講義8: グラフの結び目理論
理学部:河内明夫教授
空間R^3内に有限個の点をとり,それらを端点とするような互いに交わらな いいくつかの曲線弧の和を空間グラフという(図8−1参 照). このとき, 予め与えた点を頂点,頂点をつなぐ曲線弧 を辺 という.われわれの位相的観点からは, 各頂点からは必ず3本以上の辺が 出ているような場合を考えれば十分なので,そのように仮定 することにする. そのとき, そのような頂点がないような空間グラフは絡み目となるので,空間 グラフの位相的な研究は結び目理論の自然な拡張の一つと考えられる.今回は これについて考える.
図8−1
まず,2つの空間グラフがいつ同じ(同型)とみなすかをはっきりさせなけれ ばならない. つぎの定義はライデマイスター移動による絡み目の同型の定義を 自然に一般化したものである:
定義: 空間グラフ K_1 と K_2 が同型であるとは,図8−2に 示されたような局所変形の有限回の列で, 一方から他方へ変形できることであ る.
図8−2
これは糸でつくられたグラフ K を考えるとき,あやとりの要領で K に変形 されるようなグラフ K' は K と同じとみなすということである.空間 R^3 内のある平面上にのっている空間グラフ(平面的グラフという)と同型な空間 グラフを自明な空間グラフという.図8−1の左上の空間グラフがそのような ものである.
空間グラフの結び目理論的な基本問題とは,次の同型問題である :
同型問題:空間グラフ K_1 と K_2 が与えられている時, それらが同型であるかどうかを判定せよ.
もちろん, K_1 と K_2 の頂点や辺の個数および辺のつながり方の関係が 異なっている場合には,それらは定義により同型にはなれない. 従って, K_1 と K_2 が同型であるためには, それらの頂点および辺が正確に1対 1に対応していなければならないことになる. そのような K_1 と K_2 の間の1対1対応を単に K_1 と K_2 の間の対応と呼 ぶことにする.結び目理論としては対応がつくような空間グラフの間の同型問 題にのみ関心がある.2つの 平面的グラフの間にある対応があれば,それらは 空間グラフとして同型になるという事実が知られている(Masonの定理). 一般には, K_1 と K_2 の間の対応はひとつとは限らず,すべての対応につい て同型かどうかチェックする必要がでてくる. 同型問題は未解決 であるが,いつ自明な空間グラフになるかということについ てはある解答が次の論文で知られている:
M. Scharlemann-A. Thompson: Detecting unknotted graphs in 3- space, Journal of Differential Geometry, 34(1991),539-560.
基本群についての知識がある方のためにその内容を述べておく(基本群につい ては講義11で説明する):
定理:ある空間グラフ K が自明である必要十分条件は, K のす べての部分空間グラフ K’に対し,補空間 R^3−K’の基本群π_1 (R^3−K’)がつねに自由群になることである.
定義:空間グラフKに対し,Kの結び目成分(constituent knot)とは, K 上の自己交叉のないル−プ(つまり, 単純ル−プ)のつくる R^3 内の結 び目のことである. また, K の絡み目成分(constituent link)とは,いくつか の交わらないような結び目成分の和のことである.
2つの空間グラフが同型であるための次の必要条件は,同型かどう かについて の判定法として,最初に試すべきことである:
命題: 空間グラフ K_1 と K_2 が同型であるならば, K_1 と K_2 の間にある対応があって,その対応により対応するすべての結び目成分と 絡み目成分は(結び目・絡み目として)同型である.
証明は定義から明らかだろう. 例えば,この定理によれば,図8−3の2つの空 間グラフは,どのような対応の下でも同型になれないような結び目成分がある ので,同型でないことがわかる(宿題:確かめてみよ).
図8−3
この定理の逆は正しいだろうか,ということについて考えてみよう. 2つの頂点を3個の辺で結んで出来る空間グラフをθ-曲線 というが,それは明らかに3つの結び目成分を持つ.これら3つの結び目成分が いずれも自明結び目であるとき, もとのθ-曲線は自明であろうか?という問 が自然に出てくるが,この問に対する最初の答は, 非自明θ-曲線として知られ る樹下のθ-曲線(図8−4参照)によって否定される. (宿題:各自このθ-曲線の3つの結び目成分がいずれも自明結び目 であることを確かめよ.)
図8−4
この事実は次のように一般化される:
定理:任意の空間グラフ K に対し,つぎの性質を持つような空間 グラフ K’が無数に存在する:すなわち, K’と K とは同 型ではない が,それらの間にはある対応があり,その対応により対 応するすべての真部分 空間グラフ(つまり K’と K 以外のすべての部分空間グラフ)は同型にな る.
この定理のような空間グラフ K と K’は概同型であると いう.この結果はつぎの論文の中で示したのであるが,その理論のポイントは与 えられた空間グラフに非常によく似ているが,同型でないような空間グラフが 構成できるということである(この理論を私は位相的イミテーション の理論と呼んでいる):
A. Kawauchi: Almost identical imitations of (3,1)-dimensiona l manifoldpairs, Osaka Journal of Mathematics, 26(1989), 743 -758.
空間 R^3 内に n(>3)個の点が与えられている時,それらのうちの異なる 2点は必ずただ1つ辺の端点であるような空間グラフを考えることができる. このような空間グラフをn頂点完全空間グラフと呼ぶ. つ ぎの定理は Conway- Gordonの定理として知られる:
定理: 任意の6頂点完全空間グラフ K_6 上には必ず自明でない 絡み目成分が存在する. また, 任意の7頂点完全空間グラフ K_7 上には必ず 自明でない結び目成分が存在する.
注意:5頂点完全空間グラフの場合には,図8−5からわか るよう に,自明な結び目成分しかないようなものが存在することがわかる. (宿題: K_6 と K_7 のグラフを各自勝手に描いて定理の事実を確 かめよ.)
図8−5
定義: 空間グラフKがアカイラル(achiral)であるとは, K とその 鏡像 K^* が同型となることである.空間グラフKがカイラル(chiral)である とは,それがアカイラルでないことである.
アカイラルという概念は,絡み目の場合のもろて型の自然な拡張であるが,習慣 上このように呼ばれている. 空間グラフがアカイラルかどうかを判定せよとい う問題は同型問題の特別の場合であるが,結び目の場合ほどには有効な解答が 得られていない.位相的イミテ ーションの理論から言えることは,任 意に与えられた空間グラフ K に対し,それに概同型となるような空間グラフ K’でカイラルであるものが無数に存在することである.
さて,ここで化学における分子構造式の表す空間グラフ(分子グラフという) について少し説明しよう. 分子構造式とは分子中の原子をグラフの頂点で表し, 分子中の2つの原子が共有結合のような結合で結ばれているとき, それらの原 子に対応する頂点を辺で結んで出来る( R^3 内の)空間グラフである.化学 の研究では, はじめは グラフ中の辺の長さ,2辺のなす角といった幾何学的な 量が重要であったが, 今世紀のはじめ頃から, 結び目や絡み目を含むような分 子構造式をもつ分子を人工的に合成することに興味をいだいた化学者達が現れ た.そして, H. L. Frisch と E. Wasserman がついに19 61年に絡み目(ホッ プの絡み目)を分子構造式にもつ分子の合成に成功した. D. M. Walba は 1985年に結び目を分子構造式としてもつ分子を合成する研究の一段階として, メ−ビウスの帯を分子構造式としてもつ分子の合成に成功し,分子のトポロジー といわれる研究 分野が誕生するきっかけになった(しかしまだ結び目を分子 構造式としてもつ分子の合成には成功していない).分子のトポロジーと は, 辺の位相的変形の可能性をはじめから仮定して,分子グラフを 研究する学問で ある. 勿論,応用上個々の原子の違い(炭素の原子,酸素の原子, 窒素の原子 等々)を無視できないので,必ずしもすべ ての問題が空間グラフの問題に還元 されるわけではないし,また応 用上の必要に応じて必ずしも位相的でないよう な条件をつけ加える必要もある. 高分子合成化学においては,与えられた分子 グラフが カイラルかどうかという問題は重要な問題であるが,それはこの分 子のトポロジーにおける格好の問題となるだろう.また, 講義2で ふれたよう に,分子生物学者達は結び目になっているようなDNA(つまり, DNA結び 目)を人工的につくることに成功し, 結び目の理論がDNAの構造や機能の研 究に応用されるようになっている.
最後に,蛋白分子について調べたことについて報告したい.蛋白分子の第一構 造というのは,基本単位のαアミノ酸基がペプチド結合でチェイン状につながっ た分子構造のことであり,これはひもに たとえることができる.このチェイン 状の分子構造は, 一般に α ヘリックスという強固ならせん形の部分をいくつ か含んでおり,それらを β シートと呼ばれるジグザグ部分でつないだような 構造をしているのであるが,これに関する構造を第二構造という. 第三構造と いうのは, このチェイン状の分子構造が R^3 内にどのように配置されている かという空間構造のことである.この分子構造は, 一般 に空間内でS-S結合(ジ スルフィド結合)とよばれる結合によって何カ所かで縛られている. 従って,蛋 白分子の第一構造をひもと思えば,その空間構造は何カ所かで接しているよう なひもと思うことができる. さて本年度のノーベル賞に輝いたS.B.プリジナー の(狂牛病などの)プリオン病の「プリオン学説」(プリジナー自身による解 説が日経サイエンス1997年12月号に載っている)についてであるが,プ リオン蛋白は正常プリオンも病的プリオンも同じ第一構造を持っており, 一方 の端がともに細胞膜にくっつき,また共に1個所 S-S 結合で縛られていること などがわかっている.従って位相的には 正常プリオンも病的プリオンも一方の 端点が共に平面にくっついており, また共に1つのループを持つようなひもと 考えられる(図8−6参照).
図8−6
正常プリオンはかなり整然とした空間構造もつが,病的プリオンは 一部分が空 間に投げ出された状態にあると考えられている.さて, 狂牛病最大の謎は正常 プリオンと病的プリオンが出会うとどのような仕組みで2つの病的プリオンに 変換されるのかということであるが, この問題が結び目理論と関係しているの では,という問題提起 は「数学セミナー」1997年2月号で行った.ここで は, 細胞膜 がS-S結合によるループを通過できないと仮定するならば,理論的 に は「プリオン結び目」は可能であるという点を注意しておきたい.図8−6 の(1)と(2)は一見異なるように見えるが結び目理論的には同じものになる(つ まりあやとりの要領で (2)は(1)に変形できる)しかしながら, (3)は結び目理 論的には(1)とは異なるものであることを示すことができる. この判定は数学 的におもしろそうである.
たち上がりくる秋涛(あきなみ)の静かかな 静魚