを言わなかったですね。
「任那日本府」は「日本書紀」に記されています。
戦前は大和朝廷がかつて朝鮮半島南部の任那の地に日本府という統治機関を設け支配していたというのが通説で学校教育でもそう教えられていました。
戦後の韓国の教科書では任那という言葉は出てきません。
韓国での研究に基づき「伽耶」という小王国の連合勢力があったとされました。
1990年代考古学的に重要な発見がありました。
任那があったと思われていた場所から金官伽耶の王墓が発見され日本にない独自の出土品から伽耶の実体が次第に明らかになったのです。
日本の教科書でも「伽耶」という表現が使われるようになりました。
「日本書紀」の資料批判も進み任那日本府は現地に一時的に滞在した倭人の集団にすぎないなどさまざまな説が主張されていますが今も論争は続いています。
実は私はそうではないと思うのは任那日本府というのは「日本書紀」に書かれてるそのとおり考えたら4世紀後半から成立するんです。
しかし前方後円墳は4世紀後半には出現してないわけです。
100年以上遅れてから出てくるわけですね。
一部の人は任那日本府の存在を反映するものでないかと言った人も今おっしゃったようにいるんだけれども特に考古学の研究者の中では意外と黙り込んじゃったんですよ。
これはやはりそういった近代の問題とかそこにおかれてる韓国の研究者の事を忖度するおもいはかるような気持ちも実はあったわけなんですよね。
やっぱり考古学歴史学が科学であるためには客観的事実が何なのかっていう事をここのところは譲れないわけですよね。
ですから今その客観的事実が何なのかという事で今は韓国の前方後円墳がですね年代がいつでどういうような由来があってというような議論がなされててそういう中からパクさんの説も有力な一つとして出てきたという事です。
去年11月日韓両国の研究者が集まりあの船原古墳の装飾馬具を一緒に検討しました。
日本の研究者は最新の発掘成果を持っています。
それに対し韓国の研究者には馬具についての長い蓄積があります。
両方を突き合わせ研究を深めていきます。
パク・チョンスさんもかつて大阪大学に留学し日本の研究者と机を並べた事が世界を広げるきっかけになったといいます。
松木武彦さんとはその時に出会い以来研究成果のやり取りを重ねてきました。
これは楽しそうですけど飲み会の時の写真ですか?阪大…そうですねいつだったかな…。
1990年代の前半ですね。
20年近く前ですね。
飲み過ぎてる感じですね。
顔がちょっと赤くなってますよね。
そうですね。
ちょっと飲み過ぎだわ。
日本に留学しての新たな視点というか気付きというのはどんな事がありましたか?それはやっぱり一国史ではない事。
自分の私の国の歴史というのは一国史で見てはいけない事。
それを分かったんです。
それから東アジアの世界で自分の国の歴史を見なければそれは分からないという事を認識したと思います。
パクさんは韓国で日本の留学生を受け入れたり日本の研究機関との共同研究も積極的にされてますよね。
韓国と日本というのは同じ資料に基づいてやってるからそれはやっぱり協力したら非常にこう1つの国でやるよりは何倍の効果があるわけですね。
それで共同研究というのは非常に大事な事をやっていけるわけですね。
(松木)やっぱり研究者としてはいい研究をしたいわけじゃないですか。
いい研究をするためにはやっぱり日本っていう中に閉じ籠もっててはこれはできないわけです。
韓国人の考古学者と日本人の考古学者とが共同で研究しなければならないものがいっぱいあって。
そこには国境がないんですよね。
まあその国境をまだ意識して韓国に行かない古墳時代の研究者とかもいる事はいるんですけれどもやはり私はそうであってはいけないと思いますね。
日本でも韓国でも考古学の研究は盛んです。
しかし国境の壁を越えて研究成果を持ち寄り歴史の事実を多元的に深めていく取り組みは始まったばかりです。
今年1月韓国南部の古墳でまた一つ発見がありました。
銀で作られた花形の冠飾り。
百済王権に仕えた身分の高い倭人に与えられたものとパクさんはみています。
韓国では新たに見つかった前方後円墳の調査も進んでいます。
日本と朝鮮半島の古代の深いつながりが今新しいつながりを生んでいます。

(フリーセル)ハァハァハァ…。
2014/05/17(土) 00:00〜01:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「発見!謎の金銅製馬具〜古代日本と朝鮮半島の交流史〜」[字][再]

古代日本と朝鮮半島の交流史に関する新発見が相次いでいる。九州では朝鮮半島由来と見られる金銅製馬具が、韓国では日本独自のものとされる前方後円墳が発見されている。

詳細情報
番組内容
昨年3月、福岡県古賀市で朝鮮半島の新羅からもたらされたと見られる金銅製装飾馬具が発見された。韓国では、これまで日本独自のものと見られていた前方後円墳や“倭系甲冑(かっちゅう)”と呼ばれる日本由来の武具が発見されるなど、古代の日本と朝鮮半島の交流の歴史に新たな見方を与える発見が相次いでいる。番組では最新の調査と日韓の考古学者の議論を通して、古代の日本と朝鮮半島の交流史を探っていく。
出演者
【出演】慶北大学校教授…朴天秀,国立歴史民俗博物館教授…松木武彦,【キャスター】礒野佑子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸

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