私が子供の頃、福島の実家で父と母はあまり仲が良くなかった。
父と母が喧嘩をすると、よく母は包丁を取り出して自分の喉に当てて「自殺してやる!」と叫んでいた。でも本当に喉に包丁を刺すことはなかった。
父はそんな母が嫌いで、機嫌が悪くなると、よくちゃぶ台で星一徹をやっていた。夕食を食べていたテーブルをひっくり返すのだ。畳の床がご飯や味噌汁やおかずでグチャグチャになった。母は激怒して出ていって、グチャグチャになった畳は私が黙って雑巾で掃除していた。
(「巨人の星」)
子供の頃なのでよく憶えていないが、学校に勤めていた父が同じく学校に勤めていた女性と仲良くなったことがあった。母は子供の私を車に乗せて、その女性と会いに行かないか探しに行った。そこで何を見たのかは憶えていないが、母が帰りに泣きながら車を運転したのは憶えている。
そんな両親があまり好きではなかった。ニューギニア戦線の祖父と民主主義を守る父と民主党員の私で書いたように、両親には尊敬できる点はあった。そして2人の妹が産まれると父と母の喧嘩は徐々に収束していった。でも私の中には両親を憎悪して嫌悪している部分があった。だから祖父の家によく逃げ込んだ。
大学進学で相馬を離れたら私は急に自由になれた。生活の何もかもが私が決定して良いのだ。でも激昂する母の性格を譲り受けた私は大学生活は長続きせず、大学を中退して東京で生活を始めた。
お金がなかった。何か頼るもの、すがるものが欲しかった。1998年から私は「自由大学」「次世代情報都市みらい」というWEBサイトを運営していた。誰もが自由に教授になって講義のテキストをアップできるというサイトだ。自由大学の教授は合計6人ほどいて、コアなファンが集まった。そのファンの中に岩手の主婦がいた。ハンドルネームを「あんじぇ」と言った。光栄の「アンジェリーク」という恋愛シミュレーションゲームが好きだから「あんじぇ」。
あんじぇは熱心に掲示板に投稿していて、頻繁に私にメールを送ってくれた。「学問のことはよく分からないけど、世の中を変えるとか自由のために頑張っている姿を応援したい」と言っていた。そんな反応が嬉しくて、私はよくその主婦にレスを返していた。
東京で孤独だった私にとって、日々の励みはWEBサイトの反応とあんじぇからの応援だった。そしてある日、あんじぇから「あなたのことが好きなの。東京に会いに行きたい」と言われた。
その当時の気持ちを素直に書くとすれば嬉しかった。旦那がいるとしても、あんじぇは私にとって頼り頼られる仲だった。そして依存した。
だけど、あんじぇは精神科に通っていて医師から薬を処方されていた。あんじぇは薬とお酒を一緒に飲んでいた。あんじぇは薬とお酒を一緒に飲むと、旦那さんに隠れて私によく電話してきた。あんじぇが操なときは本当に操な会話だった。でも、あんじぇが鬱の時は本当に鬱な話だった。
ある日、薬とお酒を一緒に飲んで鬱になったあんじぇが私に電話を掛けてきて、私を激しく攻撃した。私は頼るものを失った感情に陥って、「別れよう」と言った。あんじぇからの電話を切って一切電話に出なくなった。あんじぇから「お願い、電話に出て…」というメールが沢山きたけど、貝になったまま閉じこもっていた。
そして再びあんじぇと会話する気力を取り戻したとき、あんじぇは話した。「あなたは私に凄くひどい対応をした。だから私は新しい彼が出来たの」。その彼は自由大学の教授の1人だった。そしてその自由大学の教授から私にメールが送られてきた。「お前のことを叩き斬りたい」って書いてあった。
あんじぇ、自由大学、私のなかで持っていた色々なものが音を立てて崩壊したような感じがあった。そんな時に私が思い出したのは、幼い頃に見た母の包丁を当てた姿だった。包丁を刺せばこの悪夢のような現実から逃げられるのかもしれない。
私は台所から包丁を取り出し、自分の手首に刺した。
自分が初めて自殺をしようと思った瞬間だった。思ったほど痛くはなかった。でも、思った以上に血は流れた。結局、死ぬことは出来なかった。それで現実から逃げ出したいときは何度も包丁で自分の手首を刺すことを憶えた。でも、リストカットを繰り返しても死ぬことが出来なかった。おそらく、本当に死ぬ意思はなかったのかもしれない。
私は夜に眠れなくなった。夜に眠れないのは、リストカット以上に苦痛だった。私は精神科の医師に相談にいって、幼い頃から今までのことを全部話した。年配の女性の医師はその話を最後まで聞いてくれて、「両親やあんじぇさんを許せる?」と尋ねた。私は「今は難しいけれど、試してみようと思います」と答えた。医師は私のために、安定剤と睡眠薬を処方してくれた。私もメンヘラになった瞬間だった。
その後、しばらくして、私の携帯に電話が掛かってきた。大学時代の友人からだった。「さいとう、いま仕事していないのか?八王子で民主党の新人が衆議院選挙に出る。その事務所で運動員をやらないか?」という電話だった。その運動員時代の詳しい話はニューギニア戦線の祖父と民主主義を守る父と民主党員の私で書いた。何か別なかたちで自分の存在意義を確認できた感じがした。今から思うと、私の人生を大きく変えたのは、この民主党だった。
そして、2000年の衆議院選挙で八王子選挙区で民主党の新人が初当選した。その実績を評価されて、新潟の統一地方選挙にも呼ばれた。雪深い新潟の事務所には、民主党と政策協定を結んだ労組が集まった。私は労組選対と協力しながら、FileMakerで支持者のデータベースを作った。誰が誰を紹介してくれたのかがわかり、公選葉書の宛名も自動印刷できるデータベースを完成させて、その成果に労組の幹部は息を呑んだ。そして新潟でも民主党が初勝利を収めた。
私は東京に帰ってきた。仕事を探すためにアルバイト情報誌を読んだ。そこで応募した企業ではファイルメーカーで歯科のポータルサイトを運営していた。自分が初めて勤めたWEB企業だった。
そこから長いWEB人生が始まる。でも、今も精神科には通っている。自殺はやっていない。