2014年05月11日

読み・書きをコアスキルにする人たちの醜悪…。

娘が大学の授業で、輪読するのだという。

さて、2014年というか、インターネットのある時代、輪読に価値はない。つまり、「読解は、作品研究ではない」から…。

つまり、インターネット以前であれば、「オリジナルテキスト」しか、世の中に存在しなかった。だから、読解は「学問の第一歩」である。

しかし、「読解」とは、要約を作る作業を通じて、「内容を、理解する」ことを夢想するのであって、「オリジナルテキスト」と「要約文」を対照することで「内容を、理解する」ことと等価である。
というか、「自分という限られたリソース」で読解することは独断に陥る危険があり、「読解を評価する」ことは、神秘主義または、「頑張った人は正しい」というような教育的な観点で評価されるに過ぎない。

ならば、先輩や同僚のノートを参照しながら、「オリジナルテキストの意味」を把握することは、極めて効率的であって、「読解」には価値は薄い。

…学生の伝統はリアリズムである。


* 東大の表象科は、明確に読解は学問ではないと主張する。

否、読解という行為を通じて、学生を鑑別することは、悪しき風習である。

つか、大学生にもなって、「読み・書き」で鑑別するというのが、愚かしい。

結局のところ、情報格差のない時代、教授が誇れるのは、読解力ぐらいのもの。

私たちは、「源氏物語」を原文ですでに読まない。解釈本を読む。効率的に、マンガで読むことも珍しくない。これらは、テキストという有職故実に邪魔されず、よりダイレクトに意味を抽出することを目指す。

*

ティムバーナーズリーは、「理解とは、相手にとって最適な言い換えを提出すること」と、人工知能に関連して述べているが、それは、「人工知能にもできる読解」でしかなく、人間たるもの、思索批評や、批判的読解をすべきであろう。



授業の関係者たちが書き込むサイトがあり、出版社勤務のOBと東大の在学生が「人文知を復興しなければ…」と、対話しているのを見て、娘は「人文知って何?」と問う。

私は、「旧制高校的な知性のこと」と応える。
ギリシア哲学に始まり、デカルト・カント・ショーペンハウエルというような、西欧の近代的知識人の思想や文学…。
ルソーや、ユーゴーや、ヘッセ…。

続けて、1980年代、フランス現代思想は「それまでのアカデミズム(人文知)は、西欧文明を是認するために捏造されたものであって、人間や社会や自然の本質と必ずしも合致しない」と指摘した。

重要なのは、「意味としての、価値」であって、「テキストとしての、体裁」など、瑣末なことである。どうでもいいこと。

しかし、「読解力」を誇る東大生や、編集力」を商売にする出版人は、「読み書き」で人を鑑別し、人文知が疎かにされていると、嘆くのだ。




フランス現代思想が「テキストに絶望した」時、思想家たちは、かすかな希望を「意味」「構造」「認識」に求めた。

フロイトは「個」をでっちあげたが、人間は「個」などという形でこの世に誕生しない。ましてや、「個」と言う形で存在もしない。人間は、子として、民族の一員として生まれ、社会の構成員として、生きて行く。

サルトルが言ったような「自由な個」など、この世の中には存在しないのである。そのことを、レヴィ・ストロースは文化人類学で指摘しているのだ。




鈴木大拙の「妙好人」という書物がある。

http://www.amazon.co.jp/%E5%A6%99%E5%A5%BD%E4%BA%BA-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E5%A4%A7%E6%8B%99/dp/4831885061

簡単に言うと、親鸞上人の「悪人正機説」である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E4%BA%BA%E6%AD%A3%E6%A9%9F

善人なおもて往生とぐ、いわんや悪人をや。

つまりは、「仏典や修行を積んだ人」しか極楽に行けないのはオカシイ。日常にまみれて暮らす「仏典や修行と無縁な人」こそ、極楽往生するのだ。という思想である。

私において、「意味」ではなく、「テキストの質」を問う人は、有職故実(価値のない風習)に囚われる人でしかない。



結局のところ、人文知などと喧伝する人たちが、アカデミズムを象牙の塔にしていき、気位が高いだけで、面白くもない出版物を市場に出して、出版業界をシュリンク(縮小)させているのだろう。



魚屋は、魚屋として、生きればいい。彼が価値ある「意味」を持っていれば、誰かが「テキスト化」すればいいのであって、彼に「テキスト化する能力」がなくなって、彼が辱めを受ける妥当性はない。

そもそも、「誰でも一冊の本を書ける」というのは、「誰でも、読み書きができる」という意味ではない。

誰でも「素晴らしい価値の意味(人生)」を持っているということだ。


さらにいえば、出版記者会見で、「まだ、私、読んでいないんですけど…」と言い放った松本伊代さんのように、「一切の作文力」がなくとも、自伝は書けるのである。

posted by スポンタ at 00:00| 東京 晴れ| Comment(0) | スポンタと娘…。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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