超古代文書一覧
九鬼文書
「くかみもんじょ」と読みます。ご存じのように綾部九鬼家に伝わるもので
あり、古史のみでなく、たいへん広い範囲の内容を含んでいます。超古代史
の中では、信憑性の比較的高そうな文書のひとつです。一部古代文字の春日
文字で書かれた部分があるようです。伝説では、天児屋根命が天孫降臨の頃
(180万年前)に書いたものを奈良時代に藤原不比等が書き直したといわれま
す。綾部ということから、大本教の出口王仁三郎に大きな影響を与えたと
いわれています。
竹内文書・宮下文書・上記とともに、神武天皇以前のいわゆる「ウガヤ朝」
の存在を書いています。
竹内文書
武烈天皇の命により平群真鳥が、当時存在した古文書を当時の現代の文字に
直したものである、とされています。実際にこの文書を世に出したのは天津
宮の竹内巨麿で、明治政府の天津教弾圧で出版ができないまま本体が太平洋
戦争の空襲で焼けてしまいました。現在は天津教の当時の信者が部分的に書
き写していた断片の寄せ集めでしか見ることができません。
創造神・元無極躰主王大御神以来の歴史を記述。天津教にとっては、今でも
たいへん重要な文書です。
宮下文書
「富士古文書」ともいいます。孝霊天皇の時代に日本に渡来した徐福が富士
山大神宮の神官から見せられた古文書をもとに漢文で書いたものを天智天皇
10年に中臣藤原物部麻呂という人が書き直したとされています。
富士山の神であり皇室の祖先神でもある木花咲耶姫命が、富士の火口に飛び
込んでこの山の守護神となったくだりの記述は有名。実際、木花咲耶姫命が
富士山の神とみなされるようになったのは近世からですのでこの文書も江戸
時代初期より以前の時代までは遡りません。
なお徐福というのは中国の秦の始皇帝(在位BC221-210)の命により東方の仙人
の島へ不老不死の薬を探しに行ったといわれる人で、日本では徐福は日本に
来たのではないかという説が根強くあります。
上記
「うえつふみ」と読みます。鎌倉時代の初期に豊後国の大友義能が編纂した
とされています。比較的歴史家系の研究者の多い文書です。元々は豊国文字
と呼ばれる古文字で書かれていたようです。
物部文書
秋田の唐松神社に伝わる古文書です。饒速日命が鳥海山に降臨してから7世紀
の物部氏の滅亡までの記述があります。物部文字(アヒルクサモジ)にも言及
されているようです。
但馬故事記
平安初期の嵯峨天皇の命により編集が始まり、平安中期の円融天皇の時代に
完成した「但馬国司文書」の一部とされ、明治時代に兵庫県の小田井県神社
の大石繁正が発表しました。兵庫県地方の饒速日命伝承をまとめたものでは
ないかともいわれています。
甲斐古蹟考
山梨県の錦村の旧家に伝わっていた文書。手力雄神との関連も指摘される、
佐久大明神の伝承が書かれています。大正時代に須田宇十が整理編集して
出版しました。
春日文書
この文書は古代の有力氏族のひとつ春日一族に伝わっていたとされる文書で
昭和に入ってからも「見た」という報告があるが、実物はまだ世に出ていない。
秀真伝
「ホツマツタエ」と読みます。ホツマ文字と呼ばれる独特の古文字で書かれ
た五七調の美しい文書でファンも多い。景行天皇の時代に意富多多泥古こと
三輪季聡が撰修したとされています。
江戸時代にも非常に注目されていた文書ですが、全編が世に出たのは戦後の
ことです。五七調という形式が成立したのはかなり新しい時代であることと
美しすぎることもあって「間違いなく偽書」と判断する人が多いのですが、
チャネリング系の古書である可能性もあると思われます。恐らくは江戸時代
初期の成立か?また思想的に非常に興味深いものがあり、日本の神について
考えたり、太占の研究をする際には、貴重な資料です。性別について昔から
両論のある天照大神を男神とし、八人の妃神がいたとする記述は有名。
三笠紀
「ミカサフミ」。秀真伝の姉妹文書であり、同じくホツマ文字で書かれてい
る五七調の文書です。景行天皇の時代に三笠臣という人がまとめたとされて
います。実際、秀真伝の著者と近い関係の人が執筆したものと思われます。
東日流外三郡誌
「つがるそとさんぐんし」と読みます。寛政5年にまとめられたとされ、戦後
和田長八郎(秋田孝季)が発表しました。ほかの超古代史とは一線を画し、
東北地方の独特の神系統について記述されており、縄文文化の研究者は一度
読んでおきたい文書でもあります。