アートなミナミを回遊する[前編]
心斎橋筋界隈いまむかし
書店のはしごからアート散策へ
――地下街から換気塔まで 心斎橋筋を北へ。「その昔は博労町あたりが本屋の中心地。心斎橋の北側には板元が多く、南側では、上方絵を売っていたんですね」。板元とはなにか。江戸から明治頃は、板木の製作から印刷・販売までが一貫して行われており、いわゆる、出版のプロデューサーでもあり、板木を所有していた書物問屋(一般書)や地本問屋(浮世絵)などの呼称である。また上方絵とは、役者の胸から上を本人に似せて描いたもので、今で言うところの、ブロマイド代わりであった。橋爪さんは「このへんに、大阪を代表する浮世絵師の長谷川貞信の作品の板元があった。綿屋喜兵衛と言うて、塩町の北西角でした」と、場所を確かめる。「本人の実家は、ここよりもうちょっと東の方の安堂寺町。こういうマニアックな、心斎橋に特化したことを調べて確かめるのがおもしろい」とにやにやしながらつぶやく橋爪さんの話を聞いて歩くうちに、三木楽器店の前に出た。

「ここも、最初は本屋さんやったんです」。1825年(文政8)創業。1888年(明治21)に楽器部を創設し、1892年(明治25)から楽譜や音楽書を出版した。バイオリン指南書、教育唱歌集、鉄道唱歌、コールユーブンゲン(合唱練習教本)、進行曲粋など音楽書の出版を続け、山田耕筰をはじめ、歴史的名高い音楽家による講習会を開催するなど、日本の音楽教育の牽引役を果たしてきた歴史がある。
本社屋の"開成館"は1925年(大正14)に竣工した近代建築で、登録有形文化財に指定されている。建物正面上には、「書籍・楽器」「開成館」という文字と創立者の4代目「三木佐助」の名前が大きく掲げられている。


「この4代目と山田耕筰は、作品出版を通じて親しかったんやね、昔は3階にホールがあって、山田耕筰が、作曲講座をしてた。日本人ではじめてベルリンフィルハーモニー交響楽団の指揮をしたという貴志康一もここでデビューしてるんですね。今はホールは残念ながら事務所になってるようですが」。山田耕筰といえば、赤とんぼや待ちぼうけ、この道 などの童謡であまりにも有名な作曲家だ。「みなぞこの月」「待宵草」(山田耕筰作曲、三木露風作詞)の楽譜のひとつは、三木楽器が出した。店内には、昭和初期の「三木オルガン」も置いてあり、空間の意匠とともに、時の流れを感じさせる。
「本屋つながりで、面白い店があるので、ちょっと歩きましょう」と、橋爪さんの後をついて長堀の地下街へ戻り四ツ橋のほうへ。「地下からガラス越しに心斎橋が見えるんですが、ちょっと曇っててわかりづらいですね。この地下街は、もともと堀ですから、波のマークがモチーフになってるんですね」。なるほど。
クリスタ長堀は、1997年に開業。四つ橋筋から堺筋まで全長730メートル、当時、地下街としては延床面積が日本一とされている。地下街にしてはゆったりと歩くことができ、あちこちに壁画をはじめとするアートが置かれている。その一番西側の階段、吹き抜け空間を利用して、大きな作品があった。「デヴィッド・サーレ(David Salle)が大阪をイメージした大作です。階段を上がって見た方が全体が見えるから」と橋爪さん。反対側には、何点か版画もある。本物だ。こんな人通りが少ないところに、なんともったいない。デヴィッド・サーレはアメリカ生まれのニューペインティングのアーティスト。欧米の各国で個展を行ったり、ベネチアやパリのビエンナーレにも出展し、世界を舞台に活躍しているという。

「この階段を上がるとね、地上にもうひとつ......」と、どんどん先に行く橋爪さんを追いかけて、指し示すほうを見ると、ビルの壁に、巨大な女の顔が。「ロイ・リキテンシュタイン(Roy Lichtenstein)の作品です。クリスタ長堀の排気塔にこんな壁画、面白いねえ」と、ふふふっと笑う橋爪さん。ビルのそばまで行くと、壁に解説版があった。「OSAKA VICKY!」というタイトルで、「この作品は、ロイ・リキテンシュタイン画伯が1964年に制作した"ヴィッキー"シリーズをもとに特に大阪のために新たな要素を描き加え制作された作品である ロイ・リキテンスタイン財団」とある。画伯がどれだけ有名で素晴らしいのか、恥ずかしながら知らなかったが、タイトルに大阪の文字が入ったオリジナル作品の意外な設置場所と迫力に圧倒され、ちょっと感動した。

橋爪さんの秘密のアート散策ルートは、まだ続く。少し南へ下ったところで「ヴィレッジヴァンガード、こんなところにあるの、知ってた?」。入り口には、「EXCITING BOOK STORE」とキャッチコピーの方が大きく、何やらわけのわからない雑貨が溢れている。"ヴィレッジヴァンガード"というのは、名古屋発の複合型書店で、自称「遊べる本屋」。狭い入り口を入ると、ありとあらゆる雑貨が置いてある棚が迷路のように入り組んでいて、そこに本が埋もれているという印象。「けっこう、マニアックな本も多くてね、アート系も豊富にあるし」と、カメラマンに向かって「ここに写真関係の本もいろいろ揃っているから」と促す橋爪さんは、『20世紀少年』で有名な浦沢直樹の新作を購入。「古本屋もあり、こんなごちゃごちゃの本屋もあり、この界隈の本屋めぐりも楽しいでしょ。まあ、よく私がうろうろしているコースを歩いているだけですけど」