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“不屈の大関・魁傑”放駒前理事長、急死 唯一の平幕落ちから大関復帰、八百長問題解決に奔走

2014年5月19日6時0分  スポーツ報知
  • 10年9月、秋場所初日に理事長就任後に初めて協会あいさつを行う放駒理事長

 大相撲の元大関・魁傑で、放駒親方として日本相撲協会の第11代理事長を務めた西森輝門(にしもり・てるゆき)さんが18日、死去した。関係者によると、東京都内のゴルフ練習場で体調が急変し、午後3時21分、搬送先の都内病院で死亡が確認された。66歳だった。「休場は試合放棄」などの名言を残し、幕内優勝は2回。平幕に落ちながら大関復帰を果たし「クリーン魁傑」と呼ばれた不屈の大関が逝った。

 急な悲報だった。関係者によると、西森さんは長男・大祐さん(39)と孫の3人で一緒に東京・西東京市内のゴルフ練習場に車で向かったという。午後2時頃に体調不良を訴え、救急隊員の到着時には心肺停止状態だった。都内の病院に搬送されたが、午後3時21分に死亡が確認された。遺体はその後、検視のために警視庁田無署に運ばれ、死因を調べている。

 一番弟子だった芝田山親方(元横綱・大乃国)はこの日の夜、杉並区の自宅を訪問。「言葉がない。気持ち的にも整理がつかない」と、やりきれない様子だった。正月に会った際は元気で、今月初め頃にも電話での会話は変わらない様子だったという。持病の糖尿病があったが同親方は「体調管理は、きちんとされていたと思う」と話した。

 69年7月に「大関は2場所連続負け越しで関脇に降下、翌場所10勝で大関に復帰できる」という現行規定になって以降、平幕まで落ちながら大関復帰を果たした唯一の力士だ。75年初場所後に大関に昇進したが、5場所で陥落。西前頭6枚目まで番付を下げたが、77年初場所後には2度目の大関昇進。「休場は試合放棄」の名言を残し、937回連続出場で休場はなし。幕内優勝は2回。清潔な土俵態度は「クリーン魁傑」と呼ばれ、女性からも人気があった。

 引退後は81年に独立して放駒部屋を興し、横綱・大乃国らを育てた。協会でも理事として審判部長、巡業部長を歴任。2010年8月には野球賭博問題で辞任した武蔵川理事長(元横綱・三重ノ海)の後を受け、第11代理事長に就任した。

 在任期間は約1年半と歴代理事長で最短。だが現役時代と同様に苦労が多かった。11年2月の八百長問題では協会内部から批判の声も出たが親方、力士25人の大量追放処分を断行。春場所開催を中止するなど解決に奔走した。公益財団法人認定に向けた組織改革にも着手。高額のやりとりが問題視された年寄名跡の扱いでは、親方衆の猛反発もありながら、協会が一括管理する案を固めた。

 12年初場所後に理事長を退任し、13年2月には弟子を芝田山部屋に転籍させ部屋を閉鎖し定年退職した。未曽有の危機に奮闘した西森さんを、北の湖理事長は「心労もあったと思う」とおもんばかった。定年退職からわずか1年余り。別れは、あまりにも突然だった。(三須 慶太)

 ◆西森 輝門(にしもり・てるゆき)元大関・魁傑。1948年2月16日、山口・岩国市生まれ。日大1年時に花籠親方(元幕内・大ノ海)のスカウトを受けて中退し、66年秋に初土俵。70年初で新十両。71年秋が新入幕。75年春に新大関。在位5場所で陥落も77年春に再昇進し、同年九州で再び陥落。79年初で引退。幕内優勝2回。殊勲賞2回、敢闘賞7回、技能賞1回。通算成績は528勝410敗(幕内367勝304敗)。81年に放駒部屋を創設。横綱・大乃国らを育てた。2010年8月に理事長就任。歴代最短の約1年半で退任。188センチ、128キロ(現役時)。

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