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14-05-16 Fri

[] 2014年解釈改憲問題と1960年安保改定問題  2014年解釈改憲問題と1960年安保改定問題を含むブックマーク


安倍内閣の解釈改憲について喧しく議論され、賛否が問われているが、私自身の賛否はひとまず措くとして、ややもすると本来区別すべき2つの問題がごっちゃにされるきらいがあるように思う。

憲法の“内容”をどうすべきかという問題と、憲法改定の“手続き”はどうあるべきかという問題だ。

ちょうど一昨日の講義で1960年の安保条約改定(新安保条約調印・承認)時のようすを、当時のニュース映像なども見せながら取り上げたところなので、ちょっとその話と絡めてみたい。

言わずもがなではあるが、その時の首相は、今の安倍首相の祖父、岸信介である。


まずごく簡単に経緯を振り返っておこう。

1951年に締結された日米安保条約は、日米関係の対等化をうたい文句に1960年に改定される。

この新安保条約に岸首相が調印したのが同年1月19日。

ただし、首相が調印しただけでは条約は発効しない。

憲法73条に規定されているとおり、国会の承認を要する。

そこでまず衆院に諮られるが、野党の強い抵抗にあって紛糾。

与党自民党は5月19日に議院運営委員会で強行採決、翌20日に与党単独採決で衆院可決にもっていく。

まあ、こないだの特定秘密保護法案の時と同じような強行採決――というか、もうその比ではないくらいの荒れ模様――ですよ。


これで一気に国民的な反対運動が盛り上がる。

次に参院の承認が必要となるが、ここでは衆院の可決から30日以内に議決に至らないと、衆院の議決が優越する(憲法61条)。

なので、内閣・与党としてはそっちの方向へ持っていこうとする。

この間には、国会を何万人何十万人の反対デモが取り囲み、安保反対の署名は1000万人を超えたとも言われる。

しかし、内閣・与党の思惑どおり参院は議決に至らず、改定された新安保条約は6月19日午前0時をもってそのまま自然承認となる。


さて、このとき国民は時の首相・政府(あるいは与党)に、なぜ、何に対して、反対していたのか。

まだ第二次大戦の戦禍の記憶さめやらぬ当時なので、「安保改定してまた戦争するのか、戦争できる国にするのか」と左翼的に反対していたのだろうと――つまり安保(改定)の“内容”に反対していたのだろうと――今の私たちは思いがちだろう。

だが、必ずしもそうではない。

国会を取り囲んだり反対デモしたりして声をあげているやつらばかりでなく、「声なき声」にも耳を傾け、世論全体をみなければならないとおっしゃった岸首相にならって、当時の世論調査をみてみよう。


朝日新聞は、1960年1月11, 12日に全国世論調査をおこない、その結果を18日の朝刊一面に掲載している。

新安保条約の調印直前におこなわれた調査である。

朝日の調査なんて信じられるカー、偏向ガー、云々とおっしゃる方々もいるかもしれないが、まあちょっと待て。

結果をみてから言ってくれ。

少なくとも調査対象は層化二段無作為抽出という信頼性の高い手法でサンプリングされているし、調査票設計も私の見る限りとりたてて誘導的ではない。

「こんどの安保改定で、日本が戦争にまきこまれるおそれが強くなった」という人がいます。あなたはそう思いますか。そうは思いませんか。

そう思う 38%

そうは思わぬ 27%

その他の応え 1%

答えない(わからない) 34%

確かに「そう思う」の方が「そうは思わぬ」より11ポイント高くはなっている。

しかしながら、過半数には達していない。

さらに注目すべきは、次の回答結果である。

結局、安保条約が改定されるのは、よいことだと思いますか。よくないことだと思いますか。

よいことだ 29%

よくないことだ 25%

その他の答え 6%

答えない(わからない) 40%

これについては「よいことだ」が「よくないことだ」を4ポイントだが上まわっている。

もっとも態度保留派「答えない(わからない)」が最も多いので、これをもって安保改定賛成が多かったとまでは言えないでしょうが、朝日がやってこれですよ(笑)

少なくとも、安保改定(新安保条約)の“内容”そのものに当時の国民が強く反対していたとは言いがたいんじゃないでしょうか。


しかしながら次に、衆院での強行採決直後5月25, 26日に同じく朝日新聞がおこなった全国世論調査の結果をみてみよう(6月2日の一面に掲載)。

新しい安保条約の国会審議で政府や自民党のやり方は、よかったと思いますか。よくなかったと思いますか。

よかった 6%

よくなかった 50%

どちらともいえない 18%

その他の答え 1%

答えない 25%

ここでは「よくなかった」が半数に達し、明らかに反対派が優勢である。

じゃあ国民は野党を支持していたのかというと、そうではない。

「社会党のやり方」は〈よかった〉11%に対して、〈よくなかった〉が32%に上る。

当時の社会党(の左派)は「革命」を容認していたので、必ずしも議会制民主主義を護ろうとするスタンスをもたず、それゆえに国会で審議放棄・拒否したと国民にみられ、反感を招いていた。

この与党・野党そろっての議会制民主主義という“手続き”の軽視を、国民はどう見ていたか。

いまの国会は、国民の代表として、ほんとうに国民のために、働いていると思いますか。そうは思いませんか。

働いている 17%

そうは思わぬ 56%

その他の答え 5%

答えない 22%


これらの回答結果にあらわれているように、当時の国民は、安保改定の“内容”よりむしろ、改定のために取られた“手続き”――より正確には議会制民主主義という“手続き”をないがしろにしたこと――に対して、強く反対したのである。


このような当時の国民の見識、良識は、今一度評価されてしかるべきではないかと私は思う。

深まる東西冷戦対立構造のもと、「理想」がどうあるべきかとはまた別に、国民はどうしても「現実」主義的な対応を考えざるをえなかった。

その苦渋、悩み、ためらいの跡は、「戦争にまきこまれるおそれが強くなった」と思うかどうか、と、「安保改定はよいことだ」と思うかどうかの、回答分布の乖離からも読み取れよう。

それでも議会制民主主義の根幹を揺るがすような“手続き”に対しては、国民は明確に異を唱えたのである。


ひるがえって現在、改憲の論拠のひとつとして挙げられているのは、東アジア情勢の変化という「現実」への対応である。

憲法も「現実」に応じて改定すべきという理路はひとまず認めるとしよう。

しかし、「現実」への対応は、立憲主義や民主主義の“手続き”からの逸脱を許容するための論拠にはなりえない。

どのような「現実」あるいは「理想」をもってこようとも、それは“手続き”を軽視する論拠たりえない(立憲主義や民主主義を否定するような「理想」を立てるなら別だが)。

恣意的な解釈改憲は戦争を招くからダメという議論も、理路としては成り立たない――たとえ仮に「現実」問題としては恣意的な解釈改憲を認めると戦争につながる蓋然性が高いとしても、だ。

だって、「現実」は変わるものだし、その変化に応じて政権が替われば、その解釈改憲によって逆に自衛隊を撤廃することすら簡単にできるようになるわけで。

その意味で、恣意的な解釈改憲の問題は、戦争につながるかつながらないか等とはそもそも別次元の問題なのだ。


この問題を、スポーツに――たとえばサッカーに――喩えて考えてみよう。

手も使えたほうが試合おもしろくなるよね、と考えるプレイヤーがいるとする。

言ってみれば、ハンド禁止というルールはないほうがよいことを「理想」とするプレイヤーである。

だから、そいつは「二の腕を使ったくらいじゃハンドじゃないよ、現実問題としてそのほうが試合おもしろくなるし、二の腕はハンドじゃないってことにしよう」と言い、ハンド禁止は絶対を「理想」とするプレイヤーやファンたちの反発を受けつつも、押し切って慣例化してしまう。

ルールの明文規定としてはハンド禁止を残したままにして。

これが解釈改憲だ。

今回は、これが「手の平使うくらいまでいいんじゃない、現実問題そのほうがもっと試合おもしろくなるだからさ、指先がふれてなければハンドじゃないってことにしよう」と言っているようなものだ。

ハンド禁止というルールは明文規定としてそのまま残っているにもかかわらず、それがどんどん形骸化されていく。


ここで損なわれるのは、ハンド禁止という当該ルールの意味・効力だけではなく、ルールは守られなければならないものであるということ、それ自体である。

「だったら、オフサイドも1メートルくらいはいいんじゃない、現実問題そのほうが試合おもしろくなるしさ」等々と続いていったとしても、歯止めがきかない。

そこから最終的に帰結するのは、何でもありのルールなき試合(ですらない状態)であり、サッカーというスポーツそのものの崩壊である。

ハンド禁止のルールの明文規定をきちんと変更していれば、それまでのサッカーとは異なるスポーツになっていたかもしれないが、こういうことにはならない。

ルールは守られねばならないものであり続けるから。

1960年の安保改定時に国民が強く反対したのは、ハンド禁止の緩和そのものではなく、明文化されたルールがルールとして意味をもたなくなる、形骸化するということであったのだ。

ルールを守らなくてよいプレイのくり広げられるスポーツから観客・ファンが離れていくように、ルールを守らなくてよい政治のくり広げられる場から国民が離れていき、関心を失っていったことは、その後の歴史が物語るところだろう。


【結論】

  1. 改憲するか否か以上に、解釈改憲するか否かは、基底的で重大な問題である。
  2. それゆえ、政治家もメディアも、今回の解釈改憲問題については、改憲そのものに賛成か反対かとは明確に切り離して、争点化すべきである。

ちなみに私自身は改憲には必ずしも反対ではない(と言っても諸手を挙げて賛成でもない)が、少なくとも今回の解釈改憲には絶対反対である。

それはともかく、そういえば、安倍政権の教育再生実行会議って規範意識を育むとか謳ってませんでしたっけ?

首相が国家規模で「目的のためにはルールなど多少守らなくてもかまわないのだ」というメッセージを発していても、規範意識って育めるんですかね?