「愛のないセックス」と「愛のあるセックスレス」どちらがいい?と問うたら、「“愛のあるセックス”でしょう」と言われた。「そりゃあ、そうだね。君は頭が良いねえ」と笑った。
えーと、あれは上野公園のベンチで、平成生まれの男の子に言われたんだっけ。
(そういった話の流れで「今まで何人と寝ましたか?」と聞かれて、「昭和の女はそういうことを言わないものなの」とごまかしたんだった。)
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ところで、女にも“賢者タイム”は存在する。
昨夜、まだ5月だというのに全身汗だくになって動く男を、1時間後には蹴り飛ばしたくて仕方がなかった。落ちてくる汗で心が潤ったのは錯覚だった。
かつて「僕の身体が目当てなの?」と言われたことや、情事の後にすぐ煙草へ手を伸ばす私に「ちょっと…さみしいよ……」と呆れる男の潤んだ目や、一夜限りで合意しているつもりだった男から翌日届く「俺は遊ばれたの?」というメールや。
色々と思い返して、私は男性ホルモン過多なのではと思った。
(ホルモンバランスの乱れ。原因はストレス。そう、全てはストレスのせい!)
これだけ書いておいて、自分はそこまで好色ではないと思う。どんな分野でも上には上がいるのだ。
こんなことをワールド・ワイド・ウェブで公表するのもなんだけれど、私はいわゆるマグロであるし…(男友だちから、“シーチキンなのか”と、訂正されたのを個人的には気に入っている)(言葉遊びは楽しい)。
そもそも独身なのであるから、恋人でない人と寝たって構わないと開き直っている。
不倫していることを何かのステイタスのように公言する既婚者よりいくらかマシだ。
ただ、あまりこういうことは言うべきでないとは思いつつある。昭和の女であれば特に。
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以前、双子の片割れかのように理解し合っていた、と錯覚できるほどに好きで仕方がなかった人とは、交際期間のほとんどがセックスレスだった。キスすらほとんどしていなかったと思う。
彼の作ったご飯を食べ、ベッドで寄り添ってうたた寝をする。今思えばあれがセックスのようなものだったのかもしれない。私の身体は彼によって作られていたし、私の心は彼によって保たれていた。
それ以前も、恋人でない人と寝たことはなかった。
もっと言えば、交際して初めて手を握るまでに一ヶ月はかかるのも当たり前だった。
両親の教育により貞操観念の強い方であったし、病気もこわかった。
また、自分の女性としての魅力にほとんど自信がなかった。特に、首から下について。
さらに言えば、自身の女性性を否定したかった。男性と同じ土俵で戦いたい、といった気持ちが強かった。
ほとんど毎日ジーンズを穿き、メイクやスキンケアにも興味がない。
“女子力”のカケラもなかったので、“私に恋をしている男性しか、自分に欲情するはずがない”と信じていたのだ。
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その私の思い込みが打ち砕かれたのは、尊敬していた先輩であり会社役員をしている男性と会食し、気がついたら素っ裸になっていた時である。
彼には妻子がいたので、まず私の頭を支配したのは、不倫のようなことをしてしまった、という罪悪感である。きっと彼にとっては日常茶飯事なのだろうけれど。(ちなみに私の父はわりと女好きのする顔であるが一度も不倫をしたことのなさそうな人であり、父を尊敬している点のひとつだ)
これまでの人生で、お酒を呑んで記憶が無くなったのはその時限りだけである(お酒で失敗することについても、慎重な人間だった)。
先輩に合わせて普段呑みなれないお酒を呑み、煙草を控えたのがいけなかった。おまけに当時の私は体重が39kgしかなかった。泥酔しても仕方がない。
本来の私は、相手がどんなに偉い立場の方でも、呑みなれないお酒を呑むのは断わるような人間だったが、彼の会社で働きたいという思惑があったので、つい合わせてしまった。
つまり、下心を見透かされ、敗北したわけである。
当時、私はとても傷ついた。
仕事の面で尊敬していた人に裏切られたこと、つまり、単なる女として見られたこと。
自分のことを好きでなくても欲情できる男がいるという、自分の信じていた法則が間違いだと気付いたこと。
このことを周囲の人に話すと、「大人なのだから、呑みなれないお酒は呑むべきでなかったよね」「ねえ、今までそういうこと、無かったの?」「久しぶりにセックス出来て、ラッキーって思おうよ!」「役員なのだから、お小遣いくらいくれればいいのにね」といった言葉が返ってくることも驚きであり、その言葉に傷つき、しかし傷つくことすらいけないような気がした。
たいしたことでないように言うことで励ましてくれたのだろうけれど、ほとんど侮辱のような言葉を吐いた人間とは縁を切ってしまった。
ただ一人、「それは“準強姦”ですね」と言ってくれた人と、私は時々寝るようになった。その年の12月、“意識のあるセックスをして年を越したい”という意味不明な理由で頼んだのだ、私が。
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それからの私は確かに変わった。
美容に詳しくなり、スカートを穿く頻度が少し増え、愛想笑いも得意になり、男性を褒めちぎることに抵抗はなくなった。
女を使って飯が食えるのであればそれでいいじゃないか、幸運なことに私にもそれが出来るみたいだし、と思うようになった。先輩がそれを教えてくれたことに感謝すらした。
時々、彼のニュースが目に入るが、今では“さすが、成功する男は違うわ”と、スタンディングオベーションしたくなるくらいだ。
結局のところ、今の私がやっていることは、準強姦されて自暴自棄になっているだけの、一昔前の“ケータイ小説”でうんざりするほど使い古されたストーリーのひとつなのかもしれない(それでも誰とでも寝るわけじゃないわよ、というところも)(更に言えば、いい年して何をやっているのだか、という話が加わるが)。
長いあいだ、私のためにご飯を作り、心を支えてくれた人が、私に全く欲情しなくなったことと同じくらいに不可解なのは―――私に恋をしているはずの男性が雑なセックスをし、私に恋をしていない男性がまるでそこに愛があるかのようなセックスをすること。
(話はそれるけれど、私に恋をしているはずの男性がひどく乱暴な言葉を使い私を苛立たせ、私に恋をしていない男性の美しい言葉に癒されることもある。ボキャブラリーは侮れない)
セックスなんてその程度のものなのに、やはりこういう話はおおっぴらにすべきでないのだろう。けれども、私はだんだんと、冷静に混乱してきている。