ブログでも引用しまくっちゃうくらい内田樹好きなんですけど、彼の本を読んでいると以前別の著作で読んだのと同じような話が出てくることが頻繁にある。多分彼は同じ話を手を変え品を変え表現することを試みているのだろう。それに付け加えて、以前どこかで書いたこと話したことを再編して本にすることが多いので、そういう編集の仕方上そういったことが起こりやすいのだと思われる。そうした事情も手伝って「あれ、この本は読んだっけ読んでなかったっけ」と思うことがよくある。また「多分彼がこんなことを言っていたと思うんだけど、どの著作に書かれていたっけ」なんて思ったりすることも多くある。
こないだの炎上の一件での反省として、ものすごいまとめてしまえば、俺は態度が悪すぎるってのがある。態度が悪いってちょっと範囲の広い言葉なんでいろんな要素が混じってるんだけど、そういうつもりで使ってるんだけど、まあそれはいいとして。
そんで、内田樹の著作に「態度が悪くてすみません」ってのがあったなーと思い出したのだけど、この本を既に読んだかまだ読んでいないか思い出すことが出来ない。困った。
いやまあ、それも別にいいんだけど。もっと困ったことにまだ500字くらいなのに書き出しで意識してた「これ書こう」を既に忘れてしまってるので真剣に健忘症の疑いをもったほうがいいのかも知れない。
仕方ないから今思いついたこと書くけど、そもそもブログを書く目的*1の一番大きな要素は自己満足で、取り敢えず何か書くことで文化的にジョギングして文化的に軽く汗を流すみたいなそんな感じがある。普通言葉とか文章ってコミュニケーションを目的に用いられるものなのだけど、書いて自己満足が完結しちゃうと普通の範疇に含まれない例外的な言葉の用途になってしまう。もちろん一番大きな要素がそれというだけど、内容によっての強弱はあれど、多少なりともコミュニケーションの意図、伝えたい意図があるだろうとは思う。ただそのバランスがあまりよろしくないのではないのか、と思った次第。
目的が何かを伝えることであれば当然その目的のために工夫がなされるのだけど、目的が文化的ジョギングであればいかに気持よく走りいかに気持ちよく汗を流すかという部分にしかほとんど工夫がなされなくなってしまう。
内田樹が『街場の文体論』か『街場の現代思想』か、まあ何かに書いていたけど、上述のような言葉の使い方をしていると「言葉の持つ力」への意識が退けられてしまう。これは結構大きな問題として捉えておくべきなのかもしれない。
個人的な志向性として、他人がどうこうというのは取り敢えずは結果でしかなくて、ひとまずは自分の中で誠実さみたいなものを完結させておきたいみたいなものがある。以前はあった。最近はそもそも誠実さを意識することがなかった。言い方を変えれば、自分の中でしっかりと誠実さが保たれていれば、結果としての他者との関係性の中にも誠実さが保たれることになるだろうと考えている。あるいはそうであって欲しい。
「態度が悪くてすみません」と言うのは要するに、お前が何を言おうが俺は知らんという開き直りの宣言だ(ったと思う)。のっけから「すみません」と言い切ってしまうのはデタッチメントであり、それ自体が態度の悪さでもある。
だからこれを読むと(ほんとうに読んだのかわからないけど)、羨ましいというか、その強かさに憧れる。彼の考え方への賛否はともかくとして、彼の知性を低く見ることの出来る人はなかなかいないだろう。そういう極めて優れた知性があるからこそ成り立つやり口だ。読めば読むほどにぐぬぬと言わされる。そして何よりも大切なのは、彼自身の中に紛れ無い誠実さが保たれていることだろう。だからこそ初っ端にデタッチメント宣言がなされながらも、こちらは反感を持つどころかむしろ彼の話に引き込まれる。まあ内田樹が心底嫌いって人もいるのでしょうけど。少なくとも俺は惹かれる。もしかしたら俺が彼に惹かれるのは、彼の知性ももちろんあるのだろうけど、それ以上にその誠実さが大きいのではないだろうか。
しかし彼がロールモデルとして適切かと問われると少し悩む。あまりに性能差がありすぎて。でもここで問題にしているのは飽くまで態度の話であって、そこに頭の良さなどというものは関係ないのではないか、とも思う。その一方で、知性と態度は密接に関係しているとも思う。あれほどに優れた知性があるからこその超然っぷりなのだろう。だから適切かどうかを判断し切ることはできないけど、ならばこそ「どうしたいのか」を尊重するべきなのかも知れない。
何にしても、もうちょっと誠実さを意識した方がいいよなーと思った話でした。疲れない程度に。
*1:ブログ論だーーーー逃げろーーーーー!!!