5月15日の午後6時、安部首相は、集団的自衛権の行使容認に向けて憲法解釈を変更する旨を発表する記者会見を開いた。
日本経済新聞の電子版は、会見の内容をざっと紹介した上で、首相が今回の決断に至った背景を以下のように解説している。
「−−略−−首相は集団的自衛権の行使容認を検討する背景として、東シナ海・南シナ海の緊張状況や国境を越えるサイバー攻撃、北朝鮮のミサイル開発などを列挙。集団的自衛権を行使する具体的な事例として、邦人輸送中の米艦船の防護や、国連平和維持活動(PKO)で自衛隊が他国部隊を救援する「駆け付け警護」を挙げた。−−略−−」(ソースはこちら)
会見そのものについて述べるなら、来るべきが来たという以上の感想は無い。
なるほどね。
と、私はそう思ってお話の途中でテレビのスイッチを切った。
タイミングとして、南シナ海で起こっている事態(ベトナムと中国の間で先日来応酬されている神経戦と、ベトナム国内で暴徒化しつつある反中デモ)の不穏な空気に乗じた気味はあって、その点は、ずるいとも言えるし、機敏だとも言える。
世論は、こういう時、軽薄な動き方をする。
その軽薄な世論を利用して政治家が重要な舵を切るのは、軽薄だからというよりは、賢明だからなのかもしれない。
ただ、切った舵が賢明な舵であるのかどうかは別の問題だ。
会見のタイミングについてこれ以上何かを言うのは、愚民論になってしまいそうなのでやめておく。
安倍さんは、適切なタイミングで舵を切った。
その舵が適切だったのかどうかはまだわからない。
個人的には、急激な舵を切ったせいで沈没しなければならなかった船の事例を思い出している。
首相が、「解釈改憲による集団自衛権行使容認」に踏み出すであろうことは、すでに半年以上前からささやかれていたことだった。
また、その「解釈改憲」に至る具体的な手順が、「国会決議」や「法改正」を踏まえたものではなくて、「閣議決定」による、省力化された道程になるであろうことも、もう何カ月も前から各メディアがつとに予想していたことだった。
で、こうやって現実に、新聞各紙ならびに有識者の皆さんが予見した通りに事態が動き始めてみると、やはり、無力感を禁じ得ない。
無力感のうちの半分は、自分が、ずっと前からわかっていたはずの状況に対して、何の影響力も行使することができなかったという慚愧の念だ。まあ、落ち着いて考えてみれば、はじめから私に何ができようはずも無かったわけで、それはそれで仕方がない。
残りの半分は、少し入り組んでいる。ひとことでは説明しにくい。
なんとか説明してみる。