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春らしいその姿に潜むポピーのやばさ
様々な花が咲き誇る春。色とりどりの姿はどれも可愛らしいが、中にはそれだけでは済まない花もある。
たとえばそれはポピー。ダントツでやばい。 代表的な春の花で、もちろん綺麗で可憐でもあるのだが、それはポピーの一側面でしかない。心をざわつかせるポピーを、逃げることなく見つめてみたい。 > 個人サイト テーマパーク4096 小さく息切れ 夢みたいでやばい個人的には日常生活の中で「やばい」という言葉を使うことはほとんどない。意味にも語感にも、つい使ってしまいたくなる負の魅力がある分、無意識に多用を避けているのだと思う。
全くやばいところのないチューリップ
そんな私が満を持してやばいと思う花がポピー。上のチューリップは風に揺れる様子が純粋にかわいいだけだが、ポピーの場合そうはいかない。
ザ・お花畑
やってきたのは埼玉県の国営武蔵丘陵森林公園。訪れた4月下旬、広場にはたくさんのポピーが咲いていた。
まさしく「お花畑」。その字面からして、なんとなく能天気でパッパラパーな雰囲気が漂ってくる。 いい年こいたおっさんである私もその光景を見て、「わぁ、きれいだねー」などと、頭スカスカな感想を抱いてしまう。 紙細工のような花びらが特徴
一輪一輪は別にやばくない
お花畑を前に頭スカスカ、それでいいと思う。ポカポカ陽気の中、たくさんの花を見てそんな風になれるのはこの季節の魅力。そういう開放感は春ならではだからだ。
しかし、ポピー畑をじっと見ていると、それだけではない何かにいざなわれそうになる。 バックがぼけてくるとやばい
奥行きを意識して、ポピーだけが視界に入るように見つめていると、なんだか夢見心地になってくるのだ。
焦点のコントラストがあぶない
それもただの夢ではない気がする。もうすぐ死んじゃう人が意識不明の中で見る夢だ。あちらとこちらをさまよう時にアハハウフフと駆ける景色なのだ。
ポピーを前にフワーッとなったあと、我に返ったようにハッとなる。大丈夫、自分はまだ生きている。 死にかけたこともないのに既視感があるのは、映画やドラマの演出の影響なのだろう。チューリップや菜の花ではなく、ポピーが一番しっくり来ると思う。 うつむき具合がやばいここまで、まずはポピーのフワフワした感じを考えてみたが、続いては別の面からやばさの輪郭をはっきりさせていこう。
花以外にも注目
この写真、相変わらずホンワカとおめでたいが、それだけではない。手前左寄り、花ではない部分に注目してほしい。
可憐な花の下でうつむく者たち
それはつぼみだ。ポピーという花のつぼみは、なぜだかぐったりと下を向いているのだ。
そのうつむき加減から既に花が散ったようにも見えるが、それは違う。これから花が開くのに、なんだかもう終わった感を漂わせる矛盾。 こんな森に迷い込んだら泣く
視線を低くして花が視界に入らないようにすると、独特の雰囲気はさらに強調される。知らない星のジャングルに迷い込んだようでもある。絶対にちびる。
元気出しなよという言葉も虚しく通り過ぎそう
咲き誇る花が広がる様子は天国的なやばさだったが、つぼみに焦点を当てると正反対の雰囲気が前に出てくる。どんな励ましも響きそうにない。
つぼみ一つ一つに「すみません」「もうしません」とセリフを当てると、より陰を帯びてくる。 「弁解の余地もございません」「私の不徳の致すところです」と、謝罪を加速させてもいい。集団でうなだれているので、部全体で何かやらかしたようにも見える。 最終的には下を向いてしまうせつなさ
なんとか横から上に伸びたのに、結局は下に行ってしまうポピーのつぼみもいた。
一般的に、つぼみという言葉は未来を感じさせるイメージがあるだろう。実際これから咲くのだからそうではあるのだが、それをわかっていても心に影を落としてくるたたずまいがやばい。
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