その思いは今も家族に引き継がれています。
パンプキンパイはターシャの人生を彩る掛けがえのないスイーツでした。
明治から昭和の初めにかけ生涯5,000もの仏の絵を模写した…一番の画業は法隆寺金堂壁画12面を実寸大で三たびも模写した事です。
「私事は三十余年来いのちを賭けて天命を果たすべく壁画模写によって仏が一尊でも殖えることを何よりの喜びと悪戦苦闘の決心」。
この原寸大の模写が存在する事の…それを1人で描いたというものが存在する事が驚き。
まあほんとによく写し取られたというかね何が空如さんのそれを駆り立てたのかですね。
今から100年も前昼なお暗き法隆寺金堂に籠もり1,300年余りの時を越えて伝わる壁画と向き合い続けた空如。
「描く事は祈り」。
知られざる祈りの仏画師に迫ります。
大きいですねまず。
いや〜…ここまで大きな模写だったんですね。
ほんっとに目の前に壁画があるかのような。
いやすごいですね。
いわばひび割れその年月の経過そのままが緻密に描かれてますよね。
見れば見るほどなんか吸い寄せられていくような感覚にさえ思えますよね。
「日曜美術館」です。
今回私たちは法隆寺にまつわる展覧会が開かれている東京藝術大学大学美術館に来ています。
その展示作品の一つがこの法隆寺金堂壁画の模写。
この模写を手がけたのが仏画師の鈴木空如という人物なんですね。
今回のゲストは!そうですね。
仏というと…。
あの方しかいないですよね。
ほんとにお会いするのを楽しみにしていました。
みうらじゅんさんです。
どうぞよろしくお願いします。
心待ちにしてました。
寂聴さんじゃございませんので。
みうらさんいかがですか?初見。
俺金堂の…法隆寺のとこの復元されたやつで見た事あるんですけどもすごいスケールですよねこれね。
大きさに圧倒される…。
これは相当ですよね。
だってその金堂で…。
今でもあんだけ暗いわけですからそこで模写するってどういう状態で模写されたのか。
時間もかかってるし細かいとこがすごいよく描けてるんですよね。
みうらさんは鈴木空如はご存じでした?ここまで言ってなんですけど全く知りませんでした。
あっみうらさんでさえも…。
鈴木空如。
こんな顔だちをされているんですけれども…そのためにまさに知られざる仏画師とも言われているんです。
顔だちが…。
男前ですよね。
すごくイケてる方ですよね。
ワイルドで凜として…たたずまいも。
まずはその法隆寺金堂の壁画との関わりから空如について見ていきたいと思います。
奈良・斑鳩の法隆寺。
本尊の釈三尊像を祭る金堂。
その壁には7世紀末から8世紀初めの仏教美術の至宝12面の壁画が描かれていました。
しかし…。
(アナウンサー)「1月27日午前7時ごろ世界で最も古い木造建築物奈良・法隆寺の金堂から出火。
8時ごろようやく鎮火しました。
既に世界的に貴重な国宝12面の壁画の大半が崩れ落ちていました」。
今やその姿を写真にとどめるだけになった金堂壁画。
空如が模写したのは燃える前のこの壁画です。
空如の壁画模写はいずれも実寸大。
大きいものはおよそ3m四方に及びます。
空如は生涯50回以上も法隆寺に通い暗い金堂に籠もり壁画の模写に取り組んだといいます。
そして明治30年代半ばから20年余りをかけて1度目の模写を手がけその後大正から昭和にかけての10年間で2度目3度目の模写を完成させました。
模写の方法は絵の具の剥落や亀裂などの損傷も写し取る「現状模写」と呼ばれるもの。
1,300年もの年月を描き込みます。
空如のふるさと…没後から60年余りがたった平成21年それまで顧みられてこなかった空如の調査に乗り出しました。
調査では3度にわたる模写の比較を試みています。
それぞれの特徴から度重なる模写のねらいを読み取ろうとしたのです。
調査に当たった有賀祥隆教授はその違いは壁画の剥落部分の表現に顕著に見られると言います。
これは2号壁の半跏菩薩像のお顔ですが例えばお顔の所に剥落…絵の具が落ちたというんですかそういう剥落の部分は例えばここを見るように黄色で埋めておられるんですね。
現状模写ではそういう事しないんだけどもこれは現状模写をするための一つの勉強をするというか資料を作るための手法としてこういう事をやられたんだろうと思いますね。
2作目になると剥落はしてるけどそれはあえてせずに白として抜かれるんですね。
この2度目の作品というのがいわゆる現状模写に近い。
じゃあ3作目はどうかというと今度は逆にこの剥落の所を埋められるんですね。
という事は目立たないようにして全体が一つの作品として見られるように仕上げるっていうか…。
こういう事を12面同じようにやられてるっていうんだから…考えられない。
その一方で空如はいずれの模写でも元の壁画では一見確認できない形や色も描き込んでいます。
例えば11号壁普賢菩薩像。
空如の模写には普賢菩薩を乗せた白い象がはっきりと描かれています。
しかし元の壁画では下半分は黒カビに覆われかすかに線が見てとれるものの何が描かれているのかはっきりしません。
空如は壁画にもともとないものを描き込むという事はなかったと思います。
当時壁画に残されていた痕跡などを基に仏教の世界が分かりやすい全体の美しさがよく分かるような形で模写していたのではないかと考えています。
火災によって損傷した金堂壁画は今も法隆寺の収蔵庫に保管されています。
熱によって表面が剥がれ色を失った仏たち。
昭和42年焼損前に撮影された写真を基に壁画を再現する事業では空如の模写も参考資料として使われました。
当時82歳になる前田青は10号壁の薬師浄土図を受け持ちました。
全体に黒カビで覆われた10号壁をいかに模写するか。
青は絵の命である色彩が薄らいでいる以上元に戻すのではなく壁画本来の美しさを再現する事に重点を置きました。
しかし右の脇侍菩薩の胸の大きな剥落をどうするか悩みます。
そこには描かれているはずの右手が欠けていました。
青は50年以上前の空如の模写に注目します。
脇侍菩薩の胸の剥落には数珠を持った右手の一部が描かれていました。
青は空如の模写を手がかりに壁画の剥落部分を補い再現壁画を完成させます。
現在法隆寺金堂を彩る再現壁画には空如の模写が生かされているのです。
鈴木空如が模写したものが再現壁画の際に前田青らに生かされてるっていうのはそのエピソードを聞いてとてもうれしくなりますね。
でもなぜ青に見えなかったものが空如に見えたかですよね。
そこが知りたいですよねすごく。
それをほんとに浮かび上がらせるかのようにしっかりと模写で描いている。
さっきの文殊だったら…でも象がどういう形をしてるかなんて事まではやっぱりあるとこの大体の跡をたどって想像していくしかないと思うんですけどね。
今日はその辺りも含めてお詳しい方にもう一方ゲストをお招きしております。
秋田・大仙市でずっと調査研究をされている有賀祥隆さんにお越し頂きました。
よろしくお願いいたします。
有名な6号壁。
阿弥陀説法図というふうに言われている…。
63歳の時に5年ぐらいかかって描いたという。
5年!へえ〜。
(有賀)それでね阿弥陀如来の下が多分蓮の池だと。
そこから往生した人たちが蕾の中から生まれ出るところを描いてるんですね。
真ん中にあるのが蓮の蕾から今まさに生まれてる…。
それから蕾の中に姿だけ見えてまだ生まれ出ないというのが…まあ3童子というふうに言ってるんですが。
ここはもう今ほとんど分かりません。
恐らく空如さんがこれを写された時にはおぼろげながらある程度捉えられたろうと思うんですね。
それで起こせる所は大体描かれているんですね。
これってそもそも中国とかに原本っていう絵はあるんですか?6号壁に限っては近いようなのはあります。
(有賀)化生菩薩ってのが50描いてあるっていうですねまあそんなような恐らく中国での説話からとったような事で近いのはあるんですけども。
ここら辺は想像は入っていないんですか?まあそれはですねこの辺は…服装の文様なんかはねう〜んどうでしょうかそのとおりに入ってるかどうか。
3回も挑戦していくというのは…。
(有賀)恐らく自分が気に入るまでというか未完っていうのが芸術家の最後のあれらしいんですが納得いくとこまでは描こうって気はあったろうと思いますけどね。
(みうら)基本的に…俺も一応美大出たんであれですけど模写なんですよねやっぱり。
(みうら)疑問は俺もすごくいっときあったんですけど。
2浪もしたんで。
何でそっくりに描く必要があんだろうと思ったんですけども…。
でもそれが絵の基本なんですよね。
そこから上には行けるんだけどそこからはやってないと行けないんですよね。
みうらさんにとって仏画の楽しみ方って…。
なんかねいっときちょっと何なんだろうと思って「仏像の絵を描く事」が仏画なのかそうじゃないのかっていうのはすごいやっぱり…あるんですよ。
自分は今の絵の具を使ったり今のインクを使ったりして描いてるわけだからそもそもの仏画とは違うんですよ。
仏像の絵を描くのが好きなだけでそれは仏画じゃないんじゃないかって数年前からずっとそう思ってたんですけども。
もともとあるものを模写して伝承していく事が仏画なんだなとはこういう真の仏画を見て思いますけどね。
仏像イラストとは違うんですよねちょっと。
当時はやはり模写するならば鈴木空如ここにありっていう感じだったんでしょうかね?
(みうら)…と思ってらっしゃったんですかね?どうなんでしょう?有賀さんその辺りは。
今残っている模写された仏画っていうかそれの名品なんか見るとじゃあそれをどうしようというあれはなかった…。
あっそうなんだ。
じゃあ何のためにっていうかね。
だから手段でもない目的でもない。
一緒っていうか。
「描く事すなわち悟り」みたいな描く事が自分の生活みたいなそのぐらいの方だったような気がするんですよね。
鈴木空如のふるさと秋田・大仙市。
米どころであるこの東北の町に明治6年農家の6人兄弟の末っ子として空如は生まれました。
絵が好きな子供でした。
空如が10歳の時に描いた絵。
子供の絵とは思えない緻密で繊細な描写です。
画家を志し上京したものの日清戦争が勃発。
空如は召集され中国台湾で戦い多くの死と遭遇します。
「道々死屍累々足のつき場もなし」。
2年後の冬秋田に戻った空如。
そして筆を執ったのが仏の絵仏画でした。
23歳の若者が描くにはあまりにも静かな絵です。
空如は25歳で念願の東京美術学校現在の東京藝術大学に入ります。
迷わず日本画を専攻し仏画を学ぶ空如は運命的な絵に出会います。
荒々しくも繊細な筆遣いの法隆寺金堂壁画の模写。
櫻井香雲という無名の画家が明治20年に完成させたものでした。
空如はこの香雲の模写に魅せられ自らも壁画の模写に挑む決意をします。
「香雲先生は昼なお暗き金堂内に立てこもり蝋燭を頼りに黙々と霊筆をふるわれた。
この未見の恩師を近代的大芸術家として常に感謝いたし候…」。
空如は香雲の模写の主要な線をやはり基にしてその上で自身が金堂に何度も通って損傷の様子や色調などを詳細に見比べてより忠実な模写を作って描いたものと考えています。
香雲の模写の線を手本にした空如は法隆寺に何度も通いより忠実な模写を目指します。
その特徴は極力汚れを取り除き衣の質感までも描き込む線によって仏そのものの美しさを浮かび上がらせる事でした。
空如の「線」へのこだわりは残された大量の下書きが物語っています。
墨の線のみで仏たちの手や顔を何度も何度も繰り返し描いています。
この「線」こそ空如が生涯をかけ模写に取り組んだ原動力だったのではないかと調査に当たった有賀教授は推測します。
(有賀)「鉄線描」というね…。
「鉄」という字に「線」ですね。
(取材者)…に「描く」?ええ。
「鉄線描」というふうに。
仏とか如来とか菩薩なんかは…それの一番よく表現されたのは法隆寺の金堂壁画。
ええ。
それは多分にあると思いますね。
空如は語っています。
この町の花見寺界わいで暮らしていた空如は大正7年45歳でナヲさんと結婚します。
新婚生活は畳屋の2階に間借りした8畳間。
2年後娘を授かり豊子と名付け大層かわいがりました。
そのかわいがりようは娘の成長を事細かに記した育児日誌からもうかがえます。
すくすく成長しやがて父が描く仏画をまねて絵を描き始めた豊子。
中には金堂壁画を彷彿とさせるものも…。
空如の暮らしの真ん中に仏画があった事が分かります。
貧しいながらも家庭を持つ事で落ち着いて仏画と向き合う日々。
このころ空如は壁画模写と並行して全国を巡り数千に上る古い仏画を精力的に模写しています。
その一つが密教の仏たちです。
「信仰以外の仏画は揮毫致し難く候。
然らば世間一般の俗絵師と変わりなくこれまでの苦心も無駄に相成り候」。
当時空如は秋田の実家への手紙にこのような覚悟を記しています。
仏画師として充実した日々に突然悲しみが襲います。
大正14年…ぜんそくの悪化でした。
空如は娘の死さえも「仏の教え」と感謝しました。
そして更に壁画の模写にのめり込んでいくのです。
金堂壁画12面には81もの仏が描かれています。
中でもこの阿弥陀浄土図に描かれた観音菩薩は空如が最も愛した仏でした。
空如はその魅力をふるさと秋田の友人への手紙にしたためています。
「救世的世界の大芸術法隆寺壁画に心血を注ぎ来たりし壁画十二面八十一尊のうち観音菩薩は現今の芸術家の夢想だに及ばざる名画に御座候」。
この仏こそ理想の仏の姿でした。
手紙の相手は空如の人柄に惹かれる17歳年下の佐藤維一郎という財産家の男でした。
空如を自宅に招いた維一郎は問いかけました。
空如は答えます。
時は日中戦争へとなだれ込んでいく昭和11年。
空如が3度目の模写を描き終えた時期でもありました。
(アナウンサー)「ただ1人で壁画12面全部の模写を完成した故鈴木画伯の遺作展示会が開かれその克明な筆致が人目を惹きました」。
空如はいっとき脚光を浴びます。
金堂壁画が火災で焼損した昭和24年の事。
失われた壁画への関心から空如の模写が注目されたのです。
大切に大切に思っていた壁画が火災によって焼損してしまった事がきっかけで空如の模写の価値が認められたというのは皮肉なようにも思いますけれども空如にとって金堂壁画の模写というのはできるだけたくさんの方々にこれはどれだけの美しい壁画であるかという事を伝える事が目的。
(アナウンサー)「故人をしのぶナヲコ未亡人」。
自らの自分の存在は忘れられてもいいんだというふうに言い切れるという事自体も自分の画業に対してものすごい満足がいっているからこそ言い切れるのかなとも感じたんですけど。
そもそも仏像に対しても作者というのはもともとはっきり表してなかったりしたけども…それで劇画時代に突入するけどもそもそも匿名ですよね。
仏像っていうものはね。
その本来の意味から決して最初から最後までぶれる事がなかったのが鈴木空如という事ですよね。
(有賀)…と言ってもいいのかなとは思いますね。
仏画には本人も言っているように落款…自分の名前とか印などは押さないっていうか。
だからいずれ忘れ去られていくっていうか仏画仏絵師の宿命みたいなところがあると思いますけどね。
仏画の本来の在り方というものに生きた方なんですね。
(有賀)…と思いますね。
実はですね鈴木空如生涯仏画を描き続けたんですが東京美術学校時代にこんな作品も残してるって…。
ちょっとこちら見て下さい。
(みうら)ちょっと恐る恐るですね。
うわ…。
ほお〜!すごいっすね…。
(有賀)仏を描くのとはまた全然違いますね。
(みうら)「美しいものがこうなる」という事ですよね。
みうらさんはどうして空如はこうしたモチーフでというか作品を描いたと想像しますか?極楽浄土があれば真逆の世界があるってそれが背合わせにあるという事だと思いますけどね。
片方だけでは決してないという。
この世は片方だけではないですもんね。
俗なものを嫌ってはいたとしてもやはりそういうある一つの事をそれこそ仏の…修行僧のように仏の道を突き詰めていくとやはり片方だけじゃなくて行き着くところというのは善も悪も陰も陽もというような対極のものに行き着いたりするんですかね。
やっぱ2つないとっていう…。
(みうら)そうですね。
対極ですよねほんとにね。
ひたすら全く…愚直に仏と向き合い壁画に3度トライし続けたその…「しんの強い」という表現ではとても到達できないような魂というのは改めて…。
3セット…3組です。
36枚。
12壁画ありますもんね。
それをまあ…どこをゴールにして描かれたのかちょっと分かりませんがご自身ではもう少し描ければ描かれたのかなという感じもしないではないっていうか。
それほど打ち込まれたというかそういう事を感じますね。
僕は「まだまだいたすごい日本人」という今日はとても大きな収穫でした。
ほんとにこのような先達がまだまだいるんだなという驚きでしたねほんとに。
僕空如さんって今日初めて知りましたけれどもここまで深く知るとは思いませんでしたのでちょっと仏画の見方が変わりましたね。
あれだけ仏と向き合っているみうらじゅんさんが…。
仏画っていうものに対して疑問がちょっとあったので。
「仏を描けば仏画なのか?」と思ってたのと「ルールがあった上で仏画を描いていく」という事の違いみたいな事がねすごくよく分かりましたわ。
今日最後はふるさと秋田に息づく空如の仏画とそして空如が残したメッセージです。
昭和21年7月。
73歳で亡くなった空如。
今ふるさとの秋田・大仙市に眠っています。
(読経)娘と夫人。
そして空如。
家族3人の戒名が寄り添うように並んだ位牌。
菩提寺には空如の描いた絵が残されています。
亡くなられた娘さんの豊子さんの菩提を弔うためにお寺に寄進したと聞いてます。
僅か5歳でこの世を去った娘豊子の面影を地蔵菩薩に託した絵です。
描く事そのものが空如にとって祈りでした。
アハハハそうですか?え〜?大仙市の調査が進む中で思いがけないものが見つかりました。
(高橋)こちらが絵の具箱になります。
岩絵の具があります。
面白いものがありまして…。
これ石器類が入ってるんですけれども。
(取材者)石器!?はい。
この包み紙ですね読んでみたところ終戦後間もなく空如がこの戦争についてどう思っているかという事を書いてある…。
絵の具箱の中にあったしわくちゃの紙。
そこには終戦に際しての空如の思いがしたためられていました。
(玉音放送)「爾臣民ニ告ク朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」。
「これで日本の偽り多き軍国主義は完全に滅びこんな愉快な事はなきに候」。
「これからが真の日本が生まれる事と希望つかまつりいざ候」。
空如が仏をひたすら描き続けた時代。
それは戦争の時代でもありました。
地位も名誉も求めず祈るが如く仏と向き合った空如。
その願いは平和の到来でした。
戦後体調を崩した空如は姪の営む温泉旅館で転地療養をします。
この部屋で最後の2か月間を過ごしました。
怖かったねそばへ行くのは。
(取材者)怖かった?病人という怖さもあるし年配だっていう怖さもあるでしょうけど。
でもそれよりも何ていうか凜とした感じがあってね。
ほんとの明治のひとだね。
この庭に空如はふるさと秋田の山河を重ねたのかもしれません。
およそ100年前生涯をかけ法隆寺金堂壁画の模写にたった1人で三たびも挑んだ男がいました。
鈴木空如。
生涯ひたすら仏を描き続けた希代の仏画師です。
2014/05/18(日) 09:00〜09:45
NHKEテレ1大阪
日曜美術館「祈りの仏画 鈴木空如と法隆寺金堂壁画」[字]
失われゆく古い仏画をありのままに模写し、後世に伝えようと格闘した仏画師・鈴木空如(くうにょ)。法隆寺金堂壁画が消失する前に3度も模写をしたという知られざる物語。
詳細情報
番組内容
昭和24年、火災によって焼損した「法隆寺金堂壁画」。日本の仏教美術を代表する、その貴重な壁画を3度も模写した仏画師がいた。鈴木空如(くうにょ)。明治から昭和のはじめにかけて、失われ行く仏画を後世に伝えようと、生涯に5千もの仏画を模写した。画壇とは一切かかわりを持たなかったため、ほとんど無名の存在だが、近年、ふるさと秋田で大規模な研究調査が実施され、評価が高まりつつある。空如の人生と画業に迫る。
出演者
【出演】漫画家…みうらじゅん,東北大学名誉教授…有賀祥隆,【司会】井浦新,伊東敏恵
ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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