指揮者だって人間だ

晴れた日には洗濯を。

リスクを覆い隠す「達成感」

【緊急提言】組体操は,やめたほうがよい。子どものためにも,そして先生のためにも。<組体操事故の実態>(内田良) - 個人 - Yahoo!ニュース

確かに危ない、組み体操。
120人のピラミッドも危ないですが、二人組で肩車で手を離すトーテムポールとかも地味に危ないですよね。
事故を起こして障害を負ったからといって先生が責任を取れるわけでもなし。

組み体操に限らず、こういう学校行事とかは終わった瞬間にやりとげたぞ!という達成感があり、それがあるからこそ最終的にいい思い出になってまた来年もやろうとなるのですが、私はこの「達成感」って結構危険なんじゃないかなと思うのです。

生活用品の危険度調べました (三才ムックvol.697)

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学校行事の組み体操は体の発育のためだけにやっているのではなく、みなで一つのものに取り組んで成功させる集団行動ですとか、少し困難なことをやり遂げる満足感、自己肯定感を得るためのものでしょう。
実際にスポーツや山登りなんかで小さい成功を積み重ねることで自己肯定感を高めて、情操的な教育効果を得られることはあると思います。

私が言いたいのは、このような満足感を得るための「困難」のリスクが、行事が終わってしまった後の達成感で忘れ去られるのではないかという懸念です。
コンパクトにまとめて言うと、「結果オーライ」になっていないかということ。

確かに達成感は大事です。
日々の仕事や営みでもハードルや困難が何もないと張り合いの無い味気ない生活になってしまいますし、ちょっとしたことでも満足感を得られる人の方が毎日は楽しいと思います。
ただ、達成感というものは非常に甘く脳をとろけさせ、それまでの苦労や危険を忘れてしまう。
「あーやってよかった!」は辛かったことを無かったことにするモルヒネでありエンドルフィンでもあると思うのです。
組み体操を120人で成功させたことで達成感を得てしまい、120人の山が崩れるリスクを忘れさって「やってよかったね」と言ってしまうのは非常によくない。

なにか困難なことを乗り越えて達成感を得たことがある人は同じことをまたやりたがると思うのですが、その時に最初に感じた恐怖や苦労、リスクが達成感でマスキングされているのではともよく思います。
成功のイメージが強すぎて、そこに至るまでの大変なことが想像できない。
そういう人たちが無責任なアドバイスをしている姿を見るとなんだかなあと思います。
組み体操の危険性の話をしている時に「でも組み体操ってみんなが一丸となる楽しさがあるよね」とか言ってくる人とはそもそも議論をできていないと思うのですが、そういう意見を出す人が「危険性」と「情操教育」を一緒に語っちゃうのも達成感のせいなのかなと。

出身校が違う人に「うちの高校はマラソンで30キロ走らされるよ!」とか「応援合戦は3ヶ月かけて練習するんだぜ!」とか言う人もいますが、他校出身者からするとその行事必要?と思ってしまう。
そのイベントで達成感を得たことの無い人たちからするとそもそもなんでやってるのかわからないように見えるのも面白いです。

繰り返しますが、困難を乗り越えて達成感を得ることが悪いと言っているのではありません。
達成感のせいで盲目的になってしまい、本当に大事なリスクやコストを見逃してしまうのが怖いという話です。
喉元過ぎれば熱さ忘れる。
「終わり良ければすべて良し」ではなく、ハードルを超える必要はあったのか、本当にそれをする意味があったのかどうか考えることは大事だと思います。

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