北の湖理事長「努力の人でした」平幕から大関復帰の偉業など振り返る…放駒前理事長死去
2014年5月19日6時0分 スポーツ報知
大相撲の元大関・魁傑で、放駒親方として日本相撲協会の第11代理事長を務めた西森輝門(にしもり・てるゆき)さんが18日、死去した。関係者によると、東京都内のゴルフ練習場で体調が急変し、午後3時21分、搬送先の都内病院で死亡が確認された。66歳だった。
前理事長の突然の悲報に北の湖理事長は「協会を退職されてから、ゆっくりされていたことと思いますから、誠に残念です。謹んでお悔やみ申し上げます」と沈痛な表情を浮かべた。
不屈の精神で2度も大関に昇進した現役時代。横綱・北の湖として対戦した理事長は「懐に入って二本差しがうまい相撲を取っていました。しぶとい相手でした」と振り返った。魁傑の初優勝は1974年九州。12勝3敗同士の優勝決定戦で、北の湖を倒して手にした賜杯だった。それだけに「思い出はたくさんあります」と理事長。平幕から大関に復帰した偉業を「なかなかできないことをやってのけました。努力の人でした」としのんだ。
2度の大関昇進は、猛稽古のたまものという。柔道部だった日大を中退し、花籠部屋へ入門した。弟弟子だった峰崎親方(元幕内・三杉磯)は「すさまじい稽古量だった。一日100番ぐらいは当たり前。今、あんな稽古している力士はいない」と明かす。当時の花籠部屋は横綱・輪島らそうそうたる力士がそろっていた。その中で磨かれた心技体が大関・魁傑を支えていた。
放駒部屋の師匠になってからは、横綱・大乃国を育てた。88年九州場所千秋楽。千代の富士の53連勝を止めたのが大乃国だった。前夜に「どうせ勝てないんだから、少しぐらいヒヤっとさせてみろ!」と背中を押したのは有名なエピソードだ。力士として師匠としても厳しさを貫いた。