特集
【あの日あの時−十勝ひと物語−】全日本ミニバレー協会会長 小島秀俊さん(1)
NHKのインタビューを受ける小島さん(右)。ボールはまだサッカー型ビーチを使用していた(1977年、大樹町で)
ミニバレーが誕生したのは1972年のこと。64年の東京五輪を経て、72年には札幌五輪があり、国として少年団活動や社会人の体力づくりに力を入れていた頃でした。
大樹町でも71年、体育施設としての青少年会館が建設され、たくましい青少年の育成、町民のスポーツ振興に積極的に取り組み始めました。
私が、大樹町教委に社会教育係・学校教育係で配属されたのが72年。各種スポーツ団体の活動を活発化しようと、休眠状態の陸上やバドミントンなどの協会再建のお手伝いをしたり、町教委事業の企画・運営に当たりました。
参加者減り苦悩
町教委の事業の1つとしてママさんバレー教室を開きました。バレーは苦手でしたが、見よう見まねで始めました。しかし、なかなかうまく指導できません。「手が痛い」「ボールが怖い」といった声が上がり、指先を切った手袋をはかせたり、長袖シャツを奨励したりといろいろ工夫をしました。
スポーツ教室は他にもソフトボールやテニス、バスケットといろいろありましたが、ママさんバレーは参加者がどんどん減っていきました。お母さんたちからは「もっと簡単に楽しめるスポーツはないの」と言われ、苦悩の日々が続きました。お母さんたちが求めていたのは、いい汗をかいて仲間と楽しくということでした。
ある日、友人宅に行ったとき、壁にぶらさげてあるビニールボールが目にとまりました。この軟らかいボールなら手も痛くないし、容易に扱えて楽しく遊べるのではと直感しました。ボールをもらって体育館でプレーをしてみました。お母さん方は歓声を上げ、笑顔でプレーしてくれました。その笑顔に運命的なものを感じました。「みんなが求めていたのはこれだ」と確信しました。
最初は6人制のコートとネットでのプレーでした。しかし、通常のバレーボールコートでは広すぎました。ネットも高い。得点数や人数にも改善の余地がありました。そこで、バドミントンコートの一部を利用することにしました。特にネットの高さは絶妙でした。バレーボールでは手が届かない人も、1.55メートルならアタックもブロックもできます。
1年かけルール
ミニバレーの誕生当初はサーブの打ち方、オーバーネットなど細かいルールにはこだわりませんでした。プレーをする中で試行錯誤を繰り返しながら、1年ほどかけて今とほぼ同じ簡易ルールをまとめました。ボールは鈴入りのサッカー型ビーチや、漫画の「アタックNo.1」のキャラクター入りボールを使ったこともあります。
ミニバレーの最初の大会は73年の第2回町民スポーツ大会です。町教委は当時、体育連盟と共催で、町内会対抗でさまざまなスポーツ大会を開いていました。その1種目としてミニバレーをデビューさせたのです。そのためにルールをまとめ、名称を「ミニバレー」としました。人数もコートも点数もバレーのミニサイズ。語感の良さが決め手でした。
大会は毎年開かれるようになり、職場や町内会、PTAなどでレクリエーションとしても盛んになりました。老若男女が集まる学校の体育館は「地域の社交場」とも言われました。(佐藤圭史)
<ミニバレー>ボール(直径35センチ、重さ50グラム)はビニール製で、軽く軟らかいため、球道に意外性があり、ゲームの幅を広げている。コート(9メートル×6.1メートル)はバドミントン用を使い、ネットの高さは1.55メートル。プレーヤーは1チーム4人。1セット11点の3セットマッチで争う。
◇ ◇ ◇
次回以降は、十勝毎日新聞電子版にてご覧ください。
http://kachimai.jp/
【あの日あの時−十勝ひと物語−】全日本ミニバレー協会会長 小島秀俊さん(2)