●未来の話だから、willを使おうだなんて、そんなことを平気で言ってる先生達・・・、おばかさんね。●
はっきりいいますが、今の日本の英語教育のなかで、最大のミステイクというか、誤解というか、過ちの代表例が、このwillに対する解釈です。
そもそも一般的に英語の先生という肩書きで英語を教えている人たちのかなりの多くが、(おそらく何となく気付いてはいながらも、それでも)未だに文法上の「時制」というものと、実際の「時間」というものを同じものであるかのように混同してしまっています。
文法上の時制、というものは、人間が時間というものを無意識レベルでどのようにとらえているか、ということを表すものであって、物理的な時間の流れとはかけ離れているものなのです。
例えば、

現在形・・・今という時間よりも、「いつもそうだよ(習慣)」とか「実際そうだよ(事実)」ということをあらわす(これは日本語もそう)のが根っこだというのがわかっていない。

人間の意識にとって、現在とは、自分が生きているうえで直面している「現実」であり、自分の身の回りにくっついている、「常に起きている出来事」なんです(逆に、「過去」は流れ去ってしまっていること)。

例:I swim. ・・・
私は、習慣として、いつも泳ぐよ。ということ。
It is no use crying over spilt milk. ・・・
「覆水盆に返らず」。ことわざは「いつも当てはまる現実」。だからことわざは現在形で書かれる。


過去形・・・過去という時間よりも、「(今はもう終わってしまって)現在は違うよ」とか、「(過ぎ去ってしまったことだから今の自分には)もう関係ないこと」という風に、「事実から離れる形」「非現実形」である、ということがわかっていない。
日本語でもそうですが、「あれはもう終わったことだから」てな風に、「距離感」をもって過去を眺めるでしょ?そこが大事。日本語で、「それでいい?」と現在形で質問することも、自信がないときには、もしくはすこし柔らかめに言いたいときには、「それでよかった?」って過去形で言うでしょ?現実から少し逃げよう、距離を置こう、そして直接的な言い方はさけて、間接的に言おう、っていう気持ちが過去形を使わせているんです。

例:Could you tell me・・・
Can you よりも Could you のほうが、そして Will you よりも Would you のほうが丁寧なのは御存知の通り。直接的(=現実にピタリ付いている、現在形)よりも間接的(=事実から離れてる形)のほうが丁寧に聞こえるんです。
may よりも might の方が「可能性が下がる」のも「事実・現実から離れるから」。

例:If I was you,・・・
「(実際にはそうじゃないけれど)もし僕が君ならば・・」
仮定法という動詞の活用法は口語会話の中ではすたれつつあり、代りにこのように過去形を「非現実形」として使う人も増えています。構造主義的な言語学の観点では「文法的な類推による仮定法と直説法の混同」と断じることもできるでしょうが、直説法過去の使用に違和感を感じていない話者の心の中には、「過去形=非現実形」という意識は十分に存在すると考えるのが認知言語学的なものの見方。


さて、実際の物理的な時間の流れと、「時制」との違いがわかってもらったところで、この will です。

極端な話、 will には「未来」なんて意味はありませんよ。とくに、「この文は、未来だから will を使おうね」なんて教えているそこのあなた、十分に反省してください。そんなことばかりやっているから、(僕が中学生だったころもそうでしたが)未だに学生達は時制が理解できずに苦しんでいるんです。

もう何年も予備校で教え、全国いろんなところから上京してくる学生を見てきてますが、何時見ても、どこの出身の学生を見ても、一様に、同じパターンで、同じところが理解できていないんです。ということは答えは明白ですよね、日本の英語教育界には、もう何世代にも渡って、構造的な無知と構造的な欠陥が存在してるんです。「先生達」は、そんな自分たちを棚に上げて、「理解できない方が悪い」という姿勢。揚げ句の果てには、かわいそうな学生達は、「理解できない自分が悪い」と思い込んでしまうわけです。「理解出来ていない」のは、先生、当のあなた方なんですよ(もちろん、ちゃんとわかってらっしゃる先生方も少なからずいらっしゃいます。)?いい加減、ちゃんと勉強し直してください。

さて、お小言はここまで。実際には will は何なのか。それは、「心が傾く」ことなんですよ。これが will の根っこ。以下に、will の全体像をチャートにしてみましたので、ご覧ください。



さて、まずは will の一番基本、意志と予想から。



(1) 意志
例えば、「明日学校へいこうかなぁ・・、やっぱやめようかなぁ。」って迷ってるとき・・・。心の針はその間で揺れているわけです。でも「よし、ヤッパ学校へ行こう!」と意思決定が行われたとき、心の針は完全に「学校へ行く」の方に傾きます。この心の傾きが「意志」であり、
I will go to school tomorrow. (明日学校へ行こう。)
です。未来の出来事を言っているのではありません。明日どうするか、どちらに意志が傾いたかを述べているだけなんです。

(2) 予想
例えば、今窓の外を見ながら、「明日は雨なのかなぁ、それとも晴れかなぁ。」と思案しています。心の針は、晴れと雨の間で揺れているわけですね。

さて、ここで大事なことがひとつあります。
ここで「外を見て明日は晴れか雨か」の判断をするときアナタは何をその判断の材料にしますか?それはアナタの持っている『これまでの経験』です。私はwillの『予想』のラインから、いわゆる辞書で言うところの『習慣のwill』、『過去の習慣のwould』が出てくると考えていますが、これらはすべて『話者のもっているそれまでの経験』が土台になって出てくるもの、と考えることができます。詳しくはこの後おいおい述べていきますので、今は『予想の土台には経験があるんだな』ということを覚えておいてくださるだけで結構です。

さて、ここでは外をみて雨かな?晴かな?と思案しているんでしたよね。でも目の前にドンヨリとした分厚い雲が垂れこめて、空気もじめじめしていたら?こういう時には翌日は雨が降る、という経験をアナタは何度も繰り返しこれまで持ったわけですから「やっぱこりゃ雨だな。」と判断することになります。そして、心の針は完全に「雨だろう」の方に傾きます。この心の傾きが「予想」であり、
It will rain tomorrow. (明日は雨だろう。)
です。未来の出来事を言っているのではありません。明日の天気がどうなるか、窓の外を眺めて、これまでの経験をもとに、どちらに予想が傾くかを述べているだけなんです。

(3) 勧誘と依頼・・・相手の意志を尋ねているだけ。
さて、チャートを見ていただくとわかる通り、「意志」の延長線上に「依頼と勧誘」があります。中学の時、「いいか、willは未来だ!」といっていた先生がその舌の根も乾かぬうちに、「いいか、先週の授業で will は未来だと言ったけれど、実は相手にお願いしたり、誘ったりもすることもできるんだ。 Will you 〜?とあったら、これは未来の出来事じゃないんだぞ。」というメチャクチャな説明をして、私を混乱に陥れましたが、学生達によると、今でも「え?そんな先生普通にいっぱいいますよ。」だそうです。

(a) Will you be here tomorrow? (アナタ、明日ここに来るつもりなの?)
(b) Will you come to the party with me? (僕と一緒にパーティ来ない?)
(c) Will you pass me the salt, please? (そこの塩、取ってもらえます?)

上の三つの表現はいったいなんでしょう?昔ながらの教え方では、 (a) 未来 (b) 勧誘 (c) 依頼 となるでしょうが、そうではありません。みんな、「相手の意志を尋ねているだけ」なんです。ですから、(a)では場面によっては『単に相手の意志を尋ねている』とも『相手に遠回しに依頼・勧誘している』ともとれます。

Will you be here tomorrow?
(アナタ、明日ここに来る気はある?=ねぇ、来ない?)

だって、素敵なあのこに『私と一緒に来る気はない?』と言われれば、形は『意志を尋ねてるだけ』でも実質上は『勧誘』だってとりますもんね?
(c) では、「どんなに please をつけようが、結局は相手の意志関係なしに自分の要求を述べる命令文」と比べて、相手の意志を尋ねている分、こちらの方が、気遣いが感じられます。「塩を取ってくれるお気持ちはありますか?もしあれば、助かるんですが。」ということですから。これに加えてさらに相手の気持ちを測る表現を加えたのが Would you mind 〜?( mind =気にする)ということです。

私が授業中よく学生に言うことです。「正しい道具・正しい知識というのは、それひとつを使うことで全てのことが解決できるようになってるんだ。愚か者は、わずかな問題を解くのにもたくさんの安い知識と道具を用意しないといけない。そして大抵の場合、そのような道具や知識は欠陥があったり、ほころびがあって、使い物にならない。」

(4) 「連想の will」(あるいは辞書においては「習慣のwill」)

Dogs will bark. (犬は吠えるものだ。)
授業中、学生に当てても、ほとんどの学生はその意味を答えられない例文です。また、万一答えられるとしても、「なぜ未来だ、って習ってきたwillがこんな日本語訳をもつことになるの?」と聞いてみれば、100%答えられる学生はいません。そりゃそうです。私の知っているかぎりにおいては、ですが、教える先生達の側がわかっていないんですから。



さきほどの「予想」では、空をみて『明日は晴れるか雨か』を考えたとき、空の様子とこれまでの経験を照らし合わせて、

It will rain tomorrow. (明日は雨だろうなぁ。)

というふうに『雨が降る』と判断が傾いたわけです。
こんどは「犬」という動物の話になったときに、これまでの経験によって自分が犬について持つようになったいくつかの「犬の典型的性質」(認知言語学をやってらっしゃる方にとっては、そのカテゴリーの「プロトタイプ的属性」)のうち、自分にとってピンとくるもの(この場合では「犬と言えば、吠える」)に傾いたのが

Dogs will bark. (犬は吠えるものだ。)
→定訳は以上のようになるのでしょうが、あくまでニュアンス的には、「犬って言えばさぁ、普通吠えるじゃん?」です。

です。このようなパターンは予想の延長線上にあって、これまでの経験がもたらす、あるものについての「連想」、と名付けるのが適当と私時吉は考えております。
このような用例は、辞書や文法書では「習慣のwill」という分類におさまっていますが、ひどく不適切なものにおもえてきます。「習慣」というタイトルをつけることによって、このwillが、ある動物やモノ(つまり名詞)が持つ、百科事典的な性質を述べているかのような印象を与えるからです。
willはそういった客観的な知識を述べているのではありません。あるものに対しての、話し手側の「ワタシ的には普通さぁ」という、主観的な思い込みを述べているのにすぎないのです。あくまで話者の中の「心の傾き」を述べる働きしか持たないのが、willです。

(5) 回想のwould (あるいは辞書においての「過去の習慣」のwould)
この過去の回想を表す would も、「あの頃と言えば」、という問いが自分の中で立ったときに、その頃には、いろんなことをやったでしょうが、その中において、『経験の多さ』から、ある記憶がまず真っ先に心に浮かぶ、つまりその記憶に心が傾くことをいいます。


いかがですか?『予想』のラインから『これからの予想』、『連想』、『回想』の三つが出てくるわけですが、ここには『これまでの経験に基づいて考えてみる』という共通の土台があるわけです。おもしろいことに、これまで『未来を表す』と教え込まれてきたwillの正体の中には『過去の経験』という土台が作りだす『こころの傾き』という側面が、実は存在していたのです。

● would と used to の違い●
旺文社のロイヤル英文法は、「used to と would の違い」の項に、みっつ、その違いをのせています。これを私なりに解説してみましょう。まず、

(1)「would は過去の話であることが明白な文脈の中か、単独の場合は過去の時を示す副詞語句(今回の例文では、‘when I was a kid’)と共に用いる」と書いてあります。「あの頃といえば」でポンと浮かぶ記憶が would ですから、「いつごろのことなのか」を示す情報が、文中に必要だ、ということですね。 used to にはそれ自体に「過去のことであって、今は違うんですよ」というのを強調する作用(これが used to の一番大事なところです。)があり、したがって、「あの頃といえば」を表すための情報を与える必要がありません。

We used to have a big, gorgeous car.
(俺達も昔は、でっかくて、ゴージャスな車をもってたんだがな。)
→used to だけで、「昔の話で、今は違う」という情報。


したがって、「 used to と would を併用する場合には、used to を始めに使い、 would を話の冒頭に使うことはない」と書いてあるのも(そう書いてあるんですけどね)、最初に used to を使って「いつ頃の話なのか」という舞台設定をし、以降、「その頃といえば」という形で would が続くのだ、と考えられます。

We used to have a big, gorgeous car. We would often have dinner at Antonio's, which was one of the most celebrated Italian restaurants around here.
(俺達も昔は、でっかくて、ゴージャスな車を持ってたんだがな。[その車を持っていた頃と言えば、(=舞台設定)]よくアントニオズで晩飯を食ったもんだぜ。このあたりじゃ、かなり評判のイタリア料理屋だったんだ。)

(2) 次に、「used to は過去の習慣的動作にも状態にも用いるが、would は状態動詞と用いることはできず、動作のみを表す。」と書いてあります。
動作と状態とで、何が違ってくるのでしょう?
「あの頃といえば、あれやった、これやった」というのが、早い話、 would なわけです。「あの頃は」と言われて、ポンと記憶がでてくる、その理由は、ようするに、「その頃よくやった」という回数が多い、頻度が高いことを表しているんです。これが、「習慣的動作」。何回も繰り返し行っているんですね。

例:あのころってさ、暗くなるまで外で遊んだよね。
●何回もよくやったという理由で、「あの頃は」という問いに反応してポンと出てくる記憶。
→ We would often play outside until it got dark.

●「今とは違って昔は」ということを言いたければ、
→ We used to play outside until it got dark.

しかしこれが「状態」ということになると、「あの頃の状態」という発想は、その裏側になにがあるかというと、「現在の状態との対比」というのがあるのです。

例:あの頃、ここにはホテルが一軒立っていた。

このセリフ、今は空き地になってる場所とか、今は全然違う建物が建っている場所を前にしながら言っているのが自然ですよね。となると、「過去の状態」を考えるときには、「今とは違って、あの頃は」という視点になりますよね。したがって、

There used to be a hotel here.

という風に used to を使うほうが自然になるんですよ。もし would を無理に使えば、

There would be a hotel here.
(あの頃といえば、このあたりにホテルが一軒よくあったなぁ。)
→あったり、なかったり、何度も現れたり消えたりするその頻度が多かったことになります。

(3) 最後に、前述のロイヤル英文法には、「 used to は現在と対照の意味を示し、現在はそうではないという意を言外に含むが、 would には現在と対照の気持ちはなく、過去のことを回想的に述べるのみ」と書いてあります。そして例文は以下の通り

She used to be a thin girl, but now she's on the plump side.
(彼女はやせた娘だったが、いまは太りぎみだ)

Jim was an idealist. He would often daydream.
(ジムは理想家だった。よくぼんやりと空想することがあった)

以上のことについて、私なりに説明・・・と言っても、これまでの説明を読めば、もうそろそろみなさんにもわかってきたでしょう?
まず、used to の根っこは「昔はそうだったけど、今は違う」ということですから、「現在との対照」というのは自然にでてくるものなんです。それに対して would は「あの頃といえば・・・」という問いが立ったときに、「真っ先に心が傾く」、その先にある記憶ですから、大事なことは、上の例文のように、まず、「ジムは理想家だった」という「物語の舞台設定、時代設定」をしてあげて、「ジムが理想家だったという、その頃で思い出すのは・・・よく空想することがあった( would often daydream )」という風に回想するということです。

would についておさらいしてみましょう。
● would は「あの頃と言えば・・・」と言われて心が傾く先にある記憶、つまり心にポンと浮かんでくる記憶。だから「回想」という感覚でとらえるべきである。
●「あの頃と言えば・・・」でポンと浮かぶその理由は、「あの頃しょっちゅうやっていた」からであり、「繰り返し行っていたこと」に言及するのがwould。だから辞書では「過去の習慣」と分類されている。したがって、過去の状態(=ひとつの状態がずっと継続する)には使わない。
●used to は「今と違って昔は」を表すのが主な役割。


いや、ちょっと長くなったね。読んでくれたみなさん、お疲れさまでした。
長くなったので、『なぜ「時を表す副詞節(条件節)」には will は使えないか』(実際は使えるんだけどね。)のなぞ解きと、would を使った慣用表現の解説は次回に回します。

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willがいいたいこと・著作時吉秀弥
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