ASKAさんが、覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕されてしまったわけだけれども、チャゲアス全盛期に大学時代を過ごしていた僕にとっては、なんだかちょっとしんみりしてしまう話ではあった。
『月9』の金字塔、『東京ラブストーリー』が放映された年に一人暮らしをはじめ、家のテレビで「うおっ、いま、鈴木保奈美が、『セックス』って言った、言ったよな!!」と自分自身に大声で語りかけてしまった僕にとって、チャゲアスというのは、「学生時代のBGM」みたいなものだったので。
『SAY YES』や『YAH YAH YAH』直撃世代としては、「ああ、これからカラオケでこの曲を誰かが歌うたびに、ASKA覚醒剤で捕まったんだよなあ、と思い出すことになるのか……」と。
人は人、創作物は創作物。
そんなふうに割り切れたらいいのだけれど、現実にはそうもいかなくて。
坂本九さんの『上を向いて歩こう』を聴いたり、向田邦子さんのエッセイを読んだりすると、飛行機事故のことが頭に浮かんでくるし、三島由紀夫さんの小説を読むと、三島さんの最期の日のことを想像してしまう(僕はそれをリアルタイムで観たわけではないので)。
鷺沢萠さんの作品を読むと、なぜ彼女はあんな形で幕引きをしてしまったのだろう、と思う。
僕が大好きな中島らもさんに関しても、以前「中島らも好きなら、大麻を合法化するべきだという、らもさんの主張も指示するのか?」と問われたことを思い出す。
いや、僕は、らもさんの作品は好きだけれども、アルコール依存になりたいわけではないし、薬物中毒になりたいわけでもない。
しかし、そう言われてみると、「大麻が良いものとは思わないし、合法化には(もちろん)反対だけれども、らもさんの薬物を扱った作品は好き」というのは、どういうスタンスなのだろうな、と考え込んでしまう。
らもさんの場合は、「そういう世界」への理解というか指向みたいなものが、作家としての個性だったので、「大麻は嫌いだけど、らもさんは好き」があり得るのだろうか。
僕にも、そういう世界への、憧れみたいなものがあったのだろうか(今から考えると「ないことはなかった」のだろう)。
いや、そんなこと悩んでいてもしょうがないのかもしれないけどさ。
別に、カポーティの『冷血』を読む人がみんな殺人を支持しているわけじゃないし、貴志祐介さんの『悪の教典』を面白いと推薦するからといって、教師による生徒の大量殺戮を、現実として望んでいるわけじゃない。
創作物は、それを創った人のイメージに影響を与えるし、逆もまた然り。
これで、チャゲアスの作品には「あの覚醒剤で捕まったASKAの……」という色がついてしまうのだよなあ。
あれだけ売れた曲だし、今さらCDが回収されたり、カラオケのリストから外されるとうことはないのだろうけど。
曲に、罪はない。
だが、そう言い切ってしまうことはできるのだろうか。
たとえは、覚醒剤を使用しながら書かれた曲であっても?
極論すれば、作者が何をしようが、作品は作品だ、とも言える。
こういう事件が起こったあとでも、「SAY YES」のCDからは、同じ音楽が流れてくる、はずなのに。
ところが、受け取る側は、それを「同じように聴く」ことができない。
どんな背景であろうが、「素晴らしい作品は、素晴らしい」のだろうか。
芥川龍之介の『地獄変』に出てくる、生きながら焼かれる娘を描いた絵が、もし実在したのなら、それを、どんな顔をして見ればいいのだろうか。
こういう事件が起こるたびに、僕は「この人の作品は迷惑しているんじゃないかな」と思ってしまう。
まあでも、これが「きっかけ」となって、この土曜の夜に久々に『YAH YAH YAH』をカラオケで熱唱し、「やっぱり良い曲だよなあ!」なんて感心している人もいるよね。
人と、その人が創ったものを切り離して味わうことができるようになりたい。
でも、それって、すごく難しいことなのだ。
日頃のやりとりでの「ひと言」でされも、「誰が言ったか」で、好意的に解釈したり、その逆だったりしがちだからなあ。
こういうときに出てくるのが、ずっとずっと『SAY YES』や『YAH YAH YAH』であり続けているっていうのは、現役の創作者としてはけっこうつらかったのかもしれないな、と、今、ふと思った。