064 Route43
(狼さんのOPを歌ってから読もう(≧∀≦))
駆け出しそうに高鳴る胸にリュートを抱きかかえて五十鈴は二十センチほどの段を登った。猫背になりそうないたたまれなさと駈け出してしまいそうなときめきに引き裂かれながら、意識してゆっくりと進むと、今日の相棒のトウヤと目が合う。トウヤはにこりと微笑みかけると、缶や箱を括りつけた即席のドラムセットを軽く蹴って挨拶をしてきた。
五十鈴は五十鈴自身は不敵だと思える笑顔を向けてリュートをちょっと持ちあげる。マリエールが作り〈ロデリック商会〉が改造をした〈精霊遊戯のリュート〉だ。
小さな、ほんの小さなステージのまんなかで店内を見渡せば、十メートル四方の空間だった。アキバの街の中央通りに数多くある飲食店のうちひとつ〈ブルームホール〉である。
もともとただの廃墟でしかなかったこの辺りの廃ビルは、〈海洋機構〉の実験的なリフォームの対象となり、〈冒険者〉たちの手に渡った。この店はその後も数度に渡る改修を受けて、今では〈第七鼓笛隊〉の持つ店となっている。もっとも店そのものを運営するスタッフの多くは〈大地人〉だ。〈冒険者〉の多くは忙しくて店舗の運営や事務仕事に関わる暇がない。アキバの街では共生とでもいうような合体経営の店が現在の主流となっている。
カントリー風の店内には贅沢にマジックライトが灯り明るかった。
その光のなかで五十鈴が頭を下げると、大きな拍手が湧く。
席数は七十程度だろうか。それがほぼ満席になっている。
帆布張りのがっしりしたソファーに飴色のテーブル、壁にはられたメニューに、あちこちにある手書きのイベントスケジュール。
アキバの街に身を寄せ合った〈冒険者〉と〈大地人〉が知恵を出し合って、ああでもない、こうでもないと、工夫して作り上げた店である。元の世界のように、効率優先の建築や、一般的で無難な内装というものがない。ひとつひとつのギルドホールや住居、店舗は、全てが手作りなのだ。
雑多な雰囲気を宿したこの店は、小さなベランダほどのステージを持つ、レストランとファーストフードとライブハウスの中間のような形態で営業をしている。ファンタジー小説でいえば「酒場」なのだろうが、アキバの〈冒険者〉はあの手の作品の冒険者ほど酒を浴びるように飲んだりはしない。どちらかといえば、飲むより食べるほうを重視しているほうが多い。この店もそんな風潮を反映して、明るい雰囲気だ。
そんな店内を見渡して、緊張感を少しでも薄めようとした五十鈴は、客席の中にいくつかの見知った顔を見つけ出して覚悟を決める。
緊張するのは、いいことだ。
それが楽しく感じるようになれば、もっと上手くなれるはず。
五十鈴は思い切って最初の音をかき鳴らした。
色々と考えてしまうのは演奏が始まる前までだ。それから先ははじけたような気分になるのはわかっている。
もらった時間は六曲ぶん。その三十分という長さは、どんな夢でも叶えられそうなほどに長く、まばたき三回で終わるほどの短さでもある。
喉元から飛び出そうなのは楽しさと期待のあまり駆けてゆく五十鈴の心臓の音だ。
トウヤがキックするドラムのリズムにぴったり合わせたような鼓動に微笑みを浮かべながら、五十鈴は八分音符を空中にばらまいた。
シロエからもらった制作級アイテム〈琥珀竜の爪〉が弦の上を滑ってゆく。リュートの本来の奏法ではないのだが、このほうが派手な演奏になるのだ。まるでスケートリンクを回るみたいね、と五十鈴は頭の片隅で思う。
嬉しさが波のように押し寄せてくる。
きっちり張り詰めた弦をかき鳴らすたびに、その抵抗と振動が指先から手首へと染み渡る。はじける炭酸水を何百倍も強くしたような、弾けるような刺激だった。それは五十鈴にとって喜びなのだ。
両手の中に楽器があるという、ただそれだけのことで、五十鈴の頬はだらしなくゆるんでしまう。その楽器が五十鈴の求めに応えて産声を上げているのだ。リュートは五十鈴の求めに応じて、キレのいいリフを紡いでくれた。今度は五十鈴の番だ。
誕生の挨拶をするような気持ちで、五十鈴は最初のひとことを唇にのせる。
何の変哲もない平凡なはずの自分の声が、思ったよりも朗々と店内に響く。電気的な拡声技術のないこの世界なので生声だ。それでもこの大きくはない店内を満たすのは十分なのだった。
五十鈴はいつでもとても不思議な気分になる。どこにでも居るような田舎の女子高生にすぎない自分の声は、こんな音色をしていただろうか?
五十鈴がここで演奏をするようになったのは、当たり前だがここ一ヶ月のことである。数えてみても片手で収まるような数のステージ経験であり、〈大災害〉まえに暮らしていた郊外の故郷で似たような経験などあるはずもない。周囲には空き地と畑が広がる幹線道路沿いにあるコンテナのようなカラオケボックスが知っているせいぜいだ。
だから自分自身の声がこんなにも甘やかで伸び伸びとしていることに、毎回のようにびっくりしてしまう。
しかし、それも呼吸ひとつ、ふたつ分だけのことである。
物思いも躊躇いもあっというまに音の洪水に飲み込まれていく。
ほてったように震える腕は刻むように動かし、びりびりと震える喉で声を振り絞る。
なんてことはない、地球ではありきたりだったロックナンバーだった。
五十鈴が小さい頃から聞かされてきた、父親のコレクションでおぼえた曲だ。
その耳になじんだ曲を、破れかぶれな勢いに任せて五十鈴は演奏して、歌った。五十鈴の持つ〈吟遊詩人〉のオーラにつつまれて、トウヤがドラムは努めてくれているが、他の楽器はない。元の世界の常識で言えば、バンドとも言えない小規模な編成の、やっつけなステージである。
でもそんな申し訳無さも、夏の入道雲のように湧き上がる喜びの前には無意味だった。
五十鈴は五十鈴のステージで歌っているのだ。
それは五十鈴が想像していたよりもずっと鮮烈で感動的な体験だった。
マジックライトの光のなかで、五十鈴は五十鈴ではない何者かになった。細いだけで起伏に乏しい、ぱっとしない身体を持った、くせっ毛の女子高生はいなくなる。自信満々の輝くような笑顔でリュートをかき鳴らす〈吟遊詩人〉の五十鈴になるのだ。
弾けるような喜びは五十鈴にクリアな視界をもたらした。
みっちりとうまった席では様々な人が五十鈴を見ていた。
みんな笑っている。
顔なじみになった店長のドワーフが大きな口をへの字に結んで、それでも楽しそうにつま先でリズムをとっていた。五十鈴は返礼をするような気持ちで身体ごとリュートをつきだしてFの音をアーチのように届ける。
カウンター席のにゃん太とセララは、身を捩るようにしてステージを見てくれている。火照ったような頬のセララ、見守るような微笑のにゃん太。胸の前で小さな拳をぎゅっと震わせているセララは本当に可愛らしかった。五十鈴の知っている中で一番乙女らしい少女だ。落ち着いて紳士的なにゃん太は銀色のヒゲを揺らしてゆっくりと演奏を楽しんでいるようだ。
ふたりの柔らかい雰囲気が五十鈴の中に流れ込んでリュートに一層の輝きを与える。
最初の曲が終わり店内にいるほとんどがドラムにあわせてテーブルを叩いてくれた。楽しかった。五十鈴はいま、バスドラムのお腹の中にいるのだ。店内はひとつの打楽器だった。五十鈴は楽しくてぐるぐると回ってしまう。視界に映るおさげのしっぽを追いかけて、五十鈴は足首で跳ねるように鼓動をとった。
もどかしくて切ない。五十鈴の幸せは、みんなに伝わっているだろうか?
くらくらするようなめまいの中で、それでも正確なフレーズを紡げるリュートに感謝する。このリュートは五十鈴の相棒だ。
〈ハーメルン〉から開放されはしたけれど、なにをすればいいかわからなかった五十鈴が〈三日月同盟〉で見つけたのがこのリュートだった。〈木工職人〉だったギルドマスターのマリエールが昔作ったアイテムなのだという。あちこちに手を加えて改造してしまったので、最初の頃の面影はないが、でも、このリュートが異世界放逐の孤独感を癒してくれたのは確かなことなのだ。
五十鈴とリュートはもはや一心同体だった。
学校も部活もないこの世界の暮らしの中で、五十鈴の生活はギルドの家事をするか、仲間たちと狩りをするか、リュートを弾くしかない。
TVもWebもない、有線も映画もないこの世界で、音楽を聞きたければ、自分のリュートをかき鳴らすしかないのだ。
心強い相棒から伸びるリボンじみたケーブルの先では、てるてる坊主にも似た精霊が声をはりあげている。リュートの胴から振動をピックして拡大してくれる精霊だ。従者召喚を可能にする低レベルアイテム〈セイレーンの貝殻〉を改造した〈ロデリック商会〉の工夫である。本来は繊細で典雅な音色を持つ古楽器リュートは、その工夫で表現の幅を一気に増やした謎楽器に進化した。しかし、五十鈴はそんな相棒が大好きなのだ。
視線のあったマジックライトがまばたきをして、ニッコリと微笑んだ。
忘れていた。ありがとう。
そんな気持ちを込めて五十鈴はうなづいた。
いまは何曲目だろうか? くらくらしてよくわからない。三曲か、四曲はやったと思う。
熱い身体はどこかへ飛んでいきそうなほどだ。羽が生えたようで疲労なんて欠片も感じられない。
もしかしてこれも〈冒険者〉になって体力が増大したせいなのだろうか?
それもちょっと違うような気がする。
むしろ五十鈴の背中にケーブルがついていて、そこからエネルギーがどんどん充電されているような気分だ。拍を刻むキックの音に、店内を満たす足踏みの音に、それは凶暴に荒れ狂う雪崩のような喜びだった。五十鈴は陽気でバカらしいロックナンバーをうたった。お父さんのもっていたコレクションのオールディーズだ。
上手な演奏じゃないだろうな、と五十鈴は思った。
何しろ五十鈴には音楽の才能がない。
それを父親から何十回も聞かされて育った五十鈴だった。
五十鈴は量産型の田舎女子高生なのだ。楽器は学園祭でちょっと演奏が出来る程度にしか過ぎないし、歌のほうは放課後カラオケレベルだ。どっちも専門の教育を受けたわけじゃないし、ミュージシャンの父になんて及びもつかない。
しかし、だからといって、そんな事情は現在ただいまの、輝かしいこの瞬間には無関係だった。
喜びというのは感情なんかではない。
そんなあやふやなものではなくて、れっきとした実在のエネルギーなのだ。
普段は見えもしないし触われもしない無色透明のこの力が、みんなの中には眠っている。五十鈴の中にも、トウヤの中にも、にゃん太やセララの中にも、いまこの店に集まったすべての人々の中にも。
それが溢れだしてステージに降り注ぎ、五十鈴に接続されて、リュートを演奏させている。だから、才能なんて、実は関係ないのだ。楽しいし、幸せで、みんな喜んでいるのが、その証拠だ。
五十鈴から見て一番遠い店の入口の脇に、金色の輝きが見えた。
興奮したように頬を染めたわんこの王子様は、五十鈴に両腕を振っていた。
それを見ただけで五十鈴のリュートはいっそう冴え渡り軽々と限界を突破した。
わけがわからないほどの気持ちに満たされた五十鈴は、緩みそうになる頬をいっそあきらめて、大きく笑うと、歯をむき出しにしてリュートのネックを返礼のようにふってあげた。照れくさくて、恥ずかしくて、どうしようもない。ピンク色になった音符があふれてしまいそうだ。
次のナンバーもすべてを吹き飛ばすほどご機嫌だろう。
五十鈴の盟友であり同僚であり専属荷物持ち係であり散歩団の護衛であり王子様であるルンデルハウス=コードの大好きなスロウバラードだ。
仕方ないのでこの曲をルディへのご褒美にしよう。
五十鈴はそう思って深呼吸をした。
空気を読んで柔らかく光量を絞ったマジックライトの輝きの中で、五十鈴は次の一曲を歌い始めた。
それは今日この日のなかでも、一層特別な演奏だった。
◆
「今晩は少し暖かいですかにゃ」
「はい、にゃん太さん」
店を出て少し歩けばそれでもアキバの夜はひっそりとした素顔を見せた。
ラジオや有線放送が存在しないこの世界、車や鉄道すらないこの異世界は、都会の喧騒とは無縁だ。〈天秤祭〉のようなお祭りでもあれば別だが、二月が始まったばかりのこの時期、まだまだ朝晩の冷え込みはきついため、夜の街はひっそりとしている。
〈ブルームホール〉を出た五十鈴、ルンデルハウス、トウヤ、にゃん太、セララの五人は微笑みながらギルドへの帰途へついていた。
大通りのあちこちには〈蛍火灯〉で乳白色の明かりが灯っているが、一行はさらにルンデルハウスの〈マジックライト〉を先導に進んでいた。
みな上機嫌だった。
先頭を歩くルンデルハウスは興奮したようにトウヤと話している。
セララとにゃん太も楽しそうだ。五十鈴はふわふわとした幸福に包まれて後をついていく。
トウヤとルンデルハウスは大きな荷物を持っているが、五十鈴はリュートを胸の中に抱えているだけだ。街なかを歩くだけの今日はみんな普段着だし武器だって持っていない。〈記録の地平線〉に入った頃には〈大災害〉からつづく落ち着かない生活で私服や私物も少なかったけれど、いまではギルドハウスに部屋ももらったおかげで、普段着の数も増えた。考えてみればチョウシの町の防衛戦から、もう半年も過ぎたのだ。
「ミス・五十鈴。大丈夫か? 疲れてないか?」
「ぜーんぜん。元気いっぱいだよ!」
ゆっくり歩いていた五十鈴を心配してルンデルハウスが振り返ってたずねてくる。
誤解させてしまったらしい。
五十鈴は満たされた気分でみんなを見つめていたかっただけなのだ。
「身体が冷えないうちにギルドハウスに帰るとしますにゃ」
「おなかもいっぱいだし!」
にゃん太とトウヤがそんなやり取りをして、小さな交差点を一つわたる。
夜の道を歩く仲間たちはみんな穏やかな表情をしていた。
ルンデルハウスも五十鈴も、いまではすっかり〈記録の地平線〉に馴染んでいる。
〈記録の地平線〉は穏やかで居心地の良いギルドだ。ここにはいないミノリとも五十鈴はすっかり親友になった。健気で生真面目な年下の友人とはもう何年も付き合ってきたような気さえする。セララもそうだ。にゃん太の隣でとろけたような笑顔を見せる彼女のことも、五十鈴は大好きだった。
五十鈴の盟友ルンデルハウスも〈ラグランダの杜〉でみせていたような張り詰めた表情を緩めてくれたようだった。ルンデルハウスとトウヤは年少男子組としてやはり友人になった。二人が一緒にいると本当に騒がしい。男子というのは集団で行動すると精神年齢が低下するということを五十鈴は知った。
シロエやにゃん太、直継やアカツキといったギルドの年長組とも徐々に親しくなっていった。
にゃん太は親しみやすいギルドの最年長だった。落ち着きがあり、おしゃれなダンディで、ギルドの厨房は彼の領域だった。胃袋という急所を掴まれた年少組はあっというまににゃん太にめろめろになった。
直継はトウヤとルンデルハウスを通じて段々とわかるようになった青年だ。いつも話をまぜっかえす年長組のムードメーカーだが、意外と気配りの人であると五十鈴は思っている。ギルドの内装や設備で何か問題があれば直継に相談するのが一番だ。
最近では、直継とトウヤ、ルンデルハウス(それに時にはにゃん太)は男の友情的ななにかを育んでいるらしい。特訓だといっていた。なんだか子供っぽいのだけれど、五十鈴とミノリは見て見ぬふりをしているのだ。ルンデルハウスとトウヤは直継にしたがってあちらこちらへと出かけては、にやにや笑いながら泥まみれになって帰ってくることも多かった。ミノリと五十鈴はそのたびに苦笑いをしながら入浴の用意をするのだ。
アカツキは物静かで辛辣で謎めいた女性だった。人見知りをするのか話しかけてもぶっきらぼうの返答をされることが多い。五十鈴はギルドに参加した最初のころ少し苦手だと思っていたこともあった。でも本当は優しくて隠されたユーモアだってあるひとだ。洗濯と大掃除が大好きで、しかも人手を借りないでこっそり大規模に行う癖がある。目を離した隙にギルド中のシーツがベランダに翻っているとすれば、それはアカツキがやった仕事だった。
年明けから〈記録の地平線〉に参加をしたのはてとらという施療神官だった。物おじしないひとらしく初対面から五十鈴は抱きつかれた。五十鈴だけではない。とっさに身を躱したアカツキ以外は全員だ。賑やかなてとらは明るくてあっという間にギルドのムードメーカーになっている。
一方で長い間よくわからなかったのがギルドマスターのシロエだった。
普段の食事中などはぼんやりしてたり、みんなに調味料や小皿を配ったりと、全然すごいところが見えない。居間のソファーで昼寝しているところなんてくたびれきった感じだ。掃除や買い出しの時などは「役に立たないから部屋に行っとけ」などと直継やアカツキに邪険に扱われている。
街なかで噂を聞いてみると目付きが悪いであるとか、邪悪な策士であるとか、アキバの命数を握る悪魔であるとか、円卓会議の黒幕であるとか、ろくなものがなかった。目付きが悪いというのは同意した五十鈴でも、ちょっとそれは買いかぶり過ぎな評価じゃないか? と思うものも少なくない。
それだけならまだしも、五十鈴よりもシロエと付き合いの長い親友ミノリの弁によれば、シロエは本当に好青年なのだという。優しくて、面倒見がよくて、聡明で、紳士的で、なんでもできるわたしの憧れ――そうまで言われてしまった。
まるで三種類のシロエが日替わりで出てきているほど支離滅裂な人物像だ。
五十鈴の中でシロエのことが少しわかってきたのは、ある日にゃん太に聞いた「シロエちは長男病ですにゃ」という一言をきっかけとしてだ。シロエは、五十鈴には信じられない程、それこそ常識を超えたほど、頑張り屋なのだ。そしてものすごく才能を発揮する分野はあるけれど、それ以外の点では不器用でもあるのだと、五十鈴は思う。
シロエのことを少しだけ理解をしてから、五十鈴はミノリを素直に応援できるようになった。
そんな風に〈記録の地平線〉と五十鈴はゆっくりと仲良くなりながら、時間を重ねていったのだった。
毎日というのは強引なものだと五十鈴は思う。
なにもしなくても、人間は朝昼晩にお腹が空くものなのだ。
お腹が空けばご飯が必要で、その準備をしなくてはいけない。〈記録の地平線〉には〈料理人〉のサブ職をもつにゃん太が在籍しているが、だからといって食事の準備全てを押し付けて良いはずもない。
そもそもこの世界において食事の準備は重労働である。元の世界のように便利なカット野菜や調味料やインスタント食品があふれているわけではないのだ。一回の食事の準備はちょっと凝った料理をしようとすれば簡単に一日仕事になってしまうし、材料を買ってくるにしてもネットスーパーで宅配とはいかない。
そんな重労働をにゃん太ひとりに丸投げするのは不健全だ。〈記録の地平線〉では朝ごはんは料理をしなくても食べられる作りおきのものだと決定され、さらに週に二回は「にゃん太班長お休みデー」が作られた。
食事の準備に手間がかかるというのはどこのギルドでも共通の悩みで、アキバにおいて最も目につく店舗は飲食系だ。ふらりと立ち寄って食べて行ける定食屋や汁物屋などが多い。ゲーマーが寄り集まった街だからだろうか。質実ともなった腹にたまる料理を出す店が多く、ついで菓子屋やテイクアウトの軽食、屋台などが続く。デートに使えるようなおしゃれな店や、超高級店はほんの僅かだ。
お惣菜を売り出す店は初期から多かったが、〈第八商店街〉が主導して屋台村を作り、さらにはアキバ駅廃墟のガード下に商店街モールをつくってからは安心していろんな味を買い求められるようになった。
「にゃん太班長お休みデー」にはそんな店でお惣菜を買い求めたり、ギルドメンバーで外食をしたりするのだ。
そんな外食の習慣がほんのちょっと変わったのはスノウフェルのころからだった。
〈ブルームホール〉で飛び入り演奏をした縁で五十鈴はスカウトされ、週一回程度のペースで今日のように小さなライブをするようになった。
〈吟遊詩人〉の能力は演奏や歌唱を補正したり上達させるものではない。しかし〈吟遊詩人〉や類似サブ職を持たない〈冒険者〉は自身の持つ音楽的才能に制限を受ける。どんなに演奏が上手であっても、自動的に音程が外れた音が飛び出す可能性があるのだ。
〈歌姫〉などのサブ職につけば、本人の練習次第で上手な歌が歌え、能力制限により足を引っ張られることがないという意味である。〈吟遊詩人〉による制限解除は周囲の人間にも及ぶため、五十鈴がステージに上るときは、トウヤやミノリ、セララにリズムやサブ楽器をお願いすることが多い。わんこの王子様は残念ながら本人に音楽の適性がなかったために主に応援役だ。
「ミノリちゃんもこれればよかったのに」
「そうですにゃあ」
「しょうがないよ。ミノリ、バイトあるからさ」
「カラシンさんのとこだったっけ?」
「ミス・ミノリは職業婦人ということなんだね」
「あはははは」
「でも、そろそろ終わるはずですよね」
「シロエ兄ちゃんと一緒に帰ってくるんじゃないかな?」
音の渦に浸って高ぶっていた心音が、前を歩く仲間の会話に癒されてゆっくりと普段通りに戻っていく。それは夢が去っていくような寂しさと、それでも消せないほどの幸福が伴っていた。
(お父さんみたいなプロにはなれないけれど、たまに憂さ晴らしでリュートを引くくらいは、いいよね)
ステージに上ってみて思いしらされたことがひとつある。
五十鈴は本人が思ってるよりもずっと音楽が好きだったらしいということだ。両腕の中のリュートを愛し気に撫でる。たわわに実ったような胴は共鳴部だ。ウッドベースを担当していた五十鈴だが、リュートにはウッドベースにはないような繊細さと古風さがあると思った。
(うへへえ)
昔使っていたウッドベースは量産品だが(だとしても女子高生の五十鈴にとってはびっくりするほど高価だ)、このリュートはマリエールの作成した一品物である。弦の両脇には貝の内側の虹色の部分をモザイクにして作った優美な螺鈿が象嵌されている。もらった時に比べてあちこち改造してしまったけれど、イルカに似たその模様は五十鈴のお気にい入りなのだ。
ロッカーたるもの愛器のひとつも持たねばならない! と信仰する五十鈴にとって、リュート〈空飛ぶイルカ〉はまさに愛器なのである。
「どうしたの? 五十鈴ねーちゃん」
「ふえ?」
「五十鈴さーん」
気が付けば五十鈴の周りに皆があつまっていた。
「へ? へ?」
「にやにやしていたぜ、ねーちゃん」
「そんなことないよ!」
「にこにこしてました」
五十鈴はほっぺたに手を当てた。そんな顔をしていたのだろうかと確認すれば、ほてった頬は確かに緩んでいるように思える。
「ミス五十鈴はまだ興奮中なのだ」
「そんなのじゃないってば、ルディ!」
五十鈴が詰め寄るようなそぶりで声を大きくすると、ルンデルハウスはあきれた様なそれでも優しい笑みで周囲に助けを求めた。トウヤはそれに「たしかに五十鈴ねーちゃんはすごかった」と返す。
「そんなことないからね。あんなの、たいしたことないんだから。子供のころから家に楽器があったからちょっと出来るだけでっ」
「そんなことはありませんにゃ。皆、幸せそうだったですにゃあ」
ニコニコ顔で同意するセララの隣で、にゃん太までが五十鈴を褒めてくれた。顔が真っ赤になってしまう五十鈴にさらに追い打ちをかけたのは、味方のはずのルンデルハウスだ。
「ミス五十鈴は精霊もかくやというほどの芸術家なのだ。妙なる調べはこの街の夜を潤す。来週から始まる旅だって、彼女がいれば心楽しいものになるのさ。……ん、どうしたのだい? ミス五十鈴?」
「だ、か、ら、ル、ディ、イはぁ!」
五十鈴は恥ずかしさが我慢できずにルンデルハウスを追い回した。
嬉しいけれど、みんなの顔をまともに見ることもできない。まだ冷たい夜の空気の中で、その追いかけっこはギルドハウスに到着するまで続いた。
◆
〈大災害〉から続く半年の間、アキバに存在する遺跡ビル群のなかで最も多くの改修を受けた建物の一つがギルド会館である。
一階はギルド事務受付と銀行、そしてホールが存在する。二階から四階は個別ギルドに貸し出すギルドホールの転送式ドアが並ぶホテルの通路のようなフロアだ。八階は〈円卓会議〉を設立したときに使用した六傾姫の会議場が存在する。
五階から七階はかつて、入居者のいない貸しビルのようなありさまであった。〈エルダー・テイル〉のゲームにおいては目的のない空間だったのだ。もちろんそれは〈大災害〉直後の話である。〈円卓会議〉成立後は、その本拠地となるこの建物の空きスペースは貴重な空間として様々な用途に転用されている。
〈天秤祭〉では生産者ギルド連絡会が設立され、そのほか多くの円卓会議関連団体が事務所を構えるに至った。アキバの町の自治機関である〈円卓会議〉だが、その統治能力は、お世辞にも高いとは言えない。〈円卓会議〉そのものが持つ権力は小さく実務能力も低いのだ。
〈円卓会議〉が曲がりなりにもアキバの街を治めていけるのは、〈円卓会議〉に参加した大手ギルドのメンバー数がアキバ住民の少なくない割合を占めていること、〈円卓会議〉をアキバ住民が信任していること、元ネットゲーマーであるアキバの住民は統治機関に対して大きな期待を抱いてはいないこと、利他的な住民によるボランティア的な活動が活発であることなど、様々な理由が存在した。
そもそもアキバの街は自由の気風があふれている。生きてゆくだけであるのなら軍事的にも経済的にもさほど難易度が高くないこの世界において、アキバの住民は日々をおのれの望むようなスタイルで過ごしているのだ。狩りをしたいものは郊外へと出かけ、生産をしたい住民は工房にこもり、販売や交流をしたい住民は店舗を経営している。
自治組織などというものは、そういった個々人のやりたいことを邪魔しなければ、それで良い、というのが一般的なアキバ住民の感覚であった。
もちろんそれは住民側の感覚であって、〈円卓会議〉は彼らが思っているより多くの仕事を抱えている。自分たちの好きな活動ができればいいと住民は思っているかもしれないが、店舗として使用したい廃墟の優先権ひとつをとっても、複数の住民の自由がかち合う場合は当然のように存在する。
一つ一つはとるに足りない、それでも膨大な案件を処理するのが統治組織の宿命で、〈円卓会議〉も例外ではないのだ。
「うおおい、こっちは終わったぜ腹黒」
「こっちもですよ。アイザックさん」
〈円卓会議〉ギルド会館の地下一階、明るく照らされた大食堂の片隅に陣取った二人は互いの健闘をたたえあった。〈記録の地平線〉のギルドマスター・シロエと〈黒剣騎士団〉のギルドマスター・アイザックである。
地下食堂とは言うが、ここはどちらかというと飲食可能な共有スペースというべき空間だった。高い天井からは〈蛍火灯〉の光が降り注ぎ、清潔な雰囲気のテーブルが、四人掛け、二人掛けにわかれて幾何学模様で並んでいる。空間はいくつかのエリアで区切られて、奥のほうには個室もあれば、小会議室なども存在する。
ここには飲食物を出す固有の厨房が存在しない。二つある厨房を共用する四つの飲食店がそれぞれに料理を販売しているのだ。購入者はセルフサービスで運んで、このスペースで食事をする。
シロエたちが陣取っているのは、八人掛けの士官用テーブルだった。
テーブルの上には地図や書類や筆記用具などが並べられている。足元のカバンからは様々な道具や機材があふれていた。明らかに飲食をする雰囲気ではないのだが、これが初めてのことでもないので慣れ切った状況ではある。
「なに言ってるんですか。黒剣の資料整理したのはほとんど私じゃないですか」
あきれ顔の青年が肩を落としながらアイザックに声をかける。アイザックの副官であるレザリックだ。アイザックは男臭い笑いをうかべ「細けえことを突っ込むな」といなしている。そのアイザックも今日はさすがにいつもの鎧姿ではなく、〈円卓会議〉の制服だ。その上に打掛のように灰色のコートを羽織っている。
どうやら結構〈円卓会議〉の制服を気に入ってるらしい。シロエはそう思った。
シロエのほうはいつものタートルネックである。書類の持ち歩きや事務仕事には便利な服装だ。
最近アイザックとは一緒の仕事をすることが多いシロエだが、そのアイザックは事務仕事には向いていない。執務室にいると逃げ出そうとするアイザックと打ち合わせをしたり書類を作るときには、どうしたって飲食店や出先の天幕ということになる。
商売をしているアキバの街の店舗で居座るのは心苦しいので、そういう意味では、ギルドホール地下の共有スペースは、シロエたちにとってありがたい場所だった。
「俺はよくわからねえけど、こんなもんでいいのか?」
「ええ、大丈夫です。すいませんね、引率を頼むことになって」
「そりゃ構わねえがよ」
「アイザックくんはこう見えて楽しみにしてます」
「てめ、こら。そういうことを言うなよ。てかくんづけすんなこら」
シロエは二人の言い合いにたはは、と笑いながら、余計な書類を整頓していく。
「しかしなんだな。こんな世界になっちまった後に騎士団教練とはなあ」
「〈黒剣〉だって騎士団じゃないですか」
そりゃそうだがよ、とぼやくアイザックの表情はさほど暗くはない。どちらかというと興味深そうに持ち上げた書類をじろじろと見つめている。その書類には「第一次大地人騎士団教練要綱」とある。
「さっきの打ち合わせでも言ったとおり、親善の意味もありますから」
「だからって目標なしってわけにもいかねえだろ。いくつくらいレベルあげりゃいいんだよ」
「ふたつみっつでもあげてもらえば」
シロエは書類をさばきながら顔も上げずに答える。
今回〈黒剣騎士団〉に依頼したのは、マイハマの都における教練であった。対象はもちろん〈大地人〉の騎士である。マイハマ領だけではなく、ほかの領主の騎士団からも参加者がいるために、マイハマ騎士団が対象というわけではない。〈自由都市同盟イースタル〉の〈大地人〉一般に対する訓練、という名目になっている。
「長期訓練の割には欲がねえな」
「相手は〈大地人〉ですよ。無茶するわけにはいかないでしょ」
「そうなのか? おい」
シロエの否定にアイザックは後ろに立つ副官に話を振る。振られたレザリックのほうは「パワーレベリングするつもりだったんですか?」と返した。
パワーレベリングとはゲーム用語で、即自的半強制的に行うレベル上げを指す。高レベルの引率者を置き、その引率者が率先して経験値の多いモンスターと間断なく戦うことにより、安全距離を置いて付いてくるパーティーの低レベル者に経験値を大量に与える行為だ。短時間で効率よくレベルアップを行えるために、MMOなどのゲームでは日常的に見かける光景である。
「パワーレベリング、困りますよ。それじゃ実力つかないし」
一方で、シロエの答え通り、その考え方に反対する者も少なくない。パワーレベリングで得られるのは経験値とレベルである。急速に成長した自分の身体能力や戦闘能力に対して、習熟する訓練は行われない。攻撃力や耐久力などの肉体の性能そのものは上昇しても、戦い方や駆け引きなどが身につかないという弊害がある。
「腹黒は頭固いな。パワレベと戦闘訓練交互にやりゃいいだろ。いや、訓練多めにしてやるよ。連中、面倒くさそうだしな」
アイザックは太く笑うと、そういった。
シロエとしても、そこまで言われるのならば仕方がないと思う。そもそもシロエとしてもパワーレベリングそのものを完全否定しているわけではない。すでに高レベルのキャラクターを持っているプレイヤーが、二体目、三体目のキャラクターを作る場合にこの種の成長手法を用いるのはままあることなのだ。
それにシロエは今回、アキバへの居残りである。マイハマまで〈鷲獅子〉にのれば一時間もかからないとはいえ、現場を預かるのはアイザックであり、その方針にケチをつけていては役割分担が成立しない。
「その辺は表向きなんで、あんまり全力ださないでください」
「ああ、任せとけ。……しかし、護衛ね」
アイザックは物思う表情で髪の毛を掻き回すと、しばらくの間黙り込んでいた。
時刻は夕飯時を過ぎている。飲食店の一種であると考えればこの公共スペースも描き入れ時であるはずなのだが、客の入りは一割もない。
それもそのはずで、この場所は〈円卓会議〉の事務を請け負っている〈冒険者〉や〈大地人〉が利用するある種の社員食堂のようなものなのだ。建前として〈円卓会議〉は夕飯時まで長引くような仕事をおこなっていない。そもそも〈円卓会議〉に参加をしていて作業の多い個人は自分自身のギルドを持っていて、実作業は自分のギルドの本拠地で行うのが一般的だ。シロエも、ミチタカも、カラシンも、そうしている。
そうである以上、この時間にこの共用スペースで書類を並べながらだべっているのは、シロエとアイザックのような特別の事情があるものか、それともいっそこのギルド会館へ住み着いてしまえとばかりに仕事をしている変わり者かのどちらかということになる。その数は決して多くはないのだ。
「クラスティのバカはまだ連絡取れないのか」
「ええ。フレンドリストにも反応はないそうです」
「自分のギルドほったらかして何やってんだあいつは。なくなっちまうぞ」
「そこまでではないようですが」
シロエは答えた。
クラスティがオウウの山中で行方不明になってから、もう三カ月近くが経過している。アイザックは「なくなっちまうぞ」と言ったが、普通であればギルドが崩壊するに十分な時間だ。
一般論で言って、MMORPGのギルドというのはひどく脆い。
労使関係や契約関係ではなく、ただ単に「一緒に遊ぶ」というのがMMORPG〈エルダー・テイル〉におけるギルドだったからだ。近所に住んでいるであるとか、同じ学校のクラスメイトであるといった、物理肉体の制約を受けない通信空間上の仲間関係は、ある一面対面での友情よりもピュアではあったけれど、それゆえにこそ壊れやすいものでもあった。
参加者の誰かが「もうここにはいたくない」とおもえばそれを押しとどめる手段はほぼ存在しない。退会手続きを妨害するという〈ハーメルン〉のようなギルドは例外である。
ギルドの中心は多くの場合、そのギルドのリーダーである。
ギルドの方向を決めるのはリーダーであり、雰囲気づくりをするのも多くの場合リーダーだ。ギルド内で何らかのトラブルやもめごとが起きたとき、その最低を行うのもリーダーの仕事となる。ギルドがギルドとして続いていくために、リーダーという装置は必要なのだ。
現にクラスティが姿を消した後の〈D.D.D〉からは脱退者が続出している。
リーダーなき組織に不安を感じたためだろう。そのことを責めるわけにはいかない。
むしろいくらここが現実化した世界であり、サバイバルのためには互助組織を必要としているとはいえ、ギルドリーダーを失ったギルドが三カ月の間持っているというのは、それだけで十分称賛に値するのである。
脱退したメンバーの数は五十人に届かない程度であると、シロエは沈痛な表情の〈妖術師〉リーゼから報告を受けていた。彼女を称賛したのは決して〈円卓会議〉運営のための方便ではない。すごいギルドだと思ったのは、シロエの本音だった。
「心配かよ、腹黒」
「アイザックさんはどうなんですか」
「心配なんざするわきゃねえだろ。あいつは〈狂戦士〉だぞ。どうせどこかで遊んでるんだか戦ってるに違いねえ」
「まあ」
シロエはあいまいにうなずいた。
アイザックの言葉を否定したいわけではない。
シロエもクラスティは何らかの転移事故でヤマト以外のサーバー、もしくは念話機能が制限されたゾーンに飛ばされたのだと思っている。似たようなイベントはゲーム時代の〈エルダー・テイル〉にも存在したからだ。もちろんそれはそれで由々しき事態ではあるし、クラスティ本人が何らかのトラブルに巻き込まれている可能性は低くない。
が、アイザックの言うように、〈円卓会議〉関係者の中で予測不能なトラブルに巻き込まれても生還できる可能性が高い男を一人選ぶとすれば誰か? と問えばそれはクラスティになるだろう。心配しても仕方ないのだ。
「そのうちひょっこり帰ってくるだろ」
シロエの思うところの『二番目に可能性が高い男』がそう言い放った。
「心配してるのはクラスティさんじゃなくて、〈D.D.D〉と〈円卓会議〉のほうですよ」
シロエは胸の内を明かす。
〈D.D.D〉は確かに自立したギルドでクラスティがいなくても運営は回っているようである。しかし運営の処理が回るかどうかと、メンバーの心が平静に保てるかどうかは別だ。すでに少数とはいえ不安感にかられたメンバーが脱退をしている。〈D.D.D〉が崩壊してしまう可能性は、決して無視できるほど低くはない。
そして〈D.D.D〉は戦闘系最大手のギルドであり、またもっとも統制のとれた組織でもあった。例えばそれが大規模戦闘や戦闘クエストの達成という意味で言えば、アキバには綺羅星のごとき数多のギルドが存在する。アイザック率いる〈黒剣騎士団〉もそうだし、ソウジロウの〈西風の旅団〉も頼りになるだろう。
しかし、戦闘の規模が大きくなり、また戦いと勝利という以上の判断を要求される軍事行動となれば、指揮系統の練度からみて〈D.D.D〉に代わりうるギルドは存在しない。
その〈D.D.D〉が崩壊もしくは弱体化するとなれば、〈円卓会議〉およびアキバの街もその影響を免れることはかなわない。
〈円卓会議〉は良い自治組織だとシロエは思うが、だからと言って無欠だなんて思ってはいない。有力ギルド合議制はひとたび不協和音を生じれば意外な脆さを見せるだろう。
(アインスさん、止まらないんだろうな……)
〈ホネスティ〉の〈妖精の輪〉探索は良いペースで進んでいる。が、アキバの街での注目度は小さい。街の中での技術革新が進んでいるせいだ。そして革新は、アキバの街に存在した〈エルダー・テイル〉におけるレベルという指標をゆっくりと崩していく。レベルが高ければ、それで裕福である時代は、過ぎ去りつつあるのだ。
〈円卓会議〉成立とそれに続く技術革命は、この世界を変えつつある。
いまは新しいアイデアと実行力があれば、富を築くことが可能な時代だ。
多くの〈冒険者〉は狩りと言っても安全マージンを取って行動する。例えば九十レベルの〈冒険者〉は八十五レベル程度の狩場を目指す。もちろん財貨は稼げるが、それではレベルは上がらない。一部の戦闘ギルドは過激なチャレンジを繰り返すが、それは例外だといっていいだろう。レベルだけが九十以上あっても、通り一遍等な狩りだけで大儲けはできない時代になってしまったのだ。
そんな状況にいら立ちを見せるアキバの住民は少なくはない。
状況を取りまとめる求心点という意味でクラスティは重要であり、シロエはその行方不明を重く受け止めていたのだ。
供贄一族との交渉と資金融資の取り付けという難事を片付けたと思ったら、またしても頭の痛いことが増えていたのだ。シロエとしても泣きたいような気持ではある。せめてもの救いは、にゃん太班長と協力をしたロデリックが、危険度の高いフレーバーテキストを精査して一部アイテムの自粛を呼びかける声明を出してくれていたことだろう。
それにしたところで、呪われたアイテムによる災害が減るとは限らない。
呪いであると明白に書かれていないアイテムでさえ、そのフレーバーテキストによっては惨事を起こす可能性があるのだ。人海戦術でチェックを進めているため、危険アイテムのリストそのものは早晩完成するだろうが、それでトラブルがなくなる保証はなかった。
「シロエさーん」
「やあやあ、シロエ殿にアイザック殿。作業は終了? ご飯買ってきたよ」
そこへ現れたのはカラシンと、カラシンが受け持つ生産者ギルド連絡会でバイトをしているミノリだった。カラシンは普段通りだったが、ミノリのほうは街で活動するための私服姿だ。習い事からの帰り道にある学生のような服装で、機嫌よくシロエのことを見つめている。
アイザックが「おう、お前らか。ここに座っていいぞ」とソファーを顎で示した。迫力あるしぐさで腰が引けそうなものなのに、カラシンは「どーもどーも」などと愛想よく席に座る。あの人懐っこさがカラシンの武器だな、とシロエが思っている間、シロエの隣へとやってきたミノリは手際よくテーブルの書類を整理して、そこに購入してきたサンドイッチと飲み物を並べていた。
「シロエさん。ジンジャーエールですよ」
「ありがとうね、ミノリ。お仕事、問題なかった?」
ええ、と頷くミノリを情けない笑顔で見つめたのはカラシンだった。
「ねえねえ、シロエ殿。いやー、こういうのはなんだけど、ミノリちゃん、〈第八商店街〉にくれません? 腕利きなんですよ、ほんと、ミノリちゃん」
返答に詰まるシロエは、アイザックに救われる。からからと大声で笑ったアイザックは、カラシンの肩をどやしつけるように叩くと、「おい、カラシン。おまえ中坊にまでコナかけよってのかよ。女日照りすぎんじゃねえのか」と言ったのだ。
カラシンは必死になって「そういうんじゃないですってば、アイザック殿。これは仕事の話で」と言い訳を続けている。
くすくすと笑うミノリにとってカラシンの軽口は日常のようだ。
ほっとしたシロエは炭酸飲料を一口飲むと微笑んだ。アキバにあふれる様々な飲料はすべて自家製だ。生姜とはちみつで味付けられた喉越しが心地よい。
すべきことは山積みだし前途は険しい。
シロエの耳には不安なニュースも数多く入ってくる。〈緑鬼王〉が君臨するという〈七つ滝城塞〉の攻略も終了してはいない。それはアキバの街を本拠地にする低レベル層に、すべて最低でも三〇レベルまではレベルアップしてもらいたいという〈円卓会議〉の意志でもあった。
しかしシロエはその意志にもう一つ策を乗せようと思っている。
今はそのための根回しをしなければならない時期なのだ。シロエはあつまったアイザックとカラシンに、〈大地人〉騎士団教練の実施について、さらなる要望を語るのだった。
ログホラep8「Route43」の開幕です。長いログホラの中で真ん中にこの話をおけるのは幸せです。ログホラの意味が伝わるお話になればいいな。
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