南アフリカワールドカップ以降、日本人選手が相次いで海外移籍していった。その中で、いわゆる「ゼロ円移籍」と呼ばれる移籍がいくつかあった。香川真司はその代表例であるし、岡崎慎司のケースでは清水とシュトゥットガルトの間で訴訟騒ぎになった。このような事例が相次いだため、一部からは「選手が不義理」となじるような声もある。では、このようなゼロ円移籍がなぜ急に問題となったのだろうか。選手が急に不義理になったのだろうか。その背景にを少し考えよう。
ゼロ円移籍は移籍金制度の変更に伴うもの
ゼロ円移籍が発生するようになった直接の端緒は、Jリーグが2010年にボスマン判決を受け入れたことである[1]。旧来、サッカー界ではクラブが選手の「保有権」を持ち、仮に契約満了で雇用関係が終了していようとも、選手が別のクラブと新規に契約するには「保有権」を元所属のクラブから買い取る必要があった。ベルギーの選手ボスマンは、雇用関係にないにもかかわらず「保有権」を盾にして再就職が妨害されたことが、民法、商法、労働法に違反しているとしてクラブを訴え、1995年勝訴した。この判決は「選手保有権制度が違法である」ことを意味していたため、選手保有権制度は全て違法で無効なものとなり、新しい移籍制度が求められた。この時期EUは加盟国間での雇用法令の共通化を行っていたため、ボスマン判決の効力はEU全体に波及した。これを受けて、UEFAやFIFAはこの判決を前提とした新しい選手契約・移籍の制度を定めることになった。そうして成立した新制度では、旧来的な意味での「移籍金」は撤廃された。クラブと選手が結んだ雇用契約の期間内に移籍する場合のみ、雇用契約を破棄するために違約金が支払われるものとした。現在「移籍金」と呼ばれるものは、その違約金のことである。ここからは、旧来の移籍金を「保有権ベースの移籍金」、新しい移籍金を「違約金ベースの移籍金」と呼ぶことにしよう。「違約金ベースの移籍金」は契約の中断に伴い発生するものであるため、契約満了後に移籍金に類するものは発生しない。これがゼロ円移籍、またはフリー移籍と呼ばれるものである。
労働に関する基本的な権利・法令は国際労働機関(ILO)で調整されており、ILOに加盟している日本も基本部分では欧州と同じ労働法令を採用している。このため、ボスマン判決の法理は日本でもそのまま通用するものであった。日本の選手会は、その法理、およびFIFAが作成した新しい選手契約・移籍の制度を根拠として、Jリーグクラブに保有権制度の撤廃、および違約金ベースの移籍料制度への変更を迫った。法廷闘争になればクラブ側の敗訴は明らかであったため、2010年より保有権制度は撤廃され、契約終了後の移籍が自由化、すなわちゼロ円移籍化されたのである。
Jリーグクラブは新しい移籍金制度に移行する準備が十分にできておらず、2010年時点では多くの契約が短期の契約であった。このため、新移籍制度開始から1~2年の間、2010~2011年はゼロ円移籍が続出した。海外移籍急増のゼロ円移籍に先鞭をつけた香川らは、まさに新移籍金制度の施行初年度、2010年に欧州へ移籍した例である。
ゼロ円移籍は海外行きだけの話ではない
日本でゼロ円移籍が話題になった例が香川や岡崎などJリーグから欧州へ行くケースであったため、移籍金制度変更初期には欧州行きの場合に限ってゼロ円移籍があるとの誤解が生じた。著しくは、海外挑戦を応援するために移籍金無料サービスを行っていると主張するものも現れたほどである。しかし、これはまったく誤解である。まずゼロ円移籍発生の原因は、前述の通り2010年に旧所有権制度が撤廃されたためである。そしてゼロ円移籍は海外行きばかりの話ではなく、日本国内もすっかりゼロ円移籍ばかりとなっている。たとえば、2012-2013年の移籍市場では、浦和はすべての補強をゼロ円移籍で済ませている。広島から森脇[2]、鹿島から興梠[3]、仙台から関口などである。ゼロ円移籍はボスマン判決に由来する制度上の問題であるから、事情は欧州でも同じである。資料によれば、少なくとも50%、多い場合には70%が0円移籍やアマチュア選手との新規契約であり、移籍金のある完全移籍は10%、レンタル移籍が20%程度の比率となっている[4][5][6]。ヨーロッパでもフィナンシャルフェアプレー(FFP)施行が目前に迫っており、移籍金に大金をかけない方針を取るチームが増えており、この傾向は加速されるだろう。つまり、日本国内の移籍、欧州内の移籍もゼロ円移籍が多勢なのであり、日本から欧州に行くときにだけゼロ円移籍なのではない。
ボスマン判決がもたらした影響
ゼロ円移籍に対しては「クラブに不利ではないか」という意見が多いが、実際、現行の移籍金制度は選手にとっては拘束が減るので一方的に有利である。現行制度の法的根拠であるボスマン判決は、選手がクラブを訴えたものであるので、選手に有利なのは当たり前である。ただし、過去の制度では、クラブに従わない選手を出場もさせず移籍もさせず契約も更新せず、理不尽に取り扱うこともできた。選手側から見れば、このような扱いを防ぐためには新制度は当然でもある。
現行制度は選手に有利なため、特に若手の賃金が高くなる結果をもたらしている。一つのクラブに縛られていた旧制度のもとでは、若手は年俸が安く、実績を積むにつれて上がる年功序列的な傾向があった。しかし新制度のもとでは、有望な選手は年俸(=違約金)の安い若手のうちに買って先行投資する、いわゆる「青田買い」戦略が取られるようになった。この戦略を活用した代表例がアーセナルである。以降イングランド・プレミアリーグでは、多くのクラブがこの戦略をとり、大量の若手と数千万円の年俸で長期契約し、下位のクラブにレンタルで出して育成を任せている。高卒でいきなりアーセナルと契約した宮市はその例であるし、セスク・ファブレガスやガエル・カクタのように若手の買い取りに騒動になる例も出ている。有望株を引き抜かれる小クラブ側も新制度に即した防衛策に出ており、若手と比較的高い俸給で長期契約するようになった。日本でもそのような防衛策は増えており、例えばマリノスユースの傑作と言われた小野裕二は弱冠20歳で2億円の移籍金が発生している。
ただし、若手の賃金が上がったことは、裏を返せば、金がなければ若手さえ維持できないのである。特にオランダリーグのエールディビジはこの傾向が顕著であり、多数の選手がプレミアリーグやロシアリーグに引き抜かれたことで、欧州王者を多数輩出したかつての栄光は今は見る影もなくなっている。実力のある選手が高給を求めて移籍するのを阻むことができない。これが現行の制度である。
なぜ日本人はドイツに移籍するのか
日本人選手はこの3年間で多数の選手がドイツ・ブンデスリーガに移籍したが、これにはいくつか理由がある。まず一つ目の理由は、ドイツは他のリーグに比べ外国人選手獲得の規定が緩く、EU外の日本人が進出しやすい制度になっていることである。二つ目の理由は、ドイツは旧植民地をほとんど持っておらず、サッカーの強い南米や身体能力の高いアフリカとのつながりが弱いことにある。このためドイツは東欧やトルコに活路を求めていた。三つ目の理由はブンデスリーガがクラブの黒字化を強く求めており、移籍金や年俸の高い有名選手より「お買い得選手」を求める傾向が強いことが挙げられる。2010年にJリーグがボスマン判決準拠の移籍制度に移行した際、Jリーグの若手はまだ年俸=違約金が安かった。このため、ブンデスリーガのクラブにとってはJリーグの若手という「未発掘の金脈」が突然出現したように見えたのである。これが最近のドイツ移籍ラッシュである。また、ドイツと似た環境にあるオランダやベルギーでも日本人を獲得する例が増えている。
また、選手側にとってもドイツ・オランダ行きは魅力がある。現在のJリーグ(中上位)の賃金は、入団直後で年俸500万円、五輪年代までの若手レギュラー(例:移籍前の清武・乾、現在の高橋秀人や長谷川アーリア)で2000万円前後、中堅レギュラー(例:移籍前の長谷部や細貝、広島の佐藤寿人や西川周作)で5000万円前後、日本代表級(遠藤保仁、トゥーリオ、中村俊輔など)で1億円前後というのが相場である。ただし、この相場は旧制度のもとで形成された相場である。前述の通り、新制度のもとでは「青田買い」される若手の賃金は上がる傾向にある。長谷部、香川、長友らはJリーグでは支払うことのできない2~4億円の年俸を手にしているし、二人の酒井やオランダ・ベルギー組(ハーフナー、大津、永井、小野ら)は同年代のJリーグ選手に比べ2~10倍もの賃金を得ている。現行の制度では、選手が高賃金を求めて移籍することを阻むことはできず、これが欧州進出ラッシュのもう一つの駆動力になっている。
もちろん、いくら移籍金が無料であろうとも、実力がなければ選手と雇用契約を結ぶことはない。ブンデスリーガで活躍できる実力があると評価されているのは確かである。その意味では、Jリーグ創設以降地道に実力をつけ、やっと世界の舞台に立てるだけの実力を備えるにいたったと言うことはできるだろう。ただ、2010年以降に急に実力をつけたわけではなく、それまでに培った実力が、移籍金制度の変更によって評価されるようになったということである。2000年代には欧州から見て割高だった日本人選手の移籍金が、2010年以降は割安となり、ボスマン判決の受け入れにより共通化した市場において「実力の割に安い」とみなされたことが移籍ラッシュの原因である。
また、一部からは「ドイツと選手移籍について特別な協約を結んでいる」という意見も聞く。それは全くの事実無根であって、実際は上述のような事情による。「協約」の存在と言った勘違いの原因としては、急に移籍が多発したことや、日本とドイツの協会(リーグではない)どうしの技術交流協定、あるいは選手データの共有協定を勘違いしている可能性もある。あるいは、トーマス・クロートという知日派の代理人の存在、あるいはリトバルスキー、フィンケ、ブッフバルトといった指導者人脈の存在もあるだろう。
ゼロ円移籍がもたらしたJリーグの著しい平準化
最近のJリーグでは、2011年に昇格したばかりの柏が優勝し、2012年は弱小と見られていた広島、仙台、鳥栖が躍進し、前年3位の常勝軍団であったガンバ大阪が降格するなど、著しい順位変動、クラブレベルの平準化が進んでいる。これもまた原因はゼロ円移籍の解禁である。欧州ではゼロ円移籍解禁はビッグクラブへの戦力集中をもたらしたが、Jリーグではその逆の現象が起きている。これは欧州とJリーグのクラブ経営規模の分布に原因がある。例えばセリエAでは3強が150億円を超える人件費であるのに対して、予算下位6クラブは20億円前後であり、格差は8倍程度である[7]。ブンデスリーガではバイエルンが125億円、ヴォルフスブルクが90億円に対して下位5クラブは15億円前後であり、やはり格差は8倍程度である[8]。比して、Jリーグの場合には上位20億円前後に対して降格圏クラブでも10億円程度は確保しており、格差は2倍程度にすぎない。リーグ内格差の大きいヨーロッパのクラブでは、上位クラブは降格圏クラブの5倍の予算で最高級の選手をそろえるとともに、降格圏クラブの3倍の予算を投じて中位クラブで先発出場できる水準のベンチ選手を擁することができる。一方、現在のJリーグではそのようなことは不可能である。上位クラブであっても予算は下位クラブの2倍にすぎないため、上位クラブのベンチに良い選手がいれば下位クラブが先発出場メンバーとして引き抜く。かつては育成の手腕によってチーム力の固定化が見られたが、ゼロ円移籍解禁後はそれもなくなり、予算規模と同様にチーム力もほぼ平準化している。その結果が現在の順位変動激しいJリーグである。
また、この過程を通じて、どのクラブでもベンチに主力級の選手を置くことができなくなり、主力と控えの力の差が大きくなった。このため、カップ戦で負けて休養期間が増えるとリーグでの成績が向上するというような状況が生まれている。2012年シーズンでは、ACLを戦ったクラブはJリーグで低迷する傾向が著しく、最高位でも柏レイソルが6位につけただけで(柏はACL敗退まで10位以下に沈んでいた)、ガンバ大阪に至っては降格している。2012年にリーグ上位に入った広島、仙台、鳥栖はカップ戦で早期に敗退しており、広島は天皇杯で控えメンバーを出して地域リーグのFC今治に敗れ、鳥栖はナビスコ杯で控えメンバーのみを出し、ベストメンバー規定回避のために先発出場選手を開始3分で交代させるといった荒業を行っている[10]。2013年のACLでは、広島は控え層の薄さが露骨に出ており、主力に怪我が相次いだこともあって記者会見で「ACLは捨てているのか」と問答があるほど戦えていなかった。浦和はACLでターンオーバーを実施し、主力から外れている30代6名を先発させている。唯一の例外は柏レイソルであり、2012年天皇杯の優勝に続き2013年はCWC出場を目標に掲げるなど、明白にリーグ戦軽視・カップ戦重視の方策を取っていると言える。
出典
[1] 日本プロサッカー選手会 移籍金制度問題
http://www.j-pfa.or.jp/activity/transfer
[2] 森脇、浦和へ移籍
http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw201212180089.html
1年契約が満了のため、移籍金は発生しない。
[3] 浦和 興梠に興味!今季で鹿島と契約終了
http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/11/04/kiji/K20121104004478410.html
[4] 昨年の国際移籍市場 総額2400億円が動く
http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/03/01/kiji/K20120301002741820.html
国際サッカー連盟(FIFA)は1日、昨年の男子選手の国際移籍市場で30億ドル(約2430億円)が動いたとの統計を発表した。FIFAは2010年 10月から統一の選手移籍管理システムの使用を義務付け、加盟協会や5千を超えるクラブがこれを使い、初めて移籍の実態が正確に分かるようになった。
統計によると、昨年の国際間の移籍件数は1万1500を超えた。高額の移籍金が発生するケースもあるクラブ間の合意による移籍は全体のわずか10%で、期 限付き移籍が20%。残りの70%はクラブとの契約が切れている選手やアマチュア選手の獲得だった。ブラジルとアルゼンチンの選手が移籍全体の20%を占 めた。(共同)
[5] 昨年は総額約2400億円=サッカーの国際移籍
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201203/2012030200206
【ロンドン時事】国際サッカー連盟(FIFA)は1日、昨年の男子選手の国際移籍市場で総額30億ドル(約2430億円)が動いたとする統計を発表した。
移籍は1万1500件を超え、クラブ間の完全移籍は全体の10%、期限付き移籍が20%、残りの70%は契約が切れた選手などの移籍だった。全体の14%で移籍金などが発生し、平均額は150万ドル(約1億2000万円)だった。
FIFAは2010年10月から、移籍の透明性を確保するため、移籍管理システムの使用を義務付け、208加盟協会と5000以上のクラブが利用している。 (2012/03/02-09:21)
[6] ヨーロッパサッカー・トゥデイ 2012-2013開幕号(孫引き)
http://llabtooflatot.blog102.fc2.com/blog-entry-3610.html
(1) 完全移籍はそれほど多くない。
(2) 契約満了でフリー移籍となるケースも少なくない。
(3) レンタル移籍は多い。(特に、セリエAは多い。)
[7] La Gazzetta dello Sport 2010, 2011(孫引き)
http://supportista.jp/2009/09/news05094634.html
http://blog-imgs-55-origin.fc2.com/2/c/h/2ch11soccer/2721llpft.jpg
[8] キッカー(2012年8月20日号)(孫引き)
http://footballnet.2chblog.jp/archives/16108766.html
[9] Jリーグチームの人件費と順位の関係は? 財務指標のランキングからクラブの経営力を読む
東洋経済オンライン 2011年08月31日
http://toyokeizai.net/articles/-/7634
[10]2012 Jリーグヤマザキナビスコカップ 2012年6月27日 19:00
http://www.cerezo.co.jp/game_quick_report.asp?g_idx=10000200