オウム事件に対する思想的責任の範囲
オウム真理教事件に対する思想的責任や、道義的責任について考えてみると、問題の範囲は実に、オウムという団体やその信者のみに限定されなくなります。オウムの思想は、彼らがまったく独自に編み出し、彼らだけが主張していたという性質のものではないからです。
先に述べた霊性進化論というオカルト的な宗教思想、さらには、「物質文明から精神文明への大転換」といった類の空虚で粗雑な革命論は、一九世紀から現在に至るまで、世界中で蔓延し続けてきました。ここでは話を日本に限定すれば、オウム問題については、宗教団体の分野、アカデミズムの分野、メディアの分野のそれぞれにおいて、思想的・道義的責任が問われるべきではないかと思います。
まず、宗教団体の責任について。麻原彰晃はオウムを創始する以前、さまざまな新興宗教に関与し、それらの団体が公刊している著作を通して、霊性進化論の枠組みについて学んでいきました。特別な修行を積むことによって神に進化しうる、物質文明が遠からず破局を迎えるといった観念は、オウム以前にも多くの宗教団体によって主唱されていた。そして、日本の多くの人々は、それらの団体の教えを通して霊性進化論の思想に慣れ親しむようになり、そのなかで、よりラディカルな実践に身を投じたいと考えた一部の人間たちが、オウムに足を踏み入れていったのです。
私は昨年公刊した『現代オカルトの根源』において、霊性進化論の思想的系譜について具体的な考察を行ったのですが、それが原因でいくつかの宗教団体から抗議を受け、団体の広報担当者と長時間にわたって議論を交わすことになりました。結果的に、それは私にとって、教団の内実をうかがい知ることができるという点で、とても興味深い体験となりました。
とはいえ、その際にこちらから、団体の教義の性質について公開の場で議論させてほしい、あるいは、オウム事件に対する団体の見解を公にしてほしいという要望を出したのですが、残念ながらそれらには応じてもらえなかった。しかしオウムは、七〇年代以降に生じた「宗教ブーム」という大きな流れのなかから現れた存在であり、そうしたブームを同じくした他の教団が、完全に思想的責任を免れうるということにはならないはずです。
次に、アカデミズムの責任について。これに関しては、すでに多くの機会に言及してきましたので、詳しくは述べません。しかしながら、大学においてニューエイジやポストモダンの思想が蔓延していたことが、多くの大学生がオウムに入信した要因の一つとなったことは、疑うことができないでしょう。また、そうした種類の空言が未だに完全には消え去っていないことは、人文学の信頼性と生産性を大きく損なっていると考えます。
霊性進化論の関連で少し付言しておけば、人文系の研究者のなかには、神智学の代表的な思想家の一人であるルドルフ・シュタイナーの信奉者が、かなりの数で存在しています。一昔前に流行した「シュタイナー教育」の影響が、まだ残っているということなのでしょうが、しかし研究者であれば、シュタイナーの思想や世界観が全体としてどのような性質のものであったのか、もっと明確に認識しておくべきであると思います。
最後に、メディアの責任について。もう忘れられたことかもしれませんが、麻原彰晃はオカルト雑誌『ムー』の愛読者であり、一時期はそのライターとしても活動していました。彼の思想は『ムー』によって育まれ、また初期のオウムの活動は、『ムー』によって広く認知されていった。
しかしオウム事件以後も、同誌は編集方針をまったく変えることがなく、オウムの教義と同工異曲の「メシア論」や「陰謀論」を掲載し続けています。また、霊性進化論的なオカルト思想は、徳間書店の「超知ライブラリー」や「5次元文庫」といったシリーズの書物によって、今も広められている。大手出版社が堂々とオカルト本を売り捌いているというのは、世界的に見ても稀な現象でしょう。
二〇一二年にオウム最後の逃亡犯として逮捕された高橋克也被告の所持品のなかには、中沢新一氏の『三万年の死の教え──チベット『死者の書』の世界』(角川書店)という書物が含まれていました。この書物は、NHKが一九九三年に放映した、「チベット死者の書」というスペシャル番組をもとに作られています。
番組の内容は、一言で言えば、チベットの寒村における素朴な葬式の様子を描いたものにすぎないのですが、派手なCGや音響を随所に用いることにより、「死後の世界」をリアルに実感させるような演出が施されている。
この番組は当時、オウムが布教の手段の一つとして使用していたことが知られています。地下鉄サリン事件以前は、こうした番組が公共放送でも流されていたのです。今でもDVDが販売されていますので、一度視聴してみれば、オウムが日本社会で受容され、成長していった当時の雰囲気を実感できるかもしれません。
オウムとは直接的な関わりを持たなかったとしても、その背景となる思想を広めてしまったことで密かに良心を痛めている人は、今も日本社会のなかに沢山いるのではないかと思います。
来年は、地下鉄サリン事件から二〇年という節目を迎え、最後のオウム裁判となる高橋被告の裁判も始められるでしょう。本当にオウム事件を総括したいと思うのであれば、責任を感じつつも口ごもっている人々に勇気をもって発言してもらい、オウムの思想が日本全体にどこまで浸透していたかを明らかにすることが必要です。
※本稿を受けて、5月15日配信「α-synodos vol.148」に、大田氏へのインタビューを収録! ご購読はこちらから http://synodos.jp/a-synodos
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