空中キャンプ

2014-05-18

[]『そこのみにて光輝く』

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海のそばに建てられた粗末な家は、どちらかといえば小屋と呼ぶ方が適切で、それはまるで、全ての希望や幸福を断念した者のみが住むことを許された場所のように見える。千夏(池脇千鶴)はその最果てのような小屋で暮らしている。現実に期待することを止め、感情を遮断して、ただ生きるために生きる。他の選択肢があったのかも知れないが、彼女には別の生き方が選べなかった。そのようにして千夏は、ただ無感覚な容れ物のようになって日々をすごしている。達夫(綾野剛)がその小屋の敷居をまたぐのは、だから、千夏が抱えた空虚のなかへ入っていくことにも似ている。

千夏はきっと、ある時点で大きな断念をしたのだ。これは自分には決して手に入らない、というあきらめの感覚を何とか心の内側に収めて、その苦い事実にみずからを慣れさせる。そうすることでしか生きていけないのだと、思い知らされたのではないか。成長することは断念の連続なのかも知れないが、それでも「他の人びとがごく当たり前に享受できている幸福が、なぜ自分にはこれほど遠いものであるのか」という事実は苦しく、めまいがするようだ。だからこそ彼女は無感覚になり、全てを遮断することで生きていこうとする。その結果、彼女はようやく完全な諦念へと到達したかのように見えた。

しかし、千夏は達夫に出会ってしまう。そして彼女は揺らぐのだ。捨て去ったはずの可能性がふたたび目の前に現れ、未知の場所へと手招きしていることに気づいたら、人はどれだけ動揺することだろうか。そして、感情を遮断するためいままで必死に築いてきた壁が、いともかんたんに崩れてしまっていることに恐怖するのだ。自分の手が届く場所に他者がいる、というリアリティに圧倒され、その存在感や息遣いにどうしても抗えない。このような心理を、僕はとてもよく知っている。だからこそ、わずかな可能性にすがってしまう弱い自分に苛立ち、皮肉を口にしてしまう千夏がいとおしいのだ。過去のつらい経験を話す達夫に「だから自分のような女を選ぶのか」と冷笑で応える千夏は、実は不器用に救いを求めていることが、僕にはよくわかる。

ラストシーンの浜辺、それでもこの人だけはすぐそばにいるのだ、という事実にあらゆる過去が溶解していくようである。もう人生に何も求めまいと断念の極北まで辿りついた男女が、お互いの存在にうち震える姿で映画は締めくくられる。それは私自身であり、数多くの観客の姿なのだ。